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江戸三十三観音をめぐる 4.湯島・向丘編

 前回、江戸三十三観音第6番札所の清水観音堂に参拝しながら上野周辺を巡った。今回は第7番札所の心城院、第8番札所の清林寺に参拝しながら湯島・向丘周辺を巡ろうと思う。

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前回記事はこちら↓

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1.湯島天満宮

 山手線で御徒町駅に降り立ち、都道453号線を西に進むと湯島天満宮に到着する。

湯島天満宮

 縁起によると、文和4年(1355年)2月、湯島の郷民が霊夢をみて古松の下に菅原道真勧進し、文明10年(1478年)に太田道灌が再興した。現在の社殿は明治18年(1885年)に改築竣工した。

 御祭神は学問の神様といわれている菅原道真で、入学試験時期になると境内は入試突破・入学祈願の参詣人で雑踏する。それゆえ、いつ行っても大量の絵馬がかけられている。

 中学3年生の頃、担任の先生が「みんなの合格祈願のために湯島天満宮に参拝してきた」と言った。まだ東京の地理に疎かった私は「先生、九州まで行って合格祈願してきたんだ、すごいな」と思ったが、湯島天満宮は東京都内にあることを知ったのは大学生になってからだった。多分、太宰府天満宮と間違えたのだろう。

 それにしても、今日はなぜか人でごった返していた。どうやら、落語協会の謝楽会が開催されていたらしい。奇縁氷人石の前にも屋台で買ったごはんを食べている人がいたが、奇縁氷人石には気がついていないようだった。

奇縁氷人石

 奇縁氷人石は前面に「奇縁氷人石」、右側に「たつぬるかた」、左側に「をしふるかた」と刻字されている。

 迷子が出ると、子供の名前を書いた紙を右側に貼って探し、見つけた人は左側にその旨を書いた紙を貼って知らせる。

 このような石は一般的に「迷子石」と呼ばれ、都内にいくつか現存しているが、湯島天満宮境内の迷子石が江戸最初のものらしい。

 そういえば、江戸三十三観音第1番札所の浅草寺にも「迷子しるべ石」があった。

浅草寺の迷子しるべ石

 迷子が発生する=繁華街、ということになる。浅草寺は江戸時代から有名な繁華街だったし、湯島天満宮周辺も繁華街だった、といえる。

 湯島天満宮御朱印をいただいた。

 

 湯島天満宮の銅鳥居を見に行く。

銅鳥居

 鳥居は柱に寛文7年(1667年)、同8年の刻銘がある東京都指定有形文化財指定の銅造り明神鳥居である。

 この銅鳥居の石の台座に几号水準点がある。

湯島天満宮の几号水準点

 几号水準点とは明治初期に高低測量を行うために設けた基準となる基準点である。垂直面に刻印されているものと水平面に刻印されているものがあり、これは垂直面に刻印されているので内務省が設置した几号水準点と考えられている。ちなみに水平面に刻印されているものは東京市が設置した水準基標と推定されている。

 湯島天満宮の几号水準点については、同人誌「地理交流広場 第5号」に掲載されている「几号点を訪ねて―上野公園周辺―」でも取り上げているので興味がある人は読んでいただけると嬉しい。

booth.pm

 

2.心城院

 あまり人混みのなかにいても疲れるので、湯島天満宮を天神男坂からあとにするとすぐに、心城院がある。こちらは静かだ。

心城院

 心城院はもともと、湯島天満宮別当寺であった天台宗喜見院の「宝珠弁財天堂」と称していた。

 元禄7年(1694年)、喜見院第3世宥海大僧都が、菅原道真と縁の深い歓喜天弁財天堂に奉安したのが心城院の開基で、この像は慈覚大師円仁作と伝えられている。

 喜見院は明治維新神仏分離令で廃寺となったが、弁財天堂は廃仏の難を逃れたため、「心城院」と名を改め、現在まで法灯を伝えている。

 

 境内には水琴窟がある。水琴窟とは、手水鉢の近くの地中に作りだした空洞のなかに水滴を落下させ、そのときに発せられる音を反響させる仕掛けのことである。水を流してみたら、涼しげな音がした。

