10月うさぎの部屋

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江戸三十三観音をめぐる 8.四谷・東円寺編

 前回、江戸三十三観音第17番札所宝福寺に参拝しながら神田川沿いを歩いた。今回は第18番札所真成院に参拝しながら四谷をぶらぶらしつつ、方南町駅に向かい第19番札所東円寺を訪問しようと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.田宮稲荷神社跡・陽運寺

 今日は四谷三丁目駅からスタートだ。

四谷三丁目駅

 

 四谷三丁目駅から国道20号線を離れ、住宅街を歩いていくと田宮稲荷神社跡がある。

田宮稲荷神社跡

 田宮稲荷神社跡は、「東海道四谷怪談」に出てくる「お岩さん」ゆかりの神社である。

 お岩は、幕府御家人田宮又左衛門の娘で、田宮伊右衛門の妻で、美人だったという。

 下級武士の家で生活は苦しくも、お岩はよく働いて家を守り、代々家に伝わる稲荷を厚く信仰していたという。

 このお岩にあやかろうと、家内安全・商売繁盛を祈り、人々は「お岩稲荷」として信仰するに至り、明治以降は田宮神社と呼ばれた。

 なお、お岩は寛永13年(1636年)に病没したという。

 これが事実であり、怪談のもとになるような話はなにもない。

 

 ところが、文政8年(1825年)、四世鶴屋南北は歌舞伎台本「東海道四谷怪談」を書き、三代目尾上菊五郎が浅草の中村座で上演、大当たりした。

 四谷左門町の浪人、民谷伊右衛門の妻お岩が、夫の不実を恨んで憤死し、亡霊となってたたるという怪談物である。

 この話は完全なフィクションながら、南北が各種の事件を素材に、巧みに構成したことや当時エロ・グロが流行していたことからたちまち評判になったという。

 

 お岩さんは真面目に働いて、稲荷を信仰していた人だったのに、後世の人によって亡霊に脚色されてしまったのだ。

 実際、「お岩さんの稲荷に行った」と友達に話したところ、「お岩さんの稲荷って…なんか怖くない?」と言われてしまった。

 「東海道四谷怪談」はヒットしたものの、これはお岩さんにとって名誉毀損といってもいい事案だ。東海道四谷怪談のヒットを、お岩さんはどう思っていたのだろうか。

 

 田宮稲荷神社跡の向かい側に陽運寺がある。陽運寺でもお岩稲荷を祀っている。

陽運寺

 境内には「於岩稲荷水かけ福寿菩薩」がある。「南無妙法蓮華経」と唱えながら菩薩像に水をかけると幸せが訪れるという。私も「南無妙法蓮華経」と小声で唱えながら、水をかけた。

於岩稲荷水かけ福寿菩薩

 

 それにしても、陽運寺の境内には多くの人がいた。「陽運寺は縁結びの寺と説明板に書かれていたからみんなお岩さんにあやかろうとして来たのだろう」と思い参拝客を見ると、みんな同じパンフレットを手に持っている。どうやら、何かのイベントのチェックポイントとして陽運寺が指定されていたらしい。

 その人たちは、パンフレットに何やら書きものをしたら、すぐ陽運寺を出ていってしまった。福寿菩薩に水をかけたり、お堂に参拝する人もいたが、お堂に参拝することなく境内をあとにする人のほうが多いと感じた。

 寺社仏閣に行って「参拝しない」という選択肢がない私として、非常にもったいないことをしているなぁ、と思ったのが正直な感想である。

 

 気をとりなおして、御朱印をいただいた。サルやかぼちゃの絵が描かれていて、とてもかわいい。

 

2.永心寺

 陽運寺の突き当たりを左折すると、本性寺がある。本性寺は日蓮宗の寺院である。

本性寺

 本性寺には萩原宗固(はぎわらそうこ)の墓がある。萩原宗固は江戸中期の国学者歌人である。宗固の門人には、塙保己一(国学者)や松平定信(老中)などがいた。

 本性寺の毘沙門堂は釘を1本も使わない手斧(ちょうな)削りの切組造で、元禄(1688~1704年)頃の建造とされている。

本性寺毘沙門堂

 本性寺の近くに闇坂(くらやみざか)という坂道がある。

闇坂

 闇坂はこの坂の左右にある松巌寺と永心寺の樹木が茂り、薄暗い坂であったためこの名がついたという。今は薄暗くない坂道だ。

 

