
前回、淀駅から御殿山駅まで歩いた。今回は御殿山駅から守口駅まで歩こうと思う。実は、守口宿はブラタモリで「東海道五十七次」を取り上げたときもサラっと流されるくらいには何もないところなのだが、枚方宿はいろいろあって面白かったので、その紹介をしたいと思う。
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1.御殿山神社
今日は御殿山駅から出発だ。今日は神戸に住んでいる友人が同行するため、合流してから出発する。

御殿山駅
東海道から少しはずれ、御殿山神社へと向かう。

御殿山神社 鳥居

御殿山神社
御殿山神社は、渚院跡の観音寺境内に隣接して設けられた粟倉神社の御旅所を起源とする。
のち、江戸期文政年間に西粟倉神社と称したが、明治元年(1868年)の神仏分離令によって御殿山に社殿を造営し、明治3年(1871年)9月ここに遷宮し御殿山神社と改称した。
遷宮の様子を描いた絵馬が御殿山神社の拝殿に掛けられている。平成14年(2002年)、この「御殿山神社遷宮絵馬」が枚方市の民俗文化財に指定された。
祭神は八幡大神で、末社として稲荷神社、貴船神社が祀られている。
なお、御殿山の地名は江戸時代初期に永井尚庸(ながいなおつね)が二万石の領地を父・尚政から分与され領地支配の拠点として陣屋を設けたためとされ、幕末期にはすでに「御殿山」と呼ばれていたようだ。
御殿山神社で御朱印をもらう。古紙で書かれたものなのか、少し紙が黄色く感じる。

御殿「山」なので御殿山神社は高台にある。この日は快晴だったので、遠くまでよく見えた。

御殿山神社付近に三角点がある。三等三角点で「御殿山」という。

三等三角点「御殿山」
御殿山神社をあとにして、東海道を歩き始める。足下に「おおさかふ げすいどう」と書かれたミャクミャク様のマンホールを見つけた。

しばらく大阪府道13号線を歩き続けるが、磯島交差点で旧道に入る。

磯島交差点
「天の川」と書かれた電柱。天野川流域の枚方市周辺はかつて「交野ヶ原」と呼ばれ、平安貴族の狩り場として知られていた。
当時の貴族は天野川の川砂が白く光って見えることから、天上の天の川になぞらえ、「七夕」を題材にした数多くの歌が詠まれたそうだ。

「天の川26」「アマノガワ11」
2.枚方宿に入る
御殿山駅から枚方市駅まで歩く途中に見つけたアトムの飛び出し坊や。飛び出し坊やは滋賀県でよく見かけるが、ここは大阪府だよな?

アトムの飛び出し坊や
「ヘルパーステーション スイート天之川」。天野川沿いにある老人福祉サービスなのだろうが、「天之川」の地名のキラキラ感が相まってやたらキラキラした感じに聞こえるのは気のせいだろうか。

ヘルパーステーション スイート天之川
かささぎ橋を渡る。かささぎ、漢字で書くと「鵲」。これは読めない。

鵲橋
天野川、かささぎ橋を渡れば彦星様に会える…ということはないか。

天野川
「枚方宿東見付跡」。これがあるということは、ついに枚方宿に入ったということになる。

枚方宿東見付跡
もともと枚方は、蓮如の5男・実如が住持となった順興寺を中心とした一向宗の寺内町であったが、石山合戦などによって焼き払われ一時衰退を余儀なくされた。
その後豊臣秀吉によって文禄堤が築造され京と大坂を結ぶ京街道が整備されると、宿場町として再び繁栄を取り戻していった。
枚方宿は岡新町・岡・三矢・泥町の4カ村からなり、東見附から西見附(鍵屋資料館付近)まで、東西約1.5kmにわたっていた。
少し歩くと「東海道(京街道)枚方宿案内図」が掲示されていた。枚方宿の目玉は淀川資料館と鍵屋資料館。これらにはどちらも行く予定だ。

