前回、舞阪駅から新居町駅まで歩いた。今回は新居町駅から二川駅まで歩こうと思う。新居宿と二川宿の間に白須賀宿があるが、なんと白須賀は平日に1日3本のコミュニティバスしか走っていない。そのために有給を取るわけにもいかないので、新居町駅から二川駅まで歩いたのである。
- 1.新居関跡
- 2.紀伊国屋資料館
- 3.小松楼
- 4.教恩寺
- 5.紅葉寺跡
- 6.白須賀宿
- 7.潮見坂
- 8.おんやど白須賀
- 9.潮見坂公園跡
- 10.静岡県の終わり
- 11.愛知県に入る
- 12.駒屋
- 13.二川町道路元標
- 14.二川駅へ
- 【おまけ】
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1.新居関跡
今日は新居町駅からスタートだ。
新居関所まで歩く途中、今さらながら静岡県章のついたマンホールを見つけた。
国道301号線を西にしばらく歩くと、新居関跡がある。
明応7年(1498年)の大地震と風水害により、今切口ができた。そのため、歩いて通行できた新居・舞阪間は船を使うことを余儀なくされた。
当地の支配者だった今川氏真や徳川家康はこの舟運支配につとめ、慶長5年(1600年)頃に新居に関所が設置された。
江戸時代初期の関所は、今日「大元屋敷」とよばれる場所にあった。
それがたび重なる高潮などの被害により、元禄14年(1701年)頃200m西方の藤十郎山へ、そして宝永4年(1707年)の大地震による津波の被害により、翌年さらに現在地へ移動した。
災害により新居を通行できないときは、東海道の旅人は姫街道へ迂回し、気賀関所を利用したという。
関所の管理は当初、幕府の関所奉行による直接管理だったが、元禄15年(1702年)三河国吉田藩(現、愛知県豊橋市)に命じられ、幕末まで続いた。
面番所の建物は安政2年(1855年)に改築され、明治2年(1869年)の関所廃止後も小学校や役場に使われ残ったもので、全国で唯一現存する関所建築である。
面番所に入ると、関所役人たちに睨まれた気がした。後ろに控える武具が威圧感を放っている。
関所に常備されていた武具は、関所役人の取り調べに従わない通行人の不法行為を未然に防止する対策として備えられていた。しかし、幕藩制社会が確立し、不法行為を働く人がいなくなると、関所の権威を誇示するために飾りとして置かれている用途のほうが強くなったらしい。置かれていた武具は弓や矢、鉄砲などであった。
「東海古関」という書を見つけた。
この書は、明治から昭和にかけて政治評論家・史論家などで活躍した徳富蘇峰が熊本へ向かう途中、新居関所に立ち寄り、この書を書いたという。このとき蘇峰は90歳だったという。お元気である。
面番所の解体修理資料と瓦が展示されていた。
面番所には書院があり、公式の対面などを行う部屋として使われていたようだ。
渡船場は関所東側の出入口で、浜名湖に面した場所に設置された。
関所の北側と東側は浜名湖に面し、東側は約143mの護岸で、そのうちの南半分の約75mが渡船場だったという。
炭太祇の歌碑を見つけた。「木戸しまる 音やあら井の 夕千鳥」
炭太祇は江戸時代の旅行家で、この関所も数回通ったという。旅行家という職業は憧れるが、どうお金を工面していたのかは気になる。
新居関所には水準点もある。二等水準点第2688号だ。
昭和36年(1961年)に設置された金属標型の水準点だが、石蓋に隠れて確認できなかった。
大石が置かれていた。
大石は、高貴な人が乗る乗物を置くために使われていたという。
大石の隣には、石樋(いしひ)も置かれている。
この断面L字型の石は、関所構内の雨水等を流すために、北側と東側の護岸石垣まで敷設された排水設備の先端に置かれた石樋である。
このあたりに船会所があったと説明板にあった。
船会所は、渡船場のある新居関所の特徴的な施設で、東西約13m、南北約4mの本瓦葺きの建物で、船頭会所とも呼ばれていたという。
女改之長屋と裏御門が復元されていた。
女改之長屋は女性通行人の取り調べを行う南北約18m、東西約5mの杮葺き、土壁造りの建物で、改女とその家族が住んでいた。
江戸時代の関所の重要な機能のひとつは「入り鉄砲に出女」の取り締まり、つまり鉄砲の江戸持ち込みと大名の妻子の江戸脱出の取り締まりであった。つまり男性と比べて女性は関所の取り締まりが格段に厳しかったのだ。
女改之長屋は中に入ることができる。
女改之長屋では関所の女改めについて解説されている。
例えば、改女(あらためおんな、女改めを行う女性役人)は通行する女性に不審な点があれば髪の元結を解いて取り調べを行うこともあったが、細かい規則を勘違いして身分の高い女性に対しても元結を解いてしまう改女もいて、そこで注意されたエピソードなどが紹介されている。
また、女性の通行には女手形が必要で、関所を挟んだ婚姻を行った場合、女性の帰省に女手形が必要となってしまい、この女手形の取得の手続きの煩雑さから関所越えを必要としない地域での婚姻が増えたという。
女改之長屋に尖柵(とがりさく)が展示されていた。
尖柵とは関所の外周を囲った尖った木の柵である。
女改之長屋の建築資料等が展示されていた。これは壁の構造の模型で、5層構造になっていたことがわかる。
これは巻頭釘(まきがしらくぎ)と竹釘。巻頭釘は釘の頭が巻かれており、1本1本手作りで作られていたという。竹釘は真竹を割き、裁断し、天日乾燥したのち、焙煎して作成するという。
また、女改之長屋は改女たちの職場であり、住居であった。
改女は箱根や木曽福島、碓氷などの他の関所にも勤めていたが、関所の構内に住んでいたのは新居関所だけだったという。
女改之長屋では茶碗等が出土しているが、これは改女たちが使ったものかもしれない。
新居関所関連資料が展示されていた。
一番上は「今切御関所御普請仕様帳」で、新居関所全般に渡る仕様帳である。
上から2番目は「今切御関所御修復御普請落札値段書上帳」で、新居宿のなかには関所修復事業への入札者がいないと書かれているそうだ。となると、修理は誰が担当したのだろうか?
