10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

江戸三十三観音をめぐる 12.三田・高輪・金地院編

 前回、江戸三十三観音第23番札所大円寺に訪れ、その後第24番札所梅窓院に参拝してから南青山・千駄ヶ谷方面をめぐった。今回は第25番札所魚籃寺、第26番札所済海寺、第27番札所道往寺、第28番札所金地院に参拝しつつ三田・高輪方面をぶらぶらしようと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.魚籃寺

 今日は白金高輪駅からスタートだ。

 

 白金高輪駅から北東方向に進み、魚籃坂下交差点で右折すると魚籃坂(ぎょらんざか)を登ることになる。

魚籃坂

 魚籃坂は坂の中腹に魚籃観音を安置した魚籃寺があることから名づけられた。魚籃坂を登ると、魚籃寺にたどり着く。

魚籃寺

 唐の憲宗の元和年間(804~824年)に、金沙羅という仏教信仰の全くなかった地方に、竹かごに魚を入れて売り歩く美しい乙女の姿で現れ、仏の教えを広めた、その姿を写したのが魚籃観音とされている。

 この像は馬郎という人の家に代々祀られていたが、魚籃寺の開山、称誉上人の師匠の法誉上人が長崎を訪れたとき、馬郎の子孫にあたる老婆が霊夢のお告げを受けたので、ということで魚籃観音を法誉上人に預けた。

 法誉上人は元和3年(1617年)頃に豊前中津(現在の大分県中津市)に魚籃院を営んで魚籃観音を安置し、寛永7年(1630年)に三田に仮のお堂を作り、のちに承応元年(1652年)に称誉上人が現在の地に寺を建てて魚籃観音を祀り、今日に至っている。

 魚籃観音を直接見ることはできなかったが、お堂の外側からお参りした。

 お参りのあとは御朱印をいただいた。力強い御朱印だ。

 

2.済海寺

 魚籃寺をあとにして伊皿子交差点を左折して歩いていくと三田台公園がある。

三田台公園

 三田台公園には伊皿子貝塚遺跡の一部が保存されている。

伊皿子貝塚の一部

 伊皿子貝塚遺跡は縄文時代から江戸時代に及ぶ遺構・遺物が重層的に発見された遺跡である。

 昭和53年(1978年)夏に開始され、約1年半にわたった発掘調査により、縄文時代後期の敷石住居跡1軒と貝塚弥生時代中期の方形周溝墓2基、古墳時代後期の住居跡3軒、奈良・平安時代の住居跡1軒が検出され、これらに伴い多数の遺物が出土した。

 この貝塚の一部は、貝、魚や獣を食べた後の骨、家の中のごみ、壊れた土器や石器のかけら、炉から出た灰や燃えさしの炭などで構成されている。要は縄文時代の人のゴミ捨て場だったということだ。

 ゴミ捨て場だったからといって荒らしていいわけでは決してなく、これを調べて当時の人の食べ物や生活の様子を解明するために残すのである。

 

 貝塚のほかにも縄文時代の住居も復元されている。

 

 そのほか、三田台公園には竪穴式住居跡も保存されている。

 

 三田台公園をあとにして、済海寺に向かう。

済海寺

観音堂

 済海寺は元和7年(1621年)に草創された浄土宗の寺院である。

 済海寺には竹芝寺伝説があり、以下のような話となっている。

 10世紀初め頃、武蔵国から京都の宮廷に差し出されて、篝火をたく衛士の役目をしていた若者がいた。

 その若者は御殿の庭を掃きながら「どうしてこういうつらい目にあうのだろう。自分の故郷にはたくさんの酒壷があって、風が吹けば、添えたひょうたんの杓がなびく様子を見て、のどかに暮らしていたのに、今はこんなざまだ」とひとりごとをいっていた。

 これを時の天皇の姫君で大事に育てられていた方が、一人で御簾のはしに出て柱によりかかりながら若者の言葉をお聞きになった。

 姫はどのようなひょうたんが、どんなになびくのだろうととても興味をもたれ、「こちらへおいで」と男を呼び寄せられ、酒壷の話をもう一度語らせた。話を聞いた姫は、「私もつれていってそれを見せて」と強く望んだ。

 若者はもったいなく畏れ多いと思ったけれども、若者はもともと故郷に帰りたいと思っていたので、姫を背負って宮廷から逃げ出した。

 武蔵国で若者と姫は仲良く暮らし、追手の役人も姫に説得されて帰り、天皇夫妻は「幸せに暮らしているなら」と若者に武蔵国を任せた。

 その2人の住居も内裏の御殿のように造られ、2人の子供が生まれると「武蔵」という姓を与えられたという。

 姫が亡くなったあと、その家を寺にしたのが竹芝寺で、それがのちに済海寺になったそうだ。

 

 この済海寺の観音様は亀塚正観世音菩薩といい、亀の上に立つ観音様である。観音堂に祀られているが、非公開のため見ることはできない。

 

 観音堂に手を合わせてから御朱印をいただいた。御朱印は書置きのみ。

 

3.道往寺

 済海寺をあとにして、来た道を伊皿子交差点まで戻って左折、道往寺に向かう。

道往寺

道往寺観音堂

 道往寺は寛文年間に創立され、江戸時代には江戸三十三観音第二十七番札所として栄えていた。江戸時代の江戸三十三観音は寛文8年(1668年)に選定されたものだが、その後廃仏毀釈などで半分以上が入れ替わり、現在の江戸三十三観音の形となったのは昭和51年(1976年)のことである。

 道往寺の観音堂に祀られている聖観世音菩薩と千住観世音菩薩に参拝し、御朱印をいただいた。

 

4.泉岳寺

 道往寺をあとにして、都道415号線を南下し、突き当たりを右折すると泉岳寺がある。

 泉岳寺の中門は天保7年(1836年)35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和7年(1932年)に大修理を施されている。

泉岳寺中門

 泉岳寺の山門は天保3年(1832年)に再建されたもの。

泉岳寺山門

 泉岳寺本堂は昭和28年(1953年)12月14日に再建されたものである。

 泉岳寺の御本尊は釈迦如来、ほかに曹洞宗の宗祖である道元禅師、瑩山禅師、また、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の守り本尊である摩利支天などが祀られている。

泉岳寺本堂

 泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を開山として徳川家康が外桜田に創設した寺院である。

 しかし寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失したため、現在地の高輪に移転してきた。

 江戸時代は曹洞宗の江戸三学寮のひとつとして多くの僧侶を育成してきた。現在も数は少ないながら大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行をする僧侶はいるようだ。

 泉岳寺御朱印をいただくのだが、御朱印をいただく前に納経をお願いされる。習字は習っていなかったので筆で文字を書くのは下手くそだが、これで願いが伝わればよいな、と思う。

 泉岳寺を語るうえで欠かすことができないのは、元禄赤穂事件だろう。

 元禄赤穂事件の原因となったのは江戸城で起きた「松之廊下刃傷事件」である。

 元禄14年(1701年)3月14日、この日は江戸城において、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の母、桂昌院に朝廷が従一位の官位を授ける儀式が執り行われる予定だった。

 しかしこの日の午前中に赤穂藩3代藩主、浅野内匠頭江戸城の松之廊下で高家筆頭の吉良上野介を日本刀で切り付ける事件が発生した。浅野内匠頭が何の動機があって斬りつけたのかは諸説あり、わかっていない。吉良上野介は軽傷だったものの、浅野内匠頭はその場ですぐさま取り押さえられてしまった。

 大切な儀式の日に刃傷事件を起こされた徳川綱吉は激怒し、浅野内匠頭に対し即日切腹、浅野家のお家断絶を命じた。浅野家の家老、大石内蔵助は浅野家の家督を相続できるように江戸幕府に嘆願していたが、それは認められなかった。

 「傷害事件起こして処罰された、それは当然じゃない?」と現代の感覚では思うが、当時は「喧嘩両成敗」という法原則があった。この法原則によると、喧嘩をした両者はどちらも悪いとして、どちらも罰せられることになる。ところが今回は、吉良上野介には何のお咎めもなかった。

 そこで、大石内蔵助は「吉良上野介がいる限り、浅野内匠頭の名誉を挽回することはできない」と考え、仇討ちの計画を始めた。

 1年後の元禄15年(1702年)12月14日、大石内蔵助赤穂浪士47人は吉良邸に奇襲をかけ、吉良上野介を発見、その首を討ち取り、主君の仇討ちを果たした。

 赤穂浪士にたいする処罰に対しては有罪と無罪の両論があったが、最終的には全員に切腹が言い渡された。そして、浅野内匠頭大石内蔵助赤穂浪士47人の遺骸が葬られているのが泉岳寺である。

 ちなみに、吉良上野介が殺害された吉良邸は、「江戸三十三観音をめぐる 2.人形町・両国・小伝馬町編 6.本所松阪町公園」で訪れている。

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 泉岳寺には元禄赤穂事件に関するさまざまな遺構がある。赤穂義士記念館には赤穂浪士47人のさまざまな遺品が残されている(残念ながら撮影不可)。

赤穂義士記念館

 赤穂義士記念館の向かい側には義士木像館もある。鷲屋石欒やその弟子が作った赤穂義士の木像が展示されている(こちらも撮影不可)。

義士木像館

 この井戸は「首洗い井戸」と呼ばれ、浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を供える前に首を洗ったことからこの名がついている。

首洗い井戸

 この門の奥に、浅野内匠頭大石内蔵助赤穂浪士47人の墓がある。ちなみにこの門は浅野家の鉄砲洲上屋敷の裏門で、明治に入ってから移築されたもの。

 赤穂義士墓地は有料となっており、お線香代として300円を払う。お線香代なのでお線香をいただき、墓地に供える。

 浅野内匠頭の墓は赤穂義士の墓の外にある立派な墓で、討ち入りを主導した大石内蔵助の墓は赤穂義士の墓のなかでも一番奥にある。今でも参拝に来ている人が多く、元禄赤穂事件の人気は衰えていないのだなと感じた。

 ちなみに、泉岳寺の前には赤穂浪士グッズが売っているお店もある。

 

5.金地院

 泉岳寺をあとにして、金地院へ向かう。金地院へ向かう途中で、東海道を遡る。なつかしの「東海道を歩く 1.日本橋~品川駅 後編」で通ったあたりだ。

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 道の反対側に高輪大木戸跡が見える。

高輪大木戸跡

 高輪大木戸は江戸時代中期の宝永7年(1710年)に芝口門に建てられたのが起源である。享保9年(1724年)に現在地に移された。

 江戸の南の入口として、夜は閉めて通行止めとし、治安の維持に努めていた。後に高札場も札の辻から移された。

 かつては旅人の送迎もここで行われ、たいへん賑やかな場所だったようだが、現在は自動車が大木戸跡の横を通り過ぎるだけとなっていて少し寂しい。

 

 少し進むと御田八幡神社がある。御田八幡神社には「東海道を歩く」以来訪れていなかったので3年ぶりの訪問となる。

 御田八幡神社和銅2年(709年)に創建され、江戸時代に現在地へ遷座した。現在も三田・芝・芝浦・高輪の氏神として崇敬を集めている。

御田八幡神社

 

 札の辻交差点で東海道とは分かれ、都道301号線を北に進んでいく。すると、慶応義塾大学三田キャンパス東館の北側に小さな神社があるのに気が付く。三田春日神社だ。三田春日神社は天徳2年(958年)に奈良の春日神社から天児屋根命(あめのこやねのみこと)の神霊を勧請して創建した。奈良の春日神社を意識してか、御朱印にもシカのハンコが押されている。

三田春日神

 

 赤羽橋交差点まで北進したら右側に進み、東京タワー前交差点を左折する。東京タワーの足元に、金地院はある。

金地院

 金地院は元和4年(1618年)徳川秀忠から寺領を賜り、江戸城北の丸付近に創建され、その後寛永16年(1639年)、徳川家光の命により現在地に移築された。

 開山の以心崇伝は南禅寺を中興開山した人で、徳川幕府草創期の政治を補佐したことで知られている。

 如意輪観音像を祀っていた旧本堂は、「将軍家御祈祷殿」として将軍家にことあるごとにここで祈祷が行われたと伝えられ、御本尊の御開帳がある善月祈祷会には多くの参拝客が訪れ、「切通し金地院の開運三大杓子」と呼ばれる杓子を参詣者に配っていたことでも有名だった。

 昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で全焼してしまい、昭和31年(1956年)再建の本堂に改めて聖観世音菩薩を祀り、現在に至っている。この聖観世音菩薩が江戸三十三観音第28番札所の観音様である。

 御朱印を待つ間、観音様を拝んできた。神々しいお姿だった。

 

 せっかくここまで来たので、東京タワーに登ろうと思った。東京タワーに登るのは5年ぶりだろうか。

 

 東京タワーにはタワー大神宮という神社があり、なんと御朱印もいただける。

タワー大神宮

 

 こういうのを見ると、つい上に乗って歩きたくなってしまう。

 

 東京タワーは曇っていたがそこそこ混んでいて、疲れたのでスタバで一休みしてから帰ることにした。飲んだのは「もっとGOHOBI メロンフラペチーノ」。

 この後は御成門駅から帰路についた。

もっとGOHOBI メロンフラペチーノ

 魚籃寺済海寺、道往寺。3ヶ所の江戸三十三観音札所を一気に回った。その後は泉岳寺で、浅野内匠頭大石内蔵助赤穂浪士47人の冥福を祈った。金地院は昔は人で賑わっていたようだが、今は東京タワーの真下にあるにも関わらず、しんとしていた。そして5年ぶりに登った東京タワー。バカと地理屋は高いところが好き…とはいうが、高いところに登るとワクワクするのはなぜだろう。やはりバカだからだろうか。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2024年5月6日

【参考文献・参考サイト】

俵元昭(1979) 「港区の歴史」 名著出版

江戸札所会(2010) 「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

港区立郷土資料館 伊皿子貝塚遺跡出土遺物

https://www.minato-rekishi.com/museum/2009/10/42.html

刀剣ワールド 元禄赤穂事件

https://www.touken-world.jp/tips/11107/

(2024年6月10日最終閲覧)

東海道を歩く 34.知立駅~鳴海駅

 前回、岡崎公園前駅から知立駅まで歩いた。今回は知立駅から鳴海駅まで歩こうと思う。桶狭間古戦場や重要伝統的建造物群保存地区の有松など、見どころたくさん、そしてついに名古屋市内に入った。

初回記事はこちら↓

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1.総持寺

 今日は知立駅からスタートだ。

知立駅

 知立市観光交流センター前の交差点まで行って左折、東海道に入る。

 歩いていると、何やら山車の作業をしていた。それを見ていると、ビラをいただいた。どうやら近々「知立まつり」をやるようだ(この日は4月28日、知立まつりは5月2~3日)。

 知立まつりの歴史は承応2年(1653年)から続いており、山車のうえで上演される山車文楽とからくりを特徴としている。

 からくりは80本もの糸をあやつることもある見事なものらしく、いつか見に行ってみたいが、流石に数日後、知立にまた来るのは財政的に厳しい。

 突き当たりを右折、また突き当たるので左折するとあんまきが名物の「小松屋本家」がある。

松屋本家

 友人とあんまきを2つオーダーした。「小松屋本家」と知立市ゆるキャラ「ちりゅっぴ」の焼き印が押されている。特に「ちりゅっぴ」が可愛い。

 江戸時代、池鯉鮒(ちりゅう)では畑で多くの麦を作っていた。その小麦粉を延ばし、焼き、二つ折りにして、畑で採れた小豆を塩あんにして中に挟んだものが「あんまき」の始まりと言われている。

 その頃から知立神社への参拝客、弘法山参りの人々、街道を往来して休憩する旅人に出して大変喜ばれていたそうだ。

 あんまきは焼き立てホカホカで、美味しかった。

 

 少し先に進むと、総持寺がある。

総持寺

 総持寺天台宗の寺院で、三河四国霊場の第一番札所である。

 三河四国霊場寛永2年(1625年)に開創された愛知県三河地方の霊場巡礼だが、現在の形となったのは昭和39年(1964年)のことである。

 「江戸三十三観音もやっていることだし、三河四国霊場、はじめないの?」と思う人もいるかもしれないが、通うのが大変なので三河四国霊場はやらない。でも、御朱印はもらった。

 

 子供たちがやたらたくさん境内にいたので、何かイベントでもあるのかとお寺の方に聞くと、「ちりゅっ子かふぇがある」とのこと。

 ちりゅっ子かふぇは総持寺で行っているボランティア活動で、「子ども食堂」のひとつである。高校生以下の子供は無料、大人も200円で弁当を販売しているようだ。確かに境内にどこかおいしそうなにおいが漂っていた。しかしまだ弁当が出来上がるまでには時間があったので、先を急ぐことにした。

 また、総持寺の本堂に長いひもが垂れており、「このひもを握ればご本尊様と縁を結ぶことができる」とお寺の方に言われたため、握って縁を結んできた。

 総持寺の一角には、四国お砂踏霊場がある。こちらもお寺の方におすすめされたので、入ってみた。

四国お砂踏霊場

 四国八十八箇所の「お砂踏み」とは、各霊場の御本尊の写し仏を祀り、持ち帰った八十八箇所霊場の砂を踏みながら礼拝することで、四国八十八箇所をめぐったことと同じ功徳をいただけると考えられてきた風習である。

 私たちも砂を踏み、いつか四国八十八箇所をめぐることができればいいなと考えていた。

 総持寺をあとにして、逢妻川をわたる。

 

2.洞隣寺

 逢妻川をわたり、国道1号線に合流するとすぐに知立市は終わり、刈谷市に入る。

 

