前回、新居町駅から二川駅まで歩いた。今回は二川駅から札木停留場まで歩こうと思う。また、前回時間の都合で行けなかった二川宿本陣資料館ほか、二川宿めぐりと札木停留場周辺の豊橋まちあるきも収録しているので、お付き合いいただきたい。
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1.二川伏見稲荷
今日は二川駅からスタートだ。二川駅から西に行きたいところだが、一旦東に向かい、昨日御朱印をいただきそびれた二川伏見稲荷に行く。
二川伏見稲荷は明治43年(1910年)11月に京都の伏見稲荷大社から分霊を勧請し、創始された神社である。
参拝し、御朱印をいただきに社務所に行った。すると伏見稲荷の裏山をめぐることを勧められたので、御朱印帳を預けたのち、歩いてみた。
まずは三ノ峯、白菊社。
白菊社の御祭神は白菊大神で、衣食住を司る神様だ。「己を捨てて他人を助けよ」と教えている神様だそうだ。他人を助けることも大事だが、自分を助けることも大事、と言ってはいけないのだろうか。
次は二ノ峯、青木社で、青木大神が祀られている。
青木大神の御神徳は土地浄化・交通安全。「己の心に自負心を持て」と教えている神様だそうだ。自分に自信を持て、ということだろうか。
続いて一ノ峯、末広社。末広社には末広大神が祀られている。
末広大神の御神徳は芸能・歌舞・音曲、愛福、愛敬。「己を低くして人様を敬え」と教えている神様だそうだ。「我以外皆師」ということだろうか。
長者ヶ峯、豊久社には豊久大神が祀られている。
豊久大神の御神徳は学徳、善悪を見分けること。稲荷神社といえば宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)が祀られているが、その奇御魂(くしみたま、英知を司る)と幸御魂(さきみたま、人情を司る)を祀り、どちらにも偏ることなく進めと教えている。確かに合理性ばかりを追求しても人情味がないし、かといって情ばかり重視していてもうまくいかない、ということだろうか。
少し変わった祠の龍神社に参拝する。龍神社は宇迦御魂日下部明神(うかのみたまくさかべみょうじん)が祀られている。
御神徳は病気平癒、金運隆昌。持病がよくなるように祈った。
今度は奥村社に参拝する。奥村社の御祭神は奥村大神。
動植物すべての物の悪を除き善を育てる御神徳がある。成長を司る、ということか。
荒神ヶ峯の田中社の御祭神は田中大神。苗字みたいな名前の神様だ。
田中大神の御神徳は経営、縁結び、治病で、「日常のあらゆる労苦をも大きく包み収めていつも笑っているように」と教えている。いつも笑顔、大切なことだ。
麓まで下りてくると、一番大きなお社、御石宮司社(おしゃぐじしゃ)がある。御石宮司社には天祐稲荷石宮司大明神(てんゆういなりしゃぐじだいみょうじん)が祀られている。
石宮司社は二川伏見稲荷より前からあった神社で、この神様は安産、子育ての神様だそうだ。
千本鳥居をくぐって社務所に戻る。伏見稲荷大社にいるみたいだ。
御朱印を受け取り、二川伏見稲荷をあとにした。裏山巡り、楽しかったな。
二川宿本陣資料館に行く前に、大岩神明宮に寄り道する。
大岩神明宮の創建は文武天皇2年(698年)で、現在地に移ったのは正保元年(1644年)、という古社である。
そして大岩神明宮でも御朱印をいただいた。
2.二川宿本陣資料館
そして二川宿の目玉施設、二川宿本陣資料館に到着した。まず復元された高札場が出迎えてくれる。
幕府・大名が法令や禁令を板札に墨書した高札を掲示したところを高札場といい、宿場等、人の目につきやすい場所に設置された。
入場料を払い、二川宿本陣資料館に入っていく。
本陣とは、宮家や公卿、大名・幕吏の宿泊休息施設で、脇本陣は本陣の予備にあてた宿舎である。
本陣宿泊料が、定額ではなく大名たちの心付けであったことや、大火からの再起に費用がかさんだりして、本陣の経営は困難を極めたという。
二川宿の発展に尽力した後藤五左衛門が本陣職と問屋役を兼務していたが、寛政5年(1793年)の大火以後、本陣職を紅林権左衛門に譲ったという。
