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東海道を歩く 14.新蒲原駅~由比駅

  前回、吉原駅から新蒲原駅まで歩いた。今回は新蒲原駅から由比駅まで歩こうと思う。当初は新蒲原駅から薩埵峠を越えて興津駅まで歩く予定だったが、蒲原や由比の観光で時間を使ってしまい、由比駅到着時点で15時、流石にこれから峠越えは危険と判断し由比駅までとなったのである。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.大旅籠「和泉屋」跡

 新幹線で三島駅まで向かい、東海道本線に乗り換え、新蒲原駅で下車する。今日はここからスタートだ。

新蒲原駅

 新蒲原駅を出て県道396号線を渡り、東海道に合流する。「蒲原夜之雪」の碑が目印だ。これについては前回記事で紹介しているのでそちらを参照してほしい。

蒲原夜之雪

 出発して早々、「お休み処」を発見した。もう休むのか、と思わないでもないが、寄ってみる。

大旅籠「和泉屋」跡

 ここは大旅籠「和泉屋」跡・蒲原御殿屋敷跡である。和泉屋は草ヶ谷佐兵衛が経営し本陣周辺に9つあった大旅籠の1つだった。天保年間(1830~1844年)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れた。普段は一般の旅人が宿泊するが、身分の高い人が本陣に泊まるときは2階に床の間があることから御付の方々が泊まったと考えられている。

 和泉屋周辺に徳川家康が造らせた蒲原御殿屋敷があった。天正10年(1582年)家康は甲斐の武田攻めの帰りに織田信長を接待するために御茶屋として造った。その後東海道を往来する将軍の宿舎となり2代将軍秀忠のとき御殿の規模が大きくなっていった。元禄12年(1699年)8月15日の大津波に襲われ蒲原宿の大半が流失してしまったことで蒲原宿の新しい宿替の土地となり、御殿は消滅した。

 中には藍染の絵などが展示されている。

 江戸時代蒲原宿内には2軒、宿外に1軒の藍染屋があった。蒲原の砂地・暖かな気候は藍の生産に適しており、昭和に入ってからも藍畑があったものの、戦争により藍畑は芋畑になり絶えていった。そこで、今は貴重な藍を育て染色し、展示しているのだ。これは歌川広重東海道五十三次」江尻宿である。

江尻宿

 少し進むと、黒い門の建物があった。本陣跡だ。

本陣跡

 本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使、大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠である。ここは蒲原宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かつてはここから100mほど東に東本陣(多芸本陣)もあった。

 手作りガラスと総欅の家を見つけた。

手づくりガラスと総欅の家

 明治42年(1909年)に建築されたこの家は素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、永年磨き込まれた木目がみごとである。2階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手づくりのガラスである。

 少し進むと、若宮神社がある。

若宮神社

 この社に案内はなく、祭神や縁起等は不明である。

 若宮神社の参道と東海道の交差点に高札場跡がある。

高札場跡

 宿場や村には必ず高札場が設けられ、民衆に法令や定を周知させていた。

 高札場跡の道路向かいに御殿道跡がある。

御殿道跡

 御殿とは先ほど説明した蒲原御殿のことで、御殿背後の山を「御殿山」、御殿から駿河湾に下る道を「御殿道」と呼んでいるようだ。

2.旧五十嵐歯科医院

 少し進むと、瀟洒な洋風建築が見えてくる。旧五十嵐歯科医院だ。

旧五十嵐歯科医院

 旧五十嵐歯科医院は、町家を洋風に増改築した擬洋風建築と呼ばれる建物で、外観は洋風、内観は和風というユニークな建物である。当時の洋風建築としては珍しくガラス窓が多く使われ開放的であり、下見板の白いペンキとあいまってモダンな息吹が感じられる。中に入ってよいようだったので一言断りを入れ、中に入る。

 ここは「みせの間」である。扉に「二三番」と書かれているのは電話室である。

電話室

 蒲原町に電話が敷かれたのは大正7年(1918年)のことで、25本以上の加入がないと電話の許可がおりないため、一般にも呼びかけて23戸の加入を取り付けた。残り2本は蒲原町役場がもって翌年に電話の交換業務が始まったらしい。

 ここは中の間で、大きな金庫が置いてある。

 歯の治療に使用する金もここにしまわれていたと言われている。

 「クスリはトヤマの広貫堂」

「クスリはトヤマの広貫堂」

 …いつ作られた薬箱なのだろうか。

 ここは奥の間で、欄間に近江八景が彫られている。

奥の間

 近江八景とは、琵琶湖南部にある8つの景勝地で、「比良の暮雪」「矢橋の帰帆」「石山の秋月」「瀬田の夕照」「三井の晩鐘」「堅田落雁」「粟津の晴嵐」「唐崎の夜雨」がある。

 階段を登ると、待合室がある。

待合室

 ここは、一般の人の待合室として使われていたようだ。碁盤や将棋盤も置かれ、歯の治療をする患者のみならず近所の人も集まり、サロンのように賑やかだったそうだ。今のご時世では考えられない。

 待合室の奥に、診察室と技工室がある。診察室はガラス窓の多い非常に明るい部屋だ。

診察室

診察室っぽいイスもあります

 手づくりガラスが張られているので、景色が少し歪んで見える。

 技工室は入れ歯や歯の詰め物を作る部屋である。

技工室

 昔はゲストハウスがあったらしいが、今年2月に取り壊されてしまったらしい。

 そしてこの部屋は客間である。

客間

 ここは特別な待合室で、明治時代に宮内大臣や警視総監を務め、後に蒲原で余生を送った田中光顕伯爵も患者の一人で、この部屋で順番を待っていたそうだ。

 いいものを見させていただきました、と言って旧五十嵐歯科医院をあとにした。

3.志田家住宅主屋

 少し進むと志田家住宅主屋がある。

志田家住宅主屋

 志田家は「ヤマロク」という屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家だった。安政元年(1854年)の大地震の直後に再建されたという東側2階建て部分は、「通り土間1列型」と呼ばれる町家形式の典型である。平成13年(2001年)、国登録有形文化財に登録された。

 「ヤマロク」はこのマークである。

 これは上につながる階段だが、年貢を納めるときは「物置です」と言ったとか(1階建てと2階建てで年貢の額が違ったらしい)。

 古い道具もいろいろ展示されている。

 奥には醤油の製造場もある。この建物は東西4間、南北6間となっている。

醤油の製造場

 余談だが、志田家住宅主屋に入って管理人さんらしき人に「こんにちは」と挨拶したら、「あら~珍しい、若い人ね、高校生?」と言われた。25歳で高校生に間違えられた。そして次に聞かれたのが「ゲストハウスに宿泊されていましたか?」後で調べてわかったことだが、志田家住宅主屋の裏にバックパッカーズホステルがあった。私はさっき新幹線で来たばかりだったので「違います」と答えた。

 管理人のおばちゃんとしばしおしゃべりと、参考文献を買って志田家住宅主屋をあとにした。

 少し先に進むと、美しい格子戸の家があった。

美しい格子戸の家

 格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つである。かつては街道沿いに格子戸の家並みが続き、毎日磨き込まれた美しい木目が、蒲原独特の情緒ある風景だったが、今はあまり残っていない。

 消火栓を見つけた。カワセミ

カワセミ

 妙隆寺に寄ってみる。

妙隆寺

 妙隆寺は日蓮宗の寺院で、天文元年(1532年)に、日長が祈願所として建立したと伝えるが、一説には永禄年中(1558~1570年)の創立ともいわれている。日蓮宗寺院ならどこでもある日蓮聖人の像を見つけた。

日蓮聖人

 妙隆寺を出てすぐ左折し、県道396号線に合流したところに蒲原宿の西木戸がある。この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘が起こった。

蒲原宿西木戸

 承応2年(1653年)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩大名行列と乱闘が始まり、70人近くを倒したものの大久保甚太夫は殺されてしまった。大久保甚太夫は竜雲寺住職が墓地に葬り、供養した。現在も甚太夫の槍の穂先は、竜雲寺に残っているらしい。なんとも血気盛んなエピソードだ。

 そういえば薩摩藩絡みの話は以前もあったような…以下の記事の「生麦事件」を参照のこと。

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4.蒲原宿から由比宿へ

 蒲原宿西木戸から少し行ったところに和歌宮神社がある。

和歌宮神社

 和歌宮神社は「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」の歌で有名な山部赤人が祀られた神社で、天平8年(736年)に東海道の蒲原宿吹上の浜でこの歌を詠んだ因縁でこの神社が建立された。なんとも風雅な草創である。

 蒲原体育館に三角点がある。四等三角点「新田」である。

四等三角点「新田」

 成果状態が正常でないため、点の記は閲覧できず、詳細不明。

 少し行くと、水準点を見つけた。一等水準点第001-154号だ。設置時期等は不明。

一等水準点第001-154号

 しばらく歩くと蒲原駅が見えてきた。ここでスタート・ゴールしたら楽そうだが、用はないので素通り。

蒲原駅

 消火栓を見つけた。サッカーをしている。

 ゴミ集積所の看板だが、「蒲原町」表記だった。平成18年(2006年)に静岡市編入合併する前に設置したものだろう。

 神沢交差点でY字路を左に進む。「由比本陣公園」と書いてあるのが目印だ。

 しばらく歩くと、一里塚跡がある。

一里塚跡

 由比の新町の一里塚は江戸から39番目で松が植えられていたが、寛文年間(1661~1673年)、山側の松が枯れたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立した。十王堂は廃仏毀釈で廃寺となった。

  そのまま歩くと由比宿東桝形跡がある。現在も桝形に折れた面影が残っている。

由比宿東桝形跡

少し道が折れ曲がっている

 御七里役所之跡を見つけた。

七里役所之趾

 これは紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。紀州徳川家では江戸から和歌山の間584kmに7里(28km)ごとの宿場に中継ぎ役所を置き5人1組の飛脚を配置していた。28kmおきにしかないのでなかなか見ないが、以前見覚えあるぞ…?と思い確認したら「東海道を歩く 7.藤沢本町駅平塚駅」で登場した「牡丹餅立場跡」が七里役所を併設していた。

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 歩いていると水準点があるらしいので、探してみたらこの金網の下にあるらしい。一等水準点第68-1号だ。

一等水準点第68-1号

 平成元年(1989年)設置の標石タイプらしいが、標石は見えなかった。

 一等水準点の道路の反対側に神社があり、飯田八幡宮という。

飯田八幡宮

 飯田八幡宮の御祭神は譽田別命(ほんだわけのみこと)で、由比氏によって天正13年(1585年)に建立された。

 足元を見ると由比町の仕切弁、防火貯水槽、消火栓があった。

由比町の仕切弁

由比町の防火貯水槽

由比町の消火栓

 由比町は平成20年(2008年)に静岡市編入合併され、静岡市清水区の一部となった。平成の大合併にしてはずいぶん遅い合併だし、平成18年(2006年)に蒲原町が合併したことを踏まえると、その間静岡市の旧蒲原町は飛び地だったのだろうか?と思う。

5.由比本陣公園

 由比本陣公園に着いた。

由比本陣公園

 本陣とは、江戸幕府の政策により参勤交代を義務付けられた大名等の身分の高い人物とその家来が休泊するための施設である。また、その管理をする役職のことを本陣職と呼び、苗字の使用や帯刀を許された地元の名士に世襲で受け継がれ、由比本陣においては由比家がその職を務めた。由比家は平安後期の前九年の役(1051~1062年)のとき源義家に従った駿河の武将大宅光任の血を引き、のちに由比城主となった旧家の子孫である。現在由比宿の本陣であったここは公園になっており、東海道由比宿交流館、静岡市東海道広重美術館、由比本陣記念御幸亭がある。

 東海道由比宿交流館はカルチャー、観光、レスト、ショップの4つのエリアから成り立っており、由比の歴史に触れることや、観光情報の発信、地域のふれあいの場として多目的に利用できる施設である。

東海道由比宿交流館

 なかには喫茶店陽だまりがあり、暑いなかを歩いていたのでアイスコーヒーを飲みながら少し休憩した。

茶店陽だまりのアイスコーヒー

 喫茶店で休憩したら東海道広重美術館に向かう。

東海道広重美術館

 ここは平成6年(1994年)に開館した、江戸時代の浮世絵師・歌川広重(寛政9年(1797年)-安政5年(1858年))の名を冠した美術館である。収蔵品は「東海道五拾三次」の「保永堂版」、「隷書東海道」、「行書東海道」のほか、「名所江戸百景」など、風景版画の揃物の名品を中心に約1,400点を数える。

 私が訪問したときは「浮世絵で学ぶ日本史 源平の争いと鎌倉幕府」の展覧会がやっていた。平安時代に台頭してきた武士の歴史を浮世絵に描かれた武者絵で紹介していた。「鎌倉殿の13人」に対応した説明もあったので、「鎌倉殿の13人」を視聴していればもっと楽しめたと思う。

 その他、浮世絵展示や広重の浮世絵の特色、浮世絵の作り方などの展示もあった。館内は撮影不可のため写真はないが、浮世絵に興味のある人はもちろん、興味がなくても浮世絵の美しさや広重の構図の見事さは見ていて惚れ惚れしたので、ぜひ行ってみてほしい。そして、クーラーが涼しくてつい長居してしまった。

 由比本陣公園には「御幸亭」もある。

御幸亭

 これは明治天皇が休憩した離れ座敷を復元したもので、茶室「結仁斎」、水屋などを備えた伝統的な和風建築で、御幸亭前の庭園は「松榧園」といい、北側の庭は小堀遠州作といわれている。

 入館料を払ったらおつりが全部記念硬貨で返ってきた。もったいなくて使えない。

 庭も見事で、お茶をすすりながら庭を見るのは風流だと感じた。

君が代」で有名なさざれ石

 本陣の井戸も残存している。

本陣の井戸

 馬の水呑場があり、ここで大名行列の馬に水を呑ませたり、身体を洗ったりしたらしい。今は亀の水浴び場になっていた。

馬の水呑場

6.由比宿を歩く

 由比本陣公園の向かい側には正雪紺屋がある。

正雪紺屋

 この紺屋(染物屋)は江戸時代初期より続くといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。4つ1組になった甕が店いっぱいに並び、その上に架け渡してある竹棹に布をかけて染める。神棚には職能神である愛染明王を祀っている。藍がよく染まるようにとの掛詞である。

 慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている。由比正雪は3代将軍家光亡き後、幕府を転覆させようとした慶安事件(慶安4年(1651年))の首謀者だが、未遂に終わって駿河で自刃した。

 由比本陣公園の裏に正法寺がある。

正法寺

 太平洋戦争で供出された梵鐘に、文保元年(1317年)浄円の草創であるとの銘記があり、この浄円は由比郷初代の領主「由比大五郎光高」の孫といわれ、現在の由比本陣、正法寺の位置に居館を構え、近郷を統治していた。

 桜えびサブレーが売られている松風堂は、江戸時代、加宿問屋場跡だったようだ。

松風堂

 ここは江戸時代に加宿11カ村が共同で問屋場を設営したところである。問屋場とは幕府の命令で街道通行者のために人足と駄馬を用意した役所で、由比宿の場合は本宿と加宿が1ヶ月交代でこの負担を務めていた。

 「東海道由比宿おもしろ宿場館」とあり、入ってみようと思ったら「売家」。旅人の人形もがっかりしているように見えるのは気のせいだろうか。

売家になってたおもしろ宿場館

 立派な洋館を見つけた。国の登録有形文化財清水銀行由比本町支店だ。

清水銀行由比本町支店

 この建物は、明治33年(1900年)創業の庚子銀行本店として、大正14年(1925年)竣工したが、昭和3年(1928年)金融恐慌のおり駿州銀行に吸収合併された。昭和23年(1948年)には清水銀行と改称され、同行由比本町支店となった。この建物は、西洋の古典様式を基調とする意匠で、その正面には4本のイオニア式の柱頭を飾る柱を据え、水平に3つの帯で分けている。

 少し進むと左手側に「由比宿」案内板と由比宿西木戸がある。

「由比宿」案内板

由比宿西木戸

 天保12年(1841年)に江戸幕府が編集した東海道宿村大概帳によると、由比宿の町並みは東西5町半(約600m)とある。その宿場の西の木戸が、ここの桝形(曲がり角)のところあたりだったと思われる。

