「お写ん歩書房」の石井建志さんにお誘いいただき、「渋谷の凸凹地形体験の集い(第2回)」に参加してきた。
「渋谷の凸凹地形体験の集い(第1回)」はまちあるきオンリーだったが、今回は石井さんが案内するまちあるき→本橋先生が案内するまちあるき→本橋先生と佐藤先生の講演会の3部構成だった。もちろん、このあと懇親会もあった。
ちなみに前回「渋谷の凸凹地形体験の集い(第1回)」の内容はこちらから読めます。
1.駒場野公園
今日は10時半に駒場東大前駅に集合した。参加費を払い、本橋信宏さん(以下、本橋先生)が著した「東京の異界 渋谷円山町」を受け取った。
集合したら、駒場野公園に向かう。
駒場一帯は台地で、かつては駒場野と呼ばれ、笹が一面に生い茂り、ところどころに松林などがある原野が広がっていた。そのため古代から中世にかけて東国武士たちの軍馬の放牧地として利用されてきた。江戸時代になると、鳥や獣が数多く生息する駒場野一帯は、鷹狩り場となった。
かつてこの地域一帯に明治11年(1878年)、東京帝国大学農学部の前身である駒場農学校が設立され、札幌農学校とともに農業技術指導者の育成にあたった。
オスカー・ケルネルは、ドイツからのお雇い外国人で、この田んぼを利用して化学肥料の試験調査を行った。
都心に田んぼが残っているのは珍しく、今も近隣の筑波大学附属中学生・高校生が田植えを行っている。
2.旧前田家本邸
駒場野公園をあとにして、旧前田家本邸に向かう。
旧前田家本邸には、和館と洋館がある。まず、和館に向かう。
外国からの賓客に日本文化を伝えるために、昭和5年(1930年)に竣工した木造2階建の近代和風建築で、迎賓のほか、前田家の四季折々の行事にも利用された。
外観は、玄関側の北面は破風屋根が重なる重厚な意匠とし、庭側の南面は京都の銀閣寺を思わせる姿となっている。
和館に入ると、大廊下が出迎えてくれる。
大廊下の両端に設けられた杉戸には、接客空間と日常空間を分ける結界としての役割がある。
杉戸に描かれた花鳥図は、明治期を代表する日本画家・橋本雅邦によるもの。
約40畳ある続き間で、部屋境は筬欄間(おさらんま)と襖障子で仕切られている。
上座である御客間は、大振りの床の間、鳥居型の違い棚、明障子付きの付書院を供えた書院造となっている。
縁側の向こうには、和館庭が広がっている。
和館の南に面した池泉庭園である。
前田侯爵は、外国から客人があったときだけに、池に水を流したという。
もっとよく見たかったが、20分で洋館も見て集合しなくてはならなかったので写真だけ撮った。
ここは入側といい、書院造で濡れ縁と座敷の間の一間幅の通路である。
このほか、茶室もあるが、一般公開はしていなかった。
続いて、旧前田家本邸・洋館を見る。
留学や駐在武官としてヨーロッパ滞在の長かった前田利為侯爵は、駒場本邸(洋館)を内外の賓客をもてなすにふさわしい邸宅として、昭和4年(1929年)に竣工したが、当主一家の住居でもあった。設計は高橋貞太郎。
靴を脱ぎ、中に入るとサロンがある。
玄関ホールに続く、お客様を最初に通す待合である。
意匠が玄関ホールと共通で、大きな梁を見せる天井と、黒緑色の大理石のダブルの柱が重厚さを演出する。
暖炉脇の暖かな小さなスペースをイングルヌックというらしい。ここでは、大階段下の窪みを利用した小さな談話室のような空間で、マントルピースとステンドグラスの窓を備え、造り付けソファの背上に三連アーチの飾り棚を設けている。
小客室は大客室と続き間になっていて、必要に応じて引戸で仕切ることができる。
大客室とはシャンデリアや壁紙の意匠が同じだが、マントルピースは小ぶりで明るい色調の大理石を使用している。
大客室はお客様にくつろいで過ごしてもらうための部屋で、部屋のそこここに座り心地のよいソファーやティーテーブルが配され、室内には絵画や美術品、珍しい観葉植物などが飾られていた。
