10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

坂東三十三観音をめぐる 7.座間・海老名編

 前回、第15番札所・長谷寺と第16番札所・水澤寺に参拝しつつ高崎・渋川をめぐった。今回は第8番札所・星谷寺に参拝しつつ座間・海老名をぶらぶらしようと思う。星谷寺は座間市の寺院なので座間市だけで成立させたい気持ちもあったが、あまり見どころがなかったので星谷寺だけ参拝して海老名市へ向かってしまった。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.星谷寺

 今日は座間駅から出発だ。

座間駅

 

 歩き始めてすぐ、座間市のマンホールを2種類見つけた。

 まず、これは座間市のデザインマンホール。これは座間市の花「ヒマワリ」が3輪彩られたデザインとなっている。

座間市 デザインマンホール

 

 こちらは座間市章。「ザマ」を図案化したもので、円形は座間市の融和と団結をあらわし、翼は市勢の飛躍発展を象徴している。

座間市章マンホール

 

 座間駅から歩いて10分ほどで星谷寺に到着した。

 星谷寺境内にある嘉禄3年(1227年)鋳造銘のある梵鐘には、「大檀那源朝臣信綱」の銘がある。

 寄進者の源信綱は平治の乱(平治元年(1159年))の落武者で、渋谷荘司渋谷重国に20年間仕えた佐々木秀義の孫である。

 鐘は平安様式を残しながら鎌倉様式も見られ、撞座(つきざ)が1つしかないのが珍しい鐘となっている。

 鐘を制作したのは源吉国で、源姓鋳物師の神奈川県内における最古の鐘である。

星谷寺 梵鐘

 

 星谷寺は飛鳥時代・奈良時代、行基によって創建されたと伝えられる古刹であり、坂東三十三観音第8番札所である。

星谷寺

 

 堂内に上がって参拝し、御朱印をいただこうと寺務所で声をかけると、「そこの自動販売機で券を買ってください」と言われた。よく見ると「納経帳」「御姿」などが書かれた自動販売機がカウンターの横に置かれていた。「こういうの、初めて見た…」と呟きながら自動販売機で券を買い、御朱印帳とともにカウンターに出したら数分で御朱印帳と御影をいただくことができた。

星谷寺 御朱印

星谷寺 御影

 

2.相模国分寺跡

 星谷寺をあとにして、座間駅に戻る。電車に乗って、海老名駅で降りる。

海老名駅

 

 海老名駅は海老名市にあるので、マンホールのデザインも違う。

 海老名市の木と花であるツゲとサツキ、そして海老名市のシンボルである相模国分寺跡の七重塔があしらわれ、周りは汚水が浄化されながら雫になっていく様子を表現している。

海老名市デザインマンホール

 

 海老名市章マンホールもある。市章周囲の円は「エビナ」を図案化したもので平和を象徴している。また中央の形は鳥を表し、大きな飛躍を示唆している。

海老名市章マンホール

 

 海老名駅から歩いて15分ほどで「国分寺そば」に到着した。

国分寺そば

 

 人気店のため少し待ってから座席に着席、蕎麦が出てきたのは店に到着してから20分後。店の前の行列から「これは待つかも…」と思ったが、意外と待たなかった。注文したのは鴨せいろそば。

鴨せいろそば

 実は私、鴨肉が結構好きだったりするのだが、鴨肉のぷりぷり具合と蕎麦ののど越しが絶妙で美味しかった。

 

 店をあとにして、相模国分寺跡をめぐる。

相模国分寺跡

 

 相模国分寺跡では昭和40年(1965年)から翌年、および平成2年(1990年)以降の発掘調査の結果、東西160m・南北240mの回廊中央部に講堂が、南側中央部に中門がおかれ、回廊内部の東側に金堂、西側に七重塔を配した、法隆寺式の伽藍配置をもつことが判明している。

 国分寺では武蔵国分寺(東京都国分寺市)についで全国第2位の規模で、創建は出土瓦と敷地内で発見された建立以前の竪穴住居跡の年代から奈良時代中頃と推定されている。

 相模国分寺跡遺跡からは建物の礎石や瓦のほか、七重塔の頂上の金銅製水煙の一部も発見された。

 塔と金堂の礎石は近年の石材分析から、中津川・小鮎川・玉川などの流域から運んだものとわかった。

 現在、海老名市は、この史跡の歴史公園整備計画を順次進め、平成6年(1994年)には約21m四方の七重塔の基壇部分を昔どおりに復元し、平成10年(1998年)以降は中門跡と南回廊跡・僧坊跡の復元工事を完了した。

 

 大型建物跡・区間溝。

 大型建物跡は南北9m、東西33.8m以上の建物跡が発掘されたが、柱の並びが等間隔でないため、複数の建物であった可能性がある。

 区間溝は上幅約1.2m、下幅約1.0mで寺域を区画していたと推定される。

大型建物跡・区間溝

 

 僧坊跡。僧坊とは、国分寺の僧が集団生活をしていた施設のことで、僧坊は塔、金堂、講堂とともに奈良時代の寺院を構成するために必要な建物だった。

僧坊跡

 

 北方建物跡は昭和41年(1966年)に行われた発掘調査で東西9m以上、南北6mで南側に廂(ひさし)がある掘立柱(ほったてばしら)建物跡であることが判明した。

北方建物跡

 

 塔跡は天平13年(741年)の「国分寺建立詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)」をうけて建てられた七重塔の跡である。なお、完全に子供の遊び場となっていた。

塔跡

 

 中門・回廊跡には塔・金堂など主要な建物を囲む回廊とそのなかに入るための正門である中門があった。

中門・回廊跡

 

 実は、国分寺は今も続いているので向かってみようと思う。

 途中にあったのが海老名の大ケヤキで、根回り15.3m、目通り7.5m、樹高20mの巨木であるが、保護されたり支えられたりで、台風が来たら倒れるのではと思ってしまう。

海老名の大ケヤキ

 

 相模国分寺跡から5分ほどで国分寺に到着する。名前通り天平9年(737年)創建の古刹である。あとで海老名市の国分寺に行った話を職場の御朱印マニアに話したら御朱印がもらえたらしいことが判明した。

国分寺

 

 星谷寺の梵鐘は古いものだったが国分寺の梵鐘も正應5年(1292年)の古いもので、寄進者は源季頼。

国分寺の梵鐘

 

3.海老名市温故館~1階展示~

 国分寺から相模国分寺跡まで戻り、相模国分寺跡の隣にある海老名市温故館に入る。

 海老名市温故館は大正7年(1918年)に海老名村役場庁舎として建築されたものを一部移築保存し、復元したもの。

海老名市温故館

 

 秋葉山古墳群の出土品。秋葉山古墳群は海老名市内の古墳群で、発掘調査の結果、およそ1,700年前頃にこの地域を統治していた歴代権力者の墓として造られたことが判明した。

秋葉山古墳群の出土品

 

 土器のなかにキラッと光るものが見える。これは水銀朱で、古代中国において鮮やかな色や防腐効果があることから、不老不死を願う仙薬として使われていたものである。古代中国では不老不死を願って水銀を飲んだという話は聞いたことがあるが、むしろ寿命を縮めているのでは…と思うのは現代人の発想である。

水銀朱

 

 滑車形耳飾。縄文時代のアクセサリーらしいが、装着イメージ図を見ると、現代でも稀に見る巨大ピアスを開けている人のように見える。痛いのが苦手な上に、皮膚炎になりやすいためピアスを開けていない私には無理なファッションだなと思う。

滑車形耳飾

 

 古墳時代中期の鉄剣。現存する長さは80.3cmだが、茎(なかこ。把(つか)を装着する部分。)が欠損しているため、実際はもっと長かったと思われる。

古墳時代中期の鉄剣

 

 相模国分寺跡の模型。

 国分寺は奈良時代の天平13年(741年)2月、聖武天皇の詔(みことのり)により鎮護国家・鎮災到福(ちんさいちふく)を祈るため国ごとに設置された官寺で、僧寺を「金光明四天王護国之寺」、尼寺を「法華滅罪之寺」という。この模型は実物の100分の1で作成されているようだ。

相模国分寺跡の模型

 

 均整唐草文軒平瓦(きんせいからくさもんのきひらがわら)と珠文縁単弁五葉蓮華文軒丸瓦(じゅもんぶちたんべんごようれんげもんのきまるがわら)。いずれも相模国分寺跡の塔跡で発掘された、奈良時代の瓦である。

均整唐草文軒平瓦と珠文縁単弁五葉蓮華文軒丸瓦

 

 こちらは珠文縁単弁八葉蓮華文軒丸瓦(じゅもんぶちたんべんはちようれんげもんのきまるがわら)と偏行唐草文軒平瓦(へんこうからくさもんのきひらがわら)。こちらは相模国分尼寺跡の金堂跡で発掘された。相模国分尼寺跡は行くか一瞬検討したが、少し歩くのと雨が降っていたのでやめておいた。

珠文縁単弁八葉蓮華文軒丸瓦と偏行唐草文軒平瓦

 

 密教では物質を構成する要素を地・水・火・風・空の5元素であるとする。これを下から上へと積み上げて塔の形にし、大日如来を表したものが五輪塔である。

五輪塔

 

 板碑とは板状の石で造られた供養塔で、鎌倉時代から室町時代に造られた。板碑の身部には仏像をあらわす梵字(種子)が刻まれ、造立年代が彫られるのが一般的で主尊に阿弥陀如来を表す梵字「キリーク」を刻むものが多くみられる。

板碑

 

4.海老名市温故館~2階展示~

 海老名市温故館の2階に向かう。ここには古い道具がいろいろ展示されている。

 タイプライター、電子計算機、蓄音機。これら全てがパソコンやスマホで現代はまかなえてしまう。

タイプライター、電子計算機、蓄音機

 

 手回しミシン。ドイツ製らしい。ちなみに私は中学校や高校の実習でミシンを使った記憶があるが、不器用なのもあってあまりうまく扱えず、授業に全部参加していたのに補習になった記憶がある。でも、今はミシンが使えなくても良い職業にいるので、あまり気にしていない。

手回しミシン

 

 そろばん。そろばんも小学校でやった記憶があるがあまり覚えていない。そろばんだけでも古いものだが、さらに古いもの(明治中期以前)は下の部分の玉が4個ではなく5個であるのは知っている。

そろばん

 

 展示を見ていたら突然お不動様がおられた。海老名市国分杉本で行われていた不動講の道具で、毎月27日に主催者の家に集まって不動尊の前でお経を唱えていたらしい。

お不動様

 

 綿繰(わたくり)。綿花から種子を取り除く器具で、一対のローラーに乾燥させた綿花を通すと繊維が先に繰り出され、種子のみが手前に残る仕組みらしい。

綿繰

 

 練炭。固形燃料で、燃焼をよくするため縦に数個の空気穴が開けられている。密室で燃やしたら大変なことになるやつ。

練炭

 

 足踏脱穀機。稲の穂先から籾を脱穀する道具で、踏み板を踏むと胴が回転し、穂先を当てると籾がはじき出される仕組みになっている。

足踏脱穀機

 

 精米機。玄米の精白に使用する。タンクに玄米を入れると玄米がタンクと精白部の間を自動循環しながら精白され、糠が網目から落ちる。

精米機

 

 「海老名・なつかしの鉄道」という資料展が行われていたので、そちらも紹介する。

 タブレット通票。相模線は単線で列車同士の衝突を防止するため一定区間を閉塞し、閉塞した区間には1列車しか入れないようになっていた。電化前はタブレットと呼ばれる通行票を閉塞器に入れることで列車が入れるようになっていたが、電化に合わせて自動閉塞となった。

タブレット通票

 

 相鉄5000系さよなら記念乗車券。相鉄には5000系が初代、5100系、2代目5000系がいたが、これは2代目5000系の運用終了の平成21年(2009年)に発売されたものらしい。

相鉄5000系さよなら記念乗車券

 

 高座郡海老名村耕地附近平面図。昭和13~15年(1938~1940年)頃作成。相模川中流域の町村を描いた手書き地図で、当時の鉄道路線、駅、役場、学校の位置などが記されている。

高座郡海老名村耕地附近平面図

 

 海老名市温故館の展示を一通り見終えたところで、海老名市のマンホールカードを入手した。ついでにこのマンホールは七重塔の近くにあることも教えてもらった。

海老名市マンホールカード

 

 海老名駅まで歩く。すると、駅前の商業施設、ビナウォークのなかに七重塔のモニュメントがあった。このモニュメントは平成4年(1992年)の海老名市市制施行20周年記念で建てられたもので、相模国分寺の七重塔の1/3縮小版らしい。

七重塔モニュメント

 

 ビナウォークでは何やらイベントをやっていたのでマンホールが確認できるか少し不安だったが、足下を探していくと、カラーマンホールを見つけることができた。

海老名市カラーマンホール

 

 海老名駅に戻り、まちあるきはここで終了だ。

海老名駅

 

 本日は日曜日。明日は仕事。ということで、サウナでもキメるか…と思い、海老名駅からかしわ台駅に移動した。

かしわ台駅

 

 かしわ台駅から10分かからないくらいで、「おふろの王様 海老名店」に到着した。

おふろの王様 海老名店

 

 おふろの王様 海老名店の温泉はナトリウム塩化物温泉で、少し塩の味がした。サウナを3セットキメた上で温泉に入り、最近肩こりが気になっていたのでマッサージチェアにマッサージしてもらい、夕飯にまぐろ丼を食べて帰路についた。

まぐろ丼

 

 星谷寺は座間駅から歩いて行けるという、坂東三十三観音のなかでもトップクラスにアクセスの良い寺院だが、行ったタイミングで参拝者は私ともう一人くらいしか見なかった。ただ札所寺院はこれくらいのほうがよいのかもしれない。

 相模国分寺跡はかなり広い史跡公園となっており、現在は寺跡というより、完全に地域の子供たちの遊び場になっていた。

 海老名市温故館は無料だが展示が充実していた。海老名村役場の再利用なので、建物自体も趣がある。

 なお、これで神奈川県内の坂東三十三観音はコンプリートとなる。

 私の知らない神奈川が、まだまだありそうだ。

位置情報マップ

歩いた日:2026年6月7日

【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会(2011)

「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

坂東札所霊場会(2019) 「坂東三十三所観音巡礼」 株式会社朱鷺書房

座間市 市の魅力が詰まったデザインマンホール蓋と友好交流都市のデザインマンホール蓋を設置

https://www.city.zama.kanagawa.jp/kurashi/suidou/gesuidou/oshirase/1009566.html

座間市 市章

https://www.city.zama.kanagawa.jp/youkoso/shokai/symbol/1003609.html

海老名市 海老名市のマンホールカードについて

https://www.city.ebina.kanagawa.jp/guide/sumai/gesui/1017802/1013343.html

(2026年6月27日最終閲覧)

関東三十六不動をめぐる 10.石神井公園編

 前回、第10番札所 總持寺に訪れながら西東京を歩いた。今回は第11番札所 三宝寺に訪れながら石神井公園周辺をぶらぶらしようと思う。石神井公園は、池袋駅から西武池袋線に乗ってすぐ行けるのに、あまり行ったことがなかったので新鮮な気持ちで歩けた。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.石神井火車站止所の碑

 今日は石神井公園駅から出発だ。

石神井公園駅

 

 現在時刻は10時過ぎ。昼食は食べない予定なので、モーニングをがっつり食べておこうと思う。向かったのは、石神井公園駅前の上島珈琲店。

上島珈琲店

 

 頼んだのはベーコンエッグ&厚切りバタートースト。普段は朝食は食べないか、ウィダーか、グラノラかの生活をしているので、これだけでも丁寧な暮らしをしている感じになる。

ベーコンエッグ&厚切りバタートースト

 

 上島珈琲店のモーニングでお腹いっぱいになったらまちに出かけよう。

 石神井公園駅前に石神井 火車站(かしゃたん)止所の碑がある。

石神井火車站止所の碑

 これは大正4年(1915年)、ここに武蔵野鉄道が開設され、ここに石神井公園駅ができた。これを喜んだ土地の人々が、お金を出し合って碑をつくった。

 なお、「火車站」とは、汽車の駅を意味する。中国流には、「フォーシュータン」と読むそうだ。

 

 石神井火車站止所の碑には近くにある石神井城などの見どころも紹介してあるそうだが、漢文だったので何が書いてあるのかわからないなぁ、と思いながら次の目的地に向かう。途中で、練馬区章の描かれたマンホールを見つけた。

練馬区マンホール

 練馬区の紋章は練馬区が平和で健康で、明るいまちに発展していくようにという願いをこめて、昭和28年(1953年)12月に制定された。

 デザインはカタカナの「ネ」の字と「馬のひづめ」を組み合わせ、図案化したものだ。

 

2.石神井公園ふるさと文化館~練馬大根~

 石神井火車站止所の碑から歩いて15分ほどで池淵遺跡がある。池淵遺跡は現在から約5,000年前の住居跡で、昭和47年(1972年)の発掘調査によって発見された。

池淵遺跡

 

 池淵遺跡の隣に旧内田家住宅がある。旧内田家住宅は練馬区中村にあった民家を、平成22年(2010年)に移築したもの。明治20年代初めの建築と推定されており、一部に江戸時代の古材も使われている。

旧内田家住宅

 

 欄間は寄木細工で作られている。江戸時代に流行した、雪華模様に似ている。

旧内田家住宅 欄間

 

 縁側の桁材は、なんと1本の丸太で作られている。1本の丸太で作るのはよいのだが、いかんせん1本の丸太なので太さが場所によって違い、玄関側は根本なので太く、だんだん細くなっていく。丸太の太さによってガラス窓の大きさが調整されており、大工の技術力の高さが伺える。

旧内田家住宅 桁材

 

 旧内田家住宅の隣に、石神井公園ふるさと文化館がある。石神井公園ふるさと文化館は練馬区の歴史や伝統文化、自然などについて解説されている。

石神井公園ふるさと文化館

 