 由比川橋のたもとには、入上地蔵堂がある。

入上地蔵堂

 由比川はひとたび大雨になると「きちがい川」ともいわれ、急に水かさが増し、おぼれて水死する人もいた。入上地蔵はこの水難者を祀った川守地蔵である。そっと手を合わせた。

 由比川橋で由比川を渡る。今日は「きちがい川」ではないな、と思った。

由比川橋と由比川

7.豊積神社と地持院

 そのまま進むと右手側に妙栄寺がある。

妙栄寺

 ここは日蓮宗の寺院で、天正12年(1584年)12月に蓮乗院日満上人がここに大乗妙典を書写した経石数百個が埋没してあるのを知り、土地の有志と話し合って石塔と草堂を建立した。これを経塚山妙禜寺と号し、自ら開山となって、身延山窪之坊に属せしめたのが当時の起源である。

 いなば食品の工場の向かい側に立派な家を見つけた。

せがい造りと下り懸魚の家

 せがい造りと下り懸魚の家で、せがい造りは軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし棰(たるき)を置いたもの、下り懸魚は平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置である。ここは稲葉家と言うらしい。そして向かい側にはいなば食品の工場…いなば食品創業者の家か?と思った。確証は得られなかったが、ここの社長は稲葉さんだったので、その可能性はありそうだ。

 先に進んだら豊積神社の参道が見えた。気になったので行ってみる。

豊積神社参道

豊積神社

 延喜式神名帳に「駿河国庵原郡豊積社」とあり、ここの地は町屋原と呼ばれ、古代において物々交換の市場が営まれたところだった。社伝によれば第40代天武天皇の白鳳年間ここに五穀の神「豊受姫」を祀る豊積神社が創建されたと伝えている。延暦16年(797年)、坂上田村麻呂が東征の途上、豊積神社に戦勝を祈願し、その帰路戦勝報告に立ち寄ったのが旧正月1日とあって、ここに戦勝祝賀の宴が盛大に催され、大太鼓を繰り出し3日2晩夜を徹して町内を練り歩いた、これが今に伝えられるお太鼓祭りの起源とされている。お太鼓祭りの歌は独唱と斉唱が交互に続き、力強くうたわれ、歌詞は500番近くある。お太鼓祭りは静岡県指定無形文化財に指定されている。豊積神社は小さな神社だが、駿河国二宮らしい。

 豊積神社に参拝したら近所のおばあさんに会い、話しかけられたのでいろいろ話をした。今日薩埵峠越えをするかまだ悩んでいたが(この時点で14時)、話していて険しいことがわかったので今日はやめておいたほうがいいことや、隣の地持院の障子絵と庭がすばらしいことなどを話した。そういうわけで、豊積神社隣の地持院にも寄ってみることにした。

地持院

 地持院は山号を北田山といい、臨済宗妙心寺派に属する。寺伝によれば開山は天正年間(1573~1591年)暗室和尚による。隣接している豊積神社の別当寺として神仏事を行ってきたが、明治初年の神仏分離策により、およそ現在の寺形になった。

 ここは襖絵がすばらしく、この絵は平成7年(1995年)に杉山侃子(なおこ)さんが描いたものである。杉山さんは静岡市清水区在住の女流画家の方である。この襖絵は仏教や禅の教えにちなんだものである。

 庭は枯山水で、平成6年(1994年)、客殿書院新築に際し、住職が設計し、檀家の青壮年部の力を借りて造られた手作りの庭である。白砂の中には彼岸に渡る舟石が置かれ、向こう岸の築山には四季折々の花が植えられている。しばらく庭に見とれてしまった。

8.由比駅

 東海道に戻り、しばらく進んだら右手側の石段を登り、県道396号線に出る。

ここを登る

 目の前に天満大自在天神がある。

天満大自在天

 天満大自在天神とは菅原道真を神格化した呼称、あるいは神格化された道真を祀る神社である。

 そのまま県道396号線を進む。このあたりは結構海が近いのだな、と今更知る。

 このお花、結構新しいけど、どうやって生けたのだろうか。

 水準点を発見した。一等水準点第69号だ。

一等水準点第69号

 平成6年(1994年)設置の標石タイプだが、マンホールに阻まれて標石を見ることはできなかった。

 県道370号線との交差点でUターンして少し歩くと由比駅がある。

由比駅

 今日はここまでとする。明日は、由比駅から清水駅まで歩く。

【おまけ】

 今日は静岡市街地に宿泊するため、東海道本線で静岡駅に向かう。このときまだ15時。せっかくなので、静岡市街地で一番行ってみたかったところに行ってみた。そう、サウナしきじである。

サウナしきじ

 サウナしきじへは静岡駅からバスで向かう。この日は土曜日だからか、大勢並んでいる人がいたが、女性1人だとあっさり入れた。

 体を洗い、まず体温を高めるために漢方薬草風呂に入る。檜皮色の湯は独特の良い香りがする。

 温まったところで、フィンランドサウナへ。フィンランドサウナは一般的なサウナで、テレビがついていた。6分入り、汗を流してから水風呂へ。

 ここの水風呂は天然水の水風呂で、肌触りがとてもよく、いつまでも入っていられる気がした。この水は持ち帰り自由で、私も湧き出しているところからペットボトルで水を汲んで持ち帰った。外気浴スペースがないのが惜しいが、それでもベンチで休憩すると気持ちがよい。また漢方薬草風呂に入り、ポカリを飲んでから、今度は韓国式サウナへ。

 韓国式サウナは、熱い。蒸気が噴き出している。フィンランドサウナより明らかに熱い。どうにか10分耐えて水風呂へ。そしてベンチ。気持ちいい。フィンランドサウナと韓国式サウナにもう1度ずつ入って終了とした。

 サウナに入ったらお腹が空いたので、ビールと餃子定食を。

 キンキンに冷えた生ビールで餃子定食を流し込むのは至高のひとときだった。

 このあとはバスで静岡駅に戻り、宿に向かい、次の日に備えることにした。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

歩いた日:2022年8月6日

【参考文献・参考サイト】

小杉達(1992)「東海道歴史散歩」静岡新聞社

静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社

日蓮宗 静岡県中部宗務所 妙隆寺

https://myouhou.com/temple/post_93/

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp

由比本陣公園

https://yuihonjin.sakura.ne.jp/

静岡市東海道広重美術館

https://tokaido-hiroshige.jp/

地持院

http://jijiin.blog46.fc2.com/

(2022年9月12日最終閲覧)

東海道を歩く 13.吉原駅~新蒲原駅

 前回、片浜駅から吉原駅まで歩いた。今回は吉原駅から新蒲原駅まで歩こうと思う。三島駅から片浜駅まで一緒に歩いた方が、今日も来てくれることになった。

 「東海道を歩く」とは関係ないのだが、最近ブログの更新が滞っている理由として、残業が続いていたことがあげられる。残業は終わったのだが、ほかに同人誌の原稿などもあるので、細々と「東海道を歩く」を続けていければと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.左富士

 今日は吉原駅からスタートする。吉原駅交差点まで出て、そこを左折して県道171号線を北上していく。ひたすら県道171号線を北上していくと左富士神社がある。

左富士神社

 元吉原まで右に見えていた富士山が、依田橋でぐっと北東に折れ曲がるために松並木の間から左に見えるようになる。長い東海道でここだけであるので、古来「左富士」といって名所の一つになっていた。

 左富士神社の創建は寛政8年(1796年)で、もともとの社名は「悪王子神社」だったが明治41年(1908年)に「左富士神社」と改めた。

 「左富士」は茅ヶ崎にある「南湖の左富士」もある。南湖の左富士については「東海道を歩く 7.藤沢本町駅平塚駅」で取り上げているのでそちらも参照してほしい。

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 境内には依田橋村一里塚もある。

依田橋村一里塚

 「田子の古道」によると元吉原時代には、田嶋村付近(現港湾付近)に一里山を築いたとある。その後、寛永16年(1639年)、元吉原宿が中吉原宿に移転、その時、一里塚は「日本分国絵図」によると津田村西側付近に描かれている。延宝8年(1680年)、水害により中吉原宿は新吉原宿に移転、その時、一里塚は依田橋村の左富士神社の北側に描かれている。吉原宿と共に、この一里塚は3度の移転をしたことになる。

一里塚…?

 少し進むと、「名勝 左富士」がある。

 「左富士」は、江戸時代に災害から逃れるため吉原宿が2度の移転をしたことに由来する。東から西にまっすぐ延びていた東海道が急に北方へ回り込み、道筋が一時的に北東を向くこのあたりで、左手に富士山を望む形となる。

 今日、周辺には工場、住宅が建ち並び、かつての風情はないが、わずかに残る1本の老松が往時の左富士をしのばせている。

1本の松

 ちなみに、この日は天気が悪く、左富士を見ることはできなかった。

 

 少し進むと「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑と馬頭観世音を見つけた。日蓮宗総本山久遠寺が近いからか、日蓮宗の信仰が盛んなのだろうか。

南無妙法蓮華経

2.平家越の碑

 しばらく歩くと、平家越の碑を見つける。

平家越の碑

 治承4年(1180年)、富士川の合戦の際、富士沼(現在の浮島ヶ原)の水鳥が飛び立つ羽音に驚いた平氏は、源頼朝率いる源氏の襲来かと思い、戦わずに逃げ去ったという。その場所がこの付近と伝えられている。「平家物語」に、「富士川の瀬々の岩越す水よりも早くも落つる伊勢平氏かな」の落書があり、それがここだと考えられている。

 平家越の碑のところには古い東海道の石碑も建っている。

 

3.吉原宿

 橋を渡り、少し進むと吉原宿東木戸跡がある。ここから吉原宿に入る。

吉原宿東木戸跡

 吉原宿は津波のために3度も移転をして現在の地に移った。初めは田子の浦港の東にあった中世以来の吉原、移転後は元吉原といわれるようになったところで、ここが津波に襲われて寛永16年(1639年)に依田橋近くの中吉原に移り、再び津波の害により天和2年(1682年)に今のところ、それまでの吉原とは何の関係もない富士山麓に移った。ただ宿の名前だけは低地のヨシの茂った原っぱの地名を持ち続けてきたので吉原宿という。

 なお、吉原の宿場は全く新しくなって、昔の面影を残しているものは何もない。

 

 吉原本町駅前で岳南電車の線路を越えたら「見よう歩こう富士市東海道」という看板を見つけた。

見よう歩こう富士市東海道

 吉原商店街に入る。日曜日の午前中だというのに、人通りが少なく、寂れた商店街という印象が否めない。

吉原商店街

 吉原商店街を歩いていたら見つけた神社に寄り道してみる。吉原天神社だ。

吉原天神社

 吉原天神社の御祭神は日子番能瓊瓊杵命(ひこほのににぎのみこと)、菅原道真公である。

 創建の年代は不詳だが、元吉原見付宿にて祀られていた古社であり、建久4年(1193年)源頼朝公、天正18年(1590年)豊臣秀吉公が参拝するほどの大社だった。しかし度重なる天災により遷座、天和2年(1682年)に現在地に祀られて以来「天神さん」として崇敬を集め、学問の神として多くの受験生が参詣に訪れるようだ。

 境内に「平成23年3月 震災にて崩壊し竣工」という表記を見つけた。

 平成23年(2011年)3月…というと東日本大震災?と考えていたら、同行者の方が「静岡県東部地震のことですよ」と教えてくれた。

 静岡県東部地震平成23年(2011年)3月15日に発生した静岡県東部を震源とする地震で、静岡県富士宮市で最大震度6強を観測した。これだけ大きな地震ならもっと報道されてもよいはずなのだが、記憶にないのは、その4日前に発生した東日本大震災の被害が甚大だったからだろう。

 

 吉原商店街に戻る。建物の老朽化具合から、この商店街の寂れ具合を感じずにはいられない。

 吉原道道標を見つけたら左折する。

吉原道道

 そのまままっすぐ行くと妙祥寺がある。

妙祥寺

 妙祥寺は日蓮宗の寺院で、日蓮聖人の直弟子六老僧の一人、日昭上人を開山とし、日雲上人を開基として鎌倉時代後醍醐天皇代の元亨3年(1323年)に元吉原宿今井の地に創建された。元和元年(1615年)大津波に遭い伽藍等を流失、寛永16年(1639年)に中吉原に移転、延宝8年(1680年)に再度大津波と台風により流失、天和2年(1682年)に現在地に移転再興された。

 それにしても、日蓮聖人像が大きい。

日蓮聖人像

 県道22号線に戻り、少し進むと右手側に木の元公園があり、その奥に木元神社がある。

木元神社

 木元神社は17世紀中頃創建、主祭神は木元大神とされている。

 吉原宿は寛永16年(1639年)に鈴川今井から依田橋に所替えしたが、そのとき鈴川の鎮守の木之元神社は地主神として残されたため、分霊が中吉原宿に祀られた。これが当神社の創祀と伝えられる。天和元年(1681年)にまた津波に襲われ、翌年木元神社も遷座した。

 

 錦町北交差点の前に西木戸跡を見つけた。ここで吉原宿は終わりだ。

西木戸跡

4.青嶋八幡宮神社

 錦町北交差点で左折し、南進、錦町交差点で右斜め前に進む。「見よう歩こう富士市東海道」があるので参考にしてほしい。

「見よう歩こう富士市東海道

 少し進むと左手側に青嶋八幡宮神社がある。ここは「磔八幡」とも呼ばれている。

青嶋八幡宮神社

 青嶋八幡宮神社の由緒がマンガで描かれていて面白い。

 徳川5代将軍綱吉の代、延宝から天和に年号が変わる年(1681年)のこと、その数年前より行われてきた鈴川検地に代表される過酷な租税取り立ての検地が行われていた。

 前年の延宝8年(1680年)には大津波がこの地区を襲い吉原宿も中吉原から今の吉原宿の地に所替えを余儀なくされた大変な時代で農民は苦しい生活だった。

 そのようなときに行われようとした過酷な検地を青嶋村の名主、川口市郎兵衛は近隣庶民のため検地を拒んだ。これにより川口市郎兵衛は磔刑に処された。

 それを知った村人たちは大変悲しんだが幕府にとっては罪人であるため公には祀ることはできず幕府をはばかり密かに八幡神社川口市郎兵衛を合祀した。

 川口市郎兵衛は82年後(1763年)にようやく赦免された、というお話である。

 村の神社に祀られた川口市郎兵衛はよほど、慕われていたのだと思う。

5.案内板を見ながら進む

 青嶋八幡宮神社からまっすぐ進み、「旧東海道順路」とあるところを右折する。

 すぐに左折する。

 富安橋で潤井川を渡る。富安橋は工事中だったが、歩行者は渡ることができた。

富安橋

 しばらく進むと右手側に蓼原の単体道祖神がある。

蓼原の単体道祖神

 「一万歩「加島旧東海道」コース」のチェックポイントらしいが、特に説明板はなし。笏を持った道祖神は珍しいと思う。

一万歩「加島旧東海道」コース

 少し進むと右手側に山神社がある。

山神社

 祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)。

 そのまま進むと少し離れた本市場町南交差点まで行って交差点を渡るよう指示がある。

 そのまま進み、県道396号線との交差点を斜め前に進む。ここにも「見よう歩こう富士市東海道」がある。

 それにしても、地図がボロボロで役に立たない。

 「富士緑道」を見つけた。暗渠かな?と思い同行者の方に知っているか聞いたところ、ここは身延線廃線跡らしい。なるほど。

富士緑道

 元市場の一里塚跡を見つけた。ここは「旧東海道一里塚」と書かれた石碑があるだけで、一里塚らしきものは何も残っていない。

元市場の一里塚跡

ここも「一万歩「加島旧東海道」コース」だった

 富士市立富士第一小学校内に、2つも水準点がある。

 手前のほうが第準基1363号で、標高は12.958m。ここからは見えなかったが、金属標タイプらしい。昭和52年(1977年)設置。

 奥のほうが第65-1号で、標高は13.8246m。これも金属標タイプらしい。昭和47年(1972年)設置。これだけ近くに2つ水準点を置いた意図はわからない。

 富士駅前のアーケードが見えたが、寂れている。12時半なのでそろそろ昼食にしようか、と思ったが昼食によい店が見つからなかった。結局少し進んだところにあったすき家で食べた。

