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東海道を歩かない 浜松編

 今日は、舞阪駅から新居町駅まで東海道を歩いた。しかし14時に新居町駅に着いてしまった。先に進むには遅すぎる時間、帰るにも早すぎる時間…どうするか、と考えたところ、せっかくなので浜松市街地を少し見てみよう、と思った。

 「東海道を歩く 27.舞阪駅新居町駅」はこちら↓

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1.引間城跡

 浜松駅から浜松城までは歩いて30分ほどだが、あまり時間がないこと、そこまで歩く元気があるか微妙だったので浜松駅からバスに乗った。

 市役所前バス停で降り、元城町東照宮へ向かう。

 その途中の「ドッグルハウス」が入っている建物のところに、「家康公ご住居跡」の説明板を見つけた。

「家康公ご住居跡」

 徳川家康は永禄11年(1568年)から遠江国に馬を薦め、飯尾豊前守の城だった引間城を開かせ、永禄13年(1570年)に移った。

 この場所は家康が寝起きした引間城主郭の南西角にあたる。

 家康はここに住んで城の普請をして、大きくした城を「浜松城」と名づけ、そちらに移ったという。

 ここでは「引間城」の御城印も販売している。

 ここで引間城について簡単に説明する。

 鎌倉時代の浜松は、「ひきま」と呼ばれる町で、ここから「引間城」という名前がついている。

 戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれた。歴代の城主には、尾張の斯波(しば)方の巨海(こみ)氏、大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがいて、斯波氏と今川氏の抗争のなかで戦略上の拠点となっていた。

 この時代の浜松には少年時代の豊臣秀吉が仕えた松下加兵衛がいた。そして前述の通り、徳川家康が最初に居城としたのも引間城である。

 その後、家康が浜松城へ移り、さらに駿府城に移ると豊臣系の堀尾吉春が住むようになったが、この頃から引間城は浜松城の主要部から外れ、米蔵などに使われるようになったという。

 明治19年(1886年)に引間城跡に家康を祭神とする元城町東照宮を勧請し、現在に至る。

 そういうことで、元城町東照宮に参拝する。

元城町東照宮

 境内には若き日の家康・秀吉の像がある。

 天文20年(1551年)、尾張の農村を出た少年時代の豊臣秀吉が引間城を訪れ、松下氏に仕えるきっかけを得たのはここ、引間城だった。

 元亀元年(1570年)、今川氏から独立を果たした徳川家康遠江を平定し、引間城に住んだという。

 豊臣秀吉徳川家康、どちらにもゆかりのある場所、ということでこの銅像が建てられているようだ。

 「「二公像」と一緒に写真を撮って、SNSにUPしよう!」と説明板に書かれていたが、畏れ多くてできなかった。

2.浜松城

 元城町東照宮をあとにして、浜松城に入る。

 ここはだだっ広い広場に見えるが、浜松市営元城プール跡だ。

浜松市営元城プール跡

 浜松市は市制40周年記念事業で市営プールを建設することを決定した。

 昭和25年(1950年)には日本水泳連盟会長の田畑政治が日米対抗の水泳大会の浜松開催を発表し、4ヶ月の突貫工事で50m9コース、12,000人を収容できるプールを竣工させた。開設記念として8月8日には日米交歓水上大会を開催した。

 日本代表は古橋廣之進、橋爪四郎、浜口喜博等が、米国側はジェームズ・マクレーン、フォード・コンノ等世界的スターが登場して会場を沸かせたという。

 試合後には田畑の計らいで日米の選手たちは弁天島の旅館に宿泊、浜名湖で遊んだという。

 田畑政治は水泳指導者で、昭和7年(1932年)のロサンゼルスオリンピックなどで日本代表の監督を務めた。平成31年・令和元年(2019年)に放送された大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」にも登場し、阿部サダヲが演じた。

 

 「ようこそ出世の街浜松へ」という看板があった。

「ようこそ出世の街浜松へ」

 「出世大名家康くん」は徳川家康がモデルである。家康は浜松城に17年居城し、天下統一を成し遂げたことから「出世大名」とつけられているようだ。今年(令和5年・2023年)の大河ドラマ「どうする家康」の主人公でもある。

 「出世法師直虎ちゃん」は井伊直虎がモデルである。井伊直虎は出家したあと、徳川四天王として出世した井伊直政を育て、女城主として井伊家断絶の危機を救ったことから「出世法師」とつけられているようだ。平成29年(2017年)に放送された大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公でもある。

 浜松城大手通り(国道152号線)に挟まれたところに浜松市役所がある。

浜松市役所

 さあ、浜松城へ登っていこう。

 

 この坂を登るところに、鉄門(くろがねもん)があったようだ。

鉄門跡

 鉄門は、文字通り、扉や柱など門の一部に鉄製の部材を使っていた門だったと考えられている。本丸への正面出入口として重要な門で、門の上部に櫓を有する櫓門だった。

 明治5年(1872年)まで鉄門は存在していたが、その後失われてしまったようだ。

 鉄門の隣には、復元石垣がある。

復元石垣

 この石垣は、平成26年(2014年)に行った発掘調査によって発見された。

 発見された石垣は、自然石を利用して積み上げた野面積(のづらづみ)で、石を横長に配置し、横につなぎ目が通るようにする布積みといわれる技法がみられる。

 遺構の保護をはかりつつ、平成30年(2018年)に石垣が整備された。

 

 坂を登っていくと、若き日の徳川家康銅像を見つけた。

若き日の徳川家康

 天守門に入る。天守門の脇にほかの石垣よりも大きい石が使われているのがわかるだろうか。これが鏡石だ。

天守

 鏡石は、城の壮大さや城主の権力を見せるため、門の両側や周辺に意図的に大きな石を使ったと言われており、彦根城太鼓門櫓などにも使われている技法らしい。

 

 天守門の下に、ややわかりづらいが瓦で作られた排水溝がある。これは平成21年度(2009年)の発掘調査で見つかったもののようだ。

排水溝跡

 浜松城天守閣に到着したので、ここで浜松城の解説をする。

浜松城天守

 徳川家康は元亀元年(1570年)から17年間浜松に住み、岡崎城から浜松城へ本拠地を移したときに「引間」という地名を「浜松」に改めたという。この17年間は武田信玄と対決した三方原の戦いで負けたり、織田信長に嫌疑をかけられ正室の築山殿と長男信康を失うなど、苦しくもあったが有力大名へと雄飛をとげた時期でもあった。

 浜松城は、家康の関東移封(天正18年・1590年)後に城主となった豊臣系の堀尾吉春・忠氏父子によって大規模な改修が行われ、修築はその後も続けられた。

 天正年間(1573~1592年)にほぼ完成したと推定される浜松城は、天守台から東に向かい、本丸・二の丸・三の丸としだいに低くなる梯郭(ていかく)式とよばれる構造である。また、天守天守曲輪とよばれる小さな曲輪に築かれたことも特徴である。

 江戸時代にはいると、浜松城主は代々譜代大名が務め、浜松城は出世城と呼ばれるようになった。それは大名から老中、大阪城代京都所司代寺社奉行など幕府の要職を務める人を多くだしたからである。そのなかでも天保の改革を行った水野忠邦は有名である。

 明治維新跡、城郭は取り壊されたが、昭和33年(1958年)に天守閣が再建された。

 浜松城で特徴的なものは、野面積みの石垣である。野面積みとは自然のあるがままの石を使い、接合部を加工しないで積む石垣の積み方である。野面積みの短所としては隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいこと。長所は水はけがよく、水圧で崩れることがなく頑丈であることだ。

 浜松城に登る前に小さな稲荷神社を見つけたので、参拝してから登城する。

稲荷神社

 浜松城に入ると、まず井戸を見つけた。これは復興天守閣建設時の発掘調査で見つかったもの。小銭がいっぱい入っているが、人はこういうものを見ると小銭を入れたくなるものなのだろうか。

井戸

 甲冑が展示されていた。左は三葉葵紋入り甲冑(複製品)、右は本多家に伝わっていた甲冑で、室町時代から安土桃山時代にかけて作られたものらしい。

 

 引間城と浜松城に関する出土品が展示されていた。引間城の出土品は16世紀のもの、浜松城の本丸南側の堀や御誕生場の井戸からの出土品は家康在城期と推定されている。

引間城と浜松城に関する出土品

 こちらは譜代大名浜松城に関する出土品。瓦には城主を務めた大名の家紋が施されたものがみられる。

譜代大名浜松城に関する出土品

 

 こちらは浜松城下町の出土品。浜松の市街地には、いまも中世から近世にかけて構築された城下町の痕跡が埋もれているという。

浜松城下町の出土品

 こちらは2代目城主、堀尾吉春の浜松城に関する出土品。堀尾吉春は浜松城に初めて本格的な瓦葺き建物を建設したと考えられている。出土品のなかには、豊臣政権とのつながりを示す桐紋の鬼瓦が見られるようだが、この瓦は壊れてしまっている。

堀尾吉春の浜松城に関する出土品

 ここにあるものは葵の御紋が入っているので、徳川家が使ったものだろう。

 

 浜松城は明治時代に廃城となり、その後は市街化していたが、昭和23年(1948年)に浜松城内に元城小学校が移転したことを皮切りとして、昭和25年(1950年)以降、行政や文化・スポーツに関わる施設が集中して建設、昭和33年(1958年)に復興天守閣が建築された。

 昭和54年(1979年)に競技用プールが解体され、動物園や体育館も移転、平成30年(2018年)には元城小学校も転出した。

 平成26年(2014年)には天守門が再建され、現在の浜松城公園浜松城の歴史を活かした公園整備が進められているという。

 ちなみにこれは復興天守閣・浜松城の設計図である。

浜松城設計図

 階段を上がると、天守閣の最上階だった。ここから浜松市街地を見下ろすことができる。

 ちなみに目の前の大きな葵の御紋がデザインされている公園は二の丸跡である。

 

 階段を下り、売店浜松城の御城印と浜松宿の御宿場印を買った。ちなみに浜松宿の御宿場印は東海道沿いで売っているところはない。

浜松城御城印

浜松宿御宿場印

 天守閣をあとにして、天守門へ向かう。

天守

 天守門は幕末まで維持されていたが、明治6年(1873年)に解体された。天守門が復元されたのは平成26年(2014年)のことである。

 天守門のなかに入ることもできる。

 柱盤(ちゅうばん)を土台として本柱が立ち、その上に梁と桁が架け渡され、束柱で屋根材を支えているのがよくわかる。

 天守門の瓦も出土しており、展示されていた。

天守門の瓦

 反対側から浜松城の山を下りていくと、埋門(うずみもん)跡があった。

埋門跡

 この道は搦手筋(からめてすじ)と呼ばれ、有事のときの脱出経路として設定された道である。

 埋門は石垣の間に埋まるような構造をした門なのでこう呼ばれた。搦手筋が脱出経路なので、埋門は目立たない構造で造られたようだ。

 

 天守を囲う天守曲輪の石垣は斜面上半部にだけ石が積まれているので、「鉢巻石垣」と呼ばれるものらしい。

 

3.浜松市美術館・大河ドラマ

 浜松城の山から下りると、浜松市美術館がある。

浜松市美術館

 浜松市美術館では「新・山本二三展」がやっていた。展示の撮影はNGなので、撮影OKの場所に展示されていたパネルを載せておく。

 山本二三(やまもとにぞう)は昭和28年(1953年)、長崎県五島市出身。

 中学卒業後、岐阜県の夜学高校で建築を学んだ後上京し、美術系専門学校在学中からアニメーションの背景画の仕事を手掛けるようになる。

 テレビアニメ「未来少年コナン」で初めて美術監督を務め、「天空の城ラピュタ」「火垂るの墓」「もののけ姫」などでも美術監督を務めた。

 平成30年(2018年)には五島市に「山本二三美術館」がオープンした。出身地の五島列島の風景画も数多く描いていて、それも展示されていた。

 最後の展示品が浜松城を描いた描き下ろしの作品だったのでまだ生きているのだと思ったが、私が訪れる1週間前の令和5年(2023年)8月19日に胃癌で亡くなったという。

 吸い込まれるような絵が数多く展示されていた。まだ70歳だったようなので、まだまだ生きて作品を生み出してほしかったなぁ、と思った。

 

 浜松城の山の反対側、二の丸跡に向かうと「どうする家康 浜松 大河ドラマ館」の隣に令和2・3年(2020年・2021年)の発掘調査によって発掘された石垣が展示されていた。

 この石垣は天守曲輪の石垣と共通性があり、堀尾氏が築いた石垣と想定されている。

 

 「どうする家康 浜松 大河ドラマ館」に入る。

 「どうする家康」は令和5年(2023年)に放送されている大河ドラマで、徳川家康を主人公としている。主人公の徳川家康は元男性アイドルグループ・嵐のメンバーだった松本潤が演じている。

 

 まず、「どうする家康」の作中でも使用された出丸はね上げ門が展示されていた。

出丸はね上げ門

 作中で使用された小道具も展示されていた。これは第7回「わしの家」で使用された、徳川家康織田信長から改名を求められたとき、「家康」としたためた書である。

 

 これは撮影で使われた「出丸見張り小屋」。外に作って見晴らしを確保し、敵が来たら真っ先に打って出て迎撃するための最前線基地である。

出丸見張り小屋

 徳川家康の衣装も展示されていた。藍色のムラ染めの小袖と袴に、袖なしの羽織である。これは平時着ていると設定したらしい。

 

 こちらは阿部寛演じる武田信玄の衣装。深みのある赤で染めた水衣で、強そうな印象を受ける。

 

 ほかにも松本潤をはじめとする出演者のサインや、松本潤の浜松旅行の風景などが展示されていたが、これらは撮影禁止だった。

 撮影セットなどの展示がメインの施設のため、博物館として歴史的遺物を求める人にとっては物足りない施設だが、「どうする家康」ファンや松本潤ファンなどは楽しめる施設だと感じた。

 

 徳川秀忠が誕生したと言われる御誕生場の井戸があった。井戸枠は発見されていないが、模擬的に設置してある。

御誕生場の井戸

 ここは二の丸御殿跡。二の丸御殿は政務を行う「表御殿」と城主が暮らす「奥御殿」があり、ここは奥御殿にあたる。廃城時まで存在していたという。

二の丸御殿跡

 二の丸跡には「出世の街 家康SHOP」というお土産屋もある。私はここで浜松銘菓・うなぎパイを購入した。

出世の街 家康SHOP

うなぎパイ

 うなぎのエキスをパイ生地に練り込んで焼き、最後に蒲焼のようにたれを塗って仕上げたパイである。サクサクしてとても美味しい。

 もう17時半になっていたので、市役所前バス停から浜松駅方面に帰ることにする。

市役所前バス停

 今日は浜松餃子を食べたいと思った。

 浜松餃子の特徴はゆでもやし、スパイスなどで味付けされた具、シンプルな具材である。

 余談だが、大学のサークルの2つ下に宇都宮出身の後輩と浜松出身の後輩がいて、「彼らの前で餃子の話題は禁止」と言われていたのを思い出す。

 歩き疲れたので、とりあえずプレミアムモルツを頼む。

 やはり歩いた後のビールは美味しい。

 

 しばらくすると、浜松餃子御膳が運ばれてきた。

 この浜松餃子御膳の驚愕すべきポイントは、コスパである。

 餃子12個、ライス、スープ、サラダ、デザートがついて1,200円(税込)。

 

 もちろん、餃子は美味しい。

 

 餃子を頬張り、ビールで流し込む。この組み合わせは最高だ。ビールと餃子の組み合わせを考えた人に拍手を贈りたい。

 幸せの余韻に浸りつつ、翌日は会社なので新幹線で東京に帰ることにした。

 

 浜松は新幹線で何度も通過しているのに、ちゃんと観光したのは初めてだった。これからも東海道は続き、これからもこういう街に出会えるのかと思うと、ワクワクしてくる。

今回の地図

歩いた日:2023年8月27日

【参考文献・参考サイト】

静岡県日本史教育研究会(2006) 「静岡県の歴史散歩」 山川出版社

絵映舎 山本二三プロフィール

https://www.yamamoto-nizo.com/about

(2023年10月16日最終閲覧)

東海道を歩く 27.舞阪駅~新居町駅

 前回、浜松駅から舞阪駅まで歩いた。今回は舞阪駅から新居町駅まで歩こうと思う。舞阪宿から新居宿までは1.5里(約6km)と短めだが、その次の白須賀宿に休日動いてるバスがなく新居町駅から二川駅まで歩く必要があるため、今回は新居町駅で早めに切り上げて、残った時間で少し浜松観光をした。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.舞阪の松並木

 今日は舞阪駅からスタートだ。

舞阪駅

 舞阪駅南口を出たら左に進み、突き当たりで右折すると舞阪駅南入口交差点に出る。ここで東海道と合流する。

 旧舞阪町のマンホールを見つけた。

舞阪町マンホール

 舞阪町は平成17年(2005年)に浜松市と合併して廃止された。このマンホールは町の木「マツ」がデザインされ、中央に舞阪町章がある。舞阪町章は「マ」をデザインしたものらしい。

 舞阪町の町の木はマツ、と考えながら歩いていると、息をのんだ。

 目の前に立派な松並木が広がっていたのである。

 東海道といえば松並木である。今までも小さな松並木ならいろいろ見てきた。

 この松並木は慶長9年(1604年)、江戸幕府が街道の両側にマツを植えさせたことにはじまり、正徳2年(1712年)の記録では、舞阪宿の東端の見付石垣まで約920mにわたって街道両側の堤上に1,420本のマツがあったという。

 平成12年(2000年)の調査によると約700m、マツは388本にまで減ってしまったようだが、それでも十分立派だ。

 江戸時代の旅人は松並木のなかを歩き、さぞ気持ちよかっただろうと思いながら松並木を歩く。

 

 足元に小さな石碑を見つける。

 歌川広重の「東海道五拾三次」の「日本橋」の絵とともに、「東海道五拾三次 日本橋 起点」と書かれている。「日本橋」の少し先には「品川」、また少し先には「川崎」…。これ、53次全部やるつもりだ。流石に55個(53の宿場+日本橋+京都)の石碑を全部撮るのは骨が折れるので、見るだけにした。

 ちなみに一番大きい石碑だったのは、もちろん「舞阪」。

「舞阪」

 舞阪宿は日本橋から数えて30番目の宿場で、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠28軒の宿場だった。

 石碑を見ながら歩いていくと、「東海道五拾三次 京都 大尾」で締められていた。よし、これで東海道五十三次、歩き終わったぞ!

「京都」

 もちろん、「東海道五十三次、歩き終わったぞ!」というのはウソで、これから舞阪宿に入る。

 松並木の終点には「浪小僧」がいる。

「浪小僧」

 そのむかし、遠州灘では地引網漁が行われていたという。

 魚がとれない日が続いたある日のこと、真っ黒な小僧が網にかかった。

 漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧はこう言った。

 「私は海の底に住む浪小僧だ。命だけは助けてくれ。その恩に、海が荒れたり、風が強くなったりするときは海の底で太鼓を叩いて知らせよう。」

 漁師は小僧を海に戻した。それ以来、天気の変わるときは波の音がするようになったという。

 「海の底で太鼓を叩く」と言ったことから、この像は太鼓を持っているのだろう。

2.白王稲荷神社

 新町交差点で旧道に入るが、そこに白王稲荷神社がある。すごい数の鳥居が連なる。

白王稲荷神社

 白王稲荷神社の祭神は宇迦之御魂大神(うかのみたまのみこと)ほか4柱。

 創建年代は不明だが、慶長9年(1604年)の検地の史料には既に「いなり山」と記載されていたようだ。

 平成11年(1999年)、もとの所在地が災害時避難地として公園になったため、翌年現在地に遷座し、改めて京都の伏見稲荷大社から分霊を迎えたという。

 

 白王稲荷神社に参拝し、少し木陰で涼んでから先に進むと、見付石垣があった。

見付石垣

 見付とは宿場の見張所で、大名などが通るときは番人が立ち、人馬の出入りを監視する場所である。

 この石垣がいつ築かれたのかは不明だが、宝永6年(1709年)の地図には既にあるようだ。

 

 見付石垣の少し先に一里塚公園がある。公園の前には秋葉燈籠が建っている。

秋葉燈籠

 舞阪宿では文化6年(1809年)に大火事に見舞われたため、これをきっかけに火防の秋葉信仰が広がり、秋葉燈籠を建て、秋葉講を組織したという。この燈籠は文化12年(1815年)に建てられたもの。

 

 一里塚公園には、名前のとおり一里塚跡がある。

一里塚跡

 舞阪の一里塚は日本橋から68里(約267km)に位置し、松が植えられていたという。

 

 一里塚公園の道路の反対側には、文久2年(1862年)の舞阪宿の宿場図が置いてある。

3.岐佐神社

 一里塚公園から少し進むと宝珠院がある。宝珠院の前にも秋葉灯籠があり、これは文化10年(1813年)に建立されたものである。

 

 宝珠院は臨済宗の寺院で、明治6年(1873年)には舞阪町初の小学校が開かれたところである。

宝珠院

 宝珠院の隣にある神社が岐佐神社だ。

岐佐神社

 岐佐神社の祭神は蚶貝比売命(きさがいひめのみこと)と蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)。聞いたことのない神様だが蚶貝比売命は赤貝の神様、蛤貝比売命は蛤(はまぐり)の神様である。

 創建年代は不詳だが、平安時代の「延喜式神名帳」にはすでに書かれていた。

 明応7年(1498年)の地震津波により、舞阪の集落は人も家も、海に流された。荒れ果てた砂山の丘に柳の古木があり、そこに流れついた祠には「敷智郡岐佐神社」と記され、舞阪の集落の長、浅野美時は難を逃れた里人とそこに社殿を造り祀った。残った人は近くの松原に集落を作り「三十六屋敷」と呼ばれた。これが舞阪町のもととなった。

 現在の社殿は大正元年(1912年)に建てられたものである。

 

 岐佐神社の境内には赤猪石(あかいし)があり、それにはこのような神話がある。

赤猪石

 大国主命(おおくにぬしのみこと)は、兄弟との恋争いの末、八上比売(やがみひめ)と結婚の約束をした。

 恋に破れた兄弟たちは大国主命を殺そうと、大国主命を手間山(てまやま)に呼び出した。そこで、大国主命の兄弟は「山の上から猪を落とすから、山の下で捕まえろ」と言い、真っ赤に焼いた大石を落とした。

 この大石を受け止めた大国主命は大火傷を負って死んでしまう。これを知って悲しんだ奇稲田姫命(くしなだひめのみこと、大国主命の母)は、天上の神皇産霊神(かみむすびのかみ)に命乞いをする。

 神皇産霊神は、娘神の蚶貝比売命と蛤貝比売命に大国主命の治療をするよう指示する。蚶貝比売命が貝殻を割って白い粉末を作り、蛤貝比売命がそれと自らの体から粘液を出して練ってどろどろした薬を作り、大国主命の体に塗った。すると大国主命の火傷は治り、もとの姿によみがえったという。

 蚶貝比売命と蛤貝比売命は水産・漁業の守り神であるが、この神話から、火傷や病気にも霊験あらたかであるという。

 何にせよ、恋の恨みは恐ろしいと思う話だ。

 

 岐佐神社の社務所を覗くと神社の方がいたので、御朱印をいただいた。

 

