今日は、ことのまま八幡宮バス停から掛川駅まで東海道を歩いた。しかし13時に掛川駅に着いてしまった。これからどうしようか、と考えたとき、せっかくなので掛川城へ行ってみようと思った。これは「おまけ」で書こうか迷ったが、「おまけ」のほうが量が多くなってしまいそうだったので、別の記事で書く。
「東海道を歩く 22.ことのまま八幡宮バス停~掛川駅」はこちら↓
1.掛川城天守閣
東海道を歩き、連雀西交差点まで来て左折すると掛川駅に向かい、右折すると掛川城へ向かう。
まず、四足門をくぐる。
江戸時代に描かれた絵図では「四足門」と明記されているが、発掘調査で門の跡は見つからなかったらしい。ただ、「正保国絵図」では薬医門が描かれているので、薬医門を復元したそうだ。
四足門を過ぎてすぐに、掛川城主要部模型がある。
この模型は、正保元年(1644年)幕府が諸大名に命じて提出させた城絵図と発掘調査結果を基本資料として、150分の1の縮尺で作られている。
野外に展示されているが、風雨、日光にも強い有田製磁器で作られている模型らしい。磁器で作られた模型とは、珍しい。
十露盤(そろばん)堀を見つけた。
十露盤堀という名称の由来ははっきりしないが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることがその由来と考えられているらしい。
掛川城の歴史の説明板があった。
掛川城は文明年間(1469~87年)、駿河国守護今川義忠が遠江支配の拠点として重臣 朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)に築かせたもので、標高57mの竜頭山(りゅうとうざん)上にある。
掛川城は別名「雲霧城」とよばれる。これは家康が今川支配下にあったこの城を攻めたとき、本丸の井戸より霧が立ち込め、城をつつみこんで攻撃を防ぎ、城をまもったという伝承に由来する。幻想的な響きだ。
江戸時代には、譜代大名を中心に、11家26代の大名が城主となったが、延享3年(1746年)以降は、太田道灌の子孫である太田家が城主となり、老中や寺社奉行など幕府の要職をつとめ、明治維新まで続いた。
城の建物は安政元年(1854年)の安政大地震で大半が損壊しており、御殿、太鼓櫓、蕗(ふき)の門などは、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけての再建である。
掛川市は、平成5年(1993年)に木造の天守閣と大手門、大手門番所を再建し、本丸脇には太鼓櫓を移築するなど城跡の整備を進めている。
これが太鼓櫓である。
この太鼓櫓は安政元年(1854年)の大地震以後に建てられたもので、時刻を知らせる太鼓を置いていたことからこう呼ばれる。昭和30年(1955年)に三の丸から移築された。
天守閣に登る階段には玉石の側溝がついている。
ここには敵の侵入に備え、広い範囲が見渡せる腰櫓台があったらしい。
ここには天守閣に入るための二層の櫓門、天守下門があったらしい。
天守閣の入口に、霧吹き井戸がある。
これが、家康軍の攻撃から城を守った井戸という伝説がある。霧は出ていなかった。
天正19年(1591年)から慶長元年(1596年)にかけ、山内一豊によって掛川城に天守閣がつくられた。しかし、安政元年(1854年)の大地震で倒壊、幕末の混乱のなか取り壊された。現在ある天守閣は平成5年(1993年)に復元されたものである。
掛川城には、狭間(さま)がある。
狭間は、城郭内の建物や塀に設けられ、内側から鉄砲や弓矢で敵を攻撃するための穴で、掛川城天守閣では1階に9ヶ所、2階に14ヶ所ある。
鯱は想像上の海魚で、火除けのまじないとされ、古代寺院などの大棟の両端に取り付けられていた鴟尾(しび)から変化したものと考えられる。
静岡県内に多くある秋葉灯籠といい、昔の人がいかに火事を恐れていたかがわかる。
天守閣頂上へ向かう階段の途中に、武者隠しがあった。その名の通り、城主を警備する武者たちを忍ばせていた部屋である。
天守閣の頂上からは掛川のまちを見渡すことができたが、薄曇りだったので天気のよい日はもっといい景色が見られると思う。