 闇坂の隣に永心寺がある。

永心寺本堂

 永心寺の本堂は享保11年(1726年)の建立で、北を正面とする方丈型の平面形式をもち、正面中央に向背を設けている。

 新宿区内では希少な江戸時代の寺院建築なので、新宿区指定有形文化財に指定されている。

 

 永心寺の山門も新宿区指定有形文化財に指定されている。

永心寺山門

 山門の正確な建立年代は不明だが、絵様が元禄年間から18世紀中頃の作例に類似していることや、扁額に慶応3年(1867年)の年号が刻まれていることから、江戸時代に造られた門であることは確からしい。

 

 永心寺の向かい側に、勝興寺がある。

勝興寺

 勝興寺には、死罪執行の首打役で「首切り朝右衛門」といわれた山田朝右衛門の墓が墓地入口右側にあったようだが、気がつかなかった。

 

3.須賀神社

 勝興寺をあとにして、須賀神社に向かう。須賀神社の天白稲荷神社があるほうの門は冠木門になっている。

 

 天白稲荷神社に参拝してから、本殿に向かう。

天白稲荷神社

須賀神社

 須賀神社は江戸時代以前は四谷牛頭天王社といったが、明治以降須賀神社と改称された。牛頭天王に稲荷社を合祀する四谷の鎮守となっている。

 須賀神社の天井に三十六歌仙の額がかかげられている。現在の新宿区大京町に住んでいた旗本で画家の大岡雪峰が天保7年(1836年)に奉納、歌は公卿の正三位中納言千種有功(ちぐさありこと)が書いている。参拝するとき、本殿のなかをのぞくと三十六歌仙の額を見ることができた。この額は新宿区指定有形文化財に指定されている。

 須賀神社御朱印をいただいた。御朱印は書置きのみとなっている。

 

 須賀神社をあとにして、須賀神社男坂に向かう。この景色、見たことがある人もいるのではないだろうか。

須賀神社男坂

 平成28年(2016年)に公開された新海誠監督の映画「君の名は。」は日本国内興行収入250億円の大ヒット映画だ。

 「君の名は。」ラストシーンで主人公の立花瀧(たちばなたき)と宮水三葉(みやみずみつは)が再会したところがここ、須賀神社男坂だ。一時期は「君の名は。」ファンでごった返していたらしい。

 私もせっかくだからここを下りていこうと考えたが、外国人観光客が撮影にいそしんでいたのでやめておいた。

 「君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ そのぶきっちょな笑い方をめがけて やってきたんだよ」

 思わず、主題歌のRADWIMPSの「前前前世」が脳内に流れた。

 ここまで語っておいて私は「君の名は。」をちゃんと観たことがないのだが、機会があれば観てみたいと思う。

 

4.真成院

 来た道を戻り、突き当たりを勝興寺方面へ向かうと西応寺がある。

西応寺

 西応寺には榊原鍵吉の墓がある。

 榊原鍵吉は幕末から明治にかけて活躍した剣客で、天保元年(1830年)に江戸の麻布広尾に生まれた。

 慶応2年(1866年)には幕府遊撃隊頭取になり、上野戦争で活躍するも、明治元年(1868年)8月に徳川家達に従って静岡に移住した。

 明治27年(1894年)に64歳で亡くなるまで髷を切らなかったという。

 

 西応寺の梵鐘は正徳2年(1712年)に鋳造されたという。新宿区内でも数少ない江戸時代の梵鐘であるため、新宿区登録有形文化財に指定されている。

 

 西応寺の向かい側に戒行寺がある。

戒行寺

 戒行寺には長谷川平蔵の墓がある。

 「鬼平犯科帳」とは池波正太郎が著した時代小説で、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵を主人公とする捕物帳である。テレビドラマとしてもヒットし、長谷川平蔵を八代目松本幸四郎らが演じた。

