
前回、第11番札所 三宝寺に訪れながら石神井公園周辺を歩いた。今回は第12番札所 南蔵院に訪れながら志村坂上周辺をぶらぶらしようと思う。私は板橋区に住み始めて8年目なのだが、実はブログで板橋区について取り上げるのは初めてだったりする。
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1.南蔵院
今日は本蓮沼駅から出発だ。

本蓮沼駅から徒歩5分ほどのところに氷川神社がある。

祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)と奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)を祀る。氷川神社は本蓮沼・上蓮沼・根葉村の鎮守、隣にある南蔵院が別当寺、新井家が両社寺の総代として奉仕してきた。
しかしこの地は荒川の沖積地で毎年のように荒川の洪水に見舞われ、氏神の氷川神社もそのつど流されて鎮座場所が変わるところから、「十度の宮」と呼ばれてきた。
たび重なる洪水にいたたまれなくなったため享保13年(1728年)9月にここに移り、元宮は前沼にそのまま鎮座していたが、その元宮も大正13年(1924年)に荒川改修のため蓮根に移ったそうだ。
氷川神社の別当寺、南蔵院はその隣にある。

宥厳(ゆうげん)という寛文2年(1662年)に亡くなった僧が開山、開基は新井三郎盛久と伝えられている。
氷川神社同様、ここに移転する前は前沼にあり、享保7年(1722年)12月25日に8代将軍・徳川吉宗が戸田の鷹場へ狩りに出向いたときに、南蔵院は将軍御膳所として使用されたことが記録されている。
護摩堂には不動明王が祀られており、このお不動さんが関東三十六不動の第12番札所となっている。護摩堂は開けられていてお不動さんの姿を拝むことができるが、撮影はできない。
本堂に祀られている御本尊は十一面観世音菩薩だが、そのほか、行基が作ったと伝えられる阿弥陀如来坐像と、弘法大師が護摩修行をしたときの灰で作った厄除大師が祀られているようだが、なかを見ることはできなかった。

南蔵院境内にある庚申地蔵は、承応3年(1654年)に庚申待講中が造立したもの。
その昔、庶民の間に「庚申待ち」という風習があった。
それは60日ごとに巡ってくる庚申の日の夜は、体のなかにいる「三尸(さんし)の虫」が体から抜け出して天に上り、その人の悪行を天帝に告げられて寿命が縮むとされ、その日は寝ずに夜を過ごすという風習である。
この日は庚申講の仲間が寄り合い、寝ずに夜を明かした…ここまで書くと宗教的行事であると感じるが、いろいろな書籍を読んだ感じ実際は大学生の飲み会オールに近い感じだったらしい。
これを18回連続でやると記念に庚申塔を建てる。60日×18回だと3年に1基くらい建つ計算になるため、関東にはあちらこちらに庚申塔が残っている。
庚申塔は、青面金剛や三猿(見ざる、聞かざる、言わざる。日光東照宮で有名なやつ。)などが刻まれていることが多い。

山門の前に石造物が並べてあるが、とりわけ目を引くのが「羽黒山」「湯殿山」「月山」と書かれた台座の上にいる仏様。これは安永6年(1777年)と文化元年(1804年)に建立された南蔵院石造出羽三山供養塔で、蓮沼村・前野村・小豆沢村の講員70名の氏名と房号が刻まれており、当該期の出羽三山講の様子を知る貴重な資料となっている。
出羽三山とは月山神社、羽黒山の出羽神社、湯殿山神社の3社のことで、一番大変なのが月山神社、鶴岡駅からバスで2時間かけて月山八合目バス停まで行き、そこから3時間の登山となる。
出羽神社は鶴岡駅からバスで1時間、羽黒山頂バス停まで行けば徒歩5分ほどで行ける。湯殿山神社は鶴岡駅からシャトルバスと湯殿山神社本宮参拝バスを乗り継いで向かうことができる。出羽神社や湯殿山神社は車で行くことができるが、月山神社はそれもできないため断トツで大変である。私も出羽神社しか行ったことがない。

