前回、江戸三十三観音第18番札所真成院に参拝しながら四谷をめぐり、第19番札所の東円寺も訪れた。今回は第20番札所天徳寺、第21番札所増上寺に参拝しながら芝をぶらぶらしようと思う。
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1.天徳寺
今日は神谷町駅からスタートだ。
神谷町駅から北に進むとナチュラルローソン虎ノ門巴町店があり、ここには「なっ!とくしま」という徳島県のアンテナショップが併設されている。
ここのすだちジュースが美味しいのだが、今日は寒いので「おさっち」というさつまいもチップスを買った。今食べながら書いているのだがサクサクして美味しい。
ナチュラルローソンのある交差点に戻って左折、愛宕山方面へ進み、隧道の手前の交差点を右折すると天徳寺がある。
天徳寺は浄土宗江戸四か寺の一つで、光明山和合院とも言う。
天文2年(1533年)増上寺7世の親誉周仰上人の開創で、はじめは紅葉山にあったが、慶長16年(1611年)に現在地に移る。
元和元年(1615年)には徳川家康から御朱印を賜るなど、幕府に重要視されていた寺院である。
安政6年(1859年)には樺太、北蝦夷国境問題でロシア施設ムラビエフとの交渉議定の会所にもなったという。
本堂に手を合わせ、寺務所に御朱印をいただきに行こうとすると、「江戸三十三観音 御朱印 一枚ずつどうぞ」の文字が。
セルフ方式の御朱印は珍しくなくなったが、だいたいそばに賽銭箱があり、そこにお金を納めていく形式が多い。だが近くに賽銭箱は見当たらない。箱を開けたところ、誰かが下の方に100円玉を5枚入れていたため、私も500円玉を箱の奥のほうに納めておいた。
隧道を通り、伝叟院に参拝する。
伝叟院は曹洞宗の寺院である。
伝叟院の境内には震災記念聖観世音菩薩像があり、この観音様が自然災害伝承碑に指定されている。
自然災害伝承碑とは、過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に関わる事柄が記載されているモニュメントで、令和元年(2019年)に新設された地図記号だ。
大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災では火災が各地で発生し、新橋、愛宕、浜松町一帯が灰燼に帰した。
芝区(現在の港区の一部)では世帯の半数近くが焼失し、伝叟院で死者を火葬したという。
今年(令和6年・2024年)も元日早々、能登半島が大地震に襲われ多数の犠牲者を出したように、地震はいつ何時来るかわからない。いつ来ても最小限の被害で済むように、備えることしかできない。犠牲者の冥福を祈り、手を合わせた。
2.愛宕神社
愛宕神社へ向かう。社殿の前にそびえたつのは、大きな階段。「出世の石段」だ。
出世の石段は、徳川家光の家臣、曲垣平九郎(まがきへいくろう)の故事にちなむ。
その故事とは以下のエピソードである。
徳川家光が増上寺に参詣した帰りに愛宕山の梅を見て、「あの梅を取ってこい」と家臣に命じた。
そこで四国丸亀藩の家臣、曲垣平九郎が馬に乗ったままこの階段を登り、梅を取ってきて徳川家光に献上した。
この故事から、「出世の石段」と呼ばれるようになった。
出世の石段は急な階段なので、本殿にたどり着く頃には息切れしていた。
息を整えてから、愛宕神社に参拝する。
徳川家康が戦に出陣するたびに神証という僧が戦勝祈願をしてきたが、関ケ原の戦いのときに祈願した場所が桜田の山、現在の愛宕山だったのでそこに社殿を建てることになった。
愛宕神社の総本宮は京都の愛宕山にあり、そこから勧請して建てられたのがここ、港区の愛宕神社である。
愛宕神社の祭神は火産霊命(ほむすびのみこと)で、防火に霊験があるとされている。
愛宕神社には基準点がある。
まずひとつめは三等三角点「愛宕山」で、これは昭和62年(1987年)に設置された三角点だ。以前は鉄蓋の下にあったが、今は石標が見えるようになっている。
