10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

江戸三十三観音をめぐる 8.四谷・東円寺編

 前回、江戸三十三観音第17番札所宝福寺に参拝しながら神田川沿いを歩いた。今回は第18番札所真成院に参拝しながら四谷をぶらぶらしつつ、方南町駅に向かい第19番札所東円寺を訪問しようと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.田宮稲荷神社跡・陽運寺

 今日は四谷三丁目駅からスタートだ。

四谷三丁目駅

 

 四谷三丁目駅から国道20号線を離れ、住宅街を歩いていくと田宮稲荷神社跡がある。

田宮稲荷神社跡

 田宮稲荷神社跡は、「東海道四谷怪談」に出てくる「お岩さん」ゆかりの神社である。

 お岩は、幕府御家人田宮又左衛門の娘で、田宮伊右衛門の妻で、美人だったという。

 下級武士の家で生活は苦しくも、お岩はよく働いて家を守り、代々家に伝わる稲荷を厚く信仰していたという。

 このお岩にあやかろうと、家内安全・商売繁盛を祈り、人々は「お岩稲荷」として信仰するに至り、明治以降は田宮神社と呼ばれた。

 なお、お岩は寛永13年(1636年)に病没したという。

 これが事実であり、怪談のもとになるような話はなにもない。

 

 ところが、文政8年(1825年)、四世鶴屋南北は歌舞伎台本「東海道四谷怪談」を書き、三代目尾上菊五郎が浅草の中村座で上演、大当たりした。

 四谷左門町の浪人、民谷伊右衛門の妻お岩が、夫の不実を恨んで憤死し、亡霊となってたたるという怪談物である。

 この話は完全なフィクションながら、南北が各種の事件を素材に、巧みに構成したことや当時エロ・グロが流行していたことからたちまち評判になったという。

 

 お岩さんは真面目に働いて、稲荷を信仰していた人だったのに、後世の人によって亡霊に脚色されてしまったのだ。

 実際、「お岩さんの稲荷に行った」と友達に話したところ、「お岩さんの稲荷って…なんか怖くない?」と言われてしまった。

 「東海道四谷怪談」はヒットしたものの、これはお岩さんにとって名誉毀損といってもいい事案だ。東海道四谷怪談のヒットを、お岩さんはどう思っていたのだろうか。

 

 田宮稲荷神社跡の向かい側に陽運寺がある。陽運寺でもお岩稲荷を祀っている。

陽運寺

 境内には「於岩稲荷水かけ福寿菩薩」がある。「南無妙法蓮華経」と唱えながら菩薩像に水をかけると幸せが訪れるという。私も「南無妙法蓮華経」と小声で唱えながら、水をかけた。

於岩稲荷水かけ福寿菩薩

 

 それにしても、陽運寺の境内には多くの人がいた。「陽運寺は縁結びの寺と説明板に書かれていたからみんなお岩さんにあやかろうとして来たのだろう」と思い参拝客を見ると、みんな同じパンフレットを手に持っている。どうやら、何かのイベントのチェックポイントとして陽運寺が指定されていたらしい。

 その人たちは、パンフレットに何やら書きものをしたら、すぐ陽運寺を出ていってしまった。福寿菩薩に水をかけたり、お堂に参拝する人もいたが、お堂に参拝することなく境内をあとにする人のほうが多いと感じた。

 寺社仏閣に行って「参拝しない」という選択肢がない私として、非常にもったいないことをしているなぁ、と思ったのが正直な感想である。

 

 気をとりなおして、御朱印をいただいた。サルやかぼちゃの絵が描かれていて、とてもかわいい。

 

2.永心寺

 陽運寺の突き当たりを左折すると、本性寺がある。本性寺は日蓮宗の寺院である。

本性寺

 本性寺には萩原宗固(はぎわらそうこ)の墓がある。萩原宗固は江戸中期の国学者歌人である。宗固の門人には、塙保己一(国学者)や松平定信(老中)などがいた。

 本性寺の毘沙門堂は釘を1本も使わない手斧(ちょうな)削りの切組造で、元禄(1688~1704年)頃の建造とされている。

本性寺毘沙門堂

 本性寺の近くに闇坂(くらやみざか)という坂道がある。

闇坂

 闇坂はこの坂の左右にある松巌寺と永心寺の樹木が茂り、薄暗い坂であったためこの名がついたという。今は薄暗くない坂道だ。

 

 闇坂の隣に永心寺がある。

永心寺本堂

 永心寺の本堂は享保11年(1726年)の建立で、北を正面とする方丈型の平面形式をもち、正面中央に向背を設けている。

 新宿区内では希少な江戸時代の寺院建築なので、新宿区指定有形文化財に指定されている。

 

 永心寺の山門も新宿区指定有形文化財に指定されている。

永心寺山門

 山門の正確な建立年代は不明だが、絵様が元禄年間から18世紀中頃の作例に類似していることや、扁額に慶応3年(1867年)の年号が刻まれていることから、江戸時代に造られた門であることは確からしい。

 

 永心寺の向かい側に、勝興寺がある。

勝興寺

 勝興寺には、死罪執行の首打役で「首切り朝右衛門」といわれた山田朝右衛門の墓が墓地入口右側にあったようだが、気がつかなかった。

 

3.須賀神社

 勝興寺をあとにして、須賀神社に向かう。須賀神社の天白稲荷神社があるほうの門は冠木門になっている。

 

 天白稲荷神社に参拝してから、本殿に向かう。

天白稲荷神社

須賀神社

 須賀神社は江戸時代以前は四谷牛頭天王社といったが、明治以降須賀神社と改称された。牛頭天王に稲荷社を合祀する四谷の鎮守となっている。

 須賀神社の天井に三十六歌仙の額がかかげられている。現在の新宿区大京町に住んでいた旗本で画家の大岡雪峰が天保7年(1836年)に奉納、歌は公卿の正三位中納言千種有功(ちぐさありこと)が書いている。参拝するとき、本殿のなかをのぞくと三十六歌仙の額を見ることができた。この額は新宿区指定有形文化財に指定されている。

 須賀神社御朱印をいただいた。御朱印は書置きのみとなっている。

 

 須賀神社をあとにして、須賀神社男坂に向かう。この景色、見たことがある人もいるのではないだろうか。

須賀神社男坂

 平成28年(2016年)に公開された新海誠監督の映画「君の名は。」は日本国内興行収入250億円の大ヒット映画だ。

 「君の名は。」ラストシーンで主人公の立花瀧(たちばなたき)と宮水三葉(みやみずみつは)が再会したところがここ、須賀神社男坂だ。一時期は「君の名は。」ファンでごった返していたらしい。

 私もせっかくだからここを下りていこうと考えたが、外国人観光客が撮影にいそしんでいたのでやめておいた。

 「君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ そのぶきっちょな笑い方をめがけて やってきたんだよ」

 思わず、主題歌のRADWIMPSの「前前前世」が脳内に流れた。

 ここまで語っておいて私は「君の名は。」をちゃんと観たことがないのだが、機会があれば観てみたいと思う。

 

4.真成院

 来た道を戻り、突き当たりを勝興寺方面へ向かうと西応寺がある。

西応寺

 西応寺には榊原鍵吉の墓がある。

 榊原鍵吉は幕末から明治にかけて活躍した剣客で、天保元年(1830年)に江戸の麻布広尾に生まれた。

 慶応2年(1866年)には幕府遊撃隊頭取になり、上野戦争で活躍するも、明治元年(1868年)8月に徳川家達に従って静岡に移住した。

 明治27年(1894年)に64歳で亡くなるまで髷を切らなかったという。

 

 西応寺の梵鐘は正徳2年(1712年)に鋳造されたという。新宿区内でも数少ない江戸時代の梵鐘であるため、新宿区登録有形文化財に指定されている。

 

 西応寺の向かい側に戒行寺がある。

戒行寺

 戒行寺には長谷川平蔵の墓がある。

 「鬼平犯科帳」とは池波正太郎が著した時代小説で、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵を主人公とする捕物帳である。テレビドラマとしてもヒットし、長谷川平蔵を八代目松本幸四郎らが演じた。

 「鬼平犯科帳」は後世の人によって作られたフィクションだが、長谷川平蔵は実在の人物である。

 長谷川平蔵は延享3年(1746年)江戸赤坂築地中之町で生まれた。

 父である宣雄が火付盗賊改を務めていたときに、目黒行人坂の放火犯を捕らえて京都西町奉行に出世するも、わずか10ヶ月で亡くなってしまった。

 その後、平蔵が家督を継ぎ、火付盗賊改などを務めた。

 平蔵の功績としては、石川島人足寄場を作ったことである。ここに軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、工賃の一部を積み立て、出所時の更生資金に充てる仕組みを作った。刑務所でも労役はするが、それよりもう少し軽い感じだろうか。

 

 戒行寺の目の前の坂の名前は戒行寺坂という。戒行寺坂を下っていく。

戒行寺坂

 戒行寺坂の途中にある宗福寺には、源清麿(みなもとのきよまろ)の墓がある。

宗福寺

 源清麿は江戸時代後期の刀工で、文化10年(1813年)に信濃国岩村(現在の長野県東御市)に生まれた。

 天保6年(1835年)に江戸に出て、刀工としての活動を始めた。

 新々刀(江戸時代後期の刀)の刀工の第一人者として活躍し、江戸三作(江戸の三大刀工)のひとりとして数えられたほどだったという。

 

 戒行寺坂を突き当たりまで下りて左折、次の交差点を右折すると観音坂を上がることになる。

観音坂

 この観音坂とは潮踏観音にちなんでいる。

 潮踏観音がある真成院、ここが江戸三十三観音第18番札所である。

真成院

 受付に御朱印帳を預け、観音堂へ向かう。

観音堂

 観音堂の扉を開けると、なかに観音様がいるので参拝する。

 この観音様の名前は潮干観音とも、潮踏観音とも呼ばれる。

 これは日本武尊が東征したとき、今の四谷付近を通り過ぎたときに蘆の風にそよぐ様子が潮のうねりのように感じられたことから「潮干の里」「潮踏の里」と日本武尊が名づけたからと言われている。

 また、この観音様の台石は潮の干満により湿ったり乾いたりするらしいが、それには気が付かなかった。そもそもどういうメカニズムでそうなるのか気になる。

 

 そのようなことを考えながら受付に戻り、御朱印をいただいた。

 

5.西念寺

 観音坂をのぼると、西念寺がある。

西念寺

 西念寺は、文禄2年(1593年)に徳川家康の家臣、服部石見守正成(はっとりいわみのかみまさなり)が開基した。服部石見守正成は「服部半蔵」のほうが有名なので、以後こちらで記す。

 服部半蔵は槍の名手で、家康十六人将のひとりに数えられた。

 天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、和泉国堺を見物中の家康を警固して伊賀の山越えをし、主人の危地を救う功があった。

 家康が関東に入国すると、与力30騎、伊賀同心200人を支配し、半蔵の通称に由来するという半蔵門内に居を構えて、城内外の雑事を指揮した。

 天正7年(1579年)に家康の長男、岡崎三郎信康が、義父の織田信長から甲斐の武田氏に通謀しているという嫌疑をうけて切腹を命じられたとき、信康の幼い頃から守り役をしていた半蔵が検死役を務めた。

 半蔵は信康の死を悼み、麹町清水谷に一庵をいとなみ、剃髪して西念と名乗った。これが西念寺の開基である。寛永11年(1634年)に現在地に移転した。

 

 令和5年(2023年)に放送された大河ドラマ、「どうする家康」では服部半蔵山田孝之、岡崎三郎信康を細田佳央太が演じている。

 幼い頃から見ていた主君の子供の死を見た服部半蔵は、どう思ったのだろうか。改めて、戦国時代の無情さを思った。

 

 また、西念寺には服部半蔵の墓もある。そっと手を合わせた。

服部半蔵の墓

6.愛染院

 観音坂を下り、国道20号線方面へ進むと右手側に東福院坂がある。東福院坂の途中に、愛染院がある。

東福院坂

愛染院

 愛染院には高松喜六と塙保己一の墓がある。

 

 甲州街道には、日本橋から高井戸までの間に休憩所がなかった。その距離は4里(約16km)と長く、旅人を困らせていた。

 そこで元禄11年(1698年)、浅草の名主、高松喜兵衛ら町人4人が、権利金5,600両を幕府に上納する条件で、宿場設置許可を願いでた。

 こうして内藤氏の拝領地だった御苑の北側、新宿2丁目を中心とする甲州街道沿いに宿場町ができ、「内藤新宿」と呼ばれた。現在の「新宿」である。

 喜兵衛は喜六と改めて新宿の名主となり、子孫は代々新宿の名主を務めたという。

 つまり、高松喜六は新宿というまちを造った人、といえよう。

 新宿については「うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪(第二回)」」でも取り上げているので、そちらも参照してほしい。

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 塙保己一は、延享3年(1746年)に現在の埼玉県に生まれた。

 5歳のときに失明したが、13歳で江戸に出て、国学、漢学、神道、医学などを学んだ。のちに賀茂真淵の門下生となった。

 天明3年(1783年)に保己一は盲人に与えられる最高の地位である検校となった。

 そして幕府の援助をうけ、「群書類従」の編纂に尽力、文政2年(1819年)に完成した。

 「群書類従」とは、江戸時代以前の未刊の古文献を収録して編集したもので、神祇、帝王、系譜、武家など25部門に分類されている。正編は530巻、666冊に及ぶ。

 保己一が没した翌年には続編が完成し、こちらは1,150巻、1,185冊にものぼるという。

 文政4年(1821年)に保己一は76歳で亡くなり、四谷安楽院に葬られたが、ここが廃寺となったため、明治31年(1898年)に愛染院に移された。

 

 余談だが、埼玉県の偉人で、盲人であるということから、埼玉県の盲学校は「塙保己一学園」という。実家の最寄り駅が塙保己一学園の最寄り駅でもあり、時折白杖をついた学生を見ることがあった。

 

 愛染院をあとにして、国道20号線方面へ向かう。途中で円通寺坂を登る。円通寺坂とは、坂の途中に円通寺という寺院があることから名づけられた。

円通寺

円通寺

 国道20号線との交差点、津之守坂入口交差点で左折し、四谷三丁目駅へ向かう。

 ここから、方南町駅に向かう。

四谷三丁目駅

7.東円寺

 方南町駅2番出口から出て、東円寺に向かう。なお、東円寺のある地域は「江戸三十三観音をめぐる 7.神田川沿いを歩く」で歩いてしまったので、今回は東円寺のみ訪問することとする。

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 ちなみに、方南町駅の入口には「営団地下鉄」という表記が残っている。「営団地下鉄」とは、帝都高速度交通営団のことで、昭和16年(1941年)から平成16年(2004年)まで存在していた。現在は東京地下鉄株式会社となっている。

営団地下鉄

 方南町駅から北側に進むと、東円寺がある。

東円寺

東円寺観音堂

 東円寺は真言宗の寺院で、開基は天正4年(1576年)に祐海の建立という。

 江戸三十三観音に指定されている観音様は聖観世音菩薩で、江戸時代には多くの参詣者がいたようだが今はひっそりとしていた。

 社務所のチャイムを鳴らし、御朱印をいただいた。

 

 御朱印をいただいたあと、寺の人から「実は観音堂は少し開くので、見てから帰ってください」と言われたので、少しだけ開けてみた。なかでは観音様が穏やかに微笑んでいた。

  東円寺をあとにして、方南町駅に戻り、帰路についた。

 お岩さんは江戸時代の怨霊として恐れられているが、それは後世の創作でお岩さん自体は至極真面目な人だったと知り、見習いたいと思った。須賀神社男坂は今度こそ坂を下りてみたい。真成院の潮干観音の岩のメカニズムは気になるし、湿っているかもっと見ておけばよかった。西念寺で戦国時代の無常さに手を合わせ、愛染院で2人の偉人に思いを馳せた。東円寺の観音様も忘れられない。

 