その後、文化3年(1806年)には紅林家も大火に遭い、馬場彦十郎が本陣職についた。そして明治3年(1870年)の本陣制度廃止まで、馬場家が約60年間本陣経営を行っていた。
昭和63年(1988年)から進められた改修復元工事の結果、大名などが休泊した上段の間のある書院造の書院棟が復元された。
現在、本陣が残っているのはここ二川と、滋賀県草津市にある草津宿の本陣のみとなっており、貴重な遺構となっている。
それでは、本陣のなかに入ってみよう。
ここは勝手だ。
勝手は本陣の主人・家族・使用人の居住する部分だった。この部分は本陣のなかでも古く、馬場家が本陣を引き受ける以前の宝暦3年(1753年)に建てられた部分である。
こちらは板の間。
板の間は、大名行列などの荷物置き場で、街道に面した本陣建物の中央に大きな面積をしめ、蔀戸という上下移動式の戸があり、街道から直接荷物を運びこむことができるようになっていた。
流石本陣、部屋の数が普通の旅籠と違う。
茶室を見つけた。二川宿本陣資料館では抹茶を飲むことができるが、この部屋ではない。
庭も見事だ。
上段の間を見つけた。
上段の間は、大名などが宿泊休憩する部屋で、ほかの部屋より一段高くなっており、床の間、書院を備えた書院造となっていた。
二川宿本陣馬場家の書院棟は文化4年(1807年)に建設されたが、明治3年(1870年)の本陣廃止後に取り壊されたため、のちに復原されたものである。
雪隠(せっちん)がある。
雪隠とは現在の御手洗いのことである。本陣内には5ヶ所の雪隠があったが、ここは大名の使用する雪隠だった。大と小の雪隠があったという。
雪隠の隣には上湯殿があった。
湯殿とは現在のお風呂場のことで、湯殿も3ヶ所にあり、ここは大名の使用する湯殿だった。風呂桶は本陣でも用意していたが、お金持ちの大名は自分専用の漆塗りの豪華な風呂桶を持参した人もいたとか。
ここは台所で、昔の道具が展示されていた。
左は箱提灯、右は行灯(あんどん)。
箱提灯はひごと称する細い割竹を骨として、上下に伸縮自在にしたものに紙を張り、これを火袋とし、上下に枠をつけ、下枠の底板にろうそくを立てるようにしたもの。持ち歩くライトのようなものだ。
一方行灯は、江戸時代には屋内用灯火器となり、持ち歩かないライトとなった。
これは燭台(しょくだい)で、ろうそくの点灯に使われた灯火器である。
本陣を正門から見る。格式がある。
二川宿本陣の隣には旅籠、清明屋もあるのでそちらも見学する。
清明屋は江戸時代後期の寛政年間(1789~1801年)頃に開業した旅籠屋で、主人は代々八郎兵衛を名乗っていたという。
この建物は文化14年(1817年)に建てられたものであることが判明している。
本陣のすぐ東隣に建つ旅籠屋だったので、大名行列が本陣に宿泊するとき、家老など上級武士が清明屋に宿泊していたという。
まずミセの間で草鞋を脱いで足を洗う旅人の姿が見られた。
ウチニワにはかまどが置かれ、炊事が行われていたという。
清明屋に上がってみよう。
畳敷きの部屋だが、ここが台所だったらしく、ここで食事の準備をしていたようだ。
左が大和名所道中記、右が二川宿橋本屋引札と二川宿山家屋引札である。引札とは現在のチラシである。
大和名所道中記には地図とともに旅籠の宣伝も書かれており、いかに集客熱心だったのかがわかる。
左が飯盛女人別帳、中央が大日本細見道中記、右が浪速講定宿帳。
飯盛女(めしもりおんな)とは性的サービスも行っていた女中で、現在ほど売春等の規制が厳しくない時代だったのでほぼどの宿場にもいたという。
また、前回「東海道を歩く 28.新居町駅~二川駅」の紀伊国屋は浪速講に加盟していた、と説明した。どうやら清明屋も浪速講に加盟していたらしい。浪速講とは講のひとつで、講とは旅人が安心して泊まれるように信頼できる旅籠屋を指定し結成された組織のことである。
ここは繋ぎの間といい、客の宿泊に用いられた部屋である。
ここは奥座敷で、床の間と入側がついた一番良い部屋だ。本陣に大名が宿泊したとき、上級武士が泊まったのだろうか。
旅籠屋の食事が再現されていた。旅籠屋では朝晩2食の食事が出され、煮物と魚の1汁2菜か、もう1品つく1汁3菜が多かったようだ。今の旅館の食事と比べて質素だが、小食の私にはむしろこれくらいがちょうどいいかもしれない。
