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東海道を歩く 21.金谷駅~ことのまま八幡宮バス停

 

 

 前回、藤枝駅から金谷駅まで歩いた。今回は金谷駅からことのまま八幡宮バス停まで歩こうと思う。静岡駅~吐月峰駿府匠宿入口バス停~岡部宿柏屋前バス停~藤枝駅のルートで使った「中部国道線」は30分に1本走っていたのであまりバスの時間を考慮せずに済んだが、今回ことのまま八幡宮バス停から掛川駅で使う「東山線」は1日8便しかないため、バスの時間を逆算しながら歩くことになった。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.金谷坂

 今日は島田で宿泊していたため、島田駅から東海道本線に乗り、金谷駅に向かう。

 今日はここからスタートだ。

金谷駅

 金谷駅から北東方向に進み、前回登場した一里塚があるところの交差点で右折し、ガードをくぐる。

 

 ガードをくぐったら右折し、道なりに進む。すると、秋葉灯籠を見つけた。

秋葉灯籠

 秋葉灯籠は、浜松市天竜区にある秋葉山本宮秋葉神社を信仰する「秋葉信仰」で作られる灯籠で、静岡県に多く分布している。「東海道を歩く」でも2回に1回は登場しているほどに多く分布している。これで何個目だろうか。

 

 金谷大橋跡を見つけた。

金谷大橋跡

 ここにある「不動橋」は、江戸時代には「西入口土橋」「金谷大橋」と呼ばれ、金谷宿の西入口になっていた。要は、ここが金谷宿の上方口見付ということだろうか。

 

 国道473号線を渡ると、「旧東海道石畳入口」と書かれた看板を見つけるので、そのまま進む。

旧東海道石畳入口」

 旧金谷町の町章が描かれた側溝を見つけた。

 金谷町は平成17年(2005年)に島田市と合併して廃止された。

 

 そのまま進むと、石畳の金谷坂に入る。

金谷坂

 石畳茶屋があったが、営業していなかった。

石畳茶屋

 この石畳は、江戸時代に幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩きやすいように山石を敷き並べたものであると言われている。

 近年、わずか30mを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていたが、平成3年(1991年)、金谷町民約600人の参加を得て実施された「平成の道普請」で430mの石畳が復元された。

 現在、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのは金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の3箇所だけである。

 風情はありとても良いとは思うが、やはりアスファルトに慣れた現代人の足では、石畳は少々歩きにくい。

 金谷坂を上がっていくと、庚申堂を見つけた。

庚申堂

 この庚申堂に旧東海道を旅する人たちが道中の無難息災、家内安全を祈願して立ち寄っていたようだ。堂宇には猿田彦命(さるたひこのみこと)およびその主従を祀っており、例年4月の「かのえさる」の日に追善を施行しているようだ。そしてこの庚申堂では、大泥棒である日本左衛門がこの堂内で夜盗の身支度をしたと伝えられている。地元では信仰されているお堂なのでそっと手を合わせた。

 

 庚申堂の近くには、鶏頭塚がある。

鶏頭塚

 「曙も 夕ぐれもなし 鶏頭華」の句と「六々庵巴静 寛保甲子四年(1744年)二月十九日没」と刻んだ自然石の碑があることからこの名がつけられた。

 巴静というのは蕉風(松尾芭蕉およびその門流の俳風)をひろめた江戸時代の俳人で、その教えを受けた金谷の門人たちは師匠の徳を慕って金谷坂の入口北側の辺にこの句碑を建てたそうだ。

 

 延々と石畳が続く。

 

 すべらず地蔵尊があった。

すべらず地蔵尊

 すべらず地蔵のいわれは、ここの石畳は「すべらない」という特徴から、受験や商売など、何事も願いが叶うということからきている。試験などを受ける予定はないが、そっと手を合わせておいた。

 すべらず地蔵尊の横には絵馬をかけるところがあるのだが、1月だったこともあり「志望校合格!」とか「○○高校に合格しますように」などと書かれている。なんだか微笑ましい。

 

 ようやく石畳の終わりが見えてきた。430mの割に長く感じた。

 

 金谷坂の終わりに、「不法投棄禁止!「金谷町」」という注意書きを見つけた。

 

2.諏訪原城

 金谷坂を出ると、茶畑が広がっていた。静岡を感じる。

 