 平安時代末期から秩父平氏の一派が豊嶋氏を名乗り始め、鎌倉時代の末頃から南北朝時代にかけて石神井城・練馬城を拠点として周辺の開発に力を注いだ。

 豊嶋氏は上杉氏に従って活躍したものの太田道灌と対立した結果、文明9年(1477年)に石神井城は落城、豊嶋氏は滅亡した。

 石神井城の模型が展示されていた。なお、石神井城跡はこの後訪問する。

石神井城の模型

 

 練馬といえば、練馬大根である。

 江戸時代の元禄期、すでに人口100万を超えていた江戸では膨大な野菜の需要があり、それにこたえるように練馬大根の栽培は発展していった。

 和食しかない当時でも、練馬大根ははりはり大根、汁物、ふろふき大根、たくあん漬け、切り干し大根などにされて消費されていった。

 はりはり大根だけ初めて聞いたので何か調べてみたら、生の大根で作る漬物のことらしい。

練馬大根の大根料理

 

 排泄はトイレで行う。これは当たり前のことだし、江戸時代の人も排泄は厠(かわや)で行っていた。

 しかし水洗トイレが普及した今は、排泄したあとに排泄物を下水に流すが、下水道が発達していなかった江戸時代は、排泄物はいったん溜めておくことになる。

 その溜めた排泄物を練馬の人たちは農作物と引き換えに回収して、練馬に持ち帰る。なんでそんなことをするのかというと、排泄物を農作物の肥料として使うためである。

 今では考えられないことだが、当時は下水が発達しておらず排泄物の処理に困っていたことや、排泄物すら肥料にして無駄にしない、そういう時代だったのである。

 中世ヨーロッパは「ベルサイユのばら」などで美しい世界だと思われがちだが、排泄をトイレで行うところまではよいのだが、その排泄物は路上に捨てられる。

 その結果伝染病が蔓延したり、排泄物を踏まないために女性のヒール靴が発達したりした。中世ヨーロッパは美しく見えるが、こう考えると日本の江戸のほうが余程衛生に気を遣っている印象がある。

 ここに樽と桶が展示されているが、左側の樽は練馬大根をたくあん漬けにするための四斗樽で、右側の桶は肥桶(こえおけ)、下肥(しもごえ)、つまり排泄物を運ぶのに用いていた。

四斗樽と肥桶

 

 「練馬大根にまつわるはなし」が展示されている。

 江戸幕府3代将軍・徳川家光が品川の東海寺に訪れたとき、沢庵和尚に「何か珍しい食べ物はないか?」と聞いた。

 沢庵和尚は「禅寺では贅沢をしないので、たくわえ漬けの香の物があるだけなのですが」と言ってたくわえ漬けを出した。

 家光はたくわえ漬けを食べて「これはうまい。以後、たくわえ漬けではなく、あなたの名前をとってたくあん漬けにしなさい。」と言い、以降たくわえ漬けはたくあん漬けになったという。

練馬大根にまつわるはなし

 

 徳川家光と沢庵和尚のやり取りとしては、以前こんな話も紹介している。

 家光が、沢庵和尚に対して「なぜ、ここは海から近いのにトウ海寺(東海寺。「遠い」とかけている。)と言うのかね?」と聞くと、すかさず沢庵和尚が「それは、大軍を率いるお方でもショウ軍(将軍。「小」とかけている。)と言うのと同じですよ。」と答えた、というエピソードがある。このやりとりが行われた場所が「問答河岸跡」として現在も品川に残っている。深く考える必要はない。ただのダジャレだから。

 このエピソードに関しては「東海道を歩く 2.品川駅~川崎駅 前編」や「江戸三十三観音をめぐる 13.品川編」で紹介している。

octoberabbit.hatenablog.com

octoberabbit.hatenablog.com

 

 練馬大根が展示されている。その昔、練馬大根作りの名人とされた又六という人物が一尺八寸(約55cm)の巨大な練馬大根の栽培に成功したそうだが、それくらい大きく見える。

練馬大根

 

3.石神井公園ふるさと文化館~としまえん~

 練馬区は、実は23区のなかで一番の新参者であるということは御存知だろうか。

 まず、明治22年(1889年)に東京市が発足した。最初から政令指定都市のような扱いで、東京市発足と同時に麴町区、神田区などの15区が発足した。

 昭和7年(1932年)、東京市は周辺町村と大規模合併を行い、合併された地域も区が新設され、35区になった。このとき練馬区の地域であった大泉村、石神井村、上練馬村、中新井村、下練馬村は東京市に編入され、板橋区になった。昭和18年(1943年)に東京市は廃止、35区がそれぞれの行政区になる。

 昭和22年(1947年)3月、太平洋戦争の東京大空襲等により人口が減少したため、区の再編が行われ、35区あった行政区が22区に統合された。なお、この時点でまだ練馬区は登場していない。

 練馬区は、戦前期から板橋区からの分離運動を行っていたようだが、結局それが受け入れられるのは昭和22年(1947年)8月のことであり、練馬区の分離をもって現在の東京23区が完成した。

練馬区の変遷

 

 護符。旧内田家住宅の屋根裏に貼られていたもので、武蔵国御嶽神社(青梅市)、榛名神社(群馬県高崎市)、阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)、成田山(千葉県成田市)、富士山本宮浅間神社(静岡県富士宮市)の護符が並ぶ。このうち、榛名神社と阿夫利神社、成田山は割と最近行ったし、阿夫利神社はブログに取り上げている。

護符

榛名神社(改修中)

阿夫利神社

成田山

octoberabbit.hatenablog.com

 

 練馬区には、その昔「としまえん」という遊園地があったことを覚えている人は多いだろうか。

 としまえんは大正15年(1926年)から94年間営業して、令和2年(2020年)に惜しまれながら閉園した遊園地である。私も閉園間際のとしまえんに友人と行って、写真を撮ってきたことを思い出す。

としまえん

 これは昭和13年(1938年)および昭和16年(1941年)に刊行されたとしまえんの地図である。

 昭和12年(1937年)に日本企業株式会社による経営となったため、豆汽車や飛行船などのおもちゃが設置され、「スポーツランド」として整備された。

 昭和16年(1941年)頃、としまえんは練成会(特定の目的のために集まって共同生活を送りながら教えや技術を学んで心身を鍛錬する行事)に使われていた。いかにも戦時下っぽい行事である。

としまえんの地図

 

 昭和63年(1988年)のとしまえん園内案内図。

 園の中央で一躍存在感を示しているバイキングの顔が取り付けられた大きな船は、昭和59年(1984年)に誕生した「フライングパイレーツ」で、地上45mから全長20m、120人乗りの大船が急降下と急上昇を繰り返す「人間の快感の限界」を再現したアトラクションらしい。

 昔は若干強がりで「絶叫系大丈夫だから」と言って乗ることもあったが(と言ってもディズニークラス以上は乗ることなかったけど)、今の人間関係で無理をする必要もない気がするので、見かけてもおそらく乗らないと思う。

としまえん園内案内図

 

4.石神井公園ふるさと文化館~アニメのまち練馬~

 練馬といえば、アニメ会社の土地、有名なものでは東映アニメーション株式会社の大泉スタジオは練馬区にある。

 東映アニメーションといえば、私が好きで観ている「プリキュア」シリーズや「ワンピース」の制作で知られる。撮影禁止だったが、「おジャ魔女どれみ」や「ハートキャッチプリキュア」のポスターも展示されていた。

 こちらは東映動画スタジオの第1号カメラで、当初は実写用のカメラをそのまま利用していたが、次第にアニメ撮影用の工夫を加えていった。

東映動画スタジオの第1号カメラ

 

 この大規模な装置はアニメーション撮影台。

 この撮影台は東映アニメーションで日本アニメの草創期から使用されていたもので、この撮影台で昭和35年(1960年)の西遊記や昭和52年(1977年)の宇宙戦艦ヤマト、昭和54年(1979年)の劇場版 銀河鉄道999などが撮影された。

アニメーション撮影台

 

5.石神井公園ふるさと文化館~絵葉書で名所めぐり~

 石神井ふるさと文化館に訪れたとき、企画展「絵葉書で名所めぐり―明治期から昭和戦前期の風景―」が開催中だったので、そちらも記録しておく。

 まず「帝都名所」という絵葉書が紹介されていた。これは大正9年(1920年)から大正12年(1923年)、関東大震災前の東京を写したもの。いろいろな絵があるが、このなかだと芝増上寺の山門は行ったことがあるし、過去にブログで紹介している。

「帝都名所」

芝増上寺山門

octoberabbit.hatenablog.com

 

 「帝都名所」。大正12年(1923年)前後の絵葉書。上野の西郷隆盛の銅像や日比谷公園の池は行ったことがあるし、現代でもほぼそのままなのが分かる。上野の西郷さんも過去のブログで取り上げたことがある。

「帝都名所」

上野西郷銅像

日比谷公園

octoberabbit.hatenablog.com

 

 最新撮影大東京六十景。昭和11年(1936年)から昭和20年(1945年)にかけての東京の写真集で、このなかだと浅草観音堂は行ったことがある。浅草観音堂は空襲で燃えたらしいので、この写真のものと私が撮ったものは、おそらく違う。あと、ブログで浅草寺も徹底特集したことがある。

最新撮影大東京六十景

浅草観音堂

octoberabbit.hatenablog.com

 

 石神井今昔。石神井のまちの昔の写真と現代の風景を比較している。道場寺、三宝寺、石神井氷川神社、三宝寺池や石神井池は後ほど行くので、お楽しみに。

石神井今昔

 

 川崎大師の絵葉書(明治40年(1907年)から大正7年(1918年)頃)。川崎大師は神奈川県川崎市の寺院で、以前ブログでも取り上げたことがある。

川崎大師の絵葉書

川崎大師

octoberabbit.hatenablog.com

 

 熱海大湯と熱海人車鉄道。熱海は赤羽駅から一本で行けることは知っていたが、実は行ったことがない。

 熱海人車鉄道は明治29年(1896年)に熱海・小田原間で全通した路線で、急な上り坂では客も降りて一緒に車を押したそうだ。たいそう疲れるだろうし、私はいても戦力にならなそうな気がする。なお、熱海人車鉄道の話題は以前「東海道を歩く 8-3.平塚駅~箱根板橋駅③ 6.小田原宿」で触れたことがある。

熱海大湯と熱海人車鉄道

octoberabbit.hatenablog.com

 

 尾山神社。尾山神社とは石川県金沢市にある神社で、山門が非常に特徴的な神社である。何年か前に、尾山神社の山門の写真は撮っていた。

尾山神社

尾山神社 山門

 

 「久能山全景」。久能山東照宮は静岡県静岡市にある神社で、現在も久能山に鎮座する。ここも数年前に行っていた。

「久能山全景」

久能山東照宮

 

 名古屋市東山動物園の鷲放養場と名古屋城。東山動物園は行ったことがないが、名古屋城はある。名古屋城は廃城令後も現存していたが残念ながら空襲で焼失、現在の名古屋城は戦後の再建である。この絵葉書の名古屋城は江戸期に建てられたもの。そういえば名古屋城もブログ化していた。

名古屋市東山動物園の鷲放養場と名古屋城

名古屋城

octoberabbit.hatenablog.com

 

 大礼記念大阪城公園。大阪城は以前に行ったことがあるし、直前の記事「東海道を歩く 53.守口駅~高麗橋」でも横を通り過ぎている。

 江戸期の大阪城は幕末にほとんど焼失したが、昭和5年(1930年)に再建された。当時は「鉄筋コンクリートで城を再建するなんて…」という意見もあったそうだが、結果的に鉄筋コンクリートで再建したからこそ空襲でも大阪城は燃えなかった。

 空襲は今後なくとも地震で倒壊する可能性は普通にあるので、「城の再建なら木造にこだわらず、耐震性などに十分配慮したもののほうがよい」と私は考えている。

大礼記念大阪城公園

大阪城

octoberabbit.hatenablog.com

 

 松山城、宇和島城天守閣、高知市街。松山城も宇和島城も江戸時代の天守閣がそのまま残っている。何年か前に愛媛県に出張で行ったことがあり、そのときにどちらも訪れた。

松山城、宇和島城天守閣、高知市街

松山城

宇和島城

 

 「絵葉書で名所めぐり―明治期から昭和戦前期の風景―」を見終わり、ロビーに出ると練馬区の全体模型がある。水平面は6,000分の1だが垂直面は1,000分の1とやや高めに作られている。やはり鉄道沿線の建物が高い。

練馬区の全体模型

 

6.道場寺

 石神井公園ふるさと文化館をあとにし、道場寺に向かう。

道場寺

 道場寺は豊嶋氏と最も関係が深く、石神井城主・豊嶋左近大夫景村の養子・兵部大輔輝時が、応安5年(1372年)に菩提寺にしたと伝えられている。

 豊嶋氏が滅びたあと一時荒廃したが、その後永禄5年(1562年)北条氏康から税金を一切とらないという寅朱印状を受けて、再び栄えた。その寅朱印状はいまも道場寺の寺宝として残されている。

 山門と鐘楼は昭和45年(1970年)に造られ、昭和49年(1974年)に三重塔が造られた。いずれも総ヒノキ造りである。

 

 境内を歩いていると、「護美箱」というものを見つけた。「これは何か?」と5秒くらい思案を巡らすと、気が付いた。「…ゴミ箱か!」

「護美箱」

 

 道場寺は武蔵野三十三観音の第2番札所であるので、御朱印をいただける。いつか武蔵野三十三観音もやってみたい。

道場寺 御朱印

 

7.三宝寺

 道場寺をあとにし、三宝寺に向かう。

 三宝寺は応永元年(1394年)に開山した。その後、太田道灌が豊嶋氏を滅ぼしたあと、石神井城内だった現在地に移した。

 寛永2年(1625年)及び正保元年(1644年)に、徳川家光が狩猟の際に三宝寺を休憩所としたので、三宝寺の山門は御成門と呼ばれるようになった。

 この御成門は文政10年(1827年)7月26日に建てられ、この後2回火災があったがその難を免れている。

御成門

 

 大黒堂・子育千体地蔵堂。

 昭和4年(1929年)に大黒堂は創建され、そのときに子育千体地蔵尊が合祀された。

大黒堂・子育千体地蔵堂

 

 観音堂がある。ここに武蔵野三十三観音の第3番札所の観音様が祀られている。

観音堂

 

 火伏稲荷社。

 昔、三宝寺付近で火災が起こったとき、境内の稲荷社に祀られていた老いた狐が火災について寺に知らせたためことなきを得て、稲荷社は火伏稲荷社と改称された。

火伏稲荷社

 

 境内に石碑が建ち並んでいるが、これは四国八十八ヶ所お砂踏霊場である。

 明治29年(1896年)、当時の住職・清護真事師が発願して造り始めたもので、当時第17番札所まではできたがその後中断、70年間そのままになっていた。

 昭和48年(1973年)、弘法大師の誕生1,200年記念事業のひとつとして、途中になっていた四国八十八ヶ所お砂踏霊場について檀信徒に呼び掛けてその完成を目指し、残り71ヶ所の石碑と高野山奥之院を模した大師堂を建てた。

 完成は昭和48年(1973年)と結構新しいが、現代でも四国八十八ヶ所をすべて巡るのはお金も時間もかかるので、これをぐるりと一周してみることにした。ちょっと足場が悪いところもあるが、概ね10分程度で一周できる。

四国八十八ヶ所お砂踏霊場

 

 宝篋印塔は天明元年(1781年)6月に建てられたもので、当初御成門近くにあった。しかし大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊したため、大正14年(1925年)に現在地に移建した。

宝篋印塔

 

 大師堂はかつては小堂であったが、昭和42年(1967年)の弘法大師誕生1,200年記念のときに改築された。四国八十八ヶ所の最後に参拝する、高野山奥之院を模している。

大師堂

 

 三宝寺の本堂に祀られる御本尊は不動明王で、こちらが関東三十六不動・第11番札所の不動明王ということになる。

 江戸時代の本堂は文久3年(1863年)に焼失、その後すぐ再建されたが明治7年(1874年)にまた焼失したため、しばらく再建されることはなかった。

 大正11年(1922年)にようやく再建の着工をみたが、大正12年(1923年)の関東大震災で中断し、昭和16年(1941年)に太平洋戦争でまた中断、再建がなかなか進まなかった。

 昭和26年(1951年)に第34世頼典和尚が継続して再建工事を進めた結果、昭和28年(1953年)にやっと本堂が完成した。明治期の焼失から79年後の再建である。

三宝寺 本堂

 

 鐘楼の鐘は延宝3年(1675年)の鋳造であるが、鐘楼は明治28年(1895年)の再建である。

鐘楼

 

 通用門は勝海舟の屋敷門だったようだが、所有者の都合により手放さざるを得なかったため、当時の練馬区長の斡旋もあり昭和35年(1960年)に三宝寺に移建された。

通用門

 

 三宝寺で御朱印をいただく。関東三十六不動の御朱印、関東三十六不動の御影と童子像、あと武蔵野三十三観音の第3番札所の御朱印をいただいた。

関東三十六不動の御朱印

関東三十六不動の御影と童子像

武蔵野三十三観音の第3番札所の御朱印

 

8.石神井氷川神社

 石神井氷川神社に向かう。

 応永年間(1394~1427年)に豊嶋氏が、武蔵一宮氷川神社(現在の埼玉県さいたま市)から分霊を石神井城内に勧請したものだと伝えられている。

 豊嶋氏が滅んだのちも石神井郷の総鎮守であり、戦前は郷社として格式の高い神社であった。

石神井氷川神社

 

 「外国硬貨専用 賽銭箱」…両替の手間があるから分けてあるのだろうが、ここにそんなに外国人観光客、来るかね…?と思ってしまう。

「外国硬貨専用 賽銭箱」

 