4.舞阪宿脇本陣

 東海道に戻ると、本陣跡を見つけた。

本陣跡

 本陣とは江戸時代、公家などの身分の高い人が旅の途中に宿泊・休憩したところで、どの宿場にもあった。

 「本陣」「脇本陣」はどの宿場にもあるので、その跡がある。ただ、「跡」だけで、実物を見たことはまだ一度もない。

 そこで、「舞阪宿脇本陣」が登場する。

舞阪宿脇本陣

 脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊・休憩できないときに利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として営業していた。ちなみにこの脇本陣は「茗荷屋(みょうがや)」という。

 建てられたときは主屋、繋ぎ棟、書院棟で構成されていたが、現在残っているのは書院棟だけである。しかし、東海道のなかで脇本陣が残っているのはここ、舞阪宿脇本陣だけだ。建てられたのは天保9年(1838年)のことである。

 なかに入り、簡単な説明を聞いてからなかを散策する。

 まず六畳間だ。ここには江戸全図が展示されており、この江戸全図は天保10年(1839年)に出版されたものだ。北が右側にあり、ノースアップではないのでいまいちわかりにくい。

六畳間

江戸全図

 続いて八畳間。ここには良寛の歌が書かれた掛け軸が展示されていた。

 「わが宿の 竹の林を うちこして ふきくる風の 音のきよさよ」

 良寛は江戸時代後期の越後国出身の歌人漢詩人である。

八畳間

良寛の掛け軸

 炊事場を見つけた。ここで食事が作られていたのだろう。

炊事場

 続いて下段二の間。ここには女手形が展示されていた。女手形とは女性の関所通過に必要だった手形である。慶応3年(1867年)に廃止されたので、現在は必要ない。

 この女手形には天保15年(1844年)、舞阪宿の問屋を務める伝左衛門の娘が、今切関所を通って白須賀宿まで向かうことが書かれている。

下段二の間

女手形

 隣の下段一の間では、舞阪宿の浮世絵がいくつか展示されていた。

下段一の間

舞阪宿と今切の渡し浮世絵展

「舞阪」

 歌川広重東海道五十三次の「舞阪」では「今切の渡し」を描いている。これについては後述するが、今切の渡しとは舞阪宿と新居宿を結ぶ渡し舟で、浜名湖を通っていた。

 

 これは上段の間。説明はされていないが、一段高くなっているあたり、一番偉い人が宿泊した部屋だろう。

上段の間

 上段の間の奥には、中庭が見えた。

 

 中庭のそばには上湯殿がある。偉い人がここで入浴したのだろうか。

上湯殿

 御厠(おんかわや)。トイレだ。「使用禁止」と書いてあるが、ここで用は足せないと思う。

御厠

 東一の間には浮世絵が展示されていた。中央の絵は「舞阪」と読めるが、左右2つの絵は何を表しているのだろう。

東一の間

 

 東二の間には福山藩主、阿部正弘の「石奇對琴横」と書かれた書と、天保9年(1838年)に作られた鬼瓦が展示されていた。

東二の間

阿部正弘の書

鬼瓦

 東三の間にはいろいろなものが展示してある。例えばこれは嘉永4年(1851年)に発行された大日本細見道中記(上)と安政5年(1858年)に発行された五海道中細見記(下)。特に大日本細見道中記は藤川から浜松までのページが開かれている。今でいう旅行ガイドのようなものだろうか。

東三の間

 

 これは茗荷屋の引札。引札とはチラシ広告のことで、これは江戸時代後期から明治時代初期にかけて発行されたと思われる。

茗荷屋の引札

 これは関札と言われ、大名や公卿などが泊まる標識として旅籠の前に立てた札である。現代なら、総理大臣が泊まっているホテルでも公表しない気がする。

 ちなみにこの関札に書かれている霊鑑寺宮(りょうかんじのみや)という人物は光格天皇の養女らしい。

関札

 昔の人の旅格好が紹介されていた。菅笠(すげがさ)を被り、襦袢(じゅばん)、単衣(ひとえ)、袷(あわせ)を着用、その上に羽織を着る。ボトムスは股引(ももひき)と脚絆(きゃはん)。

 

 二階に上がる階段があるので上がっていくと十二畳間があり、その隣の八畳間の中央には駕籠があった。この駕籠の持ち主は舞阪宿の問屋・名主を務めた那須田又七らしい。

十二畳間

八畳間と駕籠

 舞阪宿脇本陣では「歴史まちづくりカード」を配布している。歴史まちづくりカードとは国土交通省が作成している歴まち認定都市の象徴的な風景写真や歴史まちづくり情報を紹介したカード型パンフレットである。

浜松市の歴まちカード

 静岡県では三島市掛川市伊豆の国市下田市浜松市で配布している。浜松市の配布場所はここ、舞阪宿脇本陣だ。三島市掛川市東海道沿いで、三島市三嶋大社宝物館、掛川市掛川城で配布している。三嶋大社宝物館は三嶋大社に訪問したとき閉まっていたから仕方ないにしても、掛川城は気が付かなかったので悔しい。

 三嶋大社は「東海道を歩く 10.箱根神社入口バス停~三島広小路駅 9.三嶋大社」で、掛川城は「東海道を歩かない 掛川・前編 1.掛川城天守閣」でそれぞれ訪問している。

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 このあとも愛知県の名古屋市「有松・鳴海絞会館」と岡崎市配布場所の岡崎市役所、三重県亀山市「関宿旅籠玉屋歴史資料館」でも配布しているので覚えておこうと思う。

 

5.今切の渡船

 舞阪宿脇本陣をあとにして、秋葉燈籠のある交差点を右折する。この秋葉燈籠は文化10年(1813年)に建てられたものだ。

秋葉燈籠

 ひまわりに隠れていたが、「夢舞台東海道」の「舞阪宿」も見つけた。

「舞阪宿」

 ここに舞阪漁港がある。

舞阪漁港

 江戸時代の旅人はここで今切の渡船に乗って、次の新居宿をめざした。

 船着き場は約100m間隔で3ヶ所あり、それぞれ利用する身分が決まっていた。北雁木(きたがんげ)は大名、本雁木は武士、南雁木は庶民および荷物である。ここは本雁木跡である。

 舞阪・新居間の渡船路は、宝永5年(1708年)以降は1里半(約6km)で、所要時間は2時間ほどだった。

 新居宿には新居関所があり、関所の開門は明け6つ(現在の午前6時頃)、閉門は暮れ6つ(現在の午後6時頃)であり、この時間に合わせて船は運航された。

 渡船の数は120艘とされたが、大規模な通行のときなどは、漁船や浜名湖沿岸、三河国の村々からも船が徴発されたという。

 渡船の権利は、上り・下りとも新居宿の独占状態だった。舞阪宿も収入源とするため、たびたび渡船への参画を江戸幕府に願い出ていたが、認められなかった。

 舞阪では宿の厳しい財政を補うため、文政3年(1820年)に江戸大森の海苔職人から海苔の養殖が伝えられ、主要産業となったという。大森の海苔の話は「東海道を歩く 2.品川駅~川崎駅 後編 3.大森の海苔」で紹介している。

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 ちなみに、ここ本雁木には東西15間、南北20間の石畳が東海道から海面まで坂になって敷かれていたという。

 本雁木の北、北雁木に石畳が再現されている。常夜燈も再現されている。

北雁木

 

 北雁木の道路反対側に那須田又七の顕彰碑がある。那須田又七の駕籠はさっき舞阪宿脇本陣で見た。

那須田又七の顕彰碑

 那須田又七は天明4年(1784年)に生まれ、子供の頃から聡明だった。勉学に励み、16歳で舞阪宿問屋場の書記となり、その後、村役人、宿役人にもなった。

 産業振興に努め、海苔養殖の基盤を作った。飢饉のときには私財を投じて舞阪宿の人々の救済に努めた。

 その人望と功績により苗字帯刀を許され、「袱刀爺爺(ふくさがたなのやや)」と呼ばれたという。

 嘉永3年(1850年)に66歳で亡くなり、8年後の安政5年(1858年)に顕彰碑が建てられた。

 

6.辨天神社

 弁天橋を渡り、弁天島に入る。遠くに浜名大橋が見え、浜名湖で釣りをする人もいる。

弁天橋

 

 普通の民家の一角に、「田畑家の弁天島別荘跡」という説明板を見つけた。

「田畑家の弁天島別荘跡」

 明治の中頃は、海水浴が病気の治療に効果があると信じられていた。明治22年(1889年)に東海道鉄道が全通すると、浜松の資産家たちは弁天島に別荘をもつようになった。田畑家も別荘を作った資産家のひとつだった。

 田畑政治はここにあった別荘で夏と冬の休みを過ごしていたため、浜名湖で泳ぎ、水泳に関心を持つようになった。

 田畑政治は水泳指導者で、昭和7年(1932年)のロサンゼルスオリンピックなどで日本代表の監督を務めた。平成31年・令和元年(2019年)に放送された大河ドラマ、「いだてん~東京オリムピック噺~」にも登場し、阿部サダヲが演じた。

 

 そのまま進むと、左手側に辨天神社がある。

辨天神社

 辨天神社の祭神は市杵嶋毘賣命(いちきしまひめのみこと)。

 宝永6年(1709年)、松葉屋喜兵衛が辨財天を勧請し、小祠を造営し祀った。

 明治6年(1873年)に岐佐神社に合祀されるが、明治23年(1890年)に復活した。

 

 辨天神社にはこのような伝説がある。

 その昔、弁天島のこのあたりは砂州が新居まで続き、「天橋立」のような風景が広がっていた。

 そんな弁天島の美しさに誘われ、ある日天女が舞い降りた。村人は喜び、社を建てるからここに留まってほしいと願ったが、天女は三保の松原のほうへ去っていってしまった。

 なぜ天女が弁天島を去ったのかはわからない。三保の松原のほうが美しかったのだろうか。

 

 辨天神社には神社の方はいないが書置きの御朱印があり、賽銭箱にお金を払うセルフ方式。

 

 辨天神社にはいくつか歌碑がある。

茅原華山の詩碑

 茅原華山の詩碑 「移棹休揺湖底天 芙蓉如夢蘸華巓 不関咫尺海濤壮 白鳥白帆相伴眠」

 「棹を移して揺かすを休めよ湖底の天 芙蓉夢の如く華巓(かれい)を蘸(ひた)す 関せず咫尺海濤(しせきかいとう)の壮なるを 白鳥白帆相伴ふて眠る」

 茅原華山は明治から昭和にわたって活躍した社会評論家・ジャーナリストである。この漢詩は大正15年(1926年)に詠まれ、詩碑は昭和5年(1930年)に建てられた。

 

 こちらは正岡子規の句碑。

正岡子規の句碑

 「天の川 濱名の橋の 十文字」

 正岡子規俳人歌人。この句は明治28年(1895年)の秋に上京したときに、汽車の車窓から浜名湖を眺めて詠んだ作品とされる。句碑は大正14年(1925年)に建てられた。

 

 こちらは松島十湖の句碑。

松島十湖の句碑

 「月や風や 夏しら波の 海と湖」

 松島十湖は浜松市出身の俳人・報徳運動家・政治家。この句は明治41年(1908年)の夏に詠み、句碑は大正元年(1912年)に建てられたと推定される。

 

7.弁天島海浜公園

 辨天神社から弁天島海浜公園に出てくると「ゆるキャン△2 モデル地 弁天島海浜公園」というパネルが目に入った。

 アニメ版ゆるキャン△は一通り履修済みなので、どのシーンでこの弁天島海浜公園が出てきたのか、すぐに見当がついた。

 ゆるキャン△Season2第3話「たなぼたキャンプと改めて思ったこと」で、リンちゃんが元日の夕陽を辨天神社の鳥居から見たシーンだ。

 ちなみにSeason2第2話の「大晦日のソロキャンガール」には矢奈比売神社が出ていて、こちらは「東海道を歩く 24-2.袋井駅磐田駅 後編 2.矢奈比売神社」で取り上げている。

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 弁天島海浜公園沿いには「開春楼」というホテルがあり、ここの日帰り入浴をリンちゃんが利用していたことを覚えている。作中では「弁天楼」と変えられている。

開春楼

 残念ながら現在は日帰り入浴を行っていないようだが、宿泊することはできる。温泉はナトリウム・カルシウム・マグネシウム塩化物泉らしい。機会があれば泊まってみたい。

 

 この日は8月下旬で、海水浴(湖水浴?)客もちらほらいた。

 

 一瞬足だけ浸してみようかとも思ったが、やめておいた。

 

 青い空、浜名湖、浜名大橋のコントラスト。潮の香りをかぎながら、少し寛いだ。

 

 東海道に戻ると、「六十二番」と書かれた道標を見つけた。何を意味しているのかはわからないが、おそらく浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場の道標だろう。ちなみにこの八十八ヶ所霊場の62番は鷲栖院(じゅうせんいん)で、鷲栖院は新居にあるのでこの方角で合っている。

 

 右手側に弁天島駅を見つける。東海道沿いで、ここを起点・終点にできたら楽だろうな、と思ったがここは起点でも終点でもないので素通りする。

弁天島駅

 ここからまた浜名湖岸に向かうと舞阪町観光協会があり、ここで舞阪宿の御宿場印がもらえる(舞阪宿脇本陣ではないんかい)。「東海道をずっと歩いている」と観光協会の人に話すと、「すごいね、頑張ってね」と励まされた。

舞阪町観光協会

舞阪宿の御宿場印

 ここから弁天島遊覧船も出ている。船頭さんに誘われたが、新居町駅まで行かないといけないので断った。

 

 ここから鳥居と浜名大橋を見る。夕陽の時間ではないけれど、ここがリンちゃんが夕陽を見た場所と同じ場所だ。夕陽ならもっと綺麗かもしれないけど、青空の下でも十分綺麗だった。

 

8.湖西市へ入る

 弁天島海浜公園をあとにして国道301号線に出る。ファミリーマートで飲み物を買ってから中浜名橋を渡り、弁天島をあとにする。

 中浜名橋を渡っていたら東海道新幹線が颯爽と走り去っていった。やっぱり新幹線は速いなぁ。

 

 中浜名橋の全長は200m程度だが、それでも結構長く見える。

中浜名橋

 そして中浜名橋を渡ると湖西市に入り、浜松市とはお別れだ。静岡市浜松市、どちらも静岡県にある政令指定都市だが、静岡市は蒲原、由比、興津、江尻、府中、丸子の6つの宿場があったのに対し浜松市は浜松と舞阪だけ。結構すぐに終わってしまった。

 

 「日本のどまん中 はませい」と書かれた石標の後ろには「はませい」という和食レストランがあった。ちなみにはませいのうな重は3,960円。手が出ないなぁ…。

 

 はませいの隣あたりに変な建築物があると思ったら、津波避難タワーらしい。

津波避難タワー

 足元を見ると、湖西市章の入った制水弁があった。湖西市章は昭和47年(1972年)に制定され、「こ」の字を円形にし、波頭で浜名湖を印象付け、湖西市浜名湖上の位置を表しているという。

 

 少し歩くと、また橋を渡る。西浜名橋だ。西浜名橋でも颯爽と走っていく東海道本線を見ることができた。新幹線ほど速くはないが、それでも徒歩よりは速い。

 

 西浜名橋は中浜名橋よりも長く、約530mある。

西浜名橋

 デザインマンホールを見つけた。これは旧新居町のもので、町章、新居関所、町の木のマツ、波と町の鳥チドリがデザインされている。新居町は平成22年(2010年)に湖西市編入して廃止された。平成の大合併にしてはだいぶ遅めの合併だ。

 

 歩いていたら、だいぶボロボロの青看板を見つけた。いつ設置されたのだろうか。

 

 競艇場の「ボートレース浜名湖」の看板を見つけた。私はそこまで興味はないが、職場の競艇好きのおじさんが喜びそうな看板だなぁと思った。

浜名湖ボート」

 「水準点」の標柱を見つけた。二等水準点第2686-1号で、平成15年(2003年)に設置された新しい水準点だが、草に隠れて見えない。

二等水準点第2686-1号

 そのまま歩いたら、新居町駅に到着した。東海道沿いなので、次回始めやすいな、と思った。

新居町駅

 本日の目的地、新居町駅に着いてしまった。現在時刻14時。

 次の白須賀はバス停がないので二川駅まで歩くことになるが、この時間からはきついので浜松市街地を散策することにし、浜松まで東海道本線で戻ることにした。

 次回は、新居町駅から二川駅まで歩く予定である。

 

今回の地図①

今回の地図②

歩いた日:2023年8月27日

このあとの浜松まちあるき記事はこちら↓

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次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

小杉達(1992) 「東海道歴史散歩」静岡新聞社

静岡県日本史教育研究会(2006) 「静岡県の歴史散歩」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第8集」

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第9集」

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2023年10月6日最終閲覧)

江戸三十三観音をめぐる 4.湯島・向丘編

 前回、江戸三十三観音第6番札所の清水観音堂に参拝しながら上野周辺を巡った。今回は第7番札所の心城院、第8番札所の清林寺に参拝しながら湯島・向丘周辺を巡ろうと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.湯島天満宮

 山手線で御徒町駅に降り立ち、都道453号線を西に進むと湯島天満宮に到着する。

湯島天満宮

 縁起によると、文和4年(1355年)2月、湯島の郷民が霊夢をみて古松の下に菅原道真勧進し、文明10年(1478年)に太田道灌が再興した。現在の社殿は明治18年(1885年)に改築竣工した。

 御祭神は学問の神様といわれている菅原道真で、入学試験時期になると境内は入試突破・入学祈願の参詣人で雑踏する。それゆえ、いつ行っても大量の絵馬がかけられている。

 中学3年生の頃、担任の先生が「みんなの合格祈願のために湯島天満宮に参拝してきた」と言った。まだ東京の地理に疎かった私は「先生、九州まで行って合格祈願してきたんだ、すごいな」と思ったが、湯島天満宮は東京都内にあることを知ったのは大学生になってからだった。多分、太宰府天満宮と間違えたのだろう。

 それにしても、今日はなぜか人でごった返していた。どうやら、落語協会の謝楽会が開催されていたらしい。奇縁氷人石の前にも屋台で買ったごはんを食べている人がいたが、奇縁氷人石には気がついていないようだった。

奇縁氷人石

 奇縁氷人石は前面に「奇縁氷人石」、右側に「たつぬるかた」、左側に「をしふるかた」と刻字されている。

 迷子が出ると、子供の名前を書いた紙を右側に貼って探し、見つけた人は左側にその旨を書いた紙を貼って知らせる。

 このような石は一般的に「迷子石」と呼ばれ、都内にいくつか現存しているが、湯島天満宮境内の迷子石が江戸最初のものらしい。

 そういえば、江戸三十三観音第1番札所の浅草寺にも「迷子しるべ石」があった。

浅草寺の迷子しるべ石

 迷子が発生する=繁華街、ということになる。浅草寺は江戸時代から有名な繁華街だったし、湯島天満宮周辺も繁華街だった、といえる。

 湯島天満宮御朱印をいただいた。

 

 湯島天満宮の銅鳥居を見に行く。

銅鳥居

 鳥居は柱に寛文7年(1667年)、同8年の刻銘がある東京都指定有形文化財指定の銅造り明神鳥居である。

 この銅鳥居の石の台座に几号水準点がある。

湯島天満宮の几号水準点

 几号水準点とは明治初期に高低測量を行うために設けた基準となる基準点である。垂直面に刻印されているものと水平面に刻印されているものがあり、これは垂直面に刻印されているので内務省が設置した几号水準点と考えられている。ちなみに水平面に刻印されているものは東京市が設置した水準基標と推定されている。

 湯島天満宮の几号水準点については、同人誌「地理交流広場 第5号」に掲載されている「几号点を訪ねて―上野公園周辺―」でも取り上げているので興味がある人は読んでいただけると嬉しい。

booth.pm

 

2.心城院

 あまり人混みのなかにいても疲れるので、湯島天満宮を天神男坂からあとにするとすぐに、心城院がある。こちらは静かだ。

心城院

 心城院はもともと、湯島天満宮別当寺であった天台宗喜見院の「宝珠弁財天堂」と称していた。

 元禄7年(1694年)、喜見院第3世宥海大僧都が、菅原道真と縁の深い歓喜天弁財天堂に奉安したのが心城院の開基で、この像は慈覚大師円仁作と伝えられている。

 喜見院は明治維新神仏分離令で廃寺となったが、弁財天堂は廃仏の難を逃れたため、「心城院」と名を改め、現在まで法灯を伝えている。

 

 境内には水琴窟がある。水琴窟とは、手水鉢の近くの地中に作りだした空洞のなかに水滴を落下させ、そのときに発せられる音を反響させる仕掛けのことである。水を流してみたら、涼しげな音がした。

水琴窟

 喜見院にはかつて太鼓橋が架かるほどの大きな池があり、亀を放していたので「亀の子寺」と呼ばれていた。

 その後都市化により池の水が抜け、亀の放生が困難となった時期もあったが、平成23年(2011年)に心城院境内に「心字池」を作り、再び亀を放っている。

心字池

 心城院には「柳の井」という井戸がある。

柳の井

 柳の井は水が枯れることがなく、数滴髪に撫でれば髪も心も清浄になり、降りかかる厄難を落としてくれると伝えられている。

 「枯れることのない井戸」が最も役に立つのは、災害時である。

 関東大震災のときに、湯島天満宮に多くの人が避難した。その避難者の命を守った唯一の水が、柳の井の水だった。被災者の命を守った功績により、東京市長から感謝状を受けたという。

 関東大震災といえば、今から100年前、大正12年(1923年)9月1日に起こった巨大地震で、地震そのものだけでなくそれによって起こった火災によって10万人以上が命を落としたという大災害である。人間は水を4日飲まなければ死んでしまうというから、柳の井の水は被災者にどれほどありがたがられたことだろう。

 そして、落語協会謝楽祭と関係があるかはわからないが、心城院は御朱印の応対ができないということで、書き置きの御朱印をいただき、500円を賽銭箱に納めた。

 

3.旧岩崎邸

 心城院をあとにして、都道453号線に出て、天神下交差点で反対側に渡り、不忍通りよりも1本西側の道を北上すると、丘の上に旧岩崎邸が建っている。

旧岩崎邸・洋館

 かつて越後高田藩榊原家の中屋敷であった15,000坪(約49,500㎡)あまりの敷地に、三菱財閥の3代目、岩崎久弥がその本邸として20棟をこえる建物を建設した。

 現在は洋館と和館の一部、それに撞球室(ビリヤードルーム)が残されている。

 ジョサイア・コンドル設計の木造2階建て地下室つきの洋館は、17世紀イギリスのジャコビアン様式を基調としたもので、明治29年(1896年)に竣工。

 角形ドーム屋根の塔屋をもつ玄関の左部分が主屋で、外国人や賓客を招いてのパーティーなど社交場として使用された。

 内部は平日のみ撮影可で、休日は撮影不可。理由はわからないが、最近はYouTuberなどが多く、規制したのかもしれない。

 洋館は1階はホール、客室2部屋と書斎と食堂、2階は客室3部屋と集会室で構成されている。

和館

 和館は書院造を基調としたもので、岩崎家の生活の場として主人以下家族の各部屋などが設けられていた。

 和館は広間、次之間、三之間の3部屋。和館には茶席があり、抹茶と和菓子がいただけたようだが、先を急ぐためスルーした。

庭園

 和館を抜け、庭園に出る。

 この庭も和洋併置式の庭で、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残している。

 これだけ見ると洋風の庭のように見えるが、奥のほうには古そうな燈籠などが残されている。越後高田藩榊原氏時代からあった燈籠かもしれない。

 