ふたつめは池のなかにある三角点。
これは明治4年(1871年)の工部省測量司が設置した13ヶ所の三角点のひとつなのではないか、と言われている。
実際に洋式日本測量野史 三交會誌第二十號に書かれた三角点の設置場所として「芝愛宕山」と記録されている。
以前は池のなかを目をこらさないと見えなかったが、境内整備に伴い、今は池のなかを見るとすぐ見つけることができる。
みっつめは「起倒流拳法碑」にある几号水準点。几号水準点とは明治初期に高低測量を行うために設けた基準となる基準点で、「不」の形をしたものが多いがここの几号水準点は「T」と彫られた珍しいものだった。しかし起倒流拳法碑が見当たらないので、不安になった。このことについて友人に話したところ、境内整備が終わったら起倒流拳法碑ももとに戻すとのこと。とりあえず、よかった。
愛宕神社の基準点については、同人誌「地理交流広場 第3号」に掲載されている「几号点を訪ねて―港区、日本経緯度原点周辺―」でも取り上げているので興味のある人は読んでいただけると嬉しい。
愛宕神社で御朱印をいただいた。そういえば今日(令和6年(2024年)2月4日)は立春だったな、と御朱印を見て思いだす。
3.NHK放送博物館
NHK放送博物館はラジオ放送開始30周年を記念して昭和31年(1956年)に開館した。
大正14年(1925年)に本放送を開始したJOAK愛宕山放送局跡地に建てられ、放送機器、放送原稿、文献などが展示され、ラジオ・テレビの歴史を語っている。
なかに入ると、「ブギウギ」の撮影スポットがある。
「ブギウギ」は現在放送されている連続テレビ小説で、笠置シヅ子(歌手・女優)をモデルとしている。主人公の福来スズ子は趣里が演じている。
こちらは「光る君へ」の紹介ブース。
「光る君へ」は現在放送されている大河ドラマで、「源氏物語」の作者、紫式部をモデルとしている。主人公の紫式部こと「まひろ」は吉高由里子が演じている。
2Fに上がると愛宕山8Kシアターがある。こちらは撮影禁止で、私が行ったときはマジックの番組が放送されていた。
愛宕山8Kシアターの隣にあるのが放送体験スタジオで、こちらでは天気予報の画面をバックに記念撮影を撮ることができたが、私は1人で恥ずかしいので記念撮影はなし。
「こども番組がいっぱい」のコーナーにピタゴラ装置が展示されていた。
ピタゴラ装置とは、日用品を利用したカラクリ仕掛けがつぎつぎに展開していき、最後に「ピタゴラスイッチ」という番組ロゴで終わるというコーナーで、子供心ながらにどうなっているのだろう、と楽しみに観ていたことを思いだす。
こども番組のキャラクターがいっぱい展示されていたが、右から2番目のワンワンしかわからない…。ワンワンは「いないいないばあっ!」に出てくるキャラクターだ。
「NHKと音楽」のコーナーを見る。まず、NHKの音楽番組として欠かせない、年末の風物詩「紅白歌合戦」の優勝旗が飾られていたのを見る。
紅白歌合戦は昭和26年(1951年)から毎年大晦日に放送されている男女対抗形式の大型音楽特別番組である。大晦日に年越しそばをすすりながら少し観たりもするが、最近は最後まで観ることは少ない気がする。
「NHKのど自慢」のコーナーもあった。
NHKのど自慢は、毎週日曜日12時15分から放送されている公開視聴者参加の音楽番組で、チューブラーベルの音の数で合格・不合格が発表されるのが印象的だ。
「オリンピックの感動を伝える」のコーナーではオリンピックの名言や、それに使う放送機材などが展示されていた。
「音効体験コーナー」ではラジオドラマの効果音作りを体験できるコーナーだった。高校時代、放送部でラジオドラマを作ったことがあったので、その時点で知っていたらもっと良い作品を作ることができたかもしれない、と思った。
「テレビドラマの世界」ではNHKが放送したテレビドラマの歴史と、それに使った台本等が展示されていた。
平成19年(2007年)に放送された大河ドラマ「風林火山」と平成24年(2012年)に放送された連続テレビ小説「梅ちゃん先生」のジオラマが展示されていた。
