10月うさぎの部屋

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東海道を歩く 30.札木停留場~御油駅

 前回、二川駅から札木停留場まで歩いた。今回は札木停留場から御油駅まで歩こうと思う。これまでは東海道本線沿線を歩いてきたが、ここから宮宿(名古屋)までは名鉄名古屋本線沿線を歩いていこうと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.湊町神明社

 今日は友人が同行するので、豊橋駅で待ち合わせをする。ちなみに友人は神戸から青春18きっぷを使い鈍行で来たらしい。朝からすごい。

 その後、路面電車豊橋鉄道市内線を使い札木停留場まで行く。

豊橋鉄道市内線

札木停留場

 札木停留場から西へ進むと、吉田宿本陣跡がある。

 天保14年(1843年)の記録によれば、清州屋与右衛門家と、江戸屋新右衛門家の本陣2軒が並び、街道の南側には脇本陣の枡屋庄七郎家もあった。

 吉田宿本陣跡にうなぎ屋の「丸よ」があり、吉田宿の御宿場印はここで配布している。しかし営業時間外だったのでもらうことはできなかった。

「丸よ」

 ファミリーマート豊橋上伝馬店のある交差点を右折して進むと吉田宿西惣門がある。ここが吉田宿の西端だ。

吉田宿西惣門

 入河屋のある交差点で左折して進むと、松尾芭蕉の句碑があった。

 「寒けれど 二人寝る夜ぞ 頼もしき」

 厳しい寒さの夜ではあるけれど、二人で寝ると心強いという意味の句である。

 

 湊町神明社に到着した。

湊町神明社

 湊町神明社の祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)。

 湊町神明社白鳳時代(7世紀後半)の創建といわれている。

 慶安2年(1649年)、3代将軍徳川家光から朱印地10石の安堵をうけ、以降代々徳川家の保護をうけていたという。

 

 このあたりは吉田御薗とよばれた。御薗(みその)とは伊勢神宮の所領だった場所のことを指す。つまり古くから伊勢神宮とのかかわりの深い地域だったことになる。

 

 湊町神明社の御衣祭(おんぞまつり)は、伝承によると桓武天皇の頃に八名郡大野の生糸(赤引糸)を、服部宮の神主が渥美神戸の名で伊勢神宮に奉納していたことに起源をもつ祭りである。

 元和元年(1615年)以降の神事では、まず静岡県浜松市北区三ヶ日町にある初生衣(うぶぎぬ)神社で赤引糸を荒妙(あらたえ。目の粗い織物)に織る。

 それを唐櫃(からびつ)におさめ行列を整え、本坂峠、吉田の深川稲荷を経て湊町神明社に運ぶ。このときに吉田の女たちが晴れ着で着飾り、歌いながら町を歩き、祭りを行う。

 その後、「太一御用」の幟をたてた行列が船町河岸に至り、舟で荒妙を伊勢神宮に運び、奉納したという。

 この祭りは明治初期に中断されたが昭和25年(1950年)に再興された。昭和43年(1968年)からは5月14・15日に実施され、浜松と豊橋のおんぞ奉賛会の人たちが、ここからバスで移動、伊良湖港からフェリーで鳥羽に渡り、伊勢神宮に荒妙を奉納するようになったようだ。

 

 湊町神明社の境内には湊築島弁天社があり、これは寛政7年(1795年)に建てられたもの。

湊築島弁天社

 

2.豊橋

 湊町神明社をあとにして、豊橋を渡る。

豊橋

 豊橋のあたりは江戸時代、吉田湊として豊川舟運の終点であり、伊勢や江戸への航路の起点として栄え、当時、三河における最大の湊だったという。

 

 豊橋は江戸時代には「吉田大橋」と呼ばれていた。

 吉田大橋は幕府が修理・架け替えを直営する重要な橋だったという。

 吉田大橋の起源ははっきりしないが、元亀元年(1570年)に酒井忠次が関屋口から下地に土橋をかけたのが始まりとされる。

 橋は江戸時代に何度も架け替えられ、元和3年(1617年)から明治2年(1869年)までの間に30数回も架け替えたという。

 吉田大橋は橋の上から吉田城が眺められるなど景色がよく、江戸時代には東海道の名所として浮世絵の題材にしばしば取り上げられた。

 歌川広重の「東海道五十三次 吉田」にも吉田大橋が描かれている。

東海道五十三次 吉田

 

 吉田大橋は明治11年(1878年)に「豊橋」と名を変え、大正5年(1916年)にはアーチ型の鉄のトラスト橋に架け替えられ、豊橋市のシンボルになっていたが、自動車時代に対応することができず、昭和61年(1986年)に現在の橋へと架け替えられた。

 ちなみに、豊橋のひとつ上流の橋の名前に「吉田大橋」は残されている。

 

 豊橋から豊川の流れを見る。寒いが、いい眺めだ。

 

 とよばし北交差点で左折して進むと右手側に「豊川稲荷遥拝所」がある。ここが東海道から豊川稲荷に通じる道の分岐点だ。

豊川稲荷遥拝所

 妙厳寺、通称「豊川稲荷」は嘉吉元年(1441年)に東海義易が開いた寺院である。商売繁盛・家内安全・福徳開運を願い、全国から年間数百万人の参拝者が訪れるという。その信仰は江戸時代も変わらない。

 豊川稲荷、有名な稲荷ということでいつか行ってみたいと思っているが、なかなか行く機会がなく行けずにいる。

 

 聖眼寺の境内に、松葉塚がある(境内は無断撮影禁止のため、山門のみ)。

聖眼寺

 松葉塚には松尾芭蕉の以下の句が刻まれている。

 「松葉(ご)を焚て(たいて) 手拭(てぬぐい)あふる 寒さ哉(かな)」

 この句は貞享4年(1687年)冬に、松尾芭蕉が愛弟子の杜国(とこく)の身を案じて渥美郡保美の里を訪れる途中、聖眼寺に立ち寄って詠んだ句である。

 この松葉塚は再建もので、明和6年(1769年)に植田古汎らが近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の土を譲り受けて再建したものである。再建ものでも摩耗して字は読めず、拓本を取ることは禁止されていた。

 

3.瓜郷遺跡

 聖眼寺を出て先に進むと下地一里塚跡を見つけた。日本橋から数えて74里目の一里塚だが、石碑のみが残っている。

下地一里塚跡

 しばらく進み、橋を渡る少し前で右折すると瓜郷遺跡がある。

瓜郷遺跡

 瓜郷遺跡は、豊川河口近くの沖積平野に成立した弥生中期から後期にかけての低湿地遺跡である。

 ここは昭和22年(1947年)から行われた江川の改修工事に伴い発見され、5回にわたる発掘調査の結果、大規模な集落遺跡であることが判明した。

 弥生時代の地表は現在よりも1mほど低かったようで、当時の人々は少し高いところに集落をつくり、谷状の湿地帯を水田として利用していたと考えられている。

 この遺跡からは鋤や鍬などの木製農耕具、磨製石器や骨角器、土器などに加え、黒く炭化した籾も発見された。

 弥生時代の竪穴住居が復元されており、ここが遺跡であることを示していた。

 出土品は豊橋市美術博物館に展示されているらしい。機会があれば見に行こう。

 

 現時点で12時頃なので、豊橋魚市場にある「おひさま」というカフェで三色丼を食べた。流石魚市場にあるカフェ、新鮮で美味しかった。

三色丼

 豊橋魚市場の近くに、豊橋市豊川市カントリーサインがあり、豊橋市に別れを告げた。

豊橋市

豊川市

 豊川市に入って直後、豊川放水路と善光寺川を橋で渡る。風が冷たく、寒い。

豊川放水路

 橋を渡ると、小さな石碑と「子だが橋」の説明板がある。そこには恐ろしい話が記されていた。

「子だが橋」

 この近くに菟足神社(うたりじんじゃ)がある。

 およそ1,000年前、菟足神社では人身御供の風習があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があった。

 ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の村人の前を若い女性が通りかかった。若い女性は父母に遭う楽しさを胸に秘めていた。しかし不運なことに、若い女性は贄狩をしていた村人の娘だった。

 村人は「どうしようか」と苦しむも、「子だがやむを得ない」と娘を生贄にしたという。それ以降この橋のことを「子だが橋」と呼ぶようになったという。

 現在は女性を生贄にすることはできないので、12羽の雀を生贄にしているという。

 

 「子だがやむを得ない」と娘を殺した父の気持ちはいかほどであっただろうか。想像するだけで胸が痛くなる。

 

4.菟足神社

 豊川市初マンホールを見つけたがこれは豊川市の市章ではない。

 このマンホールは小坂井町のマンホールである。小坂井町は平成22年(2010年)に豊川市編入し、廃止された。平成の大合併にしては少し遅めだ。

 

 菟足神社(うたりじんじゃ)の鳥居が見えてきた。鳥居は元禄4年(1691年)に吉田城主が寄進したもので、鳥居の脇にある灯籠は文化元年(1804年)に奉納されたもの。

 

菟足神社

 菟足神社の祭神は菟上足尼命(うなかみのすくねのみこと)。

 菟足神社は白雉元年(650年)に孝徳天皇の勅命により柏木の浜に建立されたが、のちに現在地に移されたという。

 菟上足尼命は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の4世の孫にあたり、雄略天皇によって穂国(ほのくに)の国造に任命された。

 菟足神社の祭りのひとつ、風祭は今昔物語集宇治拾遺物語にも記載されている伝統のある祭りである。

 そして菟足神社にはなでうさぎがいる。かわいい。

なでうさぎ

 

 菟足神社の収蔵庫には大般若経が所蔵されている。これは585巻が現存し、平安時代につくられたものとされる。

 奥書によれば、藤原宗成の立願によって、安元2年(1176年)3月から治承3年(1179年)8月にわたって書写されたものとされる。書くのもすごいが、残っているのもすごい。

収蔵庫

 菟足神社の社務所は営業しておらず、御朱印は300円を賽銭箱に納めていくセルフ方式だった。

 

 菟足神社をあとにして踏切を渡ろうとすると飯田線が走り抜けていった。

 

 小さなお社を見つけた。灯籠には「秋葉山」と書かれているので秋葉灯籠だ。

秋葉灯籠

 秋葉信仰とは秋葉神社に対する信仰のことで、秋葉神社は防火に霊験があったことから江戸時代は盛んであった。秋葉灯籠は秋葉信仰から建てられたものだ。

 

 東海道を進んでいくと、伊奈村立場茶屋がある。

伊奈村立場茶屋

 伊奈村立場茶屋は吉田宿と御油宿の中間にあり、ここに立場茶屋(休憩所)があった。今は石碑だけが残る。

 現在13時半。「やっと半分か」と友人が呟いた。

 

 伊奈村立場茶屋から先に進むと、右手側に迦具土神社(かぐつちじんじゃ)がある。

迦具土神

 祭神は迦具土神(かぐつちがみ)。迦具土神秋葉神社の祭神で、火の神である。それだからなのか、境内に秋葉灯籠が設置されていた。

秋葉山常夜燈

5.速須佐之男神社

 迦具土神社から先に進むと伊奈一里塚跡を見つけた。ここは日本橋から75里目の一里塚だ。現在は石碑のみ残る。

伊奈一里塚跡

 速須佐之男神社に到着した。

須佐之男神社

 速須佐之男命(はやすさのおのみこと)を祭神とする神社である。

 ここにも秋葉山常夜燈が設置されており、秋葉信仰が盛んな地域だったことがわかる。

秋葉山常夜燈

 豊川市のマンホールを見つけた。

 豊川稲荷のキツネ、市の木のクロマツと市の花のサクラ、本宮山と豊川が描かれたマンホールだ。

 

 桜町ひろばに「若宮白鳥神社遥拝所」を見つけた。遥拝といっても、国道1号線を挟んだ向かい側に若宮白鳥神社はあるのだが…。

若宮白鳥神社遥拝所

 

 「あめ」と書かれ、てるてるぼうずが手をつないだかわいらしいマンホールを見つけた。

 

 この先で一部東海道が寸断されている場所があり、迂回する必要が生じた。迂回しているときに、「いなりん」のマンホールを見つけた。

 いなりんとは豊川市のマスコットキャラクターで、キツネと豊川いなり寿司を合体させたキャラクターである。豊川市宣伝部長にも就任している。

 

 東海道に戻り、白鳥5丁目西交差点から国道1号線を歩く。

 305キロポストを見つけた。気づけば日本橋から300kmを超えていた。

 

 国府町薮下交差点から旧道に入る。今度は豊川、豊川稲荷のキツネ、クロマツが描かれたマンホールを見つけた。

 

 大きな秋葉山常夜燈を見つけた。寛政12年(1800年)に造立されたもの。

 この秋葉山常夜燈には説明板もついていた。説明板付きは珍しい。

秋葉山常夜燈

 

 ここで、友人が行きたがっていた三河国総社へ行くため寄り道する。

 足元に豊川市の市章入りマンホールがあった。

 豊川市章は昭和19年(1944年)9月1日に決められた。

 周囲にカタカナの「ト」を4つ並べ、中心に「川」をデザインしている。「ト4川」というわけか。

 

6.三河国総社

 三河国総社に到着した。

三河国総社

 三河国総社の祭神はなんと三河国の諸祭神である。

 律令時代、国を治めた人を国司といい、国司の役所は国府、または府中と呼ばれた。

 「倭名類聚抄」には「三河国国府は宝飫郡(ほおぐん。現在の宝飯郡)にあり」と記されている。当時の宝飯郡は、現在の豊川市の大部分を指しているといわれる。

 平安時代になると、国司の役所の近くに各郡の諸社を一社に集めて総社とし、国司はここに参拝して国内の主要神社への巡拝にかえるようになった。

 三河国総社には58もの神社が祀られているという。すごい。

 

 三河国総社は三河国府跡のあった地とされている。

 三河国府跡の調査も進み、平成8年(1996年)の発掘調査で総社の北東50mにある曹源寺本堂跡から大型の建物跡が確認された。

 この建物跡は東西23m、南北16mの大きさを持つ国府の正殿遺構であることが判明している。

 国府のあるこのあたりは古代の官庁街で、この近くには三河国分寺跡・三河国分尼寺跡もある。しかし東海道から離れていくので今回は行かなかった。

 

 曹源寺のお堂はあったが、近々取り壊す予定らしく、本尊等は既に運び出しているようだった。

曹源寺

 ちなみに、三河国総社前にも秋葉山常夜燈が設置されていた。

 

 東海道に戻り、先に進むと薬師堂瑠璃殿を見つけた。

薬師堂瑠璃殿

 その昔、母親の死を嘆き悲しむ娘がいた。その娘のもとに行基が泊まりに来て、薬師如来を作り、娘に渡した。その後娘がお堂を建てた、という説明が書かれていた。

 

 東海道を少しそれ、国府観音へ向かう。

国府観音

 慶長年間、2人の素封家が「近くの土中に大悲の尊像が埋もれている。掘り出してお堂を建て安置すれば村はますます繁栄するだろう」という夢のお告げを受け、示された場所を掘ってみたら身の丈1寸8分の観音様が現れた、という伝説がある。

 

  境内には松尾芭蕉の句碑もある。

 「紅梅や 見ぬ恋作る 玉すだれ」

 紅梅が美しい家に玉すだれがかかっている。

 王朝文学の装置が揃っているこの家には未だ見ぬ住人が住んでいるのかもしれない。

 そう思うとその人にそこはかとない恋心さえ感ずるから不思議なものだ。

 …なかにいるのは女性とは限らない気もするが。

松尾芭蕉の句碑

 国府の守護社である守公神社に行こうとしたが、地元の人が何やらイベントをやっていたのでやめておくことにした。

守公神社

 東海道に戻り、大社神社へ向かう。

大社神社

 大社神社の祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)。

 7月の最終土・日曜日に行われる祭礼は「国府夏祭り」といわれ、4町内がそれぞれ山車をだし、明治中頃の仮装行列が発展した歌舞伎行列を行い、にぎわうという。

 そして神社の裏に「大社神社忌避期間遥拝所」とあったが…忌避期間とは何だろう?

 

7.御油の追分

 大社神社を過ぎると、御油一里塚跡を見つけた。江戸から76里目の一里塚だ。

御油一里塚跡

 県道368号線との交差点に「これより姫街道」という看板と、「秋葉三尺坊大権現道」「國幣小社砥鹿神社道」という石碑がある。御油の追分である。

 「姫街道」というワードを覚えている人はいるだろうか。

 そう、「東海道を歩く 24-2.袋井駅磐田駅 後編」の6.西光寺 に出てきたあの「姫街道」だ。

 姫街道とは東海道の見付宿から市野宿、気賀宿、三ケ日宿、嵩山宿と、浜名湖北岸を迂回して御油宿へと通じる東海道脇往還である。

 姫街道という呼び名は俗称で、江戸時代までは公的には「本坂通」と呼ばれ、見付宿から入るルートと浜松宿から入るルートがあった。浜松宿側からの入口は「東海道を歩く 25.磐田駅~浜松駅」で紹介している。

 18世紀初頭の大地震による津波や高潮の影響で浜名湖の今切の渡しが使えなくなると、多くの人が姫街道を通るようになった時期もあったというが、今は人通りもまばらだ。

 姫街道も、いつか歩いてみたい。

 そして石碑から秋葉神社や砥鹿神社へも通じる道であることがわかる。

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 先に進むと、高札場跡がある。

高札場跡

 高札場とは、江戸時代に法令などを書いた札を掲示した場所で、人目につきやすい場所に設置された。

 そしてこの高札場の写真に見覚えがあるな、と思ったら前回の「東海道を歩く 29.二川駅~札木停留場」の2.二川宿本陣資料館に登場した高札場の写真だった。

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 和菓子屋の「おふく」がある交差点を左折してまだ東海道は続くが、今日は右折して御油駅に向かい、これで今日の東海道ウォークを終わりとした。

御油

 次回は御油駅から藤川駅まで歩く。

 

【おまけ】

 距離的にそろそろ食べ納めだろうか、と思いつつ浜松の遠鉄百貨店のさわやかに向かった。

 整理券を取り、友人と星乃珈琲店で焼き菓子を食べつつ珈琲を啜った。

 

 閉店時間の確認ミスにより星乃珈琲店を出てからも待ち時間があまり、さわやか近くのベンチに移った。

 呼び出し時刻となり、いつも通りサラダとライス、そしてげんこつハンバーグ、パフェを注文した。

 

 店員さんが熱々の鉄板の上に置いたげんこつハンバーグを持ってきた。

 私の前でハンバーグを2つに切り、鉄板に押し付けて焼き、オニオンソースをかけた。

 友人は「シズル感のある写真を撮りたい」と言い、写真を撮るのに熱中していたが私は待ちきれず先に食べてしまった。

 うまい。

 うますぎる。

 距離的に厳しくなってきているのはわかるけれど、何度だって食べたくなるハンバーグ、それがさわやかだ。

 

 そしてさわやかはデザートが美味しいことを忘れてはならない。

 友人は「食べきれなそう」と言いハンバーグのみを頼んだが、私はデザートも頼んだ。店員さんが気を遣って「スプーン2つお持ちしましょうか?」と聞いてきたので、2つスプーンを持ってきてもらいシェアすることにした。

 今回頼んだのは三ケ日みかんパフェ。

 三ケ日みかんのさわやかな酸味と甘味が混ざり合い、とても美味しかった。

 

 さわやかの余韻に浸りながら豊橋の宿へ戻り、明日に備えることにした。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

歩いた日:2023年12月23日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第9集」

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第10集」

ぐるっと豊川 いなりんについて

https://www.toyokawa-map.net/inarin/000272.html

豊川市 市章

https://www.city.toyokawa.lg.jp/smph/shisei/shinogaiyo/shisho.html

ぐるっと豊川 国府観音

https://www.toyokawa-map.net/spot/000282.html

(2024年1月22日最終閲覧)

江戸三十三観音をめぐる 7.神田川沿いを歩く

 前回、江戸三十三観音第14番札所金乗院、第15番札所放生寺、第16番札所安養寺に参拝しながら高田、早稲田、神楽坂のあたりを巡った。今回は第17番札所宝福寺に参拝しながら神田川沿いをぶらぶらしようと思う。

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1.蚕糸の森公園

 東高円寺駅1番出口を出るとすぐそこに、蚕糸の森公園がある。

蚕糸の森公園

 蚕糸の森公園は、旧農林省蚕糸試験場の跡である。

 昭和53年(1978年)に発行された「杉並区の歴史」には、ここは蚕糸試験場として紹介されている。

 蚕糸試験場は、明治44年(1911年)に蚕の種紙の製造と、品種の改良を目的として創設され、品種の改良、新品種の発見、病原菌の発見と防除法、桑園の管理、製糸機械の開発など多くの成果をあげ、日本の養蚕・蚕糸業の発展に貢献した。

 蚕糸試験場が現在どうなっているのか、調べてもわからなかった。実家でも昔は養蚕をやっていたと聞いたことがあるが、ずいぶん前にやめてしまったようだし、養蚕業自体が衰退しているのだろう。

 

 蚕糸の森公園にはさまざまな木が植えられ、紅葉がまぶしい。

 

 蚕糸の森公園をあとにして、国道318号線沿いに出ると梅里公園がある。

梅里公園

 梅里公園はこのあたりの地名、「梅里」からとって名づけられた公園で、園内には梅の木が植えられている。

 

 国道318号線沿いに、宗延寺がある。

宗延寺

 宗延寺は、日蓮宗の寺院である。天正12年(1584年)に小田原で創立され、大正8年(1919年)に現在の場所に移転した。

 二重屋根の珍しい形をした本堂は、大正天皇のご産殿を移築したもので、江戸十祖師のひとつである「読経の祖師」が安置してある。

 

2.妙法寺

 妙法寺東交差点で右折し、しばらく進むと妙法寺がある。

妙法寺

 妙法寺寛永9年(1635年)に創立された日蓮宗の寺院で、元禄5年(1692年)に目黒碑文谷の法華寺より、日蓮聖人の木像を移して御本尊とした。

 この日蓮聖人の木像は聖人42歳の姿を、弟子の日郎が彫ったといわれ、男42歳の厄除けに霊験があると広く信じられていた。

 妙法寺は参詣者へ「厄除けの御符」を授与したので、宗派に関係なく信者が増え、あらゆる厄除けに霊験があると、江戸市民の信仰を集め、落語のタネになるくらい有名になり「堀之内の御祖師様」として江戸郊外屈指の名所に数えられ、昭和20年頃までたいへん繁盛した。

 境内地は約1万坪あり、都重宝指定の仁王門(天明7年(1787年)再建)、祖師堂(文化9年(1812年)再建)、本堂、庫裡、書院など多くの建物は、江戸時代の面影をとどめ、国宝指定の鉄門(明治11年(1878年)製造、純国産の鉄門第1号)、絵馬、古文書、奉納品は当時の繁栄を物語る。

妙法寺鉄門

 妙法寺に参拝後、御首題をいただいた。やはり日蓮宗の御首題は独特だ。

 

 妙法寺の近くに、気になるお店があった。清水屋で売っている妙法寺名物、揚まんじゅうだ。

揚まんじゅう

 揚まんじゅうはまんじゅうを揚げたもので、サクふわで美味しかった。

 一緒にいただいた知覧茶も美味で、落ち着いた。

知覧茶

3.釜寺東運寺

 来た道を戻り、妙法寺東交差点で右折、再び国道318号線を南下する。

 しばらく南に進み、肉のハナマサ方南町店のある交差点で左折すると釜寺東運寺がある。

釜寺東運寺

 釜寺東運寺は浄土宗の寺院。天正元年(1573年)に一安上人がこの地に念仏堂として創立したのがはじまりで、大正11年(1922年)に台東区入谷の東運寺を合併した。昔から本堂の屋根に大きな釜を載せているので、釜寺と呼ばれた。

