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坂東三十三観音9・関東三十六不動12 浅草編

 前回、第9番札所・慈光寺、第10番札所・正法寺、第11番札所・安楽寺に参拝しながら埼玉県比企郡をドライブした。今回は坂東三十三観音第13番札所・浅草寺と関東三十六不動第22番札所・不動院に参拝しながら浅草をめぐろうと思う。

 浅草寺は都内にあり、浅草駅から徒歩5分ほどとアクセスは良い。ただいつ行っても混んでいることや、以前「江戸三十三観音をめぐる 1.浅草編」で浅草寺を特集してしまったことから、どうアプローチするかについてずっと考えていた。そんなときに、7/13の有給奨励日が発生したので、貴重な平日休みに浅草へ行ってみることにした。

 そこで、前回はなかった浅草のグルメ情報や、関東三十六不動の札所も取り上げてみることにした。3年前に執筆した「江戸三十三観音をめぐる 1.浅草編」との違いを比較するのも面白いかもしれない。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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「江戸三十三観音をめぐる 1.浅草編」はこちら↓

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1.浅草むぎとろ本店

 激レアな平日休みなので銀行で用事を済ませた後、浅草駅に降り立った。

浅草駅

 

 浅草駅A3出口の近所にある、「浅草むぎとろ本店」へ向かった。

 浅草むぎとろは昭和4年(1929年)に開店した懐石料理店である。通常のむぎとろ定食でも2,530円、懐石料理に至っては10,000円を超えるものもある。「天空とろろビュッフェ」は3,300円だが、今回私が狙ったのは「むぎとろバイキング」。

 むぎとろ定食が2,530円なのに、むぎとろバイキングはとろろと麦めし食べ放題で、なんと1,650円。ただ、このむぎとろバイキングは毎日やっているわけではなく、平日しかやっていない。

 平日限定のため、いつか行こうと思いつつ行くタイミングがなかったが、今回の浅草寺参拝のついでに行ってみることにした。

浅草むぎとろ本店

 

 12時前に訪れると店外まで行列ができていたが、15分後には席につくことができた。内容としては麦めしととろろ、味噌汁、沢庵と煮物と卵焼きが用意されていた。

浅草むぎとろ本店 むぎとろバイキング

 とろろは大和芋と、かつお節と昆布出汁を合わせて作られている。麦めしも米と麦の割合が良い。何が言いたいのかというと美味しい。

 「最低でも2杯は食べて元を取るぞ!」と意気込んでいたが、最近食が細くなってしまったこともあり、1杯でお腹いっぱいになってしまった。

 「1,650円でお腹いっぱいになったのだから、まあいいか」と呟き、店をあとにした。

 

2.駒形堂

 浅草むぎとろ本店の隣に、浅草寺の駒形堂がある。

 駒形堂は浅草寺の御本尊・聖観世音菩薩がおよそ1,400年前に隅田川から現れ、初めて祀られた場所に建つお堂である。

 昔、このあたりは船着場で、船で浅草寺参詣に訪れた人々はまずここに上陸して駒形堂にお参りしてから観音堂へ向かったようだ。

 現在も「Tokyo Water Way Cruise」の船着場が駒形堂の裏にあるが、この乗客が駒形堂にお参りしてから浅草寺に向かっているとは思えないのが少し残念である。

 この駒形堂の御本尊は馬頭観音で、現在の駒形堂は平成15年(2003年)に再建されたもの。

 浅草寺本堂前の喧騒と比べて駒形堂には驚くほど人がいないが、現在でも毎月19日に馬頭観音の縁日が行われているようだ。

浅草寺 駒形堂

 

 駒形堂には浅草観音戒殺碑(あさくさかんのんかいさつひ)がある。

 駒形堂は浅草寺の御本尊が発見された霊地なので、元禄5年(1692年)にここを魚鳥殺生禁断の地とする法度が出された。

 これを記念して元禄6年(1693年)浅草寺第4世・権僧正宣存が願主となり、戒殺碑が建てられた。

 駒形堂の焼失に伴い戒殺碑が倒壊したことがあり、宝暦9年(1759年)に戒殺碑が再建されたという記録が残っている。

 その後しばらくして戒殺碑は忘れ去られていたが、昭和2年(1927年)に戒殺碑が土中から発見され、昭和8年(1933年)の駒形堂再建と同時に修理して再度建てられることになった。

 なお、現在の浅草観音戒殺碑が元禄のものなのか、宝暦のものなのかはわかっていないようだ。

浅草観音戒殺碑


 駒形堂の隣にある駒形橋は古来「駒形の渡し」として渡船があったが、昭和2年(1927年)に駒形橋ができたと同時に渡船は廃止された。なお、駒形堂は赤いのに駒形橋が青で塗られている理由は不明。

奥にあるのが駒形橋

 

3.不動院

 駒形堂から10分ほどで不動院に到着する。

 不動院の開創は不詳であるが、慶長16年(1612年)には法印賢鏡が江戸八丁堀の地に寺院を賜り、多くの真言宗寺院とともに移転してきたとの記録がある。

 奈良時代の僧侶・良弁が彫った不動明王が御本尊である。親子別離の嘆き悲しみがなくなるようにとの願いを祈念しつつ彫ったものらしい。

 この良弁の不動尊は不動院に祀られる以前に肥前国平戸(現在の長崎県平戸市)の松浦家に守護仏として祀られており、島原の乱の平定に霊験を顕したらしい。

 元禄10年(1697年)に平戸藩主の松浦鎮信は、家老の息子が不動院の住職を務めている縁や、不動院が江戸にある松浦家上屋敷の鬼門(北東)に位置することから、不動院を松浦家の祈願所と定めた。

 このとき良弁の不動尊も不動院に安置され、以前の御本尊は御前立(御本尊の前に安置される仏像)となった。

 江戸期からある不動院だが現本堂は割と現代的な建築で、こちらの2階に御本尊が祀られている。

 御本尊に挨拶した後で御朱印をいただいた。

不動院

不動院 御朱印

不動院 御影と童子像

 

 不動院から徒歩5分ほどで東本願寺がある。

 天正19年(1591年)徳川家康から現在の千代田区神田淡路町内に土地を給され、京都東本願寺の始祖・教如上人が堂宇を建立し、「江戸御坊光瑞寺」と称した。

 慶長14年(1609年)神田明神下に移転し、本願寺末刹と呼んだ。ついで明暦3年(1657年)の江戸大火後に現在地に移り、浅草本願寺と改称した。

 火災や関東大震災や東京大空襲で何度も焼失しては建て直し、現在の本堂は昭和35年(1960年)に建てられたもの。いつも思うが、本願寺系の寺院は本堂が大きい。

東本願寺

 

4.浅草寺 雷門

 東京本願寺から歩いて10分ほどで、浅草寺雷門に到着した。

 雷門は天慶5年(942年)、平公雅によって再建されたのが始まりである。

 その後は火災で焼失しては再建を繰り返されていたが、慶応元年(1865年)の雷門焼失後、100年近く再建されなかった。

 昭和35年(1960年)に松下幸之助が浅草寺に雷門を再建するべく寄進を行ったため、雷門は再建、現在では浅草のランドマークになっている。

 松下幸之助は現在のパナソニックホールディングスを一代で築き上げた経営者で、「経営の神様」という異名をつけられているため、ビジネス書を読んだことがある人なら一度は目にしたことのある名前だろう。私はビジネス書はあまり好まないが、それでも「夢をかなえるゾウ」で名前を目にしたことがあった。

浅草寺 雷門

 

 雷門の提灯をよく見ると「松下電器産業株式会社 パナソニック株式会社 創業者 松下幸之助」と書いてある。

 

 

 雷門をくぐると、仲見世通りが広がっている。

 仲見世通りは江戸時代中期頃に創設され、馬道辺の住人が浅草寺境内の掃除を行うかわりに、浅草寺から営業権を与えられて商売を行ったのが仲見世通りの始まりらしい。

 それにしても…雷門周辺から思っていたが、平日昼間の割に人が多い。頭上を通り過ぎる外国語の多さに気が付いた。

 平日昼間に観光できないのは、平日に勉強や仕事を行う学生や会社員のみである。外国人観光客に曜日は全く関係ない。多少ではあるが平日休みと思われる日本人や、引退後の高齢者の姿もあったが、浅草寺境内にいたのは7~8割方外国人観光客である。

浅草寺 仲見世通り

 

 仲見世通りの脇に伝法院があるが、入ることはできない。

 伝法院庭園は台東区内に残る唯一の江戸期庭園でたまに公開しているらしいが、この日は公開していなかった。

伝法院

 

 浅草寺宝蔵門が見えてきた。

 宝蔵門は大谷米次郎の寄進で、昭和39年(1964年)に浅草寺宝物の収蔵庫を兼ねた山門として建てられた。

 大谷米次郎は大相撲力士だった時代は「鷲尾嶽」という四股名だったようだが、手の指に障害があり幕下筆頭で引退した。

 これだけならあまり出世できなかった力士で終わりだが、ここから実業家に転身し、大谷製鋼所を設立。こちらは大谷重工業となり「鉄鋼王」と称されたが、大谷重工業は戦後に倒産している。

 戦後、昭和39年(1964年)に東京オリンピックの開催が決まったものの、当時の東京は宿泊地が不足していたことに大谷は目をつけてホテルニューオータニを建設し、社長に就任した。

 大谷重工業の経営不振などいろいろあったものの、戦後の一時期は「日本の三大億万長者」と呼ばれていた時代もあった人だったようだ。そしてホテルニューオータニは今でも「ホテル御三家」の一角を占める名門ホテルとなっている。

 パナソニック創業者の松下幸之助が造った雷門、ホテルニューオータニ創業者の大谷米次郎が造った宝蔵門…錚々たる顔ぶれだ。

 なお、宝蔵門のセンターには普段「小舟町」と書かれた大提灯がかかっているが、これは今年(2026年)の10月頃まで新調のため一時的に外されているらしい。

浅草寺 宝蔵門

浅草寺 宝蔵門(2023/06/18撮影)

 

5.浅草寺 本堂

 浅草寺本堂に到着したので、ここで浅草寺について説明しておきたい。

 「浅草寺縁起」によれば、推古天皇36年(628年)3月18日の早朝、隅田川で魚をとっていた檜前浜成・竹成(ひのくまはまなり・たけなり)兄弟が1躰の仏像を拾った。

 2人の漁師がこの仏像を郷司・土師中知(はじのなかとも)に見せたところ、聖観世音菩薩であることがわかったので、中知が出家して自宅を寺に改めて聖観世音菩薩を祀ったのが浅草寺の始まりとされている。

 檜前浜成・檜前竹成・土師中知の3人を祀ったのが浅草寺の隣にある浅草神社で、3人を祀ることから「三社様」とも呼ばれる。

 聖観世音菩薩出現から17年後、大化元年(645年)に勝海上人が浅草寺に来て観音堂を建て、御本尊を秘仏と定めたことから、浅草寺の観音様は秘仏となった。

 天安元年(857年)、慈覚大師・円仁が比叡山からやってきて、秘仏に代わる御本尊「御影版木(みえいのはんぎ)」を作り、これを祀った。

 天慶5年(942年)平公雅(たいらのきんまさ)は浅草寺で「武蔵の国守に任じられますように」と祈願したところ叶ったので、浅草寺の堂塔伽藍を再建した。

 源頼朝が平家追討の際に浅草寺で戦勝祈願を行ったり、徳川家康が江戸に入るときに祈願所と定めて寺領を寄進したり、日本史のスーパースターとの縁が深い寺院である。

 浅草寺は関東大震災の被害はなかったものの、東京大空襲によりほぼ全ての伽藍を焼失し、現在の本堂は昭和33年(1958年)に再建されたものである。

 秘仏であるため姿を見ることはできないが、私もスーパースターが拝んだ観音様に手を合わせる。

浅草寺 本堂

 

 浅草寺の境内には「迷子しるべ石」がある。

 昔、迷子が出たときに使った石で、石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、一方に「志(し)らする方」、反対側に「たづぬる方」と刻まれ、それぞれに用件を記した紙を貼ることで情報交換をしていた。

 安政7年(1860年)3月に新吉原の松田屋嘉兵衛が仁王門(現在の宝蔵門)前に造立したが昭和20年(1945年)の空襲で倒壊したため、昭和32年(1957年)に再建された。

 似たような石は都内のほかの場所にもあり、東京駅近くの一石橋にも「一石橋迷子しらせ石標」がある。

迷子しるべ石

一石橋迷子しらせ石標

 

6.浅草神社

 ここで一度浅草寺の敷地外に出て、二天門を見る。

 二天門は慶安2年(1649年)頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。

 その後東照宮は江戸城内に移されたため随身門だけ残っていたが、明治元年(1868年)に随身像は持国天・増長天の二天像に変わり、門名も二天門となった。

 この二天像は吉田兵部が江戸時代初期に制作したもので、昭和32年(1957年)に寛永寺から移されたものである。

 二天門は江戸時代初期に建てられたものがそのまま残っているため、昭和25年(1950年)に国指定重要文化財に指定された。

浅草寺 二天門

 

 二天門から浅草寺の境内に戻り、浅草神社に参拝する。

 浅草神社の御祭神は浅草寺御本尊拾得の功労者・檜前浜成(ひのくまはまなり)・檜前竹成(ひのくまたけなり)・土師中知(はじのなかとも)の3人である。

 現在の社殿は慶安2年(1649年)に徳川家光が寄進・建立したもので、関東大震災や東京大空襲でも被害を受けなかったので、昭和26年(1951年)に国指定重要文化財に指定された。

浅草神社

 

 浅草神社で御朱印をいただく。「浅草神社」の文字の下に神紋があるが、これは3枚の干網。この干網は功労者3人で、中央が土師中知で、右が兄の檜前浜成、左が弟の檜前竹成らしい。

浅草神社 御朱印

 

 浅草神社の奥には被官稲荷神社がある。

 安政元年(1854年)、新門辰五郎の妻が重病で床に伏していたため、辰五郎が山城国伏見稲荷社(現在の京都府京都市伏見区・伏見稲荷大社)に祈願したら病気が治ったので、安政2年(1855年)にお礼の意味を込めて伏見から祭神を勧請して創建された。

被官稲荷神社

 

 「生きると いうこと むずかしき 夜寒かな」これは川口松太郎の句碑である。

 川口松太郎は明治32年(1899年)に浅草今戸に生まれた小説家・劇作家で、昭和10年(1935年)に「鶴八鶴次郎」で第1回直木賞を受賞した。

川口松太郎の句碑

 

 「翁の文字 まだ身にそはず 衣がえ」初代・市川猿翁の句碑である。

 市川猿翁は明治21年(1888年)に浅草千束町に生まれた歌舞伎役者で、明治43年(1910年)に2代目・市川猿之助を襲名、昭和38年(1963年)に猿之助を引退、猿翁と名乗るようになったが、同年に亡くなっている。

初代・市川猿翁の句碑

 

7.浅草寺 五重塔

 浅草神社を出て、浅草寺に戻る。おもむろに、五重塔を見上げる。

 浅草寺五重塔は天慶5年(942年)、平公雅によって創建されたのがはじまり。戦前まで慶安元年(1648年)に徳川家光が再建した五重塔が残っていたが、それも東京大空襲で焼失してしまった。現在のものは昭和48年(1973年)に再建されたもの。

浅草寺 五重塔

 

 五重塔のそばに旧石燈籠がある。

 この石燈籠は明治25年(1892年)に石工の酒井亀泉が奉納した燈籠である。

 江戸時代後期、亀泉の祖父・酒井栄三は酒癖の悪さから失職した。栄三の妻は浅草寺に参拝し、「夫の酒癖の悪さを許してください、そのかわり子孫代々お酒は飲みません」と祈った。

 酒断ちの家訓は酒井家で守られ、そのためなのか酒井家は石工として大成した。そのお礼として亀泉は浅草寺に燈籠を奉納した。

 この燈籠は倒壊のおそれがあるため平成16年(2004年)に撤去してしまったが、一部を残し記念として飾っている。

 酒井家の酒断ちの話…?名字は関係ないかもしれないが…。とにかく、アルコール依存症に悩んでいる人は浅草寺で酒断ちを宣言すれば、なにかいいことがあるのかもしれない。

旧石燈籠

 

 銅造阿弥陀如来坐像。阿弥陀如来は極楽浄土にいて、亡くなった人に仏法を説く仏様だ。この像は台座に刻まれた銘文によると、元禄6年(1693年)に理性院宗海がこの像の造立を発願し、鋳物師の今井藤治郎藤原吉次が制作した。平成24年(2012年)に台東区有形文化財に登録された。

銅造阿弥陀如来坐像

 

 銅造阿弥陀如来坐像の隣に、銅造宝篋印塔がある。

 宝篋印塔とは「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔のことで、この宝篋印塔は西村和泉守藤原政時が宝暦11年(1761年)に鋳造したもの。

 安政2年(1855年)の地震でこの宝篋印塔は倒壊するも、明治40年(1907年)に日露戦争凱旋記念で修復された経緯がある。平成23年(2011年)に台東区有形文化財に登録された。

銅造宝篋印塔

 

 西仏板碑。建立者の西仏については明らかではないが、この板碑は西仏の妻子の後世安楽を祈って建立されたものと考えられ、建立年代は鎌倉末から室町初期と推測されている。

 現在の高さは217cmだが上部が破損しており、製作時は3m近くあったのでは、と推測されている。寛保2年(1742年)の暴風雨で破損し、文化11年(1814年)に側に柱を立てる形で再度立てられた。

西仏板碑

 

