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東海道を歩かない 岡崎編

 先日投稿した「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」では岡崎市街地をめぐりつつ東海道を歩いた。しかし同行していた友人が「今日だけだと岡崎で行きたい場所に行ききれないから、また行く必要があるなぁ」と言った。友人も神戸に住んでいるため、そう簡単に岡崎には行けないだろう。今回は3連休で、4月にも取材に行く予定なので1日岡崎をまわっても大丈夫と判断し、「明日、岡崎まわる?」と聞くと友人は嬉しそうに「うん」と言った。今回は岡崎をまわった日の記録である。

 「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」はこちら↓

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1.岡崎城

 岡崎公園前駅の宿を出て、喫茶店で朝食を食べる。朝食をいただいたのは「亀屋」。

 トーストとおにぎりの組み合わせが斬新だと思ったが、美味しかった。

 

 岡崎城へ向かう。

 

 ここで岡崎城について説明する。「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」9.岡崎城 でも説明したため、それを読んだ人は読み飛ばしていただいて構わない。

 岡崎城は、明大寺に屋敷を構えていた三河守護代 西郷頼嗣(さいごうよりつぐ)が、康正元年(1455年)、北方への備えから乙川の北側に砦を築いたことが始まりと考えられている。

 その後、安祥城(あんしょうじょう)を居城としていた徳川家康の祖父・松平清康が、当時岡崎に勢力をもっていた大草松平氏の松平信貞(まつだいらのぶさだ)を屈服させて移り、享禄3年(1530年)頃に本格的な築城を行ったとされる。

 徳川家康岡崎城で生まれたため、岡崎城には家康産湯の井戸がある。天文11年(1542年)12月26日、幼名竹千代、のちの徳川家康がここで産声をあげたときに産湯の水を汲んだ井戸である。

 松平清康の死後、家康の父・松平広忠は、東の今川氏と西の織田氏にはさまれて苦闘し、家康も8歳で今川氏の人質となるほか、広忠は家臣の岩松八弥に城内で殺され、岡崎城は今川方の城となった。

 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い後に自立した家康は岡崎城にはいり、10年後に浜松城に移るまでこの城を根拠地としてほぼ三河一国を平定した。

 家康が浜松に移ってからの岡崎城は、家康の長男・松平信康石川数正、本多重次の各城代時代を経て、家康の関東移封後には豊臣秀吉の家臣・田中吉政が入城し、大規模な城郭の整備拡張が行われた。

 元和3年(1617年)に本多康紀が3層3階地下1階の天守閣を完成させたが、明治6年(1873年)から翌年にかけて取り壊された。

 現在のものは昭和34年(1959年)に復元されたもので歴史資料館になっており、1階が受付、2階から4階で歴史資料などを展示し、最上階は展望台となっている。

 

 東隅櫓を見つけた。

東隅櫓

 東隅櫓は東曲輪に建っている。東曲輪は二の丸の東側に位置し、二の丸に対する防衛機能を担っていた。東隅櫓は平成22年(2010年)に再建されたもの。

 東隅櫓のなかでは岡崎城の発掘調査の様子が紹介されていた。

 

 東隅櫓の下に下りていってみると石垣が復元されている区画がある。東曲輪腰巻石垣だ。

東曲輪腰巻石垣

 東曲輪腰巻石垣は平成20年(2008年)の発掘調査で見つかった石垣で、斜面の中腹と裾部に築かれた二段の石垣である。

 

 本丸の東側と南側に対する防衛機能を担う馬蹄形の曲輪、隠居曲輪には茶店などが出ていた。なぜ隠居曲輪という名前なのだろう。少なくとも今は「隠居」しているふうには見えない。

隠居曲輪

 辰巳櫓台下石垣は岡崎城内で最も完成度の高い石垣で、大きさや形が整えられた石材が布積みで積まれている。特に隅角部の算木積みは精巧に加工された石材を使用し、稜線は直線になるように江戸切りで仕上げられている。隅角部がピシッと直線になっているのがわかる。

 

 この日は、梅が綺麗に咲いていた。

 

 乙川沿いでも石垣が発掘され、一部が展示されていた。

 

 岡崎城に戻る。

 本丸埋門北袖石垣の石材には大型の自然石や割石が使用され、大きさや形はやや不揃いながらも、横方向の目地の一部が揃うことから持仏堂曲輪腰巻石垣より先行する江戸時代前期の構築と考えられている。