 そのまま進むと、右手側に諏訪原城ビジターセンターがある。行ってみよう。

諏訪原城ビジターセンター

 諏訪原城は、天正元年(1573年)に武田勝頼(たけだかつより)が標高218mの台地上に築いた平山城である。

 曲輪(くるわ)の配置を巨大な空堀で強調し、出入口の前面に円形の馬出しを備えて虎口(こぐち)を強化した構造をもち、武田流城郭の典型例として名高い。

 天正3年(1575年)7月から8月にかけて、城をめぐって武田・徳川両軍の激しい攻防戦が展開され、8月24日に城は陥落、武田軍は退却した。

 その後、徳川家康によって牧野(牧野原)城と改名されたが、天正10年(1582年)7月4日以後の史料はないのでまもない時期に廃城になったと考えられる。

 

 諏訪原城ビジターセンターに入ると丸馬出の機能イメージ模型がある。これは諏訪原城落城後、牧野城(諏訪原城)を守る徳川軍と城を奪い返そうとする武田軍の戦をイメージしたもののようだ。

丸馬出の機能イメージ模型

 諏訪原城ビジターセンターでは諏訪原城跡発掘調査で出土した遺物が展示されていた。

 

 ビジターセンターを出て、城のほうへ行ってみよう。

 ここは大手南外堀である。

大手南外堀

 諏訪原城の台地側前面に方形に突出した曲輪が大手曲輪で、その位置や構造から、城の最終段階に付設されたと考えられる。

 大手曲輪は、大手北外堀と大手南外堀によってコの字型に囲まれ、古絵図では、西側前面に巨大な丸馬出と三日月堀が描かれている。

 こちらは大手北外堀である。

大手北外堀

 

 諏訪原城内に諏訪神社を見つけた。安産祈願に、男の子は鎌、女の子は赤い糸を奉納するとよいらしい。

諏訪神社

 

 ここには番小屋があったようだ。

番小屋

 平成23年(2011年)度の発掘調査によって、南北約5.5m×東西約4m規模の隅丸方形の竪穴状建物跡が検出された。二の曲輪中馬出の出入口で確認された建物であるため、見張り番がいる番小屋的な要素を持った施設と考えられている。

 

 ここは堀切だ。

堀切

 この堀切は二の曲輪北馬出から二の曲輪中馬出に続く通路を遮断するためのものである。

 この堀切は、絵図面や古文書等でも記載がなく、平成20年(2008年)度の発掘調査によって初めて確認された。

 

 ここは二の曲輪北馬出である。

二の曲輪北馬出

 諏訪原城の馬出は、広大な台地上から敵方の攻撃を想定し、台地側にのみ7ヶ所構えられ、すべて半円形で前面に三日月堀を持つ「丸馬出」である。なかでも、南北に配置された長さ50mにも及ぶ巨大な2基の馬出が防衛ラインの拠点であった。

 二の曲輪北馬出からは、金谷の町や大井川を見下ろすことができた。

 

 ここは二の曲輪である。

二の曲輪

 諏訪原城は、本曲輪を扇の要にたとえ、扇状に曲輪が広がっているため、江戸時代には「扇城」と呼ばれることもあった。二の曲輪は、南北約315m、東西約75mの広さを誇る城内最大規模の曲輪である。

 

 二の曲輪の先には本曲輪もある。

本曲輪

 本曲輪は、守城戦において最終拠点となる最も重要な曲輪である。ここではかわらけや鉄砲玉、炭化米や土壁の破片、瀬戸美濃で作られた丸碗などが出土した。

 

 また、見晴らしの良いところに出た。今日はいい天気だ。

 

 ここからビジターセンターに戻り、御城印をもらって諏訪原城をあとにした。

 

3.菊川坂

 諏訪原城を出ると、また石畳が現れた。菊川坂だ。

 

 途中転びながら(すべらず地蔵尊にお参りしたのに!)、石畳を下りていく。

 

 「山火事注意」。アシタカとヤックル…?

