前回、二川駅から札木停留場まで歩いた。今回は札木停留場から御油駅まで歩こうと思う。これまでは東海道本線沿線を歩いてきたが、ここから宮宿(名古屋)までは名鉄名古屋本線沿線を歩いていこうと思う。
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1.湊町神明社
今日は友人が同行するので、豊橋駅で待ち合わせをする。ちなみに友人は神戸から青春18きっぷを使い鈍行で来たらしい。朝からすごい。
札木停留場から西へ進むと、吉田宿本陣跡がある。
天保14年(1843年)の記録によれば、清州屋与右衛門家と、江戸屋新右衛門家の本陣2軒が並び、街道の南側には脇本陣の枡屋庄七郎家もあった。
吉田宿本陣跡にうなぎ屋の「丸よ」があり、吉田宿の御宿場印はここで配布している。しかし営業時間外だったのでもらうことはできなかった。
ファミリーマート豊橋上伝馬店のある交差点を右折して進むと吉田宿西惣門がある。ここが吉田宿の西端だ。
入河屋のある交差点で左折して進むと、松尾芭蕉の句碑があった。
「寒けれど 二人寝る夜ぞ 頼もしき」
厳しい寒さの夜ではあるけれど、二人で寝ると心強いという意味の句である。
湊町神明社に到着した。
慶安2年(1649年)、3代将軍徳川家光から朱印地10石の安堵をうけ、以降代々徳川家の保護をうけていたという。
このあたりは吉田御薗とよばれた。御薗(みその)とは伊勢神宮の所領だった場所のことを指す。つまり古くから伊勢神宮とのかかわりの深い地域だったことになる。
湊町神明社の御衣祭(おんぞまつり)は、伝承によると桓武天皇の頃に八名郡大野の生糸(赤引糸)を、服部宮の神主が渥美神戸の名で伊勢神宮に奉納していたことに起源をもつ祭りである。
元和元年(1615年)以降の神事では、まず静岡県浜松市北区三ヶ日町にある初生衣(うぶぎぬ)神社で赤引糸を荒妙(あらたえ。目の粗い織物)に織る。
それを唐櫃(からびつ)におさめ行列を整え、本坂峠、吉田の深川稲荷を経て湊町神明社に運ぶ。このときに吉田の女たちが晴れ着で着飾り、歌いながら町を歩き、祭りを行う。
その後、「太一御用」の幟をたてた行列が船町河岸に至り、舟で荒妙を伊勢神宮に運び、奉納したという。
この祭りは明治初期に中断されたが昭和25年(1950年)に再興された。昭和43年(1968年)からは5月14・15日に実施され、浜松と豊橋のおんぞ奉賛会の人たちが、ここからバスで移動、伊良湖港からフェリーで鳥羽に渡り、伊勢神宮に荒妙を奉納するようになったようだ。
湊町神明社の境内には湊築島弁天社があり、これは寛政7年(1795年)に建てられたもの。
2.豊橋
豊橋のあたりは江戸時代、吉田湊として豊川舟運の終点であり、伊勢や江戸への航路の起点として栄え、当時、三河における最大の湊だったという。
豊橋は江戸時代には「吉田大橋」と呼ばれていた。
吉田大橋は幕府が修理・架け替えを直営する重要な橋だったという。
吉田大橋の起源ははっきりしないが、元亀元年(1570年)に酒井忠次が関屋口から下地に土橋をかけたのが始まりとされる。
橋は江戸時代に何度も架け替えられ、元和3年(1617年)から明治2年(1869年)までの間に30数回も架け替えたという。
吉田大橋は橋の上から吉田城が眺められるなど景色がよく、江戸時代には東海道の名所として浮世絵の題材にしばしば取り上げられた。
歌川広重の「東海道五十三次 吉田」にも吉田大橋が描かれている。
吉田大橋は明治11年(1878年)に「豊橋」と名を変え、大正5年(1916年)にはアーチ型の鉄のトラスト橋に架け替えられ、豊橋市のシンボルになっていたが、自動車時代に対応することができず、昭和61年(1986年)に現在の橋へと架け替えられた。
ちなみに、豊橋のひとつ上流の橋の名前に「吉田大橋」は残されている。
豊橋から豊川の流れを見る。寒いが、いい眺めだ。
とよばし北交差点で左折して進むと右手側に「豊川稲荷遥拝所」がある。ここが東海道から豊川稲荷に通じる道の分岐点だ。
妙厳寺、通称「豊川稲荷」は嘉吉元年(1441年)に東海義易が開いた寺院である。商売繁盛・家内安全・福徳開運を願い、全国から年間数百万人の参拝者が訪れるという。その信仰は江戸時代も変わらない。
豊川稲荷、有名な稲荷ということでいつか行ってみたいと思っているが、なかなか行く機会がなく行けずにいる。
聖眼寺の境内に、松葉塚がある(境内は無断撮影禁止のため、山門のみ)。
松葉塚には松尾芭蕉の以下の句が刻まれている。
「松葉(ご)を焚て(たいて) 手拭(てぬぐい)あふる 寒さ哉(かな)」