富士駅前のアーケード

 もはや地図が消えている「見よう歩こう富士市東海道」を見つけた。この案内板、メンテナンスされていないのだろうか。

 ちなみにこの案内板は「札の辻跡」だった。ここに高札場があった、ということだろうか。

 このタイプの「加島の旧東海道コース」の看板は初めて見た気がする。

6.天白神社

 県道396号線と合流してすぐのところに天白神社がある。

白神社

 天白神社にはこのような民話がある。

 養老年間(奈良時代)のある年、柚木村の初穂田(はつほだ)という水田に、大きな米粒が3粒天から降ってきた。米粒の大きさは一寸八分(6cm)ほど。

 村の人たちは、「不思議なことがあるもんだ。きっと、この土地はお米の神様と関係があるに違いない」と米粒の一つを祀って、天白神社と名付けた社を建てた。そして残りの米粒は米之宮浅間神社出雲大社に奉納した。

 また、天白神社の横にあった大きな池「天白池」で雨ごいをすると雨を降らすことができたそうだ。ちなみに、今は特に雨ごいはしていないのに、雨が降っている。

 

 身延線柚木駅のガード下をくぐる。今日の目的地の新蒲原駅ではないので、ここで電車に乗るわけにはいかない。

 「見よう歩こう富士市東海道」の案内板のある交差点を斜め前に進む。

 ここには道標と常夜燈がある。この常夜燈には「秋葉山」と書かれているので、秋葉信仰が盛んであったことが伺える。ちなみに、秋葉信仰とは静岡県浜松市にある秋葉山本宮秋葉神社を信仰することである。東京都台東区にも秋葉神社があり、これが「秋葉原」の地名の由来となっている。

 道標には「左 東海道」と書かれている。

道標と常夜燈

 「歩く健康づくり一万歩 岩松 治水の歴史コース」と書かれた看板があった。いつの間にコース名が変わったのだろうか。

 ここで、三角点を見つけた。四等三角点「松岡」だ。

四等三角点「松岡」

 設置は平成17年(2005年)で、結構新しい。保護石や標示杭もちゃんとついている。

 

 県道396号線に戻り、明治天皇御小休所阯を見つけた。そういえばこれ、久しぶりに見たな。

明治天皇御小休所阯

7.水神社

 富士川のたもとに、水神社がある。

水神社

 日本三大急流の一つである富士川の水害を防ぐために、失敗を繰り返しながら建設されていた堤防工事の完成を願って、江戸時代初期に水神社が建立された。

 江戸時代、東海道を行き交う人々は、富士川を渡るために東西の両岸を結ぶ渡船を利用していた。渡船場は上・中・下の3ヶ所が定められ、その時々で川の流れが穏やかなところが選ばれた。東岸の渡船場のうち、最も下流の渡船場であった松岡村の水神の森周辺は、渡船が行われなくなった現在でも「船場」と呼ばれ、当時の名残を感じることができる。

 「東海道名所記」には「あはや、この舟、水底へづぶりとしづミけるよと、おもへど、さもなくて、こぎ行舟の中にある人ハ、目まひ、肝きゆる心地して、腹ハ背につき、手をにぎりて、やうやう岸へつく」とあり、渡船は快適なものではなかったようである。今は橋を渡ればいいので、眩暈を起こすこともない。

富士川船場

 また、水神社の鳥居そばには、「冨士山道」と刻まれた石碑が移設されている。これは、宝暦8年(1758年)に東海道から分かれて富士山へと向かう登山者のために、水神社から少し東の場所に建てられていたものである。

「冨士山道」

 境内には、水準点もある。一等水準点第66号だ。昭和47年(1972年)設置の金属標らしいが、残念ながら金属標は確認できなかった。

一等水準点第66号

 さあ、富士川を渡ろう。

 富士川は濁流が流れていた。これでは船渡しはできないだろうな、と思った。だがそこは現代人、安心して富士川橋を渡れるのだ。

 なお、いかにも「市町村境」である感じがするが、この橋を渡っても富士市内を出ることはない。市町村合併前は富士市富士川町の市町村境だったようだが、現在、富士川町富士市と合併してしまったからである。

8.富士川の向こうへ

 富士川を渡り、右折する。すると後ろ向きになっている石碑と説明板を見つける。あまりに見る人のことを配慮していないので笑いがこみあげてくる。

 説明板を見に行ってみる。

 「船型の植樹枡」「角倉了以翁の紀功碑」「渡船「上り場」常夜燈」の説明板があった。

 「船型の植樹枡」には船の形の植樹枡群を平成元年度(1989年)県道富士川身延線の修景工事として作成したことが書かれていた。残念ながら植樹枡の撮影はしていなかった。

 「角倉了以翁の紀功碑」は、角倉了以をたたえた碑のことが説明されていた。これも後ろの写真しか撮っていなかった。

 角倉了以・素庵父子は、慶長12年(1607年)に江戸幕府から富士川の開削を命じられた。父子は工事に取り組み、甲州鰍沢から駿州岩渕までの間約71kmは難工事の末に舟運が可能となり、以後、岩渕は「下り米・上り塩」の中継地として繁栄した。しかし、明治44年(1911年)の国鉄中央線、昭和3年(1928年)の身延線の全通によってその使命をおえた。碑は父子の功績をたたえるため、昭和12年(1937年)に旧富士川町(現・富士市)が建立したものである。

 「渡船「上り場」常夜燈」は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政13年(1830年)正月、甲州三河岸・岩淵河岸商人・富士川渡船関係者らが建てたものである。この常夜燈だけ撮影していた。

渡船「上り場」常夜燈

 説明板のあったところをUターンして、坂を登る。「東海自然歩道バイパスコース 富士川コース 一里塚 0.93km」という案内板を見つけた。

 右手側に寺院を見つけた。光栄寺だ。

光栄寺

 開創は天正10年(1582年)2月。中郷山等覚寺を退隠した本泉院日正が、岩淵字大畑に一宇を建てて「法華堂」と名付けたことに始まるという。

 本堂から振り返ってみると、富士川から遠くは製紙工場の煙突まで見えた。晴れた日はもっと綺麗なのだろう。

  光栄寺を出たらそのまま道なりにカーブして、行き止まりを左折する。よく見ると「東海道」という貼り紙がある。

 住宅街を進んでいく。秋葉山の常夜燈を見つけた。秋葉信仰が盛んだったのだろう。

 久しぶりに見つけた、「東海道ルネッサンス」。

 岩渕地区の東海道沿いの散策マップが掲示されているのを見つけた。なお、配布はしていなかった。

9.旧小休本陣「常盤家住宅主屋」

 「無料公開中」と書かれた建物を見つけたので、寄ってみた。

 旧小休本陣「常盤家住宅主屋」と言うらしい。

旧小休本陣「常盤家住宅主屋」

 岩渕は、吉原宿と蒲原宿の間宿(あいのしゅく)であった。宝永元年(1704年)の富士川の水害後、東海道の高台への付け替えが行われたのちは、東側77戸、西側75戸という宿駅なみの規模であったという。小休本陣は立場(たてば)本陣ともいわれ、大名や貴人が休憩に利用した施設のことで、富士川の渡船名主(なぬし)の1軒であった常盤家が、遅くとも18世紀末には小休本陣をつとめていた。

 主屋は木造平屋建て・切妻造・桟瓦葺き、正面のみセガイ造で、総建坪75.38坪(約249㎡)。賓客が休憩したと思われる「上段の間」があり、富士市では平成16年(2004年)から公開している。

 中にはおしゃべりなガイドさんがおり、いろいろ教えてくれた。

10.新豊院

 そのまままっすぐ進むと右手側に寺院が見えてくる。新豊院だ。

新豊院

 鎌倉時代正治元年(1199年)真言宗の寺院として開創され、室町時代天文3年(1534年)に曹洞宗に改宗した。

 山門は、延宝7年(1679年)の建立と考えられ、間口3.03m、奥行2.15m、切妻造り桟瓦葺で、本柱が門の中心線から前方にずらして、本柱と控柱を結ぶ梁の中間の上に束をたてて屋根をのせる、薬医門の形式である。それにしても、説明板が読みにくい。

 ほうきを持ってる子供の像。お地蔵さん、と書こうとしたが、たぶん違う。

 洗い大日如来尊。洗うとご利益があるのだろうか。

 東海道を歩いているといろいろなところにある芭蕉の句碑。

 ぽっくり観音と縁むすび観音。なかには聖観世音菩薩立像と薬師如来坐像があるらしい。聖観世音菩薩立像はもともと新豊院の末寺の慈眼院増福寺(明治6年(1873年)廃寺)の本尊だったらしい。薬師如来坐像も新豊院の末寺の芳野山光雲寺(明治6年(1873年)廃寺)の本尊だったようだ。

 四国八十八ヶ所と百観音巡拝記念の石碑。四国八十八ヶ所はいつかやってみたいと思っている。百観音は坂東三十三ヶ所、西国三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所を合わせて百観音である。坂東三十三ヶ所は途中までやったが進めていないから最後まで終わらせたい。秩父三十四ヶ所は手軽にできそうだが、やったことはない。

 仏足石。お釈迦様の足の裏の相で、「素足でふんで功徳を受けてください」と書かれているが、この雨のなか、靴をぬいで踏む気にはなれなかった。

 

 新豊院を出て少し行くと水準点がある。一等水準点第66-1号だ。

一等水準点第66-1号

 明治28年(1895年)設置の古い水準点で標石タイプらしいが、鉄蓋の下にあって確認することはできなかった。

11.岩渕の一里塚

 そのまま進むと右手側にカーブする。そこに岩渕の一里塚がある。

 江戸から37里にあたる岩渕の一里塚は、宝永4年(1707年)の東海道の経路変更と、正徳年間(1711~16年)の朝鮮通信使の通行に際して設置されたものである。付近には、名産「栗の粉餅」を売る店があったといわれ、現在、富士市中之郷の菓子店で復元・改良され、販売されている。また、東側の塚の榎は虫害のため昭和42年(1967年)枯死してしまったので、昭和45年(1970年)に二代目榎を植えた。

 

 また秋葉山常夜燈を見つけた。秋葉信仰が盛んだったのが伺える。

 常夜燈から数えて2つめの交差点を右折する。そのまま歩いていくと東名高速道路をくぐることになる。

 このあたりは中之郷というらしい。蒲原宿まで23間、2.5km。

 道の左側は野田山健康緑地公園らしい。

 東名高速道路の高架下をくぐると「野田山不動明王 聖徳太子 弘法大師 東京三田講」と書かれた石碑と薬師如来の石碑が目についた。

 富士講とかは聞いたことがあるが、三田講とは…?東京、と書いてあるから港区の三田ということはわかる(ついでに「東京」だから明治時代以降に設置されたものであることもわかる)。確かに三田は寺院が多くあるが…増上寺…?三田講で検索しても何も出てこなかったので、知っている人は教えていただきたい。

 

 先ほどの不動明王の石碑で左折し、道なりに行く。そのまま進んでいったら、新幹線の下をくぐるトンネルがあった。本当にここで大丈夫なのか…?

 どうやら通れるようだ。

 トンネルを出てすぐのところに水準点がある。一等水準点第67号だ。

一等水準点第67号

 水準点マンホールの下に昭和6年(1931年)設置の標石がある。残念ながら標石は見えなかった。

 また秋葉山常夜燈である。

   

 そのまま進んでいくと東名高速の上に出てきて、橋を渡ることになる。富士川を渡ったときのほうが「境界を越えた」感があったが、ここで富士市から静岡市清水区に入る。なお、静岡市区間はかなり長く、蒲原~由比~興津~江尻(清水)~府中(静岡市街地)~丸子、丸子宿と岡部宿の間の宇津ノ谷峠を越えるとやっと次の藤枝市に到着する。「←静岡市」「富士市→」の看板だけがここが市町村境であることを物語っている。

12.静岡市に入る

 そのまま道なりに南下していく。蒲原町のマンホールを見つけた。蒲原町はかつて静岡県庵原郡に属していた町で、平成18年(2006年)に静岡市編入合併清水区の一部となった。

左上に蒲原町章がある

 そのまま進むと光蓮寺がある。浄土宗の寺院である。

光蓮寺

 「北條新三郎の墓・蒲原宿東木戸」と書かれた看板を右折する。

 民家の中にビルドイン一里塚を発見した。ビルドイン一里塚は初めて見た。ここは江戸日本橋から数えて38番目の一里塚である。

ビルドイン一里塚

 右手側に諏訪神社の石段があったので登る。

諏訪神社

 諏訪神社は保元年間(1156年頃)吹上の丘六本松付近に建てられた御宮に始まる。住民は水害から逃れようと相談の結果、長野県上諏訪大明神の御分霊を勧請して六本松の池の畔に諏訪明神社を創建し、水難守護神としてお祀りした。

13.蒲原宿に入る

 やっと、蒲原宿東木戸に到着した。東木戸には常夜燈も残されており、これは文政13年(1831年)のものと考えられている。

蒲原宿東木戸

常夜燈

 蒲原宿東木戸には日本遺産の地図や案内板もある。ここから日本遺産に指定されているらしい。

 巨大パイプを見つけた。これなんだろう、と呟いたら同行者の方が「日本軽金属の工場に電力を供給する発電用の水を通すパイプです」と教えてくれた。

 「蒲原の名所、旧跡」と書かれた紹介パネルを見つけた。このうちいくつかは、次回の「東海道を歩く」で行くことになる。

 奥に古い土蔵を見つけた。渡邊家土蔵だ。これは、天保9年(1838年)2月21日に上棟したことが判明しており、静岡市内最古の土蔵である。平成13年(2001年)8月29日、静岡市指定有形文化財に指定された。残念ながら、中を見ることはできなかった。

渡邊家土蔵

 少し進むと、右手側に寺院がある。龍雲寺だ。

龍雲寺

 臨済宗妙心寺派の寺院である。

 龍雲寺の少し先には、正八幡神社がある。

八幡神社

 特に説明板等はなく、祭神もわからない。

 道端に小さな馬頭観音を見つけた。説明板によると平成11年(1999年)に発見されたものらしい。

 さらに先に進むと、東漸寺がある。東漸寺は日蓮宗の寺院で、日蓮聖人の直弟日興上人の弟子、中老僧の日目上人の開創といわれ、北条重時の嫡男石川式部入道勝重の発願により、元弘元年(1331年)に創立された。

東漸寺

 境内には、水準点がある。一等水準点第67-1号だ。これは平成12年(2000年)設置、結構新しい水準点である。金属標らしいが、石蓋に遮られて確認することはできなかった。

一等水準点第67-1号

 一般家屋のため中を見ることはできないが、「なまこ壁の塗り家造りの家」を見つけた。塗り家造りは土蔵造りと比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請と言われている。なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟の屋根とが相まって、重厚感があふれている。

なまこ壁の塗り家造りの家

 この家もなまこ壁の塗り家造りの家である。この家は、昭和まで続いた「僊菓堂(せんかどう)」という屋号で和菓子を作る商家だった。

 普通の民家の前に「問屋場跡」の看板を見つけた。問屋場とは、幕府の荷物の取り次ぎ、大名の参勤交代の折の馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をしたところで、蒲原宿では宿のほぼ中央にあたる場所に設置されていた。

 問屋場跡の奥に、椙守稲荷神社がある。

椙守稲荷神社

 特に案内板等はなく、祭神は不明。

 東海道に戻り、まだまだ西へ続くが、今日はここまでにして新蒲原駅に向かう。新蒲原駅へ向かう途中に蒲原夜之雪記念碑がある。蒲原夜之雪とは歌川広重天保3年(1832年)4月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたもので、東海道五十三次の中でも最高傑作といわれている。なお、蒲原は静岡県、そうそう雪は降らないだろうと思われるが、これは歌川広重の想像で降らせた雪、と東海道廣重美術館では解説されていた。

歌川広重「蒲原夜之雪」

 県道396号線を歩道橋で越え、新蒲原駅に到着した。

新蒲原駅

 ここから三島駅まで戻り、新幹線に乗る。今日の夕食は三島駅で買ったあしたか牛すき弁当だ。

 次回は新蒲原駅から由比駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

今回の地図⑤

今回の地図⑥

歩いた日:2022年5月1日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

小杉達(1992)「東海道歴史散歩」静岡新聞社

静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社

人力 左富士神社

https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/hara_yoshiwara/yoshiwarashuku/hidarifujijinja.html

