10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

関東三十六不動をめぐる 8.高幡不動編

 前回、第8番札所 高尾山薬王院有喜寺に訪れながら高尾山に登った。今回は第9番札所 高幡不動尊に訪れながら周辺をぶらぶらしようと思う。23区に住んでいると多摩地域は近くてもなかなか行く機会がなく、初めて高幡不動に訪れた。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.高幡不動尊

 今日は高幡不動駅にやってきた。

高幡不動駅

 

 日野市のマンホールを見つけた。

 日野市市制施行60周年を迎えた日野市のキャッチコピー「ありがとう60年 誠の心で これからも」に沿ったロゴマークを中心にデザインされている。

 特産物や観光地をモチーフにすることで、日野市の魅力を存分に表現したものとなっており、特産品のブルーベリーやトマト、高幡不動尊金剛寺の五重塔、多摩動物公園のコアラ、浅川のアユ、清流に生息するホタルなど、水と緑の文化都市・日野市の特徴をわかりやすいデザインで表している。

 

 別のデザインのマンホールを発見した。日野市の鳥「カワセミ」がデザインされている。

 

 現在時刻12時、昼食を食べてから高幡不動尊へ向かおう。伺ったのは「珈琲はうす あんず村」。

珈琲はうす あんず村

 

 どんすぱセットを注文した。どんすぱ、ハーフサンドイッチ、サラダ、コーヒーがついて1,650円。それにしてもサンドイッチの大きさが目を引く。

どんすぱセット

 

 窓際の席だったので、京王線がひっきりなしに行き来する様子を眺めながらどんすぱをいただいた。

 

 珈琲はうす あんず村をあとにして高幡不動尊に向かう。まずは立派な仁王門が迎えてくれた。

仁王門

 高幡不動尊の入口にある入母屋造の仁王門は、昭和34年(1959年)に楼門として復元されたもので、室町時代後期の再建である。

 仁王像も室町時代の作であり、「高幡山」の扁額は洛東智積院7世・運敞(うんしょう)の筆で江戸初期のものである。

 

 仁王門をくぐると正面に新丈六不動明王像(身代わり本尊)を安置する不動堂がある。

不動堂

 高幡不動尊(金剛寺)は成田・大山とともに関東三大不動にもあげられる真言宗智山派別格本山の寺院である。正式名称は高幡山明王院金剛寺、通称「高幡不動尊」。

 高幡不動尊の創建年代は定かではないが、貞観年間(859~877年)に円仁が清和天皇の勅願で、東関鎮護の霊場として寺の西側の台地に不動堂を建立したことにはじまる。

 不動堂は単層入母屋造銅板葺きで、不動明王の光背銘文には建武2年(1335年)に不動堂が暴風雨で倒壊したため、康永元年(1342年)に麓の地に移転されたと記されている。

 

2.高幡不動尊 奥殿

 新撰組局長近藤勇と土方歳三を顕彰した殉節両雄之碑(じゅんせつりょうゆうのひ)と土方歳三像があった。これは土方歳三の菩提寺が高幡不動尊である縁による。

殉節両雄之碑

土方歳三像

 

 地方鉄道の歴史を語る玉南(ぎょくなん)電気鉄道記念の碑があった。玉南電気鉄道は大正14年(1925年)に京王電気軌道が府中~東八王子間を開通させるために設立した会社で、京王電軌とは別会社として設立されるも大正15年(1926年)に合併した。

玉南(ぎょくなん)電気鉄道記念の碑

 

 裏の奥殿には本尊の不動明王坐像と矜羯羅童子像(こんがらどうじぞう)・制吒迦童子像の両脇侍が安置されている。

奥殿

 不動明王は寄木造・漆塗りの2.858mにおよぶ巨像で、木造漆塗りの両脇侍とともに平安時代の作である。

 室町時代には関東以北の戦乱のたびに霊汗を流すため「汗かき不動」ともよばれた。また不動明王像内から発見された69点におよぶ南北朝時代の像内文書は、応永22年(1415年)長弁により案文された勧進状や、不動堂建立の由緒をきざむ文永10年(1273年)制作の鰐口(わにぐち)とともに、奥殿の展示室に収められている(この日は年末年始ということもあり開いておらず)。

 この像内文書は、南北朝の合戦で戦死した山内経之(やまのうちつねゆき)の書状が中心で、東国武士の実態を知る貴重な資料である。

 このほか奥殿には弁財天十五童子・金剛寺文書など数々の文化財が展示されているらしい。

 

3.高幡不動尊 勝五郎生まれ変わり伝説

 文安2年(1445年)の立川河原の合戦で敗れ、この寺で自害した上杉憲顕(うえすぎのりあき)の墓があり、墓の周りをお堂(上杉堂)で覆っている。

上杉堂

 

 平安時代の様式を模して昭和55年(1980年)に再建された五重塔がある。五重塔の地下に高幡不動の寺務所があり、そこで関東三十六不動の御朱印をいただいた。

五重塔

高幡不動尊 御朱印

御影・童子像

 

 聖天堂がある。聖天とは歓喜天ともよばれ、象頭人身の男女2神が抱擁している姿を祀っている。聖天像は非公開だったが、何かのきっかけで聖天像の実物の画像を見たらなかなかインパクトの強い見た目だったことは覚えている。

聖天堂

 

 高幡不動尊の墓地の一角に、藤蔵の墓がある。

藤蔵の墓

 中野村(現在の八王子市東中野)で生まれた小谷田勝五郎が8歳になった文政5年(1822年)秋、自分の前世は程久保村(現在の日野市程久保)の藤蔵であると語った。程久保村の藤蔵が実在した人物とわかるとこの話は江戸で大評判になった。

 勝五郎の生まれ変わりの話を、当時の大名・松平(池田)冠山や国学者の平田篤胤が勝五郎本人並びに家族から聞き書きし書物に著した。平田篤胤がこれを書いた自分の著書を仁孝天皇に献上したため、御所でも生まれ変わりの話が評判になった。

 明治時代に小泉八雲(ラフカディオ・ハーン。現在の連続テレビ小説「ばけばけ」でも主要人物として登場する。)が英文でこのことを西洋に紹介したことにより、勝五郎の生まれ変わり話は海外でも知られるようになった。勝五郎の生まれ変わりの話は現在も写本を含め多くの書物が存在する。

 藤蔵は疱瘡にかかってしまい、文化7年(1810年)2月4日に6歳で亡くなった。藤蔵の墓は近くの山のなかにあったが、その場所も昭和40年代に宅地造成されたため昭和47年(1972年)に高幡不動尊墓地に改葬された。

 「転生モノ」は漫画やアニメ等で現在も多く作られている人気コンテンツなので勝五郎生まれ変わりの話が話題になるのも理解できる。本当に勝五郎は藤蔵の生まれ変わりだったのか…?それを科学的に証明する方法はない。ただ私は前世、どんな人間でどんな人生を歩んでいたのか、気になることはある。調べる方法はないにしても。

 

 墓地から戻り、大日堂に参拝する。

大日堂

 大日堂には、外陣天井に描かれている掛川藩士・中村岳蓮(なかむらがくれん)による墨絵の「鳴り竜」や幕末の新撰組副長土方歳三の位牌もみることができるようだが、この日は公開していなかった。

 

 大日堂の脇には金剛桜がある。

金剛桜

 金剛桜の原木・薬師桜は山形県白鷹町高玉の薬師堂前にある、樹齢1,300年のエドヒガンである。

 山形県白鷹町に住む金田聖夫氏は、樹齢1,300年のエドヒガンの命を後世に伝えるため、エドヒガンの種子を蒔いて作った台木に親木の芽を接いで、親と全く同じ遺伝子を有する分身を育てることに成功した(要はクローン)。

 このエドヒガンの分身を平成14年(2002年)11月15日、奥殿の不動明王坐像と矜羯羅童子像・制吒迦童子像の保存修理完了を記念して植樹、金剛桜と名付けた。

 今は冬なので何も咲いていなかったが、春になると綺麗な花を咲かすのだろうか。

 

 大日堂から少し戻ると、一間社流造・銅板葺きの五部権現社殿がある。

五部権現社殿

 金剛寺の鎮守社であるこの社殿は寛文11年(1671年)に再建されたもので、源頼義勧請の八幡大菩薩を中心に五神が合祀されており、その「暦応3年(1340年)」の銘のある神牌(しんぱい)5基の裏には本地仏がきざんであるなど、神仏習合や本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ。神は仏が仮に姿をかえてこの世にあらわれたとする平安初期以来の思想)の資料として注目されている。

 

4.高幡不動尊 山内八十八所巡り 徳島県・高知県

 北条氏照の家臣・高幡十右衛門の居城とされる高幡城址をまわる山内八十八所巡りがある。1周1時間目安(ちなみに私は1時間以上かかった)で、のんびりと周ってみることにしよう。

 

 山内経之供養塔がある。

山内経之供養塔

 高幡不動尊に南北朝期の貴重な像内文書を残した土渕郷(現在の日野市)の小領主・山内経之(やまのうちつねゆき)は北朝方の高師冬(こうのもろふゆ)の北畠親房攻めに参加し、下総国の駒城合戦で戦死した。

 像内文書は山内経之が下総へ向かう途中やさまざまな合戦のさなかより留守家族や高幡山の僧に届けた書状が中心で、戦費調達の苦しさや所領経営の破綻・戦闘の実態・寺院との関係など中世武士の生の生活記録となっており、69枚の文書中50枚は経之の筆であることが確認されている。

 これらの文書は、経之の遺族や関係者が戦死した経之ゆかりの書状の背面に不動明王や大黒天の印仏をして、当時建武2年(1335年)の大風の被害を受け修理中であった不動明王の頭部に納めて故人の冥福を祈ったものである。

 文書の存在は昭和初期に確認されたもののネズミの被害等の損耗が激しく解読不能と見られていたが、昭和60年(1985年)からの文化財綜合調査でその重要性が指摘されその後日野市教育委員会の手で数年かけて全容が解明され、全国に類例のない中世武士の貴重な文書として重要文化財に指定された。

 文書を残した山内経之一族の消息は不明だが、高幡不動尊では中世の九輪塔を山内経之供養塔として山裾に移設し、その菩提を弔うことにしたそうだ。要はここに山内経之はいないのだが、手を合わせておいた。

 

 山内八十八所巡りをはじめよう。まずは第1番札所「霊山寺(りょうぜんじ)」。

霊山寺

 霊山寺は徳島県鳴門市にある高野山真言宗の寺院。第1番札所ゆえ、「発願の寺」として一年中多くのお遍路さんが訪れる寺院である。

 

 ちなみに山のなかには本当に88個のお地蔵さんがいるのだが、全部紹介していると記事が長くなってしまうので端折って紹介することをお許しいただきたい。

 第12番札所「焼山寺(しょうさんじ)」。

焼山寺

 焼山寺は徳島県神山町にある真言宗の寺院。四国山地の山深いところにあるため、阿波霊場三難所のひとつにも数えられ「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と呼ばれる。

 

 第20番札所「鶴林寺(かくりんじ)」。

鶴林寺

 鶴林寺は徳島県勝浦町にある真言宗の寺院。先ほどの阿波霊場三難所の「二にお鶴」はここのことであり、鶴林寺山の山頂近くにあるためこう呼ばれるようになった。

 

 第21番札所「太龍寺(たいりゅうじ)」。

太龍寺

 太龍寺は徳島県阿南市にある真言宗の寺院。先ほどの阿波霊場三難所の「三に太龍」はここのことであり、太龍寺山弥山の山頂近くに位置する。この「阿波霊場三難所」のなかでは唯一ロープウェイがあるため、歩き遍路にこだわらなければ他と比べたら若干難易度が下がるかもしれない。

 

 第23番札所「薬王寺(やくおうじ)」。

薬王寺

 薬王寺は徳島県美波町にある真言宗の寺院。これで徳島県の札所は終了だが、前後の札所の第22番札所・平等寺まで約20km、第24番札所の最御崎寺に至っては約75kmも離れている。これは四国八十八ヶ所の札所間距離で2番目に長い(もっと上がいるのかよ)。歩き遍路にこだわらなければ牟岐線の日和佐駅から500mほどと、アクセスは悪くないのだが…。

 

 高知県の札所に入る。第24番札所「最御崎寺(ほつみさきじ)」。

最御崎寺

 最御崎寺は、高知県室戸市にある真言宗の寺院で、高知県最初の札所。室戸半島の先端の岬・室戸岬の近所にある。

 

 第36番札所「青龍寺(しょうりゅうじ)」。

青龍寺

 青龍寺は高知県土佐市にある真言宗の寺院。次の札所、第37番札所「岩本寺」までの間の遍路道のひとつに市営巡航船に乗るルートがあり、一度乗ってみたいと思っている。

 

 第37番札所「岩本寺(いわもとじ)」。

岩本寺

 岩本寺は高知県四万十町にある真言宗の寺院。第36番札所「青龍寺」とは約60km、第38番札所「金剛福寺」まではなんと約80kmも離れている(こちらは札所間距離最長記録)。さすがに前後と離れすぎているため宿坊が設置され、ほとんどのお遍路さんはここで一泊するらしい。なお、現在でも宿坊が設置されている。

 

 第38番札所「金剛福寺(こんごうふくじ)」。

金剛福寺

 金剛福寺は高知県土佐清水市にある真言宗の寺院。誰でも行ける四国最南端、足摺岬の近所にある。なお次の延光寺とも約52km離れている。

 実は金剛福寺は昨年9月に足摺岬に行ったときに寄っている。

金剛福寺

金剛福寺

 

 第39番札所「延光寺(えんこうじ)」。

延光寺

 延光寺は高知県宿毛市にある真言宗の寺院。こちらが高知県最後の札所となる。先ほど書いた足摺岬への旅行で宿毛にも行ったので行くことも検討したのだが、宿毛駅から平田駅に移動し、そこから2.5km歩かなければ行けないようなのでやめておいた(寺山口バス停から徒歩1km、三原分岐バス停から2.4kmのルートもあるが)。

 

5.高幡不動尊 山内八十八所巡り 愛媛県

 山の尾根に出て、日野のまちを見下ろす。今日はいい天気だ。

 

