10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅

 前回、御油駅から藤川駅まで歩いた。今回は藤川駅から岡崎公園前駅まで歩こうと思う。岡崎城下町は「東海道岡崎城下二十七曲り」と言われ、27回ものクランクがある。寄り道しつつ見失わないように、歩いていこうと思う。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.十王堂

 今日は藤川駅からスタートだ。

藤川駅

 少しお腹がすいているのと、藤川宿の御宿場印をもらうために道の駅藤川宿へ立ち寄る。

道の駅藤川宿

 道の駅藤川宿の前で消火栓を見つけた。

 これは昭和62年(1987年)に製作したデザインマンホールの岡崎城と桜、三河花火を背景に、岡崎市消防本部マスコットキャラクターのレッサーくんとはしご車が描かれている。

 

 道の駅藤川宿に入り、御宿場印とマンホールカードをゲットした。

御宿場印

マンホールカード

 このマンホールは内藤ルネのマンホールで、内藤ルネ昭和7年(1932年)に岡崎市で生まれたイラストレーター、デザイナーである。岡崎市内7か所に内藤ルネマンホールが設置してあり、道の駅藤川宿の前にも設置してある。

 

 道の駅藤川宿でモーニングセットをいただいた。

モーニングセット

 岡崎の地鶏卵「ランニングエッグ」に、岡崎市産のむらさき麦ごはん、むらさき麦きしめんとさらにサラダやコーヒーもついて600円。

 これを読んでる人に道の駅藤川宿へ行く機会がある人がいるかはわからないが、オススメしたい逸品である。

 

 卵かけごはんを食べて元気になったところで、東海道ウォークを始めよう。

 

 少し歩いていったら、藤川宿の西棒鼻があった。

藤川宿西棒鼻

 「棒鼻」とは棒の端、すなわち棒の先端をいい、それが転じて、宿場のはずれを「棒鼻」と称し、したがって宿場町では東、西の両方のはずれをいう。

 藤川駅は、藤川宿の西のはずれにあるのですぐ西棒鼻となった。藤川宿について詳しく知りたい人は前回の「東海道を歩く 31.御油駅~藤川駅」10.藤川宿 を参照してほしい。

 

 藤川宿西棒鼻から少し行ったところに、十王堂がある。

十王堂

 十王堂とは、10人の王を祀る堂で、その王とは、冥土にいて、亡者の罪を裁く10人の判官をいう。

 泰広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)、宗帝王(そうていおう)、五官王(ごかんおう)、閻魔王(えんまおう)、変成王(へんじょうおう)、平等王(びょうどうおう)、太山王(たいざんおう)、都市王(としおう)、五道転輪王(ごどうてんりんおう)の10人である。

 藤川宿の十王堂はいつごろ創建されたかは不明だが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年(1710年)七月」と書かれているので、この十王堂の創建はこの年であると推測されている。

 

 十王堂の隣には松尾芭蕉の句碑がある。

 「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた はせを」と刻まれている。

 「在原業平により、かきつばたで有名な知立宿も三河なら、この藤川宿も三河、ここにはむらさき麦というかきつばたに劣らぬものがありますよ」と詠んでいる。

 むらさき麦は戦後に姿を消したが、30年ほど前から藤川の町おこしとして、地元民が栽培を復活させている。先ほど食べたモーニングセットのごはんときしめんにもむらさき麦が使われていた。

 

2.藤川の松並木

 十王堂から少し行くと、藤川宿の一里塚跡がある。

藤川宿の一里塚跡

 藤川宿の一里塚跡は江戸から79里の一里塚である。

 一里塚の上には榎が植えられているものだが、南側の一里塚の榎は天保年間(1830年頃)にはすでになくなってしまい、北側の榎も昭和初期にはなくなってしまったようだ。

 

 吉良道の道標を見つけた。

吉良道道

 東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現在の岡崎市福岡町)、西尾、吉良(旧幡豆郡吉良町、現在は西尾市に合併)方面へ出る道がある。この道を「吉良道」と呼んでいて、その分岐点にこの道標が立っている。

 

 吉良道道標を見て踏切を越えると素晴らしい景観が広がっている。藤川の松並木だ。

藤川の松並木

 慶長9年(1604年)、江戸幕府東海道を整備するなかで、道の両側に築かれた土塁に松が植えられた。松並木は夏は木陰となり、冬は防風林となり、街道を行く旅人に安らぎを与えていた。