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図①

今回の地図②

歩いた日:2023年12月29日

【参考文献・参考サイト】

新宿の歴史を語る会(1977) 「新宿区の歴史」 名著出版

杉並郷土史会(1978) 「杉並区の歴史」 名著出版

江戸札所会(2010) 「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

東海道を歩く 31.御油駅~藤川駅

 前回、札木停留場から御油駅まで歩いた。今回は御油駅から藤川駅まで歩こうと思う。御油宿と藤川宿の間に赤坂宿があるが、御油宿と赤坂宿の距離は16町、約1.7kmしかない。東海道の宿場間距離にして最短だ。名鉄名古屋本線の駅観点から見ても1駅しかない。流石にこれだけで1日とするわけにもいかないので、名電赤坂駅を通り過ぎ、藤川駅まで歩いた、ということだ。

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1.御油のマツ並木

 今日は御油駅からスタートだ。

御油

 御油駅から東海道に向かう途中に博物館がある。御油の松並木資料館だ。

御油の松並木資料館

 御油の松並木資料館の前には水準点もある。

一等水準点第161号

 一等水準点第161号は昭和63年(1988年)設置の金属標型の水準点だ。

 

 御油の松並木資料館は写真の撮影はOKだが、SNS等への掲載はNGとのことで、文章のみで記す。

 

 後で実物を見に行くが、この先に「御油のマツ並木」がある。

 御油のマツ並木とは、東海道の両側に300本ほどのマツが600mほど続いている松並木だ。本数は江戸時代と比べて半分ほどになっているらしい。

 

 東海道沿いにマツ・スギ・ヒノキを植えるよう決めたのは東海道を定めた人物、徳川家康である。

 慶長9年(1604年)、家康の命令を受け、大久保長安御油にて3年の歳月をかけ、2mほどの間隔で全体では650本前後の松並木の整備を行ったという。

 松並木は夏には暑さをしのぐ木陰をつくり、冬には冷たい北風や雪を防ぐなど、旅人の苦労を減らし、旅に風情をそえた。

 その反面、薄暗い松並木はある種の恐怖感を植え付けてもいたようで、十返舎一九の記した「東海道中膝栗毛」では、主人公の弥次さん・喜多さんがキツネに化かされかけた話の舞台としても登場している。

 江戸時代、松並木は幕府の手厚い保護と監視のもとで守られたが、明治以降、御油では地域住民による自発的な管理が続けられることになった。

 昭和にはいり、第二次世界大戦が激しくなると、各地のマツは木造船の材料や燃料にするため切り倒されていった。

 さらには航空機燃料が不足し、マツの根から松根油を採取するため御油の松並木も切り倒されることになってしまった。

 しかしこの危機に御油町民たちはマツをまもる運動をおこした。運動が功を奏し、昭和19年(1944年)11月7日に国の天然記念物に指定され、マツは1本も切られることはなかった。

 昭和47年(1972年)には御油松並木愛護会が結成され、今も江戸時代の並木景観が保たれている。

 

 御油の松並木資料館には「覚」が展示されていた。これによると、松並木の松が1本でも枯れても、江戸幕府に届け出て、幕府の許可がなければ伐採することができなかったことを記している。

 

 御油の松並木資料館には松並木関連資料以外の江戸時代の資料も展示されている。

 天保期に出された、代官の山上藤一郎が出した触書が展示されていた。そこに書かれている一部を抜粋すると「養子や嫁を大切にせよ」「着物や装飾品は質素にせよ」「若い者は夜遊びをつつしめ」「金を借りたらきちんと返せ」などと書かれている。

 「嫁を大切にせよ」「金を借りたらきちんと返せ」…現代でも言えるような内容が書かれている。

 

 御油宿は東海道五十三次の35番目の宿場である。

 天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によると、御油宿は家数316軒、本陣2軒、旅籠屋62軒で、人口1,298人のうち、女性が738人とある。女性が多いのは飯盛女(めしもりおんな。性的サービスも行った女中)として働く人が多くいたからである。

 

 浮世絵がいくつか展示されていた。

 もちろん歌川広重の「東海道五十三次 御油」も展示されていた。

東海道五十三次 御油

 御油は遊興が盛んで、参勤交代の武士たちも宿泊を楽しみにしたという。

 留女(とめおんな。旅籠の客引きをする女)が強引に客引きを行い、旅人が引きずられていく様子がユーモラスに描かれている。絵として見る分には面白いが、旅人としてはたまったものではないだろう。

 

 なかには座敷牢の写真も展示されていた。いったい何に使われていたのだろうか…想像するだけで怖くなってくる。

 

 そのほか、御油宿の旅籠や名所が記された地図などが展示されていた。

 

 御油の松並木資料館の前に大きな切り株が展示されているが、これは松並木を整備した当初に植えられた樹齢380年のマツの切り株である。

 

 御油の松並木資料館の向かい側に「おふく」という和菓子屋があり、そこで御油宿の御宿場印が販売されている。

 

 おふくで何か食べようと物色していると、友人が「鬼まんじゅうを食べたい」と言ったので、私も鬼まんじゅうを買って店内で食べた。

鬼まんじゅう

 鬼まんじゅうとは小麦粉やサツマイモを用いた和菓子で、愛知県、岐阜県三重県に普及しているようだ。愛知出身の友人は鬼まんじゅうが何かを知っていたが、私は初めて食べた。私はサツマイモが大好きなので、美味しくいただいた。

 

 おふくをあとにして、東海道を進むと左手側に東林寺がある。

東林寺

 東林寺には御油宿の飯盛女の悲話が伝わる。

 御油宿と、その隣の赤坂宿は「御油に赤坂、吉田がなくば、何のよしみで江戸通い」と俗謡にうたわれるほど、飯盛女を多く抱えていたことで知られている。

 旅籠屋で働く飯盛女は、給仕・雑用だけでなく遊女としての仕事もしていた。

 飯盛女はどこからやってくるのかというと、実家の生計が苦しかったり、年貢をおさめることが困難な家の9~15歳の少女で、身代金4両、年季10年ほどで奉公に出されてしまっていた。

 東林寺に葬られている飯盛女の墓は「ばい 21歳」「国 22歳」「玉 25歳」「豊 19歳」と読むことができるという。

 4人は御油宿の旅籠大津屋の飯盛女として働いていて、将来を悲観した結果、嘉永元年(1848年)9月28日夜に、溜め池に4人で入水自殺した。

 旅籠屋の主人、大津屋弥助はこれを哀れに思い、4人の墓を東林寺に建てた。

 

 この4人のうち豊は伊勢国出身と記録されている。御油宿の役人から死亡通知を国元に出したところ、豊の父親からこう書状が返ってきたという。

 「このたびの変死の件については、こちらの借金がかさんだ結果であり、このような始末をおこして申し訳ない。遺体を引き取りにいくべきだろうが、こちらは旅費すら出せない状況であるので、宿駅の決まりどおりに取り計らっていただきたい。」

 宿駅の決まりどおりとは、昔は旅先で亡くなる人が多かったので、「もし旅先で亡くなったら、そこの地に葬ってください」ということである。旅人が持ち歩いた手形にもこの文面が書かれていることが多い。

 豊の父親の書状からは、娘の死に際し、引き取りすらできない無念さを感じる。

 主人が墓碑を建てたあたり、ほかの飯盛女と比べてこの4人はまだましだったのかもしれない、と思いたいところである。

 実態は投げ込み寺に投げ込むようにして葬られることがほとんどだからである。「うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪(第2回)」5.花園神社 でも取り上げたが、成覚寺にある子供合埋碑には1,600人もの飯盛女が同じ墓に葬られたりしているからである。

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 御油のマツ並木が始まった。

御油のマツ並木

 現代ではほとんどなくなってしまったマツ並木。少し薄暗くて、犯罪の温床になっていたのかもしれないけれど、明るいときに通ればこのような道を江戸時代の人は通っていたのか、いいなぁ、と思ってしまった。

 マツ並木自体は時折登場しているが、前回登場した立派なマツ並木といえば、「東海道を歩く 27.舞阪駅新居町駅」1.舞阪の松並木 に登場してきた舞阪の松並木を思い出す。

舞阪の松並木

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2.関川神社

 御油のマツ並木をすぎてふと足元を見ると、旧音羽町のマンホールがあった。

 

 歌川広重の「東海道五十三次 赤坂」と旧音羽町の町章が描かれている。

 

 「東海道五十三次 赤坂」は夕食のときの旅籠のあわただしい様子が描かれている。

 肩に手拭いをかけた風呂上りの男、部屋でくつろぐ男、夕食を運ぶ飯盛女と按摩、隣の部屋で化粧をする飯盛女。

 このあたりは繁栄した宿場であったことがわかる。

 

 このマンホールのモノクロバージョンも見つけた。

 

 音羽町町章のみのマンホールも見つけた。これは「音」を意匠化したものだ。音羽町は平成20年(2008年)に豊川市編入、廃止された。

 

 これは音羽町の旧町章だろうか?調べてみても何も出てこなかった。

 

 下ばかり見ていたが、視線を戻すと赤坂宿の見附跡があった。見附は明治7年(1874年)に取り壊されてしまったようだ。

見附跡

 見附跡から少し歩くと、関川神社に到着した。

関川神社

 鳥居の前に置いてある灯籠は秋葉灯籠だ。秋葉灯籠は秋葉信仰により設置される。

秋葉灯籠

 関川神社には、松尾芭蕉の句碑がある。

 

 この句碑には以下の句が刻まれている。

 「夏の月 御油よりいでて 赤坂や」

 夏の夜は明けやすく、月がでている夜の時間は短いように、御油と赤坂の距離は短いなぁ、と謳っている。

 確かに、御油宿と赤坂宿は16町(約1.7km)しか離れていないし、名鉄名古屋本線でも御油駅の次の駅に名電赤坂駅がある。東海道の宿場間距離では最短だ。

 御油と赤坂は御油の松並木に互いに向かい合っている印象も抱いたくらい、宿場の距離の短さが印象的だった。

 

 関川神社のクスノキは樹齢800年もあるという。パワーがもらえそうな大樹だ。

 

3.浄泉寺

 かとう呉服店で赤坂宿の御宿場印を配布しているのでいただいた。

 

 かとう呉服店の隣に赤坂宿本陣跡がある。

本陣跡

 ここの本陣は宝永8年(1711年)の間取り図によると、間口17間半、奥行き28間、座敷通り422畳で門・玄関付きの立派な本陣だったようだが、現存していない。

 赤坂宿は江戸から数えて36番目の宿場である。慶長6年(1601年)の伝馬朱印状に赤坂・五位(御油)とあることから、伝馬制度発足時からの宿駅であったと考えられる。

 御油宿との距離が16里(約1.7km)と短いことや、「赤坂・御油」と書かれているあたり、当初はひとつの宿場であったと考えられている。

 天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によれば、本陣3軒・脇本陣1軒・旅籠屋62軒・家数349軒と記されている。

 宿場全体の軒数からみて宿泊施設が多かったのは、この地に天領を支配する赤坂代官所がおかれていたことや、御油宿とともに、旅人の宿泊する場として多くの人に利用されていたことによる。

 

 赤坂紅里交差点に高札場が復元されていた。「きりしたん宗門禁制」など5枚の高札が掲示されている。

高札場

 高札場の反対側は赤坂宿公園となっており、「赤坂宿町並の図」や「赤坂宿のまつり」といった掲示物と休憩できる椅子が置かれていた。

赤坂宿町並の図

赤坂宿のまつり

赤坂宿公園

 足元を見ると、「音羽」と書かれた消火栓があった。音羽町時代に設置したのだろう。

 

 浄泉寺に着いた。

浄泉寺

 浄泉寺は浄土宗の寺院である。

 浄泉寺といえば、ソテツである。

浄泉寺のソテツ

 このソテツは歌川広重の「東海道五十三次 赤坂」に描かれたもので、明治20年(1887年)頃に移植されたと伝えられている。

 確かに、歌川広重の「東海道五十三次 赤坂」にも、それをモチーフにした旧音羽町のマンホールにも、ソテツが描かれている。

 

 ちなみに、浄泉寺にも秋葉山常夜燈がある。

 

4.大橋屋

 浄泉寺から出て少し進むと大橋屋がある。

大橋屋

 大橋屋は正徳5年(1715年)に建てられた、赤坂宿では唯一の江戸時代に建てられた旅籠である。

 以前は宿泊することもできたようで、平成28年(2016年)に発行された「愛知県の歴史散歩 下 三河」では「現在も料理旅館として営業しており、宿泊することができる。」と紹介されている。

 しかし同じ平成28年(2016年)に発行された「ホントに歩く東海道 第10集」では「本マップ現地調査の平成27年(2015年)3月に、江戸時代からの旅籠「大橋屋」が廃業したのは残念だった。(中略) 多くの東海道ウォーカーが泊まったことだろう。資料館になる予定と聞く。」と書かれている。

 調べたところ、平成28年(2016年)に博物館として、一般公開を開始したようだ。

 

 天井を見上げると、柱の上に湾曲した太い松材の梁を乗せ、その上に束を建てて屋根を支える、伝統的な和小屋組を見ることができる。

 

 ボランティアガイドのおばちゃんに話しかけられ、話を聞いていたら30分も経ってしまった。

 ここからはおばちゃんの話を交えながら記す。

 

 赤坂宿の高札場のあった交差点は「赤坂紅里」といったが、これは賑やかなところなのでそう名付けられたようで、賑やかなところなので飯盛女もいっぱいいたようだ。

 ただ飯盛女の生活は悲惨で、墓を作ってもらえるだけまだましだった、という話は東林寺の話で前述した。

 飯盛女は実家の金がなく奉公に出された女性たち、とは知っていたが、当時は女性が働ける仕事はほぼなかったこともあり、一度飯盛女の仕事についてしまうとなかなか抜け出せない、とおばちゃんは話していた。

 

 昔、大橋屋はもっと広い旅籠だったようで、レンガで間取りが復元されていると説明された。

 

 私たちが入ってきた玄関のほかにもうひとつ大きな玄関があり、これは明治11年(1878年)に明治天皇大橋屋を利用したときに使用した玄関だと説明された。明治天皇はここで食事をしたらしい。

 そしてそのときのお付きの方に伊藤博文がいたとか…。ほかにもお付きの方はいただろうが、伊藤博文にお付きの方がいてもいいくらいだと思う。

 

 もっと前の時代だと、琉球通信使のお付きの人や、将軍になる前の徳川慶喜のお付きの人もここに泊まったという。本陣ほどではないが、それなりに格式のあった旅籠であったと言えよう。

 

 2階もあり、宿泊スペースとして使われていたようだ。

 

 ひととおりおばちゃんが話し終えた後、どこから来たの?と聞かれたので東京から来た、と答えたら、東海道を歩く人は関西方面から歩く人よりも、関東方面(東京、神奈川、千葉、埼玉など)から歩く人のほうが多いらしいことを教えてもらった。なぜだろう。

 

5.杉森八幡社

 大橋屋の隣に赤坂宿の脇本陣跡があったが、碑のみが残っている。

赤坂宿脇本陣

 大橋屋の近くに正法寺がある。正法寺曹洞宗の寺院である。

正法寺

 正法寺には鎌倉時代の仏像、絹本著色釈迦如来像(けんぽんちゃくしょくしゃかにょらいぞう)があり、愛知県文化財に指定されているが、見ることはできなかった。

 正法寺には樹齢400年のウラクツバキがある。2月頃になると花を咲かせるのだろうか。

ラクツバキ

 正法寺をあとにして東海道を進むと、「よらまいかん」という休憩施設がある。よらまいかんの前に、赤坂町の道路元標がある。

よらまいかん

赤坂町道路元標

 「スーパー地形」というアプリで陸地測量部が作った戦前地形図を見てみると、この近くに赤坂町役場があり、それで設置されたのかもしれない。

 よらまいかんの道路の反対側に、赤坂陣屋跡がある。

赤坂陣屋跡

 陣屋とは代官所ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところである。

 

 よらまいかんから歩くと杉森八幡社に到着する。

杉森八幡社

 杉森八幡社の起源は大宝2年(702年)で、寛和2年(986年)の棟札が現存する。

 杉森八幡社には樹齢1,000年の夫婦楠がある。とても大きく、パワーに満ち溢れている気がする。

夫婦楠

 杉森八幡社には赤坂の舞台があり、年1回ここで歌舞伎の公演をやるらしい。機会があれば観てみたい。

赤坂の舞台

 歩いているといなりんデザインの消火栓を見つけた。いなりんは豊川市のマスコットキャラクターで、キツネと豊川いなり寿司を合体させたキャラクターである。

 

