10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

江戸三十三観音をめぐる 3.上野編

 前回、江戸三十三観音第3番札所の大観音寺、第4番札所の回向院、第5番札所の大安楽寺に参拝しながら人形町・両国・小伝馬町周辺を巡った。今回は第6番札所の清水観音堂に参拝しながら上野周辺を巡ろうと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.浄名院

 鶯谷駅北口を出て、寛永寺陸橋を越えて少し行くと浄名院がある。

浄名院

 浄名院は天台宗の寺院で、寛文6年(1666年)に開創され、4代将軍徳川家綱の母、宝樹院の菩提所として栄えた。

 喘息、病気平癒を祈願する「へちま加持祈祷会」で全国的に知られており、別名「へちま寺」とも呼ばれている。喘息に効く祈祷はコロナにも効くのだろうか。

 浄名院の境内にはたくさんのお地蔵さんがある。八万四千体地蔵という。

八万四千体地蔵

 浄名院が地蔵信仰の寺となったのは第38世地蔵比丘妙運和尚の代からだ。

 妙運和尚は大坂に生まれ、25歳で日光山星宮の常観庵にこもったとき地蔵信仰を得て、1,000体の石造地蔵菩薩像建立の発願をたてた。

 明治9年(1876年)浄名院に入り、明治12年(1879年)さきの1,000体の地蔵を作り終えると、今度は84,000体の地蔵建立の大誓願に進んだ。明治18年(1885年)に地蔵山総本山を建立した。妙運和尚が生きている間には84,000体の地蔵を作ることはできなかったようだが、現在でも地蔵は増え続け、「上野さくら浄苑」HPによると平成30年(2018年)3月の時点で浄名院境内には26,000体、全国で48,000体の地蔵が作られたという。妙運和尚は大変なことを誓願したなぁと思う。

 

 境内にはひときわ大きな地蔵がある。

 江戸時代前期、江戸の出入口6ヶ所に造立された地蔵のことを「江戸六地蔵」という。出入口に作られたのでどの地蔵も街道沿いにある。

 江戸六地蔵品川寺(品川区南品川、東海道)、東禅寺(台東区東浅草、日光街道)、太宗寺(新宿区新宿、甲州街道)、真性寺(豊島区巣鴨中山道)、霊巌寺(江東区白河、水戸街道)、永代寺(江東区富岡、千葉街道)に設置された。

 永代寺以外の江戸六地蔵は現存しているが、永代寺だけは明治維新のとき廃寺となり、江戸六地蔵も取り壊されてしまった。そこで永代寺の江戸六地蔵を再建する目的と、日露戦争戦没者を弔う目的で、明治39年(1906年)新たに建立されたものがこの地蔵菩薩坐像である。

 なお、以前「うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪」で新宿にある太宗寺の江戸六地蔵を取り上げている。

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 浄名院の御朱印は参拝後、御朱印代金を賽銭箱に納めてもらっていくセルフ方式。山門の絵が美しいが、現在工事中でくぐることができない。

 

 過去、山門の脇に几号水準点(きごうすいじゅんてん)があった。

 几号水準点とは明治初期に高低測量を行うために設けた基準となる基準点である。几号水準点と呼ばれているものには垂直面に刻印されているものと、水平面に刻印されているものがある。垂直面に刻印されているものは内務省が設置した几号水準点と考えられるが、水平面に刻印されているものは東京市が設置した水準基標であると考えられている。浄名院にあるのは水平型なので、東京市の水準基標と思われる。

 山門工事の際、浄名院住職は撤去を検討していたが、この浄名院の几号水準点を発見した人物、角田篤彦氏の弟、角田澄彦氏が保存を願い、現在は浄名院信徒会館の前に保存されている。

 

 浄名院の几号水準点については、同人誌「地理交流広場 第5号」に掲載されている「几号点を訪ねて―上野公園周辺―」でも取り上げているので興味がある人は読んでいただけると嬉しい。

booth.pm

 

2.寛永寺

 浄名院山門の前の交差点から南に進むとすぐ、左手側に寛永寺が見えてくる。

寛永寺根本中堂

 上野の歴史を語る上で、寛永寺の存在は外せない。

 元和8年(1622年)12月、江戸幕府は上野山内一円を公収し、寺院建設予定地とした。

 建設予定地には寛永元年(1624年)起工し、東叡山寛永寺を創建した。

 東叡山寛永寺の開山は天海僧正である。

 天海僧正天台宗の高僧で、徳川家康、秀忠、家光と徳川将軍3代の厚い帰依を受けた。

 徳川家康が亡くなったときは導師を勤め、遺体を久能山に葬り、のちに日光東照宮に改葬した。

 家康が亡くなった後も秀忠や家光の信任は厚く、幕政にも参与、黒衣の宰相と呼ばれ、寛永20年(1643年)に108歳で亡くなったという。慶安元年(1648年)4月、朝廷から慈眼大師の号を追贈された。

 そして、なぜ天海僧正寛永寺を建立したのか。それは、江戸城鎮護のため、その艮(うしとら・東北方)の地の上野に、寺院を建立するよう、家光に進言したからである。艮は鬼門といわれ、鬼が出入する方角とされていた。