 藤川の松並木は旧東海道にあたる、愛知県道市場福岡線および、岡崎市道藤川北荒古6号線の約1kmにわたる。その間に100本あまりのクロマツが並び、当時の景観を今にとどめている。

 松並木を気持ちよく歩いていると藤川町西交差点で国道1号線に合流し、松並木は終わる。

 

 ひたすらに国道1号線を歩き、竜泉寺川を渡る少し前で旧道に入る。

 

 藤川の松並木ほどではないが、少しだけ松が生えているのがうれしい。

 

 ひたすら旧道を歩き、乙川を渡るところで国道1号線に戻り、乙川を渡る。橋の上に323キロポストも見つけた。

乙川

323キロポスト

 このマンホールは初めて見る気がする。

 このマンホールは岡崎城と、乙川を走る五万石船がデザインされている。

 

3.西大平陣屋跡

 乙川を渡るとまた旧道に戻り、大平町東交差点で国道1号線に交差しつつも旧道を進む。

 本日初の秋葉灯籠を見つけた。

秋葉灯籠

 秋葉神社の信仰が秋葉信仰で、それにより秋葉灯籠が設置される。

 秋葉神社の正式名称は秋葉山本宮秋葉神社といい、浜松市天竜区にある。

 火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓う火伏開運の霊験が最も有名だが、そのほかにも火災消除、家内安全、厄除開運、商売繁盛、工業発展にも霊験があるという。

 

 秋葉灯籠から進むと、「つくで道」の道標を見る。つくで道は、新城市の作手(つくで)に至る道である。

つくで道

 「西大平藩陣屋跡」「大岡稲荷社」とあったので、覗いてみる。

西大平藩陣屋跡

 西大平藩の成立は、大岡忠相寛延元年(1748年)に奏者番寺社奉行に就任して三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石を加増され1万石の譜代大名となり、西大平に陣屋を設置したことに始まる。

 安永元年(1772年)以降は藩領の変動はなく、三河国内に9,000石、上総国相模国に1,000石の領地があり、9割が三河国内の領地となっていた。

 西大平に陣屋が置かれたのは東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地が最も多かったことが考えられている。

 

 初代藩主、大岡越前守忠相は徳川8代将軍吉宗のもとで江戸町奉行として仕え、享保の改革として多くの改革を行った。

 著名なものに、相対済し令(金銀貸借などお金関係の訴訟は当事者同士で解決するよう命じた法令)、目安箱の設置、小石川養生所(無料医療施設)の設置、いろは四十七組の町火消の組織化、江戸防火対策である火除地の設置、建築基準(屋根を瓦葺きにするなど)の設置など、江戸庶民の生活向上に尽力した。

 しかし初代の大岡忠相が藩主だったのはわずか3年間で、宝暦元年(1751年)に亡くなっている。その後は廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていた。

 

 西大平藩陣屋跡の一角に、大岡稲荷社がある。

大岡稲荷社

 大岡越前守忠相は、領地に近い三河国宝飯郡豊川村にある豊川稲荷の本尊、「吒枳尼眞天(だきにしんてん)」を厚く信仰していた。

 江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷の分霊社として赤坂稲荷を祀り、西大平陣屋内に大岡稲荷として社殿を建立し、「豊川吒枳尼尊天」を本尊として祀った。

 

4.大平一里塚

 西大平陣屋跡をあとにして、東海道を歩いていくと大平一里塚がある。

大平一里塚

 大平一里塚は東海道の一里塚のうちのひとつで、日本橋から80里にあたる。

 現在の大平一里塚は、昭和3年(1928年)に道路改修の際、北側の塚は破壊され、南側だけが残ったもので、塚の大きさは高さ2.4m、底部縦7.3m、横8.5mで、中央には榎が植えられている。

 北側の塚は破壊されたが、そのかわりに(?)、大きな秋葉灯籠が設置されていた。

 

 大平一里塚から少し進み、大平八幡宮に参拝する。

大平八幡宮

 大平八幡宮の創建年代は不詳だが、明治42年(1909年)に白山社、御鍬社、日枝社を合祀しているようだ。

 ちなみに住所、氏名、日付を書き、300円と一緒に賽銭箱に入れれば御朱印を送ってくれるそうだが、そこまではしなくていいかな…と思った。

 

 また国道1号線に戻るが、一旦旧道に入り、国道1号をカルバートでくぐって進む。

 

 スイセンが綺麗に咲いていた。

 

 歩道に小さな松並木がある。こういうのでも、嬉しくなる。

 

 秋葉灯籠の下に…水準点発見!