 長沢の一里塚を見つけた。ここは江戸から77里目の一里塚だが、この「一里塚跡」の案内板以外残っていない。

長沢の一里塚

 長沢の一里塚の近くに「長沢城跡」がある。

長沢城跡

 松平信光の子、松平親則が長沢城を築いたのは長禄2年(1458年)とも寛政年間(1460~1465年)ともいわれている。

 桶狭間の合戦後、永禄4年(1561年)に長沢城は徳川家康に攻められ落城している。

 

 長沢城跡の説明板の裏に豊川市立長沢小学校があり、そこの敷地内に長沢村道路元標がある。

長沢村道路元標

 「スーパー地形」というアプリで陸地測量部が作った戦前地形図を見てみると、現在学校があるところに学校マークがあり、その隣に長沢村役場がある。長沢村役場前に設置されていたのかもしれないが、保存のために学校敷地内に移設されたのだろう。

 

6.岡崎市へ入る

 歩いていたら水準点を見つけた。一等水準点第162号だ。

一等水準点第162号

 一等水準点第162号は昭和24年(1949年)に設置されたやや古い標石型の水準点だ。

 

 誓林寺に訪れてみる。

誓林寺

 誓林寺は嘉禎元年(1235年)に高梨高直が草庵を建て、阿弥陀仏を安置したことに始まる浄土真宗本願寺派の寺院である。

 

 初めて「音羽町」表記の看板を見つけたので撮ってしまった。黄桜のカッパに似ている。

 

 巓神社(てんじんじゃ)の石柱の横に立派な秋葉灯籠をみつけた。ちなみに巓神社は山の上なので行っていない。

 

 「観世音菩薩」と書かれた石碑を見つけ、奥のほうに観音様らしき石仏が見えたが、雑草をかきわけて行く必要があるので遠くから手を合わせるだけにした。

 

 「火の用心」の幟と秋葉灯籠。今も昔も火に対する恐れは変わらない。

 

 関屋交差点で国道1号に合流する。

 

 313キロポスト、314キロポストと、国道1号を歩いていく。

 

 豊川市に別れを告げ、岡崎市に入る。

 

 岡崎市に入ると、冠木門が出迎えてくれた。

 

 岡崎市の市章入り消火栓を見つけた。

 岡崎市の市章は、外まわりに竜の爪が宝珠をつかんだ形を配し、そのなかは岡崎の「岡」の漢字を図案化している。

 なぜ竜の爪か?というと、岡崎城は別名「竜ヶ城」とも呼ばれたからである。

 もともとこの地には龍神が住み、城が築かれるとその守護神となり、敵が攻めてきたときは必ず雲で城を覆って守ったと伝えられている。

 徳川家康岡崎城で生まれたときも龍神が現れ、空に舞ったという伝説がある。

 

 岡崎城矢作橋がデザインされたデザインマンホールを見つけた。

 矢作橋は慶長6年(1601年)に架橋された江戸時代では最長の大橋である。

 

 「左 東海道 右 国道一号」と書かれた石碑のあるところで左折し、旧道に入る。

 

7.法蔵寺

 法蔵寺に入る。まず、「御草紙掛松(おそうしかけのまつ)」がある。

御草紙掛松

 御草紙掛松(おそうしかけのまつ)は、徳川家康が幼少の頃、手習いの草紙をかけたという逸話の残る松である。この松は平成18年(2006年)に植えられた4代目の松なので家康が草紙をかけた松ではない。

 

 法蔵寺の境内に入る。

法蔵寺

 寺伝によれば、法蔵寺は行基が彫った観音像を本尊として、大宝元年(701年)に創建され、文武天皇より出生寺の寺号を下賜され勅願所にも定められたという。

 至徳2年(1385年)に京都円福寺より教空龍芸(きょうくうりゅうげい)が来住すると、寺は大きな転機を迎え、それまでの法相宗より浄土宗に改宗され、寺号も法蔵寺に改められた。あわせて龍芸により多くの弟子が育てられ、のちに三河を檀林(学問所)として重きをなし、末寺・塔頭も多く有するなどの発展をみたという。

 法蔵寺が位置した山中郷は室町幕府直轄の御料所で、室町幕府6代将軍 足利義教(あしかがよしのり)は法蔵寺を祈願所としたことが伝わる。

 16世紀には今川氏・松平氏の保護をうけ、徳川家康が幼いころ、7世住職の教翁洞恵(きょうおうどうけい)より手習い・漢籍を学んだと言い伝えられている。

 江戸時代には法蔵寺境内に東照宮が祀られ、東海道をいく人々も参詣した。それは旅人のみならず、参勤交代で東海道を往来する大名も必ず立ち寄ったという。

 江戸中期に来日したドイツ人医師ケンペルの書にも法蔵寺の名前が記され、江戸時代後期に来日した同じくドイツ人医師のシーボルトが、文政9年(1826年)に訪れたと伝えられている。

 法蔵寺に参拝し、本堂の裏に大きな木がある。これは、樹齢1,200年ともいわれる行基お手植えの開山マキだ。とても大きく、パワーに満ちている。

行基お手植えの開山マキ

 法蔵寺で御朱印をいただいた。

 

 六角堂裏の墓所には、新撰組局長、近藤勇首塚がある。

近藤勇首塚

 近藤勇は慶応4年(1868年)に江戸・板橋で処刑されたのち、その首は京都でさらし首になった。

 同志たちはこれを生前より近藤勇が敬慕していた京都誓願寺住職・称空義天(しょうくうぎてん)のもとにひそかに運んだが、称空はその半年前から法蔵寺の39世住職となっていたために、法蔵寺に近藤勇の首が持ち込まれ、供養されたという経緯がある。

 友人は新撰組が好きらしく以前から知っていたようだが、私は知らなかった。そっと手を合わせた。

 

 近藤勇首塚の近くに松平家菩提所や三方原の戦い忠死者墳墓がある。ここには松平廣忠(徳川家康の父親)や、家康最大の敗北といわれた三方原の戦いの犠牲者が葬られている。そっと手を合わせた。

松平家菩提所・三方原の戦い忠死者墳墓

 近藤勇首塚からさらに上がると、東照宮がある。御神体徳川家康初陣の甲冑姿の木像だという。

東照宮

8.旧本宿村役場

 法蔵寺をあとにして、東海道を歩くと本宿古城(もとじゅくふるじろ)がある。

 本宿古城は東西76m、南北86mの平城だったが、本宿古城の城主、松平権兵衛重弘が岡崎城主松平廣忠(徳川家康の父親)に背いたため天文16年(1547年)に廣忠から攻撃を受け、落城したという。

 城跡は名鉄などになったというが、あのあたりだろうか?

本宿古城が見える?

 少し寄り道をして、冨田病院の敷地内にある郷土史資料展示室に寄る。

郷土史資料展示室

 郷土史資料展示室は、小さい展示室だったが文政11年(1828年)に描かれた世界地図に目をひかれてしまった。

世界地図

 また、三州長篠城合戦陣取之図もあった。

三州長篠城合戦陣取之図

 東海道に戻り、歩いていくと本宿村道路元標を見つけた。本宿村道路元標は珍しく、説明板もついている。

本宿村道路元標

 

 本宿村道路元標の隣には、秋葉常夜燈もある。

秋葉常夜燈

 本宿村道路元標は本宿村役場前の道と東海道の交差点に建っているのだが、なんと本宿村役場も残っている。

旧本宿村役場

 旧本宿村役場は昭和3年(1928年)に竣工した本宿村3代目の役場庁舎である。岡崎市編入される昭和30年(1955年)まで役場庁舎として使用された。

 平成20年(2008年)に解体工事が行われたが、貴重な近代化遺産であることから、解体部材を使用した復原工事が実施され、令和4年(2022年)に竣工したばかりだという。あまりに新しいので、「愛知県の歴史散歩」や「ホントに歩く東海道」にも載っていない(どちらも平成28年(2016年)発行)。

 

 旧本宿村役場のなかは小さな博物館になっている。

 間の宿(あいのしゅく)本宿の説明があった。本宿は赤坂宿と藤川宿の間の 間の宿となっていたようだ。名物は召し縄と餅団子、草鞋だったらしい。

間の宿本宿

 旧本宿村役場の棟札が展示されていた。棟札とは、建物を新しく建てたときや改築などを行ったときに、建てられた年月日、所有者、建設に携わった大工の名前を書いた板のことである。

旧本宿村役場棟札

 村長室があった。ここの椅子に座れば本宿村村長になれる(?)

村長室

 旧本宿村の広報誌、本宿村時報も展示されていた。これによると役場建設費用は8,742円70銭だったようだ。当時の1円は3,000円程度の価値であったというから、現在の価値で考えると2622万8100円…妥当な金額か。

本宿村時報

 応接室はこんな感じ。

応接室

 

 先ほど法蔵寺で見た東照宮のミニチュアが展示されていた。緻密だ。

ミニチュア東照宮

 2階に上がってみたら、会議室があった。

 

 帰り際に、旧本宿村役場をデザインした素敵なカードをいただいた。

 

9.旧本宿駅

 東海道に戻る。十王堂跡を見つけた。

十王堂跡

 東海道沿いのここに十王堂があり、旅行者や村人からの信仰を集めていた。ここのガラス扉から十王像が見られるらしいが、よく見えなかった。

 

 新しいデザインのマンホールを見つけた。

 これは岡崎城岡崎公園のサクラ、三河花火をデザインしている。

 

 ここで本宿駅に寄り、ミニチュア駅舎を見る。

本宿駅舎(ミニチュア)

 この駅舎は昭和9年(1934年)に竣工した駅舎で、平成4年(1992年)に取り壊されたという。国道1号拡幅のためらしいが、残すことはできなかったのだろうか。

 

  東海道に戻り、歩いていると本宿の一里塚跡を見つけた。本宿一里塚は江戸から78里目の一里塚だが、石碑が残るだけである。

本宿の一里塚跡

 水準点を見つけた。一等水準点第163号だ。

一等水準点第163号

 一等水準点第163号は平成15年(2003年)に設置された標石型水準点らしいが、マンホールの下で確認できなかった。

 

 宇都野龍硯邸跡(うつのりゅうせんていあと)と長屋門(現存)の説明板がある。

 宇都野氏は本宿村の医家で、その門が現存していたという。

 しかし、今ここには何もない。

 残念ながら、令和4年(2022年)に取り壊されてしまったようだ。何とかして残すことはできなかったのだろうか…。

 

 宇都野龍硯邸跡と長屋門跡の近くに、ファミリーマートがある。飲食店がなくそのまま進んでしまったため、ここで軽食を食べることにした。私は「こんがりビストロまん「とろーり濃厚チキンクリーム味」」を食べた。美味しかったので翌日も職場近くのファミリーマートで買って食べてしまったほどだ。

 

10.藤川宿

 再び「左 国道一号 右 東海道」の石碑があり、国道1号線に戻る。

 

 国道1号線の316キロポストを見つけた。

 

 のんびり歩く我々の横を、颯爽と名鉄が走り去っていく。

 

 旧道に入ると、東海道舞木町の説明板があった。

 このあたりは「舞木町」という地名だ。この近くに山中八幡宮という大きな神社があるのだが、その記録に「文武天皇の頃(697~707年)、雲の中から神樹の一片が、神霊をのせて舞い降りた」と書いてあるところから、「木が舞い降りた」をとって「舞木」と名付けたという。

 

 幾何学模様のマンホールがあるが、これは愛知・岐阜・三重で営業している東邦ガスのマンホールだ。

 

 小さな松並木を抜けるとまた国道1号線に合流する。

 

 国道1号線の318キロポストを見つけた。

 

 旧道に入ると、藤川宿の東棒鼻を見つけた。ここが藤川宿の東側出入口だ。

藤川宿東棒鼻

 藤川宿の案内板がある。

 藤川宿は品川宿から数えて37番目の宿場町で、天保14年(1843年)の記録によれば、戸数302軒、本陣および脇本陣がそれぞれ1軒、問屋場1軒、旅籠屋36軒を数えたという。

 

 東棒鼻からすぐに、曲手(かねんて)がある。

曲手

 曲手とは小さいクランクのことで、このクランクは外敵から宿場を守る目的と、街道の長さを増やして住人を増やす目的で設けられた。まあ後者は、小さいクランクなのでどの程度効果があったか微妙なところである。

 曲手の近くには秋葉常夜燈もある。

秋葉常夜燈

 藤川宿は重要伝統的建造物群保存地区などではないが、格子のある家が残っている。

 

 津島神社があったが、本殿まで遠すぎて行くのを諦めた。

津島神社

 「市場町公民館」の説明板があるが、今残っている公民館の説明ではないらしい。どう見ても大正6年(1917年)に建てられたようには見えないし…。

市場公民館

説明板

 あおう人形本店の建物が素敵で写真を撮ってしまった。

あおう人形本店

 あおう人形本店の前に藤川宿高札場跡がある。

藤川宿高札場跡

 高札場とは、江戸時代に法令などを書いた札を掲示した場所で、人目につきやすい場所に設置された。

 

 藤川宿問屋場跡も見つけた。

藤川宿問屋場

 宿場では幕府などの貨客を宿場から次の宿場へ継ぎ立てることになっていて、そのための人馬の設置が義務付けられていた。宿場でこの業務を取り扱う職務を問屋、その役所を問屋場という。

 

 旧野村家住宅(米屋)は天保年間(1830~1843年)頃の建築で、岡崎市の景観重要建造物に指定されている。

旧野村家住宅(米屋)

 本陣跡広場に冠木門と、高札場の復元がある。

本陣跡広場冠木門

高札場跡

 この高札場跡は復元だが、藤川宿の高札は6枚現存していて、そのすべてが称徳元年(1711年)のもので、岡崎市文化財に指定されているようだ。

 

 本陣跡広場から山を眺めていたら、名鉄が走り去っていった。

 

 藤川村道路元標をみつけた。

藤川村道路元標

 「スーパー地形」というアプリで陸地測量部が作った戦前地形図を見てみると、この道路元標の前に藤川村役場があり、それで設置されたのかもしれない。

 

 藤川村道路元標の奥に藤川宿資料館があるのだが、閉まっていた。

藤川宿資料館

 撮り忘れてしまったが、藤川宿資料館の前に建っていた門は藤川宿脇本陣で使用されていた門で、岡崎市指定文化財に指定されている。なお、ここは藤川宿の脇本陣跡である。

 藤川宿資料館の前に「岡崎市 藤川村 合併記念碑」がある。

岡崎市 藤川村 合併記念碑

 昭和30年(1955年)、藤川村は岡崎市編入、廃止された。

 

 東海道はまだまだ続くが、日も暮れてきたので藤川小学校と東海道の交差点で右折し、藤川駅で今日のウォーキングを終わりにした。

藤川駅

 本当は友人と豊橋のスパゲッ亭チャオのあんかけスパを食べたかったのだが、残念なことに時間がなくなってしまったため、道の駅藤川宿で夕食を済ませることにした。

 スパゲッ亭チャオのあんかけスパは「東海道を歩く 29.二川駅~札木停留場」の7.豊橋公園 のラストで登場している。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 内藤ルネのマンホールを見つけた。

 内藤ルネ昭和7年(1932年)に岡崎市で生まれたイラストレーター、デザイナーである。岡崎市内7か所に内藤ルネマンホールが設置してあるらしい。

 

 道の駅藤川宿の前には東海オンエアのとしみつのマンホールもある。

 東海オンエアも岡崎市に拠点を置く6人組Youtuberで、岡崎市内7か所に東海オンエアマンホールが設置してあるらしい。

 

 「道の駅藤川宿」に寄る。

道の駅藤川宿

 

 「道の駅藤川宿」の前に「家康公と背くらべ」のパネルがあった。徳川家康は159cmだったらしい。私の身長が158cmなので、ほとんど同じだ。

 

 道の駅藤川宿できしめんを食べた。予定とは違ってしまったが、美味しかった。

 

 翌日は会社なので、藤川駅から豊橋駅に戻り、新幹線で東京に帰ることにした。

 次回は、藤川駅から岡崎公園前駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

今回の地図⑤

歩いた日:2023年12月24日

【参考文献・参考サイト】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第10集」

大石学(2021) 「地形がわかる東海道五十三次」 朝日新聞出版

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/

ぐるっと豊川 杉森八幡社

https://www.toyokawa-map.net/spot/000074.html

豊川市 戦国の城

https://www.city.toyokawa.lg.jp/smph/saijibunka/rekishi/rekishikaido/siseki/sengokunoshiro.html

