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江戸三十三観音をめぐる 5.文京区編

 前回、江戸三十三観音第7番札所の心城院と第8番札所の清林寺に参拝しながら湯島・向丘周辺を巡った。今回は第9番札所の定泉寺、第10番札所浄心寺、第11番札所圓乗寺、第12番札所伝通院、第13番札所護国寺に参拝しながら文京区内をぶらぶらしようと思う。

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前回記事はこちら↓

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1.定泉寺

 12時半頃、都営三田線白山駅に降り立った。ここから定泉寺を目指す。

白山駅

 白山駅から北東方向に進む。本駒込駅の近くに「駒込土物店跡」という石碑を見つけた。

駒込土物店跡

 駒込土物店跡は江戸三大市場のひとつで、幕府の御用市場だった。

 起源は、元和年間(1615~1624年)といわれている。初めは、近郊の農民が野菜をかついで江戸に出る途中、天英寺の境内にあった「さいかちの木」で毎日休んでいた。そこに付近の人々が野菜を求めて集まったのが起源といわれている。

 ここでは大根、人参、牛蒡など土のついた野菜が取引されたので「土物店」と呼ばれていたようだ。

 正式名称は「駒込青物市場」で、昭和4年(1929年)に「駒込青果市場」と改称した。

 このあたりに点在していた問屋は明治34年(1901年)に高林寺境内に集結したが、昭和12年(1937年)に豊島区へ移転、現在は巣鴨にある豊島青果市場となっている。

 

 駒込土物店跡から少し先に進むと、定泉寺がある。

定泉寺

 定泉寺は元和7年(1621年)に開山された浄土宗の寺院である。

 元和7年(1621年)、本郷弓町にあった「太田道灌の矢場跡」を蜂屋九郎次郎善遠が拝領して堂宇を建て、随波上人を開山に迎え、東光山見性院定泉寺と名づけられた。現在地に移転したのは明暦の大火後である。

 定泉寺のチャイムを鳴らし、御朱印を待っている間に本堂に上がり参拝した。御本尊は阿弥陀如来で、江戸三十三観音である十一面観世音は御本尊の右側におられた。

 御朱印とともに、瓦せんべいをいただいた。

 

2.浄心寺

 第10番札所の浄心寺に行く前に、目赤不動尊に寄る。

目赤不動尊

 この不動尊は、もとは赤目不動尊と言われていた。

 元和年間(1615~1624年)、万行和尚が伊賀国の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国をめぐり動坂(現在の文京区本駒込)に庵を結んだ。

 寛永年間(1624~1644年)、鷹狩りの途中、この赤目不動尊に立ち寄った徳川家光から現在の土地を賜り、「目赤不動尊とせよ」と命じられたので、現在地に移った。なぜ徳川家光が赤目不動尊ではだめで、目赤不動尊とするよう指示したのかはわからない。

 江戸には目赤不動尊目白不動尊目黄不動尊目青不動尊目黒不動尊があり、五色不動と呼ばれていた。なんだか戦隊ものっぽい。ちなみに目白不動尊のある金乗院は江戸三十三観音第14番札所なので訪問予定だ。

 目赤不動尊でも御朱印をいただいた。

 

 来た道を引き返し、そのまま都道455号線を南東に進むと左手側に浄心寺がある。

浄心寺

 浄心寺は元和2年(1612年)に開山した浄土宗の寺院である。

 元和2年(1612年)、畔柳助九郎(くろやなぎすけくろう)が大旦那となり、文喬和尚を開山とし、湯島妻恋坂付近に創建された。

 その後、八百屋お七の振袖火事として知られる江戸の大火により焼失し、現在地に移転した。

 御本尊は阿弥陀如来、江戸三十三観音の観音様は「子育て桜観音」とも呼ばれている十一面観世音菩薩である。

 御朱印をいただきに行くと、寺の方から「うちには大きな木魚があって、テレビでも紹介されたことがあるのですよ」と言われたので、御朱印をいただいてから寺のなかをのぞき込むと確かに大きな木魚があった。

 

 窓越しにしか見えず、写真を上げてよいものなのかわからないのでリンクを貼っておく。

sgttx-sp.mobile.tv-tokyo.co.jp

  この木魚は日本一大きいと言われ、重さは500kgあるようだ。2~3人で棒を持って叩く。どんな音がするのか気になるので叩いている場面を見てみたい。ほかにも巨大なお鈴などもあるようだ。

