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うさぎの気まぐれ旅行記 大分・宮崎旅行②大分編

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 前回は大分空港に降り立ち、別府で地獄めぐりをした。今回は別府タワーからバスで大分駅まで移動し、そこから大分市街地をまわった記録を書こうと思う。大分市街地は県庁所在地にしては規模は小さめだが、なかなか面白い都市だった。

前回記事はこちら↓

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1.豊後定食

 現在12時。まちあるきをする前に腹ごしらえをする。入った店は大分駅構内の豊後茶屋。ここで「豊後定食」を注文した。それがこちらである。

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豊後定食

 とり天、だんご汁、ごはんと漬物、きんぴらごぼうである。ここで注目したいのはとり天とだんご汁だ。

 とり天は鶏肉に衣をつけて揚げた大分県の郷土料理である。

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とり天

 揚げ物なのにあっさりしていて、かぼすポン酢につけて食べると美味しい。揚げ物はあまり食べないが、これは気に入った。

 だんご汁は小麦粉で作った平たい麺(だんご)を味噌仕立ての汁に入れたもので、汁にはだんごのほかにゴボウやニンジンなども入っている。

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だんご汁

 すいとんに近い食べ物である。こちらも素朴な味で、美味だった。

2.府内城へ向かう

 お腹いっぱいになったら大分駅北口を出る。大分駅平成27年(2015年)に建て替えられたのでまだ新しい。

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大分駅北口

 国道10・57号を南東に進む。この道路は産業道路と呼ばれている。産業道路は戦後の戦災復興計画でできた道路である。

 顕徳町一丁目交差点を左折する。そのまましばらく進むと目の前の道路が2つに分かれ、中央に公園が出現する。遊歩公園である。遊歩公園のある道は近世は東広小路と呼ばれ、19世紀には大手通と呼ばれた。それは府内城の大手門に通じる通りだからである。遊歩公園も戦災復興計画でできたもので、日本では珍しいパークウェイである。

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遊歩公園

 遊歩公園の南端に水準点があるが(一等道路水準点 010-138号)、ほとんど摩耗していた。

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一等道路水準点 010-138号

 遊歩公園には様々なものがある。滝廉太郎は「荒城の月」を作曲した作曲家として有名だが、彼が最期を迎えた地がここ大分だ。

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滝廉太郎終焉之地

 23歳で亡くなったとは、私より年下である。

 「西洋医術発祥記念像」があるのは、フランシスコ・ザビエルとともにやってきたアルメイダがここで西洋医術を使用して人々の治療を行ったからである。

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西洋医術発祥記念像

 そのほか南蛮文化関係では、伊東ドン・マンショ像がある。

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伊東ドン・マンショ像

 伊東ドン・マンショは天正10年(1582年)に天正遣欧少年使節としてローマを訪問した。

 また、遊歩公園の西隣の大手公園には日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師、フランシスコ・ザビエル像もあることは忘れてはならない。

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フランシスコ・ザビエル

 フランシスコ・ザビエルキリスト教を伝えたことは知っていたが、大分が宣教の中心地だったことは知らなかった。

 そして遊歩公園の東隣に建つ高い建物が、大分県庁である。

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大分県

 昭和37年(1962年)の竣工である。大分県庁の北隣には大分県警察本部もある。

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大分県警察本部

 そして、遊歩公園の北端から北を見ると、府内城の大手門が見える。

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府内城大手門

3.府内城

 府内城は慶長2年(1597年)に福原直高により築城された。天守は寛保3年(1743年)の大火で焼失以来再建されなかった。明治5年(1872年)に廃城、城内に大分県庁が置かれた。昭和41年(1966年)に城址公園として整備された。

 さあ府内城へ、と入ろうとしたら閉鎖されていた。

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 令和2年(2020年)5月13日から当面の間、PCR用検体採取場設置のため大分城址公園の内苑は利用できなくなっていた。軽くショックを受けたが、城の外苑をまわってみることにする。

 大手門前に、大分縣道路元標がある。

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大分縣道路元標

 道路元標とは、大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1個ずつ設置されたものである。しかし大分県は全て廃棄されたのかそもそも設置されなかったのか、現在残っている道路元標はこの大分縣道路元標のみである。しかも「縣」の道路元標なので、これはオブジェとして置かれているのかと思った。裏には「位置 大分市大字六九番地 東経一三一度三六分 北緯三三度一四分」と刻まれている。

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道路元標裏面

 現在、府内城大手門の住所は「大分市荷揚町4」なので住居表示が変わったのだろう。

 ちなみに、GoogleMapで「33°14′ 131°36′」で検索したところ1.25km離れた大分市大道小学校の敷地内にピンが落ちた。日本測地系で書かれている上に「分」までしか書かれていないのでここまでずれたのだろう。

 城址公園の外苑をまわる。

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 説明板が各所にあったが、総じて遺構はあまり残っていない。

 外苑の北側に廊下橋がある。廊下橋は、山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられた渡り廊下である。

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廊下橋

 ここだけが開放されていて、中に入ることができた。このなかに府内城の日本100名城スタンプがある。

 廊下橋の北側に松栄神社がある。

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松栄神社

 松栄神社は享保14年(1729年)に豊後府内藩主直参の宮として祭祀された。

4.ガレリア竹町

 府内城を一周して大分市役所前交差点を右折する。すぐに右手側に大分市役所がある。

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大分市役所

 大分市役所の前に「中核市指定記念碑」がある。

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中核市指定記念碑

 大分市は平成9年(1997年)に中核市に指定された。

 昭和通り交差点を左折して中央通りを進む。すると右手側に大きなアーケードが見える。ガレリア竹町だ。

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ガレリア竹町

 ガレリア竹町、竹町通りは江戸時代から一貫して大分最大の繁華街だった。それは中堀に架かる門と外堀に架かる入口との間の交通路だったからである。明治38年(1905年)には「竹町商栄会」が設立され、大分県で最も古い商店街とされている。アーケードの屋根から光が入り明るいが、日曜の午後にしてはシャッターが閉まっている店が多いように感じた。

5.水準点探し

 ガレリア竹町の西端を出てすぐのところに水準点がある。一等水準交差点交1935号だ。

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一等水準交差点交1935号

 建物に半分埋まっている。水準点の写真を撮っていたら通りすがりの婦人に「どこかお探しですか?」と聞かれて少し恥ずかしかった。

 少し北側の西新町天満社の境内にも水準点がある。なかなか見つからないので基準点成果等閲覧サービスの近景写真で探したら、「ここ?」となった。準基準水準点、準基2218号である。

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準基準水準点準基2218号

 「大切にしましょう水準点」のプレートはあるが、その上にバケツやら発砲スチロールやらが積み重なっている。全く大切にされていない水準点だった。

 ガレリア竹町の通りに戻り、次の信号を左折、大道入口交差点を右折してすぐにまた水準点がある。これは一等道路水準点、010-137号である。これもなかなか見つからず、近景写真を頼りに探したらこれらしい。

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一等道路水準点 010-137号

 土に埋もれた中に、わずかに金属標が見える。

6.アーケードを歩く

 産業道路を南東に進む。中央町入口交差点を左折して、またアーケードに入る。セントポルタ中央町だ。

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セントポルタ中央町

 セントポルタ中央町もかつて京町・大工町・細工町をつなぐ古くからの繁華街で、中央通りの一本西側の歩行者軸として、駅を降りた乗客がまちへ入ってくる主要な歩行者動線として機能している。ガレリア竹町より大分駅に近いので、人通りも多く賑わっている印象を受けた。

 ガレリア竹町との交差点で右折し、中央通りに出る。

 中央通りは府内城の中堀を埋め立てて造った道路で、かつては大分~別府間の路面電車も走っていた。

 中央通りを南進し、大分駅方面に向かう。左手側に、レンガ造りの建物がある。大分銀行赤レンガ館だ。

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大分銀行赤レンガ館

 大分銀行赤レンガ館は大正2年(1913年)4月11日に株式会社二十三銀行本店として建設された。設計者は東京駅の設計者として有名な辰野金吾と片岡安である。現在は大分県産商品のセレクトショップ「Oita Made Shop」と大分を代表するコーヒーショップ「タウトナコーヒー」が入っている。

 大分銀行赤レンガ館の南隣には百貨店のトキハ本店がある。

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トキハ本店

 私は地方都市の百貨店に行くとジューススタンドでジュースを飲むことにしているので、B1Fのベジテリアでジュースを飲んだ。

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 大分特産のジュースはなかったのでミックスジュースを飲んだ。名前は控えていなかったが、美味しかった。

 トキハ本店を後にして、そのまま南に進むと大分駅に戻ってくる。

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 これにて大分市街地散策は終了である。

 この後、特急にちりんで宮崎に向かった。

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特急にちりん

 宮崎まで特急で3時間、結構距離があるのだなと感じた。

 夕食は宮崎名物チキン南蛮を肴に、地酒を飲んだ。

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チキン南蛮

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 地酒の名前は控えてなかったので調べても出てこなかった。甘くない辛口の酒だったことは覚えている。

 この後は宿に戻り、明日に備えた。

 次回は宮崎市街地をめぐった話を書こうと思う。

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今回の地図

歩いた日:2022年1月9日

 