 愛媛県の札所に入る。第40番札所「観自在寺(かんじざいじ)」。

観自在寺

 観自在寺は愛媛県愛南町にある真言宗の寺院で、愛媛県最初の札所。第1番札所「霊山寺」から最も離れていることから「四国霊場の裏関所」とも呼ばれている。

 

 第44番札所「大寳寺(だいほうじ)」。

大寳寺

 大寳寺は愛媛県久万高原町にある真言宗の寺院。四国八十八ヶ所の第44番札所、真ん中であることから「中札所」といわれる。久万高原に位置しており標高は579m。

 

 第45番札所「岩屋寺(いわやじ)」。

岩屋寺

 岩屋寺は愛媛県久万高原町にある真言宗の寺院。岩屋寺は標高565m付近にあり、本堂の位置で比較すると八十八ヶ所でも4番目に高い場所にあり、岩屋寺バス停や駐車場から30分近く参道を歩いて登らないとたどり着けないので、難所のひとつとされている。

 

 第51番札所「石手寺(いしてじ)」。

石手寺

 石手寺は愛媛県松山市にある真言宗の寺院。初詣・厄除詣の参詣者数は愛媛県随一であり、道後温泉から近いこともありお遍路のほかにも観光客でにぎわうことが多い。

 ちなみに石手寺には数年前、会社の業務で愛媛県松山市に滞在していたことがあり、そのときに訪れている。

石手寺

 第65番札所「三角寺(さんかくじ)」。

三角寺

 三角寺は愛媛県四国中央市にある真言宗の寺院。龍王山の中腹、標高355mあたりにある愛媛県最後の札所である。

 

6.高幡不動尊 山内八十八所巡り 香川県

 第66番札所「雲辺寺(うんぺんじ)」。

雲辺寺

 雲辺寺は徳島県三好市の雲辺寺山山頂近くに位置する真言宗の寺院。こちらも雲辺寺ロープウェイがあり、歩き遍路にこだわらなければ楽に参拝できる。

 

 第67番札所「大興寺(だいこうじ)」。

大興寺

 大興寺は香川県三豊市にある真言宗の寺院。香川県最初の札所となっている。

 

 第68番札所・第69番札所「神恵院(じんねいん)」と「観音寺(かんのんじ)」。

神恵院

観音寺

 神恵院・観音寺は香川県観音寺市にある真言宗の寺院。この2つの寺院は同じ境内にあるため、札所間距離も最短となっている(というか0)。また、観音寺は「観音寺市」の由来でもある。

 

 日野のまちを見下ろす。

 

 第85番札所「八栗寺(やくりじ)」。

八栗寺

 八栗寺は香川県高松市にある真言宗の寺院。山の上にあるが、八栗ケーブルというケーブルカーが走っているので、歩き遍路にこだわらなければ苦しまずに登れる。

 

 第88番札所「大窪寺(おおくぼじ)」。

大窪寺

 大窪寺は香川県さぬき市にある真言宗の寺院。最後の寺院(結願所)であるため納経院は「結願所」だったり、結願証明書(賞状)を有料で書いてくれるサービスもあるらしい。

 

 なお、八十八ヶ所はすべて巡った後に高野山の奥の院に詣でて、すべての札所に参拝することができたことを弘法大師に報告・感謝する「お礼参り」で締める。第88番札所の隣には高野山奥の院を象った(?)大師堂もある。

大師堂

 

 高幡不動駅に戻り、この日は終了とする。

高幡不動駅

 

 昨日行って気持ちが良かったので今日も京王高尾山温泉 極楽湯に来てしまった。脱衣所で荷物を置いたタイミングであることに気がついた。

「一眼レフがない…!?」

 冷静に行動を辿っていくと、おそらく高幡不動駅のお手洗いに置いてきてしまったらしい、という結論に至った。

 脱衣所では電話できないので、一旦フロントのあたりまで行って高幡不動駅に電話をかけた。幸い、誰かが回収して駅の事務所まで届けてくれたようで、温泉に行ってから帰り道で高幡不動駅で途中下車、回収に行くことにした。

 まったく、これが「やらかし納め」か…と思いつつ温泉に入り、温泉の後はビールとまぐろ山掛け丼を食べた。

京王高尾山温泉 極楽湯

 

 まぐろ山掛け丼を食べ終わった後で温泉をあとにし、その日のうちに無事、一眼レフは回収できた。

 

 高幡不動は名前を聞いたことはあったが、行ったのは初めてだった。境内では正月準備が進められており、正月はたくさんの人が参拝に行くのだろうなと思った。

 勝五郎生まれ変わり伝説については、この手の転生モノは現代でもかなり使われるコンテンツではあるので、昔からこの手の話は日本人が好きだったのだろうと思った。

 山内八十八ヶ所巡りは、流石に四国八十八ヶ所と同じご利益を得られたとは思えないが、お金と時間があればいつか四国八十八ヶ所はやってみたい。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2025年12月29日

【参考文献・参考サイト】

東京都歴史教育研究会(2021) 「東京都の歴史散歩 下 多摩・島嶼」 山川出版社

関東三十六不動霊場会(2017) 「関東三十六不動霊場ガイドブック」

東京都下水道局 日野市デザインマンホール蓋

https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/pr/kouhou/designmanhole/hino

(2026年3月1日最終閲覧)

東海道を歩く 50.墨染駅~淀駅

 前回、追分駅から墨染駅まで歩いた。今回は墨染駅から淀駅まで歩こうと思う。「48.大津駅三条大橋」からこの記事まで2025年7月に歩いたのだが、夏の京都の暑さをなめていたのでへばりながら淀駅まで到達した。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.墨染寺

 今日は墨染駅から出発だ。

墨染駅

 

 墨染駅から歩いて2分のところに墨染寺(ぼくせんじ)がある。

墨染寺

 豊臣秀吉とその姉・瑞龍尼(ずいりゅうに)の帰依を受けていた日蓮宗の僧・日秀(にっしゅう)が貞観寺(じょうがんじ)の旧地に開創し、のちに現在地に移転した。

 墨染桜は、関白・藤原基経の死を悼んだ上野朝臣峯雄(かみつけのあそんみねお)が「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」との和歌を詠み、その花びらが薄墨色に染まったというもので、貞観寺の旧地辺りにあったという。現在境内には、3代目といわれる薄墨桜が植えられている。

 和歌を詠んだら桜が薄墨色になったなんてほんとかいな…とは思うがそれが由来らしい。

 またしんみりした話の後にこの話をするのもあれだが、墨染寺の門前の道は旧東海道筋にあたり、この一帯には元禄年間(1688年~1704年)に開かれた墨染遊郭があり、賑わっていたそうだ。

 実際、5分くらい行ったところに「橦木町廓入口」の石碑が残っていた。現在、遊郭は残っていない。

橦木町廓入口

 

 橦木町廓入口から20分くらい歩いたところに勝念寺がある。

勝念寺

 浄土宗知恩院末の勝念寺は、織田信長が深く帰依した聖誉貞安上人(しょうよていあんしょうにん)により天正15年(1587年)に開創された。

 本能寺の変織田信長は本能寺で、嫡男の織田信忠は御池御所で自刃した。

 貞安上人は織田信長織田信忠父子の菩提を弔うため、信忠自刃の地である御池御所を正親町天皇(おおぎまちてんのう)から賜り大雲院を開創し、同時に豊臣秀吉の城下町である伏見丹波橋に一寺を開創、安養山勝念寺と名付けた。

 勝念寺では貞安上人が織田信長からもらった仏像が伝わる。

 

 勝念寺の境内には釜敷地蔵尊(かましきじぞうそん)がある。

釜敷地蔵尊

 釜敷地蔵尊は地獄で釜茹での責めに苦しむ亡者に代わり自分が釜のなかで苦を受ける身代地蔵尊である。「かましきさん」と呼ばれ江戸時代から信仰を集めている。

 

2.金札宮

 勝念寺から10分くらい歩くと大黒寺がある。

大黒寺

 大黒寺は薩摩寺ともよばれ、元和元年(1615年)島津義弘薩摩藩の祈禱所としたものと伝える。

 幕末の寺田屋騒動で死亡した有馬新七ら9人の藩士の墓があることで知られ、宝暦の三川治水工事の御手伝普請を命じられたときの薩摩藩家老・平田靱負(ひらたゆきえ)も葬られている。

 平田は乱流荒れ狂う揖斐・長良・木曽3川合流部での堤防工事を、現地責任者として竣工へと導いたものの多大の費用と人身の犠牲のうえに立つものとして、完成後その責めをみずからに負わせて割腹した。

 現在、その工事で竣工した分流堤は油島千本松締切堤(岐阜県にある。国の史跡。)とよばれ、今も水害から住民を守っている。

 多大の費用や人身犠牲が出たという事実はあるにせよ、現在でも活用されている堤防を造った人物が割腹する必要はあったのかと思ってしまう。

 

 大黒寺の通りを挟んだところに金札宮がある。

金札宮

 金札宮は伏見でも古い由緒を誇る社の1つで、旧東海道筋に面して立地する。

 天太玉命(あめのふとだまのみこと)(別名、白菊大明神、白菊翁)ほか2柱をまつり、社伝では天平勝宝2年(750年)の創建という。観阿弥作という謡曲「金札」の舞台でもある。

 伏見九郷のひとつ久米村の産土神(うぶすながみ)で、伏見城築城に際し豊臣秀吉が鎮守として城内に遷し、のちに現在地に遷されたという。

 境内中央にクロガネモチの巨木が繁り、奥に小さな本殿が鎮座する。

クロガネモチ

 本宮の創始伝承では旱魃(かんばつ)の際に翁が白菊を振るい、露が落ちて清水が湧出した奇瑞を喜んだ里人が天皇に奏上して社殿を営み、翁(天太玉命)をまつったという。

 その湧出した清水を白菊井(しらぎくい)とよぶが、北に約130mの京都市立板橋小学校内には、子供たちの計画で同名の井戸が復活されているようだ。

 

 そのまま歩いていくと伏見大手筋商店街を通り過ぎる。ちょうど12時頃だったため、ここで昼食にしようと思った。

 入ったのはHolly's Cafe 伏見大手筋店。チェーン店っぽいが、関東では見ないチェーンである。調べてみたら大阪府京都府兵庫県奈良県滋賀県にしかないらしい。アイスコーヒーとカルボナーラを頼み、昼食とした。

伏見大手筋商店街

Holly's Cafe 伏見大手筋店

 

3.伏見の日本酒

 黄桜カッパカントリー前を通過する。

黄桜カッパカントリー

 伏見といえば、日本酒である。

 伏見は古くから京都の商業都市として栄え、木綿や呉服などの産地として知られていた。商業の中心地であったため酒の需要も高まり、酒造りが盛んに行われていた。

 水運が発達しており木津川と宇治川が合流する地点に位置していたことから、酒造りにおける原料や製品の輸送が容易な土地だった。そのきっかけを作ったのが豊臣秀吉である。

 文禄3年(1594年)豊臣秀吉伏見城を築き大規模な城下町を開くと同時に、宇治川などの改修も行い、内陸の河川港である伏見港を造った。

 また豊かな自然環境に恵まれ、清澄で柔らかな水が利用できたことも酒造りに適した環境だった。伏見の水は「伏水(ふしみ・ふしみず)」と称されるようになる。

 日本酒作りでは水がものすごく大事なので、良い水が手に入る土地では美味しい日本酒を作ることができる。

 さらに京都の文化的中心地としても栄え、伝統文化や祭り、儀式などにおいて酒が重要な役割を果たしていたため酒造業が発展、今では日本の三大酒処のひとつとなっている(ほかは兵庫県神戸市灘区の「灘」、広島県東広島市の「西条」)。

 伏見の酒蔵は21社あるようだが、このなかでも全国的知名度を誇るのが「黄桜」と「月桂冠」の2社である。

 黄桜といえば「カッパッパ~ルンパッパ~」の河童が出てくるCMで有名だが黄桜記念館という資料館や黄桜カッパカントリーで食事もできたらしい。知ってたらこっちで食事をとったのに…と少しだけ後悔した。

 

 黄桜カッパカントリーからすぐのところに西岸寺がある。通称、油懸地蔵(あぶらかけじぞう)ともいう。

西岸寺

 「京都府地誌」は「天正18年(1590年)僧・雲海の開基」と記し、地蔵尊伏見天皇の舟戸行在所にあったと記す。その地蔵尊は高さ1.5mほどの石造仏で、祈願にかけられた油で黒ずんでいる。

 「拾遺都名所図会」は「祈願ある者、燈油を此の像に灌ぐ(そそぐ)ときは、忽ち(たちまち)所願満足せり」と記している。

 灯油をかけるだけで願いが叶います、なんてほんとかいな、と思うけどもしそれだけで願いが叶うならちょっとやってみたい気もする。

 

4.寺田屋

  西岸寺からすぐのところに「我国に於ける電気鉄道事業発祥の地」の石碑がある。

我国に於ける電気鉄道事業発祥の地

 明治28年(1895年)、伏見の下油掛から京都駅(正確には京都市下京区東洞院通塩小路踏切南側)まで、日本最初の電気鉄道が敷設された。

 油掛通までの敷設であったのはこの通り沿いの油掛町から魚屋町に至る一帯が、江戸時代以来伏見の商業の中心地として賑わっていたためである。

 今は北側の大手筋通沿いに中心は移っているが、これは桃山御陵が築造された大正時代以降のことである。

 なおこの路線は大正3年(1914年)に中書島まで延伸され、昭和45年(1970年)に廃線となった。廃止の要因としては路面電車だったので、道路交通の妨げになったことが理由らしい。もっとも、近所に京阪本線近鉄京都線が走っているので、なくしたところでそれほど不便がないこともあったのだろう。

 

 「我国に於ける電気鉄道事業発祥の地」から5分ほど歩いたところに寺田屋がある。

寺田屋

 寺田屋坂本龍馬の定宿、龍馬が幕府の警吏におそわれ寺田屋養女お龍(のちの龍馬の妻)の機転で難を逃れた慶応2年(1866年)の襲撃事件、薩摩藩士・有馬新七以下7名が死亡(のちに重傷を受けた2名も切腹)した文久2年(1862年)の寺田屋騒動などで有名だが、明治39年(1906年)の寺田屋伊助申立書は「戊辰ノ兵火ニ罹リ、家屋諸共ニ焼失シ」と記す。