8.浅草寺 橋本薬師堂

 西仏板碑の近くに仏頂尊勝陀羅尼碑がある。

 「仏頂尊勝陀羅尼」とは、唱える人に息災延命などの御利益を授けるとされる古くから信奉されてきたお経である。

 正面には陀羅尼が刻まれ、背面には陀羅尼の功徳と造立年代の元治元年(1864年)と製作者・海如の名前を見ることができる。

 それにしても、タイトル以外は全て梵字で書かれているため、全く読めない。

仏頂尊勝陀羅尼碑

 

 六地蔵石燈籠。この石燈籠はかつて元花川戸町にあったものが、明治23年(1890年)に浅草寺境内に移転してきた。

 詳細は不明だが、伝承では久安2年(1146年)、久安6年(1170年)、応安元年(1368年)のいずれかの建立といわれている。久安2年と6年で迷うならまだしも、応安は200年近く後であり、そこで迷うか…?と思わないでもない。

六地蔵石燈籠

 

 橋本薬師堂は慶安2年(1649年)に徳川家光が観音堂の北西に建て、堀にかかる橋のかたわらにあったので「橋本薬師堂」と名付けられた。浅草寺境内では浅草神社本殿や二天門、六角堂くらいしか残っていない古い建物のひとつとなっている。

浅草寺 橋本薬師堂

 

 淡島堂は元禄年間(1688~1703年)に紀伊国(現在の和歌山県和歌山市)の加太春日神社を勧請したもので、江戸時代から女性の守り神として信仰を集めている。

浅草寺 淡島堂

 

 天水桶。この天水桶は明和7年(1770年)に造られた。

 太平洋戦争が激化し、いつ浅草寺に空襲が来てもおかしくない状況となったため昭和18年(1943年)に浅草寺の僧侶は、この天水桶に御本尊の観音様を厨子ごと奉安、地中深くに納めた。

 戦後の昭和22年(1947年)に御本尊を地中から出したところ無事だったので、この天水桶は戦火から御本尊を守った功労者といえるだろう。

天水桶

 

 浅草大平和塔。昭和20年(1945年)3月9日の夜、B29 300機以上によって空襲が行われ、10,000人以上の犠牲者を出した東京大空襲が発生した。

 東京大空襲の犠牲者の慰霊と、今後空襲が起こりませんように、との願いから建てられたのが浅草大平和塔となっている。

 少し前に、会社からの依頼で「GIS2級」という資格を取るための講習会に参加した。衛星写真の授業で、ウクライナの衛星写真が2枚並べられ、1枚は普通の衛星写真だがもう1枚は道路に黒い点がポツポツと写っている。

 先生がこう言った。「この黒い点、なんだと思います?…空襲で犠牲になった人間の○体ですよ。」

 その後、教室は静かになった。

 先生が言いたかったのは衛星写真の技術の向上についてだが、私はそれ以上に、世界では空襲での犠牲が未だになくなっていないのだという事実を見て戦慄していた。

浅草大平和塔

 

9.浅草寺 影向堂

 カンカン地蔵という、もはや原形を留めていないお地蔵さんがある。

 これは参拝者が小石でカンカン地蔵を叩いて願い事をしたためだが、あまりに叩かれすぎて石の塊にしか見えない。

カンカン地蔵

 

 六角堂は「浅草寺誌」に元和4年(1618年)の建立と書かれているので江戸時代初期の建築と考えられ、浅草寺内では最古の建物である。

 六角堂の御本尊は日限地蔵尊で、お願い事をするときの日数を決めて祈願すれば叶うというもの。前回、江戸三十三観音第1番札所として訪れたときは「江戸三十三観音を最後までやりたい」と祈り、無事結願することができた。今回も「坂東三十三観音を最後までやりたい」と祈っておいた。

浅草寺 六角堂

 

 影向堂(ようごうどう)は平成6年(1994年)に慈覚大師円仁の生誕1,200年を記念して再建された。

 屋根には鴟尾(しび)が付いており、鴟尾を取り付けるときは雨が降ると昔からいわれている。平成6年(1994年)に鴟尾を取り付ける際、それまで日照りだったが、鴟尾を取り付けた瞬間に雨が降ったというエピソードがある。

 なお、影向堂は御朱印の受付所となっており、ここで御朱印をいただいた。

 浅草寺は外国人観光客が多いと先述したが、外国人観光客のなかにも御朱印を集めている人がいるらしい。

 実際、お客さんの半数以上は外国人観光客で、御朱印帳の受け渡しの際の番号呼び出しでも「フォーティーツー(42)」「トゥウェンティーファイブ(25)」など英語で呼び出していた。

 ただ、私の坂東三十三観音の御朱印帳を見て、これは流石に日本人のものだろうと判断したのか、これだけ「85番」と日本語で呼び出されていたのは笑ってしまった。

浅草寺 影向堂

 

 「江戸三十三観音をめぐる」の御朱印では「江戸三十三観音札所 第一番」のハンコが押されているが、今回は「坂東拾三番」のハンコが押されている。比較対象用にどちらも載せておく。また、散華もいただいた。

浅草寺 江戸三十三観音の御朱印

浅草寺 坂東三十三観音の御朱印

浅草寺 散華

 

10.ふなわかふぇ・まつり湯・神谷バー

 平日昼間とはいえ、浅草寺境内は外国人観光客が多い。信仰を集め続けている、と言えば聞こえは良いが、ありていに言えば騒々しいので疲れてしまった。

 そこで仲見世の何ヶ所かで「舟和の芋ようかん」を売っているのを見た。「舟和の芋ようかん」は東京駅の駅弁コーナーで売っているのを見たことがあるが、買ったことはなかった。以前から気になる存在ではあったし、どこかなかで食べられるところがあれば、と探してみたら「ふなわかふぇ」を見つけたので行ってみることにした。

ふなわかふぇ

 

 舟和は明治35年(1902年)創業の和菓子屋で、さまざまな和菓子を売っているが「芋ようかん」と「あんこ玉」が有名である。

 芋ようかんはさつまいも、砂糖、食塩だけで作ったようかん。あんこ玉は寒天であんをつつんだもので、小豆・白いんげん・抹茶・苺・珈琲・みかんの6種類の味がある。

 今回注文したのは「芋ようかんソフトパフェ」と芋ようかん1個、あんこ玉2個(小豆と抹茶)。パフェは甘く、疲れた体に沁みた。ただ、パフェ、芋ようかん、あんこ玉を全て食べきったら流石にお腹いっぱいになった。

パフェ、芋ようかん、あんこ玉

 一瞬、芋ようかんとあんこ玉の詰め合わせを購入しようか迷ったが、1人で消費期限が翌日までの芋ようかんとあんこ玉を消化できる気がしなかったのでやめておいた。

 

 ふなわカフェをあとにして、現在15時過ぎ。ほかの寺社に行くか考えたが少し遠いのと、もう本日のノルマはクリアしたのでスーパー銭湯へ向かうことにした。向かったのは「浅草ROXまつり湯」。

まつり湯のある浅草ROX

 浅草寺からあまり歩くことなくスカイツリーが見える露天風呂に入れることや、サウナが3種類あること(もちろん水風呂もある)が魅力だが、調べたところ温泉ではないらしいことと、かなり強気な価格設定(平日:2,750円、休日:3,080円)から、「浅草に行く機会があればまた行くかもしれない」くらいの感想を抱いた。なお、平日夕方でかなり空いていたので、そこは快適だった。

 

 サウナでスッキリした後は、神谷バーに向かった。

 神谷バーは明治13年(1880年)に創業した日本初のバーとして有名である。

 神谷バーに訪れたら一度飲んでみたいお酒があった。デンキブランだ。

 私が好きな小説のひとつに、森見登美彦氏が著した「有頂天家族」があるのだが、そこに「偽電気ブラン」なる酒が頻繁に登場するのだ。そこで偽電気ブランの説明を抜粋してみた。

 「東京浅草の電気ブランをまねて造った、大正時代より伝わるこの秘酒は、夷川発電所の裏手にある工場でこっそり造られている。」

 偽電気ブランは有頂天家族作中でしか登場しない存在とはいえ、「偽」のない本物のデンキブランは神谷バーで飲むことができる。

 デンキブランは度数30度の酒である。酒は好きだが量は飲めない私としては、水を飲みながらいただきたい。デンキブランを注文すると幸いなことに一緒に水が出てきた。

 「生ビールとデンキブランは相思相愛」などと書かれた紙が机の上に置いてあったが、これを両方飲むと酔いつぶれること間違いなしなのでデンキブランだけ注文した。

 デンキブランを飲んでみると、甘いが少しだけ漢方っぽい味がした。デンキブランはブランデー、ジン、ワイン、キュラソー、薬草などがブレンドされているようだが、分量は秘伝らしい。

デンキブラン

 余談だが、有頂天家族の作中には偽電気ブランだけでなく「赤玉ポートワイン」も頻繁に登場するが、こちらは「赤玉」という名前でスーパーや酒屋で市販されている。

 

 デンキブランだけ飲んでいても酔うし、何しろお腹は膨れないのでハンバーグステーキとライスも注文した。神保町の「ランチョン」に似た「正しい洋食店」の洋食が、私は好きだ。

ハンバーグステーキとライス

 

 デンキブランとハンバーグステーキに満足したところで店を辞し、浅草駅から帰路についた。

浅草駅

 浅草むぎとろのむぎとろバイキングは美味しかった。平日休みがあればまた行きたいと思う。不動院など、浅草の寺院街はしっとりとしているが、それに反して浅草寺はいつ行っても混んでいる。平日昼間でも混んでいるのか、と思ったが、考えてみれば外国人観光客に曜日は関係ない。

 ふなわかふぇの芋ようかんソフトパフェは美味しかった。神谷バーのデンキブランはいつか飲んでみたいと思っていたので、浅草に来たらまた飲みに行こうと思う。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2026年7月13日

【参考文献】

小森隆吉(1978) 「台東区の歴史」 名著出版

森見登美彦(2010) 「有頂天家族」 幻冬舎文庫

関東三十六不動霊場会(2017) 「関東三十六不動霊場ガイドブック」

坂東札所霊場会(2019)「坂東三十三所観音巡礼」 株式会社朱鷺書房

東京都歴史教育研究会(2020) 「東京都の歴史散歩 上 下町」 山川出版社

坂東三十三観音をめぐる 8.比企郡編

 前回、第8番札所・星谷寺に参拝しつつ座間・海老名をめぐった。今回は第9番札所・慈光寺、第10番札所・正法寺、第11番札所・安楽寺に参拝しながら比企郡をめぐろうと思う。

 なお、前々回に家族旅行で第15番札所・長谷寺と第16番札所・水澤寺に家族と行ったが、この後父が坂東三十三観音に興味を抱いたことや、特に慈光寺の公共交通のアクセスの悪さからどう行こうか考えあぐねていたこともあり、ドライブに行くことになったのである。

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1.安楽寺

 自宅から車に乗り、安楽寺に到着した。安楽寺は吉見町にあるので、足下にある吉見町のマンホールをじっと見つめる。

吉見町マンホール

 吉見町のマンホールデザインは、吉見町のシンボル「吉見百穴」をメインに配置するとともに、ここが古墳時代の史跡であることをアピールするため、埴輪を印象的に描いている。

 

 安楽寺の門前に、西吉見村道路元標を見つけた。

西吉見村道路元標

 道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では全国で2,000基程度しか残っていない。

 道路元標は「まちの中心」を定義するという性格上、都市の中心に設置されることが多い。ここを見たところ、西吉見村の役場と安楽寺(吉見観音)はやや離れている。ここに道路元標があるということは、西吉見村のランドマーク、安楽寺の前に設置したかった、という意図であろう。

西吉見村道路元標周辺 ※「今昔マップ」より作成、昭和14年(1939年)部分修正

 「坂東三十三観音をめぐる」シリーズでは初めて登場した道路元標だが、ほかのシリーズも合わせると前回登場は「東海道を歩く 51.淀駅~御殿山駅」で登場する2.淀町道路元標である。

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 坂東三十三観音とは関係ないのだが、「地図ラー13」で「道路元標を訪ねて―成田市・印旛郡編―」という文章を書いており、これは千葉県成田市・印旛郡内の道路元標を特集している。「10月うさぎ」ではなく実名名義ですが私が書いた文章なので、読んでいただけると嬉しいです(唐突な宣伝)。

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 西吉見村道路元標を見たら、安楽寺に入ろう。山門をくぐると、綺麗に整えられた庭が目に入ってくる。

安楽寺

 安楽寺の縁起によれば、平治の乱(平治元年(1159年))に敗れた源義朝が尾張で謀殺されたのち、その遺児範頼が稚児僧としてこの寺にかくまわれたそうだ。のち、この地を領した範頼は、三重塔や講堂などを寄進したと伝えられている。

 しかし、天文年間(1532~1555年)の松山城攻防戦の際、伽藍はことごとく灰燼に帰し衰亡した。

 寛永年間(1624~1644年)に杲慶(こうけい。杲鏡(こうきょう)とも言う。)があらわれ復興に尽力し、その後宝永年間(1704~1711年)頃までに三重塔・本堂・仁王門、諸仏が順次整った。

 

 印象的なのは、三重塔だ。

安楽寺 三重塔

 現在の三重塔は寛永年間に杲慶が再建したもので、総高は24.3m。塔建築の少ない関東地方において江戸時代初期の塔は埼玉県内に3基現存しているが、そのなかでもこの三重塔は江戸時代初期の様式をよく伝えている。昭和28年(1953年)3月に埼玉県指定有形文化財となった。

 

 安楽寺の境内をひととおり回った後で、御朱印と散華をいただく。

安楽寺 御朱印

安楽寺 散華

 

 安楽寺をあとにし、門前に気になる存在を見つけた。厄除けだんごだ。

 昔、ある村で疫病が流行り、大変困った村人が観音様にお願いして助けていただこうと、だんごを作りお供えして「病気が治りますように」と一心に祈願した。

 その帰りに、お供えしただんごを下供(げぐ。仏様のお供えを感謝していただくこと。)としていただき、分け合って食べたところ病気が治った。それ以来、観音様へお礼参りをするようになった、という話がある。

 父と母と、3人でみたらしの厄除けだんごを食べた。みたらしの厄除けだんごは甘く、美味しかった。

みたらしの厄除けだんご

 

2.正法寺

 安楽寺から車で30分ほどで正法寺に到着する。正法寺の名物といえば石段で、これを見て母は悲鳴を上げていた(それでも登り切ったが)。

正法寺の石段

 

 石段を登り切った後に、振り返るとまっすぐな参道が見える。今はそこまで栄えていないが、以前は門前町などもあったのだろうか。

 

 正法寺には古い銅鐘と、鐘楼がある。

 銅鐘は元享2年(1322年)に鋳造されたもので、竜頭の高さ32cm、鐘身113cm、口径78cm。昭和52年(1977年)に埼玉県指定有形文化財となった。

 鐘楼は元禄15年(1702年)山田茂兵衛の寄進によって再建されたもの。昭和46年(1971年)に東松山市指定有形文化財になった。

正法寺の銅鐘・鐘楼

 

 正法寺の本堂に到着した。

正法寺 本堂

 正法寺は養老年間(717~724年)の創建といわれその後衰微したが、源頼朝の命をうけた比企能員(ひきよしかず)により復興をとげた。

 室町期には66坊を数える大伽藍に発展したそうだが、その後いくたびかの兵火や火災に見舞われた。

 現在の観音堂は日高市にあった堂宇を明治期に移築したもの。この観音堂を取り囲む崖には多数の石仏がはめこまれており、露頭とのコントラストが美しい。

正法寺 石仏と露頭

 

 正法寺の観音堂の傍らには、大きなイチョウの木がある。

 樹高30m以上、樹齢は700年以上と推定され、江戸時代の正法寺を描いた絵図にも描かれた存在だ。昭和49年(1974年)に東松山市の天然記念物に指定された。

 樹齢700年以上という老樹ということもあり、根本が大きくうねっている。

正法寺の大イチョウ

 

 「秩父・坂東・西国百観音霊場巡拝記念」と書かれた鐘がある。西国三十三所(33)+坂東三十三箇所(33)+秩父三十四箇所(34)で日本百観音(100)というのは知っていた。

 だが「津軽・最上・会津・越後・中国各霊場、九州篠栗・四国八十八カ所・高野山」と書いてあるのが気になる。

 「津軽」は津軽三十三観音霊場で、青森県弘前市の久渡寺を1番札所として深浦町、つがる市、五所川原市、青森市、黒石市、平川市などを周り弘前市の普門院で結願する。

 「最上」は最上三十三観音霊場で、山形県天童市の若松寺を1番札所として山形市、上山市、寒河江市、東根市、村山市、尾花沢市などを周り鮭川村の月蔵院で結願する。

 「会津」は会津三十三観音で、福島県喜多方市の常安寺を1番札所として湯川村、会津若松市、会津美里町などを周り会津坂下町の西光寺で結願する。

 「越後」は越後三十三観音霊場で、新潟県上越市の岩屋堂を1番札所として十日町市、長岡市、新潟市などを周り三条市の最明寺で結願する。

 「中国」は中国三十三観音霊場で、岡山県岡山市の西大寺を1番札所として8番札所「明王院」で広島県に入り、15番札所「漢陽寺」で山口県に入り、22番札所「多陀寺」で島根県に入り、29番札所「大山寺」で鳥取県に入り、鳥取市の大雲院で結願する。ほかと比べ5県入っているのでスケールがでかい。