梅ちゃん先生のジオラマのは昭和30年代の町並みをイメージしており、ぬくもりを感じる。
3Fはヒストリーゾーンとなっていて、放送の歴史を整理して説明している。
大正14年(1925年)3月22日、東京・芝浦にある東京高等工芸学校図書室の一隅に開設した東京放送局仮放送所から日本初のラジオ放送が始まった。
この373型ダブルボタンマイクは、日本初のラジオ放送で使われたマイクである。
日本初の放送機、GE社製、AT-702型送信機が展示されている。
この放送機は大正14年(1925年)3月22日、東京・芝浦の仮放送所からラジオ放送を開始するときに使用されたもの。放送機とは、放送を送出する設備である。
東京放送局の局舎模型がある。
東京放送局は大正14年(1925年)7月、芝浦の仮放送所から愛宕山の局舎に移転し、本放送を開始した。
大正15年(1926年)8月、日本放送協会が発足した。その後、昭和3年(1928年)の昭和天皇即位の大礼に向けて全国の中継網を完成させた。「御大禮奉祝 御即位の御儀」の文字がすごい。
ロンドン軍縮条約成立記念放送のアナウンス原稿が展示されていた。
ロンドン海軍軍縮会議に出席した若槻礼次郎は昭和5年(1930年)2月9日、イギリス・ドージェスター局から日本へメッセージを放送、日本国内での中継放送を目的とした外国からの送受信に初成功した。
これは「コドモの新聞週報」。
昭和7年(1932年)6月から子供向けに重要なニュースや話題をわかりやすく紹介する「コドモの新聞」が始まり、1週間分の話題をまとめた週報も発行されていた。
ラジオ放送開始10周年の昭和10年(1935年)には全国向け学校放送と海外放送が始まった。
これは学校放送受信装置1号機で、長野県の小学校で使用されたもの。
昭和14年(1939年)5月、東京の放送の拠点は愛宕山から内幸町の放送会館へ移った。この放送会館は昭和48年(1973年)までの34年間使用された。そのミニチュア模型が展示されていた。
「擧って國防 揃ってラヂオ」。
昭和16年(1941年)12月8日の太平洋戦争開戦の放送から、ラジオは国民の戦意高揚を図るメディアとなっていった。
太平洋戦争の結果は敗戦だった。戦争を終結させるために、昭和天皇自らがマイクの前に立ち、昭和20年(1945年)8月14日深夜に「玉音放送」を録音、翌日正午に放送された。
これは玉音放送の録音に使った録音機である。
敗戦後、GHQによる番組検閲と指導・監督は厳しかったが、ラジオ番組はこれを機に改革された面も多かった。
これは女性向け番組「婦人の時間」の放送原稿で、この番組は女性を社会的責任のある市民としてとらえていた点に番組の新しさがあった。
「鐘の鳴る丘」の放送台本と「とんち教室」の落第式の賞状。
「鐘の鳴る丘」は信州の高原にできた戦災孤児たちの収容施設を舞台に、社会の荒波にもまれて生きる少年たちを描いた連続放送劇。
「とんち教室」は言葉遊びを生かしたクイズ番組で、年度末には「落第式」が行われ、そのときの賞状が展示されていた。落第式で賞状とは?と思うが、そこは深く突っ込まなくてもよいのだろう。
昭和25年(1950年)には放送法が施行された。
放送法第1条には、放送の最大限の普及、放送による表現の自由の確保、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること、という3大原則が示されている。
これは連続放送劇「君の名は」の台本。
「君の名は」はラジオ黄金時代の代表的な連続ドラマで、放送時間には銭湯の女湯が空になると言われたほどの人気だった。数年前に流行した映画「君の名は。」との関係性はないと思う…多分。
ここからはテレビ放送のコーナー。
高柳健次郎が「イ」の文字をブラウン管に映し出すことに成功したのは、大正15年(1926年)12月25日のことで、奇しくも大正天皇崩御の日だったという。
なぜ「イ」?と思ったが、「いろはにほへと」の最初が「イ」だからか、と納得した。