 刈谷市に入ってすぐ、国道1号線の341キロポストを見つけた。

 

 歩道橋に「刈谷市里山町」と書かれている。このあたりに85里(約340km)の一里塚があったようだが、今は地名くらいにしか残っていない。

 

 刈谷市の消火栓を見つけた。

 刈谷市の市の花もかきつばたのようだ。刈谷市内にかきつばた群落があることから市の花に指定されたようだ。

 

 刈谷市章つきの仕切弁を見つけた。

 刈谷市章は「雁」と「8」をモチーフとしたデザインで、「雁八」で「かりや」と読む、としている。

 

 こちらのデザインの消火栓もかきつばた。

 

 こちらのマンホールにもかきつばた。

 

 アスカ本社第1配送センターのある交差点で旧道に入り、アド株式会社の交差点で国道1号線に戻り、次の歩道橋を渡ってまた旧道に入る。寛政8年(1796年)の秋葉灯籠のある寺が、洞隣寺だ。

秋葉灯籠

洞隣寺

 洞隣寺は曹洞宗の寺院で、天正8年(1580年)の開山といわれ、開基は刈谷城主の水野忠重とされている。

 境内にある達磨(?)を見て友人が「千と千尋の神隠しに出てくる頭に似ている」と言った。確かに似ている。

 

3.阿野一里塚

 「いもかわうどん」と書かれた解説板を見つけた。

 ここがいもかわうどん、現在の「ひもかわうどん」の発祥の地、らしい。

 

 乗願寺は天正15年(1587年)の創建で、本堂に刈谷城主の位牌が祀られている。

乗願寺

 新しいデザインのマンホールを見つけた。

 これは万燈祭、刈谷ハイウェイオアシス、かきつばたと名産品のスイカがデザインされている。マンホールカードを刈谷駅前で配っていたようだが、刈谷駅前は通過していないのでゲットできなかった。

 

 緑のかきつばた空気弁。

 

 カラーのかきつばたマンホール。

 

 12時前でおなかもすいてきたのでNAN-HOUSE 刈谷店へ。

NAN-HOUSE 刈谷

 友人はほうれん草チキンカレーを、私はチキンカレーを頼んだ。ナンが大きくお腹いっぱいになった。

 

 旧道を歩き続け、国道1号を渡るのに危険なので地下道を通ってまた旧道に出る。

 

 わずかな松が東海道を教えてくれる。

 

 境橋を渡る。

境橋

 境橋は、尾張国三河国の境界となる橋である。現在はここで刈谷市豊明市の境界となっている(残念ながらカントリーサインはなかった)。

 慶長6年(1601年)、東海道に伝馬制度が設けられ、ほどなく尾張三河の立ち合いで橋が架けられた。

 当初は中ほどから西は板橋、東は土橋となっていたが、やがて一続きの土橋になり、明治に入ってから欄干がついたそうだ。

 藤原朝臣光広卿の歌碑があった。「うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん」

藤原朝臣光広卿の歌碑

 さっそく、豊明市のマンホールを見つけた。

 豊明市のマンホールには桶狭間古戦場伝説地がデザインされている。こちらはのちほど行くので、そこで説明したい。

 

 第二東海自動車道の下をくぐるあたりで国道1号線に合流して先に進み、池下交差点で旧道に入るとすぐに阿野一里塚がある。

阿野一里塚

 徳川家康は慶長9年(1604年)、すでに整備した東海道の宿駅、伝馬制に加えて、道の両側に塚を築かせ、1里ごとの目印とした。これを一里塚という。

 愛知県内の東海道には18の一里塚があったが現存するのは4箇所、道の左右ともに残っているのはこの阿野一里塚と来迎寺一里塚のみである。来迎寺一里塚は前回の「東海道を歩く 33.岡崎公園前駅知立駅 7.来迎寺一里塚」で紹介している。

 

 一里塚の上には森市雪の句碑がある。「春風や 坂をのぼりに 馬の鈴」

 このあたりを歩いていると昔は馬の鈴の音も聞こえたかもしれないが、今は聞こえない。

4.桶狭間古戦場伝説地

 豊明小学校に水準点を見つけた。一等水準点第171号だ。

一等水準点第171号

 一等水準点第171号は昭和48年(1973年)に設置された標石型の水準点である。

 

 坂部区公民館の一角に坂部善光寺を見つけた。

坂部善光寺

 坂部善光寺は、三田柳庵が明治5年(1872年)に善光寺別当大勧進から一光三尊弥陀尊像を受け取ったことに始まる。

 明治28年(1895年)には三田柳庵が地元にお堂を建てるための土地を提供し、地元の有志によりお堂が作られた。

 昭和22年(1947年)には本堂の傷みが激しかったため一旦本堂を取り壊し、仮建物内に弥陀尊像を安置した状態が続いていたが、昭和61年(1986年)に坂部公民館が改築されそこに祀られることになった。

 

 豊明市の市章入りマンホールを見つけた。

 豊明市章は豊明の「トヨ」の文字を図案化して両翼に輪舞する人型をとって市民の協力と飛躍を表しているようだ。

 

 文化4年(1807年)に設置された道標があったが、文字が摩耗してほとんど読めない。

 

 豊明市章と市の花、ひまわりをデザインしたマンホール。

 

 旧道をそのまま進むと国道1号線に合流する。348キロポストを見つけた。

 

 桶狭間病院の交差点を左折すると、桶狭間古戦場伝説地に到着する。

桶狭間古戦場伝説地

 ここで、桶狭間の戦いについて説明しておこう。

 桶狭間の戦いとは、永禄3年(1560年)6月5日に起こった尾張守護代織田信長」と駿河遠江三河を治めていた守護大名今川義元」の戦いである。

 当時、桶狭間の戦い今川義元が圧勝すると誰もが予想していたが、その予想はひっくり返って織田信長が勝利した。

 なぜ桶狭間の戦いが起こったのか。近年では、今川義元三河支配を安定させるため、尾張へ攻め入ったという説が有力とされている。

 なぜ今川義元が勝つと思われていたのか。

 1つ目は尾張守護代織田信長今川義元駿河遠江三河守護大名という家柄で、身分上は今川義元のほうが上だったからである。

 2つ目は、織田信長は3,000人程度の兵しか動員できなかったのに対し、今川義元は25,000人もの兵を動員していたこと。兵力の差は歴然としていた。

 3つ目は家督を継いで間もない織田信長と、今川義元はいくつもの戦いを経て三河を領国とし、武田や北条とも同盟を結ぶなど活躍めざましい大名だったこと。要は経験値の差である。

 こう見ると織田信長は絶望的な状況だが、なぜ織田信長は勝てたのか。それは勝てる可能性に賭けて全力で勝負に出た織田信長と、完全に勝ち戦と油断していた今川義元の意識の差にあると言われている。

 

 尾張に侵入した今川軍は織田家の砦を次々に奪っていった。織田信長は清州城で動く気配がなかったが、あるとき急に出陣の準備を命じ、自ら馬に乗って駆けだした。部下の多くは後に続くことができなかったが、織田信長熱田神宮で神の加護を祈ったときには多くの部下が集まってきていた。

 今川義元は前哨戦で勝ったので気をよくして桶狭間山で酒を飲んでいた。その情報が織田信長の耳に入り、信長は敵陣を急襲する決断をくだした。織田信長は嵐のなか駆けていき、桶狭間山の今川義元のもとまで走っていき、今川義元の首をとり、桶狭間の戦いに勝利した。

 

 諦めずに勝利をつかんだ織田信長、そして慢心から命を落とした今川義元、「下剋上」ともいえる戦ゆえに、戦国ファンの心をつかんで離さない、それが桶狭間の戦いである。

 そしてこの桶狭間古戦場伝説地は今川義元が殺害された現場であり、義元の墓もある。

今川義元の墓

 桶狭間古戦場伝説地にはとよあけ桶狭間ガイドボランティアの方がいて、6/1~6/2に行われる桶狭間古戦場まつりで使う鎧のレプリカを見せてくれた。ビラもくれたが、このタイミングで桶狭間にまた行くのは残念ながら難しい。

 

 かつては激しい戦いの場となった桶狭間古戦場伝説地にも、現在はかきつばたが咲いていた。

 かきつばたを見てつい「からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ…」と呟いてしまった。これが何のことかわからない人は「東海道を歩く 33.岡崎公園前駅知立駅 6.知立市に入る」を参照してほしい。

 

 香川景樹の歌碑があった。「あと問へば 昔のときの こゑたてて 松に答ふる 風のかなしさ」

 桂園派の巨匠、香川景樹が己の歌風を江戸にも広めようと意気込んで出府したが、迎えられず、失意を抱いての帰途、桶狭間を通り、永禄3年(1560年)5月19日、信長のためにこの地に没した義元の気持ちをくみ、自身の心に引き当てて詠んだ一首である。認められないことのつらさがわかる。

 

 桶狭間古戦場伝説地の道路の向かい側に徳本が刻んだ「南無阿弥陀仏」の石碑がある。

 これは江戸時代の高僧、徳本がこの地を訪れ、敵味方問わず戦死者の霊を弔うために建てたものである。

 

 桶狭間古戦場伝説地の近くに高徳院という寺院があり、ここも桶狭間古戦場跡地である。

高徳院

 高徳院御朱印にも「桶狭間古戦場」と書かれている。

 

5.有松

 桶狭間古戦場伝説地をあとにし、国道1号線に戻ってすぐ旧道に入る。旧道から国道1号線に戻り、足元の消火栓を見て「おっ!」と声が出た。

 名古屋城と鯱、そして丸に八の市章。ついに名古屋市に入ったのだ。

 この丸に八は名古屋市章で、尾張徳川家の合印として使われていたマークである。

 カラーの消火栓も見つけた。

 

 名古屋上下水道局のキャラクター、「アメンボ」が描かれたマンホールがあった。かわいい。

 

 大坪ヶ根交差点で旧道に入り、少し歩くと古そうな町並みに入っていく。有松だ。

 東は松野根橋から西は祇園寺までの約800mにわたって江戸時代の面影を残す有松の町並みは、昭和59年(1984年)に名古屋市の町並み保存地区に指定され、その後平成28年(2016年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。東海道重要伝統的建造物群保存地区は有松と、三重県の関宿のみである。関宿はのちに訪れる予定なので、お楽しみに。

 有松の町は慶長13年(1608年)、尾張藩の命によって東海道の鳴海宿と池鯉鮒宿との間に開かれた町である。

 住民の生業として導入された絞り染は、藩の庇護もあって有松絞りの名で名物となり、有松の町も大いに繁栄した。

 天明4年(1784年)の大火によって町のほとんどが焼失したが、復興にあたって多くの家が瓦葺き・塗籠造りの防火構造にし、現在みられる町並みが形成された。

 

 有松といえば、絞りである。

 江戸時代、有松や鳴海で生産・販売された絞りは、有松絞りまたは鳴海絞りとよばれ、東海道を代表する名物であった。

 歌川広重が描いた「東海道五十三次」をはじめ、鳴海宿を紹介した浮世絵の多くには、鳴海や有松の町並みとともに絞りが描かれ、人々の絞りへの関心の高さがわかる。

東海道五十三次 鳴海」

 有松・鳴海絞りの生産の由来は、知多郡 英比(あぐい)から有松に移住した竹田庄九郎が、慶長年間(1596~1615年)に築城工事のため名古屋にきていた豊後の人が着用していた絞り染めから九々利(くくり)染めを考案したのが始まりとされる。

 その後明暦年間(1655~1658年)に豊後高田藩主の侍医、三浦玄忠の妻が豊後絞りの技法を指導したという。また、鳴海宿で病気になった玄忠との生計をささえるため、妻が絞り染めを村人に教えたので鳴海に絞りが広がったともいう。

 東海道沿いという好条件のほか、知多・三河という絞りの原材料である木綿を生産する地域が近くに所在したこと、尾張藩が有松の絞り問屋に販売独占権をあたえたことなどによって、絞り業は当地で発展していった。

 絞りは、木綿の生地を糸で括って藍で染め、糸抜きをしたのち湯のし仕上げをして完成する。その作業は工程ごとに細かい分業で行われ、括り作業は近郊農村の女性の内職仕事でもあった。

 藍染めは有松や鳴海で行われ、絞り問屋に引き取られて販売された。しかし庶民には高価で、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では、冷やかし気分で有松の絞りの店にはいった弥次郎兵衛(弥次さん)は、手ぬぐいしか買えなかった。

 昭和50年(1975年)、「有松・鳴海絞り」として国の伝統的工芸品に指定された。

 奥に見える建物が有松山車会館だ。入ってみよう。

 

 有松では東町の布袋車、中町の唐子車、西町の神功皇后車の3台の山車が、10月第1日曜日の天満社秋季大祭に旧東海道を曳行され、からくり人形が演じられる。

 山車は各町に設けられた山車蔵に保管されているが、交代で山車会館に展示されている。この日は東町の布袋車が展示されていた。

 

 天狗と猩々が展示されていた。なんか怖い…。

 

 「10月にお祭りをやるので、ぜひ来てくださいね」と有松山車会館のスタッフさんに言われたので、いつか行ってみたいと思う。

 

 有松・鳴海絞会館に向かう。

有松・鳴海絞会館

 有松・鳴海絞会館では1階は有松・鳴海絞りの販売コーナー、2階は有松・鳴海絞りについての展示コーナーとなっていた。

 

 これは「尾張国産物競」という尾張国の特産物を示したもので、右から2番目、1番上に「有松絞」があるのを確認できる。

尾張国産物競」

 有松・鳴海絞りの魅力に触れたため、有松絞りのハンドタオルを買ってしまった。

 

 なお、有松・鳴海絞会館では名古屋市の歴まちカードと鳴海宿の御宿場印も販売している。ここ鳴海宿ではないよな、有松だよな…?と突っ込んではいけないのだろう。

歴まちカード「名古屋市

御宿場印「鳴海宿」

 歴まちカードこと、歴史まちづくりカードは国土交通省が作成している歴まち認定都市の象徴的な風景写真や歴史まちづくり情報を紹介したカード型パンフレットである。前回登場したのは「東海道を歩く 27.舞阪駅新居町駅 4.舞阪宿脇本陣」で浜松市の歴まちカードを入手したときである。そのとき「岡崎市役所でももらえる」と書いているが、すっかり忘れていた…。

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 有松・鳴海絞会館をあとにすると、目の前に服部家住宅が見えた。

服部家住宅

 服部家は寛政2年(1790年)創業の絞問屋で、屋号を井桁屋という。

 屋敷地は東海道に面して広い間口を有する。中央部に店舗及び居住として利用する2階建の主屋を配し、井戸屋形、店倉、藍倉、門など合わせて11棟の建物が有力な絞問屋の屋敷遺構の典型として、昭和39年(1964年)愛知県の有形文化財に指定された。隣の蔵も愛知県の有形文化財らしいが、漆喰が剝がれかけているのは修繕できないのだろうか。

 

棚橋家住宅

 棚橋家住宅の主屋は木造つし2階建、切妻造桟瓦葺である。東海道を挟み北側に分家した服部家住宅(井桁屋)の本家(大井げたや)として約50年絞問屋を営んだ後、棚橋家が、昭和8年(1933年)から約50年間医院、その後は住宅として使用されている。

 

中濱家住宅

 中濱家住宅は主屋、土蔵、物置、塀、石積みが一体で残っている。

 江戸時代末期から絞問屋を営んでいたと伝えられており、屋号をヤマヨとしている。現在は有松絞を売っている「中濱商店」として使用されている。

 

 唐子車(中町)の山車庫を見つけた。

唐子車(中町)の山車庫

 中町の山車庫には「唐子車」と呼ばれる山車が格納されている。

 唐子車は天保年間(1830~1844年)に知多内海で造られたものを、明治8年(1875年)に中町が購入した。昭和48年(1973年)、名古屋市文化財に指定された。

 

中舛竹田荘

 中舛竹田荘は有松絞の開祖である竹田庄九郎ゆかりの江戸時代の建物と伝えられている。現在はデイサービスの松柏苑として使用されている。

 

竹田家住宅

 竹田家住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。建物は絞問屋の伝統的形態を踏襲している。

 

岡家住宅

 岡家住宅は江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。主屋は旧状をよく残し、2階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗籠造の建物である。

小塚家住宅

 小塚家住宅は重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめている。主屋の1階は格子窓、2階は塗籠壁、屋根両妻に卯建(うだつ)があり、塗籠造のうち最も古いものの1つと思われ、有松らしい家並みの景観上からも貴重な建物である。小塚家は、屋号を山形屋として明治期まで絞問屋を営んでいた。

 

神功皇后車(西町)の山車庫

 西町の山車庫には「神功皇后車」と呼ばれる山車が格納されている。

 神功皇后車は、明治6年(1873年)、西町が名古屋の大工の久七に発注して造ったもので、有松に現存する3台の山車のなかで最も古くから曳かれている。昭和48年(1973年)、名古屋市文化財に指定された。

 

梅屋鶴寿の歌碑

 「あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しはしと人の 立ちとまりけれ」

 梅屋鶴寿の歌碑である。梅屋鶴寿は幕末の狂歌師で、享和元年(1801年)に江戸神田佐久間町に生まれ、株を商い、尾州家の御用を勤めていた。元治元年(1864年)に63歳で亡くなった。

 

 有松一里塚を見つけた。

有松一里塚

 有松一里塚は江戸から87里(約348km)を示す一里塚だったが、大正13年(1924年)に払い下げられたときになくなってしまった。しかし歴史ある有松の地の発展を願う地元の熱意によって平成24年(2012年)に復元された。