 石神井氷川神社で御朱印をいただいた。御朱印をいただくときに使った御朱印帳について、先日佐賀県有田町の陶山神社で買った磁器の御朱印帳でいただいたところ、これを見て神社の方が「ところでこの御朱印帳って何でできてるんですか?」と聞いてきたので、「磁器です。珍しいでしょ?」と答えた。珍しい御朱印帳を使ったため話題が生まれた。

石神井氷川神社 御朱印

 

9.石神井公園

 石神井公園のなかに、石神井城址がある。

 石神井城は鎌倉時代末に築かれた豊嶋氏の居城で、北の三宝寺池と南の石神井川にはさまれた台地上にある平山城である。

 発掘調査によると、広さは東西約350m・南北約100~300mで、掘と土塁を合わせると比高10mほどとなり、堅固な防御施設であったことが判明している。

 文明9年(1477年)に豊嶋泰経が太田道灌に敗れると石神井城も落城し、廃城となった。現在、城の内部の土塁と空堀の一部が残っている。

 なお、石神井城址はフェンスで囲まれ、立入禁止となっている。

石神井城址

 

 石神井城址から坂を下りていくと、三宝寺池がある。

 三宝寺池は武蔵野台地の代表的な湧水池であるが、周辺の宅地化に伴って年々湧水が減少し、現在は地下水をくみあげて補給している。

三宝寺池

 

 三宝寺池は禁猟区で、自生水草類が多く三宝寺池沼沢植物群落として国の天然記念物に指定され、ミツガシワ・カキツバタなどが保護の対象となっている。この日はちょうど、カキツバタが咲いていた。

 カキツバタといえば、在原業平がかきつばたという5文字を句の上に据えて読んだ、「からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」という句が有名だが、その句を詠んだ「三河国八橋」が現在の愛知県知立市にあり、それゆえに知立市はカキツバタを推している、という話を思い出した。

 なおこの話は「東海道を歩く 33.岡崎公園前駅~知立駅 6.知立市に入る」で取り上げている。

三宝寺池沼沢植物群落のカキツバタ

octoberabbit.hatenablog.com

 

 それにしても、「ここは尾瀬か」と錯覚したくなるほど美しい景色が広がっている。もっともここは尾瀬ではなく、練馬区である。

三宝寺池

 

 石神井公園には殿塚と姫塚がある。石神井城の落城のとき、城主・豊嶋泰経が家宝の黄金の鞍をおいた白馬にまたがり三宝寺池に入水し、娘の照姫も池に身を投じたという悲しい伝説があり、その後遺体を葬ったのが殿塚と姫塚らしい。

殿塚

姫塚

 

 石神井公園には石神井公園ふるさと文化館分室がある。

石神井公園ふるさと文化館分室

 

 石神井公園ふるさと文化館分室は練馬ゆかりの文化人に関する展示があるが、本館とは違い、漫画家コーナー以外は撮影禁止だった。

 漫画家コーナーだけ紹介させていただくと、この日展示されていたのはてしろぎたかし氏と森真理氏であった。

 てしろぎたかし氏は「スーパーフィッシング グランダー武蔵」「音速バスターDANGUN弾」などを発表している。

てしろぎたかし氏の原稿

 

 森真理氏は「銀のしっぽ」「くまモン」などを発表している。

森真理氏の原稿

 

 2階には作家・五味康祐氏が生前集めたオーディオ機器が展示されていたが、こちらに関しても撮影してよいかがわからなかったため載せないことにする。

 展示を見終え、ふとステンドグラスに目を移すと美しい光景があった。

 

 この後友人と会う約束があるので、石神井公園駅まで戻る。せっかくなので、石神井池の池畔を歩いて戻ることにした。石神井池は自然にできた池である三宝寺池と違い、昭和9年(1934年)に造成された池である。

石神井池

 

 石神井池のなかになんか白いものを見つけた。「聖衣」というイタリア産白大理石でできた彫刻らしい。

「聖衣」

 

 石神井公園駅まで戻ってきたので、この後友人と会い、帰路についた。

石神井公園駅

 

 石神井公園ふるさと文化館は無料でたくさんの情報に触れることができるため、おすすめである。私はそこに2時間滞在した。

 三宝寺は境内が広く、いろいろ見どころがあった。四国に行かずとも、四国八十八ヶ所巡りの御利益が得られるのもありがたい。

 三宝寺池は本当に美しく、「私は尾瀬に来たのか?」と錯覚してしまうほどだった。しかし池袋駅から電車で10分、歩いて20分ほどで行ける。リフレッシュしたいときにおすすめだ。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2026年5月10日

【参考文献・参考サイト】

練馬郷土史研究会(1977) 「練馬区の歴史」 名著出版

関東三十六不動霊場会(2017) 「関東三十六不動霊場ガイドブック」

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

練馬区 区章

https://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/kunogaiyo/aramashi/kusho.html

(2026年6月21日最終閲覧)

東海道を歩く 53.守口駅~高麗橋(最終回)

 前回、御殿山駅から守口駅まで歩いた。今回は守口駅から高麗橋まで歩こうと思う。2021年7月から始めた東海道は、ここ、高麗橋をもってグランドフィナーレとなる。最後に感慨に耽るとして、とりあえず、守口駅からの展開を話していく。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.守口宿を歩く

 今日は守口駅から出発だ。

守口駅

 

 大塩平八郎ゆかりの書院跡。現在はマクドナルドがあるだけだ。そこで朝マックを食べ、朝食とした。

大塩平八郎ゆかりのマクドナルド(?)

 

 東海道を歩き始めると謎のゆるキャラの自販機があった。このキャラは「もり吉」といい守口市のゆるキャラで、柴犬の5歳の男の子で守口漬が好きらしい。

 守口漬とは?と思い調べたところ守口大根(守口市に起源を持つダイコンの品種)を酒粕と味醂粕で漬け込んだ漬物のことだとわかった。

もり吉の自動販売機

 

 まっすぐな道が続く。この道は文禄堤の上にできている。

 文禄堤は豊臣秀吉が毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の3家に命じて、治水と京街道の整備を目的として修築した淀川左岸の堤防であり、文禄5年(1596年)に修築が行われたためこの名で呼ばれた。

文禄堤の上の道

 

 「右 なら のざきみち」と書かれた道標。「なら」は「奈良」とすぐわかったが、「のざき」は大東市にある慈眼寺(野崎観音)を意味しているようだ。

「右 なら のざきみち」

 

 守口宿は、遺構らしい建物はないが旧宿場町らしい情緒がある。

 

 守口駅から10分ほどで京阪本線・鴨東線の守口市駅に到着した。なお、前回の終点・今回の起点は守口駅と守口市駅で迷った結果、守口駅にした。

守口市駅

 

 守口市駅から歩いて10分ほどのところに守口市役所がある。なお、この日は祝日だったため、市役所は営業していない。

守口市役所

 

2.大阪市に入る

 「京街道 時空(とき)の道」と書かれた道標。裏を見たら「二〇一一年(平成23年(2011年))」と記載されていたのであまり古いものではない。

「京街道 時空の道」

 

 旭通商店街に入る。関東にはアーケード商店街はあまり残っていないので、アーケード商店街を見ると旅行先に来た気分になる。

旭通商店街

 

 アポロン橋のからくり時計マンホール。前回はモノクロ版しか見つけられなかったが、旭通商店街にはカラー版がある。

 

 商店街に入って3分ほど歩くと左手に神社の敷地らしきものが見えてくる。守居神社だ。

守居神社

 守居神社は社記によると延喜18年(918年)の淀川洪水のとき、西南石礫の渕で、「我は天道の神なり。我を祀れ。」と振鈴の声でお告げがあったので、「土を居いて」お祀りしたのが始まりと伝えられ、祭神は素戔嗚命(すさのおのみこと)である。

 社名は守口と土居(ここは以前「土居」という地名だった)の各1文字をとって「守居神社」と呼ばれている。

 

 参拝し、御朱印をいただいた。若干上に偏っているのが気になる。

守居神社 御朱印

 

 守居神社には稲荷神社もある。そちらも参拝しておいた。

守居神社 稲荷神社

 

 守居神社から歩いて5分ほどでOsaka Metro 谷町線の太子橋今市駅を通り過ぎた。

太子橋今市駅

 

 太子橋今市駅のほど近くに守口市・大阪市のカントリーサインがある。ついに最後の自治体、大阪市に入ったのだ。

守口市 カントリーサイン

大阪市 カントリーサイン

 大阪市のマンホールを見つけた。中央に大阪城を配し、そのまわりをサクラと水流で飾っている。

大阪市 デザインマンホール

 

 こちらは蛇口から勢いよく水が流れ出ているデザインに「水道」の文字が書いてある。

 

 こちらは大阪城、ツインビル、アクアライナー、大阪市役所の北側の堂島川(旧淀川)に架かっている水晶橋をデザインしたもの。

大阪市 デザインマンホール

 

 こちらはシンプルな大阪市章入りマンホール。大阪の繁栄は昔から水運や船によるところが多く、水路標識の「みおつくし」が明治27年(1894年)に大阪市章になり、現在も使われている。

大阪市章マンホール

 

 大阪城マンホール。「旭区」と書かれている。

旭区マンホール

 

3.関目神社

 太子橋今市駅から20分ほどで千林商店街に到着した。アーケードをくぐって、先に進む。

千林商店街

 

 千林商店街の一部が東海道(京街道)であるため、京街道の説明板がアーケード内にあった。

 

 千林商店街のアーケードを抜けても、商店街が続く。ここは森小路京かい道商店街というらしい。

森小路京かい道商店街

「森小路」「京かい道」

 

 橋を渡る。「古市橋」というらしい。

 古市橋が架けられたのは比較的新しく、工業用の船運を目的として昭和10年(1935年)から昭和15年(1940年)にかけて大阪市により城北運河が開削された。このときに古市橋が架けられ、架けられた年は昭和12年(1937年)となっている。

古市橋

 

 「大阪市 水道 排集辨」。右から左に書かれているので古いものだろう。

「大阪市 水道 排集辨」

 

 太子橋今市駅を通り過ぎて40分後に関目高殿駅を通り過ぎる(太子橋今市駅と関目高殿駅はOsaka Metro 谷町線で2駅離れている)。

関目高殿駅

 

 関目高殿駅から10分ほどのところに関目神社がある。

関目神社

 関目神社の創建年代は不詳だが豊臣秀吉が大坂城築城のときに、鬼門除けとして小さな社を建てたのが始まりという。

 関目神社境内には、「関目発祥之地」の石碑が立っている。関目という地名は、平安時代後期の榎並庄の時代からあったもので、この地に見張り所(目でみる関所)があったことからおこったといわれる。

「関目発祥之地」

 

 関目神社本殿の隣には毘沙門天も祀られていた。

毘沙門堂

 

 関目神社で御朱印をいただいた。「須佐之男尊(すさのおのみこと)」とだけ書かれたシンプルなもの。

関目神社 御朱印

 

 御朱印のほか、「大阪あそ歩(ぼ)」という地図もいただいた。「大阪」とは言いつつ、この周辺しか描かれていないけど。

「大阪あそ歩」

 

 また、関目神社で神社の方から、「東海道で本を書こうとしている地図会社の女性の方が3年前に来たけど、もしかしてそのときの人?」と聞かれたが、私に心当たりはないので否定した。もし心当たりのある人がいれば、連絡してほしいものだ。

 

4.野江水神社

 関目神社から歩いて10分ほどのところに「明治天皇聖躅」と書かれた石碑があったが、明治天皇でそこで何をしたのかはわからなかった。

「明治天皇聖躅」

 

 旧道に入る場所に「京街道」と書かれた道標が設置されている。ありがたい。

 

 「防火水そう」。みおつくしマークがあるので大阪市が設置したものだろう。

 

 野江国道筋商店街。アーケード…ではないよな。なお、お店は軒並み閉まっていた。

野江国道筋商店街

 

 野江内代駅。関目高殿駅の隣の駅で、関目高殿駅から40分ほどで到着した。

 どうでもいい情報だが、子供の頃「花ざかりの君たちへ」という漫画がピアノ教室に置いてあったので読んでいた。

 その作品の登場人物のなかに、主人公の友達という設定で「関目くん」「野江くん」という登場人物がおり、この2人はセットで登場することが多かった。

 「花ざかりの君たちへ」の登場人物は関西の地名から名前が取られていることが多いのだが、「関目」と「野江」が隣り合った駅名ということに「なるほど…」と思ってしまう自分がいた。

 この作品は、作者がもう亡くなっているので漫画による新作が作られることはもうないが、この前(令和8年(2026年)1月~3月)アニメが制作、放送されるくらいには人気コンテンツである。

野江内代駅

 

 野江内代駅から5分ほどのところに野江水神社がある。

野江水神社

 野江水神社は天文2年(1533年)三好政長が榎並城の守護神として、水火除難の神をまつったのが始まりといわれ、水波女大神(みずはのめのおおかみ)を祀る。

 

 野江水神社でも御朱印をいただいた。素朴な文字だ。

野江水神社

 

 内代町を歩いていると自販機に…おかっピー…おかきとピーナッツ…これ、ビール等も売っているホテル内の自販機で見るのはわかるのだが、ビールもない普通の自販機になぜこれがあるのか、ちょっとわからない。

おかっピー

 

 「京かいどう 大阪城京橋口から二・一キロメートル」少しずつ、終わりが見えてきた気がする。

 

 また、アーケードのなかに入る。「リブ・ストリート」。ここの商店街は、祝日の昼間ということもあり賑やかだ。

リブ・ストリート

 

 足下を見ると、大阪城マンホール。今度は「都島区」と書いてある。

都島区マンホール

 

5.真実の口

 前回関西住みの友人が関東に移ることになる、という話を書いた記憶はあるが、その友人が私に友人を紹介したいらしい。

 流石に初対面の相手を15km近く歩かせるのは気が引けたので、途中合流となった。進捗は適宜友人に報告していたところ、桜之宮東公園を指定されたので、そこで合流する。

桜之宮東公園

 

 友人と、初対面の友人の友人と、リブ・ストリートを歩いていく。私は、商店街アーケードの天井がこうなってるのを見るのが好きだったりする。

 

 珍妙なものを見つけた。「真実の口」というらしい。

真実の口

 真実の口といえばイタリア・ローマにある石の彫刻で、手を口に入れると偽りの心があるものは、手を抜くときにその手首を切り落とされるとか、手を嚙み切られるとか、あるいは手が抜けなくなるとかの伝説で有名である。

 その真実の口が大阪の京橋にあって、しかも「衆議院選に大阪知事・市長選が始まったのう。そもそも良い政治とは何じゃろか?期待するぜよ、政界の大谷翔平の出現に!」とのたまっている…わけがない。

 「コレ、何…?」と友人と、友人の友人に聞いてみたが、どちらもわからないようだ。深く考えたら負けのシロモノらしい。

 

 足下を見ると、「EXPO 1990」と書かれたマンホールがあった。年的に昭和45年(1970年)に行われた万博のことではなく、平成2年(1990年)に行われた大阪花博のものらしい。

 花博といえば、令和9年(2027年)にも横浜花博が開催されることが決定している。関東在住にも関わらず令和7年(2025年)の大阪・関西万博に3回行った人間としては、楽しみにしているイベントである。

大阪花博マンホール

 

 「右 大坂 左 京みち」と書かれた道標。ここまででかでかと書いてあるとわかりやすい。文政9年(1826年)に作られた道標なので、ちょうど200歳だ。

「右 大坂 左 京みち」

 

 京阪電車の京橋駅とJRの京橋駅が向き合い、人々が乗り換えでせわしなく行きかっている。

京阪電車 京橋駅

JR京橋駅

 

 京橋駅から5分ほどで、二人地蔵尊に着く。

 右側のお地蔵さんは交通災害の身代わり地蔵さん、左側のお地蔵さんは長寿と厄除けの護り地蔵さんというらしい。

 昭和20年(1945年)春に、この路上で自動車事故が発生、双方の車は接触した後で鯰江川に向かって二転三転したが運転手は無傷、エンジンがかかっているのに火災も起こらず、気づいたときには身代わり地蔵さんの首だけが飛んでいたらしい。

 それ以降、身代わり地蔵さんは尊敬を集めるようになった。この身代わり地蔵さんを護る意味でも、護り地蔵さんが奉納されたそうだ。

二人地蔵尊

 

6.京橋

 のだばし阯。

 野田橋は旧鯰江川に架かっていた橋で、江戸時代には京街道の入口にあたるため交通上重要な橋だったが、昭和5年(1930年)頃に寝屋川の改修に伴い旧鯰江川は埋め立て、橋は撤去されたそうだ。

のだばし阯

 

 京橋駅から15分ほどで、東西線の大阪城北詰駅を通過する。東京在住なので、「東西線」というとどうしても東京メトロを連想してしまうが、こちらはJR。

大阪城北詰駅

 

 大阪市内だからか、ミャクミャク様のマンホールを見つけた。ミャクミャク様は令和7年(2025年)の大阪・関西万博の公式キャラクターである。

ミャクミャク様マンホール

 

 大阪城北詰駅から10分ほどで、京橋に到着した。

京橋

 京橋は京街道の起点にあたり京都へ通じる橋という意味から名づけられ、京街道は江戸時代を通じて野崎まいりの人々で賑わっていたようだ。

 

 京橋のたもとには、京橋川魚市場跡がある。

京橋川魚市場跡

 京橋川魚市場は川魚を主に扱う魚市場だったようだ。

 京橋川魚市場の起源は鮒市場で、もともとは漁民が京橋の北詰に川魚を持ち寄って販売する市のようなものだったと考えられている。

 寛保元年(1741年)の「京橋川魚独占販売由来記」によれば、慶長年間(1596~1615年)のはじめごろに、小出播磨守秀政の指示を受けて構成員55人、うち5人を幹事である年寄とする市場機構のシステムが整えられた、と記載されている。