 一等水準点第165-1号は明治33年(1900年)に設置された古い標石型の水準点である。100年以上前に設置された割には綺麗だ。

 

 冠木門があり、岡崎二十七曲がりの始まりを告げる。

 天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封後に岡崎城主となった田中吉政は、以後10年間を岡崎城主としてすごしたが、彼の最大の課題は、関東の家康に対する備えをもったあらたな城下町の建設であった。

 吉政は、城下町を堀と土塁で囲む総曲輪とし、櫓門を築いて防備をかためるとともに、それまで乙川の南をとおっていた東海道を城下町に引き入れた。その際、城下の道を防衛上の必要性から屈折の多い道にかえた。これは、外敵に対して城までの距離をのばすとともに、間道を利用した攻撃や防衛を目的としていた。

 このことで、岡崎宿の町並みは東海道の各宿場町のなかでもっとも長いものとなり、岡崎二十七曲がりとよばれるようになった。

 

5.丸石醸造

 まず、冠木門のある交差点を北に向かい、若宮町2丁目交差点を左折する。

 

 「い これより次の両町角まで 650m」と書かれている看板が目印だ。

 

 根石観音堂を見つけた。普段は若宮町公民館として使用しているらしい。

根石観音堂

 和銅元年(708年)に悪病が流行り、人々は苦しんでいた。

 このことに心を悩んだ元明天皇行基を呼び、悪疫を絶やしてほしいと願った。

 そこで行基は6体の観音像を彫り、そのうちの2体を根石の森に勧請、17日間祈祷を続けたところ悪病は収まり、人々は大変喜んだ。このうち1体がこの観音堂に納められている。

 また、岡崎三郎信康も天正元年(1573年)の初陣のときにこの観音様に祈願し、軍功をあげて以来開運の守り尊像としてあがめられているようだ。

 

 東海道はまだ西に進むが一旦寄り道で両町3丁目交差点で右折し、丸石醸造に向かう。

丸石醸造

 丸石醸造は創業者・投町三太夫が酒造りの方法を知り、元禄3年(1690年)に酒造業を興したことに始まる。

 明治時代に入り木綿業・銀行業などの事業拡大をしつつ、明治33年(1900年)に灘で酒造りを始めた。当時は灘の酒を「長誉」、岡崎の酒を「三河武士」としていた。その後岡崎で焼酎、みりん、味噌、醤油造りなども始める。

 しかし太平洋戦争中の岡崎空襲により蔵のほとんどを失うが、わずかに残った味噌蔵を再築、日本酒造りを再開し、現在に至っている。

 現在作っている銘柄は「二兎」「徳川家康」「三河武士」「長誉」「魅惑の果実」。

 友人は酒が苦手なのと、私もそこまで強くはない。そして日本酒を持ち帰るにも重いので、「大吟醸徳川家康アイス」を食べることにした。ほのかに日本酒の風味がして美味しかった。

 

 両町3丁目交差点に戻り、東海道をまた歩き始める。

 「は これより次の伝馬町角にまで 80m」と書かれた交差点を右折する。

 

 秋葉灯籠が展示されていた。

 この秋葉灯籠は寛政2年(1790年)に建てられたもので、空襲で崩れかけるも昭和47年(1972年)まで原型をとどめていた。

 しかし傷みがひどくなったので取り壊し、宝珠だけを残して保存している。

 

 次の交差点で左折して先に進む。

 