 「東叡山」の山号は「東」の比「叡山」という意味である。比叡山延暦寺平安京を鎮護するために建立された寺院で、比叡山の位置は平安京から見て艮にあたる。

 「寛永寺」の名前は年号から取ったのだが、年号を寺号にするのは格式ある寺院でなければ許されないことである。ほかに年号を寺号とした寺院は延暦寺建長寺くらいである。

 寛永寺は港区の増上寺とともに、徳川将軍家菩提寺である。寛永寺の墓域には4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の霊が眠っている。一方、増上寺に埋葬されているのは2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂である。初代の家康は日光東照宮、3代家光は日光にある輪王寺、15代慶喜谷中霊園に葬られている。

 それにしても…なぜ増上寺寛永寺に分けて葬られているのか。これは菩提寺を1か寺にすると、権力が集中する恐れがあるため、といわれている。

 ちなみに、増上寺は江戸三十三観音第21番札所として登場予定である。

 

 慶応4年(1868年)5月15日、上野山にたてこもる彰義隊と官軍の間で戦闘が行われ、山内の寛永寺堂塔伽藍はほとんど焼失、跡地は明治政府に没収された。

 明治政府はこの没収地を公園としたが、その経過については2つの話が伝えられている。

 ひとつめは、大学東校(現・東京大学)の病院建設地にしようとしていた計画を変更したというもの。

 当時東校の教授に招かれて来日中のボードワンは建設予定地を見て、ここを公園にするよう建白したため、公園となった。

 ふたつめは、明治初期、民間への払い下げを決定したが、それを佐野常民が憂い、イギリス公使パークスと協議して、2人の努力が実って公園となった。

 この寛永寺跡地が公園となった地は「上野公園」と呼ばれるようになった。大正13年(1924年)に帝室御料地から東京市へ下賜され、「上野恩賜公園」が正式名称となった。

 

 長くなってしまったが、寛永寺の歴史はこのくらいにして、根本中堂に参拝する。

 寛永寺の根本中堂は、明治10年(1877年)、川越喜多院の本堂を移築したものである。この本堂は寛永15年(1638年)に建てられたもの。

 川越にある、喜多院天海僧正徳川家康にゆかりがある寺院である。

喜多院

 喜多院は天長7年(830年)創建の寺院。

 慶長4年(1599年)に天海僧正が法灯を継ぎ、慶長16年(1611年)に徳川家康が川越を訪れたときに親しく接見している。翌年には家康から「東叡山喜多院」の名を授けられた。

 喜多院については「うさぎの気まぐれまちあるき 川越の魅力をさらに発見する街歩き」で登場している。

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 寛永寺根本中堂には秘仏薬師瑠璃光如来が祀られているが、撮影禁止。参拝後、御朱印をいただいた。

 

 寛永寺境内にはさまざまなものがある。

銅鐘

 この銅鐘は延宝9年(1681年)5月8日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。

 作者は椎名伊予守吉寛で、江戸時代前期に活躍した鋳物師である。

 

 これは虫塚。

虫塚

 虫塚は増山雪斎が写生図譜である「虫豸帖(ちゅうちじょう)」の作画に使った虫類の霊をなぐさめるために文政4年(1821年)に建てられた。

 増山雪斎は伊勢長島藩主を務めつつ、文雅風流を愛し、花鳥画や虫類のスケッチを描いていたという。

 

 尾形乾山墓碑・乾山深省蹟がある。

尾形乾山墓碑・乾山深省蹟

 尾形乾山は江戸時代の陶工・絵師で、寛保3年(1743年)に81歳で亡くなった。

 

 慈海僧正墓もある。

慈海僧正

 慈海僧正は天台宗の僧侶で、寛永寺の子院、凌雲院の住職を務めた。凌雲院が東京文化会館建設にあたり廃寺となり、墓は寛永寺に移された。

 

 これは旧本坊表門、根本中堂に置かれていた鬼瓦である。鬼瓦とは瓦葺きの屋根の端などに設置される装飾性のある瓦で、厄除けの意味もある。葵の御紋が印象的だ。

鬼瓦

 

 台東区立上野中学校に沿って歩いていくと、徳川綱吉霊廟勅額門がある。

徳川綱吉霊廟勅額門

 徳川綱吉は第5代将軍、延宝8年(1680年)に将軍職就任、宝永6年(1709年)に63歳で亡くなった。あの有名な「生類憐みの令」を施行した将軍である。

 綱吉霊廟は宝永6年(1709年)11月に竣工したが、歴代将軍霊廟のなかでも整ったものだったらしい。一部は明治維新後解体されたり空襲で焼失したりで残っていない。勅額門や水盤舎はこれらの災難を免れ、重要文化財に指定された。

 

 徳川綱吉の勅額門のほかに、徳川家綱(第4代将軍)の勅額門も残っている。

徳川家綱霊廟勅額門

 真如院のある交差点を右折して、そのまままっすぐ進むと突き当り左手側に両大師がある。

両大師

 両大師は慈恵大師と慈眼大師、2人の大師像を祀っているので両大師と呼ばれている。

 慈恵大師は平安中期の延暦寺住職の良源大僧正で、慈眼大師寛永寺を開山した天海大僧正である。

 正保元年(1644年)、前年没した天海の影堂を建立して開山堂、別名慈眼堂と称した。

 その後、慈恵大師像を慈恵堂から移したので、両大師と呼ばれるようになった。

 この堂宇は享保5年(1720年)に焼失した直後に再建されたもの。

 堂内と大師像は撮影禁止だが、御朱印をいただいた。

 