 近代に入り市場機構の変革がすすむなか、京橋川魚市場は明治末期には中之島六丁目付近へ移転し、大正4年(1915年)に大阪川魚株式会社が設立、終焉を迎えた。

 

 遠くから、大阪城が見える。今日は大阪城に寄っている時間はないので、遠目から見るだけとする。

大阪城

 

 大阪城 筋鉄門(すじがねもん)跡。

 元和6年(1620年)に開始された徳川幕府による大坂城再築工事では、同年の第1期工事により二の丸外側に北外曲輪(きたのそとくるわ)が築かれた。筋鉄門は北外曲輪の西の入口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていた。

 門は明治維新後も残り、北外曲輪跡に設置された軍事工場(大阪砲兵工廠)の正門とされたが、現在は左右の石組だけが残る。

大阪城 筋鉄門跡

 

 京橋沿いに石垣が保存してある場所がある。

 この石垣は、昭和50年(1975年)の日本経済新聞社大阪本社建設工事の際、敷地内地下から発見された古い石垣遺構の一部を移築したもの。

 この遺構は元和6年(1620年)の大坂城再築の頃、城北の惣堀に見立てた旧大和川と淀川の合流点付近の旧大和川左岸の護岸用石垣として築かれたものと推定された。

京橋沿いの石垣

7.坐摩神社元宮・行宮

 京阪電車 天満橋駅に到着した。

京阪電車 天満橋駅

 

 天満橋駅の前にポストが3個ある…なんで?一番左側の青いポストは速達専用の郵便ポストらしいが、真ん中と右の違いは…わからない。

ポスト×3

 

 東海道を歩いていると、「熊野かいどう」と書かれた説明板があった。

 熊野街道はこのあたりを起点にして熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野新宮大社)に至る道である。

 熊野街道といえば熊野三山付近にあるやたらと厳しい山道を思い出させるが…あれは熊野古道か…と考えていた。

「熊野かいどう」

 

 天満橋駅から歩いて10分ほどで、坐摩神社元宮・行宮(いかすりじんじゃもとみや・あんぐう)に着いた。

 坐摩神社は生井神(いくいのかみ)ほか4神の総称・坐摩神を祀る神社で、昔から住居守護・旅行安全・安産の神として信仰されている。

 天正10年(1582年)、豊臣秀吉の大坂築城にあたり神功皇后鎮座石のみを残して坐摩神社本社は遷座したため、現在も本社は大阪市中央区久太郎町、本町駅徒歩2分の場所にある。

 現在は本社とは別に、もともとあった場所に元宮・行宮が残っている、ということになる。

坐摩神社元宮・行宮

 

 坐摩神社元宮・行宮には神功皇后鎮座石がある。

 この石は、神功皇后が新羅から帰ってきたとき、坐摩大神を石上に奉祀されたという伝えから「鎮座石」と呼ばれており、また皇后がこの石の上で休まれたと伝えられていることから「休息石」ともいわれている。

 ただ…この石を見て思ったことが…「ゴツゴツして座りにくくないか?」

神功皇后鎮座石

 

 ところでこの鳥は何だろう?と思い調べてみたら、白鷺(しらさぎ)らしい。

 

 御朱印をもらおうと社務所に入ると、神社の方が「いつもはいないんだけど、今日はこっちに来ててね。インスタで勤務日上げてるんだけど、それ見てきてくれたの?」と言われたので、「いえ、ただの通りすがりです」というと「運がいいね!」と喜ばれた。これは最終回補正と考えてよいだろうか。

 坐摩神社元宮・行宮の御朱印がこちら。本社とは微妙にデザインが違うらしいので、昔いただいた本社の御朱印と見比べてみた。確かに違う。

坐摩神社元宮・行宮の御朱印

坐摩神社本社の御朱印

 

 いつも常駐してないということは会えたことも何かの縁、と考えて、元宮・行宮限定のお守りも買った。このお守りは普段使いのリュックに入れている。

坐摩神社元宮・行宮のお守り

 

8.高麗橋

 日本郵政グループ大阪ビル・北浜東郵便局前に2個ポストが並んでいるのを見た。天満橋駅と違って郵便局前だからポストが設置されている意味はわかるが、それでも同じポストが2個ある意味はわからなかった。

ポスト×2

 

 また、日本郵政グループ大阪ビルの前に前島密の胸像があった。前島密は「日本近代郵便の父」と呼ばれる人物なので、郵便局前に胸像があるのはわかるのだが、大阪と何かゆかりがあったかはわからなかった。

前島密胸像

 

 東横堀川を渡らず左折して、1本先の橋まで歩けば…高麗橋到着!

高麗橋

 高麗橋は東横堀川に架橋されている橋で、大坂にあった12の公儀橋のひとつである。

 かつて東海道は江戸の日本橋を起点とし、京都・三条大橋を終点とする「東海道五十三次」であったが、江戸時代に入り新たに街道が整備され、追分で五十三次(京都方面)と分かれ、伏見・淀・枚方・守口を経て大坂・高麗橋を終点とする「東海道五十七次」が整備された。

 東海道五十七次の起点であるため、明治に入るとここに大阪府里程元標が設置された。里程元標とは明治時代初期に道路の距離を測定するために設置された基準点である。里程元標はほとんどが木材でできていたこともあり、石材製の兵庫縣里程元標等を除き、ほとんど現存していない。高麗橋にあるものも里程元標「跡」と書かれている。

 東海道が終わり、嬉しいような寂しいような気持ちになっていたが、振り向けば友人と、友人の友人が。

 普段は写真を撮られるのがあまり好きではない私が、「写真撮って」と友人にカメラを差し出す。「ホントに歩く東海道」の冊子を持って、記念撮影。その後は3人で写真を撮った。

 

9.高麗橋到着後の話

 高麗橋でスマホを見る。現在16時前、18時半新大阪駅発の新幹線で帰る予定なのでまだ時間に余裕がある。

 友人も、友人の友人の方もまだ時間に余裕があるようだったので、せっかくならどこかで腰を据えて話すか、ということになり向かったのは「北浜レトロ」という喫茶店。

北浜レトロ

 北浜レトロは人気店で1時間待ちもざらにあるようだが、この日は30分ほど待ったら席につくことができた。これも最終回補正?

 ショートケーキと紅茶をいただいた。コーヒーと紅茶だとコーヒーを選びがちな私だが、ケーキには紅茶のほうが合うなぁ、と思いながらいただく。

 

 その後1時間ほど雑談をして店をあとにした。この後どうやって大阪駅・新大阪駅に戻るか話題になったが、そんなに遠くないし大阪駅まで歩くことになった。

 

 大阪市立東洋陶磁美術館。この美術館は「安宅コレクション」が住友グループ21社から大阪市へ寄贈されたことにより、昭和57年(1982年)に開館した。この日はもう閉館していた。

大阪市立東洋陶磁美術館

 

 大阪市のデザインマンホール。「市制100周年 平成元年(1989年)」と書かれているが、それにしてはボロボロな気がする。

大阪市 デザインマンホール

 

 大阪市中央公会堂。

 大阪市中央公会堂は大正7年(1918年)、明治時代の株式仲買人・岩本栄之助が大阪市に寄付した100万円を基金にして、気鋭の建築家・岡田信一郎の案をもとに、日本銀行や東京駅の設計を手掛けた辰野金吾らの指導により、5年5カ月の歳月をかけて完成した。

 辰野金吾っぽい建築だなと思ったが、やはり辰野金吾が関わっていた。

大阪市中央公会堂

 

 北区マンホール。

北区マンホール

 

 大阪府立中之島図書館。

 ギリシャのパルテノン神殿を思わせる正面玄関の円柱と階段、銅板葺きのドーム屋根が重厚さを漂わせているこの建物は住友家の基金をもとに、明治37年(1904年)に完成したもので、今日まで100年以上の風雪を刻んでいる。

大阪府立中之島図書館

 

 国道25号の向かい側にあるのは日本銀行大阪支店。

 明治36年(1903年)大阪で第5回内国勧業博覧会が開催されたとき、わが国の近代建築設計の第一人者・辰野金吾によって設計された。

日本銀行大阪支店

 

 この後は大阪駅まで戻り、各々帰路についた。

大阪駅

 高麗橋から中国街道が始まり、中国街道は西宮で西国街道に合流、西国街道は下関まで続いていく…が、もはや東海道ではないし、これ以上遠くまで街道を歩くことも難しいので、ここでグランドフィナーレとしたい。

 いろいろなことを思い出す。休職未遂後に現在の部署に異動して、いろいろ思うことがあってブログを始めたと同時に東海道を歩き始め、東海道を歩いてて数年は平社員・作業員だった状況が上司の休職により作業員から主担当者になり、いろいろあったけど東海道は歩き切り、気づけば役職持ちになっており…「東海道を歩いていた」という状況は5年ほどで変わらなかったし、転職どころか部署異動もなかったけれど、この5年間で本業含む状況はめまぐるしく変わっていった。本業側のスタンスは当然変えざるを得なかったけれど、東海道を歩いて、私は少し変わったのだろうか。変わったと信じたい。

 さあ、次はどこを歩こうか。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

今回の地図⑤

歩いた日:2026年2月23日

【参考文献・参考サイト】

大阪府の歴史散歩編集委員会(2007)「大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊能・三島」 山川出版社

大阪府の歴史散歩編集委員会(2007)「大阪府の歴史散歩 下 河内・堺・和泉」 山川出版社

風人社(2017) 「ホントに歩く東海道 第17集」

守口市 もり吉プロフィール

https://www.city.moriguchi.osaka.jp/kakukanoannai/kikakuzaiseibu/miryokusouzouhasshin/cityp/morikichi/416.html

日本マンホール蓋学会 大阪市のデザインマンホール

https://we-love-manho.com/oosakahu/oosaka/oosaka.html

大阪市 市名 市章 市歌 市の花 市政

https://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000010271.html

大阪市 野田橋

https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000031031.html

大阪市中央区 高麗橋

https://www.city.osaka.lg.jp/chuo/page/0000639768.html

(2026年6月6日最終閲覧)

関東三十六不動をめぐる 9.西東京編

 前回、第9番札所 高幡不動尊に訪れながら周辺を歩いた。今回は第10番札所 總持寺に訪れながら西東京市をぶらぶらしようと思う。東伏見駅から田無駅にかけて歩いたが、西武鉄道新宿線に行く機会はあまりなく、面白く歩けた。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.下野谷遺跡

 今日は東伏見駅にやってきた。

東伏見駅

 

 こちらは旧保谷市のマンホール。真ん中は「保」、外輪は「ウ」内輪は「ヤ」を図案化して「保ウヤ」→「保谷」を表している。

旧保谷市マンホール

 

 西東京市章のマンホール。「市民一人ひとりを優しく包み込み、市の未来へ突き進む先進性、創造性を躍動感いっぱいに表現した市章」らしい。

西東京市章マンホール

 

 旧保谷市のマンホール。保谷市の花・サザンカと保谷市の鳥・シジュウカラがデザインされている。

旧保谷市マンホール

 

 東伏見駅から歩いて10分ほどで下野谷遺跡に到着する。

下野谷遺跡

 下野谷遺跡には、29,000年前の旧石器時代から縄文時代後期に至る大規模な遺構が、西東京市だけでなく境界をこえた練馬区側も含めて広がっている。

 とくに縄文中期中葉から後葉の住居跡はかぎられた発掘域内からでも、東西2ヵ所の環状集落・住居跡300軒以上が確認され、遺跡全体では1,000軒以上と推定されている。

 

 下野谷遺跡では土器溜まり、竪穴住居、土坑墓群が復元されている。

土器溜まり

竪穴住居

土坑墓群

 

 

2.東伏見稲荷神社

 下野谷遺跡をあとにして東伏見稲荷神社まで歩いていると、西東京市のマンホールを見つけた。

 西東京市章の周りに上から時計回りで市の木ケヤキ・ハナミズキ、市の花ヒマワリ(夏)・コスモス(秋)・スイセン(冬)・ツツジ(春)が描かれている。

西東京市マンホール

 

 下野谷遺跡から歩いて10分ほどで東伏見稲荷神社の大鳥居が見えてきた。

東伏見稲荷神社 大鳥居

東伏見稲荷神社 神門

東伏見稲荷神社 拝殿

 東伏見稲荷神社は西武鉄道が沿線開発の一助に、昭和4年(1929年)京都伏見稲荷大社を勧請したもので、社名は東国の伏見ということから命名された。これに伴い、駅名も上保谷駅から東伏見駅と改まった。

 東伏見稲荷神社の裏には「お塚」といって小さなお社がたくさんあり、そこをつなぐように鳥居もたくさんある。小さな伏見稲荷大社だ。

東伏見稲荷神社 鳥居群

 

 東伏見稲荷神社で御朱印をいただいた。ここは書き置きのみの対応となっている。ところでこの紙は和紙?

東伏見稲荷神社 御朱印

 

 新しいデザインの西東京市マンホールを見つけた。

 中央に西東京市章、12時に市の木キャラクターの「けやきくん」、6時に「はなみずきちゃん」、市の花が時計回りにスイセン(冬)、ヒマワリ(夏)、ツツジ(春)、コスモス(秋)が描かれている。

西東京市マンホール

 

 東伏見稲荷神社から歩いて20分ほどで石幢六角地蔵がたっている。

石幢六角地蔵

 六角地蔵の六面にはそれぞれにレリーフが彫られ、台座には六叉路に合わせて北から西まわりに南沢道・前沢道・所沢道・小川道・江戸道・保谷道と刻んである。

 六叉路だと現代でも進むべき方向がわかりにくくなると思うので、この道標は昔の人にとって助けとなっただろう。

 

 気づけば、旧保谷市から旧田無市に入っていたらしい。

 こちらは田無市の木ケヤキの周囲を田無市章で取り囲んでいるデザイン。旧田無市章は「田」を図案化し、突き抜けるように形どった8つの線で、近代的な都市計画によって整備された道路を表している。

旧田無市マンホール

 

 こちらは真ん中がケヤキではなく、田無市の花・ジンチョウゲのデザイン。

旧田無市マンホール

 

 石幢六角地蔵から歩いて10分ほどで柳沢庚申塔がある。

 柳沢庚申塔は200m離れた田無町一丁目交差点にあったもので、「是より右 者(は)んのうみち(飯能道)、是より左あふめみち(青梅道)」と刻まれており、道標を兼ねていた。

 この追分で、南東方向から伸びてきた青梅街道が西に折れ、直進する所沢街道を分岐していた。

 青梅街道は慶長11年(1606年)の江戸城改修に際し、幕府御用の石灰を青梅上成木から運搬するために開かれた街道で、この辺りから田無駅前付近にかけて田無村柳沢宿が開かれた。

柳沢庚申塔

 

3.田無神社

 柳沢庚申塔から5分ほどで、田無神社に到着した。

田無神社 一の鳥居

 

 田無神社に入るとさっそく、赤龍が祀られている。赤龍は勝負運や成績向上にご利益があるらしい。

赤龍

 

 赤龍に続き、白龍も祀られている。こちらは良縁や金運向上にご利益があるそうだ。

白龍

 

 田無神社の本殿に参拝する。ここで田無神社について説明しよう。

 田無神社はもともとは尉殿権現(じょうどのごんげん)と称し、横山道に沿った谷戸の宮山(現在の西東京市立田無第二中学校付近)にあった。

 尉とは水をまもる神様、つまり竜神様のことで、神仏習合時代は不動明王としても信仰されてきた。

 正保3年(1646年)青梅街道田無村柳沢宿に尉殿権現を分祀し、寛文10年(1670年)には谷戸宮山にあった本宮を現在地に遷座している。

 現在の本殿・拝殿は安政6年(1859年)に田無村名主の2代・下田半兵衛富宅(しもだはんべえとみいえ)が再建したもので、本殿外壁・扉・柱などの木彫は江戸より嶋村源蔵を招いて制作している。本殿は鉄筋コンクリート製の覆堂にはいっているため、保存状態はよい。

 明治元年(1868年)神仏判然令により、仏像をご神体とする神社などは明確な神仏分離を求められ、名称を田無神社と改め、祭神も大国主命(おおくにぬしのみこと)となった。

 説明でも「竜神様」が登場したり、赤龍や白龍が祀られていたのもそうだが、田無神社は竜神様の神社である。それゆえに辰年のお正月は例年以上に混んでいたらしい。

田無神社 本殿

 

 田無神社の境内には土俵がある。この土俵は大鵬幸喜氏ゆかりの土俵である。

 大鵬幸喜氏は昭和15年(1940年)生まれの大相撲力士で、顔の良さと圧倒的な強さから、昭和の頃の子供たちの好きなものを並べたワードで「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語が作られるほどの人気を誇った。

 大鵬氏自身はアンチ巨人だったので当時このワードを快く思っていなかったようだが、自伝に「巨人 大鵬 卵焼き―私の履歴書」というタイトルをつけてるあたり、本当は嬉しかったのでは?と思ってしまう。

 大鵬氏は平成25年(2013年)に72歳で亡くなったが、孫の王鵬幸之介(おうほうこうのすけ)氏(平成12年(2000年)生まれ)は平成30年(2018年)に初土俵、現役の大相撲力士である。

 なお、同い年で同じタイミングで初土俵に登った豊昇龍智勝氏は第68代横綱・朝青龍明徳氏の甥だったりするため、(大鵬と朝青龍本人ではないけれども)大鵬の孫と朝青龍の甥が対戦する機会を楽しみにしている相撲ファンも多い。

田無神社 土俵

 

 青龍が祀られていた。青龍は技芸向上や就業成就にご利益があるらしい。

青龍

 

 本殿の前には「一楽萬開」の文字と5匹の龍が描かれた大きな絵馬が置かれている。それぞれ南の赤龍・西の白龍・東の青龍(緑っぽいけど)・北の黒龍、そしてセンターに本殿で祀られている金龍が描かれている。

