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東海道を歩く 31.御油駅~藤川駅

 前回、札木停留場から御油駅まで歩いた。今回は御油駅から藤川駅まで歩こうと思う。御油宿と藤川宿の間に赤坂宿があるが、御油宿と赤坂宿の距離は16町、約1.7kmしかない。東海道の宿場間距離にして最短だ。名鉄名古屋本線の駅観点から見ても1駅しかない。流石にこれだけで1日とするわけにもいかないので、名電赤坂駅を通り過ぎ、藤川駅まで歩いた、ということだ。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.御油のマツ並木

 今日は御油駅からスタートだ。

御油

 御油駅から東海道に向かう途中に博物館がある。御油の松並木資料館だ。

御油の松並木資料館

 御油の松並木資料館の前には水準点もある。

一等水準点第161号

 一等水準点第161号は昭和63年(1988年)設置の金属標型の水準点だ。

 

 御油の松並木資料館は写真の撮影はOKだが、SNS等への掲載はNGとのことで、文章のみで記す。

 

 後で実物を見に行くが、この先に「御油のマツ並木」がある。

 御油のマツ並木とは、東海道の両側に300本ほどのマツが600mほど続いている松並木だ。本数は江戸時代と比べて半分ほどになっているらしい。

 

 東海道沿いにマツ・スギ・ヒノキを植えるよう決めたのは東海道を定めた人物、徳川家康である。

 慶長9年(1604年)、家康の命令を受け、大久保長安御油にて3年の歳月をかけ、2mほどの間隔で全体では650本前後の松並木の整備を行ったという。

 松並木は夏には暑さをしのぐ木陰をつくり、冬には冷たい北風や雪を防ぐなど、旅人の苦労を減らし、旅に風情をそえた。

 その反面、薄暗い松並木はある種の恐怖感を植え付けてもいたようで、十返舎一九の記した「東海道中膝栗毛」では、主人公の弥次さん・喜多さんがキツネに化かされかけた話の舞台としても登場している。

 江戸時代、松並木は幕府の手厚い保護と監視のもとで守られたが、明治以降、御油では地域住民による自発的な管理が続けられることになった。

 昭和にはいり、第二次世界大戦が激しくなると、各地のマツは木造船の材料や燃料にするため切り倒されていった。

 さらには航空機燃料が不足し、マツの根から松根油を採取するため御油の松並木も切り倒されることになってしまった。

 しかしこの危機に御油町民たちはマツをまもる運動をおこした。運動が功を奏し、昭和19年(1944年)11月7日に国の天然記念物に指定され、マツは1本も切られることはなかった。

 昭和47年(1972年)には御油松並木愛護会が結成され、今も江戸時代の並木景観が保たれている。

 

 御油の松並木資料館には「覚」が展示されていた。これによると、松並木の松が1本でも枯れても、江戸幕府に届け出て、幕府の許可がなければ伐採することができなかったことを記している。

 

 御油の松並木資料館には松並木関連資料以外の江戸時代の資料も展示されている。

 天保期に出された、代官の山上藤一郎が出した触書が展示されていた。そこに書かれている一部を抜粋すると「養子や嫁を大切にせよ」「着物や装飾品は質素にせよ」「若い者は夜遊びをつつしめ」「金を借りたらきちんと返せ」などと書かれている。

 「嫁を大切にせよ」「金を借りたらきちんと返せ」…現代でも言えるような内容が書かれている。

 

 御油宿は東海道五十三次の35番目の宿場である。

 天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によると、御油宿は家数316軒、本陣2軒、旅籠屋62軒で、人口1,298人のうち、女性が738人とある。女性が多いのは飯盛女(めしもりおんな。性的サービスも行った女中)として働く人が多くいたからである。

 

 浮世絵がいくつか展示されていた。

 もちろん歌川広重の「東海道五十三次 御油」も展示されていた。

東海道五十三次 御油

 御油は遊興が盛んで、参勤交代の武士たちも宿泊を楽しみにしたという。

 留女(とめおんな。旅籠の客引きをする女)が強引に客引きを行い、旅人が引きずられていく様子がユーモラスに描かれている。絵として見る分には面白いが、旅人としてはたまったものではないだろう。

 