 どうやら先代の住職が大きいものを集めるのが好きだったようで、大きいものがたくさん揃っているらしい。

 

3.圓乗寺

 浄心寺から来た道を戻り、都道455号線を北西に進む。向丘2丁目交差点を左折、白山上交差点を左折して南東に進む。途中で大円寺が見える。

大円寺

 大円寺も江戸三十三観音の札所で、第23番札所なのだが、今回はパスする。ちなみに第20番札所から第29番札所は港区の札所が続いており、ここだけ文京区の寺院が指定されている理由はよくわからない。

 白山一丁目の交差点を右折し、少し坂を下りると右手側に圓乗寺がある。

圓乗寺

 圓乗寺は、圓栄(えんえい)法印が天正9年(1581年)に密蔵院として創建したのが始まりである。

 元和6年(1631年)に寶仙(ほうせん)法師が圓乗寺と寺号を改めた。明暦3年(1653年)に現在地に移転した。

 御本尊は釈迦牟尼如来で、江戸三十三観音に指定されている観音様は聖観世音菩薩である。

 圓乗寺には八百屋お七の墓がある。

八百屋お七の墓

 八百屋お七の墓は3基建っていて、中央が八百屋お七の墓で、右側の墓は113回忌、左側の墓は270回忌に建てられた供養塔のようだ。

 天和2年(1682年)、江戸で大火がありお七の家も焼けてしまい、一家は圓乗寺に仮住まいをすることになる。

 そこで仮住まい先の圓乗寺の寺小姓、山田佐兵衛とお七は恋仲になってしまった。

 しかし家が再建したため、お七一家は圓乗寺を引き上げたところ、お七は佐兵衛に逢えなくなってしまい、お七は悲しんだ。

 そこでお七は佐兵衛と逢いたいがために、放火をしてしまった。

 天和3年(1683年)3月、放火の罪で、お七は火刑に処された。

 この事件は小説・歌舞伎・浄瑠璃などの題材となり、広く知れ渡ることになった。

 

 このとき、お七はまだ16歳であったという。まだ若いが故にその行動がどのような結果を引き起こすのか、考えが及ばなかったのであろう。お七の冥福を祈った。

 

 八百屋お七の墓に手を合わせてから、御朱印をいただいた。圓乗寺の寺務所を入ってすぐのところに聖観世音菩薩も祀られており、そちらにも手を合わせた。

 

4.沢蔵司稲荷

 圓乗寺をあとにして、白山下交差点まで坂を下り、左折して都道301号線を南に進む。

 しばらく進むとまいばすけっと西片1丁目店の脇に、樋口一葉終焉の地の碑を見つける。

樋口一葉終焉の地

 樋口一葉は小説家である。小説家というより、「5000円札の人」という印象のほうが大きいかもしれない。

 明治5年(1872年)4月に本郷6丁目5番地で樋口一葉は生まれた。明治14年(1881年)7月に下谷区(現在の台東区)御徒町へ転居した。

 明治19年(1886年)に小石川区(現在の文京区)水道町にあった「萩の舎」に入塾した。

 明治23年(1890年)9月、芝区(現在の港区)から本郷区(現在の文京区)菊坂町70番地に転居し、明治26年(1893年)7月、下谷区竜泉寺町へ移転するまで住んでいた。

 明治27年(1894年)5月1日、竜泉寺町から本郷区丸山福山町4番地に転居し、明治29年(1896年)11月23日に、結核のため25歳の若さで亡くなった。

 生活苦に追われながら「にごりえ」「たけくらべ」「大つごもり」などの作品を発表したものの25歳の若さで亡くなったため、「薄幸の才媛」といわれている。

 この碑は昭和27年(1952年)8月の建立で、碑面は「一葉樋口夏子碑」と横書きされ、その下に日記の一節が縦書きで刻まれている。

 25歳の若さで亡くなったのは早すぎる。もう少し長く生きていれば、もっと名作を世に送り出すことができたのかもしれない、と思った。

 

 エルアージュ小石川のある交差点で右折し、都道436号線に出て、ダイエー小石川店のある交差点で右折、善光寺坂を登っていく。

 善光寺坂には善光寺がある。

善光寺

 善光寺は浄土宗の寺院である。善光寺於大の方の念持仏の阿弥陀如来を本尊として慶長7年(1602年)に創建された。於大の方徳川家康の生母である。

 