水琴窟

 喜見院にはかつて太鼓橋が架かるほどの大きな池があり、亀を放していたので「亀の子寺」と呼ばれていた。

 その後都市化により池の水が抜け、亀の放生が困難となった時期もあったが、平成23年(2011年)に心城院境内に「心字池」を作り、再び亀を放っている。

心字池

 心城院には「柳の井」という井戸がある。

柳の井

 柳の井は水が枯れることがなく、数滴髪に撫でれば髪も心も清浄になり、降りかかる厄難を落としてくれると伝えられている。

 「枯れることのない井戸」が最も役に立つのは、災害時である。

 関東大震災のときに、湯島天満宮に多くの人が避難した。その避難者の命を守った唯一の水が、柳の井の水だった。被災者の命を守った功績により、東京市長から感謝状を受けたという。

 関東大震災といえば、今から100年前、大正12年(1923年)9月1日に起こった巨大地震で、地震そのものだけでなくそれによって起こった火災によって10万人以上が命を落としたという大災害である。人間は水を4日飲まなければ死んでしまうというから、柳の井の水は被災者にどれほどありがたがられたことだろう。

 そして、落語協会謝楽祭と関係があるかはわからないが、心城院は御朱印の応対ができないということで、書き置きの御朱印をいただき、500円を賽銭箱に納めた。

 

3.旧岩崎邸

 心城院をあとにして、都道453号線に出て、天神下交差点で反対側に渡り、不忍通りよりも1本西側の道を北上すると、丘の上に旧岩崎邸が建っている。

旧岩崎邸・洋館

 かつて越後高田藩榊原家の中屋敷であった15,000坪(約49,500㎡)あまりの敷地に、三菱財閥の3代目、岩崎久弥がその本邸として20棟をこえる建物を建設した。

 現在は洋館と和館の一部、それに撞球室(ビリヤードルーム)が残されている。

 ジョサイア・コンドル設計の木造2階建て地下室つきの洋館は、17世紀イギリスのジャコビアン様式を基調としたもので、明治29年(1896年)に竣工。

 角形ドーム屋根の塔屋をもつ玄関の左部分が主屋で、外国人や賓客を招いてのパーティーなど社交場として使用された。

 内部は平日のみ撮影可で、休日は撮影不可。理由はわからないが、最近はYouTuberなどが多く、規制したのかもしれない。

 洋館は1階はホール、客室2部屋と書斎と食堂、2階は客室3部屋と集会室で構成されている。

和館

 和館は書院造を基調としたもので、岩崎家の生活の場として主人以下家族の各部屋などが設けられていた。

 和館は広間、次之間、三之間の3部屋。和館には茶席があり、抹茶と和菓子がいただけたようだが、先を急ぐためスルーした。

庭園

 和館を抜け、庭園に出る。

 この庭も和洋併置式の庭で、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残している。

 これだけ見ると洋風の庭のように見えるが、奥のほうには古そうな燈籠などが残されている。越後高田藩榊原氏時代からあった燈籠かもしれない。

 

 洋館を別アングルから見てみた。美しい。

 

 撞球室を見る。

撞球

 洋館と地下道で結ばれた撞球室もコンドルの設計で、スイスの山小屋風のつくりとなっている。ビリヤードのために専用の建物を建ててしまうなんて、流石お金持ちだ。

 

4.国立近現代建築資料館

 旧岩崎邸の敷地内には国立近現代建築資料館もある。こちらでは「日本の近現代建築家たち」という展示をやっていた。ちなみにこの資料館は撮影可。

国立近現代建築資料館

 

 この「日本の近現代建築家たち」では、12人の建築家の設計図等が展示されていた。吉田鉄郎、岸田日出刀、坂倉準三、前川國男丹下健三、吉阪隆正、大髙正人、高橋靗一、大谷幸夫、菊竹清訓原広司安藤忠雄の12人だ。

 安藤忠雄が設計した「住吉の長屋」は昭和51年(1976年)に竣工された大阪府大阪市住吉区にある住宅の設計図だ。住人がいるため、中に入ることはできないらしい。

 