富士おさんぽ見聞録 吉原天神社

http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-18.html

日蓮宗 静岡中部宗務所 妙祥寺

https://myouhou.com/temple/post_14/

八百万の神 山神社

https://yaokami.jp/1221392/

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/

富士市 【広報ふじ平成11年】富士の民話 あれこれ

https://photo.city.fuji.shizuoka.jp/kouhou/kiji/101110905_0740_10.htm

富士おさんぽ見聞録 岩正山 光栄寺

http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-281.html

(2022年8月29日最終閲覧)

東海道を歩く 12.片浜駅~吉原駅

 前回は大雨のなか、三島広小路駅から片浜駅まで歩いた。今日は幸い、雨は降っていない。この日は終始、雨は降らなかったため吉原駅まで歩くことができ、前日の遅れを取り戻すことができた。今日は途中リタイアした地点、片浜駅から始める。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.ぶらぶら寺社巡り

 今日は片浜駅からスタートだ。

片浜駅

 片浜駅から降りてすぐのところに、祥雲寺がある。

祥雲寺

 祥雲寺は臨済宗の寺院らしいが、それ以上詳細な情報は見つからなかった。

 祥雲寺の隣に神社がある。ここは三島神社だ。

三島神社

 三島神社の御神木はマキで、永禄元年(1558年)頃植樹されたらしい。

 500年以上そこにある木で、威厳を感じた。

 また、祥雲寺と三島神社は隣り合っていたので、もしかしたら三島神社別当寺が祥雲寺なのかもしれない、と考えた。

 そこから少し進むと伊勢神明宮があった。

伊勢神明宮

 この神社についても祭神が天照大御神(あまてらすおおみかみ)であること以外わからなかった。

 敷地内に「遊園地設立記念」と書かれた石碑があったが、この「遊園地」とはここにある小さな公園を指すのだろうか。

 原踏切で東海道線を越え、先に進む。

原踏切

 線路を越えた先にも神社があった。神明宮だ。

神明宮

 ここも祭神が天照大御神(あまてらすおおみかみ)であること以外わからなかった。

 また神社を見つけた。高木神社だ。

高木神社

 高木神社に至ってはネットで調べても祭神が出てこない。

 高木神社の境内に水準点を見つけた。一等水準点第61-1号だ。

一等水準点第61-1号

 これは昭和11年(1936年)に設置されたもので、なかなか古い。

2.白隠の里

 高木神社の向かい側に寺院を見つけた。清梵寺だ。

清梵寺

 清梵寺には以下のような話が伝わっている。

 平安時代の初め頃、安房の国に得萬長者という信心深い人がいた。ある時朝廷から召され京都から帰郷の途中、原宿に立ち寄りそこで長旅の疲れから病気になり、亡くなった。従者は長者の遺言に従い、大きな塚を築いて手厚く葬った。

 その後長者の妻は出家して梵貞尼と名を改め、原宿の夫の墓に詣でたとき、近くの網元の家で休んでいると、その網元は生前夫が信心していた地蔵尊を網にかけて持ち帰った。梵貞尼の孝貞に心打たれた網元も出家して清信禅居士と名を改め、梵貞尼と力を合わせて堂を建て地蔵菩薩を安置したという。そしてこの地に、山号を得萬山と号し、清信、梵貞の2字をとった清梵寺を建てたという。

 清梵寺から戻る途中、「白隠の里案内図」があった。

白隠の里案内図

 少し東海道から逸れるが、寄り道してみよう。

 なかみちを行く。

なかみち

 長興寺に寄る。

長興寺

 長興寺は、今から約640年前、康安年間(室町時代)のこと、鎌倉建長寺の開山大覚禅師のお弟子、友嶽和尚が行脚中、原大塚の海辺にさしかかったとき、海の響きに感応道交して歓喜雀踊、念持仏の虚空蔵菩薩を奉安して一堂宇を建立したのが長興寺のはじまりである。また、白隠禅師のもとに全国から訪れた修行者たちの宿坊として使われた。

 長興寺の境内には神社もあり、鎮守社の金比羅堂となっている。

金比羅

 その名の通り、香川の金刀比羅本宮の御分霊が祀られている。

 そのまま裏道に行き、案内に導かれていくと、白隠禅師の墓地についた。

白隠禅師墓地

 ここは静岡県の史跡である。

 なかみちに戻り、松蔭寺に行く。

松蔭寺

 松蔭寺は弘安2年(1279年)に、天祥西堂が開創し、鎌倉円覚寺の末寺だったがその後中絶し、江戸時代初めに興津清見寺の大瑞宗育が再興して、京都妙心寺派に改めた。宝永4年(1707年)富士山の噴火で大破したが、それを再興したのが白隠禅師である。

 白隠は貞享2年(1685年)原宿に生まれた。母は熱心な日蓮宗の信者で、白隠の性格や人となりは、この家風のなかで形成された。15歳のとき松蔭寺の単嶺和尚について出家し、名を慧鶴(えかく)と改め、剃髪して弟子となった。これ以後5年間、礼仏誦経につとめておこたらなかったという。19歳より諸国の旅を重ね、修行をつんだ。享保元年(1716年)、父の発病を聞いて松蔭寺に帰り、先住の単嶺遷化後、住持もなく荒れていた松蔭寺復興の願いに応じて、翌年住持となった。さらに享保3年(1718年)には、京都妙心寺の第1座となり、白隠を名乗ることになった。その後、禅をわかりやすく民衆に広めるために俗謡や禅画を用いたりして、農民から街道の馬子まで教化したので、東海道を通る大名も白隠の話を聞きに立ち寄った。明和5年(1768年)、84歳で入寂した。

 白隠は、禅画を確立したことでも名高く、好んで釈迦・観音・達磨などを描いた。白隠の禅画は、現在松蔭寺に多数保存されているが、通常非公開である。このなかでも白隠禅師自画像と科注妙法蓮華経静岡県文化財である。

 寺には、白隠に関係したものが多数残されている。山門は白隠の建立と伝えられ、白隠の考案といわれる石瓦葺きが特徴で、幅約30cm、長さ1mのものを一面3段18列計54枚、表裏あわせて108枚を用いて葺かれている。

 山門から奥に進むと、本堂の横に白隠の擂鉢松がある。伝承によると、白隠の名声を聞いて大名のなかにも教えを請う者があり、その1人である岡山藩主池田候から、その礼の品物を聞かれた白隠は、「味噌を摺る擂鉢が欲しい」と答え、池田候は備前焼の鉢を贈ったが、台風で裂けた松の雨よけに擂鉢をかぶせたまま忘れてしまった。今でも擂鉢を乗せたまま大きくなった松がそびえている。

 松蔭寺の隣に西念寺がある。

西念寺

 西念寺時宗の寺院で、弘安年中(鎌倉時代)に宗祖一遍上人のお弟子の素現和尚により開創された。境内に西念寺天満宮があり、この門前に生家のあった白隠禅師は幼少の頃、母から自宅に隣接するこの天満天神が一切の苦を救うと教えられ、日々参拝した。

西念寺天満宮

 西念寺の向かい側に、白隠禅師生誕地がある。

白隠禅師生誕地

 「駿河には 過ぎたるものが 二つあり 富士のお山に 原の白隠」と歌われ、臨済宗中興の祖と仰がれる白隠禅師は貞享2年(1685年)12月25日長澤宗彝(そうい)を父、妙遵(みょうじゅん)を母とし3男2女の末子として生まれる。

 現地は母妙遵の生家屋号味噌屋の地でのち父宗彝が分家して沢瀉屋(おもだかや)を名乗った跡地である。禅師が生まれたとき使用した「産湯の井戸」がこの奥にいまなお清水を湛えている。

 この「白隠の里」に来て、白隠のことはなにも知らなかったがこれだけ後になっても遺跡が残っているとは、すごい人だったのだなぁと感じた。

3.帯笑園

 白隠禅師生誕地の道路を越えて向かい側に、帯笑園がある。植松家は江戸時代はじめにここに居を定め、代々花卉に興味を持ち国内はもとより外来の園芸植物等を収集し花長者と言われていた。東西文化の交流が盛んになった江戸中期には園芸植物の観賞に多くの文人墨客、公卿、大名諸侯が訪れるようになり文芸文化の交流の場となった。シーボルトも立ち寄り「日本風に作られたこの庭園は、私がこれまで日本で見たもののうちでいちばん美しく、観賞植物も非常に豊富である」と激賞している。普段は公開されていないが、この日は土曜日だったので公開されていた。寄ってみよう。

 帯笑園は博物館と庭園に分かれている。博物館のなかでは訪れたゲストや帯笑園の資料が紹介されていて、庭園にはさまざまなものがあった。

 この石碑は植松叟花園記の碑と岸駒の石碑で、京の代表的文人である皆川淇園により、天明6年(1786年)に撰された植松家の花園の記録である。また、裏面には円山応挙と同時代に活躍し、虎の絵を描かせたら当代一と謳われた岸駒による虎の絵が描かれている。

 芍薬や藤の花が綺麗だ。

 これは加茂季鷹の歌碑で、加茂季鷹は江戸中、後期の歌人国学者である。

 「只對布富士能柴山新婆々々尓 見萬久逎寳之年是乃園閑茂 廣群鶴 刻(ただむかふふじのしばやましばしばに みまくのほしきこのそのかも)(何も遮るものがなく、まっすぐに富士の柴山とむきあっている、そのような富士の姿をしばしば見たいこの園であることよ)」と刻まれている。

 現在望嶽亭は失われているが、沓脱石(くつぬぎいし)だけは残っている。

4.原宿

 帯笑園を後にして、県道163号線沿いに戻る。戻るとすぐに浅間神社がある。

浅間神社

 この浅間神社も調べたがよくわからなかった。

 そして浅間神社の前に高札場があったようだ。高札場とは江戸時代、幕府、大名が法令や禁令を板札に墨書した高札を掲示したところである。

 三光楼食堂の前に、問屋場跡がある。

問屋場

 各宿場には問屋があり、宿役人がいて宿駅の業務を行った。

 いたって普通の家の前に本陣跡がある。

本陣跡

 原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟、義経の兄)の子孫であり、代々平左衛門を名乗って幕末に至っている。原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、自然に大名・幕吏等の宿所として本陣となり、問屋、年寄、名主等を勤めていた。間口は15~17間で、建坪は235坪、総坪数は山林、畑を含め6,600坪の広大な規模であったという。

 また少し行くと、原宿の西木戸跡があった。

西木戸跡

 東木戸から西木戸まで660間(2.2km)あった、と書いてあるが、東木戸を見た覚えがない。白隠の里を歩いている間に通り過ぎてしまったのかもしれない。

5.富士山と歩く

 原中学校入口バス停の手前の交差点を左折し、少し進むと浅間神社がある。

浅間神社

 この浅間神社、鳥居の由来碑はあるのだが、浅間神社自体の由来碑はない。ちなみにこの鳥居は平成6年(1994年)に建立されたものらしい。

 少し行くと、水準点がある。一等水準点第62号だ。

一等水準点第62号

 設置されたのは平成11年(1999年)なので、割と新しい。点の記によると、このマンホールの下に金属標があるようだ。

 ふと右を見ると、雲を被りながらではあったが富士山が顔を出していた。

 ただただまっすぐな道、ちょっと退屈だと思っていたので、富士山に励まされた気がした。なお、2泊3日の東海道ウォークのなかで、富士山が顔を出したのはこのときだけだった。

 また浅間神社を見つけた。

浅間神社

 この浅間神社は慶安3年(1650年)創建、明治8年(1875年)、村社に列せられたそうだ。この神社は一本松の鎮守でもあり、三社宮とも呼ばれ、氏子、地域住民の崇敬を集め、今日に至っているようだ。

 浅間神社から少し行ったところに大通寺がある。曹洞宗の寺院である。

大通寺

 林の中にあるお地蔵さんに興味を持ったが、寺の人が来たようなのでそっと覗くだけにしておいた。

 少し進むと浅間愛鷹神社がある。

浅間愛鷹神社

 浅間愛鷹神社は延享2年(1745年)創建で、元和元年(1615年)に鈴木助兵衛父子により当地の開拓が始まってから130年後である。祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と愛鷹大神(あしたかおおみかみ)である。

 少し行ったところにまた水準点を見つけた。一等水準点第62-1号だ。

一等水準点第62-1号

 選点は昭和53年(1978年)、金属標。先ほどの水準点とは違い、金属標がむき出しで設置されている。

 県道163号線沿いに「桜地蔵尊」という看板があったので、踏切を越えて行ってみる。

 小さなお社を見つけたが、説明板等は特になし、ネットで調べても何も出てこなかった。

地蔵尊

 踏切を越えると、割とすぐのところに八幡神社があった。

八幡神社

 祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと)らしいが、それ以外の情報は特になし。

 八幡神社の近くに、富士市沼津市カントリーサインがあった。

6.富士市に入る

 富士市の消火栓を見つけた。

 富士市に伝わる「かぐや姫」伝説のデザインである。富士市にある竹採公園は「竹取物語」発祥の地とする伝説が残り、竹取翁が籠を編んだところという籠畑、かぐや姫が竹取翁との別れを惜しんだという見返し坂などの関連地名が周辺に残っている。

 こちらは富士市のマンホールである。

 富士市のご当地マンホールは富士山と駿河湾の白波をデザインしている。

 「見よう歩こう富士市東海道」という案内板を見つけた。

 これは旧富士川町以外の富士市で見ることになる案内板だ。これがあるおかげで間違えずに済む。

 ここは間の宿柏原。東海道をかごや馬に乗った人々が行き交っていた江戸時代、東海道五十三次の吉原宿と原宿の間に間の宿「柏原」があった。柏原宿のあった場所は東田子の浦駅の西側あたりで、ここには9軒の茶屋があり、浮島沼でとれたうなぎやなまずの蒲焼を名物に繁盛していたそうだ。

 富士山のパイロンを見つけた。流石富士市だ。

7.六王子神社・立圓寺

 東田子の浦駅の近くに、六王子神社を見つけた。

王子神社

 昔、7人の巫女が京に上る途中、その中の1人であった阿宇が、水渦巻、底知れぬ深さの三ツ俣渕に住む悪竜の人身御供にされることになった。これを悲しんだ6人の巫女はみんな浮島沼に身を投げてしまった。そのため、哀れに思った柏原の人々が、6人を神としてお祀りしたのが六王子神社の創始と伝えられる。

 なんとこの神社には「お立ち寄り記念おふだ」がある。

 開けてみたら御朱印のようなものが入っていた。

 裏には神社の解説もついている。

 柏原二丁目交差点の手前に、立圓寺がある。

立圓寺

 大きな日蓮大聖人の像があり、日蓮宗の寺院だとわかる。

 境内には望嶽碑がある。

望嶽碑

 これは文化5年(1808年)5月、尾張藩の典医、柴田景浩はこの地から望む富士山の美しさに感銘を受けて建てた碑である。

 境内にはゲラテック号遭難の慰霊碑もある。

ゲラテック号遭難の慰霊碑

 この遭難によってインドネシア国籍のプルワディとカルミジャンが命を落としたそうだ。この日は4月30日、4月23日に起こった知床遊覧船事故を思い出してしまった。

 境内には水準点もある。一等水準点第63号だ。

一等水準点第63号

 鉄蓋の下に、金属標があるようだ。平成4年(1992年)設置。

 昭和放水路を橋で渡る。非常にのどかな風景だ。

8.増田平四郎

 昭和放水路を橋で越えると、増田平四郎の像を見つけた。

増田平四郎像

 増田平四郎は、駿河湾から押し寄せてくる波と砂によって海へ排出されない水を、「スイホシ」と呼ばれる排水路を作って排水することに成功し新田を開発した。現在はスイホシの跡に昭和放水路ができたので、昭和放水路の川口であるここに銅像が建てられた。なお、この付近に江戸から33里の一里塚があったようだが、何も残っていない。