 東隣の空地には「薩藩九烈士遺蹟志」の石碑(明治27年(1894年)建立)や日露戦争開戦前夜に昭憲皇太后坂本龍馬の夢をみて金一封を下賜したことを記念する石碑などがあり、往時を偲ばせる。「薩藩九烈士遺蹟志」の石碑には、「建銅表于寺田屋遺址」とある。

薩藩九烈士遺蹟志

 

 寺田屋の東隣の空地には「お登勢明神」がある。

お登勢明神

 江戸時代末期、弘化4年(1847年)頃に18歳で第六代寺田屋伊助に嫁入りしたお登勢は人の世話をすることを厭わない性格で、明治10年(1877年)に亡くなった。

 「寺田屋騒動」で上意討ちされた薩摩藩九烈士の供養や、「寺田屋事件」での坂本龍馬など多くの尊王攘夷派の志士たちを保護、支援した生き様はお登勢の子、第七代寺田屋伊助の心に刻まれ、明治27年(1894年)の九烈士三十三回忌に有志一同と「寺田屋騒動」が起きた文久年間当時に一体であった寺田屋址地に記念碑を建立した。

 明治37年(1904年)には、お登勢坂本龍馬を支援した功に対し皇后陛下(昭憲皇太后)から恩賜を拝戴、その顛末を後世に伝え残す記念として下賜金で龍馬の墓前と寺田屋に記念碑を建立した。

 大正2年(1913年)、江戸幕府最後の征夷大将軍徳川慶喜明治天皇陵の参拝後に寺田屋を訪れ、2階座敷で鳥羽伏見の戦いを回顧した。

 昭和52年(1977年)、お登勢の没後100年を期に「お登勢明神」が祀られた。

 

 女将お登勢寺田屋の由来碑(明治37年(1904年)建立)。

女将お登勢寺田屋の由来碑

 

 なおこの土地は大正3年(1914年)当時の伏見町に寄付されたもので、ここがもとの寺田屋跡との説もある。

 現在この寺田屋は資料を展示し、内部見学もできる。「どうせ戊辰戦争のときに燃えたんだろ」というツッコミはさておき、中に入ってみよう。

 

 なかに入り、入場料を払うと入場券とパンフレットをいただける。

 

 「雲」と書かれた部屋に入る。

「雲」

 

 薩藩九烈士遺蹟志の拓本がこちら。「熾仁親王」とは有栖川宮熾仁親王のことである。

薩藩九烈士遺蹟志の拓本

 

 今でも風情のある建物だ。

 

 「龍馬の部屋」には坂本龍馬が放った弾痕と伝えられる跡がある。だから戊辰戦争後の再建なんだろ…?と突っ込んでは…多分だめだ…。

坂本龍馬が放った弾痕(?)

 

  坂本龍馬肖像画。龍馬が京都の絵師に描かせたもので、これが龍馬の生前最後に描かれた肖像画らしい。

坂本龍馬肖像画

 

 坂本龍馬肖像画を遠くから見てみる。

 

 これも刀痕らしい…本当か?

刀痕(?)

 

 「昔自刃の裏梯子」これだけならよいのだが、「お龍さん恋の通路の裏梯子」…地味に痛い感じの通称名

昔自刃の裏梯子~お龍さん恋の通路の裏梯子~

 

 1階に下りると、掛け軸がいろいろかけてある。

 

 坂本龍馬関連書籍がこれでもかと収蔵されている。…これ全部読み終わるの時間かかりそうだなぁ…。

坂本龍馬関連書籍

 

 「京都」と書かれた古そうな地図。古そうに見えるが「桂町」と左から右に横文字が書かれているから戦後発行か?

 

 ひととおり展示を見終わったので、寺田屋をあとにした。

 

5.京橋界隈

 寺田屋を出てすぐに「伏見口の戦い激戦地跡」がある。

伏見口の戦い激戦地跡

 幕末の慶応4年(1868年)1月2日鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸、伏見御堂を宿陣として戦った。

 伏見奉行所に陣を置いた幕府軍新撰組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ大きな被害を出した。

 

 京橋に着いた。宇治川派流の景色が美しい。

京橋

 京橋は宇治川派流に架かる長さ40mほどの橋で、江戸時代はこの付近が伏見の水陸交通の中心であった。

 旧東海道はこの橋を渡って宇治川右岸堤を淀へと向かい、高瀬舟や三十石船がこの付近の浜から大坂八軒屋や京都の木屋町二条とを結んだ。

 その賑わいぶりを「都名所図会」は「京橋のほとりは、大坂より河瀬を引登る舟着きにて、(中略)かずかずこそりてかまびすしく、川辺の家には旅客をとどめ、驚忽なる声を出して饗応けるも」と記している。

 京橋の東側、北岸一帯は南浜とよばれる浜地で伏見伝馬所がおかれ旅宿が立ち並んでいた。幕末維新史に名高い寺田屋もそのなかの1軒である。

 

 京橋のそばに伏見長州藩邸跡がある。

伏見長州藩邸跡

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い毛利輝元は西軍の大将として参戦して敗戦。徳川家康は戦争責任を問い輝元を隠居させ、その子、毛利秀就(もうりひでなり)に周防と長門の2国、現在の山口県を与えた。

 江戸時代中期の元禄12年(1699年)の「御香宮文書」には中書島の新地開発を許可されたことが記されており、この時期以降に藩邸がこの場所に移転してきたと考えられる。

 幕末の元治元年(1864年)7月19日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見長州藩邸から武装した約500名の兵とともに、京へ進軍しようとした。

 その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大坂・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発した。

 福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち戻り態勢を整えて打って出たが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸は焼け落ちてしまった。

 

 肥後橋から南に折れ、濠川に沿って歩く。写真は美しいが、結構暑い。

 

6.三栖閘門

 伏見長州藩邸跡から15分くらい歩いたところに三栖閘門(みすこうもん)がある。

三栖閘門

 三栖閘門は昭和4年(1929年)に建設された。

 明治時代以降鉄道の発達で水運は衰退傾向にあったが、まだ多くの川船が行き来していた大正時代、観月橋・三栖間の宇治川右岸堤防が整備されることとなり(大正11年(1922年))、宇治川との通船のため建設された。2本の塔で挟まれたゲートを南北に設けそこで水位差を調整し、船を通行させた。

 当時は石炭船などが年間2万隻以上も通航したといわれ、京都・大阪間の輸送に重要な役割をはたした。

 しかし、陸上輸送の発達とともにしだいにすたれ、昭和37年(1962年)に淀川舟運は廃止となり、また宇治川改修や天ヶ瀬ダムの完成(昭和39年(1964年))で宇治川の水位が低下し、閘門としての役割を終えた。

 その後40年近く機能を停止していたが、「地域の歴史文化の継承と淀川が誇る歴史遺産の保全をめざす」ことを目的に保全整備され、平成15年(2003年)に三栖閘門資料館としてよみがえった。

 今保全整備された閘門は濠川の水が引き込まれて、伏見十石舟の船着場に利用されている。

 宇治川に望む南側ゲートの塔は展望スポットとなっており、宇治川の流れや上流に架かる近鉄澱川橋梁(きんてつよどがわきょうりょう)など一帯が一望できる。

 また旧操作室を改修した三栖閘門資料館は、三栖閘門の役割や伏見の歴史などを紹介し、周囲の広場にはゲートの巻上げ機や説明板が設置されている。

 

 暑いので、三栖閘門資料館に入った。

三栖閘門資料館

 

 かつての伏見港と伏見の町のジオラマがあった。

伏見港と伏見の町

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにより天下を掌握した徳川家康は、豊臣秀吉のまちづくりを引き継ぎ、伏見は江戸時代になっても依然として日本最大の城下町であり、政治都市でもあった。

 寛永12年(1635年)に参勤交代が制定されると、西国の大名は大坂から船で伏見港に上陸し、東海道を江戸へ向かうようになった。

 このため伏見には多くの大名屋敷・倉庫・旅籠がならび、伏見港は「京都と大坂を結ぶ」から「西国と東国を結ぶ」重要な拠点へと発展した。

 このジオラマは江戸中期の古地図をもとに制作したようだ。

 

 三栖閘門の仕組みをわかりやすく説明する動く模型が設置されていた。

三栖閘門の動く模型

 

 椅子とクーラーがある場所はありがたいので少しだけ涼んでから三栖閘門資料館をあとにした。三栖閘門から見た宇治川は絶景だ。

 

 三栖閘門をあとにするとき、防舷材(ぼうげんざい)の歩道を見つけた。防舷材とは船が閘室の壁に接触するときに、クッションの役割をするもの。ここでは実際に使っていた防舷材を歩道に利用している。

防舷材の歩道

 

7.淀の水車

 三栖閘門をあとにし、先に進もうと思い「ホントに歩く東海道」を見ていたが、ここで衝撃の事実が判明した。「ホントに歩く東海道」で紹介されている東海道ルートが通行できなくなっていたのだ。

 しばらくルートを探したが結局ないことに気づき、やむなく来た道を引き返して肥後橋まで戻り、そこから東海道に合流することにした。

 府道124号線・三栖向納所線に沿って歩く。東高瀬川から宇治川沿いの道は街路樹もなく直射日光が降り注ぐ。本当に暑かった。

 さらに衝撃を受けたのが国道1号京阪国道との合流点で、車がひっきりなしに行き来していて横断できない。横断歩道や歩道橋を探すもだいぶ北に行くか、宇治川の南で探すしかない。

 やむなく、かなり北まで行って横断歩道を渡るしかなかった。横断歩道の近くにマクドナルドがあったので吸い込まれていく。

 三栖閘門資料館をあとにして1時間、ようやく椅子とクーラーにありつけた。特に説明するものもないのか、暑さで若干意識が飛んでいたのか、この1時間についてはあまり記憶がなく、写真も残っていなかった。

 

 横断歩道を渡り、宇治川沿いに戻る。

 

 京阪本線の踏切を渡るとき、ちょうど大阪・関西万博デザインの電車が通り過ぎて行った(撮影したのは2025年7月21日、まだ大阪・関西万博開催中だった)。これを狙っていたのかもしれない撮り鉄もいる。

 

 しばらく歩くと、京都市伏見区 納所町(のうそちょう)に入る。この地名は淀川の水運を利用して米・塩・魚などが陸揚げされ、地内の倉庫に一時保管されたことに由来する地名である。

 

 「唐人雁木旧趾」の石碑を見つけた。

唐人雁木旧趾

 唐人雁木とは、朝鮮通信使の船着場の階段を指す。

 その故地を偲んで昭和2年(1927年)に三宅安兵衛が建立したものであるが、平成2年(1990年)に新調されている。

 

 唐人雁木旧趾の近くに納所村道路元標を見つけた。

納所村道路元標

 道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では全国で2,000基程度しか残っていない。

 道路元標は「まちの中心」を定義するという性格上、都市の中心に設置されることが多い。今昔マップを見たところ、役場からほど近い交差点に設置されたと考えられる。

納所村道路元標周辺 ※「今昔マップ」より作成、明治42年(1909年)測図

 「東海道を歩く」では前回登場は「東海道を歩く 48.大津駅三条大橋 1.大津市道路元標」で登場してくる大津市道路元標だ。

 東海道とは関係ないのだが、「地図ラー13」で「道路元標を訪ねてー成田市印旛郡編ー」という文章を書いており、これは千葉県成田市印旛郡内の道路元標を特集している。「10月うさぎ」ではなく実名名義ですが私が書いた文章なので、読んでいただけると嬉しいです(唐突な宣伝)。

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 納所村道路元標の近くに妙教寺がある。

妙教寺

 妙教寺寛永3年(1626年)大坂の富豪商人・法華又左衛門尉貞清の発願により、豊臣秀吉の側室・淀殿が住んでいたと伝わる淀古城下の一角に建立された法華宗真門流の寺である。

 18世紀初頭、付近の大火で山門、鐘楼を除き伽藍を焼失した。現在の本堂は天保11年(1840年)に再建されたものである。

 慶応4年(1860年)戊辰戦争鳥羽伏見淀の戦いでは戦場となり、1月4日、本堂の壁等に砲弾が貫通したためその跡と砲弾を保存している。

 平成25年(2013年)京都市により「京都市民が残したいと思う建物」に選定された。

 

 「2025年淀フェスーびしょぬれパビリオンー」。…大阪・関西万博を意識している?