この句は貞享4年(1687年)冬に、松尾芭蕉が愛弟子の杜国(とこく)の身を案じて渥美郡保美の里を訪れる途中、聖眼寺に立ち寄って詠んだ句である。
この松葉塚は再建もので、明和6年(1769年)に植田古汎らが近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の土を譲り受けて再建したものである。再建ものでも摩耗して字は読めず、拓本を取ることは禁止されていた。
3.瓜郷遺跡
聖眼寺を出て先に進むと下地一里塚跡を見つけた。日本橋から数えて74里目の一里塚だが、石碑のみが残っている。
しばらく進み、橋を渡る少し前で右折すると瓜郷遺跡がある。
瓜郷遺跡は、豊川河口近くの沖積平野に成立した弥生中期から後期にかけての低湿地遺跡である。
ここは昭和22年(1947年)から行われた江川の改修工事に伴い発見され、5回にわたる発掘調査の結果、大規模な集落遺跡であることが判明した。
弥生時代の地表は現在よりも1mほど低かったようで、当時の人々は少し高いところに集落をつくり、谷状の湿地帯を水田として利用していたと考えられている。
この遺跡からは鋤や鍬などの木製農耕具、磨製石器や骨角器、土器などに加え、黒く炭化した籾も発見された。
弥生時代の竪穴住居が復元されており、ここが遺跡であることを示していた。
出土品は豊橋市美術博物館に展示されているらしい。機会があれば見に行こう。
現時点で12時頃なので、豊橋魚市場にある「おひさま」というカフェで三色丼を食べた。流石魚市場にあるカフェ、新鮮で美味しかった。
豊橋魚市場の近くに、豊橋市と豊川市のカントリーサインがあり、豊橋市に別れを告げた。
豊川市に入って直後、豊川放水路と善光寺川を橋で渡る。風が冷たく、寒い。
橋を渡ると、小さな石碑と「子だが橋」の説明板がある。そこには恐ろしい話が記されていた。
この近くに菟足神社(うたりじんじゃ)がある。
およそ1,000年前、菟足神社では人身御供の風習があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があった。
ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の村人の前を若い女性が通りかかった。若い女性は父母に遭う楽しさを胸に秘めていた。しかし不運なことに、若い女性は贄狩をしていた村人の娘だった。
村人は「どうしようか」と苦しむも、「子だがやむを得ない」と娘を生贄にしたという。それ以降この橋のことを「子だが橋」と呼ぶようになったという。
現在は女性を生贄にすることはできないので、12羽の雀を生贄にしているという。
「子だがやむを得ない」と娘を殺した父の気持ちはいかほどであっただろうか。想像するだけで胸が痛くなる。
4.菟足神社
このマンホールは小坂井町のマンホールである。小坂井町は平成22年(2010年)に豊川市に編入し、廃止された。平成の大合併にしては少し遅めだ。
菟足神社(うたりじんじゃ)の鳥居が見えてきた。鳥居は元禄4年(1691年)に吉田城主が寄進したもので、鳥居の脇にある灯籠は文化元年(1804年)に奉納されたもの。
菟足神社の祭神は菟上足尼命(うなかみのすくねのみこと)。
菟足神社は白雉元年(650年)に孝徳天皇の勅命により柏木の浜に建立されたが、のちに現在地に移されたという。
菟上足尼命は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の4世の孫にあたり、雄略天皇によって穂国(ほのくに)の国造に任命された。
菟足神社の祭りのひとつ、風祭は今昔物語集や宇治拾遺物語にも記載されている伝統のある祭りである。
そして菟足神社にはなでうさぎがいる。かわいい。
菟足神社の収蔵庫には大般若経が所蔵されている。これは585巻が現存し、平安時代につくられたものとされる。
奥書によれば、藤原宗成の立願によって、安元2年(1176年)3月から治承3年(1179年)8月にわたって書写されたものとされる。書くのもすごいが、残っているのもすごい。
菟足神社の社務所は営業しておらず、御朱印は300円を賽銭箱に納めていくセルフ方式だった。
菟足神社をあとにして踏切を渡ろうとすると飯田線が走り抜けていった。
小さなお社を見つけた。灯籠には「秋葉山」と書かれているので秋葉灯籠だ。
秋葉信仰とは秋葉神社に対する信仰のことで、秋葉神社は防火に霊験があったことから江戸時代は盛んであった。秋葉灯籠は秋葉信仰から建てられたものだ。
東海道を進んでいくと、伊奈村立場茶屋がある。