【参考文献・参考サイト】

西村幸夫(2018) 「県都物語」 有斐閣

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

大分市 府内城

http://www.city.oita.oita.jp/o204/bunkasports/shitebunkazai/1352943146749.html

(2022年1月21日最終閲覧)

うさぎの気まぐれ旅行記 大分・宮崎旅行①別府編

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 私は旅が好きで、日本全国旅してきた。47都道府県のうち、45都道府県に行ったことがある。では、行ってない2つの都道府県とはどこか。大分県と、宮崎県である。ただでさえ行きにくい九州で、新幹線が通っていない東九州は行きづらい。しかし、今回の旅行で初めて大分県と宮崎県に行ってきた。その様子を記録しようと思う。

1.大分へ向かう

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  2022年1月8日、9:40羽田発の飛行機で大分に旅だった。天候は晴れ、窓から見えた富士山が綺麗だった。

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 11:30、大分空港に到着。

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 そのまま空港バスで別府駅に向かう。1時間ほどバスに揺られ、別府駅に到着した。

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 駅前に「ピカピカのおじさん」という陽気なポーズをしたおじさんの像があったが、これは別府温泉の観光開発に尽力した実業家、油屋熊八の像である。

2.地獄蒸し

 別府駅からバスに乗り30分ほどで今日の宿泊地、鉄輪(かんなわ)温泉に到着した。13時半を少し過ぎた頃で、おなかが空いてきた。ここで別府名物、地獄蒸しを食べるために「地獄蒸し工房 鉄輪」に入った。しかし30分以上待つということで、その間に宿にチェックインを済ませた。しばらく待って、受付に呼ばれた。受付から食材をもらい、地獄蒸しの釜場に入る。釜に食材をセットして、15分ほど待つ。そこから取り出された食材が、これだ。

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地獄蒸し

 地獄蒸しとは、温泉から噴出する高温の蒸気熱を利用した調理法で、別府では江戸時代から用いられてきた。塩分を含む温泉蒸気で蒸した肉や野菜は、素材の味がした。調味料の味は一切しないので好き嫌いは分かれるかもしれないが、私は気に入った。

3.地獄めぐり①

 その後は西へ向かう。まず白池地獄に入る。

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白池地獄

 白池地獄の池は、青白い色をしている。これは噴出時、透明なお湯が、池に落ちたときに温度と圧力の低下により青白く変化するため、このような色になっている。敷地内には、温泉の熱で熱帯魚を飼育している熱帯魚館がある。数日前、桂浜水族館Twitterでアロワナのことを「マフィアのペットでおなじみ!」とツイートしていたため、アロワナを見てそれを連想してしまった。

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アロワナ

 次は、鬼山地獄へ行く。

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鬼山地獄

 鬼山地獄では約100度の温泉が湯煙を上げている。あまりの湯煙に、写真を撮ることができないほどだった。そして、鬼山地獄にはワニがいる。

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 大正12年(1923年)に日本で初めて温泉熱を利用してワニの飼育を開始したのが、鬼山地獄である。クロコダイル、アリゲーターなど、約80頭のワニを飼育している。

 鬼山地獄の道路挟んで向かい側にあるのが、かまど地獄である。

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かまど地獄

 氏神の竈門八幡宮のお祭りに、ここの地獄の噴気で御供飯を炊いていたことがその名の由来である。「かまど」という名前から、鬼滅の刃の展示が多くあった。また、煙の粒子を核として、湯煙を見せる実験が行われていた。

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 実験で出た湯煙はとても綺麗だった。

 地獄めぐり通りの坂を登っていく。右手側に「山地獄」という施設があるが、ここは地獄めぐり対象外の動物園である。そのまま行くと海地獄と鬼石坊主地獄がある。海地獄から行ってみよう。

 海地獄は、美しい。

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海地獄

 温泉中の成分である硫酸鉄が熔解し、美しいコバルトブルーになっている。一見涼しげだが、98度の熱湯なので触ってはいけない。

 鬼石坊主地獄にも行ってみよう。

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鬼石坊主地獄

 ここは灰色の熱泥がポコポコと沸騰している。この沸騰する様子が坊主の頭に似ていることからこの名がついたようだ。天平5年(733年)に編まれた「豊後風土記」に登場するほど歴史の古い場所である。

 この時点で16時半。少し遠い血の池地獄と龍巻地獄は明日にすることにした。そして地獄で温泉の香りをたくさん嗅いだら、温泉に入りたくなったので宿に帰る前に寄っていく。

4.ひょうたん温泉

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 ひょうたん温泉。ひょうたん温泉はナトリウム塩化物泉で、pHは3.1である。ナトリウム塩化物泉だからしょっぱい味がすると思って舐めたら、酸っぱい味がしたのは酸性が強いからだろう。ゆっくり浸かって、体がほぐれた。そしてサウナだと思って入ったら、蒸し湯だった。蒸し湯が名物の鉄輪温泉らしい。砂湯にも行ってみたが、埋めてくれる人がいなかったためうまく入れなかった。

 夕飯も地獄蒸しを食べた。

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 帰りがけに喘息に効くらしい吸う温泉があったので吸ってみたがすぐにむせてしまい、効果があったかわからない。

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吸う温泉

 「温泉の卵」があったので「温泉卵だ!」と思ってむいてみたところ、ゆでたまごが出てきた。

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 しかもおでんのなかの卵のような固ゆでのゆでたまごである。温泉「の」卵だから、「温泉卵」とは誰も言ってないのだ。

 今日はもう宿に戻り、明日に備えることにした。

5.地獄めぐり②

 翌日。まだ行けてない地獄、血の池地獄と龍巻地獄に向かう。バスに乗って10分ほどで血の池地獄に着いた。

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血の池地獄

 血の池地獄は地下の高温、高圧下で自然に化学反応を起こし生じた酸化鉄、酸化マグネシウム等を含んだ赤い熱泥が地層から噴出、堆積することで池一面が赤く染まる。当たり前だが、血で赤く染まっているわけではない。

 血の池地獄の隣に、龍巻地獄がある。

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龍巻地獄

 ここは間欠泉の地獄で、30分に1回、5~6分ほど熱水を噴き出す。運が悪いと間欠泉を見るのに30分程度待つ必要があるが、私は運がよく来たらすぐに間欠泉が噴き出した。

 龍巻地獄まで行ったら地獄めぐりは終わりなので、バスに乗って別府駅に向かう。別府駅に向かう前に、気になる場所があったので寄ってみた。別府タワーだ。

6.別府タワー

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別府タワー

 別府タワー昭和32年(1957年)に建設された。設計者は東京タワーや通天閣なども設計した内藤多仲である。

 別府タワーに来てみたものの、非常に静かで営業しているのか不安になった。入場券を買い、エレベーターで展望台に上がる。その先は絶景が待っていた。

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 小さい展望台なのですぐ見終わってしまう。エレベーターで降り、バスに乗った。大分駅行きで、別府駅には行かないと乗った後で知ったが、この後の行先は大分なので、まあいいかと大分駅まで乗っていった。

 ここで別府編は終了とする。次回は大分市街地をまわった記事を書こうと思う。

 

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今回の地図

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今回の地図 鉄輪温泉拡大

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2022年1月8日

 

【参考サイト】

地獄蒸し工房鉄輪

http://jigokumushi.com/

別府地獄組

http://www.beppu-jigoku.com/

ひょうたん温泉/温泉

https://www.hyotan-onsen.com/onsen/index.html

別府タワー 別府タワーについて

https://www.bepputower.co.jp/abouttower/

(2022年1月19日最終閲覧)

東海道を歩く 6.戸塚駅~藤沢本町駅

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 前回、保土ヶ谷駅から戸塚駅まで歩いた。今回は戸塚駅から藤沢本町駅まで歩く。「3.川崎駅~神奈川駅」から長いこと横浜市内を歩いていたが、ついに横浜市を出て、藤沢市に入る。やっと横浜市が終わった、と思った。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.開かずの踏切

 今日は戸塚駅東口からスタート。左折して、戸塚駅東口入口交差点で東海道に合流する。

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戸塚駅東口入口交差点

 そこから左折して西に進むと、すぐ歩道橋にぶつかる。ここは開かずの踏切跡だ。

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 開かずの踏切とは、ラッシュ時には1時間に3分ほどしか開かず、その結果渋滞をもたらしていた踏切である。これによって箱根駅伝では選手が足止めをくらったり、吉田茂元首相がこの踏切に対して業を煮やし戸塚道路の建設を決定したりした。しかしこの踏切は迷惑がられていたが愛されていたことも事実で、踏切の撤去の際には「さよなら戸塚大踏切」なるイベントが開催された。現在も開かずの踏切当時の写真がある看板や、踏切の絵が残っているほどだ。

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 歩道橋を渡り、清源院入口交差点で左折して、南へ進む。脇本陣跡や、戸塚町問屋場跡の看板を見つける。

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 問屋場は戸塚町のほかにも矢部町、吉田町にもあって合計3ヶ所あったらしい。内田本陣跡の看板もあったようだが、見逃してしまった。