昭和14年(1939年)に製造された反射型テレビ。
当時のブラウン管は丈が長かったので、受信機の奥行きを短くするために、ブラウン管を縦に取り付けて、鏡に反射させて映像を見るようになっている。
なんとアメリカ進駐軍から寄贈され、テレビ本放送開始当時から昭和天皇が視聴していたテレビが展示されていた。
街頭テレビの再現コーナーがあった。
テレビ放送が始まった1950年代前半はテレビ受像機は高価で一般人が買えるものではなかった。そこでNHK等は各地に街頭テレビを設置、人々にテレビを体験してもらおうとした。昭和29年(1954年)の力道山・木村組対シャープ兄弟のプロレス試合のときは新橋駅西口の街頭テレビに20,000人もの人々が押し寄せたという。ライブ状態だ。
RCA TK-30型テレビジョンカメラは放送会館からテレビ本放送を開始したときに使用したカメラである。
こちらはハリクラフター17-816型テレビ受信機。テレビ受信世帯第1号となった世帯で購入されたテレビで、価格は28万円。28万円と聞くと今でも高価だが、当時の物価に換算するともっと高価になる。第1号世帯はお金持ちだったのだろう。
「ジェスチャー」という当時の人気番組のフリップが展示されていた。
「彼女にプロポーズされてポーッとなり無重力状態になった彼氏」「フスマを足で開けたらお客さんがいたので、あわててお尻でしめた娘さん」「寒いので、千円札に化け美人のフトコロであたたまっているキツネ」…ちょっと状況がわからない。
三菱14T-210型テレビが展示されていた。
このテレビは7~8万円で売られており、一般家庭でも手に入れられる値段になり、テレビの普及に弾みがついた。フォルムがかわいい。
昭和34年(1959年)4月10日の皇太子(現在の上皇さま)ご結婚パレードの中継は、NHK・民放あわせて100台のカメラ、1000人の放送スタッフを動員し、テレビ放送始まって以来の大規模な中継となった。
「パレードをテレビで見たい」という人が相次ぎ、テレビ受信契約数がそれ以前の倍の200万件以上となった。
これは「皇太子殿下御結婚祝賀特集報道番組」という冊子で、2日間にわたるラジオ・テレビの特集番組を紹介した冊子である。
時代はモノクロテレビからカラーテレビに移行していく。
技術研究所でのカラー実験放送時に、RCAカメラとこのNHK-1型イメージオルシコンカラーカメラの2台を使用した。
これは東芝19CH型カラーテレビ。
東芝19CH型カラーテレビは昭和43年(1968年)に製造されたもの。
また、カラー放送のみならず、衛星中継も発達してきた。
これは「宇宙中継「われらの世界 OUR WORLD」」の放送台本である。
衛星中継は、時空間を越えて「世界のいま」をテレビで見ることを可能にした。それを象徴したのが、昭和42年(1967年)6月26日に放送された世界同時中継番組「われらの世界 OUR WORLD」だった。
この2年後の昭和44年(1969年)には人類が初めて月面に着陸し、その様子が放送された。当時の計画表が展示されていた。
もちろん、テレビは月面着陸のようなポジティブなニュースのみを放送するわけではない。これは浅間山荘事件のメモ。浅間山荘事件とは、昭和47年(1972年)2月19日、連合赤軍の5人が人質をとって浅間山荘に立てこもった事件である。
この頃、VTRという録画して流す、という手法が可能となり、テレビ演出の幅が広がったという。
これは昭和45年(1970年)に発売された家具調テレビで、この頃はテレビのデザインに木目調を取り入れたものに人気が出たようだ。
3代目放送局、東京・渋谷のNHK放送センターの模型があった。こちらは昭和48年(1973年)に竣工した。
FP-1600J型ハンディカラーカメラ・VTRが展示されていた。
FP-1600J型ハンディカラーカメラ・VTRは、ENG(小型ビデオカメラと携帯型ビデオテープレコーダーによる取材システム)の基礎となったカメラである。