 

 「旧東海道菊川坂石畳普請助郷役芳名」。平成13年(2001年)に菊川坂の修繕を行ったとき、協力した人の名前が書いてあるらしい。

 

 菊川坂石畳は、平成12年(2000年)の発掘調査により、江戸時代後期のものと確認された。

 江戸時代は、さまざまな仕事が助郷という制度によって行われたが、この石畳も近隣12か村に割り当てられた助郷役の人たちによって敷設されたものである。この長さは、380間(約690m)あったともいわれている。

 現在でも、一部破損されたところもあるものの161mの長さの石畳を残している。

 

4.菊川

 菊川坂を下りると、菊川の集落に出る。

 菊川の里は、吾妻鏡の中の建久元年(1190年)源頼朝上洛の記事に「一三日甲午於遠江国菊河宿…」とあり、これが菊川の里の所見である。

 

 承久3年(1221年)の承久の乱で、鎌倉幕府に捕らえられた中納言宗行卿が鎌倉へ送られる途中この菊川の里で詩を残している。

 「昔は南陽県の菊水 下流を汲んで齢(よわい)を延ぶ 今は東海道の菊川 西岸に宿りて命を失ふ」

 中国では菊にたまった水を飲むと長生きするというが、東海道の菊川で、私は今殺されようとしている、と自分の運命を嘆く歌である。

 

 元弘元年(1331年)の元弘の変で捕らえられた公卿日野俊基も、鎌倉への道すがらにこの里で歌を残している。

 「いにしへも かかるためしを 菊川の 同じ流れに 身をや沈めん」

 

 江戸時代には、西の日坂宿、東の金谷宿の間にあって、いわゆる「間の宿」として多くの旅人たちの利便を図ってきた。

 

 ごみ捨て場に「ここは 間の宿 菊川」とあったが…アピールにしては雑すぎる。

 

 案内板があった。ここから「小夜の中山」方面に進む。

 

 「夢舞台東海道」の「島田市菊川の里」発見。「島田市」の下は「金谷町」なのだろうな、などと考える。

島田市菊川の里

 

 「昔をしのぶ 間の宿 菊川」。名前が「浅右門」「人力屋 吉蔵」などとあるから、江戸時代に誰がどこに住んでいたのか、という地図かな、などと考えていたら「名前は今より3~5代前の人名です」と書いてあった。

昔をしのぶ 間の宿 菊川

 間の宿は、本宿と本宿の中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩に便宜をはかって作られた。

 普通、2宿間の距離が3~4里に及ぶときに間の宿が置かれるが、金谷宿と日坂宿の間のように1里24町でも、急所難所が続いていたので、特別に間の宿「菊川」が置かれた。

 間の宿では旅人の宿泊は厳禁、大井川の川止めの場合でも、金谷宿の許可がないと旅人を泊めることはできなかった。また、尾頭付きの本格的な料理を出すことも禁止されていた。

 そこで生まれたのが「菜飯田楽」だった。下菊川おもだか屋、宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は格別美味しかったそうだが、残念ながら今菊川で菜飯田楽が食べられる店はない。

 

 菊川の里会館の前に「昔は南陽県の菊水 下流を汲んで齢(よわい)を延ぶ 今は東海道の菊川 西岸に宿りて命を失ふ」と「いにしへも かかるためしを 菊川の 同じ流れに 身をや沈めん」の歌碑がある。

 

 歌碑の隣に、菊川由来の石がある。

菊川由来の石

 その昔、この近くの川から菊の花の紋のついた石が多く出土された。その石は「菊石」と呼ばれ、川の名前は「菊川」となり、この集落の名前も「菊川」となったそうだ。確かに、菊の模様に見えるかもしれない。

 

 菊川の里会館には、金谷宿の昔ばなし「八挺鉦」「与茂七越し」「名物 「飴の餅」のこと」が展示されていたので貼っておく。

 

 なお、菊川の里会館は、閉まっていた。

菊川の里会館

 ←小夜の中山 と案内のあるところを左折すると、四郡の辻がある。

 ここは山名郡、佐㙒郡、山名郡、榛原郡の境界だったようだ。今は島田市内であり、特に何かの境界ではない。

 

 四郡の辻の前の石段を登ると東海道が続いているが、どうやら工事中で、迂回を余儀なくされた。

 通行止め地点から左に進み、菊川神社のある交差点で右折する。

菊川神社

 菊川神社は宇佐八幡神社、若宮八幡神社駒形神社津島神社の4社を合併して創立された。昭和35年(1960年)に宗教法人法による神社を設立登記した、と説明版にあったので、結構新しい神社なのかもしれない。

 

 かなり新しそうな道を通って東海道に戻る。この道、まだ地理院地図やGoogleMapにも反映されていないくらい新しい道だ。

 