 また寄り道する。伝馬町通5丁目交差点で右折し、曙町2丁目交差点で右折、すぐ左手側に真宗大谷派 三河別院がある。

真宗大谷派 三河別院

 真宗大谷派 三河別院は明治23年(1890年)に建てられた新しい寺院である。しかし当時の本堂は空襲で焼失したため、昭和43年(1965年)に再建された。

 真宗大谷派 三河別院に寄る途中に徳王稲荷金刀比羅社を見つけたので、そちらにも寄る。

徳王稲荷金刀比羅社

 徳川家康も弓の稽古で訪れた由緒正しい神社で、徳王稲荷社と金刀比羅社に2社が合祀されている。

 徳王稲荷金刀比羅社では御朱印をいただいた。

 

6.隋念寺

 伝馬通5丁目交差点から東海道に戻り、少し西に進んでからまた寄り道で、隋念寺に向かう。

隋念寺

 隋念寺は、徳川家康が祖父の松平清康と叔母の久子の菩提をとむらうため、永禄5年(1562年)に創建したもので、松平家・徳川家の菩提寺大樹寺15世の麘誉魯聞(こうよろぶん)上人を開基としている。

 松平清康は天文4年(1535年)、尾張への勢力拡大をねらった守山の陣中で、家臣の阿部弥七郎に殺された。その遺骸は岡崎に運ばれこの地で荼毘に付され墓塔が建てられた。

 また、永禄4年(1561年)、生母の於大との生別以来、家康を養育してきた久子が没すると、彼女の遺言でその墓塔が清康の墓と並んで建てられた。寺号は、久子の法名、隋念院にちなんで仏現山隋念寺と名づけられた。

 本堂は元和5年(1619年)、2代将軍の徳川秀忠によって再建されたもので、三河浄土宗本堂のなかでは最古のものらしい。

 学制が公布された明治5年(1872年)の翌年に第一番小学岡崎学校がおかれ、明治32年(1899年)には、愛知第二師範学校(現在の愛知教育大学)の開校準備も隋念寺で行われた。

 

 隋念寺でも御朱印をいただいた。

 

 隋念寺をあとにして、東海道に戻る。伝馬交差点に備前屋を見つけた。

備前

 備前屋は天明2年(1782年)創業の和菓子屋で、「あわ雪」という銘菓を売っている。

 「あわ雪」は明治元年(1868年)に3代目が創作した和菓子である。あわ雪の名は、岡崎宿の名物であった「淡雪豆腐」にちなんでつけられたものである。

 あわ雪は砂糖と寒天、卵白で作った和菓子で、翌日に食べたが不思議な食感がして、淡い甘さが美味しかった。

あわ雪

 備前屋の前にはさまざまな石像が置かれている。これは茶壷の石像。

 寛永9年(1632年)に宇治茶を将軍家に献上することに始まったのがお茶壷道中である。行程の都合により、岡崎伝馬宿で一行が御馳走屋敷で休むことになり、御馳走屋敷には岡崎藩の家老が出向き、丁重にもてなしたとの記録が残っている。

 

 これは朝鮮通信使の石像。

朝鮮通信使

 江戸時代を通し、李氏朝鮮は将軍に向けて12回ほど使節の派遣をした。

 一行は瀬戸内海を抜け、大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かう途中、岡崎宿に泊まった。岡崎宿は将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地であったので、岡崎宿の応対は一大行事であったようだ。

 

 助郷の石像。

助郷

 助郷とは宿場で公用旅行者に継立する人馬の基準数、人70人、馬80匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、元禄7年(1694年)に正式に実施されている。

 助郷負担の話は東海道でもたびたび聞くが、岡崎も例外ではなかったようだ。

 

 こちらもほかの宿場でも登場する、飯盛女。

飯盛女

 飯盛女は旅籠で旅人の給仕などをする女性だったが、唄や踊りを披露する遊女でもあった。

 岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文に記されるなど全国的に有名だったらしい。

 しかし飯盛女の華やかさの裏には悲惨な世界もあることを忘れてはならない。御油宿の遊女の悲劇の話は、前回「東海道を歩く 31.御油駅~藤川駅 1.御油のマツ並木」の東林寺で取り上げたばかりだ。

 

 田中吉政は、先ほども取り上げた通り岡崎二十七曲がりなど、岡崎のまちづくりを行った人物だ。

田中吉政

 

 各宿場の人足会所・馬会所で宿場ごとに馬や人足を雇いながら旅をしたが、これを人馬継立という。東海道では53ヶ所の宿駅でこのような継立をしたので「東海道五十三次」と呼ばれたのだ。