 釜寺にはこんな伝説がある。昔、人買いにさらわれた安寿姫と厨子王丸は、丹後由良湊の山椒太夫に売られ、逃げようとして捕まった厨子王丸が釜茹でにされようとしたとき、肌につけていた地蔵尊が僧に姿を変えて救ってくれた、という話である。

 この話は伝記本や芝居で知られていたが、以前の釜寺のご本尊は厨子王丸の持仏だったという高さ10cmの身代わり地蔵だったので、江戸から参詣に来る人が多かったという。

釜寺東運寺の山門

 釜寺東運寺の山門は、芝田村町の田村右京大夫上屋敷の脇門で、ここで切腹した浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の遺体を運び出した門で、「あけずの門」といわれ、昭和28年(1953年)に三井家から寄進されたものである。

 

 釜寺東運寺の近くに、釜寺東遺跡がある。現在は杉並区立方南二丁目公園となっている。

方南二丁目公園

「釜寺東遺跡」

 この遺跡は、縄文後期・古墳後期の複合遺跡で、台地の上下に住居跡、縄文後期の石棒、古墳期の土師器・玉などが発見されている。

4.宝福寺

 釜寺東遺跡をあとにして、神田川沿いに出る。これから神田川沿いをしばらく北上する。

神田川

 下水道管の埋設の看板があった。

 ここに「A.P」という単語が書かれているが、これは「荒川ペイル」を意味する。

 荒川ペイルとは、東京湾近くの霊岸島水位観測所において大潮で最も水面が低くなったときの水面の高さを0mと設定し、これを基準とする高さのことである。東京湾の潮位のグラフを作る仕事があり、これで頻出した単語だ。

 

 角田橋で右折して神田川を離れると左手側に宝福寺が見えてくる。

宝福寺

 宝福寺は真言宗豊山派の寺院である。

 宝福寺は如意山と号し、本尊は不動明王である。この寺の南隣にある多田神社別当寺で、神仏分離以前は同じ敷地内にあった。

 創建の年代、開山ともに不詳だが、過去帳にみえる最も古い年代は明暦2年(1656年)であるという。

 なお、聖徳太子が諸国を巡遊したとき、紫雲たなびくこの地を霊地として堂を建て、如意輪観音を安置したのに始まったともいわれている。

 境内には、元禄年間(1688~1704年)から江戸期にかけて造られた五輪塔や石地蔵などがあり、また、筆塚が1基建っている。この筆塚は戸村直衛という人物が建てたもので、戸村直衛は明治3年(1870年)に私塾「戸村塾」を開いた人である。

 聖徳太子が安置したと伝えられる如意輪観音が江戸三十三観音第17番札所の観音様に指定されている。不動明王如意輪観音に手を合わせた後、寺務所で御朱印をいただいた。

 

5.多田神社

 宝福寺の南隣にある多田神社に向かう。

多田神社

 多田神社の祭神は多田満仲公(源経基の息子)で、旧雑色村の鎮守だった。

 社伝によると、寛治6年(1092年)に源義家後三年の役からの帰途、戦勝の祈願成就のお礼に、父の頼義が創建した大宮八幡宮に神鏡を献じた。

 そして社殿に近い雑色村の地に、日ごろ崇敬する曾祖父の満仲公を祀る祠を建てたのが始まりだという。

 この地は現在、南台3丁目と呼ばれているが、かつては(昭和42年(1967年)6月以前)この神社の名前をとって「多田町」と呼ばれていたそうだ。

 

 多田神社でも御朱印をいただいた。多田神社御朱印は書置きのみ。

 

6.貴船神社・和泉熊野神社

 多田神社をあとにして、神田川に戻る。神田川を南下していくと、中野区と杉並区の少し変わった区境があった。

 

 「測量」と大書きされた杉並区の三級基準点のマンホール。Xに投稿したら結構ウケた。

「測量」

 番屋橋まで神田川を南下したらいったん西側に抜け、次の交差点を左折して進むと貴船神社がある。

貴船神社

 貴船神社の創立年代は不明。御祭神は雨と雪を司る高龗神(たかおおかみ)。

 社殿前には涸れた池があるが、昭和40年頃まで満々と水が溢れていたらしい。昔、お酒が湧き出たという伝説があるくらい水質の良い水が、古来涸れることなく出た泉だったが、神田川の改修と付近台地の宅地化で涸れてしまったそうだ。旧村名「和泉」の由来となった泉なだけに、残念である。

 

 貴船神社から100mほど南に進むと、和泉熊野神社がある。

和泉熊野神社

 旧和泉村の鎮守となった神社で、御祭神は大屋津姫命(おおやつひめのみこと)。

 文永4年(1267年)に紀州熊野三山を勧請し、弘安7年(1284年)2月に社殿を修造したといわれる。

 

7.永福寺・永福稲荷神社

 和泉熊野神社のそばの交差点を左折し、神田川に戻り、再び南に進む。途中、京王線神田川を渡るのを見たので撮ってしまった。

 

 しばらく神田川を南下していき、リバーサイド永福のあるところで神田川を離れ、住宅街を進むと永福寺がある。

永福寺

 永福寺曹洞宗の寺院で、大永2年(1522年)8月に秀天慶実和尚が創立し、御本尊は十一面観音で、これは鎌倉初期の安阿弥快慶(やすあみかいけい)の作といわれる。

 天正16年(1588年)に永福寺村を検地した奉行、安藤兵部之丞が、天正18年(1590年)に小田原落城後、永福寺の住職を頼ってここに落ち延び、帰農して村を開発したという伝承がある。

 昭和20年(1945年)5月に米軍機の直撃弾で永福寺が全焼したとき、住職の母親が、燃え盛る炎のなかから命がけで、御本尊と古文書類を運び出したため、北条氏の検地書き上げをはじめ、貴重な古文書が多く残るという。

 永福寺の古文書類は運よく助かったが、金属供出も含め、戦争で失われた文化財は多くあったのだろうな、と思った。

 

 永福寺の隣にあるのが永福稲荷神社だ。

永福稲荷神社

 享禄3年(1530年)に永福寺の開山の秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として、伊勢外宮より豊受大神(とようけのおおみかみ)を勧請創建し、寛永16年(1639年)の検地の際に、永福寺村持ちの鎮守になったといわれる。

 

 永福稲荷神社では、御朱印をいただいた。

 

8.築地本願寺和田堀廟所

 永福稲荷神社から都道427号線沿いに出て、南下する。そのまま歩くと国道20号線に下高井戸駅入口交差点で合流するが、一本北側の道路に入ると寺町が広がっている。

 まずは永昌寺。

永昌寺

 永昌寺は曹洞宗の寺院で、寛永元年(1624年)に四谷で創立され、明治43年(1910年)に下高井戸の永泉寺を合併してここに移転した。

 境内の薬師堂に祀ってある御本尊の玉石には「承応2年(1653年)に玉川兄弟が、多摩川羽村から上水路をこの地まで掘り進めてきて、資金を使い果たし、江戸の商人から資金を借りようとしたが断られ、工事を断念しようとした夜、地中から燦然と輝く玉石が掘り出され、これが江戸中の評判となり、先に融資を断った商人も進んで資金を提供し、ついに工事が完成した」という伝説があり、江戸時代には甲州街道の名所のひとつになっていたという。

 このとき玉川兄弟が掘った江戸の上水道玉川上水であり、この玉川上水の水を取水する堰、羽村取水堰に行ったことがある。

羽村取水堰

 羽村取水堰については「うさぎの気まぐれまちあるき「玉川上水×福生×立川 まちあるき」」の3.羽村取水堰を参照してほしい。

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 続いて、栖岸院(せいがんいん)。

栖岸院

 栖岸院は浄土宗の寺院で、天正19年(1591年)に三河国(現在の愛知県)から麹町(現在の千代田区)へ移り、老中の安藤対馬守、河内丹南一万石高木正次など大名・旗本の菩提寺となり、栄えていたが、明治維新武家が零落したため寺運は衰えたという。

 

 栖岸院の隣にあるのが法照寺だ。

法照寺

 法照寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、御本尊は阿弥陀如来

 この寺院は鎌倉に開創され、天正18年(1590年)に湯島(現在の文京区)に移転し、元和7年(1621年)には浜町(現在の中央区)の築地本願寺境内に移転した。

 明暦3年(1657年)の振袖火事で全焼し、築地本願寺とともに築地に移転した。大正12年(1923年)の関東大震災により築地本願寺とともに全焼、昭和3年(1928年)に現在地に移転してきた。昭和20年(1945年)に空襲により全焼し、現在の堂宇は昭和39年(1964年)に建てられたもの。災害に翻弄された寺院である。

 

 法照寺の隣にあるのが浄見寺だ。

浄見寺

 浄見寺は浄土真宗本願寺派の寺院である。開創は慶長15年(1610年)、現在の京都府京都市伏見区である。

 この寺院も元和7年(1621年)に築地本願寺境内に移転し、明暦3年(1657年)の大火後築地に移転、大正12年(1923年)の関東大震災でも全焼、昭和3年(1928年)に震災後区画整理事業のため移転してきた。昭和20年(1945年)の空襲にも遭い、現在の堂宇は昭和35年(1960年)に建てられたもの。法照寺と同じ運命をたどっている。

 

 浄見寺の隣にあるのが善照寺だ。

善照寺

 善照寺も浄土真宗本願寺派の寺院である。天正18年(1590年)7月、現在の神奈川県小田原市に開創された。

 元和7年(1621年)に築地本願寺に移転し、昭和3年(1928年)に現在地に移転してきた流れは法照寺、浄見寺と同じである。昭和20年(1945年)の空襲で全焼、現在の堂宇は昭和45年(1970年)に建てられたもの。

 

 善照寺の隣に託法寺がある。

託法寺

 託法寺は浄土真宗大谷派の寺院で、御本尊は阿弥陀如来

 寺伝によれば、寛永11年(1634年)、現在の新宿区に開創された。大正11年(1922年)に東京市の都市計画事業によって移転した。法照寺、浄見寺、善照寺とは移転の経緯が違い、時期も少し早い。

 

 門が閉まっているが、この奥に真教寺がある。

真教寺

 真教寺は浄土真宗本願寺派の寺院である。寺伝によれば、現在の港区に文禄3年(1594年)に創建された。

 その後築地本願寺に移転し、昭和3年(1928年)に現在地に移転してきた流れは法照寺、浄見寺、善照寺と同じである。

 

 真教寺から国道20号線沿いに出て、少し進むと築地本願寺和田堀廟所がある。

築地本願寺和田堀廟所

 この地には、江戸時代に江戸幕府の焔硝蔵があった。明治維新のとき、新政府に接収され、幕府が長年かけて貯蔵した火薬が、皮肉にも彰義隊をはじめ、旧幕府に殉じた奥州諸藩の平定に大きな威力を示したという。

 明治維新後、陸軍の火薬庫となり、大正12年(1923年)に軍縮で廃止され、土地は昭和4年(1929年)に明治大学築地本願寺に払い下げられた。

 大蔵省から12,000坪の払い下げを受けた築地本願寺は、中央区内にあった檀家墓地を移し、日本初の公園式墓地をつくって一般から墓地の分譲を募集し、霊園経営の新形式をつくり、昭和11年(1936年)に真宗寺を置いた。

 この墓地には女流文学者の樋口一葉歌人の九条武子、仏教学者の前田慧雲(まえだけいうん)、政治家伊東巳代治(いとうみよじ)、弁護士花井卓蔵なども眠っている。

 それにしても、本願寺築地別院といい、浄土真宗本願寺派の一部の寺院で見られる古代インド仏教式の建築は独特である。

本願寺築地別院…ここは日本の築地である

 本願寺築地別院については「うさぎの気まぐれまちあるき「桜と7つのパワースポット巡る隅田川ウォーク&クルーズ」の7.本願寺築地別院で取り上げているので、興味があれば見てほしい。

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 築地本願寺和田堀廟所から国道20号線に戻り、明大前歩道橋で右折すると、明大前駅である。今日のウォーキングはここで終了だ。

明大前駅

 このあとは秋葉原で大学のサークル仲間と飲み会があり、それまで少し時間があるのと、少し疲れたので明大前駅のスタバに入った。頼んだのはメルティホワイトピスタチオフラペチーノ。

メルティホワイトピスタチオフラペチーノ

 ホワイトチョコレートマスカルポーネ、ピスタチオの相性が抜群で美味しかった。

 

 厄除けとして有名だった妙法寺に参拝して、少しは厄除けになっただろうか。揚まんじゅうが美味しかったことも忘れられない。江戸三十三観音のある宝福寺は落ち着いた寺院だった。築地本願寺和田堀廟所付近に寺町があったことは知らなかった。その多くが関東大震災後に移転してきた寺院だったことも。

 

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図①

今回の地図②

歩いた日:2023年12月2日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

杉並郷土史会(1978) 「杉並区の歴史」 名著出版

関利雄・鎌田優(1979) 「中野区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

東海道を歩く 29.二川駅~札木停留場

 前回、新居町駅から二川駅まで歩いた。今回は二川駅から札木停留場まで歩こうと思う。また、前回時間の都合で行けなかった二川宿本陣資料館ほか、二川宿めぐりと札木停留場周辺の豊橋まちあるきも収録しているので、お付き合いいただきたい。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.二川伏見稲荷

 今日は二川駅からスタートだ。二川駅から西に行きたいところだが、一旦東に向かい、昨日御朱印をいただきそびれた二川伏見稲荷に行く。

二川伏見稲荷

 二川伏見稲荷明治43年(1910年)11月に京都の伏見稲荷大社から分霊を勧請し、創始された神社である。

 参拝し、御朱印をいただきに社務所に行った。すると伏見稲荷の裏山をめぐることを勧められたので、御朱印帳を預けたのち、歩いてみた。

 

 まずは三ノ峯、白菊社。

白菊社

 白菊社の御祭神は白菊大神で、衣食住を司る神様だ。「己を捨てて他人を助けよ」と教えている神様だそうだ。他人を助けることも大事だが、自分を助けることも大事、と言ってはいけないのだろうか。

 

 次は二ノ峯、青木社で、青木大神が祀られている。

青木社

 青木大神の御神徳は土地浄化・交通安全。「己の心に自負心を持て」と教えている神様だそうだ。自分に自信を持て、ということだろうか。

 

 続いて一ノ峯、末広社。末広社には末広大神が祀られている。

末広社

 末広大神の御神徳は芸能・歌舞・音曲、愛福、愛敬。「己を低くして人様を敬え」と教えている神様だそうだ。「我以外皆師」ということだろうか。

 

 長者ヶ峯、豊久社には豊久大神が祀られている。

豊久社

 豊久大神の御神徳は学徳、善悪を見分けること。稲荷神社といえば宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)が祀られているが、その奇御魂(くしみたま、英知を司る)と幸御魂(さきみたま、人情を司る)を祀り、どちらにも偏ることなく進めと教えている。確かに合理性ばかりを追求しても人情味がないし、かといって情ばかり重視していてもうまくいかない、ということだろうか。

 

 少し変わった祠の龍神社に参拝する。龍神社は宇迦御魂日下部明神(うかのみたまくさかべみょうじん)が祀られている。

龍神

 御神徳は病気平癒、金運隆昌。持病がよくなるように祈った。

 

 今度は奥村社に参拝する。奥村社の御祭神は奥村大神。

奥村社

 動植物すべての物の悪を除き善を育てる御神徳がある。成長を司る、ということか。

 

 荒神ヶ峯の田中社の御祭神は田中大神。苗字みたいな名前の神様だ。

田中社

 田中大神の御神徳は経営、縁結び、治病で、「日常のあらゆる労苦をも大きく包み収めていつも笑っているように」と教えている。いつも笑顔、大切なことだ。

 

 麓まで下りてくると、一番大きなお社、御石宮司社(おしゃぐじしゃ)がある。御石宮司社には天祐稲荷石宮司大明神(てんゆういなりしゃぐじだいみょうじん)が祀られている。

御石宮司

 石宮司社は二川伏見稲荷より前からあった神社で、この神様は安産、子育ての神様だそうだ。

 

 千本鳥居をくぐって社務所に戻る。伏見稲荷大社にいるみたいだ。

 

 御朱印を受け取り、二川伏見稲荷をあとにした。裏山巡り、楽しかったな。

 

 二川宿本陣資料館に行く前に、大岩神明宮に寄り道する。

大岩神明宮

 大岩神明宮の創建は文武天皇2年(698年)で、現在地に移ったのは正保元年(1644年)、という古社である。

 そして大岩神明宮でも御朱印をいただいた。

 

2.二川宿本陣資料館

 そして二川宿の目玉施設、二川宿本陣資料館に到着した。まず復元された高札場が出迎えてくれる。

高札場復元

 幕府・大名が法令や禁令を板札に墨書した高札を掲示したところを高札場といい、宿場等、人の目につきやすい場所に設置された。

 

 入場料を払い、二川宿本陣資料館に入っていく。

 本陣とは、宮家や公卿、大名・幕吏の宿泊休息施設で、脇本陣は本陣の予備にあてた宿舎である。

 本陣宿泊料が、定額ではなく大名たちの心付けであったことや、大火からの再起に費用がかさんだりして、本陣の経営は困難を極めたという。

 二川宿の発展に尽力した後藤五左衛門が本陣職と問屋役を兼務していたが、寛政5年(1793年)の大火以後、本陣職を紅林権左衛門に譲ったという。

 その後、文化3年(1806年)には紅林家も大火に遭い、馬場彦十郎が本陣職についた。そして明治3年(1870年)の本陣制度廃止まで、馬場家が約60年間本陣経営を行っていた。

 昭和63年(1988年)から進められた改修復元工事の結果、大名などが休泊した上段の間のある書院造の書院棟が復元された。

 現在、本陣が残っているのはここ二川と、滋賀県草津市にある草津宿の本陣のみとなっており、貴重な遺構となっている。

 

 それでは、本陣のなかに入ってみよう。

 ここは勝手だ。

勝手

 勝手は本陣の主人・家族・使用人の居住する部分だった。この部分は本陣のなかでも古く、馬場家が本陣を引き受ける以前の宝暦3年(1753年)に建てられた部分である。

 

 こちらは板の間。

板の間

 板の間は、大名行列などの荷物置き場で、街道に面した本陣建物の中央に大きな面積をしめ、蔀戸という上下移動式の戸があり、街道から直接荷物を運びこむことができるようになっていた。

 

 流石本陣、部屋の数が普通の旅籠と違う。

 

 茶室を見つけた。二川宿本陣資料館では抹茶を飲むことができるが、この部屋ではない。

茶室

 庭も見事だ。

 

 上段の間を見つけた。

上段の間

 上段の間は、大名などが宿泊休憩する部屋で、ほかの部屋より一段高くなっており、床の間、書院を備えた書院造となっていた。

 二川宿本陣馬場家の書院棟は文化4年(1807年)に建設されたが、明治3年(1870年)の本陣廃止後に取り壊されたため、のちに復原されたものである。

 

 雪隠(せっちん)がある。

雪隠

 雪隠とは現在の御手洗いのことである。本陣内には5ヶ所の雪隠があったが、ここは大名の使用する雪隠だった。大と小の雪隠があったという。

 

 雪隠の隣には上湯殿があった。

上湯殿

 湯殿とは現在のお風呂場のことで、湯殿も3ヶ所にあり、ここは大名の使用する湯殿だった。風呂桶は本陣でも用意していたが、お金持ちの大名は自分専用の漆塗りの豪華な風呂桶を持参した人もいたとか。

 

 ここは台所で、昔の道具が展示されていた。

台所

 左は箱提灯、右は行灯(あんどん)。

 箱提灯はひごと称する細い割竹を骨として、上下に伸縮自在にしたものに紙を張り、これを火袋とし、上下に枠をつけ、下枠の底板にろうそくを立てるようにしたもの。持ち歩くライトのようなものだ。

 一方行灯は、江戸時代には屋内用灯火器となり、持ち歩かないライトとなった。

 

 これは燭台(しょくだい)で、ろうそくの点灯に使われた灯火器である。

燭台

 本陣を正門から見る。格式がある。

 

 二川宿本陣の隣には旅籠、清明屋もあるのでそちらも見学する。

 清明屋は江戸時代後期の寛政年間(1789~1801年)頃に開業した旅籠屋で、主人は代々八郎兵衛を名乗っていたという。

 この建物は文化14年(1817年)に建てられたものであることが判明している。

 本陣のすぐ東隣に建つ旅籠屋だったので、大名行列が本陣に宿泊するとき、家老など上級武士が清明屋に宿泊していたという。

 

 まずミセの間で草鞋を脱いで足を洗う旅人の姿が見られた。

ミセの間

 

 ウチニワにはかまどが置かれ、炊事が行われていたという。

ウチニワ

 清明屋に上がってみよう。

 

 畳敷きの部屋だが、ここが台所だったらしく、ここで食事の準備をしていたようだ。

台所

 左が大和名所道中記、右が二川宿橋本屋引札と二川宿山家屋引札である。引札とは現在のチラシである。

 大和名所道中記には地図とともに旅籠の宣伝も書かれており、いかに集客熱心だったのかがわかる。

 

 左が飯盛女人別帳、中央が大日本細見道中記、右が浪速講定宿帳。

 飯盛女(めしもりおんな)とは性的サービスも行っていた女中で、現在ほど売春等の規制が厳しくない時代だったのでほぼどの宿場にもいたという。

 また、前回「東海道を歩く 28.新居町駅二川駅」の紀伊国屋は浪速講に加盟していた、と説明した。どうやら清明屋も浪速講に加盟していたらしい。浪速講とは講のひとつで、講とは旅人が安心して泊まれるように信頼できる旅籠屋を指定し結成された組織のことである。

 

 ここは繋ぎの間といい、客の宿泊に用いられた部屋である。

繋ぎの間

 ここは奥座敷で、床の間と入側がついた一番良い部屋だ。本陣に大名が宿泊したとき、上級武士が泊まったのだろうか。

奥座敷

 旅籠屋の食事が再現されていた。旅籠屋では朝晩2食の食事が出され、煮物と魚の1汁2菜か、もう1品つく1汁3菜が多かったようだ。今の旅館の食事と比べて質素だが、小食の私にはむしろこれくらいがちょうどいいかもしれない。

 

 参考までに、今年3月に家族で伊香保温泉に行ったときに出た食事を置いておく。これは流石に食べきれなかった。

 

 清明屋にも、やはり湯殿と雪隠はあった。

湯殿

雪隠

 いろいろ見学して疲れたので、本陣の茶席で一休みする。しばらくすると、お抹茶と栗ようかんが運ばれてきた。

 疲れているときの抹茶と甘味は沁みる。抹茶と甘味のマリアージュは最高だった。

 お抹茶を下げるとき、茶席のスタッフのおばちゃんと少し話をした。東海道日本橋から歩き続けていることを言うと、「すごいわね、頑張ってね」と励まされた。

 

 二川宿本陣と、旅籠清明屋を見終わったら、次は二川宿本陣資料館だ。

二川宿本陣資料館

 まず、本陣の展示を見る。本陣の構造が載っており、現存している二川宿本陣よりもずっと広大な敷地を持っていたことがわかる。

 

 松平伊豆守行列模型があった。

松平伊豆守行列模型

 松平伊豆守は吉田藩主である。吉田藩とは、現在の豊橋にあった藩のこと。

 行列を先導する役の徒士(かち)、槍持に続いて、たくさんの家臣たちに囲まれた藩主の乗物が見える。

 

 かわいらしい人形の大名行列もあった。

 

 宿料包紙が展示されていた。

宿料包紙

 本陣の休泊料は、家来の分は事前の話し合いで決めたが、大名など主客の分は心づけと献上物へのお返しが支払われたという。

 