 洋館を別アングルから見てみた。美しい。

 

 撞球室を見る。

撞球

 洋館と地下道で結ばれた撞球室もコンドルの設計で、スイスの山小屋風のつくりとなっている。ビリヤードのために専用の建物を建ててしまうなんて、流石お金持ちだ。

 

4.国立近現代建築資料館

 旧岩崎邸の敷地内には国立近現代建築資料館もある。こちらでは「日本の近現代建築家たち」という展示をやっていた。ちなみにこの資料館は撮影可。

国立近現代建築資料館

 

 この「日本の近現代建築家たち」では、12人の建築家の設計図等が展示されていた。吉田鉄郎、岸田日出刀、坂倉準三、前川國男丹下健三、吉阪隆正、大髙正人、高橋靗一、大谷幸夫、菊竹清訓原広司安藤忠雄の12人だ。

 安藤忠雄が設計した「住吉の長屋」は昭和51年(1976年)に竣工された大阪府大阪市住吉区にある住宅の設計図だ。住人がいるため、中に入ることはできないらしい。

 

 これは原広司が設計した「粟津邸」。神奈川県川崎市多摩区にある。これはグラフィックデザイナーの粟津潔が住んでいた家だ。粟津潔は平成21年(2009年)に亡くなっており、現在はアートスペースとして使われているそうだ。

 

 設計図等は展示されておらず、外観写真だけ展示されていたのが丹下健三設計、「広島平和記念資料館」。

 

 広島平和記念資料館は、今年7月に広島に訪れたときに行っていた。

広島平和記念資料館

 昭和30年(1955年)竣工。広島平和記念資料館の展示自体は原爆をテーマとしているだけあって悲惨な印象だったが、この建物のフォルムはすっきりしていると思う。

 あまり記憶に残っていないが、高校時代も広島平和記念資料館に訪れていた。

 修学旅行で仲の良かった友人と一緒に巡っていて、彼女が広島平和記念資料館をデジカメで撮影していたのを覚えている。

 「これ、丹下健三が作ったんだよね」と言っていた。

 その頃の私は建築に興味がなかったので「へえ」といった感想しか言わなかった気がする。

 彼女は学歴を気にする人で、GMARCH当たり前の学校でそれにすら落ちた私はそれを気にして、彼女とは疎遠になってしまった。

 彼女は日本女子大学建築学部を志望していたことは覚えているが、私が大学を言わなかったように、彼女がそこに受かったかも聞いていない。今、どうしているだろう。

 

 思い出語りはその程度にして、国立近現代建築資料館の展示をもう少し見ることにする。

 これはル・コルビュジェが基本設計し、実施設計は前川國男、板倉準三、吉坂隆正の「国立西洋美術館」。私は日本全国の世界遺産を巡りたいと思っているので、「ル・コルビュジェの建築作品」という世界遺産に含められる国立西洋美術館はいつか行きたいと思っている。もっとも、上野にあるので時間を作ればいい話だが…。

 

 そしてこれは昭和3年(1928年)竣工の別府市公会堂で、設計は吉田鉄郎。別府には昨年1月に行ったが、別府市街地は見ていないこともあって行っていない。別府の温泉はよかったし、機会があればそのときに見たい。

 

 私は建築学の学生ではないし、建築に詳しい友人の話を聞いても頭の中にクエスチョンマークが浮かぶくらいには建築の知識はない。

 ただ、これだけ有名な建築物の図面を、無料で見ることができる、ということは、建築学を学んでいる学生なら垂涎する資料館ではなかろうか、と思う。

 

5.横山大観記念館

 旧岩崎邸をあとにして、不忍通りに出る。すると左手側に横山大観記念館がある。

横山大観記念館

 最初の文化勲章受章者、近代日本画史上の巨匠、横山大観明治42年(1909年)からこの地に住んでいた。

 この家が戦災で焼けたあと、昭和29年(1954年)に再建、昭和33年(1958年)に90歳で亡くなるまでここで制作を続けていた。

 ここは大観の完成品と見紛うばかりの習作や下書きを展示している。

 横山大観記念館は2階のみ撮影可で、そこで大観の紹介ビデオが放映されていた。これは2階に展示されていた「正気放光」という作品。複製品で、本物は江田島海上自衛隊が所有しているという。

「正気放光」

 館内にはさまざまな大観の描いた作品が展示されていた。なかでも目を引いたのは「生々流転」という作品。これは長さ40mの大作で、第10回日本美術院展に出展された。しかしその初日、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が起こってしまった。望まれぬ客の来場により、展覧会の会場が大混乱に陥るなか、会場にいた大観は必死に作品を守り、自宅に持ち帰ったそうだ。

 その後、大日本雄辨會講談社が刊行した「大正大震災大火災」という本の表紙の絵を描いている。本のタイトル通り、この絵は関東大震災による激しい火災が描かれている。

 

6.根津神社

 不忍通りを北上し、根津神社入口交差点で左折、そのまま進むと右手側に根津神社がある。

根津神社

 根津神社の祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大山咋命(おおやまくいのみこと)、誉田別尊(ほんだわけのみこと)である。根津神社と呼ばれるようになったのは明治時代からで、それ以前は根津権現社と呼ばれていた。

 創建年代は不明だが、縁起によると日本武尊(やまとたけるのみこと)が創立し、文明年中(1469~1487年)に太田道灌が再興したという。

 創建の地は団子坂の上らしいが、現在地に移転されたのは宝永3年(1706年)。詳しくいうと、その前年の5月に起工したが、8月15日に徳川綱吉の生母の服喪のため延期、宝永3年の12月に遷座式が行われた。現存の本殿、幣殿、拝殿、唐門、西門、塀、楼門はそのとき建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。

 この地はもともと甲府宰相の徳川綱豊(とくがわつなとよ)邸だった。

 慶安5年(1652年)綱豊の父の綱重は、兄の徳川家綱(第4代将軍)からこの地を渡され、屋敷を造営して「根津邸」と呼んだ。

 綱豊は寛文3年(1663年)に根津邸で生まれ、根津権現社を産土神とした。宝永元年(1704年)、綱豊は徳川綱吉(第5代将軍)の養嗣子となり、家宣と改名した。宝永6年(1710年)に徳川家宣は第6代将軍になった。

 家宣の産土神とだけあって、家宣将軍時代の根津権現社の祭礼は盛大だったが、家宣が亡くなるとそれは廃止された。

 根津神社でも御朱印をいただいた。

 

 根津神社境内のつつじが岡に鳥居があり、それをくぐっていくと乙女稲荷神社がある。

乙女稲荷神社

 宝永3年(1706年)根津神社がこの地に遷座したときに、つつじが岡の中腹に穿たれた洞に祀られた社である。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。

 

 境内には庚申塔もある。

庚申塔

 庚申信仰は中国の道教から生まれ、60日ごとにめぐる庚申の夜は、人が眠ると、三尸(さんし)の虫が人の体から抜けて天に昇り、天帝にその人の悪事を告げて命を縮めると信じられていた。

 そこから、庚申の夜は庚申講の当番の家に集まり、般若心経を唱え、一晩寝ずに過ごした。これを18回連続してやると記念として庚申塔を建てた。

 庚申塔青面金剛と三猿が描かれているのが特徴。いろいろな本を読んでみると庚申講は実際「飲み会」に近いものだったらしくイマ風に言うと「飲み会オールを18回やったので庚申塔を建てました」という感じだろうか。

 

 境内には賽の大神碑もある。

賽の大神碑

 これは明治6年(1873年)に建てられた賽の大神碑である。

 賽の神とは邪霊の侵入を防ぐ神で、これがもともと建てられていた場所は旧中山道と旧岩槻街道の追分(分岐)だったという。明治43年(1910年)に道路拡幅のため撤去され、根津神社に移された。

 

 賽の大神碑の近くに駒込稲荷神社があり、この社は根津邸時代からあるもののようだ。

駒込稲荷神社

 それにしても、根津神社は久しぶりに訪れた。4年ぶりくらいだろうか。

 前回ここを訪れたのは「標高7mを歩く―谷根千編」の取材のときで、これは書籍化された私の文章の処女作である。1,600文字のとても短い随筆だが、興味のある人は読んでいただけると嬉しい。

www.kokon.co.jp

 余談だが、これは弊社の店舗にも並び、表紙に私の名前が書いてあったものだから「これはどういうことですか?」と販売部から問い合わせが来たことを覚えている。「随筆書いたら載りました。金銭等はいただいてません。」と答えて事なきを得た。

 

7.夏目漱石旧居跡

 根津神社を出て、根津裏門坂を少し西に進み、日本医大前交差点で右折して北に向かうと夏目漱石旧居跡がある。

夏目漱石旧居跡

 夏目漱石明治36年(1903年)2月から本郷区駒込千駄木町57番地(当地)に住み、明治39年(1906年)に本郷区西片町10番地ろの7号に転居したという。

 この夏目漱石の家は現在明治村に移建され、保存されている。もとは歴史学者の斎藤阿具の家で、阿具が洋行するに際し漱石が借りたという。この家には明治23年(1890年)から明治25年(1892年)まで森鷗外が住んでいたこともあったそうだ。

 この本郷区駒込の家で、漱石は「吾輩は猫である」(明治38~39年(1905~1906年))、「坊っちゃん」(明治39年(1906年))、「草枕」(明治39年(1906年))を執筆、発表している。

 この家は「吾輩は猫である」の舞台であること、家が東京にあったときは「猫の家」と呼ばれていたこともあって、この「夏目漱石旧居跡」には猫の置物が置いてある。

 夏目漱石作品、「こゝろ」は高校の現代文の教科書で扱い、「坊っちゃん」は「こゝろ」と同じ本に収録されていたので読んだことがあるが、「吾輩は猫である」は読んだことがない。機会があったら読んでみようと思う。

 文豪といえば太宰治中原中也が破天荒なイメージで、夏目漱石は比較的まともに見えるが、以前ドラマの「夏目漱石の妻」を視聴していたことがある。そこでの夏目漱石は洋行帰りに神経衰弱(現代風に言えば躁鬱?適応障害?)にかかったことや、神経質であること、よく妻に暴力を振るっていた(今でいうDV夫)のを見て、「文豪にまともな人はいないのかもしれない」と思ったことを覚えている。

 

8.清林寺

 夏目漱石旧居跡からそのまま北進して、駒込学園前交差点を左折すると右手側に光源寺が見える。

光源寺

 光源寺は天正17年(1589年)に神田に創建され、慶安元年(1648年)に現在地に移転した。

 境内には元禄10年(1697年)造立の約5mの十一面観音像があったが、惜しくも東京大空襲で焼失してしまった。今建てられている観音様は平成5年(1997年)に再建したもの。

 かなり立派な観音様なのに、「文京区の歴史」を見ても載っていないし、江戸三十三観音にも指定されていないのは、割と新しい再建だったから、ということになる。「文京区の歴史」は昭和54年(1979年)に発行されている本だし、江戸三十三観音は昭和51年(1976年)に指定されたから当然だ。

 ちなみに、元禄時代の観音様の礎石なら残っている。

初代大観音礎石

 光源寺からほど近くに、清林寺がある。

清林寺

 清林寺の創建年代は不詳だが、鎌倉光明寺住職を務めた、観誉龍脱和尚が開山となり、永正年間(1504~1521年)に神田四軒町付近に創建したという。

 その後焼失したが天暦和尚が中興、慶安元年(1652年)にここに移転した。

 ここの観音様はお堂に飾られていて、直接拝むことができる。

江戸札所観音さま

 江戸札所観音様に江戸三十三観音の満願を祈ってから、寺務所に入り、御朱印をいただく。

 

 清林寺のなかにお稲荷さんがあった。江戸時代以前からありそうだ。

 「御朱印帳は神社と寺院で分けるべきか」という議論があり、なかには神社と寺院の御朱印が混ざった御朱印帳を出すと御朱印を書いてくれない寺社もあるらしい。私は分類のために神社と寺院の御朱印帳は分けているが、江戸時代以前には厳密な区分はなかったみたいだし、それを参拝客に強要するのはよくないのではないか、と私は思う。

 神田白山線をそのまま直進し、白山上交差点から坂を下ると都営三田線白山駅があり、ここから帰ることにする。

白山駅

 最初の湯島天満宮の混雑で面食らってしまったところはあるが、その隣の心城院は落ち着いていた。その次の札所、清林寺はもっと落ち着いていた。浅草寺などのがやがやと混んでいる寺院もたまに行く分にはいいが、いつも行くのは疲れる。こういう静かな寺院のほうが私には合っているのだなと改めて思った。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2023年9月3日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

竹内誠(1979) 「文京区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

東京都歴史教育研究会(2020) 「東京都の歴史散歩 上 下町」 山川出版社

天台宗柳井堂心城院 心城院について

http://www.shinjyo-in.com/about/

東京都公園協会 旧岩崎邸庭園 園内マップ

https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/map035.html

文化庁 国立近現代建築資料館

https://nama.bunka.go.jp/exhibitions/2307

公益財団法人 横山大観記念館

https://taikan.tokyo/

文京区 光源寺(こうげんじ)(駒込大観音)

https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/jisha/kogenji.html

猫の足あと 清林寺

https://tesshow.jp/bunkyo/temple_mukogaoka_seirin.html

(2023年10月2日最終閲覧)

東海道を歩く 26.浜松駅~舞阪駅

 前回、磐田駅から浜松駅まで歩いた。今回は浜松駅から舞阪駅まで歩こうと思う。浜松宿から舞阪宿まで2里28町(約11km)、8月下旬の晴れた日に歩くには暑かったので、ウォーキング終わりのサウナが気持ちよかった。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.谷島屋連尺店

 今日は浜松駅からスタートだ。

浜松駅

 板屋町交差点まで北進し、左折して東海道に合流する。ゆりの木通りを歩く。駅前は結構繁華街、といった印象の浜松だが、ここは落ち着いた商店街だ。

ゆりの木通り

 水準点を見つけた。一等水準点第001-257号だ。ご丁寧に「一等水準点」と書かれた柱も立っている。

一等水準点第001-257号

 これは平成12年(2000年)に設置された割と新しい水準点だ。

 連尺町交差点で左折すると、谷島屋連尺店の前に高札場跡を見つけた。ちなみに連尺町交差点を右折すると浜松城に着く。

高札場跡

 城下、宿場の人々に法令や犯罪人の罪状などを周知させるために書かれた木札を高札といい、それが建てられたのが高札場、周知させるのが目的なので人通りの多いまちの中心に建てられる。

 少しわかりにくいが、この谷島屋連尺店の「谷島屋」の文字は島崎藤村が書いたものの復刻らしい。

「谷島屋」

 昭和13年(1938年)、谷島屋書店連尺町本店が土蔵造から洋風の近代店舗に生まれ変わったのを機に、島崎藤村が書いた「谷島屋」の大文字が大理石に刻まれて店頭に掲げられた。

 この文字について島崎藤村は「筆を執るまでに永い時間を費やしたが、ある朝、大木のたたずまいを見て心が決まり、短い時間で書き上げた」と語っている。

 しかしそれは昭和20年(1945年)の空襲で破壊されてしまった。昭和47年(1972年)島崎藤村生誕100年・谷島屋創業100年を記念して復刻したものらしい。

 島崎藤村は明治5年(1872年)に現在の岐阜県中津川市で生まれた詩人・小説家で、昭和18年(1943年)に71歳で亡くなっている。なお、亡くなったのは神奈川県大磯町で、この「島崎藤村邸」は東海道沿いにあるので「東海道を歩く 8-2.平塚駅箱根板橋駅②」で訪れている。

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2.五社神社諏訪神社

 歩いていたら右手側に大きな鳥居が見えたので、つい寄り道してしまった。

五社神社諏訪神社

 五社神社の御祭神は太玉命(ふとたまのみこと)ほか9柱、諏訪神社の御祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)ほか3柱。

 五社神社曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建したことに始まると伝えられる。

 のちに、徳川家康浜松城主となり天正7年(1579年)4月7日、徳川秀忠誕生にあたり産土神として崇敬することとし、現在地に社殿を造営、天正8年(1580年)に遷座した。

 寛永11年(1634年)徳川家光が浜松を訪れたときに参拝し、朱印300石を下賜された。そのときに新しい社殿が造営され、寛永18年(1641年)に竣工した。

 

 一方、諏訪神社延暦10年(791年)に坂上田村麻呂が創建したとされている。弘治2年(1556年)に曳馬城下、大手門に遷座した。

 五社神社同様、徳川秀忠産土神として崇敬され、天正7年(1579年)に徳川家康が社殿を造営した。

 元和元年(1615年)に徳川秀忠が社地を変更し、寛永11年(1634年)には徳川家光が参拝、現在地に社殿を遷し、社殿は寛永18年(1641年)に竣工した。

 諏訪神社の社殿は国宝となったが、昭和20年(1945年)に五社神社とともに空襲で焼失した。

 

 昭和37年(1962年)に五社神社諏訪神社が合祀された。現在の社殿は昭和57年(1982年)に建てられたものである。

 空襲だから仕方ないとはいえ、焼失前の社殿を見てみたかった。

 

 御朱印をいただいた。

 

 境内には光海霊神碑(うなてりのみたまのひ)がある。

光海霊神碑

 賀茂真淵が子供の頃、師匠と仰いだ五社神社の神主、森暉昌(もりてるまさ)の功績を記した顕彰碑で、明和4年(1767年)建立。

 賀茂真淵は江戸時代中期の国学者歌人で、現在の静岡県浜松市出身。

 

 国道257号線東海道に戻ると杉浦本陣跡がある。

杉浦本陣跡

 大名、公家、幕府役人などが泊まるために宿場に置かれた旅館が本陣である。ここは、浜松の本陣のうちでもっとも古い杉浦家の本陣跡だ。

 浜松宿は、東海道五十三次のうち、江戸から数えて29番目の宿場町だ。浜松宿には東海道で箱根とともにもっとも多い6軒の本陣があり、旅籠の数も94軒と、静岡県内でもっとも多い宿場町だった。

 

 少し先に行くと、川口本陣跡がある。

川口本陣跡

 川口家の本陣は、浜松宿の本陣のなかでもっとも新しくできた本陣だった。

 川口本陣跡のある交差点は交通量が多いので、地下道をくぐって先に進む。

 

3.ケ91タンク機関車

 そのまま国道257号線を進み、県道62号線との交差点で右折する。菅原町交差点で南西側に進むのだが、そこにあるのが子育地蔵尊だ。

子育地蔵尊

 子育地蔵尊享保8年(1723年)、徳川吉宗の治世に建てられた。

 ここ、菅原町の隣の成子町にあった西番所で取り調べを受けて亡くなった妊婦の子供が生き残り、その菩提を弔った地蔵がいつのまにか子育地蔵尊と言われるようになったらしい。そっと手を合わせた。

 

 少し歩くと右手側に小さなSLが見える。ケ91タンク機関車だ。

ケ91タンク機関車

 ケ91タンク機関車は大正7年(1918年)に大日本軌道会社が製造した軽便機関車で、東濃鉄道笠原線で活躍していた。東濃鉄道笠原線は岐阜県多治見市の新多治見駅から笠原駅までを結んでおり、昭和3年(1928年)に開業したが、昭和53年(1978年)に廃止された。

 その後国鉄の浜松工場に保存されていたが、今はこのように展示されている。

 SLが屋外に展示されているのは時折見かけるが、これはいつも見るSLと比べて小さく、可愛いという印象を抱いた。

 

 東海道本線の高架をくぐり、国道257号線と合流するので右折、そのまま国道257号線に沿って歩く。一等水準点第001-259号を見つけた。

一等水準点第001-259号

 一等水準点第001-259号はいつ設置されたものかは不明。あと水没しているのが気になるが、前日雨でも降ったのだろうか。

 

 浜松市中区から南区に入るので、カントリーサインを見つけた。

 

 堀留川に、鎧橋という橋が架かっている。

わかりにくいが、鎧橋

 平安時代末期、比叡山の僧兵が鴨江寺(浜松市中区にある高野山真言宗の寺院)を攻めたとき、鴨江寺側の軍兵は、このあたり一帯の水田に水を張り、鎧を着て、この橋の守りを固めて戦ったので、その後「鎧橋」と称するようになったそうだ。

 そのときの比叡山側、鴨江寺側の戦死者およそ1,000人を鎧橋の北側に葬ったので、千塚と言ったらしい。その昔は僧侶同士の争いもあったのだな。

 

 このあたりの東海道はまっすぐで、「八丁縄手」と呼ばれている。

八丁縄手

 「八丁縄手」と呼ばれるようになった時代は明らかではないが、近くに「八丁」や「縄手」などが古い地名として残っているので、直線に延びた長い見事な松並木の道が、いつとなく土地の人々の間で「八丁縄手」と呼ぶようになったそうだ。

 ちなみに以前、東海道を歩いていて川崎で「八丁畷(はっちょうなわて)」という地名を見つけたことがある。これも昔このあたりに人家がなく、畑のなかをまっすぐに八丁(約870m)もあぜ道(畷)が続いていたことに由来する。川崎の八丁畷は「東海道を歩く 3.川崎駅~神奈川駅 3.無縁塚」に登場している。

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4.二ツ御堂

 少し進むと若林一里塚跡がある。

若林一里塚跡

 慶長9年(1604年)、江戸幕府東海道一里ごとに5間(約9m)四方の小高い塚を道の両側に築いて榎を植えさせた。これが一里塚だ。若林一里塚は江戸から66里の一里塚である。

 

 道を挟んで2つのお堂が建っている場所がある。二ツ御堂だ。道の北側にあるのが阿弥陀堂、南側にあるのが薬師堂だ。

阿弥陀堂

薬師堂

 二ツ御堂にはこのような話がある。

 これは、奥州平泉の藤原秀衡とその奥さんによって天治年間(1125年頃)に創建されたと伝えられている。

 京に出向いている藤原秀衡が大病にかかっていることを聞いた藤原秀衡の奥さんは京へ向かったが、この地で飛脚から藤原秀衡が亡くなったことを聞き、秀衡を弔うために阿弥陀堂を建てた。そのうち奥さん自身もここで亡くなってしまった。

 しかし、この「藤原秀衡が亡くなった」という情報は誤報だった。藤原秀衡が元気になって国に帰るときにその話を聞き、奥さんへの感謝の気持ちをこめて、薬師堂を建てたという。

 このような誤報は、LINE等が発達した現代ではありえないことだが、通信が発達していなかった時代ならありえたことなのだろう。

 そして「東海道歴史散歩」にはこのエピソードが「道をはさんで今も愛のシンフォニーを奏でている」などとロマンティックな一言で締められているが、ここは国道257号線沿いであり、自動車の走行音がそこそこうるさく、「愛のシンフォニー」を聞くことはできなかった。

 ここに高札場跡と、馬頭観音がある。高札場跡があるということは、ここが村の中心であったことを意味する。馬頭観音は交通運搬や農耕で使役した馬の供養のために建てられたそうだ。

馬頭観音

 阿弥陀堂の裏に、「秀衡の松」がある。これは秀衡の奥さんの亡骸を埋めたところに、秀衡が植えた松だと伝えられている。明治15年(1882年)頃までは残っていたそうだが、今ある松はそれほど大きくないので、明治の頃に枯れてしまったのだろうか。