 

 淀駅前に水車がある。

 「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」で有名な淀の水車は、淀城の淀川沿いの城壁に2つあって、1つは淀小橋下流宇治川桂川の合流するあたり、もう1つはさらに下流の庭園近くに取り付けられていた。

 もともと宇治川筋には古来より灌漑用の水車があったと言われており、淀においても淀城ができる以前に住んでいた河村与左右衛門の屋敷に水車があったと「淀下津町記録」に記されている。

 「帝都を守護せむ地、淀にまされるはなし、汝今より淀に城築くべし」との徳川2代将軍・徳川秀忠の命を受けた松平定綱は寛永2年(1625年)に淀城を完成させ初代城主に就いた。

 淀は宇治川桂川、木津川、巨椋池、四方を川と池に囲まれた美しい水上の城下町となり、さらに2代目城主・永井尚政寛永15年(1638年)、木津川を南に下げて城下を拡張し、庭園を新設した。

 永井藩主の家老・佐川田昌俊によって作られたという説が残っていることから、どうやらこの頃までに2基の水車が整備されたらしい。

 元禄5年(1692年)に江戸参府の途中、淀を通過したオランダ一行の医師ケンペルは「淀の町は美しく、水車小屋がその城の一部になっている」と書いている。また、江戸時代に来日した朝鮮通信使も絵と文章で淀の水車のことを伝えた。

 宝暦年間(1753年以降)淀稲葉藩士・渡辺善右衛門はその著「淀古今真佐子」で次のように「淀の水車は日本国は言うに及ばず朝鮮、琉球、オランダまでも知れ渡ったものである。2つ2ヶ所にあって、二の丸居間の庭園用と花畑の茶屋の水鉢用に使用している。」等と記している。

 安永9年(1780年)に刊行された「都名所図絵」や文久3年(1863年)に出版された「淀川両岸一覧」には淀城と水車が描かれ、淀城といえば水車が付き物となっていた。葛飾北斎も「雪月花淀川」で淀城と水車を描いた。明治時代の画家・冨田渓仙は淀城の水車が好きで作品を残している。

 これだけ絶賛されている淀城の水車、現在残っているのだろうかと調べてみたら、残っていないらしい。

 

 本日は淀駅で終了とする。

淀駅

 次回は、淀駅から枚方市駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

歩いた日:2025年7月21日

【参考文献・参考サイト】

京都府歴史遺産研究会(2011) 「京都府の歴史散歩 中」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第16集」

SAKE journal「日本三大酒どころ なぜ伏見・灘・西条が酒どころとして発展したのか?」

https://sake-journal.com/581/

今昔マップ

https://ktgis.net/kjmapw/

(2026年2月8日最終閲覧)

関東三十六不動をめぐる 7.高尾山編

 前回、第7番札所 川崎大師 不動堂に訪れながら川崎をめぐった。今回は第8番札所 高尾山薬王院有喜寺に訪れながら高尾山に登ってみようと思う。関東在住29年、何気に行ったことがなかった高尾山だったが、1人でもなかなか楽しめることに気が付いた。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.高橋家

 新宿駅で京王線に乗り換え、高尾山口駅にやってきた。

高尾山口駅

 

 高尾山口駅からエコーリフトの山麓駅へ向かっていると、八王子市のマンホールを見つけた。

八王子市マンホール

 国の選択無形民俗文化財で、また東京都の指定無形文化財でもある八王子車人形がデザインされている。

 車人形とは幕末に多摩地方で始まった郷土芸能で、ろくろ車という3個の車輪がついた箱形の車に腰をかけて1人の人形遣いが1体の人形を操る、特殊な1人遣いの人形芝居である。

 この車人形の演目のひとつである三番叟(さんばそう)の躍動する舞姿に、下水道事業の今後の躍動を託してデザインされた。

 

 エコーリフト山麓駅の近くに「高橋家」という蕎麦屋がある。そこでとろろそばをいただいた。

高橋屋

とろろそば

 

 高尾山のとろろそばの始まりは、その昔高尾山の薬王院に参拝にこられる方々の疲れをとってあげようと、滋養強壮によいといわれたとろろを消化吸収のよいそばにのせて出したことからだといわれている。

 「竹之家」という蕎麦屋が高尾山とろろそばの元祖である。竹之家の店主の方によれば、「先々代店主が大正13年(1924年)にとろろそばを店で出したのが高尾山とろろそばの始まり。当時は駄菓子屋だったが、蕎麦も提供していた。そこに自然薯(じねんじょ・とろろの原料)を入れたところ評判になり、高尾山のほかの蕎麦屋でもとろろそばを提供するようになった」という。

 

2.高尾山さる園・野草園

 とろろそばでおなかを満たしたところで、山麓駅へ向かう。山麓駅の前に先ほどの八王子市マンホールのカラーデザインがあった。

 

 高尾登山電鉄・清滝駅およびエコーリフト・山麓駅に到着した。行きはリフトで行きたいと思うので、リフトのチケットを買う。

高尾登山電鉄・清滝駅&エコーリフト・山麓駅

リフトのチケット

 エコーリフト・山麓駅からリフトに乗る。

エコーリフト・山麓駅

 エコーリフトは昭和39年(1964年)に1人用リフトが動き始め、昭和46年(1971年)にベルトコンベア式の乗り降り装置が設置、2人用リフトに変更された。リフトは大人でもワクワクする。

 

 12分で山上駅に到着、ここから高尾山頂までは歩きとなる。

高尾山頂

 

 この時点で既に良い景色なので満足したくなるが、まだ高尾山薬王院有喜寺に行けていないので満足してはいけない。

 

 山上駅から7分くらい歩くと高尾山ビアマウントがある。高尾山ビアマウントでは食事をしなくても登って景色を見ることができる。

高尾山ビアマウント

 

 高尾山ビアマウントの近くには高尾山スミカもあり、そこで三福だんごが売っている。蕎麦を食べた直後だが、くるみ味噌味の三福だんごを買って食べてしまった。

高尾山スミカ

三福だんご くるみ味噌味

 三福だんごの三福とは「大福」「幸福」「裕福」。だんごは地元八王子産米を使用した酒、「桑都の銘酒・高尾の天狗」を作るときに出た米粉を使用し、たれは東京都ふるさと認証食品認定の味噌を使用したくるみ入り江戸甘味噌たれで、東京食材にこだわっている。

 

 高尾山スミカから5分ほどで高尾山さる園・野草園に着く。

高尾山さる園・野草園

 高尾山さる園・野草園は昭和46年(1971年)にオープンし、現在は90頭を超えるサルを飼育し、300種類を超える野草を見ることができる。入園料は500円。

 

 ニホンザルは、日本だけに住むサルで現在地球上にいる約200種のサルの仲間では最も北に住むサルとして有名だ。

 サルたちを見ていると、飼育員さんがやってきて解説およびエサやりを始めた。

 

 以下、飼育員さんによる解説の内容をメモしておく。

 

 現在このサル山のボスザルは「トロロ」というのだが、このトロロくんはドラえもんのジャイアンのような性格をしているらしく、あまり人望…もとい猿望がないらしい。

 

 サルの社会では親がどれだけ上のポジションにいるかにより、子供のポジションも決まるらしい。まことに生きにくい社会である。

 

 ここのニホンザルに与えている餌は生の大豆。せめて炒って節分の豆のようにしたらどうか、というご意見もいただくらしいが、生のほうが繊維質で歯磨き効果があり、歯磨きをする習慣のないサルの歯の健康が保たれるらしい。

 

 「サルといえばバナナが好物!」というイメージが浸透しているが、そもそもニホンザルの生息域にバナナは自生していないので、自然でニホンザルがバナナを見ることは一生ないと思われる。

 また、飼育下でもニホンザルにバナナを与えるのは好ましくない。理由として、バナナは栄養価が高く肥満の原因になることと、バナナの糖分がニホンザルの歯の健康上よろしくなく虫歯になり、虫歯になっても人間のように治療できないため、少なくともここのサル園ではバナナを与えることはないとのこと。

 私も「サルといえばバナナが好物」というイメージを抱いていたが、「ニホンザルは自然でバナナに出会うことは一生ない」と言われなるほどなぁ、と納得してしまった。

 

 さる園を見た後で野草園も見に行ったが、冬ということもありほとんど花が咲いていなかったのでサラっと見て高尾山さる園・野草園をあとにした。

 

3.高尾山薬王院有喜寺

 高尾山さる園・野草園から歩いて3分くらいのところにたこ杉がある。

たこ杉

 たこ杉は高さ37m、目通り幹囲約6m、樹齢約450年の大杉である。「たこ杉」は、「昔参道を開削するとき、たこ杉の磐根がわだかまって工事の邪魔になるので伐採しようとしたら、一夜にして根が後方に曲折した」という伝説と、その根がたこの足に似ているところからそう呼ばれるようになったそうだ。

 

 高尾山薬王院の浄心門をくぐる。

浄心門

 門には「霊気満山」の文字が刻まれた扁額が掲げられている。

 古くから霊山として崇められてきた高尾山の山内には「霊気=生命の力」が満ちているとされており、浄心門はここから先が聖域であることを示している。

 薬王院は仏教寺院だがこの門は両部鳥居という鳥居の形をしており、神仏習合の名残をとどめている。

 

 浄心門をくぐるとしばらく杉並木が続く。花粉の時期に来なくてよかった。

杉並木

 高尾山薬王院境内の参道に植えられたこの杉並木は、参道下にある巨杉とともに都内ではまれに見られるもので、その数はおよそ十数本を数える。

 昭和41年(1966年)9月24日にこの地域を襲った台風26号によってかなりの被害を受けたが、それでも巨樹がそろっている。この杉並木のなかに見られる巨樹は、幹周り5.6m、高さ47mに達する。

 なお、杉並木の木はすでに老杉で、根本に近いところが空洞化しているものもあり、今後の台風等でやられる可能性もある。

 

 高尾山薬王院有喜寺に入ると天狗がいる。

天狗

 高尾山は霊山なので、日の光、風や雨、草木や沢の水にさえも神仏の教えが示されるとして、山伏が修行を積む山でもある。

 ときには危険を伴う修行の守り神として、高尾山には天狗が棲むと信じられている。そして天狗は修行を積む山伏のみならず、日々精進努力をする参拝者にも困難を乗り越える力を与えてくれるようだ。

 

 仁王門の前に高尾山かりんとうを売っているお店があり、買ってしまった。

高尾山かりんとう

 高尾山かりんとうは高尾山に棲むと信じられる天狗の鼻を模したお菓子である。仕事後の読書タイムにコーヒーのおともとしていただいたが美味しくて、すぐ完食してしまった。

 

 仁王門をくぐり、高尾山薬王院有喜寺の大本堂に参拝する。

高尾山薬王院有喜寺 仁王門

高尾山薬王院有喜寺 大本堂

 ここで高尾山薬王院有喜寺について説明しよう。

 寺伝によると奈良時代の天平16年(744年)、聖武天皇の勅願により行基が薬師如来を安置して東国鎮護の霊場として開基したといわれている。

 南北朝時代、永和年間(1375~1379年)には京都の醍醐山より俊源大徳が入山。高尾山中で勇猛精進し飯縄大権現を感得して以降高尾山では飯縄権現を本尊として奉祀し、俊源大徳が中興の祖となった。

 戦国時代北条氏康・氏照父子は守護神としての飯縄権現を深く信仰し、江戸幕府からも厚い保護をうけていた。

 江戸中期以降には江戸市中で出開帳が行われ、江戸庶民の薬王院への関心も高まり高尾講の数は100をこえたそうだ。

 

 仁王門は江戸初期に造られ、東京都有形文化財に指定されている。

 仁王門のさきには薬王院大本堂があり堂内には護摩壇が設けられ、開山本尊の薬師如来、中興本尊の飯縄大権現、通称有喜地蔵とよばれている10~11世紀の一木造・漆箔・彫眼の木造地蔵菩薩立像が安置されている。

 

 不動堂はまだ先だが、ここで御朱印をもらっておくことにした。関東三十六不動用の御朱印のほかに御朱印帳にも書いていただいたが、これどっちも「飯縄大権現」って書いてあるなぁ。

関東三十六不動用の御朱印

御影と童子像

御朱印帳に書いていただいた御朱印

 

4.高尾山頂へ

 高尾山薬王院有喜寺 大本堂から階段を上がると、飯縄権現堂がある。

高尾山薬王院有喜寺 飯縄権現堂

 権現堂は享保14年(1729年)、幣殿・拝殿は翌年に建立されている。その後、文化元年(1804年)に大修理を実施した際に、現在のような権現造となった。

 木造単層・入母屋造・銅板葺き・三間四面の堂に回り縁をつけ、組物・彫刻などは極彩色で装飾した華麗な社殿である。

 とくに向拝(こうはい)の蝦虹梁(えびこうりょう)の竜の丸彫りは見事である。

竜の丸彫り

 

 さらに階段を上っていくと高尾山薬王院有喜寺 不動堂がある。

高尾山薬王院有喜寺 不動堂

 不動堂は附(つけたり)の須弥壇とともに江戸初期の様式をとどめている。本尊は室町初期の木造不動明王・二童子立像で、不動明王と二童子像は別の作者が作っていると考えられている。

 

 不動堂から10分ほど進んでいくと、山頂の十三州大見晴台にでる。普段、あまり登山はしないが山頂に立つと気持ちが良い。

山頂からの景色

「高尾山頂」

十三州大見晴台

 「十三州大見晴台」の名前は令制国13か国を見渡せることから名づけられた。見渡せる十三州は以下のとおり。

 1.駿河 2.伊豆(1,2は現在の静岡県)、3.甲斐(現在の山梨県)、4.信濃(現在の長野県)、5.越後(現在の新潟県)、6.上野(現在の群馬県)、7.下野(現在の栃木県)、8.常陸(現在の茨城県)、9.上総 10.下総 11.安房(9~11は現在の千葉県)、12.相模(現在の神奈川県の一部)、13.武蔵(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)。

 相模、武蔵あたりはともかく、駿河や信濃、越後あたりは本当に見えるのか…?と思ってしまう。

 

 山頂まで歩いて少し疲れたので甘酒を飲んで休憩する。

 

 高尾山の山頂には三角点がある。「二等三角点 高尾山」だ。なお、小さい子供たちは椅子のように三角点に座っており、「大切にしましょう三角点」と思ってしまった。

二等三角点 高尾山

 

 山頂の自動販売機。天然水230円、ミニサイズの生茶190円、缶コーヒーも190円。運んでくる労力を考えれば仕方ないとはいえ、高い。

 

 さっきとは反対側から山頂の景色を見ると、うっすら富士山が見えた。

 

 今日は12月28日だったので、「大晦日元旦のお知らせ 高尾山頂が初日の出見物客で混雑した場合、山頂への入山規制を実施します」と書かれた看板が出ていた。やっぱり高尾山頂は初日の出を見に来る人多いのかな、まあ私は実家に帰省してるから行くことはないんだけど、と思いながら見ていた。

 

 やまびこ茶屋。現在時刻15時半前で暗くなる前に麓まで帰りたいな、と思ったので立ち寄らなかったが外観だけ写真を撮っておいた。

やまびこ茶屋

 なぜ立ち寄ったかというと、少し前まで「日々は過ぎれど飯うまし」というアニメを視聴しており、それの第3話で主人公たちが高尾山に向かい、山頂でごはんを食べたのだがその店のモデルがやまびこ茶屋だからである。

 

5.高尾登山電鉄ケーブルカー

 15時半頃に山頂をあとにし、高尾登山電鉄ケーブルカー 高尾山駅まで山を下りていく。

 途中に杉苗奉納石碑を見つけた。

杉苗奉納石碑

 高尾山では古来、人々が諸願成就の返礼として杉苗の奉納を行ってきた。奉納の証として山内のいたるところに建てられた石碑は人と山とが持続的に関わり、山を大切にしてきた証となっている。

 杉苗奉納板とともに石碑にも絹産業で栄えた群馬や埼玉の地名をみることができ、薬王院の信仰圏の拡がりや、絹産業と高尾山の深い関係を物語っている。

 

 山頂から30分くらいかけて山を下りると高尾登山電鉄ケーブルカー 高尾山駅に到着する。

 ここからケーブルカーに乗って麓まで下りていく。なおケーブルカーのなかは登山客がすし詰め状態になっていた。

高尾登山電鉄ケーブルカー 高尾山駅

ケーブルカー

 