誓林寺 歴史

https://seirinji.main.jp/rekishi.html

岡崎市 市章

https://www.city.okazaki.lg.jp/1300/1301/1312/p005611.html

(2024年2月2日最終閲覧)

うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪(第二回)」

 「お写ん歩書房」の石井建志さんにお誘いいただき、「新宿DeepZone&歴史探訪(第二回)」に参加してきた。

 ちなみに本橋先生とのまちあるきは渋谷、新宿、上野に続いて4回目である。過去のまちあるきはこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

octoberabbit.hatenablog.com

octoberabbit.hatenablog.com

 

 また、以前掲載した記事「新宿DeepZone&歴史探訪」と内容が重複している部分があるので、そちらも参照していただきたい。

1.本橋先生と石井さんのトークイベント

 まちあるき前にTIME SHARING に集合し、参加費を払い、レジュメを受け取って待つ。しばらく待っていたらトークイベントが始まった。

 まず本橋先生と担当の勝浦さんの紹介、続いて石井さんと松本さんの紹介から始まった。

 そしてまちあるきの説明。まちあるきの内容は、石井さんパートと本橋先生パートがあり、特に本橋先生パートは前回とは違う内容、ということで期待を抱いた。

 石井さんの新宿の歴史に関する解説が始まった。こちらについては、あとでまちあるきパートで解説したいと思う。

 本橋先生のパートになり、本日イベントに参加する中村京子さんの紹介があった。中村さんはかつて「Dカップ京子」の異名をもって活躍していたヌードモデルだったが、現在は「中村酒店」というスナックを経営している。

 今日のメインテーマ「歌舞伎町アンダーグラウンド」の話題になり、「そこで出てくる「オレたちひょうきん族」の「懺悔の神様」って知ってる?」と石井さんに聞かれたので「オレたちひょうきん族は私が生まれる前に放送終了しているので(平成元年(1989年)放送終了)、本を読むまで知りませんでした」と答えた。

 本橋先生は「今回のまちあるきは「未解決事件」のスポットを中心的にめぐろうと思う」と話す。例えば、新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件。これは昭和57年(1982年)に千葉県千葉市で2人の女子中学生が何者かに殺傷された強盗殺人事件だ。

 令和5年(2023年)8月に発売された本橋先生の新作「僕とジャニーズ」の話題に移る。これは、少し前にジャニー喜多川の性加害がニュースで話題になったが、本橋先生が以前ゴーストライターとして書いた「光GENJIへ」での北公次さんへの取材をもとにして書いた本である。北公次さんもジャニー喜多川の性加害の被害者だったが、平成24年(2012年)に63歳で亡くなっているので今回の報道で取材されたものではない。

 そしてジャニー喜多川性加害問題の被害者の話を聞く仕事をしている、という参加者の方の意見があったが、これは北公次さんが受けた性加害と同じだった、という。ジャニー喜多川は自分より若ければどの世代にも、同じ性加害をしていた、ということである。立場を利用したセクハラである。

 本橋先生と高校の同級生だった入子優さんが、この前の川越高校の同窓会について語った。そして同級生で元テレビアナウンサーの辛坊治郎さんの話題が出た。そういえば、私は対となる川越女子高校の卒業生だが、クラスメイトは誰も連絡先を知らないので私に同窓会の誘いをかけるとしたら実家に手紙を送るしかないと思うのだが、実家に手紙が来ていたりするのだろうか(多分、来ていないと思う)。

 最後に、石井さんの新刊の同人誌の宣伝があった。これは上野、川越、日光の同人誌で、この3都市の共通項は、上野寛永寺開山の天海僧正が関わっていることである。これもあとで買って、今読んでいるところだ。

 

2.新宿追分

 石井さんのまちあるきが始まった。まずは新宿伊勢丹に残る段差を見る。

 明治19年(1886年)に神田明神下の旅籠町に呉服屋として誕生したのが伊勢丹である。

 昭和8年(1933年)、神田の店舗をたたみ、現在の場所に新店舗を構えたが、当時その地にあったのが「ほてい屋百貨店」だった。伊勢丹はほてい屋とそっくりの建物を、ぴったりと隣接させて建築した。競争意識丸出しである。

 両者は約2年間、熾烈な競争を繰り広げたが、昭和10年(1935年)、伊勢丹がほてい屋を買収した。翌年建物を一体化するが、つなぎ目を確認することができる。

 

 「職業、お姫様」という派手なトラックが通り過ぎ、新宿にいることを実感する。

 

 伊勢丹の向かい側に、「追分」がある。

「新宿元標ここが追分」

 ここは青梅街道と甲州街道の分岐点で、名物として「追分だんご」がある。

 ここで新宿の歴史について説明したい。

 慶長8年(1603年)、日本橋を起点として五街道が定められた。五街道とは東海道中山道日光街道奥州街道甲州街道である。

 このうち甲州街道日本橋から甲府を通過して、中山道の下諏訪まで繋がっていた。甲州街道日本橋から最初の宿場の高井戸までの距離が長いということで、元禄12年(1699年)に途中の宿場の設置が認められた。

 この宿場は、内藤氏が幕府に返上した敷地に置かれたことと、新しい宿の意味から「内藤新宿」と名づけられた。新宿の始まりである。

 色街の風紀の問題があり享保3年(1718年)に一度廃止されるが、再興の願いもあり明和9年(1772年)に新宿は再興された。

 このとき、飯盛女(客に給仕をするという名目で置かれた遊女)は150人までと定められた。これが現在の盛り場の原点で、戦後も昭和33年(1958年)まで赤線地帯があった。

 

 「追分」の近くに「追分だんご」の店を見つけたが、イベント中ということとそもそも混んでいたので通り過ぎた。機会があれば食べてみたい。

「追分だんご」

3.赤線地帯

 末広通りを歩く。ここは戦前の赤線地帯だ。赤線地帯とは、昭和33年(1958年)に売春防止法が施行されるまで、売春が合法だった地帯である。

末広通り

 

 「もじゃハウス(樹木に覆われた建物)」を見つけた。ここは「Barどん底」という店で、美川憲一が一時期通っていたこともあるバーだ。

Barどん底

 「角海老」のあるあたりに、明治43年(1910年)から大正3年(1914年)までの4年間、芥川龍之介が住んでいたらしい。

角海老

 新千鳥街のディープな一角を通る。

新千鳥街

 千鳥街のあたりは世界最大のゲイタウンとして有名だが、千鳥街は元からゲイタウンだったわけではなく、一般の飲み屋が中心だった。

 道路開通による区画整理により移転を余儀なくされ、1960年代に「新千鳥街」に移転してきた。

 このあたりも昭和33年(1958年)まで赤線地帯で、そこに飲み屋が集まってきて、その後ゲイバーの比率が高まった…らしい。

 

 「毒」という看板の店があるが「中島みゆきBar」で、中島みゆきの歌「毒をんな」にちなんだ店名らしい。

「毒」

 

 新千鳥街のそばにあるゲイバー「九州男」店主の増田さんと「クィーン」ボーカル、フレディ・マーキュリーは仲が良かったらしく、ホテルの同じ部屋に泊まったこともあるらしい。まあつまり、そういうことだろう。

「九州男」

 ゲイバーの一角を通る。1人だと通る勇気、ないなぁ。

 

4.太宗寺

 ゲイバーの一角を抜けると、太宗寺にたどり着いた。

太宗寺

 太宗寺は慶長元年(1596年)に建てられた浄土宗の寺院である。

 太宗寺には「江戸六地蔵」のひとつである「銅造地蔵菩薩坐像」がある。

 江戸六地蔵とは、江戸時代の前期に江戸の出入口6ヶ所に造立されたお地蔵さんである。

 深川の地蔵坊正元(じぞうぼうしょうげん)が発願し、江戸市中から多くの寄進者を得て造立した。

 太宗寺のお地蔵さんは正徳2年(1712年)に「江戸六地蔵」の3番目として造立され、製作者は太田駿河守正儀である。

 江戸六地蔵品川寺(品川区南品川、東海道)、東禅寺(台東区東浅草、日光街道)、太宗寺(新宿区新宿、甲州街道)、真性寺(豊島区巣鴨中山道)、霊巌寺(江東区白河、水戸街道)、永代寺(江東区富岡、千葉街道)に設置された。このうち永代寺のお地蔵さんのみ取り壊されてしまったが、それ以外は残っている。

 

 太宗寺には閻魔様と奪衣婆像がいる。

閻魔様

 この閻魔様には「つけひも閻魔」という異名がある。これにはこのようなお話がある。

 ある日乳母が太宗寺の境内で子守をしていると、子供が泣き始め、あまりに泣き止まなかったので「そんなに悪い子だと閻魔様に食べられてしまうよ」と言ったら子供は泣き止んだ。

 そのとき乳母が背中を見ると、おぶっていた子供が消えていた。閻魔様の口からおんぶ紐がぶら下がっていたため、子供は閻魔様に食べられてしまった、というお話だ。

 実際は閻魔様に食べられたのではなく、さらわれてしまったのだろう、と思う。

 

 奪衣婆像はうまく写真を撮ることができなかった。

奪衣婆像

 なお、奪衣婆は死者の衣を剥ぐ役割を担っていたことから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されていたようだ。「衣を剥ぐ」「妓楼」…まあそういうことだ。

 

 太宗寺には切支丹(きりしたん)灯籠もある。

切支丹灯籠

 切支丹灯籠は内藤家墓所から出土した。切支丹灯籠とは、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンがひそかに礼拝したとされるものである。つまり内藤家はキリシタンだった、ということになる。

 

 太宗寺は新宿山ノ手七福神布袋尊も祀られている。新宿山ノ手七福神は新宿区内の7つの寺社を巡る七福神巡りだ。いつかやってみたい。

布袋尊が祀られているお堂

 この塩かけ地蔵の塩をもらって帰り、おできに塩をぬりこむことでおできが治るらしい。痛そうだが、今度ニキビができたら塗ってみようと思う。

塩かけ地蔵

 塩かけ地蔵の前にある灯籠のなかに小さい猫がいた。かわいい。

 

5.花園神社

 太宗寺を出て、正受院に向かう。正受院は浄土宗の寺院で、文禄3年(1594年)の創建。

 ここの奪衣婆は泥棒を霊力で止めたとか、奉納された綿についた火を消したとかいう逸話があり、一時は寺社奉行の取り締まりを受けたり、年2回しか開帳しないと決められたほどの人気があったらしい。今はいつでも参拝できる。

正受院の奪衣婆のお堂

 正受院には「平和の鐘」がある。この鐘は太平洋戦争中に金属類回収で回収されたものの、戦後にアメリカで発見され、正受院に返還された鐘である。この鐘をつき、平和を祈ることができる。

平和の鐘

 

 正受院の隣にある寺院が成覚寺で、文禄3年(1594年)に創建された。

 成覚寺には子供合埋碑がある。子供とは遊女のことで、内藤新宿で働く遊女たちは過酷な仕事で病死したり、客との恋仲で無理心中させられたりして命を落とすことが多く、死んだらここに投げ込むように葬られた。この子供合埋碑にも1,600人もの遊女の霊が眠っているという。そっと手を合わせた。

子供合埋碑

 成覚寺にある旭地蔵も遊女たちの悲惨な歴史を物語る遺跡である。

旭地蔵

 旭地蔵には18人の戒名が刻まれていて、うち7組は玉川上水で心中した内藤新宿の遊女と客といわれている。

 もとは玉川上水沿いにあったが、明治12年(1879年)に成覚寺に移されたという。そっと手を合わせた。

 

 ここから花園神社に向かうのだが、その途中にある伊勢丹メンズ館は以前ストリップ劇場だったらしい。

伊勢丹メンズ館

 

 花園神社に参拝する。

花園神社

 花園神社は大和国吉野山より勧請した稲荷社で、現在地に移転したのは寛政年間(1789~1801年)のことである。移転先が美しい花が咲き乱れる場所であったことから「花園稲荷神社」と呼ばれるようになった。

 

 境内には成徳稲荷神社がある。夫婦和合、子授け、縁結びや恋愛成就にご利益があるそうだが、そんなことよりも扁額の裏や本殿の裏にある男性のシンボルが気になる。

成徳稲荷神社

 

 境内には芸能浅間神社もあり、芸能のご利益を受けるために参拝する芸能人も多いらしい。

芸能浅間神社

 藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑もある。

「圭子の夢は夜ひらく」

 宇多田ヒカルの母でもある藤圭子は「新宿の女」という曲でデビューしたが、平成25年(2013年)に亡くなっている。

 

 ここで石井さんから本橋先生にバトンタッチした。

 まず本橋先生から紹介されたのがこの飛行機の額。

 

 これは昭和27年(1952年)に奉納された額で、当時の飛行機旅行は神社に額を奉納するほどの行事だったことがわかる。

 乗客が乗った飛行機は「もくせい号」というのだが、これとは別の便で伊豆大島で墜落事故を起こし、乗客・乗務員37人全員が亡くなる事故を起こしている。

6.中村酒店・新宿スポーツジム

 新宿ゴールデン街に入る。

新宿ゴールデン街

 新宿ゴールデン街に「中村酒店」というバーがある。今回はバーのママ、中村京子さんも同行していたため、特別に中も見せていただいた。

中村酒店

 中村京子さんは「歌舞伎町アンダーグラウンド」129ページから登場する。

 中村酒店の店主、中村京子さんは「Dカップ京子」の異名を持ち、80年代「平凡パンチ」をはじめとして数多くの雑誌グラビアのヌードモデルとして活躍していたようだ。

 

 新宿ゴールデン街には「四季の道」という遊歩道がある。そこは都電角筈線の跡である。

都電角筈線跡

 テルマー湯というスパの前に来た。ここは一度行ってみたいと思っていたのだが、本橋先生曰くホストやキャバ嬢が出勤前にここによく来るらしい。

テルマー湯

 写真は差し控えるが、新宿歌舞伎町ラブホテル連続殺人事件の現場前も通った。この事件は昭和56年(1981年)3月から6月にかけて、新宿歌舞伎町2丁目のそれぞれ別のラブホテルで3人の女性が殺害された事件である。

 いずれも未解決のまま、平成8年(1996年)に時効となったようだ。

 

 新宿スポーツジムに入る。ここは「歌舞伎町アンダーグラウンド」165ページから登場するRIKIYAさんが経営するスポーツジムだ。

新宿スポーツジム

 私は運動はからっきしなので、ボクシングジムに入るのは初めてだった。

 我々が入ると、RIKIYAさんが笑顔で出迎えてくれた。

 RIKIYAさんは昭和45年(1970年)、北海道札幌市生まれ。高校時代からバンドに打ち込み、その後上京。

 バンド解散後はキックボクシング選手として活躍後、飲み屋経営を経て、現在のキックボクシングジムの経営を始めたのだそうだ。

 

 キックボクシングの指導の傍ら、外国人を対象とした忍者体験も行っているようだ。やはり外国人に「ニンジャ」はウケるのだろうか。

 

 ボクシングジムの傍らに、「歌舞伎町アンダーグラウンド」が置いてあるのを見つけた。

 

7.事件現場をめぐる

 ヤクザマンション前を通り、クラブヴィーナス事件の現場に到着した。

 平成13年(2001年)8月16日午前2時過ぎ、歌舞伎町のクラブ「ヴィーナス」に男5人が押し入り、店長の腹を刃物で刺して死亡させ、客やホステス12人を拘束し、現金や貴金属を奪って逃走した事件が「クラブヴィーナス事件」である。犯人は現在も国外逃亡中で指名手配されているようだ。

 

 ここは「歌舞伎町アンダーグラウンド」210ページから登場するキャバ嬢の黒宮ちはやさんが勤めるお店だ。本橋先生曰く、指名料はすごく高いらしい。

 

 ここは「パリジェンヌ事件」が起きた喫茶店、パリジェンヌだ。

 パリジェンヌ事件とは、平成14年(2002年)9月27日に喫茶店「パリジェンヌ」で住吉会系の暴力団員がチャイニーズマフィアに射殺された事件である。

 

 パリジェンヌが入っている「風林会館」は台湾華僑が経営しているビルである。

風林会館

 