 通行止めを逆側から見て、迂回は終わった。

 

 ついに、小夜の中山が始まった。ゆるやかだが、長い上り坂が続く。

 小夜の中山。小夜は佐夜、佐野、佐益などとも書き、佐野郡のこと、中山は長山であるから佐野郡の長山という意味であるとか、小夜は狭谷で左右の間の狭い峠の意味であるとかいわれてきた。

 茶畑がたくさん見える。日本の原風景を感じる。

 

 坂をしばらく上がり続けていたら島田市掛川市カントリーサインを見つけた。珍しいカントリーサインだけど、こういうのもありだな。

 

 歌碑があった。

 「雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月」

 …雲のかかる小夜の中山を越えたと、都の子供らに伝えておくれ。

 LINEなどが発達した現代では詠めない歌だ。

 

 「旅ごろも 夕霜さむき ささの葉の さやの中山 あらし吹くなり」

 …旅姿に夕霜が身に沁みる。ここ小夜の中山の峠道、一面の笹原で、笹の葉を鳴らして木枯らしが吹き渡ることだよ。

 冬の寒さを感じる歌である。

5.夜泣き石

 小夜の中山の頂上には、久延寺がある。

久延寺

 久延寺には「夜泣き石」がある。

夜泣き石

 夜泣き石には以下のような伝説がある。

 昔、小夜の中山に住むお石という女がいた。お石が菊川の里へ働きに行った帰りに、小夜の中山の丸石の松の根元でおなかが痛くなり、苦しんでいた。そこに轟業右衛門という人が通りかかり介抱したのだが、お石が金を持っていることを知り、お石を殺して金を奪い逃げて行った。

 そのときお石は妊娠していたので傷口から子供が生まれ、お石の魂が丸石に憑依し、毎晩泣き声をあげた。小夜の中山の住人は、その丸石を「夜泣き石」と呼んだ。

 傷口から生まれた子供は音八と名付けられ、久延寺の和尚に水飴で育てられ、立派な若者になった。その後、大和国(奈良県)の刃研師の弟子となった。

 そこに轟業右衛門が刃を研ぎに来たのだが、その刃に刃こぼれがあった。それを音八が聞いたところ、「十数年前に小夜の中山の丸石の付近で妊婦を切り捨てたときに石にあたって刃こぼれができた」と轟業右衛門は答えた。そこで音八は轟業右衛門が母の仇とわかったので、母の仇を討ったのである。

 

 この話は、江戸時代後期の戯作者滝沢馬琴の「石言遺響」で有名になった物語である。

 子供(音八)が無事だったので良かったが、昔は金を持っている女性というだけで殺されてしまう、物騒な時代だったのだなと思う。

 

 久延寺境内には「茶亭跡」と書かれた石碑がある。これは掛川城主、山内一豊が豊臣家康を供応した茶亭跡である。

 

 久延寺の隣には、扇屋という店がある。

扇屋

 ここでは「子育飴」を売っている。これは、先ほどの夜泣石伝説で久延寺の和尚が音八を水飴で育てたことに由来する名物である。昔は小夜の中山に7軒ほどの飴屋があったというが、今は扇屋1軒のみである。土日祝日のみの営業なので、要注意。

 子育飴はプラスチックケースに入ったものと、その場で食べる用のものと2種類ある。どちらも買ってみた。

 子育飴は、どこか懐かしい、優しい味がした。

 扇屋の店主の方ともお話をし、小夜の中山のパンフレットをいただいた。

 公共交通で行きにくいのが難点だが、また行きたいと思う場所が増えた。

 

 小夜の中山の頂上には句碑がある。

 「年たけて また超ゆべしと おもひきや いのちなりけり さやの中山」

 これは西行法師が詠んだ歌である。23歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりのなかで人生の味わいを歌いつづけた西行の、晩年69歳の作品である。

 この歌は、文治3年(1186年)の秋、重源上人の依頼をうけて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯2度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。自分の命のいとおしみと、峠を越えることができた喜び、峠の神への感謝の心が感じられる。

 この西行歌碑の奥に、小夜の中山公園があるが、諏訪原城ほどの眺望は望めなかった。

 

6.小夜の中山

 小夜の中山も、下り坂に入った。途中、茶畑に「茶」と書いてあるのを見つけてしまった。

 