人馬継立

 

 三度飛脚の像もあった。

三度飛脚

 飛脚は現在でいう郵便配達人にあたり、あずかった書状などを入れた箱をかつぎ、目的地に届けていた。

 飛脚には公用の継飛脚、大名飛脚のほか、一般用の町飛脚があり、三度飛脚というのは毎月東海道を3往復したことからその名がある。東海道は492kmもあり、マラソンランナーもびっくりである。

 

 これは塩船の像。

塩船

 塩座というのは塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し、伝馬町では国分家などが商っていた。塩は塩船に載せて運ばれてきたようだ。

 

 タイの石像があったが、これは御馳走屋敷で出てくるタイをイメージしたものらしい。

 御馳走屋敷とは、現在の岡崎信用金庫資料館あたりにあった屋敷のことで、公用の役人などをもてなす岡崎藩の迎賓館だったそうだ。

 

 石像を見終わると、また岡崎宿二十七曲がりのクランクがあり、左折する。

 

 次の交差点でまた右折。

 

 明治に建立された古い道標がある。

 「↑東京みち ←西京いせ道 ↓きらみち」と書いてある。

 

7.岡崎信用金庫資料館

 歩いていると、突然大きな赤レンガの建物が右手側に現れる。岡崎信用金庫資料館だ。

岡崎信用金庫資料館

 岡崎信用金庫資料館は鈴木禎次(すずきていじ)が設計した。鈴木禎次は東京帝国大学辰野金吾に師事していた。どうりで辰野金吾の建築に似ていたわけだ。

 また、鈴木禎次の奥さんと夏目漱石の奥さんが姉妹だったこともあり、夏目漱石とも仲が良く、漱石の小説に登場したこともあったようだ。

 鈴木禎次設計作品は97件現存しており、そのうち56件が愛知県に現存、51件が名古屋市内に現存している。それもあって「名古屋をつくった建築家」とも呼ばれている。

 

 1階は鈴木禎次についての展示、2階は世界のお金についての展示である。

 まず、江戸時代の小判などを見る。

 

 続いて日本の記念硬貨天皇陛下(現在の上皇陛下)御即位記念10万円金貨、実家にあった気がする。令和の天皇陛下のときも販売されて、一瞬欲しいなと思ったけど10万円も払えないので諦めた。

 

 古い紙幣も展示されている。このうち、古い10,000円札(福沢諭吉が描かれているのは同じだが、裏に鳳凰ではなく雉が描かれている)、2代前の聖徳太子が描かれた5,000円札、夏目漱石が描かれた1,000円札は持っている。いずれ、現在使われている福沢諭吉樋口一葉野口英世のお札も渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎のお札に置き換わっていくだろう。

 

 世界のお金も展示されている。

 一番右のベトナムは見事に同じ人物が描かれている。同行していた友人は仕事でベトナムに行ったことがあるので「これ誰?」と聞いたら「ホー・チ・ミン」と答えられた。

 ホー・チ・ミンベトナムの革命家・政治家で、植民地時代からベトナム戦争までのベトナム革命を指導した建国の父である。

 1万ドン、2万ドン、5万ドン、10万ドンが置かれていて、「1万ドンって日本円だといくら?」と友人に聞いたら「60円くらいだからチロルチョコは3つしか買えないよ」と答えられた。つまり1番上の10万ドンでも、野口英世に満たない、ということか…。

 

 インド、パキスタン、イランのお札が並ぶ。とりあえず全部同じ人物が描かれているのはわかる。

 インドはマハトマ・ガンディーが描かれている。マハトマ・ガンディーはインドの宗教家・政治指導者でインド独立の父として知られる。

 余談だが、ガンディーの誕生日は10月2日、私の誕生日も10月2日。ガンディーの誕生日はインドでは国民の休日になっているので、もしインドに生まれていたら私の誕生日が国民の休日だった…!と考えたことはある。

 パキスタンのお札はムハンマド・アリー・ジンナーが描かれている。ムハンマド・アリー・ジンナーは独立パキスタンの初代総督として知られる。

 イランのお札はルーホッラー・ホメイニーが描かれている。ルーホッラー・ホメイニーはイラン革命の指導者で、以後はイラン・イスラム共和国の最高指導者となった人物だ。

 