 両大師境内には幸田露伴旧宅の門がある。

幸田露伴旧宅の門

 この門は明治の文豪、幸田露伴の旧宅の門で、谷中にあったものを移築した。

 露伴の代表作「五重塔」の主人公「のっそり十兵衛」は寛永寺根本中堂を手がけた大工の棟梁をモデルにしたそうだ。

 

 両大師の奥に、寛永寺旧本坊黒門がある。

寛永寺旧本坊黒門

 寛永寺境内は慶応4年(1868年)5月の上野戦争のため、ことごとく焼失、表門のみ戦火を免れた。

 明治11年(1878年)、帝国博物館(現在の東京国立博物館)が開館すると正門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのにともない、現在地に移建した。

 黒門には不自然な穴が開いている箇所があるが、これは上野戦争時の弾痕である。

 

 ちなみに荒川区南千住にある円通寺にも寛永寺の黒門があるが、こちらも弾痕が開いている。

円通寺寛永寺黒門

3.東京国立博物館

 両大師をあとにして、都道452号線沿いを北西に行くと東京国立博物館がある。

東京国立博物館

 先ほど、寛永寺跡地は上野公園になった、と説明した。

 現在、上野公園には、博物館、美術館、動物園などの文化施設が多い。あげてみると、上野動物園東京国立博物館東京都美術館国立科学博物館国立西洋美術館…などなど。

 「文化施設を多数擁している公園」というのが、上野公園の特色である。

 明治10年(1877年)に上野公園で初開催された内国勧業博覧会が、上野公園がそのような特色をもつ公園に発展するルーツであったといえる。

 

 明治15年(1882年)に東京国立博物館が開館したが、これは第二回内国勧業博覧会で、美術館に使用した建物を利用した。この建物はジョサイア・コンドルの設計によるレンガ造り2階建てである。しかし大正12年(1923年)の関東大震災でこの建物は失われたため、昭和12年(1937年)に「日本趣味を基調とする東洋式」の重々しい瓦屋根をもつ帝冠様式の現在の本館が完成した。これは渡辺仁の作品である。

 私は博物館めぐりも好きなので、行きたいのはやまやまなのだが、ここで博物館めぐりを始めてしまうと終わらなくなるので、博物館めぐりは後日とする。

 

4.上野東照宮

 東京国立博物館のなかに、旧因州池田屋敷表門がある。

旧因州池田屋敷表門

 旧因州池田屋敷表門は屋根を構え、両側に番所を構える表門で、この様式は10万石以上の大名に許されたものである。鳥取藩池田家は32万石の大名だった。

 江戸時代、丸の内の大名小路にあったのを、明治24年(1891年)芝高輪西台町に移し、東宮御所ついでに高松宮邸の表門として使用していた。現在地に移建されたのは昭和29年(1954年)で、国指定重要文化財

 

 交差点に旧博物館動物園駅がある。

博物館動物園

 旧博物館動物園駅は昭和8年(1933年)12月に開業した。しかし利用者の減少により平成9年(1997年)に営業休止、平成16年(2004年)に廃止となった。

 平成30年(2018年)に景観上重要な歴史的価値を持つ建造物として「東京都選定歴史的建造物」に指定された。同年には一般公開も実施された。

 

 旧博物館動物園駅の向かい側には旧東京音楽学校奏楽堂がある。

東京音楽学校奏楽堂

 この建物は、明治23年(1890年)東京音楽学校本館として建設された。設計は山口半六、久留正道で、日本初の本格的な音楽ホールである。

 老朽化が進み取り壊しの危機に瀕していたが、音楽関係者をはじめとする多くの人々の保存に対する努力が実り、昭和62年(1987年)にここに移築復元された。昭和63年(1988年)に国の重要文化財に指定された。

 

 大正15年(1926年)に開館した東京都美術館マティス展がやっていたが、今回はスルーする。

東京都美術館

 上野動物園の門が見える。

上野動物園

 恩師上野動物園明治15年(1882年)に日本最初の動物園として開設された。上野動物園といえばジャイアントパンダだが、昭和47年(1972年)9月の日中国交正常化を記念して中国から贈呈されたカンカンとランランが初代パンダである。ここを見ていると終わらなくなるので素通りする。

 

 グラント将軍植樹碑を見つけた。

グラント将軍植樹碑

 明治10年(1877年)から明治13年(1880年)にかけて、グラント将軍は家族同伴で世界を周遊していた。明治12年(1879年)に来日、上野公園で開催された大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。昭和4年(1929年)にこの碑が建てられた。

 グラント将軍が植えた木は、これだろうか?