上から3番目は「今切御関所御普請目論見帳」で、天明3年(1783年)に簡易的な修復をした大御門の根包板が腐っており、大規模な修復を行った、という記録である。
こちらの右側は「享保六年八月遠州新居今切旧記」で、関所の歴史や関所役人について詳しく書かれている。
左側の絵は「双筆五十三次 荒井」で、背景は奥浜名湖の風景で、人物は改女が男装した女性ではないかと、眼鏡越しに取り調べを行っている様子が描かれている。改女が何を見て「女」と判断しているのかは…詮索しないほうがよさそうだ。
女改之長屋を出て、土蔵跡を見る。
土蔵の詳細は不明であるが、関所で使用する道具類や重要書類などが保管されていたと考えられている。
新居関所資料館の前に、学制施行百年記念の石碑があった。ここに新居小学校が開校したことからここに設置されたようだ。
この石碑は新居町章をあしらっているが、新居町は平成22年(2010年)に湖西市に編入して廃止されている。
新居関所資料館に入る。なお、残念ながら館内は撮影禁止。
新居関所資料館の1階には「街道と関所」「海の関所新居」をテーマに、新居関所の生い立ちと役割などを説明している。
資料館2階では「旅と宿場」をテーマに、旅道具や江戸時代の新居宿に関する資料を展示している。
また、資料館2階の一角で、企画展「描かれた天皇陵―江戸時代の山陵図―」が開催されていた(令和5年(2023年)10月21日~12月24日の期間限定)。
今回展示されている山陵図は文化3年(1806年)から文化5年(1808年)にかけて作成された「文化山陵図」といわれるもので、京都町奉行の森川俊尹(もりかわとしただ)が調査に基づいて作成した。
この文化山陵図は新居宿で油問屋等を営んでいた高須家に残されていたもので、昭和50年代前半に新居町に寄贈されたものといわれている。
また、新居関所資料館では新居宿の御宿場印も販売している。
新居関跡をあとにして、大御門をくぐる。
大御門は明六ツ(午前6時頃)に開き、暮六ツ(午後6時頃)に閉じていたという。つまり、関所の営業時間中は開いていて、それ以外は閉じているということだが、現在はずっと開いている。
大御門の西側には桝形と呼ばれる広場になっていて、そこに高札場があった。
高札場は宿場に関する法令を掲示した宿高札場と廻船に関する法令を掲示した浦高札場があったという。
2.紀伊国屋資料館
紀伊国屋資料館の経営者ははじめは小野田姓を名乗る、紀州の出身者だったという。後に疋田弥左衛門に改めた。
旅籠屋としての創業時期は不明だが、元禄16年(1703年)には紀州藩の御用宿を勤めるようになり、正徳6年(1716年)に「紀伊国屋」を名乗ることを許されたという。江戸時代後期には紀州藩の七里飛脚の役所もここにあった。
紀伊国屋は明治7年(1874年)の火災で焼失して建て替えられ、昭和24年(1949年)まで旅館業を営んでいた。
紀伊国屋の建物の一部に江戸時代後期の旅籠の様式を残していたことから再生整備工事後、資料館として公開されている。
まず入ると板の間からなかに上がることになる。
「浪花講」の看板がある。
紀伊国屋は「浪速講」に加盟していたのでこの看板が掲げられていた。そのほか、「関東講」などにも加盟していたようだ。
「講」とは旅人が安心して泊まれるよう信頼できる旅籠屋を指定し結成された組織である。
ここで新居宿について簡単に説明しておくと、江戸から数えて31番目の宿場で、本陣3軒、脇本陣なし、旅籠26軒の宿場だった。
紀伊国屋資料館には様々なものが展示されている。
これは安政6年(1859年)10月、紀伊国屋の当主弥左衛門が、嘉永7年(1854年)の大地震で大破した居宅を修復するため、150両の支援を紀州藩に願い出た願書の下書きである。
新居宿は関所所在地ということで宿泊客が少なく、江戸時代後期には旅籠屋同士や本陣との間で旅客をめぐる争いが起こったという。
この文書は紀伊国屋とそれ以外の旅籠屋仲間の間で紛争が起こり、弘化2年(1845年)2月に双方が取り交わした内在文書である。現代では旅人をめぐってホテルが奪い合うなんて、考えられないことである。
次の間の奥に、床の間がある上の間がある。
上の間に紀伊国屋で出された夕食のレプリカが置かれている。
左側は鯔(ぼら)と焼き豆腐の煮物と大根汁、右側はアサリと寒天の酢醤油かけとうなぎの蒲焼。特にうなぎの蒲焼は東海道でも評判の一品であったという。ただ、現在の新居宿にうなぎの蒲焼を食べられる店は見当たらなかった。もっとも、見つけたところでお財布事情的に食べられないのだが…。
上の間から奥に進むと奥座敷があり、水琴窟もあった。
水琴窟とは地中に甕を埋め、そこに落ちる水滴が反響し、琴のような音色を奏でるというものだが、水を落とす柄杓が見当たらなかった。
厠(かわや)を見つける。現代のトイレだ。「展示品のため使用できません」。
厠の隣は風呂場で、五右衛門風呂が置かれている。
風呂場の隣は台所がある。水回りが固まっているのは現代も一緒である。
2階に上がると、客の間がある。
「木の枕で寝てみよう」というコーナーがあった。
江戸時代の人は髪型がくずれないように木の枕で寝ていたそうだ。試しに寝てみたが、すぐ首が痛くなってだめだった。やはり私は現代のふかふかの枕のほうが合っている。
客の間には「担い箱」が展示されていた。