 

 名鉄名古屋本線の踏切を境に、有松の町並みは終わる。あとは鳴海駅をひたすらに目指す。

 平部北交差点に平部町常夜灯を見つけた。

平部町常夜灯

 表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜灯」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。

 文化3年(1806年)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願した。

 

紫雲山金剛寺

 紫雲山金剛寺は宝暦10年(1760年)に瑞泉寺20世の呑舟和尚が創建した。本尊は行者菩薩像で、そのことから行者堂と言われた。

 昭和17年(1942年)に瑞泉寺三十一世道本和尚が寺号開山となり、本尊の行者菩薩の金剛杖や「金剛般若経」と縁深いところから紫雲山金剛寺と改称した。

 

 金剛寺から少し進むと瑞泉寺がある。

瑞泉寺

 瑞泉寺は龍蟠山(りゅうばんざん)と号す曹洞宗の寺院である。

 鳴海根古屋城主 安原宗範(やすはらむねのり)が応永3年(1396年)に創建したと伝えられ、大徹宗令禅師を開山とする。初め瑞松寺といった。

 その後兵火により焼失したが、文亀元年(1503年)に現在地に移り、のちに寺号を瑞泉寺と改めた。

 20世の呑舟は中興の祖とされ、鳴海の豪族下郷弥兵衛の援助により、宝暦年間(1751~1759年)に伽藍が再興された。

 宝暦6年(1756年)に建立した総門は、宇治市黄檗宗万福寺総門を模した中国風の形式の門で、愛知県の有形文化財に指定されている。

総門

 千代倉歴史館前の交差点を左折し、鳴海駅へ向かう。

鳴海駅

 次回は、鳴海駅から熱田神宮伝馬町駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

今回の地図⑤

歩いた日:2024年4月28日

【参考文献・参考サイト】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016)「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第11集」

愛知県高等学校郷土史研究会(2020)「愛知県の歴史散歩 上 尾張」 山川出版社

藤田屋 大あんまきの歴史

http://www.anmaki.jp/oanmaki/history/

刈谷市 市勢情報

https://www.city.kariya.lg.jp/shisei/profile/1004361.html

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

豊明市 市章・市の花・市の木・市のPRキャラクター

https://www.city.toyoake.lg.jp/2402.htm

ベネッセ教育情報 桶狭間の戦いとは? 戦いが起こった要因や、織田軍圧勝の理由を紹介

https://benesse.jp/contents/history/okehazamanotatakai/

(2024年6月2日最終閲覧)

江戸三十三観音をめぐる 11.大円寺・南青山・千駄ヶ谷編

 前回、江戸三十三観音第22番札所長谷寺に参拝しながら赤坂・西麻布をめぐった。今回は第23番札所大円寺に参拝してから、第24番札所梅窓院に参拝、その後南青山・千駄ヶ谷方面をぶらぶらしようと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.大円寺

 白山駅A2出口から出て、大円寺に向かう。なお、大円寺のある地域は「江戸三十三観音をめぐる 5.文京区編」で歩いてしまったので、今回は大円寺のみ訪問する。

白山駅

 白山駅から北上し、白山上交差点で国道17号線を南東に進むとすぐ大円寺が見えてくる。

大円寺

 大円寺は慶長2年(1597年)に久山正雄和尚が開創した曹洞宗の寺院である。

 昭和初頭に法秀太元和尚が国難打開等を祈り、七観音の建立を発願した。これを高村光雲にお願いして快諾、聖観音、千手観音、如意輪観音、十一面観音、不空羂索観音馬頭観音准胝観音七観音を作った。残念なことにこの像は空襲によりなくなってしまったが、像のなかにあった胎内仏は疎開したため無事だったので、外側の像を再現して作ったようだ。しかしこの像は公開していない。

 ところで、「江戸三十三観音をめぐる 5.文京区編」の3.圓乗寺 で取り上げた「八百屋お七」の話を覚えている人はいるだろうか。

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 半年前の記事なので、「覚えてません」という人のために、説明する。

 天和2年(1682年)、江戸で大火がありお七の家も焼けてしまい、一家は圓乗寺に仮住まいをすることになる。

 そこで仮住まい先の圓乗寺の寺小姓、山田佐兵衛とお七は恋仲になってしまった。

 しかし家が再建したため、お七一家は圓乗寺を引き上げたところ、お七は佐兵衛に会えなくなってしまい、悲しんだ。

 そこでお七は佐兵衛と会いたいがために、放火をしてしまった。

 結果、天和3年(1683年)3月に放火の罪で、お七は火刑に処され、圓乗寺に墓がある。

 

 以上が「八百屋お七」のお話である。

 この「お七」を供養するために建立された「ほうろく地蔵」が大円寺にある。

ほうろく地蔵

 お七の罪業を救うために、熱した焙烙(ほうろく。素焼きのふちの浅い土鍋。)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。享保4年(1719年)に、お七の供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進した。

 その後、このお地蔵様は頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。

 私も風邪をひくとよく副鼻腔炎になるので、鼻の病の平癒を祈った。

 ちなみに、江戸三十三観音の番号が離れているためわかりづらいが、第11番札所の圓乗寺は大円寺のすぐ近くにある。

 

 訪れなかったが、大円寺には高島秋帆(たかしましゅうはん)と斎藤緑雨(さいとうりょくう)の墓がある。

 高島秋帆は幕末の砲術家で、アヘン戦争で清国が敗れたことを知り幕府に洋式砲術の採用を建議、天保12年(1841年)に武州徳丸原(現在の板橋区高島平周辺)で洋式砲術演習を行った。

 天保13年(1842年)に鳥居耀蔵(とりいようぞう)のいわれなき訴えによって投獄、江戸追放となったが、ペリー来航とともに許され、安政4年(1857年)に富士見御宝蔵番兼講式所砲術師範役となった。

 斎藤緑雨は明治時代の小説家で、「油地獄」「かくれんぼ」などが代表作。

 大円寺本堂に参拝し、御朱印をいただいた。

大円寺本堂

 

2.梅窓院

 白山駅に戻り、外苑前駅まで地下鉄で向かう。

外苑前駅

 外苑前駅1b出口の目の前に竹林がある。梅窓院への入口だ。

梅窓院

 寛永20年(1643年)、老中の大蔵少輔幸成の菩提寺として長青山梅窓院寶樹寺が建立された。開山は観智国師である。

 江戸三十三観音の観音様、泰平観音は鑑真が中国から持ってきたもので、最初は奈良東大寺大仏殿に奉安されていたが、源頼義が奥州討伐のときにこの観音像を念持仏として持ち出し、陣中守護仏とした。

 そして奥州の地が泰平となったため「泰平観音」と名づけられ、代々南部家に伝えられてきた。

 その後、南部家から青山家に嫁入りした姫君が輿入れのときに、お内仏として青山家に持ち込み、青山家の仏間に安置されることになった。

 梅窓院が堂塔の整備を行うときに観音堂も建てられたことにより、梅窓院に安置されることになった。

 江戸時代より霊験あらたかなる観音様として近隣の信仰を集め、「青山の観音様」と俗称され、戦前までは月3回縁日が行われ、夜店が出て大変な賑わいを呈していたようだ。

 

 泰平観音に参拝し、御朱印をいただく。御朱印待ちの札が小さな御朱印のようで、写真を撮ってしまった。

 

 それにしても梅窓院、すごく現代的な建物である。

 

 この建物は世界的建築家、隈研吾が設計して建てたものである。「都市のなかにオアシスのようなお寺をデザインしたい」という意図でこのようなデザインになったようだ。竹林も隈研吾氏のデザインのひとつである。

 梅窓院の建築については以下のサイトに詳しい。

baisouin.or.jp

 

3.鳩森八幡神社

 梅窓院をあとにして南西に進み、南青山3丁目交差点を右折、林ビルのある交差点を右折して進むと右手側に青山熊野神社がある。

青山熊野神社

 青山熊野神社紀州徳川家中屋敷にあった鎮守を、この付近一帯の町民の願いにこたえて正保元年(1644年)現在地に遷したと伝え、青山総鎮守として人々の信仰を集めていた。

 このあたりの坂を「勢揃坂」という。

勢揃坂

 永保3年(1083年)の後三年の役の際、源吉家がここで軍勢をそろえて奥州に向かったため、この名がついた。

 

 突き当たりを左折、都道418号線を右折、仙寿院交差点を左折すると右手側に仙寿院がある。

仙寿院

 仙寿院は、徳川家康の側室のお万の方が寛永5年(1628年)に紀州徳川家屋敷内に設けた草庵をはじめとする。

 正保年間(1644~1648年)にお万の方の息子、徳川頼宣が現在地に移し、「新日暮の里」とよばれ江戸名所となったが、明治以降の火災や空襲、東京オリンピックによる道路拡張などによって大きく変貌し、今その面影はないのが残念である。

 

 仙寿院から北に進んで突き当たりを左折、観音坂という坂を登る。この坂の名前は聖輪寺に由来する。

観音坂

聖輪寺

 聖輪寺の如意輪観音像は行基の作と伝えられていたが、残念ながら空襲で焼失してしまった。「江戸名所図会」によると両目は金で作られていたらしい。

 観音坂を登り終えると鳩森八幡神社が見えてくる。

鳩森八幡神社

 鳩森八幡神社神亀年間(724~729年)または貞観年間(859~877年)の創設といい、かつては千駄ヶ谷一帯の総鎮守として村民の崇敬を集めたようだ。

 「江戸名所図会」には、この地が森林であった頃、多数の白鳩が西をさしてとびたったのを霊瑞として小祠をたて鳩森と名づけたと伝えている。

 鳩森八幡神社に参拝し、御朱印をいただいた。ハトのハンコがかわいい。

 

 鳩森八幡神社には富士塚がある。「千駄ヶ谷富士塚」という。

千駄ヶ谷富士塚

 日本には、山は生活を守護する神様の鎮座するところとして崇拝する風習があった。

 近世、近代に活発に行われたものに、「富士講」がある。富士講とは、富士山を信仰し、富士に登拝することを目的に結成された団体である。

 現在もそうだが、富士山を信仰している人が全員、富士山に登れるわけではない。中世以降、富士信仰の一形式として富士山の形をした山も礼拝の対象となり、江戸後期からは江戸府内を中心に、富士塚の築造が盛んに行われた。都内のいたるところに富士塚は現存している。

 富士塚は、塚の頂上に富士山頂の土を埋め、そこに石宮を設けて浅間菩薩をまつり、塚下に浅間神社をたてて里宮とした。富士塚に登れば富士山に登ったのと同じ功徳が得られるということで、様々な事情で富士山に登れない人が富士塚に登り、富士登山気分を味わったという。

 千駄ヶ谷富士塚は寛政元年(1789年)の築造とされ、都内に現存する富士塚では最古のもの。円墳状に盛土された塚の前に池が配された様式は、関東大震災後に修復されてはいるものの、江戸時代築造の富士塚の基本洋式をよく残している。

 とりあえず、千駄ヶ谷富士塚の山頂まで登った。これで富士登山と同じ功徳を得られているといいのだが。

 ちなみに、富士塚は「江戸三十三観音をめぐる 5.文京区編」の6.護国寺にも音羽富士という富士塚が登場している。

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 そしてこの日は4月7日。境内の桜が満開で綺麗だった。

 

 鳩森八幡神社をあとにすると、庚申塔が祀られている庚申塚を見つけた。庚申塔は都内各地にあるが、このように祀られているものは珍しい。

庚申塚

 庚申信仰は中国の道教から生まれ、60日ごとにめぐる庚申の夜は、人が眠ると三尸(さんし)の虫が人の体から抜けて天に昇り、天帝にその人の悪事を告げて命を縮めると信じられていた。

 そこから、庚申の夜は庚申講の当番の家に集まり、般若心経を唱え、一晩寝ずに過ごした。これを18回連続してやると記念として庚申塔を建てた。

 庚申塔青面金剛と三猿が描かれているのが特徴。いろいろな本を読んでみると庚申講はいわゆる「飲み会」に近かったようで、現代風に言うと「飲み会オール18回記念で庚申塔を建てました」という感じだろうか。

 庚申塔は「江戸三十三観音をめぐる 4.湯島・向丘編」の6.根津神社 でも登場している。

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4.明治神宮

 鳩森八幡神社をあとにしてそのまま進み、千駄ヶ谷三丁目交差点を左折し、南に進んでいくと東郷神社がある。

東郷神社

 東郷神社の祭神は、日露戦争のときロシアのバルチック艦隊日本海海戦で破った連合艦隊司令長官東郷平八郎である。

 昭和9年(1934年)に東郷が死去すると、彼を顕彰するための献金が全国から集められ、それをもとに昭和15年(1940年)5月27日の海軍記念日に創建された。現在の建物は、昭和39年(1964年)に再建されたものである。

 東郷平八郎に挨拶をして、御朱印をいただいた。

 

 東郷神社には庭園があり、桜が綺麗だった。

 

 ここから明治神宮へ向かうにあたり、竹下通りを通った。竹下通りは言わずと知れた、原宿の中心商店街である。

 通ってみて後悔した。えげつなく混んでいる。私は人混みが苦手なので、頭がくらくらしてきた。

 竹下通りを通るのは数年ぶりなのだが、高校生のときに竹下通りを通ったときは「KAWAII」文化の発信地として、ロリータショップやキャラクターのグッズを売っている店が多くあるなぁと思っていた。しかし今では外国人が多く、外国人のお土産購入スポットとなっている印象を受けた。

 ふらふらしながら竹下通りを抜け、芋洗い状態になりつつ原宿駅前の横断歩道を渡り、なんとか明治神宮にたどり着いた。

 明治神宮の社叢はしんとしていて、ごみごみしていた竹下通りとは違っていた。外国人観光客が多い。

 

 全国から奉納された日本酒と、世界中から奉納されたワインの酒樽があるのが面白い。

 

 ひたすら参道を歩いていくと、明治神宮本殿に到着した。

明治神宮本殿

 明治神宮のある地は、江戸時代は熊本藩加藤家、その後彦根藩井伊家の下屋敷となり、明治維新後は皇室の南豊島御料地となっていた。

 明治神宮は、大正9年(1920年)に明治天皇昭憲皇太后を祭神として創建されたものである。

 神宮の本殿をはじめ創建当時のおもな建物は空襲で焼失し、再建されたのは昭和33年(1958年)である。

 明治神宮に参拝し、御朱印をいただく。「宮」の字が少し変わった字だ。

 

 外苑前駅から歩いてきて疲れてきたので、ドトールで休憩してから帰ることにした。今日は明治神宮前駅で終了とする。

 

 大円寺では八百屋お七の悲恋に改めて思いを馳せた。梅窓院では現代建築の本堂に驚きつつも観音様が慕われているのはいつの時代も変わらないのだな、と感じた。鳩森八幡神社富士塚は登り甲斐があった。そして、東京の学校に通い、東京の会社に勤めていながら初めて訪れた明治神宮明治天皇の信仰は今でも変わっていない。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図①

今回の地図②

歩いた日:2024年4月7日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

俵元昭(1979) 「港区の歴史」 名著出版

江戸札所会(2010) 「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

梅窓院 建築について

https://baisouin.or.jp/about/trivia/architecture/

(2024年5月8日最終閲覧)

東海道を歩く 33.岡崎公園前駅~知立駅

 前回、藤川駅から岡崎公園前駅まで歩いた。今回は岡崎公園前駅から知立駅まで歩こうと思う。「31.御油駅~藤川駅」で入った岡崎市をあとにして、安城市を通過、知立市に入っていく。名古屋市にだいぶ近づいてきた。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.矢作橋

 今日は岡崎公園前駅からスタートだ。

岡崎公園前駅

 前回終了地点の中岡崎町交差点に到着したら、左折して先に進む。「た」の案内板のある交差点だ。

 

 そのまま進むと、「左 江戸 右 西京」とある石碑を見つけるので右折する。江戸時代の言葉を使っている割にやけに新しいなと思ったら昭和61年(1986年)の再建らしい。

「左 江戸 右 西京」

 

 そのまま直進し、矢作橋へ上がる。

 

 矢作川の流れを見ながら橋を渡る。

 

 江戸時代、矢作橋東海道随一の橋として旅人に注目され、浮世絵・屏風絵・絵巻物に描かれてきた。

東海道五十三次 岡崎」

 歌川広重東海道五十三次の岡崎にも、矢作橋が描かれている。

 矢作川に板橋が最初にかけられたのは、江戸幕府3代将軍・徳川家光が上洛した寛永11年(1634年)のことで、以後のかけ替え・修復工事は、幕府の公儀普請として行われた。

 

 矢作橋には「出合之像」が建つ。出合之像には、このようなエピソードがある。

出合之像

 日吉丸(のちの豊臣秀吉)は尾張国中村(現在の名古屋市中村区)の木下弥兵衛と妻のお仲の子で、8歳の頃から奉公に出されたが、12歳のときに奉公先の陶器屋を逃げ出した。

 家へ帰ることもできず東海道を東へ向かっていたとき、空腹と疲れにより矢作橋の上で寝てしまう。

 そこに海東郡蜂須賀村(現在のあま市)に住む小六正勝(のちの蜂須賀小六)という野武士の頭が、手下を連れてこの付近を荒らしながら矢作橋を通りかかった。

 通りざまに小六正勝は日吉丸の頭を蹴ってしまい、そのとき、日吉丸は「頭をけって一言も言わないのは無礼だ。謝れ。」と小六を睨みつけた。

 小六は「子供にしては度胸があるな。手下にするから手柄を見せろ。」と日吉丸に告げ、手下にした。

 日吉丸はそれをすぐに承諾し、小六とともに味噌屋に侵入、荒らしはじめた。一通り荒らして逃げようとしたとき、味噌屋の家の人たちが騒ぎ始めた。

 日吉丸はとっさに石を抱えて井戸に投げ込み、「盗賊は井戸に落ちた」と叫び、味噌屋の家の人たちが井戸に集まる隙に素早く門を抜け、小六たちともども逃げ去っていったようだ。