 なかには座敷牢の写真も展示されていた。いったい何に使われていたのだろうか…想像するだけで怖くなってくる。

 

 そのほか、御油宿の旅籠や名所が記された地図などが展示されていた。

 

 御油の松並木資料館の前に大きな切り株が展示されているが、これは松並木を整備した当初に植えられた樹齢380年のマツの切り株である。

 

 御油の松並木資料館の向かい側に「おふく」という和菓子屋があり、そこで御油宿の御宿場印が販売されている。

 

 おふくで何か食べようと物色していると、友人が「鬼まんじゅうを食べたい」と言ったので、私も鬼まんじゅうを買って店内で食べた。

鬼まんじゅう

 鬼まんじゅうとは小麦粉やサツマイモを用いた和菓子で、愛知県、岐阜県三重県に普及しているようだ。愛知出身の友人は鬼まんじゅうが何かを知っていたが、私は初めて食べた。私はサツマイモが大好きなので、美味しくいただいた。

 

 おふくをあとにして、東海道を進むと左手側に東林寺がある。

東林寺

 東林寺には御油宿の飯盛女の悲話が伝わる。

 御油宿と、その隣の赤坂宿は「御油に赤坂、吉田がなくば、何のよしみで江戸通い」と俗謡にうたわれるほど、飯盛女を多く抱えていたことで知られている。

 旅籠屋で働く飯盛女は、給仕・雑用だけでなく遊女としての仕事もしていた。

 飯盛女はどこからやってくるのかというと、実家の生計が苦しかったり、年貢をおさめることが困難な家の9~15歳の少女で、身代金4両、年季10年ほどで奉公に出されてしまっていた。

 東林寺に葬られている飯盛女の墓は「ばい 21歳」「国 22歳」「玉 25歳」「豊 19歳」と読むことができるという。

 4人は御油宿の旅籠大津屋の飯盛女として働いていて、将来を悲観した結果、嘉永元年(1848年)9月28日夜に、溜め池に4人で入水自殺した。

 旅籠屋の主人、大津屋弥助はこれを哀れに思い、4人の墓を東林寺に建てた。

 

 この4人のうち豊は伊勢国出身と記録されている。御油宿の役人から死亡通知を国元に出したところ、豊の父親からこう書状が返ってきたという。

 「このたびの変死の件については、こちらの借金がかさんだ結果であり、このような始末をおこして申し訳ない。遺体を引き取りにいくべきだろうが、こちらは旅費すら出せない状況であるので、宿駅の決まりどおりに取り計らっていただきたい。」

 宿駅の決まりどおりとは、昔は旅先で亡くなる人が多かったので、「もし旅先で亡くなったら、そこの地に葬ってください」ということである。旅人が持ち歩いた手形にもこの文面が書かれていることが多い。

 豊の父親の書状からは、娘の死に際し、引き取りすらできない無念さを感じる。

 主人が墓碑を建てたあたり、ほかの飯盛女と比べてこの4人はまだましだったのかもしれない、と思いたいところである。

 実態は投げ込み寺に投げ込むようにして葬られることがほとんどだからである。「うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪(第2回)」5.花園神社 でも取り上げたが、成覚寺にある子供合埋碑には1,600人もの飯盛女が同じ墓に葬られたりしているからである。

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 御油のマツ並木が始まった。

御油のマツ並木

 現代ではほとんどなくなってしまったマツ並木。少し薄暗くて、犯罪の温床になっていたのかもしれないけれど、明るいときに通ればこのような道を江戸時代の人は通っていたのか、いいなぁ、と思ってしまった。

 マツ並木自体は時折登場しているが、前回登場した立派なマツ並木といえば、「東海道を歩く 27.舞阪駅新居町駅」1.舞阪の松並木 に登場してきた舞阪の松並木を思い出す。

舞阪の松並木

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2.関川神社

 御油のマツ並木をすぎてふと足元を見ると、旧音羽町のマンホールがあった。

 

 歌川広重の「東海道五十三次 赤坂」と旧音羽町の町章が描かれている。

 

 「東海道五十三次 赤坂」は夕食のときの旅籠のあわただしい様子が描かれている。

 肩に手拭いをかけた風呂上りの男、部屋でくつろぐ男、夕食を運ぶ飯盛女と按摩、隣の部屋で化粧をする飯盛女。

 このあたりは繁栄した宿場であったことがわかる。

 

