
前回、第9番札所・慈光寺、第10番札所・正法寺、第11番札所・安楽寺に参拝しながら埼玉県比企郡をドライブした。今回は坂東三十三観音第13番札所・浅草寺と関東三十六不動第22番札所・不動院に参拝しながら浅草をめぐろうと思う。
浅草寺は都内にあり、浅草駅から徒歩5分ほどとアクセスは良い。ただいつ行っても混んでいることや、以前「江戸三十三観音をめぐる 1.浅草編」で浅草寺を特集してしまったことから、どうアプローチするかについてずっと考えていた。そんなときに、7/13の有給奨励日が発生したので、貴重な平日休みに浅草へ行ってみることにした。
そこで、前回はなかった浅草のグルメ情報や、関東三十六不動の札所も取り上げてみることにした。3年前に執筆した「江戸三十三観音をめぐる 1.浅草編」との違いを比較するのも面白いかもしれない。
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1.浅草むぎとろ本店
激レアな平日休みなので銀行で用事を済ませた後、浅草駅に降り立った。

浅草駅A3出口の近所にある、「浅草むぎとろ本店」へ向かった。
浅草むぎとろは昭和4年(1929年)に開店した懐石料理店である。通常のむぎとろ定食でも2,530円、懐石料理に至っては10,000円を超えるものもある。「天空とろろビュッフェ」は3,300円だが、今回私が狙ったのは「むぎとろバイキング」。
むぎとろ定食が2,530円なのに、むぎとろバイキングはとろろと麦めし食べ放題で、なんと1,650円。ただ、このむぎとろバイキングは毎日やっているわけではなく、平日しかやっていない。
平日限定のため、いつか行こうと思いつつ行くタイミングがなかったが、今回の浅草寺参拝のついでに行ってみることにした。

12時前に訪れると店外まで行列ができていたが、15分後には席につくことができた。内容としては麦めしととろろ、味噌汁、沢庵と煮物と卵焼きが用意されていた。

とろろは大和芋と、かつお節と昆布出汁を合わせて作られている。麦めしも米と麦の割合が良い。何が言いたいのかというと美味しい。
「最低でも2杯は食べて元を取るぞ!」と意気込んでいたが、最近食が細くなってしまったこともあり、1杯でお腹いっぱいになってしまった。
「1,650円でお腹いっぱいになったのだから、まあいいか」と呟き、店をあとにした。
2.駒形堂
浅草むぎとろ本店の隣に、浅草寺の駒形堂がある。
駒形堂は浅草寺の御本尊・聖観世音菩薩がおよそ1,400年前に隅田川から現れ、初めて祀られた場所に建つお堂である。
昔、このあたりは船着場で、船で浅草寺参詣に訪れた人々はまずここに上陸して駒形堂にお参りしてから観音堂へ向かったようだ。
現在も「Tokyo Water Way Cruise」の船着場が駒形堂の裏にあるが、この乗客が駒形堂にお参りしてから浅草寺に向かっているとは思えないのが少し残念である。
この駒形堂の御本尊は馬頭観音で、現在の駒形堂は平成15年(2003年)に再建されたもの。
浅草寺本堂前の喧騒と比べて駒形堂には驚くほど人がいないが、現在でも毎月19日に馬頭観音の縁日が行われているようだ。

駒形堂には浅草観音戒殺碑(あさくさかんのんかいさつひ)がある。
駒形堂は浅草寺の御本尊が発見された霊地なので、元禄5年(1692年)にここを魚鳥殺生禁断の地とする法度が出された。
これを記念して元禄6年(1693年)浅草寺第4世・権僧正宣存が願主となり、戒殺碑が建てられた。
駒形堂の焼失に伴い戒殺碑が倒壊したことがあり、宝暦9年(1759年)に戒殺碑が再建されたという記録が残っている。
その後しばらくして戒殺碑は忘れ去られていたが、昭和2年(1927年)に戒殺碑が土中から発見され、昭和8年(1933年)の駒形堂再建と同時に修理して再度建てられることになった。
なお、現在の浅草観音戒殺碑が元禄のものなのか、宝暦のものなのかはわかっていないようだ。

駒形堂の隣にある駒形橋は古来「駒形の渡し」として渡船があったが、昭和2年(1927年)に駒形橋ができたと同時に渡船は廃止された。なお、駒形堂は赤いのに駒形橋が青で塗られている理由は不明。