東海道(京街道)枚方宿案内図
御殿山駅を出発して1時間ほどで枚方市駅に到着した。

枚方市駅
私も友人も朝食を食べていなかったので、枚方市駅前のやよい軒で朝食をとった。やよい軒は住んでる場所の近くにもあるが、ここの朝食は初めて食べた。

やよい軒で朝食を食べ、再び東海道を歩く。「枚方橋」と書かれた親柱だけが残る。ここには安居川が流れていたが暗渠化し、親柱だけがある。

枚方橋親柱
少し歩くと「右 大坂ミち」と書かれた道標を見つけた。この道標はよく見ると別の側面にこのように書かれている。「左 京やまと道 右 くらじたき道」「文政九丙戌年十一月建立(文政9年は1826年)」「願主(よく読めなかったが建立者の名前がびっしり書かれている)」
文政9年(1826年)ということは江戸時代に建てられた道標である。江戸時代の道標は時折残っているが何と書いてあるのかよくわからないものも多く、ここまで「右 大坂ミち」とはっきり読み取れるものも珍しい。


3.淀川資料館
「右 大坂ミち」と書かれている通りにここで右折し、先に進む。

「枚方宿」と書かれた大きい看板が見え、ここが東海道であることを実感する。


「あくまで宿場町風」というのはわかるが、伏見や淀にはこのような宿場町っぽい景観がなかったので、こういう景観を久しぶりに見た。


妙見宮常夜灯石灯籠。この灯籠は嘉永7年(1854年)に作られたようだが、嘉永7年は開国の年であり京都・大坂間の往来が増え、社会不安が高まるなか奉納した開運講の人たちが天下泰平と枚方宿内の安全を、能勢妙見宮に祈願したものと思われる。
なお、能勢妙見宮は令和5年(2023年)、妙見の森ケーブルおよび妙見の森リフトが廃止になる前に訪れている。

妙見宮常夜灯石灯籠

能勢妙見宮

妙見の森ケーブル

妙見の森リフト
能勢妙見宮の思い出にひたりながら歩いていたら淀川資料館に到着した。

淀川資料館
淀川資料館には淀川の治水・水運に関する資料が展示されている。
「淀川の歴史」のコーナー。粗朶沈床(そだちんしょう)。粗朶とはクリ・ナラ・カシ・クヌギ等の木の枝のことで、粗朶沈床とは木の枝を束ねて、格子状に組んでつくったマットレスのような工作物のこと。

粗朶沈床
淀川改修下流部比較法線入平面図。下流部の放水路建設には4つの案が示され、採用されたのは第2案に近いルートだったらしい。経年変化か、第1~4案までそれぞれ赤、緑、黄、青で示されているらしいが読み取りづらい。

淀川改修下流部比較法線入平面図
明治大正年間洪水破堤個所圖。明治元年(1868年)、明治18年(1885年)、明治22年(1889年)、大正6年(1917年)にそれぞれ起こった洪水の決壊箇所がマークされている。枚方周辺でも明治18年等で決壊が起こっていることがわかる。

明治大正年間洪水破堤個所圖
くらわんか舟の模型。くらわんか舟は三十石船の船客に食べ物や飲み物を売っていた茶舟で、「くらわんか」とは方言で「食べませんか」という意味。
くらわんか舟は三十石船に「飯くらわんか、酒くらわんか」と暴言ともとれるような営業をし、それで食べ物や飲み物を売っていたためこの名がついた。

くらわんか舟の模型
大阪のデジタル標高地形図。大阪城北東側にポコっと高くなっている場所があり、これは何だろうと思って調べてみたら鶴見緑地、平成2年(1990年)に大阪花博が開催された場所だった。

大阪のデジタル標高地形図
ここからは「淀川の生物」のコーナーに入る。
淀川沿いに棲むチョウの標本。モンキアゲハ、ジャコウアゲハなど、こんなにいろいろなチョウがいるのかと思う。

チョウの標本
ビワコオオナマズの標本。ビワコオオナマズは琵琶湖と琵琶湖から流れ出す川にだけすむ魚で、ふつうのナマズよりも大型で120cm以上に成長する。このビワコオオナマズは枚方市の淀川に取り残されていた個体で、つかまってから標本にされてしまったらしい…。