本丸埋門北袖石垣

 胞衣(えな)塚を見つけた。

胞衣塚

 胞衣とは出産時に排出された胎盤などのことで、子供の成長と出世を願う習わしから胞衣を壷に入れて埋納、そこに塚や碑が建てられ信仰対象となることもあった。

 ここには徳川家康の胞衣が埋められている…と思いきや、説明板を見ると「徳川家康の功績を広く知らしめるため、昭和11年(1936年)に公園整備の一環として建てられました。」とある。つまりここには徳川家康の胞衣はない、ということになる。

 

 岡崎城内ではいまも発掘調査が続けられているようだった。

 

 この井戸は「家康産湯の井戸」といい、天文11年(1542年)12月26日、幼名「竹千代」、のちの徳川家康岡崎城で産声をあげたとき産湯の水をくんだ井戸とされている。

家康産湯の井戸

 持仏堂曲輪腰巻石垣は、江戸時代前期に構築された石垣で、後世の改修を受けることなく現在まで残る貴重な石垣である。

持仏堂曲輪腰巻石垣

 太鼓門跡。江戸時代には城下に時を知らせる太鼓が置かれていたことから太鼓門と呼ばれていたが、現在は門の石垣を残すのみとなっている。

太鼓門跡

 持仏堂曲輪。本丸北側に位置し、徳川家康が持っていた阿弥陀仏を安置した堂があったことからこの名がついた。

持仏堂曲輪

 廊下橋。

廊下橋

 廊下橋は持仏堂曲輪と天守台をつなぐ橋で、大正9年(1920年)に現在のアーチ型石橋に改修されているが、江戸時代は屋根付きの廊下橋が架けられていたようだ。

 

 清海堀。

清海堀

 清海堀は本丸北側に位置し、本丸と持仏堂曲輪を隔てる堀である。岡崎城の最初の築城者である西郷頼嗣の法名「清海入道」にちなみ名づけられた。

 

 やっと本丸に到着した。

本丸

 本丸は岡崎城の中心部で、松平清康が城主のときに八幡社が建てられていたことから「八幡曲輪」とも呼ばれる。城から北東方向の甲山から延びる丘陵の先端に位置し、西は矢作川、南は菅生川(現在の乙川)に囲まれた天然の要害となっている。

 

 月見櫓は、城主が月見をするために建てられた櫓である。現在は残っていない。

月見櫓跡

 この井戸は「龍の井」と呼ばれている。

龍の井

 康正元年(1455年)に岡崎城が竣成した日と、天文11年(1542年)の徳川家康が生まれた日などの吉兆のたびにここの井戸水が噴出し、龍が現れることからこの名がついたとされる。今後、龍が現れることはあるのだろうか。

 

 天守天正18年(1590年)に城主となった田中吉政により初めて築かれたが、天守台の石垣はこの当時のもので、岡崎城内では最も古い段階の石垣とされている。確かに、石がやや不揃いだ。

 

 岡崎城天守閣。

 岡崎城天守閣は昭和34年(1959年)に復元されたものである。天守閣には「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」9.岡崎城 で入ったので入らない。

 天守閣の前に立派な(邪魔と言ってはいけない)松の木があるが、この松は数か月後に伐採されたようで、伐採した後の写真を友人が送ってくれた。ちなみにこの写真はサムネイル画像にも使用させていただいた。友人、ありがとう。

 やはり、松がないほうがすっきりして見える。

 

2.カクキュー八丁味噌

 岡崎といえば、八丁味噌である。ということで、カクキュー八丁味噌にやってきた。

カクキュー八丁味噌

 岡崎の特産品の八丁味噌は、矢作大豆とよばれた地元の大豆と吉良の塩、さらに花崗岩質の地盤から得られる矢作川の伏流水を使ってつくられた素朴な豆味噌が始まりといわれる。

 戦国時代には三河武士の兵糧として愛用されていたが、徳川家康が江戸に幕府を開いたことで「三河味噌」などの名で知られるようになった。

 いつごろから「八丁味噌」の名が使われるようになったのかは不明だが、味噌が当時の八丁村でつくられていたことからこの名がつけられたとされる。

 安政4年(1857年)に江戸役人が書いた「三河みやげ」にその名が登場しており、幕末にはかなり広い範囲で知られていたようである。

 その後原料の大豆は、西三河だけでなく東三河、関東、東北、九州からも仕入れられるようになり、矢作川を川舟で運ばれて八丁土場に荷揚げされ、帰りの舟で味噌が出荷された。