参考までに、今年3月に家族で伊香保温泉に行ったときに出た食事を置いておく。これは流石に食べきれなかった。
清明屋にも、やはり湯殿と雪隠はあった。
いろいろ見学して疲れたので、本陣の茶席で一休みする。しばらくすると、お抹茶と栗ようかんが運ばれてきた。
疲れているときの抹茶と甘味は沁みる。抹茶と甘味のマリアージュは最高だった。
お抹茶を下げるとき、茶席のスタッフのおばちゃんと少し話をした。東海道を日本橋から歩き続けていることを言うと、「すごいわね、頑張ってね」と励まされた。
二川宿本陣と、旅籠清明屋を見終わったら、次は二川宿本陣資料館だ。
まず、本陣の展示を見る。本陣の構造が載っており、現存している二川宿本陣よりもずっと広大な敷地を持っていたことがわかる。
松平伊豆守行列模型があった。
松平伊豆守は吉田藩主である。吉田藩とは、現在の豊橋にあった藩のこと。
行列を先導する役の徒士(かち)、槍持に続いて、たくさんの家臣たちに囲まれた藩主の乗物が見える。
かわいらしい人形の大名行列もあった。
宿料包紙が展示されていた。
本陣の休泊料は、家来の分は事前の話し合いで決めたが、大名など主客の分は心づけと献上物へのお返しが支払われたという。
関札が展示されていた。
関札とは、大名などが本陣に宿泊・休憩するときに、姓名・官職・日付などを板や紙に書いて、本陣門前や宿場の入口などに掲げる札である。
左から「松平伊豆守休(吉田藩主)」、「松浦壱岐守宿(平戸藩主)」、「石川主殿頭宿(亀山藩主)」、「太田備後守宿(掛川藩主)」となっている。
こちらは二川宿本陣宿帳。
二川宿本陣を経営した馬場家には、本陣を始めた文化4年(1807年)から慶応2年(1866年)までの60年間の本陣利用者と利用の状況を記帳した宿帳が残っており、それが二川宿本陣宿帳だ。
乗物が展示されている。乗物とは身分の高い人が乗る駕籠のことである。
浮世絵コーナーがあったのでやってみた。
浮世絵コーナーでは、黒、赤、緑、青の絵の板とインク、ローラー、ばれんが置いてあり、順にやっていくのだが、私は不器用だからかあまり上手にできなかった。
大名行列模型に続いて、二川宿の模型が展示されていた。
宿場の話をするのに欠かせないのが、助郷制度の話だ。
助郷とは、公用の荷物を宿継するため、東海道の宿場では人足100人、馬100匹を用意することが義務付けられたが、通行量が多いときはそれでも足りないことがある。そういうときに、宿場周辺の村に不足分の人や馬を出させること、人や馬を出す村のことを助郷といった。
これは人足触。
二川宿の問屋が、助郷村である牛河村などに、助郷を出す必要のある日の夜中または翌朝までに人足を82人出すように指示したものである。
また、助郷制度は宿場近隣の村にとって重い負担だった。
これは差村帳。
宿場や助郷村では、まだ助郷役を負担していない村を指名して、追加の助郷村指定を嘆願したものである。「おい、お前の村、やってないだろ。やれよ」的な感じだろうか。
また、掃除丁場という仕事もあった。
これは、宿場や街道周辺の村が、担当する場所と区間を指定され、街道の補修や松並木の保護・補植を行うことである。
これは往還並松植継書上帳。
これを見ると枯れてしまった街道の松並木を補植するのも掃除丁場に指定された村の仕事だったことがわかる。
江戸時代は自動車などはなかったので、郵便や宅配便のようなものは飛脚という街道を走る人によって担われた。
これは江戸三度飛脚出日幷ニ休日(えどさんどひきゃくしゅつじつならびにきゅうじつ)という資料。
定飛脚問屋が顧客に配布したもので、飛脚の出立日と休日が示してある。
宿場の人足や馬を使うのは御朱印または御証文によって使用を許可された人が最優先で、無料で使えた。このほかの公用旅行者や大名行列も幕府が決めた金額(御定賃銭)でこれを使えた。一般旅行者も利用できたが、話し合いで料金を決めていたという。
駄賃帳が展示されている。
御定賃銭で人馬を使う旅人(公用旅行者・大名)が持つ駄賃帳には、各宿場で使用数と賃銭が記され、領収印が押されている。
宿場の役目のひとつ、公用荷物の運搬を取り仕切る問屋場の看板が展示されていた。
1階の常設展示を見終わり、次は瓦版展へ。