 増田平四郎像の少し先にまた水準点があった。一等水準点第001-137号だ。

一等水準点第001-137号

 金属標の脇に水準点のマークが描いてあってわかりやすい。

 「春耕道しるべ第1号」と書かれた柱の横に歌碑があった。

 ただ、歌碑ということはなんとなくわかるが何と書いてあるのか判然としない。ネットで調べてみても「すり減っていてよくわからない」という内容のことしか出てこなかった。

 歌碑の近くに米之宮神社があった。

米之宮神社

 創建は寛文13年(1673年)と伝えられている。奉行中村四郎右衛門が建立、後に村民が村の氏神とした。文政3年(1820年)成立の「駿河記」には「米村明神社 或米の宮とも称す」と記されているが、なぜ「米之宮神社」という名前なのかはわからない。ここにも「お立ち寄り記念おふだ」があった。

 少し行くと愛鷹神社がある。

愛鷹神社

 ここは船津新田から移住した人々が開拓した地であり、その鎮守として寛文11年(1671年)に創建されたと伝えられる。ここにも「お立ち寄り記念おふだ」があった。

9.高橋勇吉

 檜交差点で左側に進み、県道170号を進む。「旧東海道順路」と書かれた案内板が目印だ。

 少し行くと小さな庚申堂がある。庚申塔が中にあるのだろうか。

庚申堂

 庚申堂の脇に水準点を見つけた。一等水準点第63-1号だ。

一等水準点第63-1号

 これは昭和11年(1936年)に設置されたなかなか古い水準点だ。標石式で、保護石も揃い立派な水準点である。

 また少し行くと高橋勇吉の碑を見つけた。

高橋勇吉の碑

 3新田(大町・桧・田中)の80ヘクタールに及ぶ水田を幾多の水害から守った天文堀は、大町新田の高橋勇吉(1806~1866)が天保7年(1836年)から嘉永3年(1850年)の14年間の歳月を費やして、完成した排水用の掘割である。いま、3新田の耕地は土地改良や道路などで開発が進み、勇吉の天文堀は、その跡を見ることはできず、碑が残るだけである。

10.毘沙門天

 しばらく先に進むと、左手側に少し高い位置に鳥居があるのを見つけたので、入ってみることにした。ここが毘沙門天である。

毘沙門天

 この寺の正式名称は香具山妙法寺といい、津波のときには真っ先にこの山に逃げるという命山(命を救う山)になっていたので、天より与えられた香しい(かぐわしい)山と認識されていたのだろうか。毎年旧暦1月7~9日の3日間行われる大祭は、日本三大ダルマ市の1つに数えられており、多くの人で賑わいをみせる。

 境内にはお身拭い毘沙門天があり、身体の痛むところと、毘沙門天像と同じところを布でよくさすると毘沙門天が痛みを取り去ってくれるらしい。箱根の跨木撫で観音さまや川越のおびんづる様と似たような信仰である。

跨木撫で観音さまはこちら↓

octoberabbit.hatenablog.co

おびんづる様はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

お身拭い毘沙門天

 「スーパー野村」というお店に「毘沙門天みやげ」という看板が立っていた。

 私が来たときはほとんど参拝者がいなかったのだが、ここが観光客で賑わうとここにお土産が売られることがあるのだろうか、と感じた。

 日本製紙工場の赤と白の煙突がそびえている。

 富士市は古くから紙すきが行われており、現在でも製紙業が盛んである。だからなのか、製紙工場の少し独特な臭いがする。

 日本製紙工場の前の踏切を渡り、線路の北側に出る。そのまま進むと吉原駅北口交差点に行き着くので、そこを左折すると吉原駅に到着する。

吉原駅

 今日はここまでとする。とりあえず、昨日の遅れを取り戻すことができてよかった。明日は、吉原駅から新蒲原駅まで歩く。

【おまけ】

 今日は昼食を食べることなく歩みを進めた。そこで昨日、東海道を一緒に歩いた方から沼津で海鮮が美味しいお店を紹介していただけた。向かったのは沼津駅北口に隣接しているBivi沼津のなかにある「駿河湾 沼津海いち」。ここで海鮮丼を注文した。それがこちら。

 流石沼津、魚介類が新鮮で美味しい。少しお高めだったが、ぜひまた食べに行きたいと思う味だった。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

今回の地図⑤

歩いた日:2022年4月30日

 

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

小杉達(1992)「東海道歴史散歩」静岡新聞社

静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社

八百万の神 祥雲寺

https://yaokami.jp/1225996/

八百万の神 伊勢神明宮

https://yaokami.jp/1220926/

八百万の神 神明宮

https://yaokami.jp/1220952/

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

沼津市 清梵寺

https://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/toukai/seibon.htm

八百万の神 八幡神社

https://yaokami.jp/1220963/

富士市のご当地マンホール

https://www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/fujipedia/kb719c0000004hev-att/kb719c0000004hhy.pdf

うなぎの蒲焼 間の宿「柏原」

https://www.city.fuji.shizuoka.jp/img14/fm116.pdf

(2022年7月11日最終閲覧)

うさぎの写真館 八塩あじさいの里

 あじさいを、撮りに行きたいと思った。

 あじさいといえば鎌倉などが有名だが、私は6年前に見つけた「八塩あじさいの里」がお気に入り。ここには色とりどりのあじさいが咲き誇っているが、地元民しか知らないのか客はまばらだった。今回は「八塩あじさいの里」を紹介する。

 新町駅から上野村ふれあい館ゆきのバスに乗る。電車が時間ギリギリに到着したから、走ってバスに乗り込んだ。そのままバスに揺られること1時間弱、「八塩温泉郷」バス停で降りる。そこから少し南に進むと、八塩あじさいの里の入口がある。

 まず、神流川沿いに向かう。ここには以前、「八塩橋」という小さな橋があったが、令和元年(2019年)10月12日の洪水で流されてしまった。

在りし日の八塩橋

 現在、八塩橋があったと思われる場所にはパイロンが置いてあった。もちろん、ここから埼玉県側に行くことはできない。

 ちなみに八塩橋は地理院地図上にはまだ残っている(学校の裏の小さな橋)。

 八塩橋の近くにも、白いあじさいが可憐に咲いていた。

 八塩橋の近くに、小さな祠があった。八塩八福神の恵比寿天だ。

 七福神が有名で全国にあるが、八塩八福神では七福神のメンバーに加え、鬼の神様の福鬼神を加えて八福神となっている。

 この恵比寿天は「神流の恵比寿」と呼ばれ、古来より神流川の豊かな恵みによりこの地の住民は豊かな生活が得られその守り神として信仰されたと言われている。

神流の恵比寿天

 実に穏やかな笑みを浮かべている。

 小川を越え、小さな山を登ると今度は福禄寿がいる。この福禄寿は「八塩南沢ささやき福禄寿」と呼ばれている。福禄寿は星の化身で、中国の神聖な仙人。長年にわたり、枯れることのないせせらぎの音、南沢に向かいそっとささやくと、子供に知恵と立身出世を授けてくれるそうだ。

福禄寿

 この福禄寿も優しそうな顔をしている。

 福禄寿に手を合わせ、先に進むとあじさいが咲き誇る開けた場所に出る。私が八塩あじさいの里で一番好きな場所だ。あじさいの中にある毘沙門天の鳥居もいい味を出している。

毘沙門天

 ここの毘沙門天は「南沢守り毘沙門天」と呼ばれている。古代インドの神話の神様であり中国に渡り、多聞天(北方守護神)として崇拝されている。古くから村民の守護神として南沢に祀られ、世相を清浄健全にする庶民に欠かすことのできない神で、村民も深く信仰していたそうだ。

 毘沙門天といえば怖いイメージがあるが、この毘沙門天は目が丸くあまり怖く見えない。

 

 一眼レフのシャッターを切っていたら、通りがかったおじさんに「ドラマチックな写真は撮れましたか?」と聞かれた。おじさんもカメラを持っていた。

 2、3枚写真を見せて「はい」と答えたら、おじさんは満足そうにうなずいた。

 弁財天の鳥居をくぐった先にもあじさいが続いていたが、白いあじさいが多い。白いあじさいは可憐で美しいが、シャッタースピードを下げすぎると白飛びしてしまうから撮るのが少し難しい。

 白いあじさいがたくさんあると、綿毛みたいで綺麗だ。

 ここの弁財天は「見合い弁財天」と呼ばれている。弁財天は元来水の神様で、日本に伝来してから音楽、知恵、学問の神様となった。

 南沢の水の守り神として弁天山より分神され、弁天山と見合っているところよりこの名がつけられたと言われている。

 弁天様は優しそうな顔をしていることが多いが、ここの弁天様は少しふくよかだ(女性に向かってふくよかは失礼かもしれないが)。

 弁天様がいた山のふもとに、弁天池という小さな池を見つけた。魚はいないかと見たが、足の生えかけたオタマジャクシが1匹泳いでいるだけだった。

 橋を渡る。

 小さな東屋を見つけたので、そこで休憩する。あじさいは爽やかだが、撮影している私は汗だくだった。

寿老人

 ここの寿老人は「生長霊泉 寿老人」と呼ばれている。寿老人は中国の神聖な仙人で、星の化身で鹿を伴う。

 八塩温泉の守り神の一人で、この霊泉を利用することにより、人の安全・健康が約束されるといわれ、不老長寿の神としても広く知られている。

 この寿老人もとてもにこやかだ。

 国道462号の橋の下をくぐる。

福鬼神

 国道462号の橋のたもとに鬼の瓦があった。ここに「八塩山 大声ぇ福鬼神」という説明板があった。

 昔、御荷鉾山に2匹の鬼が棲んでいた。これを弘法大師護摩を修したところ、鬼はとんで神流川のあたりに至って石になった。

 里人、これを大明神として祀った。など、ここには鬼の神話が数々伝えられている。

 鬼は怖い顔をしているが、悪事を治め弱い人たちの味方でもあり、諸願成就の神と言われている。

 南沢に向かい、欲張らず、願いを大声で叫べば願いが成就する、とのこと。

 この鬼の顔は厳めしいが、神様と言われればそう見える気がする。

 橋の下に野鳥観察小屋があるという看板を見たので行ってみたら、野鳥の写真が貼ってあるだけだった。

布袋尊

 少し進んだら布袋尊がほほ笑んでいた。布袋尊は中国の唐の時代の禅僧で、八福神のなかでも唯一の実在の人物という。

 福、そして宝を与えてくれる神様で、八塩の谷に風のように現れ、福徳を授けてくれる子宝、度量、円満の神である。

 少し進んだら少し大きなお社を見つけた。「笑の大黒天」と書いてある。

笑の大黒天

 文献によれば、最澄はここに来て緑野七倉の守護神として大黒天を奉祀したと伝えられている。

 大黒天は、日本神話に登場する大国主命とも言われている。

 ここの八福神はみんな笑顔だったが、この大黒天は笑の大黒天と言われるだけあって一番楽しそうな顔をしている。

大黒滝

 笑の大黒天の少し奥に、大黒滝がある。誰もいなかったのでそっとマスクを外し、大きく息を吸った。空気がおいしい。マイナスイオンを感じる。

 橋の下に戻ると八福神総社があるのに気がついたので参拝する。

 御朱印もあった。

 橋には八福神をモチーフにしたブリッジアートが描かれていた。

 「あなたの願いを八福の神々に思いをこめて鐘をならしてください」

 「いつまでもブログが書きつづけられますように」と思い、鐘をならした。

 

【~これにて写真館は終了~後はおまけコーナー】

 

 あじさいの写真は爽やかだが、私は全く爽やかでなかった。とにかく暑く、汗をたくさんかいていたので温泉で汗を流したいと思った。この近くに「桜山温泉 絹の里別邸」という日帰り温泉施設があり、2回ほど行ったことがあったが、前日調べていたら閉館していたことを知った。川の向かい側には「白寿の湯」という温泉があり、八塩橋を渡れば簡単に行くことができたが八塩橋は流失。白寿の湯に行くには3km程度歩かなくてはならない。でもこの炎天下で何もないところを3km歩くのはきつい…。

 気がついたときにはタクシー会社に電話をかけ、タクシーに乗っていた。というわけで白寿の湯までワープ。

 汗を流したいのもそうだが、現在13時過ぎ、お腹が空いたので腹ごしらえを先にすることにした。暑くて食欲がないので冷やし中華を注文した。

 夏野菜の冷やし中華は美味だった。

 腹ごしらえをしたところで温泉に向かう。タオルのてるてる坊主が目についた。これはお客さんが忘れたタオルで作っているらしい。

 白寿の湯はナトリウム・塩化物強塩泉で、地下750mの古生層から湧出する天然温泉である。あまりに源泉が濃いので湯舟のふちや床には褐色の温泉成分の結晶が、千枚田のような様相で堆積している。

 体を洗い、湯につかる。暑いときに熱い湯に入るのは理解しがたい人もいるかもしれないが、私はとろけ、日々の疲れも癒された。

 温泉でほどよくいい香りになったので、バスで本庄駅まで帰る。このまま帰ることもできたのだが、高崎駅に寄ることにした。その目的は…

 朝鮮飯店のカルビラーメンである。

 朝鮮飯店とは群馬県にのみ出店しているローカル焼肉チェーン店で、とにかく美味しいと評判を聞いていた。そして1年前くらいに初めて食べたのだが、私は朝鮮飯店のとりこになってしまった。朝鮮飯店のカルビラーメンは美味しいと聞いていたが、焼肉とラーメンを同時に食べられるほど食が太くないので、いつもはカルビスープにしていた。しかし、今日こそはカルビラーメンを食べるぞ。

 カルビラーメンだけ頼むのも忍びなかったので生ビールも頼んだ。

 うん。カルビラーメンとビールの相性はバッチリだ。うまい!うまい!辛さと旨さが絶妙で本当に美味しい。

 あっという間に完食してしまったがおなかいっぱいで、これで焼肉も食べるとなると胃の調子が狂ったと思う。

 温泉で汗を流したところまた汗をかいてしまったが後悔はしていない。満足しながら、帰路につくことにした。

撮影日:2022年6月26日

うさぎの気まぐれまちあるき 境界協会FW 東京都vs埼玉県・微高地の美学!