秀衡の松

5.みたらしの池跡

 二ツ御堂の裏に、八幡神社がある。

八幡神社

 八幡神社の御祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと)。創建年代は不詳だが山城国(現在の京都府)石清水八幡宮から勧請したようだ。

 境内には東若林児童遊園が隣接しており、タコの遊具が設置されていた。

 

 浜松市南区可美市民サービスセンターに、三角点と水準点を見つけた。

四等三角点「若林」

 四等三角点「若林」は昭和59年(1984年)設置。雑草が生い茂っているが、標石と「大切にしましょう三角点」の標柱は見つけられる。

 同じ可美市民サービスセンターに、二等水準点第1374号もある。

二等水準点第1374号

 二等水準点第1374号は昭和30年(1955年)に設置された標石型の水準点らしいが、蓋の下にあるらしく確認できなかった。

 

 ここはもともと可美小学校があったところらしいが、昭和22年(1947年)に小学校は移転、昭和29年(1954年)から可美村役場として使われていた。

 可美村は平成3年(1991年)に浜松市編入合併して消滅したため、村役場跡地はサービスセンターとなった。平成3年(1991年)だと、「平成の大合併」よりは少し早い時期だ。

可美小学校跡

 国道257号線に戻る。消火栓が右から左に書かれているので、これは古いものだ。

 

 みたらしの池跡を見つけた。

みたらしの池跡

 水神を祀る人工の池が、現在の可美小学校が建設される昭和22年(1947年)1月頃まで、「みたらしの池」といわれ可美小学校の運動場の南西にあった。

 池が埋め立てられてしまったので、このあたりに住む丸山氏が新しく水神を祀る池を造ったが、現在はその池も埋められてしまったようだ。

 当時、可美小学校の運動会で雨が降ると、「みたらしの池を埋めたせいだ」と言われたとか。

 確かに運動会で雨が降るのは残念だ。私も雨女で旅行のとき雨が降ることが多いからよくわかる。でも雨男・雨女は龍神に愛されている証拠ともいわれているので、神様が怒って雨を降らせたとも限らないのでは、と思う。

 ここには可美村民憲章、浜松市可美村合併記念の石碑がある。浜松市可美村合併記念の石碑の裏には可美村の概要も書かれている。

 

 ここには、忠魂碑もある。

忠魂碑

 この忠魂碑は、旧可美村から出征し、日露戦争日中戦争・太平洋戦争で亡くなった兵士と、軍需工場で空襲のため亡くなった人の179柱が祀られている。

 兵士や学徒動員の犠牲者の平均年齢は25歳。私より若いじゃないか。生きたくても生きられなかった人々の冥福を祈り、合掌した。

 

6.熊野神社

 みたらしの池跡の隣には、諏訪神社がある。

諏訪神社

 諏訪神社の御祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。

 明治7年(1874年)、太政官布告社領没収令により東組天神社、東中組六所社、西中組八幡社を諏訪社に合祀し、明治12年(1879年)に諏訪神社と名付けられた。

 

 諏訪神社に参拝し、先に進むと秋葉常夜燈籠があった。

秋葉常夜燈籠

 浜松市天竜区にある秋葉山本宮秋葉神社に通じる諸街道、秋葉街道を歩く旅人の安全を祈願し、街道の要所に設置された常夜燈が秋葉燈籠・秋葉常夜燈籠だ。これは可美地区に残る唯一の秋葉常夜燈籠である。

 

 秋葉常夜燈籠から少し行ったところに熊野神社がある。

熊野神社

 熊野神社の御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)ほか2柱。

 熊野神社光明天皇が康永3年(1344年)に創建したという記録があるが、確たる証拠にはなっていない。

 熊野神社の境内にもタコの遊具が設置されていた。

 

 熊野神社には叟蘿魂(そうらこん)という碑がある。

叟蘿魂

 今から約580年前の永享4年(1432年)9月、室町6代将軍足利義教(あしかがよしのり)が駿府から京都に帰る途中、ここにあった非常に大きく立派な老松を見て感嘆した。

 そこにいた堯孝(ぎょうこう)僧正が和歌にこう詠んだ。

 「たが代にか 植えておきなの 松の根に けふ顕るる 君が千とせぞ」

 その後、ここの村人たちはこの松を「於岐奈乃末都(おきなのまつ)」または「叟蘿(そうら)之松」と呼んだ。

 この美しく立派な老いた松の生えた土地だったので「叟蘿之松」から「叟蘿(そうら)」そして「増楽(ぞうら)」と呼ばれるようになったという。

 このあたりは浜松市南区増楽町だが、「増楽」にこのような由来があったとは知らなかった。ただ、老いた松は寿命が来てしまったのか、見当たらなかった。

 

7.地蔵院

 熊野神社から少し先に、領地境界の標柱を見つけた。

領地境界の標柱

 江戸時代、宝永2年(1702年)に高塚は堀江領になったが、増楽以東は浜松領だったので、領地の境を示すために建てた標柱である。

 かつてはここより西側にあったようだが、国道拡幅により現在地に移された。

 それにしても、説明板が雑草に隠れて見えない。

 

 また少し先に、堀江領境界石の説明板を見つけた。

堀江領境界石

 江戸時代、宝永2年(1705年)に高塚村は旧北庄内村堀江舘山寺に城を構えていた堀江城主 大沢右衛門督基隆(おおさわうえもんのすけもとたか)の領地となり、この年以降、明治維新まで堀江領だったという。

 そこで浜松藩との境界の旧東海道沿い、高橋長兵衛家の前庭に礎石が建てられている、と説明があったが礎石は見当たらなかった。

 

 ここで旧可美村のマンホールを見つけた。

可美村マンホール

 旧可美村章は桜の花で縁取って花は「可」に通じ、「美」は槙の葉を構成し、象徴したものである。昭和42年(1972年)にこの村章は制定されたが、可美村が平成3年(1991年)に廃止されたため20年程度しかこの村章は使われていない。

 

 また少し進むと高札場跡と秋葉燈籠跡がある。

高札場跡と秋葉燈籠跡

 東海道分間延絵図によると、高塚の高札場が秋葉燈籠の東側(現在の小野田家)付近にあったと記録されているためここに建てられているらしい。高札場跡なら時々見るが、秋葉燈籠跡は初めて見た。

 高札場跡と秋葉燈籠跡で右折して少し進むと護法山地蔵院がある。

護法山地蔵院

 護法山地蔵院は明徳元年(1390年)創建で御本尊は築山御前腹篭地蔵尊(つきやまごぜんはらごめじぞうそん)。

 これは徳川家康の奥さん、築山御前が天正7年(1579年)に現在の浜松市織田信長の命令により殺されたとき、奥さんが守り本尊として肌身離さず持っていた仏像がこの地蔵尊だったと言われている。

 宝暦8年(1758年)小野田五郎兵衛久繁(おのだごろうべえひさしげ、別名麦飯長者)がこれを堀江城主の大沢右京大夫からもらい、お堂を建てて安置したという。

 天下人となった徳川家康であるが、織田信長に奥さんを殺されるという悲しいこともあった、ということだろう。

 

 地蔵院には白隠禅師のエピソードもある。

 宝暦8年(1758年)、白隠禅師が桑名から原の松陰寺に帰る途中で病気となり、100日も地蔵院で療養していたという。

 小野田五郎兵衛久繁の孫娘4人は父母を幼い頃に亡くし、死を嘆いて仮名書き法華経を書いたという。

 その仮名書き法華経白隠禅師に見せたところ、白隠禅師は感激、「四娘孝記」という話を書いて世間にひろめたという。

 仮名書き法華経を書いたのはおさき、おやす、おかの、おそのという4人の少女でそれぞれ14歳、12歳、8歳、6歳だったという。法華経は3年がかりで完成し、それは小野田家と地蔵院に分けて保存されているようだ。

 幼い頃に親を亡くすことは辛いことだが、それで法華経を書く、というのは今の時代ではないことだ。

 そして白隠禅師とは、東海道原宿に住んでいた臨済宗の高僧である。白隠禅師については「東海道を歩く 12.片浜駅吉原駅 2.白隠の里」を参照のこと。

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8.高塚熊野神社

 東海道に戻り、少し進むと麦飯長者跡がある。

麦飯長者跡

 昔、高塚に小野田五郎兵衛という長者がいて、明治維新の頃まで、身分を問わず街道を行きかう人に湯茶の接待を施し、お腹が空いた人には麦飯を食べさせていた。

 いつしか、麦飯をくださる長者さまということで「麦飯長者」と呼ばれるようになった。

 五郎兵衛の善行が浜松城下にも知られ、小野田の苗字を名乗ることが許され、村役人、庄屋を務めたという。

 身分を問わず麦飯を食べさせる、というのはアンパンマンのようだな、と思ったのは私だけだろうか。

 

 麦飯長者跡から進むと右手側に鳥居が見えた。高塚熊野神社だ。

高塚熊野神社

 高塚熊野神社の御祭神は伊佐奈岐命(いざなぎのみこと)ほか3柱。

 創建年代は不詳だが、紀州熊野本宮の神主が諸国行脚の途中、この地に足をとめて祭祀したのが始まりであると言われている。

 あるとき高塚熊野神社の神主が「高い丘を作って人々を救え」という不思議な夢を見たので、村人と協力して神社の裏山に土を盛り上げて丘を作った。

 その後安政の大地震が起こり、津波のため多くの死者が出たが、高塚の人々はこの丘に避難して被害を免れたと言い伝えられている。

 ただ、一説によればその津波で住んでいた人々がほとんど死んでしまい、遺された村人は津波の犠牲者をここに葬り、たくさんの砂を浜から運んで高い塚を作ったのでこの地を「高塚」と呼ぶようになった、といわれている。

 安政の大地震津波で人が助かった説、助からなかったから塚を作った説…東日本大震災津波の映像を見たこともあり、「助かった説」であってほしい、と思うのは私だけだろうか。

 

 境内には青緑色の八咫烏ポストがある。

八咫烏ポスト

 社務所で専用の用紙を買い、自分の想いを書いて投函すれば、神様に伝えることができる、というものらしい。紛らわしいが、郵便ポストではないのでここから郵便物を出しても届かないようだ。

 

 御神木はシイの木で、樹齢500年ほどの大樹だ。静岡県神社庁から御神木指定証を受けている。

 

 御朱印をいただいた。今日限定の御朱印だったらしく、「たかくま市」というハンコが押されている。地元の人が集まって何かしていたが、そこに入っていく勇気はなかった。

 

9.神明宮

 高塚熊野神社を出ると「源十道路」と書かれた標柱が目に入った。

源十道路

 この道路は高橋源十さんの名から名付けられたようだ。高橋源十さんが何をして、道の名前になったのかはわからなかった。

 

 現代の立場(街道の休憩所)、マクドナルドでジュースとポテトをつまみ、一休みした。

 

 少し歩いたらさわやか浜松高塚店を見つけたが、42分待ちだったので諦めた。

 

 浜松市南区から西区に入るので、カントリーサインを見つけた。

 

 ここで県道257号線と別れ、旧道に入るのだがそこに「夢舞台東海道」の「篠原」があった。

「篠原」

 歩いていたら「ジップドラッグ」というドラッグストアを見つけた。関東では見ないチェーンだな、と思い調べてみたら静岡県岐阜県、愛知県、三重県滋賀県奈良県和歌山県にしかないチェーンらしい。

ジップドラッグ篠原店

 ジップドラッグ篠原店から少し進むと立場跡がある。

立場跡

 立場は慶長6年(1601年)に東海道に宿駅伝馬制度ができたときに、宿場と宿場の中間の休憩の施設として設けられた。

 ここは立場本陣と言われ、身分の高い人が多く休憩したという。明治元年(1868年)には明治天皇もここで休憩したという。

 

 立場跡から少し進むと神明宮がある。

神明宮

 神明宮の御祭神は天照皇大神(あまてらすおおみかみ)と豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)。

 建暦2年(1212年)浜名湖中の島に祀られたが地震津波などにより永正年間(1504~1512年)に現在地に遷座した。この社殿は昭和7年(1932年)に建てられたもの。

 

 神明宮には水準点もある。二等水準点第1376号だ。

二等水準点第1376号

 二等水準点第1376号は昭和30年(1955年)に設置された標石型の水準点である。

 

10.愛宕神社

 神明宮の向かい側に遠鉄ストアがあった。

遠鉄ストア

 遠鉄ストア菊川市掛川市袋井市磐田市浜松市湖西市、愛知県豊橋市、愛知県豊川市に出店している。同じ鉄道会社系のスーパー、しずてつストアは高級志向、と以前聞いたことがあったが、遠鉄ストアはどうなのだろう。

 

 少し歩くと篠原一里塚跡を見つけた。

篠原一里塚跡

 篠原一里塚は日本橋から67里の一里塚だ。

 「当時の旅人は、一日十里(約40km)を歩くのが普通であったといわれていました。」と書かれている。この話は以前も聞いたことがあったが、「ほんとかよ?」と思い、友人とその話をしたことがあるのだが、「フルマラソンの距離はそれくらいだし、不可能ではないのでは?」と答えられた。確かに不可能ではないのかもしれないが、少なくとも私には不可能だ。

 

 篠原一里塚跡から少し進んだところに、高札場跡がある。

高札場跡

 高札場は一般の人に掟や禁制を伝えるために建てられた掲示板である。

 高札場があったからなのか、このあたりは「札木」という地名らしいが、住所には残っていない。

 

 これ、特に何も書かれていなかったのだが、秋葉常夜燈だろうか。

 

 少し進むと、また秋葉常夜燈を見つけ、その後ろに愛宕神社があった。

愛宕神社

 愛宕神社の御祭神は軻遇突智命(かぐつちのみこと)と素蓋嗚尊(すさのおのみこと)。

 創建は文禄元年(1592年)。坪井村新田村の開発のときに氏神として京都の愛宕神社から分霊を勧請した。

 慶長6年(1601年)、徳川家康が鷹狩りのときに参拝したという。

 

 愛宕神社の隣に臨済宗妙心寺派の寺院、愛宕山光雲寺がある。愛宕神社の隣にあり、山号も「愛宕山」なので別当寺だろうか。別当寺とは、江戸時代以前に神社を管理するために置かれた寺のことである。

光雲寺

11.東光寺

 坪井町北交差点に、明治天皇御東幸野立所跡がある。

明治天皇御東幸野立所跡

 明治元年(1868年)9月20日明治天皇は京都を出発し、23日間をかけて東海道を下り、東京へ向かった。

 その途中の10月2日に坪井村の松並木のこのあたりで短い休憩(野立)をした。

 その後篠原村立場本陣で小休して、浜松へ向かった。

 篠原村立場本陣ってさっきあったところだよな、休憩しすぎではないか?というツッコミは不敬にあたるのだろうか。

 

 明治天皇御東幸野立所跡の少し先に稲荷神社がある。

稲荷神社

 稲荷神社の祭神は宇加之御魂之大神(うかのみたまのおおかみ)ほか2柱。

 永享12年(1440年)に伏見稲荷から勧請したといわれている。

 現在の社殿は大正11年(1922年)に建てられたもの。

 

 稲荷神社には水準点もある。二等水準点第1377号だ。

二等水準点第1377号

 二等水準点第1377号は昭和30年(1955年)に設置された標石型の水準点だ。

 

 少し進んだところに秋葉常夜燈と坪井村高札場跡を見つけた。

秋葉常夜燈

坪井村高札場跡

 高札場とは法度や掟を伝えるために人通りの多い場所に設置された掲示板である。

 

 坪井村高札場跡の次の交差点を右折して少し行くと東光寺がある。

東光寺

 東光寺は臨済宗妙心寺派の寺院である。御本尊は東方薬師瑠璃光如来。慶長6年(1601年)、勢巌元育禅師が開山した。

 境内には南海霊亀碑がある。

南海霊亀

 文化7年(1810年)の初秋の夜中、海上は風雨激しく雷が鳴り、遠州灘は非常に荒れたという。

 夜が明け、嵐の過ぎ去った海辺には息の絶えたウミガメが打ち上げられ、それを見た村人たちは深く悲しみ、酒をあげるなどして手厚く葬った。

 翌年8月の末に、人々はウミガメを海神の使者として海上かなたの他界(あの世)と現世(この世)を行き来する霊能の持ち主であることを崇め、さらに海の安全と豊漁を願って亀型の台座に経巻六角柱を乗せた供養塔を建て、その信仰心が続くよう念じたのが南海霊亀碑だという。

 昔、遠州の海岸にウミガメが上陸したのを見つけると、人々は酒を飲ませて帰していたという。

 それは、ウミガメが大漁をもたらすお使いであり、海上安全の神であり、さらに台風が来そうな年には卵を浜の奥に生むから、それより奥に船を引き揚げておけば流されることはないことを教えていたからである。

 ところで、犬や猫は酒を飲むと中毒症状を起こすという。それは犬や猫がアルコールを分解する酵素を持っていないからである。そう考えるとウミガメに酒を飲ませるのは果たして大丈夫だったのか…?少し心配になってきた。

 

12.引佐山大悲院観音堂聖跡

 東光寺から東海道に戻り、少し進むと秋葉常夜燈の奥に引佐山大悲院観音堂聖跡がある。

秋葉常夜燈

引佐山大悲院観音堂聖跡

 ここに長く安置されていた観世音菩薩は、定朝法橋上人(平安時代の仏師)が作ったものと伝えられていた。

 治安元年(1021年)、定朝上人は諸国行脚の途中に山住神社(現在の浜松市天竜区)に山籠もりしたときに神託を感じ、引佐細江の里の老杉のもとで祈りつづけた。

 引佐細江で祈ること7日、老杉の頂が光り、聖観世音菩薩が現れた。

 聖観世音菩薩の慈悲に感激した定朝は、老杉を伐採し、その木で聖観世音菩薩を彫り、引佐に堂宇を建て安置した。

 久安5年(1149年)に山崩れや洪水が起こり、菩薩の霊訓によりここに遷し、草庵を作って安置した。

 仁安元年(1166年)、筑紫の人が頼みごとがあってここに参詣し、望みを叶えられたら御堂を建てようと祈願、無事目的を達成したのでお堂を新しく建てたそうだ。その話を聞いて伊賀守源光行公はこう詠んだ。

 たのもしな 入江に立つる 身をつくし 深き志るしの ありと聞くにも

 弘安6年(1283年)、小夜の中山の化鳥退治のために上杉三位高実公が現場に向かうときにもこの観音様に祈願し、無事退治できたという。

 寛文12年(1672年)に新井宿に住む片山権兵衛も紀州の熊野浦で難破に遭ったが、この観音様に助けられたという。そのお礼としてお堂を建てた。

 その後も東海道でご利益のある観音様として信仰を集めていたが、今ここに観音様はいない。

 現在、観音様は如意寺(現在地から4分ほど行った場所にある曹洞宗の寺院)に安置されているという。

 

 引佐山大悲院観音堂聖跡をあとにして、先に進むと5分ほどでまた秋葉常夜燈を見つけた。

秋葉常夜燈

 秋葉常夜燈の少し先に、東本徳寺がある。

東本徳寺

 東本徳寺は日蓮宗の寺院である。

 

 東本徳寺から少し進むと今度は西本徳寺がある。

西本徳寺

 西本徳寺も日蓮宗の寺院である。

 「東本徳寺」「西本徳寺」という名前を聞いて、「京都にある東本願寺西本願寺に似てるな」と思ってしまった。東本願寺西本願寺はもとは1つの寺院だったがいろいろあって2つの寺院に分裂した。東本徳寺と西本徳寺ももともと1つの寺院だったのだろうか。

 

 西本徳寺から先に進み、馬郡跨線橋南交差点に春日神社がある。

春日神

 春日神社の御祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)ほか3柱。

 永徳元年(1381年)、日朝上人が創建し、社殿は村民とともに建立したという。

 境内には水準点がある。二等水準点第1378号だ。

二等水準点第1378号

 二等水準点第1378号は昭和40年(1965年)設置の標石型の水準点だ。水準点の上に保護用と思われる石が置いてある。保護用の石が置いてあるのは初めて見た。

 

 春日神社の御神木は柊である。昭和7年(1932年)に御神木指定されたときは古木だったようだが、その後枯れてしまったようだ。その枯れた柊から生えてきた柊が現在の御神木である。

 

 春日神社の前に、鹿2基が設置されている。これは春日大社の神使が鹿であることにちなむ。奈良の春日大社周辺にたくさん鹿がいるのも、春日大社の神使だから、ということになる。

 

 東海道に戻り、舞阪駅南入口交差点まで来たら右折して舞阪駅へ向かう。

舞阪駅南入口交差点

舞阪駅

 舞阪駅から東海道本線に乗り、今日の東海道ウォークは終了とする。

 次回は舞阪駅から新居町駅まで歩く。

 

【おまけ】

 浜松に宿を取っていたので、食べたいものがあった。

 さわやかである。

 「また!?」と思う人もいるかもしれないが、「歩いた日」を参照してもらうとわかる通り、前回の「東海道を歩く 25.磐田駅~浜松駅」を歩いたのが2023年5月28日、今日は2023年8月26日。3ヶ月も空いている。私はさわやかに飢えていたのだ。

 前回同様、遠鉄百貨店のさわやかに向かい整理券を発券、2時間待ちだったのでスタバに向かう。今回飲んだのは「GABURI スイカフラペチーノ」。スイカをフラペチーノで表現するならどうなるんだ?と思い飲んでみた。これがスイカ…?という印象だったが、キウイやドラゴンフルーツが入っていてトロピカルな味がした。

GABURI スイカフラペチーノ

 時間になり、さわやかに向かう。席に案内され、げんこつハンバーグBセットを注文した。これはげんこつハンバーグのほかにライスorパンとサラダがついてくるセットだ。ハンバーグを楽しみにしながらサラダを食べる。

 

 店員さんが熱々の鉄板の上に置いたげんこつハンバーグを持ってきた。私の目の前でハンバーグを2つに切り、鉄板に押し付けて焼き、オニオンソースをかける。

 店員さんが「ごゆっくり」と言って去り、まだパチパチいってるハンバーグを写真に収め、ナイフで切って一口頬張る。

 うまい。

 うますぎる。

 何度だって食べたくなるハンバーグ。それがさわやかだ。

 

 私の座った席の前に「♪ジュジューッ つくりたてのリズムは だんらんサウンド♪」と書かれ、写真付きで貼られているのだが、それにしてもこれはなぜステーキの写真なのだろう。看板商品なんだからハンバーグの写真にすればいいのに。

 

 そしてさわやかはデザートも美味しいことを忘れてはならない。

 「お待たせしました!クラウンメロンパフェです」

 私が一番好きなフルーツはメロンである。

 そして静岡県は全国的にも有名なメロンの産地で、このメロンパフェは静岡県産のメロンを使用している。

 美味しいだろうと期待して頼んだが、期待を上回る美味しさだった。

 ちなみに、メロンパフェは夏季限定となっている。

 