伊奈村立場茶屋は吉田宿と御油宿の中間にあり、ここに立場茶屋(休憩所)があった。今は石碑だけが残る。
現在13時半。「やっと半分か」と友人が呟いた。
伊奈村立場茶屋から先に進むと、右手側に迦具土神社(かぐつちじんじゃ)がある。
祭神は迦具土神(かぐつちがみ)。迦具土神は秋葉神社の祭神で、火の神である。それだからなのか、境内に秋葉灯籠が設置されていた。
5.速須佐之男神社
迦具土神社から先に進むと伊奈一里塚跡を見つけた。ここは日本橋から75里目の一里塚だ。現在は石碑のみ残る。
速須佐之男神社に到着した。
速須佐之男命(はやすさのおのみこと)を祭神とする神社である。
ここにも秋葉山常夜燈が設置されており、秋葉信仰が盛んな地域だったことがわかる。
豊川市のマンホールを見つけた。
豊川稲荷のキツネ、市の木のクロマツと市の花のサクラ、本宮山と豊川が描かれたマンホールだ。
桜町ひろばに「若宮白鳥神社遥拝所」を見つけた。遥拝といっても、国道1号線を挟んだ向かい側に若宮白鳥神社はあるのだが…。
「あめ」と書かれ、てるてるぼうずが手をつないだかわいらしいマンホールを見つけた。
この先で一部東海道が寸断されている場所があり、迂回する必要が生じた。迂回しているときに、「いなりん」のマンホールを見つけた。
いなりんとは豊川市のマスコットキャラクターで、キツネと豊川いなり寿司を合体させたキャラクターである。豊川市宣伝部長にも就任している。
305キロポストを見つけた。気づけば日本橋から300kmを超えていた。
国府町薮下交差点から旧道に入る。今度は豊川、豊川稲荷のキツネ、クロマツが描かれたマンホールを見つけた。
大きな秋葉山常夜燈を見つけた。寛政12年(1800年)に造立されたもの。
この秋葉山常夜燈には説明板もついていた。説明板付きは珍しい。
ここで、友人が行きたがっていた三河国総社へ行くため寄り道する。
足元に豊川市の市章入りマンホールがあった。
周囲にカタカナの「ト」を4つ並べ、中心に「川」をデザインしている。「ト4川」というわけか。
6.三河国総社
三河国総社に到着した。
律令時代、国を治めた人を国司といい、国司の役所は国府、または府中と呼ばれた。
「倭名類聚抄」には「三河国の国府は宝飫郡(ほおぐん。現在の宝飯郡)にあり」と記されている。当時の宝飯郡は、現在の豊川市の大部分を指しているといわれる。
平安時代になると、国司の役所の近くに各郡の諸社を一社に集めて総社とし、国司はここに参拝して国内の主要神社への巡拝にかえるようになった。
三河国総社には58もの神社が祀られているという。すごい。
三河国府跡の調査も進み、平成8年(1996年)の発掘調査で総社の北東50mにある曹源寺本堂跡から大型の建物跡が確認された。
この建物跡は東西23m、南北16mの大きさを持つ国府の正殿遺構であることが判明している。
国府のあるこのあたりは古代の官庁街で、この近くには三河国分寺跡・三河国分尼寺跡もある。しかし東海道から離れていくので今回は行かなかった。
曹源寺のお堂はあったが、近々取り壊す予定らしく、本尊等は既に運び出しているようだった。
東海道に戻り、先に進むと薬師堂瑠璃殿を見つけた。
その昔、母親の死を嘆き悲しむ娘がいた。その娘のもとに行基が泊まりに来て、薬師如来を作り、娘に渡した。その後娘がお堂を建てた、という説明が書かれていた。
慶長年間、2人の素封家が「近くの土中に大悲の尊像が埋もれている。掘り出してお堂を建て安置すれば村はますます繁栄するだろう」という夢のお告げを受け、示された場所を掘ってみたら身の丈1寸8分の観音様が現れた、という伝説がある。
境内には松尾芭蕉の句碑もある。
「紅梅や 見ぬ恋作る 玉すだれ」
紅梅が美しい家に玉すだれがかかっている。
王朝文学の装置が揃っているこの家には未だ見ぬ住人が住んでいるのかもしれない。
そう思うとその人にそこはかとない恋心さえ感ずるから不思議なものだ。
…なかにいるのは女性とは限らない気もするが。
国府の守護社である守公神社に行こうとしたが、地元の人が何やらイベントをやっていたのでやめておくことにした。
東海道に戻り、大社神社へ向かう。
大社神社の祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)。
7月の最終土・日曜日に行われる祭礼は「国府夏祭り」といわれ、4町内がそれぞれ山車をだし、明治中頃の仮装行列が発展した歌舞伎行列を行い、にぎわうという。
そして神社の裏に「大社神社忌避期間遥拝所」とあったが…忌避期間とは何だろう?