 Facebookを見ていたら、境界協会で2年ぶりのイベント「東京都vs埼玉県・微高地の美学!」が行われることを知った。境界協会は友人に誘われて2年前にイベントに参加しただけだったが、興味を持ったので思い切って参加してみた。イベント中は1人だったが、懇親会に参加したらFacebookの友達が増えたので、参加してよかったと思った。

1.葛西用水

 スタートはつくばエクスプレス八潮駅

 八潮駅に着いたらうまい棒の擬人化が貼ってあって驚いた。

KING OF DAGASHI

 調べたところうまい棒を販売している企業「やおきん」の営業本部が八潮にあるらしい。

 

 出発し、駅前に八潮市のマンホールを見つけた。

 このマンホールにはシラサギが描かれている。ちなみに八潮市の鳥はハクセキレイなので、シラサギではない。

 

 駅前に街区案内図を見つけた。右上に「ハッピーこまちゃん」というキャラクターが描かれている。

 調べたところ八潮市ゆるキャラで、八潮の小松菜畑で生まれたという設定らしい。八潮は小松菜が有名なのか。

 

 先ほどのシラサギとは別のタイプのマンホールを見つけた。

 このマンホールは中央に八潮市の花「くちなし」が、その周辺に八潮市の木「イチョウ」の葉がデザインされている。

 

 真菰田児童公園の柵に八潮市章を見つけた。

 この市章は八潮の二文字を図案化したもので、昭和39年(1964年)に公募により制定された。あと裏側から見ているのでデザインとしては左右反対である。

 

 水路を辿っていくと葛西用水に出た。

葛西用水

 葛西用水は、行田の利根大堰から取水し、足立区へ流下する用水路である。享保4年(1719年)、埼玉県東部の水田灌漑のために造られた。

2.垳

 葛西用水沿いに南下し、新葛西橋交差点で大通りに出る。右手側に「垳ふれあい会館」がある。

垳ふれあい会館

 垳ふれあい会館自体は自治会の集会所なのだが、問題は「垳」という字。この字、見たことはあるだろうか。おそらく、ほとんどの人は見たことがないだろうし、読めないと思う。もし読めたら、地名マニアか、八潮市民か、駒澤大学地理学科で橋詰先生の日本地誌を受講した人くらいだと思う(私は橋詰先生の日本地誌を受講していたので、読めた)。

 正解は「がけ」である。

 この「垳」という字はこの地名と、この地を流れる垳川の名を表記する以外には使われない。区画整理によりこの地名が変更されそうになったこともあったが、地名の保存運動が行われ、垳の地名と漢字は残ったようである。

 

 そのまま南に進むと葛西用水は垳川に合流する。この垳川の看板には「がけがわ」のルビが振ってある。

「がけがわ」

 階段を上がり、ふれあい桜橋の上に来ると埼玉県八潮市と東京都足立区のカントリーサインがある。「境界」だ。

 そのまま東に進むと、小さな神社がある。垳稲荷神社だ。

垳稲荷神社

 「垳」の漢字が使われている神社は全国でもおそらくここだけだと思う。垳稲荷神社の創建年代は不詳だが、江戸時代には垳村の鎮守だったそうだ。

 垳稲荷神社には水準点がある。一等水準点、第11110号だ。

一等水準点 第11110号

 成果状態が正常でないため点の記が閲覧できず、いつ設置されたものかはわからなかった。

 

 垳稲荷神社からさらに東、垳川沿いに進むと、常然寺がある。

常然寺

 建立は応永3年(1396年)、開山は白雲上人といわれており、宗門は浄土宗である。室町時代からある寺院なので、そのときにはここに集落があったことになる。

 常然寺境内には延宝2年垳万人の塔がある。

垳の万人塔

 「垳の万人塔」と愛称されるこの塔は、常然寺第4世の称誉厳貞上人が、万人講を組織して延宝2年(1674年)に造塔した別時念仏供養塔である。高さ4.6m、八潮市内最大の石造物となっている。

 

 常然寺に参拝し、さらに東に進むと埼玉県垳川排水機場の脇に「河川管理境界 垳川」という看板を見つける。

「河川管理境界 垳川」

 この看板は埼玉県が設置したものなのに、「対岸は東京都足立区です」と書かれているのが面白い。

 

 埼玉県垳川排水機場の看板にも、小さく「がけ」というルビが振ってある。

埼玉県垳川排水機場

 やはり「垳」の字は読めないからだろう。

 

 ここで垳川は中川に合流する。中川は埼玉県、茨城県、東京都を流れ東京湾に注ぐ一級河川である。

 

 稲荷下樋管という小さい施設のところで、八潮市と足立区の境界を越える。

稲荷下樋管

目で見てわかる境界

 ここは境界に合わせて舗装が分かれているのが面白い。

3.花畑運河

 六ツ木水門のところで右折し、花畑運河沿いを進む。

花畑運河

 足立区の北東にある花畑運河、花畑川は、大正15年(1926年)に「産業の発展に資する」と認められて建設が認められた運河である。

 すき家足立六木店のある交差点を左折し、そのまま南進し、新広橋交差点のあたりで暗渠から川が開渠になって出てくる。

暗渠と開渠の境界

 これは先ほども説明した葛西用水だ。

 

 先ほどの花畑運河沿いまで戻り、少し北進するとここにも葛西用水の開渠を見ることができる。

暗渠と開渠の境界

 葛西用水を見つけたところで、花畑運河沿いを西へ進む。ここにビバホーム足立神明店があるのでトイレ休憩とした。

ビバホーム足立神明店

 飲んでいた水がだいぶぬるくなってしまったのでビバホームのなかの自動販売機で水を買ったら、阿蘇の天然水が出てきて驚いた。

 ここ、東京なのに。

 

 舎人公園通りを西へ進む。神明町交差点を右折し、再度垳川沿いに出る。この垳川の向こうは八潮市である。ここは自然堤防の上と下に、それぞれ遊歩道が整備されている。

 遊歩道の西端まで行き、八潮市との境界に近づくと、「東京の入口 あだちABC」の看板を見つける。

東京の入口 あだちABC

 ここは東京の入口というのは正しい。埼玉県側を見ると、八潮市カントリーサインを見つけた。

4.綾瀬川沿いを進む

 南に進み、内匠橋で綾瀬川を越える。

綾瀬川

 このあたりの綾瀬川享保12年(1727年)に直流になったようだ。

 綾瀬川沿いに歩いていくと舗装がなくなる場所がある。ここも足立区と八潮市の境界らしく、舗装されている部分が足立区、未舗装の部分が八潮市らしい。

わかりやすい境界

 そしてここに「ルネ綾瀬」という名前のマンションが建っている。

ルネ綾瀬

 綾瀬というのは足立区の地名なので足立区にあるかと思いきや、ルネ綾瀬の住所は埼玉県八潮市浮塚717-1である。敷地内にある水道の仕切弁にも「Yashio City」と書いてある。

「Yashio City」

 千葉にあるのに東京と名乗る某テーマパークを思い出してしまった。

 

 ここからは都県境の遊歩道を歩く。ここは古綾瀬川遊歩道というらしい。遊歩道上に足立区のマンホールを見つけた。

 このマンホールには足立区のシンボルマークが描かれている。このシンボルマークは平成3年(1991年)に制定されたもので、ADACHIのAをモチーフに、チャレンジング・ハーモニー・ヒューマンのイメージ目標のもとに制定されたものである。

 少し進むと、足立区の紋章のマンホールも見つける。

 これは昭和33年(1958年)に一般公募し、制定されたもので、「足立」の足の字を図案化したものである。

 

 「武蔵野の路 舎人コース」の看板を見つけたが、地図屋の視点としてはノースアップじゃない地図はわかりにくいと思ってしまう。

武蔵野の路 舎人コース

 遊歩道からそれ、原っぱに出た。そこに小さな境界杭と大きな境界杭が並んでいる。ここも八潮市と足立区の境界らしい。

 こんなところにも境界を見出すとは、主催者の小林さんは流石だと思った。

5.花畑大鷲神社

 綾瀬川沿いを進む。浮花橋に、八潮市カントリーサインを見つけた。

 綾瀬川沿いを進むと、左手側に長建寺がある。長建寺は浄土宗の寺院である。

長建寺

 実はここにも、水準点がある。一等水準点第11111号だ。どうでもいいけどゾロ目だ。この水準点は金属標らしいが、水が溜まっていて水準点は確認できなかった。

 設置は昭和36年(1961年)であり、地理調査所が国土地理院になったのは前年の昭和35年(1960年)なのに、ここの石蓋には「地理調査所」と書かれている。謎である。

 ひたすら綾瀬川を北上し、足立区鷲宿東公園の角を左折する。途中に白ナンバーパトランプのない消防車が止まっているのが気になった。

 どこの消防署のものかも書いてないし、引退した消防車を個人所有しているのだろうか。

 そのまま進むと右手側に大きな神社がある。花畑大鷲神社だ。

花畑大鷲神社

 この神社の創建は宝治年間(1247~1249年)とされる。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。幕末、幕府の命により源義光の子孫である佐竹氏が本殿を改築し、安政元年(1854年)から明治8年(1875年)まで20余年の歳月を要し、竣工を迎えた。総欅造りで数知れぬ大小の彫刻が随所に見られ、正面にある向拝柱に彫られた「昇り龍・降り龍」は左甚五郎13代目後藤与五郎の作と言われている。しかし今は覆堂で覆われ、近くで見ることはできない。

 ここは浅草にある鷲神社とつながりがあるらしく、明治34年(1901年)7月建立の東京新吉原貸座敷有志の名前が刻まれた石板がある。

 境内にまた水準点がある。一等水準点第11112号だ。小林さんに「境内に水準点があるので探してみてくださいね」と言われたので、点の記片手に必死に探していると小林さんがやってきた。どこにあるのか聞いたが、実は小林さんもどこにあるのかわからないらしい。おそらく、埋没しているのだろう。

水準点、このあたりにあるらしい?

 参拝を済ませ、御朱印をもらって集合場所に行くと、神社の人が本殿を見せてくれるというので、覆堂のなかの本殿を見に行った。内部は撮影禁止と書かれていたので写真はないが、彫刻が見事だった。特に「昇り龍・降り龍」の彫刻が印象に残った。

ちなみに御朱印がこちら

6.足立区と草加市の境界を辿る

 花畑大鷲神社を後にして、都道446号、内匠橋花畑線を北上する。しばらく進むとまた足立区と八潮市の都県境に出る。ここには何もない(少し離れたところに足立区のカントリーサインがあるくらい)のだが、それぞれの駐車場に停められた車のナンバーが春日部ナンバー(八潮市側)と足立ナンバー(足立区側)だったのは流石と思った。

 都県境から少し南の道を進むと東京都足立区、埼玉県八潮市、埼玉県草加市のトリプルジャンクション(境界)があるが、ここには何も案内板はない。

 足立区と草加市の境目を進む。可愛らしいマンホールを見つけたが、中央に東京都のマークが描かれているので、東京都のものである。調べたところ東京都住宅供給公社のマンホールである。

 伝右川沿いを進み、橋を渡る。ここが足立区と草加市の境界らしい。境界標もある。

 草加市のマンホールを見つけた。このマンホールは百代橋と松並木がデザインされている。

 足立区と草加市の境界をめぐる。

塀の向こうは東京都

このスキマが都県境

 また草加市のマンホールを見つけた。

 これは草加市章がデザインされており、草加の「草」の古字「艸」と「カ」を図案化したもので、3つの円は2町1村(草加町、谷塚町、新田村)の合併、3つの線は3地区の編入を意味している。

 毛長川の大鷲さくら橋まで都県境を追って、今回のイベントは終了した。草加記念体育館バス停から竹ノ塚駅まで向かう。埼玉県内なら現金180円、東京都内を通ると現金220円となるのが面白い。

 この後は竹ノ塚駅の居酒屋で懇親会に参加し、Facebookの友達を数人増やすことができた。参加して本当によかったと思った。

今回の地図

歩いた日:2022年5月28日

【参考文献・参考サイト】

八潮市のマンホール

https://rojonomanhole.web.fc2.com/saitama/yashio_city.htm

ゆるキャラグランプリ ハッピーこまちゃん

https://www.yurugp.jp/jp/vote/detail.php?id=00000684

八潮市 市章

https://www.city.yashio.lg.jp/shisei/shokai/profile/shisho.html

埼玉県草加市 葛西用水

https://www.env.go.jp/water/junkan/case2/pdf/33.pdf

「垳」を守る会 「垳」採集 垳稲荷神社

http://gake840.blog.fc2.com/blog-entry-126.html

常然寺 常然寺について

https://www.zyo-nenzi.com/blank

エコロジー夢企画 「祝 花畑運河開削90周年」横断幕設置!報告

https://ecoyume.net/2641

足立区 区のシンボルマーク、紋章、木、花

https://www.city.adachi.tokyo.jp/hodo/ku/aramashi/profile/symbol.html

花畑大鷲神社 由緒

http://ootori-jinja.or.jp/yuisyo.html

東京都住宅供給公社のマンホール

http://usagigasi1f2.starfree.jp/toukyou/tonokouiki2/tojyuutakukyoukyuukousya/tojyuutakukyoukyuukousya.html

草加市 マンホールカード(第9弾)【百代橋と松並木】を配布しています

https://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1904/020/010/010/PAGE000000000000058775.html

草加市 草加市の概要

https://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1301/030/020/040/PAGE000000000000050275.html

うさぎの気まぐれまちあるき 川越の魅力をさらに発見する街歩き

 「お写ん歩書房」の石井建志さんにお誘いいただき、「川越の魅力をさらに発見する街歩き」に参加してきた。「うさぎの気まぐれまちあるき 川越編」でも川越に行っているが、「また川越かよ!」と思わず、読んでいただければ幸いである。また、前回の「うさぎの気まぐれまちあるき 川越編」のリンクも載せておくので、そちらも読んでいただければと思う。

octoberabbit.hatenablog.com

1.小江戸蔵里

 今日は、本川越駅からスタートだ。

 クレアモールに向かう。

 クレアモールは平日、休日ともに商店街の通行量埼玉県1位の商店街で、「クレアモール」という名前はCreateとMallの造語である。まだ朝10時だったのでそれほど通行量は多くない。川越市民が川越に遊びに行くといえば、蔵造りではなく、たいていクレアモールへ行くことを指す。

 

 クレアモールを北進すると蔵が見える。小江戸蔵里だ。

小江戸蔵里

 小江戸蔵里は、明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当時の面影を残しつつ改修した施設で、平成22年(2010年)に誕生した。施設は明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装し、国の登録有形文化財に指定された、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、利き酒処(昭和蔵)の3つの蔵と、つどい処(展示蔵)がある。

2.出世稲荷神社

 小江戸蔵里を出て少し北上すると、出世稲荷神社がある。

出世稲荷神社

 「そ そびえたつ 出世稲荷の 大いちょう」というかわごえ郷土カルタの札が脳裏をよぎった。カルタで知っていたが、実際に来たのは初めてである。

 出世稲荷神社は、天保2年(1832年)に京都の伏見稲荷神社本宮から分祀した神社である。

 この出世稲荷神社には、鳥居と共に神社を守る大きなイチョウの木がある。

 川越市の天然記念物に指定されている2本のイチョウは、樹齢600年ほどらしい。非常に立派なイチョウである。

3.喜多院

 出世稲荷神社から東へ向かうと、喜多院裏の遊里跡を見つける。

 埼玉県は公娼を認めない「廃娼県」ながら、実際は、大宮、熊谷、川越などでは「旅館」「料理屋」という建前で遊郭が存在していたようだ。確かに川越に遊郭があったとは聞いたことがなかったが、喜多院の裏にあったとは初めて知った。現代の風俗といえばキャバクラなどだが、これは川越ではクレアモールにある。昼は一人で歩いていても何も思わないクレアモールも、夜は一人で歩かないよう親に言われていたし、今も夜歩くのは少し怖い。なお、遊郭時代の建物をそのまま利用した「市むら」の料理は絶品らしいので、今度行ってみたい。

 

 「どろぼうばし」を渡って喜多院に入る。

どろぼうばし

 昔、喜多院の境内では罪人を捕まえることができなかったため、泥棒をした者が橋を渡って喜多院の境内に逃げ込んでいたが、泥棒は寺男たちに捕らえられ、諭され、改心して善人になったことからこの橋は「どろぼうばし」と呼ばれているようだ。

 どろぼうばしから入ってすぐのところに川越藩主であった松平大和守家歴代藩主の墓所がある。

松平大和守家歴代藩主の墓所

 ここには松平朝矩、松平直恒、松平直温、松平斉典、松平直候が葬られている。そっと手を合わせた。

 喜多院本殿は慈恵堂と呼ばれている。

慈恵堂

 慈恵大師良源と慈眼大師天海をまつる堂で、銅板葺き入母屋造である。

 ここで、喜多院について紹介する。

 淳和天皇の勅により天長7年(830年)慈覚大師円仁により創建された勅願所で、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王毘沙門天等を祀り、「無量寿寺」と名づけられた。

 その後、元久2年(1205年)、天文6年(1537年)に戦火に見舞われて、その都度再興された。

 慶長4年(1599年)に天海僧正は法灯を継ぎ、慶長16年(1611年)に徳川家康が川越を訪ねたときに親しく接見している。翌年には家康から「東叡山喜多院」の名をうけ、さらに翌年には関東天台宗580余寺の本山とされた。

 寛永15年(1638年)に川越大火で、現存の山門以外の全ての堂宇が焼失し、3代将軍徳川家光は堀田加賀守正盛に命じて復興に掛かった。慈恵堂はこのときの再建である。

 「き 喜多院の だるまとだるま にらめっこ」というカルタがあるが、これは1月3日の初大師、だるま市でだるまがたくさん売られることに由来する。

 慈恵堂より山門側に、少し小高いところがある。そこにお堂があり、慈眼堂という。

慈眼堂

 本瓦葺き宝形造で、禅宗様式に和様をおり込んでいる。天海は寛永20年(1643年)に亡くなり、正保2年(1645年)に徳川家光の命によりこのお堂が建てられた。慈眼堂内に、厨子に入った木造天海僧正坐像がおさめられているが、非公開である。小高い丘の上に建てられているが、6~7世紀頃に造られた古墳を利用している。

 慈眼堂の裏には歴代住職の墓が並ぶ。

 また、南北朝時代「暦応5年(1342年)」銘がある板石塔婆の暦応の古碑があり、無量寿寺歴代住職の名を刻む。並んで「延文3年(1358年)」銘の延文の板碑があり、これは60人による結衆板碑である。