 さわやかの余韻に浸りながら、宿に向かう。本日泊まるのはZAZACITY HAMAMATSUのなかにある「かじまちの湯 SPA SOLANI」。

ZAZACITY HAMAMATSU

 ここはカプセルホテル、個室ホテルだけでなく大浴場、ロウリュウ岩盤浴、リラクゼーションルームなどを備えている。これで1泊4,500円だから安い。

 カプセルホテルのベッドに荷物を置き、大浴場に向かう。体を洗い、少し湯船で温まってからサウナに入る。

 熱すぎないサウナで、6分、9分、12分と滞在したがしんどくなることはなかった。

 水風呂も冷たすぎずぬるすぎず、気持ちよかった。

 ここまで語るとサウナしきじの漢方薬草風呂や韓国式サウナ、天然水水風呂が恋しくなってくるが、浜松まで来てしまったので仕方ない。あと宿泊しているので追加料金0でサウナに入ることができるのは強い。

 風呂上りにコーヒー牛乳を飲み、次の日に備えて休むことにした。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

今回の地図⑤

歩いた日:2023年8月26日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

小杉達(1992) 「東海道歴史散歩」静岡新聞社

静岡県日本史教育研究会(2006) 「静岡県の歴史散歩」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第8集」

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

五社神社諏訪神社 五社神社諏訪神社について

https://www.gosyajinjya-suwajinjya.or.jp/about.php

(2023年9月11日最終閲覧)

江戸三十三観音をめぐる 3.上野編

 前回、江戸三十三観音第3番札所の大観音寺、第4番札所の回向院、第5番札所の大安楽寺に参拝しながら人形町・両国・小伝馬町周辺を巡った。今回は第6番札所の清水観音堂に参拝しながら上野周辺を巡ろうと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.浄名院

 鶯谷駅北口を出て、寛永寺陸橋を越えて少し行くと浄名院がある。

浄名院

 浄名院は天台宗の寺院で、寛文6年(1666年)に開創され、4代将軍徳川家綱の母、宝樹院の菩提所として栄えた。

 喘息、病気平癒を祈願する「へちま加持祈祷会」で全国的に知られており、別名「へちま寺」とも呼ばれている。喘息に効く祈祷はコロナにも効くのだろうか。

 浄名院の境内にはたくさんのお地蔵さんがある。八万四千体地蔵という。

八万四千体地蔵

 浄名院が地蔵信仰の寺となったのは第38世地蔵比丘妙運和尚の代からだ。

 妙運和尚は大坂に生まれ、25歳で日光山星宮の常観庵にこもったとき地蔵信仰を得て、1,000体の石造地蔵菩薩像建立の発願をたてた。

 明治9年(1876年)浄名院に入り、明治12年(1879年)さきの1,000体の地蔵を作り終えると、今度は84,000体の地蔵建立の大誓願に進んだ。明治18年(1885年)に地蔵山総本山を建立した。妙運和尚が生きている間には84,000体の地蔵を作ることはできなかったようだが、現在でも地蔵は増え続け、「上野さくら浄苑」HPによると平成30年(2018年)3月の時点で浄名院境内には26,000体、全国で48,000体の地蔵が作られたという。妙運和尚は大変なことを誓願したなぁと思う。

 

 境内にはひときわ大きな地蔵がある。

 江戸時代前期、江戸の出入口6ヶ所に造立された地蔵のことを「江戸六地蔵」という。出入口に作られたのでどの地蔵も街道沿いにある。

 江戸六地蔵品川寺(品川区南品川、東海道)、東禅寺(台東区東浅草、日光街道)、太宗寺(新宿区新宿、甲州街道)、真性寺(豊島区巣鴨中山道)、霊巌寺(江東区白河、水戸街道)、永代寺(江東区富岡、千葉街道)に設置された。

 永代寺以外の江戸六地蔵は現存しているが、永代寺だけは明治維新のとき廃寺となり、江戸六地蔵も取り壊されてしまった。そこで永代寺の江戸六地蔵を再建する目的と、日露戦争戦没者を弔う目的で、明治39年(1906年)新たに建立されたものがこの地蔵菩薩坐像である。

 なお、以前「うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪」で新宿にある太宗寺の江戸六地蔵を取り上げている。

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 浄名院の御朱印は参拝後、御朱印代金を賽銭箱に納めてもらっていくセルフ方式。山門の絵が美しいが、現在工事中でくぐることができない。

 

 過去、山門の脇に几号水準点(きごうすいじゅんてん)があった。

 几号水準点とは明治初期に高低測量を行うために設けた基準となる基準点である。几号水準点と呼ばれているものには垂直面に刻印されているものと、水平面に刻印されているものがある。垂直面に刻印されているものは内務省が設置した几号水準点と考えられるが、水平面に刻印されているものは東京市が設置した水準基標であると考えられている。浄名院にあるのは水平型なので、東京市の水準基標と思われる。

 山門工事の際、浄名院住職は撤去を検討していたが、この浄名院の几号水準点を発見した人物、角田篤彦氏の弟、角田澄彦氏が保存を願い、現在は浄名院信徒会館の前に保存されている。

 

 浄名院の几号水準点については、同人誌「地理交流広場 第5号」に掲載されている「几号点を訪ねて―上野公園周辺―」でも取り上げているので興味がある人は読んでいただけると嬉しい。

booth.pm

 

2.寛永寺

 浄名院山門の前の交差点から南に進むとすぐ、左手側に寛永寺が見えてくる。

寛永寺根本中堂

 上野の歴史を語る上で、寛永寺の存在は外せない。

 元和8年(1622年)12月、江戸幕府は上野山内一円を公収し、寺院建設予定地とした。

 建設予定地には寛永元年(1624年)起工し、東叡山寛永寺を創建した。

 東叡山寛永寺の開山は天海僧正である。

 天海僧正天台宗の高僧で、徳川家康、秀忠、家光と徳川将軍3代の厚い帰依を受けた。

 徳川家康が亡くなったときは導師を勤め、遺体を久能山に葬り、のちに日光東照宮に改葬した。

 家康が亡くなった後も秀忠や家光の信任は厚く、幕政にも参与、黒衣の宰相と呼ばれ、寛永20年(1643年)に108歳で亡くなったという。慶安元年(1648年)4月、朝廷から慈眼大師の号を追贈された。

 そして、なぜ天海僧正寛永寺を建立したのか。それは、江戸城鎮護のため、その艮(うしとら・東北方)の地の上野に、寺院を建立するよう、家光に進言したからである。艮は鬼門といわれ、鬼が出入する方角とされていた。

 「東叡山」の山号は「東」の比「叡山」という意味である。比叡山延暦寺平安京を鎮護するために建立された寺院で、比叡山の位置は平安京から見て艮にあたる。

 「寛永寺」の名前は年号から取ったのだが、年号を寺号にするのは格式ある寺院でなければ許されないことである。ほかに年号を寺号とした寺院は延暦寺建長寺くらいである。

 寛永寺は港区の増上寺とともに、徳川将軍家菩提寺である。寛永寺の墓域には4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の霊が眠っている。一方、増上寺に埋葬されているのは2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂である。初代の家康は日光東照宮、3代家光は日光にある輪王寺、15代慶喜谷中霊園に葬られている。

 それにしても…なぜ増上寺寛永寺に分けて葬られているのか。これは菩提寺を1か寺にすると、権力が集中する恐れがあるため、といわれている。

 ちなみに、増上寺は江戸三十三観音第21番札所として登場予定である。

 

 慶応4年(1868年)5月15日、上野山にたてこもる彰義隊と官軍の間で戦闘が行われ、山内の寛永寺堂塔伽藍はほとんど焼失、跡地は明治政府に没収された。

 明治政府はこの没収地を公園としたが、その経過については2つの話が伝えられている。

 ひとつめは、大学東校(現・東京大学)の病院建設地にしようとしていた計画を変更したというもの。

 当時東校の教授に招かれて来日中のボードワンは建設予定地を見て、ここを公園にするよう建白したため、公園となった。

 ふたつめは、明治初期、民間への払い下げを決定したが、それを佐野常民が憂い、イギリス公使パークスと協議して、2人の努力が実って公園となった。

 この寛永寺跡地が公園となった地は「上野公園」と呼ばれるようになった。大正13年(1924年)に帝室御料地から東京市へ下賜され、「上野恩賜公園」が正式名称となった。

 

 長くなってしまったが、寛永寺の歴史はこのくらいにして、根本中堂に参拝する。

 寛永寺の根本中堂は、明治10年(1877年)、川越喜多院の本堂を移築したものである。この本堂は寛永15年(1638年)に建てられたもの。

 川越にある、喜多院天海僧正徳川家康にゆかりがある寺院である。

喜多院

 喜多院は天長7年(830年)創建の寺院。

 慶長4年(1599年)に天海僧正が法灯を継ぎ、慶長16年(1611年)に徳川家康が川越を訪れたときに親しく接見している。翌年には家康から「東叡山喜多院」の名を授けられた。

 喜多院については「うさぎの気まぐれまちあるき 川越の魅力をさらに発見する街歩き」で登場している。

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 寛永寺根本中堂には秘仏薬師瑠璃光如来が祀られているが、撮影禁止。参拝後、御朱印をいただいた。

 

 寛永寺境内にはさまざまなものがある。

銅鐘

 この銅鐘は延宝9年(1681年)5月8日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。

 作者は椎名伊予守吉寛で、江戸時代前期に活躍した鋳物師である。

 

 これは虫塚。

虫塚

 虫塚は増山雪斎が写生図譜である「虫豸帖(ちゅうちじょう)」の作画に使った虫類の霊をなぐさめるために文政4年(1821年)に建てられた。

 増山雪斎は伊勢長島藩主を務めつつ、文雅風流を愛し、花鳥画や虫類のスケッチを描いていたという。

 

 尾形乾山墓碑・乾山深省蹟がある。

尾形乾山墓碑・乾山深省蹟

 尾形乾山は江戸時代の陶工・絵師で、寛保3年(1743年)に81歳で亡くなった。

 

 慈海僧正墓もある。

慈海僧正

 慈海僧正は天台宗の僧侶で、寛永寺の子院、凌雲院の住職を務めた。凌雲院が東京文化会館建設にあたり廃寺となり、墓は寛永寺に移された。

 

 これは旧本坊表門、根本中堂に置かれていた鬼瓦である。鬼瓦とは瓦葺きの屋根の端などに設置される装飾性のある瓦で、厄除けの意味もある。葵の御紋が印象的だ。

鬼瓦

 

 台東区立上野中学校に沿って歩いていくと、徳川綱吉霊廟勅額門がある。

徳川綱吉霊廟勅額門

 徳川綱吉は第5代将軍、延宝8年(1680年)に将軍職就任、宝永6年(1709年)に63歳で亡くなった。あの有名な「生類憐みの令」を施行した将軍である。

 綱吉霊廟は宝永6年(1709年)11月に竣工したが、歴代将軍霊廟のなかでも整ったものだったらしい。一部は明治維新後解体されたり空襲で焼失したりで残っていない。勅額門や水盤舎はこれらの災難を免れ、重要文化財に指定された。

 

 徳川綱吉の勅額門のほかに、徳川家綱(第4代将軍)の勅額門も残っている。

徳川家綱霊廟勅額門

 真如院のある交差点を右折して、そのまままっすぐ進むと突き当り左手側に両大師がある。

両大師

 両大師は慈恵大師と慈眼大師、2人の大師像を祀っているので両大師と呼ばれている。

 慈恵大師は平安中期の延暦寺住職の良源大僧正で、慈眼大師寛永寺を開山した天海大僧正である。

 正保元年(1644年)、前年没した天海の影堂を建立して開山堂、別名慈眼堂と称した。

 その後、慈恵大師像を慈恵堂から移したので、両大師と呼ばれるようになった。

 この堂宇は享保5年(1720年)に焼失した直後に再建されたもの。

 堂内と大師像は撮影禁止だが、御朱印をいただいた。

 

 両大師境内には幸田露伴旧宅の門がある。

幸田露伴旧宅の門

 この門は明治の文豪、幸田露伴の旧宅の門で、谷中にあったものを移築した。

 露伴の代表作「五重塔」の主人公「のっそり十兵衛」は寛永寺根本中堂を手がけた大工の棟梁をモデルにしたそうだ。

 

 両大師の奥に、寛永寺旧本坊黒門がある。

寛永寺旧本坊黒門

 寛永寺境内は慶応4年(1868年)5月の上野戦争のため、ことごとく焼失、表門のみ戦火を免れた。

 明治11年(1878年)、帝国博物館(現在の東京国立博物館)が開館すると正門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのにともない、現在地に移建した。

 黒門には不自然な穴が開いている箇所があるが、これは上野戦争時の弾痕である。

 

 ちなみに荒川区南千住にある円通寺にも寛永寺の黒門があるが、こちらも弾痕が開いている。

円通寺寛永寺黒門

3.東京国立博物館

 両大師をあとにして、都道452号線沿いを北西に行くと東京国立博物館がある。

東京国立博物館

 先ほど、寛永寺跡地は上野公園になった、と説明した。

 現在、上野公園には、博物館、美術館、動物園などの文化施設が多い。あげてみると、上野動物園東京国立博物館東京都美術館国立科学博物館国立西洋美術館…などなど。

 「文化施設を多数擁している公園」というのが、上野公園の特色である。

 明治10年(1877年)に上野公園で初開催された内国勧業博覧会が、上野公園がそのような特色をもつ公園に発展するルーツであったといえる。

 

 明治15年(1882年)に東京国立博物館が開館したが、これは第二回内国勧業博覧会で、美術館に使用した建物を利用した。この建物はジョサイア・コンドルの設計によるレンガ造り2階建てである。しかし大正12年(1923年)の関東大震災でこの建物は失われたため、昭和12年(1937年)に「日本趣味を基調とする東洋式」の重々しい瓦屋根をもつ帝冠様式の現在の本館が完成した。これは渡辺仁の作品である。

 私は博物館めぐりも好きなので、行きたいのはやまやまなのだが、ここで博物館めぐりを始めてしまうと終わらなくなるので、博物館めぐりは後日とする。

 

4.上野東照宮

 東京国立博物館のなかに、旧因州池田屋敷表門がある。

旧因州池田屋敷表門

 旧因州池田屋敷表門は屋根を構え、両側に番所を構える表門で、この様式は10万石以上の大名に許されたものである。鳥取藩池田家は32万石の大名だった。

 江戸時代、丸の内の大名小路にあったのを、明治24年(1891年)芝高輪西台町に移し、東宮御所ついでに高松宮邸の表門として使用していた。現在地に移建されたのは昭和29年(1954年)で、国指定重要文化財

 

 交差点に旧博物館動物園駅がある。

博物館動物園

 旧博物館動物園駅は昭和8年(1933年)12月に開業した。しかし利用者の減少により平成9年(1997年)に営業休止、平成16年(2004年)に廃止となった。

 平成30年(2018年)に景観上重要な歴史的価値を持つ建造物として「東京都選定歴史的建造物」に指定された。同年には一般公開も実施された。

 

 旧博物館動物園駅の向かい側には旧東京音楽学校奏楽堂がある。

東京音楽学校奏楽堂

 この建物は、明治23年(1890年)東京音楽学校本館として建設された。設計は山口半六、久留正道で、日本初の本格的な音楽ホールである。

 老朽化が進み取り壊しの危機に瀕していたが、音楽関係者をはじめとする多くの人々の保存に対する努力が実り、昭和62年(1987年)にここに移築復元された。昭和63年(1988年)に国の重要文化財に指定された。

 

 大正15年(1926年)に開館した東京都美術館マティス展がやっていたが、今回はスルーする。

東京都美術館

 上野動物園の門が見える。

上野動物園

 恩師上野動物園明治15年(1882年)に日本最初の動物園として開設された。上野動物園といえばジャイアントパンダだが、昭和47年(1972年)9月の日中国交正常化を記念して中国から贈呈されたカンカンとランランが初代パンダである。ここを見ていると終わらなくなるので素通りする。

 

 グラント将軍植樹碑を見つけた。

グラント将軍植樹碑

 明治10年(1877年)から明治13年(1880年)にかけて、グラント将軍は家族同伴で世界を周遊していた。明治12年(1879年)に来日、上野公園で開催された大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。昭和4年(1929年)にこの碑が建てられた。

 グラント将軍が植えた木は、これだろうか?

 

 グラント将軍植樹碑の近くに小松宮彰仁親王銅像がある。

小松宮彰仁親王銅像

 小松宮彰仁親王は弘化3年(1846年)、伏見宮邦家親王第8王子として生まれた。安政5年(1858年)、仁和寺第30世の門跡(皇族の住職)に就任した。

 慶応3年(1867年)、還俗を命じられ仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)と名乗る。

 明治10年(1877年)の西南戦争では旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。

 明治15年(1882年)に小松宮に改称。明治36年(1903年)に57歳で亡くなった。この銅像は明治45年(1912年)に建てられた。

 

 小松宮彰仁親王銅像の裏に上野東照宮の鳥居がある。この鳥居は上州厩橋城主 酒井雅楽頭忠世(さかいうたのかみただよ)が寛政10年(1798年)に寄進したが、その後地中に埋められ、享保19年(1734年)に子孫の酒井忠知が再建した。

上野東照宮鳥居

 上野東照宮の参道には灯籠がたくさん並んでいる。これは諸大名が寄進したもので、石灯籠は280基あまり、青銅灯籠は50基並んでいる。

 

 上野動物園にある五重塔が顔を覗かせる。

五重塔

 寛永8年(1631年)の上野東照宮造営のときに、下総佐倉城主 土井大炊頭利勝(どいおおいのかみとしかつ)が寄進したもの。しかしこれは寛永16年(1639年)に焼失してしまい、直ちに再建したのがこの塔である。国指定重要文化財

 

 上野東照宮本殿に着いた。

上野東照宮

 上野東照宮の祭神は徳川家康昭和4年(1929年)に合祀された8代将軍吉宗。

 元和9年(1623年)伊勢安濃津藩祖 藤堂高虎(いせあのつはんそ とうどうたかとら)が上野山内の自邸内に社殿を造ったのがその創始だという。

 寛永3年(1626年)江戸幕府が社殿を造営し、慶安4年(1651年)大規模な改造をした。それが現社殿で、権現造りの代表的建造物だ。

 社殿は拝殿、石の間、本殿、内殿から成り、唐門(からもん)、瑞籬(みずがき)とともに国指定重要文化財

 

 上野東照宮不忍池側の入口に几号水準点(水平型なので、正確には東京市水準基標と思われる)があり、それを友人と見に行ったときに、掃除していたおじさんに「上野東照宮にはもうひとつ几号水準点があるよ!」と言われ、紹介されたのが本殿前の石畳にあるこれ。

 几号水準点によく似たキズに見えるが…とりあえず紹介しておく。

 

 上野東照宮御朱印がこちら。

 

 拝観料を払い、なかに入ると御神木がある。

御神木

 この御神木は樹齢600年といわれ、そうなると上野東照宮が建てられる前からここにあったことになる。とても大きい。

 

 上野東照宮本殿を間近で見る。上野東照宮には何度か行ったことがあったが、拝観料を払って中に入るのは初めてだった。とてもきらびやかだ。

 

 上野東照宮をあとにして、不忍池側の出口に向かう。途中にお化け灯籠がある。

お化け灯籠

 お化け灯籠は寛永8年(1631年)に佐久間大膳亮勝之が寄進した灯籠である。なぜ「お化け灯籠」と呼ばれているかは、高さ6m、笠石の周囲3.6mと、巨大な灯籠だったのでその名がつけられたという。灯籠は照明器具だが、これだけ大きいと誰も火を灯せないと思った。

 不忍池側の鳥居へと向かう。

 この鳥居は寛永3年(1626年)に筑前福岡城主 黒田忠之が奉納し、元文2年(1737年)子孫の黒田継高が琢磨を加え再建したもので、もとは江戸城の紅葉山東照宮にあった。明治7年(1874年)に現在地に移建した。

 

 この鳥居の足元に几号水準点(東京市水準基標)がある。

几号水準点(東京市水準基標)

5.上野大仏

 来た道を戻り、上野大仏へ向かう。

 最初に建立された大仏は寛永8年(1631年)に建てられた釈迦如来像だったが、正保4年(1647年)の地震で倒壊してしまった。

 明暦~万治年間(1655~1660年)に再び釈迦如来坐像を造立し、元禄11年(1698年)には仏殿も建立された。

 しかし明治6年(1873年)上野公園開設の際に仏殿が取り壊され、大正12年(1923年)の関東大震災では大仏の面部が落下、第二次世界大戦の金属供出により大仏の体と足が供出されてしまった。

 大仏の面部だけが寛永寺に残ったことになり、昭和47年(1972年)に「上野大仏」として奉安した。ちなみに「これ以上落ちない」ということで合格祈願に効果があることになっている。

上野大仏

 上野大仏の隣にはパゴダがある。

パゴダ

 パゴダは昭和42年(1967年)6月に完成し、薬師如来月光菩薩日光菩薩が安置されている。

 

 上野大仏の御朱印をいただいた。

 

6.清水観音堂

 上野大仏の東側に、摺鉢山古墳がある。

摺鉢山古墳

 摺鉢山古墳は前方後円墳と推測されるが、改変されて往時の姿はないという。

 

 摺鉢山古墳から西に行ったところに五条天神社と花園稲荷神社がある。

五条天神社

 五条天神社の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなびこなのみこと)、菅原道真である。

 社殿ははじめ上野山内に創建し、寛永15年(1638年)黒門前、元禄10年(1697年)上野山南麓旧五条町に移された。現在地移転は関東大震災後。

 五条天神社でも御朱印をいただいた。

 

 五条天神社の境内には花園稲荷神社もある。

花園稲荷神社

 花園稲荷神社の御祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。

 

 五条天神から動物園通りに降りて、不忍弁天堂へ向かう。

不忍弁天堂

 不忍弁天堂は不忍池の上に造営された。不忍池は海岸線の後退で作られた沼で、平安時代にできたという。

 寛永年間の寛永寺造営に際し、琵琶湖になぞらえた不忍池に、竹生島にならった弁天島がつくられ、弁財天が祀られたことで、現在の景観ができあがった。

 陸道と橋によって弁天島の不忍弁天堂に直接いけるようになったのは寛文10年(1670年)のことで、長寿・福徳の神として信仰を集めた。

 弁天堂は昭和20年(1945年)の空襲で焼失し、昭和33年(1958年)に再建された。

 

 不忍弁天堂でも御朱印をいただいた。

 

 不忍池にはハスが繁茂していたが、花を見ることはできなかった。

 

 不忍弁天堂から道路を挟んで向かい側にあるのが清水観音堂だ。

水観音堂

 寛永8年(1631年)、天海僧正が京都の清水寺になぞらえて、摺鉢山の上に創建したのが清水観音堂だ。

 元禄11年(1698年)9月の大火で焼失後、現在地に再建された。

 清水寺を模したので、不忍池側は舞台造りになっている。

 現堂宇は元禄11年(1698年)建立で、本尊の木造厨子とともに国指定の重要文化財。本尊は恵心僧都(えしんそうず)作と伝えられている千手観音菩薩である。

 そして清水観音堂は江戸三十三観音の第6番札所なので、御朱印をいただく。

 

 また上野公園に戻ると、天海僧正毛髪塔を見つける。

天海僧正毛髪塔

 寛永寺を開山した天海僧正の弟子の義海が、慶安5年(1652年)に天海の毛髪をおさめて建立した五輪塔である。偉い人だと髪の毛でも塔が建つのか…。

 

 天海僧正毛髪塔から南へ向かうと、彰義隊の墓がある。

彰義隊の墓

 ここは上野山内に放置されていた彰義隊士266人の遺体を、南千住円通寺の仏磨和尚らが火葬した場所といわれている。この碑には「戦死之墓」と刻まれているが、明治新政府に遠慮して、彰義隊の文字を刻まなかったのだろうか。