 味噌屋を荒らす…というそれってやっていいの?という突っ込みは置いておいて、豊臣秀吉の頭の速さを描くエピソードである。なお、ここまで書いておいて何だが、どうやら史実とは異なるらしい。

 

2.矢作神社

 矢作橋をあとにして、矢作神社へ向かう。

矢作神社

 矢作神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷征討の途上、軍神の素戔嗚尊をまつったと伝えられ、社殿横に矢作の名の由来を伝える「矢竹」があるようだが、見つけられなかった。

 また、南北朝時代足利尊氏軍と矢作川で対峙した新田義貞が、戦勝祈願した際に動いたと伝えられる「うなり石」も置かれているようだが、これも見つけられなかった。

 矢作神社では、毎年10月1・2日の秋の大祭で勇壮な山車の曳きまわしが行われるが、この山車は格納庫に格納されていた。

 

 矢作神社はセルフ方式の御朱印が置かれていた。

 軍艦矢矧(やはぎ)とは、大日本帝国海軍軽巡洋艦で、昭和20年(1945年)に起こった坊ノ岬沖海戦で撃沈されたので現存しない。

 

 矢作神社から東海道に戻り先に進むと、自然災害伝承碑を見つけた。

 自然災害伝承碑とは、過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に関わる事柄が記載されているモニュメントで、令和元年(2019年)に新設された地図記号だ。「東海道を歩く」では、「東海道を歩く 24-1.袋井駅磐田駅 前編 2.澤野医院記念館」で、袋井町西国民被災児慰霊碑という自然災害伝承碑が以前登場している。

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溺死菩提

 上の「南無妙法蓮華経」が目を引くが、その下に「溺死菩提」と書かれている。この碑が自然災害伝承碑に指定されている。

 これは文政11年(1828年)に起こった洪水に由来する。

 文政11年(1828年)7月の洪水により、矢作川では堤防が決壊、75軒の家が流され、14人が溺死した。犠牲者の供養のために、文政13年(1830年)に「溺死菩提」としてこの碑が建立されたそうだ。

 矢作川は岡崎の物流に大きく貢献したが、やはりそこは川、時に人に牙をむくこともあるのだ。犠牲者を思い、そっと手を合わせた。

 

3.薬王寺

 誓願寺があるが、休日は門が閉まっている。

誓願寺

 誓願寺には浄瑠璃姫と源義経にまつわる伝説が伝わる。

 奥州藤原秀衡をたよって東海道をくだった源義経は、この矢作の地で兼高長者の家に宿を求めた。

 春霞たなびく一夜、長者の娘浄瑠璃姫のかなでる琴の音に誘われた義経は、母の形見の名笛「薄墨」をかなで、やがて2人は結ばれる。

 しかし、義経が奥州へ旅立った後、義経を恋い慕う姫は悲しみのあまり菅生川の流れに身を投じてしまった。

 誓願寺には義経浄瑠璃姫の木像や名笛「薄墨」、浄瑠璃姫の墓などが伝えられている。悲しい恋の話である。

 

 一見これ何て読むの?という名前の神社があった。竊樹(ひそこ)神社と読むらしい。

竊樹神社

 安城街道入口交差点から国道1号に合流する。国道1号沿いはあまり史跡がなく、友人と話しながら歩いていると薬王寺を見つけた。

薬王寺

 薬王寺奈良時代に創建された寺院で、御本尊は薬師瑠璃光如来

 この薬師瑠璃光如来は、和銅年間(708~715年)に、御手洗御立笠取(みたらいみたちかさとり)の池から光を放って現れた。この地に住んでいた豊阿弥長者(ほうあみちょうじゃ)の念持仏となっていたが、のちに行基を開祖として薬王寺を創建、納められた。

 

 淳和天皇天長6年(829年)の春に疱瘡が流行し、長者の子供も重い疱瘡にかかった。そのときどこからともなく僧が現れ、瑠璃の瓶から取り出した薬を子供に含ませ、僧が子供の体をさすると疱瘡は治ったそうだ。その僧は長者から銭輪をもらい、首にかけると忽然と消えたらしい。

 長者は「これは薬師瑠璃光如来の御利益だ」と気づいて薬師瑠璃光如来にお参りすると、薬師瑠璃光如来の首には銭がかけられ、体に疱瘡の跡が残っていた。長者は子供の身代わりになった薬師瑠璃光如来をますます敬うようになった。

 

 天文18年(1616年)の戦いのとき薬王寺は焼かれ、長者の子孫が絶えてしまった。元和2年(1616年)4月、村人たちが長者の墓をここに移そうとしたときに、土から首に銭をかけた薬師瑠璃光如来を掘り出した。不思議な縁を感じた村人たちは再度薬王寺を建てたと伝えられている。

 

 なお、この薬王寺宇頭大塚古墳の後円部に造られている。古墳時代中期にここに勢力のあった豪族の子孫(豊阿弥長者)が、行基とともに薬王寺を建てたと考えられている。

 

  疱瘡を治したと伝えられる薬師瑠璃光如来を見ることはできなかったが、本堂の前で手を合わせた。

 

4.安城市に入る

 ついに岡崎市が終わり、安城市に入る。

 

 国道1号と旧道の交差点にあるラーメン横綱で昼食を食べた。お腹が空いていたので餃子もつけてしまった。

 

 旧道に入ると松並木が出迎えてくれた。

 

 水準点を見つけた。一等水準点第167-1号だ。昭和61年(1986年)に設置された標石型の水準点である。

一等水準点第167-1号

 安城市のマンホールを見つけた。

 安城市発祥の三河万歳の扇と鼓がデザインされている。

 三河万歳とは安城市などに伝わる伝統芸能で、江戸時代には、元旦に諸大名や諸侯に招かれて、太夫と才蔵の2人が軽妙にかけあい、「あら楽しやな鶴は千年の名鳥なり、亀は万年の齢を保つ…」と長寿繁栄を祝いながら優雅に舞ったと伝えられている。現在は、西尾市西野町小学校の児童による御殿万歳クラブがこの芸能を継承しているようだ。

 

 安城市章がついた仕切弁をみつけた。

 安城市章は安城市の「安」を図案化し、発展を象徴する末広がりが特徴となっている。昭和35年(1960年)に制定された。

 

 第一岡崎海軍航空隊跡があった。

第一岡崎海軍航空隊跡

 第一岡崎海軍航空隊は大日本帝国海軍の部隊・教育機関のひとつで、昭和19年(1944年)に河和海軍航空隊岡崎分遣隊の設置にはじまる。4月に独立、「岡崎海軍航空隊」となった。

 安城市などの農地を収容し、岡崎飛行場を造成したが昭和20年(1945年)の終戦に伴い解散、跡地はまた農地に戻ったそうだ。

 最大で6,000人もの隊員がいたようだが、もちろん全員終戦まで生きていたわけではなく、戦いのなかで亡くなった人もいただろう。そっと手を合わせた。

 

 第一岡崎海軍航空隊跡地の碑の隣に熊野神社があったが、なぜかロープが引かれ参拝できなかったので鳥居の外から手を合わせるだけにした。

 

 熊野神社前は鎌倉街道跡になっている。

 建久3年(1192年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ、宿駅63箇所が設置された。

 この地域の鎌倉街道は里町 不乗(のらず)の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達し、街道はここで右に曲がって南東方向へ向かっていた。これにより、熊野神社の森は「踏分の森」と呼ばれていた。

 ここを旧鎌倉街道と伝える「目印しの松」が残されている。

目印しの松

 目印しの松の下に「東海道一里塚跡」の石碑があり、ここは83里(332km)の尾崎の一里塚跡とされている。

東海道一里塚跡

5.永安寺

 永安寺に着いた。

永安寺

 永安寺は曹洞宗の寺院で、山号は本然山という。

 大浜茶屋村の庄屋だった柴田助太夫は、街道の宿場駅に必要に応じて人馬を提供する助郷役を村が命じられたときに、村の窮状を訴えて免除を願い出た。

 領主であった刈谷藩は延宝5年(1677年)に柴田助太夫を死罪としたが、その後村の助郷役は免除となった。村では、領主の代替わりごとにこの一件を説明し、助郷役の免除は幕末まで続いた。

 村の人々は柴田助太夫の恩に感謝し、旧宅跡に草庵を建てた。草庵は後に寺となり、柴田助太夫の戒名である本然玄性居士と、妻の安海永祥大姉にちなみ、「本然山 永安寺」と名づけられた。

 助郷ではなく検地だが、上からの頼みを住民のために断り死罪となるも、その後祀られた、という話は「東海道を歩く 13.吉原駅新蒲原駅 4.青嶋八幡宮神社」に登場した青嶋八幡宮神社を思い出す。

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 そして永安寺には非常に特徴的な形をしたマツがある。雲竜の松だ。

雲竜の松

 一般的に、マツの主幹は地面から垂直に伸びるが、このマツは高さ1.5mのところから北西、南、東の3方向に分かれて横に伸びている。

 この樹形が、雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を連想させることから、「雲竜の松」と呼ばれている。

 樹齢は350年ほどで、柴田助太夫もこのマツを見ていたと考えられている。

 マツは今まで東海道で数えきれないほど見たが、この樹形のマツは初めて見た。あまりの珍しさにしばらく友人と写真を撮ったり、木陰で涼んだりしていた。

 

 永安寺をあとにして、明治川神社に向かう。

明治川神社

 明治用水は、矢作川から水を引き、西三河を灌漑するための用水路で、明治13年(1880年)に完成した。

 明治川神社は、開発の功労者の都築弥厚(つづきやこう)、岡本平松、伊与田与八郎らを祀っている。

 明治用水は、荒れ野だった西三河の平野部に矢作川の水を引き入れ、広大な用地を開拓し、この用水のおかげで一帯は「日本デンマーク」と言われるまでの農業地帯になった。

 水はときに人を脅かすが(溺死菩提参照)、人の繁栄を助けるものにもなるのだ。

 

6.知立市に入る

 また新しいマンホールを見つけた。

 このマンホールは安城七夕まつりがデザインされている。安城七夕まつりは昭和29年(1954年)から行われているお祭りである。

 東海道の七夕祭りといえば平塚市で、平塚市でも七夕祭りデザインのマンホールがある。これは「東海道を歩く 7.藤沢本町駅平塚駅 6.旧相模橋橋脚」で登場している。

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 また松並木が始まった。

 

 しばらく東海道を歩いていくと、「東海道 見て歩きマップ」なるものがあった。

 

 無量寿寺への道標があった。

 無量寿寺はかきつばたの名勝地だが、少し遠いのとかきつばたの時期ではないことから、スルーすることにした。

 そういえばいつのまにか知立市に入っていた(特にカントリーサインもなかった)。

 知立は「かきつばた」を推している。

 なぜかというと、在原業平伊勢物語で現在の知立市のかきつばたについて語っているからである。これは教科書にも載っている有名なエピソードである。

 

 「三河の国八橋といふ所に至りぬ。そこを八橋といひけるは、水行く河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木の陰に下りゐて、乾飯食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を句の上に据ゑて、旅の心を詠め。」と言ひければ、詠める。

 唐衣(からごろも) きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅(たび)をしぞ思ふ

 と詠めにければ、みな人、乾飯の上に涙落として、ほとびにけり。」

 (現代語訳)「三河の国の八橋というところに着いた。そこを八橋といったのは、水が流れる川が蜘蛛の足のように八方にわかれているので、橋を八つ渡していることによって、八橋といった。その沢のほとりの木の陰に降りて座って、乾飯を食べた。その沢にかきつばたがたいそう美しく咲いていた。それを見て、ある人が言うことには、「かきつばたという五文字を各句の上に置いて、旅の心を詠みなさい。」と言ったので、こう詠んだ。

 何度も着慣れた着物のように、長年慣れ親しんだ妻が都にいるので、はるばるやってきた旅をしみじみと思うことだ。

 と詠んだので、人はみな、乾飯の上に涙を落として、乾飯がふやけてしまった。

 

 この「八橋」というかきつばたが咲いていた場所が現在の知立市にあるのだ。そして在原業平が詠んだ句は頭が「かきつばた」となっているのにも気づいただろうか。

 この文章を書いていて、「そういえばこれ、高校で習ったなあ」と懐かしく感じた。機会があればかきつばたの時期に訪れてみたい。

 

7.来迎寺一里塚

 来迎寺一里塚に着いた。

来迎寺一里塚

 慶長8年(1603年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年、中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道東山道北陸道など主要街道を修理させた。このとき1里(約4km)ごとに築いた里程標を一里塚、一里山などと称した。

 来迎寺の一里塚は江戸から84里目(336km)の一里塚で、なんと北塚と南塚両方が残っているのだ。これは東海道でも珍しいので、愛知県指定文化財に指定されている。私も見たのは久しぶりで、「東海道を歩く 13.吉原駅新蒲原駅 11.岩渕の一里塚」で見た岩渕一里塚以来である。

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 前回の大平一里塚を見たときに反応が薄かった友人も、両側残っている一里塚を見て流石に驚いていた。

 

 知立市章がついた仕切弁を見つけた。

 知立市章は昭和32年(1957年)10月、愛知教育大学教授の大野元三氏の考案によるもので、古くから交通の要衝として東西南北に通じた知立市の発展的な土地柄をテーマに、伊勢物語で有名なかきつばたの花を図案化したものである。

 

 歩いていると、また無量寿寺の道標を見つけた。観光名所だったのだろうか。

 

8.知立松並木

 新田北交差点を過ぎると、また松並木が始まる。知立松並木だ。

知立松並木

 慶長9年(1604年)、江戸幕府東海道を整備するなかで、道の両側に築かれた土塁に松が植えられた。松並木は夏は木陰となり、冬は防風林となり、街道を行く旅人に安らぎを与えていた。

 知立では池鯉鮒(ちりゅう)宿の東の500mにわたって松並木が残っている。戦前までは昼なお暗いほどに老樹が鬱蒼としていたが、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風により6~7割の松が折られたり根ごと吹き倒されてしまった。住宅開発等もあり、この時期に松並木は半減してしまったようだ。松並木のケアが始まったのは昭和45年(1970年)のことで、このときに幼松を158本植え、以後も毎年松くい虫の防除に努めている。

 

 「文化の道「東海道宿場散歩みち」」という案内板があった。

文化の道「東海道宿場散歩みち」

 知立松並木にはいくつか彫刻作品が飾ってある。これは「かきつばた姫」。

かきつばた姫

 知立市のデザインマンホールを見つけた。

 在原業平伊勢物語で詠んだ歌「からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」が刻まれ、歌の周囲はかきつばたで囲まれている。

 ちなみに知立市の花は当然だが、「かきつばた」である。

 

 句碑が飾られている。

 「引馬野(ひくまの)に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」

 「引馬野に色づいている榛原(はりはら)に入り乱れて、衣に色をうつしなさいな、旅のしるしに」という意味で、大宝2年(702年)に持統天皇三河国に旅されたときの歌で、万葉集に収録されている。

 

 「かきつばた 名に八ツ橋の なつかしく 蝶つばめ馬市 たてしあととめて」

  星野麦人という明治から昭和にかけての歌人が詠んだ歌である。

 

保永堂版「東海道五十三次 池鯉鮒」

 保永堂版「東海道五十三次 池鯉鮒」でも描かれているように、池鯉鮒では馬市が盛大に行われていた。その歴史は鎌倉時代初期の「海道記」にも書かれているほどである。

 馬市は毎年4月から5月はじめ頃まで開かれ、甲斐(山梨県)や信濃(長野県)からも馬が集められ、400~500頭にもおよんだようだ。馬を売買する人だけでなく商人や遊女、芸人なども集まり、たいへん賑やかな馬市だったと伝えられている。

 

 また水準点を見つけた。一等水準点第169号は昭和47年(1972年)に設置された金属標型の水準点だが、松の落ち葉に隠れて見えない。

一等水準点第169号

 

9.知立神社

 「東海道 池鯉鮒(ちりゅう)宿」と書かれた石柱のある交差点から旧道に入る。

 池鯉鮒宿は品川から数えて39番目の宿場にあたる。

 池鯉鮒宿がもっとも賑わいをみせたのは18世紀末から19世紀初頭にかけてであり、享和元年(1801年)の人口は2,066人と記録されている。

 しかし、今日では宿の面影は少なく、銀座タワービル前にたつ池鯉鮒問屋場跡の石碑、知立駅西に隣接する小松寺境内に移築され、地蔵堂として残された脇本陣玄関、国道1号線沿いにたつ本陣跡の碑が、わずかに往時をしのばせている。

 それにしても「池鯉鮒」。すごい漢字である。これは知立神社の御手洗池に鯉や鮒などがたくさん泳いでいたことに由来する。旅人は、鯉や鮒などを「食べて」楽しんだようだ。その昔は「知立」「智立」と記されていたが、鎌倉時代以降は「智鯉鮒」、江戸時代は「池鯉鮒」、明治以降は「知立」と表記されて現在に至る。

 

 また知立市のマンホールを見つけた。今度はかきつばたのみのシンプルなデザインだ。

 