担い箱とは品物を入れる引き出しと、背負うための紐のついた行商に使った箱で、このなかには魚や野菜のほか、薬や唐辛子などの商品が入っていたらしい。
庭を見て、紀伊国屋資料館をあとにする。
3.小松楼
小松楼の前に常夜燈があり、「秋葉山」と刻まれていることから秋葉灯籠であることがわかる。
小松楼は大正から昭和20年代にかけて芸者置屋と小料理屋を営んでいた。
江戸時代の旅や宿場の話といえば必ずといっていいほど飯盛女(めしもりおんな。性的サービスも行っていた女中)の話題が出てくるため、この小松楼も江戸時代からあったのではないか、と最初思ったがどうやら違うらしい。江戸時代、新居宿は関所があったこともあり、治安統制が厳しく、飯盛女のような性的サービスは置けなかった、という事情があるようだ。
明治に入って関所が廃止され、新居でも性的サービスが解禁となり、大正時代には60~80人ほどの芸者のいる歓楽街となったようだ。
小松楼の建物は明治末期以前のものを現在地へ移築し、何度か増改築を行っている。平成22年(2010年)から「小松楼まちづくり交流館」となり、内部を公開している。入ってみよう。
1階は置屋となっている。翌日にイベントを控えていたようで、普段と内装が異なっているらしい。
2階は座敷となっている。雰囲気のある部屋に雰囲気のある机が鎮座している。ここで情事が行われていたのだろうか、と想像する。
オルガンが置かれていた。「ねこふんじゃった」でも弾いてみようかと思い、鍵盤を押し、ペダルを踏んでみたがあまり音が出なかった。
今度はミシンが置かれていた。ダイトンミシン製造株式会社が作ったもので、この会社は昭和17年(1942年)に設立し、昭和19年(1944年)にミシン製造を廃止したようなので、この2年間に作られたものだろう。
大きい座敷がこちら。小松楼に勤めていた女性の写真もあったが、ここに載せてよいものかわからないので載せないでおく。ただそのなかには美人もいた。
小松楼のベランダ(?)から外を見て、小松楼をあとにした。
4.教恩寺
東海道に戻り、紀伊国屋資料館から西に進むとすぐ泉町交差点で突き当たる。ここに「夢舞台東海道」の「新居宿 飯田武兵衛本陣跡」がある。
飯田本陣は、天保年間の記録によると建坪196坪で、門構え玄関を備えていたという。
飯田本陣の隣には、疋田八郎兵衛本陣跡もある。
疋田八郎兵衛本陣は新居宿に3軒あった本陣のひとつ、天保年間の記録によると建坪193坪で、門と玄関を備えていたという。
泉町交差点で左折し、南に進むと寄馬跡がある。
江戸時代の宿場には公用荷物や公用旅行者のために人馬を提供する義務があり、どの宿場でも100人の人足と100匹の馬を用意しておく必要があった。
しかし交通量が多くそれでは足りないときは助郷制度といい、近在の村々から人馬の提供を受けた。ここは寄せ集められた人馬の溜まり場となっていた場所である。
寄馬跡からしばらく南に進むと新居一里塚跡がある。
一里塚とは、江戸の日本橋を起点として街道の両側に一里(約4km)ごとに土を盛り、その上に榎等を植えた場所だが、残念ながらここの一里塚は石碑が残るのみだ。
この「旧東海道地図」という看板を目印に、少しだけクランクして県道417号線に合流する。
この小さいクランクのことを「棒鼻」という。
ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。これを棒鼻という。
大名行列が宿場へ入るとき、この場所で駕籠の棒先を整えたので棒鼻と呼ばれるようになったといわれている。
県道417号線に出ると「夢舞台東海道」の「橋本 新居宿加宿」がある。
橋本交差点をそのまま南に進むと、諏訪上下神社がある。
諏訪上下神社は残されている棟札などによると、諏訪山にあった上諏訪社を現在地の下諏訪社に合祀したものと考えられている。
橋本交差点に戻り、西に進む。橋本西交差点で旧道に入るのだが、そこに教恩寺がある。
教恩寺は正安2年(1300年)の創立といわれている。
文明年中(1469~1486年)に、鎌倉公方足利持氏から寺領を与えられたが、天正年中(1573~1591年)に火災に遭って焼失してしまった。
その後、徳川家光から慶安元年(1648年)に朱印地を与えられ、明治維新まで叙位任官色衣勅許の寺格を持っていたという。
現在の本堂は応賀寺の下寺だった堂宇を明治6年(1873年)に移築したもの。
5.紅葉寺跡
橋本西交差点から旧道に入り、しばらく進むと松並木が見えてくる。
松並木に「夢舞台東海道」の「湖西市紅葉寺跡」があり、その近くに「紅葉寺跡」がある。そして画質が荒いのは地元の人が近くにいたことと、近くをクマバチが飛んでいて危うく刺されそうになり、あまり近くに寄ることができなかったからだ。
紅葉寺はもともと紅葉山本学寺という曹洞宗の寺で、地蔵菩薩を本尊として祀り、白須賀にある蔵法寺の末寺だった。
明治期の記録によると、源頼経がこの地の長者の家に滞在したときに頼経の世話をした長者の娘が、後に鎌倉に召し寄せられ、頼経の死後ここに戻って出家、頼経の菩提を弔うために正嘉2年(1258年)に建立した寺といわれている。
少し進むと、水準点がある。二等水準点第2918-1号だ。
この水準点は平成15年(2003年)に設置された金属標型の水準点で比較的新しいが、「水準点」のマンホールの下にあり確認できなかった。