 「九州篠栗」とは何か調べたところ福岡県篠栗町にある吞山観音寺のことらしい。ちなみにこの寺は公共交通機関で行くことが難しいようだ。

 「四国八十八ヵ所」「高野山」は徳島県鳴門市の霊山寺を1番札所として24番札所「最御崎寺」で高知県に入り、40番札所「観自在寺」で愛媛県に入り、67番札所「大興寺」で香川県に入り、さぬき市の大窪寺で結願する。最後に和歌山県高野町の高野山奥之院にお礼参りをする。

 これを見ると実にいろいろなところに行ったことがわかる。特に、中国三十三観音霊場と四国八十八カ所は大変だっただろうと思う。

正法寺 いろいろ行った記念の鐘

 

 正法寺でも御朱印および散華をいただいた。

正法寺 御朱印

正法寺 散華

 

 次の慈光寺までの道すがら、昼食を探していたら蕎麦屋があったので車を止めた。伺ったのは鳩山町の「ふくいち本店」。

 車から降りると鳩山町のマンホールを見つけた。

鳩山町 マンホール

 鳩山町農業集落排水マンホール蓋は、町の鳥のハト、町の花のツツジ、地球観測センター(JAXA)のパラボラアンテナをモチーフとしてデザインしている。というか、「鳩」山町だけに町の鳥はハトなのか…。

 

 ふくいち本店の前には、行列ができていた。店のなかにある名簿に名前を書こうとしたら、「お蕎麦が切れてしまったらおうどんの提供でもよろしいですか?」と聞かれ、よいと答えて、名前を書いて待つ。

 店の前に行列ができていたのでうっすらとは察しつつも、Google Mapで星(評価)を確認した。485人が評価して、星は4.2だった。100人以上評価して、星が4以上であれば、美味しいお店である確率が高い。

 20分くらい待って着席。お店の人がお茶を持ってきたので、「まだお蕎麦ありますかね?」と聞くと「ありますよ!」とのご回答。どう見ても蕎麦を推しているのはわかったので、私は天ざるそばを注文した。

 蕎麦はのど越しが良く、そばつゆも出汁がきいて美味しい。天ぷらもサクサクだった。父も母も美味しいと絶賛していたので、良いお店を見つけた。

ふくいち本店

ふくいち本店 天ざるそば

 

3.慈光寺

 ふくいち本店から30分ほどで慈光寺に到着した。なお、慈光寺は山の中腹にあり、公共交通で行く場合は「慈光寺入口」バス停から徒歩40分の上り坂となる。

 

 慈光寺の観音堂は、駐車場から少し歩く。途中、申八梵王(さるはちぼんのう)を見つけた。

 山に出入りする人たちが、この石像を「お猿さん」とか「申八梵王」と呼んで信仰して親しまれてきた。

 これは雲河原村(現在のときがわ町雲河原)で産出された石で造られた彫刻で、横に「天明六年(1786年)丙午九月十九日」の刻字がある。この年は江戸で田沼意次が失脚した年らしい。

 天明3年(1783年)に浅間山の大噴火があり、それによって引き起こされた天明の大飢饉により各地で一揆や打ちこわしが起こり、幕藩体制を揺るがしていた時代である。この申八梵王も、何かの祈りの目的で彫られたのかもしれない。

申八梵王

 

 申八梵王の近くに般若心経堂があり、巨大な「慈光寺経妙法蓮華経授記品(じこうじきょうみょうほうれんげきょうじゅきほん)」がある。

 国宝「慈光寺経」は、国宝「久能寺経」「平家納経」と並び三大装飾経として知られる。この「授記品第六」は秀麗な金字の筆跡と、天地欄外の金銀を縦横に駆使した華麗な装飾が特徴である。

 お経を書いて納める、私も般若心経くらいならやったことはあるが、こんなに大きいお経ではない。金色の文字を追うのに、しばらく時間がかかった。

慈光寺経妙法蓮華経授記品

 

 慈光寺経妙法蓮華経授記品とは別に、紺紙金字一字宝塔心経もあった。宝塔・書風・異体字からして平安末期に書かれたものと想定されているらしい。

紺紙金字一字宝塔心経

 

 足下に小さな可愛らしい花が咲いているのを見つけた。シャガの花だ。

 シャガはアヤメの一種で、4~5月に花を咲かせる。この日は5月3日だったので、そこらじゅうで咲いていた。

シャガの花

 

 山を登り、やっと慈光寺観音堂に到着した。

 慈光寺は寺伝では天武天皇2年(673年)の創建とされ、宝亀元年(770年)に鑑真の弟子・道忠により開かれた。

 貞観13年(871年)頃には清和天皇の勅願により天台別院となり、関東における天台宗修験の本山的格式を誇った。

 源頼朝は奥州藤原氏追討にあたり、畠山重忠を中心とする秩父党が尊祟する慈光寺に戦勝を祈願したころ、慈光寺は75坊を擁する大きい寺院だったそうだ。

 室町時代は松山城主・上田氏により攻められて衰退したが、江戸幕府の庇護により復興し現在に至る。

 慈光寺観音堂は享和3年(1803年)の再建で、履物のまま昇殿できるように外陣が吹き放しであること、眺望のよい立地は札所建築の特徴となっている。御本尊は千手観音立像。

慈光寺 観音堂

 

 観音堂内に扁額があり、その上に白い馬がいた。寺院はいろいろ巡ってきたつもりだが、これは初めて見た。

 これについて調べてみると、「夜荒しの名馬」の話に行きついた。

 この馬はもともと左甚五郎という人物が丸木から彫った木馬だったが、目を入れるタイミングで甚五郎は「この馬は気が荒い」と呟いた。

 するとこの木馬は夜になると抜け出して、付近の畑の作物を荒らすようになった。

 いつのまにか甚五郎が作った木馬が夜になると姿を現し、畑を荒らしているという噂が立つようになった。

 そこで百姓たちが夜、畑に出ていき物陰に隠れてみていると、やはりあの木馬が畑を荒らしているのを見てしまった。

 最初は「不思議なことだなぁ」と思ってみていたが、何度も木馬が作物を荒らすため百姓たちもついに怒って、木馬をこらしめた後観音堂の上に納めてしまったそうだ。

 作者に「この馬は気が荒い」とか言われて、馬もグレてしまったのだろうか。だとしても、関係ない百姓の作物を荒らしたのは、いただけない。

夜荒しの名馬

 

 慈光寺観音堂は山の上にあるので、眺望がとても良い。

 

 来た道を戻ると、慈光寺の宝物殿がある。ここは500円払って入る必要がある。無人なので、払わなくてもバレないかもしれないが、ドアを開けると爆音でベルが鳴るし、何しろ寺の境内なのでバチが当たりそうである。

 宝物殿には、後鳥羽上皇や多くの公卿が書写した装飾経である法華経一品経のほか、貞観13年(871年)の奥書があり関東地方現存最古の写経である墨書大般若経、鎌倉時代の金銅密教法具などがおさめられている。

 なお、宝物殿は撮影禁止のため宝物の写真はない。先述したが慈光寺宝物殿は無人、無人なので照明も見始めるときに見学者がつけ、見終わったら見学者が消していくスタイル。そして展示室は1室しかない。「流石に価格設定が強気すぎない?」と家族に言われてしまった。

慈光寺 宝物殿

 

 慈光寺の本堂に向かい、御朱印と散華をいただいた。ちなみに慈光寺で、寺の人がいたのはここだけである。

慈光寺 御朱印

慈光寺 散華

 

 慈光寺から車で40分ほどで、「野天風呂 蔵の湯 鶴ヶ島店」に到着した。

 ここは子供の頃から時折行っていた温泉施設で、上京してからしばらく行っていなかったが昨年帰省のタイミングで実家のシャワーが壊れ、洗面台で頭を洗うよう指示されつつも、私の長髪を洗面台で毎日洗うのも骨が折れたので「一回くらい蔵の湯に連れて行ってくれ」と言ったところ久しぶりに行ったところである。つまり1年ぶり。

野天風呂 蔵の湯 鶴ヶ島店

 

 「野天風呂 蔵の湯 鶴ヶ島店」は鶴ヶ島市であるため、鶴ヶ島市のマンホールが設置されていた。

 中央のマークは坂戸、鶴ヶ島下水道組合章で、両市の花、サツキとツツジがデザインされている。つまり鶴ヶ島市は単体で下水道を持たず、隣の坂戸市と共同で運営しているようだ。

坂戸、鶴ヶ島下水道組合のマンホール

 

 「野天風呂 蔵の湯 鶴ヶ島店」の温泉はナトリウム・カルシウム-塩化物温泉で、弱アルカリ性。温泉に浸かってみたが、特徴はあまりわからなかった。

 

 「野天風呂 蔵の湯 鶴ヶ島店」、お風呂はよいのだが食事コーナーは微妙なので、外に食べに向かった。向かったのは「ジョイフル 鶴ヶ島一本松店」。

 「初めて見るファミレスねぇ」と母が言う。それもそのはずで、ジョイフルはファミレスの店舗数がガスト、サイゼリヤに続く国内第3位の店舗数であるにも関わらず、本社は大分県大分市、店舗数最多は福岡県、店舗数TOP5の都道府県が全て九州、埼玉県には10店舗しかないファミレスなのである。

 関東には少ないにせよ、全国展開しているファミレスなので味は保証できる。私は「大人のお子様ランチ」を注文した。これはオムライス、グラタン、エビフライ、フライドポテトが乗った代物。少し量は多かったが、美味しくいただけた。

ジョイフル 鶴ヶ島一本松店

大人のお子様ランチ

 この後は実家まで帰って、この日のドライブは終了となった。

 

 安楽寺は山門を入ると、整った庭が目に入る。これに関しては母も「おお」と歓声を上げていた。

 正法寺は石段の上にある寺院で石段を登るのは少し大変だが、登ったあとで後ろを振り向くとまっすぐな参道が見えて、少し感動した。

 ふくいち本店の蕎麦は美味しくて、少し実家から遠いのは難点としてもぜひ再訪したいと思う味だった。

 慈光寺は公共交通のアクセスは大変だが観音堂からの景色は美しいし、かなり歴史のある古刹であることが宝物殿の展示を見て理解した。

 私の知らない埼玉が、まだまだありそうだ。

位置情報マップ

訪問した日:2026年5月3日

【参考文献・参考サイト】

埼玉県高等学校社会科教育研究会歴史部会(2017) 「埼玉県の歴史散歩」 山川出版社

坂東札所霊場会(2019) 「坂東三十三所観音巡礼」 株式会社朱鷺書房

吉見町 吉見町のマンホールカード

https://www.town.yoshimi.saitama.jp/soshiki/mizuseikatsuka/gesuidou/390.html

東松山市 正法寺の大銀杏

https://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/soshiki/55/3745.html

埼玉県 毛呂山・越生・鳩山公共下水道組合

https://www.pref.saitama.lg.jp/c1501/manhole/mohgesuidou.html

慈光寺 都幾山 慈光寺の伝説|仁王奇行・丹仁奇縁・夜荒しの名馬

https://www.temple.or.jp/legend

(2026年7月12日最終閲覧)

関東三十六不動をめぐる 11.志村坂上編

 前回、第11番札所 三宝寺に訪れながら石神井公園周辺を歩いた。今回は第12番札所 南蔵院に訪れながら志村坂上周辺をぶらぶらしようと思う。私は板橋区に住み始めて8年目なのだが、実はブログで板橋区について取り上げるのは初めてだったりする。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.南蔵院

 今日は本蓮沼駅から出発だ。

本蓮沼駅

 

 本蓮沼駅から徒歩5分ほどのところに氷川神社がある。

氷川神社

 祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)と奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)を祀る。氷川神社は本蓮沼・上蓮沼・根葉村の鎮守、隣にある南蔵院が別当寺、新井家が両社寺の総代として奉仕してきた。

 しかしこの地は荒川の沖積地で毎年のように荒川の洪水に見舞われ、氏神の氷川神社もそのつど流されて鎮座場所が変わるところから、「十度の宮」と呼ばれてきた。

 たび重なる洪水にいたたまれなくなったため享保13年(1728年)9月にここに移り、元宮は前沼にそのまま鎮座していたが、その元宮も大正13年(1924年)に荒川改修のため蓮根に移ったそうだ。

 

 氷川神社の別当寺、南蔵院はその隣にある。

南蔵院 護摩堂

 宥厳(ゆうげん)という寛文2年(1662年)に亡くなった僧が開山、開基は新井三郎盛久と伝えられている。

 氷川神社同様、ここに移転する前は前沼にあり、享保7年(1722年)12月25日に8代将軍・徳川吉宗が戸田の鷹場へ狩りに出向いたときに、南蔵院は将軍御膳所として使用されたことが記録されている。

 護摩堂には不動明王が祀られており、このお不動さんが関東三十六不動の第12番札所となっている。護摩堂は開けられていてお不動さんの姿を拝むことができるが、撮影はできない。

 

 本堂に祀られている御本尊は十一面観世音菩薩だが、そのほか、行基が作ったと伝えられる阿弥陀如来坐像と、弘法大師が護摩修行をしたときの灰で作った厄除大師が祀られているようだが、なかを見ることはできなかった。

南蔵院 本堂

 

 南蔵院境内にある庚申地蔵は、承応3年(1654年)に庚申待講中が造立したもの。

 その昔、庶民の間に「庚申待ち」という風習があった。

 それは60日ごとに巡ってくる庚申の日の夜は、体のなかにいる「三尸(さんし)の虫」が体から抜け出して天に上り、その人の悪行を天帝に告げられて寿命が縮むとされ、その日は寝ずに夜を過ごすという風習である。

 この日は庚申講の仲間が寄り合い、寝ずに夜を明かした…ここまで書くと宗教的行事であると感じるが、いろいろな書籍を読んだ感じ実際は大学生の飲み会オールに近い感じだったらしい。

 これを18回連続でやると記念に庚申塔を建てる。60日×18回だと3年に1基くらい建つ計算になるため、関東にはあちらこちらに庚申塔が残っている。

 庚申塔は、青面金剛や三猿(見ざる、聞かざる、言わざる。日光東照宮で有名なやつ。)などが刻まれていることが多い。

南蔵院 庚申地蔵

 

 山門の前に石造物が並べてあるが、とりわけ目を引くのが「羽黒山」「湯殿山」「月山」と書かれた台座の上にいる仏様。これは安永6年(1777年)と文化元年(1804年)に建立された南蔵院石造出羽三山供養塔で、蓮沼村・前野村・小豆沢村の講員70名の氏名と房号が刻まれており、当該期の出羽三山講の様子を知る貴重な資料となっている。

 出羽三山とは月山神社、羽黒山の出羽神社、湯殿山神社の3社のことで、一番大変なのが月山神社、鶴岡駅からバスで2時間かけて月山八合目バス停まで行き、そこから3時間の登山となる。

 出羽神社は鶴岡駅からバスで1時間、羽黒山頂バス停まで行けば徒歩5分ほどで行ける。湯殿山神社は鶴岡駅からシャトルバスと湯殿山神社本宮参拝バスを乗り継いで向かうことができる。出羽神社や湯殿山神社は車で行くことができるが、月山神社はそれもできないため断トツで大変である。私も出羽神社しか行ったことがない。

南蔵院石造出羽三山供養塔

 

 納経所で御朱印をいただいた。関東三十六不動の御朱印と、御影と童子像。御影は実際のお不動さんによく似ている。

南蔵院 御朱印

南蔵院 御影と童子像

 

2.志村一里塚

 南蔵院から徒歩10分ほどで斎藤商店がある。

 斎藤商店は、ケヤキを主に扱う原木商として明治22年(1889年)にここで創業した。現在の建物は、昭和8年(1933年)の中山道の拡張工事に伴って新築されたもの。

 平成4年(1992年)に「活き粋いたばしまちなみ景観賞」に選ばれ、平成24年(2012年)度に板橋区登録有形文化財となった。

斎藤商店

 

 斎藤商店の隣に、志村一里塚がある。志村一里塚は中山道の3番目(日本橋から約12km地点)の一里塚である。

 慶長9年(1604年)五街道制定と同時に1里を36町(約4km)に統一、1里ごとに一里塚を築いて街道の目安とし、旅人が風雪をしのぎ炎暑を避ける休息の場としての便宜を図ったものである。

 志村の一里塚は永井白元(ながいあきもと)、本多光重を奉行とし、樽屋藤左衛門・奈良屋右衛門が工事を請け負った。その規模は5間四方(約10㎡)、高さ1丈(約3m)とし、塚上に大榎が植えられ、一見してそれとわかるように計画されていた。

 現存のものは新中山道構築のとき多少位置を変えられたが、北区西ヶ原の一里塚とともに街道の両側に一対として向かい合う原形をとどめる交通史上の重要遺跡として、大正11年(1922年)3月、国の史跡に指定された。

 東海道を歩いていて一里塚は何度か見てきたが、東海道でも東京23区の一里塚は現存していないので、貴重な遺跡といえる。

志村一里塚

 

 板橋区立小豆沢公園の前にりんりんちゃんがバスケットボールをしているデザインのマンホールを見つけた。

 りんりんちゃんは板橋区の観光キャラクターで、板橋区の花「ニリンソウ」の妖精という設定らしい。

 なぜりんりんちゃんがバスケットボールをしているのかというと、小豆沢公園の敷地内に小豆沢体育館があることに由来する。まあ、私は学生時代から一番嫌いな科目が体育だったので、体育館を使用する機会は人生でもうなさそうだが…。

りんりんちゃんマンホール

 

 小豆沢貝塚がある。

 貝塚とは昔の人々が食べ捨てた貝殻が堆積してできた遺跡で、出土する貝殻や獣骨から当時の人々の食生活等がわかる。

 現在も貝塚を構成する貝や縄文土器の破片等が龍福寺霊園内に散っているそうだが、流石に霊園に立ち入るのも憚られたので立ち入りは遠慮しておく。

小豆沢貝塚(龍福寺霊園内)