3.不動院
駒形堂から10分ほどで不動院に到着する。
不動院の開創は不詳であるが、慶長16年(1612年)には法印賢鏡が江戸八丁堀の地に寺院を賜り、多くの真言宗寺院とともに移転してきたとの記録がある。
奈良時代の僧侶・良弁が彫った不動明王が御本尊である。親子別離の嘆き悲しみがなくなるようにとの願いを祈念しつつ彫ったものらしい。
この良弁の不動尊は不動院に祀られる以前に肥前国平戸(現在の長崎県平戸市)の松浦家に守護仏として祀られており、島原の乱の平定に霊験を顕したらしい。
元禄10年(1697年)に平戸藩主の松浦鎮信は、家老の息子が不動院の住職を務めている縁や、不動院が江戸にある松浦家上屋敷の鬼門(北東)に位置することから、不動院を松浦家の祈願所と定めた。
このとき良弁の不動尊も不動院に安置され、以前の御本尊は御前立(御本尊の前に安置される仏像)となった。
江戸期からある不動院だが現本堂は割と現代的な建築で、こちらの2階に御本尊が祀られている。
御本尊に挨拶した後で御朱印をいただいた。



不動院から徒歩5分ほどで東本願寺がある。
天正19年(1591年)徳川家康から現在の千代田区神田淡路町内に土地を給され、京都東本願寺の始祖・教如上人が堂宇を建立し、「江戸御坊光瑞寺」と称した。
慶長14年(1609年)神田明神下に移転し、本願寺末刹と呼んだ。ついで明暦3年(1657年)の江戸大火後に現在地に移り、浅草本願寺と改称した。
火災や関東大震災や東京大空襲で何度も焼失しては建て直し、現在の本堂は昭和35年(1960年)に建てられたもの。いつも思うが、本願寺系の寺院は本堂が大きい。

4.浅草寺 雷門
東京本願寺から歩いて10分ほどで、浅草寺雷門に到着した。
雷門は天慶5年(942年)、平公雅によって再建されたのが始まりである。
その後は火災で焼失しては再建を繰り返されていたが、慶応元年(1865年)の雷門焼失後、100年近く再建されなかった。
昭和35年(1960年)に松下幸之助が浅草寺に雷門を再建するべく寄進を行ったため、雷門は再建、現在では浅草のランドマークになっている。
松下幸之助は現在のパナソニックホールディングスを一代で築き上げた経営者で、「経営の神様」という異名をつけられているため、ビジネス書を読んだことがある人なら一度は目にしたことのある名前だろう。私はビジネス書はあまり好まないが、それでも「夢をかなえるゾウ」で名前を目にしたことがあった。

雷門の提灯をよく見ると「松下電器産業株式会社 パナソニック株式会社 創業者 松下幸之助」と書いてある。

雷門をくぐると、仲見世通りが広がっている。
仲見世通りは江戸時代中期頃に創設され、馬道辺の住人が浅草寺境内の掃除を行うかわりに、浅草寺から営業権を与えられて商売を行ったのが仲見世通りの始まりらしい。
それにしても…雷門周辺から思っていたが、平日昼間の割に人が多い。頭上を通り過ぎる外国語の多さに気が付いた。
平日昼間に観光できないのは、平日に勉強や仕事を行う学生や会社員のみである。外国人観光客に曜日は全く関係ない。多少ではあるが平日休みと思われる日本人や、引退後の高齢者の姿もあったが、浅草寺境内にいたのは7~8割方外国人観光客である。

仲見世通りの脇に伝法院があるが、入ることはできない。
伝法院庭園は台東区内に残る唯一の江戸期庭園でたまに公開しているらしいが、この日は公開していなかった。

浅草寺宝蔵門が見えてきた。
宝蔵門は大谷米次郎の寄進で、昭和39年(1964年)に浅草寺宝物の収蔵庫を兼ねた山門として建てられた。
大谷米次郎は大相撲力士だった時代は「鷲尾嶽」という四股名だったようだが、手の指に障害があり幕下筆頭で引退した。
これだけならあまり出世できなかった力士で終わりだが、ここから実業家に転身し、大谷製鋼所を設立。こちらは大谷重工業となり「鉄鋼王」と称されたが、大谷重工業は戦後に倒産している。
戦後、昭和39年(1964年)に東京オリンピックの開催が決まったものの、当時の東京は宿泊地が不足していたことに大谷は目をつけてホテルニューオータニを建設し、社長に就任した。
大谷重工業の経営不振などいろいろあったものの、戦後の一時期は「日本の三大億万長者」と呼ばれていた時代もあった人だったようだ。そしてホテルニューオータニは今でも「ホテル御三家」の一角を占める名門ホテルとなっている。
パナソニック創業者の松下幸之助が造った雷門、ホテルニューオータニ創業者の大谷米次郎が造った宝蔵門…錚々たる顔ぶれだ。
なお、宝蔵門のセンターには普段「小舟町」と書かれた大提灯がかかっているが、これは今年(2026年)の10月頃まで新調のため一時的に外されているらしい。