さらに進むと「松山団地」というシャレた団地を見つけた。ただ松山団地の前にあるバス停は平日に1日1本だけ。使う人いるのかな。
石碑を見つけた。石碑には以下のように刻まれている。
「風わたる 濱名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟 前大納言為家」
「わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで 阿佛尼」
藤原為家は鎌倉中期の歌人で藤原定家の次男である。朝廷に仕えていたが、定家が亡くなってからは家系と学統を継いだという。
阿佛尼は朝廷に仕えたあと、藤原為家の継室となり、為家が亡くなった後に出家、鎌倉へ向かうときに「十六夜日記」を記した。この2人は夫婦だったから並べて書かれている、というわけか。
この先道が二又に分かれるが、直進する。そこに立場跡がある。
立場とは旅人や人足、駕籠かきなどが休息する茶屋のことである。この立場の経営は加藤家が務めていたという。
立場では旅人を見るとお茶を勧めるので、ある殿様が「立場立場と 水飲め飲めと 鮒(ふな)や金魚じゃ あるまいに」という戯歌(ざれうた)を読んだという話が残っている。ただ、水分補給は大切だと思うのだが…。
6.白須賀宿
少し進むと東新寺がある。
東新寺はかつては大倉戸の一後坂というところに建立されたが、大破したため寛永元年(1624年)に現在地に境内を移した。
慶安4年(1651年)に東福寺三世春岳智栄和尚を開山として請待し、真言宗から臨済宗へと宗派を変更した。
享保11年(1726年)に火災により堂宇等を焼失、宝暦12年(1762年)に再建した。観音堂等はこのときの再建だが、本堂は昭和12年(1937年)の再建である。
東海道に戻ると、ずいぶん新しい秋葉灯籠を見つけた。
「明治天皇御野立所址」をみつけた。
明治元年(1868年)9月20日、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が10月1日、豊橋から新居へ向かうときに休憩した場所である。
旧新居町のデザインマンホールを見つけたが、まんなかの市章が湖西市のものとなっている。これは初めて見た。
都市計画道路の下をくぐって進むと、火鎮神社がある。
火鎮神社は徳川家康が負け戦で匿われた場所。そんな場所で祭神に祀りあげられているから不思議である。宝永地震の津波でも流されなかったらしい。
徳川家康のほかに祀られている火之迦具土神は火を護る神で、秋葉神社の祭神にもなっている。
火鎮神社の前に「夢舞台東海道」の「白須賀宿 火鎮神社」があり、白須賀宿マップもある。白須賀宿に入ったのだ。
7.潮見坂
白須賀宿に入ってすぐ、キャベツ畑が広がっている一角があった。「ホントに歩く東海道 第9集」に「キャベツいっぱい」と書かれていたので本当か?と思っていたら本当に「キャベツいっぱい」で笑ってしまった。
最近お金がないので用事のない休日にごはんをたくさん作り、冷凍することをやっているのだが、その定番メニューに回鍋肉がある。
キャベツとピーマンと豚バラ肉を一口大に切り、炒めたらソースと炒め合わせるだけでできる簡単料理である。簡単でたくさん作れて栄養バランスも良いのでよく作っている。
回鍋肉4食分作るのにキャベツを半玉使っているのだが、これだけキャベツがあればどれくらい回鍋肉が作れるだろうか…そんなことを考えてしまった。
キャベツ畑を抜けると内宮神明神社がある。
内宮神明神社の創立年代は不明だが、昔から里の人は「内宮」と呼んでいたそうだ。
そういえばこの日、両親が伊勢神宮内宮に参拝していたそうなので、同じ神様を拝んでいたかもしれない。
内宮神明神社から先に進むと蔵法寺がある。
蔵法寺の前身となる寺は延暦9年(790年)頃建てられ、慶長3年(1598年)に曹洞宗に改宗された。
天文16年(1547年)徳川家康が今川氏の人質として駿府に護送されたとき、蔵法寺に泊まったことがあったという。
このことから徳川家の小休憩所として使われるようになり、慶長8年(1603年)に徳川家康から朱印地23石を受けたという。家康としては幼少期の嫌な思い出の地のはずなのにそこまでよくするとは、流石大物である。
蔵法寺には潮見観音像がある。山上から遠州灘の潮を見ることから、この名がつけられたという。
海上安全を願う漁民の習わしとして、遠州灘を行き交う船は帆を下げ観音様の名前を念じて蔵法寺の前の海を通り過ぎていた。このことから「帆下げ観音」とも呼ばれていたようだ。
「夢舞台東海道」の「湖西市白須賀宿 潮見坂下」の案内板のところで右折して、潮見坂に入っていく。
この坂を登ると眼下に滔々と広がる太平洋を見渡すことができることから、「潮見坂」と名づけられた。天気の良い日はここから富士山も見えるようだ。
京都から江戸方面へ向かう人は、ここで初めて太平洋と富士山を見て感激する。
室町幕府第6代将軍の足利義教も駿府へ向かう途中、ここで富士山を見てこう歌った。
「今ぞはや 願ひみちぬる 潮見坂 心ひかれし 富士をながめて」
古来旅人はここで足をとめ、景色を見て、歌や紀行文を残したという。
ただ、今登っているところは坂の途中でまだ海は見えない。アスファルト舗装なのが箱根等と比べてまだ良いが、登っていると息遣いが荒くなってくる。とりあえず暑い時期に来なくてよかったと思う。