 

 グラント将軍植樹碑の近くに小松宮彰仁親王銅像がある。

小松宮彰仁親王銅像

 小松宮彰仁親王は弘化3年(1846年)、伏見宮邦家親王第8王子として生まれた。安政5年(1858年)、仁和寺第30世の門跡(皇族の住職)に就任した。

 慶応3年(1867年)、還俗を命じられ仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)と名乗る。

 明治10年(1877年)の西南戦争では旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。

 明治15年(1882年)に小松宮に改称。明治36年(1903年)に57歳で亡くなった。この銅像は明治45年(1912年)に建てられた。

 

 小松宮彰仁親王銅像の裏に上野東照宮の鳥居がある。この鳥居は上州厩橋城主 酒井雅楽頭忠世(さかいうたのかみただよ)が寛政10年(1798年)に寄進したが、その後地中に埋められ、享保19年(1734年)に子孫の酒井忠知が再建した。

上野東照宮鳥居

 上野東照宮の参道には灯籠がたくさん並んでいる。これは諸大名が寄進したもので、石灯籠は280基あまり、青銅灯籠は50基並んでいる。

 

 上野動物園にある五重塔が顔を覗かせる。

五重塔

 寛永8年(1631年)の上野東照宮造営のときに、下総佐倉城主 土井大炊頭利勝(どいおおいのかみとしかつ)が寄進したもの。しかしこれは寛永16年(1639年)に焼失してしまい、直ちに再建したのがこの塔である。国指定重要文化財

 

 上野東照宮本殿に着いた。

上野東照宮

 上野東照宮の祭神は徳川家康昭和4年(1929年)に合祀された8代将軍吉宗。

 元和9年(1623年)伊勢安濃津藩祖 藤堂高虎(いせあのつはんそ とうどうたかとら)が上野山内の自邸内に社殿を造ったのがその創始だという。

 寛永3年(1626年)江戸幕府が社殿を造営し、慶安4年(1651年)大規模な改造をした。それが現社殿で、権現造りの代表的建造物だ。

 社殿は拝殿、石の間、本殿、内殿から成り、唐門(からもん)、瑞籬(みずがき)とともに国指定重要文化財

 

 上野東照宮不忍池側の入口に几号水準点(水平型なので、正確には東京市水準基標と思われる)があり、それを友人と見に行ったときに、掃除していたおじさんに「上野東照宮にはもうひとつ几号水準点があるよ!」と言われ、紹介されたのが本殿前の石畳にあるこれ。

 几号水準点によく似たキズに見えるが…とりあえず紹介しておく。

 

 上野東照宮御朱印がこちら。

 

 拝観料を払い、なかに入ると御神木がある。

御神木

 この御神木は樹齢600年といわれ、そうなると上野東照宮が建てられる前からここにあったことになる。とても大きい。

 

 上野東照宮本殿を間近で見る。上野東照宮には何度か行ったことがあったが、拝観料を払って中に入るのは初めてだった。とてもきらびやかだ。

 

 上野東照宮をあとにして、不忍池側の出口に向かう。途中にお化け灯籠がある。

お化け灯籠

 お化け灯籠は寛永8年(1631年)に佐久間大膳亮勝之が寄進した灯籠である。なぜ「お化け灯籠」と呼ばれているかは、高さ6m、笠石の周囲3.6mと、巨大な灯籠だったのでその名がつけられたという。灯籠は照明器具だが、これだけ大きいと誰も火を灯せないと思った。

 不忍池側の鳥居へと向かう。

 この鳥居は寛永3年(1626年)に筑前福岡城主 黒田忠之が奉納し、元文2年(1737年)子孫の黒田継高が琢磨を加え再建したもので、もとは江戸城の紅葉山東照宮にあった。明治7年(1874年)に現在地に移建した。

 

 この鳥居の足元に几号水準点(東京市水準基標)がある。

几号水準点(東京市水準基標)

5.上野大仏

 来た道を戻り、上野大仏へ向かう。

 最初に建立された大仏は寛永8年(1631年)に建てられた釈迦如来像だったが、正保4年(1647年)の地震で倒壊してしまった。

 明暦~万治年間(1655~1660年)に再び釈迦如来坐像を造立し、元禄11年(1698年)には仏殿も建立された。

 しかし明治6年(1873年)上野公園開設の際に仏殿が取り壊され、大正12年(1923年)の関東大震災では大仏の面部が落下、第二次世界大戦の金属供出により大仏の体と足が供出されてしまった。

 大仏の面部だけが寛永寺に残ったことになり、昭和47年(1972年)に「上野大仏」として奉安した。ちなみに「これ以上落ちない」ということで合格祈願に効果があることになっている。

上野大仏

 上野大仏の隣にはパゴダがある。

パゴダ

 パゴダは昭和42年(1967年)6月に完成し、薬師如来月光菩薩日光菩薩が安置されている。

 

 上野大仏の御朱印をいただいた。

 

6.清水観音堂

 上野大仏の東側に、摺鉢山古墳がある。

摺鉢山古墳

 摺鉢山古墳は前方後円墳と推測されるが、改変されて往時の姿はないという。

 

 摺鉢山古墳から西に行ったところに五条天神社と花園稲荷神社がある。

五条天神社

 五条天神社の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなびこなのみこと)、菅原道真である。

 社殿ははじめ上野山内に創建し、寛永15年(1638年)黒門前、元禄10年(1697年)上野山南麓旧五条町に移された。現在地移転は関東大震災後。

 五条天神社でも御朱印をいただいた。

 