 

 烏骨鶏のうこちゃん。私は以前、FaceBookのイベントで田無神社に来たことはあったが、このときはうこちゃんの存在に気が付かなかった。今日も私以外撮っている人がいないくらいには参拝者はうこちゃんの存在に気が付いていない。でもそんなことは気にせず、うこちゃんはのんびりしていた。

うこちゃん

 

 黒龍。黒龍は健康祈願や家内安全にご利益があるらしい。

黒龍

 

 龍ではないが、この日は5月6日だったので境内に鯉のぼりが泳いでいた。

鯉のぼり

 

 一通り境内をまわったところで御朱印をいただいた。竜神様の神社ということで竜のハンコが5か所に押されていることと、御朱印の当て紙が絵馬と同じ竜神様デザインになっている。

田無神社 御朱印

 

4.總持寺

 總持寺に向かう。道中、変わったマンホールがある。これは「市の花 タナシツツジ」と書かれている。これは田無市の市の花だ。

タナシツツジ マンホール

 

 これは市の花 サルビアのマンホール。これもおそらく田無市時代に設置されたものだろう。

サルビア マンホール

 

 田無神社から歩いて5分で總持寺に到着した。

總持寺

 

總持寺 本堂

 

 田無神社の神宮寺であった西光寺には、田無神社拝殿にかかっていた「尉殿大権現」の扁額が保存されている。

 西光寺は戊辰戦争のおり、抗戦を主張する振武隊の詰所がおかれたことで有名。振武隊とは上野彰義隊から分派した渋沢喜作(渋沢栄一のいとこ)が田無で組織した隊で飯能の戦い(慶応3年(1868年))で壊滅し、その後渋沢は函館五稜郭へ向かっている。

 西光寺は現在、總持寺と改称されて、田無神社から道1本隔てた場所にある。

 田無神社と總持寺、近いなとは思ったものの、やはり神社と元別当寺という関係性だった(別当寺とは、江戸時代以前に置かれた神社を管理する寺院のこと)。

 

 本堂の隣に「滝の不動尊」がある。

 この御堂に祀られている滝の不動尊は明治11年(1878年)に千葉県成田市の新勝寺から勧請し、柳沢の宿屋「田丸屋」に祀られていたもの。大正6年(1917年)に田丸屋から總持寺に遷座した。

滝の不動尊

 

 總持寺で御朱印をいただいた。總持寺が関東三十六不動第10番札所となっている。御朱印をいただくと、御影と童子像もいただけるので、これは家に帰ってから御朱印の裏に貼るシステム。

總持寺 御朱印

御影・童子像

 

5.稗倉・養老田碑

 總持寺をあとにして、稗倉・養老田碑に向かう。途中にシンエイ動画の本社があった。

 シンエイ動画はアニメ制作会社で、代表作は「ドラえもん」や「クレヨンしんちゃん」である。

 少し前の作品であるが、「あたしンち」もシンエイ動画が制作している。あたしンちのアニメの舞台は西東京市田無と設定されているが、これはシンエイ動画の立地とも関係しているのだろう。

シンエイ動画

 

 總持寺から歩いて5分で稗倉(ひえくら)と養老田碑(ようろうでんひ)がある。

 稗倉は天保9年(1838年)建造の備荒用倉庫で、500石(約75t)の稗を貯蔵していた。

稗倉

 

 養老田碑は、名主・下田 富宅(しもだ とみいえ)の功績を安政年間(1854~1860年)に顕彰したものである。

 下田家は敷地内を貫流する田無用水を利用した水車製粉を生業とし、3代の下田半兵衛(下田 富永(とみなが)・富宅・富潤(とみひろ))は一橋徳川家に出入りすると同時に、賀陽玄雪(かやげんせつ)・玄順(げんじゅん)を相談役に無医村解消や稗倉・養老畑など社会福祉に貢献している。

養老田碑

 

 稗倉・養老田碑から5分ほどで田無駅に移動、今日のまちあるきはここで終了となる。

田無駅

 

 明日から5連休明けの仕事、それだけ考えると萎えるので、温泉入って気合でも入れるか、と考えた。

 田無駅からひばりヶ丘駅にバスで移動し、そこから東久留米駅まで西武鉄道池袋線で移動する。そこから送迎バスに乗り、向かったのは「スパジアム ジャポン」。

ひばりヶ丘駅

東久留米駅

スパジアム ジャポン 送迎バス

スパジアム ジャポン

 東京の温泉といえば塩分を多く含み、茶色や黒に濁った温泉が一般的だが、ここは炭酸水素塩泉を多く含む透明な温泉だった。

 サウナでテレビを見ながら「5月病対策方法」なるものを特集していたが、「こちとら連休明けから今年の新卒の子の研修だから、そんな5月病になってる暇なんかないんじゃ~!!」とサウナ室で叫びたくなった。

 髪を乾かし、レストランに向かう。「明日から新卒の子の研修だし…ちょっとぐらい奮発しちゃっても、いいよね?」と呟き、ビールとロービー麺(ローストビーフラーメン)を注文した。最近食が細くなり3kg減っている状況のため、ラーメンを食べきるのになかなか苦戦した。

ビール

ロービー麺

 

 この後は再び送迎バスに乗って東久留米駅まで戻り、そこから帰路についた。

 

 東伏見稲荷神社は、歴史こそ浅いが本殿の奥の小さな祠やたくさんの鳥居から、小さな伏見稲荷大社だな、と感じた。

 今年は午年で、しかも正月でもないのだが、田無神社は多くの参詣客で賑わっていたので、辰年の正月の混雑はいかほどであったのか気になる。ただ、もう少しうこちゃんに気づいてあげて…!

 田無神社の道路を挟んだ場所に總持寺があったが、こちらはひっそりとしていた。ただお寺はこれくらいのほうが味わい深い気がする。

 スパジアム ジャポンは駅近ではないので送迎バスで向かい、かなりの人気施設のため会計や帰りの送迎バスの混雑で送迎バスを1、2便見送る羽目になったが、クオリティの割に料金がリーズナブルだったのでまた行ってもよいかも、と思った。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2026年5月6日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

東京都歴史教育研究会(2021) 「東京都の歴史散歩 下 多摩・島嶼」 山川出版社

関東三十六不動霊場会(2017) 「関東三十六不動霊場ガイドブック」

日本マンホール蓋学会 西東京市のマンホール

https://we-love-manho.com/toukyou/nisitoukyou/nisitoukyou.html

西東京市 市章

https://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/syokai/symbol/sisyo.html

(2026年5月24日最終閲覧)

坂東三十三観音をめぐる 6.渋川・高崎編

 前回、第7番札所・光明寺に参拝しつつ平塚をめぐった。順当にいけば第8番札所・星谷寺に参拝しつつ座間・海老名をめぐることになる。

 しかしこの前、家族旅行で伊香保温泉に行った。伊香保温泉の近所の名物・水沢うどんを食べてから水澤寺に行こう、という話になり、私はふと思った。

 「水澤寺は坂東三十三観音第16番札所、順当に行けば1年以内にまた行くことになる。水澤寺に公共交通で行くには、まず高崎駅に行ってそこからバスで1時間ほど。そしてバスは1日に数本しかない…。」

 幸いにして坂東三十三観音の御朱印帳にはそれぞれのページにどこの御朱印をもらうか印刷してあるし、何しろ坂東三十三観音は順番通りに回れというルールもないことを考えると、順番通りではないにせよここで水澤寺に行ってしまうのが効率的では?という結論に至った。

 そして次の日、第15番札所・長谷寺にも行っていただける話となった。ちなみに長谷寺は水澤寺以上に公共交通が貧弱で、こちらも高崎駅からバスで25分ほど、ここまでは良いのだが、そこから徒歩で45分、3kmほど歩くことになる(往復で1時間半、約6km)。「東海道歩いてるから余裕では?」と思われるかもしれないが、私とて何もない道を1時間半歩くのはなかなか骨が折れる。

 こちらも泊まる宿から車で30分ほど、高崎なら伊香保温泉からの帰路になるので行っていただける運びとなった。ちなみにこれで群馬県は完了である。

 そもそも最近「坂東三十三観音をめぐる」企画が「札所の寺に行く→博物館見学」の展開しかなく、マンネリ化を感じていたので少し毛色の違う話にしてみようと思う。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.水沢うどん

 今回は家族旅行なので出発点は実家で、そこから関越自動車道の上里SAに向かう。

上里SA

 

 父にコーヒーを買ってもらう。自分で買うとしたら100円程度のコーヒーしか買わないのだが、これは500円もするもの。

 

 上里SAから車で1時間ほどで水沢うどんの大澤屋に着く。

大澤屋

 水沢うどんの歴史は古い。天正10年(1582年)頃から水澤寺に訪れる旅人や参拝客にうどんがふるまわれはじめたのが水沢うどんの起源とされている。

 水沢うどんの美味しさは口コミでどんどん広まっていき、現在では日本三大うどんに数えられるようになった…と大澤屋のHPには記載されているが、日本三大うどんは何が入るのかは議論の余地があるらしく、香川県の「讃岐うどん」、秋田県の「稲庭うどん」は固いらしいが、それ以外が群馬県の「水沢うどん」とする説、富山県の「氷見うどん」とする説、長崎県の「五島うどん」とする説があるらしい。

 水沢うどんが日本三大うどんに入るかどうかは置いといて、水沢うどんを食す。

水沢うどん

 水沢うどんはつるつるしていて美味しい。個人的には日本三大うどんに入れてもよいのではないかと思うほどに美味しい。

 

2.水澤寺

 大澤屋からほど近くに、水澤寺がある。

水澤寺

 水澤寺はおよそ1,300年前、推古天皇・持統天皇の勅願により、高麗の高僧・慧灌(えかん)僧正によって開基された。

 御本尊は国司・高野辺家成公の三女・伊香保姫の持仏であったと伝わる十一面千手観世音菩薩である。

 現在の建物は大永年間(1521~1528年)に仮堂を建立し、宝暦(1751~1764年)から天明(1781~1789年)に至る33年の大改築によって完成した。

 

 水澤寺の向拝(こうはい)に虎が彫られている。

 

 天井に天女の絵が描かれている。

 

 六角堂の初層は回転する輪蔵で角面に地蔵菩薩を安置し、上層に大日如来が鎮座しており、ほかにはみられない構造である。

六角堂

 

 寺務所で御朱印をいただいた。「千手大悲殿」と書かれており、これは十一面千手観世音菩薩のもの。

 

 前回の光明寺に続き、ここでも午年限定の散華をいただく。

 

 鐘楼は1回100円で打てるらしいが、恥ずかしかったので打たず。

鐘楼

 

3.伊香保グリーン牧場

 まだホテルのチェックインまで時間があったので、水澤寺から車で7分の伊香保グリーン牧場に向かった。

伊香保グリーン牧場

 伊香保グリーン牧場は榛名山のふもとに位置する観光牧場で、昭和45年(1970年)10月に開業した。

 

 シープドッグショーで、(立たされている)シープドッグ。

 

 障害物を乗り越えるよう指示するシープドッグと羊たち。

 

 シープドッグに歯向かう羊。

 

 障害物を乗り越える羊たち。

 

 飼育員さんに(おとなしくさせられている)羊さん。

 

 夢に出てきそうな光景。

 

 シープドッグショーの後は、羊たちと触れ合える。

 

 黒い羊さんもいた。

 

 シープドッグたち。お仕事中は厳しい顔をしていたけれど、お仕事が終わった後は笑顔を見せてくれた。

 

 シープドッグコーナーをあとにして、羊のコーナーを見る。この時期は子羊ちゃんがいる。かわいい。

 

 アルパカがいた。アルパカといえばクラレの「ミラバケッソ!」と喋るCMで有名だが、最近の子は知らないんだろうか?(平成22年(2010年)から放送されているとか)

 

 うさぎさん。SNS等のHNが「10月うさぎ」なので…これが本体です(大嘘)。

 

 牧場といえば…ソフトクリームでしょ!ということで、ソフトクリームをいただいた。濃厚で美味しい。

 

 馬さん。サラブレッドとかと比べて小さいイメージがあったので、ポニーだろうか。

 

 ヤギさん。「やぎさんゆうびん」の童謡では送られてきた手紙を食べてしまうことで有名だが、本物のヤギに紙を食べさせてはいけないらしい。

 

 「顔出しNGです」の羊さん。

 

4.ふくぜん

 動物たちを愛でていたらチェックインできる時間になったので、本日泊まる予定の宿「ふくぜん」へ向かう。

ふくぜん

 

 部屋がこちら。

 

 伊香保温泉の泉質は2種類ある。

 1つ目はカルシウム・ナトリウム-硫酸温泉の「黄金の湯」で、空気に触れると鉄分が酸化して茶褐色のにごり湯になる。

 もう1つはメタけい酸を多く含む「白銀の湯」で、こちらは無色透明・無味無臭の温泉となる。「ふくぜん」で引いているのは白銀の湯だ。こちらの温泉は疲労回復や健康増進に効果がある。

 

 まず1回目の入浴で頭と体を洗った後で、温泉に入る。気が済むまで入って、部屋で読書していたら夕飯がやってきた。

 いろいろなメニューがあるが、左上にある群馬ブランド豚のしゃぶしゃぶがメインディッシュらしい。1時間以上かかったが、完食した。

 

 夕食を下げてもらうのと同時に、部屋にふとんを敷いてもらった。いつもベッドで寝ているので、ふとんで寝るのは新鮮だ。2回目の入浴を済ませてから、就寝した。

 

 部屋で寝ていると、「温泉から日の出を見に行くぞ!」と起こされた。

 この日は、5時45分が日の出時刻らしい。慌ててコンタクトを入れ、温泉に向かう。

 温泉のなかだったので撮影はできなかったが、ゆっくりと地平線から太陽が昇る。私と母、そして知らないおばさまと日の出を眺めた。

 3回目の入浴を済ませ、しばらくすると朝食がやってきた。

 朝食は夕食ほど量がないので食べきれるはず…と思ったが、なんだかんだで1時間近くかけてやっと完食した。

 

5.長谷寺

 チェックアウトして、宿の近所の和菓子屋「清芳亭」で温泉まんじゅうなどを買う。職場で配布したのは常温の温泉まんじゅうだが、蒸したての温泉まんじゅうを食べられるのは現地ならでは。

 

 清芳亭から車で30分ほどで長谷寺に着く。

 なお、長谷寺に公共交通で行こうとする場合、高崎駅からバスで25分ほど行った後で、最寄りのバス停から45分ほど、片道3km歩かなければならない。

 伊香保温泉から車で30分ほどで行けるらしいと知ったので、お願いして連れて行ってもらった。

長谷寺

 長谷寺は、朱鳥年間(686~696年)に開基されたことが「長谷寺縁起絵巻」に伝えられている。

 本尊の十一面観音像は平安時代中期の作と推定され、群馬県内最古ともいわれ、群馬県指定重要文化財に指定されている。

 十一面観音像の丈は186cm、総丈は230cm、カヤの木で作られた仏像である。前立像(秘仏の前の身代わりの仏様)は鎌倉時代に作られたと推定され、像の丈は185cm、総丈は270cmとなっている。

 

 狛犬が変わった顔をしている。

 

 向拝の鳥は…鳳凰…?

 

 長谷寺でも御朱印をいただく。「大悲殿」と記載されている。

 

 長谷寺の散華がこちら。

 

 この後、駒寄SICから高速道路(関越自動車道)に乗り、帰路についた。昼食場所として上里SAに寄ったが、夕食と朝食の量が多すぎてお腹があまり空いていなかったため、パンとコーヒーで軽めの昼食とした。

 

 私は実家には戻らず、東京にある家に戻りやすい駅で下ろしてもらい、帰路についた。

 帰宅後、清芳亭の桜餅と上里SAで買ってもらった峠の釜めし…ならぬ上里の釜めしで夕食とした。

 峠の釜めしを販売している「荻野屋」は明治18年(1885年)に横川駅で営業開始、峠の釜めしを発案したのは昭和32年(1957年)の高見沢みねじ社長、販売開始は昭和33年(1958年)。同年には昭和天皇も峠の釜めしを食した。

 販売開始から70年近く経ち、峠の釜めしはロングセラー商品となっているが、現在でも新たな商品が生み出されている。上里SA限定で売っている「上里の釜めし」もそのひとつで、こちらはオレンジの釜に具材が入ったパエリア風の商品となっている。

 

 水澤寺は香華の絶えない寺院である。水沢うどんや伊香保温泉、榛名湖といった観光地が近いから、というのもあるのかもしれない。

 伊香保グリーン牧場は、子供の頃に行ったことがあったらしいのだが、残念ながら私にその記憶はなく、フレッシュに楽しむことができた。

 長谷寺は水澤寺と比べると観光地化はあまりされていない。ただ、私が御朱印を待っている間にも法事と思われるお客様が来ていたり、地域の寺院、といった印象を受けた。

 私の知らない群馬が、まだまだありそうだ。

位置情報マップ

訪問した日:2026年3月28日~29日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

群馬県高等学校教育研究会歴史部会(2005)「群馬県の歴史散歩」 株式会社山川出版社

坂東札所霊場会(2019) 「坂東三十三所観音巡礼」 株式会社朱鷺書房

水沢うどん大澤屋 大澤屋の歴史

https://osawaya.co.jp/rekishi.html

水澤観世音 水澤観世音について

https://mizusawakannon.or.jp/about

WEB群馬 白岩観音 長谷寺 群馬県指定重要文化財(高崎市)

http://www.webgunma.com/161/

荻野屋 峠の釜めし・掛け紙・荻野屋の歴史

https://www.oginoya.co.jp/tougenokamameshi/history/

(2026年5月5日最終閲覧)

東海道を歩く 52.御殿山駅~守口駅

 前回、淀駅から御殿山駅まで歩いた。今回は御殿山駅から守口駅まで歩こうと思う。実は、守口宿はブラタモリで「東海道五十七次」を取り上げたときもサラっと流されるくらいには何もないところなのだが、枚方宿はいろいろあって面白かったので、その紹介をしたいと思う。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.御殿山神社

 今日は御殿山駅から出発だ。今日は神戸に住んでいる友人が同行するため、合流してから出発する。

御殿山駅

 

 東海道から少しはずれ、御殿山神社へと向かう。

御殿山神社 鳥居

御殿山神社

 御殿山神社は、渚院跡の観音寺境内に隣接して設けられた粟倉神社の御旅所を起源とする。

 のち、江戸期文政年間に西粟倉神社と称したが、明治元年(1868年)の神仏分離令によって御殿山に社殿を造営し、明治3年(1871年)9月ここに遷宮し御殿山神社と改称した。

 遷宮の様子を描いた絵馬が御殿山神社の拝殿に掛けられている。平成14年(2002年)、この「御殿山神社遷宮絵馬」が枚方市の民俗文化財に指定された。

 祭神は八幡大神で、末社として稲荷神社、貴船神社が祀られている。

 なお、御殿山の地名は江戸時代初期に永井尚庸(ながいなおつね)が二万石の領地を父・尚政から分与され領地支配の拠点として陣屋を設けたためとされ、幕末期にはすでに「御殿山」と呼ばれていたようだ。

 

 御殿山神社で御朱印をもらう。古紙で書かれたものなのか、少し紙が黄色く感じる。

 

 御殿「山」なので御殿山神社は高台にある。この日は快晴だったので、遠くまでよく見えた。

 

 御殿山神社付近に三角点がある。三等三角点で「御殿山」という。

三等三角点「御殿山」

 

 御殿山神社をあとにして、東海道を歩き始める。足下に「おおさかふ げすいどう」と書かれたミャクミャク様のマンホールを見つけた。

 

 しばらく大阪府道13号線を歩き続けるが、磯島交差点で旧道に入る。

磯島交差点

 

 「天の川」と書かれた電柱。天野川流域の枚方市周辺はかつて「交野ヶ原」と呼ばれ、平安貴族の狩り場として知られていた。

 当時の貴族は天野川の川砂が白く光って見えることから、天上の天の川になぞらえ、「七夕」を題材にした数多くの歌が詠まれたそうだ。

「天の川26」「アマノガワ11」

 

2.枚方宿に入る

 御殿山駅から枚方市駅まで歩く途中に見つけたアトムの飛び出し坊や。飛び出し坊やは滋賀県でよく見かけるが、ここは大阪府だよな?