 

3.小豆沢神社

 小豆沢貝塚の近くに小豆沢神社がある。

 現在の神社名になったのは明治以降で、江戸時代には十二天社といった。小豆沢神社のある丘の下の低地まで古東京湾の海水が浸して12の入江ができており、その入江の守り神がこの十二天社であった。

 平将門が関東に勢力を張っていたころ、丘の下の港のひとつ七七子崎(ななこざき)の入江に、将門への貢物の小豆袋を積んだ舟が停泊していた。

 ある夜大嵐があり、小豆袋を積んだ舟は沈没した。小豆袋を積んだ舟、小豆舟の沈んだ沢から、「小豆沢」という町名が生まれたと伝えられる。

 小豆沢神社の社殿は昭和40年(1965年)頃建て替えられたが、その前の社殿は茅葺き屋根で、しかも観音塚という古墳の上に建てられていたらしい。ただ改築のときに茅葺き屋根はやめて、古墳も壊されたらしい。現代ではありえない話である。

小豆沢神社

 

 小豆沢神社の隣に龍福寺がある。

 十二天社(現在の小豆沢神社)の別当寺であるが、開山時期は不明。

 戦災により龍福寺の本堂は焼失したが、龍福寺に保存されていた板碑は無事に残り、「板碑寺」と呼ばれて歴史研究者がたびたび訪れているらしい。板碑の一部は境内で公開されている。

龍福寺

 

 板碑というのは鎌倉時代から始められた仏教遺物で、今日の卒塔婆の前身といわれている。

 材料は埼玉県秩父地方から産出される緑泥片岩、俗にいう秩父青石で造る。

 この寺の代表的板碑は板橋区内第二の古さを誇る建長7年(1255年)造立で、この板碑は鎌倉時代の特徴ともいえる力強い彫りの横二線に、弥陀三尊種子、そして造立者名の「成善」を刻み、さらに「建長七年三月十六日 孝子 敬白」と刻まれている。

龍福寺 板碑

 

 また、南蔵寺でも見られた庚申塔は龍福寺でも保存されている。

龍福寺 庚申塔群

 

 龍福寺の横に御手洗不動尊があるが、これについては後述。

御手洗不動尊

 

 小豆沢神社のある丘を下りると、御手洗池がある。

 御手洗池は江戸中期に江戸周辺で爆発的に流行した富士・大山詣の道者たちが、旅立ちにあたって心身を浄め水垢離をした禊場で、傍らには石造の不動尊が祀られていた。

 ところが明治以降鉄道などの交通機関が発達して手軽に富士山や大山に行くことができるようになると、この禊場は利用されなくなり荒廃していった。

 昭和37年(1962年)に御手洗池の不動尊は龍福寺の山門脇に建てられた不動堂に祀られることになった。

 平成に入ってから地元住民が整地を行い御手洗池を復元し、その際に新たにお堂を建てて不動尊と観音様を祀ることにした。

 御手洗池の水は古来眼病に効くと信じられ眼を病んだ人が訪れていたそうだが、案内板には「現在は水質上問題がありますので、池の水を目や口に入れないでください」と記載されていた。もっとも、私が池に顔を突っ込んで目を開けたところでコンタクトが外れて困るので、そうするつもりはなかったのだが。

御手洗池

 

4.薬師の泉庭園

 御手洗池から歩いて10分ほどの場所に薬師の泉庭園がある。

 「境内山の腰より清泉沸出」と「江戸名所図会」の挿絵に描かれた薬師の泉は、かつてこの地にあった大善寺という曹洞宗寺院の境内にあった。

 江戸時代、8代将軍・徳川吉宗が志村周辺で鷹狩りをした際に大善寺に立ち寄り、境内に湧き出す清水を誉めて寺の本尊である薬師如来に「清水薬師」という名前をつけた。

 このほかにも江戸時代の文献などに、薬師の泉や周辺の清水に関する記載が多く見られ、この地が古くから良質の水を産出する土地であったことを知ることができる。

 板橋区では江戸名所図会の挿絵をもとに庭園整備を行い、平成元年(1989年)12月に「薬師の泉庭園」を開園した。

 なお、江戸名所図会には薬師の泉は以下のように書かれている。

 「「清水薬師 清水坂」 境内山の腰より清泉沸出す、故に清水の号あり。此辺(このへん)夏蘿葡(なつだいこん)を名産とす、清水種とて、世に賞しはべり。」

 前回練馬大根について話題にしたが、板橋区でも「清水種」という品種の大根を作っていたらしい。現在では住宅が立ち並び、大根畑の面影はなくなってしまった。

薬師の泉庭園

 

 薬師の泉庭園の近所に総泉寺がある。

 総泉寺はもともと浅草の橋場にあった寺院で、石浜城主・千葉守胤の開基と伝えられる。浅草にあった総泉寺は関東大震災で全焼し、古くからここにあった大善寺と合寺して、ここに移ってきた。

 チェーンがかけられているためこれ以上近づくことはできなかったが、階段の彫り物がすごくて気になる。

総泉寺

総泉寺の階段の彫り物

 

5.志村城跡

 総泉寺から歩いて10分ほどのところに志村延命寺がある。

 志村延命寺は俗にコブ寺と呼ばれていた時期があったようだが、それは樹齢700~800年のケヤキの大木があり、樹表に巨大なコブの隆起した怪奇な姿が有名だったためそう呼ばれていたそうだ。しかし残念ながら昭和37年(1962年)にケヤキは枯死してしまった。

 寺の縁起では大永4年(1524年)小田原の北条氏綱が、江戸城から川越城へ逃げる上杉朝興(うえすぎともおき)を追い、ここで戦いとなり志村城が落城した。

 このとき、城主の家臣・見次権兵衛は自宅の庭先で息子・権太郎が討ち死にしたのを見て、武士を捨て自宅を寺として志村延命寺を創建、みずから開基となった。

 現在は少し離れているが、熊野神社の別当寺であったらしい。

志村延命寺

 

 志村延命寺から歩いて10分ほどの場所に熊野神社がある。

 熊野神社の祭神は伊佐奈岐命(いざなぎのみこと)ほか2柱。社伝では長久3年(1042年)この地方の豪族・志村将監(しむらしょうげん)が、紀州(現在の和歌山県)の熊野権現の分霊をここに奉祀したという。

 本殿は平安期から鎌倉期に流行した経塚上に建てられており、この神域は志村城の二の丸跡となっている。

熊野神社

 

 志村城とは、康正2年(1456年)千葉氏の一族、千葉隠岐守信胤(ちばおきのかみのぶたね)が本城である赤塚城の前衛拠点として守りを固めるために建てた城である。

 大永4年(1524年)、北条氏綱に攻略されて志村城は落城した。

 熊野神社周辺の樹林は約1,920㎡と広く、昭和40年(1965年)に「都市の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法律」により保存対象となった。そのため東京23区とは思えないほど鬱蒼としている。

熊野神社周辺の樹林

 

 現在12時半、そろそろ昼食でも食べるか、と先ほど通りすぎたカフェに行ってみたが混んでいたため、こちらのお店にした。

 「ボンディ・アルカディア」。神保町にあるカレーの名店、「ボンディ」のフランチャイズらしい。私は板橋区在住8年目、神保町在勤8年目の人間だが、ボンディのフランチャイズが板橋にあることは初めて知った。

ボンディ・アルカディア

 

 ドアを開け、席に腰かける。土曜の昼時、本店のボンディなら長蛇の列ができている頃だが、びっくりするほど人がいない。店員さんが注文を聞きに来たので、ビーフカレーを頼む。

ボンディ・アルカディアのビーフカレー

 

 カレーを頼むとじゃがいもがついてくるところとか、ライスにチーズがかかっているところとか、そういう仕様は神保町の本店と同じだ。ただ、パンチが少し足りないかも…?と思ってしまった。

 

 カレーを食べ終えてボンディ・アルカディアを辞し、見次公園の横を通り過ぎる。見次公園の池ではボートに乗って楽しむ人たちが見えたが、1人でボートに乗るのも憚られたのでそのまま通り過ぎて行った。

見次公園

 

 見次公園の近くに、「さやの湯処」という温泉施設がある。なお、自宅からそこそこ近い温泉施設なので、時々行っている場所だったりする。

 泉質は含よう素-ナトリュウム-塩化物強塩温泉。「強塩温泉」とだけあって、源泉はかなり塩辛い。ただ23区内でグリーンの本格的な温泉に入ることができるので、私としてはかなりおすすめしたいし、いつかブログで紹介したいと思っていた。

 体を洗い、サウナや水風呂、露天風呂をぐるぐる回る。気が済んだので辞し、次の目的地へ向かう。

さやの湯処

 

 さやの湯処から20分ほどのところに、板橋区立中央図書館がある。

 私の家のほど近くにも図書館はあるのだがなぜわざわざここに来たのかというと、板橋区立図書館のなかで「板橋区の歴史」を所蔵している図書館がここだけなのだ。

板橋区立中央図書館

「板橋区の歴史」

 家の近所の図書館と比べて離れているので返却に手間がかかるが、それでも板橋区の記事を書くならこの本を読んでおきたく、借りることにした。

 

 板橋区立中央図書館のそばにもりんりんちゃんのマンホールがある。

 板橋区立中央図書館には板橋区立いたばしボローニャ絵本館が併設しており、そこには3万冊の海外絵本を所蔵している。

 そのほか板橋区立美術館では毎年「イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」が開催されたり、板橋区では印刷や製本が盛んであることから「絵本のまち板橋」として売り出しているようだ。

りんりんちゃんマンホール

 

 上板橋駅に到着したところで、今日のまちあるきを終了する。

上板橋駅

 

 南蔵院はしっとりとした寺院だったが、板橋でも出羽三山の講が盛んであったことは初めて知った事実であった。

 「さやの湯処」に行くタイミングで志村一里塚の前は通り過ぎているはずだが、夜に行くことが多くあまりよく見ておらず、志村一里塚をまじまじと見たのは初めてだった。

 薬師の泉庭園は、最初の予定では行く予定はなかったが前日にChatgptで訪問プランを練ってもらったときに提案されたので行ってみたら思ったよりよい場所だった。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

 

歩いた日:2026年7月4日

【参考文献・参考サイト】

萩原龍夫・伊藤専成(1979)「板橋区の歴史」 名著出版

関東三十六不動霊場会(2017)「関東三十六不動霊場ガイドブック」

東京都歴史教育研究会(2018)「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

坂東三十三観音をめぐる 7.座間・海老名編

 前回、第15番札所・長谷寺と第16番札所・水澤寺に参拝しつつ高崎・渋川をめぐった。今回は第8番札所・星谷寺に参拝しつつ座間・海老名をぶらぶらしようと思う。星谷寺は座間市の寺院なので座間市だけで成立させたい気持ちもあったが、あまり見どころがなかったので星谷寺だけ参拝して海老名市へ向かってしまった。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.星谷寺

 今日は座間駅から出発だ。

座間駅

 

 歩き始めてすぐ、座間市のマンホールを2種類見つけた。

 まず、これは座間市のデザインマンホール。これは座間市の花「ヒマワリ」が3輪彩られたデザインとなっている。

座間市 デザインマンホール

 

 こちらは座間市章。「ザマ」を図案化したもので、円形は座間市の融和と団結をあらわし、翼は市勢の飛躍発展を象徴している。

座間市章マンホール

 

 座間駅から歩いて10分ほどで星谷寺に到着した。

 星谷寺境内にある嘉禄3年(1227年)鋳造銘のある梵鐘には、「大檀那源朝臣信綱」の銘がある。

 寄進者の源信綱は平治の乱(平治元年(1159年))の落武者で、渋谷荘司渋谷重国に20年間仕えた佐々木秀義の孫である。

 鐘は平安様式を残しながら鎌倉様式も見られ、撞座(つきざ)が1つしかないのが珍しい鐘となっている。

 鐘を制作したのは源吉国で、源姓鋳物師の神奈川県内における最古の鐘である。

星谷寺 梵鐘

 

 星谷寺は飛鳥時代・奈良時代、行基によって創建されたと伝えられる古刹であり、坂東三十三観音第8番札所である。

星谷寺

 

 堂内に上がって参拝し、御朱印をいただこうと寺務所で声をかけると、「そこの自動販売機で券を買ってください」と言われた。よく見ると「納経帳」「御姿」などが書かれた自動販売機がカウンターの横に置かれていた。「こういうの、初めて見た…」と呟きながら自動販売機で券を買い、御朱印帳とともにカウンターに出したら数分で御朱印帳と御影をいただくことができた。

星谷寺 御朱印

星谷寺 御影

 

2.相模国分寺跡

 星谷寺をあとにして、座間駅に戻る。電車に乗って、海老名駅で降りる。

海老名駅

 

 海老名駅は海老名市にあるので、マンホールのデザインも違う。

 海老名市の木と花であるツゲとサツキ、そして海老名市のシンボルである相模国分寺跡の七重塔があしらわれ、周りは汚水が浄化されながら雫になっていく様子を表現している。

海老名市デザインマンホール

 

 海老名市章マンホールもある。市章周囲の円は「エビナ」を図案化したもので平和を象徴している。また中央の形は鳥を表し、大きな飛躍を示唆している。

海老名市章マンホール

 

 海老名駅から歩いて15分ほどで「国分寺そば」に到着した。

国分寺そば

 

 人気店のため少し待ってから座席に着席、蕎麦が出てきたのは店に到着してから20分後。店の前の行列から「これは待つかも…」と思ったが、意外と待たなかった。注文したのは鴨せいろそば。

鴨せいろそば

 実は私、鴨肉が結構好きだったりするのだが、鴨肉のぷりぷり具合と蕎麦ののど越しが絶妙で美味しかった。

 

 店をあとにして、相模国分寺跡をめぐる。

相模国分寺跡

 

 相模国分寺跡では昭和40年(1965年)から翌年、および平成2年(1990年)以降の発掘調査の結果、東西160m・南北240mの回廊中央部に講堂が、南側中央部に中門がおかれ、回廊内部の東側に金堂、西側に七重塔を配した、法隆寺式の伽藍配置をもつことが判明している。

 国分寺では武蔵国分寺(東京都国分寺市)についで全国第2位の規模で、創建は出土瓦と敷地内で発見された建立以前の竪穴住居跡の年代から奈良時代中頃と推定されている。

 相模国分寺跡遺跡からは建物の礎石や瓦のほか、七重塔の頂上の金銅製水煙の一部も発見された。

 塔と金堂の礎石は近年の石材分析から、中津川・小鮎川・玉川などの流域から運んだものとわかった。

 現在、海老名市は、この史跡の歴史公園整備計画を順次進め、平成6年(1994年)には約21m四方の七重塔の基壇部分を昔どおりに復元し、平成10年(1998年)以降は中門跡と南回廊跡・僧坊跡の復元工事を完了した。

 

 大型建物跡・区間溝。

 大型建物跡は南北9m、東西33.8m以上の建物跡が発掘されたが、柱の並びが等間隔でないため、複数の建物であった可能性がある。

 区間溝は上幅約1.2m、下幅約1.0mで寺域を区画していたと推定される。

大型建物跡・区間溝

 

 僧坊跡。僧坊とは、国分寺の僧が集団生活をしていた施設のことで、僧坊は塔、金堂、講堂とともに奈良時代の寺院を構成するために必要な建物だった。

僧坊跡

 

 北方建物跡は昭和41年(1966年)に行われた発掘調査で東西9m以上、南北6mで南側に廂(ひさし)がある掘立柱(ほったてばしら)建物跡であることが判明した。

北方建物跡

 

 塔跡は天平13年(741年)の「国分寺建立詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)」をうけて建てられた七重塔の跡である。なお、完全に子供の遊び場となっていた。

塔跡

 

 中門・回廊跡には塔・金堂など主要な建物を囲む回廊とそのなかに入るための正門である中門があった。

中門・回廊跡

 

 実は、国分寺は今も続いているので向かってみようと思う。

 途中にあったのが海老名の大ケヤキで、根回り15.3m、目通り7.5m、樹高20mの巨木であるが、保護されたり支えられたりで、台風が来たら倒れるのではと思ってしまう。

海老名の大ケヤキ

 

 相模国分寺跡から5分ほどで国分寺に到着する。名前通り天平9年(737年)創建の古刹である。あとで海老名市の国分寺に行った話を職場の御朱印マニアに話したら御朱印がもらえたらしいことが判明した。

国分寺

 

 星谷寺の梵鐘は古いものだったが国分寺の梵鐘も正應5年(1292年)の古いもので、寄進者は源季頼。

国分寺の梵鐘

 

3.海老名市温故館~1階展示~

 国分寺から相模国分寺跡まで戻り、相模国分寺跡の隣にある海老名市温故館に入る。

 海老名市温故館は大正7年(1918年)に海老名村役場庁舎として建築されたものを一部移築保存し、復元したもの。

海老名市温故館

 

 秋葉山古墳群の出土品。秋葉山古墳群は海老名市内の古墳群で、発掘調査の結果、およそ1,700年前頃にこの地域を統治していた歴代権力者の墓として造られたことが判明した。

秋葉山古墳群の出土品

 

 土器のなかにキラッと光るものが見える。これは水銀朱で、古代中国において鮮やかな色や防腐効果があることから、不老不死を願う仙薬として使われていたものである。古代中国では不老不死を願って水銀を飲んだという話は聞いたことがあるが、むしろ寿命を縮めているのでは…と思うのは現代人の発想である。