 ドイツとフランスは日本同様、額によって描かれている人は違う。

 ドイツの50マルク紙幣はヨハン・バルタザール・ノイマン(建築家)、100マルク紙幣はクラーラ・ヨゼフィーネ・シューマン(ピアニスト・作曲家)、500マルク紙幣はアンナ・マリア・ジビーラ・メーリアン(画家)、1000マルク紙幣はグリム兄弟(文学者、グリム童話集の編集者)。

 フランスの50フラン紙幣はアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(小説家・飛行家、「星の王子さま」の著者)、100フラン紙幣はポール・セザンヌ(画家)、200フラン紙幣はギュスターヴ・エッフェル(建築家、エッフェル塔の設計者)、500フラン紙幣はキュリー夫妻(物理学者、ラジウムを発見した)。

 現在ではどちらもユーロに置き換えられてしまったが、調べてみるとグリム兄弟、サン=テグジュペリ、キュリー夫妻など知っている人の名前もあって面白い。

 

 ロシアとベラルーシは都市や建物が描かれているのが面白い。

 ロシアは都市が描かれていて、50ルーブル紙幣はサンクトペテルブルク、100ルーブル紙幣はモスクワ、500ルーブル紙幣はアルハンゲリスク、1000ルーブル紙幣はヤロスラヴリとなっている。

 ベラルーシは建物が描かれている。50ルーブル紙幣はブレストの英雄要塞、1000ルーブル紙幣は国立美術館、5000ルーブル紙幣は体育宮殿、10000ルーブル紙幣はヴィチェプスクという都市の全景が描かれている。

 ウクライナの紙幣も偉人で、5フリヴニャ紙幣はボフダン・フメリニツキー(貴族、ウクライナ・コサックの指導者)、10フリヴニャ紙幣はイヴァン・マゼーパ(政治家)、20フリヴニャ紙幣はイヴァン・フランコ(作家)、50フリヴニャ紙幣はミハイロ・フルシェフスキー(歴史学者、政治家)である。

 

 東カリブ通貨同盟の紙幣は全てエリザベス女王が描かれている。

 ちなみにこのお札はアンティグア・バーブーダセントルシアドミニカ国グレナダ、セントクリストファー・ネービス、セントビンセント・グレナディーン諸島、アンギラ、モンセラットの8か国・地域で使えるようだ。

 

 マダガスカルの紙幣は面白い。

 500マダガスカルアリアリ紙幣にはかごを織る男性、1000マダガスカルアリアリ紙幣にはクロシロエリマキキツネザル、2000マダガスカルアリアリ紙幣にはバオバブの樹、5000マダガスカルアリアリ紙幣には船が描かれている。

 中央アフリカCFAフランガボン、チャド、赤道ギニア中央アフリカコンゴカメルーンの6か国で流通している。

 500中央アフリカCFAフラン札は学校教育、1000中央アフリカCFAフラン札は林業、2000中央アフリカCFAフラン札は水力発電、10000中央アフリカCFAフラン札は中部アフリカ諸国銀行が描かれている。なお、描かれている人物は特定の人物ではないらしい。

 

 南アフリカのお札には動物が描かれている。

 10ランド紙幣はサイ、20ランド紙幣にはアフリカゾウ、100ランド紙幣にはアフリカスイギュウ、200ランド紙幣にはアフリカヒョウが描かれている。

 エジプトのお札も面白い。10ポンド紙幣にはカフラー王の彫像、20ポンド紙幣にはセソストリス神殿、50ポンド紙幣にはエドフ神殿、100ポンド紙幣にはスフィンクスが描かれている。

 

 西アフリカCFAフランのお札はどれも同じで、教育と医療が描かれている。

 ナイジェリアは50ナイラ紙幣にはイボ・ヨルバ人の人々が描かれているが、100ナイラ紙幣にはオバフェミ・アウォロウ(政治家)、200ナイラ紙幣にはアフマドゥ・ベロ(政治家)、500ナイラ紙幣にはンナムディ・アジキウェ(政治家)が描かれている。

 

 世界のお金を見終わると、岡崎信用金庫についての説明があった。

 岡崎信用金庫大正13年(1924年)に有限責任岡崎信用組合として設立し、昭和26年(1951年)に岡崎信用金庫となった。

 現在は愛知県東部を中心に多くの支店を持ち、岡崎市には本店を含め34店舗ある。

 