「潮見坂」の説明板のあるところでふと後ろを振り向くと、歌川広重の「東海道五拾三次 白須賀」そのままの風景が広がっていた。これは和歌を詠みたくなる気持ちもわかる。
8.おんやど白須賀
潮見坂を登り切ったところに「おんやど白須賀」がある。
おんやど白須賀は東海道宿駅開設400年を記念して設置された施設である。
白須賀宿は、遠江国の西端の宿場町で、江戸から数えて32番目の宿場町である。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒の宿場町だった。
おんやど白須賀で撮影をしてもよいか、施設の人に聞いてみたら「個人が楽しむ範囲なら撮影OKです」と言われたので、撮影はしたがブログには載せないでおく。
長谷元屋敷遺跡は白須賀宿の西側の海浜に位置しており、戦国時代・江戸時代の建物跡が発見され、数多くの日常生活具が出土した。展示されていた出土品は煮炊きに使われた貝類や、寛永通宝、煙管などである。
長谷元屋敷遺跡等の発掘をしていると、宝永4年(1707年)の大津波が来る前は白須賀に住む人は海浜で生活を営んでいたことがわかる。しかし大津波が来て全家屋が浸水、住人も裏山に登った人だけが生き残った、という事態を経て潮見坂の上に白須賀宿自体が移動した、と書かれていた。東日本大震災の津波の映像をテレビで見たことがあるからわかるのだが、津波は人々の生活を一変させてしまうのだ。
白須賀宿の文化人の紹介コーナーもあった。夏目甕麿(なつめみかまろ)(国学者)、柴田虚白(しばたこはく)(俳人)、跡見玄山(あとみげんざん)(医師)などが紹介されていた。
「鈴屋大人都日記(すずのやうしみやこにっき)」が展示されていた。これは本居宣長の上京に同行した石塚龍麿が宣長の旅程をまとめた日記で、これを出版したのが夏目甕麿だった。
白須賀宿の西端に境宿村という白須賀宿の加宿だった村があるのだが、そこに猿ヶ馬場(さるがばんば)という場所があった。そこに茶屋があり、柏餅が売っていたという。
餅は上新粉を原料とし、小判型にして、兎餅のように中央を窪ませ、そこにあんをのせ、木の葉で包んだものだったという。
一時は美味しくて東海道で名高い餅だったそうだが、幕末頃には品質が落ちたのか、ある旅人は街道一まずい名物と記している、と書かれていた。
私はその話を知っていた。それは「東海道五十三次ハンドブック」で紹介されていた土御門泰邦郷が記した「東行話説」でこの話題が出ていたからだ。その部分を紹介しよう。
柏餅はよきものなり。一ツ賞翫すべしと取寄せ見れば、言語道断の不届千万なる物にて、何をもてか柏餅といはん姿なるべき。もしは榧の実などにてこしらへたる故、かくは名付けたるかと、一ツ喰うて見れば、南無三さにあらず。ただざくざくとして糠をかむがごとく、嗅み(くさみ)ありて胸わろく、ゑづきの気味頼りなれば、奇応丸を取出し嚙みて、湯を呑み、やうやう助かりぬ。
「ざくざくとして糠を噛むような食感」「臭くて胸やけがしてゑづき(吐き気)がした」…ひどい評判である。この話を読んだときあまりに面白かったので友人に話してみたら「その柏餅、腐ってたんじゃないの?」と言われ、なるほどとなった。
今ほど衛生観念のある時代じゃないので、旅行中にお腹を壊すこともしばしばあったという。
ただ、「デスマフィン」事件は記憶に新しい。ちょうどこの日に開催していたデザインフェスタというイベントに出店していた焼き菓子店で、食中毒が発生したということである。栗の入ったマフィンは、栗から糸を引いていたことから「糸引きマフィン」「納豆マフィン」と揶揄された。実際食べた人のなかには嘔吐した人もいたという。
おそらくこの土御門泰邦郷が食べた柏餅は腐っていたのだろう。実際吐きかけたと書かれているわけだし。現在は江戸時代と比べ減ったとは思うが、それでも食中毒に遭うリスクはあるので、気を付けたいところである。
潮見坂には「豆石」という話が伝わっているという。
あるとき、わがままなお姫様が江戸から京への旅に出た。
お姫様は東海道の道中で疲れては駄々をこねてお供の者を困らせたという。
お供の者はその都度お姫様をなだめていたが、潮見坂に入るとついにお姫様は動こうとしなくなった。
そこでお供の者はこう言った。「この潮見坂には豆石という石があり、拾った人は幸福になれると伝えられています。お姫様も探してみてはいかがでしょうか。」
お姫様は「豆石を拾って幸せになりたい」と言い、潮見坂を登ったという。
その後、潮見坂にさしかかると駕籠かきは、客にこの豆石の話をして、坂上まで歩くことを勧めるようになったようだ。
豆石、どんな石だったのか気になるが、その情報が一切ないので探すのも難しそうだ。
なお、おんやど白須賀では白須賀宿の御宿場印を配布しているので、入手した。
そして、おんやど白須賀前にバス停があるのだが、そのバスが平日限定、1日3本しかない。これが「白須賀宿には駅も(休日運行している)バス停もない」という話である。
9.潮見坂公園跡
おんやど白須賀から少し進むと、「夢舞台東海道」の「湖西市白須賀宿 潮見坂公園跡」がある。
潮見坂公園跡には「明治天皇御遺蹟地記念碑」と「明治天皇御遺蹟之碑」がある。