 「鬼平犯科帳」は後世の人によって作られたフィクションだが、長谷川平蔵は実在の人物である。

 長谷川平蔵は延享3年(1746年)江戸赤坂築地中之町で生まれた。

 父である宣雄が火付盗賊改を務めていたときに、目黒行人坂の放火犯を捕らえて京都西町奉行に出世するも、わずか10ヶ月で亡くなってしまった。

 その後、平蔵が家督を継ぎ、火付盗賊改などを務めた。

 平蔵の功績としては、石川島人足寄場を作ったことである。ここに軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、工賃の一部を積み立て、出所時の更生資金に充てる仕組みを作った。刑務所でも労役はするが、それよりもう少し軽い感じだろうか。

 

 戒行寺の目の前の坂の名前は戒行寺坂という。戒行寺坂を下っていく。

戒行寺坂

 戒行寺坂の途中にある宗福寺には、源清麿(みなもとのきよまろ)の墓がある。

宗福寺

 源清麿は江戸時代後期の刀工で、文化10年(1813年)に信濃国岩村(現在の長野県東御市)に生まれた。

 天保6年(1835年)に江戸に出て、刀工としての活動を始めた。

 新々刀(江戸時代後期の刀)の刀工の第一人者として活躍し、江戸三作(江戸の三大刀工)のひとりとして数えられたほどだったという。

 

 戒行寺坂を突き当たりまで下りて左折、次の交差点を右折すると観音坂を上がることになる。

観音坂

 この観音坂とは潮踏観音にちなんでいる。

 潮踏観音がある真成院、ここが江戸三十三観音第18番札所である。

真成院

 受付に御朱印帳を預け、観音堂へ向かう。

観音堂

 観音堂の扉を開けると、なかに観音様がいるので参拝する。

 この観音様の名前は潮干観音とも、潮踏観音とも呼ばれる。

 これは日本武尊が東征したとき、今の四谷付近を通り過ぎたときに蘆の風にそよぐ様子が潮のうねりのように感じられたことから「潮干の里」「潮踏の里」と日本武尊が名づけたからと言われている。

 また、この観音様の台石は潮の干満により湿ったり乾いたりするらしいが、それには気が付かなかった。そもそもどういうメカニズムでそうなるのか気になる。

 

 そのようなことを考えながら受付に戻り、御朱印をいただいた。

 

5.西念寺

 観音坂をのぼると、西念寺がある。

西念寺

 西念寺は、文禄2年(1593年)に徳川家康の家臣、服部石見守正成(はっとりいわみのかみまさなり)が開基した。服部石見守正成は「服部半蔵」のほうが有名なので、以後こちらで記す。

 服部半蔵は槍の名手で、家康十六人将のひとりに数えられた。

 天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、和泉国堺を見物中の家康を警固して伊賀の山越えをし、主人の危地を救う功があった。

 家康が関東に入国すると、与力30騎、伊賀同心200人を支配し、半蔵の通称に由来するという半蔵門内に居を構えて、城内外の雑事を指揮した。

 天正7年(1579年)に家康の長男、岡崎三郎信康が、義父の織田信長から甲斐の武田氏に通謀しているという嫌疑をうけて切腹を命じられたとき、信康の幼い頃から守り役をしていた半蔵が検死役を務めた。

 半蔵は信康の死を悼み、麹町清水谷に一庵をいとなみ、剃髪して西念と名乗った。これが西念寺の開基である。寛永11年(1634年)に現在地に移転した。

 

 令和5年(2023年)に放送された大河ドラマ、「どうする家康」では服部半蔵山田孝之、岡崎三郎信康を細田佳央太が演じている。

 幼い頃から見ていた主君の子供の死を見た服部半蔵は、どう思ったのだろうか。改めて、戦国時代の無情さを思った。

 

 また、西念寺には服部半蔵の墓もある。そっと手を合わせた。

服部半蔵の墓

6.愛染院

 観音坂を下り、国道20号線方面へ進むと右手側に東福院坂がある。東福院坂の途中に、愛染院がある。

東福院坂

愛染院

 愛染院には高松喜六と塙保己一の墓がある。

 