アトムの飛び出し坊や

 

 「ヘルパーステーション スイート天之川」。天野川沿いにある老人福祉サービスなのだろうが、「天之川」の地名のキラキラ感が相まってやたらキラキラした感じに聞こえるのは気のせいだろうか。

ヘルパーステーション スイート天之川

 

 かささぎ橋を渡る。かささぎ、漢字で書くと「鵲」。これは読めない。

鵲橋

 

 天野川、かささぎ橋を渡れば彦星様に会える…ということはないか。

天野川

 

 「枚方宿東見付跡」。これがあるということは、ついに枚方宿に入ったということになる。

枚方宿東見付跡

 

 もともと枚方は、蓮如の5男・実如が住持となった順興寺を中心とした一向宗の寺内町であったが、石山合戦などによって焼き払われ一時衰退を余儀なくされた。

 その後豊臣秀吉によって文禄堤が築造され京と大坂を結ぶ京街道が整備されると、宿場町として再び繁栄を取り戻していった。

 枚方宿は岡新町・岡・三矢・泥町の4カ村からなり、東見附から西見附(鍵屋資料館付近)まで、東西約1.5kmにわたっていた。

 

 少し歩くと「東海道(京街道)枚方宿案内図」が掲示されていた。枚方宿の目玉は淀川資料館と鍵屋資料館。これらにはどちらも行く予定だ。

東海道(京街道)枚方宿案内図

 

 御殿山駅を出発して1時間ほどで枚方市駅に到着した。

枚方市駅

 

 私も友人も朝食を食べていなかったので、枚方市駅前のやよい軒で朝食をとった。やよい軒は住んでる場所の近くにもあるが、ここの朝食は初めて食べた。

 

 やよい軒で朝食を食べ、再び東海道を歩く。「枚方橋」と書かれた親柱だけが残る。ここには安居川が流れていたが暗渠化し、親柱だけがある。

枚方橋親柱

 

 少し歩くと「右 大坂ミち」と書かれた道標を見つけた。この道標はよく見ると別の側面にこのように書かれている。「左 京やまと道 右 くらじたき道」「文政九丙戌年十一月建立(文政9年は1826年)」「願主(よく読めなかったが建立者の名前がびっしり書かれている)」

 文政9年(1826年)ということは江戸時代に建てられた道標である。江戸時代の道標は時折残っているが何と書いてあるのかよくわからないものも多く、ここまで「右 大坂ミち」とはっきり読み取れるものも珍しい。

 

3.淀川資料館

 「右 大坂ミち」と書かれている通りにここで右折し、先に進む。

 

 「枚方宿」と書かれた大きい看板が見え、ここが東海道であることを実感する。

 

 「あくまで宿場町風」というのはわかるが、伏見や淀にはこのような宿場町っぽい景観がなかったので、こういう景観を久しぶりに見た。

 

 妙見宮常夜灯石灯籠。この灯籠は嘉永7年(1854年)に作られたようだが、嘉永7年は開国の年であり京都・大坂間の往来が増え、社会不安が高まるなか奉納した開運講の人たちが天下泰平と枚方宿内の安全を、能勢妙見宮に祈願したものと思われる。

 なお、能勢妙見宮は令和5年(2023年)、妙見の森ケーブルおよび妙見の森リフトが廃止になる前に訪れている。

妙見宮常夜灯石灯籠

能勢妙見宮

妙見の森ケーブル

妙見の森リフト

 

 能勢妙見宮の思い出にひたりながら歩いていたら淀川資料館に到着した。

淀川資料館

 淀川資料館には淀川の治水・水運に関する資料が展示されている。

 

 「淀川の歴史」のコーナー。粗朶沈床(そだちんしょう)。粗朶とはクリ・ナラ・カシ・クヌギ等の木の枝のことで、粗朶沈床とは木の枝を束ねて、格子状に組んでつくったマットレスのような工作物のこと。

粗朶沈床

 

 淀川改修下流部比較法線入平面図。下流部の放水路建設には4つの案が示され、採用されたのは第2案に近いルートだったらしい。経年変化か、第1~4案までそれぞれ赤、緑、黄、青で示されているらしいが読み取りづらい。

淀川改修下流部比較法線入平面図

 

 明治大正年間洪水破堤個所圖。明治元年(1868年)、明治18年(1885年)、明治22年(1889年)、大正6年(1917年)にそれぞれ起こった洪水の決壊箇所がマークされている。枚方周辺でも明治18年等で決壊が起こっていることがわかる。

明治大正年間洪水破堤個所圖

 

 くらわんか舟の模型。くらわんか舟は三十石船の船客に食べ物や飲み物を売っていた茶舟で、「くらわんか」とは方言で「食べませんか」という意味。

 くらわんか舟は三十石船に「飯くらわんか、酒くらわんか」と暴言ともとれるような営業をし、それで食べ物や飲み物を売っていたためこの名がついた。

くらわんか舟の模型

 

 大阪のデジタル標高地形図。大阪城北東側にポコっと高くなっている場所があり、これは何だろうと思って調べてみたら鶴見緑地、平成2年(1990年)に大阪花博が開催された場所だった。

大阪のデジタル標高地形図

 

 ここからは「淀川の生物」のコーナーに入る。

 淀川沿いに棲むチョウの標本。モンキアゲハ、ジャコウアゲハなど、こんなにいろいろなチョウがいるのかと思う。

チョウの標本

 

 ビワコオオナマズの標本。ビワコオオナマズは琵琶湖と琵琶湖から流れ出す川にだけすむ魚で、ふつうのナマズよりも大型で120cm以上に成長する。このビワコオオナマズは枚方市の淀川に取り残されていた個体で、つかまってから標本にされてしまったらしい…。

ビワコオオナマズの標本

 

 このパイプから顔を出すかわいいやつはニホンウナギ。このかわいいやつを、私は今まで何匹食べたのだろうか…。

ニホンウナギ

 

 魚が何匹か泳いでいるが、中央のほうにいる大きい魚はおそらくフナ、ということ以外わからなかった。そういえば滋賀県ではフナを寿司にして食べる伝統があるらしいが、美味しいのだろうか。

 

4.枚方宿本陣跡

 淀川資料館をあとにし、淀川の河川敷に出ると大山崎の煉瓦造樋管を見つけた。

 これは京都府大山崎町の桂川右岸から出土した煉瓦造悪水樋の一部である。樋管は、町内の悪水を淀川に流すことを主な目的として、明治33年(1900年)に国の補助金を得て設けられたものの、わずか30年足らずの昭和2年(1927年)に新堤防工事が始まり、土中に埋もれたものである。

 それから約70年後の平成12年(2000年)11月、淀川河川事務所の流水保全水路工事が行われ、そのときにこの樋管が発掘された。

大山崎の煉瓦造樋管

 

 そういえば、淀川資料館でいろいろなものをいただいた。「古代から現代までの淀川の歴史」「淀川資料館パンフレット」「淀くんの淀川石碑物語」。

古代から現代までの淀川の歴史

淀川資料館

淀くんの淀川石碑物語

 

 東海道に戻ると、枚方宿本陣跡がある。

 枚方宿本陣は天明5年(1785年)に枚方宿が幕府の役人に提出した書類によると、間口約20間、奥行約24間の敷地に建坪約215坪の立派な建物が建っていた。

 慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見での敗北によって江戸幕府の影響力は衰える。すかさず3月に、明治新政府は天皇親政をアピールするため、明治天皇の大坂行幸を企てる。

 そのとき枚方宿本陣は天皇の休息所にあてられた。戦前に建てられたそのときの記念碑が今も残っている。

 明治3年(1870年)、枚方宿本陣は廃止。明治21年(1888年)、茨田・交野・讃良郡役所がここに移ってきたが、現在は公園となっている。

枚方宿本陣跡

5.塩熊商店

 「塩熊商店」という雑貨屋さん。こちらで枚方宿の御宿場印をいただけるということで立ち寄ったが、店内が素敵だったので撮影させていただいた。

 現在「くらわんか舟」は営業していないのでくらわんか茶碗はもう不要なはずだが、今でも茶碗が販売されている。

くらわんか茶碗

 

 マーブル編みソックス。カラフルな靴下が並んでいるのが可愛くて、少し欲しくなってしまった。

マーブル編みソックス

 

 今治生まれのハンカチ。ハンカチは何個あっても良いと思うので買ってもよかったのかもしれないが、結局買わず。

今治生まれのハンカチ

 

 店をあとにし、購入した御宿場印を見る。カラフルな菊や花があしらわれたデザインで、とてもかわいい。

 

 最後に、塩熊商店さんの外観がこちら。

 

 枚方は城下町ではないが、クランクがある。これは枚方宿が攻撃を受けたときに敵の直進を阻むための枡形の名残りである。

 

6.鍵屋資料館

 東海道をひたすら歩き続けると、次の目的地「鍵屋資料館」に到着した。

鍵屋資料館

 鍵屋資料館は枚方宿の船宿「鍵屋」を解体修理後、資料館として公開したもの。鍵屋の創業は定かではないが、現在の建物は建材に「文化8年(1811年)」の墨書銘があることから、その時期の建築とみられている。

 大正時代以降は料理旅館として何度かの改築が行われたが、往時の船宿の様子をよく残し、館内には宿場にかかわる記録類やくらわんか茶碗など、貴重な資料が展示されている。

 

 受付でお金を払い、なかに上がる。

 枚方市附近鳥観圖。作者名を見る前にだいたい誰が描いたのか想像はついたが、想像通り吉田初三郎が描いたものだった。吉田初三郎が描いた鳥観図は生涯で1,600点とも3,000点ともいわれ、明治から昭和前半にかけて描かれた鳥観図を見たら、だいたい彼のものと思ってよい。自称か他称かは不明だが、「大正の歌川広重」と呼ばれていたとか。

枚方市附近鳥観圖

 

 貝細工の「かぎや浦」。歌川広重の浮世絵「京都名所之内淀川」の構図をもとに、江戸時代に淀川を往来していた旅客船「三十石船」と船上で商いをする「くらわんか舟」、淀川三十石船歌の一節が貝細工で表現されている。

貝細工「かぎや浦」

「京都名所之内淀川」

 

 鍵屋からはさまざまな出土品が見つかっている。ここにある茶色い土鍋には胞衣(えな)が入っていたらしい。胞衣とは出産時に体外に排出された胎盤等のことで、その昔は胞衣を納めた容器を住居の下に埋める風習があり、それに使われたのではないかと考えられている。

胞衣容器

 

 「くらわんか舟」で使用された「くらわんか茶碗」もたくさん発掘されている。くらわんか茶碗の産地も佐賀県伊万里や愛知県瀬戸など、いろいろなところで作られた陶器がくらわんか茶碗として使用されていた。

くらわんか茶碗

 

 往時の天野川橋(現在のかささぎ橋)の風景。東見付に羽織袴姿の男性が見えるが、この人は枚方宿の問屋で、大名行列の見送りに来ている。

天野川橋周辺

 

 紀州藩の武士に出した夕食で、文政13年(1830年)3月5日のもの。

 平椀はたけのこ・わらび・くわい・鶏卵・ふき。猪口はほうれんそう。焼き物はブリのあんかけ。はまぐりの汁物とごはん。

 武士の男性にこれで足りるのかと思わせるレベルの質素さである。先日、私は家族旅行で温泉旅館に泊まったが、それのほうが何倍も料理量が多かった。

武士の夕食

 

 京都名所之内淀川。幕府の要人だった歌川広重は京から大坂までの旅で三十石船に乗り、その記憶を頼りに描いたのか、多くの客を乗せた船が淀川を行く様子が描かれている。

京都名所之内淀川

 

 くらわんか舟が鍵屋の下に停泊している様子が再現されていた。

 

 階段を上っていくと、突如として洋風な空間が現れた。

大広間

 突然の洋風空間の出現に困惑していると、説明板があった。

 説明板によるとここは鍵屋旅館の別棟で、別棟は昭和3年(1928年)に建てられた。

 折り上げ格天井や北山杉の床柱、床の左右にある違い棚は63畳の広さに合わせた豪奢な造りとなっている。

 照明は平成9年(1997年)の廃業直前につけられたものとはいえ、洋風でレトロモダンな雰囲気の大広間に調和している。

 現在は府道京都守口線に遮られているが、往時はここから淀川を一望できたため素晴らしい景観だっただろう。

 

 大広間には三十石船(大きい船)とくらわんか舟(小さい舟)のミニチュアが置いてある。このミニチュアは鍵屋資料館オープンにあたり、枚方市の坂本氏から寄贈されたもの。

三十石船とくらわんか舟のミニチュア

 

 大広間の隣にも部屋があった。この部屋は「笹の間」といい、料亭旅館の雰囲気を残す客間となっている。

 黒漆の上に朱漆を重ねる伝統的な技法・根来塗の座卓も、料亭時代から使われているもの。

 予約すればここで鍵屋弁当(2,500円)やくらわんか鮨(1,700円)が食べられるそうだが、予約してないし、そもそも3人以上で来ないと食べられないそうだ。今日は誰も使用していないようだったので、笹の間も見せていただく。

笹の間

 

 こちらにも小さな三十石船の模型が置いてあった。こちらは宝暦9年(1759年)の図面から再現したらしい。

三十石船

 

 「曳舟之図」。これを描いたのは長沢芦雪という江戸時代中期の日本画家で、かわいい犬の絵を多く描いていることで有名。

 柳を背景に、前かがみで綱を引っ張る男性の姿が描かれている。この絵が淀川沿いの風景をイメージして描かれたのかは不明だが、三十石船を川の流れに逆らって上らせるときは、このように綱を引いて船を曳き上げる必要があった。

 がたいの良い男性でも船の曳き上げは重労働だったと思われるが、この男性たちはどこか笑みを浮かべながら仕事をしているようにも見える。

曳舟之図

 

 鍵屋の別棟をあとにし、主屋に入る。

 

 大きな箪笥に箱階段。ここはフロントだろうか。

 

 かまど。ここで宿泊者のごはんが作られていたのだろうか。

 

7.明治十八季淀川洪水碑

 鍵屋資料館をあとにし、そのまま西に向かうと西見附がある。ここが枚方宿の西の終点ということになる。

西見附

 

 地理院地図を見ると、近くに自然災害伝承碑があるようなので、行ってみた。この碑の名前は「明治十八季淀川洪水碑」。

 明治18年(1885年)、6月15日朝から17日夜まで降り続いた豪雨によって18日午前3時、三矢村・伊加賀村の淀川堤防が決壊した。

 その切れ口は約180mで、濁流はたちまち茨田郡(まったぐん)一円を水没させ、讃良(きさら)・交野・東成郡の一部から大阪市中にまで濁流が流れていった。

 7月にも再び豪雨にみまわれ切り口から水が流入、大阪府内で755村、70,000戸あまりが浸水するという未曽有の被害をもたらした。

 決壊箇所は水深が約5.5mもあり水勢も激しいことから、旧堤防から後退して弓形に仮堤防が築造された。

 土砂は御殿山から採取され、大勢の人夫を動員して全長約400mに及ぶ大規模な工事が行われた。

 この洪水碑は明治19年(1886年)に建立されたもので、洪水と復旧の経過が記され淀川治水の重要性を今に伝えていることから、平成26年(2014年)に枚方市登録文化財に登録された。

明治十八季淀川洪水碑

 