ビワコオオナマズの標本
このパイプから顔を出すかわいいやつはニホンウナギ。このかわいいやつを、私は今まで何匹食べたのだろうか…。

ニホンウナギ
魚が何匹か泳いでいるが、中央のほうにいる大きい魚はおそらくフナ、ということ以外わからなかった。そういえば滋賀県ではフナを寿司にして食べる伝統があるらしいが、美味しいのだろうか。

4.枚方宿本陣跡
淀川資料館をあとにし、淀川の河川敷に出ると大山崎の煉瓦造樋管を見つけた。
これは京都府大山崎町の桂川右岸から出土した煉瓦造悪水樋の一部である。樋管は、町内の悪水を淀川に流すことを主な目的として、明治33年(1900年)に国の補助金を得て設けられたものの、わずか30年足らずの昭和2年(1927年)に新堤防工事が始まり、土中に埋もれたものである。
それから約70年後の平成12年(2000年)11月、淀川河川事務所の流水保全水路工事が行われ、そのときにこの樋管が発掘された。

大山崎の煉瓦造樋管
そういえば、淀川資料館でいろいろなものをいただいた。「古代から現代までの淀川の歴史」「淀川資料館パンフレット」「淀くんの淀川石碑物語」。

古代から現代までの淀川の歴史

淀川資料館

淀くんの淀川石碑物語
東海道に戻ると、枚方宿本陣跡がある。
枚方宿本陣は天明5年(1785年)に枚方宿が幕府の役人に提出した書類によると、間口約20間、奥行約24間の敷地に建坪約215坪の立派な建物が建っていた。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見での敗北によって江戸幕府の影響力は衰える。すかさず3月に、明治新政府は天皇親政をアピールするため、明治天皇の大坂行幸を企てる。
そのとき枚方宿本陣は天皇の休息所にあてられた。戦前に建てられたそのときの記念碑が今も残っている。
明治3年(1870年)、枚方宿本陣は廃止。明治21年(1888年)、茨田・交野・讃良郡役所がここに移ってきたが、現在は公園となっている。

枚方宿本陣跡
5.塩熊商店
「塩熊商店」という雑貨屋さん。こちらで枚方宿の御宿場印をいただけるということで立ち寄ったが、店内が素敵だったので撮影させていただいた。
現在「くらわんか舟」は営業していないのでくらわんか茶碗はもう不要なはずだが、今でも茶碗が販売されている。

くらわんか茶碗
マーブル編みソックス。カラフルな靴下が並んでいるのが可愛くて、少し欲しくなってしまった。

マーブル編みソックス
今治生まれのハンカチ。ハンカチは何個あっても良いと思うので買ってもよかったのかもしれないが、結局買わず。

今治生まれのハンカチ
店をあとにし、購入した御宿場印を見る。カラフルな菊や花があしらわれたデザインで、とてもかわいい。

最後に、塩熊商店さんの外観がこちら。

枚方は城下町ではないが、クランクがある。これは枚方宿が攻撃を受けたときに敵の直進を阻むための枡形の名残りである。

6.鍵屋資料館
東海道をひたすら歩き続けると、次の目的地「鍵屋資料館」に到着した。

鍵屋資料館
鍵屋資料館は枚方宿の船宿「鍵屋」を解体修理後、資料館として公開したもの。鍵屋の創業は定かではないが、現在の建物は建材に「文化8年(1811年)」の墨書銘があることから、その時期の建築とみられている。
大正時代以降は料理旅館として何度かの改築が行われたが、往時の船宿の様子をよく残し、館内には宿場にかかわる記録類やくらわんか茶碗など、貴重な資料が展示されている。
受付でお金を払い、なかに上がる。
枚方市附近鳥観圖。作者名を見る前にだいたい誰が描いたのか想像はついたが、想像通り吉田初三郎が描いたものだった。吉田初三郎が描いた鳥観図は生涯で1,600点とも3,000点ともいわれ、明治から昭和前半にかけて描かれた鳥観図を見たら、だいたい彼のものと思ってよい。自称か他称かは不明だが、「大正の歌川広重」と呼ばれていたとか。