天正10年(1582年)、織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰るとき、徳川家康が茶亭を新築して、信長をもてなしたのが潮見坂上だったといわれている。
明治元年(1868年)10月1日、明治天皇が東京へ行幸するときに東海道を通り、初めて太平洋を見た場所がここ、潮見坂だった。これを記念して公園も造られた。初めて太平洋を見たとき、明治天皇はどのような気持ちだったのだろう。
大正14年(1925年)4月に明治天皇御遺蹟地記念碑が建てられた。
潮見坂公園跡には小さな展望台があり、そこから太平洋を望むことができる。
私は海を見るのは初めてではないので明治天皇が初めて海を見たときと同じ感動は味わえなかったかもしれないが、それでも綺麗だな、としばし見とれた。
白須賀宿を歩く。駅のない宿場は行くのは不便だが、それでも趣のある宿場が多いな、などと考える。
「鷲津駅」と書かれた青看板と、少し進むと「鷲津停車場往還」と書かれた石碑を見つけた。ここから鷲津駅は近かったかな?と思いGoogleMapで検索してみたが、徒歩1時間以上かかり、全然近くない。
そのまま進むと、クランクが現れる。曲尺手(かねんて)だ。
曲尺手とは直角に曲げられた道のことで、宿場の出入口などに造られた。
敵の侵入を阻む軍事的な役割を持つほか、参勤交代の際に大名行列同士が道中かち合わないようにする役割も持っていた。
江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りて格式の高い大名に挨拶するしきたりだった。
しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列の指揮者「供頭(ともがしら)」にとっては一番の失態である。
そこで、斥候(せっこう)と呼ばれる下見役が曲尺手の先を下見し、行列がかち合いそうなときは、格式の低いほうの大名一行は休憩のふりをして最寄りのお寺に立ち寄ったという。
10.静岡県の終わり
白須賀宿の大村本陣跡を見つけた。
ここは本陣の大村庄左衛門家跡で、元治元年(1864年)の記録には、建坪183坪、畳敷231畳、板敷51畳とある。
この本陣は明治元年(1868年)の行幸と還幸、明治2年(1869年)の再幸のときに明治天皇が休憩した場所でもある。
脇本陣跡も見つけたが、特に説明はなし。
白須賀交番前交差点をすぎると、夏目甕麿(なつめみかまろ)邸址・加納諸平生誕地がある。
夏目甕麿は白須賀宿の名主で酒造業を営む家に生まれた。
国学者の内山真龍(うちやままたつ)、本居宣長、本居春庭に入門し、石塚龍麿(いしづかたつまろ)、竹村尚規(たけむらなおのり)、高須元尚(たかすもとなお)、飯田昌秀(いいだまさひで)、鱸有鷹(すずきありたか)らと交流があった。
主な著作は「古野の若菜」、そのほか賀茂真淵の「萬葉集遠江歌考」、石塚龍麿の「鈴屋大人都日記」などを出版した。
加納諸平は甕麿の長男で、本居大平に国学を学び、紀州藩国学所総裁となった。
夏目甕麿邸址・加納諸平生誕地を過ぎると、大きなマキの木がある。
白須賀宿が宝永5年(1708年)に潮見坂の下から坂上に移ったのは津波被害を受けて、というのは前述した。
宿場の移転以降津波の心配はなくなったものの、今度は冬季の西風によって火災が発生し、たびたび大火となって宿場を襲った。
そこで、この火事を食い止めるために土の壁が築かれ、その壁の上に火に強いマキの木が植えられた。これが火除地と火防樹である。
かつては白須賀宿の3ヶ所に火除地があったが、現在はここしか現存していない。
秋葉信仰しかり、今より消防技術が発達していなかった時代なので、現代よりも火災への備えを熱心に行っていることが伝わってくる。
火除地と火防樹から先に進むと、「夢舞台東海道」の「湖西市境宿(白須賀宿加宿)」がある。
加宿とは人家が少なく人馬が出しにくい宿駅で隣接する村を加えることで人馬の用を行わせたものである。「境宿」という名前は、遠江国と三河国の国境が近いのでその名がついたのだろう。
「夢舞台東海道」の向かい側に、成林寺がある。
成林寺は法華宗陣門流の寺院で、天正5年(1577年)に日遠によって開山した。
成林寺からそのまま進むと県道173号線に合流するが、そこの丘の上に笠子神社がある。
笠子神社は太古より笠子大明神と称し白菅帯の港の西岸に鎮座していたが、高波や津波などで2度移転し、現在地に移ったのは元和2年(1616年)である。
笠子神社を出て、一瞬旧道に入ってまた県道173号線に出る。
境川という小さい川を渡ると、「愛知県豊橋市」というカントリーサインが目に入る。
ついに、ついに長い静岡県が終わったのである。
「東海道を歩く」では「東海道を歩く 10.箱根神社入口バス停~三島広小路駅」の4.箱根峠 で箱根峠を越えてから、取材期間にして1年半もの期間静岡県を歩き続けていた。
ついに、静岡県が終わったのか…!と感慨に耽った。
…1つだけ残念な点を言うならば、静岡県側のカントリーサインがなかったのが、少し惜しかった。
11.愛知県に入る
そのまま進み、一里山東交差点を右折して国道1号線を北上する。
少し進むと、右手側に鬱蒼とした小山が見えてくる。一里山の一里塚だ。
一里塚とは36町を1里とした里程標である。1里はkmに換算すると約4km。