 「モッツマン新宿本店」などのあるビルだが、ここはかつて屋台村があったようだ。屋台村とは屋台型の店舗が集まった場所のことをいう。

 

 写真は載せないが、歌舞伎町タワー近くのカラオケ店で平成31年(2019年)1月に韓国籍の男性が住吉会系の元暴力団に射殺された事件があり、その現場跡を通過した。ほかの事件より最近の事件なので少し怖い。

 

 COCO Chicken&Ribs。ここは韓国料理店だが、元事件現場である。

 平成13年(2001年)9月1日未明、歌舞伎町一番街の雑居ビル、明星56ビルから出火し、麻雀ゲーム店「一休」、4階の飲食店「スーパールーズ」の従業員と客、44人の犠牲者を出す大惨事となったが、未だに犯人は捕まっていない。

 令和元年(2019年)に起こった京都アニメーション放火殺人事件をはじめ、火事はいつどこで起こるかわからないだけに怖い事件だと思う。

 

 SUZUYAビル前に来た。

ここの5階に「すずや」という飲食店があり、ここはとんかつ茶漬けを提供するお店なのだが、そこの初代オーナー、鈴木喜兵衛は歌舞伎町というまちを作った人物である。喜兵衛はもう亡くなっており、喜兵衛の子孫が今も「すずや」を経営しているようだ。なお、喜兵衛は歌舞伎町の始祖の存在であるため、この通りだけはぼったくりがいないらしい。いつか食べに行きたい。

 

 ここは大蔵省接待汚職事件の現場である。

 大蔵省の職員らが銀行から接待を受けた際に、中国人女性が経営する風俗系しゃぶしゃぶ店「楼蘭(ろうらん)」を使用しており、その楼蘭があった場所がここである。

 

 東亜会館に着いた。

東亜会館

 東亜会館は新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件の現場となったディスコのあった場所である。

 これは昭和57年(1982年)6月6日、2人の女子中学生が何者かに殺傷された強盗殺人事件で、1名は死亡、もう1名は軽傷で保護された。犯人が検挙されないまま時効となっている。

 2人の中学生が歌舞伎町のディスコで遊んでいたときに見知らぬ男に声をかけられ、そのまま「ドライブ」と称して車で連れていかれ、殺傷された。

 知らない人の車に乗らないように、とは今では常識だが、当時は違ったのだろうか。

 

 歌舞伎町タワー前に昔は噴水があったらしい。

 ここに大学生時代の本橋先生が飛び込み、なかに入っていたウイスキーボトルが足に刺さり、怪我をしたエピソードを話してくれた。そんな噴水も今はない。(「歌舞伎町アンダーグラウンド」84ページ)

 ちなみに歌舞伎町タワーは川のしぶきをイメージしてデザインされているようだ。

 

 大久保公園前を通る。今日もたちんぼと呼ばれる、フリーランスの娼婦が立っていた。

 

 今日の懇親会会場は台湾料理「青葉」。

 「青葉」およびオーナーの渡辺さんは「歌舞伎町アンダーグラウンド」149ページから登場する。歌舞伎町には中華料理屋や台湾料理が多いらしい。それは終戦後に在日中国人や台湾人がここで商売を始めたからである。ちなみに渡辺さんの出身は茨城県である。

 懇親会は、まずビールから。歩いた後のビールは美味しい。

 台湾料理は初めていただいたが、どれも美味しかったので機会があればまた行ってみたい。

 

 このあと有志で2次会に行ったが、青い明かりと照明の暗さのため、あまり写真が撮れなかった。これはカシスオレンジだった気がする。

 

 まず石井さんとのまちあるきで新宿の歴史を感じる。内藤新宿は繁華街だったが、裏に遊女の悲惨な歴史があることを知った。その後の本橋先生とのまちあるきで改めて歌舞伎町は事件の多いまちであることを知る。昼間は頑張ればなんとか、と思うがやはり夜一人で歩くのは危険だなと感じた。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

【参考文献・参考サイト】

新宿の歴史を語る会(1977) 「新宿区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

石井建志(2023) 「あなたも知らない「新宿の今昔物語」」

本橋信宏(2023) 「歌舞伎町アンダーグラウンド」 駒草出版

東海道を歩く 30.札木停留場~御油駅

 前回、二川駅から札木停留場まで歩いた。今回は札木停留場から御油駅まで歩こうと思う。これまでは東海道本線沿線を歩いてきたが、ここから宮宿(名古屋)までは名鉄名古屋本線沿線を歩いていこうと思う。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.湊町神明社

 今日は友人が同行するので、豊橋駅で待ち合わせをする。ちなみに友人は神戸から青春18きっぷを使い鈍行で来たらしい。朝からすごい。

 その後、路面電車豊橋鉄道市内線を使い札木停留場まで行く。

豊橋鉄道市内線

札木停留場

 札木停留場から西へ進むと、吉田宿本陣跡がある。

 天保14年(1843年)の記録によれば、清州屋与右衛門家と、江戸屋新右衛門家の本陣2軒が並び、街道の南側には脇本陣の枡屋庄七郎家もあった。

 吉田宿本陣跡にうなぎ屋の「丸よ」があり、吉田宿の御宿場印はここで配布している。しかし営業時間外だったのでもらうことはできなかった。

「丸よ」

 ファミリーマート豊橋上伝馬店のある交差点を右折して進むと吉田宿西惣門がある。ここが吉田宿の西端だ。

吉田宿西惣門

 入河屋のある交差点で左折して進むと、松尾芭蕉の句碑があった。

 「寒けれど 二人寝る夜ぞ 頼もしき」

 厳しい寒さの夜ではあるけれど、二人で寝ると心強いという意味の句である。

 

 湊町神明社に到着した。

湊町神明社

 湊町神明社の祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)。

 湊町神明社白鳳時代(7世紀後半)の創建といわれている。

 慶安2年(1649年)、3代将軍徳川家光から朱印地10石の安堵をうけ、以降代々徳川家の保護をうけていたという。

 

 このあたりは吉田御薗とよばれた。御薗(みその)とは伊勢神宮の所領だった場所のことを指す。つまり古くから伊勢神宮とのかかわりの深い地域だったことになる。

 

 湊町神明社の御衣祭(おんぞまつり)は、伝承によると桓武天皇の頃に八名郡大野の生糸(赤引糸)を、服部宮の神主が渥美神戸の名で伊勢神宮に奉納していたことに起源をもつ祭りである。

 元和元年(1615年)以降の神事では、まず静岡県浜松市北区三ヶ日町にある初生衣(うぶぎぬ)神社で赤引糸を荒妙(あらたえ。目の粗い織物)に織る。

 それを唐櫃(からびつ)におさめ行列を整え、本坂峠、吉田の深川稲荷を経て湊町神明社に運ぶ。このときに吉田の女たちが晴れ着で着飾り、歌いながら町を歩き、祭りを行う。

 その後、「太一御用」の幟をたてた行列が船町河岸に至り、舟で荒妙を伊勢神宮に運び、奉納したという。

 この祭りは明治初期に中断されたが昭和25年(1950年)に再興された。昭和43年(1968年)からは5月14・15日に実施され、浜松と豊橋のおんぞ奉賛会の人たちが、ここからバスで移動、伊良湖港からフェリーで鳥羽に渡り、伊勢神宮に荒妙を奉納するようになったようだ。

 

 湊町神明社の境内には湊築島弁天社があり、これは寛政7年(1795年)に建てられたもの。

湊築島弁天社

 

2.豊橋

 湊町神明社をあとにして、豊橋を渡る。

豊橋

 豊橋のあたりは江戸時代、吉田湊として豊川舟運の終点であり、伊勢や江戸への航路の起点として栄え、当時、三河における最大の湊だったという。

 

 豊橋は江戸時代には「吉田大橋」と呼ばれていた。

 吉田大橋は幕府が修理・架け替えを直営する重要な橋だったという。

 吉田大橋の起源ははっきりしないが、元亀元年(1570年)に酒井忠次が関屋口から下地に土橋をかけたのが始まりとされる。

 橋は江戸時代に何度も架け替えられ、元和3年(1617年)から明治2年(1869年)までの間に30数回も架け替えたという。

 吉田大橋は橋の上から吉田城が眺められるなど景色がよく、江戸時代には東海道の名所として浮世絵の題材にしばしば取り上げられた。

 歌川広重の「東海道五十三次 吉田」にも吉田大橋が描かれている。

東海道五十三次 吉田

 

 吉田大橋は明治11年(1878年)に「豊橋」と名を変え、大正5年(1916年)にはアーチ型の鉄のトラスト橋に架け替えられ、豊橋市のシンボルになっていたが、自動車時代に対応することができず、昭和61年(1986年)に現在の橋へと架け替えられた。

 ちなみに、豊橋のひとつ上流の橋の名前に「吉田大橋」は残されている。

 

 豊橋から豊川の流れを見る。寒いが、いい眺めだ。

 

 とよばし北交差点で左折して進むと右手側に「豊川稲荷遥拝所」がある。ここが東海道から豊川稲荷に通じる道の分岐点だ。

豊川稲荷遥拝所

 妙厳寺、通称「豊川稲荷」は嘉吉元年(1441年)に東海義易が開いた寺院である。商売繁盛・家内安全・福徳開運を願い、全国から年間数百万人の参拝者が訪れるという。その信仰は江戸時代も変わらない。

 豊川稲荷、有名な稲荷ということでいつか行ってみたいと思っているが、なかなか行く機会がなく行けずにいる。

 

 聖眼寺の境内に、松葉塚がある(境内は無断撮影禁止のため、山門のみ)。

聖眼寺

 松葉塚には松尾芭蕉の以下の句が刻まれている。

 「松葉(ご)を焚て(たいて) 手拭(てぬぐい)あふる 寒さ哉(かな)」

 この句は貞享4年(1687年)冬に、松尾芭蕉が愛弟子の杜国(とこく)の身を案じて渥美郡保美の里を訪れる途中、聖眼寺に立ち寄って詠んだ句である。

 この松葉塚は再建もので、明和6年(1769年)に植田古汎らが近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の土を譲り受けて再建したものである。再建ものでも摩耗して字は読めず、拓本を取ることは禁止されていた。

 

3.瓜郷遺跡

 聖眼寺を出て先に進むと下地一里塚跡を見つけた。日本橋から数えて74里目の一里塚だが、石碑のみが残っている。

下地一里塚跡

 しばらく進み、橋を渡る少し前で右折すると瓜郷遺跡がある。

瓜郷遺跡

 瓜郷遺跡は、豊川河口近くの沖積平野に成立した弥生中期から後期にかけての低湿地遺跡である。

 ここは昭和22年(1947年)から行われた江川の改修工事に伴い発見され、5回にわたる発掘調査の結果、大規模な集落遺跡であることが判明した。

 弥生時代の地表は現在よりも1mほど低かったようで、当時の人々は少し高いところに集落をつくり、谷状の湿地帯を水田として利用していたと考えられている。

 この遺跡からは鋤や鍬などの木製農耕具、磨製石器や骨角器、土器などに加え、黒く炭化した籾も発見された。

 弥生時代の竪穴住居が復元されており、ここが遺跡であることを示していた。

 出土品は豊橋市美術博物館に展示されているらしい。機会があれば見に行こう。

 

 現時点で12時頃なので、豊橋魚市場にある「おひさま」というカフェで三色丼を食べた。流石魚市場にあるカフェ、新鮮で美味しかった。

三色丼

 豊橋魚市場の近くに、豊橋市豊川市カントリーサインがあり、豊橋市に別れを告げた。

豊橋市

豊川市

 豊川市に入って直後、豊川放水路と善光寺川を橋で渡る。風が冷たく、寒い。

豊川放水路

 橋を渡ると、小さな石碑と「子だが橋」の説明板がある。そこには恐ろしい話が記されていた。

「子だが橋」

 この近くに菟足神社(うたりじんじゃ)がある。

 およそ1,000年前、菟足神社では人身御供の風習があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があった。

 ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の村人の前を若い女性が通りかかった。若い女性は父母に遭う楽しさを胸に秘めていた。しかし不運なことに、若い女性は贄狩をしていた村人の娘だった。

 村人は「どうしようか」と苦しむも、「子だがやむを得ない」と娘を生贄にしたという。それ以降この橋のことを「子だが橋」と呼ぶようになったという。

 現在は女性を生贄にすることはできないので、12羽の雀を生贄にしているという。

 

 「子だがやむを得ない」と娘を殺した父の気持ちはいかほどであっただろうか。想像するだけで胸が痛くなる。

 

4.菟足神社

 豊川市初マンホールを見つけたがこれは豊川市の市章ではない。

 このマンホールは小坂井町のマンホールである。小坂井町は平成22年(2010年)に豊川市編入し、廃止された。平成の大合併にしては少し遅めだ。

 

 菟足神社(うたりじんじゃ)の鳥居が見えてきた。鳥居は元禄4年(1691年)に吉田城主が寄進したもので、鳥居の脇にある灯籠は文化元年(1804年)に奉納されたもの。

 

菟足神社

 菟足神社の祭神は菟上足尼命(うなかみのすくねのみこと)。

 菟足神社は白雉元年(650年)に孝徳天皇の勅命により柏木の浜に建立されたが、のちに現在地に移されたという。

 菟上足尼命は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の4世の孫にあたり、雄略天皇によって穂国(ほのくに)の国造に任命された。

 菟足神社の祭りのひとつ、風祭は今昔物語集宇治拾遺物語にも記載されている伝統のある祭りである。

 そして菟足神社にはなでうさぎがいる。かわいい。

なでうさぎ

 

 菟足神社の収蔵庫には大般若経が所蔵されている。これは585巻が現存し、平安時代につくられたものとされる。

 奥書によれば、藤原宗成の立願によって、安元2年(1176年)3月から治承3年(1179年)8月にわたって書写されたものとされる。書くのもすごいが、残っているのもすごい。

収蔵庫

 菟足神社の社務所は営業しておらず、御朱印は300円を賽銭箱に納めていくセルフ方式だった。

 

 菟足神社をあとにして踏切を渡ろうとすると飯田線が走り抜けていった。

 

 小さなお社を見つけた。灯籠には「秋葉山」と書かれているので秋葉灯籠だ。

秋葉灯籠

 秋葉信仰とは秋葉神社に対する信仰のことで、秋葉神社は防火に霊験があったことから江戸時代は盛んであった。秋葉灯籠は秋葉信仰から建てられたものだ。

 

 東海道を進んでいくと、伊奈村立場茶屋がある。

伊奈村立場茶屋

 伊奈村立場茶屋は吉田宿と御油宿の中間にあり、ここに立場茶屋(休憩所)があった。今は石碑だけが残る。

 現在13時半。「やっと半分か」と友人が呟いた。

 

 伊奈村立場茶屋から先に進むと、右手側に迦具土神社(かぐつちじんじゃ)がある。

迦具土神

 祭神は迦具土神(かぐつちがみ)。迦具土神秋葉神社の祭神で、火の神である。それだからなのか、境内に秋葉灯籠が設置されていた。

秋葉山常夜燈

5.速須佐之男神社

 迦具土神社から先に進むと伊奈一里塚跡を見つけた。ここは日本橋から75里目の一里塚だ。現在は石碑のみ残る。

伊奈一里塚跡

 速須佐之男神社に到着した。

須佐之男神社

 速須佐之男命(はやすさのおのみこと)を祭神とする神社である。

 ここにも秋葉山常夜燈が設置されており、秋葉信仰が盛んな地域だったことがわかる。

秋葉山常夜燈

 豊川市のマンホールを見つけた。

 豊川稲荷のキツネ、市の木のクロマツと市の花のサクラ、本宮山と豊川が描かれたマンホールだ。

 

 桜町ひろばに「若宮白鳥神社遥拝所」を見つけた。遥拝といっても、国道1号線を挟んだ向かい側に若宮白鳥神社はあるのだが…。

若宮白鳥神社遥拝所

 

 「あめ」と書かれ、てるてるぼうずが手をつないだかわいらしいマンホールを見つけた。

 

 この先で一部東海道が寸断されている場所があり、迂回する必要が生じた。迂回しているときに、「いなりん」のマンホールを見つけた。

 いなりんとは豊川市のマスコットキャラクターで、キツネと豊川いなり寿司を合体させたキャラクターである。豊川市宣伝部長にも就任している。

 