天守閣には「遠江国掛川城地震之節損所之覚図」が展示されていた。先ほどから度々登場してくる安政大地震の被害状況図である。安政大地震がなければ、掛川城ももう少しいろいろ残っていたかもしれない。地震だから仕方ないのだが…。
天守閣を下りていくと、石落としを見つけた。
1階の床の一部を石垣の上に張り出させて、敵が攻めてきたときに床板を開け、そこから石を落として攻撃するためのものである。そのまんまのネーミングだった。
鎧や扇が展示されている。「山内氏寄贈」とあるから、山内一豊の子孫から寄贈されたものかもしれない。
掛川城天守閣の壁の構造が展示されていた。何重にもいろいろ塗りこんで壁を固めていくらしい。
2.掛川城御殿
掛川城御殿は、藩の儀式・政務を行うとともに藩主の公邸でもあった。文久元年(1861年)再建、国の重要文化財に指定されている。
京都の二条城などとともに、御殿建築としては全国で数か所しか残存していない貴重なものである。そのうちのひとつに、埼玉県川越市にある本丸御殿がある。ここでふるさとと思いがけずつながってくる。
287坪(約947㎡)もの広さの建物は、格式ある書院造の広間から足軽用の部屋まで複雑に構成されていて、江戸時代の藩の政治や、大名の生活をしのぶことができる。
掛川城御殿では、いろいろなものを買うことができる。私は掛川城の城カード、御城印、御宿場印を買った。
御朱印に便乗した御〇印、全国各地でいろいろなものが出てきているが、東海道の御宿場印は今年始めたものらしい。もう掛川まで来てしまい、流石に今までの宿場を全部回って集めるのは骨が折れるので、とりあえずこれからの宿場で見つけたら集めていこうと思う。
三の間は、城主や家老に用がある場合、ここで用を済ますための部屋だったようだ。
天竜浜名湖鉄道は掛川市の掛川駅から湖西市の新所原駅までを結ぶ全長68kmの第三セクター路線である。
昭和15年(1940年)に国鉄二俣線が全通し、昭和62年(1987年)に国鉄二俣線は廃止され、同年天竜浜名湖線として再スタートした。
私が大学1年生の頃、初めて一人旅をしたときに乗った思い出の路線だが、あれ以来乗りに行けていない。いつかまた乗りに行きたい。
三の丸には報刻の大太鼓がある。
安政2年(1855年)8月、当時掛川藩の藩主であった太田氏により、時間を告げることを目的として製作された。
この太鼓によって時間を告げるという慣習は、明治の中頃まで続いていた。
太鼓に「たたかないでネ」と書かれているが、その左上に小さく「たたく時があります」。…これは平時は叩いてはダメ、という認識でよいのだろうか?
ここは次の間である。
城主と謁見できる身分の高い人だけが通された部屋らしいが、現在は誰でも見ることができる。
次の間の奥が御書院上の間で、城主が藩の政治をつかさどった公的な部屋である。
御書院上の間の奥で、竹灯籠が展示されていた。美しい。
竹灯籠の展示されている廊下の奥に、小書院がある。
小書院は城主が政務を離れてくつろいだ私的な部屋で、木製建具の「和(やわらぎ)」が展示されていた。これは掛川市にある佐次本木工が製作したものらしい。
この部屋の名前も「次の間」。こちらは城主や奥方の世話・護衛をする役人が控えていた部屋だ。
こちらは長囲炉裏の間で、城主あるいはその奥方が使用した部屋である。
今は掛川城を背景に撮影できるフォトスポットと、掛川城主が使用した甲冑等が展示されていた。
長囲炉裏の間の外には、太田竹城の扇書が展示されていた。
太田竹城は旧藩主太田候に仕え家老職になる傍ら、小島成斉に入門して書道を行っていた。
廃藩置県で掛川藩がなくなってからも掛川に住み、家塾を開いて書道を教えていたという。
この書には「禮義(れいぎ)」と書かれている。
太田竹城の扇書の横には梵天が展示されている。
梵天は安政2年(1855年)に御殿が再建されたとき、上棟式に用いられたもので、当時の大工の伝蔵という人が掛川城主から下附されたものであるようだ。
御殿のなかを進むと、足軽目付がある。
足軽とは江戸時代、最下級におかれた武士で、戦のときは第一線に出動した。その足軽を監督したのが足軽目付で、その足軽目付の部屋である。
足軽目付の横に車長持が展示されていた。