 これは原広司が設計した「粟津邸」。神奈川県川崎市多摩区にある。これはグラフィックデザイナーの粟津潔が住んでいた家だ。粟津潔は平成21年(2009年)に亡くなっており、現在はアートスペースとして使われているそうだ。

 

 設計図等は展示されておらず、外観写真だけ展示されていたのが丹下健三設計、「広島平和記念資料館」。

 

 広島平和記念資料館は、今年7月に広島に訪れたときに行っていた。

広島平和記念資料館

 昭和30年(1955年)竣工。広島平和記念資料館の展示自体は原爆をテーマとしているだけあって悲惨な印象だったが、この建物のフォルムはすっきりしていると思う。

 あまり記憶に残っていないが、高校時代も広島平和記念資料館に訪れていた。

 修学旅行で仲の良かった友人と一緒に巡っていて、彼女が広島平和記念資料館をデジカメで撮影していたのを覚えている。

 「これ、丹下健三が作ったんだよね」と言っていた。

 その頃の私は建築に興味がなかったので「へえ」といった感想しか言わなかった気がする。

 彼女は学歴を気にする人で、GMARCH当たり前の学校でそれにすら落ちた私はそれを気にして、彼女とは疎遠になってしまった。

 彼女は日本女子大学建築学部を志望していたことは覚えているが、私が大学を言わなかったように、彼女がそこに受かったかも聞いていない。今、どうしているだろう。

 

 思い出語りはその程度にして、国立近現代建築資料館の展示をもう少し見ることにする。

 これはル・コルビュジェが基本設計し、実施設計は前川國男、板倉準三、吉坂隆正の「国立西洋美術館」。私は日本全国の世界遺産を巡りたいと思っているので、「ル・コルビュジェの建築作品」という世界遺産に含められる国立西洋美術館はいつか行きたいと思っている。もっとも、上野にあるので時間を作ればいい話だが…。

 

 そしてこれは昭和3年(1928年)竣工の別府市公会堂で、設計は吉田鉄郎。別府には昨年1月に行ったが、別府市街地は見ていないこともあって行っていない。別府の温泉はよかったし、機会があればそのときに見たい。

 

 私は建築学の学生ではないし、建築に詳しい友人の話を聞いても頭の中にクエスチョンマークが浮かぶくらいには建築の知識はない。

 ただ、これだけ有名な建築物の図面を、無料で見ることができる、ということは、建築学を学んでいる学生なら垂涎する資料館ではなかろうか、と思う。

 

5.横山大観記念館

 旧岩崎邸をあとにして、不忍通りに出る。すると左手側に横山大観記念館がある。

横山大観記念館

 最初の文化勲章受章者、近代日本画史上の巨匠、横山大観明治42年(1909年)からこの地に住んでいた。

 この家が戦災で焼けたあと、昭和29年(1954年)に再建、昭和33年(1958年)に90歳で亡くなるまでここで制作を続けていた。

 ここは大観の完成品と見紛うばかりの習作や下書きを展示している。

 横山大観記念館は2階のみ撮影可で、そこで大観の紹介ビデオが放映されていた。これは2階に展示されていた「正気放光」という作品。複製品で、本物は江田島海上自衛隊が所有しているという。

「正気放光」

 館内にはさまざまな大観の描いた作品が展示されていた。なかでも目を引いたのは「生々流転」という作品。これは長さ40mの大作で、第10回日本美術院展に出展された。しかしその初日、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が起こってしまった。望まれぬ客の来場により、展覧会の会場が大混乱に陥るなか、会場にいた大観は必死に作品を守り、自宅に持ち帰ったそうだ。

 その後、大日本雄辨會講談社が刊行した「大正大震災大火災」という本の表紙の絵を描いている。本のタイトル通り、この絵は関東大震災による激しい火災が描かれている。

 

6.根津神社

 不忍通りを北上し、根津神社入口交差点で左折、そのまま進むと右手側に根津神社がある。

根津神社

 根津神社の祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大山咋命(おおやまくいのみこと)、誉田別尊(ほんだわけのみこと)である。根津神社と呼ばれるようになったのは明治時代からで、それ以前は根津権現社と呼ばれていた。