水銀朱

 

 滑車形耳飾。縄文時代のアクセサリーらしいが、装着イメージ図を見ると、現代でも稀に見る巨大ピアスを開けている人のように見える。痛いのが苦手な上に、皮膚炎になりやすいためピアスを開けていない私には無理なファッションだなと思う。

滑車形耳飾

 

 古墳時代中期の鉄剣。現存する長さは80.3cmだが、茎(なかこ。把(つか)を装着する部分。)が欠損しているため、実際はもっと長かったと思われる。

古墳時代中期の鉄剣

 

 相模国分寺跡の模型。

 国分寺は奈良時代の天平13年(741年)2月、聖武天皇の詔(みことのり)により鎮護国家・鎮災到福(ちんさいちふく)を祈るため国ごとに設置された官寺で、僧寺を「金光明四天王護国之寺」、尼寺を「法華滅罪之寺」という。この模型は実物の100分の1で作成されているようだ。

相模国分寺跡の模型

 

 均整唐草文軒平瓦(きんせいからくさもんのきひらがわら)と珠文縁単弁五葉蓮華文軒丸瓦(じゅもんぶちたんべんごようれんげもんのきまるがわら)。いずれも相模国分寺跡の塔跡で発掘された、奈良時代の瓦である。

均整唐草文軒平瓦と珠文縁単弁五葉蓮華文軒丸瓦

 

 こちらは珠文縁単弁八葉蓮華文軒丸瓦(じゅもんぶちたんべんはちようれんげもんのきまるがわら)と偏行唐草文軒平瓦(へんこうからくさもんのきひらがわら)。こちらは相模国分尼寺跡の金堂跡で発掘された。相模国分尼寺跡は行くか一瞬検討したが、少し歩くのと雨が降っていたのでやめておいた。

珠文縁単弁八葉蓮華文軒丸瓦と偏行唐草文軒平瓦

 

 密教では物質を構成する要素を地・水・火・風・空の5元素であるとする。これを下から上へと積み上げて塔の形にし、大日如来を表したものが五輪塔である。

五輪塔

 

 板碑とは板状の石で造られた供養塔で、鎌倉時代から室町時代に造られた。板碑の身部には仏像をあらわす梵字(種子)が刻まれ、造立年代が彫られるのが一般的で主尊に阿弥陀如来を表す梵字「キリーク」を刻むものが多くみられる。

板碑

 

4.海老名市温故館~2階展示~

 海老名市温故館の2階に向かう。ここには古い道具がいろいろ展示されている。

 タイプライター、電子計算機、蓄音機。これら全てがパソコンやスマホで現代はまかなえてしまう。

タイプライター、電子計算機、蓄音機

 

 手回しミシン。ドイツ製らしい。ちなみに私は中学校や高校の実習でミシンを使った記憶があるが、不器用なのもあってあまりうまく扱えず、授業に全部参加していたのに補習になった記憶がある。でも、今はミシンが使えなくても良い職業にいるので、あまり気にしていない。

手回しミシン

 

 そろばん。そろばんも小学校でやった記憶があるがあまり覚えていない。そろばんだけでも古いものだが、さらに古いもの(明治中期以前)は下の部分の玉が4個ではなく5個であるのは知っている。

そろばん

 

 展示を見ていたら突然お不動様がおられた。海老名市国分杉本で行われていた不動講の道具で、毎月27日に主催者の家に集まって不動尊の前でお経を唱えていたらしい。

お不動様

 

 綿繰(わたくり)。綿花から種子を取り除く器具で、一対のローラーに乾燥させた綿花を通すと繊維が先に繰り出され、種子のみが手前に残る仕組みらしい。

綿繰

 

 練炭。固形燃料で、燃焼をよくするため縦に数個の空気穴が開けられている。密室で燃やしたら大変なことになるやつ。

練炭

 

 足踏脱穀機。稲の穂先から籾を脱穀する道具で、踏み板を踏むと胴が回転し、穂先を当てると籾がはじき出される仕組みになっている。

足踏脱穀機

 

 精米機。玄米の精白に使用する。タンクに玄米を入れると玄米がタンクと精白部の間を自動循環しながら精白され、糠が網目から落ちる。

精米機

 

 「海老名・なつかしの鉄道」という資料展が行われていたので、そちらも紹介する。

 タブレット通票。相模線は単線で列車同士の衝突を防止するため一定区間を閉塞し、閉塞した区間には1列車しか入れないようになっていた。電化前はタブレットと呼ばれる通行票を閉塞器に入れることで列車が入れるようになっていたが、電化に合わせて自動閉塞となった。

タブレット通票

 

 相鉄5000系さよなら記念乗車券。相鉄には5000系が初代、5100系、2代目5000系がいたが、これは2代目5000系の運用終了の平成21年(2009年)に発売されたものらしい。

相鉄5000系さよなら記念乗車券

 

 高座郡海老名村耕地附近平面図。昭和13~15年(1938~1940年)頃作成。相模川中流域の町村を描いた手書き地図で、当時の鉄道路線、駅、役場、学校の位置などが記されている。

高座郡海老名村耕地附近平面図

 

 海老名市温故館の展示を一通り見終えたところで、海老名市のマンホールカードを入手した。ついでにこのマンホールは七重塔の近くにあることも教えてもらった。

海老名市マンホールカード

 

 海老名駅まで歩く。すると、駅前の商業施設、ビナウォークのなかに七重塔のモニュメントがあった。このモニュメントは平成4年(1992年)の海老名市市制施行20周年記念で建てられたもので、相模国分寺の七重塔の1/3縮小版らしい。

七重塔モニュメント

 

 ビナウォークでは何やらイベントをやっていたのでマンホールが確認できるか少し不安だったが、足下を探していくと、カラーマンホールを見つけることができた。

海老名市カラーマンホール

 

 海老名駅に戻り、まちあるきはここで終了だ。

海老名駅

 

 本日は日曜日。明日は仕事。ということで、サウナでもキメるか…と思い、海老名駅からかしわ台駅に移動した。

かしわ台駅

 

 かしわ台駅から10分かからないくらいで、「おふろの王様 海老名店」に到着した。

おふろの王様 海老名店

 

 おふろの王様 海老名店の温泉はナトリウム塩化物温泉で、少し塩の味がした。サウナを3セットキメた上で温泉に入り、最近肩こりが気になっていたのでマッサージチェアにマッサージしてもらい、夕飯にまぐろ丼を食べて帰路についた。

まぐろ丼

 

 星谷寺は座間駅から歩いて行けるという、坂東三十三観音のなかでもトップクラスにアクセスの良い寺院だが、行ったタイミングで参拝者は私ともう一人くらいしか見なかった。ただ札所寺院はこれくらいのほうがよいのかもしれない。

 相模国分寺跡はかなり広い史跡公園となっており、現在は寺跡というより、完全に地域の子供たちの遊び場になっていた。

 海老名市温故館は無料だが展示が充実していた。海老名村役場の再利用なので、建物自体も趣がある。

 なお、これで神奈川県内の坂東三十三観音はコンプリートとなる。

 私の知らない神奈川が、まだまだありそうだ。

位置情報マップ

歩いた日:2026年6月7日

 

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会(2011)

「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

坂東札所霊場会(2019) 「坂東三十三所観音巡礼」 株式会社朱鷺書房

座間市 市の魅力が詰まったデザインマンホール蓋と友好交流都市のデザインマンホール蓋を設置

https://www.city.zama.kanagawa.jp/kurashi/suidou/gesuidou/oshirase/1009566.html

座間市 市章

https://www.city.zama.kanagawa.jp/youkoso/shokai/symbol/1003609.html

海老名市 海老名市のマンホールカードについて

https://www.city.ebina.kanagawa.jp/guide/sumai/gesui/1017802/1013343.html

(2026年6月27日最終閲覧)

関東三十六不動をめぐる 10.石神井公園編

 前回、第10番札所 總持寺に訪れながら西東京を歩いた。今回は第11番札所 三宝寺に訪れながら石神井公園周辺をぶらぶらしようと思う。石神井公園は、池袋駅から西武池袋線に乗ってすぐ行けるのに、あまり行ったことがなかったので新鮮な気持ちで歩けた。

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1.石神井火車站止所の碑

 今日は石神井公園駅から出発だ。

石神井公園駅

 

 現在時刻は10時過ぎ。昼食は食べない予定なので、モーニングをがっつり食べておこうと思う。向かったのは、石神井公園駅前の上島珈琲店。

上島珈琲店

 

 頼んだのはベーコンエッグ&厚切りバタートースト。普段は朝食は食べないか、ウィダーか、グラノラかの生活をしているので、これだけでも丁寧な暮らしをしている感じになる。

ベーコンエッグ&厚切りバタートースト

 

 上島珈琲店のモーニングでお腹いっぱいになったらまちに出かけよう。

 石神井公園駅前に石神井 火車站(かしゃたん)止所の碑がある。

石神井火車站止所の碑

 これは大正4年(1915年)、ここに武蔵野鉄道が開設され、ここに石神井公園駅ができた。これを喜んだ土地の人々が、お金を出し合って碑をつくった。

 なお、「火車站」とは、汽車の駅を意味する。中国流には、「フォーシュータン」と読むそうだ。

 

 石神井火車站止所の碑には近くにある石神井城などの見どころも紹介してあるそうだが、漢文だったので何が書いてあるのかわからないなぁ、と思いながら次の目的地に向かう。途中で、練馬区章の描かれたマンホールを見つけた。

練馬区マンホール

 練馬区の紋章は練馬区が平和で健康で、明るいまちに発展していくようにという願いをこめて、昭和28年(1953年)12月に制定された。

 デザインはカタカナの「ネ」の字と「馬のひづめ」を組み合わせ、図案化したものだ。

 

2.石神井公園ふるさと文化館~練馬大根~

 石神井火車站止所の碑から歩いて15分ほどで池淵遺跡がある。池淵遺跡は現在から約5,000年前の住居跡で、昭和47年(1972年)の発掘調査によって発見された。

池淵遺跡

 

 池淵遺跡の隣に旧内田家住宅がある。旧内田家住宅は練馬区中村にあった民家を、平成22年(2010年)に移築したもの。明治20年代初めの建築と推定されており、一部に江戸時代の古材も使われている。

旧内田家住宅

 

 欄間は寄木細工で作られている。江戸時代に流行した、雪華模様に似ている。

旧内田家住宅 欄間

 

 縁側の桁材は、なんと1本の丸太で作られている。1本の丸太で作るのはよいのだが、いかんせん1本の丸太なので太さが場所によって違い、玄関側は根本なので太く、だんだん細くなっていく。丸太の太さによってガラス窓の大きさが調整されており、大工の技術力の高さが伺える。

旧内田家住宅 桁材

 

 旧内田家住宅の隣に、石神井公園ふるさと文化館がある。石神井公園ふるさと文化館は練馬区の歴史や伝統文化、自然などについて解説されている。

石神井公園ふるさと文化館

 

 平安時代末期から秩父平氏の一派が豊嶋氏を名乗り始め、鎌倉時代の末頃から南北朝時代にかけて石神井城・練馬城を拠点として周辺の開発に力を注いだ。

 豊嶋氏は上杉氏に従って活躍したものの太田道灌と対立した結果、文明9年(1477年)に石神井城は落城、豊嶋氏は滅亡した。

 石神井城の模型が展示されていた。なお、石神井城跡はこの後訪問する。

石神井城の模型

 

 練馬といえば、練馬大根である。

 江戸時代の元禄期、すでに人口100万を超えていた江戸では膨大な野菜の需要があり、それにこたえるように練馬大根の栽培は発展していった。

 和食しかない当時でも、練馬大根ははりはり大根、汁物、ふろふき大根、たくあん漬け、切り干し大根などにされて消費されていった。

 はりはり大根だけ初めて聞いたので何か調べてみたら、生の大根で作る漬物のことらしい。

練馬大根の大根料理

 

 排泄はトイレで行う。これは当たり前のことだし、江戸時代の人も排泄は厠(かわや)で行っていた。

 しかし水洗トイレが普及した今は、排泄したあとに排泄物を下水に流すが、下水道が発達していなかった江戸時代は、排泄物はいったん溜めておくことになる。

 その溜めた排泄物を練馬の人たちは農作物と引き換えに回収して、練馬に持ち帰る。なんでそんなことをするのかというと、排泄物を農作物の肥料として使うためである。

 今では考えられないことだが、当時は下水が発達しておらず排泄物の処理に困っていたことや、排泄物すら肥料にして無駄にしない、そういう時代だったのである。

 中世ヨーロッパは「ベルサイユのばら」などで美しい世界だと思われがちだが、排泄をトイレで行うところまではよいのだが、その排泄物は路上に捨てられる。

 その結果伝染病が蔓延したり、排泄物を踏まないために女性のヒール靴が発達したりした。中世ヨーロッパは美しく見えるが、こう考えると日本の江戸のほうが余程衛生に気を遣っている印象がある。

 ここに樽と桶が展示されているが、左側の樽は練馬大根をたくあん漬けにするための四斗樽で、右側の桶は肥桶(こえおけ)、下肥(しもごえ)、つまり排泄物を運ぶのに用いていた。

四斗樽と肥桶

 

 「練馬大根にまつわるはなし」が展示されている。

 江戸幕府3代将軍・徳川家光が品川の東海寺に訪れたとき、沢庵和尚に「何か珍しい食べ物はないか?」と聞いた。

 沢庵和尚は「禅寺では贅沢をしないので、たくわえ漬けの香の物があるだけなのですが」と言ってたくわえ漬けを出した。

 家光はたくわえ漬けを食べて「これはうまい。以後、たくわえ漬けではなく、あなたの名前をとってたくあん漬けにしなさい。」と言い、以降たくわえ漬けはたくあん漬けになったという。

練馬大根にまつわるはなし

 

 徳川家光と沢庵和尚のやり取りとしては、以前こんな話も紹介している。

 家光が、沢庵和尚に対して「なぜ、ここは海から近いのにトウ海寺(東海寺。「遠い」とかけている。)と言うのかね?」と聞くと、すかさず沢庵和尚が「それは、大軍を率いるお方でもショウ軍(将軍。「小」とかけている。)と言うのと同じですよ。」と答えた、というエピソードがある。このやりとりが行われた場所が「問答河岸跡」として現在も品川に残っている。深く考える必要はない。ただのダジャレだから。

 このエピソードに関しては「東海道を歩く 2.品川駅~川崎駅 前編」や「江戸三十三観音をめぐる 13.品川編」で紹介している。

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 練馬大根が展示されている。その昔、練馬大根作りの名人とされた又六という人物が一尺八寸(約55cm)の巨大な練馬大根の栽培に成功したそうだが、それくらい大きく見える。

練馬大根

 

3.石神井公園ふるさと文化館~としまえん~

 練馬区は、実は23区のなかで一番の新参者であるということは御存知だろうか。

 まず、明治22年(1889年)に東京市が発足した。最初から政令指定都市のような扱いで、東京市発足と同時に麴町区、神田区などの15区が発足した。

 昭和7年(1932年)、東京市は周辺町村と大規模合併を行い、合併された地域も区が新設され、35区になった。このとき練馬区の地域であった大泉村、石神井村、上練馬村、中新井村、下練馬村は東京市に編入され、板橋区になった。昭和18年(1943年)に東京市は廃止、35区がそれぞれの行政区になる。

 昭和22年(1947年)3月、太平洋戦争の東京大空襲等により人口が減少したため、区の再編が行われ、35区あった行政区が22区に統合された。なお、この時点でまだ練馬区は登場していない。

 練馬区は、戦前期から板橋区からの分離運動を行っていたようだが、結局それが受け入れられるのは昭和22年(1947年)8月のことであり、練馬区の分離をもって現在の東京23区が完成した。

練馬区の変遷

 

 護符。旧内田家住宅の屋根裏に貼られていたもので、武蔵国御嶽神社(青梅市)、榛名神社(群馬県高崎市)、阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)、成田山(千葉県成田市)、富士山本宮浅間神社(静岡県富士宮市)の護符が並ぶ。このうち、榛名神社と阿夫利神社、成田山は割と最近行ったし、阿夫利神社はブログに取り上げている。

護符

榛名神社(改修中)

阿夫利神社

成田山

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 練馬区には、その昔「としまえん」という遊園地があったことを覚えている人は多いだろうか。

 としまえんは大正15年(1926年)から94年間営業して、令和2年(2020年)に惜しまれながら閉園した遊園地である。私も閉園間際のとしまえんに友人と行って、写真を撮ってきたことを思い出す。

としまえん

 これは昭和13年(1938年)および昭和16年(1941年)に刊行されたとしまえんの地図である。

 昭和12年(1937年)に日本企業株式会社による経営となったため、豆汽車や飛行船などのおもちゃが設置され、「スポーツランド」として整備された。

 昭和16年(1941年)頃、としまえんは練成会(特定の目的のために集まって共同生活を送りながら教えや技術を学んで心身を鍛錬する行事)に使われていた。いかにも戦時下っぽい行事である。

としまえんの地図

 

 昭和63年(1988年)のとしまえん園内案内図。

 園の中央で一躍存在感を示しているバイキングの顔が取り付けられた大きな船は、昭和59年(1984年)に誕生した「フライングパイレーツ」で、地上45mから全長20m、120人乗りの大船が急降下と急上昇を繰り返す「人間の快感の限界」を再現したアトラクションらしい。

 昔は若干強がりで「絶叫系大丈夫だから」と言って乗ることもあったが(と言ってもディズニークラス以上は乗ることなかったけど)、今の人間関係で無理をする必要もない気がするので、見かけてもおそらく乗らないと思う。