 先に進み、知立市観光交流センターで池鯉鮒宿の御宿場印とマンホールカードをいただいた。知立市観光交流センターの前には「からころも」と「かきつばた」のカラーマンホールが設置されていた。

 

 知立市観光交流センター前の交差点で終わりにしようかと思ったが、友人が「知立神社に行きたい」と言うので少しだけ先に進み、知立神社へ向かった。

知立神社

 知立神社の祭神は鸕鷀葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依比売命(たまよりひめのみこと)ほか2柱である。

 「延喜式神名帳」には碧海郡6座の1つと記され、三河二宮にあたる。

 社伝には、第12代景行天皇42年に、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途に伊知里生命(いちりゅうのみこと)をこの地にとどめて祖霊をまつり、第14代仲哀天皇元年に社殿を造営したと伝えられている。

 人々の間では古くからまむし除け、雨ごい、安産の神として霊験あらたかとされてきた。

 

 また、知立神社では5月2・3日に知立まつりとよばれる祭礼が行われる。

 祭りの歴史は承応2年(1653年)から続いており、山車のうえで上演される山車文楽とからくりを特徴としている。

 からくりは80本もの糸をあやつることもある見事なものであるようなので、機会があれば見にいってみたいと思う。

 

 知立神社境内には多宝塔がある。

多宝塔

 嘉祥3年(850年)に円仁が神宮寺を創建して知立神社の別当寺とし、境内に2層の塔をたて愛染明王を安置したことにはじまる。

 現在の多宝塔は室町時代の建築様式を伝えており、そのころに再建されたと考えられている。

 明治時代の廃仏毀釈の際に取り壊しの危機に遭遇したが、本尊を総持寺に移し、相輪を取り除いて杮葺きの屋根を瓦葺きにかえ、「知立文庫」という額を掲げることで難を逃れたそうだ。

 

 知立神社で御朱印をいただいた。

 

 知立市観光交流センターのある交差点で南に進み、知立駅に到着。

知立駅

 ここからもう帰るので、名古屋駅へ向かい、夕飯を食べることにした。夕飯は私のおすすめのとり五鐵の名古屋コーチンの親子丼。

 卵も鶏肉もぷるっぷるで最高に美味しい。これで1,580円だから名古屋に行くたびに通ってしまう。

 

 時間が余ったので資生堂パーラーでお茶にした。美味しかったけれどパフェが2,000円近くして驚いた。

 

 翌日は仕事なので、ビールと東海限定ジャガビーをつまみつつ帰ることにした。

 

 次回は、知立駅から鳴海駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

歩いた日:2024年2月12日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第10集」

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第11集」

大石学(2021)「地形がわかる東海道五十三次」 朝日新聞出版

国土地理院 自然災害伝承碑

https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

安城市 City Guide

https://www.city.anjo.aichi.jp/shisei/sisei-yoran/documents/h65-p40p41.pdf

KEIRINKAN ONLINE 【原文・現代語訳】東下り(『伊勢物語』より)

http://keirinkan-online.jp/high-classic-japanese/20201027/505/

知立市 知立市の概要

https://www.city.chiryu.aichi.jp/soshiki/kikaku/kyodosuishin/gyomu/12/1445320199990.html

(2024年4月22日最終閲覧)

東海道を歩かない 岡崎編

 先日投稿した「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」では岡崎市街地をめぐりつつ東海道を歩いた。しかし同行していた友人が「今日だけだと岡崎で行きたい場所に行ききれないから、また行く必要があるなぁ」と言った。友人も神戸に住んでいるため、そう簡単に岡崎には行けないだろう。今回は3連休で、4月にも取材に行く予定なので1日岡崎をまわっても大丈夫と判断し、「明日、岡崎まわる?」と聞くと友人は嬉しそうに「うん」と言った。今回は岡崎をまわった日の記録である。

 「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」はこちら↓

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1.岡崎城

 岡崎公園前駅の宿を出て、喫茶店で朝食を食べる。朝食をいただいたのは「亀屋」。

 トーストとおにぎりの組み合わせが斬新だと思ったが、美味しかった。

 

 岡崎城へ向かう。

 

 ここで岡崎城について説明する。「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」9.岡崎城 でも説明したため、それを読んだ人は読み飛ばしていただいて構わない。

 岡崎城は、明大寺に屋敷を構えていた三河守護代 西郷頼嗣(さいごうよりつぐ)が、康正元年(1455年)、北方への備えから乙川の北側に砦を築いたことが始まりと考えられている。

 その後、安祥城(あんしょうじょう)を居城としていた徳川家康の祖父・松平清康が、当時岡崎に勢力をもっていた大草松平氏の松平信貞(まつだいらのぶさだ)を屈服させて移り、享禄3年(1530年)頃に本格的な築城を行ったとされる。

 徳川家康岡崎城で生まれたため、岡崎城には家康産湯の井戸がある。天文11年(1542年)12月26日、幼名竹千代、のちの徳川家康がここで産声をあげたときに産湯の水を汲んだ井戸である。

 松平清康の死後、家康の父・松平広忠は、東の今川氏と西の織田氏にはさまれて苦闘し、家康も8歳で今川氏の人質となるほか、広忠は家臣の岩松八弥に城内で殺され、岡崎城は今川方の城となった。

 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い後に自立した家康は岡崎城にはいり、10年後に浜松城に移るまでこの城を根拠地としてほぼ三河一国を平定した。

 家康が浜松に移ってからの岡崎城は、家康の長男・松平信康石川数正、本多重次の各城代時代を経て、家康の関東移封後には豊臣秀吉の家臣・田中吉政が入城し、大規模な城郭の整備拡張が行われた。

 元和3年(1617年)に本多康紀が3層3階地下1階の天守閣を完成させたが、明治6年(1873年)から翌年にかけて取り壊された。

 現在のものは昭和34年(1959年)に復元されたもので歴史資料館になっており、1階が受付、2階から4階で歴史資料などを展示し、最上階は展望台となっている。

 

 東隅櫓を見つけた。

東隅櫓

 東隅櫓は東曲輪に建っている。東曲輪は二の丸の東側に位置し、二の丸に対する防衛機能を担っていた。東隅櫓は平成22年(2010年)に再建されたもの。

 東隅櫓のなかでは岡崎城の発掘調査の様子が紹介されていた。

 

 東隅櫓の下に下りていってみると石垣が復元されている区画がある。東曲輪腰巻石垣だ。

東曲輪腰巻石垣

 東曲輪腰巻石垣は平成20年(2008年)の発掘調査で見つかった石垣で、斜面の中腹と裾部に築かれた二段の石垣である。

 

 本丸の東側と南側に対する防衛機能を担う馬蹄形の曲輪、隠居曲輪には茶店などが出ていた。なぜ隠居曲輪という名前なのだろう。少なくとも今は「隠居」しているふうには見えない。

隠居曲輪

 辰巳櫓台下石垣は岡崎城内で最も完成度の高い石垣で、大きさや形が整えられた石材が布積みで積まれている。特に隅角部の算木積みは精巧に加工された石材を使用し、稜線は直線になるように江戸切りで仕上げられている。隅角部がピシッと直線になっているのがわかる。

 

 この日は、梅が綺麗に咲いていた。

 

 乙川沿いでも石垣が発掘され、一部が展示されていた。

 

 岡崎城に戻る。

 本丸埋門北袖石垣の石材には大型の自然石や割石が使用され、大きさや形はやや不揃いながらも、横方向の目地の一部が揃うことから持仏堂曲輪腰巻石垣より先行する江戸時代前期の構築と考えられている。

本丸埋門北袖石垣

 胞衣(えな)塚を見つけた。

胞衣塚

 胞衣とは出産時に排出された胎盤などのことで、子供の成長と出世を願う習わしから胞衣を壷に入れて埋納、そこに塚や碑が建てられ信仰対象となることもあった。

 ここには徳川家康の胞衣が埋められている…と思いきや、説明板を見ると「徳川家康の功績を広く知らしめるため、昭和11年(1936年)に公園整備の一環として建てられました。」とある。つまりここには徳川家康の胞衣はない、ということになる。

 

 岡崎城内ではいまも発掘調査が続けられているようだった。

 

 この井戸は「家康産湯の井戸」といい、天文11年(1542年)12月26日、幼名「竹千代」、のちの徳川家康岡崎城で産声をあげたとき産湯の水をくんだ井戸とされている。

家康産湯の井戸

 持仏堂曲輪腰巻石垣は、江戸時代前期に構築された石垣で、後世の改修を受けることなく現在まで残る貴重な石垣である。

持仏堂曲輪腰巻石垣

 太鼓門跡。江戸時代には城下に時を知らせる太鼓が置かれていたことから太鼓門と呼ばれていたが、現在は門の石垣を残すのみとなっている。

太鼓門跡

 持仏堂曲輪。本丸北側に位置し、徳川家康が持っていた阿弥陀仏を安置した堂があったことからこの名がついた。

持仏堂曲輪

 廊下橋。

廊下橋

 廊下橋は持仏堂曲輪と天守台をつなぐ橋で、大正9年(1920年)に現在のアーチ型石橋に改修されているが、江戸時代は屋根付きの廊下橋が架けられていたようだ。

 

 清海堀。

清海堀

 清海堀は本丸北側に位置し、本丸と持仏堂曲輪を隔てる堀である。岡崎城の最初の築城者である西郷頼嗣の法名「清海入道」にちなみ名づけられた。

 

 やっと本丸に到着した。

本丸

 本丸は岡崎城の中心部で、松平清康が城主のときに八幡社が建てられていたことから「八幡曲輪」とも呼ばれる。城から北東方向の甲山から延びる丘陵の先端に位置し、西は矢作川、南は菅生川(現在の乙川)に囲まれた天然の要害となっている。

 

 月見櫓は、城主が月見をするために建てられた櫓である。現在は残っていない。

月見櫓跡

 この井戸は「龍の井」と呼ばれている。

龍の井

 康正元年(1455年)に岡崎城が竣成した日と、天文11年(1542年)の徳川家康が生まれた日などの吉兆のたびにここの井戸水が噴出し、龍が現れることからこの名がついたとされる。今後、龍が現れることはあるのだろうか。

 

 天守天正18年(1590年)に城主となった田中吉政により初めて築かれたが、天守台の石垣はこの当時のもので、岡崎城内では最も古い段階の石垣とされている。確かに、石がやや不揃いだ。

 

 岡崎城天守閣。

 岡崎城天守閣は昭和34年(1959年)に復元されたものである。天守閣には「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」9.岡崎城 で入ったので入らない。

 天守閣の前に立派な(邪魔と言ってはいけない)松の木があるが、この松は数か月後に伐採されたようで、伐採した後の写真を友人が送ってくれた。ちなみにこの写真はサムネイル画像にも使用させていただいた。友人、ありがとう。

 やはり、松がないほうがすっきりして見える。

 

2.カクキュー八丁味噌

 岡崎といえば、八丁味噌である。ということで、カクキュー八丁味噌にやってきた。

カクキュー八丁味噌

 岡崎の特産品の八丁味噌は、矢作大豆とよばれた地元の大豆と吉良の塩、さらに花崗岩質の地盤から得られる矢作川の伏流水を使ってつくられた素朴な豆味噌が始まりといわれる。

 戦国時代には三河武士の兵糧として愛用されていたが、徳川家康が江戸に幕府を開いたことで「三河味噌」などの名で知られるようになった。

 いつごろから「八丁味噌」の名が使われるようになったのかは不明だが、味噌が当時の八丁村でつくられていたことからこの名がつけられたとされる。

 安政4年(1857年)に江戸役人が書いた「三河みやげ」にその名が登場しており、幕末にはかなり広い範囲で知られていたようである。

 その後原料の大豆は、西三河だけでなく東三河、関東、東北、九州からも仕入れられるようになり、矢作川を川舟で運ばれて八丁土場に荷揚げされ、帰りの舟で味噌が出荷された。

 このように、海運や舟運の発達によって原料を全国から調達できるようになったことが、その販路を全国に拡大させることにつながった。

 味噌づくりは、ぐり石を積み上げた大きな仕込み桶で行われており、現在は常時450桶以上を使って醸造されている。仕込み桶は吉野杉を使った高さ2mのものである。桶に積まれたぐり石のほとんどは、江戸時代に矢作川上流から運ばれたもので、150個あまりが人の手で桶の上に円錐形に積まれ、その重さは約3tにもなる。

 

 カクキュー八丁味噌の工場見学に参加しようと思ったが、人がたくさん並んでいる。どうやら観光バスのルートにもなっているようで、観光バスからもどんどん人が流れてくる。

 「あきらめて、大樹寺に行こうか」と友人が言ったが、「工場見学は諦めるにせよ、私はお腹が空いている。味噌カツ食べたい。」と私は返し、工場に隣接しているレストランで味噌カツを食べることにした。レストランでも15分ほど待ったが、これは致し方ない。

 注文してしばらく経つと、味噌カツが運ばれてきた。さりげなく味噌汁にも八丁味噌が使われているのがポイント高い。

 カツはサクサク、甘辛いタレがカツに絡むのが絶妙で美味しい。すぐに食べ終わってしまった。

 

3.大樹寺

 中岡崎駅から大門駅まで、愛知環状鉄道に乗って移動する。

愛知環状鉄道

 大門駅からしばらく歩くと大樹寺に到着する。

大樹寺

 大樹寺は文明7年(1475年)、勢誉愚底上人(せいよぐていしょうにん)を開山として松平氏4代親忠により創建された。「大樹」とは、唐名で「将軍」を意味する。

 家康と大樹寺との関係を最もよく伝える話が、桶狭間の戦いのおりのエピソードである。

 永禄3年(1560年)、尾張をめざした今川義元にしたがった松平元康(のちの徳川家康)が、義元の敗死により身の危険を感じて大高城からこの大樹寺に逃れてきた。

 前途をはかなみ先祖の墓前で自害しようとする19歳の元康に対して、ときの住職、登誉天室上人(とうよてんしつしょうにん)が「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」の言葉をあたえて思いとどまらせた。

 この「厭離穢土 欣求浄土」の意味は、「今は私利私欲に満ちた戦国の乱世であるけれども、これを正しい目的をもって住みよい浄土にしていくのがお前の役目である」とされている。この言葉は家康の座右の銘となった。このシーンは「どうする家康」第2話「兎と狼」で描かれ、登誉上人は里見浩太朗が演じた。

 このとき、元康を追って到来した野武士の集団に対して、七十人力といわれた寺僧の祖洞和尚(そどうおしょう)が総門の閂(かんぬき)を手に応戦し、敵を退散させたようだ。

 この閂は家康により「貫木神(かんぬきじん)」と命名され、寺内でまつられている(残念ながら撮影不可)。

 慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍に任ぜられると、将軍家先祖の菩提所として寺格を高めて幕府の手厚い保護をうけ、慶長11年(1606年)には後陽成天皇から勅願所とされ、常紫衣許可の綸旨をうけた。

 安政2年(1855年)に火災が発生し、本堂とそれにつながる主要な建物をことごとく失ったが、その2年後に13代将軍家定により、現在の本堂や大方丈が再建された。

 

 本堂の前には三門がある。この三門は寛永18年(1641年)に3代将軍家光が建立したもので、後奈良天皇の筆による勅額をいただき、上層内部には釈迦三尊像、十六羅鑑像を安置している。

三門

 三門の前には「岡崎市×戦国無双5」の徳川家康のマンホールがある。

 

 本堂の前には立派な鐘楼があり、この鐘楼は家光が建立したもので、梵鐘は9代将軍家重が鋳造させたものである。

鐘楼

 本堂の西には墓地が広がり、その奥に松平氏8代の廟所がある。昭和44年(1969年)に松平広忠(家康の父)の墓に隣接して家康の墓も建てられたのだが…流石に家康の墓にしては新しすぎないか?と思う。

松平家廟所

家康の墓

 境内の南西隅には、伽藍のなかでもっとも古い建物である多宝塔がある。天文4年(1535年)に松平清康(徳川家康の祖父)により建立されたこの塔は、一層が方形、二層が円形をなし、屋根は檜皮葺きで下層に多宝如来像がおさめられている。

多宝塔

 大樹寺本堂に入る。なお、本堂内は撮影禁止のため、文章のみの紹介とする。

 本堂本尊となっている木造阿弥陀如来坐像は、安政2年(1855年)の火災後に京都の泉涌寺から迎えられたもので、平安末期の作とされ、愛知県の文化財に指定されている。

 また火災後の大方丈再建にあたり、京都から大和絵師 冷泉為恭(れいぜいためちか)が招かれて大方丈障壁画47画を描いた。将軍御成りの間の「円融天皇子日之御遊図(えんゆうてんのうねのひのぎょゆうず)」の襖絵などは国の重要文化財に指定されているが、原本は文化財収納庫にあり、公開されているものは復元品である。

 また、先ほどのエピソードに登場した祖洞和尚の閂は「貫木神」として祀られていた。

 元和2年(1616年)に家康が亡くなるとき、「位牌は三河大樹寺に立てよ」との遺言が残され、家康をはじめ歴代将軍の位牌が祀られている位牌堂がある。位牌堂には、初代松平親氏(まつだいらちかうじ)以下の松平氏8代と、家康から14代までの将軍の位牌が安置されている。歴代将軍の位牌は本人の等身大とされ、大きさは以下の通りである。

初代将軍 徳川家康 159cm(享年75歳)

2代将軍 徳川秀忠 158cm(享年54歳)

3代将軍 徳川家光 157cm(享年48歳)

4代将軍 徳川家綱 158cm(享年40歳)

5代将軍 徳川綱吉 124cm(享年64歳)

6代将軍 徳川家宣 160cm(享年51歳)