枚方市附近鳥観圖
貝細工の「かぎや浦」。歌川広重の浮世絵「京都名所之内淀川」の構図をもとに、江戸時代に淀川を往来していた旅客船「三十石船」と船上で商いをする「くらわんか舟」、淀川三十石船歌の一節が貝細工で表現されている。

貝細工「かぎや浦」

「京都名所之内淀川」
鍵屋からはさまざまな出土品が見つかっている。ここにある茶色い土鍋には胞衣(えな)が入っていたらしい。胞衣とは出産時に体外に排出された胎盤等のことで、その昔は胞衣を納めた容器を住居の下に埋める風習があり、それに使われたのではないかと考えられている。

胞衣容器
「くらわんか舟」で使用された「くらわんか茶碗」もたくさん発掘されている。くらわんか茶碗の産地も佐賀県伊万里や愛知県瀬戸など、いろいろなところで作られた陶器がくらわんか茶碗として使用されていた。

くらわんか茶碗
往時の天野川橋(現在のかささぎ橋)の風景。東見付に羽織袴姿の男性が見えるが、この人は枚方宿の問屋で、大名行列の見送りに来ている。

天野川橋周辺
紀州藩の武士に出した夕食で、文政13年(1830年)3月5日のもの。
平椀はたけのこ・わらび・くわい・鶏卵・ふき。猪口はほうれんそう。焼き物はブリのあんかけ。はまぐりの汁物とごはん。
武士の男性にこれで足りるのかと思わせるレベルの質素さである。先日、私は家族旅行で温泉旅館に泊まったが、それのほうが何倍も料理量が多かった。

武士の夕食
京都名所之内淀川。幕府の要人だった歌川広重は京から大坂までの旅で三十石船に乗り、その記憶を頼りに描いたのか、多くの客を乗せた船が淀川を行く様子が描かれている。

京都名所之内淀川
くらわんか舟が鍵屋の下に停泊している様子が再現されていた。

階段を上っていくと、突如として洋風な空間が現れた。


大広間
突然の洋風空間の出現に困惑していると、説明板があった。
説明板によるとここは鍵屋旅館の別棟で、別棟は昭和3年(1928年)に建てられた。
折り上げ格天井や北山杉の床柱、床の左右にある違い棚は63畳の広さに合わせた豪奢な造りとなっている。
照明は平成9年(1997年)の廃業直前につけられたものとはいえ、洋風でレトロモダンな雰囲気の大広間に調和している。
現在は府道京都守口線に遮られているが、往時はここから淀川を一望できたため素晴らしい景観だっただろう。

大広間には三十石船(大きい船)とくらわんか舟(小さい舟)のミニチュアが置いてある。このミニチュアは鍵屋資料館オープンにあたり、枚方市の坂本氏から寄贈されたもの。

三十石船とくらわんか舟のミニチュア
大広間の隣にも部屋があった。この部屋は「笹の間」といい、料亭旅館の雰囲気を残す客間となっている。
黒漆の上に朱漆を重ねる伝統的な技法・根来塗の座卓も、料亭時代から使われているもの。
予約すればここで鍵屋弁当(2,500円)やくらわんか鮨(1,700円)が食べられるそうだが、予約してないし、そもそも3人以上で来ないと食べられないそうだ。今日は誰も使用していないようだったので、笹の間も見せていただく。

笹の間
こちらにも小さな三十石船の模型が置いてあった。こちらは宝暦9年(1759年)の図面から再現したらしい。

三十石船
「曳舟之図」。これを描いたのは長沢芦雪という江戸時代中期の日本画家で、かわいい犬の絵を多く描いていることで有名。
柳を背景に、前かがみで綱を引っ張る男性の姿が描かれている。この絵が淀川沿いの風景をイメージして描かれたのかは不明だが、三十石船を川の流れに逆らって上らせるときは、このように綱を引いて船を曳き上げる必要があった。
がたいの良い男性でも船の曳き上げは重労働だったと思われるが、この男性たちはどこか笑みを浮かべながら仕事をしているようにも見える。