 小夜鹿一里塚を見つけた。

小夜鹿一里塚

 一里塚とは、江戸日本橋を基点にして一里ごとの里程を示す塚で、街道の両側に5間(約9m)四方の塚を築いて、その上に榎や松が植えられたものである。

 この小夜の中山の一里塚は、慶長9年(1604年)に作られた。日本橋からこの一里塚までの里数を示す設置当初の記録はないが、周辺の一里塚の言い伝えによる里数や当初の東海道のルートを考えて56番目という説がある。

 

 また歌碑を見つけた。

 「甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山」

 …遥か甲斐の白根の峰々は雪で白い。今、神無月(10月)、時雨の中、さやの中山を越えることだ。

 甲斐の山が雪で白く、時雨が降っていることを考えると、寒いなと思いながら詠んだのだろうかと考えた。

 

 この歌碑の近くに神明神社がある。

神明神社

 神明神社については、ネットで調べても特に出てこなかった。手を合わせて、後にする。

 

 少し進むと、鎧塚がある。

鎧塚

 建武2年(1335年)北条時行の一族名越太郎邦時が、世に言う「中先代の乱」のおり京へ上ろうとして、この地で足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討ち死にをした。頼国は、名越邦時の武勇をたたえここに塚をつくり葬ったそうだ。

 スポーツマンシップ?とは違うか…。リスペクトするなら殺すなよ、と思うのは価値観の違いだろうか。

 

 「東路の さやの中山 なかなかに なにしが人を 思ひそめけむ」

 …東国へ行く人がきっと通るのが小夜の中山である。中山のなかといえばなかなかに(なまじっか)どうしてあの人に思いを掛けたのであろう。

 あの人が誰かはわからないが、詠んだ人の想い人だろうか。

 

 長い長い坂道を下りていく。

 

 「ふるさとに 聞きしあらしの 声もにず 忘れね人を さやの中山」

 …旅にでて耳にするここ小夜の中山の山風の音は都で聞いたのとは似ても似つかない。このように都も遠ざかったのであるから、いっそ都の人のことなど忘れてしまえよ。

 「いっそ都の人のことなど忘れてしまえよ」…何があったのだろうか。

 

 「道のべの 木槿(むくげ)は馬に くはれけり」

 …道端の木槿の花が、乗っている馬にパクリと一口食われてしまったよ。

 これは松尾芭蕉の代表作のひとつである。この句は平凡のようにみえるが、たった17音で馬が木槿の花を食べてしまった情景が湧き上がってくる。やはり普通の人にはこういった作品は作れないだろうと思う。

 

 白山神社の前に、「夢舞台東海道」の「小夜の中山白山神社」を発見した。そっと手を合わせる。

白山神社

 

 東路の さやの中山 さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん

 …東国への道中の小夜の中山よ、都を離れてはるか遠くここまで来たが、はっきりとも見えない遠い旅の空の下で生涯を終えることであろうか。

 この人は、もう都には帰れないと思ってこの歌を詠んだのだろうか。新幹線で2時間で関東と関西を行き来できる現代とは違い、昔の旅は命がけだったからな、と考える。

 

 二股に分かれている道があるが、「旧東海道」と書かれている方(左側)を進む。

 

 馬頭観世音を見つけた。

馬頭観世音

 この馬頭観世音は、蛇身鳥(じゃしんちょう)退治に京の都から下向してきた、三位良政卿(さんいよしまさきょう)が乗ってきた愛馬を葬ったところである。そっと手を合わせた。

 

 涼み松広場があった。

涼み松広場

 小夜の中山の夜泣石のあった駅路の北側に大きな松があり、松尾芭蕉がこの松の下で「命なり わずかの笠の 下涼み」と詠んだ。そこからこの松を涼み松と呼び、この周辺の地名も涼み松と呼ばれるようになった。現在、涼み松は残っていない。

 

 「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」

 …早立ちの馬上で馬ともども目覚めが悪く残りの夢を見るようにとぼとぼと歩いている。有明の月は遠く山の端にかかり日坂の里から朝茶の用意の煙が細く上がっている。

 これは松尾芭蕉が詠んだ句で、「野ざらし紀行」に掲載されている。17音で朝の日坂の情景を描けるなんて、すごいことだと思う。

 

 「夜泣石跡」を見つけた。

夜泣石

 妊婦の霊魂が移り泣いたという「夜泣石」が、明治元年(1868年)までこの道の中央にあったが、明治天皇御東幸のときに道脇に寄せられた。同年、東京であった博覧会に夜泣き石が出品され、その後久延寺に移ったという。