 明治十八季淀川洪水碑の隣にあるのは「郵便屋の渡し跡」。

 明治10年(1877年)淀川の対岸に鉄道が開通したため、淀川左岸一帯の郵便物を逓送夫が取りまとめた後で「郵便屋の渡し」で淀川を渡り、国鉄の高槻駅まで運んでいたようだ。

郵便屋の渡し跡

 

8.光善寺

 枚方宿を出て、守口宿まで歩く。「大阪府住宅供給公社 枚方三矢団地配置図」と書かれた背後を見るが…何もない。調べたが何の情報も出てこなかった。

 

 光善寺。ここはもともと出口御坊と呼ばれており、出口は文明7年(1475年)本願寺第8世蓮如上人が建立した御坊を中心に発達した寺内町である。

 蓮如上人の死後、光善寺は戦国乱世のなかで退転を余儀なくされ、旧地に復したのは慶長年間(1596~1615年)だった。

 伽藍の近世建築には17世紀の山門および脇門、江戸中期の数寄屋風書院があり天明2年(1782年)の御堂、天明7年(1787年)の太鼓楼等がある。

光善寺

 

 蹉跎神社(さだじんじゃ)の御旅所を見つけた。ここは蹉跎神社の神輿が例大祭に渡る御旅所と呼ばれる場所で、蹉跎神社の遥拝所となっている。

「遥拝所」

 蹉跎神社とは枚方市にある神社で、菅原道真が大宰府に配流となった後父を慕ってこの地まできた娘の苅屋姫が、悲しみのあまり西に向かって蹉跎(あしずり)をしたことから蹉跎山の名がつき、そこに道真の木像をまつったのが始まりと伝えられている。

 

9.淀川河川敷を歩く

 ここから長い長い淀川河川敷の道が続く。その距離、なんと6km以上。こんなに長く何もない道を友人に歩かせるのは申し訳ない気持ちになりつつも、1時間以上かかる河川敷の道、一人で考え事をしながら歩くのも飽きるので話し相手がいてよかった、という気持ちにもなる。

 

 近寄れなかったが、赤井堤記念碑という災害伝承碑を見つけた。

 先ほど、明治十八季淀川洪水碑で明治18年(1885年)の洪水について紹介したがこれもその洪水関連の碑で、ここで堤防が決壊したためここに建立されたようだ。

赤井堤記念碑

 

 近畿自動車道守口JCTをくぐったあたりでそろそろ淀川河川敷から離れられる、と思いつつ近くに階段が見当たらなかった。堤防をよじ登ることを友人は提案したが運動音痴な私がそれをやったら大怪我をする可能性がある、階段が出るまで待とう、と私は言った。しばらくすると階段が現れたので無事そこで河川敷から脱出できた。

守口JCTを下から見る

 

 気づけば枚方市どころか寝屋川市もおわり、守口市に入っていた。こちらは守口市のマンホール。守口市の花「サツキ」と守口市章のデザイン。守口市章は「守口」の2文字を図案化したもの。

守口市マンホール

 

 こちらは京阪守口市駅前から駅向かいの西友に繋がる橋「アポロン橋」にあるからくり時計をデザインしたマンホール。

守口市マンホール

 

 正迎寺。この寺は西本願寺の末寺で、創建は観応元年(1350年)、那須又五郎為成が存覚上人に帰依して善正の法名を授かり仏閣を起こしたのが始まりと伝えられる。

 「正迎寺那須氏系図」によると元和元年(1615年)に兵火に遭い焼失したが、8世受誓為光が堂宇を再建し、10世須誓為信の代の元禄15年(1702年)に寂如上人から正迎寺の寺号を許されたらしい。

正迎寺

 

 京街道の道標みたいだが、「旧下島村」「旧北十番村」などが書かれている。昔の村だと思われるが、いつ消えた村なのか、調べてもわからなかった。

 

 瓶橋(かめはし)の親柱だけが残っている。川の名前は不明だが、現在は暗渠になったらしい。

瓶橋親柱

 

10.守口宿

 盛泉寺に入る。

盛泉寺

 盛泉寺は東本願寺の末寺で、慶長11年(1606年)に教如上人が開基したと伝えられ、難宗寺の西御坊に対して東御坊と呼ばれている。

 本堂は元和元年(1615年)の兵火により焼失し、さらに度重なる風水害を受けているため、天保6年(1835年)に再建されたものが現本堂である。

 慶応3年(1867年)10月徳川幕府は大政奉還を行い、参与の大久保利通は人心を一新するために大阪遷都の急務を進言した。

 副総裁の岩倉具視は公卿が異議を唱えることは必然と考え、表向きは大阪親征の行事として、実際は遷都の意思を持った行幸なので、三種の神器のひとつ「天照大神の八咫(やた)の鏡」を持った大阪行幸を行った。

 慶応4年(1868年)3月22日に明治天皇が大阪に行幸したときに賢所(かしこどころ。八咫の鏡を安置する場所)が作られたのが盛泉寺の本堂前だった、という過去がある。

 結局その年の4月11日に江戸の無血開城が実現したため大阪遷都論は幻に終わり、江戸遷都が確定した。

 大阪遷都論に利用されたのが盛泉寺である、ということは盛泉寺の説明板に書いてあったが、境内にも「都が何故東京に成ったのか遺跡は、語る」という張り紙があり、その最後に「本来都の制定には天皇の裁可がいるが、その裁可がくだされていないため、京都の人々はいつか東京から天皇が帰ってくると思っている」と書かれている。

 京都人が東京に対して「天皇返せ!」と思っているらしい話は聞いたことがあるが、明治天皇が皇居に住み始めたのは明治2年(1869年)、その後大正、昭和、平成、令和と変わってもう150年以上が経っている。流石にもうあきらめても良いのでは…?と京都にゆかりのない人間としては思う。

都が何故東京に成ったのか遺跡は、語る

 

 「蓮の花 誰の仕業か 泥の中」…これは蓮の花が盗難に遭ったという認識でよいのだろうか?

蓮の花 誰の仕業か 泥の中

 

 「守口宿」の説明板があった。守口宿は元和2年(1616年)、大坂に最も近い、東海道57番目の宿場として問屋場と本陣が置かれ、一般旅行客が泊まる旅籠も備えた。

守口宿説明板

 

 難宗寺(なんしゅうじ)の山門があるので入ってみよう。

難宗寺 本堂

 文明7年(1475年)吉崎を退出し、枚方市出口に光善寺を創立した蓮如上人が文明9年(1477年)に守口坊として建立したのが始まりといわれ、慶長16年(1611年)には本願寺掛所となり、西御坊と呼ばれるようになった。

 元和元年(1615年)兵火によって焼失し、寛永13年(1679年)再建されたがその後、度重なる風水害などで朽廃したため、文化4年(1807年)に再建されたものが現在の本堂である。

 

 難宗寺にはイチョウの木がある。樹齢400年と想定できる巨木で、大阪府の天然記念物に指定されている。

難宗寺のイチョウ

 

 守口宿本陣跡。現在は駐輪場になっている。

守口宿本陣跡

 

 大塩平八郎ゆかりの書院跡。

 天保年間のはじめ全国的に飢饉が続き大坂市中でも犠牲者が続出したが、大坂町奉行所の役人はなにも対策を立てず、商人はこれを機会に利益を得ようとした。

 そこで東町奉行所与力で陽明学者の大塩平八郎は、幕府や商人に天誅を加えて窮民を救うべく、密かに門下の与力・同心・近在の富農と謀り、ついに兵を挙げた。これが天保8年(1837年)の「大塩平八郎の乱」である。

 守口の白井家当主の孝右衛門は大塩の私塾・洗心洞の有力門人として大塩に経済的な支援を行い、門弟の中心的人物だった。それもあり白井家の建物の一部を使い、大塩は守口の農民に講義を行っていたらしい。

 現在は、マクドナルドがそこにあるだけだ。

大塩平八郎ゆかりのマクドナルド(?)

 

 この後も東海道は続くが、守口駅に到着したので今日はここで切り上げる。

守口駅

 次回は、守口駅から終点・高麗橋まで歩く予定である。

 

【おまけ】

 神戸に住む友人はこれから転職し、関東に拠点を移すつもりらしい。そう考えると、友人の関西のおすすめの店に訪れることができるのはこれで最後。友人が選んだのは大阪市鶴橋の「焼肉ホルモン 空」だった。

焼肉ホルモン 空

 

 15km以上歩いた後で1時間立って並んだのはなかなか堪えたが、これだけ待たされれば期待も増してくる。まず注文したのはホルモン5種盛りセット。

ホルモン5種盛りセット

 

 プップギ(肺)、ハチノス(胃)、ホソ(小腸)、焼センマイ(胃)、心臓をそれぞれ焼いていくのだが、そうこうしてるうちにビールが来た。

 やはり歩いた後のビールは美味しい。

 次にやってきたのはキムチ盛り合わせ。ホルモンはどうしても口の中が脂っこくなるため、清涼剤としてのキムチは必要だ。

 

 ユッケジャンスープも頼んだが、少し量が多めだった。

 

 少し火力が強かったのか、火がどんどん立ち上っていく。慌てて友人が氷を頼むが対処できず、最終的に店員さんが水をぶっかけて消火された。

 

 友人が「関西で君と夕食食べるのもこれで最後だろうし」と言い、上カルビを注文した。すでに双方お腹がいっぱいになりつつあったが、これは何とか食べきった。

 

 人気店なので、90分で店を追い出された。もう2人ともお腹いっぱいだったので、鶴橋駅から電車に乗り、それぞれの宿と家に帰ることにした。

鶴橋駅

 帰りの電車のなかで見た広告「敵地応援旅」。何が何に対して「敵地」と思っているのか、ここが大阪であることとカラーリングから想像できてしまうのが面白い。

「敵地応援旅」

 

 また明日も頑張って、高麗橋まで歩き切ろう。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

歩いた日:2026年2月22日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

大阪府の歴史散歩編集委員会(2007)「大阪府の歴史散歩 下 河内・堺・和泉」 山川出版社

風人社(2017) 「ホントに歩く東海道 第17集」

枚方市 七夕伝説ゆかりのまち・枚方市

https://www.city.hirakata.osaka.jp/0000024734.html

国土地理院 自然災害伝承碑

https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html

守口市 もりぐち ぶらり歩き マップ

https://www.city.moriguchi.osaka.jp/material/files/group/65/aruki01.pdf

(2026年5月4日最終閲覧)

坂東三十三観音をめぐる 5.平塚編

 前回、第6番札所・長谷寺に参拝しつつ厚木をめぐった。今回は第7番札所・光明寺に参拝しつつ平塚をぶらぶらしようと思う。平塚はだいぶ前に東海道で通りかかり、そのとき平塚市博物館に行こうと思って行けてなかったので、今回行けてよかった。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

東海道で平塚を通ったのは以下2回↓

octoberabbit.hatenablog.com

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.光明寺

 今日は平塚駅から出発だ。平塚駅からバスに乗り、金目駅バス停まで揺られていく。

平塚駅

平塚駅からのバス

 

 金目駅バス停近くで見つけたのは、平塚市のマンホール。

平塚市マンホール

 こちらは中央に平塚市章を配し、相模湾の波をイメージしたデザインの左右に湘南ひらつか七夕祭りのシンボルマークが描かれている。平塚市章は平塚市の「平」の字をデザイン化したもの。

 

 金目駅バス停から2,3分で光明寺に到着する。

光明寺

 縁起によると、大宝2年(702年)に漁民が小磯の浜で拾った観音像を天平年間(729~749年)に行基があらたに彫った観音像のなかにおさめたところ、霊威が盛んになったという。

 鎌倉時代には源頼朝の崇敬をうけ、南北朝・室町時代には足利尊氏や関東公方の保護をうけた。

 永享の乱(1438~1439年)や応仁の乱(1467~1477年)により15世紀後半に一時荒廃したが、明応年間(1492~1501年)には太田道灌をはじめとする地域の人々の力で再興された。

 現在の本堂は、明応7年(1498年)の供養時に建立されたものと考えられている。

 本尊は平安時代末期の作ともいわれる寄木造の聖観世音菩薩立像で、禅宗様の厨子内に安置されている。厨子の前には、「明応七年」の銘をもつ前立観音像がおかれている。

 また本堂内の梵鐘は「正平七年(1352年)」の銘をもち、当時の住持・空忍が勧進したものである。

 本堂に上がり、御本尊に手を合わせることができる。

 

 本堂をあとにして境内をうろついていると、水琴窟があった。耳を傾けると、小さなポロポロという音がしていた。

水琴窟

 

 「縣下名勝史蹟四十五佳選當選記念 坂東七番 金目観世音 横濱貿易新報社」という石碑があった。「神奈川県の名勝・史蹟45選」のなかに選ばれたのだろうか。

 

 歓喜堂には歓喜大自在天と弁財天・毘沙門天・大黒天等の七福神が祀られている。歓喜大自在天は秘仏らしい。

歓喜堂

 

 文殊・普賢菩薩堂もあった。文殊菩薩は知恵の優れた菩薩で、「三人寄れば文殊の知恵」ということわざでも有名である。

文殊・普賢菩薩堂

 

 平塚市の指定保全樹木のカヤの木があった。とても大きい。

カヤの木

 

 光明寺の境内には、少しだけ梅の花を見つけることもできた。

梅の花

 

 寺務所で御朱印をいただく。前回の長谷寺に続き、ここでも午年限定の散華をいただく。

午年限定散華

 

 こちらが光明寺の御朱印。左上の「午年結縁」の判子は、今年限定。

光明寺 御朱印

 

2.キャラウェイ

 光明寺を出ると小さいマンホールを見つけた。これも湘南ひらつか七夕祭りのシンボルマークのものだろう。

 

 平塚駅にバスで戻ると、別のデザインの平塚市マンホールを見つけた。

 これは平塚の夏の風物詩「湘南ひらつか七夕祭り」と湘南の海を描いたデザインマンホールとなっている。

 

 平塚駅から徒歩5分ほどの場所にある「キャラウェイ」というカレー屋さんが平塚では評判がよいようなので、行ってみた。花粉が降り注ぐなか30分外で待たされたのはなかなか堪え、「14時まで呼ばれなければ他所行こうかな」と考えていたなか、やっと呼ばれて店内に入った。

キャラウェイ

 

 店内に入り、ビーフカレーのサラダ・ドリンクセットを注文した。先にサラダが出てきたが、B6の本と比較してもこれだけ大きい。

 

 そして続いてカレーとライス400gが出てきた。こちらもB6の本と比較してみたが、やはり大きい。

 

 通常、お茶碗1杯のごはんが150gだから、これは2杯分以上ある。私は「ごはんを残すことはよくないこと」という思想の持主であることと、とにかくカレーが美味しかったため完食したが、別の席に座っていたカップルの女性は食べきれず、持ち帰りをお願いしたらしい(しかもカップルが帰った後の店主の発言によると、何分の1かしか食べてなかったとか…)。

 

3.平塚八幡宮

 キャラウェイで満腹になった後は湘南スターモール商店街を歩く。ここの商店街は旧東海道なので、何年か前に歩いたことがある。

湘南スターモール商店街

「ひらつか東海道本通り」

 

 まちかど広場で何かやってるなと横目で見ていると、どうやら「ひらつな祭」が行われているらしい。ひらつな祭は「被災地支援と地元の防災力強化のためにひらつかでつながろう!」というお祭りらしい。

ひらつな祭

 

 平塚八幡宮の鳥居の目の前にやってきた。

平塚八幡宮 鳥居

 

 平塚八幡宮の本殿までやってきたので、ここで平塚八幡宮について説明する。

平塚八幡宮 本殿

 社伝によると、4世紀仁徳天皇のころに応神天皇をまつったのが平塚八幡宮の始まりらしい。相模国八幡荘の総鎮守で、相模五宮として国府祭(こうのまち)に参加している。

 源頼朝が夫人政子の安産のために神馬を奉納し、徳川家康も社殿造営や山林の寄進を行うなど権力者の崇拝を集めた神社である。

 

 「人形感謝祭 ありがとう」と書かれ、人形が祀られている。近くで巫女さんが作業していたのであまり近寄ることはできなかった。

 

 境内を散策していると、お馬さんを見つけた。神馬の東風(こち)くんだ。

東風くん

 実はこの東風くん、少し前にニュースになっている。

 今年(令和8年(2026年))1月16日の16:15頃、東風くんは平塚八幡宮を脱走、脱走から10分後に神社から250mの路上で職員により確保され、神社に戻された。

 今年が午年(うまどし)とはいえお騒がせな事件だったが、幸い東風くんに怪我はなかった。

 ちなみにニュースがこちら。

www.sanspo.com

 

 なお、神馬はもう1匹いて、こちらは皐月(さつき)ちゃん。なぜ皐月ちゃんと東風くんが分けて飼育されているのか気になっていたが、実は皐月ちゃんは妊娠中で、お相手は東風くんだから、ということらしい。

皐月ちゃん

hiratsuka.goguynet.jp

 

 平塚八幡宮で御朱印をいただいた。聞き間違いかもしれないが、「30分程度お待ちいただきます」と言われ「まじかよ」と思ったが、結果10分くらいで書き上げていただいた。

平塚八幡宮 御朱印

 

4.平塚市博物館 「まちの中の石材」

 平塚市役所を横目に見ながら、平塚市博物館へ向かう。

平塚市役所

 

 平塚市博物館近くにD52型403号蒸気機関車が展示してあった。この蒸気機関車は昭和43年(1968年)まで御殿場線で使用されていたものだ。

蒸気機関車

 

 さて、平塚市博物館に到着した。

平塚市博物館

 平塚市博物館は「相模川の自然と文化」をテーマに、旧石器時代から現代までの暮らしの変遷をわかりやすく展示・解説している。

 

 展示を見てみよう。まず「博物館にようこそ」のコーナーから始まる。

 相州ダルマ。平塚市四之宮周辺には明治時代から伝わるダルマ店があり、その製品は「相州ダルマ」と呼ばれ各地のダルマ市で商われている。

相州ダルマ

 