瓦版展は2023年11月3日から12月10日の期間限定展示で、この展示のみ撮影はできなかった。
瓦版とは、江戸時代に発達した情報媒体である。今でいう新聞、チラシ、号外とかに近いだろうか。
火事・地震・津波・仇討・見世物・奇談・外国船の来港・幕末の政変など、瓦版にはさまざまな出来事が記された。明治以降は、新聞の出現により瓦版は衰退、消滅した。
瓦版のなかには大火や災害などが描かれているものもあり、写真ではないものの災害状況が伝わってくる絵だな、と感じたものもあった。
この展示では瓦版のほか番付や引札なども展示されていた。
少し面白いと思ったのが「できた奥さん番付」。こんなもの今発行したらフェミニストが黙っていないだろうと思う代物である。
かなり面白い展示だったので、撮影できなかったのが残念である。
常設展示に戻ろう。今度は2階へ向かう。
飯村の松の丸太が展示されていた。
この飯村の松は150年程度生きていたようだが、松くい虫の被害に遭い、平成19年(2007年)に伐採されてしまったようだ。
記念撮影用の駕籠があったが、撮ってくれる人もいないのでやめておいた。
庶民の旅格好。
男性は菅笠をかぶり、道中差を差し、股引と脚絆を履いて靴は草鞋。
女性は菅笠を被り、小袖と浴衣、襦袢を着て下は足袋と紐付草履。
現代と比べてずいぶん歩きにくそうな恰好だ。
2階の常設展示は東海道や庶民の旅についての展示だ。
東海道名所図会が展示されている。
京都から江戸まで東海道に沿って名所旧跡や宿場の様子などを紹介しており、6巻もある。6巻もあるので旅に持っていくというよりは、事前に調べたり帰ってから旅日記をまとめたりするのに使ったのだろう。
「大井川之図」が展示されている。
大井川は徒歩(かち)での通行と定められ、明治に入って橋が架けられるまで川越をする必要があった。この日はかなり水量が多く、大変そうだ。
大井川の川越については「東海道を歩く 20.藤枝駅~金谷駅 5.大井川川越遺跡」に詳細が書いてある。
江戸時代の旅には「往来手形」が必要で、旅の前にお寺や村役人に発行してもらう必要があった。昔は国内でもパスポートのようなものが必要だったということだ。
往来手形が展示されていた。
二川宿田村善蔵家の5人が西国三十三所巡礼に出かけたときの往来手形だ。
また往来手形のほかにも関所手形があり、それには女性が関所を通るときに必要な女手形と鉄砲を持って関所を通るときに必要な鉄砲手形があった。
女手形が展示されていた。
これは白須賀宿名主の娘が舞阪宿へ行ったときに使った女手形だ。白須賀宿と舞阪宿の間には新居関所があったので女手形が必要だったのだ。
一番南に走る、日本橋から現在の静岡県、愛知県などを経て京都の三条大橋に結ぶ道が東海道だ。そのほか中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道なども描かれている。
東海道といえばさまざまな文学作品が江戸時代に書かれたが、そのなかでも一番有名なものが十返舎一九が書いた「東海道中膝栗毛」だろう。
東海道中膝栗毛は享和2年(1802年)に刊行された、弥次さん、喜多さんの面白い旅物語である。ベストセラーになり、20年にわたり作品が書かれ続けたという。
「旅に出るなら気をつけて」という展示があった。
「旅行の持ち物はなるべく少なくすること」「お腹がすいても旅行中の食べすぎはよくない」「女連れの旅で川越しをするときは事前に様子を話すこと」「疲れたときは熱い風呂にいつもより長く入ろう」「酒盛りが長引いたらかわるがわる寝なさい」「馬や駕籠、人足が使いたいときは前日の夜のうちに宿の主人に頼むこと」
「旅行の持ち物は少なく」「旅行中は食べ過ぎない」などは現代でも言えることである。
旅に使う持ち物が展示されていた。
一見すると刀なのに、なかの空洞にお金が入る財布、「銭刀」が展示されていた。
銭刀は、盗難防止の意味もあったのだろうか。昔のひとの考えることは面白い。
矢立が展示されていた。
矢立とは、もぐさなどにしみこませた墨の入った壷と、小さな筆から構成される携帯用文房具である。現代のボールペンのようなものだろうか。
印籠が展示されていた。
「この紋所が目に入らぬかァ!」で有名な印籠だが、実際は薬入れとして使われることが多かったらしい。