 五条天神社の境内には花園稲荷神社もある。

花園稲荷神社

 花園稲荷神社の御祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。

 

 五条天神から動物園通りに降りて、不忍弁天堂へ向かう。

不忍弁天堂

 不忍弁天堂は不忍池の上に造営された。不忍池は海岸線の後退で作られた沼で、平安時代にできたという。

 寛永年間の寛永寺造営に際し、琵琶湖になぞらえた不忍池に、竹生島にならった弁天島がつくられ、弁財天が祀られたことで、現在の景観ができあがった。

 陸道と橋によって弁天島の不忍弁天堂に直接いけるようになったのは寛文10年(1670年)のことで、長寿・福徳の神として信仰を集めた。

 弁天堂は昭和20年(1945年)の空襲で焼失し、昭和33年(1958年)に再建された。

 

 不忍弁天堂でも御朱印をいただいた。

 

 不忍池にはハスが繁茂していたが、花を見ることはできなかった。

 

 不忍弁天堂から道路を挟んで向かい側にあるのが清水観音堂だ。

水観音堂

 寛永8年(1631年)、天海僧正が京都の清水寺になぞらえて、摺鉢山の上に創建したのが清水観音堂だ。

 元禄11年(1698年)9月の大火で焼失後、現在地に再建された。

 清水寺を模したので、不忍池側は舞台造りになっている。

 現堂宇は元禄11年(1698年)建立で、本尊の木造厨子とともに国指定の重要文化財。本尊は恵心僧都(えしんそうず)作と伝えられている千手観音菩薩である。

 そして清水観音堂は江戸三十三観音の第6番札所なので、御朱印をいただく。

 

 また上野公園に戻ると、天海僧正毛髪塔を見つける。

天海僧正毛髪塔

 寛永寺を開山した天海僧正の弟子の義海が、慶安5年(1652年)に天海の毛髪をおさめて建立した五輪塔である。偉い人だと髪の毛でも塔が建つのか…。

 

 天海僧正毛髪塔から南へ向かうと、彰義隊の墓がある。

彰義隊の墓

 ここは上野山内に放置されていた彰義隊士266人の遺体を、南千住円通寺の仏磨和尚らが火葬した場所といわれている。この碑には「戦死之墓」と刻まれているが、明治新政府に遠慮して、彰義隊の文字を刻まなかったのだろうか。

 彰義隊とは、15代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷(おがわおきさと)らが慶応4年(1868年)、大政奉還により上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のためにつのった同志である。

 そこには徳川政権を支持する藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まって「彰義隊」と名乗り、上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦5月15日の上野戦争で、新政府軍は半日で彰義隊を壊滅状態に追い込んだという。

 小川興郷は上野戦争で生き残り、明治7年(1874年)にここに彰義隊の墓を建立したという。

 

 彰義隊の墓の南側に、上野のシンボル、西郷隆盛銅像がある。

西郷隆盛銅像

 銅像ははじめ皇居前広場に建てられる計画であったが、西郷隆盛明治10年(1877年)に西南の役を起こし、賊将の汚名を着せられた人物であることから、遠慮してここに建てたらしい。

 西郷隆盛は江戸無血開城の立役者で、江戸を戦火から救ったので、東京を一望できるここに建てたという。

 明治31年(1898年)12月18日、弟の西郷従道山県有朋大山巌勝海舟ら約800名が臨席し、銅像除幕式が行われた。そのとき、西郷隆盛の夫人、イトさんは「うちの人、こげん姿したことなか」と言ったという。この像の製作者は高村光雲

 

 次の江戸三十三観音第7番札所、心城院は湯島天神の近くなので、頑張れば行けるのだが疲れたのでここでやめることにする。コメダ珈琲店でアイスコーヒーを頼んだが、疲れて飲みながら眠ってしまった。

 

 寛永寺延暦寺、不忍弁天堂は竹生島の弁財天、清水観音堂は清水寺を模した寺院である。そこには、京都に匹敵するまちを造りたいという、天海僧正の想いが伝わってくる。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2023年8月5日

【おまけ1 東京国立博物館

 このブログでは上野を語ってきたが、博物館めぐりを始めると清水観音堂までたどりつけないのでは、という不安から博物館には行かなかった。

 でも、あのあと「やはり博物館に行くべきでは」と思い、一番行きたいと思っていた東京国立博物館を訪れた。

東京国立博物館

 今回見に行ったのはこれだ。「特別展 古代メキシコ マヤ、アステカ、テオティワカン」。

 

 今回は音声ガイドを借りてみた。ナビゲーターは女優の上白川萌音さん、ナビゲーター&「雨の神様」役を声優の杉田智和さんが担当している。豪華だ。

 

 まず出迎えてくれるのが「オルメカ様式の石偶」。

オルメカ様式の石偶

 「オルメカ」とは、メソアメリカ(現在のメキシコ周辺の地域)最古の文明である。

 この石偶は半人半ジャガーの幼児像である。少し見ただけとはいえ、どこにジャガー要素があったのかいまいちわからなかった。

 