 彰義隊とは、15代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷(おがわおきさと)らが慶応4年(1868年)、大政奉還により上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のためにつのった同志である。

 そこには徳川政権を支持する藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まって「彰義隊」と名乗り、上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦5月15日の上野戦争で、新政府軍は半日で彰義隊を壊滅状態に追い込んだという。

 小川興郷は上野戦争で生き残り、明治7年(1874年)にここに彰義隊の墓を建立したという。

 

 彰義隊の墓の南側に、上野のシンボル、西郷隆盛銅像がある。

西郷隆盛銅像

 銅像ははじめ皇居前広場に建てられる計画であったが、西郷隆盛明治10年(1877年)に西南の役を起こし、賊将の汚名を着せられた人物であることから、遠慮してここに建てたらしい。

 西郷隆盛は江戸無血開城の立役者で、江戸を戦火から救ったので、東京を一望できるここに建てたという。

 明治31年(1898年)12月18日、弟の西郷従道山県有朋大山巌勝海舟ら約800名が臨席し、銅像除幕式が行われた。そのとき、西郷隆盛の夫人、イトさんは「うちの人、こげん姿したことなか」と言ったという。この像の製作者は高村光雲

 

 次の江戸三十三観音第7番札所、心城院は湯島天神の近くなので、頑張れば行けるのだが疲れたのでここでやめることにする。コメダ珈琲店でアイスコーヒーを頼んだが、疲れて飲みながら眠ってしまった。

 

 寛永寺延暦寺、不忍弁天堂は竹生島の弁財天、清水観音堂は清水寺を模した寺院である。そこには、京都に匹敵するまちを造りたいという、天海僧正の想いが伝わってくる。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2023年8月5日

【おまけ1 東京国立博物館

 このブログでは上野を語ってきたが、博物館めぐりを始めると清水観音堂までたどりつけないのでは、という不安から博物館には行かなかった。

 でも、あのあと「やはり博物館に行くべきでは」と思い、一番行きたいと思っていた東京国立博物館を訪れた。

東京国立博物館

 今回見に行ったのはこれだ。「特別展 古代メキシコ マヤ、アステカ、テオティワカン」。

 

 今回は音声ガイドを借りてみた。ナビゲーターは女優の上白川萌音さん、ナビゲーター&「雨の神様」役を声優の杉田智和さんが担当している。豪華だ。

 

 まず出迎えてくれるのが「オルメカ様式の石偶」。

オルメカ様式の石偶

 「オルメカ」とは、メソアメリカ(現在のメキシコ周辺の地域)最古の文明である。

 この石偶は半人半ジャガーの幼児像である。少し見ただけとはいえ、どこにジャガー要素があったのかいまいちわからなかった。

 

 展示を見ていたら、ドクロを見つけた。

装飾ドクロ

 頭蓋骨を胴体から切り離し、前頭に毛を挿し込み、目のくぼみに貝殻と黄鉄鉱を嵌めたマスクである。

 死者の世界の主、ミクトランテクトリ神を表しているようだ。いきなりドクロが出てきたのでびっくりした。

 

 小さな土偶を見つけた。

貴人の土偶

 つばの大きな帽子を被り、美しいコートを羽織った貴人の土偶だそうだ。澄ましている。

 

 これは死のディスク石彫。

死のディスク石彫

 舌を出す頭蓋骨の周囲に放射状のモチーフがある。

 メソアメリカでは日没は死、日の出は再生を意味するとされたので、西に沈んだ(=死んだ)太陽を表しているとされている。日没を「太陽の死」と解釈するのは興味深いと思う。

 

 少し面白い顔をした立像を見つけた。

モザイク立像

 このモザイク立像は、小石や貝殻、黄鉄鉱を木製の人形土台の上に貼り付けて磨いたもの。驚いた顔をしているように見える。

 

 鼻飾りが展示されていた。

鼻飾り

 上の鼻飾りはガラガラヘビの尻尾を象ったもので、下の鼻飾りはシパクトリ神(アステカ神話に登場する大地の神)の頭飾りをモチーフとしている。

 

 羽毛の蛇神石彫とシパクトリ神の頭飾り石彫が展示されている。

羽毛の蛇神石彫

シパクトリ神の頭飾り石彫

 これは羽毛の蛇ピラミッドの壁面を飾った大石彫の一部で、羽毛の蛇神の波打つ胴体に、シパクトリ神の頭飾りのモチーフが繰り返し彫られている。

 

 現代のトランペットとはずいぶん違うが、これがテオティワカンのトランペットらしい。

トランペット

 巻貝の先端を切り取り、吹き口とした楽器で、羽毛の蛇ピラミッドから出土した。このトランペットにはワニに似た像が描かれている。トランペットというよりは、法螺貝に近いのでは、と思う。

 

 椀が展示されていた。

 この椀の特徴はオレンジ色であることと、薄いことである。このような特徴を持つ椀はテオティワカン南のプエプラ地域で作られたものらしい。模様が独特だ。

 

 これは「嵐の神の壁画」である。

嵐の神の壁画

 この嵐の神は籠を背負い、右手にトウモロコシを持っている。音声ガイドで雨の神様が「これはワシじゃよ。トウモロコシをあげよう。」と言っていたのを覚えている。

 

 これは鳥形土器。

鳥形土器

 発掘者により「奇抜なアヒル」と名付けられた貝などの装飾を持つ鳥の容器で、メキシコ湾岸部との交易を担った貝商人の副葬品と推定されている。奇抜かもしれないが、なんか可愛い。

 

 嵐の神の屋根飾りを見つけた。

嵐の神の屋根飾り

 テオティワカンの住民が暮らしていたのはアパートのような住居で、そこに飾られていた屋根飾りだ。この嵐の神様は「トラロク神」といい、雨と農耕を司った。沖縄のシーサーのようなものだろうか。シーサーとは主に沖縄で見られる獣像で、魔よけの意味で屋根の上に設置されることが多い。

 

 これは香炉。

香炉

 香炉の多くは住居から出土し、祖先を祀る儀礼に使われた。今でいう回転灯篭のようなものだろうか。

 

 人形骨壺を見つけた。

人形骨壺

 オアハカ移民地区内で見つかった人形骨壺で、移民地区のリーダー、先祖、神のいずれかを表していると推定されている。なんでおっさんが座っているんだろう、と思って見ていたら、骨壺だった。


 テオティワカン文明の話から、マヤ文明に移る。テオティワカン文明はメキシコシティ北東のテオティワカンで紀元前2世紀から6世紀まで繁栄した文明で、マヤ文明グアテマラベリーズなどの「マヤ地域」を中心として栄えた文明である。
 これはマヤ文明の金星周期と太陽暦を表す石彫である。

金星周期と太陽暦を表す石彫

 この石彫では左側が金星、右側が太陽暦の年を表していて、縦の棒が数字の5、8つの丸が8を意味している。584日の金星の周期5回分が、365日の太陽暦の8年にあたる、ということを示しているらしい。この石彫だけ見ても意味がわからないので、解説があってよかった。

 土偶がいくつか展示されている。これは貴婦人の土偶

貴婦人の土偶

 この土偶はトウモロコシの神様を真似た頭の変形や口元の装飾が表されている。音声ガイドで解説されていたが、身分の高い女性は頭の柔らかい子供のうちに器具を使って頭を縦長にしていたらしい。纏足のようで、想像すると怖くなった。

 

 これは戦士の土偶で、都市の儀礼的戦闘の闘士か儀式用の盛装をした戦士と考えられている。手に持っているのは盾だろうか。

戦士の土偶

 これは捕虜かシャーマンの土偶。帯を巻いた頭飾りは神官を表すとされるが、耳の紙帯や首と腕の縄の表現から、高位の戦争捕虜とも考えられている。私は捕虜だと思った。

捕虜かシャーマンの土偶

 これは猿の神とカカオの土器蓋。

猿の神とカカオの土器蓋

 これは猿の神を表し、首には猿の好物カカオの実の装飾がみられる。犬や猫にカカオの加工品、チョコレートをあげるとカフェインやテオブロミンで中毒を起こすようだが、猿は食べても平気らしい。

 

 これはトニナ石彫。

トニナ石彫

 これはカラクムルの王とトニナの王が球技をしている場面の石彫で、中央のゴムボールにマヤ文字で西暦727年にあたる年が記されている。音声ガイド曰く「これはボールで遊んでいるのではなく、真剣勝負」らしい。

 

 これは96文字の石板。

96文字の石板

 キニチ・クック・バフラムの即位20周年に彫られた碑文で、西暦654年にパカル王が建てた宮殿の近くで見つかり、歴代の王の即位が記されている。私にマヤ文字の知識はないので、何と書いてあるかはわからなかった。

 

 これは太陽の神殿の北の石板。

太陽の神殿の北の石板

 中央の戦士はパカル王の息子キニチ・カン・バフラムでパレンケ(マヤ文明の国で、パカル王がパレンケの王)がトニナに勝利した祝いの祭礼における姿を描いているとされている。顔は見えないので、どんな表情をしているかわからないが嬉しい表情だろうか。


 1994年に行われたパカル王墓の発掘調査で辰砂(赤い水銀)で覆われた女性の遺骨が見つかった。この女性は「赤の女王(レイナ・ロハ)」と呼ばれた。この女性はパカル王の妻であると考えられている。

 「赤の女王」の発掘状況が再現されていた。

赤の女王

 これはチャクモール像で、腹の上に皿状のものを持つ石像で、そこに神への捧げものを置いたと解釈されている。腹の上に捧げものを置くなんて斬新だな。

チャクモール像

 

 ここからはアステカ文明の話。アステカは1428年頃から1521年までの95年間メキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家である。

 これはメンドーサ絵文書(複製)。

メンドーサ絵文書

 これはスペインがアステカを征服した後、先住民が記録した絵文書で、ここにはテノチティトラン創設の場面が描かれている。この絵が、現在のメキシコ国旗の紋章にも使われている。

メキシコ国旗

 鷲の戦士像を見つけた。

鷲の戦士像

 戦闘や宗教に重要な役割を担った鷲の戦士とみられる像で、鷲の頭飾りを被り、羽毛や鉤爪の装束を身に着けている。

 一瞬江戸時代に空を飛ぼうとした浮田幸吉みたいだな、と思ってしまったが、多分関係性はない。この人は空を飛ぼうとはしてない、はず。

 

 これはトラロク神の壺。

トラロク神の壺

 水を貯える壺にトラロク神の装飾があり、雨や豊穣の願いが込められたものと考えられている。音声ガイドで雨の神様がまた「ワシじゃよ」と言っていた。

 

 最後に、発掘された金の装飾品が展示されていた。金の装飾品は、美しい。

 

 この日は平日だった。本当は出勤日だったが、諸事情があって夏休みを1日延ばしてもらえたので、博物館に来た。それでもかなり混んでいたので、古代メキシコというのは人気のあるコンテンツなのだな、と思った。

 このあとは平成館のほかの展示を見た。古代メキシコ展以外は、撮影禁止だったので文章のみとする。

 まず、「姫君婚礼につき」。これは徳川家で生まれた女性がほかの家に嫁ぐときの嫁入道具を展示していた。流石徳川家、どの嫁入道具にも葵の御紋が入っていた。

 もうひとつが、「日本の考古(通史展示)」。これは考古学的な展示だった。「遮光器土偶」が展示されていたのが印象に残っている。これは青森県つがる市で発掘されたもので、縄文時代に使われた祈りの道具である。教科書で見た記憶がある。

 また、「考古学」といえば縄文時代などをイメージしがちだが、発掘された江戸時代の金貨も展示されていた。発掘されれば、結構新しい時代でも「考古学」というのかもしれない。

 東京国立博物館はほかにもまだまだ展示があるようだったが、平成館を見ただけで閉館時間になってしまった。情報量が多く少し疲れてしまったが、東京国立博物館はまた行きたい、と思うことができる博物館だった。

訪問日:2023年8月17日

【おまけ2 旧下谷小学校】

 普段関西に住んでいる友人が関東に出張で来たので、自由学園明日館に行ってきた。

自由学園明日館

 自由学園明日館でお茶していて、「次どこ行く?」という話になった。

 友人は「すごく行きたい場所があるわけではないので、もし行きたい場所があれば」と言ったので「じゃあ旧下谷小学校に行きたい」と答えた。

 旧下谷小学校は昭和3年(1928年)に建てられ、平成2年(1990年)に閉校した。いわゆる「復興小学校」だ。復興小学校とは、大正12年(1923年)の関東大震災で被災し、復興事業の一環として鉄筋コンクリート造りで再建された小学校だ。

 閉校後は放置されていたが、このたび、取り壊されるということで令和5年(2023年)7月21日~23日のみ内部が特別に公開されることになった。それが近代建築マニアのなかで「すごくいい」とTwitterで話題になっていたので、興味を持っていたのだ。

 自由学園明日館から池袋駅に向かい、山手線に乗車、上野駅で下車、入谷口から出る。上野公園のある反対側とは違い、閑静な住宅街という印象だ。

 まっすぐ歩いていると、ツタまみれの廃校舎が現れた。これが旧下谷小学校だ。

下谷小学校

 入口から入り、いきなり黒い門のある部屋に入った。これは奉安殿だ。

奉安殿

 奉安殿は明治以降、学校に下賜された天皇・皇后の御真影(写真)や教育勅語謄本を納めていた場所のことである。戦後、奉安殿は撤去命令が出たがここの奉安殿がそのままあるのは、ビルトイン奉安殿だからだろうか。

 

 下谷小学校の紋章が展示されていた。昇降口の上に設置されていたらしい。

 

 流し台を見つけた。小学生の頃、流し台から水を飲んだら塩素臭くてまずかったことを思い出す。

 

 階段を上って2階へ向かう。階段の段鼻が丸く整えられているのは、子供が転んでも怪我しないように、という配慮だろうか。

 

 廊下の配線がむき出しだ。

 

 教室には、いろいろなメッセージが書いてある。

 「大変モダンで素敵な建物なので解体せずホテルや商業施設に」

 私も再利用してほしいと思うし、友人も「何かに使えないのかな」と言っていた。

 

 「ありがとう 昭和32年卒」

 私が卒業した学校の校舎も昭和53年(1978年)に建てられたものだが、いつか取り壊しのときに見に行ったりするのだろうか。地元を離れているので、話すら来ない気もするが…。

 

 「そうか、学校嫌いだと思ってたけどホントは好きなんだ…」

 このコメントには、同じ学校嫌いだった人間として、クスっと笑ってしまった。

 

 唱歌室に入る。音楽室じゃなくて、唱歌室。

 

 唱歌室の特徴は、半円型の欄間がついた引き違いの戸である。半円型の欄間がオシャレだ。

絶妙に歪んだガラスもいい

 階段を上がり、3階へ。

 

 ここは家庭科室。調理実習が行われたのだろうか。

 

 オーブンが古そうだ。

 

 30年近く放置された校舎に、ツタが絡まって外の景色が見えない。

 

 屋上に向かった。屋上は体操場としても使われていたようだ。

 

 屋上から校庭を俯瞰する。

 友人が「アニメやドラマではよく屋上でごはん食べてるシーンあるけど、うさぎさんの学校は屋上上がれた?」と聞いてきたので、「いや、上がれない。だから学校の屋上に来たのは初めてかも。」と答えた。

 

 屋内に戻り、教室を覗くとここにもメッセージが書いてあった。

 先生の名前が書いてあり、「ありがとうございました。多くの教えを忘れずにこれからも生きていきます。」と書いてある。担任の先生の名前、一部は覚えているけど全員言ってみろ、と言われたら難しいだろうな。

 

 「宿題 不幸の手紙5通」なんで…w

 

  「係からの連絡 今日は給食なしです」いや、そうでしょ!笑

 

 「ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう」

 小学校は子供の頃6年過ごす場所だから思い出深いんだろうなぁ。

 

 ここは理科室。なんかの薬品を混ぜる実験とか昔やったなぁ、などと考える。

 

 ここは図書室。図書は全くない。

 

 「校長室」と書かれている部屋に入ったら黒板に「旧視聴覚室」と書いてあって笑ってしまった。

 

 ここはなぜか立入禁止。

 

 「101回卒業生です。下谷小学校ありがとう。会えずにいる皆は元気かな?」

 私は成人式後の同窓会も行ってないし、小学校の同級生とは何年も会っていないが、みんな元気にしているだろうか。

 

 おもむろに下を見るとタイルが貼ってあった。これは滑り止めらしい。

 

 講堂に向かう。

講堂

 ここは講堂兼屋内体操場だった。

 舞台に上って写真を撮る人がいるため「漫才でもするのかね」と友人が言った。「いや、しないでしょ」と私が返す。

 こういうところで全校集会をやった記憶を思い出す。

 

 校庭に出る。都心の学校だからか、私の母校より狭い校庭だ。

 

 「記念樹」と書かれていたが、かたわらに木はない。

 

 もう一度旧下谷小学校を見上げて、あとにする。

 

 私は埼玉県川越市の出身なので、台東区にある下谷小学校は母校ではないし、そもそも私が生まれる前に閉校している。

 それでも、「どこか懐かしいなぁ」といった郷愁を覚えた。遠い小学生時代の記憶を思い出すかのように。

 そして、旧下谷小学校の内装は印象的だった。もう取り壊しが始まっているのかもしれないが、もし取り壊していないのであれば、そのまま残してほしい、残すならもう少し綺麗にして資料館等にしてほしい、と思うのは、私だけだろうか。

訪問日:2023年7月23日

 

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

小森隆吉(1978) 「台東区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2020) 「東京都の歴史散歩 上 下町」 山川出版社

上野さくら浄苑 浄名院について

https://www.uenosakura-joen.jp/jyomyoin.html

京成電鉄 旧博物館動物園駅とは

https://www.keisei.co.jp/keisei/hakudou/about/index.php

(2023年9月4日最終閲覧)

東海道を歩く 25.磐田駅~浜松駅

 前回、袋井駅から磐田駅まで歩いた。今回は磐田駅から浜松駅まで歩こうと思う。見付宿から浜松宿までの距離は4里7町(16.5km)、かなり長い。足に豆ができて最終的には歩き方がおかしくなってしまった。そんな感じのウォーキングだが、お付き合いいただきたい。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

1.くろん坊様

 今日は磐田駅からスタートだ。

磐田駅

 「天平のまち」がある交差点で左折して、東海道に合流する。サッカーチーム「ジュビロ磐田」のキャラクター「ジュビィちゃん」が出迎えてくれた。ジュビィちゃんともう1人の「ジュビロ磐田」のキャラクター、ジュビロくんは静岡県の県鳥「サンコウチョウ」がモチーフとなっている。

ジュビィちゃん

 博報堂新聞店の手前に、中泉浅間神社がある。

中泉浅間神社

 中泉浅間神社の説明板は特になかったが、浅間神社なので木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)が祭神であると推定される。

 

 磐田市中泉交流センターの手前に「夢舞台東海道」の「中泉」があった。

「中泉」

 ここには三角点もある。四等三角点「坂上」だ。

四等三角点「坂上

 四等三角点「坂上」は平成14年(2002年)に設置された標石型の三角点だが、マンホールの下にある。

 

 そのまま進み、県道261号線との合流点にくろん坊様がある。

くろん坊様

 くろん坊様こと黒坊大権現は、現在地の西約100mの水田にあった祠を移したもので、咳や熱病の神様とされている。…コロナにも効くのだろうか?

 インド人の旅僧が手にかけられて金品を奪われてしまったので土地の人々が手厚く葬ったもので、毎年11月3日が縁日とされている。…要は外国人旅行客の金品を奪い殺したということだよな…?

 このあたりは下り坂となっており、「大乗院坂」と呼ばれている。それはこの坂の途中に「大乗院」という寺院があったからだ。

 

 「東海道と歴史の道」という道標を見つけた。これは初めて見た。

 

 現在12時。「東海道と歴史の道」の近くにあったジョイフルでハンバーグを食べた。

 余談だがジョイフルは九州に多く、関東ではあまり見ないファミレスチェーンである。本社のある大分県には48店舗、福岡県には97店舗もあるのに、埼玉県には11店舗、東京都には4店舗しかない。ちなみに静岡県には12店舗ある。チェーンとはいえ、あまり見かけないチェーンなので見つけたら入るようにしている。

 

2.若宮八幡宮

 ジョイフルから出て先に進むと、宮之一色一里塚がある。

宮之一色一里塚

 一里塚は旅人に距離を知らせるために一里(約4km)ごとに街道を挟んで両側に1基ずつ作られた。宮之一色一里塚は江戸日本橋から数えて63番目の一里塚である。これは昭和46年(1971年)に復元されたものである。

 

 宮之一色一里塚の少し先に、宮之一色秋葉山常夜燈がある。

宮之一色秋葉山常夜燈

 宮之一色秋葉山常夜燈は文政11年(1828年)に建てられた。竜の彫り物があるので「竜燈」とも呼ばれている。

 地域の安全と火防の守り神として崇敬されているという。

 

 また「東海道と歴史の道」を発見した。

東海道と歴史の道」

 

 100円ショップ「レモン」の向こうに「さわやか豊田店」を発見したが、62分待ちだったので断念した。ジョイフルで昼食を食べたばかりなのでお腹も空いてない。

 

 「東海道と歴史の道」についての説明板があった。

 

 磐田市では若宮八幡宮の少し東側のここから3kmの道を「東海道と歴史の道」と定め、いくつかの案内板を設置したそうだ。

 

 ここから少し先に、若宮八幡宮がある。

若宮八幡宮

 若宮八幡宮の御祭神は大雀命(おおさざきのみこと)(仁徳天皇)、品陀和気命(ほむだわけのみこと)(応神天皇)、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)である。

 明治7年(1874年)に近隣29か村の神社を合祀して創始された。

 

 マンホールを見ると「豊田町」と書いてある。ここは磐田市のはずだ。

 豊田町は平成17年(2005年)に磐田市、竜洋町、福田町、豊岡村と合併して磐田市となり、廃止された。

 これが、旧豊田町章の仕切弁だ。

 「ト」を図案化して4つを周りに外向けに配して「トヨ」とし、その円の中央の「十」によって「田」とし、これらの円を翼形に作図している。

 

 しばらく進むと、左手側に明治天皇御座所跡碑がある。明治天皇の休憩所跡である。

明治天皇御座所跡碑

 少し進むと、「夢舞台東海道」の「長森立場」がある。

「長森立場」

 ここから少し東に、長森立場があった。立場とは、江戸時代に宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村に設けられた、街道を利用する人の休憩所である。

 また、長森立場の近くでは、あかぎれや切り傷に効いたとされる膏薬「長森かうやく」が、街道を通る人たちの土産品として人気を博していた。

 膏薬を作っていた山田家には今でも江戸時代に作られた大看板が残っている。作り方は残っていなかったのか、「長森かうやく」は現在は販売されていない。

 

3.天竜

 「夢舞台東海道 長森立場」の次の交差点を右に曲がり、そのまま進んで国道1号に合流する。新天竜川橋で天竜川を渡るのだ。

 天竜川を渡るには、古代から明治初期まで渡船が基本だった。大井川と異なり、天竜川で川留めになったという話はあまり残っていない。それは歩いて渡るのではなく船で渡るからだが、その船も川の中の中洲を利用していた。