 このマンホールのモノクロバージョンも見つけた。

 

 音羽町町章のみのマンホールも見つけた。これは「音」を意匠化したものだ。音羽町は平成20年(2008年)に豊川市編入、廃止された。

 

 これは音羽町の旧町章だろうか?調べてみても何も出てこなかった。

 

 下ばかり見ていたが、視線を戻すと赤坂宿の見附跡があった。見附は明治7年(1874年)に取り壊されてしまったようだ。

見附跡

 見附跡から少し歩くと、関川神社に到着した。

関川神社

 鳥居の前に置いてある灯籠は秋葉灯籠だ。秋葉灯籠は秋葉信仰により設置される。

秋葉灯籠

 関川神社には、松尾芭蕉の句碑がある。

 

 この句碑には以下の句が刻まれている。

 「夏の月 御油よりいでて 赤坂や」

 夏の夜は明けやすく、月がでている夜の時間は短いように、御油と赤坂の距離は短いなぁ、と謳っている。

 確かに、御油宿と赤坂宿は16町(約1.7km)しか離れていないし、名鉄名古屋本線でも御油駅の次の駅に名電赤坂駅がある。東海道の宿場間距離では最短だ。

 御油と赤坂は御油の松並木に互いに向かい合っている印象も抱いたくらい、宿場の距離の短さが印象的だった。

 

 関川神社のクスノキは樹齢800年もあるという。パワーがもらえそうな大樹だ。

 

3.浄泉寺

 かとう呉服店で赤坂宿の御宿場印を配布しているのでいただいた。

 

 かとう呉服店の隣に赤坂宿本陣跡がある。

本陣跡

 ここの本陣は宝永8年(1711年)の間取り図によると、間口17間半、奥行き28間、座敷通り422畳で門・玄関付きの立派な本陣だったようだが、現存していない。

 赤坂宿は江戸から数えて36番目の宿場である。慶長6年(1601年)の伝馬朱印状に赤坂・五位(御油)とあることから、伝馬制度発足時からの宿駅であったと考えられる。

 御油宿との距離が16里(約1.7km)と短いことや、「赤坂・御油」と書かれているあたり、当初はひとつの宿場であったと考えられている。

 天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によれば、本陣3軒・脇本陣1軒・旅籠屋62軒・家数349軒と記されている。

 宿場全体の軒数からみて宿泊施設が多かったのは、この地に天領を支配する赤坂代官所がおかれていたことや、御油宿とともに、旅人の宿泊する場として多くの人に利用されていたことによる。

 

 赤坂紅里交差点に高札場が復元されていた。「きりしたん宗門禁制」など5枚の高札が掲示されている。

高札場

 高札場の反対側は赤坂宿公園となっており、「赤坂宿町並の図」や「赤坂宿のまつり」といった掲示物と休憩できる椅子が置かれていた。

赤坂宿町並の図

赤坂宿のまつり

赤坂宿公園

 足元を見ると、「音羽」と書かれた消火栓があった。音羽町時代に設置したのだろう。

 

 浄泉寺に着いた。

浄泉寺

 浄泉寺は浄土宗の寺院である。

 浄泉寺といえば、ソテツである。

浄泉寺のソテツ

 このソテツは歌川広重の「東海道五十三次 赤坂」に描かれたもので、明治20年(1887年)頃に移植されたと伝えられている。

 確かに、歌川広重の「東海道五十三次 赤坂」にも、それをモチーフにした旧音羽町のマンホールにも、ソテツが描かれている。

 

 ちなみに、浄泉寺にも秋葉山常夜燈がある。

 

4.大橋屋

 浄泉寺から出て少し進むと大橋屋がある。

大橋屋

 大橋屋は正徳5年(1715年)に建てられた、赤坂宿では唯一の江戸時代に建てられた旅籠である。

 以前は宿泊することもできたようで、平成28年(2016年)に発行された「愛知県の歴史散歩 下 三河」では「現在も料理旅館として営業しており、宿泊することができる。」と紹介されている。