大食堂は晩餐会のための部屋で、最大で26人のディナーが可能だったようだ。巨大な白大理石のマントルピースが部屋の中核で、その周囲を古典的な文様の金唐紙で飾っている。
小食堂は家族の食事に使われた。東庭にテラスを張り出し、全面にカットガラスをはめた扉にしている。壁一面に食器棚が設えられ、部屋の隅には地下の厨房から料理を運ぶための小型エレベーターがあった。
洋館と和館を繋ぐ渡り廊下は、洋館側が洋風意匠、和館側が和風意匠となっていて、中央のテラス段のところで意匠が切り替わる。残念ながら、通ることはできなかった。
大階段を登って2階へ向かう。
ステンドグラスが美しい。
ここは菊子夫人のための化粧室で、広い押入が2つ付属していた。そのためかマントルピースはなし。円弧状の張り出しに三連アーチの窓を配した優美な部屋で、天井の縁廻しシャンデリアも優美である。
女中溜は資料展示コーナーとなっていた。
女中溜は奥女中が、裁縫やお茶を整えたり、様々な準備を行うための部屋で、「お溜り」と呼ばれていた。今は畳が撤去されているが、かつては畳の部屋だった。
洋館と和館のフロアガイドが展示されていた。
廊下には金沢の伝統工芸作品が展示されている。
女中溜から少し戻ると寝室があった。
前田利為侯爵夫妻の寝室で、壁紙は金銀の色彩である。枕元の壁龕(へきがん)には前田家当主の守り刀が置かれており、その両脇の小窓は透かし彫りを施した豪華なもの。ベッドやキャビネット等の家具の多くはロンドンの高級家具店、ハンプトン社で誂えたもの。
寝室の隣に、浴室がある。
手前が洗面室、奥がバスタブと洋式トイレを備えた浴室である。現在はバスタブ等は撤去されている。
寝室の隣(浴室の反対側)には夫人室がある。
菊子夫人の居間で、家族団欒の場でもあった。鏡付きの優美なマントルピースには小菊模様のグリルをはめ、三連アーチの窓や格子天井も優しい雰囲気である。カーテンや絨毯は紫色で、壁紙も華やかなダマスクの大柄を用い、邸内でもっとも華麗な部屋であったという。
夫人室の隣には、次女居室がある。
書斎の附属室として計画された部屋で、壁一面に書棚が造り付けられている。青いタイルのマントルピース、天井の星形の中心飾り、十二角形の変わった意匠のシャンデリアが特徴的。
次女居室の隣に、書斎がある。
前田利為候の書斎で、邸内で最も重厚な雰囲気の部屋である。マントルピースのグリルには龍が浮き彫りにされ、ここが高貴な人物の部屋であることを示している。
書斎の隣には長女居室がある。
ここは第一客用寝室として計画されたが、長女の居室として使われた。2室に仕切ることもできる広い部屋だ。カーテンは書斎と同じだが、壁紙や絨毯の柄は、可愛らしいものに替えたようだ。
長女居室の隣に情報コーナー(旧浴室)があり、その隣に三男居室がある。
ここは予備の客用寝室として計画されたが、三男の居室として使われた。男子は、日常は大久保邸で教育を受けていたため、本邸にいる時間は少なかったようだ。
会議室は前田家の評議員が集まった会議室で、利為候が陸軍の部下を招いて宴会を行うこともあったという。当時在隊していた青年将校によれば、利為候はよく部下を食事に招いて懇談したり、記念品を贈って労をねぎらったりしたらしい。
さらに奥に進むと女中室がある。
1階に戻ると、第一応接室を見忘れていたことを思いだしたので寄った。
第一応接室は侯爵夫人や令嬢のお客様が通されていた応接室だ。白いタイルでできた背の高いマントルピースが特徴で、床の寄木細工も華やかさを添える。当時は、ダマスク柄の壁紙に、ダマスク柄の黄色いカーテンがかけられていて、明るい雰囲気の部屋だったようだ。
以上で旧前田家別邸・洋館を見終わった。途中、20分で見るのは無理と判断されたのか、5分集合時間が延長されたが、それでも部屋の写真と解説の写真を撮って回るので精一杯だった。今度はじっくり見に行きたい。
3.東京大学
昼食をとるために、東京大学へ向かった。