 関札が展示されていた。

関札

 関札とは、大名などが本陣に宿泊・休憩するときに、姓名・官職・日付などを板や紙に書いて、本陣門前や宿場の入口などに掲げる札である。

 左から「松平伊豆守休(吉田藩主)」、「松浦壱岐守宿(平戸藩主)」、「石川主殿頭宿(亀山藩主)」、「太田備後守宿(掛川藩主)」となっている。

 

 こちらは二川宿本陣宿帳。

二川宿本陣宿帳

 二川宿本陣を経営した馬場家には、本陣を始めた文化4年(1807年)から慶応2年(1866年)までの60年間の本陣利用者と利用の状況を記帳した宿帳が残っており、それが二川宿本陣宿帳だ。

 

 乗物が展示されている。乗物とは身分の高い人が乗る駕籠のことである。

乗物

 浮世絵コーナーがあったのでやってみた。

 浮世絵コーナーでは、黒、赤、緑、青の絵の板とインク、ローラー、ばれんが置いてあり、順にやっていくのだが、私は不器用だからかあまり上手にできなかった。

浮世絵職人への道は遠い

 

 大名行列模型に続いて、二川宿の模型が展示されていた。

 

 宿場の話をするのに欠かせないのが、助郷制度の話だ。

 助郷とは、公用の荷物を宿継するため、東海道の宿場では人足100人、馬100匹を用意することが義務付けられたが、通行量が多いときはそれでも足りないことがある。そういうときに、宿場周辺の村に不足分の人や馬を出させること、人や馬を出す村のことを助郷といった。

 これは人足触。

人足触

 二川宿の問屋が、助郷村である牛河村などに、助郷を出す必要のある日の夜中または翌朝までに人足を82人出すように指示したものである。

 

 また、助郷制度は宿場近隣の村にとって重い負担だった。

 これは差村帳。

差村帳

 宿場や助郷村では、まだ助郷役を負担していない村を指名して、追加の助郷村指定を嘆願したものである。「おい、お前の村、やってないだろ。やれよ」的な感じだろうか。

 

 また、掃除丁場という仕事もあった。

 これは、宿場や街道周辺の村が、担当する場所と区間を指定され、街道の補修や松並木の保護・補植を行うことである。

 これは往還並松植継書上帳。

往還並松植継書上帳

 これを見ると枯れてしまった街道の松並木を補植するのも掃除丁場に指定された村の仕事だったことがわかる。

 

 江戸時代は自動車などはなかったので、郵便や宅配便のようなものは飛脚という街道を走る人によって担われた。

 これは江戸三度飛脚出日幷ニ休日(えどさんどひきゃくしゅつじつならびにきゅうじつ)という資料。

江戸三度飛脚出日幷ニ休日

 定飛脚問屋が顧客に配布したもので、飛脚の出立日と休日が示してある。

 

 宿場の人足や馬を使うのは御朱印または御証文によって使用を許可された人が最優先で、無料で使えた。このほかの公用旅行者や大名行列も幕府が決めた金額(御定賃銭)でこれを使えた。一般旅行者も利用できたが、話し合いで料金を決めていたという。

 駄賃帳が展示されている。

駄賃帳

 御定賃銭で人馬を使う旅人(公用旅行者・大名)が持つ駄賃帳には、各宿場で使用数と賃銭が記され、領収印が押されている。

 

 宿場の役目のひとつ、公用荷物の運搬を取り仕切る問屋場の看板が展示されていた。

「問屋」

 

 1階の常設展示を見終わり、次は瓦版展へ。

 瓦版展は2023年11月3日から12月10日の期間限定展示で、この展示のみ撮影はできなかった。

 瓦版とは、江戸時代に発達した情報媒体である。今でいう新聞、チラシ、号外とかに近いだろうか。

 火事・地震津波・仇討・見世物・奇談・外国船の来港・幕末の政変など、瓦版にはさまざまな出来事が記された。明治以降は、新聞の出現により瓦版は衰退、消滅した。

 瓦版のなかには大火や災害などが描かれているものもあり、写真ではないものの災害状況が伝わってくる絵だな、と感じたものもあった。

 

 この展示では瓦版のほか番付や引札なども展示されていた。

 少し面白いと思ったのが「できた奥さん番付」。こんなもの今発行したらフェミニストが黙っていないだろうと思う代物である。

 

 かなり面白い展示だったので、撮影できなかったのが残念である。

 

 常設展示に戻ろう。今度は2階へ向かう。

 

 飯村の松の丸太が展示されていた。

飯村の松

 この飯村の松は150年程度生きていたようだが、松くい虫の被害に遭い、平成19年(2007年)に伐採されてしまったようだ。

 

 記念撮影用の駕籠があったが、撮ってくれる人もいないのでやめておいた。

駕籠

 庶民の旅格好。

 男性は菅笠をかぶり、道中差を差し、股引と脚絆を履いて靴は草鞋。

 

 女性は菅笠を被り、小袖と浴衣、襦袢を着て下は足袋と紐付草履。

 現代と比べてずいぶん歩きにくそうな恰好だ。

 

 2階の常設展示は東海道や庶民の旅についての展示だ。

 東海道名所図会が展示されている。

東海道名所図会

 京都から江戸まで東海道に沿って名所旧跡や宿場の様子などを紹介しており、6巻もある。6巻もあるので旅に持っていくというよりは、事前に調べたり帰ってから旅日記をまとめたりするのに使ったのだろう。

 

 「大井川之図」が展示されている。

大井川之図

 大井川は徒歩(かち)での通行と定められ、明治に入って橋が架けられるまで川越をする必要があった。この日はかなり水量が多く、大変そうだ。

 大井川の川越については「東海道を歩く 20.藤枝駅金谷駅 5.大井川川越遺跡」に詳細が書いてある。

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 江戸時代の旅には「往来手形」が必要で、旅の前にお寺や村役人に発行してもらう必要があった。昔は国内でもパスポートのようなものが必要だったということだ。

 往来手形が展示されていた。

往来手形

 二川宿田村善蔵家の5人が西国三十三所巡礼に出かけたときの往来手形だ。

 また往来手形のほかにも関所手形があり、それには女性が関所を通るときに必要な女手形と鉄砲を持って関所を通るときに必要な鉄砲手形があった。

 女手形が展示されていた。

女手形

 これは白須賀宿名主の娘が舞阪宿へ行ったときに使った女手形だ。白須賀宿と舞阪宿の間には新居関所があったので女手形が必要だったのだ。

 

 「五街道脇往還」が展示されていた。

五街道脇往還

 一番南に走る、日本橋から現在の静岡県、愛知県などを経て京都の三条大橋に結ぶ道が東海道だ。そのほか中山道日光街道奥州街道甲州街道なども描かれている。

 

 東海道といえばさまざまな文学作品が江戸時代に書かれたが、そのなかでも一番有名なものが十返舎一九が書いた「東海道中膝栗毛」だろう。

東海道中膝栗毛

 東海道中膝栗毛は享和2年(1802年)に刊行された、弥次さん、喜多さんの面白い旅物語である。ベストセラーになり、20年にわたり作品が書かれ続けたという。

 

 「旅に出るなら気をつけて」という展示があった。

旅に出るなら気をつけて

 「旅行の持ち物はなるべく少なくすること」「お腹がすいても旅行中の食べすぎはよくない」「女連れの旅で川越しをするときは事前に様子を話すこと」「疲れたときは熱い風呂にいつもより長く入ろう」「酒盛りが長引いたらかわるがわる寝なさい」「馬や駕籠、人足が使いたいときは前日の夜のうちに宿の主人に頼むこと」

 「旅行の持ち物は少なく」「旅行中は食べ過ぎない」などは現代でも言えることである。

 

 旅に使う持ち物が展示されていた。

 一見すると刀なのに、なかの空洞にお金が入る財布、「銭刀」が展示されていた。

銭刀

 銭刀は、盗難防止の意味もあったのだろうか。昔のひとの考えることは面白い。

 

 矢立が展示されていた。

矢立

 矢立とは、もぐさなどにしみこませた墨の入った壷と、小さな筆から構成される携帯用文房具である。現代のボールペンのようなものだろうか。

 

 印籠が展示されていた。

印籠

 「この紋所が目に入らぬかァ!」で有名な印籠だが、実際は薬入れとして使われることが多かったらしい。

 

 煙草入れが展示されている。

煙草入れ

 袋の部分に刻み煙草を入れ、筒にキセルを入れて腰に下げて持ち歩く。

 煙草入れといえば、「東海道を歩かない 掛川・前編」の3.掛川市二の丸美術館で様々な煙草入れを紹介しているので、興味があれば参照してほしい。

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 旅日記「旅中安全」が展示されている。

旅中安全

 「旅中安全」は、二川宿田村家の啓次郎が、日光に旅行したときの日記である。これによると、文久2年(1862年)9月22日に二川を出発した啓次郎は、江の島(神奈川県藤沢市)などを見物しながら江戸に10月1日に到着、6日に出発し、日光へ向かう。日光には10月9日に到着し、11日に出発。14日に江戸に戻ってきて、26日に江戸を出発。二川に帰ってきたのは11月4日のこと。帰りは江戸から二川まで東海道72里(約288km)を8日で歩いている。1日平均36km、すごい脚力だ。

 

 江戸時代のお金が展示されている。

江戸時代のお金

 旅にはお金が必要だ、それは江戸時代も現代も変わらない。旅でお金を使う場面は、宿泊代、川越し・船代、馬・駕籠・人足代、食事・土産代など。宿泊代や食事・土産代は今も変わらないし、川越し・船代や馬・駕籠・人足代は電車賃などに置き換えられるだろうか。

 

 二川宿のジオラマと二川宿絵図があった。3D二川宿と2D二川宿だ。

二川宿ジオラマ

二川宿絵図

 慶長6年(1601年)、徳川家康東海道に宿場を設置したとき、二川村と大岩村は東西に離れた場所にあり、2村で1宿分の役目を果たしていたという。

 その後、両村が現在地に移転して1つの宿場町となった。二川宿はもともと農村であったところに、宿場の業務をさせるため計画的に作ったまちといえる。

 

 東海道の名物が紹介されていた。まず、淡雪豆腐。

淡雪豆腐

 淡雪豆腐とはやわらかく仕上げた豆腐のことで、岡崎宿の名物だったらしい。現在は売っていないが、岡崎銘菓「あわ雪」のルーツになった。

 

 続いて、白須賀、猿ヶ馬場の柏餅。

柏餅

 猿ヶ馬場の柏餅といえば前回の「東海道を歩く」で「嗅みありて胸わろく、ゑづきの気味頼りなれば」と書かれるほど不味い、と紹介したが、名所として紹介されていた以上、美味しかった時期もあった…と信じたい。ちなみに私は現代の柏餅は好きである。

 

 続いて、「飴の餅」。

飴の餅

 飴の餅は、小夜の中山で売られていた。小夜の中山では「子育て飴」という水飴が名物で、容器に入った水飴と、その飴を餅にかけたものが売られていたという。

 現在も、小夜の中山では子育て飴が売られている。詳細は、「東海道を歩く 21.金谷駅~ことのまま八幡宮バス停」5.夜泣き石 を参照してほしい。

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 子育て飴、美味しかったので峠の茶屋にまた買いに行きたいのだが、公共交通機関だといまいち行きにくいのが難点だ。

 

 続いては、丸子のとろろ汁。

とろろ汁

 元禄4年(1691年)には、すでに名物になっていた丸子のとろろ汁は、現在も丸子の「丁子屋」で提供している。

丁子屋のとろろ汁

 「丁子屋」には「東海道を歩く 17.静岡駅~吐月峰駿府匠宿入口バス停」の6.丁子屋で訪問している。

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 ここなら、静岡駅から30分に1本程度出ているバスに乗って30分程度で行けるので、いつか再訪したいと思っているのだが、なかなかタイミングがなく行けずにいる。

 

3.大岩寺

 二川宿本陣資料館に1時間半も滞在してしまい、もう13時半になっていたが、今から豊橋を目指す。

 二川宿本陣資料館を出てすぐに、大岩寺がある。

大岩寺

 大岩寺は曹洞宗の寺院で、本尊は千手観音である。大岩寺には備前岡山藩主の池田綱政が岩屋観音堂に寄進した観音経や黄金燈籠、絵馬などが伝わっていて、それらはすべて豊橋市有形文化財に指定されているという。

 

 二川駅前を通り過ぎる。

二川駅

 二川駅から少し行ったところに道標を見つけた。

道標

 「伊良胡阿志両神社道」「右 東海道」「左 渥美奥郡道」と書かれている。

 「左 渥美奥郡道」は「ホントに歩く東海道 第9集」によると田原街道のことを指しているようだ。

 

 道標から道なりに進み、「ガーデンガーデン」のある交差点を左折する。

ガーデンガーデン

 ガーデンガーデンからしばらく進むと、小さな松並木が見えてくる。

 飯村の松並木は、江戸時代から昭和30年代まで、街道の両側に100本を超える立派な松並木が残っていたが、道路拡張や松くい虫の被害によって激減し、最後の江戸時代からの大黒松も平成19年(2007年)に伐採されてしまった。その前年の平成18年(2006年)に、地元小学生が黒松を植樹したそうだ。

 今は小さな松が生えているだけだが、あと数十年後に通れば、立派な松並木を通ることができるのかもしれない。

 

 「旧東海道クロマツ跡」を見つけた。

旧東海道クロマツ

 この松は150年程度生きていたようだが、松くい虫の被害に遭い、平成19年(2007年)に伐採されてしまったようだ。先ほど、このクロマツの丸太を二川宿本陣資料館で見た。

 

 そのまましばらく歩くと、清晨寺(せいしんじ)がある。

清晨寺

いむれ社明安心観音

 清晨寺は永禄11年(1568年)創立の曹洞宗の寺院である。本堂前にある「いむれ社明安心観音」は平成30年(2018年)5月19日に、創建450年を記念して建立されたものという。

 

 そのまま進むと国道1号線と合流する、殿田橋交差点に飯村一里塚跡がある。

飯村一里塚跡

 江戸から73里目の一里塚だが、この石碑以外に残るものはない。

 

 これは、初めて見るマンホールだ。

 このマンホールは、豊橋市制90周年を記念して平成8年(1996年)に製作したデザインマンホールである。

 国の登録有形文化財である豊橋市公会堂を背景に、大正14年(1925年)から市電の愛称で親しまれている路面電車豊橋市の花であるツツジをデザインしている。

 

4.豊橋市道路元標

 瓦町交差点に、壽泉寺がある。

壽泉寺

 壽泉寺は臨済宗妙心寺派の寺院である。三重塔が立派だ。

 

 西新町交差点に水準点を見つけた。一等水準点第001-295号だ。

一等水準点第001-295号

 一等水準点第001-295号は金属標型の水準点で、設置時期は不明。

 

 東八町交差点に着くと、豊橋鉄道市内線が見えてくる。東海道唯一の路面電車がある街、それが豊橋だ。

豊橋鉄道市内線

 東八町交差点には、巨大な秋葉灯籠もある。

吉田中安全秋葉山常夜燈

 この秋葉灯籠は「吉田中安全秋葉山常夜燈」といわれ、文化2年(1805年)に吉田城下での度重なる大火に対する安全祈願などを理由に建てられた。

 昭和55年(1980年)に豊橋公園内に移され、平成13年(2001年)からは本来の場所に近い現在地に移転している。

 

 東八町交差点には、東惣門もある。

東惣門

 東惣門は鍛冶町の東側に一する下モ町の吉田城惣堀西で東海道にまたがって南向きに建てられていた。惣門は朝六ツ(午前6時)から夜四ツ(午後10時)まで開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていたという。

 

 ここから先は、城下町特有のクランクがあるので注意したい。

 まず、「東海道」が2つある交差点を右折する。

 

 「メディカルハンズ 豊橋公園前院」の前を左折。

 

 「とびだし坊や(?)」のある交差点を右折する。

とびだし坊や(?)

 

 「旧東海道」と書かれたシールが貼ってある家が交差点にある。

 

 「ヘアーサロンムラタ」のある交差点を左折する。

 

 すぐ突き当たるので突き当たりを右折する。

 

 わかりづらいので、拡大図を掲載する。

 

 先ほどの豊橋市公会堂、路面電車ツツジの白背景マンホールを発見した。

 

 札木停留場のある交差点の手前の交差点に、豊橋市道路元標がある。

豊橋市道路元標

 道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では2,000基程度しか残っていない。

 全国の2,000基程度のうち、愛知県内には115基の道路元標が残っており、全国的にもかなり残っている県である。前回も「二川町道路元標」が登場した。

 ここに豊橋市道路元標が建てられているが、ここは東海道豊橋市公会堂からのびる道の交差点であり、ここが豊橋の中心だった、ということだろう。

 

 札木停留場のある交差点に「吉田宿問屋場跡」がある。

吉田宿

 ちなみに、「豊橋」という地名は明治になってからつけられたもので、それ以前は「吉田」と呼ばれていた。

 吉田は、吉田城の城下町であるとともに、東海道34番目の宿場町でもあった。

 宿場の中枢をになう2軒の本陣、1軒の脇本陣、人馬の継立の業務を行う問屋場などは、ここ札木に集まっていたようだ。

 

 札木停留場が見える。ここで東海道は一旦終了とする。

 

5.豊橋市公会堂

 現在時刻15時半過ぎ。少し豊橋市街地を歩いてみようと思う。

 西八町交差点に水準点がある。一等水準点第001-296号だ。

一等水準点第001-296号

 これは金属標型の水準点で平成8年(1996年)に設置されたようだが、鉄蓋に阻まれて確認できない。

 

 「手筒花火」のデザインと「豊橋市電」のデザインの緑背景のデザインマンホールを発見した。

 

 西八町交差点から少し北に進むと、歩兵第十八聯隊の門がある。

歩兵第十八聯隊の門

 歩兵第十八聯隊は大日本帝国陸軍の聯隊で、豊橋に本部があった。

 

 歩兵第十八聯隊の門に、三角点がある。四等三角点「中八町地上」だ。

四等三角点「中八町地上」

 四等三角点「中八町地上」は平成5年(1993年)に設置された比較的新しい三角点である。

 

 西八町交差点のひとつ北側の交差点で右折すると豊橋市役所がある。

豊橋市役所

 豊橋市役所は東館は平成5年(1993年)、西館は昭和54年(1979年)に改築された。

 

 豊橋市役所と国道1号線に挟まれた場所に豊橋市公会堂がある。

豊橋市公会堂

 豊橋では、大正から昭和初期にかけて盛んに集会が開かれたが適当な施設がなかったので、豊橋市民は公会堂の建設を熱望するようになった。

 昭和3年(1928年)、豊橋市議会で昭和天皇の御大典奉祝記念事業として、総工費170,588円(1円=現在の4,000円なので現在の価格に換算すると6憶8235万円ほど)、鉄筋コンクリート造り3階建て、延べ床面積2,800㎡、大講堂収容人数1,005席の、豊橋で最初の大型建造物の建設が決まった。市制25周年を迎えた昭和6年(1931年)8月に完成した。

 正面の大階段やロマネスク様式の16mの高さがある両側の半球ドームは中近東の建物のようである。ドーム脇の4羽のワシは今にも飛び立ちそうな躍動感があり、荘厳で重厚、レトロな外観は、豊橋のシンボルとなっている。

 なかを覗いてみたところ、のど自慢大会をやっていて、気軽に入っていけそうな雰囲気ではなかったのですぐに撤退した。

 また、豊橋市公会堂の前には綺麗な「豊橋市電」カラーマンホールがある。

 

6.豊橋ハリストス正教会・安久美神戸神明社

 豊橋市公会堂から少し西に行ったところに豊橋ハリストス正教会がある。

豊橋ハリストス正教会

 豊橋ハリストス正教会は、大正4年(1915年)に豊橋の大工が京都までいき、京都正教会をモデルにビザンチン様式のドーム建築を学んで建てた愛知県内最古の正教会である。

 ハリストスとはギリシア語でキリストのことで、豊橋ハリストス正教会ギリシア正教に属する。

 豊橋へのギリシア正教の布教は明治8年(1875年)にはじまり、その後信者も増え、明治12年(1879年)には中八町に1階が集会所、2階が祈禱所の会堂ができていたという。

 昭和20年(1945年)の三河地震にもたえた建物だが、令和6年(2024年)6月まで保存修理中のため見ることができなかった。

 ちなみに豊橋ハリストス正教会の外見を見たければこちらのサイトを参照するとよい。

www.honokuni.or.jp

 

 豊橋ハリストス正教会の隣にある神社が安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)である。

安久美神戸神明社

 安久美神戸神明社の祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)。

 創建は、天慶2年(939年)の平将門の乱の際、朱雀天皇伊勢神宮に平定祈願し、その成就の礼に翌年、三河国飽海郡を安久美神戸として寄進したことによる。

 明治18年(1885年)に吉田城内に歩兵第十八聯隊が設営されたのを機に現在地に移転し、昭和26年に安久美神戸神明社と改称した。

 平安時代にはじまったとされる安久美神戸神明社の鬼祭りは、現在は毎年2月10・11日に実施され、国の繁栄や農作物の豊作を祈り、神楽や田楽、歩射・占卜(せんぼく)行事(榎玉(ねぎたま)神事)・神輿渡御(しんよとぎょ)などが行われる。

 田楽の一部に「赤鬼と天狗のからかい」がある。

赤鬼

 高天原(たかまがはら)の大神様のところに荒ぶる神(赤鬼)があらわれていたずらをするので、武神(天狗)がこらしめようとして両神秘術をつくして戦い、ついに和解して一同喜んで神楽の舞をした、という内容である。

 こらしめるのではなく和解、大切なことである。一度見てみたいと思う。

 

 東照宮御腰掛松を見つけた。

東照宮御腰掛松

 その昔、天文23年(1554年)に徳川家康が吉田城にいたとき、この松の木の下で鬼祭りを見たことがあったという。

 

 安久美神戸神明社御朱印をいただいた。

 

7.豊橋公園

 豊橋公園に入り、豊橋市美術博物館を見に行こうと思った。

豊橋市美術博物館

 豊橋市美術博物館では豊橋の歴史に関する常設展を見ることができる…はずなのだが、残念ながら空気環境調整のため休館中で、令和6年(2024年)3月1日にリニューアルオープン予定らしい。リニューアルオープンしたら、また来よう。

 

 ポケふた(ポケモンのマンホール)を見つけた。

 バクフーンが描かれている。手筒花火にちなんでバクフーン、なのだろうか?