8.菅生神社

 岡崎信用金庫資料館をあとにして、緑道のある道を右折して直進すると籠田公園がある。

籠田公園

 籠田公園は昭和33年(1958年)に開園した公園である。

 右手に鳩の像があるが、これは戦災復興之碑である。

戦災復興之碑

 戦災復興之碑は岡崎空襲の慰霊碑である。

 岡崎空襲とは、昭和20年(1945年)7月19日から20日にかけて行われた空襲で、280名の死者を出した。そっと手を合わせる。

 

 籠田公園の北西端に大きな秋葉山常夜燈がある。

秋葉山常夜燈

 この秋葉山常夜燈は寛政10年(1798年)に石工の七左衛門によって籠田総門付近に建立されたものである。

 岡崎空襲にも被災することなく残り、昭和25年(1950年)に籠田公園に設置、昭和56年(1981年)に現在地に移転した。

 

 籠田公園北西交差点から西に向かう。岡崎シビコ北の交差点で東海道は右折するが、菅生神社に寄り道するために直進する。

 岡崎藩校允文(いんぶん)・允武(いんぶ)館跡を見つけた。

岡崎藩校允文・允武館跡

 岡崎藩主本多忠直は江戸にあった藩校を明治2年(1869年)にここに移した。その後明治4年(1871年)に市学校を設立して一般市民を教育することになり、藩校は廃止された。明治5年(1872年)に市学校は県立額田郡小学校と改められた。ここは岡崎の学校のはじまりの地なのである。

 

 突き当たりを左折して、国道1号線を越えて南に進むと菅生神社がある。

菅生神社

 第12代景行天皇の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征したとき(110年)、矢を作り、矢を吹き流し、その矢が刺さった場所に伊勢大神を奉祀したのが菅生神社である。菅生神社は岡崎最古の神社とされている。

 徳川家康も25歳のときに厄除け・開運の祈願を行っているなど、歴代岡崎城主も崇敬していたようだ。

 

 菅生神社で御朱印をいただいた。

 

 岡崎藩校允文・允武館跡に戻り、岡崎シビコ北の交差点で北に進む。

 

 次の交差点で左折する。

 

 材木町交差点で右折する。

 

 ファミリーマート岡崎材木町店のある交差点を左折。

 

 柿田橋の手前で左折。

 

 川沿いに白山神社がある。

白山神社

 白山神社は大林寺境内にあったものを天文16年(1547年)6月11日に岡崎城主の松平康忠(徳川家康の父親)が兜のなかに納めていた守護神を鎮座して、ここに社殿を建立したのが起源であったといわれている。

 なお、ここにも秋葉灯籠があった。

 

 川沿いを歩き、次の三清橋で右折。

 

 沖縄でもないのに、なぜか石敢當を発見した。

 石敢當とは丁字路の突き当たり等に設けられる魔除けの石碑で、主に沖縄県に多く分布する。

 

 三清橋を渡ったら、細い道で路地に入る。

 

 すぐに左折。

 

 国道1号に突き当たるので、歩道橋を渡り対岸に行く。次の交差点で右折する(写真撮り忘れ)。

 そのまま直進し、鬼頭理容院のある交差点で右折する。

 

 中岡崎町交差点で「た」の案内板を見る。東海道はここから西に向かっていくが、今日の東海道ウォークはここまでとする。

 

 岡崎公園前駅に到着した。

岡崎公園前駅

 ここから、もう少しだけ歩き続ける。

 

9.岡崎城

 岡崎公園前駅から岡崎城に向かう。岡崎城に入る前に、龍城神社に参拝する。

龍城神社

 龍城神社は明治9年(1876年)、岡崎城内にあった東照宮と映世神社が合祀されてここに建てられたものである。

 東照宮の創建は明らかでなく、当初本丸にあったが、明和7年(1770年)に三の丸に移された。このとき忠勝をまつる映世神社が本丸にたてられている。なお、現在の社殿は昭和39年(1964年)に再建されたものである。

 

 龍城神社でも御朱印をいただいた。

 

 さあ、岡崎城に入ろう。

 