曳舟之図
鍵屋の別棟をあとにし、主屋に入る。

大きな箪笥に箱階段。ここはフロントだろうか。

かまど。ここで宿泊者のごはんが作られていたのだろうか。

7.明治十八季淀川洪水碑
鍵屋資料館をあとにし、そのまま西に向かうと西見附がある。ここが枚方宿の西の終点ということになる。

西見附
地理院地図を見ると、近くに自然災害伝承碑があるようなので、行ってみた。この碑の名前は「明治十八季淀川洪水碑」。
明治18年(1885年)、6月15日朝から17日夜まで降り続いた豪雨によって18日午前3時、三矢村・伊加賀村の淀川堤防が決壊した。
その切れ口は約180mで、濁流はたちまち茨田郡(まったぐん)一円を水没させ、讃良(きさら)・交野・東成郡の一部から大阪市中にまで濁流が流れていった。
7月にも再び豪雨にみまわれ切り口から水が流入、大阪府内で755村、70,000戸あまりが浸水するという未曽有の被害をもたらした。
決壊箇所は水深が約5.5mもあり水勢も激しいことから、旧堤防から後退して弓形に仮堤防が築造された。
土砂は御殿山から採取され、大勢の人夫を動員して全長約400mに及ぶ大規模な工事が行われた。
この洪水碑は明治19年(1886年)に建立されたもので、洪水と復旧の経過が記され淀川治水の重要性を今に伝えていることから、平成26年(2014年)に枚方市登録文化財に登録された。

明治十八季淀川洪水碑
明治十八季淀川洪水碑の隣にあるのは「郵便屋の渡し跡」。
明治10年(1877年)淀川の対岸に鉄道が開通したため、淀川左岸一帯の郵便物を逓送夫が取りまとめた後で「郵便屋の渡し」で淀川を渡り、国鉄の高槻駅まで運んでいたようだ。

郵便屋の渡し跡
8.光善寺
枚方宿を出て、守口宿まで歩く。「大阪府住宅供給公社 枚方三矢団地配置図」と書かれた背後を見るが…何もない。調べたが何の情報も出てこなかった。


光善寺。ここはもともと出口御坊と呼ばれており、出口は文明7年(1475年)本願寺第8世蓮如上人が建立した御坊を中心に発達した寺内町である。
蓮如上人の死後、光善寺は戦国乱世のなかで退転を余儀なくされ、旧地に復したのは慶長年間(1596~1615年)だった。
伽藍の近世建築には17世紀の山門および脇門、江戸中期の数寄屋風書院があり天明2年(1782年)の御堂、天明7年(1787年)の太鼓楼等がある。

光善寺
蹉跎神社(さだじんじゃ)の御旅所を見つけた。ここは蹉跎神社の神輿が例大祭に渡る御旅所と呼ばれる場所で、蹉跎神社の遥拝所となっている。


「遥拝所」
蹉跎神社とは枚方市にある神社で、菅原道真が大宰府に配流となった後父を慕ってこの地まできた娘の苅屋姫が、悲しみのあまり西に向かって蹉跎(あしずり)をしたことから蹉跎山の名がつき、そこに道真の木像をまつったのが始まりと伝えられている。
9.淀川河川敷を歩く
ここから長い長い淀川河川敷の道が続く。その距離、なんと6km以上。こんなに長く何もない道を友人に歩かせるのは申し訳ない気持ちになりつつも、1時間以上かかる河川敷の道、一人で考え事をしながら歩くのも飽きるので話し相手がいてよかった、という気持ちにもなる。

近寄れなかったが、赤井堤記念碑という災害伝承碑を見つけた。
先ほど、明治十八季淀川洪水碑で明治18年(1885年)の洪水について紹介したがこれもその洪水関連の碑で、ここで堤防が決壊したためここに建立されたようだ。