 善光寺の少し先には慈眼院・沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり)がある。

沢蔵司稲荷

 伝通院の学寮に、沢蔵司という修行僧がいて、わずか3年で浄土宗の奥義を極めた優秀な僧侶だった。

 元和6年(1620年)5月7日の夜、学寮長の極山和尚(ごくざんおしょう)の夢枕に沢蔵司が立ち、こう言った。

 「私(沢蔵司)は江戸城稲荷大明神です。かねてから浄土宗の勉強をしたいと思っていましたが、長年の希望を叶えることができました。今からもとの神様に戻りますが、これからも伝通院を守護して、恩に報いましょう。」

 そう言って沢蔵司は暁の雲に隠れたという。

 そこで伝通院の住職、廓山上人(かくざんしょうにん)は、沢蔵司稲荷を境内に祀り、慈眼院を別当寺とした。

 沢蔵司がまだ修行僧だった頃、よく伝通院門前の蕎麦屋によく蕎麦を食べに行っていたらしい。そして沢蔵司が来たときは売上のなかに必ず木の葉が入っていたようだ。主人は沢蔵司が稲荷大明神であったことを驚き、毎朝「お初」の蕎麦を沢蔵司稲荷に供えるようになったそうだ。古川柳に「沢蔵司 てんぷらそばが お気に入り」という句があり、沢蔵司の好物はてんぷらそばだったのかもしれない。

 また、沢蔵司稲荷の前にムクノキがあるが、ここに沢蔵司が宿っていると伝えられている。

 沢蔵司稲荷でキツネを見ることはできなかったが、猫ならいた。君が沢蔵司か?…そんなわけないか。

 

 沢蔵司稲荷前のムクノキは推定樹齢約400年と言われている。

沢蔵司稲荷前のムクノキ

 第二次世界大戦中の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、焼ける前は23mもある大樹だったそうだ。

 ただ空襲で焼けても枯れることなく、枝や葉などの生育は良好である。空襲を知る生き証人と言えるかもしれない。この木が残ったのも、沢蔵司のおかげかもしれない。

 

5.伝通院

 伝通院前に処静院跡の石柱がある。

処静院跡の石柱

 この石柱は、伝通院の塔頭のひとつで伝通院前の福聚院北側にあった処静院の前に建っていたものである。処静院は現在、廃寺となっている。

 幕末に活躍した新選組の前身である新徴組は江戸市中から応募した浪士隊で、文久3年(1863年)2月4日に処静院で発会したと記録されている。そのメンバーには清川八郎、山岡鉄舟芹沢鴨近藤勇土方歳三などがいる。

 伝通院前には「幕末の傑僧琳瑞上人」「新徴組発会の処静院跡」の説明板がある。

 幕末の傑物と称せられている琳瑞は天保元年(1831年)10月に出和国(現在の山形県)で生まれた。

 琳瑞は処静院の住職、福田行誠のもとで学んでいたが賢い人物だったため、30代で武士の間でも認められる人物となり、高橋泥沼、山岡鉄舟等は琳瑞のよき理解者だった。

 琳瑞は後部合体論を主張して水戸藩士の支持を取り付け、政治的活動をするようになった。これが仇となり、慶応3年(1867年)10月18日に刺殺されてしまったという。享年38歳。

 伝通院は幕府と関係が深い寺院だったからなのか、幕末時にはきな臭い空気が漂っていたことはなんとなく察せられた。

 

 伝通院に入ろう。

伝通院

 無量山伝通院は、浄土宗京都知恩院末の古刹である。

 「江戸名所図会」によると、寿経寺と号し、明徳年間(1390~1394年)に創建された。なお、「東京府志料」には応永22年(1415年)の創建と書かれており、どちらが正しいのかはわからない。いずれにせよ、室町時代創建というのは確からしい。

 慶長7年(1602年)、遺言によって徳川家康は生母である於大の方をここに埋葬した。於大の方法号は「伝通院殿容誉光岳智光大禅定尼(でんずういんでんようよこうがくちこうだいぜんじょうに)」という。それ以降、その法号をとって、伝通院と呼ばれるようになった。