 それはつまりこうだ。池田の下渡船場から船に乗って大天竜川を渡り、中洲でいったん降りて歩き、再び小天竜川を船に乗って西岸の富田村へ上陸する、二瀬越えだった。大水で中洲が見えなくなったときは斜めに一気に渡りきったそうだ。

 大井川は川留めが多かったので島田と金谷、川の両端に宿場があったが、川留めが少ない天竜川の近くに宿場はいらず、見付と浜松の間は4里以上離れている。

 

 大井川には劣るが、天竜川の流れも雄大だ。

天竜

 天竜川の西詰に、国道1号線の250kmポストがあった。日本橋から250kmも進んだのか、という感慨に耽る。

 

 「浜松市東区」のカントリーサインがあった。やっと浜松市に入った。

浜松市東区

 

 「東海道案内板」があり、中ノ町のことが紹介されている。

東海道案内板」

 ここは江戸と京都のまんなかであるから中ノ町という。

 「東海道中膝栗毛」には以下のように紹介されている。

 「舟よりあがりて建場の町にいたる。此所は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば、中の町といへるよし。」

 「東海道を歩く」をずっと読んでいる人ならおわかりかもしれないが、以前「東海道どまん中」を名乗る袋井宿があった。

袋井宿の「東海道どまん中茶屋」

 これは、どういうことか?東海道どまん中茶屋のスタッフの方はこう言っていた。

 「江戸から数えても、京から数えても袋井宿は27番目の宿場なので、「東海道どまん中」と言われているのですよ。距離的な「どまん中」は浜松市天竜川を越えたあたりです。」

 「宿場」のまんなかは袋井宿、「距離」のまんなかは中ノ町なので、ある意味では「どっちも正解」となるのだ。

 袋井宿「東海道どまん中茶屋」は「東海道を歩く 23.掛川駅袋井駅」で紹介している。

octoberabbit.hatenablog.com

 

4.中ノ町道路元標

 浜松市のマンホールを見つけた。

 これは波涛逆巻く遠州灘に臨む街で、根上がり松の景勝地をたたえられたことを象徴した浜松市章だが、これは平成17年(2005年)に廃止されている。

 こちらが2代目の市章つきの消火栓。カントリーサインのほうがわかりやすいのでそちらも載せる。

 この市章は浜松市の北部にある森林地帯と南側にある浜名湖遠州灘を表したもので、平成17年(2005年)に制定された。

 この仕切弁は旧市章のものだろうか。

 

 天竜川沿いを歩く。この通りは横町通りという。

横町通り

 横町通りは、江戸時代には東海道と富田・一色の渡船場を結ぶ堤の往還として多くの旅人が往来し、このあたりには川高札が立てられていた。

 大正から昭和初めにかけて、天竜川を利用した流通が盛んになり、木材を筏に組んで川を下る筏師や、上流の久根銅山、峰の沢鉱山から鉱石を運ぶ帆掛船の船頭たちで、この通りは大変賑わっていたという。今は閑静な住宅街だ。

 

 六所神社の前に、中ノ町道路元標がある。

中ノ町道路元標

 道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では全国で2,000基程度しか残っていない。なお、説明板には「静岡県内ではおそらく唯一の、たいへん貴重なものです。」と説明されているが、国道901号さんが主宰するサイト「道路元標が行く」では静岡県内に少なくとも4基が現存していることが判明している。中ノ町道路元標もそのひとつだ。

www.road.jp

 しかもこのサイトはまだ更新されているので、もしかしたら静岡県内にもっと残っているのかもしれない。

 ただ、静岡県は全国的に見て道路元標の残存の少ない県であることは事実で、「東海道を歩く」で道路元標を見るのは愛知県の二川町が最初かな、と思っていたのでこれはサプライズだった。

 「東海道を歩く」では初回「東海道を歩く 1.日本橋~品川駅」で最初に登場した「日本国道路元標・東京市道路元標」以来の登場である。パチモンの自称「道路元標」であれば、「東海道を歩く 8-3.平塚駅箱根板橋駅③ 4.小八幡八幡神社」の「小八幡村の道路元標」が登場している。

octoberabbit.hatenablog.com

octoberabbit.hatenablog.com

 

 東海道とは関係ないのだが、「地図ラー7 本の中でまち歩き三昧」で「道路元標を訪ねて―千葉市編―」という文章を書いている。これは千葉市の道路元標の特集だ。「10月うさぎ」ではなく実名名義ですが私が書いた文章なので、読んでいただけると嬉しいです。

chibachizu.base.shop

 

 つい熱くなってしまったが道路元標の話題はこれくらいにして、六所神社に参拝する。

六所神社

 六所神社の祭神は底津海祇神(そこつわたつみ)ほか7柱。建治2年(1276年)創建、明治7年(1874年)現在地に遷座した。

5.松林禅寺

 六所神社を出てすぐ右手側に、中野町銀行跡がある。

中野町銀行跡

 明治15年(1882年)、ここで「竜西荘」が結成され、2年後に「中野町銀行」が誕生した。今は合併を繰り返して、静岡銀行になっている。

 昭和49年(1974年)までここに建物があり、現在は地面に埋もれた煉瓦に、当時の面影を見ることができる。

 

 ちなみに約1年前にも大正14年(1925年)に建てられた清水銀行由比本町支店を見ている。

清水銀行由比本町支店

 これは「東海道を歩く 14.新蒲原駅由比駅 6.由比宿を歩く」で登場している。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 また少し進むと、天竜川橋紀功碑がある。

天竜川橋紀功碑

 天竜川橋紀功碑は天竜川に橋を架ける作業に功績のあった浅野茂平の業績を刻んだ石碑である。

 浅野茂平は明治元年(1868年)の明治天皇東行に際して天竜川に船橋を架けて安全な渡河に功績を残したほか、明治7年(1874年)には船橋を再度完成させ、天竜川を挟んだ東西流通の活性化に大きく貢献した。

 石碑は、明治27年(1894年)に建てられた。

 

 この先少し左側に行ったところに伊豆石の蔵がある。

伊豆石の蔵

 この蔵は、明治時代に伊豆半島から切り出された伊豆石で造られた蔵である。伊豆で採れた石は、火に強い建築材料として、蔵や塀に使われたという。伊豆石の縞模様がモダンに感じる。

 

 浜松市の現在の市章のマンホールを見つけたが、波の表現が独特だ。

 

 東橋跡を見つけた。

東橋跡

 かつてここを流れていた小川には土橋が架かっており、東海道を往来する旅人はみんなこの橋を渡っていた。この橋は中ノ町の橋では一番東にあったので「東橋」と呼ばれていた。

 明治後期から中ノ町は木材の集積地として栄え、旅館やカフェーなどが軒を連ねていた。この東橋が中ノ町繁華街への入口となっていた。

 

 浜松市のデザインマンホールを見つけた。

 このマンホールは浜松まつりの凧揚げ合戦の凧をデザインしている。

 

 この細い道が軽便鉄道の軌道跡だったという。

 軽便鉄道明治42年(1909年)から、浜松駅~中野町駅の11駅間を走っていた。

 昭和3年(1928年)以降は軌道自動車(ガソリンカー)に変わり、昭和12年(1937年)に廃線となるまで、沿線住民の足として愛されていたという。

 

 軽便鉄道軌道跡の少し先に、松林禅寺がある。

松林禅寺

 松林禅寺は臨済宗方廣寺派に属する寺院で、江戸時代には中ノ町に属していた。

 境内の薬師堂は徳川家光浜松城主に命じて建立させたものと伝えられている。この寺は元禄、享保の2度にわたって炎上しているが薬師堂は焼失を免れている。

 薬師堂は遠江四十九薬師霊場に指定されている。

薬師堂

6.明善記念館

 松林禅寺から進むと、右手側に明善記念館がある。入ってみよう。

明善記念館

 金原明善は、天保3年(1832年)長上郡安間村の大地主の家に生まれ、幼いころから、天竜川の水防が必要なことを痛感していたため、明治8年(1875年)治河協力社を設立し、全財産をなげうって治水事業につくした。天竜川の治水のために、天竜川上流域の広範囲にわたる植林事業にもつとめた。また、実業家や社会事業家としても活躍した。

 天竜川とともに生きた金原明善は、妙恩寺に葬られ、「天竜院殿明善日勲大居士」の戒名が贈られたという。

 平成23年(2011年)、築200年を経た明善の生家が改修され、新たに記念館を兼ねて遺品、遺墨、文書等関係資料が公開されているのが明善記念館だ。

 

 記念館に入ると、まず「金原明善伝」というビデオを見て金原明善について学ぶ。

 

 ビデオを見終わり、記念館の展示を見る。「明善の屏風」と説明されているが、金原明善が書いた屏風、ということでよいのだろうか。

明善の屏風

 明治10年(1877年)頃の天竜川の絵図が展示されていた。縮尺は1:3,000で、1.8mもある長い絵図だ。

天竜川絵図

 金原明善は3回ほど疎水計画を提出したという。

 まず明治5年(1872年)に静岡県に「天竜川分水計画」を提出した。これには天竜川の両岸の開墾、三方原から浜名湖までの運河を作る計画などが書かれていたが、規模が大きすぎて採用されなかった。

 続いて明治17年(1884年)に再度静岡県に疎水計画を提出した。天竜川西岸の飯田町から東海道の南側に運河を掘り、堀留運河に連絡すること、舞阪港に港湾を作り汽船が入港できるようにすることが記載されていたが、浜名湖が浅海であることから断念された。

 

 明治32年(1899年)にも再度「天竜川分水路開墾予算」を提出した。これは36kmの水路を作る計画で、予算は216万円だった。当時の1円は現在の1,500円ほどの価値があるので、現在の価値で考えると32億4,000万円となる。これは当時の国家予算の1%弱に当たる額で、経済的問題により静岡県から許可は出なかった。

 

 明治37年(1904年)に金原明善は疎水事業を行うため金原疎水財団を設立し、自分の財産を提供した。しかし明善の計画が実行されたのは昭和13年(1938年)に着工した浜名湖排水幹線改良事業で、明善は大正12年(1923年)に亡くなっていたので死後15年後に実行されたことになる。そしてこの計画は昭和60年(1985年)に完成した。

 ちなみに明善が生まれたのは天保3年(1832年)なので92歳で亡くなったことになる。当時の平均寿命(44歳前後)を考慮するとかなり長生きである。

 

 天竜川は幾度も洪水を繰り返した。そのパネルも展示されていた。

 

 明治44年(1911年)8月3日から5日にかけて、潮岬の南方海上を北上した台風は、熊野灘から伊勢湾に上陸、長野県・新潟県を通過した。浜松地方は大井川から天竜川流域にかけて総雨量が300~800mmに達し、気田で日雨量583mmを観測した。

 天竜川の水位は鹿島で7.88mに達し、大洪水に加えて山林の崩壊が発生した。これにより死者・行方不明者19名、損壊家屋363戸の大被害を出したため、天竜川の大改修に着手することになった。

 

 昭和13年(1938年)6月28日から7月5日の8日間に水窪583mm、浜松419mm、二俣404mmの雨量を観測、この大雨により天竜川が氾濫した。豊橋工兵隊による決死の水防活動により、堤防の決壊はなんとか食い止められたという。

 

 天竜川に災害が起こるのは、台風ばかりではない。昭和19年(1944年)12月7日に東南海地震が発生し、御前崎で震度6、浜松で震度5を記録した。

 このときは太平洋戦争中、復旧は困難を極め、戦後の昭和21年(1946年)までかかった。天竜川の堤防は沈下し、大亀裂を生じたという。

 このときの東南海地震の自然災害伝承碑が「袋井市西国民学校被災児慰霊碑」で、これは「東海道を歩く 24-1.袋井駅磐田駅 前編」の2.澤野医院記念館で登場している。

袋井市西国民学校被災児慰霊碑

 

 その1年後、昭和20年(1945年)10月5日に来襲した「阿久根台風」により、天竜川の堤防が決壊、天竜川流域の死者は34名、浸水家屋847戸にのぼった。

 

 昭和35年(1960年)8月9日から14日に台風が来襲し、総雨量が平野部200~300mm、山間部400mm以上が降り、天竜川の水位が上がったため流域で大きな被害を出した。

 翌年の昭和36年(1961年)6月にも大雨が降り、天竜川中下流域の流域で家屋の流出・損壊64戸、浸水家屋637戸の被害を出した。

 

 昭和43年(1968年)8月にも大雨が降り、浜松市天竜区水窪町で死者・行方不明者4人、家屋流出6戸、浸水戸数737戸の被害を出した。

 翌年の昭和44年(1969年)にも台風7号による集中豪雨で流出家屋2戸、浸水家屋768戸の被害が出ている。

 

 昭和49年(1974年)7月7日、七夕の日といえば織姫様と彦星様が再会するめでたい日に、雨量500mm超えの豪雨が起き、天竜川流域でも被害発生、合計8人の犠牲者が出た。

 

 昭和57年(1982年)の台風10号では浸水家屋419戸、浸水面積75.4haの被害が発生した。

 昭和58年(1983年)9月の洪水では死者行方不明者3人、損壊家屋4戸、浸水家屋85戸の被害が発生した。

 

 そして8年前、平成27年(2015年)の関東・東北豪雨も忘れてはならない。静岡県内では負傷者5人、床上浸水20棟、床下浸水76棟、一部破損1棟の被害が発生し、浜松市内でも1m以上浸水した地区があった。

 

 この前も台風8号鳥取で9ヶ所1,800人の孤立集落や500戸の断水、そして東海道新幹線の運休による混乱が発生した。日本に住んでいる以上、地震や台風をゼロにすることはできなくても、治水による被害縮小を図ることが大切だと改めて感じた。

 

 金原明善の話に戻ろう。

 当時はメールなどはないので、遠方の人とのやりとりは全て手紙である。これは金原明善品川弥二郎の手紙である。品川弥二郎は日本の政治家で、内務大臣などを務めた人物である。

 

 金原明善が出張時使った旅行鞄などが展示されている。

 

 これは金原明善が設立した治河協力社関連の資料。水利学校も付属しており、この学校では治水土木技術者を養成していたという。

 

 治河協力社で使っていた測量機器が展示されていた。これは測量士として見逃せない資料だ。

 

 金原明善肖像画と玉城夫人の写真。明善は厳めしい印象がある。

 

 金原明善明治20年(1887年)に山林の経営に着手しており、そのとき使っていた道具が展示されていた。

 

 金原明善の治河協力社の設立や山林経営等の功績は天皇からも評価されており、明治天皇から下賜された金杯が展示されていた。

 

 金原明善は友人も多かったようで、友人の書家、金井之恭と副島種臣の書が展示されていた。

 

 これは品川弥二郎金原明善が書いた書だ。それぞれ「富在山林」「私心一絶萬功成」と書いてある。

 

 これは宮中顧問官を務めた二条基弘の書で、明善の米寿祝いに贈られたもの。

 

 こちらは御歌所初代所長を務めた高崎正風の書。

 

 これは金原明善が設立した静岡勧善会の資料だ。静岡勧善会は犯罪者が監獄から刑期を終えて出てきた後に保護し、更生するための組織で、現在まで続いている。

 

 金原明善は銀行もやっていたようで、金原銀行というようだ。明治33年(1900年)に始まり、昭和15年(1940年)に三菱銀行と合併した。

 

 天竜川の治水事業だけでなく、北海道の開拓もやっていたようだ。

 

 これは衣笠豪谷の書。衣笠豪谷は日本画家だったようだ。

 

 明善記念館は2階もあり、そちらも見る。2階には見崎泰中の作品が展示されていた。見崎泰中は昭和14年(1939年)生まれの芸術家。なんかうねうねした作品だ。

 

 金原明善の治水事業を子供向けに説明する「明善とあばれ天竜」という紙芝居が展示されていた。

 

 これは小野湖山の書で、小野湖山は明治期に活動した漢詩人。

 

 食器が展示されていたが、これは金原家にあったものらしい。

 

 山駕籠が展示されていた。明善は91歳になっても山駕籠に乗って天竜川上流の山林の視察に来ていたようだ。

山駕籠

 金原明善が建てた学校、安間学校の瓦が展示されていた。現在は浜松市立和田小学校となっている。

 

 これは桜井能冠の書だ。桜井能冠は宮内省の官僚で、内大臣秘書官などを務めた。

 

 金原明善渋沢栄一とも付き合いがあったようだ。渋沢栄一といえば令和6年(2024年)から発行される1万円札の肖像に使われるので最近よく話題になっている。

 

 金原明善大隈重信とも交流があった。大隈重信が125歳まで生きようと思う、と明善に言うと「八十や九十や百は子供なり、鶴は千年、亀は万年 八十三歳の少年明善書」と書いて贈ったという。

 大隈重信は125歳まで生きることはできず、83歳で亡くなっている。それでも江戸時代から大正にかけて生きた人にしては長生きだし、現在、世界一長生きした人であるジャンヌ・カルマンですら122歳で亡くなっているので無理だ、と言ってはいけないのだろう。

 

 三条実美の書も展示されている。三条実美は政治家で、内閣総理大臣にもなっている。

 

 金袋(財布)が展示されている。右から2番目のものは明善が孫娘にプレゼントした自作の財布だという。お孫さんも大切に保管していたため、展示されている。

 

 金原明善はさまざまな事業を行い、大物政治家など、さまざまな人と交流していた。これが無料で見ることができるのは素晴らしい。

 

7.子安神社

 明善記念館をあとにして、2つめの交差点のところに本坂通(姫街道)安間起点がある。

本坂通(姫街道)安間起点

 三方原台地を横切って浜名湖の北を通る道を姫街道という。

 浜松市北区豊橋市の境にある本坂峠を越えて、御油に至る東海道のバイパスなので、正式には「本坂道」というが、江戸末期には「御姫様街道」と呼ばれていた。

 女性は浜名湖の渡船に乗るのが怖いから峠越えをした、今切の渡しという縁起の悪い地名を避けた、徳川吉宗の母親がこの道を大人数で通ったのが印象深く女性が通る道と意識された、とにかく女性が多く通る道だったから、など姫街道の由来は諸説ある。

 姫街道の入り口は浜松城大手門、ここ安間起点、見付宿の3か所あり、この3つの道が三方原の追分で合流し、気賀の関所越えになるという。姫街道もいつか通ってみたい。

 ちなみに姫街道の見付宿入り口は前回「東海道を歩く 24-2.袋井駅磐田駅 後編」に登場している。

 

 ここから少し行くと、県道312号線と合流する。少しだけ松が残っているのを見つけた。

 

 右手側に八柱神社があったので寄る。八柱神社の前にある燈籠は金原明善の父である金原久右衛門が寄進したものだ。

金原久右衛門寄進の燈籠

八柱神社

 八柱神社の説明板も撮ったが、かすれて読むことができない。

 

 八柱神社の境内には金原明善の顕彰碑もある。

金原明善顕彰碑

 

 八柱神社に参拝し、少し進むと立場跡がある。

立場跡

 立場とは宿場の間に設置された休憩所で、多くの場合茶屋があって土地の名物を販売していたという。今でいう道の駅だろうか。現在は説明板があるだけだ。

 

 県道312号線沿いにやたら立派な題目碑を見つけた。題目とは日蓮宗系の寺院の勤行で使われる「南無妙法蓮華経」のことである。この道を入ったところに妙恩寺という日蓮宗寺院があるから置いてあるようだ。

 

 「東海道案内板」では「浜松市東区は江戸と京のどまんなかのまち」と謳っている。

 

 県道296号線との交差点に、六所神社がある。

六所神社

 六所神社では伊邪那岐命(いざなぎのみこと)など6柱を祀っている。

 そしてこちらの解説板もかすれて読めない。

 

 六所神社にはお宮の松という松があったようだ。

 お宮の松は江戸中期に植えられ、樹齢は260年ほどだったという。樹高17m、直径3mの大樹だったが、昭和54年(1979年)の台風20号により損傷する被害を受け、翌月伐採されてしまったという。木は人間よりも長生きなので忘れがちだが、寿命だったのだろうか。

 

 しばらく進むと水準点がある。一等水準点第147号だ。

一等水準点第147号

 石蓋の下にあるようだが、設置は明治42年(1909年)の古い水準点だ。

 

 そのまま進むと右手側に浜松アリーナが見える。

浜松アリーナ

 浜松アリーナとは浜松市スポーツ協会が運営する体育館で、平成2年(1990年)に開館した。体育館なのでジャージの学生の姿が目立つ。

 

 吉野家はなまるうどんが同居している。調べてみたら株式会社吉野家と株式会社はなまるは同じ株式会社吉野家ホールディングスらしい。

 

 六軒京本舗の前に「東海道 東 日本橋 西 京」という石碑がある。ここの紫蘇巻きは東海道名物だったらしく、今も売っていたが、少し入る勇気がなかった。

 

 子安交差点に「夢舞台東海道」の「浜松市植松原」がある。

浜松市植松原」

 子安交差点から少し南東方向に行くと、子安神社がある。

子安神社

 子安神社の祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。

 子安神社は庄屋の伊藤家の祖先が寛永12年(1635年)に浅間神社の分霊を祀ったことにはじまるが、伝説では源範頼が創建したといわれている。

 戦前までは4月3・4日が祭りで、安産祈願の腹帯を借りた母親がお礼に赤い旗を奉納する風習があったらしい。「子安」だけに安産祈願の風習があったのだろうか。

 

8.夢告地蔵尊

 子安交差点から地下道を通って先に進む。

 

 蒲神明宮の大鳥居がある。

蒲神明宮大鳥居

 蒲神明宮は浜松でもっとも古い由緒を持つ神社で、それは平安時代に遡る。一瞬行ってみたくなったが、ここから600m北上するのでやめておいた。

 

 浜松市東区から中区へ入るので、カントリーサインを見つけた。

 

 少し先に水準点を見つけた。一等水準点第147-1号だ。

一等水準点第147-1号

 平成14年(2002年)に設置された新しい水準点だが、マンホールの下で確認できなかった。

 

 水準点の少し先に龍梅禅寺がある。龍梅禅寺は臨済宗妙心寺派の寺院である。龍梅禅寺は願いが叶うと焼いたお餅を供える風習のあるやきもち地蔵のある寺院だが、閉まっていた。

龍梅禅寺

 先に進むと、馬込一里塚跡がある。

馬込一里塚跡

 馬込一里塚は日本橋から65里の一里塚だったが、明治10年(1877年)頃取り壊されたので説明板だけが残っている。

 

 さらに先に進むと水準点がある。一等水準点第001-256号だ。平成15年(2003年)に設置された新しい水準点だが、野ざらしだからか色がくすんでいる。

一等水準点第001-256号

 そのまま進むと右手側に夢告地蔵尊がある。

夢告地蔵尊

 夢告地蔵尊安政5年(1858年)にコレラで亡くなった人たちを供養するために建立された。

 明治に入り、廃仏毀釈のあおりを受けて地中に埋められたものの、大正8年(1919年)に小柳丈之助という人が「地蔵尊が世上に出たい」という夢を見たことから地蔵尊の捜索が始まり、3日目に掘り出された。このことから「夢告地蔵尊」と名付けられた。

 太平洋戦争時の空襲では本体と御堂が破壊される憂き目に遭うも、昭和26年(1951年)に御堂が再建され、祀られている。

 コレラ廃仏毀釈、空襲…波乱万丈なお地蔵様である。でも「外に出たい」という夢を見せたということは、お地蔵様もまた信仰してもらえることを信じて、そんな夢を見せたのだろうか。とりあえず、外の空気をまた吸えて、また信仰してもらえて、よかったと思う。