 東海道に戻り、白鳥5丁目西交差点から国道1号線を歩く。

 305キロポストを見つけた。気づけば日本橋から300kmを超えていた。

 

 国府町薮下交差点から旧道に入る。今度は豊川、豊川稲荷のキツネ、クロマツが描かれたマンホールを見つけた。

 

 大きな秋葉山常夜燈を見つけた。寛政12年(1800年)に造立されたもの。

 この秋葉山常夜燈には説明板もついていた。説明板付きは珍しい。

秋葉山常夜燈

 

 ここで、友人が行きたがっていた三河国総社へ行くため寄り道する。

 足元に豊川市の市章入りマンホールがあった。

 豊川市章は昭和19年(1944年)9月1日に決められた。

 周囲にカタカナの「ト」を4つ並べ、中心に「川」をデザインしている。「ト4川」というわけか。

 

6.三河国総社

 三河国総社に到着した。

三河国総社

 三河国総社の祭神はなんと三河国の諸祭神である。

 律令時代、国を治めた人を国司といい、国司の役所は国府、または府中と呼ばれた。

 「倭名類聚抄」には「三河国国府は宝飫郡(ほおぐん。現在の宝飯郡)にあり」と記されている。当時の宝飯郡は、現在の豊川市の大部分を指しているといわれる。

 平安時代になると、国司の役所の近くに各郡の諸社を一社に集めて総社とし、国司はここに参拝して国内の主要神社への巡拝にかえるようになった。

 三河国総社には58もの神社が祀られているという。すごい。

 

 三河国総社は三河国府跡のあった地とされている。

 三河国府跡の調査も進み、平成8年(1996年)の発掘調査で総社の北東50mにある曹源寺本堂跡から大型の建物跡が確認された。

 この建物跡は東西23m、南北16mの大きさを持つ国府の正殿遺構であることが判明している。

 国府のあるこのあたりは古代の官庁街で、この近くには三河国分寺跡・三河国分尼寺跡もある。しかし東海道から離れていくので今回は行かなかった。

 

 曹源寺のお堂はあったが、近々取り壊す予定らしく、本尊等は既に運び出しているようだった。

曹源寺

 ちなみに、三河国総社前にも秋葉山常夜燈が設置されていた。

 

 東海道に戻り、先に進むと薬師堂瑠璃殿を見つけた。

薬師堂瑠璃殿

 その昔、母親の死を嘆き悲しむ娘がいた。その娘のもとに行基が泊まりに来て、薬師如来を作り、娘に渡した。その後娘がお堂を建てた、という説明が書かれていた。

 

 東海道を少しそれ、国府観音へ向かう。

国府観音

 慶長年間、2人の素封家が「近くの土中に大悲の尊像が埋もれている。掘り出してお堂を建て安置すれば村はますます繁栄するだろう」という夢のお告げを受け、示された場所を掘ってみたら身の丈1寸8分の観音様が現れた、という伝説がある。

 

  境内には松尾芭蕉の句碑もある。

 「紅梅や 見ぬ恋作る 玉すだれ」

 紅梅が美しい家に玉すだれがかかっている。

 王朝文学の装置が揃っているこの家には未だ見ぬ住人が住んでいるのかもしれない。

 そう思うとその人にそこはかとない恋心さえ感ずるから不思議なものだ。

 …なかにいるのは女性とは限らない気もするが。

松尾芭蕉の句碑

 国府の守護社である守公神社に行こうとしたが、地元の人が何やらイベントをやっていたのでやめておくことにした。

守公神社

 東海道に戻り、大社神社へ向かう。

大社神社

 大社神社の祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)。

 7月の最終土・日曜日に行われる祭礼は「国府夏祭り」といわれ、4町内がそれぞれ山車をだし、明治中頃の仮装行列が発展した歌舞伎行列を行い、にぎわうという。

 そして神社の裏に「大社神社忌避期間遥拝所」とあったが…忌避期間とは何だろう?

 

7.御油の追分

 大社神社を過ぎると、御油一里塚跡を見つけた。江戸から76里目の一里塚だ。

御油一里塚跡

 県道368号線との交差点に「これより姫街道」という看板と、「秋葉三尺坊大権現道」「國幣小社砥鹿神社道」という石碑がある。御油の追分である。

 「姫街道」というワードを覚えている人はいるだろうか。

 そう、「東海道を歩く 24-2.袋井駅磐田駅 後編」の6.西光寺 に出てきたあの「姫街道」だ。

 姫街道とは東海道の見付宿から市野宿、気賀宿、三ケ日宿、嵩山宿と、浜名湖北岸を迂回して御油宿へと通じる東海道脇往還である。

 姫街道という呼び名は俗称で、江戸時代までは公的には「本坂通」と呼ばれ、見付宿から入るルートと浜松宿から入るルートがあった。浜松宿側からの入口は「東海道を歩く 25.磐田駅~浜松駅」で紹介している。

 18世紀初頭の大地震による津波や高潮の影響で浜名湖の今切の渡しが使えなくなると、多くの人が姫街道を通るようになった時期もあったというが、今は人通りもまばらだ。

 姫街道も、いつか歩いてみたい。

 そして石碑から秋葉神社や砥鹿神社へも通じる道であることがわかる。

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 先に進むと、高札場跡がある。

高札場跡

 高札場とは、江戸時代に法令などを書いた札を掲示した場所で、人目につきやすい場所に設置された。

 そしてこの高札場の写真に見覚えがあるな、と思ったら前回の「東海道を歩く 29.二川駅~札木停留場」の2.二川宿本陣資料館に登場した高札場の写真だった。

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 和菓子屋の「おふく」がある交差点を左折してまだ東海道は続くが、今日は右折して御油駅に向かい、これで今日の東海道ウォークを終わりとした。

御油

 次回は御油駅から藤川駅まで歩く。

 

【おまけ】

 距離的にそろそろ食べ納めだろうか、と思いつつ浜松の遠鉄百貨店のさわやかに向かった。

 整理券を取り、友人と星乃珈琲店で焼き菓子を食べつつ珈琲を啜った。

 

 閉店時間の確認ミスにより星乃珈琲店を出てからも待ち時間があまり、さわやか近くのベンチに移った。

 呼び出し時刻となり、いつも通りサラダとライス、そしてげんこつハンバーグ、パフェを注文した。

 

 店員さんが熱々の鉄板の上に置いたげんこつハンバーグを持ってきた。

 私の前でハンバーグを2つに切り、鉄板に押し付けて焼き、オニオンソースをかけた。

 友人は「シズル感のある写真を撮りたい」と言い、写真を撮るのに熱中していたが私は待ちきれず先に食べてしまった。

 うまい。

 うますぎる。

 距離的に厳しくなってきているのはわかるけれど、何度だって食べたくなるハンバーグ、それがさわやかだ。

 

 そしてさわやかはデザートが美味しいことを忘れてはならない。

 友人は「食べきれなそう」と言いハンバーグのみを頼んだが、私はデザートも頼んだ。店員さんが気を遣って「スプーン2つお持ちしましょうか?」と聞いてきたので、2つスプーンを持ってきてもらいシェアすることにした。

 今回頼んだのは三ケ日みかんパフェ。

 三ケ日みかんのさわやかな酸味と甘味が混ざり合い、とても美味しかった。

 

 さわやかの余韻に浸りながら豊橋の宿へ戻り、明日に備えることにした。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

歩いた日:2023年12月23日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第9集」

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第10集」

ぐるっと豊川 いなりんについて

https://www.toyokawa-map.net/inarin/000272.html

豊川市 市章

https://www.city.toyokawa.lg.jp/smph/shisei/shinogaiyo/shisho.html

ぐるっと豊川 国府観音

https://www.toyokawa-map.net/spot/000282.html

(2024年1月22日最終閲覧)

江戸三十三観音をめぐる 7.神田川沿いを歩く

 前回、江戸三十三観音第14番札所金乗院、第15番札所放生寺、第16番札所安養寺に参拝しながら高田、早稲田、神楽坂のあたりを巡った。今回は第17番札所宝福寺に参拝しながら神田川沿いをぶらぶらしようと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.蚕糸の森公園

 東高円寺駅1番出口を出るとすぐそこに、蚕糸の森公園がある。

蚕糸の森公園

 蚕糸の森公園は、旧農林省蚕糸試験場の跡である。

 昭和53年(1978年)に発行された「杉並区の歴史」には、ここは蚕糸試験場として紹介されている。

 蚕糸試験場は、明治44年(1911年)に蚕の種紙の製造と、品種の改良を目的として創設され、品種の改良、新品種の発見、病原菌の発見と防除法、桑園の管理、製糸機械の開発など多くの成果をあげ、日本の養蚕・蚕糸業の発展に貢献した。

 蚕糸試験場が現在どうなっているのか、調べてもわからなかった。実家でも昔は養蚕をやっていたと聞いたことがあるが、ずいぶん前にやめてしまったようだし、養蚕業自体が衰退しているのだろう。

 

 蚕糸の森公園にはさまざまな木が植えられ、紅葉がまぶしい。

 

 蚕糸の森公園をあとにして、国道318号線沿いに出ると梅里公園がある。

梅里公園

 梅里公園はこのあたりの地名、「梅里」からとって名づけられた公園で、園内には梅の木が植えられている。

 

 国道318号線沿いに、宗延寺がある。

宗延寺

 宗延寺は、日蓮宗の寺院である。天正12年(1584年)に小田原で創立され、大正8年(1919年)に現在の場所に移転した。

 二重屋根の珍しい形をした本堂は、大正天皇のご産殿を移築したもので、江戸十祖師のひとつである「読経の祖師」が安置してある。

 

2.妙法寺

 妙法寺東交差点で右折し、しばらく進むと妙法寺がある。

妙法寺

 妙法寺寛永9年(1635年)に創立された日蓮宗の寺院で、元禄5年(1692年)に目黒碑文谷の法華寺より、日蓮聖人の木像を移して御本尊とした。

 この日蓮聖人の木像は聖人42歳の姿を、弟子の日郎が彫ったといわれ、男42歳の厄除けに霊験があると広く信じられていた。

 妙法寺は参詣者へ「厄除けの御符」を授与したので、宗派に関係なく信者が増え、あらゆる厄除けに霊験があると、江戸市民の信仰を集め、落語のタネになるくらい有名になり「堀之内の御祖師様」として江戸郊外屈指の名所に数えられ、昭和20年頃までたいへん繁盛した。

 境内地は約1万坪あり、都重宝指定の仁王門(天明7年(1787年)再建)、祖師堂(文化9年(1812年)再建)、本堂、庫裡、書院など多くの建物は、江戸時代の面影をとどめ、国宝指定の鉄門(明治11年(1878年)製造、純国産の鉄門第1号)、絵馬、古文書、奉納品は当時の繁栄を物語る。

妙法寺鉄門

 妙法寺に参拝後、御首題をいただいた。やはり日蓮宗の御首題は独特だ。

 

 妙法寺の近くに、気になるお店があった。清水屋で売っている妙法寺名物、揚まんじゅうだ。

揚まんじゅう

 揚まんじゅうはまんじゅうを揚げたもので、サクふわで美味しかった。

 一緒にいただいた知覧茶も美味で、落ち着いた。

知覧茶

3.釜寺東運寺

 来た道を戻り、妙法寺東交差点で右折、再び国道318号線を南下する。

 しばらく南に進み、肉のハナマサ方南町店のある交差点で左折すると釜寺東運寺がある。

釜寺東運寺

 釜寺東運寺は浄土宗の寺院。天正元年(1573年)に一安上人がこの地に念仏堂として創立したのがはじまりで、大正11年(1922年)に台東区入谷の東運寺を合併した。昔から本堂の屋根に大きな釜を載せているので、釜寺と呼ばれた。

 釜寺にはこんな伝説がある。昔、人買いにさらわれた安寿姫と厨子王丸は、丹後由良湊の山椒太夫に売られ、逃げようとして捕まった厨子王丸が釜茹でにされようとしたとき、肌につけていた地蔵尊が僧に姿を変えて救ってくれた、という話である。

 この話は伝記本や芝居で知られていたが、以前の釜寺のご本尊は厨子王丸の持仏だったという高さ10cmの身代わり地蔵だったので、江戸から参詣に来る人が多かったという。

釜寺東運寺の山門

 釜寺東運寺の山門は、芝田村町の田村右京大夫上屋敷の脇門で、ここで切腹した浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の遺体を運び出した門で、「あけずの門」といわれ、昭和28年(1953年)に三井家から寄進されたものである。

 

 釜寺東運寺の近くに、釜寺東遺跡がある。現在は杉並区立方南二丁目公園となっている。

方南二丁目公園

「釜寺東遺跡」

 この遺跡は、縄文後期・古墳後期の複合遺跡で、台地の上下に住居跡、縄文後期の石棒、古墳期の土師器・玉などが発見されている。

4.宝福寺

 釜寺東遺跡をあとにして、神田川沿いに出る。これから神田川沿いをしばらく北上する。

神田川

 下水道管の埋設の看板があった。

 ここに「A.P」という単語が書かれているが、これは「荒川ペイル」を意味する。

 荒川ペイルとは、東京湾近くの霊岸島水位観測所において大潮で最も水面が低くなったときの水面の高さを0mと設定し、これを基準とする高さのことである。東京湾の潮位のグラフを作る仕事があり、これで頻出した単語だ。

 

 角田橋で右折して神田川を離れると左手側に宝福寺が見えてくる。

宝福寺

 宝福寺は真言宗豊山派の寺院である。

 宝福寺は如意山と号し、本尊は不動明王である。この寺の南隣にある多田神社別当寺で、神仏分離以前は同じ敷地内にあった。

 創建の年代、開山ともに不詳だが、過去帳にみえる最も古い年代は明暦2年(1656年)であるという。

 なお、聖徳太子が諸国を巡遊したとき、紫雲たなびくこの地を霊地として堂を建て、如意輪観音を安置したのに始まったともいわれている。

 境内には、元禄年間(1688~1704年)から江戸期にかけて造られた五輪塔や石地蔵などがあり、また、筆塚が1基建っている。この筆塚は戸村直衛という人物が建てたもので、戸村直衛は明治3年(1870年)に私塾「戸村塾」を開いた人である。

 聖徳太子が安置したと伝えられる如意輪観音が江戸三十三観音第17番札所の観音様に指定されている。不動明王如意輪観音に手を合わせた後、寺務所で御朱印をいただいた。

 

5.多田神社

 宝福寺の南隣にある多田神社に向かう。

多田神社

 多田神社の祭神は多田満仲公(源経基の息子)で、旧雑色村の鎮守だった。

 社伝によると、寛治6年(1092年)に源義家後三年の役からの帰途、戦勝の祈願成就のお礼に、父の頼義が創建した大宮八幡宮に神鏡を献じた。

 そして社殿に近い雑色村の地に、日ごろ崇敬する曾祖父の満仲公を祀る祠を建てたのが始まりだという。

 この地は現在、南台3丁目と呼ばれているが、かつては(昭和42年(1967年)6月以前)この神社の名前をとって「多田町」と呼ばれていたそうだ。

 

 多田神社でも御朱印をいただいた。多田神社御朱印は書置きのみ。

 

6.貴船神社・和泉熊野神社

 多田神社をあとにして、神田川に戻る。神田川を南下していくと、中野区と杉並区の少し変わった区境があった。

 

 「測量」と大書きされた杉並区の三級基準点のマンホール。Xに投稿したら結構ウケた。

「測量」

 番屋橋まで神田川を南下したらいったん西側に抜け、次の交差点を左折して進むと貴船神社がある。

貴船神社

 貴船神社の創立年代は不明。御祭神は雨と雪を司る高龗神(たかおおかみ)。

 社殿前には涸れた池があるが、昭和40年頃まで満々と水が溢れていたらしい。昔、お酒が湧き出たという伝説があるくらい水質の良い水が、古来涸れることなく出た泉だったが、神田川の改修と付近台地の宅地化で涸れてしまったそうだ。旧村名「和泉」の由来となった泉なだけに、残念である。

 

 貴船神社から100mほど南に進むと、和泉熊野神社がある。

和泉熊野神社

 旧和泉村の鎮守となった神社で、御祭神は大屋津姫命(おおやつひめのみこと)。

 文永4年(1267年)に紀州熊野三山を勧請し、弘安7年(1284年)2月に社殿を修造したといわれる。

 