2.澤邊本陣跡

 そのまま歩いていくと、小高い塚の上に「明治天皇戸塚行在所阯」と刻まれた石碑を見つける。澤邊本陣跡だ。

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澤邊本陣跡

 澤邊本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者である。戸塚宿は、東海道に宿駅伝馬制度が制定されたときは宿場ではなかったが、戸塚には旅人の荷物の運搬や宿泊などの街道稼ぎを生業にしている人たちが多くいたため、藤沢宿は苦言を呈していた。

 そこで戸塚は幕府に宿の開設を訴えたが、そのときに中心になったのが澤邊宗三だった。澤邊宗三は戸塚の旧家の人で、彼の妹は幕府の代官の妻になっていた。澤邊宗三の努力の甲斐あって慶長9年(1604年)に戸塚は宿場となった。また、明治天皇の東下の際には行在所として使用された。

3.八坂神社

 しばらく進むと進行方向右側に神社がある。八坂神社だ。

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八坂神社

 八坂神社は牛頭天王社を勧請したのが始まりといわれ、その後荒廃して御神体が地中深く埋められていたのを元禄2年(1689年)に夢の中で神託を受けた人が掘り出して再興した。八坂神社前に高札場があったようだ。

 八坂神社はお札まきが有名である。お札まきとは、女装した男性たちが渋うちわで五色の札をまき散らすお祭りである。まき散らされたお札は人々が拾い、それを戸口や神棚に貼る。このお札を拾った人は、その年は福運が授かると言われている。風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」という文句があるそうだが、コロリとはコレラのことで、江戸時代に流行した流行病である。現在では「コロリ」より「コロナ」のほうがよいのではないか、と考えてしまった。

 また、鳥居の前に立派な水準点がある。

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 調べてみたら第交35-7号、設置は昭和27年(1952年)だった。水準路線が交差する水準点なので交点で、だから名前に「交」がついている。これをTwitterに掲載したところ「古来由緒ある水準点」というコメントが来たが、設置は意外と新しかった。水準点の裏を見たときに「地理調(地理調査所の略で、昭和20年(1945年)から昭和35年(1960年)にかけて存在していた組織)」と書かれていたのを見たので、「そんなに古い水準点ではないな」と思っていた。

4.冨塚八幡宮

 南に進むと冨塚八幡宮がある。

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冨塚八幡宮

 平安時代の延久4年(1072年)、源頼義、義家父子がこの地に立ち寄った際、夢で応神天皇の神託を受け、その加護によって戦功を立てることができたのを感謝して社殿を作り、御霊を勧請した。

 石段の上に本殿があるが、そのさらに上に「冨塚之碑」が立つ塚がある。これは前方後円墳らしい。残念ながら写真は撮り忘れてしまった。この塚が「戸塚」の由来になっている。

 冨塚八幡宮の前で道が右にカーブし、西に進む。少し行くと戸塚宿の上方見附跡を見つける。説明板と進行方向左側には松、右側には楓が植えられている。

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5.大坂

 ここから坂を登る。大坂だ。

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 冨塚八幡宮前が標高15m、国道1号との合流点では標高62mと、標高差47mの坂である。かつては2つの坂から成り立っていたようで、「新編相模国風土記稿」では、「海道中南にあり、一番坂登り一町余、二番坂登り三十間余」と書かれている。今は改修されて緩やかな坂に見えるが、昔は急坂で、荷車、牛馬車などはまっすぐに登れなかったため、車の後押しを商売とする人に助けられて蛇行しながら登っていったらしい。

 坂の途中に庚申塔が並んでいるところを見つけた。

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 戸塚は庚申講が盛んだったのだろうか。ひとつだけ新しい千手観音の石仏があったのが気になった。

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 坂を登り、国道1号に合流する。そこに「箱根駅伝のため交通規制」と書かれた横断幕が目に入った。

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 今日は12月19日、箱根駅伝が近いから張られていたのだろう。意図していなかったが、このあたりが戸塚中継所らしい。

 「大坂松並木」と書かれた看板が目に入った。

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大坂松並木

 かつてこのあたりには松の巨木が立ち並び、大変壮観で東海道一の松並木とうたわれていたが、第二次世界大戦末期の松の伐採や昭和30年(1955年)頃からの松くい虫の被害などで大半が枯れて失われた。

 大坂では天気の良い日に松並木から素晴らしい富士山が眺められた、と看板にあった。少し歩いたところから富士山を見つけたが、この日は残念ながら山頂に雲がかかっていた。

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 雲がなければ綺麗だっただろう。

6.お軽勘平戸塚山中道行

 そのまま南へ進む。すると左側にお軽勘平戸塚山中道行の場の碑がある。

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お軽勘平戸塚山中道行の場の碑

 このあたりが歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の名場面の石高道だったという。「仮名手本忠臣蔵」とは、早野勘平がお軽との情事のために主君の大事を知らず、そのため責任を感じて切腹しようとするが、お軽に止められ、お軽の実家に逃れることとして鎌倉を出て京に向かう話である。戸塚の山中での道行の場面は、七代目団十郎、三代目菊五郎などの名優の演技から江戸では大変な人気が出た。そういえば、赤穂浪士の墓地がある泉岳寺東海道沿いだったことを思い出した。

泉岳寺が掲載されている記事

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7.国道1号を進む

 国道1号の46kmポストを見つけた。

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46kmポスト

 国道1号日本橋を起点としているため、日本橋から46km進んだことになる。もうそんなに歩いたのか、と思った。

 しばらく行くと原宿一里塚跡を見つける。

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原宿一里塚跡

 江戸から11番目の一里塚で、付近には旅人のための茶屋があり、原宿と呼ばれるようになったという。一里塚は明治9年(1876年)に取り壊されたため、ここには説明板があるだけとなっている。

 坂を下りると浅間神社がある。

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浅間神社

 浅間神社は、小田原北条氏治世の永禄年間に、富士信仰をもとに村内安全を祈願するために勧請されたといわれている。浅間神社の前に3基の庚申塔がある。

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 スダジイの大木が連なる参道を登っていくと社殿がある。参拝して、東海道に戻る。

 国道1号沿いを進む。このあたりはロードサイド店舗が多く立地している。どの路線の駅からも遠く、車文化なのだろう。江戸時代の人が見たら腰を抜かしそうなくらい看板が多く、車が騒がしい通りである。

8.影取

 影取歩道橋東側交差点の右側に、不動尊が載った岩山がある。

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 これは、長流寺の入口を示している。

 影取立場跡の説明板を見つけた。

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影取立場跡

 この位置は東海道鎌倉道が交差する交通の要所で、藤沢宿まで一里の場所らしい。

 しばらく行くと車道が地下にもぐるので、地上を進む。進行方向左側に諏訪神社がある。

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諏訪神社

 このあたりの地名「影取」の由来になった影取池は諏訪神社の奥にあったらしい。影取池の話はまた後で取り上げる。

 藤沢バイパス出口を直進し、県道30号を進む。ここで国道1号とお別れである。

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 道祖神の祠に旅の無事を祈ってから先に進む。

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 鉄砲宿交差点に、この地名の由来が書かれた看板があった。

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 近くで飼われていたおはんという大蛇が大きくなり、手に負えなくなったので影取池に捨てられた。おはんは池のそばを通る人の影を飲み込み、その人は数日以内に死んでしまうようになった。そこで村人は猟師に頼み、猟師が「おはん」と呼ぶと蛇が現れ、そこを撃ち殺してしまった。おはんが影を取った池のことを影取池と呼ぶようになり「影取」という地名が残り、猟師が住み着いたところを鉄砲宿と呼ぶようになった。

 ここに横浜市藤沢市カントリーサインがあった。

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 川崎宿を出てすぐのところから横浜市だったので、長かった横浜市区間が終わった、と感慨に浸った。

9.藤沢市に入る

 藤沢市に入ると旧東海道松並木跡があった。

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旧東海道松並木跡

 ここには見事な松並木が見られたそうだが、昭和35年(1960年)頃から全国に猛威をふるった松くい虫の被害で松並木がなくなってしまった、と説明にあった。説明板の裏には松が植えられている。

 歩いていくと歩道上に三角点があった。

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三等三角点「大鋸」

 三等三角点「大鋸(だいぎり)」だ。埋設は明治35年(1902年)と古いが、標石はその当時のものかはわからない。ちなみに大鋸とは付近の地名で、材木から板をつくる大鋸引きの職人が住んでいた地域だからそう呼ばれるようになったようだ。

 遊行寺坂を下る。

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遊行寺

 この坂の名前は坂を下りたところにある遊行寺である。遊行寺はあとで寄る。

 坂の途中に一里塚跡がある。

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一里塚跡

 説明板通り、現在は何も残っていない。

 遊行寺の反対側に諏訪神社があるので参拝する。

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諏訪神社

 諏訪神社遊行寺の遊行四代呑海上人が山中守護のために勧請したのが始まりとされている。元禄の頃、社殿が今より下にあって街道に面していたが、社前を馬に乗ったまま通ると落馬が多かったため、神社を上段の地に移して南向きにしたらその災いがなくなったというエピソードがある。先ほどの神社も諏訪神社だったが、諏訪信仰がこのあたりは盛んだったのだろうか。諏訪神社の向かい側に藤沢宿の江戸見附がある。