 

 「此処に歩兵第百十八聯隊ありき」と書かれた石碑があった。ちなみに歩兵第百十八聯隊は昭和16年(1941年)から昭和19年(1944年)の3年間のみ存在した組織だったらしい。

「此処に歩兵第百十八聯隊ありき」

 豊橋公園のなかに、彌健神社がある。なんと、社殿がなく、そこに銅像がある。

彌健神社

 彌健神社とは歩兵第十八聯隊(明治17年(1884年)創設、昭和19年(1944年)廃止)のなかにあった神社で、現在は軍人記念碑の上に建てられていた神武天皇銅像が移設されている。

 軍人記念碑は、歩兵第十八聯隊の戦病死者を追悼するため、明治32年(1899年)八町練兵場の南、中八町に巨大な石垣の上に建設されたという。

 その後、大正5年(1916年)には練兵場内の北側に移設され石垣は撤去されたという。

 聯隊のなかの神社、社殿がない神社…これが残っているのはかなり珍しいと言わざるを得ない。実際、初めて見た。

 

 豊橋公園の北西奥に、吉田城鉄櫓がある。

吉田城鉄櫓

 吉田城は、永正2年(1505年)、当時今川方に属していた牛久保城主牧野古白によって築城され、今橋城とよばれた。

 その後、今橋城は今川・武田・松平の激しい攻防のなかで吉田城と改名された。

 永禄8年(1565年)、松平元康(後の徳川家康)の三河統一を機に家臣の酒井忠次が城主となった。

 そして天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い池田輝政が15万2000石の城主となり、豊川と朝倉川を背に、本丸を中心に同心円状に堀が取り囲む半円郭式縄張りを行った。その際、城域を大幅に拡張するとともに城下町の整備のため大手門を飽海から現在の大手町に移した。

 現在残っている鉄櫓(くろがねやぐら)は昭和29年(1954年)の豊橋産業文化大博覧会のときに再建されたものである。

 さあ、鉄櫓に入ろう!としたら入ることができなかった。どうやら10時から15時の間しか開いていないらしい(このとき16時半だった)。悔しいのでリベンジしたいところである。

 

 豊橋公園をあとにして、豊橋公園前停留場に向かう。

 今度はピンク背景の「手筒花火」マンホールを見つけた。

 

 豊橋公園前停留場から豊橋市電に乗る。都内にはあまり路面電車がないので、旅情を感じる。

 

 豊橋駅から新幹線に乗る前に、腹ごしらえをしたいと思った。入ったのは、愛知名物「あんかけスパ」が食べられる「スパゲッ亭チャオ」。

バイキング

 私は「バイキング」というウィンナーとチキンカツが乗ったあんかけスパをいただいた。

 あんかけのソースが温かく、チキンカツのサクサク加減も絶妙で美味しい。豊橋に来たらまた来ようと思った。

 

 幸せの余韻に浸りつつ、翌日は会社なので新幹線で東京に帰ることにした。

 

 次回は、札木停留場から御油駅まで歩く予定である。

今回の地図(二川周辺)

今回の地図(東海道)

今回の地図(豊橋周辺)

歩いた日:2023年11月12日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第9集」

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

二川宿本陣資料館

https://futagawa-honjin.jp/

東三河を歩こう 清晨寺

https://www.net-plaza.org/KANKO/toyohashi/tera/seishinji/index.html

豊橋市上下水道局 マンホールカード

https://www.city.toyohashi.lg.jp/30054.htm

ええじゃないか豊橋 ハリストス正教会

https://www.honokuni.or.jp/toyohashi/spot/000039.html

豊橋市美術博物館

https://toyohashi-bihaku.jp

(2023年12月18日終閲覧)

江戸三十三観音をめぐる 6.高田・西早稲田・神楽坂編

 前回、江戸三十三観音第9番札所定泉寺、第10番札所浄心寺、第11番札所圓乗寺、第12番札所伝通院、第13番札所護国寺に参拝しながら文京区内を巡った。今回は第14番札所金乗院、第15番札所放生寺、第16番札所安養寺に参拝しながら高田、早稲田、神楽坂のあたりをぶらぶらしようと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.金乗院

  西巣鴨駅から新庚申塚停留場まで歩き、都電荒川線に乗る。東京に残る数少ない路面電車のひとつだ。なかなか乗る機会がないので、乗っていて楽しい。

都電荒川線

 学習院下停留場で下車する。今日はここからスタートだ。

学習院下停留場

 学習院下停留場を出て右折し、しばらく進むと左手側に金乗院がある。

金乗院

 金乗院は創建年代は不詳だが、500年以上の歴史を持つという。

  文京区関口台にあった目白不動尊は戦後ここに移ってきている。

目白不動尊

 目白不動尊五色不動のひとつで、目白という地名やJRの駅名の由来にもなっているお不動様である。五色不動とは目黒不動尊目白不動尊目赤不動尊目黄不動尊目青不動尊のことである。目赤不動尊は前回の「江戸三十三観音をめぐる」で訪れている。

 

 青柳文庫で知られる医師青柳文蔵の墓とその辞世を蜀山人の書で彫った追悼碑がある。

青柳文蔵

 

 慶安事件の首謀者のひとりであった丸橋忠弥の墓もある。この墓は子孫が建てたものらしい。

丸橋忠弥の墓

 

 境内には鍔の供養塔(鐔塚)、倶利伽羅庚申塔青面金剛を刻んだ庚申塔などもある。

鐔塚

 

 金乗院の御本尊、聖観世音菩薩が江戸三十三観音の第14番札所に指定されているので御朱印をいただく。あと、売っていたので今更ながら「江戸三十三観音札所案内」を購入した。

「江戸三十三観音札所案内」

 

 金乗院を出てすぐ右折して南に進むと、左手側に南蔵院が見える。

南蔵院

 南蔵院真言宗の寺院で、元和2年(1616年)、円成比丘の開山といわれる。

 この寺には相撲取りの墓や、彰義隊首塚、江戸時代の宝篋印塔、阿弥陀如来立像、六地蔵や日露戦後の明治39年(1906年)11月に建てられた忠魂碑などがある。

 また、「山吹の里弁財天」と彫られ、元禄9年(1696年)3月に建てられた碑がある。「山吹の里」なる碑は、南蔵院からさらに旧鎌倉街道を南に行き、神田川にかかる面影橋の手前のところにもある。このあたりは太田道灌の故事にちなむ山吹の里であるといわれるが、山吹の里は荒川区町屋付近や埼玉県越生町にもあり、どれが正しいかは不明である。

 太田道灌室町時代の終わりから戦国時代初めにかけて活躍した武将で、代表的な功績として江戸城築城が知られている。

 ある日、鷹狩り中に急な雨に遭った太田道灌は蓑を借りようと、一軒の農家に立ち寄った。

 すると、なかから出てきた少女は何も言わずに一枝の山吹を差し出した。道灌はそれに腹を立て、立ち去ったが、のちに家来から「少女は「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」という古歌を引用し、「実の」と「蓑」をかけて、蓑がないことをお詫びする気持ちを込めて山吹の花を差し出したのですよ」と聞く。道灌は己の無知を恥じ、これ以降和歌の勉強に一層励むようになったという。これが「山吹の里」の話である。

 

 南蔵院の向かい側に、氷川神社がある。

氷川神社

 氷川神社は高田村の鎮守だったが、江戸時代は南蔵院別当寺だったという。

 この神社の鳥居は、鳥羽藩主稲垣対馬守が寛政2年(1790年)に寄進したものといわれる。

 御朱印をいただいたが、なんと1,000円。なかなかな価格である。

2.甘泉園

 氷川神社から南に進み、都道8号線を通り過ぎると亮朝院がある。

亮朝院

 亮朝院の本堂である七面堂は木造、正面5面、側面5面、入母屋造り、銅板葺きの建物で、天保5年(1834年)に建築された。

 縁側や屋根などに後代の改修や改変が見られるが、概ね当初の状態が維持されている。平成6年(1994年)から平成8年(1996年)にかけて改修工事が実施された。

 新宿区内では希少な江戸時代の寺院建築なので、新宿区指定有形文化財に指定されている。

 七面堂には木造七面明神半跏像及び宮殿、木造妙見菩薩立像及び宮殿、木造諏訪大明神坐像及び宮殿があり、それぞれ新宿区登録有形文化財に指定されているが、残念ながら見ることはできなかった。

 亮朝院七面堂の前には金剛力士の石像がある。

 この金剛力士石像は宝永2年(1705年)3月29日に奉納された石造の金剛力士像で、阿吽一対で安置されている。

 金剛力士像は「仁王」と呼ばれ、仏を守護するものとして寺院の山門などに阿形と吽形の一対で安置される。石造の金剛力士像は珍しく、新宿区では唯一のものである。新宿区指定有形文化財に登録されている。

 

 都道8号線に戻り、日神デュオステージ早稲田のある交差点で1本裏道に入ると甘泉園がある。

甘泉園

 甘泉園は江戸時代は屋敷地で、明治になって個人の邸宅となった。

 昭和13年(1938年)に早稲田大学が譲り受けて付属庭園とした。早稲田大学水稲荷神社の旧地と甘泉園の一部とを、昭和36年(1961年)に土地交換をしたのである。

 東京都は昭和37年(1962年)に、庭園部分を都民公園とするべく用地買収を始め、園内を整備して新宿区に移管し、昭和44年(1969年)7月1日から新宿区立公園として開園した。

 甘泉園とは、園の東に泉地があり、そこから出る清水がお茶に適するところから、明治時代に名づけられたのである。

 甘泉園には、新宿区にいるとは思えない景観が広がっていた。

 

 甘泉園のそばに、水稲荷神社がある。

水稲荷神社

 水稲荷神社は天慶4年(941年)、俵藤太秀郷朝臣が富塚の上に稲荷大神を勧請され、富塚稲荷、将軍稲荷と呼ばれるようになった。

 元禄15年(1702年)、大椋(おおむく)の下に霊水が湧出し、眼病に効能があったとされて江戸で評判となった。そのとき「我を信仰する者は火難を免れるだろう」と神託があり、このとき以来「水稲荷」と称するようになり、消防関係者や水商売の人たちの信仰を集めた。

 昭和38年(1963年)に現在地に遷座した。

 

 境内には耳欠け神狐がいて、体の痛いところをなでると痛みがやわらぐそうだ。おびんづる様のようなものだが、狐タイプは初めて見た。

耳欠け神狐

 そして水稲荷神社の参道になぜかヤギがいた。首輪がついているので、飼われているのだろう。そして人が乗っていたので撮影は憚られたが、馬もいた。

 

3.穴八幡宮

 甘泉園をあとにして都道8号線に戻る。都道25号線との交差点で右折するのだが、その左手側にガードレールが大量に置いてある一角があった。

 

 地理院地図を見ると、赤線で囲んだエリアだけ建物がない。

 

 どうやら、環状4号線の建設のための用地買収を行っているようだ。

 環状4号線の建設が計画されたのは大正12年(1923年)の関東大震災後のことである。関東大震災からもう100年経っているが、環状4号線が開通することはあるのか、甚だ疑問である。

 

 西早稲田交差点に「高田馬場跡」の説明板があった。

高田馬場

 馬場は寛永13年(1636年)に造られたもので、旗本たちの馬術の練習場だった。

 享保年間(1716~1753年)には馬場の北側に松並木がつくられ、8軒の茶屋があったとされている。

 今「高田馬場」と聞くと山手線の駅を連想するが、この地点から高田馬場駅までは徒歩で15分ほど離れている。むしろ東西線都電荒川線早稲田駅のほうが近い。

 

 西早稲田交差点で左折し南東に進むと、穴八幡宮がある。

八幡宮

 穴八幡宮の祭神は応神天皇仲哀天皇神功皇后である。

 康平5年(1062年)に前九年の役に勝利した源義家が凱旋した際、日本武尊命(やまとたけるのみこと)にならい兜と太刀をおさめて八幡宮を勧請したことにはじまるとされている。

 寛永13年(1636年)、江戸幕府御持弓頭 松平直次が弓術の練習のためにここに的場を築き、射芸の守護神として八幡宮を奉祀した。

 そして8代将軍徳川吉宗が、高田馬場流鏑馬(やぶさめ)を復活させた。現在、毎年体育の日に流鏑馬が奉納されているようだ。

 

 穴八幡宮御朱印をいただく。「一陽来復」と書かれている。「一陽来復」とはよくないことの続いた後にいいことが巡ってくることを意味する。ちなみに御朱印料金は「お気持ち」だったので、300円払った。

 

 この布袋像水鉢は、3代将軍徳川家光から慶安2年(1649年)に奉納されたものらしい。

 

 穴八幡宮の随神門と正面参道鳥居を見る。あまり古いものではなさそうだが、晴れた空に朱が映えて美しい。

随神門

正面参道鳥居

4.放生寺

 穴八幡宮の隣にある寺院が放生寺である。

放生寺

 放生寺は寛永18年(1641年)に威盛院権大僧都 法印良昌上人が穴八幡宮の造営に尽力し、その別当寺として開創された。

 良昌上人が諸国を修行していたとき、寛永16年(1639年)2月にこんな夢を見た。それは老翁が現れ「将軍家の若君が辛巳(かのとみ)の年の夏頃に誕生するから祈れ」と良昌上人に告げる夢だった。

 その後良昌上人が堂宇に籠って祈り続けたところ、徳川家綱(第4代将軍)が生まれた。

 この話が幕府まで届き、徳川家光(第3代将軍)が良昌上人のもとを訪れ、正保2年(1645年)に良昌上人は家光に厄除けの祈祷をした。慶安2年(1649年)に徳川家光から「光松山威盛院放生會寺」の寺号を賜り、その名がついた。

 明治までは穴八幡宮とその別当寺であった放生寺は同じ境内にあり、代々の住職がどちらも管理していたが、明治2年(1869年)に廃仏毀釈の布告によって現在地に本尊の聖観世音菩薩が遷された。

 放生寺に参拝し、御朱印をいただく。なおこの寺院の御本尊、聖観世音菩薩が江戸三十三観音の第15番札所に指定されている観音様である。御影(おすがた)もいただいた。

 

 放生寺には水掛け地蔵と大震火災死亡群霊塔がある。これは自然災害伝承碑として地理院地図にも掲載されている。

水掛け地蔵と大震火災死亡群霊塔

 大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で、旧牛込区では死傷者105人、全半壊926戸の被害を受けたが、火災はほとんどなく、比較的被害が少なかったため多くの避難民を受け入れた。

 大震火災死亡群霊塔は震災の死者を弔うために翌年の大正13年(1924年)に建立された。なお、大震火災死亡群霊塔の隣にある2体の地蔵菩薩立像は高野山御廟橋から遷されたものである。

 東京の歴史を勉強していて関東大震災の話題は度々出てくるのだが、関東大震災の恐ろしいところは「地震なので、現代でも起こりうる」ことなのである。関東大震災の犠牲者の冥福を祈り、そっと手を合わせた。

 

5.赤城神社

 放生寺をあとにして、都道25号線を東に進む。グランドステータス寿賀原ビルのある交差点を右折して少し進むと宗参寺がある。

宗参寺

 宗参寺は曹洞宗の寺院で、天文12年(1543年)に亡くなった牛込重行の廟所として、子の勝行が創建した。

 牛込氏は室町時代中期以来、江戸牛込の地に居住した豪族である。

 寛文4年(1664年)に牛込氏5代、牛込勝正が先祖の重行、勝行のためにたてた牛込氏墓があり、東京都指定史跡に指定されている。

牛込氏墓

 宗参寺の境内には山鹿素行の墓もある。山鹿素行は江戸時代前期の儒学者兵学者で墓地は国の史跡に指定されている。

山鹿素行の墓

 都道25号線に戻って歩いていると、生田春月旧居跡を見つけた。

生田春月旧居跡

 このあたりは、大正から昭和にかけて近代詩の発達に大きく寄与した詩人、生田春月が大正4年(1915年)から11年間住んでいたところである。

 春月は明治25年(1892年)に鳥取県米子市に生まれた。9歳のときに詩作をはじめ、16歳で上京、大正7年(1918年)に発表した詩集「感傷の春」で詩人としての地位を確立した。

 昭和5年(1930年)に大阪発、別府行きの船に乗船中、投身自殺を遂げて38歳で亡くなった。やはり創作を行う人は精神を病んでしまうのだろうか。

 

 牛込天神町交差点で地蔵坂を登る。地蔵坂の由来は不明だが、おそらく坂の近くに地蔵尊があったのでは、と推測されている。

地蔵坂

 都道25号線を歩いていたら左手側に大きな鳥居が見えたので寄ってみることにした。赤城神社だ。

赤城神社

 正安2年(1300年)、上野国(現在の群馬県)の赤城山赤城神社の分霊を牛込早稲村田島に移して牛込の鎮守とした、と伝わるが定かではない。

 大胡氏(のちの牛込氏)が牛込に移り住んでから建立したものと思われる。現在地に移ったのは弘治元年(1555年)である。

 天保13年(1842年)火災により焼失し、安政2年(1855年)には、建設中の社殿が大地震により傾き、元治元年(1864年)~慶応3年(1867年)にようやく復旧した。

 明治初年の神仏分離で、赤城明神を赤城神社と改めた。

 

 穴八幡宮御朱印をいただいたとき、そろそろ御朱印帳がいっぱいになるな、と思ったので赤城神社御朱印帳を購入した。うさぎ柄でかわいい。

 

 「赤城山と大百足(おおむかで)」というモニュメントがあった。ステンレス百足。

赤城山と大百足」

 昔、赤城山の神様は百足となり中禅寺湖の領有をめぐり、二荒山の蝮(まむし)となった神様と戦いをした。これが奥日光の「戦場ヶ原」の由来になったという。

 

 赤城神社の裏に観音菩薩立像と俳人巻阿の碑があった。

 この観音菩薩立像は慶長18年(1613年)に造られたもので、宝蔵院から移された。現在、宝蔵院は廃寺になっている。ここの観音様は江戸三十三観音の対象ではない。

観音菩薩立像

 俳人巻阿は江戸時代の俳人であり、4つもの句が刻まれている。

 「梅が香や 水は東より 行くちがひ」

 「遠眼鏡 には家もあり かんこ鳥」

 「名月や 何くらからぬ 一とつ家」

 「あるうちは あるにませて 落葉哉」

俳人巻阿の碑

 この鳥居の奥には3社もの神社がある。

 1社目は赤城出世稲荷神社で、御祭神は宇迦御霊命(うかのみたまのみこと)と保食命(うけもちのみこと)。赤城神社がここに遷座する前からあったようだ。現在は神楽坂商店街の人やサラリーマンの崇敬を集めているようだ。

 2社目は八耳神社で、御祭神は聖徳太子。戦災で焼失した太子堂をここに祀ったとのこと。

 3社目は葵神社で、御祭神は徳川家康。宝蔵院に鎮座していた神社だったが、明治元年(1868年)に神仏混合が廃止されたのに伴い、赤城神社遷座した。

赤城出世稲荷神社ほか2社

 先を急ぐため寄らなかったが、境内にはあかぎカフェというカフェもある。

あかぎカフェ

6.安養寺

 神楽坂を下りていくと、地面に何やら貼ってある。どうやら「坂にお絵貼り」というイベントをやっているようだった。これ、「推し」の絵を描くと踏み絵になってしまうのでは…?などと考える。

 

 今度は、子供が坂に絵を描いている。見た感じ誰が描いてもよい雰囲気だったが、流石に成人女性が一人で絵を描いているのもあれだな、と思いやめておいた。

 

 神楽坂を下っていき、神楽坂上交差点の左手側に安養寺がある。

安養寺

 安養寺は慈覚大師の創建で、当初は江戸城内にあったが、徳川家康が入城するときに平河口に移され、その後田安への移転を経て現在地に移された。

 御本尊は薬師如来で、江戸時代から厄除薬師として信仰されてきた。

 聖天堂に歓喜天尊と十一面観世音菩薩が祀られており、このうち十一面観世音菩薩が江戸三十三観音第16番札所に指定されている観音様である。

 

 御本尊の薬師如来に挨拶するため、本堂へ向かう。

 

 その後寺務所のインターホンを押そうとすると、「本日の朱印は行事の都合により中止致します」の貼り紙を見つけた。しかし、本堂のなかに人がいるのが見えたので、ダメ元でお声がけしたところ、御朱印をいただくことができた。

 

 「今日は行事があったから」ということで、なんとお菓子のおすそわけまでいただいてしまった。帰ってから開けてみたら、下2つが練り切り、一番上が栗まんじゅうが入っていた。もちろん美味しくいただきました。

 

7.善国寺

 安養寺をあとにして神楽坂を下りていき、神楽坂ウォレテリア山藤のある交差点で右折し、坂を登っていくと左手に光照寺がある。光照寺は撮影禁止とのことで、入口の写真のみ掲載する。

光照寺

 光照寺は正保2年(1645年)、神田から移転してきた浄土宗の寺院である。

 出羽国松山藩主酒井家の墓や、狂歌師 便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)の墓がある。

 光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城跡である。牛込城の城館や築城時期は不明だが、住居を主体とした館と推定されている。

 牛込氏は、赤城山の麓、上野国勢多郡大胡の領主、大胡氏を祖とする。

 大胡氏は、天文年間(1532~1555年)に南関東へ進出し、北条氏の家臣となり、姓を牛込氏と改め、赤坂、桜田、日比谷などを領有した。天正18年(1590年)に北条氏が滅亡した後は徳川家康に従ったという。

 光照寺には涅槃図、木造地蔵菩薩坐像、木造十一面観音坐像、阿弥陀三尊来迎図、法然上人画像などがあり、いずれも新宿区指定有形文化財だが、見ることはできなかった。

 

 神楽坂に戻り、少し進むと右手側に善国寺がある。

善国寺

 善国寺は文禄4年(1595年)に池上本願寺12世貫主 仏乗院日惺(にっせい)上人が、中央区馬喰町に建立した。寛政4年(1792年)に火災にあい、現在地に移ってきた。

 善国寺の御本尊は毘沙門天像である。この毘沙門天像は、甲冑具足に身を固め、左手に宝塔を捧げ、右手に鉾を持ち、足に夜叉鬼を踏まえて立っている。

 毘沙門天梵語で、人々の多くの願いを聞き、御利益を与えることを誓願としている天王という。この像は、日惺上人が池上本願寺に入山するとき、関白 二条昭実(にじょうあきざね)からお祝いとして贈られたものと伝わっている。

 善国寺には石虎がおり、これは嘉永元年(1848年)に奉納されたものである。

 石虎は本堂の左右にいるが、右側の石虎の台座に、几号水準点が刻まれている。

石虎

几号水準点

 几号水準点とは明治初期に高低測量を行うために設けた基準となる基準点である。垂直面に刻印されているものと水平面に刻印されているものがあり、これは垂直面に刻印されているので内務省が設置した几号水準点と考えられている。ちなみに水平面に刻印されているものは東京市が設置した水準基標と推定されている。

 日本に残る几号水準点を訪ねるまちあるき随筆を同人誌「地理交流広場」で書いているが、ここの几号水準点はまだ取り上げていない。

 

 善国寺本堂に参拝し、御朱印をいただく。

 

 これで今日行きたい場所は一通りめぐったし、帰ろうかと考えたがその前にスタバで休憩してから帰ることにした。飲んだのは「ストロベリーメリークリームフラペチーノ」。いちごとホワイトチョコレートマスカルポーネの風味が絶妙で美味しかった。

「ストロベリーメリークリームフラペチーノ」

 フラペチーノを飲みつつ、参考文献「新宿区の歴史」を読み、1時間ほど滞在してから飯田橋駅から帰路についた。

飯田橋駅

 金乗院では目赤不動尊につぎ、目白不動尊に参拝することができた。いつか五色不動全てにお参りをしてみたい。放生寺は穴八幡宮とのつながりを強く感じ、かつての神仏習合時代に思いを馳せた。安養寺では一時は「御朱印もらえないか」と思ったものの勇気を出して声をかけたところいただけたばかりでなく、おすそわけまでもらってしまった。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

歩いた日:2023年11月3日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

新宿の歴史を語る会(1977) 「新宿区の歴史」 名著出版

林英夫(1977) 「豊島区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

荒川区立図書館 太田道灌と「山吹の里」伝説

https://www.library.city.arakawa.tokyo.jp/contents;jsessionid=ECAA4BEBA5A3FF69053022F6F9DE51FC?0&pid=1068

早稲田水稲荷神社 神社のご案内

https://mizuinari.net/guide.html

国土地理院 自然災害伝承碑

https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html

(2023年12月1日最終閲覧)

東海道を歩く 28.新居町駅~二川駅

 前回、舞阪駅から新居町駅まで歩いた。今回は新居町駅から二川駅まで歩こうと思う。新居宿と二川宿の間に白須賀宿があるが、なんと白須賀は平日に1日3本のコミュニティバスしか走っていない。そのために有給を取るわけにもいかないので、新居町駅から二川駅まで歩いたのである。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.新居関跡