 江戸時代の伝通院は関東十八檀林の第一とされ、本堂、方丈、開山堂、学寮など100あまりの建物が並び、栄えていたという。

 伝通院の御本尊は阿弥陀如来、江戸三十三観音に指定されている観音様は無量聖観世音である。どちらも御朱印をいただいた。

 

 伝通院には徳川家の将軍以外の家族が葬られている。一番大きいお墓は、於大の方の墓である。

於大の方の墓

 於大の方三河国刈谷城主の水野忠政の娘で、松平広忠に嫁入りして徳川家康を生んだ。慶長7年(1602年)に75歳で亡くなった。

 そもそもこの人がいなかったら家康は生まれなかったのであり、江戸幕府も、江戸のまちも生まれなかったのである。そっと手を合わせた。

 ちなみに現在(2023年)放送中の「どうする家康」では於大の方松嶋菜々子が演じている。

 

 こちらは千姫の墓。

千姫の墓

 千姫徳川秀忠の娘で、徳川家康の孫である。

 政略上、7歳で豊臣秀頼と結婚させられて大坂城にはいった。大坂落城後、桑名城主の本多忠政の子、本多忠刻と再婚するが、わずか3年で死別。その後は剃髪して天樹院と名乗った。寛文6年(1666年)に70歳で亡くなっている。波乱万丈の人生だ。

 

 こちらは孝子の墓。

孝子の墓

 孝子は3代将軍の徳川家光正室である。

 鷹司信房の娘で、元和9年(1623年)に京都から江戸に来て江戸城西の丸に入った。

 寛永2年(1625年)に家光と結婚するものの、公家出身だったため武家の生活に馴染めないまま延宝2年(1674年)に73歳で亡くなったそうだ。50年生活に馴染めないなんてこと、あるのだろうか…。

 

 そのほか、徳川将軍家の側室などのお墓が並んでいる。

 

 伝通院には徳川将軍家以外にもさまざまな人が眠っているのだが、そのひとりに沢宣嘉(さわのぶよし)がいる。

沢宣嘉の墓

 沢宣嘉は尊攘派公卿として活躍し、文久3年(1863年)8月の政変では、三条実美ら6人の公卿とともに長州へ脱走した。世にいう七卿落(しちきょうおち)の一人である。

 文久10年(1870年)、平野国臣(ひらのくにおみ)が但馬国生野で兵を挙げると、擁立されて首領となった。しかし敗退し、讃岐に潜伏した。

 明治になって、九州鎮撫総督、外国事務総督、外務卿などを歴任したが、明治6年(1873年)に39歳で亡くなった。殺されたのかと思ったが、病死らしい。

 

 伝通院をあとにして、伝通院門前にある福聚院に寄る。

福聚院

 福聚院は安永3年(1774年)に開山した浄土宗の寺院である。

 本尊は大黒天坐像で、この像は鎌倉時代に作られたものらしいが、見ることはできなかった。

 境内には「とうがらし地蔵」がある。

とうがらし地蔵

 明治の中頃、とうがらしが大好きなおばあさんがいたという。

 そのおばあさんは持病の喘息に苦しんでおり、医者からとうがらしを止められていたにも関わらず食べ続けたため亡くなってしまったという。

 そこで近所の人が憐れんで地蔵を作り、とうがらしを供えた。その後、喘息に苦しむ人がこのお地蔵さんに祈願すると喘息が治り、お礼にとうがらしを供えるようになったため、この名がついたという。

 激辛好きの人は今も一定数いるが、あまり食べすぎると味覚が麻痺して大量のとうがらしを入れても辛さを感じなくなってしまう。もしかしたらそのおばあさんもとうがらしの食べすぎで辛さを感じなくなっていたのかもしれない。

 ちなみに、私は鼻が弱く、少し辛いものを食べるとすぐ鼻水が出てしまう。ピリ辛程度ならたまに嗜むが、あまり辛いものは食べられない体なのだ。

 

6.護国寺

 伝通院から山門を出てそのまま進むと、国道254号線の伝通院前交差点に着くのでそこを右折し、北西方向に進む。しばらく歩いて、大塚三丁目交差点に着いたら左折してそのまま進むと右手側に護国寺が見えてくる。

 これは護国寺の惣門である。

護国寺惣門

 護国寺惣門の建造年代は元禄時代と推定されている。文京区指定有形文化財

 形式は社寺系のものではなく、両側に神像・仏像を安置するところのない珍しい形式の門である。

 