5.浅草寺 本堂
浅草寺本堂に到着したので、ここで浅草寺について説明しておきたい。
「浅草寺縁起」によれば、推古天皇36年(628年)3月18日の早朝、隅田川で魚をとっていた檜前浜成・竹成(ひのくまはまなり・たけなり)兄弟が1躰の仏像を拾った。
2人の漁師がこの仏像を郷司・土師中知(はじのなかとも)に見せたところ、聖観世音菩薩であることがわかったので、中知が出家して自宅を寺に改めて聖観世音菩薩を祀ったのが浅草寺の始まりとされている。
檜前浜成・檜前竹成・土師中知の3人を祀ったのが浅草寺の隣にある浅草神社で、3人を祀ることから「三社様」とも呼ばれる。
聖観世音菩薩出現から17年後、大化元年(645年)に勝海上人が浅草寺に来て観音堂を建て、御本尊を秘仏と定めたことから、浅草寺の観音様は秘仏となった。
天安元年(857年)、慈覚大師・円仁が比叡山からやってきて、秘仏に代わる御本尊「御影版木(みえいのはんぎ)」を作り、これを祀った。
天慶5年(942年)平公雅(たいらのきんまさ)は浅草寺で「武蔵の国守に任じられますように」と祈願したところ叶ったので、浅草寺の堂塔伽藍を再建した。
源頼朝が平家追討の際に浅草寺で戦勝祈願を行ったり、徳川家康が江戸に入るときに祈願所と定めて寺領を寄進したり、日本史のスーパースターとの縁が深い寺院である。
浅草寺は関東大震災の被害はなかったものの、東京大空襲によりほぼ全ての伽藍を焼失し、現在の本堂は昭和33年(1958年)に再建されたものである。
秘仏であるため姿を見ることはできないが、私もスーパースターが拝んだ観音様に手を合わせる。

浅草寺の境内には「迷子しるべ石」がある。
昔、迷子が出たときに使った石で、石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、一方に「志(し)らする方」、反対側に「たづぬる方」と刻まれ、それぞれに用件を記した紙を貼ることで情報交換をしていた。
安政7年(1860年)3月に新吉原の松田屋嘉兵衛が仁王門(現在の宝蔵門)前に造立したが昭和20年(1945年)の空襲で倒壊したため、昭和32年(1957年)に再建された。
似たような石は都内のほかの場所にもあり、東京駅近くの一石橋にも「一石橋迷子しらせ石標」がある。


6.浅草神社
ここで一度浅草寺の敷地外に出て、二天門を見る。
二天門は慶安2年(1649年)頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。
その後東照宮は江戸城内に移されたため随身門だけ残っていたが、明治元年(1868年)に随身像は持国天・増長天の二天像に変わり、門名も二天門となった。
この二天像は吉田兵部が江戸時代初期に制作したもので、昭和32年(1957年)に寛永寺から移されたものである。
二天門は江戸時代初期に建てられたものがそのまま残っているため、昭和25年(1950年)に国指定重要文化財に指定された。

二天門から浅草寺の境内に戻り、浅草神社に参拝する。
浅草神社の御祭神は浅草寺御本尊拾得の功労者・檜前浜成(ひのくまはまなり)・檜前竹成(ひのくまたけなり)・土師中知(はじのなかとも)の3人である。
現在の社殿は慶安2年(1649年)に徳川家光が寄進・建立したもので、関東大震災や東京大空襲でも被害を受けなかったので、昭和26年(1951年)に国指定重要文化財に指定された。

浅草神社で御朱印をいただく。「浅草神社」の文字の下に神紋があるが、これは3枚の干網。この干網は功労者3人で、中央が土師中知で、右が兄の檜前浜成、左が弟の檜前竹成らしい。