 今日は新居町駅からスタートだ。

新居町駅

 新居関所まで歩く途中、今さらながら静岡県章のついたマンホールを見つけた。

静岡県章マンホール

 静岡県章は富士山と静岡県の地形を曲線で表現している。

 

 国道301号線を西にしばらく歩くと、新居関跡がある。

新居関跡面番所

 明応7年(1498年)の大地震と風水害により、今切口ができた。そのため、歩いて通行できた新居・舞阪間は船を使うことを余儀なくされた。

 当地の支配者だった今川氏真徳川家康はこの舟運支配につとめ、慶長5年(1600年)頃に新居に関所が設置された。

 江戸時代初期の関所は、今日「大元屋敷」とよばれる場所にあった。

 それがたび重なる高潮などの被害により、元禄14年(1701年)頃200m西方の藤十郎山へ、そして宝永4年(1707年)の大地震による津波の被害により、翌年さらに現在地へ移動した。

 災害により新居を通行できないときは、東海道の旅人は姫街道へ迂回し、気賀関所を利用したという。

 関所の管理は当初、幕府の関所奉行による直接管理だったが、元禄15年(1702年)三河国吉田藩(現、愛知県豊橋市)に命じられ、幕末まで続いた。

 面番所の建物は安政2年(1855年)に改築され、明治2年(1869年)の関所廃止後も小学校や役場に使われ残ったもので、全国で唯一現存する関所建築である。

 

 面番所に入ると、関所役人たちに睨まれた気がした。後ろに控える武具が威圧感を放っている。

 関所に常備されていた武具は、関所役人の取り調べに従わない通行人の不法行為を未然に防止する対策として備えられていた。しかし、幕藩制社会が確立し、不法行為を働く人がいなくなると、関所の権威を誇示するために飾りとして置かれている用途のほうが強くなったらしい。置かれていた武具は弓や矢、鉄砲などであった。

 

 「東海古関」という書を見つけた。

「東海古関」

 この書は、明治から昭和にかけて政治評論家・史論家などで活躍した徳富蘇峰が熊本へ向かう途中、新居関所に立ち寄り、この書を書いたという。このとき蘇峰は90歳だったという。お元気である。

 

 面番所の解体修理資料と瓦が展示されていた。

 

 面番所には書院があり、公式の対面などを行う部屋として使われていたようだ。

書院

 面番所をあとにして、新居関所の護岸と渡船場に向かう。

護岸・渡船場

 渡船場は関所東側の出入口で、浜名湖に面した場所に設置された。

 関所の北側と東側は浜名湖に面し、東側は約143mの護岸で、そのうちの南半分の約75mが渡船場だったという。

 

 炭太祇の歌碑を見つけた。「木戸しまる 音やあら井の 夕千鳥」

炭太祇の歌碑

 炭太祇は江戸時代の旅行家で、この関所も数回通ったという。旅行家という職業は憧れるが、どうお金を工面していたのかは気になる。

 

 新居関所には水準点もある。二等水準点第2688号だ。

二等水準点第2688号

 昭和36年(1961年)に設置された金属標型の水準点だが、石蓋に隠れて確認できなかった。

 

 大石が置かれていた。

大石

 大石は、高貴な人が乗る乗物を置くために使われていたという。

 

 大石の隣には、石樋(いしひ)も置かれている。

石樋

 この断面L字型の石は、関所構内の雨水等を流すために、北側と東側の護岸石垣まで敷設された排水設備の先端に置かれた石樋である。

 

 このあたりに船会所があったと説明板にあった。

船会所跡

 船会所は、渡船場のある新居関所の特徴的な施設で、東西約13m、南北約4mの本瓦葺きの建物で、船頭会所とも呼ばれていたという。

 

 女改之長屋と裏御門が復元されていた。

女改之長屋と裏御門

 女改之長屋は女性通行人の取り調べを行う南北約18m、東西約5mの杮葺き、土壁造りの建物で、改女とその家族が住んでいた。

 江戸時代の関所の重要な機能のひとつは「入り鉄砲に出女」の取り締まり、つまり鉄砲の江戸持ち込みと大名の妻子の江戸脱出の取り締まりであった。つまり男性と比べて女性は関所の取り締まりが格段に厳しかったのだ。

 

 女改之長屋は中に入ることができる。

女改之長屋

 女改之長屋では関所の女改めについて解説されている。

 例えば、改女(あらためおんな、女改めを行う女性役人)は通行する女性に不審な点があれば髪の元結を解いて取り調べを行うこともあったが、細かい規則を勘違いして身分の高い女性に対しても元結を解いてしまう改女もいて、そこで注意されたエピソードなどが紹介されている。

 また、女性の通行には女手形が必要で、関所を挟んだ婚姻を行った場合、女性の帰省に女手形が必要となってしまい、この女手形の取得の手続きの煩雑さから関所越えを必要としない地域での婚姻が増えたという。

 

 女改之長屋に尖柵(とがりさく)が展示されていた。

尖柵

 尖柵とは関所の外周を囲った尖った木の柵である。

 

 女改之長屋の建築資料等が展示されていた。これは壁の構造の模型で、5層構造になっていたことがわかる。

壁の構造の模型

 

 これは巻頭釘(まきがしらくぎ)と竹釘。巻頭釘は釘の頭が巻かれており、1本1本手作りで作られていたという。竹釘は真竹を割き、裁断し、天日乾燥したのち、焙煎して作成するという。

巻頭釘と竹釘

 また、女改之長屋は改女たちの職場であり、住居であった。

 改女は箱根や木曽福島、碓氷などの他の関所にも勤めていたが、関所の構内に住んでいたのは新居関所だけだったという。

 女改之長屋では茶碗等が出土しているが、これは改女たちが使ったものかもしれない。

 

 新居関所関連資料が展示されていた。

新居関所関連資料

 一番上は「今切御関所御普請仕様帳」で、新居関所全般に渡る仕様帳である。

 上から2番目は「今切御関所御修復御普請落札値段書上帳」で、新居宿のなかには関所修復事業への入札者がいないと書かれているそうだ。となると、修理は誰が担当したのだろうか?

 上から3番目は「今切御関所御普請目論見帳」で、天明3年(1783年)に簡易的な修復をした大御門の根包板が腐っており、大規模な修復を行った、という記録である。

 

 こちらの右側は「享保六年八月遠州新居今切旧記」で、関所の歴史や関所役人について詳しく書かれている。

 左側の絵は「双筆五十三次 荒井」で、背景は奥浜名湖の風景で、人物は改女が男装した女性ではないかと、眼鏡越しに取り調べを行っている様子が描かれている。改女が何を見て「女」と判断しているのかは…詮索しないほうがよさそうだ。

 

 女改之長屋を出て、土蔵跡を見る。

土蔵跡

 土蔵の詳細は不明であるが、関所で使用する道具類や重要書類などが保管されていたと考えられている。

 

 新居関所資料館の前に、学制施行百年記念の石碑があった。ここに新居小学校が開校したことからここに設置されたようだ。

学制施行百年記念の石碑

 この石碑は新居町章をあしらっているが、新居町は平成22年(2010年)に湖西市編入して廃止されている。

 

 新居関所資料館に入る。なお、残念ながら館内は撮影禁止。

新居関所資料館

 新居関所資料館の1階には「街道と関所」「海の関所新居」をテーマに、新居関所の生い立ちと役割などを説明している。

 資料館2階では「旅と宿場」をテーマに、旅道具や江戸時代の新居宿に関する資料を展示している。

 また、資料館2階の一角で、企画展「描かれた天皇陵―江戸時代の山陵図―」が開催されていた(令和5年(2023年)10月21日~12月24日の期間限定)。

 今回展示されている山陵図は文化3年(1806年)から文化5年(1808年)にかけて作成された「文化山陵図」といわれるもので、京都町奉行の森川俊尹(もりかわとしただ)が調査に基づいて作成した。

 この文化山陵図は新居宿で油問屋等を営んでいた高須家に残されていたもので、昭和50年代前半に新居町に寄贈されたものといわれている。

 また、新居関所資料館では新居宿の御宿場印も販売している。

「新居宿」

 新居関跡をあとにして、大御門をくぐる。

大御門

 大御門は明六ツ(午前6時頃)に開き、暮六ツ(午後6時頃)に閉じていたという。つまり、関所の営業時間中は開いていて、それ以外は閉じているということだが、現在はずっと開いている。

 

 大御門の西側には桝形と呼ばれる広場になっていて、そこに高札場があった。

高札場(復元)

 高札場は宿場に関する法令を掲示した宿高札場と廻船に関する法令を掲示した浦高札場があったという。

 

2.紀伊国屋資料館

 新居関跡から東海道を少し進むと、紀伊国屋資料館がある。

紀伊国屋資料館

 紀伊国屋資料館の経営者ははじめは小野田姓を名乗る、紀州の出身者だったという。後に疋田弥左衛門に改めた。

 旅籠屋としての創業時期は不明だが、元禄16年(1703年)には紀州藩の御用宿を勤めるようになり、正徳6年(1716年)に「紀伊国屋」を名乗ることを許されたという。江戸時代後期には紀州藩の七里飛脚の役所もここにあった。

 紀伊国屋は明治7年(1874年)の火災で焼失して建て替えられ、昭和24年(1949年)まで旅館業を営んでいた。

 紀伊国屋の建物の一部に江戸時代後期の旅籠の様式を残していたことから再生整備工事後、資料館として公開されている。

 

 まず入ると板の間からなかに上がることになる。

板の間

 

 「浪花講」の看板がある。

浪速講

 紀伊国屋は「浪速講」に加盟していたのでこの看板が掲げられていた。そのほか、「関東講」などにも加盟していたようだ。

 「講」とは旅人が安心して泊まれるよう信頼できる旅籠屋を指定し結成された組織である。

 

 ここで新居宿について簡単に説明しておくと、江戸から数えて31番目の宿場で、本陣3軒、脇本陣なし、旅籠26軒の宿場だった。

 

 紀伊国屋資料館には様々なものが展示されている。

 これは安政6年(1859年)10月、紀伊国屋の当主弥左衛門が、嘉永7年(1854年)の大地震で大破した居宅を修復するため、150両の支援を紀州藩に願い出た願書の下書きである。

 

 新居宿は関所所在地ということで宿泊客が少なく、江戸時代後期には旅籠屋同士や本陣との間で旅客をめぐる争いが起こったという。

 この文書は紀伊国屋とそれ以外の旅籠屋仲間の間で紛争が起こり、弘化2年(1845年)2月に双方が取り交わした内在文書である。現代では旅人をめぐってホテルが奪い合うなんて、考えられないことである。

 

 次の間の奥に、床の間がある上の間がある。

 

 上の間に紀伊国屋で出された夕食のレプリカが置かれている。

 左側は鯔(ぼら)と焼き豆腐の煮物と大根汁、右側はアサリと寒天の酢醤油かけとうなぎの蒲焼。特にうなぎの蒲焼は東海道でも評判の一品であったという。ただ、現在の新居宿にうなぎの蒲焼を食べられる店は見当たらなかった。もっとも、見つけたところでお財布事情的に食べられないのだが…。

 

 上の間から奥に進むと奥座敷があり、水琴窟もあった。

奥座敷

水琴窟

 水琴窟とは地中に甕を埋め、そこに落ちる水滴が反響し、琴のような音色を奏でるというものだが、水を落とす柄杓が見当たらなかった。

 

 厠(かわや)を見つける。現代のトイレだ。「展示品のため使用できません」。

 

 厠の隣は風呂場で、五右衛門風呂が置かれている。

五右衛門風呂

 

 風呂場の隣は台所がある。水回りが固まっているのは現代も一緒である。

台所

 

 2階に上がると、客の間がある。

客の間

 「木の枕で寝てみよう」というコーナーがあった。

角まくら

 江戸時代の人は髪型がくずれないように木の枕で寝ていたそうだ。試しに寝てみたが、すぐ首が痛くなってだめだった。やはり私は現代のふかふかの枕のほうが合っている。

 

 客の間には「担い箱」が展示されていた。

担い箱

 担い箱とは品物を入れる引き出しと、背負うための紐のついた行商に使った箱で、このなかには魚や野菜のほか、薬や唐辛子などの商品が入っていたらしい。

 

 庭を見て、紀伊国屋資料館をあとにする。

 

3.小松楼

 紀伊国屋資料館から東海道を少し外れたところに小松楼がある。

小松楼

 

 小松楼の前に常夜燈があり、「秋葉山」と刻まれていることから秋葉灯籠であることがわかる。

秋葉灯籠

 小松楼は大正から昭和20年代にかけて芸者置屋と小料理屋を営んでいた。

 江戸時代の旅や宿場の話といえば必ずといっていいほど飯盛女(めしもりおんな。性的サービスも行っていた女中)の話題が出てくるため、この小松楼も江戸時代からあったのではないか、と最初思ったがどうやら違うらしい。江戸時代、新居宿は関所があったこともあり、治安統制が厳しく、飯盛女のような性的サービスは置けなかった、という事情があるようだ。

 明治に入って関所が廃止され、新居でも性的サービスが解禁となり、大正時代には60~80人ほどの芸者のいる歓楽街となったようだ。

 小松楼の建物は明治末期以前のものを現在地へ移築し、何度か増改築を行っている。平成22年(2010年)から「小松楼まちづくり交流館」となり、内部を公開している。入ってみよう。

 

 1階は置屋となっている。翌日にイベントを控えていたようで、普段と内装が異なっているらしい。

 

 2階は座敷となっている。雰囲気のある部屋に雰囲気のある机が鎮座している。ここで情事が行われていたのだろうか、と想像する。

 

 オルガンが置かれていた。「ねこふんじゃった」でも弾いてみようかと思い、鍵盤を押し、ペダルを踏んでみたがあまり音が出なかった。

 

 今度はミシンが置かれていた。ダイトンミシン製造株式会社が作ったもので、この会社は昭和17年(1942年)に設立し、昭和19年(1944年)にミシン製造を廃止したようなので、この2年間に作られたものだろう。

 

 大きい座敷がこちら。小松楼に勤めていた女性の写真もあったが、ここに載せてよいものかわからないので載せないでおく。ただそのなかには美人もいた。

 

 小松楼のベランダ(?)から外を見て、小松楼をあとにした。

 

4.教恩寺

 東海道に戻り、紀伊国屋資料館から西に進むとすぐ泉町交差点で突き当たる。ここに「夢舞台東海道」の「新居宿 飯田武兵衛本陣跡」がある。

「新居宿 飯田武兵衛本陣跡」

飯田武兵衛本陣跡

 飯田本陣は、天保年間の記録によると建坪196坪で、門構え玄関を備えていたという。

 

 飯田本陣の隣には、疋田八郎兵衛本陣跡もある。

疋田八郎兵衛本陣跡

 疋田八郎兵衛本陣は新居宿に3軒あった本陣のひとつ、天保年間の記録によると建坪193坪で、門と玄関を備えていたという。

 

 泉町交差点で左折し、南に進むと寄馬跡がある。

寄馬跡

 江戸時代の宿場には公用荷物や公用旅行者のために人馬を提供する義務があり、どの宿場でも100人の人足と100匹の馬を用意しておく必要があった。

 しかし交通量が多くそれでは足りないときは助郷制度といい、近在の村々から人馬の提供を受けた。ここは寄せ集められた人馬の溜まり場となっていた場所である。

 

 寄馬跡からしばらく南に進むと新居一里塚跡がある。

新居一里塚跡

 一里塚とは、江戸の日本橋を起点として街道の両側に一里(約4km)ごとに土を盛り、その上に榎等を植えた場所だが、残念ながらここの一里塚は石碑が残るのみだ。

 

 この「旧東海道地図」という看板を目印に、少しだけクランクして県道417号線に合流する。

旧東海道地図」

 

 この小さいクランクのことを「棒鼻」という。

棒鼻跡

 ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。これを棒鼻という。

 大名行列が宿場へ入るとき、この場所で駕籠の棒先を整えたので棒鼻と呼ばれるようになったといわれている。

 

 県道417号線に出ると「夢舞台東海道」の「橋本 新居宿加宿」がある。

「橋本 新居宿加宿」

 

 橋本交差点をそのまま南に進むと、諏訪上下神社がある。

諏訪上下神社

 諏訪上下神社は残されている棟札などによると、諏訪山にあった上諏訪社を現在地の下諏訪社に合祀したものと考えられている。

 

 橋本交差点に戻り、西に進む。橋本西交差点で旧道に入るのだが、そこに教恩寺がある。

教恩寺

 教恩寺は正安2年(1300年)の創立といわれている。

 文明年中(1469~1486年)に、鎌倉公方足利持氏から寺領を与えられたが、天正年中(1573~1591年)に火災に遭って焼失してしまった。

 その後、徳川家光から慶安元年(1648年)に朱印地を与えられ、明治維新まで叙位任官色衣勅許の寺格を持っていたという。

 現在の本堂は応賀寺の下寺だった堂宇を明治6年(1873年)に移築したもの。

 

5.紅葉寺跡

 橋本西交差点から旧道に入り、しばらく進むと松並木が見えてくる。

 

 松並木に「夢舞台東海道」の「湖西市紅葉寺跡」があり、その近くに「紅葉寺跡」がある。そして画質が荒いのは地元の人が近くにいたことと、近くをクマバチが飛んでいて危うく刺されそうになり、あまり近くに寄ることができなかったからだ。

湖西市紅葉寺跡」

紅葉寺跡

 紅葉寺はもともと紅葉山本学寺という曹洞宗の寺で、地蔵菩薩を本尊として祀り、白須賀にある蔵法寺の末寺だった。

 明治期の記録によると、源頼経がこの地の長者の家に滞在したときに頼経の世話をした長者の娘が、後に鎌倉に召し寄せられ、頼経の死後ここに戻って出家、頼経の菩提を弔うために正嘉2年(1258年)に建立した寺といわれている。

 

 少し進むと、水準点がある。二等水準点第2918-1号だ。

二等水準点第2918-1号

 この水準点は平成15年(2003年)に設置された金属標型の水準点で比較的新しいが、「水準点」のマンホールの下にあり確認できなかった。

 

 さらに進むと「松山団地」というシャレた団地を見つけた。ただ松山団地の前にあるバス停は平日に1日1本だけ。使う人いるのかな。

松山団地

バス停「松山」

 

 石碑を見つけた。石碑には以下のように刻まれている。

 「風わたる 濱名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟 前大納言為家」

 「わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで 阿佛尼」

 藤原為家は鎌倉中期の歌人藤原定家の次男である。朝廷に仕えていたが、定家が亡くなってからは家系と学統を継いだという。

 阿佛尼は朝廷に仕えたあと、藤原為家の継室となり、為家が亡くなった後に出家、鎌倉へ向かうときに「十六夜日記」を記した。この2人は夫婦だったから並べて書かれている、というわけか。

 

 この先道が二又に分かれるが、直進する。そこに立場跡がある。

立場跡

 立場とは旅人や人足、駕籠かきなどが休息する茶屋のことである。この立場の経営は加藤家が務めていたという。

 立場では旅人を見るとお茶を勧めるので、ある殿様が「立場立場と 水飲め飲めと 鮒(ふな)や金魚じゃ あるまいに」という戯歌(ざれうた)を読んだという話が残っている。ただ、水分補給は大切だと思うのだが…。

 

6.白須賀宿

 少し進むと東新寺がある。

東新寺

 東新寺はかつては大倉戸の一後坂というところに建立されたが、大破したため寛永元年(1624年)に現在地に境内を移した。

 慶安4年(1651年)に東福寺三世春岳智栄和尚を開山として請待し、真言宗から臨済宗へと宗派を変更した。

 享保11年(1726年)に火災により堂宇等を焼失、宝暦12年(1762年)に再建した。観音堂等はこのときの再建だが、本堂は昭和12年(1937年)の再建である。

 

 東海道に戻ると、ずいぶん新しい秋葉灯籠を見つけた。

秋葉灯籠

 「明治天皇御野立所址」をみつけた。

明治天皇御野立所址」

 明治元年(1868年)9月20日岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が10月1日、豊橋から新居へ向かうときに休憩した場所である。

 

 旧新居町のデザインマンホールを見つけたが、まんなかの市章が湖西市のものとなっている。これは初めて見た。

 

 都市計画道路の下をくぐって進むと、火鎮神社がある。

火鎮神社

 火鎮神社は徳川家康が負け戦で匿われた場所。そんな場所で祭神に祀りあげられているから不思議である。宝永地震津波でも流されなかったらしい。

 徳川家康のほかに祀られている火之迦具土神は火を護る神で、秋葉神社の祭神にもなっている。

 

 火鎮神社の前に「夢舞台東海道」の「白須賀宿 火鎮神社」があり、白須賀宿マップもある。白須賀宿に入ったのだ。

白須賀宿 火鎮神社」

白須賀宿マップ

 

7.潮見坂

 白須賀宿に入ってすぐ、キャベツ畑が広がっている一角があった。「ホントに歩く東海道 第9集」に「キャベツいっぱい」と書かれていたので本当か?と思っていたら本当に「キャベツいっぱい」で笑ってしまった。

 最近お金がないので用事のない休日にごはんをたくさん作り、冷凍することをやっているのだが、その定番メニューに回鍋肉がある。

 キャベツとピーマンと豚バラ肉を一口大に切り、炒めたらソースと炒め合わせるだけでできる簡単料理である。簡単でたくさん作れて栄養バランスも良いのでよく作っている。

 回鍋肉4食分作るのにキャベツを半玉使っているのだが、これだけキャベツがあればどれくらい回鍋肉が作れるだろうか…そんなことを考えてしまった。

 

 キャベツ畑を抜けると内宮神明神社がある。

内宮神明神社

 内宮神明神社の創立年代は不明だが、昔から里の人は「内宮」と呼んでいたそうだ。

 神明神社の本源は伊勢神宮である。

 そういえばこの日、両親が伊勢神宮内宮に参拝していたそうなので、同じ神様を拝んでいたかもしれない。

 

 内宮神明神社から先に進むと蔵法寺がある。

蔵法寺

 蔵法寺の前身となる寺は延暦9年(790年)頃建てられ、慶長3年(1598年)に曹洞宗に改宗された。

 天文16年(1547年)徳川家康が今川氏の人質として駿府に護送されたとき、蔵法寺に泊まったことがあったという。

 このことから徳川家の小休憩所として使われるようになり、慶長8年(1603年)に徳川家康から朱印地23石を受けたという。家康としては幼少期の嫌な思い出の地のはずなのにそこまでよくするとは、流石大物である。

 蔵法寺には潮見観音像がある。山上から遠州灘の潮を見ることから、この名がつけられたという。

 海上安全を願う漁民の習わしとして、遠州灘を行き交う船は帆を下げ観音様の名前を念じて蔵法寺の前の海を通り過ぎていた。このことから「帆下げ観音」とも呼ばれていたようだ。

 

 「夢舞台東海道」の「湖西市白須賀宿 潮見坂下」の案内板のところで右折して、潮見坂に入っていく。

湖西市白須賀宿 潮見坂下」

潮見坂

 この坂を登ると眼下に滔々と広がる太平洋を見渡すことができることから、「潮見坂」と名づけられた。天気の良い日はここから富士山も見えるようだ。

 京都から江戸方面へ向かう人は、ここで初めて太平洋と富士山を見て感激する。

 室町幕府第6代将軍の足利義教駿府へ向かう途中、ここで富士山を見てこう歌った。

 「今ぞはや 願ひみちぬる 潮見坂 心ひかれし 富士をながめて」

 古来旅人はここで足をとめ、景色を見て、歌や紀行文を残したという。

 

 ただ、今登っているところは坂の途中でまだ海は見えない。アスファルト舗装なのが箱根等と比べてまだ良いが、登っていると息遣いが荒くなってくる。とりあえず暑い時期に来なくてよかったと思う。