 少し先に進むと、護国寺仁王門がある。

護国寺仁王門

 仁王門建立の年代については、元禄10年(1697年)造営の観音堂(現在の本堂)よりも少し後であると考えられている。

 

 境内には音羽富士がある。登ってみよう。

音羽富士

 日本には、山は生活を守護する神様の鎮座するところとして崇拝する風習があった。

 近世、近代に活発に行われたものに、「富士講」がある。富士講とは、富士山を信仰し、富士に登拝することを目的に結成された団体である。

 現在もそうだが、富士山を信仰している人が全員、富士山に登れるわけではない。中世以降、富士信仰の一形式として富士山の形をした山も礼拝の対象となり、江戸後期からは江戸府内を中心に、富士塚の築造が盛んに行われた。都内のいたるところに富士塚は現存している。

 富士塚は、塚の頂上に富士山頂の土を埋め、そこに石宮を設けて浅間菩薩をまつり、塚下に浅間神社をたてて里宮とした。富士塚に登れば富士山に登ったのと同じ功徳が得られるということで、様々な事情で富士山に登れない人が富士塚に登り、富士登山気分を味わったという。

 というわけで、私も音羽富士の山頂まで登った。これで富士登山と同じ功徳を得られた…だろうか?

 

 音羽富士から下山し、護国寺の参道に戻ると手洗水盤がある。ここで手を洗う。この水盤は徳川綱吉の生母、桂昌院から寄進されたもので、元禄10年(1697年)に鋳造された古いものである。

水盤

 不老門をくぐる。この門は昭和14年(1939年)頃に建立されたという。

不老門

 護国寺本堂が見えてきた。

護国寺

 護国寺は神齢山 悉地院 護国寺(しんれいざん しっちいん ごこくじ)という。

 天和元年(1682年)2月、江戸幕府5代将軍、徳川綱吉の生母、桂昌院(けいしょういん)の発願により、幕府薬園の地を賜って創建された。

 開山は亮賢(りょうけん)僧正である。亮賢僧正は上野国(こうずけのくに。現在の群馬県)大聖護国寺の住職だった。綱吉生誕の安産を祈って以来、桂昌院の帰依を受けていた。貞享4年(1687年)77歳で亡くなり、護国寺境内に埋葬された。

 護国寺の境域整備は元禄年間(1688~1704年)に終わり、堂塔伽藍が建ち並んだという。元禄10年(1697年)には観音堂建設の起工が行われた。享保2年(1717年)、江戸幕府の命により、神田橋で焼失した護持院を合併した。以後、観音堂のほうを「護国寺」、本坊のほうを「護持院」と称し、護持院の住職が護国寺住職を兼務した。護持院は明治に入って廃寺となった。

 明治16年(1883年)に方丈が焼失、大正15年(1926年)には本堂が焼失した。

 方丈、本堂こそ明治・大正期に焼失したものの、それ以外の堂塔は東京大空襲の被害を受けなかったため、護国寺境内には江戸期の建造物がいくつか残されている。

 そのひとつが、これから入る本堂だ。

 「本堂は大正15年に焼失したのでは?」と思う人もいるかもしれないが、この本堂は元禄11年(1698年)に建てられた観音堂を移建したものである。国の重要文化財に指定されている。

 護国寺の御本尊は如意輪観世音菩薩で、この観音様が江戸三十三観音第13番札所として指定されているので御朱印をいただいた。

 御朱印を待っている間、本堂の仏様に手を合わせたり、天井の絵を見たりしていた。天井には天女が舞っていて、綺麗だなぁと感じていた。撮影禁止だったので、写真はなし。

 

 本堂をあとにして、境内をめぐっていると鳥居を見つけた。鳥居の奥はすぐ門があってその中には入れなかったが、その門の外からよく見ると、大隈重信の墓だった。

大隈重信の墓

 大隈重信は第8代・第17代の内閣総理大臣で、早稲田大学創立者でもある。大正11年(1922年)に85歳で亡くなった。

 大隈重信は85歳で亡くなっているが、本当は125歳まで生きようと思っていた、と金原明善に語ったという話を見たことがある。現在、世界一長生きした人の享年が122歳なのでそれは無理だ、と言ってはいけないのだろう。この話は「東海道を歩く 25.磐田駅~浜松駅」の6.明善記念館で取り上げている。