 歌川広重東海道五十三次」の「日坂」には夜泣き石が描かれているのだが、確かに道路の真ん中にある。邪魔かもしれないが、道路の真ん中にある状態でも面白かったのではないかと思う。

 

 茶畑の間の道を進んでいく。

 

 そのまま進むと、ヘアピンカーブに差し掛かる。

 このヘアピンカーブは「二の曲り」と言われ、この周辺の地名は「沓掛(くつかけ)」という。この地名は峠の急な坂道にさしかかったところで草履や馬の沓(くつわ)を山の神などに手向け、旅の安全を祈願するという古い慣習に因るという。

 

 「甲斐が嶺を さやにも見しが けけれなく 横ほり臥せる さやの中山」

 …甲斐の白根をはっきり見たいよ、人の気も知らぬげに寝そべっている小夜の中山よ、どいてはくれまいか。

 自然に対して「どいてくれ」は無理な話である。

 

 少し進むと、日乃坂神社がある。

日乃坂神社

 日乃坂神社は峠の西にある事任(ことのまま)八幡宮のお旅所で、大祭の神輿渡御の際に神様が宿泊したところである。そっと手を合わせた。

 

 坂を下りると、また浮世絵が展示されていた。

 この浮世絵は、歌川広重天保3年(1832年)「保永堂版東海五拾三次」に続き、天保13年(1842年)頃に、視点を変えて風景をとらえた「狂歌東海道」の日坂である。

 この絵の狂歌は、

 あたらしく 今朝にこにこと わらび餅 をかしな春の 立場なるらん

 日坂の名物はわらび餅である。

 

7.日坂宿

 「東海道日坂宿へ 安全の為歩道橋を ご利用ください」とあるので、歩道橋を渡って先に進む。

 

 「日坂」のマンホールを見つけた。地区限定のマンホールというのは珍しいと思う。

 

 また、秋葉灯籠を見つけた。秋葉灯籠はこれで何個目かわからないが、説明板付きの秋葉灯籠は初めて見た。

 

 日坂宿の説明板と地図があった。

 日坂宿は東海道の25番目の宿場で、街道の難所「小夜の中山」の西麓に位置する。

 天保14年(1843年)の記録では、本陣・脇本陣のほか、旅籠33軒があり、小さいながらも大井川の川留めのときなどには賑わったようである。

 「夢舞台東海道」の「日坂宿本陣跡」もあった。

「日坂宿本陣跡」

 ここは日坂宿本陣「扇屋」の跡である。

「扇屋」

 日坂宿本陣の屋号は「扇屋」で、代々片岡家が世襲で営んでいた。本陣の敷地はおよそ350坪、建坪220坪、門構・玄関付の建物で、 嘉永5年(1852年)の日坂宿の大火で全焼して再建した。明治3年(1870年)に営業を終了した。

 

 日坂宿の名物「わらび餅」を売っている店を見つけたが、バスの時間もあるので食べなかった。また行く機会があれば食べに行きたい。

 

 問屋場跡を見つけた。

問屋場

 宿場では幕府などの貨客を宿場から次の宿場へ継ぎ立てることになっていて、そのための人馬の設置が義務づけられていた。宿場でこの業務を取り扱う職務を問屋、その役所を問屋場という。

 

 脇本陣「黒田屋」跡を見つけた。

脇本陣「黒田屋」跡

 ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」があった。

 明治天皇が街道巡幸のとき、明治2年(1869年)3月21日と明治11年(1878年)11月2日の2回、ここで小休止をしたようだ。

 

 藤文という建物を見つけた。

藤文

 藤文は商家の屋号である。ここの当主であった伊藤文七は、安政3年(1856年)に日坂宿年寄役になり、万延元年(1860年)から慶應3年(1867年)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めた。

 明治4年(1871年)には日坂宿他27ヶ村の副戸長に任じられた。同年、郵便制度開始とともに郵便取扱所を自宅の藤文に設置、文七は取扱役(局長)になった。

 明治9年(1876年)11月には昭憲皇太后明治10年(1877年)1月には英昭皇太后が日坂宿通過のときに藤文で休憩した。

 文七の孫、文一郎は明治37年(1904年)~明治39年(1906年)、大正6年(1917年)~大正8年(1919年)、昭和3年(1928年)と3期にわたり日坂村村長を務めたほか、ガソリン式消防ポンプを村に、大地球儀を小学校に寄贈するなど村の発展に尽くした。ちなみに、日坂村は昭和30年(1955年)に掛川市編入、廃止されている。