 創建年代は不明だが、縁起によると日本武尊(やまとたけるのみこと)が創立し、文明年中(1469~1487年)に太田道灌が再興したという。

 創建の地は団子坂の上らしいが、現在地に移転されたのは宝永3年(1706年)。詳しくいうと、その前年の5月に起工したが、8月15日に徳川綱吉の生母の服喪のため延期、宝永3年の12月に遷座式が行われた。現存の本殿、幣殿、拝殿、唐門、西門、塀、楼門はそのとき建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。

 この地はもともと甲府宰相の徳川綱豊(とくがわつなとよ)邸だった。

 慶安5年(1652年)綱豊の父の綱重は、兄の徳川家綱(第4代将軍)からこの地を渡され、屋敷を造営して「根津邸」と呼んだ。

 綱豊は寛文3年(1663年)に根津邸で生まれ、根津権現社を産土神とした。宝永元年(1704年)、綱豊は徳川綱吉(第5代将軍)の養嗣子となり、家宣と改名した。宝永6年(1710年)に徳川家宣は第6代将軍になった。

 家宣の産土神とだけあって、家宣将軍時代の根津権現社の祭礼は盛大だったが、家宣が亡くなるとそれは廃止された。

 根津神社でも御朱印をいただいた。

 

 根津神社境内のつつじが岡に鳥居があり、それをくぐっていくと乙女稲荷神社がある。

乙女稲荷神社

 宝永3年(1706年)根津神社がこの地に遷座したときに、つつじが岡の中腹に穿たれた洞に祀られた社である。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。

 

 境内には庚申塔もある。

庚申塔

 庚申信仰は中国の道教から生まれ、60日ごとにめぐる庚申の夜は、人が眠ると、三尸(さんし)の虫が人の体から抜けて天に昇り、天帝にその人の悪事を告げて命を縮めると信じられていた。

 そこから、庚申の夜は庚申講の当番の家に集まり、般若心経を唱え、一晩寝ずに過ごした。これを18回連続してやると記念として庚申塔を建てた。

 庚申塔青面金剛と三猿が描かれているのが特徴。いろいろな本を読んでみると庚申講は実際「飲み会」に近いものだったらしくイマ風に言うと「飲み会オールを18回やったので庚申塔を建てました」という感じだろうか。

 

 境内には賽の大神碑もある。

賽の大神碑

 これは明治6年(1873年)に建てられた賽の大神碑である。

 賽の神とは邪霊の侵入を防ぐ神で、これがもともと建てられていた場所は旧中山道と旧岩槻街道の追分(分岐)だったという。明治43年(1910年)に道路拡幅のため撤去され、根津神社に移された。

 

 賽の大神碑の近くに駒込稲荷神社があり、この社は根津邸時代からあるもののようだ。

駒込稲荷神社

 それにしても、根津神社は久しぶりに訪れた。4年ぶりくらいだろうか。

 前回ここを訪れたのは「標高7mを歩く―谷根千編」の取材のときで、これは書籍化された私の文章の処女作である。1,600文字のとても短い随筆だが、興味のある人は読んでいただけると嬉しい。

www.kokon.co.jp

 余談だが、これは弊社の店舗にも並び、表紙に私の名前が書いてあったものだから「これはどういうことですか?」と販売部から問い合わせが来たことを覚えている。「随筆書いたら載りました。金銭等はいただいてません。」と答えて事なきを得た。

 

7.夏目漱石旧居跡

 根津神社を出て、根津裏門坂を少し西に進み、日本医大前交差点で右折して北に向かうと夏目漱石旧居跡がある。

夏目漱石旧居跡

 夏目漱石明治36年(1903年)2月から本郷区駒込千駄木町57番地(当地)に住み、明治39年(1906年)に本郷区西片町10番地ろの7号に転居したという。

 この夏目漱石の家は現在明治村に移建され、保存されている。もとは歴史学者の斎藤阿具の家で、阿具が洋行するに際し漱石が借りたという。この家には明治23年(1890年)から明治25年(1892年)まで森鷗外が住んでいたこともあったそうだ。

 この本郷区駒込の家で、漱石は「吾輩は猫である」(明治38~39年(1905~1906年))、「坊っちゃん」(明治39年(1906年))、「草枕」(明治39年(1906年))を執筆、発表している。