浅草神社の奥には被官稲荷神社がある。
安政元年(1854年)、新門辰五郎の妻が重病で床に伏していたため、辰五郎が山城国伏見稲荷社(現在の京都府京都市伏見区・伏見稲荷大社)に祈願したら病気が治ったので、安政2年(1855年)にお礼の意味を込めて伏見から祭神を勧請して創建された。

「生きると いうこと むずかしき 夜寒かな」これは川口松太郎の句碑である。
川口松太郎は明治32年(1899年)に浅草今戸に生まれた小説家・劇作家で、昭和10年(1935年)に「鶴八鶴次郎」で第1回直木賞を受賞した。

「翁の文字 まだ身にそはず 衣がえ」初代・市川猿翁の句碑である。
市川猿翁は明治21年(1888年)に浅草千束町に生まれた歌舞伎役者で、明治43年(1910年)に2代目・市川猿之助を襲名、昭和38年(1963年)に猿之助を引退、猿翁と名乗るようになったが、同年に亡くなっている。

7.浅草寺 五重塔
浅草神社を出て、浅草寺に戻る。おもむろに、五重塔を見上げる。
浅草寺五重塔は天慶5年(942年)、平公雅によって創建されたのがはじまり。戦前まで慶安元年(1648年)に徳川家光が再建した五重塔が残っていたが、それも東京大空襲で焼失してしまった。現在のものは昭和48年(1973年)に再建されたもの。

五重塔のそばに旧石燈籠がある。
この石燈籠は明治25年(1892年)に石工の酒井亀泉が奉納した燈籠である。
江戸時代後期、亀泉の祖父・酒井栄三は酒癖の悪さから失職した。栄三の妻は浅草寺に参拝し、「夫の酒癖の悪さを許してください、そのかわり子孫代々お酒は飲みません」と祈った。
酒断ちの家訓は酒井家で守られ、そのためなのか酒井家は石工として大成した。そのお礼として亀泉は浅草寺に燈籠を奉納した。
この燈籠は倒壊のおそれがあるため平成16年(2004年)に撤去してしまったが、一部を残し記念として飾っている。
酒井家の酒断ちの話…?名字は関係ないかもしれないが…。とにかく、アルコール依存症に悩んでいる人は浅草寺で酒断ちを宣言すれば、なにかいいことがあるのかもしれない。

銅造阿弥陀如来坐像。阿弥陀如来は極楽浄土にいて、亡くなった人に仏法を説く仏様だ。この像は台座に刻まれた銘文によると、元禄6年(1693年)に理性院宗海がこの像の造立を発願し、鋳物師の今井藤治郎藤原吉次が制作した。平成24年(2012年)に台東区有形文化財に登録された。

銅造阿弥陀如来坐像の隣に、銅造宝篋印塔がある。
宝篋印塔とは「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔のことで、この宝篋印塔は西村和泉守藤原政時が宝暦11年(1761年)に鋳造したもの。
安政2年(1855年)の地震でこの宝篋印塔は倒壊するも、明治40年(1907年)に日露戦争凱旋記念で修復された経緯がある。平成23年(2011年)に台東区有形文化財に登録された。

西仏板碑。建立者の西仏については明らかではないが、この板碑は西仏の妻子の後世安楽を祈って建立されたものと考えられ、建立年代は鎌倉末から室町初期と推測されている。
現在の高さは217cmだが上部が破損しており、製作時は3m近くあったのでは、と推測されている。寛保2年(1742年)の暴風雨で破損し、文化11年(1814年)に側に柱を立てる形で再度立てられた。

8.浅草寺 橋本薬師堂
西仏板碑の近くに仏頂尊勝陀羅尼碑がある。
「仏頂尊勝陀羅尼」とは、唱える人に息災延命などの御利益を授けるとされる古くから信奉されてきたお経である。
正面には陀羅尼が刻まれ、背面には陀羅尼の功徳と造立年代の元治元年(1864年)と製作者・海如の名前を見ることができる。
それにしても、タイトル以外は全て梵字で書かれているため、全く読めない。

六地蔵石燈籠。この石燈籠はかつて元花川戸町にあったものが、明治23年(1890年)に浅草寺境内に移転してきた。
詳細は不明だが、伝承では久安2年(1146年)、久安6年(1170年)、応安元年(1368年)のいずれかの建立といわれている。久安2年と6年で迷うならまだしも、応安は200年近く後であり、そこで迷うか…?と思わないでもない。