長持とは衣類や寝具の収納に使われた長方形の木箱で、底に車輪がついたものを車長持という。
現代的に言えば、箪笥に車輪がついたもの、常に使っているキャリーケースと言ったほうがよいだろうか。
さらに先に進むと徒目付(かちめつけ)がある。
徒目付とは徒(かち。江戸時代の下級武士)を監督した役職で、その徒目付が使用した部屋である。
足軽目付より役職が上だからか、床板が張られている。
徒目付の向かい側には大目付がある。
大目付は藩内の監察、警備などを主要な任務とした大目付の部屋である。
徒目付よりさらに格式が高く、畳が張られている。
大目付の奥に、吟味奉行がある。
吟味奉行は藩内の訴訟や事件あるいは経理関係の吟味をした吟味奉行の部屋である。
徒目付と同じく板張りの部屋である。
吟味奉行を出たら棟札が展示されていた。
吟味奉行の先に御用人部屋がある。
御用人部屋は藩の財政や庶務を取り扱う用人が使用した部屋である。
ここは畳が敷いてある。
廊下に出たら刀の鍔や掛川城の瓦が展示されていた。
御用人部屋はさっき見たが、これは御用部屋である。
御用部屋は城主への用件の取り次ぎや身辺の警護役人が控えていた部屋である。
畳敷きで、着物が飾ってあった。
また廊下に出ると、今度は薙刀や弓など、武器が展示されていた。
張役所は邸内の警備を任務とする役人が使用した部屋で、今は展示スペースになっていた。
随臣の人形や、掛川城を訪れた芸能人のサインなどが展示されていた。
随臣の人形は老人と若人の人形があり、老人は学問と知性、若人は力をつかさどるものとしているようだ。いつの時代においても、老人の経験、若人の行動力を存分に発揮できるよう願いをこめたものらしい。
賄方は藩内の経理事務の処理をした部屋だが、掛川祭りの展示がされていた。
これは西町大鳥毛である。大鳥毛とは、大名行列で馬印として使用していたもので、鷹または鶏などの羽を植えた大型の器具である。これは西町の大名行列で使用するものらしい。
これは獅子舞かんからまちである。
掛川祭りで、瓦町は獅子舞「かんからまち」を奉納する。
1人立ちの3匹獅子舞で、獅子にはそれぞれ「龍」「尾」「山」の名前があり、「龍」と「尾」が雄で、「山」が雌である。
舞の内容としては、2匹の雄獅子が1匹の雌獅子を求婚して競い合うが、神前で和合するという筋立てらしい。面倒くさくならない三角関係だ。
廊下にでたら賄方で実際に使用されたやかんと行器(ほかい)が展示されていた。
やかんは11㎏もあるらしい。私の握力だと片手で持てるか怪しい。
行器はごはんや饅頭などの食物を入れて運ぶものだったようだ。
大名行列のミニチュア人形があった。
大名行列とは参勤交代で殿様が江戸から領国、もしくはその逆を行くときに組まれた行列である。掛川城の殿様もこのような参勤交代をしていたのだろうか。
玄関のほうに戻ると御談の間がある。
御談の間は藩へ用事のある人の用件の取り次ぎや談合、会議などの際に使用した部屋である。
つまようじで作った掛川城御殿と天守閣が展示されていた。つまようじアート作家が作ったようなので、好きで作ったのだとは思うが途方もない作業だな、と思う。
3.掛川市二の丸美術館
掛川城御殿をあとにして、掛川市二の丸美術館に向かうところに黒土塁があった。
黒土塁は、外部から二の丸御殿を隠す目的で作られたものであるようだ。
掛川市二の丸美術館に着いた。
掛川市二の丸美術館は、掛川市出身の実業家、木下満男氏が展示施設建設費と美術工芸品を掛川市に寄贈したことで、平成10年(1998年)に開館した。
掛川市二の丸美術館に入るとお椀が展示してあった。
これは島田市博物館の企画展「めし茶碗の彩り―むかし人が愛した文様―」の展示品らしい。
ちなみに私が島田市博物館に行ったときは刀剣が展示されていたので、この3ヶ月間で展示品が変わったようだ。
島田市博物館はこのブログに載ってます↓
私が訪れたときは「男も女も装身具・Ⅱ ―江戸から明治・大正期の技とデザイン―」が展示されていた。
これは、掛川市二の丸美術館の主軸となる収蔵品「木下コレクション」から展示されている。
まずは、女性用装身具のコーナーから見ていく。
日本髪の多様化とともに発展したのが、櫛やかんざしである。