赤井堤記念碑
近畿自動車道守口JCTをくぐったあたりでそろそろ淀川河川敷から離れられる、と思いつつ近くに階段が見当たらなかった。堤防をよじ登ることを友人は提案したが運動音痴な私がそれをやったら大怪我をする可能性がある、階段が出るまで待とう、と私は言った。しばらくすると階段が現れたので無事そこで河川敷から脱出できた。

守口JCTを下から見る
気づけば枚方市どころか寝屋川市もおわり、守口市に入っていた。こちらは守口市のマンホール。守口市の花「サツキ」と守口市章のデザイン。守口市章は「守口」の2文字を図案化したもの。

守口市マンホール
こちらは京阪守口市駅前から駅向かいの西友に繋がる橋「アポロン橋」にあるからくり時計をデザインしたマンホール。

守口市マンホール
正迎寺。この寺は西本願寺の末寺で、創建は観応元年(1350年)、那須又五郎為成が存覚上人に帰依して善正の法名を授かり仏閣を起こしたのが始まりと伝えられる。
「正迎寺那須氏系図」によると元和元年(1615年)に兵火に遭い焼失したが、8世受誓為光が堂宇を再建し、10世須誓為信の代の元禄15年(1702年)に寂如上人から正迎寺の寺号を許されたらしい。

正迎寺
京街道の道標みたいだが、「旧下島村」「旧北十番村」などが書かれている。昔の村だと思われるが、いつ消えた村なのか、調べてもわからなかった。

瓶橋(かめはし)の親柱だけが残っている。川の名前は不明だが、現在は暗渠になったらしい。

瓶橋親柱
10.守口宿
盛泉寺に入る。

盛泉寺
盛泉寺は東本願寺の末寺で、慶長11年(1606年)に教如上人が開基したと伝えられ、難宗寺の西御坊に対して東御坊と呼ばれている。
本堂は元和元年(1615年)の兵火により焼失し、さらに度重なる風水害を受けているため、天保6年(1835年)に再建されたものが現本堂である。
慶応3年(1867年)10月徳川幕府は大政奉還を行い、参与の大久保利通は人心を一新するために大阪遷都の急務を進言した。
副総裁の岩倉具視は公卿が異議を唱えることは必然と考え、表向きは大阪親征の行事として、実際は遷都の意思を持った行幸なので、三種の神器のひとつ「天照大神の八咫(やた)の鏡」を持った大阪行幸を行った。
慶応4年(1868年)3月22日に明治天皇が大阪に行幸したときに賢所(かしこどころ。八咫の鏡を安置する場所)が作られたのが盛泉寺の本堂前だった、という過去がある。
結局その年の4月11日に江戸の無血開城が実現したため大阪遷都論は幻に終わり、江戸遷都が確定した。
大阪遷都論に利用されたのが盛泉寺である、ということは盛泉寺の説明板に書いてあったが、境内にも「都が何故東京に成ったのか遺跡は、語る」という張り紙があり、その最後に「本来都の制定には天皇の裁可がいるが、その裁可がくだされていないため、京都の人々はいつか東京から天皇が帰ってくると思っている」と書かれている。
京都人が東京に対して「天皇返せ!」と思っているらしい話は聞いたことがあるが、明治天皇が皇居に住み始めたのは明治2年(1869年)、その後大正、昭和、平成、令和と変わってもう150年以上が経っている。流石にもうあきらめても良いのでは…?と京都にゆかりのない人間としては思う。

都が何故東京に成ったのか遺跡は、語る
「蓮の花 誰の仕業か 泥の中」…これは蓮の花が盗難に遭ったという認識でよいのだろうか?