7.永福寺・永福稲荷神社

 和泉熊野神社のそばの交差点を左折し、神田川に戻り、再び南に進む。途中、京王線神田川を渡るのを見たので撮ってしまった。

 

 しばらく神田川を南下していき、リバーサイド永福のあるところで神田川を離れ、住宅街を進むと永福寺がある。

永福寺

 永福寺曹洞宗の寺院で、大永2年(1522年)8月に秀天慶実和尚が創立し、御本尊は十一面観音で、これは鎌倉初期の安阿弥快慶(やすあみかいけい)の作といわれる。

 天正16年(1588年)に永福寺村を検地した奉行、安藤兵部之丞が、天正18年(1590年)に小田原落城後、永福寺の住職を頼ってここに落ち延び、帰農して村を開発したという伝承がある。

 昭和20年(1945年)5月に米軍機の直撃弾で永福寺が全焼したとき、住職の母親が、燃え盛る炎のなかから命がけで、御本尊と古文書類を運び出したため、北条氏の検地書き上げをはじめ、貴重な古文書が多く残るという。

 永福寺の古文書類は運よく助かったが、金属供出も含め、戦争で失われた文化財は多くあったのだろうな、と思った。

 

 永福寺の隣にあるのが永福稲荷神社だ。

永福稲荷神社

 享禄3年(1530年)に永福寺の開山の秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として、伊勢外宮より豊受大神(とようけのおおみかみ)を勧請創建し、寛永16年(1639年)の検地の際に、永福寺村持ちの鎮守になったといわれる。

 

 永福稲荷神社では、御朱印をいただいた。

 

8.築地本願寺和田堀廟所

 永福稲荷神社から都道427号線沿いに出て、南下する。そのまま歩くと国道20号線に下高井戸駅入口交差点で合流するが、一本北側の道路に入ると寺町が広がっている。

 まずは永昌寺。

永昌寺

 永昌寺は曹洞宗の寺院で、寛永元年(1624年)に四谷で創立され、明治43年(1910年)に下高井戸の永泉寺を合併してここに移転した。

 境内の薬師堂に祀ってある御本尊の玉石には「承応2年(1653年)に玉川兄弟が、多摩川羽村から上水路をこの地まで掘り進めてきて、資金を使い果たし、江戸の商人から資金を借りようとしたが断られ、工事を断念しようとした夜、地中から燦然と輝く玉石が掘り出され、これが江戸中の評判となり、先に融資を断った商人も進んで資金を提供し、ついに工事が完成した」という伝説があり、江戸時代には甲州街道の名所のひとつになっていたという。

 このとき玉川兄弟が掘った江戸の上水道玉川上水であり、この玉川上水の水を取水する堰、羽村取水堰に行ったことがある。

羽村取水堰

 羽村取水堰については「うさぎの気まぐれまちあるき「玉川上水×福生×立川 まちあるき」」の3.羽村取水堰を参照してほしい。

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 続いて、栖岸院(せいがんいん)。

栖岸院

 栖岸院は浄土宗の寺院で、天正19年(1591年)に三河国(現在の愛知県)から麹町(現在の千代田区)へ移り、老中の安藤対馬守、河内丹南一万石高木正次など大名・旗本の菩提寺となり、栄えていたが、明治維新武家が零落したため寺運は衰えたという。

 

 栖岸院の隣にあるのが法照寺だ。

法照寺

 法照寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、御本尊は阿弥陀如来

 この寺院は鎌倉に開創され、天正18年(1590年)に湯島(現在の文京区)に移転し、元和7年(1621年)には浜町(現在の中央区)の築地本願寺境内に移転した。

 明暦3年(1657年)の振袖火事で全焼し、築地本願寺とともに築地に移転した。大正12年(1923年)の関東大震災により築地本願寺とともに全焼、昭和3年(1928年)に現在地に移転してきた。昭和20年(1945年)に空襲により全焼し、現在の堂宇は昭和39年(1964年)に建てられたもの。災害に翻弄された寺院である。

 

 法照寺の隣にあるのが浄見寺だ。

浄見寺

 浄見寺は浄土真宗本願寺派の寺院である。開創は慶長15年(1610年)、現在の京都府京都市伏見区である。

 この寺院も元和7年(1621年)に築地本願寺境内に移転し、明暦3年(1657年)の大火後築地に移転、大正12年(1923年)の関東大震災でも全焼、昭和3年(1928年)に震災後区画整理事業のため移転してきた。昭和20年(1945年)の空襲にも遭い、現在の堂宇は昭和35年(1960年)に建てられたもの。法照寺と同じ運命をたどっている。

 

 浄見寺の隣にあるのが善照寺だ。

善照寺

 善照寺も浄土真宗本願寺派の寺院である。天正18年(1590年)7月、現在の神奈川県小田原市に開創された。

 元和7年(1621年)に築地本願寺に移転し、昭和3年(1928年)に現在地に移転してきた流れは法照寺、浄見寺と同じである。昭和20年(1945年)の空襲で全焼、現在の堂宇は昭和45年(1970年)に建てられたもの。

 

 善照寺の隣に託法寺がある。

託法寺

 託法寺は浄土真宗大谷派の寺院で、御本尊は阿弥陀如来

 寺伝によれば、寛永11年(1634年)、現在の新宿区に開創された。大正11年(1922年)に東京市の都市計画事業によって移転した。法照寺、浄見寺、善照寺とは移転の経緯が違い、時期も少し早い。

 

 門が閉まっているが、この奥に真教寺がある。

真教寺

 真教寺は浄土真宗本願寺派の寺院である。寺伝によれば、現在の港区に文禄3年(1594年)に創建された。

 その後築地本願寺に移転し、昭和3年(1928年)に現在地に移転してきた流れは法照寺、浄見寺、善照寺と同じである。

 

 真教寺から国道20号線沿いに出て、少し進むと築地本願寺和田堀廟所がある。

築地本願寺和田堀廟所

 この地には、江戸時代に江戸幕府の焔硝蔵があった。明治維新のとき、新政府に接収され、幕府が長年かけて貯蔵した火薬が、皮肉にも彰義隊をはじめ、旧幕府に殉じた奥州諸藩の平定に大きな威力を示したという。

 明治維新後、陸軍の火薬庫となり、大正12年(1923年)に軍縮で廃止され、土地は昭和4年(1929年)に明治大学築地本願寺に払い下げられた。

 大蔵省から12,000坪の払い下げを受けた築地本願寺は、中央区内にあった檀家墓地を移し、日本初の公園式墓地をつくって一般から墓地の分譲を募集し、霊園経営の新形式をつくり、昭和11年(1936年)に真宗寺を置いた。

 この墓地には女流文学者の樋口一葉歌人の九条武子、仏教学者の前田慧雲(まえだけいうん)、政治家伊東巳代治(いとうみよじ)、弁護士花井卓蔵なども眠っている。

 それにしても、本願寺築地別院といい、浄土真宗本願寺派の一部の寺院で見られる古代インド仏教式の建築は独特である。

本願寺築地別院…ここは日本の築地である

 本願寺築地別院については「うさぎの気まぐれまちあるき「桜と7つのパワースポット巡る隅田川ウォーク&クルーズ」の7.本願寺築地別院で取り上げているので、興味があれば見てほしい。

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 築地本願寺和田堀廟所から国道20号線に戻り、明大前歩道橋で右折すると、明大前駅である。今日のウォーキングはここで終了だ。

明大前駅

 このあとは秋葉原で大学のサークル仲間と飲み会があり、それまで少し時間があるのと、少し疲れたので明大前駅のスタバに入った。頼んだのはメルティホワイトピスタチオフラペチーノ。

メルティホワイトピスタチオフラペチーノ

 ホワイトチョコレートマスカルポーネ、ピスタチオの相性が抜群で美味しかった。

 

 厄除けとして有名だった妙法寺に参拝して、少しは厄除けになっただろうか。揚まんじゅうが美味しかったことも忘れられない。江戸三十三観音のある宝福寺は落ち着いた寺院だった。築地本願寺和田堀廟所付近に寺町があったことは知らなかった。その多くが関東大震災後に移転してきた寺院だったことも。

 

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図①

今回の地図②

歩いた日:2023年12月2日

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【参考文献・参考サイト】

杉並郷土史会(1978) 「杉並区の歴史」 名著出版

関利雄・鎌田優(1979) 「中野区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

東海道を歩く 29.二川駅~札木停留場

 前回、新居町駅から二川駅まで歩いた。今回は二川駅から札木停留場まで歩こうと思う。また、前回時間の都合で行けなかった二川宿本陣資料館ほか、二川宿めぐりと札木停留場周辺の豊橋まちあるきも収録しているので、お付き合いいただきたい。

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1.二川伏見稲荷

 今日は二川駅からスタートだ。二川駅から西に行きたいところだが、一旦東に向かい、昨日御朱印をいただきそびれた二川伏見稲荷に行く。

二川伏見稲荷

 二川伏見稲荷明治43年(1910年)11月に京都の伏見稲荷大社から分霊を勧請し、創始された神社である。

 参拝し、御朱印をいただきに社務所に行った。すると伏見稲荷の裏山をめぐることを勧められたので、御朱印帳を預けたのち、歩いてみた。

 

 まずは三ノ峯、白菊社。

白菊社

 白菊社の御祭神は白菊大神で、衣食住を司る神様だ。「己を捨てて他人を助けよ」と教えている神様だそうだ。他人を助けることも大事だが、自分を助けることも大事、と言ってはいけないのだろうか。

 

 次は二ノ峯、青木社で、青木大神が祀られている。

青木社

 青木大神の御神徳は土地浄化・交通安全。「己の心に自負心を持て」と教えている神様だそうだ。自分に自信を持て、ということだろうか。

 

 続いて一ノ峯、末広社。末広社には末広大神が祀られている。

末広社

 末広大神の御神徳は芸能・歌舞・音曲、愛福、愛敬。「己を低くして人様を敬え」と教えている神様だそうだ。「我以外皆師」ということだろうか。

 

 長者ヶ峯、豊久社には豊久大神が祀られている。

豊久社

 豊久大神の御神徳は学徳、善悪を見分けること。稲荷神社といえば宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)が祀られているが、その奇御魂(くしみたま、英知を司る)と幸御魂(さきみたま、人情を司る)を祀り、どちらにも偏ることなく進めと教えている。確かに合理性ばかりを追求しても人情味がないし、かといって情ばかり重視していてもうまくいかない、ということだろうか。

 

 少し変わった祠の龍神社に参拝する。龍神社は宇迦御魂日下部明神(うかのみたまくさかべみょうじん)が祀られている。

龍神

 御神徳は病気平癒、金運隆昌。持病がよくなるように祈った。

 

 今度は奥村社に参拝する。奥村社の御祭神は奥村大神。

奥村社

 動植物すべての物の悪を除き善を育てる御神徳がある。成長を司る、ということか。

 

 荒神ヶ峯の田中社の御祭神は田中大神。苗字みたいな名前の神様だ。

田中社

 田中大神の御神徳は経営、縁結び、治病で、「日常のあらゆる労苦をも大きく包み収めていつも笑っているように」と教えている。いつも笑顔、大切なことだ。

 

 麓まで下りてくると、一番大きなお社、御石宮司社(おしゃぐじしゃ)がある。御石宮司社には天祐稲荷石宮司大明神(てんゆういなりしゃぐじだいみょうじん)が祀られている。

御石宮司

 石宮司社は二川伏見稲荷より前からあった神社で、この神様は安産、子育ての神様だそうだ。

 

 千本鳥居をくぐって社務所に戻る。伏見稲荷大社にいるみたいだ。

 

 御朱印を受け取り、二川伏見稲荷をあとにした。裏山巡り、楽しかったな。

 

 二川宿本陣資料館に行く前に、大岩神明宮に寄り道する。

大岩神明宮

 大岩神明宮の創建は文武天皇2年(698年)で、現在地に移ったのは正保元年(1644年)、という古社である。

 そして大岩神明宮でも御朱印をいただいた。

 

2.二川宿本陣資料館

 そして二川宿の目玉施設、二川宿本陣資料館に到着した。まず復元された高札場が出迎えてくれる。

高札場復元

 幕府・大名が法令や禁令を板札に墨書した高札を掲示したところを高札場といい、宿場等、人の目につきやすい場所に設置された。

 

 入場料を払い、二川宿本陣資料館に入っていく。

 本陣とは、宮家や公卿、大名・幕吏の宿泊休息施設で、脇本陣は本陣の予備にあてた宿舎である。

 本陣宿泊料が、定額ではなく大名たちの心付けであったことや、大火からの再起に費用がかさんだりして、本陣の経営は困難を極めたという。

 二川宿の発展に尽力した後藤五左衛門が本陣職と問屋役を兼務していたが、寛政5年(1793年)の大火以後、本陣職を紅林権左衛門に譲ったという。

 その後、文化3年(1806年)には紅林家も大火に遭い、馬場彦十郎が本陣職についた。そして明治3年(1870年)の本陣制度廃止まで、馬場家が約60年間本陣経営を行っていた。

 昭和63年(1988年)から進められた改修復元工事の結果、大名などが休泊した上段の間のある書院造の書院棟が復元された。

 現在、本陣が残っているのはここ二川と、滋賀県草津市にある草津宿の本陣のみとなっており、貴重な遺構となっている。

 

 それでは、本陣のなかに入ってみよう。

 ここは勝手だ。

勝手

 勝手は本陣の主人・家族・使用人の居住する部分だった。この部分は本陣のなかでも古く、馬場家が本陣を引き受ける以前の宝暦3年(1753年)に建てられた部分である。

 

 こちらは板の間。

板の間

 板の間は、大名行列などの荷物置き場で、街道に面した本陣建物の中央に大きな面積をしめ、蔀戸という上下移動式の戸があり、街道から直接荷物を運びこむことができるようになっていた。

 

 流石本陣、部屋の数が普通の旅籠と違う。

 

 茶室を見つけた。二川宿本陣資料館では抹茶を飲むことができるが、この部屋ではない。

茶室

 庭も見事だ。

 

 上段の間を見つけた。

上段の間

 上段の間は、大名などが宿泊休憩する部屋で、ほかの部屋より一段高くなっており、床の間、書院を備えた書院造となっていた。

 二川宿本陣馬場家の書院棟は文化4年(1807年)に建設されたが、明治3年(1870年)の本陣廃止後に取り壊されたため、のちに復原されたものである。

 

 雪隠(せっちん)がある。

雪隠

 雪隠とは現在の御手洗いのことである。本陣内には5ヶ所の雪隠があったが、ここは大名の使用する雪隠だった。大と小の雪隠があったという。

 

 雪隠の隣には上湯殿があった。

上湯殿

 湯殿とは現在のお風呂場のことで、湯殿も3ヶ所にあり、ここは大名の使用する湯殿だった。風呂桶は本陣でも用意していたが、お金持ちの大名は自分専用の漆塗りの豪華な風呂桶を持参した人もいたとか。

 

 ここは台所で、昔の道具が展示されていた。

台所

 左は箱提灯、右は行灯(あんどん)。

 箱提灯はひごと称する細い割竹を骨として、上下に伸縮自在にしたものに紙を張り、これを火袋とし、上下に枠をつけ、下枠の底板にろうそくを立てるようにしたもの。持ち歩くライトのようなものだ。

 一方行灯は、江戸時代には屋内用灯火器となり、持ち歩かないライトとなった。

 

 これは燭台(しょくだい)で、ろうそくの点灯に使われた灯火器である。

燭台

 本陣を正門から見る。格式がある。

 

 二川宿本陣の隣には旅籠、清明屋もあるのでそちらも見学する。

 清明屋は江戸時代後期の寛政年間(1789~1801年)頃に開業した旅籠屋で、主人は代々八郎兵衛を名乗っていたという。

 この建物は文化14年(1817年)に建てられたものであることが判明している。

 本陣のすぐ東隣に建つ旅籠屋だったので、大名行列が本陣に宿泊するとき、家老など上級武士が清明屋に宿泊していたという。

 

 まずミセの間で草鞋を脱いで足を洗う旅人の姿が見られた。

ミセの間

 

 ウチニワにはかまどが置かれ、炊事が行われていたという。

ウチニワ

 清明屋に上がってみよう。

 