駒場にあった東京帝国大学農学部が、大正末期に本郷・向丘・弥生町に移転した跡に、入れ替わりに向丘の第一高等学校が移ってきて、第二次世界大戦後この旧制一高を母体として現在の東京大学教養学部ができた。
いちょう並木を歩く。時期になったら綺麗なんだろうなあ。
「東京大学 通信」と書かれたマンホールを見つけた。大学名が書かれたマンホールがあるなんて、流石東京大学だ。
このマンホールは見つけたとき「おっ!」と声をあげてしまった。一高下水マンホールだ。
「第一高等学校」は昭和25年(1950年)に廃止されたので、73年以上前に設置されたマンホール、ということになる。
東京大学には古いマンホールがある、という情報は知っていたが、本当に見たのは初めてで、あまりにも嬉しかったので「ここに第一高等学校時代に設置されたマンホールがありますよ」と他の参加者の人に教えてしまうほどだった。みんなびっくりして、こぞって写真を撮っていた。
東京大学教養学部旧第一高等学校本館は、昭和8年(1933年)に建設された。
東京大学に入ることができれば、ここで学ぶことになったのか。もっとも、そんな頭はないが。
ここで参加者みんなで記念撮影をした。
それから昼食を食べるために学食に向かったが、最初に行った学食が開いてなかったので、構内のイタリアントマトで昼食をとった。昼食休憩は30分だったので、食べるのが遅い私は急いで食べたら10分余ってしまった。
早めに集合場所に向かい、ほかの参加者の方と話したところ、イタリアントマトの向かい側の学食は営業中だったことが判明した。学食だったらカレーが食べたいな、と思っていたので少し残念に感じたが、機会があればまた食べにくればいいか、と思った。
4.東電OL事件
神泉駅で、本橋先生と合流した。神泉駅前の喫茶店「カフェ・ド・ラ・フォンテーヌ」は、この後の講演会の講師を務める佐藤先生が経営する喫茶店だ。店内には昔の渋谷の写真が飾ってあるらしい。機会があれば行ってみたい。
フォンテーヌはフランス語で「泉」を意味するため、神「泉」であり、その由来となる弘法湯のもととなった泉のことだろう、と考えた。
佐藤先生の曾祖父は、このあたりで湧いていた冷泉を沸かし、「弘法湯」の経営をしていたという。弘法湯の隣接地に神泉館という料理旅館を併設開業し、これが円山花街・料亭街のはじまりとなる。
この冷泉を沸かして温泉にして入ることを薦めた高僧が背負っていた弘法大師の像は、1970年代半ばまでは神泉駅前に祀られていたが、その像は何者かによって盗まれてしまったため、現在はそこに弘法大師の像が刻まれた石碑が残るのみである。
本橋先生の案内が始まった。まず行ったのは古びたアパートだ。
ここは東京電力勤務・39歳女性管理職の遺体が発見された現場だ。
東電OL事件。平成9年(1997年)3月19日夕方、東京電力に勤務する39歳の女性の遺体が発見された事件である。
東京電力といえば言わずと知れた大企業である。彼女は慶應義塾女子高校、慶應義塾大学経済学部を卒業後、東京電力に入社、企画部経済調査室副長にまでなっていた、キャリアウーマンだった。
高校までは地元の進学校に進めたものの、高校でうつと不登校になり、GMARCH当たり前の高校だったためコンプレックスを抱きながら駒澤大学に進学、就活でも落とされまくって中小企業に落ち着いた私からしたら心底羨ましい境遇である。でも、それだけ勉強もしたのだろう。
そんな彼女に、裏の顔があった。これだけ勝ち組街道を歩いていた彼女でも、円山町で「たちんぼ」というフリーランスの娼婦をやっていたのである。そこである日交わった男性に絞殺されたという。犯人は発見現場の隣のアパートに住んでいたゴビンダという男だと思われて逮捕されたが、平成24年(2012年)に遺留物のDNA鑑定によりゴビンダのものではないと判明し、釈放されたという。真犯人は現在も見つかっていない。
平成8年(1996年)生まれの私からしたら0歳のときの事件で知っているはずもないため、今回初めて知った。