煙草入れが展示されている。
袋の部分に刻み煙草を入れ、筒にキセルを入れて腰に下げて持ち歩く。
煙草入れといえば、「東海道を歩かない 掛川・前編」の3.掛川市二の丸美術館で様々な煙草入れを紹介しているので、興味があれば参照してほしい。
旅日記「旅中安全」が展示されている。
「旅中安全」は、二川宿田村家の啓次郎が、日光に旅行したときの日記である。これによると、文久2年(1862年)9月22日に二川を出発した啓次郎は、江の島(神奈川県藤沢市)などを見物しながら江戸に10月1日に到着、6日に出発し、日光へ向かう。日光には10月9日に到着し、11日に出発。14日に江戸に戻ってきて、26日に江戸を出発。二川に帰ってきたのは11月4日のこと。帰りは江戸から二川まで東海道72里(約288km)を8日で歩いている。1日平均36km、すごい脚力だ。
江戸時代のお金が展示されている。
旅にはお金が必要だ、それは江戸時代も現代も変わらない。旅でお金を使う場面は、宿泊代、川越し・船代、馬・駕籠・人足代、食事・土産代など。宿泊代や食事・土産代は今も変わらないし、川越し・船代や馬・駕籠・人足代は電車賃などに置き換えられるだろうか。
二川宿のジオラマと二川宿絵図があった。3D二川宿と2D二川宿だ。
慶長6年(1601年)、徳川家康が東海道に宿場を設置したとき、二川村と大岩村は東西に離れた場所にあり、2村で1宿分の役目を果たしていたという。
その後、両村が現在地に移転して1つの宿場町となった。二川宿はもともと農村であったところに、宿場の業務をさせるため計画的に作ったまちといえる。
東海道の名物が紹介されていた。まず、淡雪豆腐。
淡雪豆腐とはやわらかく仕上げた豆腐のことで、岡崎宿の名物だったらしい。現在は売っていないが、岡崎銘菓「あわ雪」のルーツになった。
続いて、白須賀、猿ヶ馬場の柏餅。
猿ヶ馬場の柏餅といえば前回の「東海道を歩く」で「嗅みありて胸わろく、ゑづきの気味頼りなれば」と書かれるほど不味い、と紹介したが、名所として紹介されていた以上、美味しかった時期もあった…と信じたい。ちなみに私は現代の柏餅は好きである。
続いて、「飴の餅」。
飴の餅は、小夜の中山で売られていた。小夜の中山では「子育て飴」という水飴が名物で、容器に入った水飴と、その飴を餅にかけたものが売られていたという。
現在も、小夜の中山では子育て飴が売られている。詳細は、「東海道を歩く 21.金谷駅~ことのまま八幡宮バス停」5.夜泣き石 を参照してほしい。
子育て飴、美味しかったので峠の茶屋にまた買いに行きたいのだが、公共交通機関だといまいち行きにくいのが難点だ。
続いては、丸子のとろろ汁。
元禄4年(1691年)には、すでに名物になっていた丸子のとろろ汁は、現在も丸子の「丁子屋」で提供している。
「丁子屋」には「東海道を歩く 17.静岡駅~吐月峰駿府匠宿入口バス停」の6.丁子屋で訪問している。
ここなら、静岡駅から30分に1本程度出ているバスに乗って30分程度で行けるので、いつか再訪したいと思っているのだが、なかなかタイミングがなく行けずにいる。
3.大岩寺
二川宿本陣資料館に1時間半も滞在してしまい、もう13時半になっていたが、今から豊橋を目指す。
二川宿本陣資料館を出てすぐに、大岩寺がある。
大岩寺は曹洞宗の寺院で、本尊は千手観音である。大岩寺には備前岡山藩主の池田綱政が岩屋観音堂に寄進した観音経や黄金燈籠、絵馬などが伝わっていて、それらはすべて豊橋市有形文化財に指定されているという。
二川駅前を通り過ぎる。
二川駅から少し行ったところに道標を見つけた。
「伊良胡阿志両神社道」「右 東海道」「左 渥美奥郡道」と書かれている。
「左 渥美奥郡道」は「ホントに歩く東海道 第9集」によると田原街道のことを指しているようだ。
道標から道なりに進み、「ガーデンガーデン」のある交差点を左折する。
ガーデンガーデンからしばらく進むと、小さな松並木が見えてくる。
飯村の松並木は、江戸時代から昭和30年代まで、街道の両側に100本を超える立派な松並木が残っていたが、道路拡張や松くい虫の被害によって激減し、最後の江戸時代からの大黒松も平成19年(2007年)に伐採されてしまった。その前年の平成18年(2006年)に、地元小学生が黒松を植樹したそうだ。