 展示を見ていたら、ドクロを見つけた。

装飾ドクロ

 頭蓋骨を胴体から切り離し、前頭に毛を挿し込み、目のくぼみに貝殻と黄鉄鉱を嵌めたマスクである。

 死者の世界の主、ミクトランテクトリ神を表しているようだ。いきなりドクロが出てきたのでびっくりした。

 

 小さな土偶を見つけた。

貴人の土偶

 つばの大きな帽子を被り、美しいコートを羽織った貴人の土偶だそうだ。澄ましている。

 

 これは死のディスク石彫。

死のディスク石彫

 舌を出す頭蓋骨の周囲に放射状のモチーフがある。

 メソアメリカでは日没は死、日の出は再生を意味するとされたので、西に沈んだ(=死んだ)太陽を表しているとされている。日没を「太陽の死」と解釈するのは興味深いと思う。

 

 少し面白い顔をした立像を見つけた。

モザイク立像

 このモザイク立像は、小石や貝殻、黄鉄鉱を木製の人形土台の上に貼り付けて磨いたもの。驚いた顔をしているように見える。

 

 鼻飾りが展示されていた。

鼻飾り

 上の鼻飾りはガラガラヘビの尻尾を象ったもので、下の鼻飾りはシパクトリ神(アステカ神話に登場する大地の神)の頭飾りをモチーフとしている。

 

 羽毛の蛇神石彫とシパクトリ神の頭飾り石彫が展示されている。

羽毛の蛇神石彫

シパクトリ神の頭飾り石彫

 これは羽毛の蛇ピラミッドの壁面を飾った大石彫の一部で、羽毛の蛇神の波打つ胴体に、シパクトリ神の頭飾りのモチーフが繰り返し彫られている。

 

 現代のトランペットとはずいぶん違うが、これがテオティワカンのトランペットらしい。

トランペット

 巻貝の先端を切り取り、吹き口とした楽器で、羽毛の蛇ピラミッドから出土した。このトランペットにはワニに似た像が描かれている。トランペットというよりは、法螺貝に近いのでは、と思う。

 

 椀が展示されていた。

 この椀の特徴はオレンジ色であることと、薄いことである。このような特徴を持つ椀はテオティワカン南のプエプラ地域で作られたものらしい。模様が独特だ。

 

 これは「嵐の神の壁画」である。

嵐の神の壁画

 この嵐の神は籠を背負い、右手にトウモロコシを持っている。音声ガイドで雨の神様が「これはワシじゃよ。トウモロコシをあげよう。」と言っていたのを覚えている。

 

 これは鳥形土器。

鳥形土器

 発掘者により「奇抜なアヒル」と名付けられた貝などの装飾を持つ鳥の容器で、メキシコ湾岸部との交易を担った貝商人の副葬品と推定されている。奇抜かもしれないが、なんか可愛い。

 

 嵐の神の屋根飾りを見つけた。

嵐の神の屋根飾り

 テオティワカンの住民が暮らしていたのはアパートのような住居で、そこに飾られていた屋根飾りだ。この嵐の神様は「トラロク神」といい、雨と農耕を司った。沖縄のシーサーのようなものだろうか。シーサーとは主に沖縄で見られる獣像で、魔よけの意味で屋根の上に設置されることが多い。

 

 これは香炉。

香炉

 香炉の多くは住居から出土し、祖先を祀る儀礼に使われた。今でいう回転灯篭のようなものだろうか。

 

 人形骨壺を見つけた。

人形骨壺

 オアハカ移民地区内で見つかった人形骨壺で、移民地区のリーダー、先祖、神のいずれかを表していると推定されている。なんでおっさんが座っているんだろう、と思って見ていたら、骨壺だった。


 テオティワカン文明の話から、マヤ文明に移る。テオティワカン文明はメキシコシティ北東のテオティワカンで紀元前2世紀から6世紀まで繁栄した文明で、マヤ文明グアテマラベリーズなどの「マヤ地域」を中心として栄えた文明である。
 これはマヤ文明の金星周期と太陽暦を表す石彫である。

金星周期と太陽暦を表す石彫

 この石彫では左側が金星、右側が太陽暦の年を表していて、縦の棒が数字の5、8つの丸が8を意味している。584日の金星の周期5回分が、365日の太陽暦の8年にあたる、ということを示しているらしい。この石彫だけ見ても意味がわからないので、解説があってよかった。

 土偶がいくつか展示されている。これは貴婦人の土偶

貴婦人の土偶

 この土偶はトウモロコシの神様を真似た頭の変形や口元の装飾が表されている。音声ガイドで解説されていたが、身分の高い女性は頭の柔らかい子供のうちに器具を使って頭を縦長にしていたらしい。纏足のようで、想像すると怖くなった。

 

 これは戦士の土偶で、都市の儀礼的戦闘の闘士か儀式用の盛装をした戦士と考えられている。手に持っているのは盾だろうか。

戦士の土偶

 これは捕虜かシャーマンの土偶。帯を巻いた頭飾りは神官を表すとされるが、耳の紙帯や首と腕の縄の表現から、高位の戦争捕虜とも考えられている。私は捕虜だと思った。

捕虜かシャーマンの土偶

 これは猿の神とカカオの土器蓋。

猿の神とカカオの土器蓋

 これは猿の神を表し、首には猿の好物カカオの実の装飾がみられる。犬や猫にカカオの加工品、チョコレートをあげるとカフェインやテオブロミンで中毒を起こすようだが、猿は食べても平気らしい。