 岡崎城は、明大寺に屋敷を構えていた三河守護代 西郷頼嗣(さいごうよりつぐ)が、康正元年(1455年)、北方への備えから乙川の北側に砦を築いたことが始まりと考えられている。

 その後、安祥城(あんしょうじょう)を居城としていた徳川家康の祖父・松平清康が、当時岡崎に勢力をもっていた大草松平氏の松平信貞(まつだいらのぶさだ)を屈服させて移り、享禄3年(1530年)頃に本格的な築城を行ったとされる。

 徳川家康岡崎城で生まれたため、岡崎城には家康産湯の井戸がある。天文11年(1542年)12月26日、幼名竹千代、のちの徳川家康がここで産声をあげたときに産湯の水を汲んだ井戸である。

 松平清康の死後、家康の父・松平広忠は、東の今川氏と西の織田氏にはさまれて苦闘し、家康も8歳で今川氏の人質となるほか、広忠は家臣の岩松八弥に城内で殺され、岡崎城は今川方の城となった。

 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い後に自立した家康は岡崎城にはいり、10年後に浜松城に移るまでこの城を根拠地としてほぼ三河一石を平定した。

 家康が浜松に移ってからの岡崎城は、家康の長男・松平信康石川数正、本多重次の各城代時代を経て、家康の関東移封後には豊臣秀吉の家臣・田中吉政が入城し、大規模な城郭の整備拡張が行われた。

 元和3年(1617年)に本多康紀が3層3階地下1階の天守閣を完成させたが、明治6年(1873年)から翌年にかけて取り壊された。

 現在のものは、昭和34年(1959年)に復元されたもので、歴史資料館になっており、1階が受付、2階から4階で歴史資料などを展示し、最上階は展望台となっている。

 

 受付を済ませ、2階へ上がると岡崎城の歴史の概要と、ジオラマが展示されていた。

 

 本多忠直所用の登城用具足が展示されていた。

 本多忠直は岡崎藩の第6代の藩主で、幕末期に藩政を行っていた。

 

 江戸時代の胞衣皿が展示されていたが、家康のものではないだろう。多分。

 

 岡崎城下町には戦国時代末に田中吉政が新設した材木町に、美濃国関鍛冶の刀工が移り住み、「兼有」名で代々作刀していた。

 上は龍城臣吉達が作刀した脇指、下は藤原兼有が作刀した脇差である。

 脇差とは日本刀よりも短い日本刀のことである。

 

 太刀 銘三河國龍城。龍が彫ってあって細かい。

 

 3階は岡崎の城下町についての説明とジオラマが展示されていた。城下町についての説明は岡崎宿二十七曲がりや矢作橋、御馳走屋敷など。矢作橋以外は先ほど説明したし、矢作橋についても次回取り上げる予定なので割愛する。

 

 最上階は展望台で、岡崎のまちを一望することができる。

 

 最後に売店で御城印と城カードをゲット。

 

 岡崎城をあとにし、岡崎公園前駅から名鉄に乗って豊橋へ向かう。前回(「東海道を歩く 31.御油駅~藤川駅」)友人と時間の関係で食べそこねた、スパゲッ亭チャオのあんかけスパを食べるためだ。

 野菜をたっぷり使ったチャオソースと絡めて食べるあんかけスパは、美味しかった。

 デザートにカタラーナもいただいた。

 

 名鉄に乗って、岡崎公園前駅の宿に戻る。

 次回は、岡崎公園前駅から知立駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

※今回の地図について

今回は岡崎市街地の東海道のクランクが多く、寄り道もしているため以下の線で区別しています。

赤線…東海道

黒線…東海道以外の寄り道ルート

 

歩いた日:2024年2月10日

この翌日の岡崎市街地まちあるき記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第10集」

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

丸石醸造 会社概要

https://014.co.jp/company/

真宗大谷派三河別院 三河別院の紹介

https://mikawabetsuin.blogspot.com/2013/03/blog-post.html

岡崎おでかけナビ 徳王稲荷社金刀比羅社

http://okazaki-kanko.jp/point/497

文鉄・お札とコインの資料館 海外通貨

https://www.buntetsu.net/mbc/fcc.html

菅生神社 御由緒

http://sugojinja.jp/whatisSugo.html

(2024年3月23日最終閲覧)