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藤沢宿江戸見附

 イイジマ薬局の角を右折するとすぐに、ふじさわ宿交流館がある。少し寄ってみた。

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ふじさわ宿交流館

 なかには昔の旅人の旅行用品や藤沢宿に関する展示があった。「一日十里の強行旅だったので、名所があっても通り過ぎるといったほうが正しかっただろう。」という文章が印象に残った。

 また、藤沢宿東海道から江の島や大山へ参詣する道の分岐点に位置していたので、それぞれの行き来の旅人で大いに賑わったそうだ。

 ふじさわ宿交流館の右手側に遊行寺総門がある。

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遊行寺総門

 これは日本三大黒門とされている。ここから遊行寺に入る。

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遊行寺

 遊行寺時宗の総本山で、正式名称は藤沢山無量光院清浄光寺という。時宗一遍上人が開いたが、一遍上人は賦算の旅を続けたため、この寺は遊行四代呑海上人によって創建された。江戸時代は多くの参拝客がいたと聞き、日曜午後なので混んでいると思ったら思ったより空いていた。人がまったくいないわけではなかったが、川越の喜多院や東京の深川不動堂のほうが混んでいる印象を受けた。

 遊行寺を出て、遊行寺橋で境川を渡る。

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遊行寺

 この橋は昔大鋸橋と呼ばれ、この橋のあたりは多くの浮世絵や錦絵に描かれた、藤沢宿の「顔」といった場所だった。

 遊行寺橋と藤沢橋の間に江の島弁財天道標がある。

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江の島弁財天道標

 これは江戸時代の検校杉山和一によるものである。杉山検校は江島神社を信仰して鍼術を学び、五代将軍綱吉の病を治して有名になった。終生江島神社への恩を忘れず、参詣の人々のために道中48基の道標を立てた。現在14基が残っている。

 正面には「ゑのしま道」右側には「一切衆生」左側には「二世安楽」と刻まれている。この文言には、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められている。なお、遊行寺橋から左折してそのまま進むと江の島に到着する。今回は東海道をたどっているので、右折して東海道を進む。

 藤沢宿は、東京電力のボックスの古い写真や古い建物の残存から、古くからあった街だということはわかったものの、説明板があまりなかったのが残念だった。

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 かろうじてあったのが蒔田本陣跡と問屋場跡の説明板である。

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蒔田本陣跡

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問屋場

 藤沢宿本陣は初めの頃は堀内家が名主、問屋を兼ねながら務めていたが延享2年(1745年)に堀内家が焼失したため、蒔田源右衛門が代わって務めるようになり、蒔田本陣となった。問屋場跡は消防署出張所になっていた。

 白旗交差点の少し前に伝源義経首洗井戸という案内板があったので、寄ってみた。

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源義経首洗井戸

 奥州平泉で打たれた義経の首は、鎌倉腰越浜で首実検の後で海に捨てられたが、金色の亀によって境川を遡ってきたためここで首を洗い、白旗神社に葬られたとされている。少しおどろおどろしさを感じる場所だった。

 そのまま進むと伊勢山橋があり、そこで小田急江ノ島線を渡っている。右を見ると坂の下に藤沢本町駅があった。今回はここで終了する。

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藤沢本町駅

 11時に戸塚駅を出て16時に藤沢本町駅に着く長い行程だったが(途中で昼食休憩を挟んだ)、これでも戸塚宿から藤沢宿は2里(約8km)らしい。日が暮れるのが早いのも余計に距離を感じるのだろうか。次回の藤沢宿から平塚宿は3.5里(約13.7km)もあるようなので、日が暮れる前に平塚駅に到着したい。

 

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今回の地図①

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今回の地図②

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今回の地図③

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今回の地図④

 

歩いた日:2021年12月19日

 

【参考文献】

風人社(2013) 「ホントに歩く東海道 第2集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016) 「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2022年1月12日最終閲覧)

東海道を歩く 5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 後編

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 権太坂を登りきり、境木地蔵まで辿り着いた。あとはほぼ、坂を下りていくだけだ。ちなみに江戸時代の人々が旅行で東海道を歩いたとき、1日で日本橋から戸塚まで移動したそうだ。これは大変な距離の移動だと思う。ちなみに10里(約40km)ほどである。なお、現在は東京駅から戸塚駅まで東海道本線で40分ほど、730円で行ける。そもそも東海道の終点の京都まで新幹線だと2時間ほどで行けるのだから、江戸時代の人がこれを知ったら腰を抜かすだろう。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.焼餅坂

 境木地蔵前にある散策案内図がこれである。

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 これを見ると直進すると思ってしまうが、実際は境木地蔵前交差点で南西方向に曲がり、すぐに焼餅坂を下りるのが正解である。実際、私もここで道を間違えて途中で気づき、境木地蔵前まで戻る羽目になった。

 焼餅坂を下りる前に右手側に「左 旧東海堂 右 環状二号」と書かれた石碑があるのを確認してから焼餅坂を下りると確実だ。

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 焼餅坂の由来はこの坂にあった茶屋で焼餅が売られていたからとも、客の多い若い娘の茶店をほかの店の老婆が妬いたからとも伝えられている。ちなみに今は、焼餅屋はない。

2.品濃一里塚

 そのまま進むと住宅街に出る。竹林の脇に、また庚申塔を見つけた。

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  切り通しのようなところを通るが、実はこれは切り通しではない。品濃一里塚だ。

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品濃一里塚

 品濃一里塚は、江戸から数えて9番目の一里塚で、神奈川県内ではほぼ完全な形で残る唯一の一里塚である。昔は大きな榎が植えられていたが、今は榎の根本が残るのみで楠や雑木が茂っている。現在は西側・東側の一里塚ともに塚とその周辺が公園として整備されている。一里塚は以前も見たことがあるが(市場の一里塚)、ここまで立派なものは初めて見た。なお市場の一里塚については「東海道を歩く 3.川崎駅~神奈川駅」で取り上げているのでそちらも参照してほしい。

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3.福寿観音

 そのまま進むと右側に小さなお堂と歩道橋が見える。福寿観音だ。

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福寿観音

 福寿観音は東戸塚駅建設に尽力した福原政二郎氏が建立した観音堂である。この観音堂の前にある歩道橋はイオンに通じており、そのまま進むと東戸塚駅に到着する。疲れた人はこのイオンで休憩してもよいかもしれないが、帰りたくなりそうだ。

 イオンには行かずに、そのまま道なりに進む。すると階段が現れる。ここが品濃坂だ。

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品濃坂

 今は階段になっていてそれほど急だとは感じなかったが、昔は急坂で有名だったらしい。

 品濃坂を歩道橋経由で下り、また住宅街を進む。

 しばらく進むと右手側に川が見える。川上川だ。しばらくはこの川沿いに進む。東戸塚駅交差点を越えても、そのまま進む。目の前を見ると遠くに富士山が見えた。

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 今でも見えるのだから、昔はもっと印象的に見えただろう。

 赤関橋を渡り、国道1号の脇の旧道を進む。すると「提灯立場跡」と書かれた案内板を見つける。

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提灯立場跡

 ここにも立場があったらしい。今はただの住宅だった。

4.大山前不動

 次の国道1号の交差点で東海道国道1号に合流する。少し暗くなってきたので先を急がなければと思った。まだ15時半なのに、11月の日暮れは早い。

 山崎製パン森紙業、ポーラなどの工場地帯を進む。すると右側に「柏尾の大山道入口」と書かれた看板を見つけたので行ってみる。

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大山前不動

 これが大山前不動だ。ここが大山道の始点である。不動堂には台座の上に不動明王が乗っている道標が納められている。この近くに庚申塔や灯篭もある。

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 ここから大山山頂までは約39kmで、日本橋から戸塚までは約40kmとされていることを考えると、ここから大山まで歩いていけるかもしれないと思った。

5.ハム製造所跡

 不動坂交差点で左側の旧道を進む。だいぶ遠くからしか写真を撮っていなかったが、斎藤家のレンガ造りの土蔵がある。ここは日本で初めてハムを製造したハム製造所跡である。

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ハム製造所跡

 明治10年代、ウィリアム・カーチスがこの地でハムを作り始めた。当時この村の村長だった斎藤満平はカーチスにハム製造法を教えてくれと依頼したが、カーチスは日本人には教えてくれなかった。そのため、作業場で働いていた斎藤角次らにハムの製造法を密かに学びとらせた。その後、カーチスは斎藤満平に正式にハムの製造法を教えてくれることになった。明治28年(1855年)には博覧会にハムを出品して表彰され、「鎌倉ハム」として有名になった。

 舞岡川まで来たら川沿いに右折し、国道1号に合流、五太夫橋を渡る。

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太夫

 これは徳川家康が関東へ入国する際に小田原北条氏の家臣を登用したが、その一人石巻太夫がここで家康を出迎えたのでこの名がついた。その後、石巻太夫は家臣に登用され、中田村の領主になっている。

6.戸塚宿江戸方見付跡

 そのまま進むと右側にイオンスタイル戸塚が見えてくる。その前に石碑と案内板がある。戸塚宿江戸方見付跡だ。

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戸塚宿江戸方見付跡

 見付は宿の出入り口であるとともに宿を守る防衛の施設である。ここは戸塚宿の江戸側の出入り口で、参勤交代の大名たちを宿役人がここで出迎えていた。やっと戸塚宿に到着した、と安堵した。