今は小さな松が生えているだけだが、あと数十年後に通れば、立派な松並木を通ることができるのかもしれない。
この松は150年程度生きていたようだが、松くい虫の被害に遭い、平成19年(2007年)に伐採されてしまったようだ。先ほど、このクロマツの丸太を二川宿本陣資料館で見た。
そのまましばらく歩くと、清晨寺(せいしんじ)がある。
清晨寺は永禄11年(1568年)創立の曹洞宗の寺院である。本堂前にある「いむれ社明安心観音」は平成30年(2018年)5月19日に、創建450年を記念して建立されたものという。
そのまま進むと国道1号線と合流する、殿田橋交差点に飯村一里塚跡がある。
江戸から73里目の一里塚だが、この石碑以外に残るものはない。
これは、初めて見るマンホールだ。
このマンホールは、豊橋市制90周年を記念して平成8年(1996年)に製作したデザインマンホールである。
国の登録有形文化財である豊橋市公会堂を背景に、大正14年(1925年)から市電の愛称で親しまれている路面電車と豊橋市の花であるツツジをデザインしている。
4.豊橋市道路元標
瓦町交差点に、壽泉寺がある。
壽泉寺は臨済宗妙心寺派の寺院である。三重塔が立派だ。
西新町交差点に水準点を見つけた。一等水準点第001-295号だ。
一等水準点第001-295号は金属標型の水準点で、設置時期は不明。
東八町交差点に着くと、豊橋鉄道市内線が見えてくる。東海道唯一の路面電車がある街、それが豊橋だ。
東八町交差点には、巨大な秋葉灯籠もある。
この秋葉灯籠は「吉田中安全秋葉山常夜燈」といわれ、文化2年(1805年)に吉田城下での度重なる大火に対する安全祈願などを理由に建てられた。
昭和55年(1980年)に豊橋公園内に移され、平成13年(2001年)からは本来の場所に近い現在地に移転している。
東八町交差点には、東惣門もある。
東惣門は鍛冶町の東側に一する下モ町の吉田城惣堀西で東海道にまたがって南向きに建てられていた。惣門は朝六ツ(午前6時)から夜四ツ(午後10時)まで開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていたという。
ここから先は、城下町特有のクランクがあるので注意したい。
まず、「東海道」が2つある交差点を右折する。
「メディカルハンズ 豊橋公園前院」の前を左折。
「とびだし坊や(?)」のある交差点を右折する。
「旧東海道」と書かれたシールが貼ってある家が交差点にある。
「ヘアーサロンムラタ」のある交差点を左折する。
すぐ突き当たるので突き当たりを右折する。
わかりづらいので、拡大図を掲載する。
先ほどの豊橋市公会堂、路面電車、ツツジの白背景マンホールを発見した。
札木停留場のある交差点の手前の交差点に、豊橋市道路元標がある。
道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では2,000基程度しか残っていない。
全国の2,000基程度のうち、愛知県内には115基の道路元標が残っており、全国的にもかなり残っている県である。前回も「二川町道路元標」が登場した。
ここに豊橋市道路元標が建てられているが、ここは東海道と豊橋市公会堂からのびる道の交差点であり、ここが豊橋の中心だった、ということだろう。
札木停留場のある交差点に「吉田宿問屋場跡」がある。
ちなみに、「豊橋」という地名は明治になってからつけられたもので、それ以前は「吉田」と呼ばれていた。
吉田は、吉田城の城下町であるとともに、東海道34番目の宿場町でもあった。
宿場の中枢をになう2軒の本陣、1軒の脇本陣、人馬の継立の業務を行う問屋場などは、ここ札木に集まっていたようだ。
札木停留場が見える。ここで東海道は一旦終了とする。
5.豊橋市公会堂
現在時刻15時半過ぎ。少し豊橋市街地を歩いてみようと思う。
西八町交差点に水準点がある。一等水準点第001-296号だ。
これは金属標型の水準点で平成8年(1996年)に設置されたようだが、鉄蓋に阻まれて確認できない。