7代将軍 徳川家継 135cm(享年8歳)

8代将軍 徳川吉宗 155.5cm(享年68歳)

9代将軍 徳川家重 156.3cm(享年51歳)

10代将軍 徳川家治 153.5cm(享年50歳)

11代将軍 徳川家斉 156.6cm(享年69歳)

12代将軍 徳川家慶 154cm(享年61歳)

13代将軍 徳川家定 149.9cm(享年35歳)

14代将軍 徳川家茂 157cm(享年21歳)

 平均身長は152.4cm、江戸時代の男性の平均身長が157cmだからそれと比べるとだいぶ低い。私(158cm)よりも低い。

 位牌のなかでとりわけ小さな位牌が2つあった。5代将軍綱吉の位牌(124cm)と、7代将軍家継の位牌(135cm)だ。家継は8歳で亡くなってしまったため、小さいのは致し方ない。ただ、綱吉は64歳まで生きている。小人症だったのだろうか…?そして、綱吉といえば、あの悪名高い「生類憐みの令」を出した将軍である。こういう無理な掟を決めたのも、背景に身長コンプレックスがあったのでは?と説明板に考察されていた。

 大樹寺御朱印をいただいた。登誉上人の名言「厭離穢土 欣求浄土」と書かれている。

 

 大樹寺小学校内に大樹寺の総門がある。そこから振り返ると岡崎城が見え、これは「ビスタ=ライン」と呼ばれているらしい。もっとも、江戸時代にこの呼称があるとは考えられないので、後世の人がつけたものだとは思う。

大樹寺総門

 

4.伊賀八幡宮

 伊賀八幡宮に向かう途中に明願寺に立ち寄る。

明願寺

 明願寺は浄土真宗の寺院で、宗徧流茶道の宗匠、宗徧が残した唯一の茶室「淇菉庵並水屋(きろくあんならびにみずや)」があるが、普段は見ることはできない。

 

 伊賀八幡宮に到着した。鳥居と神橋がある。

 鳥居は石造明神鳥居。神橋は石造反り橋で橋骨に大きな特徴があり、二重虹梁(にじゅうこうりょう)・大瓶束(たいへいつか)などを用いてつくられ、拳鼻(こぶしばな)の飾りのうえに勾欄(こうらん)をかざっている。

 神橋の向こうに随身門がある。

随身

 随身門(ずいじんもん)は下層が高く、上層が低い2層造りで、軒唐破風や上棟の吹寄垂木、人字型の板蟇股(いたかえるまた)などにこった意匠が見られる。

 門をくぐると、権現造の本殿・幣殿・拝殿や御供所が姿をあらわす。

 ここで伊賀八幡宮について簡単に説明する。

 社伝によると、松平氏4代親忠が、武運長久・子孫繁栄を祈願するため、社を伊賀から額田郡井田村に勧請したことにはじまるようだ。

 永禄9年(1566年)、徳川家康三河守に任じられたことを喜び社殿を造営した。

 慶長7年(1602年)には社領228石を加増して後陽成天皇の宸筆額を奉納し、慶長16年(1611年)にも社殿の造営を命じており、このときに現在の規模がほぼ整ったようだ。

 その後、寛永13年(1636年)に江戸幕府3代将軍家光が100石を加増して社領を540石とし、当時の岡崎城主の本多忠利を奉行に任じて社殿を大々的に造営させたものが、現在の社殿である。

 昭和40年(1965年)から随身門ほか4棟が解体修理されて現在に至っているが、落書きなどを防ぐ目的で社殿の前に柵がつくられ、間近に社殿を見ることができないのが残念でならない。

 柵の向こうから参拝し、御朱印をいただいた。

 

5.甲山寺

 甲山寺へ向かう途中に六供配水場があった。

六供配水場の配水塔

 大正の岡崎市は、都市化の進展に伴う人口増加で生活汚水が増加し、伝染病の発生状況が深刻だった。

 そこで市民の生活を守るため、ここに六供浄水場が建設され、昭和8年(1933年)に岡崎市最初の浄水場として給水を開始した。

 六供浄水場矢作川の伏流水を水源とし、標高54.5mの高台にある場内に水を送り、浄化したあと配水塔へポンプアップし、自然流下式で市街地に配水していたが、平成24年(2012年)に役目を終えた。

 配水塔とは、水を貯めて周辺の水道管に配水するための建物である。

 この配水塔は昭和9年(1934年)に建てられ、外壁下部は板状の花崗岩を張りつけ、上部はモルタル仕上げに線を引き、石を貼ったかのように見せている。

 配水塔に絡まるツタは、太平洋戦争中に植えられたもので、グレーの外壁にツタをめぐらせることで迷彩柄に見せようとしたようだ。ツタは季節とともに色合いを変える。

 

 甲山寺に到着した。まずは秋葉堂に参拝する。

秋葉堂

 秋葉堂があるということは、秋葉神社の信仰、秋葉信仰があったことを意味する。

 秋葉神社浜松市天竜区にあり、火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓う火伏開運の霊験が最も有名である。

 

 甲山寺の本堂に参拝する。

甲山寺

 甲山寺は、松平清康岡崎城の鬼門の守りのために、安祥から薬師堂とその6坊を移転させたことにはじまる。

 本堂の護摩堂は、家康の父の松平広忠が家康をさずかったことを喜んで建立したものといわれている。

 甲山寺の背後には甲山八幡宮があり、そちらも参拝する。

甲山八幡宮

 甲山八幡宮をあとにして南に進むと、すぐ籠田公園に到着する。

 籠田公園は「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」でも登場した公園である。

籠田公園

 籠田公園からすぐの岡崎市観光協会に向かい、岡崎宿の御宿場印とマンホールカードをもらう。昨日も内藤ルネのマンホールカードをいただいたので、「これ、昨日のと何が違うの?」と友人に聞かれた。よく見てみると、道の駅藤川宿でもらったものは背景が紫、岡崎市観光協会でもらったものは背景がピンクなので別物である。

「道の駅藤川宿」のマンホールカード

 歩いていたら、東海オンエアの「ゆめまる」のマンホールを見つけた。

 東海オンエアは岡崎市に拠点を置く6人組Youtuberで、岡崎市内7か所に東海オンエアマンホールが設置してある。以前、道の駅藤川宿前に「としみつ」のマンホールが設置してあったのを目撃した。

 

「としみつ」マンホール

 

 このあとは備前屋でおみやげを買い、夕食に向かった。ちなみに買ったのは「銘菓 あわ雪」。

あわ雪

 「あわ雪」は明治元年(1868年)に3代目が創作した和菓子である。あわ雪の名は、岡崎宿の名物であった「淡雪豆腐」にちなんでつけられたものである。

 あわ雪は砂糖と寒天、卵白で作った和菓子で、宿に戻ったあとで食べたが不思議な食感がして、淡い甘さが美味しかった。

 

 夕食はこちら。岡崎公園前駅の目の前にある「大正庵 釜春 本店」。

大正庵 釜春 本店

 私はここで味噌煮込みうどんを注文した。

味噌煮込みうどん

 冷えた体に八丁味噌が染み渡る。美味しい。

 このあとは宿に戻り、明日の「東海道を歩く」に備えることにした。

 それにしても岡崎は、東海道を歩いていなければ行くことを思い立ちもしない場所だったと思う。流石家康生誕の地、家康関係の史跡が多かった。そしてどこも初めて行く場所だったので、見つけたものも多かった。

 さあ、明日は岡崎公園前駅から知立駅まで歩こう。

今回の地図

歩いた日:2024年2月11日

【参考文献】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社

江戸三十三観音をめぐる 10.赤坂・西麻布編

 前回、江戸三十三観音第20番札所天徳寺、第21番札所増上寺に参拝しながら芝をめぐった。今回は第22番札所長谷寺に参拝しながら、赤坂・麻布をぶらぶらしようと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.迎賓館赤坂離宮

 今日は四ツ谷駅からスタートだ。

四ツ谷駅

 四ツ谷駅から南に歩いて、見えてくるのが迎賓館赤坂離宮だ。

迎賓館赤坂離宮

 ちなみに四ツ谷駅からこの景色にたどり着くまでに、チケットの購入だけでなく、荷物検査も行わなければならない。なぜなら、この迎賓館は現役で使われているからだ。

 迎賓館のある敷地には、紀州徳川家中屋敷があった。

 現在の建物は、大正天皇の皇太子時代の東宮御所として明治42年(1909年)に建造されたもので、設計は東京国立博物館表慶館などの設計で著名な片山東熊。

 日本唯一のネオバロック様式の洋風建築で、パリのヴェルサイユ宮殿ルーブル宮殿がモデルであるという。

 第二次世界大戦後、国会図書館とされた時期もあったがその後改修され、昭和49年(1974年)から国の迎賓施設とされ、迎賓施設として使っていないときは一般公開されている。

 迎賓館赤坂離宮内は撮影禁止のため、文章のみの紹介とさせていただく。

 

 入口から入り、正面玄関を見る。

 正面玄関の鉄扉を開けると、黒と白の市松模様の床に真紅の絨毯が敷かれた玄関ホールを通ることになる。玄関ホールの床は、イタリア産の白い大理石と国産の黒い玄昌石で構成されている。

 

 次に入るのは、花鳥の間。

 花鳥の間の名は、天井に描かれた油絵や壁に飾られた七宝焼が花や鳥を題材にしていることに由来する。現在では主に公式晩餐会や記者会見の場として使用されている。

 壁には30枚の七宝焼の額が飾られ、これは明治を代表する日本画家の 渡辺省亭(わたなべせいてい)が下絵を描き、七宝焼の天才・涛川惣助(なみかわそうすけ)が焼いたもの。

 天井にはフランス人画家が描いた油彩画24枚と金箔地に模様を描いた絵12枚が張り込まれている。

 

 続いて、彩鸞(さいらん)の間。

 この部屋は鳳凰の一種、「鸞(らん)」と呼ばれる架空の鳥のデザインのレリーフがあることからこう呼ばれている。この部屋は、条約の調印式や首脳会談に使用されるそうだ。

 左右の大きな鏡の上部と大理石で作られた暖炉の両脇に、華麗な鳥の彫刻が飾られている。これが「鸞」だ。

 部屋の装飾は19世紀初頭ナポレオン1世の帝政時代にフランスで流行したアンピール様式で、金箔張りのレリーフは軍隊調のモチーフとなっており、なかには鎧武者などの和の要素も組み込まれている。

 天井のレリーフは筋が放射状に広がったもので、ナポレオンのエジプト遠征に想を得たデザインとなっているようだ。

 

 彩鸞の間と朝日の間の間で、中央階段と大ホールを通る。

 中央階段から見上げた南側と北側のアーチに絵が描かれており、2階に向かう賓客には朝日の絵、正面玄関に降りていく賓客には夕日の絵が見えるようになっている。粋な演出だ。

 中央階段を登ると大ホールがあり、天井には東京芸術大学教授・寺田春弌(てらだしゅんいち)による「第七天国」という絵が描かれていた。

 また、朝日の間の扉の左右の壁には洋画家・小磯良平が描いた「絵画」「音楽」という油彩画が飾られている。

 

 朝日の間に入る。

 朝日の間は、賓客のサロン(客間・応接室)として使われ、表敬訪問や首脳会談等も行われる迎賓館で最も格式の高い部屋となっている。

 天井にはフランス人画家による絵が描かれており、朝日を背にした女神オーロラが、左手には月桂樹の枝、右手には馬の手綱を持ち、チャリオットで天空を駆けている姿が描かれていて、これが「朝日の間」の由来。

 朝日の間の床に敷かれた敷物「緞通(だんつう)」は、桜の花をモチーフにしたもので、47種類もの色の糸が使われている。実際に緞通が織られている様子のビデオが放映されていた。

 壁面には2種類の絵が描かれている。ひとつは、鎧、兜、鎖をくわえたライオンの頭が描かれ、陸軍の象徴となっている。もうひとつは、船首、月桂樹、櫂(かい)や銛(もり)が描かれ、こちらは海軍を象徴している。

 

 最後に訪れたのが、「羽衣の間」。

 羽衣の間の由来は、謡曲「羽衣」の景趣を描いた大絵画が天井に描かれていることで、雨天時の歓迎式典や晩餐会の招待客に食前酒が供される場所でもある。

 天井画は高炉から煙が立ち上り、赤やピンクの花が舞う、天女が地上に降り立った直後の空の様子が描かれていて幻想的だ。

 羽衣の間のシャンデリアはクリスタルガラスを主体に7,000個ものパーツを組み合わせた迎賓館で最も大きく、豪華なもので、洋風の仮面や楽器がモチーフに描かれ、舞踏室として使われていた時代をうかがわせる。壁面のレリーフにも洋風の仮面やヴァイオリンなどの洋楽器に交じり、琵琶や鼓などの和楽器も使用されているのも魅力的だ。

 また、舞踏会を催すときに音楽を演奏するオーケストラボックスが部屋の奥にあり、往時は使用していたのだろう、と思った。

 

 迎賓館赤坂離宮本館から出て、庭園から迎賓館を見る。美しい。

 

 このほか和風別館があるが、予約制であり、私が行こうと思ったときは予約でいっぱいになっていたので、またの機会とすることとした。

 

2.赤坂豊川稲荷

 迎賓館赤坂離宮をあとにして、敷地をぐるっと南東端にまわると、赤坂豊川稲荷がある。

赤坂豊川稲荷

 赤坂豊川稲荷は、正式名称を豊川吒枳尼真天堂(とよかわだきにしんてんどう)といい、キツネの化身とされる吒枳尼天を本尊とする寺院である。

 この吒枳尼天は、愛知県豊川市にある妙厳寺(みょうごんじ)山門の鎮守神を、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)が赤坂一ツ木の邸内にまつったもので、のちに一般の参詣者に開放されて繁盛したという。現在地に移ったのは明治20年(1887年)のこと。

 赤坂界隈の飲食店や芸能関係の人々の信仰を集め、奥の院一帯の参道両側には奉納された幟がびっしりとたち並び、「千本のぼり」とよばれている。

千本のぼり

 参拝し、御朱印をいただいた。

 

 境内で「いなりん」を発見した。

いなりん

 いなりんは愛知県豊川市のマスコットキャラクターで、キツネと豊川いなり寿司を合体させたキャラクターである。少し前に東海道豊川市を歩いたとき、いなりんのマンホールを見つけた。

 

 いなりんマンホールは「東海道を歩く 30.札木停留場~御油駅 5.速素佐之男神社」で登場している。

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 境内を散策していると、キツネがみんなこっちを見ている。少し怖くて、手を合わせた。

 

3.高橋是清翁記念公園

 赤坂豊川稲荷をあとにして、国道246号線沿いをしばらく進むと、高橋是清翁記念公園に到着する。

高橋是清翁記念公園

 高橋是清は首相・蔵相を歴任して昭和初期の日本の政治経済に大きな足跡を残したが、二・二六事件のときに自邸で暗殺された。

 高橋是清の邸宅跡が昭和13年(1938年)に東京市へ寄付され、公園とされたものが、高橋是清翁記念公園である。

 空襲で当時の建物は焼失したが、焼け残った母屋が小金井市江戸東京たてもの園に移築・保存されている。

 高橋是清銅像が公園の奥にあった。命日である2月26日のあとだったからか(この日は3月3日)、花が供えられており、そっと手を合わせた。

 

4.乃木神社

 赤坂郵便局前交差点を左折して南に進むと、旧乃木邸がある。

旧乃木邸

 乃木希典は、日露戦争の旅順攻略戦のときの陸軍司令官で、退役後は学習院長などもつとめた人物である。

 大正元年(1912年)9月、明治天皇の大葬に際して妻の静子とともにこの邸宅で殉死したのは有名な話である。

 乃木邸は明治35年(1902年)の築造で、フランス軍隊の建物を模したという半地下の部屋をもつ木造平屋建て。

 普段は非公開で、周囲に通路がめぐらされていて外から内部をみることができる。

 

 旧乃木邸の厩(うまや)は明治22年(1889年)に建てられたもの。飼っていた馬の名前は壽(す)号と、璞(あらたま)号。

 

 旧乃木邸の坂の下に、乃木神社がある。

乃木神社

 乃木神社は乃木夫妻を祭神とした神社で、大正12年(1923年)に創立された。

 乃木神社でも御朱印をいただいた。デザインがかわいい。

 

 乃木神社の前の坂道は乃木希典からとって「乃木坂」と名づけられているが…まあ、現在では「乃木坂」と聞いて乃木希典乃木神社を連想する人よりも、アイドルグループ「乃木坂46」を連想する人のほうが多いだろう。

乃木坂

 

5.長谷寺

 都道413号線を通り、長谷寺へ向かう。途中、青山霊園の上を通った。

青山霊園

 美濃郡上藩青山家の下屋敷だったところを明治5年(1872年)に明治政府が神式墓地として造成した。まもなく神式・仏式を問わず埋葬するようになり、管理は東京府に移された。

 公園墓地の草分けのひとつで、26万㎡余の敷地には、大久保利通墓はじめ犬養毅らの政治家、乃木希典らの軍人、斎藤茂吉国木田独歩志賀直哉らの文化人を含む約11万人が眠っている。

 

 根津美術館前の交差点で左折し、住宅街のなかの道をいくと長谷寺がある。

長谷寺

 長谷寺曹洞宗の寺院である。

 慶長3年(1598年)、大和・鎌倉両長谷寺と同じ木・同じ作者と伝えられる小十一面観音像が安置されていた御堂の地に、今川義元の孫で、徳川家康の師でもあった門庵宗関(もんなんそうかん)大和尚を開山に迎えて開創された。