7.戸塚一里塚跡

 そのまま進むとセブンイレブンの少し先に「戸塚一里塚跡」の案内板があるのに気づく。

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戸塚一里塚跡

 品濃一里塚と違い、ここは案内板があるだけだ。それにしても一里塚を見るのは本日3ヶ所目、だいぶ歩いたなと感じた。

 吉田大橋のたもとに、安藤広重が描いた戸塚宿の浮世絵がある。

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戸塚宿の浮世絵

 安藤広重が吉田大橋を題材としたことにより、ここが戸塚宿を代表する場所のひとつになった。現在の吉田大橋周辺とは、ずいぶん違う風景だなと感じた。

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現在の吉田大橋周辺

 矢部団地入口で自動車道は地下に入っていくので、左方向に進み、戸塚駅を目指す。

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 しばらく道なりに進み、戸塚駅東口入口交差点を左折すると、戸塚駅に到着する。

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戸塚駅東口入口交差点

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戸塚駅

 この日は12時に保土ヶ谷駅を出発し、戸塚駅に到着したのは16時半だった。アップダウンが激しかったこともあり、到着したときはクタクタで一休みしないと帰りの電車に乗れないほどだった。保土ヶ谷から歩いてこれだけ疲れるのだから、日本橋から歩いてきたら大層疲れたことだろう。改めて江戸時代の人々の体力はすごいと感じた。なお、これだけ歩いても今日は横浜市内を出ていない。横浜市は広い。

 次回は戸塚駅から藤沢本町駅まで歩く予定で、距離は2里(約8km)。また頑張らなくてはいけないみたいだ。

 

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今回の地図①

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今回の地図②

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2021年11月7日

 

【参考文献】

風人社(2013) 「ホントに歩く東海道 第2集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016) 「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

東海道を歩く 5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 前編

 

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 前回は保土ヶ谷駅まで歩いた「東海道を歩く」。この事実に気づいた人はそういないだろう。そう、今までの道のりはあまり坂がなかったのだ。ここに来て初めて「権太坂」などの急坂が出てくる。今回は急坂および距離が長い(2里9町、約8.8km。実際4時間半かかった)が、頑張って歩こう。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.金沢横丁

 今日は保土ヶ谷駅から出発する。

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保土ヶ谷

 保土ヶ谷駅西口を出て直進するとすぐ東海道にたどり着く。そのまま左折して進む。

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 少し進むと助郷会所跡がある。

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助郷会所跡

 これは助郷村々の人馬を手配するために設けられた場所である。助郷とは、江戸時代、幕府が諸街道の宿場の保護、人足や馬の補充のため宿場周辺の農村に課した夫役のことである。助郷は江戸時代初期の頃は臨時の大通行のときだけだったが、江戸時代後期になると交通量増大にともない、恒常的に助郷が求められるようになった。

 少し行くと今度は問屋場跡がある。

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問屋場

 これは幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬、幕府公用の書状等の通信、大名行列の宿場の手配等を担っていた施設、問屋場があったところである。

 また少し進むと金沢横丁がある。

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金沢横丁

 ここは東海道とかなさわ・かまくら道の分岐点である。東海道から杉田・金沢を経由して鎌倉に至り、さらに江の島を巡って藤沢で再び東海道に合流する江戸時代の代表的物見遊山コースの入口で、途中には杉田の梅林、金沢八景鶴岡八幡宮建長寺円覚寺、江の島弁財天など見どころがたくさんあった。

2.本陣跡

 そのまま進むと国道1号にぶつかる。この正面にあるのが、本陣跡だ。

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本陣跡

 本陣とは幕府の役人や参勤交代の大名が宿泊する場所で、慶長6年(1601年)に徳川家康保土ヶ谷を宿場としたときに成立した。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣、苅部豊前守康則(かるべぶぜんのかみやすのり)の子孫といわれる苅部家が代々つとめていたため、苅部本陣とも呼ばれていた。なお、平成15年(2003年)に設置された新しい解説板だけでなく、大正4年(1915年)に設置された古い石碑もある。

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 本陣はかつての面影はないが、蔵には昔の貴重な資料が多数保存されているらしい。

 そのまま右折して進む。少し進むと脇本陣跡(大金子屋・藤屋・水屋)を見つける。

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 脇本陣とは、本陣が混雑したとき、幕府の役人や参勤交代の大名が宿泊した場所である。大金子屋跡・藤屋跡は現在普通の住宅、水屋跡は消防出張所になっている。

3.旅籠屋(本金子屋)跡

 少し進むと旅籠屋(本金子屋)跡がある。

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旅籠屋(本金子屋)跡

 本金子屋は、保土ヶ谷宿にあった旅籠である。確認できる限り、保土ヶ谷宿で現在残存している唯一の旅籠である。敷地内には本格的な日本庭園があるらしいが、非公開だった。国道1号沿いに往時をしのばせるものがあるとは、と驚いた。

4.旧東海道保土ヶ谷宿お休み処

 そのまま進むと旧東海道保土ヶ谷宿お休み処があったので寄ってみた。

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旧東海道保土ヶ谷宿お休み処

 日曜日しか開いてないらしいが、この日は日曜日だったので開いていた。なかにはパンフレットや書籍がたくさん置いてあった。パンフレットは持ち帰れたので、神奈川宿保土ヶ谷宿・戸塚宿のパンフレットを持ち帰ることにした。また、雑誌「横濱」を購入した。

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 パンフレットを物色しているとお休み処の人に「どこから来たのですか?」と聞かれた。コロナが収まりつつあることと、あまり遠出ではなかったため正直に「東京から来ました」と答えた。正直に答えても叩かれない世の中になったのはありがたい。また、「東海道を歩いていて、今日は保土ヶ谷駅から戸塚駅まで歩きます」と話したら「頑張ってくださいね」と励まされた。東海道を歩き始めてほかの人から直接励まされたのは初めてだったので嬉しかった。

5.一里塚跡

 お休み処を後にして先に進むと、国道1号の脇に松林があることに気がつく。

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 これは東海道保土ヶ谷宿の松並木と復元事業で植えられたものらしい。

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 昔は東海道沿いに松並木が植えられていたそうだが、現在ではほとんど消失している。そこで平成19年(2007年)に今井川沿いの約300mの区間に松林を復元、一里塚も復元したそうだ。

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 なお、今回のウォーキングで私は3回一里塚を目撃することになる。

6.外川神社

 一里塚の横には橋があり、外川神社につながっている。

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外川神社

 外川神社は出羽三山羽黒山の外川仙人大権現の分霊を祀っている。江戸時代から保土ヶ谷宿には出羽三山講があり、幕末頃には外川仙人大権現を祀りはじめた。明治初年の神仏分離令に伴い、社名を外川神社に改称した。

 そのまま進むと松林が終わった場所に「→旧東海道」という看板がある。保土ヶ谷二丁目の交差点を渡り、旧道に入る。

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7.庚申塔

 住宅街を歩き、左側を見ると鳥居が見えるところがある。

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 ここには「帝釋天王」と掲げられている。なかには庚申塔が祀られている。庚申塔とは庚申講を18回続けると記念に建立される石碑である。

 庚申講とは、人間の体内にいる三尸虫が、庚申の日の夜に天帝に悪事を告げに行くため、それを避けるために庚申の日は眠らないで勤行をしたり宴会をしたりする風習である。今は廃れてしまった。

 少し進むと、旧元町橋跡がある。

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旧元町橋跡

 明治時代、今井川がここを通り、元町橋がここに架かっていた。現在今井川は鉄道工事で流れが変えられ、ここにはない。

 この後稲荷祠の前や、堅牢地神塔の横に庚申塔を発見した。

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 このあたりは庚申講が盛んだったのだろうか。

8.権太坂

 元町ガード交差点を左折し、今井川を渡る。案内板のあるところを右折すると、いきなり急坂が見えてくる。これが権太坂だ。

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案内板

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権太坂

 江戸時代はここで命を落とした人や馬が放り込まれた投げ込み塚があったほどと聞いたため心して挑まなくては、と思っていたが、今は改修されたこともあり、少しきつい坂、くらいの印象だった。現在、周囲は住宅街になっているため安心して歩けるが、昔は民家もなく、道の左右は鬱蒼とした松林だったようだ。

 権太坂の碑を見つけた。

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 権太坂の由来はおもに2つある。ひとつは、旅人がこの坂の近くにいた老人に坂の名前を聞いたところ、耳の遠い老人は自分の名前を聞かれたと思い込み、「権太」と答えたことから権太坂になったとする説。もうひとつは、権左衛門という人がこの坂道を作り、「権左坂」と名づけられたが、いつのまにか「権太坂」となっていた説。みなさんはどちらを信じるだろうか。私は面白いので「権太」説を推したい。

 この後坂の頂上に達してから、ゆるやかに下っていく。ひたすら道なりに進むと突き当たりに着く。ここに案内板があるので、それに従い右折する。

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9.境木地蔵

 進行方向左側に「境木立場跡」の看板がある。

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境木立場跡

 立場とは宿場と宿場の間に設けられた休憩所で、ここは富士山と江戸湾を見渡せる高台で名物の牡丹餅を食べながら休憩できたらしい。今は富士山や東京湾を望むことはできないし、牡丹餅屋もないのは残念である。