これは家庭用ビデオテープレコーダー、ソニーSL-8300型VTR。
家庭用ビデオテープレコーダーは1980年代を通じて急速に普及し、録画視聴が増加した。
秘境シルクロードの全容を初めてテレビカメラに収めた「NHK特集 シルクロード」は、昭和55年(1980年)4月7日、石坂浩二の「シルクロードは長安に始まる」というナレーションで始まった。いつかシルクロードも歩いてみたいとは思うが…流石にしんどいだろうか。
HDCC-4型ハイビジョンカメラが展示されていた。
HDCC-4型ハイビジョンカメラは昭和55年(1980年)、NHKが世界で初めて開発したハイビジョンカメラである。
平成元年(1989年)6月、NHKは世界に先駆けて衛星放送で実験放送を開始し、平成12年(2000年)12月にはデジタルハイビジョン放送を始めた。
ハイビジョン放送で行われた番組の台本として、平成4年(1993年)の「ハイビジョン ご結婚おめでとう 皇太子さま雅子さま」が置かれていた。ちなみにこのときの皇太子さまは現在の天皇陛下である。
平成元年(1989年)6月1日、郵政省が衛星第1テレビと衛星第2テレビの免許を交付したことにより、BS1とBS2の放送が開始された。これはBS2オープニングスペシャルの台本。
阪神淡路大震災は平成7年(1995年)に関西方面で起こった震災で、関係番組を一覧できるようにしたものがこれである。長期にわたり、安否情報や生活情報を放送していた。
ニュース送出卓が展示されていた。
これは平成11年(1999年)から平成28年(2016年)まで使われていたニュース送出卓で、スイッチャー卓とも呼ばれる操作卓である。これで全国・世界から届く映像のなかで何を放送するかを選択する。アメリカ同時多発テロ(平成13年・2001年)、イラク戦争(平成15年・2003年)、東日本大震災(平成23年・2011年)もこの送出卓が使用された。
3F最後の展示が、スーパーハイビジョンカメラだ。
平成14年(2002年)に放送技術研究所が試作した走査線数4000本級のスーパーハイビジョンカメラである。
4Fに向かう。4Fは図書・史料ライブラリーと番組公開ライブラリーがあるが、これらは撮影禁止。しかも番組公開ライブラリーは事前予約制のため入ることもできなかった。
そのほか、「正直不動産2」の展示があった。
正直不動産は夏原武原案の漫画原作のドラマである。
シロネコ便の段ボールがたくさん置いてある。なぜ黒猫じゃないのか?と突っ込んでは…いけないのだろう。
八起市の地図が展示されていた。おっ!架空地図か!誰が作ったんだろう?と見入っていたが、これは八起市=武蔵野市で、ほかが現実のままであることに気がついた。
1Fまで下り、NHK放送博物館をあとにする。それにしても、無料だけど充実した博物館だった。
4.西久保八幡神社
NHK放送博物館をあとにして、愛宕山を下り、ナチュラルローソン虎ノ門巴町店のある交差点に出て左折する。
途中で麻布台ヒルズを見る。
麻布台ヒルズは森ビルがデベロッパーの複合施設で、令和5年(2023年)11月24日に開業したばかりである。
この通りは「几号点を訪ねて」の取材やそれをもとにした大学サークルOB巡検、基準点まちあるきのイベント等で何度も通っており、再開発をしていたことは気づいていたが完成したことは初めて知った。
西久保八幡神社に到着した。
西久保八幡神社も一時期建て替えを行っていたが今は立派な本殿がある。
西久保八幡神社は寛弘年中(1004~1012年)に源頼信が石清水八幡宮の神霊を請じて、霞ヶ関のあたりに創建した神社で、太田道灌の江戸城築城の際に現在地に遷された。
西久保八幡神社の境内に西久保八幡貝塚があり、これは縄文後期の貝塚で貝層のなかから土器が発掘されたこともあるようだ。
西久保八幡神社の鳥居に几号水準点がある。
西久保八幡神社は御朱印の授与を行っていないらしいが、「参拝記念スタンプ」ならあった。どう見ても御朱印だけど、何か違うのだろうか…?