 ケーブルカーは昭和2年(1927年)に営業が開始され、戦時中に一時休止するも昭和24年(1949年)に復活した。

 昭和43年(1968年)に全自動制御の近代的ケーブルカーに生まれ変わり、高尾山を訪れる多くの人たちの足となっている。

 最も急なところは31度18分の勾配となっており、これはケーブルカーの線路では日本一の急勾配となっている。

 

 高尾登山電鉄ケーブルカーの清滝駅に到着した。その近くで先ほど見つけたカラーマンホールの色違いを見つける。

清滝駅

 

 清滝駅から5分くらい歩くと高尾山口駅に到着する。

高尾山口駅

 

 登山の後といえば…温泉である。「京王電鉄さん、わかってるなぁ!」と思うのが、高尾山口駅には温泉が併設されていることである。

 それがこちら、「京王高尾山温泉 極楽湯」。

京王高尾山温泉 極楽湯

 温泉の泉質はアルカリ性単純温泉で、筋肉痛や疲労回復に効くらしい。私も登山して足が疲れていたので温泉が気持ちよかった。

 サウナや水風呂の加減もちょうどよく、ここは高尾山に登らなくても高尾山口駅に来ればいつでも行けるためぜひまた入りに来たいと思った。

 温泉の後といえば…ビールよね!ということでビールとカキフライ定食で夕飯とした。

 

 高橋家のとろろそばは美味しかった。高尾山さる園・野草園ではニホンザルの生態に関して知ることができた。「ニホンザルにバナナを与えるのは適切ではない」というのは初めて知ったが、理由を聞けば納得した。

 高尾山薬王院有喜寺は香華の絶えない寺院だったが、大本堂をはじめ飯縄権現堂や不動堂も歴史の感じられる建物でとても良かった。 高尾山頂に立ち、まちを見下ろすのはとても気分がよかった。リフトとケーブルカー、どちらも楽しむことができたし、シメの京王高尾山温泉 極楽湯も気持ちがよかった。

 「高尾山、行ったことないけど一人で行って遭難しないのか、楽しめるのか」は少し不安があったが、全然楽しめたし昼間に1号路を歩く分には登山客が大勢通るため遭難の心配もない印象を受けた。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2025年12月28日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

東京都歴史教育研究会(2021) 「東京都の歴史散歩 下 多摩・島嶼」 山川出版社

関東三十六不動霊場会(2017) 「関東三十六不動霊場ガイドブック」

日本マンホール蓋学会 八王子市のマンホール

https://we-love-manho.com/toukyou/hatiouji/hatiouji.html

高尾通信 高尾山の名物 とろろそばの秘密

https://www.takaopress.net/mame3-21.html

高尾通信 高尾山の観光ガイド

https://www.takaopress.net/ashi.html

高尾登山電鉄 東京三福だんご

https://www.takaotozan.co.jp/miyage/detail.php?q=miyage49f6b6f64b1cf

高尾登山電鉄 ケーブルカーの構造と歴史

https://www.takaotozan.co.jp/timeprice/cable.html

(2026年2月7日最終閲覧)

坂東三十三観音をめぐる 4.厚木編

 前回、第5番札所・勝福寺に参拝しつつ小田原をめぐった。今回は第6番札所・長谷寺に参拝しつつ厚木をぶらぶらしようと思う。どちらも本厚木駅から遠いのでバスを使うが、長谷寺の仁王像御朱印と、あつぎ郷土博物館が素晴らしかった。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.長谷寺

 今日は本厚木駅から出発だ。

本厚木駅

 

 本厚木駅からバスに乗り換え、飯山観音前バス停で降りる。そこから歩いて15分ほどで長谷寺に着く。長谷寺に着くと仁王門がある。

仁王門

 

 仁王門の捨身飼虎(しゃしんしこ)はお釈迦様の前世の物語のひとつで、薩埵王子(さったおうじ・お釈迦様の前世)が飢えた虎の親子と出会い我が身を投げ出して食べさせ、虎の母子を救う話である。自己犠牲の極みを感じる。

捨身飼虎

 

 仁王像は宝永6年(1709年)、飯山村の安西金左衛門が願主となり造立された金剛力士像(仁王像)で、慶派仏師が作ったとされている。

 江戸時代中期に造られたにしてはなかなか綺麗な仁王像だが、これは令和2年(2020年)に仁王門の大規模改修を行った際にお化粧直ししたそうだ。

 

 飯山観音イヌマキ室町時代末期頃に多くの巡礼者の無事や、参拝者の長寿を祈願して植樹されたと伝えられている古木で、樹齢は約400年だそうだ。

飯山観音イヌマキ

 

 長谷寺の本堂に参拝する。

長谷寺

 寺の縁起については奈良時代神亀2年(725年)に行基が霊水伝説にかかわり創建したと伝えられ、永延2年(988年)には坂東巡礼札所第6番となったといわれている。

 本堂は江戸中期の建物で、堂内には鎌倉期の諸仏像がまつられている。本尊の木造十一面観音像は、クスノキの一木造である十一面観音像の胎内仏となっている。この胎内仏は内陣の厨子に安置され秘仏とされている。

 

 本堂の前にでかい木柱があるがこれは回向柱で、本尊の木造十一面観音像と手綱でつながっており、回向柱に触れることで観音像とのご縁をいただけるらしい。

回向柱

 

 本堂内は撮影禁止のため写真はないが、本堂に上がって祀られている仏様を拝むことができる。

 参拝後は御朱印をいただく。まず、散華をいただく。これは令和8年(2026年)午歳特別結縁巡礼の記念授与品である。ちなみに100円。

散華

 

 次に、仁王像の記念御朱印。令和2年(2020年)の修復で仁王像は綺麗になって戻ってきたので、その記念の御朱印である。専用クリアファイル付き。

仁王像の記念御朱印

 

 「丹沢三山 桜の名所」とあつぎ大黒天の御朱印

 長谷寺といえば、サクラで有名である。3月から4月にかけての春には、長谷寺付近にある白山自然公園全域にソメイヨシノヤマザクラなど約3,000本のサクラが咲き乱れ、同時期に開催される「あつぎ飯山桜まつり」では多くの花見客でにぎわうそうだ。今度は桜の時期に訪れてみたい。

 ちなみに丹沢三山の御朱印、ほかの場所は日向薬師ヒガンバナと大山寺のモミジとのこと。大山寺はこの前行ったし、日向薬師は行く機会あるかな…といったところである。

 大山寺の記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

 「あつぎ大黒天」は本堂のなかにいらっしゃる大黒天の御朱印である。

 

 そして、坂東三十三観音御朱印がこちらになる。

坂東三十三観音 御朱印

 

2.洋食Restaurant ロッキー

 現在時刻11:10過ぎ。飯山観音前バス停からのバスが11:26に来る予定で、それを逃すと12:06までないので少し駆け足でバス停まで戻る。

 バス停からバスに乗り、一旦本厚木駅に戻る。昼食をとろうと思っているお店に行く道中で厚木市のマンホールを見つけた。

厚木市マンホール

 このデザイン蓋は、厚木市の木「もみじ」をモチーフにしている。厚木市章はあつぎの3字と鮎3尾をもって「あ」の字型を図案化し、厚木市民の和合と発展を象徴している。

 

 洋食Restaurant ロッキー。人気店なので30分待った。

洋食Restaurant ロッキー

 

 本日の日替わりランチ「チーズホイルハンバーグとチキンのクリーム煮」を注文。なおこれでライス、スープ、ドリンクもついて990円だから安い。しかも美味しいので行列ができているわけもわかる。

チーズホイルハンバーグとチキンのクリーム煮

 

3.あつぎ郷土資料館「あつぎの風土を望む」

 本厚木駅に向かっている途中で別のマンホールを見つけた。

 このマンホールのデザインコンセプトは相模川で開催される厚木市の夏の風物詩「あつぎ鮎まつり」の花火と鮎、かながわの橋100選にも選ばれた県立七沢森林公園内にかかる「森のかけはし」の3つだ。

 

 本厚木駅のミロードでしばし時間をつぶし、14時発のバスであつぎ郷土博物館に到着した。

あつぎ郷土博物館

 

 あつぎ郷土博物館ではマンホールカードの配布を行っていたためいただいた。

 

 「市制70周年記念展示ー毛利家と共にー」が展示されていたが、この展示は撮影禁止だった。

 毛利氏は、武家華族だった日本の氏族。家祖は毛利季光で、現在まで毛利氏は続いている。

 毛利氏といえば戦国大名毛利元就長州藩主として長門国周防国を治めていたことが有名である。「長門・周防は山口県だし、なぜ厚木でこの展示が?」と思ったが毛利氏の発祥の地がここ、厚木だかららしい。

 

 常設展示室の前にトリケラトプスの化石が展示されていた。トリケラトプス北米大陸に生息した植物食恐竜の一属。

トリケラトプスの化石

 

 常設展示室「あつぎの風土を望む」に入る。

 約700万年前の地層・愛川層群から二枚貝類のカネハラニシキ化石が中津山地から飯山白山にかけて見つかるらしく、展示されていた。

カネハラニシキ化石

 

 約300万年前、まだ丹沢山地奥多摩山地が高くなく、東京湾相模湾が北のほうまで入ってきていた。このあと伊豆半島ブロックが丹沢に衝突する。

 すると丹沢をはじめ関東地方が持ち上がり、高くなった山地からはどんどん石や砂が川により海に運ばれて浅くなり、関東平野ができていく。

 衝突した伊豆半島の東側の海には深い海底峡谷の相模トラフがあり相模湾ができる。このような大地の成長、この頃は厚木のほうも海だったことを棚沢貝殻坂化石は教えてくれる。

棚沢貝殻坂化石

 

4.あつぎ郷土博物館「あつぎの大地から」

 「あつぎの大地から」のコーナーに入る。

 1万年以上という長い期間続いた縄文時代は、土器の型式的変化を時期区分の指標として、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分されている。それぞれの時期で特徴的な縄文土器が作られ、土器の形や文様などには各時期の文化的様相が反映されている。

縄文土器

 

 厚木市内の遺跡からは、他地域の影響を受けた弥生土器が出土している。特に東海地方(静岡県西部~愛知県東部)を中心に分布する土器と非常によく似た土器が数多く出土しており、これらの地域との間にヒトやモノの密接なネットワークがあったと考えられている。

弥生土器

 

 古墳は地域の有力者である豪族が、権力の象徴として造ったお墓と考えられている。古墳には死者とともに装飾品や武器などが副葬され、墳丘上に埴輪や土器が置かれるものがある。

壺形埴輪など

 

 「あつぎの原風景を訪ねる」のコーナーに入る。

 倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)。源順が撰述した漢和辞典で、承平年間(931~938年)に成立した。愛甲郡は玉川・英那(あきな)・印山(いやま)・船田(ふなきた)・六座(むつくら)・餘戸(あまるべ)の六郷に分かれていると記載されている。

倭名類聚抄

 

5.あつぎ郷土博物館「中世のあつぎー愛甲武士団の盛衰ー」

 「中世のあつぎー愛甲武士団の盛衰ー」に入る。

 後三年合戦之絵。奥羽の豪族・清原氏の内乱、後三年の役を描いた絵巻物の写本。内乱を終結させた源義家は私財で参加した将兵をねぎらい、この戦を境に源氏は東国に確固たる基盤を築いた。

後三年合戦之絵

 

 夢窓疎石書状。夢窓疎石が祟寿寺領相模国厚木郷のことについて、足利幕府の執事・高師直足利尊氏兄弟への取次を頼んだ書状である。

夢窓疎石書状

 

 荻野山中藩高札。明治政府の太政官が建てた五榜の掲示の第一札で、左下に「荻野山中藩知事」とある。

荻野山中藩高札

 

 「自由」の文字が書かれた辰巳屋の岡持。出前料理を持ち運ぶためのけんどん式の道具で、自由民権運動に参加した難波清太郎は大山道沿いの荻野新宿で旅籠「辰巳屋」を営んでいた。

「自由」の文字が書かれた辰巳屋の岡持

 

 「あつぎのひと、くらしに出会う」のコーナーに入る。

 相模里神楽衣装。神楽とは祭礼時の神聖な奉納舞。里神楽古事記日本書紀など日本神話をテーマに仮面をつけて演じる無言劇で、神代神楽とも呼ばれる。江戸を中心に洗練されてから相模地方に伝えられたと考えられている。

相模里神楽衣装

 

 相模人形芝居。相模人形芝居は神奈川県を代表する民俗芸能のひとつで、江戸時代から明治にかけて神奈川県内に15か所あった人形芝居のうち6か所は厚木市内にあった。

相模人形芝居

 

 タイコマブシ、養蚕暖炉、クワコキ等、養蚕道具。「繭の山から厚木が明けりゃ」と厚木音頭に歌われるほど近代の養蚕の隆盛は目覚ましく、厚木には繭検定所、乾燥所、蚕病研究所など多くの養蚕関連施設が設置された。

養蚕道具

 

6.あつぎ郷土博物館「あつぎの環境と生き物を探る」

 「あつぎの環境と生き物を探る」のコーナーに入る。

 厚木の里山には現在までに約2,600種類の生き物が生息することが判明している。

 早春のギフチョウの飛翔、コナラの芽吹きにはじまり、ニホンアカガエルホトケドジョウサシバ、キンラン、ギンランなど人の手が入った自然をよりどころにした生き物が見られる。

タヌキとキツネ

 

 アライグマ。北アメリカ原産で、ペットとして飼育されていたものの飼育しきれなくなった個体が野外に放たれたため全国に広がってしまった特定外来生物

アライグマ

 

 「石器に触ってみよう」のコーナー。縄文時代の人々は石を打ち欠いたり磨いたりして、さまざまな道具を作り使用していた。これが石器である。

石器

 

 ニホンジカのツノにも触ることができる。これはオス同士がなわばり争いで使う。とがっていて硬いのでけがをしそうだが、枝分かれしているのでツノを組む形となり、相手に傷を負わせることは少ないらしい。

ニホンジカのツノ

 

 檜谷薬師の薬師如来坐像と月光像、日光像。これは上荻野檜谷講中から寄贈されたものらしい。

檜谷薬師の薬師如来坐像と月光像、日光像

 