納経所で御朱印をいただいた。関東三十六不動の御朱印と、御影と童子像。御影は実際のお不動さんによく似ている。


2.志村一里塚
南蔵院から徒歩10分ほどで斎藤商店がある。
斎藤商店は、ケヤキを主に扱う原木商として明治22年(1889年)にここで創業した。現在の建物は、昭和8年(1933年)の中山道の拡張工事に伴って新築されたもの。
平成4年(1992年)に「活き粋いたばしまちなみ景観賞」に選ばれ、平成24年(2012年)度に板橋区登録有形文化財となった。

斎藤商店の隣に、志村一里塚がある。志村一里塚は中山道の3番目(日本橋から約12km地点)の一里塚である。
慶長9年(1604年)五街道制定と同時に1里を36町(約4km)に統一、1里ごとに一里塚を築いて街道の目安とし、旅人が風雪をしのぎ炎暑を避ける休息の場としての便宜を図ったものである。
志村の一里塚は永井白元(ながいあきもと)、本多光重を奉行とし、樽屋藤左衛門・奈良屋右衛門が工事を請け負った。その規模は5間四方(約10㎡)、高さ1丈(約3m)とし、塚上に大榎が植えられ、一見してそれとわかるように計画されていた。
現存のものは新中山道構築のとき多少位置を変えられたが、北区西ヶ原の一里塚とともに街道の両側に一対として向かい合う原形をとどめる交通史上の重要遺跡として、大正11年(1922年)3月、国の史跡に指定された。
東海道を歩いていて一里塚は何度か見てきたが、東海道でも東京23区の一里塚は現存していないので、貴重な遺跡といえる。

板橋区立小豆沢公園の前にりんりんちゃんがバスケットボールをしているデザインのマンホールを見つけた。
りんりんちゃんは板橋区の観光キャラクターで、板橋区の花「ニリンソウ」の妖精という設定らしい。
なぜりんりんちゃんがバスケットボールをしているのかというと、小豆沢公園の敷地内に小豆沢体育館があることに由来する。まあ、私は学生時代から一番嫌いな科目が体育だったので、体育館を使用する機会は人生でもうなさそうだが…。

小豆沢貝塚がある。
貝塚とは昔の人々が食べ捨てた貝殻が堆積してできた遺跡で、出土する貝殻や獣骨から当時の人々の食生活等がわかる。
現在も貝塚を構成する貝や縄文土器の破片等が龍福寺霊園内に散っているそうだが、流石に霊園に立ち入るのも憚られたので立ち入りは遠慮しておく。

3.小豆沢神社
小豆沢貝塚の近くに小豆沢神社がある。
現在の神社名になったのは明治以降で、江戸時代には十二天社といった。小豆沢神社のある丘の下の低地まで古東京湾の海水が浸して12の入江ができており、その入江の守り神がこの十二天社であった。
平将門が関東に勢力を張っていたころ、丘の下の港のひとつ七七子崎(ななこざき)の入江に、将門への貢物の小豆袋を積んだ舟が停泊していた。
ある夜大嵐があり、小豆袋を積んだ舟は沈没した。小豆袋を積んだ舟、小豆舟の沈んだ沢から、「小豆沢」という町名が生まれたと伝えられる。
小豆沢神社の社殿は昭和40年(1965年)頃建て替えられたが、その前の社殿は茅葺き屋根で、しかも観音塚という古墳の上に建てられていたらしい。ただ改築のときに茅葺き屋根はやめて、古墳も壊されたらしい。現代ではありえない話である。

小豆沢神社の隣に龍福寺がある。
十二天社(現在の小豆沢神社)の別当寺であるが、開山時期は不明。
戦災により龍福寺の本堂は焼失したが、龍福寺に保存されていた板碑は無事に残り、「板碑寺」と呼ばれて歴史研究者がたびたび訪れているらしい。板碑の一部は境内で公開されている。

板碑というのは鎌倉時代から始められた仏教遺物で、今日の卒塔婆の前身といわれている。
材料は埼玉県秩父地方から産出される緑泥片岩、俗にいう秩父青石で造る。
この寺の代表的板碑は板橋区内第二の古さを誇る建長7年(1255年)造立で、この板碑は鎌倉時代の特徴ともいえる力強い彫りの横二線に、弥陀三尊種子、そして造立者名の「成善」を刻み、さらに「建長七年三月十六日 孝子 敬白」と刻まれている。