 境木地蔵は武蔵国相模国の境であることからこの名がつけられた。境木地蔵の前には「武相国境之木」の杭がある。この杭は平成17年(2005年)に復元されたもののようだ。

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武相国境之木

 現在「県境」は地理界隈でファンが多く、「三県境」や「県境を跨ぐ神社」などが流行っているが(私の周辺だけ?)、令制国の境に目を向けることはそうそうないと思う。私も今回初めて知った。令制国境をじっくり堪能する。ちなみに、東海道沿いではここで保土ヶ谷区から戸塚区に変わる。

 境木地蔵は小さなお堂だった。

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境木地蔵

 しかし地元の人に愛されているのか、参拝客が絶えなかった。

 鎌倉の腰越の浜に打ち上げられた地蔵は漁師の家に安置されていたが、漁師の夢に地蔵が出てきて「江戸へ行きたいので牛車で運んでほしい。もし途中で動かなくなったらそこに置いてきてほしい。そうすれば腰越の海は凪ぐ。」と告げた。そこで漁師は地蔵を江戸に運んでいたが、境木で牛車が動かなくなったためそこに地蔵を置いて帰った。

 その後、境木の村人の夢に地蔵が出てきて「堂を作ってくれ。そうすればこの地を繁盛させよう。」と告げた。そこで境木地蔵堂が作られ、その周りには茶店が軒を並べて賑わった。

 手水舎のお地蔵さんや、このご時世でマスクをしているお地蔵さんが愛らしい。

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 さて、長くなるのでブログ記事を一旦切ろうと思う。

 次回は境木地蔵から始める。

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今回の地図

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2021年11月7日

 

【参考文献・参考サイト】

風人社(2013) 「ホントに歩く東海道 第2集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016) 「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

東海道を歩く 4.神奈川駅~保土ヶ谷駅

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 前回は川崎駅から神奈川駅まで歩き、その距離は2.5里(約10km)だった。今回は神奈川駅から保土ヶ谷駅まで歩いたのだが、その距離は1里9町(約5km)、前回の半分ほどの距離だった。そのため13時過ぎに神奈川駅を出発し、そこから歩いて15時過ぎには保土ヶ谷駅に到着してしまった。今回は少し短いが、お付き合いいただきたい。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.東横フラワー緑道

 さて、今日は神奈川駅から始めよう。

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神奈川駅

 神奈川駅から橋で京急線を超え、左折する。少し歩くと右手側に上り坂が見えてくるのでそこを右折する。すると遊歩道が見えてくる。東横フラワー緑道だ。

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東横フラワー緑道

 東横フラワー緑道は平成16年(2004年)2月の東急東横線の地下化にともない、今まで線路が走っていた部分を緑道として整備したものである。実際に地図を見ると現在でもここに東急東横線が走っていることが確認できる。

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地図中央、十字の地点

 暗渠かと思ったら、暗線路だった。

2.大綱金刀比羅神社

 少し歩くと、大綱金刀比羅神社に着く。

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大綱金刀比羅神社

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 ここは平安末期の創立で、もとは飯綱社と呼ばれ、山の上にあった。その後現在地へ移り、琴平社を合祀して大綱金刀比羅神社となった。

 また、この神社の前には日本橋から7つ目の一里塚があり、案内板によると土盛の上に樹が植えられた大きなものだったらしい。現在はこの案内板のみで、一里塚は残っていない。

3.台町

 大綱金刀比羅神社に参拝してから坂を上っていく。このあたりはかつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす景勝の地だった。ここには多くの茶屋が立ち並び、旅人の目を楽しませ、疲れを癒す格好の場所となっていた。

 この様子はいろいろな絵や書物でも取り上げられ、歌川広重の「東海道五十三次」の神奈川宿風景でも、片側に茶店が軒を連ねる台町の坂を旅人たちが上っていくさまを描いている。「東海道中膝栗毛」の弥次さん、喜多さんもこのあたりの茶店で波打ち際の景色を見ながら鯵を肴に一杯飲んでいる。

 また、このあたりにあった料亭の「田中屋」では坂本龍馬の妻、お龍も働いていたようだ。

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 横浜が開港すると、当時の人たちにとって神奈川湊は欧米文化の入口で、物珍しい場所として新たな名所の一つになっていく。二代広重が描いた絵では、女性が台町の茶屋から遠眼鏡で開港場や外国船を覗き込んでいる情景も見られる。

 台町の案内板のある場所は以下の地図の地点で、今は埋め立てが進んでだいぶ内陸になっている。

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台町

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地図中央、十字の地点

4.神奈川台関門跡

 坂の頂上に「神奈川台関門跡」と書かれた石碑が置かれている。

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神奈川台関門跡

 ここは開港後に幕府が安政6年(1859年)に置いた関門である。関門設置のことは「東海道を歩く 3.川崎駅~神奈川駅」の「鶴見橋関門旧跡」にも書かれているので、そちらも参照してほしい。

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 鶴見橋関門と同じく、明治4年(1871年)に廃止となった。

 関門設置3年後の文久2年(1862年)、生麦事件が発生した(生麦事件についても詳細は「東海道を歩く 3.川崎駅~神奈川駅」を参照してほしい)。事件後、島津久光はイギリス軍などの追撃を避けるため、急遽神奈川宿宿泊を取りやめ、その先の保土ヶ谷宿まで行って宿泊している。このとき、神奈川台関門は薩摩藩の行列が通り過ぎた後、すぐに関門を閉じている。

 神奈川台関門跡から坂を下り、上台橋を渡る。

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上台橋

 かつての上台橋のあたりは、海辺の地であったという。もちろん、今ここから海は見えない。

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地図中央、十字の地点

 切り通しの道路ができるとともに、昭和5年(1930年)ここに陸橋がかけられた。

 そのまま進むと、臨海セミナーのある建物で左側、右側に分かれている。

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 右側のセブンイレブンが目印だ。

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 ここで横浜市主要地方道83号の太い道(左)と軽井沢公園の横を通る細い道(右)に分岐する。この2つの道のどちらも旧東海道とされており、浅間下交差点で合流する。この分岐は好きなほうを選んでよい。ちなみに私は右、軽井沢公園の横を通る道を選んだ。旧道を感じたからだ。特に見るものはなく、そのまま進んでいたら浅間下交差点北西にある浅間下商店街に到着した。

5.浅間神社

 浅間下商店街を歩いていると右側に「浅間神社参道入口」と書かれた看板がある。

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 ここから幼育園の横を通って浅間神社に向かう。本当に通っても大丈夫なのか?と思うほど細い道を進み、石段を登るとそこに、浅間神社があった。

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浅間神社

 浅間神社は承暦4年(1080年)に源頼朝浅間神社を勧請して造営されたとしている。旧芝生村の鎮守で、現在は浅間町一帯の鎮守である。祭神は木花咲弥姫命(このはなさくやひめのみこと)である。

 昔、この山のそばに海が迫り、山際の狭い場所をすれ違うのに袖が触れ合うほどだったため、「袖すり山」と呼ばれていた。今は海からだいぶ遠くなってしまった。

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地図中央、十字の地点

 浅間神社の前面左手には昔「富士の人穴」と呼ばれる大きな穴があり、富士山の麓までつながっていたと伝わっている。ここは東海道の名物のひとつで、山伏が見せ物の呼び込みをやっていたほどだった。「富士の人穴」は周辺の開発により取り壊され、今はない。

 浅間神社に参拝し、石段を降りて東海道に戻る。このあたりは「旧東海道」と刻まれたプレートが道路に埋め込まれているため、東海道を歩いているかどうか、わかりやすい。

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旧東海道」プレート

6.追分

 住宅街を歩いていくと、「追分」と書かれた案内板を見つける。

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追分

 追分とは一般に道の分岐点を意味するが、ここ、芝生の追分は東海道と八王子道の分岐を意味する。八王子道はここから町田や八王子に続く道で、安政6年(1859年)の横浜開港以後は八王子から横浜に絹が運ばれるようになったことから、「絹の道」とも呼ばれている。格好良く言えば、「日本のシルクロード」だ。

7.洪福寺松原商店街

 追分から進行方向を見ると、「やすさ MATSUBARA 来やすさ」と書かれたアーチが見える。

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洪福寺松原商店街

 ここが洪福寺松原商店街だ。

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混みすぎて先に進めない

 この日は日曜日、八百屋の前は通り過ぎるのに苦労するほど人でごった返していた。家まで遠いので横目で見ただけだが、安くて新鮮な野菜や果物が売られていた。ここまで栄えている商店街を見たのは東海道を歩き始めて、初めてのことだったのでなんだか嬉しくなった。

8.YCVテレミン商店街

 松原商店街入口交差点を越えると、YCVテレミン商店街に入る。

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YCVテレミン商店街

 「ホントに歩く東海道 第1集」では「シルクロード天王町商店街」と書かれているが、商店街の幟には「YCVテレミン商店街」と書かれている。どうやら2019年10月から「YCVテレミン商店街」と名称を変えたらしい。ちなみにYCVとは横浜ケーブルビジョン(横浜市のケーブルテレビ)の通称で、テレミンはYCVのキャラクターである。