「手筒花火」のデザインと「豊橋市電」のデザインの緑背景のデザインマンホールを発見した。
西八町交差点から少し北に進むと、歩兵第十八聯隊の門がある。
歩兵第十八聯隊は大日本帝国陸軍の聯隊で、豊橋に本部があった。
歩兵第十八聯隊の門に、三角点がある。四等三角点「中八町地上」だ。
四等三角点「中八町地上」は平成5年(1993年)に設置された比較的新しい三角点である。
西八町交差点のひとつ北側の交差点で右折すると豊橋市役所がある。
豊橋市役所は東館は平成5年(1993年)、西館は昭和54年(1979年)に改築された。
豊橋では、大正から昭和初期にかけて盛んに集会が開かれたが適当な施設がなかったので、豊橋市民は公会堂の建設を熱望するようになった。
昭和3年(1928年)、豊橋市議会で昭和天皇の御大典奉祝記念事業として、総工費170,588円(1円=現在の4,000円なので現在の価格に換算すると6憶8235万円ほど)、鉄筋コンクリート造り3階建て、延べ床面積2,800㎡、大講堂収容人数1,005席の、豊橋で最初の大型建造物の建設が決まった。市制25周年を迎えた昭和6年(1931年)8月に完成した。
正面の大階段やロマネスク様式の16mの高さがある両側の半球ドームは中近東の建物のようである。ドーム脇の4羽のワシは今にも飛び立ちそうな躍動感があり、荘厳で重厚、レトロな外観は、豊橋のシンボルとなっている。
なかを覗いてみたところ、のど自慢大会をやっていて、気軽に入っていけそうな雰囲気ではなかったのですぐに撤退した。
また、豊橋市公会堂の前には綺麗な「豊橋市電」カラーマンホールがある。
6.豊橋ハリストス正教会・安久美神戸神明社
豊橋市公会堂から少し西に行ったところに豊橋ハリストス正教会がある。
豊橋ハリストス正教会は、大正4年(1915年)に豊橋の大工が京都までいき、京都正教会をモデルにビザンチン様式のドーム建築を学んで建てた愛知県内最古の正教会である。
ハリストスとはギリシア語でキリストのことで、豊橋ハリストス正教会はギリシア正教に属する。
豊橋へのギリシア正教の布教は明治8年(1875年)にはじまり、その後信者も増え、明治12年(1879年)には中八町に1階が集会所、2階が祈禱所の会堂ができていたという。
昭和20年(1945年)の三河地震にもたえた建物だが、令和6年(2024年)6月まで保存修理中のため見ることができなかった。
ちなみに豊橋ハリストス正教会の外見を見たければこちらのサイトを参照するとよい。
豊橋ハリストス正教会の隣にある神社が安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)である。
創建は、天慶2年(939年)の平将門の乱の際、朱雀天皇が伊勢神宮に平定祈願し、その成就の礼に翌年、三河国飽海郡を安久美神戸として寄進したことによる。
明治18年(1885年)に吉田城内に歩兵第十八聯隊が設営されたのを機に現在地に移転し、昭和26年に安久美神戸神明社と改称した。
平安時代にはじまったとされる安久美神戸神明社の鬼祭りは、現在は毎年2月10・11日に実施され、国の繁栄や農作物の豊作を祈り、神楽や田楽、歩射・占卜(せんぼく)行事(榎玉(ねぎたま)神事)・神輿渡御(しんよとぎょ)などが行われる。
田楽の一部に「赤鬼と天狗のからかい」がある。
高天原(たかまがはら)の大神様のところに荒ぶる神(赤鬼)があらわれていたずらをするので、武神(天狗)がこらしめようとして両神秘術をつくして戦い、ついに和解して一同喜んで神楽の舞をした、という内容である。
こらしめるのではなく和解、大切なことである。一度見てみたいと思う。
東照宮御腰掛松を見つけた。
その昔、天文23年(1554年)に徳川家康が吉田城にいたとき、この松の木の下で鬼祭りを見たことがあったという。
7.豊橋公園
豊橋市美術博物館では豊橋の歴史に関する常設展を見ることができる…はずなのだが、残念ながら空気環境調整のため休館中で、令和6年(2024年)3月1日にリニューアルオープン予定らしい。リニューアルオープンしたら、また来よう。
ポケふた(ポケモンのマンホール)を見つけた。
バクフーンが描かれている。手筒花火にちなんでバクフーン、なのだろうか?