 しかし同じ平成28年(2016年)に発行された「ホントに歩く東海道 第10集」では「本マップ現地調査の平成27年(2015年)3月に、江戸時代からの旅籠「大橋屋」が廃業したのは残念だった。(中略) 多くの東海道ウォーカーが泊まったことだろう。資料館になる予定と聞く。」と書かれている。

 調べたところ、平成28年(2016年)に博物館として、一般公開を開始したようだ。

 

 天井を見上げると、柱の上に湾曲した太い松材の梁を乗せ、その上に束を建てて屋根を支える、伝統的な和小屋組を見ることができる。

 

 ボランティアガイドのおばちゃんに話しかけられ、話を聞いていたら30分も経ってしまった。

 ここからはおばちゃんの話を交えながら記す。

 

 赤坂宿の高札場のあった交差点は「赤坂紅里」といったが、これは賑やかなところなのでそう名付けられたようで、賑やかなところなので飯盛女もいっぱいいたようだ。

 ただ飯盛女の生活は悲惨で、墓を作ってもらえるだけまだましだった、という話は東林寺の話で前述した。

 飯盛女は実家の金がなく奉公に出された女性たち、とは知っていたが、当時は女性が働ける仕事はほぼなかったこともあり、一度飯盛女の仕事についてしまうとなかなか抜け出せない、とおばちゃんは話していた。

 

 昔、大橋屋はもっと広い旅籠だったようで、レンガで間取りが復元されていると説明された。

 

 私たちが入ってきた玄関のほかにもうひとつ大きな玄関があり、これは明治11年(1878年)に明治天皇大橋屋を利用したときに使用した玄関だと説明された。明治天皇はここで食事をしたらしい。

 そしてそのときのお付きの方に伊藤博文がいたとか…。ほかにもお付きの方はいただろうが、伊藤博文にお付きの方がいてもいいくらいだと思う。

 

 もっと前の時代だと、琉球通信使のお付きの人や、将軍になる前の徳川慶喜のお付きの人もここに泊まったという。本陣ほどではないが、それなりに格式のあった旅籠であったと言えよう。

 

 2階もあり、宿泊スペースとして使われていたようだ。

 

 ひととおりおばちゃんが話し終えた後、どこから来たの?と聞かれたので東京から来た、と答えたら、東海道を歩く人は関西方面から歩く人よりも、関東方面(東京、神奈川、千葉、埼玉など)から歩く人のほうが多いらしいことを教えてもらった。なぜだろう。

 

5.杉森八幡社

 大橋屋の隣に赤坂宿の脇本陣跡があったが、碑のみが残っている。

赤坂宿脇本陣

 大橋屋の近くに正法寺がある。正法寺曹洞宗の寺院である。

正法寺

 正法寺には鎌倉時代の仏像、絹本著色釈迦如来像(けんぽんちゃくしょくしゃかにょらいぞう)があり、愛知県文化財に指定されているが、見ることはできなかった。

 正法寺には樹齢400年のウラクツバキがある。2月頃になると花を咲かせるのだろうか。

ラクツバキ

 正法寺をあとにして東海道を進むと、「よらまいかん」という休憩施設がある。よらまいかんの前に、赤坂町の道路元標がある。

よらまいかん

赤坂町道路元標

 「スーパー地形」というアプリで陸地測量部が作った戦前地形図を見てみると、この近くに赤坂町役場があり、それで設置されたのかもしれない。

 よらまいかんの道路の反対側に、赤坂陣屋跡がある。

赤坂陣屋跡

 陣屋とは代官所ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところである。

 

 よらまいかんから歩くと杉森八幡社に到着する。

杉森八幡社

 杉森八幡社の起源は大宝2年(702年)で、寛和2年(986年)の棟札が現存する。

 杉森八幡社には樹齢1,000年の夫婦楠がある。とても大きく、パワーに満ち溢れている気がする。

夫婦楠

 杉森八幡社には赤坂の舞台があり、年1回ここで歌舞伎の公演をやるらしい。機会があれば観てみたい。

赤坂の舞台

 歩いているといなりんデザインの消火栓を見つけた。いなりんは豊川市のマスコットキャラクターで、キツネと豊川いなり寿司を合体させたキャラクターである。

 