としまえん園内案内図

 

4.石神井公園ふるさと文化館~アニメのまち練馬~

 練馬といえば、アニメ会社の土地、有名なものでは東映アニメーション株式会社の大泉スタジオは練馬区にある。

 東映アニメーションといえば、私が好きで観ている「プリキュア」シリーズや「ワンピース」の制作で知られる。撮影禁止だったが、「おジャ魔女どれみ」や「ハートキャッチプリキュア」のポスターも展示されていた。

 こちらは東映動画スタジオの第1号カメラで、当初は実写用のカメラをそのまま利用していたが、次第にアニメ撮影用の工夫を加えていった。

東映動画スタジオの第1号カメラ

 

 この大規模な装置はアニメーション撮影台。

 この撮影台は東映アニメーションで日本アニメの草創期から使用されていたもので、この撮影台で昭和35年(1960年)の西遊記や昭和52年(1977年)の宇宙戦艦ヤマト、昭和54年(1979年)の劇場版 銀河鉄道999などが撮影された。

アニメーション撮影台

 

5.石神井公園ふるさと文化館~絵葉書で名所めぐり~

 石神井ふるさと文化館に訪れたとき、企画展「絵葉書で名所めぐり―明治期から昭和戦前期の風景―」が開催中だったので、そちらも記録しておく。

 まず「帝都名所」という絵葉書が紹介されていた。これは大正9年(1920年)から大正12年(1923年)、関東大震災前の東京を写したもの。いろいろな絵があるが、このなかだと芝増上寺の山門は行ったことがあるし、過去にブログで紹介している。

「帝都名所」

芝増上寺山門

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 「帝都名所」。大正12年(1923年)前後の絵葉書。上野の西郷隆盛の銅像や日比谷公園の池は行ったことがあるし、現代でもほぼそのままなのが分かる。上野の西郷さんも過去のブログで取り上げたことがある。

「帝都名所」

上野西郷銅像

日比谷公園

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 最新撮影大東京六十景。昭和11年(1936年)から昭和20年(1945年)にかけての東京の写真集で、このなかだと浅草観音堂は行ったことがある。浅草観音堂は空襲で燃えたらしいので、この写真のものと私が撮ったものは、おそらく違う。あと、ブログで浅草寺も徹底特集したことがある。

最新撮影大東京六十景

浅草観音堂

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 石神井今昔。石神井のまちの昔の写真と現代の風景を比較している。道場寺、三宝寺、石神井氷川神社、三宝寺池や石神井池は後ほど行くので、お楽しみに。

石神井今昔

 

 川崎大師の絵葉書(明治40年(1907年)から大正7年(1918年)頃)。川崎大師は神奈川県川崎市の寺院で、以前ブログでも取り上げたことがある。

川崎大師の絵葉書

川崎大師

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 熱海大湯と熱海人車鉄道。熱海は赤羽駅から一本で行けることは知っていたが、実は行ったことがない。

 熱海人車鉄道は明治29年(1896年)に熱海・小田原間で全通した路線で、急な上り坂では客も降りて一緒に車を押したそうだ。たいそう疲れるだろうし、私はいても戦力にならなそうな気がする。なお、熱海人車鉄道の話題は以前「東海道を歩く 8-3.平塚駅~箱根板橋駅③ 6.小田原宿」で触れたことがある。

熱海大湯と熱海人車鉄道

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 尾山神社。尾山神社とは石川県金沢市にある神社で、山門が非常に特徴的な神社である。何年か前に、尾山神社の山門の写真は撮っていた。

尾山神社

尾山神社 山門

 

 「久能山全景」。久能山東照宮は静岡県静岡市にある神社で、現在も久能山に鎮座する。ここも数年前に行っていた。

「久能山全景」

久能山東照宮

 

 名古屋市東山動物園の鷲放養場と名古屋城。東山動物園は行ったことがないが、名古屋城はある。名古屋城は廃城令後も現存していたが残念ながら空襲で焼失、現在の名古屋城は戦後の再建である。この絵葉書の名古屋城は江戸期に建てられたもの。そういえば名古屋城もブログ化していた。

名古屋市東山動物園の鷲放養場と名古屋城

名古屋城

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 大礼記念大阪城公園。大阪城は以前に行ったことがあるし、直前の記事「東海道を歩く 53.守口駅~高麗橋」でも横を通り過ぎている。

 江戸期の大阪城は幕末にほとんど焼失したが、昭和5年(1930年)に再建された。当時は「鉄筋コンクリートで城を再建するなんて…」という意見もあったそうだが、結果的に鉄筋コンクリートで再建したからこそ空襲でも大阪城は燃えなかった。

 空襲は今後なくとも地震で倒壊する可能性は普通にあるので、「城の再建なら木造にこだわらず、耐震性などに十分配慮したもののほうがよい」と私は考えている。

大礼記念大阪城公園

大阪城

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 松山城、宇和島城天守閣、高知市街。松山城も宇和島城も江戸時代の天守閣がそのまま残っている。何年か前に愛媛県に出張で行ったことがあり、そのときにどちらも訪れた。

松山城、宇和島城天守閣、高知市街

松山城

宇和島城

 

 「絵葉書で名所めぐり―明治期から昭和戦前期の風景―」を見終わり、ロビーに出ると練馬区の全体模型がある。水平面は6,000分の1だが垂直面は1,000分の1とやや高めに作られている。やはり鉄道沿線の建物が高い。

練馬区の全体模型

 

6.道場寺

 石神井公園ふるさと文化館をあとにし、道場寺に向かう。

道場寺

 道場寺は豊嶋氏と最も関係が深く、石神井城主・豊嶋左近大夫景村の養子・兵部大輔輝時が、応安5年(1372年)に菩提寺にしたと伝えられている。

 豊嶋氏が滅びたあと一時荒廃したが、その後永禄5年(1562年)北条氏康から税金を一切とらないという寅朱印状を受けて、再び栄えた。その寅朱印状はいまも道場寺の寺宝として残されている。

 山門と鐘楼は昭和45年(1970年)に造られ、昭和49年(1974年)に三重塔が造られた。いずれも総ヒノキ造りである。

 

 境内を歩いていると、「護美箱」というものを見つけた。「これは何か?」と5秒くらい思案を巡らすと、気が付いた。「…ゴミ箱か!」

「護美箱」

 

 道場寺は武蔵野三十三観音の第2番札所であるので、御朱印をいただける。いつか武蔵野三十三観音もやってみたい。

道場寺 御朱印

 

7.三宝寺

 道場寺をあとにし、三宝寺に向かう。

 三宝寺は応永元年(1394年)に開山した。その後、太田道灌が豊嶋氏を滅ぼしたあと、石神井城内だった現在地に移した。

 寛永2年(1625年)及び正保元年(1644年)に、徳川家光が狩猟の際に三宝寺を休憩所としたので、三宝寺の山門は御成門と呼ばれるようになった。

 この御成門は文政10年(1827年)7月26日に建てられ、この後2回火災があったがその難を免れている。

御成門

 

 大黒堂・子育千体地蔵堂。

 昭和4年(1929年)に大黒堂は創建され、そのときに子育千体地蔵尊が合祀された。

大黒堂・子育千体地蔵堂

 

 観音堂がある。ここに武蔵野三十三観音の第3番札所の観音様が祀られている。

観音堂

 

 火伏稲荷社。

 昔、三宝寺付近で火災が起こったとき、境内の稲荷社に祀られていた老いた狐が火災について寺に知らせたためことなきを得て、稲荷社は火伏稲荷社と改称された。

火伏稲荷社

 

 境内に石碑が建ち並んでいるが、これは四国八十八ヶ所お砂踏霊場である。

 明治29年(1896年)、当時の住職・清護真事師が発願して造り始めたもので、当時第17番札所まではできたがその後中断、70年間そのままになっていた。

 昭和48年(1973年)、弘法大師の誕生1,200年記念事業のひとつとして、途中になっていた四国八十八ヶ所お砂踏霊場について檀信徒に呼び掛けてその完成を目指し、残り71ヶ所の石碑と高野山奥之院を模した大師堂を建てた。

 完成は昭和48年(1973年)と結構新しいが、現代でも四国八十八ヶ所をすべて巡るのはお金も時間もかかるので、これをぐるりと一周してみることにした。ちょっと足場が悪いところもあるが、概ね10分程度で一周できる。

四国八十八ヶ所お砂踏霊場

 

 宝篋印塔は天明元年(1781年)6月に建てられたもので、当初御成門近くにあった。しかし大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊したため、大正14年(1925年)に現在地に移建した。

宝篋印塔

 

 大師堂はかつては小堂であったが、昭和42年(1967年)の弘法大師誕生1,200年記念のときに改築された。四国八十八ヶ所の最後に参拝する、高野山奥之院を模している。

大師堂

 

 三宝寺の本堂に祀られる御本尊は不動明王で、こちらが関東三十六不動・第11番札所の不動明王ということになる。

 江戸時代の本堂は文久3年(1863年)に焼失、その後すぐ再建されたが明治7年(1874年)にまた焼失したため、しばらく再建されることはなかった。

 大正11年(1922年)にようやく再建の着工をみたが、大正12年(1923年)の関東大震災で中断し、昭和16年(1941年)に太平洋戦争でまた中断、再建がなかなか進まなかった。

 昭和26年(1951年)に第34世頼典和尚が継続して再建工事を進めた結果、昭和28年(1953年)にやっと本堂が完成した。明治期の焼失から79年後の再建である。

三宝寺 本堂

 

 鐘楼の鐘は延宝3年(1675年)の鋳造であるが、鐘楼は明治28年(1895年)の再建である。

鐘楼

 

 通用門は勝海舟の屋敷門だったようだが、所有者の都合により手放さざるを得なかったため、当時の練馬区長の斡旋もあり昭和35年(1960年)に三宝寺に移建された。

通用門

 

 三宝寺で御朱印をいただく。関東三十六不動の御朱印、関東三十六不動の御影と童子像、あと武蔵野三十三観音の第3番札所の御朱印をいただいた。

関東三十六不動の御朱印

関東三十六不動の御影と童子像

武蔵野三十三観音の第3番札所の御朱印

 

8.石神井氷川神社

 石神井氷川神社に向かう。

 応永年間(1394~1427年)に豊嶋氏が、武蔵一宮氷川神社(現在の埼玉県さいたま市)から分霊を石神井城内に勧請したものだと伝えられている。

 豊嶋氏が滅んだのちも石神井郷の総鎮守であり、戦前は郷社として格式の高い神社であった。

石神井氷川神社

 

 「外国硬貨専用 賽銭箱」…両替の手間があるから分けてあるのだろうが、ここにそんなに外国人観光客、来るかね…?と思ってしまう。

「外国硬貨専用 賽銭箱」

 

 石神井氷川神社で御朱印をいただいた。御朱印をいただくときに使った御朱印帳について、先日佐賀県有田町の陶山神社で買った磁器の御朱印帳でいただいたところ、これを見て神社の方が「ところでこの御朱印帳って何でできてるんですか?」と聞いてきたので、「磁器です。珍しいでしょ?」と答えた。珍しい御朱印帳を使ったため話題が生まれた。

石神井氷川神社 御朱印

 

9.石神井公園

 石神井公園のなかに、石神井城址がある。

 石神井城は鎌倉時代末に築かれた豊嶋氏の居城で、北の三宝寺池と南の石神井川にはさまれた台地上にある平山城である。

 発掘調査によると、広さは東西約350m・南北約100~300mで、掘と土塁を合わせると比高10mほどとなり、堅固な防御施設であったことが判明している。

 文明9年(1477年)に豊嶋泰経が太田道灌に敗れると石神井城も落城し、廃城となった。現在、城の内部の土塁と空堀の一部が残っている。

 なお、石神井城址はフェンスで囲まれ、立入禁止となっている。

石神井城址

 

 石神井城址から坂を下りていくと、三宝寺池がある。

 三宝寺池は武蔵野台地の代表的な湧水池であるが、周辺の宅地化に伴って年々湧水が減少し、現在は地下水をくみあげて補給している。

三宝寺池

 

 三宝寺池は禁猟区で、自生水草類が多く三宝寺池沼沢植物群落として国の天然記念物に指定され、ミツガシワ・カキツバタなどが保護の対象となっている。この日はちょうど、カキツバタが咲いていた。

 カキツバタといえば、在原業平がかきつばたという5文字を句の上に据えて読んだ、「からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」という句が有名だが、その句を詠んだ「三河国八橋」が現在の愛知県知立市にあり、それゆえに知立市はカキツバタを推している、という話を思い出した。

 なおこの話は「東海道を歩く 33.岡崎公園前駅~知立駅 6.知立市に入る」で取り上げている。

三宝寺池沼沢植物群落のカキツバタ

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 それにしても、「ここは尾瀬か」と錯覚したくなるほど美しい景色が広がっている。もっともここは尾瀬ではなく、練馬区である。

三宝寺池

 

 石神井公園には殿塚と姫塚がある。石神井城の落城のとき、城主・豊嶋泰経が家宝の黄金の鞍をおいた白馬にまたがり三宝寺池に入水し、娘の照姫も池に身を投じたという悲しい伝説があり、その後遺体を葬ったのが殿塚と姫塚らしい。

殿塚

姫塚

 

 石神井公園には石神井公園ふるさと文化館分室がある。

石神井公園ふるさと文化館分室

 

 石神井公園ふるさと文化館分室は練馬ゆかりの文化人に関する展示があるが、本館とは違い、漫画家コーナー以外は撮影禁止だった。

 漫画家コーナーだけ紹介させていただくと、この日展示されていたのはてしろぎたかし氏と森真理氏であった。

 てしろぎたかし氏は「スーパーフィッシング グランダー武蔵」「音速バスターDANGUN弾」などを発表している。

てしろぎたかし氏の原稿

 

 森真理氏は「銀のしっぽ」「くまモン」などを発表している。

森真理氏の原稿

 

 2階には作家・五味康祐氏が生前集めたオーディオ機器が展示されていたが、こちらに関しても撮影してよいかがわからなかったため載せないことにする。

 展示を見終え、ふとステンドグラスに目を移すと美しい光景があった。

 

 この後友人と会う約束があるので、石神井公園駅まで戻る。せっかくなので、石神井池の池畔を歩いて戻ることにした。石神井池は自然にできた池である三宝寺池と違い、昭和9年(1934年)に造成された池である。

石神井池

 

 石神井池のなかになんか白いものを見つけた。「聖衣」というイタリア産白大理石でできた彫刻らしい。

「聖衣」

 

 石神井公園駅まで戻ってきたので、この後友人と会い、帰路についた。

石神井公園駅

 

 石神井公園ふるさと文化館は無料でたくさんの情報に触れることができるため、おすすめである。私はそこに2時間滞在した。

 三宝寺は境内が広く、いろいろ見どころがあった。四国に行かずとも、四国八十八ヶ所巡りの御利益が得られるのもありがたい。

 三宝寺池は本当に美しく、「私は尾瀬に来たのか?」と錯覚してしまうほどだった。しかし池袋駅から電車で10分、歩いて20分ほどで行ける。リフレッシュしたいときにおすすめだ。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2026年5月10日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

練馬郷土史研究会(1977) 「練馬区の歴史」 名著出版

関東三十六不動霊場会(2017) 「関東三十六不動霊場ガイドブック」

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

練馬区 区章

https://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/kunogaiyo/aramashi/kusho.html

(2026年6月21日最終閲覧)

東海道を歩く 53.守口駅~高麗橋(最終回)

 前回、御殿山駅から守口駅まで歩いた。今回は守口駅から高麗橋まで歩こうと思う。2021年7月から始めた東海道は、ここ、高麗橋をもってグランドフィナーレとなる。最後に感慨に耽るとして、とりあえず、守口駅からの展開を話していく。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.守口宿を歩く

 今日は守口駅から出発だ。

守口駅

 

 大塩平八郎ゆかりの書院跡。現在はマクドナルドがあるだけだ。そこで朝マックを食べ、朝食とした。

大塩平八郎ゆかりのマクドナルド(?)