 喜多院の南側には仙波東照宮がある。

仙波東照宮

 仙波東照宮は、駿府で没した徳川家康公の遺骸を日光山へ運ぶ途中で法要が行われたために建設された日本三大東照宮のひとつである。もちろんほかの三大東照宮日光東照宮久能山東照宮である。本殿は銅瓦葺きの三間社流造、宮殿は板葺きの円形厨子、唐門は銅板葺きの平唐門、拝殿は銅瓦葺きの入母屋造、幣殿は前面が拝殿に接続した銅瓦葺き、後面は入母屋造である。本殿内部には馬上に鎧姿の木像家康像をまつっている。

4.喜多院周辺

 喜多院の近くに仙芳仙人入定塚がある。ここには仙芳仙人の伝説がある。

仙芳仙人入定塚

 仙芳仙人なる者がどこからともなくやってきて「聖人が説法を行った場所は此処だ」と言ってそのあたりを徘徊していた。そこに老人(龍神であり海の主)が現れたので仙人は「私の袈裟だけの土地で良いからもらいたい」と頼むと、老人は袈裟を海の上に広げる。すると海水が干上がり土地ができた。その上さらに土仏を作り海の底に投げると海水は乾いて寺を建てられるような土地ができ、ここに無量寿寺ができたという。その後仙芳仙人が入定したのがこの仙芳仙人入定塚である。

 

 中院に向かう途中に、地蔵や墓石が無造作に並ぶ一角がある。ここが南院遺跡だ。

南院遺跡

 南院の創建は喜多院・中院と同じ平安時代初期。当時の名前は「多聞院」で、喜多院、中院と合わせて3院で一体の寺院だった。明治初年の廃仏毀釈により廃寺となった。

 

 中院は、喜多院、南院と3寺院で構成される星野山無量寿寺のひとつで、慈覚大師円仁によって創建された天台宗の寺院である。

中院

 正安3年(1301年)には関東天台宗580余寺の本山となり、関東天台教学の中心であった。日蓮は20歳のころに尊海の導きにより比叡山で修行し、建長5年(1253年)に日蓮宗を開き、その後中院で尊海から恵心流の伝法灌頂を受けたという。喜多院天海僧正が来往するまでは、中院が中心的な寺院だった。境内には「狭山茶発祥之地」の石碑がある。

狭山茶発祥之地

 喜多院に戻り、お昼休憩となる。お昼は自由に取っていい、とのことだったが結局みんなで「茶そば寿庵」に行った。私が食べたのは「割子そば 三段」。

割子そば 三段

 茶そばに小海老、なめこおろし、とろろが入っていて薬味のお椀に蕎麦とつゆを入れて食べる。出雲そばに似ていると感じた。お蕎麦はとても美味しかった。

5.喜多院北側

 喜多院の北隣には成田山川越別院がある。

成田山川越別院

 成田山新勝寺の別院で真言密教寺院、「久保町のお不動様」で親しまれる。目の病を不動明王に祈願して全治した千葉の石川照温が、廃寺となっていた川越久保町の本行院嘉永6年(1853年)に再興したのが起源である。毎月28日には蚤の市が開かれ、東京はじめ近在の古物商が露天の店を並べる。

 

 北上し、東京電力川越支社へ向かう。

説明板

 ここはかつての川越火力発電所で、明治37年(1904年)、埼玉県で初めての石炭火力発電所として100kw発電機2台を使用し、電灯供給を開始していた。

 また、この電気を使い、明治39年(1906年)には「川越久保町停留場」から「大宮停留場」間を結ぶ電気鉄道が開通し、「チンチン電車」の愛称で親しまれていた。「川越久保町停留場」は現在、川越市立中央公民館となり、東京電力川越支社に隣接している。

 

 西へ向かうと、瘡守(かさもり)稲荷神社がある。

瘡守稲荷神社

 創建は不詳ながら、昔は最も怖い伝染病が疱瘡(天然痘)で、カサ(できもの、疱瘡、梅毒)の治癒を祈る稲荷が「瘡守稲荷神社」である。まず土でできた団子を供え、治ったら米の団子を持っていく信仰があったらしい。最近流行りつつあるらしいサル痘にも効果はあるのだろうか。

6.大正浪漫夢通り

 「な 七曲り 七つ数えて かくれんぼ」

 七曲りをくねくねと曲がる。

 なぜこのように折り曲がった細道が続いているのかというと、川越城への敵の侵入を防ぐために造られた道でわざと折れ曲がった道をつくることで敵の進軍をまっすぐに進めないようにしたものである。

 

 山崎家別邸へ向かう道に、工事中の場所を見つけた。旧川越織物市場だ。

 川越織物市場は明治43年(1910年)に開設され、大正8年(1919年)という比較的短期間で幕を閉じたが、長屋形式の建物が向かい合うように建てられ、その中央には広い中庭が設けられていた。マンション開発で取り壊される寸前、市民運動の高まりをうけて平成17年(2005年)3月、川越市は隣接する旧栄養食配給所とともに文化財指定した。

 

 大正浪漫夢通りを進む。

大正浪漫夢通り

 大正浪漫夢通りには関東大震災以後に流行した看板建築の洋風店舗や町屋造りが多く残る。前回朝食を食べたシマノコーヒー大正館には長蛇の列ができており、人気店なのだなと感じた。

 川越商工会議所の角を右折する。

川越商工会議所

 ここは昭和3年(1928年)に建てられた、旧武州銀行川越支店の建物を活かして、今は商工会議所として使われている。

 

 旧山崎家別邸の向かい側にある中成堂歯科医院の建物がお洒落で、思わず写真を撮ってしまった。

中成堂歯科医院

7.旧山崎家別邸

旧山崎家別邸

 旧山崎家別邸は、「亀屋」の5代目、山崎嘉七氏の隠居所として、保岡勝也による設計で建てられた。大正元年(1912年)11月に川越で陸軍大演習が行われた際、皇族が宿泊した私的迎賓館でもあった。平成12年(2000年)に母屋、茶室、腰掛待合が川越市指定有形文化財となり、平成18年(2006年)に建物部分が市へ寄贈された。平成23年(2011年)には庭園が国登録記念物に登録され、令和元年(2019年)には母屋が国重要文化財に指定された。

ステンドグラス

8.川越キリスト教

 旧山崎家別邸から来た道を戻り、蔵造りとは反対方向を向くと赤レンガの建物が見える。これが川越キリスト教会だ。

川越キリスト教

 川越キリスト教会はプロテスタント教会で、その始まりは明治11年(1878年)の横山錦柵と田井正一両牧師による。しかし明治の川越大火で焼失してしまい、大正10年(1921年)に建てられた。アメリカ人技師ウィリアム・ウィルソン設計で、中世ゴシック折衷様式のスレート葺きレンガ造りである。国登録有形文化財

 定礎の石のなかの鉛箱を開けてみたら昔の聖書や1銭・5銭硬貨が出てきたらしい。まるでタイムカプセルだ。

定礎石

 初めて中に入ったが、教会の中も静かでとても良かった。

9.時の鐘

 川越キリスト教会から直進、鐘つき通りを左折する。景観配慮型スターバックスの少し先に、時の鐘がある。

景観配慮型スターバックス

時の鐘

 「と 時の鐘 歴史の音色 町響く」

 時の鐘は寛永4~11年(1627~1634年)の間に川越城酒井忠勝多賀町の現在の場所に建てたものが最初と言われているが大火で焼失し、藩主松平信綱が承応2年(1653年)に再建した。その後藩主となった秋元喬知は宝永元年(1704年)に甲州の鋳物師がつくった銅鐘をここに移した。

 創建された江戸時代の初期から、暮らしに欠かせない「時」を告げてきた小江戸川越のシンボル的存在である。昔は手動により時を報せていたが、現在の鐘は午前6時・正午・午後3時・午後6時の一日4回、自動鐘打機により鐘が撞かれている。

 「本の店 太陽堂」に石井さんの著書が売られているというので、そこで買おうかと思っていたら営業していなかった。残念である。

10.一番街(蔵造り)

  母方の菩提寺、長喜院には今回は寄らず、その隣の雪塚稲荷神社に行く。

雪塚稲荷神社

 雪塚稲荷神社には「白狐伝説」がある。伝説では、江戸時代、この町の通りに白い狐が迷い込んだ。これを見た若い衆が、狐を殺し食べてしまった。その若い衆はたちまち熱病に罹り、毎夜大きな人魂が街に現れるようになった。町の人たちは白狐の祟りだと恐れ、長喜院の境内に社を建て、白狐の皮と骨を埋めて塚を築いた。それが雪の降る日だったことにちなみ「雪塚稲荷神社」と名づけたという。長喜院には何度も来ているのに、この神社と伝説は知らなかった。

 

 蔵造りに戻り、大沢家住宅を見る。

大沢家住宅

 大沢家住宅は明治26年(1893年)にあった川越大火での焼失を免れた川越最古の蔵造りで、現存する関東地方最古の蔵造りでもある。


 川越に土蔵造りが多いのは、大沢家住宅が川越大火でも焼け残ったことで、多くの商人が土蔵造りの店舗を建てるきっかけになったからとのこと。平成11年(1999年)12月1日に国重要伝統的建造物群保存地区に指定された。

「え 江戸文化 今も伝える 蔵造り」

 ちなみに大沢家住宅の隣にある蔵造り、金笛は平成に入ってから建てた建物らしい。

金笛

 関東最古の蔵造りと最新の蔵造りが並んでいるのが面白い。

11.弁天横丁

 少し北上し、弁天横丁へ向かう。

弁天横丁

 ここは川越大火以後に形成された路地で、長屋には芸者さんが住み、置屋があったが、今は空き家が目立つ。それでも大正期から残る長屋2棟、土蔵をリノベーションした酒場などが残っている。初めて行ったが、味のある入口の看板がとても良い。

12.菓子屋横丁

 養寿院に向かう前に、札の辻を通る。札の辻は明治初期まで藩や郡役所の高札場があった十字路で、交通の中心地かつ城下町の繁華街だった。

 そしてうなっ子の店前の水路にいる鯉が巨大で驚いた。

 養寿院は鎌倉時代の寛元2年(1244年)に秩父平氏末裔の河越経重により開基された。江戸時代に寺領10石の御朱印をうけ、徳川家康も鷹狩りの際に立ち寄った。

養寿院

 川越の地名の基となった河越重頼の墓があり、寺には岩手県雲際寺にある源義経と、重頼の娘で義経正室郷御前の位牌の写しが安置されているという。

河越重頼の墓

 ここで休憩となり、菓子屋横丁に向かった。

菓子屋横丁

 「に にぎやかな 笑顔がはずむ 菓子屋横丁」

 菓子屋横丁は明治の初め頃、鈴木藤左衛門が養寿院の門前町として栄えるこの町で江戸っ子好みの気取らない菓子を製造したことが始まりと言われている。

 

 疲れたので、一人で気になっていた茶屋、長峰園に向かい、グリーンティーと抹茶アイスを食べた。長峰園は札の辻にある。

 ここの抹茶は狭山茶を使用しているらしい。疲れた体に甘いものがしみたが、椅子席がもう少しあればくつろげたと感じた(店舗スペースの問題で厳しいのかもしれないが)。

13.松本醤油

 休憩後は松本醤油の醤油醸造の工場見学に行った。看板猫がいたが、ずっと遊んでいる人がいたため正面からの写真は撮れなかった。

 松本家住宅は、川越を代表する豪商であった横田家の分家を、松本家が明治22年(1889年)にこの土地建物を購入、同時に醤油製造業も引き継いだ。店蔵は川越に多い蔵造りではなく、川越大火の前の構造かと見られる。

 そして、その蔵のなかで醤油は醸造されている。

醤油蔵

 蔵が小規模のため少量生産で成城石井と紀ノ国屋、ヤオコーくらいしか販売していないが、メディア露出が多く来店客も多いようだ。マツコ・デラックス胡麻ドレッシングを紹介したときは全国から注文が来たらしい。醤油工場見学後、参加者の方々は醤油や胡麻ドレッシング、炊き込みごはんのもとなどを買っていたが、自炊習慣のない人間が買っても腐らせるだけなので何も買わなかった。でも後で醤油プリンでも買っておけばよかったかなとも思った。

松本醤油前のユニークな看板

 松本醤油の裏に鴉山稲荷神社がある。

鴉山稲荷神社

 ここは長禄元年(1457年)に扇谷上杉家当主、上杉持朝の命により、川越城築城の任務にあたった太田道真が、城の櫓より四方を眺めたところ、南西に森が遮り、富士山の眺望が良くないため、これを伐採したところ、家臣が神隠しにあったものの、森の中から石祠が発見され、「源家勝平、怨敵退散、子孫繁栄、大願成就、守護」と記した祈願文が発見された。道真は、これを築城の吉兆として、ここに仮宮を建立したことに始まるという。

14.蓮馨寺

「れ 蓮馨寺 鐘のなる音が 響く寺」

 蓮馨寺に向かう。

蓮馨寺

 蓮馨寺は、天文18年(1549年)に川越城代「大道寺駿河守政繁」の母「蓮馨大姉」が、平方村(現在の上尾市平方)に建立したものを川越に移転し、その甥である存真上人を招き創建した。関東十八檀林の1つで、天正19年(1591年)に寺領20石を得た。

 釈迦の弟子である「おびんづる様」もいて、直接その身体を触ると病気が治り、また頭に触ると頭が良くなるらしい。そっと頭を撫でておいた。

おびんづる様

 蓮馨寺の向かい側には川越熊野神社がある。

川越熊野神社

 元々は蓮馨寺と地続きだったが、明治の神仏分離により独立した神社。その歴史は、天正18年(1590年)に蓮馨寺の二世然誉文応僧正が紀州熊野より勧請したことに始まった。ここには足踏み健康ロードや銭洗弁天などがある。

足踏み健康ロード

銭洗弁天

 最後に彩乃菓の2階で、彩乃菓社長の小島淳一さんの話を聞いて終了した。彩乃菓のモンブランどら焼きを食べたが、美味しかった。

モンブランどら焼き

 また、先ほど太陽堂が閉まっていて本が買えなかったと言ったが、太陽堂の店主とすれ違い、彩乃菓に本を持ってきてくれたので無事購入することができた。このブログでも大いに参考にさせていただいたので紹介したい。

川越♡愛

oshanpo.base.shop

 

 川越は生まれ育った街なのでよく知っていると思っていたが、遊里や弁天横丁の存在は知らなかったし、キリスト教会や養寿院は初めて行った。川越は奥が深い。私の知らない川越が、まだまだありそうだ。

 

【おまけ】

 彩乃菓で解散後、「お腹は空いたが食欲がない」という状態だった。そこで、アトレ川越7階の「韓国味工房 EIKO」の参鶏湯(サムゲタン)を食べた。

 スープかと思っていたらもち米も入っており、かなりお腹いっぱいになった。でも美味しかったので食べきれた。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

歩いた日:2022年5月22日

【参考文献・参考サイト】

埼玉県高等学校社会科教育研究会歴史部会(2005)「埼玉県の歴史散歩」山川出版社

石井建志(2021)「川越街道お写ん歩ノート」

石井建志(2022)「お写ん歩ノート 「川越♡愛」」

群馬大学総合情報メディアセンター中央図書館 郷土かるたコレクション かわごえ郷土かるた

https://carta.media.gunma-u.ac.jp/kanto/data_111kawagoe/index.html

カワゴエール 七曲り

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/nanamagari/

東海道を歩く 11.三島広小路駅~片浜駅

 前回、箱根峠を越えて三島、静岡県に到着した。そこで、Twitterの三島に住んでいるフォロワーさんから「一緒に東海道を歩いてみたい」と言われたので、一緒に行くことにした。私は三島駅まで新幹線で移動し、三島駅で待ち合わせ、その後一駅移動して三島広小路駅から今日は始まる。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.千貫樋

 三島広小路駅を出て、Y字路の左側、県道145号線沿いを進む。少し進むと秋葉神社がある。

秋葉神社

 秋葉神社を祀るようになったのは、慶安元年(1648年)から宝暦2年(1752年)の間に、町が数度の大火に見舞われたからである。そこで、防火の神として信仰を集めている秋葉神社の分霊を祀る神社を創建した。

 