 この家は「吾輩は猫である」の舞台であること、家が東京にあったときは「猫の家」と呼ばれていたこともあって、この「夏目漱石旧居跡」には猫の置物が置いてある。

 夏目漱石作品、「こゝろ」は高校の現代文の教科書で扱い、「坊っちゃん」は「こゝろ」と同じ本に収録されていたので読んだことがあるが、「吾輩は猫である」は読んだことがない。機会があったら読んでみようと思う。

 文豪といえば太宰治中原中也が破天荒なイメージで、夏目漱石は比較的まともに見えるが、以前ドラマの「夏目漱石の妻」を視聴していたことがある。そこでの夏目漱石は洋行帰りに神経衰弱(現代風に言えば躁鬱?適応障害?)にかかったことや、神経質であること、よく妻に暴力を振るっていた(今でいうDV夫)のを見て、「文豪にまともな人はいないのかもしれない」と思ったことを覚えている。

 

8.清林寺

 夏目漱石旧居跡からそのまま北進して、駒込学園前交差点を左折すると右手側に光源寺が見える。

光源寺

 光源寺は天正17年(1589年)に神田に創建され、慶安元年(1648年)に現在地に移転した。

 境内には元禄10年(1697年)造立の約5mの十一面観音像があったが、惜しくも東京大空襲で焼失してしまった。今建てられている観音様は平成5年(1997年)に再建したもの。

 かなり立派な観音様なのに、「文京区の歴史」を見ても載っていないし、江戸三十三観音にも指定されていないのは、割と新しい再建だったから、ということになる。「文京区の歴史」は昭和54年(1979年)に発行されている本だし、江戸三十三観音は昭和51年(1976年)に指定されたから当然だ。

 ちなみに、元禄時代の観音様の礎石なら残っている。

初代大観音礎石

 光源寺からほど近くに、清林寺がある。

清林寺

 清林寺の創建年代は不詳だが、鎌倉光明寺住職を務めた、観誉龍脱和尚が開山となり、永正年間(1504~1521年)に神田四軒町付近に創建したという。

 その後焼失したが天暦和尚が中興、慶安元年(1652年)にここに移転した。

 ここの観音様はお堂に飾られていて、直接拝むことができる。

江戸札所観音さま

 江戸札所観音様に江戸三十三観音の満願を祈ってから、寺務所に入り、御朱印をいただく。

 

 清林寺のなかにお稲荷さんがあった。江戸時代以前からありそうだ。

 「御朱印帳は神社と寺院で分けるべきか」という議論があり、なかには神社と寺院の御朱印が混ざった御朱印帳を出すと御朱印を書いてくれない寺社もあるらしい。私は分類のために神社と寺院の御朱印帳は分けているが、江戸時代以前には厳密な区分はなかったみたいだし、それを参拝客に強要するのはよくないのではないか、と私は思う。

 神田白山線をそのまま直進し、白山上交差点から坂を下ると都営三田線白山駅があり、ここから帰ることにする。

白山駅

 最初の湯島天満宮の混雑で面食らってしまったところはあるが、その隣の心城院は落ち着いていた。その次の札所、清林寺はもっと落ち着いていた。浅草寺などのがやがやと混んでいる寺院もたまに行く分にはいいが、いつも行くのは疲れる。こういう静かな寺院のほうが私には合っているのだなと改めて思った。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2023年9月3日

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【参考文献・参考サイト】

竹内誠(1979) 「文京区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

東京都歴史教育研究会(2020) 「東京都の歴史散歩 上 下町」 山川出版社

天台宗柳井堂心城院 心城院について

http://www.shinjyo-in.com/about/

東京都公園協会 旧岩崎邸庭園 園内マップ

https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/map035.html

文化庁 国立近現代建築資料館

https://nama.bunka.go.jp/exhibitions/2307

公益財団法人 横山大観記念館

https://taikan.tokyo/

文京区 光源寺(こうげんじ)(駒込大観音)

https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/jisha/kogenji.html

猫の足あと 清林寺

https://tesshow.jp/bunkyo/temple_mukogaoka_seirin.html

(2023年10月2日最終閲覧)