蓮の花 誰の仕業か 泥の中
「守口宿」の説明板があった。守口宿は元和2年(1616年)、大坂に最も近い、東海道57番目の宿場として問屋場と本陣が置かれ、一般旅行客が泊まる旅籠も備えた。

守口宿説明板
難宗寺(なんしゅうじ)の山門があるので入ってみよう。


難宗寺 本堂
文明7年(1475年)吉崎を退出し、枚方市出口に光善寺を創立した蓮如上人が文明9年(1477年)に守口坊として建立したのが始まりといわれ、慶長16年(1611年)には本願寺掛所となり、西御坊と呼ばれるようになった。
元和元年(1615年)兵火によって焼失し、寛永13年(1679年)再建されたがその後、度重なる風水害などで朽廃したため、文化4年(1807年)に再建されたものが現在の本堂である。
難宗寺にはイチョウの木がある。樹齢400年と想定できる巨木で、大阪府の天然記念物に指定されている。

難宗寺のイチョウ
守口宿本陣跡。現在は駐輪場になっている。

守口宿本陣跡
大塩平八郎ゆかりの書院跡。
天保年間のはじめ全国的に飢饉が続き大坂市中でも犠牲者が続出したが、大坂町奉行所の役人はなにも対策を立てず、商人はこれを機会に利益を得ようとした。
そこで東町奉行所与力で陽明学者の大塩平八郎は、幕府や商人に天誅を加えて窮民を救うべく、密かに門下の与力・同心・近在の富農と謀り、ついに兵を挙げた。これが天保8年(1837年)の「大塩平八郎の乱」である。
守口の白井家当主の孝右衛門は大塩の私塾・洗心洞の有力門人として大塩に経済的な支援を行い、門弟の中心的人物だった。それもあり白井家の建物の一部を使い、大塩は守口の農民に講義を行っていたらしい。
現在は、マクドナルドがそこにあるだけだ。


大塩平八郎ゆかりのマクドナルド(?)
この後も東海道は続くが、守口駅に到着したので今日はここで切り上げる。

守口駅
次回は、守口駅から終点・高麗橋まで歩く予定である。
【おまけ】
神戸に住む友人はこれから転職し、関東に拠点を移すつもりらしい。そう考えると、友人の関西のおすすめの店に訪れることができるのはこれで最後。友人が選んだのは大阪市鶴橋の「焼肉ホルモン 空」だった。

焼肉ホルモン 空
15km以上歩いた後で1時間立って並んだのはなかなか堪えたが、これだけ待たされれば期待も増してくる。まず注文したのはホルモン5種盛りセット。

ホルモン5種盛りセット
プップギ(肺)、ハチノス(胃)、ホソ(小腸)、焼センマイ(胃)、心臓をそれぞれ焼いていくのだが、そうこうしてるうちにビールが来た。

やはり歩いた後のビールは美味しい。
次にやってきたのはキムチ盛り合わせ。ホルモンはどうしても口の中が脂っこくなるため、清涼剤としてのキムチは必要だ。

ユッケジャンスープも頼んだが、少し量が多めだった。

少し火力が強かったのか、火がどんどん立ち上っていく。慌てて友人が氷を頼むが対処できず、最終的に店員さんが水をぶっかけて消火された。

友人が「関西で君と夕食食べるのもこれで最後だろうし」と言い、上カルビを注文した。すでに双方お腹がいっぱいになりつつあったが、これは何とか食べきった。

人気店なので、90分で店を追い出された。もう2人ともお腹いっぱいだったので、鶴橋駅から電車に乗り、それぞれの宿と家に帰ることにした。

鶴橋駅
帰りの電車のなかで見た広告「敵地応援旅」。何が何に対して「敵地」と思っているのか、ここが大阪であることとカラーリングから想像できてしまうのが面白い。

「敵地応援旅」
また明日も頑張って、高麗橋まで歩き切ろう。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④
歩いた日:2026年2月22日
次回記事はこちら↓
octoberabbit.hatenablog.com
【参考文献・参考サイト】
大阪府の歴史散歩編集委員会(2007)「大阪府の歴史散歩 下 河内・堺・和泉」 山川出版社
風人社(2017) 「ホントに歩く東海道 第17集」
枚方市 七夕伝説ゆかりのまち・枚方市
https://www.city.hirakata.osaka.jp/0000024734.html
国土地理院 自然災害伝承碑
https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html
守口市 もりぐち ぶらり歩き マップ
https://www.city.moriguchi.osaka.jp/material/files/group/65/aruki01.pdf
(2026年5月4日最終閲覧)