 「あつぎ郷土博物館」のスタンプを押して帰ることにした。スタンプのキャラクターは「あゆコロちゃん」で、厚木のご当地グルメのシロコロホルモンのブタと名産品のアユがコラボしたキャラクターである。

 

 下川入バス停に向かう途中で相模川流域下水道のマンホールを見つけた。これの中央にデザインされているのが神奈川県章で、神奈川の「神」を図案化したもの。

相模川流域下水道のマンホール

 

 下川入バス停からバスに乗り、本厚木駅に戻ってきた。ここから帰路についた。

本厚木駅

 

 飯山観音前バス停から大量の人がバスから降りていったのでもしかして長谷寺は人気観光地なのか?と思っていたらそんなことはなく、長谷寺はしっとりとしたお寺だった。あと仁王像の限定御朱印のデザインが良い。

 洋食Restaurant ロッキーは30分待ったが美味しかった。いろいろ出てきて990円だったので、人気の訳もわかる。

 あつぎ郷土博物館は、少し駅から遠いのとバスの本数があまり多くない(1時間に1本ほど)なのがネックだが、無料でたくさんの展示を見て厚木市について知ることができるのでおすすめの博物館である。

 私の知らない神奈川が、まだまだありそうだ。

位置情報マップ

歩いた日:2026年1月31日

【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

飯山観音長谷寺

https://www.iiyamakannon.com/

厚木市 市章・市の木・市の花

https://www.city.atsugi.kanagawa.jp/soshiki/kikakuseisakuka/9/6742.html

全国知事会 神奈川県のシンボル

https://www.nga.gr.jp/pref_info/symbol/kanagawa.html

(2026年2月1日最終閲覧)

坂東三十三観音をめぐる 3.小田原編

 前回、第2番札所・岩殿寺、第3番札所・安養院、第4番札所・長谷寺に参拝しつつ鎌倉をめぐった。今回は第5番札所・勝福寺に参拝しつつ小田原をぶらぶらしようと思う。神奈川県立生命の星・地球博物館は展示が充実していて、おすすめだ。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.勝福寺

 今日は小田原駅から出発だ。

小田原駅

 

 小田原駅からバスに乗り換え、飯泉観音バス停で降りる。勝福寺に参拝する前に小田原市のマンホールを見る。

小田原市のマンホール

 

 このマンホールは歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」のうち「小田原・酒匂川」をモチーフに制作されている。

 江戸時代の酒匂川には橋がなく、特に増水期は旅人にとって大変な難所だった。

 右下のふんどし姿の人影は当時、旅人や荷物を担いで渡った「一足」と呼ばれる労働者たちだ。

 背景にあるのは酒匂川から望む「小田原城」と「箱根連山」、そして奥にそびえる「霊峰富士」。

 

 公共基準点には小田原市章がデザインされている。

 小田原市章は波頭で梅花を表している。

 

 飯泉観音バス停からすぐのところに勝福寺がある。

勝福寺 本堂

 勝福寺(飯泉観音)は坂東三十三観音第5番札所である。

 奈良時代末、鑑真が孝謙天皇に献上した観音を道鏡がもらい千代台に弓削寺をたて安置したのに始まり、本尊のお告げでここに移ったと伝わる。

 勝福寺の本堂は宝永3年(1706年)に再建された、江戸時代初期の様式をとどめる密教寺院独特の建物である。

 本堂にあがると内陣との間には飛天の浮彫りがあり、前立ちの観音の後ろにある厨子秘仏である十一面観音立像がおさめられている。十一面観音立像は檀像の一木造で、平安初期の地方仏師による作とされる。

 

 勝福寺の仁王門は「飯泉誌」によると宝暦8年(1758年)に造営されたもので、全体に木割が太く二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた)式の妻架構(つまかこう)が堂々とした外観を構成する。

勝福寺 仁王門

 この仁王門も老朽化のため、昭和34年(1959年)から昭和38年(1963年)までにかけ解体修理され、屋根が茅葺から銅板葺に変更されているが原形をよく留めている。

 

 仁王門をくぐると鐘楼がある。

鐘楼

 鐘楼の銅鐘は青銅製の和鐘で銘文により、江戸時代初期の寛永6年(1629年)に地元小田原の鋳物師である青木源右衛門が作ったことが判明している。

 またこの銅鐘の奉納者は、江戸の侍である佐須弥左衛門尉政重と記されている。

 小田原の鋳物業は戦国時代に北条氏から庇護を受け、関東鋳物業の中心であった。

 江戸時代になってからも鋳物は栄え、山田、長谷川、青木の諸家から名工が生まれ小田原の梵鐘として広く知られてきた。

 

 鐘楼の反対側にはかつて乳銀杏(ちちいちょう)とよんで、乳のでない女性が願をかけたという大銀杏がある。

勝福寺の大銀杏

 

 勝福寺の裏には飯泉地区の鎮守である八幡神社があるが、寺院と神社との間には境界はなく同一境内にあるような現況で、神仏習合時代の面影を今に残している。

 境内にはケヤキ、ムクノキ、イチョウ、エノキなどの落葉高木を主に、クスノキ、カヤ、イヌマキなどの常緑の高木が生育し、勝福寺の森と八幡神社の森が一体となってみごとな樹叢ができている。

 

 勝福寺で御朱印をいただいた。

 

2.神奈川県立生命の星・地球博物館 地球の仕組

 勝福寺から小田原駅に戻り、「海鮮茶屋 魚國」で海鮮丼をいただいた。

 

 小田原駅から箱根登山電車に乗り、入生田駅で降りてすぐのところに神奈川県立生命の星・地球博物館がある。

神奈川県立生命の星・地球博物館

 神奈川県立生命の星・地球博物館は自然科学系の博物館で、地球及び生命の営みに関する資料の収集、保管および展示並びにこれに関する調査研究、情報提供等を行い神奈川県民の学習活動を支援することを目的に神奈川県が設置・運営を行っている。

 

 トゥプクスアラは白亜紀前期に生息していた翼指竜亜目の翼竜だ。

トゥプクスアラ

 

 宙瞰図は宇宙からのデータを使った宇宙的高さからの鳥観図である。

宙瞰図

 

 「地球を考える 固体地球の営み」のコーナーに入る。

 カンポ・デル・シエロ隕石とオデッサ隕石。

 カンポ・デル・シエロ隕石はアルゼンチン共和国北部のチャコ州で天正4年(1576年)に発見された。

 オデッサ隕石はアメリカ合衆国南部のテキサス州大正11年(1922年)に発見された。重さは15kg。

カンポ・デル・シエロ隕石とオデッサ隕石

 

 「地球の仕組」というコーナーに入る。

 岩石のなかの空洞に紫水晶(石英)などの鉱物が密集して結晶している。この紫水晶(石英)はブラジルのパルメイラ・ダス・ミソエスで発見された。

紫水晶(石英)

 

 菱マンガン鉱とひすい輝石、リチア電気石。菱マンガン鉱はマンガンの炭酸塩鉱物で、青森県西目屋村でとれたもの。ひすい輝石は深緑の不透明~半透明な宝石で、新潟県糸魚川市が有名だがこれもそこでとれたもの。リチア電気石はナトリウム、リチウム、アルミニウム、ホウ化ケイ素を含む鉱物の一種で、これはブラジルからやってきた。

マンガン鉱とひすい輝石、リチア電気石

 

 岩手県、ドミニカ、リトアニアからやってきた琥珀琥珀は天然樹脂の化石・宝石だ。

琥珀

 

3.神奈川県立生命の星・地球博物館 生命を考える 地球生命の営み

 「生命が変えていく地球」のコーナーに入る。

 ストロマトライトはシアノバクテリアが砂粒などを取り込んでつくった岩石で、これは27億年前のものから現在のものまで発見されている。

ストロマトライト

 

 スフェノディスクス・レンティクラリスは角竜目アンモナイトの絶滅した属で、このアンモナイトの表面は虹色にかがやく鉱物に置き換わった。

スフェノディスクス・レンティクラリス

 

 アンモナイト古生代シルル紀末期から中生代白亜紀末までのおよそ3億5,000万年前後の間を海洋に広く分布し繁栄した頭足類で、アンモナイトだらけの壁があった。

アンモナイトの壁

 

 「生命を考える 地球生命の営み」のコーナーに入る。

 珪化木は木材が長く地層中に埋もれている間に、組織が二酸化珪素で置き換えられた植物化石のことである。

珪化木

 

 上にいるのは…サメ?

 

 ティラノサウルス・レックスは陸上で最大級の肉食動物で全長はおよそ12mあり、大きな頭と丈夫な後ろ足や尾をもつ。

ティラノサウルス・レックス

 

 ゴンフォテリウムは中新世に生息した長鼻類の動物で、長鼻類はアジアゾウをはじめとするゾウが属している。

ゴンフォテリウム

 

 コロンビアマンモスは哺乳類長鼻目ゾウ科マンモス属の一種で、マンモス属でも最後に出現した種だった。

コロンビアマンモス

 

 カモノハシとハリモグラの標本。カモノハシとハリモグラは、卵を産むことや骨格などの特徴が爬虫類によく似ている。しかしふ化した子供は母親のおなかからでる乳を飲んで育ち、からだの表面が毛でおおわれているので哺乳類である。

カモノハシとハリモグラの標本

 

 ノウサギココノオビアルマジロの標本。ウサギの仲間には、上あごに4本、下あごに2本の切歯(前歯)がある。ナマケモノ類やアルマジロ類の歯は発達が悪く単純なつくりで、一生伸び続ける。

ノウサギココノオビアルマジロの標本

 

 ライオンやホッキョクグマの標本。食肉目はネコ科をはじめ、イヌ科、クマ科、アライグマ科、イタチ科、ジャコウネコ科、ハイエナ科を含む。

ライオンやホッキョクグマの標本

 

 インドサイの標本。奇蹄目は奇数のひづめをもつ有蹄類で、1本指のひづめをもつウマ科と3本指のひづめをもつバク科やサイ科がこの仲間だ。

インドサイの標本

 

 オランウータンニホンザルの標本。豊かな森林を哺乳類として本格的に利用することができたのはサルのなかま(霊長類)である。

オランウータンニホンザルの標本

 

 チンパンジーの標本。類人猿の一種であるチンパンジーは、その行動が知的で複雑な社会をつくるなど、人間にとても近い特徴をもっている。なかでもおもしろいのはシロアリつり・アリつり、掘り棒使用、木の実割りなどの道具を使う行動だ。

チンパンジーの標本

 

 昆虫標本が並んでいる。昆虫は世界に現在95万種確認されているが、今後調査が進むと数百万種以上にのぼるといわれている。

 シタムラサキオオバッタは昆虫綱バッタ目バッタ亜目バッタ科で、フランス領ギアナに生息している。

シタムラサキオオバッタの標本

 

 キプリスモルフォはモルフォチョウの仲間で、白帯が特徴の非常に美しい大型のチョウである。

キプリスモルフォの標本

 

 センターはパラワンキシタアゲハ、取り囲んでいるのはオナシアオジャコウアゲハ。どちらもチョウ目アゲハチョウ科の昆虫だ。

 

4.神奈川県立生命の星・地球博物館 神奈川の自然を考える

 「神奈川の自然を考える」のコーナーに入る。

 これは晶質石灰岩(大理石)。晶質石灰岩石灰岩がマグマなどの熱で変成作用を受けて方解石(炭酸カルシウム)の結晶が大きく再結晶した、きらきら光る緻密な変成岩だ。

晶質石灰岩(大理石)

 

 アケボノゾウ(レプリカ)。アケボノゾウは250万年前~70万年前に生息していた古代ゾウで、関東から九州北部まで日本の各地で化石が発見されている。

アケボノゾウ(レプリカ)

 

 ホタテガイの化石。新生代第四紀更新世前期(約200~100万年前)に生息していて、東京都日野市で見つかったらしい。

ホタテガイの化石

 

 メダカラガイはタカラガイ科に属する巻貝で、日本で最も普通に見られるタカラガイの一種。

メダカラガイ

 

 ハナマルユキダカラガイは吸腔目タカラガイ科に分類されるタカラガイの一種。並べ方がスイミーに見える。

ハナマルユキダカラガイ

 

 高山植物の展示があった。オヤマノエンドウ、ミヤマシオガマ、チョウノスケソウ。オヤマノエンドウはマメ科オヤマノエンドウ属の多年草で茎が木化して半低木になる。ミヤマシオガマはシオガマギク属の多年草高山植物。チョウノスケソウは北半球の極地および高山に生育する常緑小低木で、バラ科に属する。

オヤマノエンドウ、ミヤマシオガマ、チョウノスケソウ

 

 日本のブナ帯に生育しているヒメシャラやナベワリなどとよく似た種類が、北アメリカ東岸に離れて分布している。

 これは新生代第三紀に北半球を広くおおっていた植物の子孫が、この2つの地域に生き残ったものと考えられる。このように日本のブナ林には、氷期を生き抜いた古いタイプの植物が多く見られる。

ルイヨウボタン、ヤマボウシ、ナベワリ

 

 ツツジ属のオオシマツツジはおしべのやくの先に穴があき、花粉を飛び散らせる。一方ハコネコメツツジでは、やくが縦にさけて花粉を飛び散らせる。コウズシマヤマツツジではやくが斜めに切れ、両者の中間になっている。

オオシマツツジ、コウズシマヤマツツジ

 

 展示を見ていると1階の展示の様子が見えた。ケツァルコアトルスマッコウクジラコククジラたちが飛んでいる。

 

 タイワンリスは動物園などに導入された個体が逸出し、日本各地に定着した。神奈川県内では藤沢市鎌倉市横浜市南部などで増えている。そういえば鎌倉で以前タイワンリスを見たことがある。

タイワンリス

 

5.神奈川県立生命の星・地球博物館 自然との共生を考える

 「自然との共生を考える」のコーナーに入る。

 地球圏システムについての展示があった。

 生き物のあいだの食物連鎖は植物が光合成によってつくった有機物を通して行われる「エネルギーの流れ」であり、それは太陽エネルギーによって支えられている。

地球圏システム

 

 「もっとも詳細なDEMによる関東地方南部の地形」という地図が展示されていたので写真を撮ってしまった。

 この図は、陸上は「基盤地図情報(標高)5mメッシュ」、海底は「東北沖の海底地形データ」というデジタル地形モデル(DEM)を基に作成している。

「もっとも詳細なDEMによる関東地方南部の地形」

 