 平成10年(1998年)に文七の曾孫である奈良子さんにより藤文が掛川市に寄贈された。現在は土日祝日のみ公開している。

 藤文の中はこのようになっている。

 

 箱階段がある。

 

 この奥に、日坂小学校創立150周年記念写真展をやっており、古写真が展示されていたが、撮影していいかわからないので載せないでおく。

 

 外には蔵があるが、入ることはできない。

 

 藤文の隣に法讃寺がある。浄土真宗大谷派の寺院である。

法讃寺

 少し進むと、萬屋を見つけた。

萬屋

 萬屋は江戸時代末期の旅籠で、嘉永5年(1852年)の日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建された。

 日坂宿内でも、筋向かいにある「川坂屋」が武士などが宿泊した大旅籠であったのに対して、「萬屋」は庶民が利用した旅籠である。

 中に入ってみよう。

 

 ここの階段は上がれるようなので、上がってみる。

 

 二階は開放的な空間が広がっていた。

 

 筋向いに川坂屋がある。入ってみよう。

川坂屋

 大坂の陣(慶長19年(1614年)の冬の陣と慶長20年(1615年)の夏の陣)で深手を負った武士、太田与七郎源重吉は長松院で手当を受け、その後日坂に住むことになった。

 旅籠屋「川坂屋」はその子孫で寛政年間(1789年~1800年)に問屋役を務めたこともある斎藤次右衛門が始めたと伝えられている。

 現在の川坂屋の建物は嘉永5年(1852年)の日坂宿大火の後に再建されたもの。

 日坂宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を残す数少ない建物の1つである。

 また、川坂屋は脇本陣などという肩書きはなかったようだが、床の間付きの上段の間があり、檜材が使われていることから身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことが考えられる。

 旅籠屋としては明治初期に廃業したようだが、山岡鉄舟巌谷一六西郷従道などの書から推測すると廃業以後も要人には宿を提供していたと思われる。

 平成5年(1993年)まで斎藤家の住居として使われ、平成12年(2000年)に修理工事が竣工、現在に至る。

 

 湯沸かし釜が置いてあるのを見つけた。ここで調理していたのだろうか。

 

 衝立の書を見つけた。

 この衝立の書を書いたのは穂積重胤で、こう書かれている。

 「みずみずし こむらが中に 宿しめて こころぞとはに 清くあるらし」

 これは川坂屋の佇まいを詠んだものらしい。

 

 階段を上がり、二階へ行く。二階の座敷は、もっぱら旅人の宿泊室に使われていたそうだ。

 

 笹の絵が彫ってあった。夕暮れ時はここから光が差し込んで綺麗だとガイドさんが言っていた。

 

 襖に書がたくさんある部屋を見つけた。これは日坂出身の書家、成瀬大域が書いたものらしい。

 

 たまたまガイドさんがそこにいて、箪笥の中にある古い新聞を見せてくれた。

 

 これは東京日日新聞

 「波高し太平洋~米國とその極東政策」という本が宣伝されている。読んでみたい。

 

 今度は國民新聞昭和11年(1936年)6月25日の新聞。

 「對濠通商報復手段 擁護法愈々けふ發動」

 

 今度は静岡國民新聞

 「濱名湖の鰻 千餘貫が斃死」「發見された恐しさ?夫婦を滅多切り 靜岡の高利貸斬事件」など、ローカルな話題が並ぶ。

 

 1階に戻り、上段ノ間を見る。

上段ノ間

 座敷が一段上がっているのは、ここが武士等のなかでも高位の人が宿泊または休憩したときに利用した座敷であることを示している。

 

 この襖の書は、幕末期の幕臣、新政府では明治天皇の側近であった山岡鉄太郎(山岡鉄舟)が書いたもの。

 私が見ても何が書いてあるのかさっぱりわからなかったが、中国の人が川坂屋を訪れたとき、これをすらすら読んだらしく驚いた、とガイドさんが言っていた。

 

 隣の部屋の襖にも書が書かれている。

 これは巌谷一六が書いたもの。巌谷一六は、近江国水口藩の侍医、明治維新後は官吏となり、後に貴族院議員となった人物である。

 