 秋葉神社の道路の反対側を見ると千貫樋がある。

千貫樋

 千貫樋は伊豆・駿河の国境、境川にかけられている樋で、長さ42.7m、巾1.9m、深さ45cm、高さ4.2mである。創設については諸説あるが、天文24年(1555年)今川、武田、北條3家の和睦が成立したとき、北條氏康から今川氏真に聟(むこ)引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたというのが一般に認められている。千貫樋の名称には、水の代金が千貫文であったとか、建設費が千貫かかった、用水が千貫の田地を潤すようになった、などという説がある。江戸時代には東海道の名所の1つとして、『東海道名所図会』や葛飾北斎の浮世絵にも描かれている。なお、現在の千貫樋は、関東大震災による大破後に、コンクリートで再建されたものである。

 千貫樋は伊豆・駿河の国境にあるが、ここは現在でも三島市と清水町の市町境になっており、清水町のカントリーサインがある。

 伊豆と箱根の境は箱根峠なので、伊豆国はあっという間に終わってしまった。

2.清水町に入る

 清水町のマンホールを発見した。

清水町のマンホール

 富士山を背景に、柿田川眼鏡橋がデザインされている。現在、眼鏡橋は破損し、その上流に柿田橋が架かっているので、これは実際の景色とは違うらしい。

 

 千貫樋から少し進んだ県道144号線を右折して少し進むと庚申堂がある(写真は撮り忘れてしまった)。現在この周辺には寺がないが、「駿河風土記」によると近世には浄土宗の「善境寺」という寺があり、庚申堂もこの寺の一角にあったようだ。現在でも浄土宗の寺院があったことによる念仏信仰が盛んで、庚申堂では「真如会」と称する高齢者グループにより月例観音講が主催され、念仏や読経が行われている。ここから少し進んだところで経を上げながら家を巡っている団体を見たので、これが真如会かもしれない。

 

 少し進むと大きな常夜燈を見つけた。

常夜燈

 これは弘化3年(1846年)に建立されたもので、両側に秋葉大権現と富士浅間宮と刻まれており、いずれも火を鎮める神様である。

 

 清水町新宿南交差点の少し先に、非常に凝った東海道の案内図を見つけた。

 このようなものを見ると、現在でも東海道を大切にする意識が伝わってくる。

 

 少し進むと玉井寺一里塚・宝池寺一里塚を見つけた。

玉井寺一里塚

宝池寺一里塚

 玉井寺一里塚は慶長9年(1604年)に作られたもので、昔の姿をそのまま残しており、清水町指定文化財に指定されている。宝池寺一里塚は原型が損なわれてしまったため昭和60年(1985年)に復元されたものだが、こちらも清水町指定文化財に指定されている。

 

 秀源寺の山門前に水準点を発見した。

一等水準点第59号

 一等水準点第59号だ。これは平成12年(2000年)に設置された割と新しい水準点である。中心に金属標が置かれ、その周囲に保護石が4つ、「大切にしましょう水準点」の標示杭が立ててある。

3.八幡神社

 水準点の少し先に鳥居を見つけた。

 参道になっているようだが、入ることができない。興味を持ったので、脇道から進んでみることにした。進んだ先には、八幡神社があった。

八幡神社

 八幡神社の創立年代は未詳。祭神は譽田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)である。なんと本殿のドアが自動ドアになっており、近づくと自動ドアが開いたので少し驚いた。本殿のドアが自動になっている神社は初めて見た。

 本殿の裏には対面石がある。

対面石

 この対面石は治承4年(1180年)に源頼朝と弟の源義経がこの石に腰掛け、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたといわれている石である。対面石は、江戸時代に八幡村を支配した旗本久世氏の陣屋にあったといわれ、久世氏は文化8年(1811年)に対面石の顕彰碑を建てている。

4.智方神社

 八幡神社に参拝し、先に進むと臼井国際産業のビルが見えた(松林に隠れてわかりにくいかもしれない)。

臼井国際産業

 臼井国際産業は社員数730名(2020年12月現在)の自動車部品を製造している会社で、この付近では有名な会社である、と同行者の方が教えてくれた。地元では有名なのかもしれないが、私は知らなかった。

 

 臼井国際産業の向かい側には智方神社がある。

智方神社

智方神社は昔、黄瀬川が伊豆と駿河の国境であったため、国境を守る神々が祀られた神社である。祭神に、予母都道守神菊理比咩神(よもつみちもりのかみきくりひめのかみ)がいる。この神様は道や旅人の安全を守っている。

 境内には清水町で最も大きい樹木であるクスノキがある。

 足利方に敗れた護良親王建武2年(1335年)に鎌倉の土牢に幽閉されて殺された。お側に仕えていた南の方は、密かにその御首を持ち帰る途中に黄瀬川の洪水に遭ったためやむなくここに葬った。その目印にクスノキを植えたという。この話通りならこのクスノキは樹齢700年ほどだろうか。

 近くには護良親王の御陵もあり、そっと手を合わせた。

 

 黄瀬川橋を渡り、黄瀬川を越える。

 黄瀬川は富士山の東麓を流れる唯一の川で、上から藍壷、白滝、赤瀬、黒瀬、黄瀬などの地名がついているから五色川ともいう。何の標識もなかったが、ここで清水町は終わり、沼津市に入ったようだ。

5.潮音寺

 黄瀬川を越えてすぐに、八幡神社を見つけた。

八幡神社

 この八幡神社は説明板もなく、インターネットで調べても有力な情報は出てこなかった。

 

 八幡神社から少し進んだところに潮音寺がある。

潮音寺

 潮音寺は弘仁年中に弘法大師が伊豆修善寺に修行に行ったとき、この地を通ったときに聖観世音菩薩を刻み、堂を建てて安置したのが始まりである。ここには亀鶴の伝説がある。

 亀鶴は小野長者の一人娘として生まれ、鶴や亀のように長生きしてほしいという親の願いを一身に受けて育てられたのであるが、富士の巻狩りの折に源頼朝に招かれたのを断って18歳の春、黄瀬川の上流の鮎壷の滝に身を沈めてしまったという。村人は亀鶴山観音寺を建てて彼女を供養した。今は街道に面した潮音寺に祀られ、駿河三十三所観音霊場の第三十三霊場になっている。

亀鶴姫の碑

 

 潮音寺から先に進むと傍示石がある。石には「従是西 沼津領」と刻まれている。

傍示石

 これは沼津領の東端を定義するもので、安永7年(1778年)にこの石が韮山代官所から運ばれ、東海道沿いの黄瀬川村と下石田村の境界に建てられて沼津藩領域が確定した。

 

 ここに沼津市のマンホールがあった。

沼津市マンホール

 沼津市のマンホールは沼津市の花「はまゆう」と千本松原、駿河湾愛鷹山と富士山がデザインされている。清水町のマンホールとの共通項は、富士山がデザインされていることである。流石である。

6.平作地蔵

 県道380号と合流して少し先に進むと「歴史マップ 沼津市大岡」という看板を見つけた。

歴史マップ 沼津市大岡

 ここには13ヶ所の史跡が書かれているが、うち7ヶ所が東海道沿いである。やはり史跡は旧道沿いに残りやすいのだ。

 近くには「→東海道」の石柱もあった。

 

 小さな祠を目印に、旧道に進む。

 少し進むと平作地蔵尊がある。

平作地蔵尊

 平作地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかではないが有名な浄瑠璃「伊賀越道中双六」に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。

 

 平作地蔵尊の少し先に一里塚と玉砥石がある。

一里塚

玉砥石

 この一里塚は江戸から30里の一里塚で、29里の一里塚から計測すると距離が不足しているものの、ここは宿場内であるため東方に寄せて、日枝神社旧参道脇のここに築いたといわれている。正確であるはずの一里塚も政治的配慮によって変更しなくてはならなかったようである。

 玉砥石は、今から1200~1300年前に玉類を磨くために用いられた砥石と伝えられている。柱状の2つの大石にそれぞれ直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたと考えられている。この地は古代の駿河国駿河郡玉造郷の旧地で、狩野川の対岸には『延喜式式内社の玉造神社がある。

7.日枝神社

 一里塚から右手側を見ると日枝神社が見えるので、行ってみよう。

日枝神社

 平安時代末期、関白藤原師通は、神社付近から北東地域一帯に広がっていた大岡荘の領主であった。ところが、嘉保2年(1095年)に源義綱(藤原師通の家来)が比叡山の僧円応法師を殺害する事件、義綱の家来が日吉神社の神人を殺害する事件がおき、神社の恨みを買うことになった。やがて師通は僧侶たちの呪詛により、比叡山の守護神である山王の祟りをうけ、38歳で死去してしまった。そこで師通の母である北政所は、その恨みをやわらげるため、ここに日吉神社を勧請し、それが現在の日枝神社になったという。

 日枝神社の祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、大名牟遅神(おおなむちのかみ)、大歳神(おおとしのかみ)である。境内には天満宮もあり、神牛がいた。

 そしておみくじの番号が選べるおみくじははじめて見た。

 

 県道380号に戻り、西に進む。三園橋交差点から少し進んだところで左側に入る。「旧東海道 川廓通り」と書かれているのが目印だ。

旧東海道 川廓通り

 「川廓」は「川曲輪」とも記し、狩野川に面した城廓に由来して名づけられたものと考えられる。この城廓とは、沼津城のことである。

 沼津城の前身、三枚橋城は武田勝頼が修築したが、慶長19年(1614年)に一度廃城、安永6年(1777年)になって水野氏が三枚橋城跡に沼津城を再建した。明治5年(1872年)に沼津城は廃止、城跡は民間に払い下げられたため城跡は残っていない。

三枚橋城外堀石垣

8.沼津宿を歩く

 沼津駅に繋がる県道159号との交差点に出る。雨が激しくなってきたのとお腹が空いてきたので同行者の方オススメのラーメンを食べることにした。入ったのは「らーめん 銕(くろがね)」。「まったりの鶏」のラーメンを食べた。

 4月の雨でだいぶ冷えていたので、美味しく感じた。

 ラーメン屋で雨の状況を見ながら先に進むか考えたが、先に進むことにした。

 県道159号との交差点まで戻り、南に進む。ここは通横町といい、江戸時代、沼津宿の問屋場が置かれ、人馬継立てでにぎわったところであるようだ。

 通横町の交差点で右折、次の交差点で左折してまた南に進む。屋根があって少しでも雨がしのげるのがありがたい。

 沼津宿の中心街は南北に通っている。東海道の宿場はほとんど東西にできているのに、南北にできているのは静岡県内では沼津宿、岡部宿、浜松宿くらいである。

 中村脇本陣跡の石柱を見つけた。

中村脇本陣

 ここには特に説明板はない。

 

 「東海道ルネッサンス 376km←京都 東京→119km」の板を見つけた。

東海道ルネッサンス

 この東海道ルネッサンス、調べてみたが何も出てこない。平成8年(1996年)に始まったことなので、ホームページが整備されていないのだろうか。余談だが、平成8年(1996年)は私が生まれた年である。

 

 清水本陣跡の石柱も見つけた。

清水本陣跡

 この石柱もこれ以外に説明板はない。現在は空き地になっていた。

清水本陣跡

9.丸子浅間神社

 次の信号で右折し、西に進む。すぐに丸子浅間神社がある。

沼津丸子浅間神社

 ここは「丸子神社」「浅間神社」という一扉二社という稀有な形式で鎮座している。

 丸子神社は「金山彦尊(かなやまひこのかみ)」をお祀りする神社で、剣・鏡・鋤・鍬を鍛える守護神とされ、鉄鋼業の進歩発展に広く恵みを授けた。延喜式神名帳(延長5年(927年)発行)に所載される「式内社」であり、その創建は第10代崇神天皇(紀元前97~30年)の頃と伝えられている。

 浅間神社は「木花開耶姫命(このはなのさくやびめ)」を祀る神社で、縁結び・安産・子育ての守護神として尊崇を受けている。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂が東征凱旋のおり、狩野川の右岸(現沼津市宮町)に浅間神社として奉斎し、建仁3年(1203年)に現在の浅間町遷座した。

 

 丸子浅間神社に参拝し、西に進むと出口町見付外の説明板があった。

出口町見付外

 ここが沼津宿の西端のようだ。そういえば沼津宿の江戸口見付は見なかった気がする。

10.六代松

 しばらく県道163号沿いを進むと、右側に「是ヨリ南一町半 六代松」という案内板を見つけた。少し寄ってみる。

是ヨリ南一町半 六代松

六代松

 六代は小松の三位中将平維盛の息子であり、祖父は重盛、曾祖父は清盛である。平家物語によると、六代は平家一門の滅亡に伴い、源頼朝の家来北条時政によって捕らえられ、鎌倉に護送の途中、千本松原において処刑されそうになった。そのとき、文覚(もんがく)上人の命乞いによって赦免となったが、その後文覚上人の謀叛に連なり、処刑された。従者の斎藤六範房は、六代の首を携え、ゆかりの深い千本松原にやってきて、その首を松の根本に埋め弔った。この松を土地の人は「六代松」と称し、六代御前に関わりを持つ松として親しまれてきたが、松が枯死したので、天保12年(1841年)に沼津藩の典医であった駒留正隆の撰文により、枯れた松の傍らに記念碑が建てられた。

 

 六代松から東海道に戻り、しばらく進むと「旧東海道」と書かれたY字路があるので右側に進む。すると沼津藩領境榜示がある。

沼津藩領境榜示

 安永6年(1777年)水野出羽守忠友は、2万石の大名として10代将軍徳川家治から沼津に城地を賜り、築城を命じられた。翌安永7年(1778年)、韮山代官江川太郎左衛門から城地を引き継ぎ、沼津藩創立とともにこの榜示杭を設置した。これは明治末期頃に折られて下半分が失われているが、完全な形で残っている榜示杭と同時に立てられたものと考えられる。

11.片浜駅まで歩く

 少し進むと八幡宮がある。

八幡宮

 祭神は譽田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)である。そしてこの八幡宮の説明板が非常に長い。

 雨だったので読む気が失せたほど長い。晴れていても最後まで読んだかわからない。

 八幡宮の境内にも水準点がある。

一等水準点第60-1号

 一等水準点第60-1号だ。これも平成12年(2000年)設置、金属標の周囲に4つ保護石があり、「大切にしましょう水準点」の標示杭がある。

 

 少し先に進むと気になる参道を見つけたので行ってみる。

 諏訪神社だ。

諏訪神社

 諏訪神社の祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)で、天正3年(1575年)武田氏家臣の市川和泉守の創立と伝えられている。

 

 少し進むと気になる寺院を見つけたので寄ってみる。吉祥院だ。

吉祥院

 ここは特に説明板もなく、調べても宗派が本門法華宗であること以外情報が出てこなかった。参道が2つに分かれているのが珍しい。

 

 今日は原駅まで歩く予定だったが、現在15時半であること、そして雨が激しく靴の中がびしょびしょであることから、途中の片浜駅で切り上げることにした。

片浜駅

 この後は同行者の方と沼津駅の居酒屋に入り、しばらく談笑してから別れた。また東海道に参加したいと言っており、明後日は空いているとのことで同行者の方は明後日も参加することになった。

 明日は一人で、片浜駅から吉原駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2022年4月29日

【参考文献・参考サイト】

小杉達(1992)「東海道歴史散歩」静岡新聞社

静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社

いずっぱこでGO! 秋葉神社

https://mishima-life.jp/sunzu/info.asp?id=168

清水町 マンホール

https://rojonomanhole.web.fc2.com/shizuoka/shimizu_town.htm

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

源頼朝義経兄弟の対面石 八幡神社

http://www.inarijinja.com/yahata/

臼井国際産業株式会社 会社概要

http://www.usui.co.jp/jp/profile/companyinfo/index.html

智方神社

http://www.inarijinja.com/kenmu/tikata/index.htm

沼津市 潮音寺(ちょうおんじ)

https://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/toukai/chouonji.htm

沼津市 沼津市のマンホールカード(第1号)について

https://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/sumai/gesui/gaiyo/mhcard1.htm

日枝神社 山王さんについて

https://numazu-hieijinjya.com/sanno.html

丸子神社 浅間神社

http://marukosengen.jp/about.html

沼津市 六代松(ろくだいまつ)の碑

https://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/toukai/rokud.htm

(2022年6月8日最終閲覧)