9.江戸方見附跡

 YCVテレミン商店街に入るとすぐに、江戸方見附跡と書かれた看板がある。

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江戸方見附跡

 ここは保土ヶ谷宿の江戸方見附があった場所で、かつては土塁の上に竹木で矢来を組んだものがあった。

 もう保土ヶ谷宿に着いたのか、神奈川宿から近かったなと思った。

 なお、江戸時代の旅は1日10里(約40km)歩くのが普通で、午前4時頃に日本橋を出発した人の多くは、次の戸塚宿で泊まる。そんな旅人を保土ヶ谷宿に泊めようと、「留女(とめおんな)」という人が旅人を度々追いかけていた。「東海道中膝栗毛」の弥次さん、喜多さんも留女に戸塚まで追いかけられたようだ。

10.橘樹神社

 そのまま進むと右手側に神社が見えてくる。橘樹(たちばな)神社だ。

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橘樹神社

 創建は文治2年(1186年)、京都の八坂神社の分霊を勧請奉祀したと伝えられている。もとは牛頭天王と呼ばれており、このあたりの天王町という地名はこの神社に由来する。明治時代にこの地、武蔵国橘樹郡の郡名を取って橘樹神社と改められた。

11.帷子橋

 橘樹神社に参拝してから東海道に戻ると、すぐ帷子(かたびら)橋を渡る。

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帷子橋

 このまま行くと行きどまりなのではないか、と思うのは正面に相模鉄道天王町駅があるからだ。

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天王町駅

 天王町駅のガードをくぐるとすぐに復元された帷子橋跡がある。

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帷子橋跡

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 帷子川は昔ここを流れていた。橋と景観の様子は素晴らしく、歌川広重も大変気に入り、保土ヶ谷宿を表す場所として何枚も絵を残したほどだった。しかし帷子川は暴れ川で、下流域にたびたび水害をもたらしていた。そこで横浜市は大規模な改修工事をして、川をまっすぐにした。今流れている帷子川は、先ほど通った帷子橋の下の川である。

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現在の帷子川

 ここからは横浜市主要地方道83号を歩いていく。ここからしばらく歩いていくと左側にロータリーがあり、その奥に保土ヶ谷駅がある。今回はここで終了となる。

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保土ヶ谷

 今回の神奈川駅から保土ヶ谷駅までの区間はやや短めであったが、次回の保土ヶ谷駅から戸塚駅保土ヶ谷宿から戸塚宿までは2里9町(約9km)あるというから、またがんばらなくてはならないだろう。

 

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今回の地図①

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今回の地図②

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2021年10月10日

 

【参考文献・参考サイト】

風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016) 「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

東海道を歩く 3.川崎駅~神奈川駅

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 品川宿川崎宿の距離は2.5里(約10km)であり、川崎宿神奈川宿の間も2.5里である。前回、品川駅出発が遅かったこともあり、1日で川崎駅まで到着することができなかった。そこで、今回は川崎駅に11時半に到着して出発したところ、神奈川駅に16時頃到着することができた。今回はその様子を記録したい。

初回記事はこちら↓

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1.小土呂橋

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 川崎駅を出発し、東に進む。

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いさご通り

 ここが前回終了した砂子(いさご)交差点だ。進行方向に「いさご通り」と書かれた看板もあって、わかりやすい。この地名は宗三寺の薬師如来像が海中から出現したとき、ここは海浜で、安置する場所もなかったため土地の人たちが砂子をかき寄せてその上に安置したところ、土地が繁盛したことから名づけられたそうだ。ここから南進していく。

 砂子交差点の次に信号のある交差点は砂子二丁目交差点、その次は小土呂橋交差点だ。この交差点名は昔ここに小土呂橋があったことに由来する。現在橋はなく、その親柱が残るのみだ。

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小土呂橋親柱

 現在新川通りとなっている場所に幅5mほどの用水があった。これは新川堀と呼ばれ、ここを通ってから海に注いでいた。新川堀は慶安3年(1650年)、郡代の伊奈忠治が普請奉行となり、土地が低く排水の悪い小土呂方面の水田改良のために開削された。新川堀と東海道が交わるところに架けられたのが小土呂橋で、当初木橋だったが田中休愚によって石橋に改修された。現在新川堀は暗渠化されている。

 しばらく進むと、「川崎宿京入口」と書かれた看板を見つける。

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川崎宿京入口

 ここが川崎宿の京都側の入口だったようだ。

2.松尾芭蕉、弟子との別れの地

 そのまま進むと、「芭蕉ポケットパーク」と書かれた自動販売機を見つける。

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芭蕉ポケットパーク

 ここは休憩所だが、この柱の裏に芭蕉の弟子たちが詠んだ句が書かれている。

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 ここになぜこれがあるのか、それは少し進んだらわかった。

 少し進むと「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」と書かれた句碑を見つける。

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松尾芭蕉の句碑

 これは、元禄7年(1694年)に松尾芭蕉が江戸をたち、伊賀へ帰るときに川崎宿に立ち寄り、弟子たちとの惜別の思いを詠んだ句である。当時、このあたりは麦畑が多く、初夏の風にそよぐ麦の穂に寄せて、いつまた会えるかという別離に堪える気持ちを表したものといわれている。この句は、松尾芭蕉が関東で詠んだ生涯最後の句となった。この年の10月に、松尾芭蕉は「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」という句を最後に大阪で亡くなっている。

3.無縁塚

 ここから進行方向を見ると、八丁畷(はっちょうなわて)駅が見える。

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八丁畷駅

 「八丁畷」は昔このあたりに人家がなく、畑のなかをまっすぐに八丁(約870m)もあぜ道(畷)が続いていたことに由来する。

 京急の踏切を渡り、南へ進む。すると左側に無縁塚があるのを見つける。

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無縁塚

 ここからは多くの人骨が発見され、この人骨は江戸時代に亡くなった人のものと鑑定されている。なぜここから多くの人骨が見つかるのか。それは川崎宿が震災や大火、疫病などに襲われるたびに多くの人が命を落としており、そのときに発生する身元不明の遺体を川崎宿のはずれであるここにまとめて埋葬したのではないかと推測されている。この不幸にして亡くなった人たちを供養するため、昭和9年(1934年)に慰霊塔を建て、これが無縁塚と呼ばれるようになった。現在でも地元の人々によって供養が続けられている。

 市場上町交差点を渡ると、横浜市鶴見区に入る。川崎市区間は、結構あっという間に終わってしまった。ここからは横浜市なのだが、神奈川宿横浜市、その次の保土ヶ谷宿横浜市、その次の戸塚宿も横浜市である。その次、藤沢宿になってやっと藤沢市に出る。つまり、しばらく横浜市が続くことになる。

4.熊野神社

 しばらく歩いていくと、右側に神社が見える。熊野神社だ。

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熊野神社

 弘仁年間に熊野本宮の分霊を勧請したのが始まりで、江戸入国のときに徳川家康も参詣している。明治5年(1872年)に新橋横浜間に鉄道が開通するのにあたり、境内と線路が交差するため現在地に遷座した。

5.市場の一里塚

 しばらく歩くと左側に小さな丘を見つける。これが市場の一里塚である。

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市場の一里塚

 日本橋から5番目の一里塚である。一里塚は街道に一里ごとに整備されていることは知っていたが、本物は初めて見た。実際、ほとんど残っていない。本来は街道の両側に一里塚があったようだが、現在の市場の一里塚は左側の塚のみとなっている。一里塚の上には榎を植えることになっており、この一里塚にも昭和初期まで榎が残っていたようだ。平成元年(1989年)に横浜市地域文化財として登録された。

 また、このあたりの地名「市場」はこの地が海辺にあり、漁業や塩の生産が盛んで、天文年間には魚介の市を開設し大いに栄えたことからきている地名である。

6.鶴見橋関門旧跡

 鶴見川鶴見川橋で越える。

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鶴見川

 昔、鶴見川はたびたび洪水を起こしたといわれているが、その一方で船便が盛んで、大正末期までは船の往来が多く、たいそう賑やかだったらしい。

 江戸時代の鶴見橋は、長さ25間、幅3間の板橋で、大山や箱根の山々がよく見えたらしい。現在は残念ながら見ることはできない。また、鶴見橋には、名物「よねまんじゅう」を商う店が多く、市場村だけでも40軒あったらしいが、これも見当たらなかった。

 そのまま進むと左側に鶴見橋関門旧跡と書かれた石碑を見つける。

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鶴見橋関門旧跡

 これは、幕末の頃、横浜開港とともに攘夷派が外国人に襲いかかる事件が続発したため、英国総領事オールコックから浪士取り締まりのために関門を設置するよう要求があり、幕府はこれを受けて関門を7ヶ所設置した。そのうちのひとつが鶴見橋関門だった。後で紹介するが、生麦事件以降、警備が強化され、川崎宿から保土ヶ谷宿の間に20ヶ所も見張番所が設けられ、この鶴見橋関門は第5番の番所だった。世情の安定のため、明治4年(1871年)に廃止され、現在は石碑だけが残っている。