また、南蔵寺でも見られた庚申塔は龍福寺でも保存されている。

龍福寺の横に御手洗不動尊があるが、これについては後述。

小豆沢神社のある丘を下りると、御手洗池がある。
御手洗池は江戸中期に江戸周辺で爆発的に流行した富士・大山詣の道者たちが、旅立ちにあたって心身を浄め水垢離をした禊場で、傍らには石造の不動尊が祀られていた。
ところが明治以降鉄道などの交通機関が発達して手軽に富士山や大山に行くことができるようになると、この禊場は利用されなくなり荒廃していった。
昭和37年(1962年)に御手洗池の不動尊は龍福寺の山門脇に建てられた不動堂に祀られることになった。
平成に入ってから地元住民が整地を行い御手洗池を復元し、その際に新たにお堂を建てて不動尊と観音様を祀ることにした。
御手洗池の水は古来眼病に効くと信じられ眼を病んだ人が訪れていたそうだが、案内板には「現在は水質上問題がありますので、池の水を目や口に入れないでください」と記載されていた。もっとも、私が池に顔を突っ込んで目を開けたところでコンタクトが外れて困るので、そうするつもりはなかったのだが。

4.薬師の泉庭園
御手洗池から歩いて10分ほどの場所に薬師の泉庭園がある。
「境内山の腰より清泉沸出」と「江戸名所図会」の挿絵に描かれた薬師の泉は、かつてこの地にあった大善寺という曹洞宗寺院の境内にあった。
江戸時代、8代将軍・徳川吉宗が志村周辺で鷹狩りをした際に大善寺に立ち寄り、境内に湧き出す清水を誉めて寺の本尊である薬師如来に「清水薬師」という名前をつけた。
このほかにも江戸時代の文献などに、薬師の泉や周辺の清水に関する記載が多く見られ、この地が古くから良質の水を産出する土地であったことを知ることができる。
板橋区では江戸名所図会の挿絵をもとに庭園整備を行い、平成元年(1989年)12月に「薬師の泉庭園」を開園した。
なお、江戸名所図会には薬師の泉は以下のように書かれている。
「「清水薬師 清水坂」 境内山の腰より清泉沸出す、故に清水の号あり。此辺(このへん)夏蘿葡(なつだいこん)を名産とす、清水種とて、世に賞しはべり。」
前回練馬大根について話題にしたが、板橋区でも「清水種」という品種の大根を作っていたらしい。現在では住宅が立ち並び、大根畑の面影はなくなってしまった。

薬師の泉庭園の近所に総泉寺がある。
総泉寺はもともと浅草の橋場にあった寺院で、石浜城主・千葉守胤の開基と伝えられる。浅草にあった総泉寺は関東大震災で全焼し、古くからここにあった大善寺と合寺して、ここに移ってきた。
チェーンがかけられているためこれ以上近づくことはできなかったが、階段の彫り物がすごくて気になる。


5.志村城跡
総泉寺から歩いて10分ほどのところに志村延命寺がある。
志村延命寺は俗にコブ寺と呼ばれていた時期があったようだが、それは樹齢700~800年のケヤキの大木があり、樹表に巨大なコブの隆起した怪奇な姿が有名だったためそう呼ばれていたそうだ。しかし残念ながら昭和37年(1962年)にケヤキは枯死してしまった。
寺の縁起では大永4年(1524年)小田原の北条氏綱が、江戸城から川越城へ逃げる上杉朝興(うえすぎともおき)を追い、ここで戦いとなり志村城が落城した。
このとき、城主の家臣・見次権兵衛は自宅の庭先で息子・権太郎が討ち死にしたのを見て、武士を捨て自宅を寺として志村延命寺を創建、みずから開基となった。
現在は少し離れているが、熊野神社の別当寺であったらしい。