江戸時代はそれぞれの藩が一里塚を保護していたが、明治以降は放置され、多くの一里塚が滅失した。一里山の一里塚も左右1基ずつあったが、南側のものは大正期に滅失した。現代まで残っているものは稀なので、この一里塚は豊橋市指定史跡となっている。なお、この一里山の一里塚は江戸から数えて71里目のものである。
ここから二川宿に入るまでの約4kmの間はあまり見るものがなく、ひたすら考え事をしつつ早足で歩いた。
愛知県でもキャベツ栽培は盛んだ。回鍋肉のことを考える。
コオロギを販売している店を見つけた。何に使うんだろう…?と考え、調べたところトカゲ等のペットのエサになるらしい。
豊橋市章が描かれた消火栓を見つけた。
豊橋市章は「千切」のマークである。
このマークは江戸時代に吉田藩(現在の豊橋市)の藩主、松平大河内家の馬印「千切小御馬印」に由来しており、この馬印を真横から見てデザインしたのが現在の豊橋市章である。制定されたのは明治42年(1909年)で、ずいぶん昔から使われている。
愛知県章の空気弁も見つけた。
愛知県章は昭和25年(1950年)に制定された。
このマークは「あいち」の文字を図案化し、太平洋に面した県の海外発展性を印象づけ、希望に満ちた旭日波頭を表しているようだ。
Cut House ROUTE1。国道1号線沿いにあるからROUTE1なのか。
二川ガード南交差点で国道1号に別れを告げ、旧道に入る。
12.駒屋
旧道に入るとすぐ、豊橋市のデザインマンホールを見つけた。
このマンホールは豊橋市制90周年を記念して平成8年(1996年)に製作したデザインマンホールである。
豊橋市が世界に誇る国際貿易港「三河港」を中心に、人・緑・港・街をデザインしたとのこと。
二川の一里塚跡を見つけた。
「東海道 二川宿案内所」があったが、閉まっていた。
そのまま進むと、右手側に妙泉寺がある。
妙泉寺は日蓮宗の寺院で、前身は貞和年間(1345~1350年)に日台上人が建てた小庵だった。
その後、衰微していたのを寛永から明暦頃(1624~1658年)に日意上人が信徒の助力を得て再興し、信龍山妙泉寺と改称、万治3年(1660年)には現在地に移転、山号を延龍山と改めた。
妙泉寺に所蔵されている鰐口は永享5年(1433年)に造られ、半面が慶長2年(1597年)に再鋳された珍しいもので、豊橋市有形文化財に指定されている。
境内には寛政10年(1798年)に建立された芭蕉句碑である紫陽花塚もある。
妙泉寺の少し先に、二川八幡神社がある。
社伝によれば、永仁3年(1195年)に鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請したのが創立と伝えられる。
境内にある秋葉山常夜燈は、かつて二川新橋町の街道桝形南にあったもので、文化6年(1809年)に建立されたものである。三河国(愛知県)にも秋葉信仰は広がっていたのだ。
二川八幡神社の少し先に、駒屋がある。入ってみよう。
駒屋は豊橋市内に数少ない江戸時代の建造物で、当時の商家の一般的な形式をよく残していることから、平成15年(2003年)に豊橋市指定有形文化財となった。
商家「駒屋」とは、二川宿で商家を営むかたわら、問屋役や名主などを務めた田村家の遺構である。
東海道に面している「主屋」のなかはこんな感じになっている。
主屋の建築年代は文化11年(1814年)、安政2年(1855年)に修繕が加えられている。
「駒屋」では「鈴木愛 デザイン書道教室作品展」がやっていたが、作品を撮影してよいものかわからなかったので作品は載せないでおく。
ほかの建物とは渡り廊下で接続しており、この廊下は大正2年(1913年)に建てられた。
離れに茶室がある。茶室は明治17年(1884年)に建てられたもので、田村家9代当主善蔵によって建てられた。善蔵は茶道を学んでいたようだ。
こちらは南土蔵。南土蔵が建てられたのは安永3年(1774年)または天明元年(1781年)。駒屋の建築物のなかでは古めである。
中土蔵は安政3年(1856年)に建てられた。現在は菓子・雑貨を売る「ふたこまや」というお店が入っている。
北土蔵は大正期に建てられた。現在は蔵カフェ「こまや」というお店が入っているが、閉店していた。
また、駒屋では二川宿の御宿場印も販売しており、購入した。
ここで二川宿について簡単に紹介する。
二川宿は、東海道五十三次で江戸から33番目の宿場で、町並みは12町26間(約1.4km)あった。
天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」には、二川宿の人口は1,468人、家数は328軒、うち本陣・脇本陣が各1軒、旅籠屋が38軒あったと記されている。
13.二川町道路元標
駒屋をあとにすると、脇本陣跡を見つけた。
脇本陣は本陣の利用が重なった場合、その補助的な役割を果たした。その格式は本陣に次ぐものであり、本陣と同様に、その経営は宿場の有力者があたり、二川宿の脇本陣は松坂家がつとめていた。
二川宿本陣資料館の脇を通り過ぎる。
なんと、二川宿では本陣が現存しており、現在、本陣が残っている東海道の宿場は二川宿と草津宿のみである。
二川宿の目玉施設であり、行きたいのはやまやまなのだが…閉館35分前、入場終了5分前だったので明日行くことにした。なので、次回の「東海道を歩く」で取り上げるつもりである。お楽しみに!