 

 「潮見坂」の説明板のあるところでふと後ろを振り向くと、歌川広重の「東海道五拾三次 白須賀」そのままの風景が広がっていた。これは和歌を詠みたくなる気持ちもわかる。

「潮見坂」

東海道五拾三次 白須賀」

8.おんやど白須賀

 潮見坂を登り切ったところに「おんやど白須賀」がある。

おんやど白須賀

 おんやど白須賀は東海道宿駅開設400年を記念して設置された施設である。

 白須賀宿は、遠江国の西端の宿場町で、江戸から数えて32番目の宿場町である。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒の宿場町だった。

 

 おんやど白須賀で撮影をしてもよいか、施設の人に聞いてみたら「個人が楽しむ範囲なら撮影OKです」と言われたので、撮影はしたがブログには載せないでおく。

 

 長谷元屋敷遺跡は白須賀宿の西側の海浜に位置しており、戦国時代・江戸時代の建物跡が発見され、数多くの日常生活具が出土した。展示されていた出土品は煮炊きに使われた貝類や、寛永通宝、煙管などである。

 長谷元屋敷遺跡等の発掘をしていると、宝永4年(1707年)の大津波が来る前は白須賀に住む人は海浜で生活を営んでいたことがわかる。しかし大津波が来て全家屋が浸水、住人も裏山に登った人だけが生き残った、という事態を経て潮見坂の上に白須賀宿自体が移動した、と書かれていた。東日本大震災津波の映像をテレビで見たことがあるからわかるのだが、津波は人々の生活を一変させてしまうのだ。

 

 白須賀宿の文化人の紹介コーナーもあった。夏目甕麿(なつめみかまろ)(国学者)、柴田虚白(しばたこはく)(俳人)、跡見玄山(あとみげんざん)(医師)などが紹介されていた。

 「鈴屋大人都日記(すずのやうしみやこにっき)」が展示されていた。これは本居宣長の上京に同行した石塚龍麿宣長の旅程をまとめた日記で、これを出版したのが夏目甕麿だった。

 

 白須賀宿の西端に境宿村という白須賀宿の加宿だった村があるのだが、そこに猿ヶ馬場(さるがばんば)という場所があった。そこに茶屋があり、柏餅が売っていたという。

 餅は上新粉を原料とし、小判型にして、兎餅のように中央を窪ませ、そこにあんをのせ、木の葉で包んだものだったという。

 一時は美味しくて東海道で名高い餅だったそうだが、幕末頃には品質が落ちたのか、ある旅人は街道一まずい名物と記している、と書かれていた。

 私はその話を知っていた。それは「東海道五十三次ハンドブック」で紹介されていた土御門泰邦郷が記した「東行話説」でこの話題が出ていたからだ。その部分を紹介しよう。

 柏餅はよきものなり。一ツ賞翫すべしと取寄せ見れば、言語道断の不届千万なる物にて、何をもてか柏餅といはん姿なるべき。もしは榧の実などにてこしらへたる故、かくは名付けたるかと、一ツ喰うて見れば、南無三さにあらず。ただざくざくとして糠をかむがごとく、嗅み(くさみ)ありて胸わろく、ゑづきの気味頼りなれば、奇応丸を取出し嚙みて、湯を呑み、やうやう助かりぬ。

 「ざくざくとして糠を噛むような食感」「臭くて胸やけがしてゑづき(吐き気)がした」…ひどい評判である。この話を読んだときあまりに面白かったので友人に話してみたら「その柏餅、腐ってたんじゃないの?」と言われ、なるほどとなった。

 今ほど衛生観念のある時代じゃないので、旅行中にお腹を壊すこともしばしばあったという。

 ただ、「デスマフィン」事件は記憶に新しい。ちょうどこの日に開催していたデザインフェスタというイベントに出店していた焼き菓子店で、食中毒が発生したということである。栗の入ったマフィンは、栗から糸を引いていたことから「糸引きマフィン」「納豆マフィン」と揶揄された。実際食べた人のなかには嘔吐した人もいたという。

 おそらくこの土御門泰邦郷が食べた柏餅は腐っていたのだろう。実際吐きかけたと書かれているわけだし。現在は江戸時代と比べ減ったとは思うが、それでも食中毒に遭うリスクはあるので、気を付けたいところである。

 

 潮見坂には「豆石」という話が伝わっているという。

 あるとき、わがままなお姫様が江戸から京への旅に出た。

 お姫様は東海道の道中で疲れては駄々をこねてお供の者を困らせたという。

 お供の者はその都度お姫様をなだめていたが、潮見坂に入るとついにお姫様は動こうとしなくなった。

 そこでお供の者はこう言った。「この潮見坂には豆石という石があり、拾った人は幸福になれると伝えられています。お姫様も探してみてはいかがでしょうか。」

 お姫様は「豆石を拾って幸せになりたい」と言い、潮見坂を登ったという。

 その後、潮見坂にさしかかると駕籠かきは、客にこの豆石の話をして、坂上まで歩くことを勧めるようになったようだ。

 豆石、どんな石だったのか気になるが、その情報が一切ないので探すのも難しそうだ。

 

 

 なお、おんやど白須賀では白須賀宿の御宿場印を配布しているので、入手した。

白須賀宿

 そして、おんやど白須賀前にバス停があるのだが、そのバスが平日限定、1日3本しかない。これが「白須賀宿には駅も(休日運行している)バス停もない」という話である。

「おんやど白須賀」バス停

9.潮見坂公園跡

 おんやど白須賀から少し進むと、「夢舞台東海道」の「湖西市白須賀宿 潮見坂公園跡」がある。

湖西市白須賀宿 潮見坂公園跡」

 潮見坂公園跡には「明治天皇御遺蹟地記念碑」と「明治天皇御遺蹟之碑」がある。

明治天皇御遺蹟地記念碑」

明治天皇御遺蹟之碑」

 天正10年(1582年)、織田信長武田勝頼を滅ぼして尾張に帰るとき、徳川家康が茶亭を新築して、信長をもてなしたのが潮見坂上だったといわれている。

 明治元年(1868年)10月1日、明治天皇が東京へ行幸するときに東海道を通り、初めて太平洋を見た場所がここ、潮見坂だった。これを記念して公園も造られた。初めて太平洋を見たとき、明治天皇はどのような気持ちだったのだろう。

 大正14年(1925年)4月に明治天皇御遺蹟地記念碑が建てられた。

 

 潮見坂公園跡には小さな展望台があり、そこから太平洋を望むことができる。

 私は海を見るのは初めてではないので明治天皇が初めて海を見たときと同じ感動は味わえなかったかもしれないが、それでも綺麗だな、としばし見とれた。

 

 白須賀宿を歩く。駅のない宿場は行くのは不便だが、それでも趣のある宿場が多いな、などと考える。

 

 「鷲津駅」と書かれた青看板と、少し進むと「鷲津停車場往還」と書かれた石碑を見つけた。ここから鷲津駅は近かったかな?と思いGoogleMapで検索してみたが、徒歩1時間以上かかり、全然近くない。

鷲津駅

「鷲津停車場往還」

 そのまま進むと、クランクが現れる。曲尺手(かねんて)だ。

曲尺

 曲尺手とは直角に曲げられた道のことで、宿場の出入口などに造られた。

 敵の侵入を阻む軍事的な役割を持つほか、参勤交代の際に大名行列同士が道中かち合わないようにする役割も持っていた。

 江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りて格式の高い大名に挨拶するしきたりだった。

 しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列の指揮者「供頭(ともがしら)」にとっては一番の失態である。

 そこで、斥候(せっこう)と呼ばれる下見役が曲尺手の先を下見し、行列がかち合いそうなときは、格式の低いほうの大名一行は休憩のふりをして最寄りのお寺に立ち寄ったという。

 

10.静岡県の終わり

 白須賀宿の大村本陣跡を見つけた。

大村本陣跡

 ここは本陣の大村庄左衛門家跡で、元治元年(1864年)の記録には、建坪183坪、畳敷231畳、板敷51畳とある。

 この本陣は明治元年(1868年)の行幸と還幸、明治2年(1869年)の再幸のときに明治天皇が休憩した場所でもある。

 

 脇本陣跡も見つけたが、特に説明はなし。

脇本陣

 「夢舞台東海道」の「湖西市白須賀宿 問屋場跡」を見つけた。

湖西市白須賀宿 問屋場跡」

 

 白須賀交番前交差点をすぎると、夏目甕麿(なつめみかまろ)邸址・加納諸平生誕地がある。

夏目甕麿邸址・加納諸平生誕地

 夏目甕麿は白須賀宿の名主で酒造業を営む家に生まれた。

 国学者の内山真龍(うちやままたつ)、本居宣長本居春庭に入門し、石塚龍麿(いしづかたつまろ)、竹村尚規(たけむらなおのり)、高須元尚(たかすもとなお)、飯田昌秀(いいだまさひで)、鱸有鷹(すずきありたか)らと交流があった。

 主な著作は「古野の若菜」、そのほか賀茂真淵の「萬葉集遠江歌考」、石塚龍麿の「鈴屋大人都日記」などを出版した。

 加納諸平は甕麿の長男で、本居大平国学を学び、紀州藩国学所総裁となった。

 

 夏目甕麿邸址・加納諸平生誕地を過ぎると、大きなマキの木がある。

 白須賀宿が宝永5年(1708年)に潮見坂の下から坂上に移ったのは津波被害を受けて、というのは前述した。

 宿場の移転以降津波の心配はなくなったものの、今度は冬季の西風によって火災が発生し、たびたび大火となって宿場を襲った。

 そこで、この火事を食い止めるために土の壁が築かれ、その壁の上に火に強いマキの木が植えられた。これが火除地と火防樹である。

 かつては白須賀宿の3ヶ所に火除地があったが、現在はここしか現存していない。

 秋葉信仰しかり、今より消防技術が発達していなかった時代なので、現代よりも火災への備えを熱心に行っていることが伝わってくる。

 

 火除地と火防樹から先に進むと、「夢舞台東海道」の「湖西市境宿(白須賀宿加宿)」がある。

湖西市境宿(白須賀宿加宿)」

 加宿とは人家が少なく人馬が出しにくい宿駅で隣接する村を加えることで人馬の用を行わせたものである。「境宿」という名前は、遠江国三河国の国境が近いのでその名がついたのだろう。

 

 「夢舞台東海道」の向かい側に、成林寺がある。

成林寺

 成林寺は法華宗陣門流の寺院で、天正5年(1577年)に日遠によって開山した。

 

 成林寺からそのまま進むと県道173号線に合流するが、そこの丘の上に笠子神社がある。

笠子神社

 笠子神社は太古より笠子大明神と称し白菅帯の港の西岸に鎮座していたが、高波や津波などで2度移転し、現在地に移ったのは元和2年(1616年)である。

 

 笠子神社を出て、一瞬旧道に入ってまた県道173号線に出る。

 

 境川という小さい川を渡ると、「愛知県豊橋市」というカントリーサインが目に入る。

境川

「愛知県豊橋市

 ついに、ついに長い静岡県が終わったのである。

 「東海道を歩く」では「東海道を歩く 10.箱根神社入口バス停~三島広小路駅」の4.箱根峠 で箱根峠を越えてから、取材期間にして1年半もの期間静岡県を歩き続けていた。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 ついに、静岡県が終わったのか…!と感慨に耽った。

 …1つだけ残念な点を言うならば、静岡県側のカントリーサインがなかったのが、少し惜しかった。

 

11.愛知県に入る

 そのまま進み、一里山東交差点を右折して国道1号線を北上する。

 少し進むと、右手側に鬱蒼とした小山が見えてくる。一里山の一里塚だ。

里山の一里塚

 一里塚とは36町を1里とした里程標である。1里はkmに換算すると約4km。

 江戸時代はそれぞれの藩が一里塚を保護していたが、明治以降は放置され、多くの一里塚が滅失した。一里山の一里塚も左右1基ずつあったが、南側のものは大正期に滅失した。現代まで残っているものは稀なので、この一里塚は豊橋市指定史跡となっている。なお、この一里山の一里塚は江戸から数えて71里目のものである。

 

 ここから二川宿に入るまでの約4kmの間はあまり見るものがなく、ひたすら考え事をしつつ早足で歩いた。

 

 愛知県でもキャベツ栽培は盛んだ。回鍋肉のことを考える。

 

 コオロギを販売している店を見つけた。何に使うんだろう…?と考え、調べたところトカゲ等のペットのエサになるらしい。

 

 豊橋市章が描かれた消火栓を見つけた。

 豊橋市章は「千切」のマークである。

 このマークは江戸時代に吉田藩(現在の豊橋市)の藩主、松平大河内家の馬印「千切小御馬印」に由来しており、この馬印を真横から見てデザインしたのが現在の豊橋市章である。制定されたのは明治42年(1909年)で、ずいぶん昔から使われている。

 

 愛知県章の空気弁も見つけた。

 愛知県章は昭和25年(1950年)に制定された。

 このマークは「あいち」の文字を図案化し、太平洋に面した県の海外発展性を印象づけ、希望に満ちた旭日波頭を表しているようだ。

 

 Cut House ROUTE1。国道1号線沿いにあるからROUTE1なのか。

Cut House ROUTE1

 二川ガード南交差点で国道1号に別れを告げ、旧道に入る。

 

12.駒屋

 旧道に入るとすぐ、豊橋市のデザインマンホールを見つけた。

 このマンホールは豊橋市制90周年を記念して平成8年(1996年)に製作したデザインマンホールである。

 豊橋市が世界に誇る国際貿易港「三河港」を中心に、人・緑・港・街をデザインしたとのこと。

 

 二川の一里塚跡を見つけた。

二川の一里塚跡

 「東海道 二川宿案内所」があったが、閉まっていた。

東海道 二川宿案内所」

 そのまま進むと、右手側に妙泉寺がある。

妙泉寺

 妙泉寺は日蓮宗の寺院で、前身は貞和年間(1345~1350年)に日台上人が建てた小庵だった。

 その後、衰微していたのを寛永から明暦頃(1624~1658年)に日意上人が信徒の助力を得て再興し、信龍山妙泉寺と改称、万治3年(1660年)には現在地に移転、山号を延龍山と改めた。

 妙泉寺に所蔵されている鰐口は永享5年(1433年)に造られ、半面が慶長2年(1597年)に再鋳された珍しいもので、豊橋市有形文化財に指定されている。

 境内には寛政10年(1798年)に建立された芭蕉句碑である紫陽花塚もある。

 

 妙泉寺の少し先に、二川八幡神社がある。

二川八幡神社

 社伝によれば、永仁3年(1195年)に鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請したのが創立と伝えられる。

 境内にある秋葉山常夜燈は、かつて二川新橋町の街道桝形南にあったもので、文化6年(1809年)に建立されたものである。三河国(愛知県)にも秋葉信仰は広がっていたのだ。

秋葉山常夜燈

 二川八幡神社の少し先に、駒屋がある。入ってみよう。

駒屋

 駒屋は豊橋市内に数少ない江戸時代の建造物で、当時の商家の一般的な形式をよく残していることから、平成15年(2003年)に豊橋市指定有形文化財となった。

 商家「駒屋」とは、二川宿で商家を営むかたわら、問屋役や名主などを務めた田村家の遺構である。

 

 東海道に面している「主屋」のなかはこんな感じになっている。

 主屋の建築年代は文化11年(1814年)、安政2年(1855年)に修繕が加えられている。

 「駒屋」では「鈴木愛 デザイン書道教室作品展」がやっていたが、作品を撮影してよいものかわからなかったので作品は載せないでおく。

 

 ほかの建物とは渡り廊下で接続しており、この廊下は大正2年(1913年)に建てられた。

渡り廊下

 離れに茶室がある。茶室は明治17年(1884年)に建てられたもので、田村家9代当主善蔵によって建てられた。善蔵は茶道を学んでいたようだ。

茶室

 こちらは南土蔵。南土蔵が建てられたのは安永3年(1774年)または天明元年(1781年)。駒屋の建築物のなかでは古めである。

南土蔵

 中土蔵は安政3年(1856年)に建てられた。現在は菓子・雑貨を売る「ふたこまや」というお店が入っている。

中土蔵

 北土蔵は大正期に建てられた。現在は蔵カフェ「こまや」というお店が入っているが、閉店していた。

北土蔵

 北倉は嘉永3年(1850年)に建てられた。内部は非公開。

北倉

 また、駒屋では二川宿の御宿場印も販売しており、購入した。

 ここで二川宿について簡単に紹介する。

 二川宿は、東海道五十三次で江戸から33番目の宿場で、町並みは12町26間(約1.4km)あった。

 天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」には、二川宿の人口は1,468人、家数は328軒、うち本陣・脇本陣が各1軒、旅籠屋が38軒あったと記されている。

 

13.二川町道路元標

 駒屋をあとにすると、脇本陣跡を見つけた。

脇本陣

 脇本陣は本陣の利用が重なった場合、その補助的な役割を果たした。その格式は本陣に次ぐものであり、本陣と同様に、その経営は宿場の有力者があたり、二川宿の脇本陣は松坂家がつとめていた。

 

 二川宿本陣資料館の脇を通り過ぎる。

二川宿本陣資料館

 なんと、二川宿では本陣が現存しており、現在、本陣が残っている東海道の宿場は二川宿と草津宿のみである。

 二川宿の目玉施設であり、行きたいのはやまやまなのだが…閉館35分前、入場終了5分前だったので明日行くことにした。なので、次回の「東海道を歩く」で取り上げるつもりである。お楽しみに!

 

 二川宿本陣資料館の道を挟んで反対側には西駒屋がある。

西駒屋

 西駒屋は「駒屋」から分家した東駒屋からさらに分家し、明治42年(1909年)に味噌・醤油の醸造業を創業した。この建物は明治時代後期に建築されたもの。

 

 中原屋菓子店の前に、秋葉山常夜燈、高札場跡、二川町道路元標がある。

秋葉山常夜燈

高札場跡・二川町道路元標

 

 道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では全国で2,000基程度しか残っていない。

 ただ、国道901号さんが主宰するサイト「道路元標が行く」では、愛知県は全国的に見てもかなり道路元標が残っている都道府県である。愛知県内には115基もの道路元標が残っているので、今後の東海道ウォークで出会うのが楽しみである。

 道路元標のおもしろさのひとつとして、「なぜここに道路元標が設置されたのか」を考察することがあるのだが、今回の場合は高札場の前で、ここが二川町の中心だったから設置された、と考えてよいだろう。

 

14.二川駅

 豊橋市のデザイン消火栓を見つけた。豊橋市が発祥の地とされる手筒花火が描かれている。

 

 東海道を西に進んでいると大きい鳥居が見えたので寄ってみる。大岩神明宮だ。

大岩神明宮

 社伝によれば文武天皇2年(698年)に創建され、現在地に移ったのは正保元年(1644年)である。

 江戸時代には黒印地2石を受けた格式の高い神社で、現在でも大岩の氏神となっている。

 

 東海道に戻ると豊橋市のデザインマンホールを見つけた。

 このデザインマンホールも平成8年(1996年)に製作されたもので、豊橋市が発祥の地といわれる手筒花火を前面に描き、背景には市民の水源「豊川」、市の木「クスノキ」、市のシンボル「吉田城」をデザインしたもの。

 

 東海道を歩いているとまた右手側に大きな鳥居が見えたので寄ってみた。二川伏見稲荷である。

二川伏見稲荷

 明治43年(1910年)11月に京都の伏見稲荷大社から分霊を勧請し、創始された神社である。かなり新しめの神社である。

 社務所を覗いてみると、もう閉まっていた。明日、二川宿本陣資料館に向かうときの通り道なので、また寄ってみることにする。

 

 二川伏見稲荷から東海道に戻り、そのまま西に進むと二川駅に到着する。今日の東海道ウォークはここで終了とする。

二川駅

 次回は二川駅から札木停留場まで歩く。

【おまけ】

 今回宿を取っていたのは鷲津(湖西市)だが、ここまで来たら食べたいものがある。

 さわやかである。

 「またさわやか食べるのか」と思った人もいたかもしれないが、前回食べたのは8月、今日は11月。私はさわやかに飢えている。

 遠鉄百貨店のさわやかに向かい、整理券を発行。たまたま「げんこつおにぎりフェア」をやっていたので、なんと3時間待ちだった。一瞬面食らったが、スタバでのんびり待つことにする。

 今回、スタバで頼んだのはストロベリーメリークリームフラペチーノ。いちごとホワイトチョコレートマスカルポーネの風味が絶妙で美味しかった。

ストロベリーメリークリームフラペチーノ

 時間になったので、さわやかに向かう。せっかくなので、「げんこつ倶楽部」というフェア限定メニューを頼む。これは、げんこつハンバーグにドリンクと野菜スープ、ライスorパンがつくセットである。

 まずドリンクが運ばれてきた。

 店員さんが「カンパイしてもよろしいでしょうか?」と聞くので、一瞬面食らいつつも「あ、はい」と答える。「カンパイの挨拶はどうしましょうか?」と聞かれたので、一瞬迷ってから「今日もお疲れさまでした」で、と答える。「今日もお疲れさまでした、カンパーイ!」という店員さんの掛け声で一緒にカンパイをする。今働いている店員さんのほうがお疲れ様であり、私はただ一日遊んでいただけなのになぁ、と思う。

 ちなみにこのカンパイの儀式、同行者がいる場合は同行者とカンパイするらしい。

 

 野菜スープを飲みながらハンバーグの登場を待つ。

 

 店員さんが熱々の鉄板の上に置いたげんこつハンバーグを持ってきた。私の前でハンバーグを2つに切り、鉄板に押し付けて焼き、オニオンソースをかけた。

 店員さんが去ってから、ハンバーグの写真を撮り、まだジュージュー言ってるところを一口大に切って頬張る。

 うまい。

 うますぎる。

 何度だって食べたくなるハンバーグ、それがさわやか。

 

 さわやかはデザートも美味しいことを忘れてはならない。

 今回頼んだのはシャインマスカットパフェ。

シャインマスカットパフェ

 私はぶどうも好きなので、美味しくいただいた。

 さわやかの余韻に浸りながら、鷲津の宿へ向かう。このとき21時を過ぎていたが、それでも「食べに来てよかった」と思った。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

歩いた日:2023年11月11日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

小杉達(1992) 「東海道歴史散歩」 静岡新聞社

静岡県日本史教育研究会(2006) 「静岡県の歴史散歩」 山川出版社

森川昭(2014) 「東海道五十三次ハンドブック」 三省堂

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第9集」

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

新居関跡

https://www.city.kosai.shizuoka.jp/material/files/group/22/sekisyo6.pdf

湖西市 小松楼まちづくり交流館

https://www.city.kosai.shizuoka.jp/soshikiichiran/kanko/spot/8959.html

湖西・新居観光協会 諏訪上下神社

https://hamanako-kosai.jp/location/1481/

湖西・新居観光協会 教恩寺

https://hamanako-kosai.jp/location/1166/

湖西・新居観光協会 本学寺(紅葉寺)

https://hamanako-kosai.jp/location/1241/

湖西・新居観光協会 東新寺

https://hamanako-kosai.jp/location/1226/

湖西・新居観光協会 火鎮神社

https://hamanako-kosai.jp/location/1392/

湖西・新居観光協会 内宮神明神社

https://hamanako-kosai.jp/location/1505/

湖西・新居観光協会 蔵法寺

https://hamanako-kosai.jp/location/1207/

湖西・新居観光協会 おんやど白須賀

https://hamanako-kosai.jp/location/448/

湖西・新居観光協会 成林寺

https://hamanako-kosai.jp/location/1193/

湖西・新居観光協会 笠子神社

https://hamanako-kosai.jp/location/1403/

豊橋市 豊橋市の正式な市章はどのようなものなのでしょうか?