 長沢の一里塚を見つけた。ここは江戸から77里目の一里塚だが、この「一里塚跡」の案内板以外残っていない。

長沢の一里塚

 長沢の一里塚の近くに「長沢城跡」がある。

長沢城跡

 松平信光の子、松平親則が長沢城を築いたのは長禄2年(1458年)とも寛政年間(1460~1465年)ともいわれている。

 桶狭間の合戦後、永禄4年(1561年)に長沢城は徳川家康に攻められ落城している。

 

 長沢城跡の説明板の裏に豊川市立長沢小学校があり、そこの敷地内に長沢村道路元標がある。

長沢村道路元標

 「スーパー地形」というアプリで陸地測量部が作った戦前地形図を見てみると、現在学校があるところに学校マークがあり、その隣に長沢村役場がある。長沢村役場前に設置されていたのかもしれないが、保存のために学校敷地内に移設されたのだろう。

 

6.岡崎市へ入る

 歩いていたら水準点を見つけた。一等水準点第162号だ。

一等水準点第162号

 一等水準点第162号は昭和24年(1949年)に設置されたやや古い標石型の水準点だ。

 

 誓林寺に訪れてみる。

誓林寺

 誓林寺は嘉禎元年(1235年)に高梨高直が草庵を建て、阿弥陀仏を安置したことに始まる浄土真宗本願寺派の寺院である。

 

 初めて「音羽町」表記の看板を見つけたので撮ってしまった。黄桜のカッパに似ている。

 

 巓神社(てんじんじゃ)の石柱の横に立派な秋葉灯籠をみつけた。ちなみに巓神社は山の上なので行っていない。

 

 「観世音菩薩」と書かれた石碑を見つけ、奥のほうに観音様らしき石仏が見えたが、雑草をかきわけて行く必要があるので遠くから手を合わせるだけにした。

 

 「火の用心」の幟と秋葉灯籠。今も昔も火に対する恐れは変わらない。

 

 関屋交差点で国道1号に合流する。

 

 313キロポスト、314キロポストと、国道1号を歩いていく。

 

 豊川市に別れを告げ、岡崎市に入る。

 

 岡崎市に入ると、冠木門が出迎えてくれた。

 

 岡崎市の市章入り消火栓を見つけた。

 岡崎市の市章は、外まわりに竜の爪が宝珠をつかんだ形を配し、そのなかは岡崎の「岡」の漢字を図案化している。

 なぜ竜の爪か?というと、岡崎城は別名「竜ヶ城」とも呼ばれたからである。

 もともとこの地には龍神が住み、城が築かれるとその守護神となり、敵が攻めてきたときは必ず雲で城を覆って守ったと伝えられている。

 徳川家康岡崎城で生まれたときも龍神が現れ、空に舞ったという伝説がある。

 

 岡崎城矢作橋がデザインされたデザインマンホールを見つけた。

 矢作橋は慶長6年(1601年)に架橋された江戸時代では最長の大橋である。

 

 「左 東海道 右 国道一号」と書かれた石碑のあるところで左折し、旧道に入る。

 

7.法蔵寺

 法蔵寺に入る。まず、「御草紙掛松(おそうしかけのまつ)」がある。

御草紙掛松

 御草紙掛松(おそうしかけのまつ)は、徳川家康が幼少の頃、手習いの草紙をかけたという逸話の残る松である。この松は平成18年(2006年)に植えられた4代目の松なので家康が草紙をかけた松ではない。

 

 法蔵寺の境内に入る。

法蔵寺

 寺伝によれば、法蔵寺は行基が彫った観音像を本尊として、大宝元年(701年)に創建され、文武天皇より出生寺の寺号を下賜され勅願所にも定められたという。

 至徳2年(1385年)に京都円福寺より教空龍芸(きょうくうりゅうげい)が来住すると、寺は大きな転機を迎え、それまでの法相宗より浄土宗に改宗され、寺号も法蔵寺に改められた。あわせて龍芸により多くの弟子が育てられ、のちに三河を檀林(学問所)として重きをなし、末寺・塔頭も多く有するなどの発展をみたという。