そして、「なぜ勝ち組街道を歩いていた彼女がたちんぼに走ったのか」という心理も不明である(彼女が亡くなっているから確かめようがないが…)。私が思うに、彼女は自分を大切にできなかったのではないかと思う。
なお、この遺体発見現場のアパートには現在も外国人が住んでいるという。まあ、日本人はここに住まないわな…。
円山町はラブホテルが多い。このHOTEL TWO-WAYもその類のホテルだ。
ホテルに入り、「休憩」を済ませた後、男女が別の方角に出られるためこの名前がついたという。
HOTEL ペリカン。これは「東京の異界 渋谷円山町」の表紙にも写っているホテルである。
5.円山芸者
おでん割烹 ひで。
ここは芸者さんを呼べる料亭である。
最盛期には円山町に420人も芸者がいたようだが、現在は4人しかいないようだ。
「東京の異界 渋谷円山町」によれば、おでん割烹ひでで芸者さんを呼ぶと、料理・飲み代別で1時間1万円ほどらしい。祇園の舞妓さんとお酒を飲むとしたらもっとかかりそうなので意外とかからないとは思った。
割烹 三長。ここも芸者さんを呼べるのだろうか。
道玄坂地蔵尊。このお地蔵さんは約300年前建てられた玉川街道と大山を結ぶ33番霊所の1番札所のお地蔵さんである。
ここでよく「東電OL」はたちんぼをしていたようだ。
流石円山町、その手の「ホテル」が多い。1人で歩く勇気は昼間でもない。
ここに古びた民家があったそうだが、現在は取り壊されて駐車場になっていた。
この民家は元料亭で、昭和20年(1945年)に建てられたものだったと、「東京の異界 渋谷円山町」に書いてあった。その本に登場するこの古びた民家の主のおじいさんは、今も生きているのか、非常に気になる。
円山町の坂を下る。洒落た建物がある。その手のホテルだろうか。
円山町の「休憩」のスタンダードは4時間らしい。他のその手の「ホテル」の休憩時間をまじまじと見たことがないので他のスタンダードかはわからない。
しぶや百軒店。かつてはここが渋谷の中心街だったらしいが、今ではどう見ても渋谷駅周辺に取って代わられている気がする。
それっぽい写真を撮っていなかったので文章だけの説明とするが、「乳児が飲むもの」を大人に飲ませるサービスもこのあたりにはあるらしい。世の中にはいろいろな趣味の人がいるものだな、と思っていたが、「飲ませている」間は待機中のママが飲ませている人の子供の面倒を見るので、子供が小さいうちでも働ける、と「東京の異界 渋谷円山町」で紹介されていた。そういう考え方もあるのか、と思ったが、そこまでして働きたいか、は微妙だなと感じた。
このようなまちあるきのため、途中で参加者の人に「ブログ書かれているんですよね?このまちあるきもまとめる予定ですか?」と聞かれたので「まとめるつもりですよ」と答えた。そこで、「…これはどうまとめるおつもりなのでしょうか?」と聞かれた。そこまで考えてなかったので「どうまとめましょうかねえ」と返したが、意外とすらすら書けているというのが本音である。「東京の異界 渋谷円山町」を読んだのも大きいかもしれない。
6.渋谷道頓堀劇場
「道頓堀」と書かれた大きい看板があった。渋谷道頓堀劇場だ。
渋谷道頓堀劇場は今も残るストリップ劇場だ。最近は、アジア系外国人が東京観光で来ることもあるらしい。なんでも、アジアでストリップ劇場があるのは日本だけらしい。
「渋谷道頓堀劇場、男性は5,000円しますが女性は3,000円で入れますよ!」と本橋先生は言っていたが、行く勇気はちょっとないかもしれない。
…それにしても。なぜ「道頓堀」なのか。せめて「道玄坂」じゃないのか。
「東京の異界 渋谷円山町」によると、店主は「道玄坂劇場」で店の看板を発注したが何を間違えたのか「道頓堀劇場」と作られてきたらしい。ネオン看板は作るのに時間がかかり、造り直させたらオープンに間に合わないので「道頓堀のほうが有名だから、いいか」ということで「道頓堀劇場」になったらしい。今だったら始末書もののミスだと思うが、昔はそういうところはおおらかだったのだろうか。