https://www.city.toyohashi.lg.jp/10696.htm

愛知県 県章・県民歌

https://www.pref.aichi.jp/soshiki/koho/0000063744.html

豊橋市上下水道局 マンホールカード

https://www.city.toyohashi.lg.jp/30054.htm#hune

商家「駒屋」

http://komaya.futagawa.org/

国道901号 道路元標が行く。

http://901.st/901dg/

ええじゃないか豊橋 二川伏見稲荷

https://www.honokuni.or.jp/toyohashi/spot/000064.html

(2023年11月29日最終閲覧)

江戸三十三観音をめぐる 5.文京区編

 前回、江戸三十三観音第7番札所の心城院と第8番札所の清林寺に参拝しながら湯島・向丘周辺を巡った。今回は第9番札所の定泉寺、第10番札所浄心寺、第11番札所圓乗寺、第12番札所伝通院、第13番札所護国寺に参拝しながら文京区内をぶらぶらしようと思う。

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1.定泉寺

 12時半頃、都営三田線白山駅に降り立った。ここから定泉寺を目指す。

白山駅

 白山駅から北東方向に進む。本駒込駅の近くに「駒込土物店跡」という石碑を見つけた。

駒込土物店跡

 駒込土物店跡は江戸三大市場のひとつで、幕府の御用市場だった。

 起源は、元和年間(1615~1624年)といわれている。初めは、近郊の農民が野菜をかついで江戸に出る途中、天英寺の境内にあった「さいかちの木」で毎日休んでいた。そこに付近の人々が野菜を求めて集まったのが起源といわれている。

 ここでは大根、人参、牛蒡など土のついた野菜が取引されたので「土物店」と呼ばれていたようだ。

 正式名称は「駒込青物市場」で、昭和4年(1929年)に「駒込青果市場」と改称した。

 このあたりに点在していた問屋は明治34年(1901年)に高林寺境内に集結したが、昭和12年(1937年)に豊島区へ移転、現在は巣鴨にある豊島青果市場となっている。

 

 駒込土物店跡から少し先に進むと、定泉寺がある。

定泉寺

 定泉寺は元和7年(1621年)に開山された浄土宗の寺院である。

 元和7年(1621年)、本郷弓町にあった「太田道灌の矢場跡」を蜂屋九郎次郎善遠が拝領して堂宇を建て、随波上人を開山に迎え、東光山見性院定泉寺と名づけられた。現在地に移転したのは明暦の大火後である。

 定泉寺のチャイムを鳴らし、御朱印を待っている間に本堂に上がり参拝した。御本尊は阿弥陀如来で、江戸三十三観音である十一面観世音は御本尊の右側におられた。

 御朱印とともに、瓦せんべいをいただいた。

 

2.浄心寺

 第10番札所の浄心寺に行く前に、目赤不動尊に寄る。

目赤不動尊

 この不動尊は、もとは赤目不動尊と言われていた。

 元和年間(1615~1624年)、万行和尚が伊賀国の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国をめぐり動坂(現在の文京区本駒込)に庵を結んだ。

 寛永年間(1624~1644年)、鷹狩りの途中、この赤目不動尊に立ち寄った徳川家光から現在の土地を賜り、「目赤不動尊とせよ」と命じられたので、現在地に移った。なぜ徳川家光が赤目不動尊ではだめで、目赤不動尊とするよう指示したのかはわからない。

 江戸には目赤不動尊目白不動尊目黄不動尊目青不動尊目黒不動尊があり、五色不動と呼ばれていた。なんだか戦隊ものっぽい。ちなみに目白不動尊のある金乗院は江戸三十三観音第14番札所なので訪問予定だ。

 目赤不動尊でも御朱印をいただいた。

 

 来た道を引き返し、そのまま都道455号線を南東に進むと左手側に浄心寺がある。

浄心寺

 浄心寺は元和2年(1612年)に開山した浄土宗の寺院である。

 元和2年(1612年)、畔柳助九郎(くろやなぎすけくろう)が大旦那となり、文喬和尚を開山とし、湯島妻恋坂付近に創建された。

 その後、八百屋お七の振袖火事として知られる江戸の大火により焼失し、現在地に移転した。

 御本尊は阿弥陀如来、江戸三十三観音の観音様は「子育て桜観音」とも呼ばれている十一面観世音菩薩である。

 御朱印をいただきに行くと、寺の方から「うちには大きな木魚があって、テレビでも紹介されたことがあるのですよ」と言われたので、御朱印をいただいてから寺のなかをのぞき込むと確かに大きな木魚があった。

 

 窓越しにしか見えず、写真を上げてよいものなのかわからないのでリンクを貼っておく。

sgttx-sp.mobile.tv-tokyo.co.jp

  この木魚は日本一大きいと言われ、重さは500kgあるようだ。2~3人で棒を持って叩く。どんな音がするのか気になるので叩いている場面を見てみたい。ほかにも巨大なお鈴などもあるようだ。

 どうやら先代の住職が大きいものを集めるのが好きだったようで、大きいものがたくさん揃っているらしい。

 

3.圓乗寺

 浄心寺から来た道を戻り、都道455号線を北西に進む。向丘2丁目交差点を左折、白山上交差点を左折して南東に進む。途中で大円寺が見える。

大円寺

 大円寺も江戸三十三観音の札所で、第23番札所なのだが、今回はパスする。ちなみに第20番札所から第29番札所は港区の札所が続いており、ここだけ文京区の寺院が指定されている理由はよくわからない。

 白山一丁目の交差点を右折し、少し坂を下りると右手側に圓乗寺がある。

圓乗寺

 圓乗寺は、圓栄(えんえい)法印が天正9年(1581年)に密蔵院として創建したのが始まりである。

 元和6年(1631年)に寶仙(ほうせん)法師が圓乗寺と寺号を改めた。明暦3年(1653年)に現在地に移転した。

 御本尊は釈迦牟尼如来で、江戸三十三観音に指定されている観音様は聖観世音菩薩である。

 圓乗寺には八百屋お七の墓がある。

八百屋お七の墓

 八百屋お七の墓は3基建っていて、中央が八百屋お七の墓で、右側の墓は113回忌、左側の墓は270回忌に建てられた供養塔のようだ。

 天和2年(1682年)、江戸で大火がありお七の家も焼けてしまい、一家は圓乗寺に仮住まいをすることになる。

 そこで仮住まい先の圓乗寺の寺小姓、山田佐兵衛とお七は恋仲になってしまった。

 しかし家が再建したため、お七一家は圓乗寺を引き上げたところ、お七は佐兵衛に逢えなくなってしまい、お七は悲しんだ。

 そこでお七は佐兵衛と逢いたいがために、放火をしてしまった。

 天和3年(1683年)3月、放火の罪で、お七は火刑に処された。

 この事件は小説・歌舞伎・浄瑠璃などの題材となり、広く知れ渡ることになった。

 

 このとき、お七はまだ16歳であったという。まだ若いが故にその行動がどのような結果を引き起こすのか、考えが及ばなかったのであろう。お七の冥福を祈った。

 

 八百屋お七の墓に手を合わせてから、御朱印をいただいた。圓乗寺の寺務所を入ってすぐのところに聖観世音菩薩も祀られており、そちらにも手を合わせた。

 

4.沢蔵司稲荷

 圓乗寺をあとにして、白山下交差点まで坂を下り、左折して都道301号線を南に進む。

 しばらく進むとまいばすけっと西片1丁目店の脇に、樋口一葉終焉の地の碑を見つける。

樋口一葉終焉の地

 樋口一葉は小説家である。小説家というより、「5000円札の人」という印象のほうが大きいかもしれない。

 明治5年(1872年)4月に本郷6丁目5番地で樋口一葉は生まれた。明治14年(1881年)7月に下谷区(現在の台東区)御徒町へ転居した。

 明治19年(1886年)に小石川区(現在の文京区)水道町にあった「萩の舎」に入塾した。

 明治23年(1890年)9月、芝区(現在の港区)から本郷区(現在の文京区)菊坂町70番地に転居し、明治26年(1893年)7月、下谷区竜泉寺町へ移転するまで住んでいた。

 明治27年(1894年)5月1日、竜泉寺町から本郷区丸山福山町4番地に転居し、明治29年(1896年)11月23日に、結核のため25歳の若さで亡くなった。

 生活苦に追われながら「にごりえ」「たけくらべ」「大つごもり」などの作品を発表したものの25歳の若さで亡くなったため、「薄幸の才媛」といわれている。

 この碑は昭和27年(1952年)8月の建立で、碑面は「一葉樋口夏子碑」と横書きされ、その下に日記の一節が縦書きで刻まれている。

 25歳の若さで亡くなったのは早すぎる。もう少し長く生きていれば、もっと名作を世に送り出すことができたのかもしれない、と思った。

 

 エルアージュ小石川のある交差点で右折し、都道436号線に出て、ダイエー小石川店のある交差点で右折、善光寺坂を登っていく。

 善光寺坂には善光寺がある。

善光寺

 善光寺は浄土宗の寺院である。善光寺於大の方の念持仏の阿弥陀如来を本尊として慶長7年(1602年)に創建された。於大の方徳川家康の生母である。

 

 善光寺の少し先には慈眼院・沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり)がある。

沢蔵司稲荷

 伝通院の学寮に、沢蔵司という修行僧がいて、わずか3年で浄土宗の奥義を極めた優秀な僧侶だった。

 元和6年(1620年)5月7日の夜、学寮長の極山和尚(ごくざんおしょう)の夢枕に沢蔵司が立ち、こう言った。

 「私(沢蔵司)は江戸城稲荷大明神です。かねてから浄土宗の勉強をしたいと思っていましたが、長年の希望を叶えることができました。今からもとの神様に戻りますが、これからも伝通院を守護して、恩に報いましょう。」

 そう言って沢蔵司は暁の雲に隠れたという。

 そこで伝通院の住職、廓山上人(かくざんしょうにん)は、沢蔵司稲荷を境内に祀り、慈眼院を別当寺とした。

 沢蔵司がまだ修行僧だった頃、よく伝通院門前の蕎麦屋によく蕎麦を食べに行っていたらしい。そして沢蔵司が来たときは売上のなかに必ず木の葉が入っていたようだ。主人は沢蔵司が稲荷大明神であったことを驚き、毎朝「お初」の蕎麦を沢蔵司稲荷に供えるようになったそうだ。古川柳に「沢蔵司 てんぷらそばが お気に入り」という句があり、沢蔵司の好物はてんぷらそばだったのかもしれない。

 また、沢蔵司稲荷の前にムクノキがあるが、ここに沢蔵司が宿っていると伝えられている。

 沢蔵司稲荷でキツネを見ることはできなかったが、猫ならいた。君が沢蔵司か?…そんなわけないか。

 

 沢蔵司稲荷前のムクノキは推定樹齢約400年と言われている。

沢蔵司稲荷前のムクノキ

 第二次世界大戦中の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、焼ける前は23mもある大樹だったそうだ。

 ただ空襲で焼けても枯れることなく、枝や葉などの生育は良好である。空襲を知る生き証人と言えるかもしれない。この木が残ったのも、沢蔵司のおかげかもしれない。

 

5.伝通院

 伝通院前に処静院跡の石柱がある。

処静院跡の石柱

 この石柱は、伝通院の塔頭のひとつで伝通院前の福聚院北側にあった処静院の前に建っていたものである。処静院は現在、廃寺となっている。

 幕末に活躍した新選組の前身である新徴組は江戸市中から応募した浪士隊で、文久3年(1863年)2月4日に処静院で発会したと記録されている。そのメンバーには清川八郎、山岡鉄舟芹沢鴨近藤勇土方歳三などがいる。

 伝通院前には「幕末の傑僧琳瑞上人」「新徴組発会の処静院跡」の説明板がある。

 幕末の傑物と称せられている琳瑞は天保元年(1831年)10月に出和国(現在の山形県)で生まれた。

 琳瑞は処静院の住職、福田行誠のもとで学んでいたが賢い人物だったため、30代で武士の間でも認められる人物となり、高橋泥沼、山岡鉄舟等は琳瑞のよき理解者だった。

 琳瑞は後部合体論を主張して水戸藩士の支持を取り付け、政治的活動をするようになった。これが仇となり、慶応3年(1867年)10月18日に刺殺されてしまったという。享年38歳。

 伝通院は幕府と関係が深い寺院だったからなのか、幕末時にはきな臭い空気が漂っていたことはなんとなく察せられた。

 

 伝通院に入ろう。

伝通院

 無量山伝通院は、浄土宗京都知恩院末の古刹である。

 「江戸名所図会」によると、寿経寺と号し、明徳年間(1390~1394年)に創建された。なお、「東京府志料」には応永22年(1415年)の創建と書かれており、どちらが正しいのかはわからない。いずれにせよ、室町時代創建というのは確からしい。

 慶長7年(1602年)、遺言によって徳川家康は生母である於大の方をここに埋葬した。於大の方法号は「伝通院殿容誉光岳智光大禅定尼(でんずういんでんようよこうがくちこうだいぜんじょうに)」という。それ以降、その法号をとって、伝通院と呼ばれるようになった。

 江戸時代の伝通院は関東十八檀林の第一とされ、本堂、方丈、開山堂、学寮など100あまりの建物が並び、栄えていたという。

 伝通院の御本尊は阿弥陀如来、江戸三十三観音に指定されている観音様は無量聖観世音である。どちらも御朱印をいただいた。

 

 伝通院には徳川家の将軍以外の家族が葬られている。一番大きいお墓は、於大の方の墓である。

於大の方の墓

 於大の方三河国刈谷城主の水野忠政の娘で、松平広忠に嫁入りして徳川家康を生んだ。慶長7年(1602年)に75歳で亡くなった。

 そもそもこの人がいなかったら家康は生まれなかったのであり、江戸幕府も、江戸のまちも生まれなかったのである。そっと手を合わせた。

 ちなみに現在(2023年)放送中の「どうする家康」では於大の方松嶋菜々子が演じている。

 

 こちらは千姫の墓。

千姫の墓

 千姫徳川秀忠の娘で、徳川家康の孫である。

 政略上、7歳で豊臣秀頼と結婚させられて大坂城にはいった。大坂落城後、桑名城主の本多忠政の子、本多忠刻と再婚するが、わずか3年で死別。その後は剃髪して天樹院と名乗った。寛文6年(1666年)に70歳で亡くなっている。波乱万丈の人生だ。

 

 こちらは孝子の墓。

孝子の墓

 孝子は3代将軍の徳川家光正室である。

 鷹司信房の娘で、元和9年(1623年)に京都から江戸に来て江戸城西の丸に入った。

 寛永2年(1625年)に家光と結婚するものの、公家出身だったため武家の生活に馴染めないまま延宝2年(1674年)に73歳で亡くなったそうだ。50年生活に馴染めないなんてこと、あるのだろうか…。

 

 そのほか、徳川将軍家の側室などのお墓が並んでいる。

 

 伝通院には徳川将軍家以外にもさまざまな人が眠っているのだが、そのひとりに沢宣嘉(さわのぶよし)がいる。

沢宣嘉の墓

 沢宣嘉は尊攘派公卿として活躍し、文久3年(1863年)8月の政変では、三条実美ら6人の公卿とともに長州へ脱走した。世にいう七卿落(しちきょうおち)の一人である。

 文久10年(1870年)、平野国臣(ひらのくにおみ)が但馬国生野で兵を挙げると、擁立されて首領となった。しかし敗退し、讃岐に潜伏した。

 明治になって、九州鎮撫総督、外国事務総督、外務卿などを歴任したが、明治6年(1873年)に39歳で亡くなった。殺されたのかと思ったが、病死らしい。

 

 伝通院をあとにして、伝通院門前にある福聚院に寄る。

福聚院

 福聚院は安永3年(1774年)に開山した浄土宗の寺院である。

 本尊は大黒天坐像で、この像は鎌倉時代に作られたものらしいが、見ることはできなかった。

 境内には「とうがらし地蔵」がある。

とうがらし地蔵

 明治の中頃、とうがらしが大好きなおばあさんがいたという。

 そのおばあさんは持病の喘息に苦しんでおり、医者からとうがらしを止められていたにも関わらず食べ続けたため亡くなってしまったという。

 そこで近所の人が憐れんで地蔵を作り、とうがらしを供えた。その後、喘息に苦しむ人がこのお地蔵さんに祈願すると喘息が治り、お礼にとうがらしを供えるようになったため、この名がついたという。

 激辛好きの人は今も一定数いるが、あまり食べすぎると味覚が麻痺して大量のとうがらしを入れても辛さを感じなくなってしまう。もしかしたらそのおばあさんもとうがらしの食べすぎで辛さを感じなくなっていたのかもしれない。

 ちなみに、私は鼻が弱く、少し辛いものを食べるとすぐ鼻水が出てしまう。ピリ辛程度ならたまに嗜むが、あまり辛いものは食べられない体なのだ。

 

6.護国寺

 伝通院から山門を出てそのまま進むと、国道254号線の伝通院前交差点に着くのでそこを右折し、北西方向に進む。しばらく歩いて、大塚三丁目交差点に着いたら左折してそのまま進むと右手側に護国寺が見えてくる。

 これは護国寺の惣門である。

護国寺惣門

 護国寺惣門の建造年代は元禄時代と推定されている。文京区指定有形文化財

 形式は社寺系のものではなく、両側に神像・仏像を安置するところのない珍しい形式の門である。

 

 少し先に進むと、護国寺仁王門がある。

護国寺仁王門

 仁王門建立の年代については、元禄10年(1697年)造営の観音堂(現在の本堂)よりも少し後であると考えられている。

 

 境内には音羽富士がある。登ってみよう。

音羽富士

 日本には、山は生活を守護する神様の鎮座するところとして崇拝する風習があった。

 近世、近代に活発に行われたものに、「富士講」がある。富士講とは、富士山を信仰し、富士に登拝することを目的に結成された団体である。

 現在もそうだが、富士山を信仰している人が全員、富士山に登れるわけではない。中世以降、富士信仰の一形式として富士山の形をした山も礼拝の対象となり、江戸後期からは江戸府内を中心に、富士塚の築造が盛んに行われた。都内のいたるところに富士塚は現存している。

 富士塚は、塚の頂上に富士山頂の土を埋め、そこに石宮を設けて浅間菩薩をまつり、塚下に浅間神社をたてて里宮とした。富士塚に登れば富士山に登ったのと同じ功徳が得られるということで、様々な事情で富士山に登れない人が富士塚に登り、富士登山気分を味わったという。

 というわけで、私も音羽富士の山頂まで登った。これで富士登山と同じ功徳を得られた…だろうか?

 

 音羽富士から下山し、護国寺の参道に戻ると手洗水盤がある。ここで手を洗う。この水盤は徳川綱吉の生母、桂昌院から寄進されたもので、元禄10年(1697年)に鋳造された古いものである。

水盤

 不老門をくぐる。この門は昭和14年(1939年)頃に建立されたという。

不老門

 護国寺本堂が見えてきた。

護国寺

 護国寺は神齢山 悉地院 護国寺(しんれいざん しっちいん ごこくじ)という。

 天和元年(1682年)2月、江戸幕府5代将軍、徳川綱吉の生母、桂昌院(けいしょういん)の発願により、幕府薬園の地を賜って創建された。

 開山は亮賢(りょうけん)僧正である。亮賢僧正は上野国(こうずけのくに。現在の群馬県)大聖護国寺の住職だった。綱吉生誕の安産を祈って以来、桂昌院の帰依を受けていた。貞享4年(1687年)77歳で亡くなり、護国寺境内に埋葬された。

 護国寺の境域整備は元禄年間(1688~1704年)に終わり、堂塔伽藍が建ち並んだという。元禄10年(1697年)には観音堂建設の起工が行われた。享保2年(1717年)、江戸幕府の命により、神田橋で焼失した護持院を合併した。以後、観音堂のほうを「護国寺」、本坊のほうを「護持院」と称し、護持院の住職が護国寺住職を兼務した。護持院は明治に入って廃寺となった。

 明治16年(1883年)に方丈が焼失、大正15年(1926年)には本堂が焼失した。

 方丈、本堂こそ明治・大正期に焼失したものの、それ以外の堂塔は東京大空襲の被害を受けなかったため、護国寺境内には江戸期の建造物がいくつか残されている。

 そのひとつが、これから入る本堂だ。

 「本堂は大正15年に焼失したのでは?」と思う人もいるかもしれないが、この本堂は元禄11年(1698年)に建てられた観音堂を移建したものである。国の重要文化財に指定されている。

 護国寺の御本尊は如意輪観世音菩薩で、この観音様が江戸三十三観音第13番札所として指定されているので御朱印をいただいた。

 御朱印を待っている間、本堂の仏様に手を合わせたり、天井の絵を見たりしていた。天井には天女が舞っていて、綺麗だなぁと感じていた。撮影禁止だったので、写真はなし。

 

 本堂をあとにして、境内をめぐっていると鳥居を見つけた。鳥居の奥はすぐ門があってその中には入れなかったが、その門の外からよく見ると、大隈重信の墓だった。

大隈重信の墓

 大隈重信は第8代・第17代の内閣総理大臣で、早稲田大学創立者でもある。大正11年(1922年)に85歳で亡くなった。

 大隈重信は85歳で亡くなっているが、本当は125歳まで生きようと思っていた、と金原明善に語ったという話を見たことがある。現在、世界一長生きした人の享年が122歳なのでそれは無理だ、と言ってはいけないのだろう。この話は「東海道を歩く 25.磐田駅~浜松駅」の6.明善記念館で取り上げている。

 大隈重信金原明善と親交があり、そのときに交わした扇子が浜松市の明善記念館に展示されていた。金原明善は明治時代の実業家。

大隈重信の扇子

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 こちらにも鳥居付きのお墓を見つけた。三条実美の墓だ。

三条実美の墓

 三条実美は公卿として明治政府樹立に活躍し、要職を経て最高官の太政大臣に就任した。明治25年(1892年)に55歳で亡くなっており、三条実美の墓は東京都の旧跡に指定されている。

 三条実美金原明善と親交があり、書が「明善記念館」に展示されていた。

三条実美の書

 「秩父三十四所御開帳供養塔」と「西國三十三所」と書かれた石碑があった。秩父三十四箇所西国三十三箇所もいつかやってみたい。秩父は頑張ればできそうな気がするが、西国はお金の関係もありだいぶ先になりそうだ。

秩父三十四所御開帳供養塔

西國三十三所

 護国寺薬師堂を見つけた。

護国寺薬師堂

 護国寺薬師堂は元禄4年(1691年)創建の一切経堂を移築したもので、文京区指定有形文化財

 大正15年(1926年)の火災後の復旧に際し、本堂をはじめ、境内建造物の大々的な移建と用途変更が行われた。その一環として、旧大師堂が焼けた関係で、旧薬師堂を現大師堂に、旧一切経堂を現薬師堂にしたと考えられている。

 

 月光殿を見つけた。

月光殿

 月光殿は国の重要文化財滋賀県大津市にある園城寺(おんじょうじ)子院の日光院の書院だった。

 明治20年(1887年)それを品川御殿山に移し、大正15年(1926年)現在地に移築した。建築年代は桃山時代といわれている。

 

 大師堂へ向かう。

大師堂

 大師堂は元禄14年(1701年)に造営された旧薬師堂を、大正15年(1926年)以降に大修理し、現在地に移建したものと考えられている。文京区指定建造物に指定されている。

 大師堂の隣には一言地蔵尊がある。

一言地蔵尊

 一言地蔵尊といえば、なにかひとつだけ願いを叶えてもらえるお地蔵さんである。

 叶えてほしいことはいろいろあるが、とりあえず「江戸三十三観音を満願できますように」と祈った。

 