 このように、海運や舟運の発達によって原料を全国から調達できるようになったことが、その販路を全国に拡大させることにつながった。

 味噌づくりは、ぐり石を積み上げた大きな仕込み桶で行われており、現在は常時450桶以上を使って醸造されている。仕込み桶は吉野杉を使った高さ2mのものである。桶に積まれたぐり石のほとんどは、江戸時代に矢作川上流から運ばれたもので、150個あまりが人の手で桶の上に円錐形に積まれ、その重さは約3tにもなる。

 

 カクキュー八丁味噌の工場見学に参加しようと思ったが、人がたくさん並んでいる。どうやら観光バスのルートにもなっているようで、観光バスからもどんどん人が流れてくる。

 「あきらめて、大樹寺に行こうか」と友人が言ったが、「工場見学は諦めるにせよ、私はお腹が空いている。味噌カツ食べたい。」と私は返し、工場に隣接しているレストランで味噌カツを食べることにした。レストランでも15分ほど待ったが、これは致し方ない。

 注文してしばらく経つと、味噌カツが運ばれてきた。さりげなく味噌汁にも八丁味噌が使われているのがポイント高い。

 カツはサクサク、甘辛いタレがカツに絡むのが絶妙で美味しい。すぐに食べ終わってしまった。

 

3.大樹寺

 中岡崎駅から大門駅まで、愛知環状鉄道に乗って移動する。

愛知環状鉄道

 大門駅からしばらく歩くと大樹寺に到着する。

大樹寺

 大樹寺は文明7年(1475年)、勢誉愚底上人(せいよぐていしょうにん)を開山として松平氏4代親忠により創建された。「大樹」とは、唐名で「将軍」を意味する。

 家康と大樹寺との関係を最もよく伝える話が、桶狭間の戦いのおりのエピソードである。

 永禄3年(1560年)、尾張をめざした今川義元にしたがった松平元康(のちの徳川家康)が、義元の敗死により身の危険を感じて大高城からこの大樹寺に逃れてきた。

 前途をはかなみ先祖の墓前で自害しようとする19歳の元康に対して、ときの住職、登誉天室上人(とうよてんしつしょうにん)が「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」の言葉をあたえて思いとどまらせた。

 この「厭離穢土 欣求浄土」の意味は、「今は私利私欲に満ちた戦国の乱世であるけれども、これを正しい目的をもって住みよい浄土にしていくのがお前の役目である」とされている。この言葉は家康の座右の銘となった。このシーンは「どうする家康」第2話「兎と狼」で描かれ、登誉上人は里見浩太朗が演じた。

 このとき、元康を追って到来した野武士の集団に対して、七十人力といわれた寺僧の祖洞和尚(そどうおしょう)が総門の閂(かんぬき)を手に応戦し、敵を退散させたようだ。

 この閂は家康により「貫木神(かんぬきじん)」と命名され、寺内でまつられている(残念ながら撮影不可)。

 慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍に任ぜられると、将軍家先祖の菩提所として寺格を高めて幕府の手厚い保護をうけ、慶長11年(1606年)には後陽成天皇から勅願所とされ、常紫衣許可の綸旨をうけた。

 安政2年(1855年)に火災が発生し、本堂とそれにつながる主要な建物をことごとく失ったが、その2年後に13代将軍家定により、現在の本堂や大方丈が再建された。

 

 本堂の前には三門がある。この三門は寛永18年(1641年)に3代将軍家光が建立したもので、後奈良天皇の筆による勅額をいただき、上層内部には釈迦三尊像、十六羅鑑像を安置している。

三門

 三門の前には「岡崎市×戦国無双5」の徳川家康のマンホールがある。

 

 本堂の前には立派な鐘楼があり、この鐘楼は家光が建立したもので、梵鐘は9代将軍家重が鋳造させたものである。

鐘楼

 本堂の西には墓地が広がり、その奥に松平氏8代の廟所がある。昭和44年(1969年)に松平広忠(家康の父)の墓に隣接して家康の墓も建てられたのだが…流石に家康の墓にしては新しすぎないか?と思う。

松平家廟所

家康の墓

 境内の南西隅には、伽藍のなかでもっとも古い建物である多宝塔がある。天文4年(1535年)に松平清康(徳川家康の祖父)により建立されたこの塔は、一層が方形、二層が円形をなし、屋根は檜皮葺きで下層に多宝如来像がおさめられている。