 大隈重信金原明善と親交があり、そのときに交わした扇子が浜松市の明善記念館に展示されていた。金原明善は明治時代の実業家。

大隈重信の扇子

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 こちらにも鳥居付きのお墓を見つけた。三条実美の墓だ。

三条実美の墓

 三条実美は公卿として明治政府樹立に活躍し、要職を経て最高官の太政大臣に就任した。明治25年(1892年)に55歳で亡くなっており、三条実美の墓は東京都の旧跡に指定されている。

 三条実美金原明善と親交があり、書が「明善記念館」に展示されていた。

三条実美の書

 「秩父三十四所御開帳供養塔」と「西國三十三所」と書かれた石碑があった。秩父三十四箇所西国三十三箇所もいつかやってみたい。秩父は頑張ればできそうな気がするが、西国はお金の関係もありだいぶ先になりそうだ。

秩父三十四所御開帳供養塔

西國三十三所

 護国寺薬師堂を見つけた。

護国寺薬師堂

 護国寺薬師堂は元禄4年(1691年)創建の一切経堂を移築したもので、文京区指定有形文化財

 大正15年(1926年)の火災後の復旧に際し、本堂をはじめ、境内建造物の大々的な移建と用途変更が行われた。その一環として、旧大師堂が焼けた関係で、旧薬師堂を現大師堂に、旧一切経堂を現薬師堂にしたと考えられている。

 

 月光殿を見つけた。

月光殿

 月光殿は国の重要文化財滋賀県大津市にある園城寺(おんじょうじ)子院の日光院の書院だった。

 明治20年(1887年)それを品川御殿山に移し、大正15年(1926年)現在地に移築した。建築年代は桃山時代といわれている。

 

 大師堂へ向かう。

大師堂

 大師堂は元禄14年(1701年)に造営された旧薬師堂を、大正15年(1926年)以降に大修理し、現在地に移建したものと考えられている。文京区指定建造物に指定されている。

 大師堂の隣には一言地蔵尊がある。

一言地蔵尊

 一言地蔵尊といえば、なにかひとつだけ願いを叶えてもらえるお地蔵さんである。

 叶えてほしいことはいろいろあるが、とりあえず「江戸三十三観音を満願できますように」と祈った。

 

 「秩父三十四所御開帳供養塔」「西國三十三所」に続き、「四國八拾八箇所」の石碑を見つけた。

「四國八拾八箇所」

 四国八十八箇所といえば、四国にある88ヶ所の寺院を巡る巡礼である。たまに「四国八十八箇所とか興味ないんですか?」と聞かれるが、「いやー、興味はあるんだけど、お金がね…」と答えている状況である。いつか歩いてみたい。

 

 護国寺をあとにすると、仁王門の脇に護国寺駅の1番出口があるのでここから帰路につく。

護国寺駅

 定泉寺では御朱印のほかに瓦せんべいをいただいた。浄心寺もしっとりとした寺院かと思いきや、日本一大きな木魚があるという意外な一面があった。圓乗寺では八百屋お七の悲恋に思いを馳せ、冥福を祈った。伝通院では徳川家康の生母、於大の方の冥福を祈り、この人がいなかったら今の東京はなかったかもしれないと思った。護国寺では如意輪観世音菩薩に挨拶しながら、東京大空襲でも焼けなかった貴重な建築の数々を見た。

 そして驚くべきは、これら全てが文京区にあるということだ。東京は深い都市だとは常々思っているが、そのなかでも特に文京区は深い地区なのかもしれない。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2023年10月14日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

竹内誠(1979) 「文京区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

浄土宗東光山定泉寺 定泉寺について

http://www.josenji.or.jp/about/

浄土宗浄心寺 浄心寺概要

https://www.joshinji.or.jp/outline

テレビ東京 生活情報マーケットなないろ日和! 浄心寺 巨大木魚

https://sgttx-sp.mobile.tv-tokyo.co.jp/static/html/contents_blog/2016/03/nanairo-chie-20160310.php

圓乗寺 寺院紹介

http://yaoyao7.net/jiin/

文京区 福聚院(ふくじゅいん)大黒天

https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/jisha/fukujuin.html

(2023年11月1日最終閲覧)