7.鶴見神社

 少し進むと「寺尾稲荷道」と書かれた石碑を見つけた。

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寺尾稲荷道

 これは東海道と寺尾稲荷神社に向かう道との分岐点に置かれた道標である。やけに見た目が新しいが、これは複製品で、本物は鶴見神社境内にある。

 そのまま進み、鶴見駅東口入口から数えて2つ目の交差点を振り返ると、鶴見神社がある。

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鶴見神社

 鶴見神社は、鶴見村の総鎮守である。杉山大明神と牛頭天王社の二社を祀っている。祭神は杉山大明神が五十猛命(いそたけるのみこと)、牛頭天王社素戔男尊(すさのおのみこと)である。

 鶴見神社の創建は推古天皇の御代(約1400年前)と伝えられており、横浜・川崎で最古の神社であるとされている。また、神社境内ということで開発もされなかったのか、境内に貝塚が発見されている。

 本殿に参詣し、奥に進んでいくと先ほどの「寺尾稲荷道」の道標を見つけた。

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寺尾稲荷道

 こちらは横浜市地域有形民俗文化財に指定されている。確かに複製品があった位置にあると破損の危険があるかもしれないが、かといって道標は移すと半分意味がなくなってしまう。そう考えると道標の保管方法として、本体は安全な場所に、そして本来あった場所には複製品を置くのがよいのかもしれない。

 そして一番奥には富士塚があった。

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富士塚

 富士塚とは江戸時代に起こった富士信仰で造られた人工の小さな富士山である。江戸では富士信仰が盛んなので至るところに富士塚があるが、東京以外で富士塚を見たのは初めてだった。

 

 そのまま進み、京急線のガード下をくぐり、さらに南進する。

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 ベルロードと書かれたアーケードをくぐり、進んでいく。

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 今までは「旧東海道」と書かれた看板がどこかにあり、道の確認が取れていたのだが、ここにはこういったものが一切ないので道を間違えたのか、不安になってしまった。そのなかで「旧東海道鶴見」と書かれた小さな石碑を見つけ、「間違ってなかった」と安堵した。

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 鶴見があまり「東海道」と主張していないのは、宿場ではないからだろうか。

 鶴見駅周辺は商店街があるが、そこを過ぎるとだんだん住宅地になっていく。歩いていて少し退屈だが頑張って歩いていく。

8.道念稲荷神社

 しばらく進むと、鳥居がたくさん連なっている稲荷神社を見つける。道念稲荷神社だ。

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道念稲荷神社


 伝えられるところによると、身延山久遠寺奥の院のさらに奥の七面山で修行を積んだ道念和尚が旅の途中、ここに立ち寄った際に稲荷社を建てたことからこの名がついた。

 この神社は無人の小さい神社だが、祭祀である「蛇も蚊も祭り」は横浜市指定無形民俗文化財に指定されている。

9.生麦事件

 生麦事件は日本史のなかでも有名な事件なので、「生麦」という言葉を聞くとこの事件を連想する人が多いだろう。その生麦事件の発生現場があった。

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生麦事件発生現場

 生麦事件とは、薩摩藩とイギリスの間に起こった事件である。文久2年(1862年)8月、江戸から帰国の途にあった薩摩藩島津久光の行列にリチャードソン、クラーク、マーシャル、ボロデール夫人の4人のイギリス人の乗った馬が行列を横切ろうとした。薩摩藩の武士は4人に指示したが、言葉が通じなかったため4人は指示に従わなかった。これを無礼とした薩摩藩の武士が斬りかかり、リチャードソンは殺されてしまった。残り3人のうち2人は傷を負ってアメリカ領事館まで逃げ込み、残り1人は居留地まで逃げた。

 この事件に対してイギリスは幕府に10万ポンド、薩摩藩に25,000ポンドの賠償金および犯人の逮捕を要求した。幕府はこの要求に応じたものの薩摩藩は応じなかったため、文久3年(1863年)イギリス艦隊は薩摩藩を攻撃した。薩摩藩も抵抗してイギリス艦隊を追い払った。これが薩英戦争である。幕末に外国と戦争をした薩摩藩は、西洋文明の力を体験したことで単純な攘夷論では国を守れないことを悟った。

 しばらく進むと生麦事件碑を見つける。

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生麦事件

 これは明治16年(1883年)12月に、リチャードソンが命を落とした場所の土地を所有していた黒川荘三が、自由民権思想の啓蒙に貢献した中村正直に撰文を依頼して建立した。事件の起きた8月21日には毎年記念祭が行われている。なお、リチャードソンの墓は山手の外国人墓地にある。

 少し東海道から離れているので今回は行かなかったが、「生麦事件参考館」もあるので、興味のある人は行ってみてもよいと思う。

 ここで国道15号線に合流し、南へ進んでいく。

10.遍照院

 国道15号を進んでいくと、右手側に気になる寺院があったので寄ってみる。遍照院だ。

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遍照院

 この山門の前に踏切があり、その前に灯篭がある。これは分断参道ではなかろうか、と気になった。たどりついたときは遮断機が下りていて、その前を京急の電車が走っていった。別名踏切寺とも呼ばれているらしい。

 遍照院のある右手側とは反対側に、東子安一里塚の看板がある。

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東子安一里塚

 この一里塚は市場の一里塚とは違い、残っているものはこの看板のみである。市場の一里塚から一里(約4km)進んだのか、と感慨に耽るだけだった。

11.トマトケチャップ発祥の地

 今ではどの家庭にもあるトマトケチャップだが、これが生まれたのはここ、子安らしい。安政6年(1859年)の横浜開港によって、日本に西洋野菜が入ってきた。文久2年(1862年)に居留外国人ローレイロが菜園を作ったのを皮切りに、多くの外国人が山手に農場を開設した。子安で西洋野菜栽培が始まったのは慶応2年(1866年)頃で、ここから西洋野菜栽培はどんどん盛んになっていった。明治27年(1894年)には子安の清水與助がトマトケチャップ製造会社の清水屋を始めた。このことを記念して、ここにトマトケチャップ発祥の地の碑がある。

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トマトケチャップ発祥の地

 トマトケチャップが横浜発祥とは、知らなかった。

12.神奈川通東公園

 浦島町交差点を過ぎると、神奈川宿に入る。

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浦島町交差点

 品川宿川崎宿は宿場町の風情があり、「宿場に入ったな」という感覚があったのだが、ここは国道15号上、あまり宿場に入った感覚はしなかった。

 浦島町交差点を過ぎて2つめの交差点を右折すると、神奈川通東公園がある。

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神奈川通東公園

 ここは神奈川宿の江戸方見付で、旧本陣石井家に伝わる「神奈川町宿入口土居絵図」によると街道両側に高さ2.5mほどの土塁が築かれ、その上には75cmの竹矢来が設けられていた。ここには長延寺という寺院があり、ここは横浜開港当時、オランダ領事館にあてられた。公園内に「史跡 オランダ領事館跡」と書かれた石碑がある。

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オランダ領事館跡

 国道15号に戻り、南に進むと良泉寺がある。

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良泉寺

 神奈川宿の多くの寺院が外国の領事館にあてられるなか、この寺の住職は本堂の屋根を剥がし、修理中であるからと断った。よほど領事館として使用されるのが嫌だったのだろう。

13. 笠䅣稲荷神社

 良泉寺の先を右に曲がり京急の線路をくぐると、 笠䅣稲荷神社がある。

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笠䅣稲荷神社

 笠䅣(かさのぎ)という変わった名前は、笠を被った人がこの神社の前を通り過ぎるとその笠が脱げて落ちてしまうことからこの名がつけられたそうだ。

14.神奈川本陣跡と青木町本陣跡

 国道15号に戻り、しばらく進むと神奈川本陣跡と青木町本陣跡と書かれた案内板を見つける。

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神奈川本陣跡と青木町本陣跡

 滝の川を挟んで、石井本陣と鈴木本陣の2つの本陣が向き合うようにして立っていた。石井本陣は神奈川町にあったので神奈川本陣と呼ばれ、鈴木本陣は青木町にあったので青木本陣と呼ばれていた。

15.洲崎大神

 滝の川を滝の橋で渡り、しばらく行くと右手側に宮前商店街がある。

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宮前商店街

 ここが旧東海道なので商店街に入っていく。少し進むと洲崎大神がある。

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洲崎大神

 洲崎大神は青木町の総鎮守である。境内の大アオキから青木町の名前がついたという。

 石橋山の合戦に敗れ、海路、安房へ渡った頼朝が再起を安房神社に祈願し、その大願が成就できたため、陸路で参詣できるこの地に社を建てて祭神を分霊して祀った。祭神は天太玉命(あまのふとだまのみこと)、天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)、大山咩命(おおやまぐいのみこと)である。

 現在は埋め立てが進み内陸にある洲崎大神だが、かつてこの下はすぐ海で、船着場があり、横浜開港後は開港場と神奈川宿との渡船が行き交っていた。そのため河岸に警備陣屋が置かれていた。

 このまま西に進んでいくと神奈川駅に到着する。

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神奈川駅

 今回の東海道歩きはここまでとし、次回は神奈川駅から保土ヶ谷駅まで歩いていく。

 

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今回の地図①

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今回の地図②

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今回の地図③

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2021年9月24日

 

【参考文献・参考サイト】

風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016) 「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

鶴見神社 鶴見神社の歴史

https://tsurumijinja.jp/history/

(2021年9月29日最終閲覧)