 

 これはトニナ石彫。

トニナ石彫

 これはカラクムルの王とトニナの王が球技をしている場面の石彫で、中央のゴムボールにマヤ文字で西暦727年にあたる年が記されている。音声ガイド曰く「これはボールで遊んでいるのではなく、真剣勝負」らしい。

 

 これは96文字の石板。

96文字の石板

 キニチ・クック・バフラムの即位20周年に彫られた碑文で、西暦654年にパカル王が建てた宮殿の近くで見つかり、歴代の王の即位が記されている。私にマヤ文字の知識はないので、何と書いてあるかはわからなかった。

 

 これは太陽の神殿の北の石板。

太陽の神殿の北の石板

 中央の戦士はパカル王の息子キニチ・カン・バフラムでパレンケ(マヤ文明の国で、パカル王がパレンケの王)がトニナに勝利した祝いの祭礼における姿を描いているとされている。顔は見えないので、どんな表情をしているかわからないが嬉しい表情だろうか。


 1994年に行われたパカル王墓の発掘調査で辰砂(赤い水銀)で覆われた女性の遺骨が見つかった。この女性は「赤の女王(レイナ・ロハ)」と呼ばれた。この女性はパカル王の妻であると考えられている。

 「赤の女王」の発掘状況が再現されていた。

赤の女王

 これはチャクモール像で、腹の上に皿状のものを持つ石像で、そこに神への捧げものを置いたと解釈されている。腹の上に捧げものを置くなんて斬新だな。

チャクモール像

 

 ここからはアステカ文明の話。アステカは1428年頃から1521年までの95年間メキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家である。

 これはメンドーサ絵文書(複製)。

メンドーサ絵文書

 これはスペインがアステカを征服した後、先住民が記録した絵文書で、ここにはテノチティトラン創設の場面が描かれている。この絵が、現在のメキシコ国旗の紋章にも使われている。

メキシコ国旗

 鷲の戦士像を見つけた。

鷲の戦士像

 戦闘や宗教に重要な役割を担った鷲の戦士とみられる像で、鷲の頭飾りを被り、羽毛や鉤爪の装束を身に着けている。

 一瞬江戸時代に空を飛ぼうとした浮田幸吉みたいだな、と思ってしまったが、多分関係性はない。この人は空を飛ぼうとはしてない、はず。

 

 これはトラロク神の壺。

トラロク神の壺

 水を貯える壺にトラロク神の装飾があり、雨や豊穣の願いが込められたものと考えられている。音声ガイドで雨の神様がまた「ワシじゃよ」と言っていた。

 

 最後に、発掘された金の装飾品が展示されていた。金の装飾品は、美しい。

 

 この日は平日だった。本当は出勤日だったが、諸事情があって夏休みを1日延ばしてもらえたので、博物館に来た。それでもかなり混んでいたので、古代メキシコというのは人気のあるコンテンツなのだな、と思った。

 このあとは平成館のほかの展示を見た。古代メキシコ展以外は、撮影禁止だったので文章のみとする。

 まず、「姫君婚礼につき」。これは徳川家で生まれた女性がほかの家に嫁ぐときの嫁入道具を展示していた。流石徳川家、どの嫁入道具にも葵の御紋が入っていた。

 もうひとつが、「日本の考古(通史展示)」。これは考古学的な展示だった。「遮光器土偶」が展示されていたのが印象に残っている。これは青森県つがる市で発掘されたもので、縄文時代に使われた祈りの道具である。教科書で見た記憶がある。

 また、「考古学」といえば縄文時代などをイメージしがちだが、発掘された江戸時代の金貨も展示されていた。発掘されれば、結構新しい時代でも「考古学」というのかもしれない。

 東京国立博物館はほかにもまだまだ展示があるようだったが、平成館を見ただけで閉館時間になってしまった。情報量が多く少し疲れてしまったが、東京国立博物館はまた行きたい、と思うことができる博物館だった。

訪問日:2023年8月17日

【おまけ2 旧下谷小学校】

 普段関西に住んでいる友人が関東に出張で来たので、自由学園明日館に行ってきた。

自由学園明日館

 自由学園明日館でお茶していて、「次どこ行く?」という話になった。

 友人は「すごく行きたい場所があるわけではないので、もし行きたい場所があれば」と言ったので「じゃあ旧下谷小学校に行きたい」と答えた。

 旧下谷小学校は昭和3年(1928年)に建てられ、平成2年(1990年)に閉校した。いわゆる「復興小学校」だ。復興小学校とは、大正12年(1923年)の関東大震災で被災し、復興事業の一環として鉄筋コンクリート造りで再建された小学校だ。

 閉校後は放置されていたが、このたび、取り壊されるということで令和5年(2023年)7月21日~23日のみ内部が特別に公開されることになった。それが近代建築マニアのなかで「すごくいい」とTwitterで話題になっていたので、興味を持っていたのだ。