「此処に歩兵第百十八聯隊ありき」と書かれた石碑があった。ちなみに歩兵第百十八聯隊は昭和16年(1941年)から昭和19年(1944年)の3年間のみ存在した組織だったらしい。
豊橋公園のなかに、彌健神社がある。なんと、社殿がなく、そこに銅像がある。
彌健神社とは歩兵第十八聯隊(明治17年(1884年)創設、昭和19年(1944年)廃止)のなかにあった神社で、現在は軍人記念碑の上に建てられていた神武天皇の銅像が移設されている。
軍人記念碑は、歩兵第十八聯隊の戦病死者を追悼するため、明治32年(1899年)八町練兵場の南、中八町に巨大な石垣の上に建設されたという。
その後、大正5年(1916年)には練兵場内の北側に移設され石垣は撤去されたという。
聯隊のなかの神社、社殿がない神社…これが残っているのはかなり珍しいと言わざるを得ない。実際、初めて見た。
豊橋公園の北西奥に、吉田城鉄櫓がある。
吉田城は、永正2年(1505年)、当時今川方に属していた牛久保城主牧野古白によって築城され、今橋城とよばれた。
その後、今橋城は今川・武田・松平の激しい攻防のなかで吉田城と改名された。
永禄8年(1565年)、松平元康(後の徳川家康)の三河統一を機に家臣の酒井忠次が城主となった。
そして天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い池田輝政が15万2000石の城主となり、豊川と朝倉川を背に、本丸を中心に同心円状に堀が取り囲む半円郭式縄張りを行った。その際、城域を大幅に拡張するとともに城下町の整備のため大手門を飽海から現在の大手町に移した。
現在残っている鉄櫓(くろがねやぐら)は昭和29年(1954年)の豊橋産業文化大博覧会のときに再建されたものである。
さあ、鉄櫓に入ろう!としたら入ることができなかった。どうやら10時から15時の間しか開いていないらしい(このとき16時半だった)。悔しいのでリベンジしたいところである。
今度はピンク背景の「手筒花火」マンホールを見つけた。
豊橋公園前停留場から豊橋市電に乗る。都内にはあまり路面電車がないので、旅情を感じる。
豊橋駅から新幹線に乗る前に、腹ごしらえをしたいと思った。入ったのは、愛知名物「あんかけスパ」が食べられる「スパゲッ亭チャオ」。
私は「バイキング」というウィンナーとチキンカツが乗ったあんかけスパをいただいた。
あんかけのソースが温かく、チキンカツのサクサク加減も絶妙で美味しい。豊橋に来たらまた来ようと思った。
幸せの余韻に浸りつつ、翌日は会社なので新幹線で東京に帰ることにした。
次回は、札木停留場から御油駅まで歩く予定である。
歩いた日:2023年11月12日
次回記事はこちら↓
【参考文献・参考サイト】
愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社
風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第9集」
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html
二川宿本陣資料館
東三河を歩こう 清晨寺
https://www.net-plaza.org/KANKO/toyohashi/tera/seishinji/index.html
https://www.city.toyohashi.lg.jp/30054.htm
https://www.honokuni.or.jp/toyohashi/spot/000039.html
豊橋市美術博物館
(2023年12月18日終閲覧)