 法蔵寺が位置した山中郷は室町幕府直轄の御料所で、室町幕府6代将軍 足利義教(あしかがよしのり)は法蔵寺を祈願所としたことが伝わる。

 16世紀には今川氏・松平氏の保護をうけ、徳川家康が幼いころ、7世住職の教翁洞恵(きょうおうどうけい)より手習い・漢籍を学んだと言い伝えられている。

 江戸時代には法蔵寺境内に東照宮が祀られ、東海道をいく人々も参詣した。それは旅人のみならず、参勤交代で東海道を往来する大名も必ず立ち寄ったという。

 江戸中期に来日したドイツ人医師ケンペルの書にも法蔵寺の名前が記され、江戸時代後期に来日した同じくドイツ人医師のシーボルトが、文政9年(1826年)に訪れたと伝えられている。

 法蔵寺に参拝し、本堂の裏に大きな木がある。これは、樹齢1,200年ともいわれる行基お手植えの開山マキだ。とても大きく、パワーに満ちている。

行基お手植えの開山マキ

 法蔵寺で御朱印をいただいた。

 

 六角堂裏の墓所には、新撰組局長、近藤勇首塚がある。

近藤勇首塚

 近藤勇は慶応4年(1868年)に江戸・板橋で処刑されたのち、その首は京都でさらし首になった。

 同志たちはこれを生前より近藤勇が敬慕していた京都誓願寺住職・称空義天(しょうくうぎてん)のもとにひそかに運んだが、称空はその半年前から法蔵寺の39世住職となっていたために、法蔵寺に近藤勇の首が持ち込まれ、供養されたという経緯がある。

 友人は新撰組が好きらしく以前から知っていたようだが、私は知らなかった。そっと手を合わせた。

 

 近藤勇首塚の近くに松平家菩提所や三方原の戦い忠死者墳墓がある。ここには松平廣忠(徳川家康の父親)や、家康最大の敗北といわれた三方原の戦いの犠牲者が葬られている。そっと手を合わせた。

松平家菩提所・三方原の戦い忠死者墳墓

 近藤勇首塚からさらに上がると、東照宮がある。御神体徳川家康初陣の甲冑姿の木像だという。

東照宮

8.旧本宿村役場

 法蔵寺をあとにして、東海道を歩くと本宿古城(もとじゅくふるじろ)がある。

 本宿古城は東西76m、南北86mの平城だったが、本宿古城の城主、松平権兵衛重弘が岡崎城主松平廣忠(徳川家康の父親)に背いたため天文16年(1547年)に廣忠から攻撃を受け、落城したという。

 城跡は名鉄などになったというが、あのあたりだろうか?

本宿古城が見える?

 少し寄り道をして、冨田病院の敷地内にある郷土史資料展示室に寄る。

郷土史資料展示室

 郷土史資料展示室は、小さい展示室だったが文政11年(1828年)に描かれた世界地図に目をひかれてしまった。

世界地図

 また、三州長篠城合戦陣取之図もあった。

三州長篠城合戦陣取之図

 東海道に戻り、歩いていくと本宿村道路元標を見つけた。本宿村道路元標は珍しく、説明板もついている。

本宿村道路元標

 

 本宿村道路元標の隣には、秋葉常夜燈もある。

秋葉常夜燈

 本宿村道路元標は本宿村役場前の道と東海道の交差点に建っているのだが、なんと本宿村役場も残っている。

旧本宿村役場

 旧本宿村役場は昭和3年(1928年)に竣工した本宿村3代目の役場庁舎である。岡崎市編入される昭和30年(1955年)まで役場庁舎として使用された。

 平成20年(2008年)に解体工事が行われたが、貴重な近代化遺産であることから、解体部材を使用した復原工事が実施され、令和4年(2022年)に竣工したばかりだという。あまりに新しいので、「愛知県の歴史散歩」や「ホントに歩く東海道」にも載っていない(どちらも平成28年(2016年)発行)。

 

 旧本宿村役場のなかは小さな博物館になっている。

 間の宿(あいのしゅく)本宿の説明があった。本宿は赤坂宿と藤川宿の間の 間の宿となっていたようだ。名物は召し縄と餅団子、草鞋だったらしい。

間の宿本宿

 旧本宿村役場の棟札が展示されていた。棟札とは、建物を新しく建てたときや改築などを行ったときに、建てられた年月日、所有者、建設に携わった大工の名前を書いた板のことである。

旧本宿村役場棟札

 村長室があった。ここの椅子に座れば本宿村村長になれる(?)