 自由学園明日館から池袋駅に向かい、山手線に乗車、上野駅で下車、入谷口から出る。上野公園のある反対側とは違い、閑静な住宅街という印象だ。

 まっすぐ歩いていると、ツタまみれの廃校舎が現れた。これが旧下谷小学校だ。

下谷小学校

 入口から入り、いきなり黒い門のある部屋に入った。これは奉安殿だ。

奉安殿

 奉安殿は明治以降、学校に下賜された天皇・皇后の御真影(写真)や教育勅語謄本を納めていた場所のことである。戦後、奉安殿は撤去命令が出たがここの奉安殿がそのままあるのは、ビルトイン奉安殿だからだろうか。

 

 下谷小学校の紋章が展示されていた。昇降口の上に設置されていたらしい。

 

 流し台を見つけた。小学生の頃、流し台から水を飲んだら塩素臭くてまずかったことを思い出す。

 

 階段を上って2階へ向かう。階段の段鼻が丸く整えられているのは、子供が転んでも怪我しないように、という配慮だろうか。

 

 廊下の配線がむき出しだ。

 

 教室には、いろいろなメッセージが書いてある。

 「大変モダンで素敵な建物なので解体せずホテルや商業施設に」

 私も再利用してほしいと思うし、友人も「何かに使えないのかな」と言っていた。

 

 「ありがとう 昭和32年卒」

 私が卒業した学校の校舎も昭和53年(1978年)に建てられたものだが、いつか取り壊しのときに見に行ったりするのだろうか。地元を離れているので、話すら来ない気もするが…。

 

 「そうか、学校嫌いだと思ってたけどホントは好きなんだ…」

 このコメントには、同じ学校嫌いだった人間として、クスっと笑ってしまった。

 

 唱歌室に入る。音楽室じゃなくて、唱歌室。

 

 唱歌室の特徴は、半円型の欄間がついた引き違いの戸である。半円型の欄間がオシャレだ。

絶妙に歪んだガラスもいい

 階段を上がり、3階へ。

 

 ここは家庭科室。調理実習が行われたのだろうか。

 

 オーブンが古そうだ。

 

 30年近く放置された校舎に、ツタが絡まって外の景色が見えない。

 

 屋上に向かった。屋上は体操場としても使われていたようだ。

 

 屋上から校庭を俯瞰する。

 友人が「アニメやドラマではよく屋上でごはん食べてるシーンあるけど、うさぎさんの学校は屋上上がれた?」と聞いてきたので、「いや、上がれない。だから学校の屋上に来たのは初めてかも。」と答えた。

 

 屋内に戻り、教室を覗くとここにもメッセージが書いてあった。

 先生の名前が書いてあり、「ありがとうございました。多くの教えを忘れずにこれからも生きていきます。」と書いてある。担任の先生の名前、一部は覚えているけど全員言ってみろ、と言われたら難しいだろうな。

 

 「宿題 不幸の手紙5通」なんで…w

 

  「係からの連絡 今日は給食なしです」いや、そうでしょ!笑

 

 「ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう」

 小学校は子供の頃6年過ごす場所だから思い出深いんだろうなぁ。

 

 ここは理科室。なんかの薬品を混ぜる実験とか昔やったなぁ、などと考える。

 

 ここは図書室。図書は全くない。

 

 「校長室」と書かれている部屋に入ったら黒板に「旧視聴覚室」と書いてあって笑ってしまった。

 

 ここはなぜか立入禁止。

 

 「101回卒業生です。下谷小学校ありがとう。会えずにいる皆は元気かな?」

 私は成人式後の同窓会も行ってないし、小学校の同級生とは何年も会っていないが、みんな元気にしているだろうか。

 

 おもむろに下を見るとタイルが貼ってあった。これは滑り止めらしい。

 

 講堂に向かう。

講堂

 ここは講堂兼屋内体操場だった。

 舞台に上って写真を撮る人がいるため「漫才でもするのかね」と友人が言った。「いや、しないでしょ」と私が返す。

 こういうところで全校集会をやった記憶を思い出す。

 

 校庭に出る。都心の学校だからか、私の母校より狭い校庭だ。

 

 「記念樹」と書かれていたが、かたわらに木はない。

 

 もう一度旧下谷小学校を見上げて、あとにする。

 

 私は埼玉県川越市の出身なので、台東区にある下谷小学校は母校ではないし、そもそも私が生まれる前に閉校している。

 それでも、「どこか懐かしいなぁ」といった郷愁を覚えた。遠い小学生時代の記憶を思い出すかのように。

 そして、旧下谷小学校の内装は印象的だった。もう取り壊しが始まっているのかもしれないが、もし取り壊していないのであれば、そのまま残してほしい、残すならもう少し綺麗にして資料館等にしてほしい、と思うのは、私だけだろうか。

訪問日:2023年7月23日

 

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

小森隆吉(1978) 「台東区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2020) 「東京都の歴史散歩 上 下町」 山川出版社

上野さくら浄苑 浄名院について

https://www.uenosakura-joen.jp/jyomyoin.html

京成電鉄 旧博物館動物園駅とは

https://www.keisei.co.jp/keisei/hakudou/about/index.php

(2023年9月4日最終閲覧)