 「もっと知りたい私たちのまち」のコーナーでは昭和22年(1947年)と平成15年(2003年)の平塚市の航空写真が展示されていた。市街地の拡大が読み取れる。

昭和22年(1947年)平塚市航空写真

平成15年(2003年)平塚市航空写真

 

 「相模川流域をさぐる」では相模川および周辺の地形模型が展示されている。こう見ると平塚市で相模川は相模湾に流れるが、その前もずいぶん長く平坦地を流れていることがわかる。

相模川および周辺の地形模型

 

 「相模川のめぐみ」ではかつての相模川で栄えたものなどが展示されていた。こちらは高瀬船で、この船の特徴は大きな帆。春から夏にかけては南風を帆に受けて川を上り、冬は網を引いて川を上っていた。

高瀬船

 

 「里山の四季」のコーナーに入る。クヌギ等をカミキリムシがかじり、そこから樹液がしみだして発酵した匂いにひかれてカブトムシ、クワガタ等さまざまな虫が集まってくるらしい。私も子供の頃、裏山でカブトムシを探したのを思い出した。

 

 「海と山を結ぶ鳥 アオバト」。大磯町照ヶ崎海岸の岩場には、毎年初夏から秋にかけてアオバトの群れが海水を飲むために飛来する。実物は見たことないが、ちょっとかわいい。

アオバト

 

 「まちの中の石材」。このあたりに並ぶのは「富士・箱根の石材」「流域の玉石」「凝灰岩の石材」。これらは触ったり持ったりできる。

「富士・箱根の石材」「流域の玉石」「凝灰岩の石材」

 

5.平塚市博物館 「相模の家」

 「五領ヶ台のくらし」のコーナーに入る。今から約5,000年前に五領ヶ台貝塚を残した縄文人の暮らしが復元されている。人々は植物採集・漁撈(ぎょろう)・狩猟の生活をしていたが、場所柄特に漁撈にウエイトが置かれていたと考えられている。

 

 「塚越古墳とむら」。塚越古墳は台地にある。当時の人々は金目川の湿地や谷戸を利用し、また周辺の集落と共同して灌漑工事を行ったり古墳を築いたりしたものと考えられる。

塚越古墳とむら

 

 「平塚宿」。文久2年(1862年)ころの平塚宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠42軒、湯屋4軒、髪結床2軒を含む総計210軒の屋敷が建ち並んでいた。これはその復元である。

 平塚宿のコーナーがあるなら、東海道を歩いていたときに平塚市博物館に訪れたほうがよかったのかもしれないが、平塚市博物館が東海道から少し離れていたためこのタイミングの訪問となった。

平塚宿模型

 

 「相模の家」のコーナー。神輿が展示されていた。この神輿は昭和55年(1980年)頃に初代中久保交友会の会長を筆頭に、交友会員により製作された神輿で毎年4月第3土曜日の北金目神社例大祭で担がれていた。平成16年(2004年)に新しい神輿を作ったため、古い神輿が博物館に寄贈されたとのこと。

神輿

 

 「相模の家」では平塚市内広川の旧名主の家が建物内に復元されている。

 

 「相模の家」を出ると寄贈品コーナー、「豆びな」が展示されていた。これは堤眞理子氏が夫の静夫氏と一緒に集めたもので、昭和43年(1968年)から平成26年(2014年)にかけて約500組の豆びなを集めたそうだ。どれも小さくてかわいらしい。

豆びな

 

 こちらは「子ども地蔵さん」。子ども地蔵さんは平塚市田村上町念仏講中の15軒で祀っており、昔は子ども念仏を挙げていたが2000年代になって子ども念仏が終わり、平成17年(2005年)に博物館に寄贈されたとのこと。

子ども地蔵さん

 

 五十鈴川稲荷は平成30年(2018年)に撤去された神社で、沼田家の一室の押し入れに資料があったが、のちに平塚市博物館に寄贈された。

 こちらは五十鈴川稲荷のご神体。明治40年(1907年)に作られたらしい。寺社仏閣には各地で行っているが、ご神体を見たのは初めてかもしれない。

五十鈴川稲荷のご神体

 

 戸倉ヤマ氏関連資料。戸倉ヤマ氏は明治15年(1882年)生まれ、昭和41年(1966年)に亡くなった音楽教育者で、女子学習院でも音楽を教えていた。

 戸倉ヤマ氏の教え子の一人に香淳皇后(昭和天皇の皇后)がおり、戸倉氏が73歳のときに昭和天皇・皇后が大磯町へ訪れたときに2人は再会、香淳皇后はこれに喜び杯と花瓶を戸倉氏に贈ったそうだ。

香淳皇后が戸倉氏に贈った杯と花瓶

 

6.平塚市博物館「相模湾に生きる」

 1階から2階に上がる途中にあるこの絵は「平塚大空襲」。この絵は平野哲男氏が描いた絵であり、平野氏の友人で一緒に学徒動員されていた永峰光氏が平塚大空襲で焼夷弾の直撃を受け死亡したときの印象を描いたもの。まだ中学生、友人が亡くすなんて想像を絶する経験だっただろう。この絵を見ても、それが伝わる。

「平塚大空襲」

 

 2階に上がり、「相模湾に生きる」のコーナーを見る。

 これはマイワイという着物で、大漁のとき、オキアガリという酒宴の場で網元から船方に配られたものらしい。

マイワイ

 

 「浜でひろう海の自然」のコーナーに入る。

 これは虹ヶ浜海岸で見つかった海の動物だ。子供の頃、海で貝殻拾いをして遊んだ記憶ならあるが、種類までは把握していなかった。特に左下のクルマガイは珍しい生き物らしい。

 

7.平塚市博物館「岩石と地形」

 「川から海へ」。くさらないプラスチック。プラスチックの腐りにくい性質は一見便利だが、生態系のなかに放り出されるとこれほど扱いにくい物質もない。本業では海洋ごみの調査業務もやっているため、考えさせられるものがある。

くさらないプラスチック

 

 「大地のおいたち」。南の海の丹沢(1,700万年前)。熱帯に生息した大型有孔虫を含む石灰岩や、アオサンゴの化石が展示されている。これが神奈川県山北町や山梨県大月市で発掘されたというから驚く。

丹沢で発掘された熱帯生物の化石等

 

 「深海のシロウリガイ」。シロウリガイとは二枚貝で、深海においてメタンなどを多く含む冷水が湧出する場所に生息している。深海に生息する種ではあるが、逗子市で化石が発掘され、展示されていた。

シロウリガイ化石ブロック

 

 「岩石と地形」。相模川流域の地質図が展示されており、つい見てしまう。平塚のあたりは沖積層だが大山は丹沢層群大山亜層群相当層、箱根のほうは中央火口丘溶岩であることがわかる。

相模川流域の地質図

 

 こちらは沸石の仲間で、新潟県柏崎市の灰十字沸石や佐賀県唐津市のソーダ沸石、山梨県大月市のステラ沸石など、さまざまな沸石が並んでいる。ちなみに沸石とは水分を含む石で、加熱すると発泡する性質がある。

沸石の仲間

 

8.平塚市博物館 縄文時代~江戸時代

 「生活を語る土器」のコーナーに入る。

 こちらは縄文時代の土器で、平塚市の五領ヶ台貝塚から出土したものもある。よく見ると模様が描いてあるのがわかる。

縄文時代の土器

 

 こちらは弥生時代の土器。縄文時代のものと比べると模様がなくなり、シンプルになっている。

弥生時代の土器

 

 古墳時代の土器。土師器(はじき)とは素焼きの土器、須恵器は青っぽく硬い陶質土器。

古墳時代の土器

 

 奈良・平安時代の土器。弥生→古墳→奈良・平安とどんどん土器が洗練されていっているのがわかる。

奈良・平安時代の土器

 

 「道具の誕生」。縄文時代は打製石斧、磨製石斧がメインとなる。石以外の素材を使うことがあまり主流ではない時代だ。

縄文時代の道具

 

 弥生・古墳時代の道具。農耕を始めたこともあり、木製の鍬(くわ)や鋤(すき)といったものも発掘されている。

弥生・古墳時代の道具

 

 奈良・平安時代の道具。弥生・古墳時代と比べたらしっかりしているように見えるが、まだ木製の道具を使うのが主流だったことがわかる。

奈良・平安時代の道具

 

 「まつりの世界」。縄文時代の祭具。有孔鍔付土器が顔のように見えると思うのは私だけではないだろう。

縄文時代の祭具

 

 弥生・古墳時代の祭具。三角縁四神二獣鏡がある。

弥生・古墳時代の祭具

 

 奈良・平安時代の祭具。刻み目のある馬の骨があるが、これは太占(ふとまに)と呼ばれる占いで使われたものだろう。

奈良・平安時代の祭具

 

 「相模国府を探る」。平塚の四之宮周辺から国府所在地を示すと思われる「曹司(そうし)」「国厨(くにくりや)」「豉(くさ)」の墨書土器等が発見されたことから、大住国府が存在した可能性が浮上している。

出土した墨書土器

 

 「農家の四季」のコーナーに入る。

 春といえば水田では田起こしの時期で、田起こしには鍬(くわ)やマンガを用いてうない、戦中戦後からは牛にスキを引かせて田をすくようになった。

マンガ等

 

 夏は田植え。田植え当日、午前中に男がシロカキ、女が苗取りをして午後から植えはじめ、植え終わると家ごとに「ウエアゲ」といって祝い、村中の田植えが終わると「ノアガリ」の休日が出されたそうだ。

シロカキ等

 

 秋は麦を蒔く時期で、麦を蒔くために畑をウナイグワで耕す作業は大変な力仕事だったそうだ。

ウナイグワ等

 

 冬は農業ができないのでわら細工を行う。縄をはじめ、むしろ、俵、いちっこなどさまざまな生活用具をわらで作り、春に備えた。

わらぞうり等

 

 「宿場のくらし」のコーナーに入る。

 古道の地図。平塚には近世東海道が通っていたが、そのほかにも平塚宿から糟屋道が分岐していたり、平塚新宿から厚木道が分岐していたりする。あとやはり、大山信仰が盛んなので大山道がさまざまなところから走っている。

古道の地図

 

 こちらは平塚宿の絵図。ノースアップで描かれているのでわかりやすい。そして東海道を歩いたときも思ったが、城下町ではないので平塚宿はまっすぐな宿場町である。

平塚宿の絵図

 

9.平塚市博物館「講のつどい」

 「講のつどい」。講とはある特定の神仏を信仰する集団のことで、庚申講や大山講など、平塚市内でもさまざまな講が存在した。

 田村下町念仏講中用具。平塚市田村下町では妙楽寺の檀家13軒で講仲間を組んでいたが信仰心が薄れ、お金もかかるということで平成13年(2001年)に解散、用具は平塚市博物館に寄贈された。

田村下町念仏講中用具

 

 さまざまな寺社のお札。秋葉山半僧坊は静岡県浜松市天竜区の秋葉本宮秋葉神社、富士浅間神社は、富士山の周辺に同じ名前の神社がたくさんあるためそのうちのどれかだろう。武蔵御嶽神社は東京都青梅市、板橋地蔵尊は神奈川県小田原市にあり、「東海道を歩く 9.箱根板橋駅~箱根神社入口バス停 1.板橋延命子育地蔵尊」で訪れている。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 「失われるもの」のコーナー。

 成瀬酢はかつて平塚市御殿で醸造され、将軍家御膳酢として江戸幕府に献上されていた。

 中原代官成瀬五左衛門が中原御殿前で酢屋を営んでいた佐藤金右衛門方の酢を徳川家康に献上したところ、大変喜ばれたことから御膳酢となった。

 中原宿は御膳酢献上の見返りに平塚宿への人馬役負担免除の特権が認められていたものの享保8年(1723年)に御膳酢献上が廃止されるとその特権を失い、天保期(1830~1844年)には成瀬酢の醸造は行われなくなってしまったらしい。

 どういう経緯で御膳酢の献上が廃止されたのか気になるが、もし献上廃止がなければ今でも成瀬酢が造られ続けていたのでは…?とも思う。

成瀬酢の酢甕

 

 「地震と平塚の地盤」。平野の砂地盤が地震により振動を受け、液体のように振る舞い地盤沈下、地下の埋設物の浮き上がりなどが起こる現象を「液状化」という。液状化問題については東日本大震災で千葉県浦安市が深刻な液状化被害に遭ったため、記憶にある人も多いだろう。

 そして平塚もまた液状化の可能性が極めて高く、関東大震災のときに液状化により堤防が地割れしたり、馬入川の鉄橋が落下したりしている。

 関東大震災の液状化の話で忘れてはならないのが、平塚市のお隣、茅ケ崎市の旧相模川橋脚である。

 これは関東大震災による液状化により、土に埋まっていた鎌倉時代の橋の橋脚が浮き上がってきた、という遺跡である。旧相模川橋脚については東海道沿いであるため、「東海道を歩く 7.藤沢本町駅~平塚駅 6.旧相模川橋脚」で取り上げている。

octoberabbit.hatenablog.com

関東大震災含む、日本全国の液状化の写真

 

10.平塚市博物館「昭和のくらし」

 「昭和のくらし」のコーナーに入る。

 出征幟と慰問袋。出征幟は召集令状を受け取り、入営、戦地への出征となれば名誉なこととされ、町をあげて出征を祝うために作られた幟である。

 慰問袋は慰問の手紙、絵画、将棋などのゲーム、娯楽雑誌、菓子類が入っていた。出征兵士の数が増えると慰問袋は商品化され、百貨店などでも販売されていたらしい。

 「出征は名誉!」と表向きには言っていても、送り出す親の心中はさぞ複雑だっただろう。じゃなければ「徴兵忌避」なんて言葉が発生しない。

出征幟と慰問袋

 

 永峰光を悼む弔辞。先ほど「平塚大空襲」の絵のときも紹介したが、第二海軍火薬廠に動員されていた永峰光氏は、空襲で焼夷弾の直撃を受けて亡くなった。空襲の11日後、故郷の学校(永峰氏たちは茨城県立麻生中学校に通っており、平塚には学徒動員で来ていた)で永峰氏の学校葬が行われ、この弔辞は友人の須田三郎氏が書いたもの。さっきの絵のときも思ったが、中学生で友人を戦争で亡くすとは、同級生はどれほどつらかっただろうと思えてくる。

永峰光を悼む弔辞

 

 平塚大空襲で落とされた焼夷弾。平塚大空襲では平塚市の60%近くが破壊され、300人以上が亡くなった。永峰氏の件は学徒動員の先で起こったので悲劇として語り継がれているが、一般市民もたくさん犠牲になっているのである。

平塚大空襲の焼夷弾

 

 最後の展示が焼夷弾の展示なので少し微妙な気持ちになるが、常設展示はこれで終わり、企画展示で平塚江南高校SSH成果発表展が行われていた。

 SSHとはSuper Science Highschool の意味で、文部科学省が科学技術や理科・数学教育を重点的に行う高等学校等を指定する制度のこと。

 実は私の出身校もSSH指定校だったが、SSHのクラスに所属していたわけでもないため、特に恩恵はいただけなかったのは記憶にある。

 

 どんな研究をしているのかと覗いてみると、「水面に物体を落としたときの飛沫の高さを小さくする方法」といった科学的なものもあれば「ヴィクトリア時代の経済と文化」といった「これ、文系では?」というもの、「推しを定義する」といった高校生らしいものまで並ぶ。

 

 そういえば3階に天文コーナーがあった気がして、見に行ってみる。閉館時間が迫っていたので、やや早足で展示を見た。

 ギベオン隕鉄。この隕鉄は平成元年(1989年)に南西アフリカ、ナミビアのギベオンの約60km南東で採取されたものである。60km離れていたら違う地名がないのか?と思ってしまうが、そこはなかったのだろう。

ギベオン隕鉄

 

 平塚市博物館ではプラネタリウムもやっているが、本日の投影は終了していた。

プラネタリウム前

 

 閉館間際だったので最後は駆け足になってしまったが、平塚市博物館をあとにする。そして頭をたくさん使ったら疲れてしまった。そのまま帰るか温泉に行くか迷って、温泉に行くことにした。訪れたのは「湘南天然温泉 湯乃蔵ガーデン」。

湘南天然温泉 湯乃蔵ガーデン

 

 湘南天然温泉 湯乃蔵ガーデンの温泉はナトリウムとカルシウムが多く入った温泉で、「明日から仕事か~」と思いながらぼーっと入っていた。

 温泉の後といったら…やっぱりコーヒー牛乳でしょ、ついでに明日は会社だからビールとラーメンもつけちゃうよ!と理由をつけ徹底的に自分を甘やかす。

サウナの後のラーメン、某ビジホっぽい

 こんな調子でのんびりしていたら気づいたら20時半、慌てて帰り支度をするも、家に着いたのは結局23時前だった。

 光明寺はしっとりとした良い寺院だった。キャラウェイでは30分以上待たされたものの、カレーはすごく美味しかった。

 平塚八幡宮では少し前にネットニュースで話題になっていた東風くんに会えた。あと御朱印、30分かかると言われて10分で出てきたのはなぜ…?(逆なら不満だったけど)

 平塚市博物館は、無料でこれだけの情報を得られるのであれば素晴らしいと感じた。平塚宿の展示は、東海道のタイミングで見てもよかったかな?と少し思ったけれども。

 私の知らない神奈川が、まだまだありそうだ。

位置情報マップ

歩いた日:2026年3月8日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2005) 

「神奈川県の歴史散歩 下 鎌倉・湘南・足柄」 株式会社山川出版社

坂東札所霊場会(2019) 「坂東三十三所観音巡礼」 株式会社朱鷺書房

平塚市 【広報】デザインマンホール(マンホールカード)

https://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/machizukuri/page-c_02061.html

(2026年3月22日最終閲覧)