 甲州街道には、日本橋から高井戸までの間に休憩所がなかった。その距離は4里(約16km)と長く、旅人を困らせていた。

 そこで元禄11年(1698年)、浅草の名主、高松喜兵衛ら町人4人が、権利金5,600両を幕府に上納する条件で、宿場設置許可を願いでた。

 こうして内藤氏の拝領地だった御苑の北側、新宿2丁目を中心とする甲州街道沿いに宿場町ができ、「内藤新宿」と呼ばれた。現在の「新宿」である。

 喜兵衛は喜六と改めて新宿の名主となり、子孫は代々新宿の名主を務めたという。

 つまり、高松喜六は新宿というまちを造った人、といえよう。

 新宿については「うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪(第二回)」」でも取り上げているので、そちらも参照してほしい。

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 塙保己一は、延享3年(1746年)に現在の埼玉県に生まれた。

 5歳のときに失明したが、13歳で江戸に出て、国学、漢学、神道、医学などを学んだ。のちに賀茂真淵の門下生となった。

 天明3年(1783年)に保己一は盲人に与えられる最高の地位である検校となった。

 そして幕府の援助をうけ、「群書類従」の編纂に尽力、文政2年(1819年)に完成した。

 「群書類従」とは、江戸時代以前の未刊の古文献を収録して編集したもので、神祇、帝王、系譜、武家など25部門に分類されている。正編は530巻、666冊に及ぶ。

 保己一が没した翌年には続編が完成し、こちらは1,150巻、1,185冊にものぼるという。

 文政4年(1821年)に保己一は76歳で亡くなり、四谷安楽院に葬られたが、ここが廃寺となったため、明治31年(1898年)に愛染院に移された。

 

 余談だが、埼玉県の偉人で、盲人であるということから、埼玉県の盲学校は「塙保己一学園」という。実家の最寄り駅が塙保己一学園の最寄り駅でもあり、時折白杖をついた学生を見ることがあった。

 

 愛染院をあとにして、国道20号線方面へ向かう。途中で円通寺坂を登る。円通寺坂とは、坂の途中に円通寺という寺院があることから名づけられた。

円通寺

円通寺

 国道20号線との交差点、津之守坂入口交差点で左折し、四谷三丁目駅へ向かう。

 ここから、方南町駅に向かう。

四谷三丁目駅

7.東円寺

 方南町駅2番出口から出て、東円寺に向かう。なお、東円寺のある地域は「江戸三十三観音をめぐる 7.神田川沿いを歩く」で歩いてしまったので、今回は東円寺のみ訪問することとする。

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 ちなみに、方南町駅の入口には「営団地下鉄」という表記が残っている。「営団地下鉄」とは、帝都高速度交通営団のことで、昭和16年(1941年)から平成16年(2004年)まで存在していた。現在は東京地下鉄株式会社となっている。

営団地下鉄

 方南町駅から北側に進むと、東円寺がある。

東円寺

東円寺観音堂

 東円寺は真言宗の寺院で、開基は天正4年(1576年)に祐海の建立という。

 江戸三十三観音に指定されている観音様は聖観世音菩薩で、江戸時代には多くの参詣者がいたようだが今はひっそりとしていた。

 社務所のチャイムを鳴らし、御朱印をいただいた。

 

 御朱印をいただいたあと、寺の人から「実は観音堂は少し開くので、見てから帰ってください」と言われたので、少しだけ開けてみた。なかでは観音様が穏やかに微笑んでいた。

  東円寺をあとにして、方南町駅に戻り、帰路についた。

 お岩さんは江戸時代の怨霊として恐れられているが、それは後世の創作でお岩さん自体は至極真面目な人だったと知り、見習いたいと思った。須賀神社男坂は今度こそ坂を下りてみたい。真成院の潮干観音の岩のメカニズムは気になるし、湿っているかもっと見ておけばよかった。西念寺で戦国時代の無常さに手を合わせ、愛染院で2人の偉人に思いを馳せた。東円寺の観音様も忘れられない。

 

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図①

今回の地図②

歩いた日:2023年12月29日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

新宿の歴史を語る会(1977) 「新宿区の歴史」 名著出版

杉並郷土史会(1978) 「杉並区の歴史」 名著出版

江戸札所会(2010) 「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社