橋本薬師堂は慶安2年(1649年)に徳川家光が観音堂の北西に建て、堀にかかる橋のかたわらにあったので「橋本薬師堂」と名付けられた。浅草寺境内では浅草神社本殿や二天門、六角堂くらいしか残っていない古い建物のひとつとなっている。

淡島堂は元禄年間(1688~1703年)に紀伊国(現在の和歌山県和歌山市)の加太春日神社を勧請したもので、江戸時代から女性の守り神として信仰を集めている。

天水桶。この天水桶は明和7年(1770年)に造られた。
太平洋戦争が激化し、いつ浅草寺に空襲が来てもおかしくない状況となったため昭和18年(1943年)に浅草寺の僧侶は、この天水桶に御本尊の観音様を厨子ごと奉安、地中深くに納めた。
戦後の昭和22年(1947年)に御本尊を地中から出したところ無事だったので、この天水桶は戦火から御本尊を守った功労者といえるだろう。

浅草大平和塔。昭和20年(1945年)3月9日の夜、B29 300機以上によって空襲が行われ、10,000人以上の犠牲者を出した東京大空襲が発生した。
東京大空襲の犠牲者の慰霊と、今後空襲が起こりませんように、との願いから建てられたのが浅草大平和塔となっている。
少し前に、会社からの依頼で「GIS2級」という資格を取るための講習会に参加した。衛星写真の授業で、ウクライナの衛星写真が2枚並べられ、1枚は普通の衛星写真だがもう1枚は道路に黒い点がポツポツと写っている。
先生がこう言った。「この黒い点、なんだと思います?…空襲で犠牲になった人間の○体ですよ。」
その後、教室は静かになった。
先生が言いたかったのは衛星写真の技術の向上についてだが、私はそれ以上に、世界では空襲での犠牲が未だになくなっていないのだという事実を見て戦慄していた。

9.浅草寺 影向堂
カンカン地蔵という、もはや原形を留めていないお地蔵さんがある。
これは参拝者が小石でカンカン地蔵を叩いて願い事をしたためだが、あまりに叩かれすぎて石の塊にしか見えない。

六角堂は「浅草寺誌」に元和4年(1618年)の建立と書かれているので江戸時代初期の建築と考えられ、浅草寺内では最古の建物である。
六角堂の御本尊は日限地蔵尊で、お願い事をするときの日数を決めて祈願すれば叶うというもの。前回、江戸三十三観音第1番札所として訪れたときは「江戸三十三観音を最後までやりたい」と祈り、無事結願することができた。今回も「坂東三十三観音を最後までやりたい」と祈っておいた。

影向堂(ようごうどう)は平成6年(1994年)に慈覚大師円仁の生誕1,200年を記念して再建された。
屋根には鴟尾(しび)が付いており、鴟尾を取り付けるときは雨が降ると昔からいわれている。平成6年(1994年)に鴟尾を取り付ける際、それまで日照りだったが、鴟尾を取り付けた瞬間に雨が降ったというエピソードがある。
なお、影向堂は御朱印の受付所となっており、ここで御朱印をいただいた。
浅草寺は外国人観光客が多いと先述したが、外国人観光客のなかにも御朱印を集めている人がいるらしい。
実際、お客さんの半数以上は外国人観光客で、御朱印帳の受け渡しの際の番号呼び出しでも「フォーティーツー(42)」「トゥウェンティーファイブ(25)」など英語で呼び出していた。
ただ、私の坂東三十三観音の御朱印帳を見て、これは流石に日本人のものだろうと判断したのか、これだけ「85番」と日本語で呼び出されていたのは笑ってしまった。

「江戸三十三観音をめぐる」の御朱印では「江戸三十三観音札所 第一番」のハンコが押されているが、今回は「坂東拾三番」のハンコが押されている。比較対象用にどちらも載せておく。また、散華もいただいた。



10.ふなわかふぇ・まつり湯・神谷バー
平日昼間とはいえ、浅草寺境内は外国人観光客が多い。信仰を集め続けている、と言えば聞こえは良いが、ありていに言えば騒々しいので疲れてしまった。
そこで仲見世の何ヶ所かで「舟和の芋ようかん」を売っているのを見た。「舟和の芋ようかん」は東京駅の駅弁コーナーで売っているのを見たことがあるが、買ったことはなかった。以前から気になる存在ではあったし、どこかなかで食べられるところがあれば、と探してみたら「ふなわかふぇ」を見つけたので行ってみることにした。