 2階から1階の展示が見える。地質の壁を2階から見ると壮観だ。

 

 最後に「ジャンボブック」という展示があるが、閉館時間が迫っていたので駆け足で見ることになってしまった。

 

 アンモナイトの展示。アンモナイト中生代白亜紀末までの間に分布し繁栄した頭足類で、平らな巻き貝のような形をした殻を持っているのが特徴である。

アンモナイト

 

 メッセル化石動物群。ドイツ・ヘッセン州にメッセル採掘場という場所があり、ここからは大量の化石が発見されたことからユネスコ世界遺産に登録されている。

メッセル化石動物群

 

 神奈川の淡水魚。淡水魚とは淡水で生活する魚類のことで、ヤマメ、アユ、オイカワなどが展示されている。

神奈川の淡水魚

 

 閉館のアナウンスが聞こえてきたので、後ろ髪をひかれつつも神奈川県立生命の星・地球博物館をあとにして、入生田駅から帰ることにした。

入生田駅

 勝福寺は観光客でごった返していた前回札所・長谷寺と比べしっとりとした寺院だった。ただ駅から遠い&バスの本数も多くないのでそこのところはチェックしてから行かれることをおすすめしたい。

 神奈川県立生命の星・地球博物館は520円で大量の自然科学系展示を見られるのでおすすめである。いつか行ってみたい博物館だと思っていたが、情報の多さに圧倒された。

 ところで「小田原に行ったんだし、小田原城に行かないの?」と思った人もいるかもしれないが、これに関しては「以前行って、ブログ化もしていてまた行っても面白くないから」という理由で取り上げなかった。小田原城についてのブログを読みたい人は、以下の記事を参照してほしい。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 私の知らない神奈川が、まだまだありそうだ。

位置情報マップ

歩いた日:2025年11月24日

 

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

小田原市 小田原のマンホールカードをゲットしよう!!

https://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/c-planning/sewer/topics/p24794.html

小田原市 東海道五十三次・小田原・酒匂川(保永堂)大錦横絵(初摺)

https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/ukiyoe/04/04-01d.html

(2026年1月25日最終閲覧)

東海道を歩く 49.追分駅~墨染駅

 前回、大津駅から三条大橋まで歩いた。今回は追分駅から墨染駅まで歩こうと思う。前回で京都・三条大橋に到着したが、一旦旧東海道追分まで戻り、そこから大坂・高麗橋を目指し、あと少しだけ歩いていこう。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.大宅一里塚

 今日は追分駅から出発だ。

追分駅

 

 旧東海道追分から、南西方向に向かう。旧東海道追分について知りたい方は、前回記事「東海道を歩く 48.大津駅三条大橋 4.旧東海道追分」を参照してほしい。

旧東海道追分

 

 「牛尾山道」という道標がある。牛尾山とは?と思い調べたらこの近くに牛尾山という山があるらしい。

「牛尾山道」

 

 追分駅を出て30分程度だが、マクドナルド1号線山科店を見つけたので早めの昼食を済ませる。

 

 「みぎ うじみち ひだり おゝつみち」

 

 「愛宕山」の燈籠…京都・愛宕山信仰だろうか?

 

 マクドナルド1号線山科店から30分ほど歩いたところに大宅一里塚がある。

大宅一里塚

 一里塚は街道の両側に一里(約4km)ごとに土を塚状に盛った目印で、現在の道路標識にあたるもの。

 一里塚の制は桃山時代以前にもあったと考えられるが、慶長9年(1604年)に徳川家康が諸街道の修理とともに一里塚築造を命じたことが「徳川実記」などの文献に見られる。

 江戸時代に有用であった一里塚も近代に入り交通形態の変遷とともに存在価値が薄れ、道路の拡幅や開発などによって数多くの塚が取り除かれることとなった。

 京都市内にあった一里塚も近年次々と姿を消しこの塚も街道の東側が取り除かれ、西側にあったこの塚のみが現存している。

 京都市内にあった一里塚のほとんどが消滅したなかにあって、この一里塚は江戸時代の交通関連の遺構として価値が高く、当時の交通形態を知る上で大変貴重なものとして昭和60年(1985年)6月1日に京都市の史跡として登録された。

 

 大宅一里塚から15分ほど歩いたところに葛籠尻の小町カヤがある。

葛籠尻の小町カヤ

 平安時代深草少将が小野小町のもとに百夜通うことを誓ったという百夜通い(ももよがよい)伝説があるカヤの古木である。

 小野小町はカヤの実を糸に綴ってその日を数えていたが、最後の一夜を前に深草少将がこの世を去ったので少将の菩提を弔うため、小町は小野の里にそのカヤの実を播いた、という話である。

 百夜通えずにこの夜を去った深草少将…これは悲恋ということでよいのだろうか。

 

2.勧修寺

 葛籠尻の小町カヤから20分ほど歩いたところに勧修寺がある。

勧修寺

 醍醐天皇が生母・藤原胤子の追善のため、胤子の外祖父・宮道彌益の邸宅跡を昌泰3年(900年)、右大臣・藤原定方(胤子の同母兄弟)に命じて寺に改めたのが勧修寺である。

 延喜5年(905年)に定額寺に列せられ、天慶5年(942年)に敦真親王(あつざねしんのう)の子・雅慶大僧正(がけいだいそうじょう)が入寺してからは、皇室からの入寺があいついだ。後伏見天皇の皇子・寛胤親王(ひろたねしんのう)からは門跡寺院となり、おおいに栄えた。

 応仁・文明の乱で焼亡し、豊臣秀吉伏見街道設置(のちの東海道)で寺地も削られた。

 その復興は天和2年(1682年)の霊元天皇皇子・済深法親王(さいしんほっしんのう)の入寺(この背景には小倉事件とよばれる皇位をめぐる事件が存在)まで待たされ、東大寺大仏殿再建の功による寺領の加増や明正天皇旧殿の下賜などを受け、伽藍が再整備された。

 拝観料を払い、なかに入ると宸殿がある。

宸殿

 宸殿は元禄10年(1697年)1月に明正天皇の御殿を下賜されたもので江戸時代初期の建物が残っている。

 

 「君が代」で有名なさざれ石があった。さざれ石とは小さな石が長い年月をかけて溶けて固まり、大きな石になったものである。

さざれ石

 

 偃柏槙(はいびゃくしん)はひのき科の植物で一面一本の木、この木の樹齢は750年といわれ京都市の巨樹名木のひとつに数えられている。

偃柏槙

 

 勧修寺燈籠は水戸黄門が寄進したと伝えられ、京都へ来たら必ず見て通ろう(燈籠・とうろうとかけている?)と言われる燈籠だ。

勧修寺燈籠

 

 千年杉は前方100mにあるそうだが…真ん中の大きい木がそうだろうか。

千年杉

 

 観音堂昭和6年(1931年)に再建された。

観音堂

 

 勧修寺には庭園がある。

勧修寺庭園

 勧修寺庭園は平安時代以来と伝える氷室池を中心とする池庭と、貞享3年(1686年)に後西院旧殿を賜って建てられたという書院の南に広がる平庭の2つの部分からなる。

 氷室池はかつて南へ更に広がっていたが、豊臣秀吉伏見城築城の際に新道建設のため埋められ、現在の大きさになった。

 昭和63年(1988年)5月2日、京都市文化財保護条例により京都市指定名勝とされた。

 

 「この先カレエダ落下お立入りキケンです この先行かれるのはご自由ですが大いに危険」

 行くなとは言ってないが、限りなく「行くな」に近いので行かない。

 

 山桃の老木の主幹は落雷によって二分されたと伝えられ、樹齢は350年ほどらしい。

山桃の老木

 

 勧修寺で御朱印をいただいた。門跡寺院だったので、判子が菊の御紋だ。

 

3.藤森神社

 勧修寺の裏に宮道(みやじ)神社がある。

宮道神社

 宮道神社宇治郡を本拠とした氏族・宮道氏の祖神・日本武尊(やまとたけるのみこと)、その子・稚武王を祭神として寛平10年(898年)に創建された。

 平安時代初期、宇治郡司・宮道弥益は醍醐天皇の生母・藤原胤子の祖父でその邸を寺としたのが勧修寺である。

 後世、宮道弥益・列子をはじめ藤原高藤(藤原胤子の父)・定方・藤原胤子等、勧修寺ゆかりの人々が合祀された。

 藤原高藤の後裔は勧修寺流藤原氏として朝廷で重要な位置を占め、また宮道氏は武家・寺家蜷川氏としてともに繁栄、活躍した。

 本殿は明治23年(1890年)に再建されたもの。

 

 宮道神社から20分ほど行ったところには醍醐天皇御母小野陵がある。これは藤原胤子の墓である。

醍醐天皇御母小野陵

 

 醍醐天皇御母小野陵から40分くらい歩いたところに仁明天皇陵がある。

仁明天皇

 仁明天皇嵯峨天皇の皇子で叔父・淳和天皇の皇太子として即位し、承和の変(842年)で皇太子・恒貞親王(淳和天皇皇子)を廃して、自分の皇子(のちの文徳天皇)を皇太子とした天皇である。

 

 仁明天皇陵から25分くらい歩くと藤森神社に到着する。

藤森神社

 藤森神社は素戔嗚尊(すさのおのみこと)や応神天皇神功皇后など計12柱を祭神とし社伝では神功皇后深草里藤森の地に纛旗(とうき)を立て、塚に兵具を納めまつったのが始まりという。

 もとは現在の伏見稲荷大社の社地にあったと伝え、稲荷社の創立にともなって現在地に移転したそうだ。

 そのためか今も伏見稲荷門前の町は藤森神社の氏子圏で、毎年5月の藤森祭には社地を返せとの掛け声がかけられたこともあるらしい。

 

 石造鳥居は正徳元年(1711年)の銘がある。

石造鳥居

 この鳥居には額がないが、むかし後水尾天皇が書いた額がかけてあった。しかも参勤交代の道筋にあたっていたので、大名は藤森神社を通るときに駕籠からおりて拝礼し槍などを倒して通行しなければならなかった。

 しかし幕末に入りこのような悠長な風習を守っているのは時代に即しないとして、新撰組近藤勇が額をはずしたといわれている。

 

 藤森神社の本殿に参拝する。

藤森神社 本殿

 

 藤森神社には入場無料の宝物殿がある。

宝物殿

 

 宝物殿は撮影不可だが一部だけ撮影できるスペースがあった。それは「京都刀剣御朱印めぐり」の御朱印コーナーと、刀剣乱舞「鶴丸」のコーナーである。

京都刀剣御朱印めぐり

刀剣乱舞「鶴丸

 刀剣乱舞とは日本刀を男性に擬人化したコンテンツで、藤森神社に一時奉納されていた日本刀「鶴丸」にちなんだキャラクターのグッズが展示されている。

 「鶴丸」とは平安時代の刀工・三条宗近の弟子である五条国永によって作刀され、北条家に伝来した後に織田信長、三枝勘兵衛が所持し、三枝勘兵衛が手放した後から伊達家に渡るまでの一時期、藤森神社の祭礼等において御神前に奉納されていたと伝えられる。

 享保頃には仙台藩主・伊達吉村の手に渡り、明治34年(1901年)に伊達家から明治天皇に献上され、現在は宮内庁が「皇室の名宝」として管理している。

 なお「鶴丸」の写しは展示されているが、撮影不可。

 

 藤森神社で御朱印をいただいた。

 

 藤森神社から10分ほどで墨染駅に着いたので、今日はここで終了だ。

墨染駅

 

 墨染駅から京都駅に戻り、一旦大津の宿に戻ってから京都駅へ、そこから竹田駅に向かい「伏見力の湯」で汗まみれの体を洗った。

伏見力の湯

 伏見力の湯は京都城陽温泉から運ばれてきたナトリウム-炭酸水素塩・塩化物温泉で、サウナ・水風呂・外気浴スペースも完備している。汗をかいた後の温泉は最高だ。

 

 伏見力の湯に入った後は京都駅に戻り、田ごと京都ポルタ店で鴨南蛮そばを食べた。

 

 次回は、墨染駅から淀駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

歩いた日:2025年7月20日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献】

京都府歴史遺産研究会(2011) 「京都府の歴史散歩 中」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第16集」

関東三十六不動をめぐる 6.川崎編②

 前回、第6番札所 等覚院に訪れながら川崎をめぐった。今回は第7番札所 川崎大師 不動堂に訪れながら川崎をぶらぶらしようと思う。川崎大師の境内を1時間以上かけてめぐり、徹底解剖してみた。2026年最初の更新、初詣の代わりにどうぞ!