多宝塔

 大樹寺本堂に入る。なお、本堂内は撮影禁止のため、文章のみの紹介とする。

 本堂本尊となっている木造阿弥陀如来坐像は、安政2年(1855年)の火災後に京都の泉涌寺から迎えられたもので、平安末期の作とされ、愛知県の文化財に指定されている。

 また火災後の大方丈再建にあたり、京都から大和絵師 冷泉為恭(れいぜいためちか)が招かれて大方丈障壁画47画を描いた。将軍御成りの間の「円融天皇子日之御遊図(えんゆうてんのうねのひのぎょゆうず)」の襖絵などは国の重要文化財に指定されているが、原本は文化財収納庫にあり、公開されているものは復元品である。

 また、先ほどのエピソードに登場した祖洞和尚の閂は「貫木神」として祀られていた。

 元和2年(1616年)に家康が亡くなるとき、「位牌は三河大樹寺に立てよ」との遺言が残され、家康をはじめ歴代将軍の位牌が祀られている位牌堂がある。位牌堂には、初代松平親氏(まつだいらちかうじ)以下の松平氏8代と、家康から14代までの将軍の位牌が安置されている。歴代将軍の位牌は本人の等身大とされ、大きさは以下の通りである。

初代将軍 徳川家康 159cm(享年75歳)

2代将軍 徳川秀忠 158cm(享年54歳)

3代将軍 徳川家光 157cm(享年48歳)

4代将軍 徳川家綱 158cm(享年40歳)

5代将軍 徳川綱吉 124cm(享年64歳)

6代将軍 徳川家宣 160cm(享年51歳)

7代将軍 徳川家継 135cm(享年8歳)

8代将軍 徳川吉宗 155.5cm(享年68歳)

9代将軍 徳川家重 156.3cm(享年51歳)

10代将軍 徳川家治 153.5cm(享年50歳)

11代将軍 徳川家斉 156.6cm(享年69歳)

12代将軍 徳川家慶 154cm(享年61歳)

13代将軍 徳川家定 149.9cm(享年35歳)

14代将軍 徳川家茂 157cm(享年21歳)

 平均身長は152.4cm、江戸時代の男性の平均身長が157cmだからそれと比べるとだいぶ低い。私(158cm)よりも低い。

 位牌のなかでとりわけ小さな位牌が2つあった。5代将軍綱吉の位牌(124cm)と、7代将軍家継の位牌(135cm)だ。家継は8歳で亡くなってしまったため、小さいのは致し方ない。ただ、綱吉は64歳まで生きている。小人症だったのだろうか…?そして、綱吉といえば、あの悪名高い「生類憐みの令」を出した将軍である。こういう無理な掟を決めたのも、背景に身長コンプレックスがあったのでは?と説明板に考察されていた。

 大樹寺御朱印をいただいた。登誉上人の名言「厭離穢土 欣求浄土」と書かれている。

 

 大樹寺小学校内に大樹寺の総門がある。そこから振り返ると岡崎城が見え、これは「ビスタ=ライン」と呼ばれているらしい。もっとも、江戸時代にこの呼称があるとは考えられないので、後世の人がつけたものだとは思う。

大樹寺総門

 

4.伊賀八幡宮

 伊賀八幡宮に向かう途中に明願寺に立ち寄る。

明願寺

 明願寺は浄土真宗の寺院で、宗徧流茶道の宗匠、宗徧が残した唯一の茶室「淇菉庵並水屋(きろくあんならびにみずや)」があるが、普段は見ることはできない。

 

 伊賀八幡宮に到着した。鳥居と神橋がある。

 鳥居は石造明神鳥居。神橋は石造反り橋で橋骨に大きな特徴があり、二重虹梁(にじゅうこうりょう)・大瓶束(たいへいつか)などを用いてつくられ、拳鼻(こぶしばな)の飾りのうえに勾欄(こうらん)をかざっている。

 神橋の向こうに随身門がある。

随身

 随身門(ずいじんもん)は下層が高く、上層が低い2層造りで、軒唐破風や上棟の吹寄垂木、人字型の板蟇股(いたかえるまた)などにこった意匠が見られる。

 門をくぐると、権現造の本殿・幣殿・拝殿や御供所が姿をあらわす。

 ここで伊賀八幡宮について簡単に説明する。

 社伝によると、松平氏4代親忠が、武運長久・子孫繁栄を祈願するため、社を伊賀から額田郡井田村に勧請したことにはじまるようだ。

 永禄9年(1566年)、徳川家康三河守に任じられたことを喜び社殿を造営した。

 慶長7年(1602年)には社領228石を加増して後陽成天皇の宸筆額を奉納し、慶長16年(1611年)にも社殿の造営を命じており、このときに現在の規模がほぼ整ったようだ。