5.日本経緯度原点
ここはロシア大使館前の守衛の隣にあり、かなり物々しい雰囲気が漂っている。ただ、私はここに何度も来て撮影しているし、イベントでも人を連れて2回くらい訪れていて何も言われたことはない。気になる人は守衛に一声かけてから撮るのでもよいと思うが、この日、守衛はおばあさんに道案内をしていた。
アフガニスタン大使館のなかに一等三角点「東京(大正)」があるが、柵の外からは三角形の標柱が見えるだけである。
明治7年(1874年)、海軍水路寮が今の日本経緯度原点の土地に海軍観象台を作り、天文観測を開始した。
明治16年(1883年)に参謀本部が海軍観象台構内に一等三角点「東京」を設置し、翌年これを経緯度原点とした。
明治21年(1888年)には文部省が海軍観象台を引き継ぎ、東京天文台を設置し、明治25年(1892年)には参謀本部陸地測量部が東京天文台の子午環中心を日本経緯度原点と定めた。
しかし大正12年(1923年)に起きた関東大震災により子午環が崩壊してしまったため、その後金属標が設置された。
東京天文台は大正13年(1924年)に三鷹村(現在の三鷹市)に移転し、現在は国立天文台となっている。
平成13年(2001年)の日本測地系から世界測地系への移行時と、平成23年(2011年)の東日本大震災による地殻変動により、原点数値は2回変更されている。
現在の数値は東経139度44分28.8869秒、緯度が35度39分29.1572秒、原点方位角(日本経緯度原点とつくば超長基線電波干渉計観測点の方位角)は32度20分46.209秒となっている。
6.芝丸山古墳・芝東照宮
日本経緯度原点をあとにして、国道1号線に戻る。赤羽橋交差点で左折し、芝丸山古墳に入る。
芝丸山古墳は長さ112mの前方後円墳で、後円部は丸山と呼ばれている。
ここに葬られた人物は不明だが、西暦4世紀頃の南武蔵一帯を代表するような有力者だったのではないかと推測されている。
芝丸山古墳を登っていくと、後円部墳頂に石碑があるのを見つける。伊能忠敬測地遺功表だ。
伊能忠敬は江戸時代の天文学者・地理学者・測量家で、大日本沿海輿地全図を完成させ、日本国土の正確な姿を明らかにした人物である。
この測量の起点が芝公園近くの高輪大木戸であったため、東京地学協会がその功績を顕彰して、芝丸山古墳後円部墳頂に明治22年(1889年)に伊能忠敬測地遺功表を建設した。
しかしこれは第二次世界大戦で破壊されてしまったため、昭和40年(1965年)に再建した。
形は僧のもつ扇である中啓をかたどっている。
伊能忠敬に思いを馳せ、芝丸山古墳から降りると芝東照宮がある。芝東照宮の鳥居に、几号水準点が刻まれている。
芝東照宮は元和3年(1617年)創建、徳川家康の像(寿像)を御神体としている。
これは徳川家康還暦記念で作られたもので、もとは駿府城に祀られていたが、徳川家康が寿像を祀る社殿を増上寺に造るよう遺言したため創建された。当時は増上寺境内にあったが、神仏分離のときに独立した。
芝東照宮で御朱印をいただくと、道中安寧守もセットでついてくる。これは御朱印帳のしおりとして使っている。
7.増上寺
豊臣秀吉の意向を受けて、関東を領国とした徳川家康が江戸へはいってきたのは、天正18年(1590年)8月1日のことといわれる。
増上寺の歴史を書いた「三縁山志」によると、当時、増上寺門前で馬が進まなくなり、やむをえず下馬した家康が、新城主を迎えるべく門前に出ていた住職と話してみると、三河の徳川家菩提寺、浄土宗の大樹寺で修行したことのある存応であると知り、増上寺という名が「増し上る」の意味で縁起がよいことなどが気に入り、「武士に菩提寺がないということは、死を忘れることに似ている」といい、師檀の約束をした、ということになっている。
しかし「岩淵夜話別集」によれば、家康は入国の前に江戸の寺院を調べて、領主にふさわしい菩提寺をさがしており、あらかじめ小田原の陣屋に増上寺住職を招いたこともあったという。
増上寺師檀の約束を奇蹟的に説明したいことから、馬が立ち止まる話を生んだのかもしれないが、事前に検討していた、というほうが現実的だろう。
徳川家菩提寺となった増上寺はその後、6人の将軍を含む徳川家一家38人が葬られたとされているが、将軍は2代将軍秀忠、6代将軍家宣、7代将軍家継、9代将軍家重、12代将軍家慶、14代将軍家茂と、不規則な葬られ方をしている。
これはのちに寛永寺が菩提寺に加わり、日光に祀られた初代将軍家康と3代将軍家光、大政奉還を行い明治に亡くなり谷中に葬られた15代将軍慶喜を除くほかの将軍は、寛永寺が墓所となったためである。
なぜこのような結果になったかはまったく知られていない。おそらく、親子、兄弟、叔甥間の親疎の情や、時の両寺の勢力関係が作用したのであろうという憶測があるだけである。
なお、もうひとつの徳川家菩提寺、寛永寺については「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」の2.寛永寺 で取り上げている。