 「秩父三十四所御開帳供養塔」「西國三十三所」に続き、「四國八拾八箇所」の石碑を見つけた。

「四國八拾八箇所」

 四国八十八箇所といえば、四国にある88ヶ所の寺院を巡る巡礼である。たまに「四国八十八箇所とか興味ないんですか?」と聞かれるが、「いやー、興味はあるんだけど、お金がね…」と答えている状況である。いつか歩いてみたい。

 

 護国寺をあとにすると、仁王門の脇に護国寺駅の1番出口があるのでここから帰路につく。

護国寺駅

 定泉寺では御朱印のほかに瓦せんべいをいただいた。浄心寺もしっとりとした寺院かと思いきや、日本一大きな木魚があるという意外な一面があった。圓乗寺では八百屋お七の悲恋に思いを馳せ、冥福を祈った。伝通院では徳川家康の生母、於大の方の冥福を祈り、この人がいなかったら今の東京はなかったかもしれないと思った。護国寺では如意輪観世音菩薩に挨拶しながら、東京大空襲でも焼けなかった貴重な建築の数々を見た。

 そして驚くべきは、これら全てが文京区にあるということだ。東京は深い都市だとは常々思っているが、そのなかでも特に文京区は深い地区なのかもしれない。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2023年10月14日

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【参考文献・参考サイト】

竹内誠(1979) 「文京区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

浄土宗東光山定泉寺 定泉寺について

http://www.josenji.or.jp/about/

浄土宗浄心寺 浄心寺概要

https://www.joshinji.or.jp/outline

テレビ東京 生活情報マーケットなないろ日和! 浄心寺 巨大木魚

https://sgttx-sp.mobile.tv-tokyo.co.jp/static/html/contents_blog/2016/03/nanairo-chie-20160310.php

圓乗寺 寺院紹介

http://yaoyao7.net/jiin/

文京区 福聚院(ふくじゅいん)大黒天

https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/jisha/fukujuin.html

(2023年11月1日最終閲覧)

うさぎの気まぐれまちあるき「本橋信宏×石井建志TE&上野散策」

 「お写ん歩書房」の石井建志さんにお誘いいただき、「本橋信宏×石井建志トークイベント&その前に上野散策」に参加してきた。

 ちなみに本橋先生とのまちあるきは渋谷、新宿に続いて3回目である。過去のまちあるきはこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

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 また、以前掲載した記事「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」と内容が重複している部分があるので、そちらも参照していただきたい。

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1.寛永寺

 開催日は7月30日で、夏のまだ暑い時期だったので、まちあるきは16時にスタート。

 上野駅公園口から出発だ。

 

 国立科学博物館の脇を通っていたら、ラムダロケット用ランチャーが展示されていた。

ラムダロケット用ランチャー

 昭和45年(1970年)、鹿児島県の東京大学宇宙航空研究所(現・JAXA)から、世界最小の人工衛星を積んだラムダ45型ロケット5号機が、このラムダロケット用ランチャーにより打ち上げられた。

 打ち上げられた人工衛星は「おおすみ」と名づけられ33年間飛んでいたが、平成15年(2003年)に大気圏に再突入、消滅した。

 日本が初めて人工衛星の打ち上げに成功したのがこの「おおすみ」であり、ソ連アメリカ、フランスに次いで世界で4番目に人工衛星打ち上げに成功した国となった。

 このランチャーは、昭和49年(1974年)までラムダロケットの実験に使用された後に、国立科学博物館に移管され、展示されている。

 

 寛永寺旧本坊黒門を門越しに見る。

 このとき門は閉まっており、「閉門時間を過ぎたから閉まっているのかな」と思ったが、1週間後に「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」の取材に行ったときも閉まっていて、この黒門の前の門はいつも閉まっているようだ。なお、このときは両大師の門も閉まっていたから入れなかったが、両大師が開いているときはそちらから黒門の近くまで行くことができる。

 この門は、かつて寛永寺旧本坊黒門として使用されていた。

 寛永寺境内は慶応4年(1868年)5月の上野戦争のときことごとく焼失、表門のみ戦火を免れた。

 明治11年(1878年)、帝国博物館(現在の東京国立博物館)が開館すると正門として使われ、関東大震災後、現在地に移建した。

 黒門には不自然な穴が開いている箇所があるが、これは上野戦争時の弾痕である。

寛永寺旧本坊黒門

上野戦争時の弾痕

 上野の歴史を語る上で、寛永寺の存在は外せない。

 元和8年(1622年)12月、江戸幕府は上野山内一円を公収し、寺院建設予定地とした。

 建設予定地には寛永元年(1624年)起工し、東叡山寛永寺を創建した。

 東叡山寛永寺の開山は天海僧正である。天海僧正天台宗の高僧で、徳川家康、秀忠、家光と徳川将軍3代の厚い帰依を受けた。

 なぜ天海僧正寛永寺を建立したのか。それは、江戸城鎮護のため、その艮(うしとら・東北方)の地の上野に、寺院を建立するよう、家光に進言したからである。艮は鬼門といわれ、鬼が出入する方角とされていた。

 寛永寺は港区の増上寺とともに、徳川将軍家菩提寺である。寛永寺の墓域には4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の霊が眠っている。増上寺寛永寺菩提寺を分けた理由としては、菩提寺を1か寺にすると権力が集中する恐れがあるから、といわれている。

 慶応4年(1868年)5月15日、上野山にたてこもる彰義隊と官軍の間で戦闘が行われ、寛永寺の堂塔伽藍はほとんど焼失、跡地は明治政府に没収された。

 寛永寺跡地が公園となった地は「上野公園」と呼ばれるようになった。大正13年(1924年)に帝室御料地から東京市へ下賜され、「上野恩賜公園」が正式名称となった。

 

 両大師に向かうが、こちらも閉まっていた。

両大師

 両大師は慈恵大師と慈眼大師、2人の大師像を祀っているので両大師と呼ばれている。

 慈恵大師は平安中期の延暦寺住職の良源大僧正で、慈眼大師寛永寺を開山した天海大僧正である。

 ちなみに「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」では両大師が開いているときに訪問している。この堂宇は享保5年(1720年)に焼失した直後に再建されたもの。

両大師

 今回訪問した寛永寺の建物はこのくらいである。ほかの建物について知りたい人は「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編 2.寛永寺」を参照してほしい。

 

2.上野東照宮

 国立科学博物館の横を通る。

国立科学博物館

 この建物は昭和6年(1931年)に完成した建物で、現在は「日本館」という名称で呼ばれており、国の重要文化財に指定されている。

 

 噴水の奥に東京国立博物館が見える。

東京国立博物館

 この大噴水のあるところが寛永寺根本中堂跡、博物館本館のあるところが本坊跡で、かつての寛永寺の伽藍の中心であった。

 東京国立博物館のはじまりは明治5年(1872年)に湯島聖堂の大成殿に文部省博覧会の名称で設けられた。

 現在の建物は昭和12年(1937年)に建てられた。「日本趣味を基調とする東洋式」の重々しい瓦屋根をもつ帝冠様式の建物である。設計者は渡辺仁。

 

 逆光になっていて見づらいが、上野東照宮に向かう。

上野東照宮

 逆光になっていないときの上野東照宮はこんな感じ(江戸三十三観音をめぐる 3.上野編より)。

 上野東照宮の参道には灯籠がたくさん並んでいるが、これは諸大名が寄進したもので、石灯籠は280基あまり、青銅灯籠も50基ほどある。

 上野東照宮の祭神は徳川家康昭和4年(1929年)に合祀された8代将軍吉宗。

 元和9年(1623年)に伊勢安濃津藩祖 藤堂高虎(いせあのつはんそ とうどうたかとら)が上野山内の自邸内に社殿を造ったのが創始という。

 社殿は慶安4年(1651年)に建てられ、拝殿、石の間、本殿、内殿で構成されている。唐門(からもん)、瑞籬(みずがき)とともに国指定重要文化財に指定されている。

 

 上野東照宮の外に、一際大きな灯籠がある。お化け灯籠だ。

お化け灯籠

 お化け灯籠は寛永8年(1631年)に佐久間大膳亮勝之が寄進した灯籠である。

 なぜ「お化け灯籠」と呼ばれているのかというと、高さ6m、笠石の周囲3.6mと、巨大な灯籠だったのでその名がつけられたという。

 

 上野大仏の前を通る。今回は通過しただけなので、「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」で撮った写真も上げておく。

上野大仏

 上野大仏が一番最初に建立されたのは寛永8年(1631年)だが、現存する仏様の顔は明暦~万治年間(1655~1660年)に作られたもの。

 元禄11年(1698年)には仏殿も建立されたが、明治6年(1873年)に仏殿が取り壊され、大正12年(1923年)の関東大震災で大仏の面部が落ち、大仏の体と足は第二次世界大戦時の金属供出でなくなってしまった。

 現在のように「上野大仏」となったのは昭和47年(1972年)のこと。「これ以上落ちない仏様」ということで合格祈願に効果があるとか。

 

 五条天神社、花園稲荷神社の前を通る。

五条天神社

花園稲荷神社

 寛永寺の拡張により上野の森がなくなっていくとき、上野の森に住む狐が天海に「なんとかしてくれ」と嘆願したため、崖に狐穴を掘り、その上に稲荷神社を置いた、という伝承がある。

 

3.西郷隆盛銅像

 不忍池周辺は、江戸時代初期に開発されてから、盛り場となっていた。

 文化が爛熟し、風俗の乱れた田沼時代・大御所時代頃には、時代風俗の影響もあって池畔に出合茶屋や娼婦を置く茶店が出現したという。出合茶屋とは男女逢引の場に利用された茶屋。川柳子はその情景をこう諷している。

 池の名と 相違な客の 来るところ

 不忍の 茶屋も忍んだ ことをする

 茶屋借りに いの字とろの字 這入る也

 

 不忍池方面に出て上野の山のほうを見ると、清水観音堂がある。

水観音堂

 寛永8年(1631年)、天海僧正が京都の清水寺になぞらえて、摺鉢山の上に創建したのが清水観音堂だ。現在地には元禄11年(1698年)に遷座した。

 清水寺を模したので、不忍池側は舞台造りになっている。

 現堂宇は元禄11年(1698年)建立で、国指定の重要文化財。本尊は千手観音菩薩

 江戸三十三観音第6番札所なので、「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」でも訪れている。

 清水観音堂の前には不自然な形の丸い幹の松があるが、これは「月の松」という。

 月の松から不忍弁天堂の喧騒を見る。

 

 摺鉢山方面へ向かうと、「時忘れじの塔」がある。「時忘れじの塔」は大正12年(1923年)の関東大震災や昭和20年(1945年)の東京大空襲での犠牲者の慰霊碑として、初代林家三平の妻、海老名香葉子氏によって建てられた。関東大震災は震災だから致し方ない部分はあるにせよ、戦争はもう繰り返してはならないと思う。

時忘れじの塔

 摺鉢山古墳は前方後円墳と推測される古墳であるが、改変されて往時の姿はないという。

摺鉢山古墳

 男性同性愛者の「たちんぼ」がいる、ということで摺鉢山古墳に登ったら、確かにそれらしき方々が2、3人いらっしゃった。

 本橋先生曰く、「上野はゲイの街」だそうだ。

 上野が男色の街になり始めたのは寛永寺のある江戸時代に遡るという。

 寛永寺には多数の修行僧がいて、その修行僧は男性だけだったため、同性愛に目覚めてしまう僧侶もいたという。海外の修道院は男性だけで、そこで男色に目覚めた人がいた、という話を聞いたことがあったので、確かに日本の修行僧、それも男性だけだとそういうこともあるのかもしれないな、と思った。

 

 天海僧正毛髪塔を見つけた。

天海僧正毛髪塔

 寛永寺を開山した天海僧正の弟子の義海が、慶安5年(1652年)に天海の毛髪をおさめて建立した五輪塔である。

 ところで、お坊さんといえば坊主のイメージだが、どこから髪をとってきたのだろうか。剃髪したときの髪か、剃髪した後も髪は生えてくるからその髪を埋めたのか…。

 

 彰義隊の墓に向かう。

彰義隊の墓

 ここは上野山内に放置されていた彰義隊士266人の遺体を、南千住円通寺の仏磨和尚らが火葬した場所といわれている。

 この碑には「戦死之墓」と刻まれているが、明治新政府に遠慮して、彰義隊の文字を刻まなかったのだろうか。

 

 上野のシンボル、西郷隆盛銅像に向かう。

西郷隆盛銅像

 銅像ははじめ皇居前広場に建てられる計画であったが、西郷隆盛明治10年(1877年)に西南の役を起こし、賊将の汚名を着せられた人物であることから、遠慮してここに建てたらしい。

 西郷隆盛は江戸無血開城の立役者で、江戸を戦火から救ったので、東京を一望できるここに建てたという。

 ここでイスラエル人のバックパッカーと出会い、家族写真を撮ったあとでみんなで写真を撮った。よい旅になることを願った。

 

 上野恩賜公園の南側の入口に噴水があるが、この噴水は寛永寺の黒門をイメージしたもののようだ。

黒門の噴水

4.不忍池周辺

 不忍池方面に向かうと、上野オークラ劇場があった。

上野オークラ劇場

 上野オークラ劇場は昭和27年(1952年)に営業を開始し、平成22年(2010年)に新築再オープンした。

 成人映画専門の映画館で、「日本一のピンク映画館」と謳っている。

 上野には「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」「几号点を訪ねて―上野公園周辺―」「標高7mを歩く―谷根千編」など、数回取材で訪れているのに、上野公園の近くにこのような映画館があるとは知らなかった。

 

 不忍池のほとりに、「生誕」という銅像がある。

「生誕」

 この「生誕」の銅像は、「生誕噴水塔」のシンボルだった。

 生誕噴水塔は、昭和39年(1964年)のオリンピック東京大会を機に、地元有志で結成された上野美化促進会による都市の美化と戦後復興を祈念して建設された後、上野中央通り地下駐車場の整備に伴い撤去された。

 令和2年(2020年)、再び東京でオリンピック・パラリンピックが開催されるのを記念して再設置された。だが東京オリンピックはご存じの通り、コロナで1年延期して令和3年(2021年)に開催された。

 

 夕方だったので花びらは閉じていたが、不忍池の蓮が元気そうだった。

 

 また、不忍池にもたちんぼがいた。今度は男のたちんぼではなく、おばさんの立ちんぼだった。

 

5.「上野アンダーグラウンド」の世界

 上野公園に「川柳の原点 誹風柳多留発祥の地」の銅像があった。

「川柳の原点 誹風柳多留発祥の地」

 川柳は、江戸時代に江戸で生まれた17音の庶民文芸として伝えられている。

 川柳の名称は宝暦7年(1757年)に浅草新堀端にはじまったが、明和2年(1765年)7月、呉陵軒可有という人が、初代川柳評の前句付万句合の入選句から17音で鑑賞でき、深い笑いのある句を選び、「誹風柳多留」を刊行した。

 このあたりには「誹風柳多留」の版元の星運堂があり、「誹風柳多留」を通じて川柳を江戸文芸の1つに育てた。

 この碑があひるをイメージしているのは「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」の句からとったからである。

 

 上野駅貴賓室跡地を見つけた。

上野駅貴賓室跡地

 昭和7年(1932年)に上野駅舎が完成したときにここに貴賓室が造られた。

 天皇陛下をはじめとした皇族方が東北方面へ向かうときはたびたびここの貴賓室を使っていたようだが、現在も使っているかは不明である。「跡地」とあるので、使っていないのだろうか。

 

 家系ラーメンの店の前を通るが、本橋先生曰くここは男色ビデオの店だったが、潰れてしまったようだ。

 

 この近くに「九龍城ビル」と呼ばれていたビルがある。

 九龍城とはかつて香港に存在した「東洋の魔窟」と呼ばれた世界一人口密度の高い一大スラム街である。

 九龍城ビルは風俗通の間では「中国エステビル」「風俗マンション」と呼ばれていた。ここでいう中国エステとは、俗にいう風俗業である。

 この九龍城ビル内は、中国エステで働く中国人女性たちが通路にゴミをまき散らしたり、非常階段を物置代わりにしたり、夜になると通路で用を足すようなこともあったという。

 平成23年(2011年)、九龍城ビルに一斉捜査が入り、中国エステは壊滅したとされている。「上野アンダーグラウンド」で本橋先生が九龍城ビルに入ったときは「大小便しないこと!」「風俗業禁止!」と書いた貼り紙が貼ってあったという。

 

 九龍城ビルの隣に小さな飲み屋街があるが、このうち白い看板の店はゲイバーらしい。

 

 「サウナ大番」という店が見えるが、本橋先生曰くここはゲイサウナらしい。

 

 しばらく歩くと、「自家製キムチ」「焼肉」といった韓国料理店が目立ってきた。ここはキムチ横丁というらしい。

 コリアンタウンといえば新大久保が有名だが、ここ、上野にもあるのだ。

 終戦直後、上野は駅の地下道、上野公園内の葵部落、アメ横のもとになった闇市に人が集まった。

 闇市の利権をめぐって地元のヤクザと中国・朝鮮人が争いを起こし、警察が乗り出すが、当時の警察が取り締まるのは困難を極めたという。

 下谷警察署が間に入り、昭和23年(1948年)に朝鮮人グループと上野のヤクザを下谷神社に集めて手打ち式をおこなわせ、これを機に朝鮮人グループを上野の一角に隔離した。

 これ以降隔離区域は「国際親善マーケット」と呼ばれるようになるが、現在は「キムチ横丁」と呼ばれている。

 本場韓国のキムチや焼き肉は美味しいのだろうか、今度機会があれば行ってみようかな、と思った。

 キムチ横丁の近くには、パチンコメーカー等の本社もある。

 戦後、在日コリアンへの差別偏見が強かった時代、在日コリアンたちは現金収入を得るために、日本人が手を出しにくい商売にも進出していった。そのひとつがパチンコだ。現在、全国に10,000軒以上あるパチンコメーカーの半数近くが在日系だという。

 

6.本橋先生と石井さんのトークイベント

 本橋先生が案内する「上野アンダーグラウンド」のまちあるきも終わり、トークイベント会場へ向かう。

 その途中に長遠寺があり、そこに二宮彦可(にのみやげんか)の墓碑跡がある。

長遠寺山門

 二宮彦可は江戸時代後期に活躍した医師である。

 宝暦4年(1754年)三河国岡崎藩主の侍医・国学者の小篠敏(おざきみね)の長男として生まれた。

 幼少時に梅毒に感染し、病弱のため廃嫡となるが、明和4年(1767年)に岡崎藩口中科医の二宮元昌の養子となり家督を継いだ。

 明和6年(1769年)、藩主転封により石見国浜田に移る。19歳の頃から各地で医学を学び、口中科、内科、眼科、産科、オランダ外科、整骨術など多岐にわたる。

 寛政3年(1791年)には浜田藩主の侍医となり、寛政5年(1793年)には藩主について江戸に向かい、現在の中央区銀座に住んだ。文化5年(1808年)には「正骨範」という整骨術の本を出した。

 文政10年(1827年)に74歳で亡くなり、長遠寺に葬られたが、墓碑は大正12年(1923年)の関東大震災のときに焼失してしまったらしい。

 

 柳の木の下に、「川柳ゆかりの地」という説明板があった。

 

 柄井川柳享保3年(1718年)生まれ。宝暦5年(1755年)に龍宝寺門前の名主を継いだ。

 宝暦7年(1757年)から前句付の選者として活躍、寛政2年(1790年)に亡くなった。

 前句付は出題された前句(7・7の短句)に付句(5・7・5の長句)をつけるもので、川柳が点者(選者)を務める万句合は広く人気を集めたという。

 明和2年(1765年)に川柳の選句集「誹風柳多留」の刊行を機に、付句が独立した文芸となり、明治頃から「川柳」と呼ばれるようになったという。

 

 トークイベント会場「Readin' Writin'」に到着した。トークイベント前に本橋先生の著書「上野アンダーグラウンド」を購入する。

 

 しばらく待つと、本橋先生と石井さんのトークイベントが始まった。

 最初は本橋先生の経歴の紹介から始まった。本橋先生は高校時代、元テレビアナウンサーの辛坊治郎と同じクラスだったと語っていた。本橋先生の母校は川越高校で、私の母校は川越高校と対になる高校、川越女子高校だ。私のクラス、有名人いたかな…あ、東京パラリンピックにも出場した西田杏さんがいたな…などと考える。

 本橋先生の有名な著書に「全裸監督 村西とおる伝」があり、これはAV監督の村西とおるの半生を綴ったもので、これが「全裸監督」としてNetflixによりドラマ化されている。

 

 続いて、石井さんの紹介が始まる。まちあるきと読書が好きで、それを同人誌にまとめたりイベントを主催してまちあるきをしている、と語っていた。現在は上野、川越、日光の同人誌を執筆中と語っていた。この3都市の共通項は、上野寛永寺を開山した天海僧正が関わっていることである。

 まちあるきと読書が好きなのは私もそうなのだが、ちょっと同人誌を出すのは厳しいので当面はブログと、寄稿型式の同人誌でやっていこうと思う。

 本橋先生と石井さんが摺鉢山古墳でたちんぼを見たときのエピソードを語っていたが、たちんぼたちはほかの人が来ると隠れたりその場を去ったりすることが多いので、今日見られたのは珍しい、と本橋先生が語っていた。

 昔、上野公園の現在の西洋美術館のあたりに「葵部落」というスラム街があった、という話があった。「葵」というのはもともと徳川家の墓地があったところなので「葵部落」とつけられたらしい。仕事も住居も食糧もない人が上野に集まり、バラックを建てて暮らしていたようだ。現在の上野の高尚な雰囲気からはとても考えられない。

 ただ、高尚な地域の隣に俗な地域があるのは今もそう、と本橋先生が語っていた。例えば、渋谷周辺にある代官山は高級住宅地だが、その近くに円山町という俗な地域がある、など。

 

 「歌舞伎町アンダーグラウンド」の話題になり、そこで登場した「オレたちひょうきん族」に出てくる「懺悔の神様」が作中で取材されている。「オレたちひょうきん族って知ってる?」と本橋先生に聞かれたので、「オレたちひょうきん族は平成元年(1989年)に放送終了、生まれる前に放送終了したので「歌舞伎町アンダーグラウンド」を読むまで知りませんでした」と答えた。

 

 令和5年(2023年)8月に発売された本橋先生の新作「僕とジャニーズ」の宣伝もあった。これは、ジャニー喜多川の性加害がニュースで話題になっている今、本橋先生が以前ゴーストライターとして書いた「光GENJIへ」での北公次さんへの取材をもとにして書いた本である。北公次さんはジャニーズアイドルグループ「フォーリーブス」のリーダーを務めていたが、平成24年(2012年)に63歳で亡くなっている。なお、フォーリーブスについても知っているか聞かれたので、「フォーリーブスは昭和53年(1978年)解散、生まれる前に解散したので知らないです」と答えた。

 

 トークショーが終わり、本橋先生にサインをもらう。本橋先生に「君、いつも来ているね。ありがとうね」と言われて嬉しくなった。

 

 このあとは、懇親会に参加した。

 やはり、歩いた後のビールは美味しい。

 

 懇親会を終え、帰路についた。

 上野は寺社仏閣と美術館の多い文教地区だ、という印象を持っていたし、「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」ではそういった場所をメインに巡っている。しかし、ゲイの集うゲイバーやサウナ、ピンク映画館、キムチ横丁やかつてあったスラム街、葵部落など、ただ上野公園のあたりを歩いているだけだと気づくことのできないものもたくさんあるのだな、と感じた。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

上野周辺拡大図

歩いた日:2023年7月30日

【参考文献】

小森隆吉(1978) 「台東区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2020) 「東京都の歴史散歩 上 下町」山川出版社

本橋信宏(2020) 「上野アンダーグラウンド」 駒草出版