大きな髷に象牙や鼈甲(べっこう)で仕立てられた贅沢な櫛や、金銀細工の細緻なかんざしが何本も挿され華美を極めた時代だ。
櫛といえば今は髪をとかすものだが、当時は髷に挿すものだったのだ。
これはびらびらかんざしで、垂飾りの短冊や鈴が揺れるたびにこすれて涼やかな音が出ることからこの名がある。江戸時代には武家や大名家の未婚の女性が主に使用していたそうだ。
私はアクセサリーなどをあまりつけないが、大きめのピアスが耳の横でゆらゆら揺れるのと、びらびらかんざしの飾りがゆらゆら揺れるのは、通ずるものがあるように思う。
次は明治の櫛・かんざしだ。
明治時代には日本髪に代わり、束髪が登場した。まだ着物で生活していたものの、江戸時代のように、髷に何本ものかんざしを挿すような風潮はなくなった。
そのため、螺鈿細工や珊瑚で飾られた可憐なデザインの櫛・かんざしが増えてくる。確かに、江戸時代と比べてシンプルだが繊細なデザインだ。
錺(かざ)り鎖が何種類か展示されていた。
錺り鎖は女性用の袋物につけられたもので、胸元に収めた袋物からチラリと揺れるアクセサリーのようなものだったらしい。
ひょうたんのデザインが3つほどあるが、当時の流行だったのだろうか。
大正期の髪飾りの展示にうつる。
和装から洋装の変化にともない、女性の髪型も簡便化していった。大正時代の流行は庇(ひさし)髪やウェーブヘアである。
この髪型に似合う丸く湾曲した櫛が用いられ、素材もセルロイドなどが使用されるようになっていく。
これが大正時代の化粧道具箱で、嫁入り道具として使用されたものらしい。
26歳になってもプチプラ化粧品で化粧を済ませる私には、扱える自信のない代物だ。
江戸・明治の紅板が展示されていた。
紅板は携帯用の紅入れ、現代の言葉でいえばリップのようなものだ。当時、紅は大変高価だったので女性は紅板を大切に使用していたそうだ。現在、リップはドラッグストアでお気軽に買えるものなので、これを江戸時代の女性が知ったら驚くだろうか。
江戸時代から大正時代にかけてのかんざしが展示されていた。
かんざしは実に可憐である。今も昔も、女性は綺麗でありたい生き物なのだと改めて思う。
そして以前、雑貨屋さんでかんざしを見つけて挿してみようとしたのだが、不器用で失敗したのを思い出した。
髪だけは長いので(現在胸下くらいまである)、機会があればつけてみたいと思う。もっとも、博物館に寄贈されているものではなく、安物で十分だが。
これは、蓬莱鏡というらしい。
蓬莱鏡とは、鏡の背面に鶴亀や松、鳳凰などの文様を描いた鏡で、婚礼道具に用いられることが多かったようだ。現代でいう鏡台のようなものだろうか。
1階に降りると、今度は煙草入れが展示されていた。
煙草は16世紀末に伝来し、以来嗜好品として定着したが、紙巻きたばこが主流になる昭和以前は葉タバコを煙管(きせる)で吸っていたので、葉タバコと煙管、火打石などを入れるケースが必要だった。それが煙草入れである。
現在は紙巻きタバコとライターが主流になってしまったので、煙草入れを見る機会はない(そもそも、煙草を吸う人が減っている。私は吸ったことがないし、私の友人でも吸っている人はあまりいない)。
煙草入れは身分や職業、性別などにより、デザインや素材にも多くのバリエーションがある。見ていこう。
金唐革の煙草入れが展示されていた。
金唐革は17世紀にオランダから日本に渡来した文様革の一種で、その黄金色の輝きが日本で大変人気を博したようである。今も昔も金色、というのはそれだけで魅力を感じるのはなぜだろう。
更紗の煙草入れを見つけた。
更紗はインド発祥の木綿布で、17世紀に日本に渡来した。木綿布に鮮やかな色彩で異国趣味な文様が染め出された布で、日本で人気を博したあまり独自の「和更紗」も生み出されたという。確かにどこか日本離れした模様である。
菖蒲革の煙草入れを見つけた。
なめした鹿革を菖蒲色に染め出し、そこに文様を白く染め抜いたものが菖蒲革で、菖蒲は勝負に通ずる縁起の良い革として武士にも好まれたそうだ。
ダークグリーンに白い模様が浮き出ていて、男性の使うシブい煙草入れ、といった印象だ。
お次は棧留革(さんとめがわ)の煙草入れ。