 

 東海道を歩き始めると謎のゆるキャラの自販機があった。このキャラは「もり吉」といい守口市のゆるキャラで、柴犬の5歳の男の子で守口漬が好きらしい。

 守口漬とは?と思い調べたところ守口大根(守口市に起源を持つダイコンの品種)を酒粕と味醂粕で漬け込んだ漬物のことだとわかった。

もり吉の自動販売機

 

 まっすぐな道が続く。この道は文禄堤の上にできている。

 文禄堤は豊臣秀吉が毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の3家に命じて、治水と京街道の整備を目的として修築した淀川左岸の堤防であり、文禄5年(1596年)に修築が行われたためこの名で呼ばれた。

文禄堤の上の道

 

 「右 なら のざきみち」と書かれた道標。「なら」は「奈良」とすぐわかったが、「のざき」は大東市にある慈眼寺(野崎観音)を意味しているようだ。

「右 なら のざきみち」

 

 守口宿は、遺構らしい建物はないが旧宿場町らしい情緒がある。

 

 守口駅から10分ほどで京阪本線・鴨東線の守口市駅に到着した。なお、前回の終点・今回の起点は守口駅と守口市駅で迷った結果、守口駅にした。

守口市駅

 

 守口市駅から歩いて10分ほどのところに守口市役所がある。なお、この日は祝日だったため、市役所は営業していない。

守口市役所

 

2.大阪市に入る

 「京街道 時空(とき)の道」と書かれた道標。裏を見たら「二〇一一年(平成23年(2011年))」と記載されていたのであまり古いものではない。

「京街道 時空の道」

 

 旭通商店街に入る。関東にはアーケード商店街はあまり残っていないので、アーケード商店街を見ると旅行先に来た気分になる。

旭通商店街

 

 アポロン橋のからくり時計マンホール。前回はモノクロ版しか見つけられなかったが、旭通商店街にはカラー版がある。

 

 商店街に入って3分ほど歩くと左手に神社の敷地らしきものが見えてくる。守居神社だ。

守居神社

 守居神社は社記によると延喜18年(918年)の淀川洪水のとき、西南石礫の渕で、「我は天道の神なり。我を祀れ。」と振鈴の声でお告げがあったので、「土を居いて」お祀りしたのが始まりと伝えられ、祭神は素戔嗚命(すさのおのみこと)である。

 社名は守口と土居(ここは以前「土居」という地名だった)の各1文字をとって「守居神社」と呼ばれている。

 

 参拝し、御朱印をいただいた。若干上に偏っているのが気になる。

守居神社 御朱印

 

 守居神社には稲荷神社もある。そちらも参拝しておいた。

守居神社 稲荷神社

 

 守居神社から歩いて5分ほどでOsaka Metro 谷町線の太子橋今市駅を通り過ぎた。

太子橋今市駅

 

 太子橋今市駅のほど近くに守口市・大阪市のカントリーサインがある。ついに最後の自治体、大阪市に入ったのだ。

守口市 カントリーサイン

大阪市 カントリーサイン

 大阪市のマンホールを見つけた。中央に大阪城を配し、そのまわりをサクラと水流で飾っている。

大阪市 デザインマンホール

 

 こちらは蛇口から勢いよく水が流れ出ているデザインに「水道」の文字が書いてある。

 

 こちらは大阪城、ツインビル、アクアライナー、大阪市役所の北側の堂島川(旧淀川)に架かっている水晶橋をデザインしたもの。

大阪市 デザインマンホール

 

 こちらはシンプルな大阪市章入りマンホール。大阪の繁栄は昔から水運や船によるところが多く、水路標識の「みおつくし」が明治27年(1894年)に大阪市章になり、現在も使われている。

大阪市章マンホール

 

 大阪城マンホール。「旭区」と書かれている。

旭区マンホール

 

3.関目神社

 太子橋今市駅から20分ほどで千林商店街に到着した。アーケードをくぐって、先に進む。

千林商店街

 

 千林商店街の一部が東海道(京街道)であるため、京街道の説明板がアーケード内にあった。

 

 千林商店街のアーケードを抜けても、商店街が続く。ここは森小路京かい道商店街というらしい。

森小路京かい道商店街

「森小路」「京かい道」

 

 橋を渡る。「古市橋」というらしい。

 古市橋が架けられたのは比較的新しく、工業用の船運を目的として昭和10年(1935年)から昭和15年(1940年)にかけて大阪市により城北運河が開削された。このときに古市橋が架けられ、架けられた年は昭和12年(1937年)となっている。

古市橋

 

 「大阪市 水道 排集辨」。右から左に書かれているので古いものだろう。

「大阪市 水道 排集辨」

 

 太子橋今市駅を通り過ぎて40分後に関目高殿駅を通り過ぎる(太子橋今市駅と関目高殿駅はOsaka Metro 谷町線で2駅離れている)。

関目高殿駅

 

 関目高殿駅から10分ほどのところに関目神社がある。

関目神社

 関目神社の創建年代は不詳だが豊臣秀吉が大坂城築城のときに、鬼門除けとして小さな社を建てたのが始まりという。

 関目神社境内には、「関目発祥之地」の石碑が立っている。関目という地名は、平安時代後期の榎並庄の時代からあったもので、この地に見張り所(目でみる関所)があったことからおこったといわれる。

「関目発祥之地」

 

 関目神社本殿の隣には毘沙門天も祀られていた。

毘沙門堂

 

 関目神社で御朱印をいただいた。「須佐之男尊(すさのおのみこと)」とだけ書かれたシンプルなもの。

関目神社 御朱印

 

 御朱印のほか、「大阪あそ歩(ぼ)」という地図もいただいた。「大阪」とは言いつつ、この周辺しか描かれていないけど。

「大阪あそ歩」

 

 また、関目神社で神社の方から、「東海道で本を書こうとしている地図会社の女性の方が3年前に来たけど、もしかしてそのときの人?」と聞かれたが、私に心当たりはないので否定した。もし心当たりのある人がいれば、連絡してほしいものだ。

 

4.野江水神社

 関目神社から歩いて10分ほどのところに「明治天皇聖躅」と書かれた石碑があったが、明治天皇でそこで何をしたのかはわからなかった。

「明治天皇聖躅」

 

 旧道に入る場所に「京街道」と書かれた道標が設置されている。ありがたい。

 

 「防火水そう」。みおつくしマークがあるので大阪市が設置したものだろう。

 

 野江国道筋商店街。アーケード…ではないよな。なお、お店は軒並み閉まっていた。

野江国道筋商店街

 

 野江内代駅。関目高殿駅の隣の駅で、関目高殿駅から40分ほどで到着した。

 どうでもいい情報だが、子供の頃「花ざかりの君たちへ」という漫画がピアノ教室に置いてあったので読んでいた。

 その作品の登場人物のなかに、主人公の友達という設定で「関目くん」「野江くん」という登場人物がおり、この2人はセットで登場することが多かった。

 「花ざかりの君たちへ」の登場人物は関西の地名から名前が取られていることが多いのだが、「関目」と「野江」が隣り合った駅名ということに「なるほど…」と思ってしまう自分がいた。

 この作品は、作者がもう亡くなっているので漫画による新作が作られることはもうないが、この前(令和8年(2026年)1月~3月)アニメが制作、放送されるくらいには人気コンテンツである。

野江内代駅

 

 野江内代駅から5分ほどのところに野江水神社がある。

野江水神社

 野江水神社は天文2年(1533年)三好政長が榎並城の守護神として、水火除難の神をまつったのが始まりといわれ、水波女大神(みずはのめのおおかみ)を祀る。

 

 野江水神社でも御朱印をいただいた。素朴な文字だ。

野江水神社

 

 内代町を歩いていると自販機に…おかっピー…おかきとピーナッツ…これ、ビール等も売っているホテル内の自販機で見るのはわかるのだが、ビールもない普通の自販機になぜこれがあるのか、ちょっとわからない。

おかっピー

 

 「京かいどう 大阪城京橋口から二・一キロメートル」少しずつ、終わりが見えてきた気がする。

 

 また、アーケードのなかに入る。「リブ・ストリート」。ここの商店街は、祝日の昼間ということもあり賑やかだ。

リブ・ストリート

 

 足下を見ると、大阪城マンホール。今度は「都島区」と書いてある。

都島区マンホール

 

5.真実の口

 前回関西住みの友人が関東に移ることになる、という話を書いた記憶はあるが、その友人が私に友人を紹介したいらしい。

 流石に初対面の相手を15km近く歩かせるのは気が引けたので、途中合流となった。進捗は適宜友人に報告していたところ、桜之宮東公園を指定されたので、そこで合流する。

桜之宮東公園

 

 友人と、初対面の友人の友人と、リブ・ストリートを歩いていく。私は、商店街アーケードの天井がこうなってるのを見るのが好きだったりする。

 

 珍妙なものを見つけた。「真実の口」というらしい。

真実の口

 真実の口といえばイタリア・ローマにある石の彫刻で、手を口に入れると偽りの心があるものは、手を抜くときにその手首を切り落とされるとか、手を嚙み切られるとか、あるいは手が抜けなくなるとかの伝説で有名である。

 その真実の口が大阪の京橋にあって、しかも「衆議院選に大阪知事・市長選が始まったのう。そもそも良い政治とは何じゃろか?期待するぜよ、政界の大谷翔平の出現に!」とのたまっている…わけがない。

 「コレ、何…?」と友人と、友人の友人に聞いてみたが、どちらもわからないようだ。深く考えたら負けのシロモノらしい。

 

 足下を見ると、「EXPO 1990」と書かれたマンホールがあった。年的に昭和45年(1970年)に行われた万博のことではなく、平成2年(1990年)に行われた大阪花博のものらしい。

 花博といえば、令和9年(2027年)にも横浜花博が開催されることが決定している。関東在住にも関わらず令和7年(2025年)の大阪・関西万博に3回行った人間としては、楽しみにしているイベントである。

大阪花博マンホール

 

 「右 大坂 左 京みち」と書かれた道標。ここまででかでかと書いてあるとわかりやすい。文政9年(1826年)に作られた道標なので、ちょうど200歳だ。

「右 大坂 左 京みち」

 

 京阪電車の京橋駅とJRの京橋駅が向き合い、人々が乗り換えでせわしなく行きかっている。

京阪電車 京橋駅

JR京橋駅

 

 京橋駅から5分ほどで、二人地蔵尊に着く。

 右側のお地蔵さんは交通災害の身代わり地蔵さん、左側のお地蔵さんは長寿と厄除けの護り地蔵さんというらしい。

 昭和20年(1945年)春に、この路上で自動車事故が発生、双方の車は接触した後で鯰江川に向かって二転三転したが運転手は無傷、エンジンがかかっているのに火災も起こらず、気づいたときには身代わり地蔵さんの首だけが飛んでいたらしい。

 それ以降、身代わり地蔵さんは尊敬を集めるようになった。この身代わり地蔵さんを護る意味でも、護り地蔵さんが奉納されたそうだ。

二人地蔵尊

 

6.京橋

 のだばし阯。

 野田橋は旧鯰江川に架かっていた橋で、江戸時代には京街道の入口にあたるため交通上重要な橋だったが、昭和5年(1930年)頃に寝屋川の改修に伴い旧鯰江川は埋め立て、橋は撤去されたそうだ。

のだばし阯

 

 京橋駅から15分ほどで、東西線の大阪城北詰駅を通過する。東京在住なので、「東西線」というとどうしても東京メトロを連想してしまうが、こちらはJR。

大阪城北詰駅

 

 大阪市内だからか、ミャクミャク様のマンホールを見つけた。ミャクミャク様は令和7年(2025年)の大阪・関西万博の公式キャラクターである。

ミャクミャク様マンホール

 

 大阪城北詰駅から10分ほどで、京橋に到着した。

京橋

 京橋は京街道の起点にあたり京都へ通じる橋という意味から名づけられ、京街道は江戸時代を通じて野崎まいりの人々で賑わっていたようだ。

 

 京橋のたもとには、京橋川魚市場跡がある。

京橋川魚市場跡

 京橋川魚市場は川魚を主に扱う魚市場だったようだ。

 京橋川魚市場の起源は鮒市場で、もともとは漁民が京橋の北詰に川魚を持ち寄って販売する市のようなものだったと考えられている。

 寛保元年(1741年)の「京橋川魚独占販売由来記」によれば、慶長年間(1596~1615年)のはじめごろに、小出播磨守秀政の指示を受けて構成員55人、うち5人を幹事である年寄とする市場機構のシステムが整えられた、と記載されている。

 近代に入り市場機構の変革がすすむなか、京橋川魚市場は明治末期には中之島六丁目付近へ移転し、大正4年(1915年)に大阪川魚株式会社が設立、終焉を迎えた。

 

 遠くから、大阪城が見える。今日は大阪城に寄っている時間はないので、遠目から見るだけとする。

大阪城

 

 大阪城 筋鉄門(すじがねもん)跡。

 元和6年(1620年)に開始された徳川幕府による大坂城再築工事では、同年の第1期工事により二の丸外側に北外曲輪(きたのそとくるわ)が築かれた。筋鉄門は北外曲輪の西の入口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていた。

 門は明治維新後も残り、北外曲輪跡に設置された軍事工場(大阪砲兵工廠)の正門とされたが、現在は左右の石組だけが残る。

大阪城 筋鉄門跡

 

 京橋沿いに石垣が保存してある場所がある。

 この石垣は、昭和50年(1975年)の日本経済新聞社大阪本社建設工事の際、敷地内地下から発見された古い石垣遺構の一部を移築したもの。

 この遺構は元和6年(1620年)の大坂城再築の頃、城北の惣堀に見立てた旧大和川と淀川の合流点付近の旧大和川左岸の護岸用石垣として築かれたものと推定された。

京橋沿いの石垣

7.坐摩神社元宮・行宮

 京阪電車 天満橋駅に到着した。

京阪電車 天満橋駅

 

 天満橋駅の前にポストが3個ある…なんで?一番左側の青いポストは速達専用の郵便ポストらしいが、真ん中と右の違いは…わからない。

ポスト×3

 

 東海道を歩いていると、「熊野かいどう」と書かれた説明板があった。

 熊野街道はこのあたりを起点にして熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野新宮大社)に至る道である。

 熊野街道といえば熊野三山付近にあるやたらと厳しい山道を思い出させるが…あれは熊野古道か…と考えていた。

「熊野かいどう」

 

 天満橋駅から歩いて10分ほどで、坐摩神社元宮・行宮(いかすりじんじゃもとみや・あんぐう)に着いた。

 坐摩神社は生井神(いくいのかみ)ほか4神の総称・坐摩神を祀る神社で、昔から住居守護・旅行安全・安産の神として信仰されている。

 天正10年(1582年)、豊臣秀吉の大坂築城にあたり神功皇后鎮座石のみを残して坐摩神社本社は遷座したため、現在も本社は大阪市中央区久太郎町、本町駅徒歩2分の場所にある。

 現在は本社とは別に、もともとあった場所に元宮・行宮が残っている、ということになる。

坐摩神社元宮・行宮

 

 坐摩神社元宮・行宮には神功皇后鎮座石がある。

 この石は、神功皇后が新羅から帰ってきたとき、坐摩大神を石上に奉祀されたという伝えから「鎮座石」と呼ばれており、また皇后がこの石の上で休まれたと伝えられていることから「休息石」ともいわれている。

 ただ…この石を見て思ったことが…「ゴツゴツして座りにくくないか?」

神功皇后鎮座石

 

 ところでこの鳥は何だろう?と思い調べてみたら、白鷺(しらさぎ)らしい。

 

 御朱印をもらおうと社務所に入ると、神社の方が「いつもはいないんだけど、今日はこっちに来ててね。インスタで勤務日上げてるんだけど、それ見てきてくれたの?」と言われたので、「いえ、ただの通りすがりです」というと「運がいいね!」と喜ばれた。これは最終回補正と考えてよいだろうか。

 坐摩神社元宮・行宮の御朱印がこちら。本社とは微妙にデザインが違うらしいので、昔いただいた本社の御朱印と見比べてみた。確かに違う。

坐摩神社元宮・行宮の御朱印

坐摩神社本社の御朱印

 

 いつも常駐してないということは会えたことも何かの縁、と考えて、元宮・行宮限定のお守りも買った。このお守りは普段使いのリュックに入れている。

坐摩神社元宮・行宮のお守り

 

8.高麗橋

 日本郵政グループ大阪ビル・北浜東郵便局前に2個ポストが並んでいるのを見た。天満橋駅と違って郵便局前だからポストが設置されている意味はわかるが、それでも同じポストが2個ある意味はわからなかった。

ポスト×2

 

 また、日本郵政グループ大阪ビルの前に前島密の胸像があった。前島密は「日本近代郵便の父」と呼ばれる人物なので、郵便局前に胸像があるのはわかるのだが、大阪と何かゆかりがあったかはわからなかった。

前島密胸像

 

 東横堀川を渡らず左折して、1本先の橋まで歩けば…高麗橋到着!

高麗橋

 高麗橋は東横堀川に架橋されている橋で、大坂にあった12の公儀橋のひとつである。

 かつて東海道は江戸の日本橋を起点とし、京都・三条大橋を終点とする「東海道五十三次」であったが、江戸時代に入り新たに街道が整備され、追分で五十三次(京都方面)と分かれ、伏見・淀・枚方・守口を経て大坂・高麗橋を終点とする「東海道五十七次」が整備された。

 東海道五十七次の起点であるため、明治に入るとここに大阪府里程元標が設置された。里程元標とは明治時代初期に道路の距離を測定するために設置された基準点である。里程元標はほとんどが木材でできていたこともあり、石材製の兵庫縣里程元標等を除き、ほとんど現存していない。高麗橋にあるものも里程元標「跡」と書かれている。

 東海道が終わり、嬉しいような寂しいような気持ちになっていたが、振り向けば友人と、友人の友人が。

 普段は写真を撮られるのがあまり好きではない私が、「写真撮って」と友人にカメラを差し出す。「ホントに歩く東海道」の冊子を持って、記念撮影。その後は3人で写真を撮った。

 

9.高麗橋到着後の話

 高麗橋でスマホを見る。現在16時前、18時半新大阪駅発の新幹線で帰る予定なのでまだ時間に余裕がある。

 友人も、友人の友人の方もまだ時間に余裕があるようだったので、せっかくならどこかで腰を据えて話すか、ということになり向かったのは「北浜レトロ」という喫茶店。

北浜レトロ

 北浜レトロは人気店で1時間待ちもざらにあるようだが、この日は30分ほど待ったら席につくことができた。これも最終回補正?