志村延命寺から歩いて10分ほどの場所に熊野神社がある。
熊野神社の祭神は伊佐奈岐命(いざなぎのみこと)ほか2柱。社伝では長久3年(1042年)この地方の豪族・志村将監(しむらしょうげん)が、紀州(現在の和歌山県)の熊野権現の分霊をここに奉祀したという。
本殿は平安期から鎌倉期に流行した経塚上に建てられており、この神域は志村城の二の丸跡となっている。

志村城とは、康正2年(1456年)千葉氏の一族、千葉隠岐守信胤(ちばおきのかみのぶたね)が本城である赤塚城の前衛拠点として守りを固めるために建てた城である。
大永4年(1524年)、北条氏綱に攻略されて志村城は落城した。
熊野神社周辺の樹林は約1,920㎡と広く、昭和40年(1965年)に「都市の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法律」により保存対象となった。そのため東京23区とは思えないほど鬱蒼としている。

現在12時半、そろそろ昼食でも食べるか、と先ほど通りすぎたカフェに行ってみたが混んでいたため、こちらのお店にした。
「ボンディ・アルカディア」。神保町にあるカレーの名店、「ボンディ」のフランチャイズらしい。私は板橋区在住8年目、神保町在勤8年目の人間だが、ボンディのフランチャイズが板橋にあることは初めて知った。

ドアを開け、席に腰かける。土曜の昼時、本店のボンディなら長蛇の列ができている頃だが、びっくりするほど人がいない。店員さんが注文を聞きに来たので、ビーフカレーを頼む。

カレーを頼むとじゃがいもがついてくるところとか、ライスにチーズがかかっているところとか、そういう仕様は神保町の本店と同じだ。ただ、パンチが少し足りないかも…?と思ってしまった。
カレーを食べ終えてボンディ・アルカディアを辞し、見次公園の横を通り過ぎる。見次公園の池ではボートに乗って楽しむ人たちが見えたが、1人でボートに乗るのも憚られたのでそのまま通り過ぎて行った。

見次公園の近くに、「さやの湯処」という温泉施設がある。なお、自宅からそこそこ近い温泉施設なので、時々行っている場所だったりする。
泉質は含よう素-ナトリュウム-塩化物強塩温泉。「強塩温泉」とだけあって、源泉はかなり塩辛い。ただ23区内でグリーンの本格的な温泉に入ることができるので、私としてはかなりおすすめしたいし、いつかブログで紹介したいと思っていた。
体を洗い、サウナや水風呂、露天風呂をぐるぐる回る。気が済んだので辞し、次の目的地へ向かう。

さやの湯処から20分ほどのところに、板橋区立中央図書館がある。
私の家のほど近くにも図書館はあるのだがなぜわざわざここに来たのかというと、板橋区立図書館のなかで「板橋区の歴史」を所蔵している図書館がここだけなのだ。


家の近所の図書館と比べて離れているので返却に手間がかかるが、それでも板橋区の記事を書くならこの本を読んでおきたく、借りることにした。
板橋区立中央図書館のそばにもりんりんちゃんのマンホールがある。
板橋区立中央図書館には板橋区立いたばしボローニャ絵本館が併設しており、そこには3万冊の海外絵本を所蔵している。
そのほか板橋区立美術館では毎年「イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」が開催されたり、板橋区では印刷や製本が盛んであることから「絵本のまち板橋」として売り出しているようだ。

上板橋駅に到着したところで、今日のまちあるきを終了する。

南蔵院はしっとりとした寺院だったが、板橋でも出羽三山の講が盛んであったことは初めて知った事実であった。
「さやの湯処」に行くタイミングで志村一里塚の前は通り過ぎているはずだが、夜に行くことが多くあまりよく見ておらず、志村一里塚をまじまじと見たのは初めてだった。
薬師の泉庭園は、最初の予定では行く予定はなかったが前日にChatgptで訪問プランを練ってもらったときに提案されたので行ってみたら思ったよりよい場所だった。
私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

歩いた日:2026年7月4日
【参考文献・参考サイト】
萩原龍夫・伊藤専成(1979)「板橋区の歴史」 名著出版
関東三十六不動霊場会(2017)「関東三十六不動霊場ガイドブック」
東京都歴史教育研究会(2018)「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社















































































































































































































































































































































































































