二川宿本陣資料館の道を挟んで反対側には西駒屋がある。
西駒屋は「駒屋」から分家した東駒屋からさらに分家し、明治42年(1909年)に味噌・醤油の醸造業を創業した。この建物は明治時代後期に建築されたもの。
中原屋菓子店の前に、秋葉山常夜燈、高札場跡、二川町道路元標がある。
道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では全国で2,000基程度しか残っていない。
ただ、国道901号さんが主宰するサイト「道路元標が行く」では、愛知県は全国的に見てもかなり道路元標が残っている都道府県である。愛知県内には115基もの道路元標が残っているので、今後の東海道ウォークで出会うのが楽しみである。
道路元標のおもしろさのひとつとして、「なぜここに道路元標が設置されたのか」を考察することがあるのだが、今回の場合は高札場の前で、ここが二川町の中心だったから設置された、と考えてよいだろう。
14.二川駅へ
豊橋市のデザイン消火栓を見つけた。豊橋市が発祥の地とされる手筒花火が描かれている。
東海道を西に進んでいると大きい鳥居が見えたので寄ってみる。大岩神明宮だ。
社伝によれば文武天皇2年(698年)に創建され、現在地に移ったのは正保元年(1644年)である。
江戸時代には黒印地2石を受けた格式の高い神社で、現在でも大岩の氏神となっている。
このデザインマンホールも平成8年(1996年)に製作されたもので、豊橋市が発祥の地といわれる手筒花火を前面に描き、背景には市民の水源「豊川」、市の木「クスノキ」、市のシンボル「吉田城」をデザインしたもの。
東海道を歩いているとまた右手側に大きな鳥居が見えたので寄ってみた。二川伏見稲荷である。
明治43年(1910年)11月に京都の伏見稲荷大社から分霊を勧請し、創始された神社である。かなり新しめの神社である。
社務所を覗いてみると、もう閉まっていた。明日、二川宿本陣資料館に向かうときの通り道なので、また寄ってみることにする。
二川伏見稲荷から東海道に戻り、そのまま西に進むと二川駅に到着する。今日の東海道ウォークはここで終了とする。
次回は二川駅から札木停留場まで歩く。
【おまけ】
今回宿を取っていたのは鷲津(湖西市)だが、ここまで来たら食べたいものがある。
さわやかである。
「またさわやか食べるのか」と思った人もいたかもしれないが、前回食べたのは8月、今日は11月。私はさわやかに飢えている。
遠鉄百貨店のさわやかに向かい、整理券を発行。たまたま「げんこつおにぎりフェア」をやっていたので、なんと3時間待ちだった。一瞬面食らったが、スタバでのんびり待つことにする。
今回、スタバで頼んだのはストロベリーメリークリームフラペチーノ。いちごとホワイトチョコレート、マスカルポーネの風味が絶妙で美味しかった。
時間になったので、さわやかに向かう。せっかくなので、「げんこつ倶楽部」というフェア限定メニューを頼む。これは、げんこつハンバーグにドリンクと野菜スープ、ライスorパンがつくセットである。
まずドリンクが運ばれてきた。
店員さんが「カンパイしてもよろしいでしょうか?」と聞くので、一瞬面食らいつつも「あ、はい」と答える。「カンパイの挨拶はどうしましょうか?」と聞かれたので、一瞬迷ってから「今日もお疲れさまでした」で、と答える。「今日もお疲れさまでした、カンパーイ!」という店員さんの掛け声で一緒にカンパイをする。今働いている店員さんのほうがお疲れ様であり、私はただ一日遊んでいただけなのになぁ、と思う。
ちなみにこのカンパイの儀式、同行者がいる場合は同行者とカンパイするらしい。
野菜スープを飲みながらハンバーグの登場を待つ。
店員さんが熱々の鉄板の上に置いたげんこつハンバーグを持ってきた。私の前でハンバーグを2つに切り、鉄板に押し付けて焼き、オニオンソースをかけた。
店員さんが去ってから、ハンバーグの写真を撮り、まだジュージュー言ってるところを一口大に切って頬張る。
うまい。
うますぎる。
何度だって食べたくなるハンバーグ、それがさわやか。
さわやかはデザートも美味しいことを忘れてはならない。
今回頼んだのはシャインマスカットパフェ。
私はぶどうも好きなので、美味しくいただいた。
さわやかの余韻に浸りながら、鷲津の宿へ向かう。このとき21時を過ぎていたが、それでも「食べに来てよかった」と思った。
歩いた日:2023年11月11日
次回記事はこちら↓
【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006) 「静岡県の歴史散歩」 山川出版社
愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社
風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第9集」
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html
新居関跡
https://www.city.kosai.shizuoka.jp/material/files/group/22/sekisyo6.pdf
湖西市 小松楼まちづくり交流館
https://www.city.kosai.shizuoka.jp/soshikiichiran/kanko/spot/8959.html
湖西・新居観光協会 諏訪上下神社
https://hamanako-kosai.jp/location/1481/
湖西・新居観光協会 教恩寺
https://hamanako-kosai.jp/location/1166/
湖西・新居観光協会 本学寺(紅葉寺)
https://hamanako-kosai.jp/location/1241/
湖西・新居観光協会 東新寺
https://hamanako-kosai.jp/location/1226/
湖西・新居観光協会 火鎮神社
https://hamanako-kosai.jp/location/1392/
https://hamanako-kosai.jp/location/1505/
湖西・新居観光協会 蔵法寺
https://hamanako-kosai.jp/location/1207/
湖西・新居観光協会 おんやど白須賀
https://hamanako-kosai.jp/location/448/
湖西・新居観光協会 成林寺
https://hamanako-kosai.jp/location/1193/
湖西・新居観光協会 笠子神社
https://hamanako-kosai.jp/location/1403/
https://www.city.toyohashi.lg.jp/10696.htm
愛知県 県章・県民歌
https://www.pref.aichi.jp/soshiki/koho/0000063744.html
https://www.city.toyohashi.lg.jp/30054.htm#hune
商家「駒屋」
国道901号 道路元標が行く。
https://www.honokuni.or.jp/toyohashi/spot/000064.html
(2023年11月29日最終閲覧)