 戸の上には、有穆山の書いた書が飾られていた。有穆山は曹洞宗の高僧である。

 

 川坂屋では、このような戸にも葛(くず)を使った紙が使用されている。葛は掛川の特産品である。山野にはえている葛の蔓をとって繊維にし、布に織ると葛布になる。葛の根は叩き潰し、出てきた汁を天日で干して粉にすると葛粉となり、これに砂糖や抹茶、餡を入れて味付けをし一昼夜乾燥させ、これに熱湯を入れると葛湯になる。

 

 こちらから見ると「川阪屋」、裏から見ると「かはさかや」。京都から江戸方面へ見ると「川阪屋」、江戸から京都方面へ見ると「かはさかや」と書いてあるようだ。GoogleMap等のない時代の、進行方向を知る知恵である。

「川阪屋」

「かはさかや」

 この「関東講」という看板は、「関東講」御用達旅館、ということを意味するようだ。

 

 川坂屋の裏には、明治元年(1868年)に掛川城主太田候から拝領した「元掛川偕楽園茶室」がある。

 この茶室の床柱はツツジでできていて、「水戸偕楽園」の床柱の兄弟柱と言われている。ただ、この水戸偕楽園の茶室(好文亭)は空襲で焼失してしまったため、この兄弟柱は残っていないことになる。

 

 ガイドさんがくずの根を見せてくれた。ここから葛布などができるようだ。

 

 障子にスジが見えるが、この障子の貼り方は「千鳥貼り」「石垣貼り」と呼ばれる珍しい貼り方のようだ。このようなところにもこだわりが見える。

 

 ガイドさんにお礼を言って、川坂屋をあとにする。

 また、秋葉灯籠を見つけた。秋葉神社は防火に霊験があるというので、江戸時代いかに火事が多かったかを知ることができる。

 

 相伝寺を見つけた。相伝寺は浄土宗の寺院である。

相伝

 

 日坂宿の高札場を見つけた。「高札場跡」は見ても高札が再現してあるのは珍しい。

高札場

 幕府や藩の定めた法令や禁令を板に墨書したものを高札、それが掲げられた場所が高札場である。当然、高札場は人目に触れやすい場所、まちの中心に配置される。日坂宿では相伝観音堂敷地内に高札場があったようだ。

 ここには下木戸跡もある。

下木戸跡

 江戸時代、宿場の治安維持のため、東西の入口には木戸が設けられていた。大規模な宿場では観音開きの大きな門があったが、小規模だった日坂宿では川が門の役割を果たしていたようだ。

 

 賜硯堂成瀬大域出生の地を見つけた。

賜硯堂成瀬大域出生の地

 書家、成瀬大域は文政10年(1827年)にここで生まれた。

 42歳のときに上京し、安井息軒の門に入って書を修めた。

 明治12年(1879年)に明治天皇に書を献上したところ楠木正成が愛用した硯をいただいた。このことから庵と自らを「賜硯堂」と称したという。明治35年(1902年)に76歳で亡くなった。

 書を書き始めたのが42歳。なにごとにも遅すぎる、ということはないのかもしれない。

 

 少し行ったところに若宮神社という小さい神社を見つけたが、特に説明板はなし。バスの時間もあるので軽く手を合わせて先を急ぐ。

若宮神社

 

 「夢舞台東海道」の「日坂宿宿場口」を発見。ここが日坂宿の西端だろうか。

「日坂宿宿場口」

 事任(ことのまま)八幡宮の本宮の入口が見えたが、バスの時間が迫っているので登らず。

 

 県道415号線に出て、「ことのまま八幡宮バス停」を見つける。今日はここで終了だ。

ことのまま八幡宮バス停

 少し待つと、バスがやってきたのでこれに乗って掛川駅まで戻る。

 

 掛川駅到着。ここから新幹線で東京に帰る。

掛川駅

 

 新幹線のなかで、掛川駅コメダ珈琲店で買った小倉トーストを食べながら、帰路につく。昼食を食べていなかったので、余計に美味しく感じる。

 

 次回は、ことのまま八幡宮バス停から掛川駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

歩いた日:2023年1月22日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

小杉達(1992)「東海道歴史散歩」静岡新聞社

静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社

風人社(2015)「ホントに歩く東海道 第7集」