棧留革の名前の由来は、インド南東部の海岸コロマンデル地方セント・トーマス(サントメ)から渡来してきたことからこの名前がある。そういえばサントメ・プリンシペという国があるが、それと関係しているのだろうか。
しわのある大変丈夫な革で、更紗同様、日本独自の棧留革も制作されたそうだ。
現代でもシブい男が財布入れとして使っていても、通用しそうだと感じた。
これは蒲団革のたばこ入れ。
これは座布団を仕立てるときに用いる革で、柔らかくしたなめし革に漆をかけたもの。しわはほとんどなく滑らかな表面が特徴である。これも今の財布にありそうだな、と感じた。
これは燻し革のたばこ入れ。
燻し革はなめした鹿革を藁を炊いた煙で燻した革。これに漆で文様を描いた革は「印伝革」と言い、山梨県の伝統工芸品になっているそうだ。蒲団革より燻した分、色に深みがある。
これはパナマ編みの煙草入れ。
パナマ編みの素材は南米などに生息するヤシ科の常緑多年草であるため、日本で用いられたのは幕末頃からである。夏用の煙草入れとして好まれたそうだ。確かに冬よりは夏、という印象がある。銭亀、という名前の煙草入れがあるが、多分ポケモンとは関係ないだろう。
籐(とう)・竹編みの煙草入れ。
籐は東南アジア原産のヤシ科の植物で、江戸時代後期に渡来した。竹は日本に昔からあるもので、籠編み職人等が煙草入れを作ったらしい。パナマ編みの煙草入れより、竹編みの煙草入れのほうが「日本らしさ」がある気がする。
煙草入れは素材だけでなく、織りや刺繍にこだわったものも制作されている。
「蝉」という作品がある。「薔薇(のように見えた)ではなく蝉?」と思っていたら、金具の部分に蝉がいた。
木彫りのたばこ入れもある。これは、携帯していたものなのだろうか。携帯するにしては、少し重そうに見える。
硬い木で作られた煙草入れは「とんこつ煙草入れ」と言われたそうだが、豚骨ラーメンの匂いは多分しないだろうと思う。
鮑(あわび)貝や象牙、鹿角で作られた煙草入れもある。
鮑貝や象牙は舶来品で、鹿角はニホンカモシカの角で作られている。おそらくだが、お金持ちが使った煙草入れではなかろうか、と思う。
細工職人たちが手遊びに作った、ミニチュア煙草入れもある。とてもかわいい。
今度は、印籠が展示されていた。
印籠といえば、「この紋所が、目に入らぬかァ!」と言いながら印籠を掲げる、某御老公さまを思い出すが、そもそも印籠とは印判と印肉を納めるための容器のことである。江戸中期以降には、男性に欠かせぬ装身具として流行した。
印籠はとても小さいのに、とても細工が細かい。
煙草入れとセット、煙管筒が展示されていた。
煙管筒は煙管のケースで、黄楊(つげ)などの木材や、竹や象牙などさまざまな素材で作られている。廃刀令後、職を失った刀剣の鞘塗り師らが作ったものもあるようだ。象牙で作られた煙管筒は、煙草入れ同様お金持ちが使っていたのではないかと思う。
煙管が展示されていた。
煙管は刻み煙草の葉を詰める火皿と吸口、それをつなぐ羅宇(らう)から構成されている。火皿と吸口には彫金細工が施され、装飾品としての価値もあった。
江戸・明治期の著名な金工作家の作った煙管が展示されていた。100年以上前に作られたものなのに、色褪せず、美しい。
ここには様々な煙管が展示されているが、下中央の「夫婦(めおと)きせる」は火皿はひとつ、吸口が二つある煙管で、夫婦などで仲良く煙草を楽しむために開発されたらしい。2つのストローで1つのジュースを恋人同士、2人で飲むのに似ているだろうか(これ、調べてみたらアベックストローと言うらしい。つまりこの煙管はアベックキセルか。)
髪飾りと煙草入れの展示を見終わり、エントランスに戻ると掛川城出土の瓦と掛川の城下町・宿場町のミニチュアが展示されているのを見つけた。
徳川家康の鎧が展示されていたが、「どうする家康」に乗っかったものだろうか。
まだまだ「東海道を歩かない 掛川編」は続くが、ここで1回切ることとする。「東海道を歩かない 掛川・後編」も近日中にアップする予定なので、お楽しみに。
(2023年5月22日追記)「東海道を歩かない 掛川・後編」をアップしました。こちらからご覧ください。
歩いた日:2023年4月22日
【参考文献】