7.御油の追分
大社神社を過ぎると、御油一里塚跡を見つけた。江戸から76里目の一里塚だ。
県道368号線との交差点に「これより姫街道」という看板と、「秋葉三尺坊大権現道」「國幣小社砥鹿神社道」という石碑がある。御油の追分である。
「姫街道」というワードを覚えている人はいるだろうか。
そう、「東海道を歩く 24-2.袋井駅~磐田駅 後編」の6.西光寺 に出てきたあの「姫街道」だ。
姫街道とは東海道の見付宿から市野宿、気賀宿、三ケ日宿、嵩山宿と、浜名湖北岸を迂回して御油宿へと通じる東海道の脇往還である。
姫街道という呼び名は俗称で、江戸時代までは公的には「本坂通」と呼ばれ、見付宿から入るルートと浜松宿から入るルートがあった。浜松宿側からの入口は「東海道を歩く 25.磐田駅~浜松駅」で紹介している。
18世紀初頭の大地震による津波や高潮の影響で浜名湖の今切の渡しが使えなくなると、多くの人が姫街道を通るようになった時期もあったというが、今は人通りもまばらだ。
姫街道も、いつか歩いてみたい。
そして石碑から秋葉神社や砥鹿神社へも通じる道であることがわかる。
先に進むと、高札場跡がある。
高札場とは、江戸時代に法令などを書いた札を掲示した場所で、人目につきやすい場所に設置された。
そしてこの高札場の写真に見覚えがあるな、と思ったら前回の「東海道を歩く 29.二川駅~札木停留場」の2.二川宿本陣資料館に登場した高札場の写真だった。
和菓子屋の「おふく」がある交差点を左折してまだ東海道は続くが、今日は右折して御油駅に向かい、これで今日の東海道ウォークを終わりとした。
次回は御油駅から藤川駅まで歩く。
【おまけ】
距離的にそろそろ食べ納めだろうか、と思いつつ浜松の遠鉄百貨店のさわやかに向かった。
整理券を取り、友人と星乃珈琲店で焼き菓子を食べつつ珈琲を啜った。
閉店時間の確認ミスにより星乃珈琲店を出てからも待ち時間があまり、さわやか近くのベンチに移った。
呼び出し時刻となり、いつも通りサラダとライス、そしてげんこつハンバーグ、パフェを注文した。
店員さんが熱々の鉄板の上に置いたげんこつハンバーグを持ってきた。
私の前でハンバーグを2つに切り、鉄板に押し付けて焼き、オニオンソースをかけた。
友人は「シズル感のある写真を撮りたい」と言い、写真を撮るのに熱中していたが私は待ちきれず先に食べてしまった。
うまい。
うますぎる。
距離的に厳しくなってきているのはわかるけれど、何度だって食べたくなるハンバーグ、それがさわやかだ。
そしてさわやかはデザートが美味しいことを忘れてはならない。
友人は「食べきれなそう」と言いハンバーグのみを頼んだが、私はデザートも頼んだ。店員さんが気を遣って「スプーン2つお持ちしましょうか?」と聞いてきたので、2つスプーンを持ってきてもらいシェアすることにした。
今回頼んだのは三ケ日みかんパフェ。
三ケ日みかんのさわやかな酸味と甘味が混ざり合い、とても美味しかった。
さわやかの余韻に浸りながら豊橋の宿へ戻り、明日に備えることにした。
歩いた日:2023年12月23日
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【参考文献・参考サイト】
愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」山川出版社
風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第9集」
風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第10集」
ぐるっと豊川 いなりんについて
https://www.toyokawa-map.net/inarin/000272.html
豊川市 市章
https://www.city.toyokawa.lg.jp/smph/shisei/shinogaiyo/shisho.html
ぐるっと豊川 国府観音
https://www.toyokawa-map.net/spot/000282.html
(2024年1月22日最終閲覧)