 ショートケーキと紅茶をいただいた。コーヒーと紅茶だとコーヒーを選びがちな私だが、ケーキには紅茶のほうが合うなぁ、と思いながらいただく。

 

 その後1時間ほど雑談をして店をあとにした。この後どうやって大阪駅・新大阪駅に戻るか話題になったが、そんなに遠くないし大阪駅まで歩くことになった。

 

 大阪市立東洋陶磁美術館。この美術館は「安宅コレクション」が住友グループ21社から大阪市へ寄贈されたことにより、昭和57年(1982年)に開館した。この日はもう閉館していた。

大阪市立東洋陶磁美術館

 

 大阪市のデザインマンホール。「市制100周年 平成元年(1989年)」と書かれているが、それにしてはボロボロな気がする。

大阪市 デザインマンホール

 

 大阪市中央公会堂。

 大阪市中央公会堂は大正7年(1918年)、明治時代の株式仲買人・岩本栄之助が大阪市に寄付した100万円を基金にして、気鋭の建築家・岡田信一郎の案をもとに、日本銀行や東京駅の設計を手掛けた辰野金吾らの指導により、5年5カ月の歳月をかけて完成した。

 辰野金吾っぽい建築だなと思ったが、やはり辰野金吾が関わっていた。

大阪市中央公会堂

 

 北区マンホール。

北区マンホール

 

 大阪府立中之島図書館。

 ギリシャのパルテノン神殿を思わせる正面玄関の円柱と階段、銅板葺きのドーム屋根が重厚さを漂わせているこの建物は住友家の基金をもとに、明治37年(1904年)に完成したもので、今日まで100年以上の風雪を刻んでいる。

大阪府立中之島図書館

 

 国道25号の向かい側にあるのは日本銀行大阪支店。

 明治36年(1903年)大阪で第5回内国勧業博覧会が開催されたとき、わが国の近代建築設計の第一人者・辰野金吾によって設計された。

日本銀行大阪支店

 

 この後は大阪駅まで戻り、各々帰路についた。

大阪駅

 高麗橋から中国街道が始まり、中国街道は西宮で西国街道に合流、西国街道は下関まで続いていく…が、もはや東海道ではないし、これ以上遠くまで街道を歩くことも難しいので、ここでグランドフィナーレとしたい。

 いろいろなことを思い出す。休職未遂後に現在の部署に異動して、いろいろ思うことがあってブログを始めたと同時に東海道を歩き始め、東海道を歩いてて数年は平社員・作業員だった状況が上司の休職により作業員から主担当者になり、いろいろあったけど東海道は歩き切り、気づけば役職持ちになっており…「東海道を歩いていた」という状況は5年ほどで変わらなかったし、転職どころか部署異動もなかったけれど、この5年間で本業含む状況はめまぐるしく変わっていった。本業側のスタンスは当然変えざるを得なかったけれど、東海道を歩いて、私は少し変わったのだろうか。変わったと信じたい。

 さあ、次はどこを歩こうか。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

今回の地図⑤

歩いた日:2026年2月23日

【参考文献・参考サイト】

大阪府の歴史散歩編集委員会(2007)「大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊能・三島」 山川出版社

大阪府の歴史散歩編集委員会(2007)「大阪府の歴史散歩 下 河内・堺・和泉」 山川出版社

風人社(2017) 「ホントに歩く東海道 第17集」

守口市 もり吉プロフィール

https://www.city.moriguchi.osaka.jp/kakukanoannai/kikakuzaiseibu/miryokusouzouhasshin/cityp/morikichi/416.html

日本マンホール蓋学会 大阪市のデザインマンホール

https://we-love-manho.com/oosakahu/oosaka/oosaka.html

大阪市 市名 市章 市歌 市の花 市政

https://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000010271.html

大阪市 野田橋

https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000031031.html

大阪市中央区 高麗橋

https://www.city.osaka.lg.jp/chuo/page/0000639768.html

(2026年6月6日最終閲覧)

関東三十六不動をめぐる 9.西東京編

 前回、第9番札所 高幡不動尊に訪れながら周辺を歩いた。今回は第10番札所 總持寺に訪れながら西東京市をぶらぶらしようと思う。東伏見駅から田無駅にかけて歩いたが、西武鉄道新宿線に行く機会はあまりなく、面白く歩けた。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.下野谷遺跡

 今日は東伏見駅にやってきた。

東伏見駅

 

 こちらは旧保谷市のマンホール。真ん中は「保」、外輪は「ウ」内輪は「ヤ」を図案化して「保ウヤ」→「保谷」を表している。

旧保谷市マンホール

 

 西東京市章のマンホール。「市民一人ひとりを優しく包み込み、市の未来へ突き進む先進性、創造性を躍動感いっぱいに表現した市章」らしい。

西東京市章マンホール

 

 旧保谷市のマンホール。保谷市の花・サザンカと保谷市の鳥・シジュウカラがデザインされている。

旧保谷市マンホール

 

 東伏見駅から歩いて10分ほどで下野谷遺跡に到着する。

下野谷遺跡

 下野谷遺跡には、29,000年前の旧石器時代から縄文時代後期に至る大規模な遺構が、西東京市だけでなく境界をこえた練馬区側も含めて広がっている。

 とくに縄文中期中葉から後葉の住居跡はかぎられた発掘域内からでも、東西2ヵ所の環状集落・住居跡300軒以上が確認され、遺跡全体では1,000軒以上と推定されている。

 

 下野谷遺跡では土器溜まり、竪穴住居、土坑墓群が復元されている。

土器溜まり

竪穴住居

土坑墓群

 

 

2.東伏見稲荷神社

 下野谷遺跡をあとにして東伏見稲荷神社まで歩いていると、西東京市のマンホールを見つけた。

 西東京市章の周りに上から時計回りで市の木ケヤキ・ハナミズキ、市の花ヒマワリ(夏)・コスモス(秋)・スイセン(冬)・ツツジ(春)が描かれている。

西東京市マンホール

 

 下野谷遺跡から歩いて10分ほどで東伏見稲荷神社の大鳥居が見えてきた。

東伏見稲荷神社 大鳥居

東伏見稲荷神社 神門

東伏見稲荷神社 拝殿

 東伏見稲荷神社は西武鉄道が沿線開発の一助に、昭和4年(1929年)京都伏見稲荷大社を勧請したもので、社名は東国の伏見ということから命名された。これに伴い、駅名も上保谷駅から東伏見駅と改まった。

 東伏見稲荷神社の裏には「お塚」といって小さなお社がたくさんあり、そこをつなぐように鳥居もたくさんある。小さな伏見稲荷大社だ。

東伏見稲荷神社 鳥居群

 

 東伏見稲荷神社で御朱印をいただいた。ここは書き置きのみの対応となっている。ところでこの紙は和紙?

東伏見稲荷神社 御朱印

 

 新しいデザインの西東京市マンホールを見つけた。

 中央に西東京市章、12時に市の木キャラクターの「けやきくん」、6時に「はなみずきちゃん」、市の花が時計回りにスイセン(冬)、ヒマワリ(夏)、ツツジ(春)、コスモス(秋)が描かれている。

西東京市マンホール

 

 東伏見稲荷神社から歩いて20分ほどで石幢六角地蔵がたっている。

石幢六角地蔵

 六角地蔵の六面にはそれぞれにレリーフが彫られ、台座には六叉路に合わせて北から西まわりに南沢道・前沢道・所沢道・小川道・江戸道・保谷道と刻んである。

 六叉路だと現代でも進むべき方向がわかりにくくなると思うので、この道標は昔の人にとって助けとなっただろう。

 

 気づけば、旧保谷市から旧田無市に入っていたらしい。

 こちらは田無市の木ケヤキの周囲を田無市章で取り囲んでいるデザイン。旧田無市章は「田」を図案化し、突き抜けるように形どった8つの線で、近代的な都市計画によって整備された道路を表している。

旧田無市マンホール

 

 こちらは真ん中がケヤキではなく、田無市の花・ジンチョウゲのデザイン。

旧田無市マンホール

 

 石幢六角地蔵から歩いて10分ほどで柳沢庚申塔がある。

 柳沢庚申塔は200m離れた田無町一丁目交差点にあったもので、「是より右 者(は)んのうみち(飯能道)、是より左あふめみち(青梅道)」と刻まれており、道標を兼ねていた。

 この追分で、南東方向から伸びてきた青梅街道が西に折れ、直進する所沢街道を分岐していた。

 青梅街道は慶長11年(1606年)の江戸城改修に際し、幕府御用の石灰を青梅上成木から運搬するために開かれた街道で、この辺りから田無駅前付近にかけて田無村柳沢宿が開かれた。

柳沢庚申塔

 

3.田無神社

 柳沢庚申塔から5分ほどで、田無神社に到着した。

田無神社 一の鳥居

 

 田無神社に入るとさっそく、赤龍が祀られている。赤龍は勝負運や成績向上にご利益があるらしい。

赤龍

 

 赤龍に続き、白龍も祀られている。こちらは良縁や金運向上にご利益があるそうだ。

白龍

 

 田無神社の本殿に参拝する。ここで田無神社について説明しよう。

 田無神社はもともとは尉殿権現(じょうどのごんげん)と称し、横山道に沿った谷戸の宮山(現在の西東京市立田無第二中学校付近)にあった。

 尉とは水をまもる神様、つまり竜神様のことで、神仏習合時代は不動明王としても信仰されてきた。

 正保3年(1646年)青梅街道田無村柳沢宿に尉殿権現を分祀し、寛文10年(1670年)には谷戸宮山にあった本宮を現在地に遷座している。

 現在の本殿・拝殿は安政6年(1859年)に田無村名主の2代・下田半兵衛富宅(しもだはんべえとみいえ)が再建したもので、本殿外壁・扉・柱などの木彫は江戸より嶋村源蔵を招いて制作している。本殿は鉄筋コンクリート製の覆堂にはいっているため、保存状態はよい。

 明治元年(1868年)神仏判然令により、仏像をご神体とする神社などは明確な神仏分離を求められ、名称を田無神社と改め、祭神も大国主命(おおくにぬしのみこと)となった。

 説明でも「竜神様」が登場したり、赤龍や白龍が祀られていたのもそうだが、田無神社は竜神様の神社である。それゆえに辰年のお正月は例年以上に混んでいたらしい。

田無神社 本殿

 

 田無神社の境内には土俵がある。この土俵は大鵬幸喜氏ゆかりの土俵である。

 大鵬幸喜氏は昭和15年(1940年)生まれの大相撲力士で、顔の良さと圧倒的な強さから、昭和の頃の子供たちの好きなものを並べたワードで「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語が作られるほどの人気を誇った。

 大鵬氏自身はアンチ巨人だったので当時このワードを快く思っていなかったようだが、自伝に「巨人 大鵬 卵焼き―私の履歴書」というタイトルをつけてるあたり、本当は嬉しかったのでは?と思ってしまう。

 大鵬氏は平成25年(2013年)に72歳で亡くなったが、孫の王鵬幸之介(おうほうこうのすけ)氏(平成12年(2000年)生まれ)は平成30年(2018年)に初土俵、現役の大相撲力士である。

 なお、同い年で同じタイミングで初土俵に登った豊昇龍智勝氏は第68代横綱・朝青龍明徳氏の甥だったりするため、(大鵬と朝青龍本人ではないけれども)大鵬の孫と朝青龍の甥が対戦する機会を楽しみにしている相撲ファンも多い。

田無神社 土俵

 

 青龍が祀られていた。青龍は技芸向上や就業成就にご利益があるらしい。

青龍

 

 本殿の前には「一楽萬開」の文字と5匹の龍が描かれた大きな絵馬が置かれている。それぞれ南の赤龍・西の白龍・東の青龍(緑っぽいけど)・北の黒龍、そしてセンターに本殿で祀られている金龍が描かれている。

 

 烏骨鶏のうこちゃん。私は以前、FaceBookのイベントで田無神社に来たことはあったが、このときはうこちゃんの存在に気が付かなかった。今日も私以外撮っている人がいないくらいには参拝者はうこちゃんの存在に気が付いていない。でもそんなことは気にせず、うこちゃんはのんびりしていた。

うこちゃん

 

 黒龍。黒龍は健康祈願や家内安全にご利益があるらしい。

黒龍

 

 龍ではないが、この日は5月6日だったので境内に鯉のぼりが泳いでいた。

鯉のぼり

 

 一通り境内をまわったところで御朱印をいただいた。竜神様の神社ということで竜のハンコが5か所に押されていることと、御朱印の当て紙が絵馬と同じ竜神様デザインになっている。

田無神社 御朱印

 

4.總持寺

 總持寺に向かう。道中、変わったマンホールがある。これは「市の花 タナシツツジ」と書かれている。これは田無市の市の花だ。

タナシツツジ マンホール

 

 これは市の花 サルビアのマンホール。これもおそらく田無市時代に設置されたものだろう。

サルビア マンホール

 

 田無神社から歩いて5分で總持寺に到着した。

總持寺

 

總持寺 本堂

 

 田無神社の神宮寺であった西光寺には、田無神社拝殿にかかっていた「尉殿大権現」の扁額が保存されている。

 西光寺は戊辰戦争のおり、抗戦を主張する振武隊の詰所がおかれたことで有名。振武隊とは上野彰義隊から分派した渋沢喜作(渋沢栄一のいとこ)が田無で組織した隊で飯能の戦い(慶応3年(1868年))で壊滅し、その後渋沢は函館五稜郭へ向かっている。

 西光寺は現在、總持寺と改称されて、田無神社から道1本隔てた場所にある。

 田無神社と總持寺、近いなとは思ったものの、やはり神社と元別当寺という関係性だった(別当寺とは、江戸時代以前に置かれた神社を管理する寺院のこと)。

 

 本堂の隣に「滝の不動尊」がある。

 この御堂に祀られている滝の不動尊は明治11年(1878年)に千葉県成田市の新勝寺から勧請し、柳沢の宿屋「田丸屋」に祀られていたもの。大正6年(1917年)に田丸屋から總持寺に遷座した。

滝の不動尊

 

 總持寺で御朱印をいただいた。總持寺が関東三十六不動第10番札所となっている。御朱印をいただくと、御影と童子像もいただけるので、これは家に帰ってから御朱印の裏に貼るシステム。

總持寺 御朱印

御影・童子像

 

5.稗倉・養老田碑

 總持寺をあとにして、稗倉・養老田碑に向かう。途中にシンエイ動画の本社があった。

 シンエイ動画はアニメ制作会社で、代表作は「ドラえもん」や「クレヨンしんちゃん」である。

 少し前の作品であるが、「あたしンち」もシンエイ動画が制作している。あたしンちのアニメの舞台は西東京市田無と設定されているが、これはシンエイ動画の立地とも関係しているのだろう。

シンエイ動画

 

 總持寺から歩いて5分で稗倉(ひえくら)と養老田碑(ようろうでんひ)がある。

 稗倉は天保9年(1838年)建造の備荒用倉庫で、500石(約75t)の稗を貯蔵していた。

稗倉

 

 養老田碑は、名主・下田 富宅(しもだ とみいえ)の功績を安政年間(1854~1860年)に顕彰したものである。

 下田家は敷地内を貫流する田無用水を利用した水車製粉を生業とし、3代の下田半兵衛(下田 富永(とみなが)・富宅・富潤(とみひろ))は一橋徳川家に出入りすると同時に、賀陽玄雪(かやげんせつ)・玄順(げんじゅん)を相談役に無医村解消や稗倉・養老畑など社会福祉に貢献している。

養老田碑

 

 稗倉・養老田碑から5分ほどで田無駅に移動、今日のまちあるきはここで終了となる。

田無駅

 

 明日から5連休明けの仕事、それだけ考えると萎えるので、温泉入って気合でも入れるか、と考えた。

 田無駅からひばりヶ丘駅にバスで移動し、そこから東久留米駅まで西武鉄道池袋線で移動する。そこから送迎バスに乗り、向かったのは「スパジアム ジャポン」。

ひばりヶ丘駅

東久留米駅

スパジアム ジャポン 送迎バス

スパジアム ジャポン

 東京の温泉といえば塩分を多く含み、茶色や黒に濁った温泉が一般的だが、ここは炭酸水素塩泉を多く含む透明な温泉だった。

 サウナでテレビを見ながら「5月病対策方法」なるものを特集していたが、「こちとら連休明けから今年の新卒の子の研修だから、そんな5月病になってる暇なんかないんじゃ~!!」とサウナ室で叫びたくなった。

 髪を乾かし、レストランに向かう。「明日から新卒の子の研修だし…ちょっとぐらい奮発しちゃっても、いいよね?」と呟き、ビールとロービー麺(ローストビーフラーメン)を注文した。最近食が細くなり3kg減っている状況のため、ラーメンを食べきるのになかなか苦戦した。

ビール

ロービー麺

 

 この後は再び送迎バスに乗って東久留米駅まで戻り、そこから帰路についた。

 

 東伏見稲荷神社は、歴史こそ浅いが本殿の奥の小さな祠やたくさんの鳥居から、小さな伏見稲荷大社だな、と感じた。

 今年は午年で、しかも正月でもないのだが、田無神社は多くの参詣客で賑わっていたので、辰年の正月の混雑はいかほどであったのか気になる。ただ、もう少しうこちゃんに気づいてあげて…!

 田無神社の道路を挟んだ場所に總持寺があったが、こちらはひっそりとしていた。ただお寺はこれくらいのほうが味わい深い気がする。

 スパジアム ジャポンは駅近ではないので送迎バスで向かい、かなりの人気施設のため会計や帰りの送迎バスの混雑で送迎バスを1、2便見送る羽目になったが、クオリティの割に料金がリーズナブルだったのでまた行ってもよいかも、と思った。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2026年5月6日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

東京都歴史教育研究会(2021) 「東京都の歴史散歩 下 多摩・島嶼」 山川出版社

関東三十六不動霊場会(2017) 「関東三十六不動霊場ガイドブック」

日本マンホール蓋学会 西東京市のマンホール

https://we-love-manho.com/toukyou/nisitoukyou/nisitoukyou.html

西東京市 市章

https://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/syokai/symbol/sisyo.html

(2026年5月24日最終閲覧)