増上寺に入るとき、三解脱門をくぐることになるが、この門は慶長10年(1605年)に徳川家康が建立した入母屋造の門で、経蔵とともに都心部に現存する最古の建造物であり、国の重要文化財に指定されている。
三解脱門をくぐるとグラント松がある。
グラント松は、アメリカ第18代大統領ユリシーズ・グラントが明治12年(1879年)7月に国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣し記念として植えた松である。
仏足石を見つけた。
仏足石とは、仏の足裏の形を石に彫りつけたもので、インドではこれを仏として礼拝しているようだ。
この仏足石は、明治14年(1881年)5月に建石されたものと説明されていた。
鐘楼堂を見つけた。
鐘楼堂は寛永10年(1633年)に建立されたものののちに焼失、現在のものは戦後に再建されたものである。
納められている大梵鐘は延宝元年(1673年)に品川御殿山で椎名伊代守吉寛により鋳造されたものという。
珍しい観音様を見つけた。聖鉄観音像だ。
聖鉄観音像は昭和56年(1981年)に国際美容協会会長の山野愛子が願主となって、ここに建立、開眼された。
山野氏の一生がハサミに支えられ、おかげによって生かされたことへの深い感謝をこめ、ハサミに関わりのあるすべての人々の心のよりどころとなるよう願われて作られたという。
確かに髪を切るのにハサミは必需品だし、そのハサミにお世話になって私の髪も整えられている。そっと手を合わせた。
歌碑を見つけた。
「池の水 ひとのこころに 似たりけり にごりすむこと さだめなければ」
浄土宗宗祖の法然上人の歌で、変わりやすい人の心を池の水にたとえて示したものである。ただ、私は気分屋は嫌かなぁ。
大殿を見る。後ろに東京タワーがあり、映える。ただひとつわがままを言わせてもらえば、青空だったら完璧だったなあ。
大殿は昭和49年(1974年)に戦災に遭った本堂を再建したものである。
間口48m、奥行き45m、高さ23mという名前通り、大きな本堂である。
大殿には、御本尊の阿弥陀如来、両脇檀に善導大師と法然上人の像が祀られている。
大殿に参拝し、宝物展示室を見ようとしたらもう閉まっていた。
西向観音を見つけた。
西向観音は観音山にあり、そこに西に向けて安置されていたのでその名がある。
なお、江戸三十三観音第21番札所に指定されている観音様はこの西向観音である。
西向観音の近くに、千躰子育地蔵菩薩がある。
千躰子育地蔵菩薩は、子や孫の無事成長を祈って、増上寺のひまわり講の人々が中心となって建てられたものである。とても可愛らしいお地蔵さんである。
安国殿に向かう。
安国殿とは元来家康の像を祀る御霊屋を意味していたが、昭和49年(1974年)に当時の仮本堂をここに移転し、家康の念持仏だった「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名した。
現在の安国殿は平成23年(2011年)に建て替えたもの。
黒本尊は秘仏で、正月、5月、9月のそれぞれ15日、年3回行われる祈願会のときだけ御開帳されるようだ。
ちなみに安国殿は御朱印をいただける場所でもあり、寺院用御朱印帳に「黒本尊」、江戸三十三観音用御朱印帳に「西向聖観世音」をそれぞれいただいた。
増上寺の奥には将軍墓所もあるのだが、もう受付を終了していた。
もう16時なので、スタバで一休みしてから帰ることにする。今回頼んだのはホワイトオペラフラペチーノ。
フラペチーノを飲み干し、芝公園駅から帰路についた。
天徳寺は幕府に重要視された寺院でありながら、今はひっそりとしていた。愛宕神社の最古の三角点が目立つようになったのは素晴らしいが、几号水準点が刻まれた石碑がなくなっていたのが気になった。
NHK放送資料館、高校時代に放送部でありながら初訪問。無料だが充実した展示だった。西久保八幡神社の記念スタンプは御朱印では…?と思った。
日本経緯度原点で大正期まであった東京天文台に思いを馳せ、伊能忠敬測地遺功表で江戸時代の測量に思いを馳せた。芝東照宮の几号水準点も忘れてはいけない。
増上寺は時間ギリギリ訪問で宝物展示室と将軍墓所が見られなかったのが心残りだ。いつか再訪するつもりである。
私の知らない東京が、まだまだありそうだ。
歩いた日:2024年2月4日
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【参考文献・参考サイト】
俵元昭(1979) 「港区の歴史」 名著出版
江戸札所会(2010) 「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」
東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社
国土地理院 自然災害伝承碑
https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html
(2024年3月17日最終閲覧)