村長室

 旧本宿村の広報誌、本宿村時報も展示されていた。これによると役場建設費用は8,742円70銭だったようだ。当時の1円は3,000円程度の価値であったというから、現在の価値で考えると2622万8100円…妥当な金額か。

本宿村時報

 応接室はこんな感じ。

応接室

 

 先ほど法蔵寺で見た東照宮のミニチュアが展示されていた。緻密だ。

ミニチュア東照宮

 2階に上がってみたら、会議室があった。

 

 帰り際に、旧本宿村役場をデザインした素敵なカードをいただいた。

 

9.旧本宿駅

 東海道に戻る。十王堂跡を見つけた。

十王堂跡

 東海道沿いのここに十王堂があり、旅行者や村人からの信仰を集めていた。ここのガラス扉から十王像が見られるらしいが、よく見えなかった。

 

 新しいデザインのマンホールを見つけた。

 これは岡崎城岡崎公園のサクラ、三河花火をデザインしている。

 

 ここで本宿駅に寄り、ミニチュア駅舎を見る。

本宿駅舎(ミニチュア)

 この駅舎は昭和9年(1934年)に竣工した駅舎で、平成4年(1992年)に取り壊されたという。国道1号拡幅のためらしいが、残すことはできなかったのだろうか。

 

  東海道に戻り、歩いていると本宿の一里塚跡を見つけた。本宿一里塚は江戸から78里目の一里塚だが、石碑が残るだけである。

本宿の一里塚跡

 水準点を見つけた。一等水準点第163号だ。

一等水準点第163号

 一等水準点第163号は平成15年(2003年)に設置された標石型水準点らしいが、マンホールの下で確認できなかった。

 

 宇都野龍硯邸跡(うつのりゅうせんていあと)と長屋門(現存)の説明板がある。

 宇都野氏は本宿村の医家で、その門が現存していたという。

 しかし、今ここには何もない。

 残念ながら、令和4年(2022年)に取り壊されてしまったようだ。何とかして残すことはできなかったのだろうか…。

 

 宇都野龍硯邸跡と長屋門跡の近くに、ファミリーマートがある。飲食店がなくそのまま進んでしまったため、ここで軽食を食べることにした。私は「こんがりビストロまん「とろーり濃厚チキンクリーム味」」を食べた。美味しかったので翌日も職場近くのファミリーマートで買って食べてしまったほどだ。

 

10.藤川宿

 再び「左 国道一号 右 東海道」の石碑があり、国道1号線に戻る。

 

 国道1号線の316キロポストを見つけた。

 

 のんびり歩く我々の横を、颯爽と名鉄が走り去っていく。

 

 旧道に入ると、東海道舞木町の説明板があった。

 このあたりは「舞木町」という地名だ。この近くに山中八幡宮という大きな神社があるのだが、その記録に「文武天皇の頃(697~707年)、雲の中から神樹の一片が、神霊をのせて舞い降りた」と書いてあるところから、「木が舞い降りた」をとって「舞木」と名付けたという。

 

 幾何学模様のマンホールがあるが、これは愛知・岐阜・三重で営業している東邦ガスのマンホールだ。

 

 小さな松並木を抜けるとまた国道1号線に合流する。

 

 国道1号線の318キロポストを見つけた。

 

 旧道に入ると、藤川宿の東棒鼻を見つけた。ここが藤川宿の東側出入口だ。

藤川宿東棒鼻

 藤川宿の案内板がある。

 藤川宿は品川宿から数えて37番目の宿場町で、天保14年(1843年)の記録によれば、戸数302軒、本陣および脇本陣がそれぞれ1軒、問屋場1軒、旅籠屋36軒を数えたという。

 

 東棒鼻からすぐに、曲手(かねんて)がある。

曲手

 曲手とは小さいクランクのことで、このクランクは外敵から宿場を守る目的と、街道の長さを増やして住人を増やす目的で設けられた。まあ後者は、小さいクランクなのでどの程度効果があったか微妙なところである。

 曲手の近くには秋葉常夜燈もある。

秋葉常夜燈

 藤川宿は重要伝統的建造物群保存地区などではないが、格子のある家が残っている。

 