 その後、寛永13年(1636年)に江戸幕府3代将軍家光が100石を加増して社領を540石とし、当時の岡崎城主の本多忠利を奉行に任じて社殿を大々的に造営させたものが、現在の社殿である。

 昭和40年(1965年)から随身門ほか4棟が解体修理されて現在に至っているが、落書きなどを防ぐ目的で社殿の前に柵がつくられ、間近に社殿を見ることができないのが残念でならない。

 柵の向こうから参拝し、御朱印をいただいた。

 

5.甲山寺

 甲山寺へ向かう途中に六供配水場があった。

六供配水場の配水塔

 大正の岡崎市は、都市化の進展に伴う人口増加で生活汚水が増加し、伝染病の発生状況が深刻だった。

 そこで市民の生活を守るため、ここに六供浄水場が建設され、昭和8年(1933年)に岡崎市最初の浄水場として給水を開始した。

 六供浄水場矢作川の伏流水を水源とし、標高54.5mの高台にある場内に水を送り、浄化したあと配水塔へポンプアップし、自然流下式で市街地に配水していたが、平成24年(2012年)に役目を終えた。

 配水塔とは、水を貯めて周辺の水道管に配水するための建物である。

 この配水塔は昭和9年(1934年)に建てられ、外壁下部は板状の花崗岩を張りつけ、上部はモルタル仕上げに線を引き、石を貼ったかのように見せている。

 配水塔に絡まるツタは、太平洋戦争中に植えられたもので、グレーの外壁にツタをめぐらせることで迷彩柄に見せようとしたようだ。ツタは季節とともに色合いを変える。

 

 甲山寺に到着した。まずは秋葉堂に参拝する。

秋葉堂

 秋葉堂があるということは、秋葉神社の信仰、秋葉信仰があったことを意味する。

 秋葉神社浜松市天竜区にあり、火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓う火伏開運の霊験が最も有名である。

 

 甲山寺の本堂に参拝する。

甲山寺

 甲山寺は、松平清康岡崎城の鬼門の守りのために、安祥から薬師堂とその6坊を移転させたことにはじまる。

 本堂の護摩堂は、家康の父の松平広忠が家康をさずかったことを喜んで建立したものといわれている。

 甲山寺の背後には甲山八幡宮があり、そちらも参拝する。

甲山八幡宮

 甲山八幡宮をあとにして南に進むと、すぐ籠田公園に到着する。

 籠田公園は「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」でも登場した公園である。

籠田公園

 籠田公園からすぐの岡崎市観光協会に向かい、岡崎宿の御宿場印とマンホールカードをもらう。昨日も内藤ルネのマンホールカードをいただいたので、「これ、昨日のと何が違うの?」と友人に聞かれた。よく見てみると、道の駅藤川宿でもらったものは背景が紫、岡崎市観光協会でもらったものは背景がピンクなので別物である。

「道の駅藤川宿」のマンホールカード

 歩いていたら、東海オンエアの「ゆめまる」のマンホールを見つけた。

 東海オンエアは岡崎市に拠点を置く6人組Youtuberで、岡崎市内7か所に東海オンエアマンホールが設置してある。以前、道の駅藤川宿前に「としみつ」のマンホールが設置してあったのを目撃した。

 

「としみつ」マンホール

 

 このあとは備前屋でおみやげを買い、夕食に向かった。ちなみに買ったのは「銘菓 あわ雪」。

あわ雪

 「あわ雪」は明治元年(1868年)に3代目が創作した和菓子である。あわ雪の名は、岡崎宿の名物であった「淡雪豆腐」にちなんでつけられたものである。

 あわ雪は砂糖と寒天、卵白で作った和菓子で、宿に戻ったあとで食べたが不思議な食感がして、淡い甘さが美味しかった。

 

 夕食はこちら。岡崎公園前駅の目の前にある「大正庵 釜春 本店」。

大正庵 釜春 本店

 私はここで味噌煮込みうどんを注文した。

味噌煮込みうどん

 冷えた体に八丁味噌が染み渡る。美味しい。

 このあとは宿に戻り、明日の「東海道を歩く」に備えることにした。

 それにしても岡崎は、東海道を歩いていなければ行くことを思い立ちもしない場所だったと思う。流石家康生誕の地、家康関係の史跡が多かった。そしてどこも初めて行く場所だったので、見つけたものも多かった。

 さあ、明日は岡崎公園前駅から知立駅まで歩こう。

今回の地図

歩いた日:2024年2月11日

【参考文献】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社