 正徳6年(1712年)には、この像を宝冠のなかに収めて2丈6尺の大観音が建立され、江戸三十三箇所の観音霊場のひとつとして庶民の信仰を集めた。

 昭和20年(1945年)に戦災で堂宇が焼失したが復興、昭和24年(1949年)に永平寺東京別院となり、昭和42年(1967年)には専門僧堂の認可も受け、東京の禅の修行道場のひとつとなった。

 戦火で大観音も焼失し、昭和52年(1977年)に10年かけて再建、現在はくすのきの一木彫、高さ3丈3尺(約10m)の十一面観音像で「麻布大観音」と親しまれている。

 麻布大観音はこの大観音堂に安置され、見ることができる。とても大きかった。

観音堂

 寺務所に行き、御朱印をいただいた。

 

 また、長谷寺には江戸時代の医師の井沢蘭軒、鹿鳴館外交で著名な政治家の井上馨、洋画家の黒田清輝喜劇王エノケンこと榎本健一、歌手の坂本九らの墓がある。

 

 長谷寺をあとにして、表参道駅前のスタバで「花見だんごフラペチーノ」を飲んでから帰路につくことにした。花見だんごフラペチーノはだんごがタピオカのようで美味しかった。

花見だんごフラペチーノ

 迎賓館赤坂離宮はまぶしいほどに豪華絢爛な洋館だった。次回行くときは和館にも行ってみたい。豊川稲荷にはいつか行きたいと思っていたので、赤坂豊川稲荷に参拝したことで少しは御利益がいただけた…と信じたい。

 高橋是清翁記念公園で二・二六事件で亡くなった高橋是清の冥福を祈った。乃木神社乃木希典に思いを馳せたが、現在ではアイドルグループのほうが有名になってしまったのは何ともいえないと思う。長谷寺の麻布大観音はとにかく大きく、今まで見た江戸三十三観音のなかでも最も大きかったと思う。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2024年3月3日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

俵元昭(1979) 「港区の歴史」 名著出版

江戸札所会(2010) 「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

内閣府 迎賓館赤坂離宮

https://www.geihinkan.go.jp/akasaka/

(2024年4月3日最終閲覧)

東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅

 前回、御油駅から藤川駅まで歩いた。今回は藤川駅から岡崎公園前駅まで歩こうと思う。岡崎城下町は「東海道岡崎城下二十七曲り」と言われ、27回ものクランクがある。寄り道しつつ見失わないように、歩いていこうと思う。

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1.十王堂

 今日は藤川駅からスタートだ。

藤川駅

 少しお腹がすいているのと、藤川宿の御宿場印をもらうために道の駅藤川宿へ立ち寄る。

道の駅藤川宿

 道の駅藤川宿の前で消火栓を見つけた。

 これは昭和62年(1987年)に製作したデザインマンホールの岡崎城と桜、三河花火を背景に、岡崎市消防本部マスコットキャラクターのレッサーくんとはしご車が描かれている。

 

 道の駅藤川宿に入り、御宿場印とマンホールカードをゲットした。

御宿場印

マンホールカード

 このマンホールは内藤ルネのマンホールで、内藤ルネ昭和7年(1932年)に岡崎市で生まれたイラストレーター、デザイナーである。岡崎市内7か所に内藤ルネマンホールが設置してあり、道の駅藤川宿の前にも設置してある。

 

 道の駅藤川宿でモーニングセットをいただいた。

モーニングセット

 岡崎の地鶏卵「ランニングエッグ」に、岡崎市産のむらさき麦ごはん、むらさき麦きしめんとさらにサラダやコーヒーもついて600円。

 これを読んでる人に道の駅藤川宿へ行く機会がある人がいるかはわからないが、オススメしたい逸品である。

 

 卵かけごはんを食べて元気になったところで、東海道ウォークを始めよう。

 

 少し歩いていったら、藤川宿の西棒鼻があった。

藤川宿西棒鼻

 「棒鼻」とは棒の端、すなわち棒の先端をいい、それが転じて、宿場のはずれを「棒鼻」と称し、したがって宿場町では東、西の両方のはずれをいう。

 藤川駅は、藤川宿の西のはずれにあるのですぐ西棒鼻となった。藤川宿について詳しく知りたい人は前回の「東海道を歩く 31.御油駅~藤川駅」10.藤川宿 を参照してほしい。

 

 藤川宿西棒鼻から少し行ったところに、十王堂がある。

十王堂

 十王堂とは、10人の王を祀る堂で、その王とは、冥土にいて、亡者の罪を裁く10人の判官をいう。

 泰広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)、宗帝王(そうていおう)、五官王(ごかんおう)、閻魔王(えんまおう)、変成王(へんじょうおう)、平等王(びょうどうおう)、太山王(たいざんおう)、都市王(としおう)、五道転輪王(ごどうてんりんおう)の10人である。

 藤川宿の十王堂はいつごろ創建されたかは不明だが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年(1710年)七月」と書かれているので、この十王堂の創建はこの年であると推測されている。

 

 十王堂の隣には松尾芭蕉の句碑がある。

 「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた はせを」と刻まれている。

 「在原業平により、かきつばたで有名な知立宿も三河なら、この藤川宿も三河、ここにはむらさき麦というかきつばたに劣らぬものがありますよ」と詠んでいる。

 むらさき麦は戦後に姿を消したが、30年ほど前から藤川の町おこしとして、地元民が栽培を復活させている。先ほど食べたモーニングセットのごはんときしめんにもむらさき麦が使われていた。

 

2.藤川の松並木

 十王堂から少し行くと、藤川宿の一里塚跡がある。

藤川宿の一里塚跡

 藤川宿の一里塚跡は江戸から79里の一里塚である。

 一里塚の上には榎が植えられているものだが、南側の一里塚の榎は天保年間(1830年頃)にはすでになくなってしまい、北側の榎も昭和初期にはなくなってしまったようだ。

 

 吉良道の道標を見つけた。

吉良道道

 東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現在の岡崎市福岡町)、西尾、吉良(旧幡豆郡吉良町、現在は西尾市に合併)方面へ出る道がある。この道を「吉良道」と呼んでいて、その分岐点にこの道標が立っている。

 

 吉良道道標を見て踏切を越えると素晴らしい景観が広がっている。藤川の松並木だ。

藤川の松並木

 慶長9年(1604年)、江戸幕府東海道を整備するなかで、道の両側に築かれた土塁に松が植えられた。松並木は夏は木陰となり、冬は防風林となり、街道を行く旅人に安らぎを与えていた。

 藤川の松並木は旧東海道にあたる、愛知県道市場福岡線および、岡崎市道藤川北荒古6号線の約1kmにわたる。その間に100本あまりのクロマツが並び、当時の景観を今にとどめている。

 松並木を気持ちよく歩いていると藤川町西交差点で国道1号線に合流し、松並木は終わる。

 

 ひたすらに国道1号線を歩き、竜泉寺川を渡る少し前で旧道に入る。

 

 藤川の松並木ほどではないが、少しだけ松が生えているのがうれしい。

 

 ひたすら旧道を歩き、乙川を渡るところで国道1号線に戻り、乙川を渡る。橋の上に323キロポストも見つけた。

乙川

323キロポスト

 このマンホールは初めて見る気がする。

 このマンホールは岡崎城と、乙川を走る五万石船がデザインされている。

 

3.西大平陣屋跡

 乙川を渡るとまた旧道に戻り、大平町東交差点で国道1号線に交差しつつも旧道を進む。

 本日初の秋葉灯籠を見つけた。

秋葉灯籠

 秋葉神社の信仰が秋葉信仰で、それにより秋葉灯籠が設置される。

 秋葉神社の正式名称は秋葉山本宮秋葉神社といい、浜松市天竜区にある。

 火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓う火伏開運の霊験が最も有名だが、そのほかにも火災消除、家内安全、厄除開運、商売繁盛、工業発展にも霊験があるという。

 

 秋葉灯籠から進むと、「つくで道」の道標を見る。つくで道は、新城市の作手(つくで)に至る道である。

つくで道

 「西大平藩陣屋跡」「大岡稲荷社」とあったので、覗いてみる。

西大平藩陣屋跡

 西大平藩の成立は、大岡忠相寛延元年(1748年)に奏者番寺社奉行に就任して三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石を加増され1万石の譜代大名となり、西大平に陣屋を設置したことに始まる。

 安永元年(1772年)以降は藩領の変動はなく、三河国内に9,000石、上総国相模国に1,000石の領地があり、9割が三河国内の領地となっていた。

 西大平に陣屋が置かれたのは東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地が最も多かったことが考えられている。

 

 初代藩主、大岡越前守忠相は徳川8代将軍吉宗のもとで江戸町奉行として仕え、享保の改革として多くの改革を行った。

 著名なものに、相対済し令(金銀貸借などお金関係の訴訟は当事者同士で解決するよう命じた法令)、目安箱の設置、小石川養生所(無料医療施設)の設置、いろは四十七組の町火消の組織化、江戸防火対策である火除地の設置、建築基準(屋根を瓦葺きにするなど)の設置など、江戸庶民の生活向上に尽力した。

 しかし初代の大岡忠相が藩主だったのはわずか3年間で、宝暦元年(1751年)に亡くなっている。その後は廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていた。

 

 西大平藩陣屋跡の一角に、大岡稲荷社がある。

大岡稲荷社

 大岡越前守忠相は、領地に近い三河国宝飯郡豊川村にある豊川稲荷の本尊、「吒枳尼眞天(だきにしんてん)」を厚く信仰していた。

 江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷の分霊社として赤坂稲荷を祀り、西大平陣屋内に大岡稲荷として社殿を建立し、「豊川吒枳尼尊天」を本尊として祀った。

 

4.大平一里塚

 西大平陣屋跡をあとにして、東海道を歩いていくと大平一里塚がある。

大平一里塚

 大平一里塚は東海道の一里塚のうちのひとつで、日本橋から80里にあたる。

 現在の大平一里塚は、昭和3年(1928年)に道路改修の際、北側の塚は破壊され、南側だけが残ったもので、塚の大きさは高さ2.4m、底部縦7.3m、横8.5mで、中央には榎が植えられている。

 北側の塚は破壊されたが、そのかわりに(?)、大きな秋葉灯籠が設置されていた。

 

 大平一里塚から少し進み、大平八幡宮に参拝する。

大平八幡宮

 大平八幡宮の創建年代は不詳だが、明治42年(1909年)に白山社、御鍬社、日枝社を合祀しているようだ。

 ちなみに住所、氏名、日付を書き、300円と一緒に賽銭箱に入れれば御朱印を送ってくれるそうだが、そこまではしなくていいかな…と思った。

 

 また国道1号線に戻るが、一旦旧道に入り、国道1号をカルバートでくぐって進む。

 

 スイセンが綺麗に咲いていた。

 

 歩道に小さな松並木がある。こういうのでも、嬉しくなる。

 

 秋葉灯籠の下に…水準点発見!

 一等水準点第165-1号は明治33年(1900年)に設置された古い標石型の水準点である。100年以上前に設置された割には綺麗だ。

 

 冠木門があり、岡崎二十七曲がりの始まりを告げる。

 天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封後に岡崎城主となった田中吉政は、以後10年間を岡崎城主としてすごしたが、彼の最大の課題は、関東の家康に対する備えをもったあらたな城下町の建設であった。

 吉政は、城下町を堀と土塁で囲む総曲輪とし、櫓門を築いて防備をかためるとともに、それまで乙川の南をとおっていた東海道を城下町に引き入れた。その際、城下の道を防衛上の必要性から屈折の多い道にかえた。これは、外敵に対して城までの距離をのばすとともに、間道を利用した攻撃や防衛を目的としていた。

 このことで、岡崎宿の町並みは東海道の各宿場町のなかでもっとも長いものとなり、岡崎二十七曲がりとよばれるようになった。

 

5.丸石醸造

 まず、冠木門のある交差点を北に向かい、若宮町2丁目交差点を左折する。

 

 「い これより次の両町角まで 650m」と書かれている看板が目印だ。

 

 根石観音堂を見つけた。普段は若宮町公民館として使用しているらしい。

根石観音堂

 和銅元年(708年)に悪病が流行り、人々は苦しんでいた。

 このことに心を悩んだ元明天皇行基を呼び、悪疫を絶やしてほしいと願った。

 そこで行基は6体の観音像を彫り、そのうちの2体を根石の森に勧請、17日間祈祷を続けたところ悪病は収まり、人々は大変喜んだ。このうち1体がこの観音堂に納められている。

 また、岡崎三郎信康も天正元年(1573年)の初陣のときにこの観音様に祈願し、軍功をあげて以来開運の守り尊像としてあがめられているようだ。

 

 東海道はまだ西に進むが一旦寄り道で両町3丁目交差点で右折し、丸石醸造に向かう。

丸石醸造

 丸石醸造は創業者・投町三太夫が酒造りの方法を知り、元禄3年(1690年)に酒造業を興したことに始まる。

 明治時代に入り木綿業・銀行業などの事業拡大をしつつ、明治33年(1900年)に灘で酒造りを始めた。当時は灘の酒を「長誉」、岡崎の酒を「三河武士」としていた。その後岡崎で焼酎、みりん、味噌、醤油造りなども始める。

 しかし太平洋戦争中の岡崎空襲により蔵のほとんどを失うが、わずかに残った味噌蔵を再築、日本酒造りを再開し、現在に至っている。

 現在作っている銘柄は「二兎」「徳川家康」「三河武士」「長誉」「魅惑の果実」。

 友人は酒が苦手なのと、私もそこまで強くはない。そして日本酒を持ち帰るにも重いので、「大吟醸徳川家康アイス」を食べることにした。ほのかに日本酒の風味がして美味しかった。

 

 両町3丁目交差点に戻り、東海道をまた歩き始める。

 「は これより次の伝馬町角にまで 80m」と書かれた交差点を右折する。

 

 秋葉灯籠が展示されていた。

 この秋葉灯籠は寛政2年(1790年)に建てられたもので、空襲で崩れかけるも昭和47年(1972年)まで原型をとどめていた。

 しかし傷みがひどくなったので取り壊し、宝珠だけを残して保存している。

 

 次の交差点で左折して先に進む。

 

 また寄り道する。伝馬町通5丁目交差点で右折し、曙町2丁目交差点で右折、すぐ左手側に真宗大谷派 三河別院がある。

真宗大谷派 三河別院

 真宗大谷派 三河別院は明治23年(1890年)に建てられた新しい寺院である。しかし当時の本堂は空襲で焼失したため、昭和43年(1965年)に再建された。

 真宗大谷派 三河別院に寄る途中に徳王稲荷金刀比羅社を見つけたので、そちらにも寄る。

徳王稲荷金刀比羅社

 徳川家康も弓の稽古で訪れた由緒正しい神社で、徳王稲荷社と金刀比羅社に2社が合祀されている。

 徳王稲荷金刀比羅社では御朱印をいただいた。

 

6.隋念寺

 伝馬通5丁目交差点から東海道に戻り、少し西に進んでからまた寄り道で、隋念寺に向かう。

隋念寺

 隋念寺は、徳川家康が祖父の松平清康と叔母の久子の菩提をとむらうため、永禄5年(1562年)に創建したもので、松平家・徳川家の菩提寺大樹寺15世の麘誉魯聞(こうよろぶん)上人を開基としている。

 松平清康は天文4年(1535年)、尾張への勢力拡大をねらった守山の陣中で、家臣の阿部弥七郎に殺された。その遺骸は岡崎に運ばれこの地で荼毘に付され墓塔が建てられた。

 また、永禄4年(1561年)、生母の於大との生別以来、家康を養育してきた久子が没すると、彼女の遺言でその墓塔が清康の墓と並んで建てられた。寺号は、久子の法名、隋念院にちなんで仏現山隋念寺と名づけられた。

 本堂は元和5年(1619年)、2代将軍の徳川秀忠によって再建されたもので、三河浄土宗本堂のなかでは最古のものらしい。

 学制が公布された明治5年(1872年)の翌年に第一番小学岡崎学校がおかれ、明治32年(1899年)には、愛知第二師範学校(現在の愛知教育大学)の開校準備も隋念寺で行われた。

 

 隋念寺でも御朱印をいただいた。

 

 隋念寺をあとにして、東海道に戻る。伝馬交差点に備前屋を見つけた。

備前

 備前屋は天明2年(1782年)創業の和菓子屋で、「あわ雪」という銘菓を売っている。

 「あわ雪」は明治元年(1868年)に3代目が創作した和菓子である。あわ雪の名は、岡崎宿の名物であった「淡雪豆腐」にちなんでつけられたものである。

 あわ雪は砂糖と寒天、卵白で作った和菓子で、翌日に食べたが不思議な食感がして、淡い甘さが美味しかった。

あわ雪

 備前屋の前にはさまざまな石像が置かれている。これは茶壷の石像。

 寛永9年(1632年)に宇治茶を将軍家に献上することに始まったのがお茶壷道中である。行程の都合により、岡崎伝馬宿で一行が御馳走屋敷で休むことになり、御馳走屋敷には岡崎藩の家老が出向き、丁重にもてなしたとの記録が残っている。

 

 これは朝鮮通信使の石像。

朝鮮通信使

 江戸時代を通し、李氏朝鮮は将軍に向けて12回ほど使節の派遣をした。

 一行は瀬戸内海を抜け、大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かう途中、岡崎宿に泊まった。岡崎宿は将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地であったので、岡崎宿の応対は一大行事であったようだ。

 

 助郷の石像。

助郷

 助郷とは宿場で公用旅行者に継立する人馬の基準数、人70人、馬80匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、元禄7年(1694年)に正式に実施されている。