 

 板屋町交差点に着いた。東海道はここからまだ西へ続くが、ここで左折して浜松駅に向かおうと思う。

浜松駅

 足に豆ができて、歩き方がおかしくなっていたが、それでも浜松に来て食べたいものがあった。

 さわやかである。

 さわやかのハンバーグは美味しいので、どこの店でも待ち時間が長く発生する。しかし、静岡県は車社会なので、ロードサイド店舗が多く、私は行きづらいと思っていた。

 そんなさわやかでも、駅前に2店舗出店している。それが新静岡駅駅ビル、新静岡セノバのテナントのさわやかと、浜松駅前の遠鉄百貨店のテナントのさわやかである。

 今日は遠鉄百貨店のさわやかに向かう。整理券を取ったが、2時間待ちらしく、スタバで待つことにした。スタバで頼んだのは期間限定の「The メロン of メロン フラペチーノ」。私はメロンが大好きだが、このメロンは少し作り物っぽい味がした。

The メロン of メロン フラペチーノ

 呼び出し時間になったのでさわやかに戻り、少し待つと呼ばれる。まずはビール。

 やはり歩いた後のビールは美味しい。

 

 サラダを食べながら、げんこつハンバーグが来るのを待つ。ちなみにハンバーグにはげんこつとおにぎりの2種類があり、げんこつのほうが量が多い。

 

 ジューという肉が焼ける音とともに、げんこつハンバーグがやってきた。

 写真を撮って、ナイフでハンバーグを切ってから頬張る。

 うまい。

 うますぎる。

 何度だって食べたくなるハンバーグ、それがさわやか。

 

 そしてさわやかはデザートも美味しいことを忘れてはならない。

 これはもも&マンゴーパフェ。

 1ヶ月前にも同じげんこつハンバーグともも&マンゴーパフェを食べたが、それでも食べたくなる、それがさわやか。

 ちなみに前回食べた記事はこちら。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 さわやかの余韻に浸りながら新幹線で東京に帰る。翌日は仕事だからだ。

 

 次回は、浜松駅から舞阪駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

今回の地図⑤

歩いた日:2023年5月28日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

小杉達(1992)「東海道歴史散歩」静岡新聞社

静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社

風人社(2016)「ホントに歩く東海道 第8集」

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

浜松河川国道事務所 天竜川 大洪水の記憶

https://www.cbr.mlit.go.jp/hamamatsu/river/gaiyo_tenryu/gaiyo_tenryu02.html

(2023年8月31日最終閲覧)

江戸三十三観音をめぐる 2.人形町・両国・小伝馬町編

 前回、江戸三十三観音第1番札所の浅草寺と第2番札所の清水寺に参拝しながら浅草周辺を巡った。今回は第3番札所の大観音寺と第4番札所回向院、第5番札所大安楽寺を参拝しながら人形町、両国、小伝馬町周辺を巡ろうと思う。

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

1.大観音寺

 人形町駅から始める。人形町交差点北側に玄冶店跡(げんやだなあと)がある。

玄冶店跡

 江戸時代初期、このあたりは幕府の医師であった岡本玄冶の拝領屋敷があったことから「玄冶店」と呼ばれていた。

 岡本玄冶は京都に生まれ、医術を曲直瀬玄朔(まなせげんさく)に学んだ。元和9年(1623年)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰るときに侍医として招かれ、幕府の医師となった。

 「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)」には、寛永10年(1633年)、徳川家光が大病にかかったとき、諸医術をつくしても効果がなかった病気を玄冶が薬を出して治したことで、白銀200枚を下賜されたと記録されている。

 玄冶は正保2年(1645年)に亡くなり、広尾の祥雲寺に葬られている。

 「玄冶店」の地名は、嘉永6年(1853年)に中村座で初演された「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の「玄冶店の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となったことでその名が世に知られるようになった。

 

 玄冶店跡から南に進むと大観音寺がある。

大観音寺

 大観音寺は聖観音宗の寺院である。

 この寺院の本尊は鉄造菩薩頭である。この菩薩頭の由来については、かつて鎌倉の新清水寺に祀られていた鋳鉄製の観世音菩薩像だったが、廃寺となったあと、江戸時代に頭部のみが鶴岡八幡宮前の鉄井(くろがねのい)から掘り出されたと伝わる。

 その後、明治初期の神仏分離令のときに鎌倉から移され、大観音寺に安置された。

 この菩薩頭は、中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代製作の優秀な作品であることから、昭和47年(1972年)に東京都指定有形文化財に指定された。

 御朱印はこちら。

 

 境内には馬頭観世音像や願いの地蔵尊もある。そっと手を合わせた。

馬頭観世音像

願いの地蔵尊

2.水天宮

 甘酒横丁交差点に蛎殻銀座跡(かきがらぎんざあと)がある。

蛎殻銀座跡

 江戸幕府の銀貨鋳造所として設立された「銀座」は、慶長17年(1612年)に駿府に置いた銀座を閉鎖して、その機能を江戸に移した。

 その後、寛政12年(1800年)に座人の粛清が行われて一時廃絶したが、かわって京都銀座の大黒家が江戸に下り、幕府から播磨国姫路藩酒井家屋敷の上地を拝領して銀座役所を再興した。

 再興した銀座役所の敷地にあたるここは古くから蛎殻町の俗称があったことから、この銀座は「蛎殻銀座」と呼ばれた。

 その後は明治2年(1869年)に造幣局が新設されるまで70年間銀貨を鋳造していた。

 

 甘酒横丁交差点を右折して少し行くと谷崎潤一郎生誕の地がある。

谷崎潤一郎生誕の地

 谷崎潤一郎明治19年(1886年)7月24日、ここにあった谷崎活版所で生まれた。

 若くして文筆にすぐれ、東京帝国大学国文科を中退後、第二次「新思潮」の同人となり、「刺青」「少年」など耽美と背徳の世界を描く作品を遺した。

 昭和12年(1937年)には芸術院会員に推され、昭和24年(1949年)には文化勲章を受章した。

 

 都道50号線に戻り、しばらく進むと水天宮前交差点の左手側にあるのが水天宮である。

水天宮

 水天宮が現在地に遷座してきたのは明治5年(1872年)である。

 「どうで有馬の水天宮」という洒落言葉が歌舞伎狂言に使われたように、もとは芝赤羽にあった久留米藩有馬家上屋敷にまつられてあった。それは毎月5日一般庶民の参詣を許したのでたいへんな賑わいであったそうだ。

 祭神は主神として天地創造の神である天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)と水難除災の神としてまつられた安徳天皇、配神として女難を救う神としてまつられた安徳天皇の母建礼門院と祖母二位ノ尼である。

 

 水天宮には日本橋七福神巡りの弁財天もある。正月は開帳しているが、普段は閉まっている。

弁財天

 水天宮の御朱印はこちら。

 

 水天宮前交差点から東に進むと左手側に松島神社がある。

松島神社

 松島神社の創建年代は不詳だが、口伝によると鎌倉時代の元享(1321年)以前に、柴田家の祖先が下総国からこの小島に移り住み、邸内に諸神を勧請したと推測されている。

 天正13年(1585年)に邸宅を公開したとき、島内が松樹鬱蒼としていたことから松島稲荷大明神と称され、江戸時代にこのあたりが松島町と名付けられた。明治7年(1874年)には松島稲荷神社として村社となった。日本橋七福神の大国神も祀られている。

 松島神社御朱印はこちら。

 

3.浜町公園

 都道50号線を東に進み、浜町中ノ橋交差点で左折して浜町公園前交差点に見えるのが明治座である。

明治座

 明治6年(1873年)、ここに喜昇座(きしょうざ)がおかれたが、その後、久松座、千歳座と名をかえ、同年、歌舞伎俳優の初代市川左団次明治座と改称して大劇場に発展させた。

 

 浜町公園前交差点で右折して進むと浜町公園に到着する。

浜町公園

 浜町公園は昭和4年(1929年)7月15日に開園した。もとは熊本藩細川家の庭園だったが現在は浜町運動場、中央区立総合スポーツセンターなどが置かれている。

 浜町公園の南に清正公寺という日蓮宗の寺院がある。

清正公寺

 これは熊本藩主細川斉護(ほそかわなりもり)が江戸初期に熊本を領していた加藤清正をまつったもので、庶民にも開放されていたようだ。

 

 都道50号線に戻り、新大橋の前に震災避難記念碑がある。これは自然災害伝承碑として地理院地図にも掲載されている。

震災避難記念碑

 江戸幕府が編纂した地誌「御府内備考」によると、新大橋の創設は元禄6年(1693年)で、新大橋という名前は、既に架けられていた千住大橋に対して付けられた。

 明治45年(1912年)になると、新大橋は木造橋から鋼製のトラス橋へと架け替えられた。

 この橋は大正12年(1923年)に発生した関東大震災のとき、隅田川の橋の多くが焼け落ちるなか、大きな損壊等を被ることなく、橋上に避難した大勢の人の命を救った。

 その後、橋上で被災を免れた人々により新大橋記念会が結成され、昭和8年(1933年)、震災から10年目を記念して橋詰に「震災避難記念碑」が建てられた。

 なお、この橋は太平洋戦争による空襲にも耐えたが、橋台の沈下が激しくなったため、昭和52年(1977年)に現在の橋に架け替えられている。

 

 新大橋を渡ると、その先は江東区である。

新大橋

4.江島杉山神社

 新大橋を渡り、新大橋交差点で左折して北に向かう。一の橋通りをしばらく進んで右手側に、江島杉山神社がある。

江島杉山神社

 江島杉山神社は、元禄6年(1693年)鍼医杉山和一の信仰する相模国江島神社(神奈川県藤沢市)を祀った江島神社と杉山検校を祀った杉山神社の2社をあわせたものである。江島神社はもと弁天社を明治になってから改称している。

 杉山和一は、伊勢の人で津藩主藤堂氏に仕える杉山重政の長男で、慶長15年(1610年)に生まれた。

 幼くして失明し、江戸にのぼって鍼を学んだがうまくいかない。江の島へ行って弁天様に願をかけ洞穴にこもって断食したところ、松の葉と土の管が手にふれてひらめき、管を使って鍼をうつ術を思いついたそうだ。

 貞享2年(1685年)徳川綱吉の病を治療して重く用いられ、綱吉の命で鍼治講習所を建てた。

 元禄5年(1692年)関東総検校になり、翌年には本所一丁目に住居を下賜されその翌年に亡くなった。

 杉山検校頌徳碑には点字がつけられ、目の見えない人でも読めるようになっている。

杉山検校頌徳碑

 江島杉山神社御朱印は賽銭箱にお金を払ってから書置きをもらっていくシステム。絵柄が夏仕様で可愛らしい。

 

 杉山検校といえば江の島弁財天への道標を多数建てたことで知られ、そのうちの12基が藤沢市重要文化財になっている。これは東海道を歩いていたときに見つけた江の島弁財天道標だ。これは「東海道を歩く 6.戸塚駅藤沢本町駅」で取り上げている。

江の島弁財天道標

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5.回向院

 江島杉山神社をあとにして一の橋通りに戻り、一之橋を渡る。

一之橋

 万治2年(1659年)、堅川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一つ目の橋という意味で命名されたのが一之橋である。

 この橋は、吉良邸への討ち入りを終えた赤穂浪士泉岳寺に引き揚げるときに最初に渡った橋としても知られている。

 両国一丁目交差点で右折し、右手側に回向院がある。

回向院

 回向院は、諸宗山無縁寺という。

 明暦3年(1657年)正月に起こった明暦の大火による犠牲者は108,000人といわれるほどの惨状であった。

 このとき将軍家の芝増上寺参りがのびて代理で行った会津少将保科正之の報告により、本所牛島新田に50間四方の地を明暦の大火犠牲者の埋葬地としたことに始まる。その後、災害犠牲者、無縁仏、牢死者などを葬るようになった。

 境内には鼠小僧次郎吉の墓がある。

鼠小僧次郎吉の墓

 鼠小僧は寛政9年(1797年)生まれの実在の盗賊であり「武江年表」によると天保3年(1832年)8月19日に処刑されている。武家屋敷にのみ押し入ったため庶民からは義賊扱いされていた。

 この墓の破片をもっていると願い事がかなうという信仰があるため、「お前立ち」を削るよう書かれている。

 

 境内には「猫塚」もある。

猫塚

 猫をたいへんかわいがっていた魚屋がいたが、病気で商売ができなくなってしまった。すると猫が2両のお金をくわえてきて、魚屋を助けた。

 ある日、猫が戻ってこなかった。それは商家で2両くわえて逃げようとしたところ見つかり、殴り殺されてしまったからだった。それを魚屋は商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともに猫の遺体を回向院に葬ったそうだ。

 泥棒はいけないが、にゃんともけなげな猫である。

 

 回向院の境内には、明暦三年大火焼死者石塔など、さまざまな慰霊碑が建っている。

明暦三年大火焼死者石塔

 回向院境内に白い塔があり、このなかに祀られている馬頭観世音が江戸三十三観音第4番札所に指定されている観音様である。

 

 本堂に向かい、本尊の阿弥陀如来坐像にお参りをしてから、江戸三十三観音御朱印をいただいた。

 

 明暦の大火犠牲者を供養したことから重い印象を抱いた回向院だが、実は重い話題ばかりではない。

 天明元年(1781年)に初めて回向院で勧進相撲が行われ、天保4年(1833年)から江戸相撲の常設場所となった。回向院境内では相撲のほかに出開帳や富籤なども行われていたという。後に、両国に国技館が建てられ、両国が相撲のまちとなっていくはじまりである。

6.本所松阪町公園

 回向院から少し東側の住宅街のなかに本所松阪町公園がある。

本所松阪町公園

 本所松阪町公園は、吉良上野介屋敷跡である。

 ここで赤穂事件について簡単に説明する。

 元禄14年(1701年)3月14日、勅使接待役の浅野内匠頭長矩が江戸城松之廊下で吉良上野介義央に刃傷におよんだ。ここでなぜ浅野内匠頭長矩が刃傷に及んだのかはわかっていないが、刃傷沙汰に及んだことから浅野内匠頭長矩は切腹を命じられた。

 当時は「喧嘩両成敗の原則」があった。喧嘩両成敗とは喧嘩の原因を問わず当事者双方に同等の刑罰を課す、というものだが、ここで吉良上野介義央はおとがめなしだった。

 その判断に憤慨した浅野内匠頭長矩の家臣である家老の大石良雄ら47人の義士は元禄15年(1702年)12月14日吉良邸に討ち入り、吉良上野介義央を討ち取った。元禄16年(1703年)に47人の義士は浅野内匠頭長矩の墓前に報告するも、2月4日に切腹となった。

 この赤穂事件において、吉良上野介義央が討ち取られた現場がここ、吉良上野介屋敷、本所松阪町公園である。

 園内には吉良上野介義央の首を洗った吉良首洗いの井戸もある。

吉良首洗いの井戸

 昭和9年(1934年)3月に東両国三丁目町会の有志が吉良上野介屋敷跡の井戸を中心にこの地を買い取って東京市に寄付、昭和10年(1935年)12月14日に公園として開園した。

 毎年12月14日には地元有志が義士に扮して義士祭が行われるという。

 

 両国小学校の北西角に芥川龍之介の文学碑がある。

芥川龍之介の文学碑

 芥川龍之介京橋区入船町で生まれ、この地にあった母の実家芥川家で養われ、のち芥川家の養子となり、両国小学校、東京府立第三中学校へ通学し、18歳までこの地で過ごした。この碑には「杜子春」の一節が刻まれている。

 

 その少し先の両国公園には勝海舟生誕の碑がある。

勝海舟生誕の碑

 勝海舟は幕末の旗本で、幼名は麟太郎、名を安芳といった。文政6年(1823年)亀沢町の男谷家、いまの両国四丁目で生まれた。

 蘭学を修め、万延元年(1860年)咸臨丸船長としてアメリカに渡って世界の情勢を知り、西郷隆盛江戸城無血開城を約した。

 明治32年(1899年)77歳で亡くなり、墓は洗足池畔にある。

 

 国道14号線に戻り、両国橋へ向かう。

両国橋

 江戸幕府は、江戸防衛のために長いこと隅田川への架橋を認めなかった。しかしそこで明暦の大火が起こり、隅田川に橋がなかったため多くの人が逃げることができず、多くの犠牲者を出してしまった。

 そこで防災のために隅田川への架橋を許し、明暦の大火の翌年である万治元年(1658年)、全長98間(約178.2m)の橋が完成した。はじめ大橋といったが、のちに両国橋が公称となった。橋の西側が武蔵国、東側が下総国だったからである。架橋以後、隅田川の東側の開発が進んだ。

7.大安楽寺

 両国橋を渡り、馬喰町駅の交差点を左折して国道14号線沿いを進む。小伝馬町駅の交差点を右折し、次の交差点を左折すると十思公園(じゅっしこうえん)がある。

十思公園

 十思公園は昭和5年(1930年)7月1日開園、昭和25年(1950年)から区立公園になった。

 十思公園は伝馬町牢屋敷跡である。

 伝馬町牢屋敷は慶長年間に常盤橋際から伝馬町に移転してきたもので、明治8年(1875年)5月に市ヶ谷に移転した。

 その跡地は無償で与えるということになったが、誰も処刑者のうらみを気味悪がって買い手がつかなかったそうだ。そこで十思小学校や身延別院、大安楽寺鬼子母神などになっていった。

 この牢屋に入れられた人は全部で数十万人といわれる。総面積は2,618坪、周囲に土手を築いて土塀を廻し、表門は南西、北東部に不浄門を置き、旗本の入牢者には揚座敷、武士・僧侶などは揚屋、町民は大牢、百姓は百姓牢、それに女牢の区別があった。

 この牢屋での大きな出来事は、安政5年(1858年)9月から安政6年(1859年)12月までの1年3ヶ月間に、安政の大獄で大勢の入獄者があったことである。吉田松陰らがここに捕らわれ、勤王志士96人が処刑された。

 茂みのなかに吉田松陰先生終焉之地碑がある。

吉田松陰先生終焉之地碑

 そばには吉田松陰先生略歴碑と辞世の句碑があり、「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留め置かまし大和魂」とある。

吉田松陰先生略歴碑

辞世の句碑

 吉田松陰天保元年(1830年)8月4日長門国萩の近くの松本村で生まれた。

 安政元年(1854年)3月、佐久間象山のすすめで外国にわたる志をたて、下田からアメリカ軍艦に乗せてもらおうとしたが失敗して捕らわれた。その年9月まで半年間伝馬町牢で捕らわれたがその後萩に帰り、教育に尽力した。のちの松下村塾である。

 安政6年(1860年)7月9日、江戸の長州藩邸から評定所に召し出されてからふたたび伝馬町牢に入れられ、その年10月27日処刑された。30歳だった。

 

 吉田松陰先生終焉之地碑の隣に杵屋勝三郎歴代記念碑がある。

杵屋勝三郎歴代記念碑

 杵屋は長唄三味線で知られた家で、7世続いた。

 初世は天保年間に武家から出て長唄界に一派を始め、二世勝三郎はことに著名で、明治29年(1896年)に77歳で亡くなったが、馬喰町に住んでいて、十思公園付近にあった円光大師に帰依していたことから毎月ここで長唄を奉納していたようだ。

 

 十思公園の忠魂碑は乃木希典明治39年(1906年)に書いたもので、独特の字体だ。

忠魂碑

 十思公園には石町時の鐘がある。

石町時の鐘

 近世には時を知らせるため、江戸城では太鼓をたたいていたが、町では寺の鐘が使われ、幕府公認のものは9ヶ所あった。石町時の鐘のほか浅草寺、本所横川町、上野の大仏下、芝切通し、市谷八幡、目白不動、赤坂成福寺、新宿天龍寺にあった。そのうち石町時の鐘、浅草寺、上野の大仏下、新宿天龍寺が現存している。

 そういえば、新宿天龍寺にはこの前行き、時の鐘も見ていた。

天龍寺の時の鐘

 天龍寺の時の鐘については「うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪」にて取り上げているのでそちらも参照していただきたい。

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 話を石町時の鐘に戻そう。

 石町時の鐘は2代将軍徳川秀忠の頃に江戸城西の丸で用いられていたものを石町に鐘楼堂を建てて移した。

 石町時の鐘は3度焼損しており、新たに宝永8年(1711年)鋳造したのが今残る時の鐘である。

 享保10年(1725年)本石町3丁目に建てた鐘楼堂の維持費は、410町から1軒につき1ヶ月永楽銭で1文ずつ、寛永通宝では4文ずつを徴収し、代々辻源助が扱っていたので辻の鐘とも呼ばれていた。

 伝馬町牢が近くにあったため、伝馬町牢での処刑はその鐘の音を合図に行われていたと思われるが、遅れた時報をつくこともあって情けの鐘とも呼ばれていたそうだ。

 幕末に時鐘が廃止されてからは石町の松沢家にあったが、昭和5年(1930年)9月、石町宝永時鐘鐘楼建設会が鐘楼を建てた。昭和28年(1953年)に東京都重宝に指定された。

 

 十思公園の向かい側に大安楽寺がある。

安楽寺

 大安楽寺高野山真言宗の寺院で、伝馬町牢屋敷跡地に明治5年(1872年)から勧進を始めて明治8年(1875年)に建立された。

 処刑場跡に延命地蔵尊が建てられている。

延命地蔵

 大安楽寺は江戸三十三観音第5番札所なので、御朱印をいただく。

 

 大安楽寺の西となりは身延別院である。

身延別院

 身延別院は日蓮宗明治16年(1883年)創建。

 このとき、山梨県身延山久遠寺から本尊として迎えた木造日蓮聖人坐像がある。昭和47年(1972年)4月19日東京都文化財に指定されている。大正12年(1923年)の関東大震災でも焼失を免れた。この木造日蓮聖人坐像の像内に明応6年(1497年)7月13日の銘があり、山城国定蓮が作ったという。

 境内には油かけ大黒天神がある。

油かけ大黒天神

 石造の大黒様で、足元は油が入れられており、ひしゃくで大黒様の頭からこの油をかけられるようになっている。火防大黒天としても祀られている。

 木造日蓮聖人坐像に手を合わせ、御首題をいただく。いつ見ても御首題のひげ文字はインパクトがある。

 

 小伝馬町駅に向かい、今日の江戸三十三観音を終えたいと思う。歩き疲れたので小伝馬町駅サンマルクカフェで休憩する。前から気になっていたクリームソーダを注文したが、ソフトクリームが傾いていた上にすぐ飲み終わってしまった。

 

 回向院は明暦の大火の慰霊のため、大安楽寺は伝馬町牢屋敷の鎮魂のために建てられた寺院である。前回の庶民信仰の浅草寺と比べて、どこか重い雰囲気のある寺院だった。でもそういった寺院も必要なのである。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2023年7月8日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考リンク】

山本純美(1978) 「墨田区の歴史」 名著出版

北原進(1979) 「中央区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

東京都歴史教育研究会(2020) 「東京都の歴史散歩 上 下町」 山川出版社

猫の足あと 松島神社

https://tesshow.jp/chuo/shrine_ningyocho_matsushima.html

(2023年8月9日最終閲覧)