7.千代田稲荷神社
「名曲喫茶ライオン」は昭和元年(1926年)開業。クラシック音楽を鑑賞するための喫茶店なので、大声での会話はできないらしい。
この近くにある「ムルギー」も気になる。昭和26年(1951年)創業の老舗のカレー店である。カレーは大好き、職場が神保町なので多くのカレーを食べた私としては非常に気になるので今度渋谷に行く機会があればぜひ食べたい。
「名曲喫茶ライオン」の通りに千代田稲荷神社がある。
千代田稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、長禄元年(1457年)太田道灌江戸城築城のとき守護神として伏見稲荷を勧請したのを創始とする。
稲荷の神はもともと農業の神であり米一粒が何倍にも増えるように広く殖産の神としてあがめられ、諸産業の守護神としてあらゆる職業の人に信仰されているようだ。
そっと手を合わせておいた。
LOFT9はトークライブハウスのほか、インディーズ映画も上映している。実は日本映画監督協会も円山町にあるらしいので、「渋谷は映画の街でもある」と説明していた。
映画館で映画を観て気持ち悪くなってしまったことがあるので、もう映画館は10年くらい行っていないが、久しぶりに行ったら平気だったりしないだろうか、と思った。もっとも、数ヶ月待てばDVDが出て家でゆっくり観られるといえばそうなのだが…。
ここで本橋先生とのまちあるきパートは終わりで、講演会会場に向かう。途中、道玄坂を通った。
道玄坂は、和田義盛の子孫大和田太郎道玄がこの坂に出没したから、とする説や道玄庵という庵があったからという説があるが、名前の由来は定かではない。
与謝野晶子の歌碑を見つけた。
「母遠うて 瞳したしき 西の山 相模か知らず 雨雲かゝる」
与謝野晶子は大阪府堺から上京し、渋谷道玄坂の近くに住んで、与謝野寛と結婚した。多忙な日々のひとときに、道玄坂の上から相州の山々を眺め、その方向にあたる堺の生家を思い、母親を懐かしんでいた。そこからこの歌が生まれたのだろう。
講演会では、佐藤先生が昔の渋谷と今の渋谷のスライドショーを流したり(この写真は撮影禁止だったため記録はなし)、本橋先生が著書「東京の異界 渋谷円山町」にちなんだ話をした。なかなか興味深い内容であった。
このあとは懇親会会場に向かう。佐藤先生が案内してくれる路地を歩く。こんな路地はまず通ることはないだろうし、昼とは違う円山町の顔を見た気がした。
懇親会会場はここ、龍盛菜館。
やはり歩いた後のビールは美味しい。
お通しでピータンが出てきた。「ピータンは好き嫌いが分かれる味」と聞いたことがあったので恐る恐る口にしたが、どんな味がしたかあまり覚えていないくらいにインパクトが薄かった。ほんのりとした臭みとしょっぱさがあった気がする。
卓ごとで料理を取り分けて、食べた。途中、本橋先生に著書にサインをしていただくイベントがあり、サイン本をゲットした(ブログでは本名を公開していないため、本名部分は隠しています)。
帰る方向が一緒の人と一緒に帰った。そして、渋谷駅で「かわいいので声をおかけしました」とナンパに遭った。「今急いでいるので!」と言って逃げたが、おじさんと歩いていたのになぜナンパに遭ったのだろうか…?(そして、一緒に歩いてた人でこれに気づいた人もいて、「今の、もしかしてスカウトですか?」と聞かれる。)こんなのに答えていたら、それこそ、円山町にまた行くことになっていたかもしれない。ナンパは無視が得策とはいうが、なぜか毎回無視できず「今急いでます!」と答えてしまう。
前回はまちあるきオンリーだったが、今回はまちあるき、講演会、さらに「東京の異界 渋谷円山町」を読んで、渋谷の深い世界を知ることができた気がした。
歩いた日:2023年1月28日
【参考文献】