 助郷負担の話は東海道でもたびたび聞くが、岡崎も例外ではなかったようだ。

 

 こちらもほかの宿場でも登場する、飯盛女。

飯盛女

 飯盛女は旅籠で旅人の給仕などをする女性だったが、唄や踊りを披露する遊女でもあった。

 岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文に記されるなど全国的に有名だったらしい。

 しかし飯盛女の華やかさの裏には悲惨な世界もあることを忘れてはならない。御油宿の遊女の悲劇の話は、前回「東海道を歩く 31.御油駅~藤川駅 1.御油のマツ並木」の東林寺で取り上げたばかりだ。

 

 田中吉政は、先ほども取り上げた通り岡崎二十七曲がりなど、岡崎のまちづくりを行った人物だ。

田中吉政

 

 各宿場の人足会所・馬会所で宿場ごとに馬や人足を雇いながら旅をしたが、これを人馬継立という。東海道では53ヶ所の宿駅でこのような継立をしたので「東海道五十三次」と呼ばれたのだ。

人馬継立

 

 三度飛脚の像もあった。

三度飛脚

 飛脚は現在でいう郵便配達人にあたり、あずかった書状などを入れた箱をかつぎ、目的地に届けていた。

 飛脚には公用の継飛脚、大名飛脚のほか、一般用の町飛脚があり、三度飛脚というのは毎月東海道を3往復したことからその名がある。東海道は492kmもあり、マラソンランナーもびっくりである。

 

 これは塩船の像。

塩船

 塩座というのは塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し、伝馬町では国分家などが商っていた。塩は塩船に載せて運ばれてきたようだ。

 

 タイの石像があったが、これは御馳走屋敷で出てくるタイをイメージしたものらしい。

 御馳走屋敷とは、現在の岡崎信用金庫資料館あたりにあった屋敷のことで、公用の役人などをもてなす岡崎藩の迎賓館だったそうだ。

 

 石像を見終わると、また岡崎宿二十七曲がりのクランクがあり、左折する。

 

 次の交差点でまた右折。

 

 明治に建立された古い道標がある。

 「↑東京みち ←西京いせ道 ↓きらみち」と書いてある。

 

7.岡崎信用金庫資料館

 歩いていると、突然大きな赤レンガの建物が右手側に現れる。岡崎信用金庫資料館だ。

岡崎信用金庫資料館

 岡崎信用金庫資料館は鈴木禎次(すずきていじ)が設計した。鈴木禎次は東京帝国大学辰野金吾に師事していた。どうりで辰野金吾の建築に似ていたわけだ。

 また、鈴木禎次の奥さんと夏目漱石の奥さんが姉妹だったこともあり、夏目漱石とも仲が良く、漱石の小説に登場したこともあったようだ。

 鈴木禎次設計作品は97件現存しており、そのうち56件が愛知県に現存、51件が名古屋市内に現存している。それもあって「名古屋をつくった建築家」とも呼ばれている。

 

 1階は鈴木禎次についての展示、2階は世界のお金についての展示である。

 まず、江戸時代の小判などを見る。

 

 続いて日本の記念硬貨天皇陛下(現在の上皇陛下)御即位記念10万円金貨、実家にあった気がする。令和の天皇陛下のときも販売されて、一瞬欲しいなと思ったけど10万円も払えないので諦めた。

 

 古い紙幣も展示されている。このうち、古い10,000円札(福沢諭吉が描かれているのは同じだが、裏に鳳凰ではなく雉が描かれている)、2代前の聖徳太子が描かれた5,000円札、夏目漱石が描かれた1,000円札は持っている。いずれ、現在使われている福沢諭吉樋口一葉野口英世のお札も渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎のお札に置き換わっていくだろう。

 

 世界のお金も展示されている。

 一番右のベトナムは見事に同じ人物が描かれている。同行していた友人は仕事でベトナムに行ったことがあるので「これ誰?」と聞いたら「ホー・チ・ミン」と答えられた。

 ホー・チ・ミンベトナムの革命家・政治家で、植民地時代からベトナム戦争までのベトナム革命を指導した建国の父である。

 1万ドン、2万ドン、5万ドン、10万ドンが置かれていて、「1万ドンって日本円だといくら?」と友人に聞いたら「60円くらいだからチロルチョコは3つしか買えないよ」と答えられた。つまり1番上の10万ドンでも、野口英世に満たない、ということか…。

 

 インド、パキスタン、イランのお札が並ぶ。とりあえず全部同じ人物が描かれているのはわかる。

 インドはマハトマ・ガンディーが描かれている。マハトマ・ガンディーはインドの宗教家・政治指導者でインド独立の父として知られる。

 余談だが、ガンディーの誕生日は10月2日、私の誕生日も10月2日。ガンディーの誕生日はインドでは国民の休日になっているので、もしインドに生まれていたら私の誕生日が国民の休日だった…!と考えたことはある。

 パキスタンのお札はムハンマド・アリー・ジンナーが描かれている。ムハンマド・アリー・ジンナーは独立パキスタンの初代総督として知られる。

 イランのお札はルーホッラー・ホメイニーが描かれている。ルーホッラー・ホメイニーはイラン革命の指導者で、以後はイラン・イスラム共和国の最高指導者となった人物だ。

 

 ドイツとフランスは日本同様、額によって描かれている人は違う。

 ドイツの50マルク紙幣はヨハン・バルタザール・ノイマン(建築家)、100マルク紙幣はクラーラ・ヨゼフィーネ・シューマン(ピアニスト・作曲家)、500マルク紙幣はアンナ・マリア・ジビーラ・メーリアン(画家)、1000マルク紙幣はグリム兄弟(文学者、グリム童話集の編集者)。

 フランスの50フラン紙幣はアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(小説家・飛行家、「星の王子さま」の著者)、100フラン紙幣はポール・セザンヌ(画家)、200フラン紙幣はギュスターヴ・エッフェル(建築家、エッフェル塔の設計者)、500フラン紙幣はキュリー夫妻(物理学者、ラジウムを発見した)。

 現在ではどちらもユーロに置き換えられてしまったが、調べてみるとグリム兄弟、サン=テグジュペリ、キュリー夫妻など知っている人の名前もあって面白い。

 

 ロシアとベラルーシは都市や建物が描かれているのが面白い。

 ロシアは都市が描かれていて、50ルーブル紙幣はサンクトペテルブルク、100ルーブル紙幣はモスクワ、500ルーブル紙幣はアルハンゲリスク、1000ルーブル紙幣はヤロスラヴリとなっている。

 ベラルーシは建物が描かれている。50ルーブル紙幣はブレストの英雄要塞、1000ルーブル紙幣は国立美術館、5000ルーブル紙幣は体育宮殿、10000ルーブル紙幣はヴィチェプスクという都市の全景が描かれている。

 ウクライナの紙幣も偉人で、5フリヴニャ紙幣はボフダン・フメリニツキー(貴族、ウクライナ・コサックの指導者)、10フリヴニャ紙幣はイヴァン・マゼーパ(政治家)、20フリヴニャ紙幣はイヴァン・フランコ(作家)、50フリヴニャ紙幣はミハイロ・フルシェフスキー(歴史学者、政治家)である。

 

 東カリブ通貨同盟の紙幣は全てエリザベス女王が描かれている。

 ちなみにこのお札はアンティグア・バーブーダセントルシアドミニカ国グレナダ、セントクリストファー・ネービス、セントビンセント・グレナディーン諸島、アンギラ、モンセラットの8か国・地域で使えるようだ。

 

 マダガスカルの紙幣は面白い。

 500マダガスカルアリアリ紙幣にはかごを織る男性、1000マダガスカルアリアリ紙幣にはクロシロエリマキキツネザル、2000マダガスカルアリアリ紙幣にはバオバブの樹、5000マダガスカルアリアリ紙幣には船が描かれている。

 中央アフリカCFAフランガボン、チャド、赤道ギニア中央アフリカコンゴカメルーンの6か国で流通している。

 500中央アフリカCFAフラン札は学校教育、1000中央アフリカCFAフラン札は林業、2000中央アフリカCFAフラン札は水力発電、10000中央アフリカCFAフラン札は中部アフリカ諸国銀行が描かれている。なお、描かれている人物は特定の人物ではないらしい。

 

 南アフリカのお札には動物が描かれている。

 10ランド紙幣はサイ、20ランド紙幣にはアフリカゾウ、100ランド紙幣にはアフリカスイギュウ、200ランド紙幣にはアフリカヒョウが描かれている。

 エジプトのお札も面白い。10ポンド紙幣にはカフラー王の彫像、20ポンド紙幣にはセソストリス神殿、50ポンド紙幣にはエドフ神殿、100ポンド紙幣にはスフィンクスが描かれている。

 

 西アフリカCFAフランのお札はどれも同じで、教育と医療が描かれている。

 ナイジェリアは50ナイラ紙幣にはイボ・ヨルバ人の人々が描かれているが、100ナイラ紙幣にはオバフェミ・アウォロウ(政治家)、200ナイラ紙幣にはアフマドゥ・ベロ(政治家)、500ナイラ紙幣にはンナムディ・アジキウェ(政治家)が描かれている。

 

 世界のお金を見終わると、岡崎信用金庫についての説明があった。

 岡崎信用金庫大正13年(1924年)に有限責任岡崎信用組合として設立し、昭和26年(1951年)に岡崎信用金庫となった。

 現在は愛知県東部を中心に多くの支店を持ち、岡崎市には本店を含め34店舗ある。

 

8.菅生神社

 岡崎信用金庫資料館をあとにして、緑道のある道を右折して直進すると籠田公園がある。

籠田公園

 籠田公園は昭和33年(1958年)に開園した公園である。

 右手に鳩の像があるが、これは戦災復興之碑である。

戦災復興之碑

 戦災復興之碑は岡崎空襲の慰霊碑である。

 岡崎空襲とは、昭和20年(1945年)7月19日から20日にかけて行われた空襲で、280名の死者を出した。そっと手を合わせる。

 

 籠田公園の北西端に大きな秋葉山常夜燈がある。

秋葉山常夜燈

 この秋葉山常夜燈は寛政10年(1798年)に石工の七左衛門によって籠田総門付近に建立されたものである。

 岡崎空襲にも被災することなく残り、昭和25年(1950年)に籠田公園に設置、昭和56年(1981年)に現在地に移転した。

 

 籠田公園北西交差点から西に向かう。岡崎シビコ北の交差点で東海道は右折するが、菅生神社に寄り道するために直進する。

 岡崎藩校允文(いんぶん)・允武(いんぶ)館跡を見つけた。

岡崎藩校允文・允武館跡

 岡崎藩主本多忠直は江戸にあった藩校を明治2年(1869年)にここに移した。その後明治4年(1871年)に市学校を設立して一般市民を教育することになり、藩校は廃止された。明治5年(1872年)に市学校は県立額田郡小学校と改められた。ここは岡崎の学校のはじまりの地なのである。

 

 突き当たりを左折して、国道1号線を越えて南に進むと菅生神社がある。

菅生神社

 第12代景行天皇の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征したとき(110年)、矢を作り、矢を吹き流し、その矢が刺さった場所に伊勢大神を奉祀したのが菅生神社である。菅生神社は岡崎最古の神社とされている。

 徳川家康も25歳のときに厄除け・開運の祈願を行っているなど、歴代岡崎城主も崇敬していたようだ。

 

 菅生神社で御朱印をいただいた。

 

 岡崎藩校允文・允武館跡に戻り、岡崎シビコ北の交差点で北に進む。

 

 次の交差点で左折する。

 

 材木町交差点で右折する。

 

 ファミリーマート岡崎材木町店のある交差点を左折。

 

 柿田橋の手前で左折。

 

 川沿いに白山神社がある。

白山神社

 白山神社は大林寺境内にあったものを天文16年(1547年)6月11日に岡崎城主の松平康忠(徳川家康の父親)が兜のなかに納めていた守護神を鎮座して、ここに社殿を建立したのが起源であったといわれている。

 なお、ここにも秋葉灯籠があった。

 

 川沿いを歩き、次の三清橋で右折。

 

 沖縄でもないのに、なぜか石敢當を発見した。

 石敢當とは丁字路の突き当たり等に設けられる魔除けの石碑で、主に沖縄県に多く分布する。

 

 三清橋を渡ったら、細い道で路地に入る。

 

 すぐに左折。

 

 国道1号に突き当たるので、歩道橋を渡り対岸に行く。次の交差点で右折する(写真撮り忘れ)。

 そのまま直進し、鬼頭理容院のある交差点で右折する。

 

 中岡崎町交差点で「た」の案内板を見る。東海道はここから西に向かっていくが、今日の東海道ウォークはここまでとする。

 

 岡崎公園前駅に到着した。

岡崎公園前駅

 ここから、もう少しだけ歩き続ける。

 

9.岡崎城

 岡崎公園前駅から岡崎城に向かう。岡崎城に入る前に、龍城神社に参拝する。

龍城神社

 龍城神社は明治9年(1876年)、岡崎城内にあった東照宮と映世神社が合祀されてここに建てられたものである。

 東照宮の創建は明らかでなく、当初本丸にあったが、明和7年(1770年)に三の丸に移された。このとき忠勝をまつる映世神社が本丸にたてられている。なお、現在の社殿は昭和39年(1964年)に再建されたものである。

 

 龍城神社でも御朱印をいただいた。

 

 さあ、岡崎城に入ろう。

 

 岡崎城は、明大寺に屋敷を構えていた三河守護代 西郷頼嗣(さいごうよりつぐ)が、康正元年(1455年)、北方への備えから乙川の北側に砦を築いたことが始まりと考えられている。

 その後、安祥城(あんしょうじょう)を居城としていた徳川家康の祖父・松平清康が、当時岡崎に勢力をもっていた大草松平氏の松平信貞(まつだいらのぶさだ)を屈服させて移り、享禄3年(1530年)頃に本格的な築城を行ったとされる。

 徳川家康岡崎城で生まれたため、岡崎城には家康産湯の井戸がある。天文11年(1542年)12月26日、幼名竹千代、のちの徳川家康がここで産声をあげたときに産湯の水を汲んだ井戸である。

 松平清康の死後、家康の父・松平広忠は、東の今川氏と西の織田氏にはさまれて苦闘し、家康も8歳で今川氏の人質となるほか、広忠は家臣の岩松八弥に城内で殺され、岡崎城は今川方の城となった。

 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い後に自立した家康は岡崎城にはいり、10年後に浜松城に移るまでこの城を根拠地としてほぼ三河一石を平定した。

 家康が浜松に移ってからの岡崎城は、家康の長男・松平信康石川数正、本多重次の各城代時代を経て、家康の関東移封後には豊臣秀吉の家臣・田中吉政が入城し、大規模な城郭の整備拡張が行われた。

 元和3年(1617年)に本多康紀が3層3階地下1階の天守閣を完成させたが、明治6年(1873年)から翌年にかけて取り壊された。

 現在のものは、昭和34年(1959年)に復元されたもので、歴史資料館になっており、1階が受付、2階から4階で歴史資料などを展示し、最上階は展望台となっている。

 

 受付を済ませ、2階へ上がると岡崎城の歴史の概要と、ジオラマが展示されていた。

 

 本多忠直所用の登城用具足が展示されていた。

 本多忠直は岡崎藩の第6代の藩主で、幕末期に藩政を行っていた。

 

 江戸時代の胞衣皿が展示されていたが、家康のものではないだろう。多分。

 

 岡崎城下町には戦国時代末に田中吉政が新設した材木町に、美濃国関鍛冶の刀工が移り住み、「兼有」名で代々作刀していた。

 上は龍城臣吉達が作刀した脇指、下は藤原兼有が作刀した脇差である。

 脇差とは日本刀よりも短い日本刀のことである。

 

 太刀 銘三河國龍城。龍が彫ってあって細かい。

 

 3階は岡崎の城下町についての説明とジオラマが展示されていた。城下町についての説明は岡崎宿二十七曲がりや矢作橋、御馳走屋敷など。矢作橋以外は先ほど説明したし、矢作橋についても次回取り上げる予定なので割愛する。

 

 最上階は展望台で、岡崎のまちを一望することができる。

 

 最後に売店で御城印と城カードをゲット。

 

 岡崎城をあとにし、岡崎公園前駅から名鉄に乗って豊橋へ向かう。前回(「東海道を歩く 31.御油駅~藤川駅」)友人と時間の関係で食べそこねた、スパゲッ亭チャオのあんかけスパを食べるためだ。

 野菜をたっぷり使ったチャオソースと絡めて食べるあんかけスパは、美味しかった。

 デザートにカタラーナもいただいた。

 

 名鉄に乗って、岡崎公園前駅の宿に戻る。

 次回は、岡崎公園前駅から知立駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

※今回の地図について

今回は岡崎市街地の東海道のクランクが多く、寄り道もしているため以下の線で区別しています。

赤線…東海道

黒線…東海道以外の寄り道ルート

 

歩いた日:2024年2月10日

この翌日の岡崎市街地まちあるき記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第10集」

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

丸石醸造 会社概要

https://014.co.jp/company/

真宗大谷派三河別院 三河別院の紹介

https://mikawabetsuin.blogspot.com/2013/03/blog-post.html

岡崎おでかけナビ 徳王稲荷社金刀比羅社

http://okazaki-kanko.jp/point/497

文鉄・お札とコインの資料館 海外通貨

https://www.buntetsu.net/mbc/fcc.html

菅生神社 御由緒

http://sugojinja.jp/whatisSugo.html

(2024年3月23日最終閲覧)