 津島神社があったが、本殿まで遠すぎて行くのを諦めた。

津島神社

 「市場町公民館」の説明板があるが、今残っている公民館の説明ではないらしい。どう見ても大正6年(1917年)に建てられたようには見えないし…。

市場公民館

説明板

 あおう人形本店の建物が素敵で写真を撮ってしまった。

あおう人形本店

 あおう人形本店の前に藤川宿高札場跡がある。

藤川宿高札場跡

 高札場とは、江戸時代に法令などを書いた札を掲示した場所で、人目につきやすい場所に設置された。

 

 藤川宿問屋場跡も見つけた。

藤川宿問屋場

 宿場では幕府などの貨客を宿場から次の宿場へ継ぎ立てることになっていて、そのための人馬の設置が義務付けられていた。宿場でこの業務を取り扱う職務を問屋、その役所を問屋場という。

 

 旧野村家住宅(米屋)は天保年間(1830~1843年)頃の建築で、岡崎市の景観重要建造物に指定されている。

旧野村家住宅(米屋)

 本陣跡広場に冠木門と、高札場の復元がある。

本陣跡広場冠木門

高札場跡

 この高札場跡は復元だが、藤川宿の高札は6枚現存していて、そのすべてが称徳元年(1711年)のもので、岡崎市文化財に指定されているようだ。

 

 本陣跡広場から山を眺めていたら、名鉄が走り去っていった。

 

 藤川村道路元標をみつけた。

藤川村道路元標

 「スーパー地形」というアプリで陸地測量部が作った戦前地形図を見てみると、この道路元標の前に藤川村役場があり、それで設置されたのかもしれない。

 

 藤川村道路元標の奥に藤川宿資料館があるのだが、閉まっていた。

藤川宿資料館

 撮り忘れてしまったが、藤川宿資料館の前に建っていた門は藤川宿脇本陣で使用されていた門で、岡崎市指定文化財に指定されている。なお、ここは藤川宿の脇本陣跡である。

 藤川宿資料館の前に「岡崎市 藤川村 合併記念碑」がある。

岡崎市 藤川村 合併記念碑

 昭和30年(1955年)、藤川村は岡崎市編入、廃止された。

 

 東海道はまだまだ続くが、日も暮れてきたので藤川小学校と東海道の交差点で右折し、藤川駅で今日のウォーキングを終わりにした。

藤川駅

 本当は友人と豊橋のスパゲッ亭チャオのあんかけスパを食べたかったのだが、残念なことに時間がなくなってしまったため、道の駅藤川宿で夕食を済ませることにした。

 スパゲッ亭チャオのあんかけスパは「東海道を歩く 29.二川駅~札木停留場」の7.豊橋公園 のラストで登場している。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 内藤ルネのマンホールを見つけた。

 内藤ルネ昭和7年(1932年)に岡崎市で生まれたイラストレーター、デザイナーである。岡崎市内7か所に内藤ルネマンホールが設置してあるらしい。

 

 道の駅藤川宿の前には東海オンエアのとしみつのマンホールもある。

 東海オンエアも岡崎市に拠点を置く6人組Youtuberで、岡崎市内7か所に東海オンエアマンホールが設置してあるらしい。

 

 「道の駅藤川宿」に寄る。

道の駅藤川宿

 

 「道の駅藤川宿」の前に「家康公と背くらべ」のパネルがあった。徳川家康は159cmだったらしい。私の身長が158cmなので、ほとんど同じだ。

 

 道の駅藤川宿できしめんを食べた。予定とは違ってしまったが、美味しかった。

 

 翌日は会社なので、藤川駅から豊橋駅に戻り、新幹線で東京に帰ることにした。

 次回は、藤川駅から岡崎公園前駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

今回の地図⑤

歩いた日:2023年12月24日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第10集」

大石学(2021) 「地形がわかる東海道五十三次」 朝日新聞出版

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/

ぐるっと豊川 杉森八幡社

https://www.toyokawa-map.net/spot/000074.html

豊川市 戦国の城

https://www.city.toyokawa.lg.jp/smph/saijibunka/rekishi/rekishikaido/siseki/sengokunoshiro.html

誓林寺 歴史

https://seirinji.main.jp/rekishi.html

岡崎市 市章

https://www.city.okazaki.lg.jp/1300/1301/1312/p005611.html

(2024年2月2日最終閲覧)