舟和は明治35年(1902年)創業の和菓子屋で、さまざまな和菓子を売っているが「芋ようかん」と「あんこ玉」が有名である。
芋ようかんはさつまいも、砂糖、食塩だけで作ったようかん。あんこ玉は寒天であんをつつんだもので、小豆・白いんげん・抹茶・苺・珈琲・みかんの6種類の味がある。
今回注文したのは「芋ようかんソフトパフェ」と芋ようかん1個、あんこ玉2個(小豆と抹茶)。パフェは甘く、疲れた体に沁みた。ただ、パフェ、芋ようかん、あんこ玉を全て食べきったら流石にお腹いっぱいになった。

一瞬、芋ようかんとあんこ玉の詰め合わせを購入しようか迷ったが、1人で消費期限が翌日までの芋ようかんとあんこ玉を消化できる気がしなかったのでやめておいた。
ふなわカフェをあとにして、現在15時過ぎ。ほかの寺社に行くか考えたが少し遠いのと、もう本日のノルマはクリアしたのでスーパー銭湯へ向かうことにした。向かったのは「浅草ROXまつり湯」。

浅草寺からあまり歩くことなくスカイツリーが見える露天風呂に入れることや、サウナが3種類あること(もちろん水風呂もある)が魅力だが、調べたところ温泉ではないらしいことと、かなり強気な価格設定(平日:2,750円、休日:3,080円)から、「浅草に行く機会があればまた行くかもしれない」くらいの感想を抱いた。なお、平日夕方でかなり空いていたので、そこは快適だった。
サウナでスッキリした後は、神谷バーに向かった。
神谷バーは明治13年(1880年)に創業した日本初のバーとして有名である。
神谷バーに訪れたら一度飲んでみたいお酒があった。デンキブランだ。
私が好きな小説のひとつに、森見登美彦氏が著した「有頂天家族」があるのだが、そこに「偽電気ブラン」なる酒が頻繁に登場するのだ。そこで偽電気ブランの説明を抜粋してみた。
「東京浅草の電気ブランをまねて造った、大正時代より伝わるこの秘酒は、夷川発電所の裏手にある工場でこっそり造られている。」
偽電気ブランは有頂天家族作中でしか登場しない存在とはいえ、「偽」のない本物のデンキブランは神谷バーで飲むことができる。
デンキブランは度数30度の酒である。酒は好きだが量は飲めない私としては、水を飲みながらいただきたい。デンキブランを注文すると幸いなことに一緒に水が出てきた。
「生ビールとデンキブランは相思相愛」などと書かれた紙が机の上に置いてあったが、これを両方飲むと酔いつぶれること間違いなしなのでデンキブランだけ注文した。
デンキブランを飲んでみると、甘いが少しだけ漢方っぽい味がした。デンキブランはブランデー、ジン、ワイン、キュラソー、薬草などがブレンドされているようだが、分量は秘伝らしい。

余談だが、有頂天家族の作中には偽電気ブランだけでなく「赤玉ポートワイン」も頻繁に登場するが、こちらは「赤玉」という名前でスーパーや酒屋で市販されている。
デンキブランだけ飲んでいても酔うし、何しろお腹は膨れないのでハンバーグステーキとライスも注文した。神保町の「ランチョン」に似た「正しい洋食店」の洋食が、私は好きだ。

デンキブランとハンバーグステーキに満足したところで店を辞し、浅草駅から帰路についた。

浅草むぎとろのむぎとろバイキングは美味しかった。平日休みがあればまた行きたいと思う。不動院など、浅草の寺院街はしっとりとしているが、それに反して浅草寺はいつ行っても混んでいる。平日昼間でも混んでいるのか、と思ったが、考えてみれば外国人観光客に曜日は関係ない。
ふなわかふぇの芋ようかんソフトパフェは美味しかった。神谷バーのデンキブランはいつか飲んでみたいと思っていたので、浅草に来たらまた飲みに行こうと思う。
私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

歩いた日:2026年7月13日
【参考文献】
小森隆吉(1978) 「台東区の歴史」 名著出版
森見登美彦(2010) 「有頂天家族」 幻冬舎文庫
関東三十六不動霊場会(2017) 「関東三十六不動霊場ガイドブック」
坂東札所霊場会(2019)「坂東三十三所観音巡礼」 株式会社朱鷺書房
東京都歴史教育研究会(2020) 「東京都の歴史散歩 上 下町」 山川出版社























































































































































































































































































































