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.川崎大師

 今日は川崎大師駅からスタートだ。

川崎大師駅

 

 駅から10分ほどのところに松月庵というお蕎麦屋さんがあり、そこで鴨南蛮そばを食べた。寒い冬は鴨南蛮そばに限る。

松月庵

鴨南蛮そば

 

 松月庵からすぐのところに明長寺がある。

明長寺

 明長寺は恵日山普門院と号し、江戸東叡山寛永寺の末寺である。御本尊の十一面観音立像は慈覚大師(円仁)の作と伝えられる。

 寺の創建は文明年間(1469~1487年)と伝えられているが、寛文9年(1669年)の落雷により堂宇・記録が焼失し、詳細な縁起は不明。

 天明2年(1782年)、7世住職・良逢によって現在の本堂が再建されてから発展した。

 

 明長寺をあとにし、川崎大師の参道に入る。参道を入ると大山門があり、その先に大本堂がある。

大山門

大本堂

 ここで川崎大師について紹介しよう。

 大治3年(1128年)漁夫の平間兼乗(ひらまかねのり)が夢のお告げにより、海中から弘法大師像(本尊)を拾いあげ、これを安置する堂を建立したのが始まりであると縁起は伝えるが、第二次世界大戦による戦災で記録類を失い実際の創建年代は不明である。

 また鳥羽天皇の皇后で、保元の乱(1156年)の原因ともなった美福門院の祈願所となり、鳥羽上皇より勅願寺の列に加えられたという。

 川崎大師が隆盛をきわめたのは江戸時代からで、将軍や御三卿などの支配階級の間にも帰依するものが多かった。

 このため御成門の造営をはじめ堂宇の整備がはかられ、古刹としての偉容を誇るようになった。

 境内におかれた大師道の道標は、寛文3年(1663年)に川崎宿の万年屋前におかれたもので、大師参詣者は六郷川を渡り川崎宿にはいるとこの道標によって大師道に導かれたのである。

 江戸市井の人々が川崎宿を経由して川崎大師へ詣でるかたちが、かなり浸透していたことが想像される。

 幕末期には、日本を訪れた外国人たちもこの庶民信仰の霊場を一目みようと立ち寄るものも多く、数多くの紀行文が残されている。

 

2.川崎大師 不動門

 清瀧権現堂の御本尊は如意輪観世音・准胝観世音(じゅんていかんぜおん)の2菩薩で、京都・醍醐寺清瀧権現の御分躰を勧請して安置した。

清瀧権現

 

 旧本堂礎石を見つけた。

 

旧本堂礎石

 旧本堂は、天保5年(1834年)に弘法大師一千年御遠忌を記念して建立された。

 間口十六間(28.8m)、奥行十八間(32.4m)、高さ七十三尺(22m)、建坪二百九十坪(957㎡)の総欅造総銅甍葺の宏壮な建物だったようだ。

 昭和20年(1945年)4月15日未明、第二次世界大戦の戦禍を蒙り諸堂とともに焼失した。

 

 宝篋印塔は以前山門より入り本堂へ通ずる中央にあり、宝暦6年(1756年)3月に田安家より寄進されたもので、中に湯島霊雲和上開眼の経筒銅等が納められた。

宝篋印塔

 

 いろは碑は弘法大師が国字を発明したのを記念して建立したもので、大正5年(1916年)に建立された。

いろは碑

 

 この道標は寛文3年(1663年)川崎宿の渡し場(現在の六郷橋のたもと)近く、大師へ至る道の入口に建てられたもの。この碑には「こうぼう大し江のみち」と刻まれている。

 この碑は第二次世界大戦後、六郷橋付近の道路拡張工事にともなって川崎大師の境内に移管されたものである。

道標

 

 川崎大師の和尚・隆超和上が造った石庭があった。

石庭

 

 石庭の裏に不動門がある。

不動門

 不動門は太平洋戦争後、隆超和上が戦災によって失われた旧大山門の跡地に昭和23年(1948年)に縁のある地から移築させた建物で、新たに大山門が復興するまでの約30年間にわたり川崎大師の山門だった。

 

 八角五重塔弘法大師千百五十年御遠忌を記念して発願され、昭和59年(1984年)に建てられた。なかには釈迦如来像をはじめさまざまな仏様が祀られている。

八角五重塔

 

 「ラテスカんゃちラド」…逆から読むとわかるネタは好き。

 

3.川崎大師 北の湖敏満之像

 北の湖敏満之像があった。北の湖敏満は川崎大師の檀家であり、生前、御本尊の弘法大師を信仰していた縁により平成29年(2017年)に像が建立された。

北の湖敏満之像

 北の湖敏満は昭和28年(1953年)に北海道で誕生、21歳のときに横綱になった。31歳のときに引退、「北の湖」を襲名した。その後は江東区での相撲部屋の運営や日本相撲協会の理事長を務めたりしていたが、平成27年(2015年)に62歳で亡くなった。

 「北の湖理事長」は私もニュースで聞いた記憶はあったが、10年前に亡くなっていたことは知らなかった。

 

 北の湖敏満之像の隣に力石があった。

力石

 力石は昔、川崎大師の境内で若者たちの力比べに使った石である。

 左の2つは「さし石」といってこれは頭の上にさしあげる用の石で、大きいほうは三十六貫(135kg)ある。

 右の3つは「おったて石」といい、これは起こしてまっすぐに立てる用の石で、一番大きいものは百貫(375kg)もある。

 これができた人は一人前とみなされたようだが…握力13kgの私には無理だと思った。

 

 力石の近くに江戸消防記念碑がある。

江戸消防記念碑

 東京消防組の発起で江戸消防記念碑は建設された。

 その趣旨は享保年間、江戸町奉行大岡越前守忠相が江戸町中に町火消というのを設け、その名の区別をいろは文字のように四十八組とした。

 それ以来明治の初めまで組の名を残していたがその起元を永久に伝えるために、明治21年(1888年)に建立された。ここに建てたのは弘法大師が国字を発明した縁による。

 

 川崎大師の墓地の前に「しょうづかの婆さん」がある。

しょうづかの婆さん

 人は死後、三途の川を渡る。その川に奪衣婆がいて、その奪衣婆は「葬頭河の婆(そうづかのばあ)」と呼ばれていたがそれが訛って「しょうづかの婆さん」と呼ばれるようになったそうだ。

 しょうづかの婆さんはその昔、品川のお台場にいたらしく「台場の久兵様」や「歯のお地蔵さん」と呼ばれていたこともあったらしい。

 昔から歯の痛みを癒し、容貌を美しくすると信じられてきたので今でも信仰されている。私も「もっと綺麗になりますように」と祈ってみるか…。

 

 種梨遺功碑を見つけた。

種梨遺功碑

 長十郎梨の種を発見した当麻辰次郎(文政9年(1826年)~明治38年(1905年))の碑である。長十郎梨は今も生産されている。

 

 「金色(こんじき)の 涼しき法(のり)の 光かな」という高浜虚子の句碑を見つけた。

高浜虚子の句碑

 

 「ものいはで 立出るなり 秋のくれ」という六世竹本綱太夫の句碑があった。

六世竹本綱太夫の句碑

 

 遊山慕仙詩碑を見つけた。

遊山慕仙詩碑

 天保4年(1833年)7月に建てられた遊山慕仙詩碑は、翌年の弘法大師千年御遠忌法要に合わせ、江戸時代後期の書家・寺本海若(てらもとかいにゅう)が川崎大師平間寺に奉納した石碑である。

 碑面に彫られた遊山慕仙詩は空海による漢詩で、自然の働きを通して仏教の真髄を語り、人々を迷いから救い悟りの世界へ導くという悲願が綴られている。

 

4.川崎大師 不動堂

 やすらぎ橋があったが、渡れなかった。

やすらぎ橋

 

 やすらぎ橋の先には降魔成道釈迦如来像(ごうまじょうどうしゃかにょらいぞう)がある。

降魔成道釈迦如来

 29歳で出家した釈尊は苦行の後、菩提樹の下で禅定に入った。種々の悪魔が誘惑・脅迫して釈尊を妨害したが、釈尊は退けて悟りを開いた。このとき釈尊は左手を膝の上に置き右手を伸ばして大地を指すポーズを取ったが、このポーズを「降魔成道」という。

 

 降魔成道釈迦如来像の裏にやたらエキゾチックな建物があるが、これは薬師殿だ。薬師殿は平成20年(2008年)に建てられ、薬師如来像が祀られている。薬師如来像に参拝し、御朱印をいただいた。

薬師殿

薬師如来御朱印

 

 川崎大師には「ひらまくん」というゆるキャラがいるが、なんだろう…そこはかとなく「せ○とくん」に似てるんだよなぁ…。

 

 日本百観音霊場お砂踏み参拝所があった。日本百観音とは坂東33+西国33+秩父34=100か所の観音霊場のことで、お砂踏み参拝所はそこの砂を踏むことで同じ功徳を得られる、というものだ。なお私はまだ坂東三十三か所の5か所しか参拝していない。

日本百観音霊場お砂踏み参拝所

坂東三十三観音 第1~6番札所

 

 「朝露の 雫するなり 大師堂」の正岡子規の句碑があった。

正岡子規の句碑

 

 「つるの池」があったがほとんど水が抜かれていた。

つるの池

 

 「父母の 志きりに恋し 雉の声」の松尾芭蕉の句碑を見つけた。

松尾芭蕉の句碑

 

 鐘楼堂は寛政元年(1789年)正月に創立されたが大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊、昭和5年(1930年)に現在地に移転するも昭和20年(1945年)に戦災で焼失、昭和23年(1948年)に再建された。

鐘楼堂

 鐘は延徳3年(1491年)に鋳造されたものだが、寛政7年(1795年)に再鋳されている。

 

 「ラテスカんゃちラド」に続き「ンピーャシ」…笑

 

 不動堂は昭和39年(1964年)に建てられ、なかに不動明王像が祀られている。ここの不動明王像は関東三十六不動の第7番札所に指定されているため、御朱印をいただく。

不動堂

不動明王御朱印

 

 中書院のなかには光聚庵(こうじゅあん)と心月庵(しんげつあん)という茶室があるが、非公開。江戸時代の寛永5年(1628年)に建てられた六字名号塔もあるが、こちらも非公開。

中書院

六字名号塔

 

5.久寿餅

 「第35回 四国八十八ヶ所霊場巡拝」のお知らせが貼ってあったが2週間かかる上、参加費が合計57万…これは無理だ。

 

 経蔵の前に「奇跡の銀杏」がある。この銀杏も第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失するも奇跡的に蘇生、奇跡の銀杏と名付けられた。

奇跡の銀杏

 

 経蔵には釈迦如来像が祀られ、壁面には大蔵経が納められ天井には「双龍」「飛天」の絵が描かれている。こちらは平成16年(2004年)に建てられた。

経蔵

 

 ここまで来て、やっと大本堂に参拝する。大本堂は昭和39年(1964年)に建てられ、厄除弘法大師像を御本尊として祀っている。

 大本堂では御朱印もいただけ、「厄除遍照殿」と書かれている。

大本堂

大本堂 御朱印

 

 川崎大師の境内を一周して疲れたので、甘いものが欲しくなった。そこで寄ったのが「住吉」さん。

 ここでは名物の「久寿餅(くずもち)」をいただける。

住吉

久寿餅

 天保の頃(1830~1840年)、大師河原村に久兵衛という男が住んでいた。ある風雨の強い夜に納屋に蓄えていた小麦粉が雨で濡れてしまい、久兵衛は仕方なくこれをこねて樽に移し、水に溶いて放置しておいた。

 翌年飢饉が起こり樽に移した小麦粉のことを思い出した久兵衛は、樽の底に小麦粉が発酵してできた純良なでんぷんが沈殿しているのを発見する。

 これを加工して蒸しあげたところ風変わりな餅ができあがり、川崎大師の隆盛上人に食べてもらったところ、隆盛上人は淡白にして風雅な餅の味を絶賛し川崎大師の名物として広めることを久兵衛に薦めた。

 隆盛上人は久兵衛の「久」と無病長寿を記念して「寿」、これを合わせて「久寿餅」と名付けた。

 以前は川崎大師のお坊さんもお刺身の代わりに久寿餅を食べたり、戦後の食糧難の時代は久寿餅のなかに塩豆を入れたり、カレーのルーをかけて食べたこともあったようだ。

 

 1年放置した小麦粉からでんぷんができているのも、それを蒸したのも、それを人に食べさせたのもすごいと思う。まあ、発酵食品は「誰かが最初に食べて美味しいと気づいた」ものたちばかりだろうけど。

 ちなみに久寿餅は発酵食品なので少しだけ酸味がする。まあほぼ無味なので黒蜜やきな粉をかけて食べるが、カレーのルーは合うのか…?

 

6.川崎大師の飴屋

 川崎大師門前には飴屋が軒を連ねている。

 「せき止飴」は松屋の初代・宮﨑米吉が煮詰めた飴に家伝の薬草エキスを加えた飴をつくったのがはじまりで、明治元年(1868年)に深川・門前仲町で「松屋の飴」の屋号で創業した。

 柴又帝釈天への分店を経て昭和11年(1936年)に盛況を呈していた大師門前に「深川不動尊 松屋の飴支店」を出店。

 戦災による店の焼失から休業を余儀なくされたが昭和39年(1964年)に「松屋総本店」の屋号で再開業を果たした。

 

 「さらし飴」は麦芽で糖化された風味豊かな水飴が原料で、煮あがった飴を何度も練り、気泡が混入して白色になった飴。

 飴を切る工程から「厄を切る」という意味も込められている。仲見世通りにはいつもトントンというさらし飴を切る音が響き渡っている。

 

 私も評判堂のきなこ飴が美味しそうだなと思ったので買おうとしていたが、買いに行ったときは残念ながら売り切れ。試食でいただいたせき止め飴が美味しかったのでそちらを買った。今は仕事中のおやつになっている。

評判堂のせき止め飴

 

 また、評判堂の向かい側にある松屋総本店でも水飴を買った。私は水飴が好きなので、大きいタッパーに入ったものを買ってしまった。

水飴

 

7.金山神社

 川崎大師駅から宮川病院脇の道をいくとすぐ右手に、大師河原村の鎮守である若宮八幡宮があり、その境内奥に金山神社がある。

若宮八幡宮

金山神社

 金山神社は古くは「金山権現社」俗に「かなまら様」とよばれ、性と鍛冶屋の神として信仰を集めていた。現社殿は、昭和37年(1962年)に再建されたものである。

 4月の第2日曜日には例祭のかなまら祭りが行われる。祭りには大きな「かなまら」と、仮装をした男たちの面掛け行列が町を練り歩く。

 気になる人は「かなまら祭り」で検索してみるとよい(閲覧は自己責任で)。

 

 若宮八幡宮金山神社では御朱印もいただける。若宮八幡宮のものは「たみのかまどはにぎわいにけり」、金山神社は「円満繁栄」と書かれている。

 

 また、若宮八幡宮にも力石が置いてある。このへんでは盛んだったのだろうか。

 

 散策を終え、川崎大師駅に戻ってきた。今日はこれでおしまい。

川崎大師駅

 川崎大師には、就活のときに川崎にある会社に面接に行ったときに訪れたことがあったが、もう何年も前のことなので覚えておらず、新しい発見がいっぱいあった(ちなみに川崎の会社は二次面接で落ちた)。参道前にある久寿餅のお店は美味しいのでおすすめだ。金山神社の「かなまら祭り」はXで流れてきて見たことがあったので知っていたのだが、実際に参拝したのは初めてだった。

 私の知らない神奈川が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2025年12月13日

 

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川県の歴史散歩」 山川出版社

関東三十六不動霊場会(2017) 「関東三十六不動霊場ガイドブック」

かわさき区の宝物シート 川崎大師久寿餅

https://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000025/25911/10-14.pdf

かわさき区の宝物シート せき止め飴・さらし飴

https://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000025/25911/10-14.pdf

(2026年1月1日最終閲覧)