 畳敷きの部屋だが、ここが台所だったらしく、ここで食事の準備をしていたようだ。

台所

 左が大和名所道中記、右が二川宿橋本屋引札と二川宿山家屋引札である。引札とは現在のチラシである。

 大和名所道中記には地図とともに旅籠の宣伝も書かれており、いかに集客熱心だったのかがわかる。

 

 左が飯盛女人別帳、中央が大日本細見道中記、右が浪速講定宿帳。

 飯盛女(めしもりおんな)とは性的サービスも行っていた女中で、現在ほど売春等の規制が厳しくない時代だったのでほぼどの宿場にもいたという。

 また、前回「東海道を歩く 28.新居町駅二川駅」の紀伊国屋は浪速講に加盟していた、と説明した。どうやら清明屋も浪速講に加盟していたらしい。浪速講とは講のひとつで、講とは旅人が安心して泊まれるように信頼できる旅籠屋を指定し結成された組織のことである。

 

 ここは繋ぎの間といい、客の宿泊に用いられた部屋である。

繋ぎの間

 ここは奥座敷で、床の間と入側がついた一番良い部屋だ。本陣に大名が宿泊したとき、上級武士が泊まったのだろうか。

奥座敷

 旅籠屋の食事が再現されていた。旅籠屋では朝晩2食の食事が出され、煮物と魚の1汁2菜か、もう1品つく1汁3菜が多かったようだ。今の旅館の食事と比べて質素だが、小食の私にはむしろこれくらいがちょうどいいかもしれない。

 

 参考までに、今年3月に家族で伊香保温泉に行ったときに出た食事を置いておく。これは流石に食べきれなかった。

 

 清明屋にも、やはり湯殿と雪隠はあった。

湯殿

雪隠

 いろいろ見学して疲れたので、本陣の茶席で一休みする。しばらくすると、お抹茶と栗ようかんが運ばれてきた。

 疲れているときの抹茶と甘味は沁みる。抹茶と甘味のマリアージュは最高だった。

 お抹茶を下げるとき、茶席のスタッフのおばちゃんと少し話をした。東海道日本橋から歩き続けていることを言うと、「すごいわね、頑張ってね」と励まされた。

 

 二川宿本陣と、旅籠清明屋を見終わったら、次は二川宿本陣資料館だ。

二川宿本陣資料館

 まず、本陣の展示を見る。本陣の構造が載っており、現存している二川宿本陣よりもずっと広大な敷地を持っていたことがわかる。

 

 松平伊豆守行列模型があった。

松平伊豆守行列模型

 松平伊豆守は吉田藩主である。吉田藩とは、現在の豊橋にあった藩のこと。

 行列を先導する役の徒士(かち)、槍持に続いて、たくさんの家臣たちに囲まれた藩主の乗物が見える。

 

 かわいらしい人形の大名行列もあった。

 

 宿料包紙が展示されていた。

宿料包紙

 本陣の休泊料は、家来の分は事前の話し合いで決めたが、大名など主客の分は心づけと献上物へのお返しが支払われたという。

 

 関札が展示されていた。

関札

 関札とは、大名などが本陣に宿泊・休憩するときに、姓名・官職・日付などを板や紙に書いて、本陣門前や宿場の入口などに掲げる札である。

 左から「松平伊豆守休(吉田藩主)」、「松浦壱岐守宿(平戸藩主)」、「石川主殿頭宿(亀山藩主)」、「太田備後守宿(掛川藩主)」となっている。

 

 こちらは二川宿本陣宿帳。

二川宿本陣宿帳

 二川宿本陣を経営した馬場家には、本陣を始めた文化4年(1807年)から慶応2年(1866年)までの60年間の本陣利用者と利用の状況を記帳した宿帳が残っており、それが二川宿本陣宿帳だ。

 

 乗物が展示されている。乗物とは身分の高い人が乗る駕籠のことである。

乗物

 浮世絵コーナーがあったのでやってみた。

 浮世絵コーナーでは、黒、赤、緑、青の絵の板とインク、ローラー、ばれんが置いてあり、順にやっていくのだが、私は不器用だからかあまり上手にできなかった。

浮世絵職人への道は遠い

 

 大名行列模型に続いて、二川宿の模型が展示されていた。

 

 宿場の話をするのに欠かせないのが、助郷制度の話だ。

 助郷とは、公用の荷物を宿継するため、東海道の宿場では人足100人、馬100匹を用意することが義務付けられたが、通行量が多いときはそれでも足りないことがある。そういうときに、宿場周辺の村に不足分の人や馬を出させること、人や馬を出す村のことを助郷といった。

 これは人足触。

人足触

 二川宿の問屋が、助郷村である牛河村などに、助郷を出す必要のある日の夜中または翌朝までに人足を82人出すように指示したものである。

 

 また、助郷制度は宿場近隣の村にとって重い負担だった。

 これは差村帳。

差村帳

 宿場や助郷村では、まだ助郷役を負担していない村を指名して、追加の助郷村指定を嘆願したものである。「おい、お前の村、やってないだろ。やれよ」的な感じだろうか。

 

 また、掃除丁場という仕事もあった。

 これは、宿場や街道周辺の村が、担当する場所と区間を指定され、街道の補修や松並木の保護・補植を行うことである。

 これは往還並松植継書上帳。

往還並松植継書上帳

 これを見ると枯れてしまった街道の松並木を補植するのも掃除丁場に指定された村の仕事だったことがわかる。

 

 江戸時代は自動車などはなかったので、郵便や宅配便のようなものは飛脚という街道を走る人によって担われた。

 これは江戸三度飛脚出日幷ニ休日(えどさんどひきゃくしゅつじつならびにきゅうじつ)という資料。

江戸三度飛脚出日幷ニ休日

 定飛脚問屋が顧客に配布したもので、飛脚の出立日と休日が示してある。

 

 宿場の人足や馬を使うのは御朱印または御証文によって使用を許可された人が最優先で、無料で使えた。このほかの公用旅行者や大名行列も幕府が決めた金額(御定賃銭)でこれを使えた。一般旅行者も利用できたが、話し合いで料金を決めていたという。

 駄賃帳が展示されている。

駄賃帳

 御定賃銭で人馬を使う旅人(公用旅行者・大名)が持つ駄賃帳には、各宿場で使用数と賃銭が記され、領収印が押されている。

 

 宿場の役目のひとつ、公用荷物の運搬を取り仕切る問屋場の看板が展示されていた。

「問屋」

 

 1階の常設展示を見終わり、次は瓦版展へ。

 瓦版展は2023年11月3日から12月10日の期間限定展示で、この展示のみ撮影はできなかった。

 瓦版とは、江戸時代に発達した情報媒体である。今でいう新聞、チラシ、号外とかに近いだろうか。

 火事・地震津波・仇討・見世物・奇談・外国船の来港・幕末の政変など、瓦版にはさまざまな出来事が記された。明治以降は、新聞の出現により瓦版は衰退、消滅した。

 瓦版のなかには大火や災害などが描かれているものもあり、写真ではないものの災害状況が伝わってくる絵だな、と感じたものもあった。

 

 この展示では瓦版のほか番付や引札なども展示されていた。

 少し面白いと思ったのが「できた奥さん番付」。こんなもの今発行したらフェミニストが黙っていないだろうと思う代物である。

 

 かなり面白い展示だったので、撮影できなかったのが残念である。

 

 常設展示に戻ろう。今度は2階へ向かう。

 

 飯村の松の丸太が展示されていた。

飯村の松

 この飯村の松は150年程度生きていたようだが、松くい虫の被害に遭い、平成19年(2007年)に伐採されてしまったようだ。

 

 記念撮影用の駕籠があったが、撮ってくれる人もいないのでやめておいた。

駕籠

 庶民の旅格好。

 男性は菅笠をかぶり、道中差を差し、股引と脚絆を履いて靴は草鞋。

 

 女性は菅笠を被り、小袖と浴衣、襦袢を着て下は足袋と紐付草履。

 現代と比べてずいぶん歩きにくそうな恰好だ。

 

 2階の常設展示は東海道や庶民の旅についての展示だ。

 東海道名所図会が展示されている。

東海道名所図会

 京都から江戸まで東海道に沿って名所旧跡や宿場の様子などを紹介しており、6巻もある。6巻もあるので旅に持っていくというよりは、事前に調べたり帰ってから旅日記をまとめたりするのに使ったのだろう。

 

 「大井川之図」が展示されている。

大井川之図

 大井川は徒歩(かち)での通行と定められ、明治に入って橋が架けられるまで川越をする必要があった。この日はかなり水量が多く、大変そうだ。

 大井川の川越については「東海道を歩く 20.藤枝駅金谷駅 5.大井川川越遺跡」に詳細が書いてある。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 江戸時代の旅には「往来手形」が必要で、旅の前にお寺や村役人に発行してもらう必要があった。昔は国内でもパスポートのようなものが必要だったということだ。

 往来手形が展示されていた。

往来手形

 二川宿田村善蔵家の5人が西国三十三所巡礼に出かけたときの往来手形だ。

 また往来手形のほかにも関所手形があり、それには女性が関所を通るときに必要な女手形と鉄砲を持って関所を通るときに必要な鉄砲手形があった。

 女手形が展示されていた。

女手形

 これは白須賀宿名主の娘が舞阪宿へ行ったときに使った女手形だ。白須賀宿と舞阪宿の間には新居関所があったので女手形が必要だったのだ。

 

 「五街道脇往還」が展示されていた。

五街道脇往還

 一番南に走る、日本橋から現在の静岡県、愛知県などを経て京都の三条大橋に結ぶ道が東海道だ。そのほか中山道日光街道奥州街道甲州街道なども描かれている。

 

 東海道といえばさまざまな文学作品が江戸時代に書かれたが、そのなかでも一番有名なものが十返舎一九が書いた「東海道中膝栗毛」だろう。

東海道中膝栗毛

 東海道中膝栗毛は享和2年(1802年)に刊行された、弥次さん、喜多さんの面白い旅物語である。ベストセラーになり、20年にわたり作品が書かれ続けたという。

 

 「旅に出るなら気をつけて」という展示があった。

旅に出るなら気をつけて

 「旅行の持ち物はなるべく少なくすること」「お腹がすいても旅行中の食べすぎはよくない」「女連れの旅で川越しをするときは事前に様子を話すこと」「疲れたときは熱い風呂にいつもより長く入ろう」「酒盛りが長引いたらかわるがわる寝なさい」「馬や駕籠、人足が使いたいときは前日の夜のうちに宿の主人に頼むこと」

 「旅行の持ち物は少なく」「旅行中は食べ過ぎない」などは現代でも言えることである。

 

 旅に使う持ち物が展示されていた。

 一見すると刀なのに、なかの空洞にお金が入る財布、「銭刀」が展示されていた。

銭刀

 銭刀は、盗難防止の意味もあったのだろうか。昔のひとの考えることは面白い。

 

 矢立が展示されていた。

矢立

 矢立とは、もぐさなどにしみこませた墨の入った壷と、小さな筆から構成される携帯用文房具である。現代のボールペンのようなものだろうか。

 

 印籠が展示されていた。

印籠

 「この紋所が目に入らぬかァ!」で有名な印籠だが、実際は薬入れとして使われることが多かったらしい。

 

 煙草入れが展示されている。

煙草入れ

 袋の部分に刻み煙草を入れ、筒にキセルを入れて腰に下げて持ち歩く。

 煙草入れといえば、「東海道を歩かない 掛川・前編」の3.掛川市二の丸美術館で様々な煙草入れを紹介しているので、興味があれば参照してほしい。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 旅日記「旅中安全」が展示されている。

旅中安全

 「旅中安全」は、二川宿田村家の啓次郎が、日光に旅行したときの日記である。これによると、文久2年(1862年)9月22日に二川を出発した啓次郎は、江の島(神奈川県藤沢市)などを見物しながら江戸に10月1日に到着、6日に出発し、日光へ向かう。日光には10月9日に到着し、11日に出発。14日に江戸に戻ってきて、26日に江戸を出発。二川に帰ってきたのは11月4日のこと。帰りは江戸から二川まで東海道72里(約288km)を8日で歩いている。1日平均36km、すごい脚力だ。

 

 江戸時代のお金が展示されている。

江戸時代のお金

 旅にはお金が必要だ、それは江戸時代も現代も変わらない。旅でお金を使う場面は、宿泊代、川越し・船代、馬・駕籠・人足代、食事・土産代など。宿泊代や食事・土産代は今も変わらないし、川越し・船代や馬・駕籠・人足代は電車賃などに置き換えられるだろうか。

 

 二川宿のジオラマと二川宿絵図があった。3D二川宿と2D二川宿だ。

二川宿ジオラマ

二川宿絵図

 慶長6年(1601年)、徳川家康東海道に宿場を設置したとき、二川村と大岩村は東西に離れた場所にあり、2村で1宿分の役目を果たしていたという。

 その後、両村が現在地に移転して1つの宿場町となった。二川宿はもともと農村であったところに、宿場の業務をさせるため計画的に作ったまちといえる。

 

 東海道の名物が紹介されていた。まず、淡雪豆腐。

淡雪豆腐

 淡雪豆腐とはやわらかく仕上げた豆腐のことで、岡崎宿の名物だったらしい。現在は売っていないが、岡崎銘菓「あわ雪」のルーツになった。

 

 続いて、白須賀、猿ヶ馬場の柏餅。

柏餅

 猿ヶ馬場の柏餅といえば前回の「東海道を歩く」で「嗅みありて胸わろく、ゑづきの気味頼りなれば」と書かれるほど不味い、と紹介したが、名所として紹介されていた以上、美味しかった時期もあった…と信じたい。ちなみに私は現代の柏餅は好きである。

 

 続いて、「飴の餅」。

飴の餅

 飴の餅は、小夜の中山で売られていた。小夜の中山では「子育て飴」という水飴が名物で、容器に入った水飴と、その飴を餅にかけたものが売られていたという。

 現在も、小夜の中山では子育て飴が売られている。詳細は、「東海道を歩く 21.金谷駅~ことのまま八幡宮バス停」5.夜泣き石 を参照してほしい。

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 子育て飴、美味しかったので峠の茶屋にまた買いに行きたいのだが、公共交通機関だといまいち行きにくいのが難点だ。

 

 続いては、丸子のとろろ汁。

とろろ汁

 元禄4年(1691年)には、すでに名物になっていた丸子のとろろ汁は、現在も丸子の「丁子屋」で提供している。

丁子屋のとろろ汁

 「丁子屋」には「東海道を歩く 17.静岡駅~吐月峰駿府匠宿入口バス停」の6.丁子屋で訪問している。

octoberabbit.hatenablog.com

 ここなら、静岡駅から30分に1本程度出ているバスに乗って30分程度で行けるので、いつか再訪したいと思っているのだが、なかなかタイミングがなく行けずにいる。

 

3.大岩寺

 二川宿本陣資料館に1時間半も滞在してしまい、もう13時半になっていたが、今から豊橋を目指す。

 二川宿本陣資料館を出てすぐに、大岩寺がある。

大岩寺

 大岩寺は曹洞宗の寺院で、本尊は千手観音である。大岩寺には備前岡山藩主の池田綱政が岩屋観音堂に寄進した観音経や黄金燈籠、絵馬などが伝わっていて、それらはすべて豊橋市有形文化財に指定されているという。

 

 二川駅前を通り過ぎる。

二川駅

 二川駅から少し行ったところに道標を見つけた。

道標

 「伊良胡阿志両神社道」「右 東海道」「左 渥美奥郡道」と書かれている。

 「左 渥美奥郡道」は「ホントに歩く東海道 第9集」によると田原街道のことを指しているようだ。

 

 道標から道なりに進み、「ガーデンガーデン」のある交差点を左折する。

ガーデンガーデン

 ガーデンガーデンからしばらく進むと、小さな松並木が見えてくる。

 飯村の松並木は、江戸時代から昭和30年代まで、街道の両側に100本を超える立派な松並木が残っていたが、道路拡張や松くい虫の被害によって激減し、最後の江戸時代からの大黒松も平成19年(2007年)に伐採されてしまった。その前年の平成18年(2006年)に、地元小学生が黒松を植樹したそうだ。

 今は小さな松が生えているだけだが、あと数十年後に通れば、立派な松並木を通ることができるのかもしれない。

 

 「旧東海道クロマツ跡」を見つけた。

旧東海道クロマツ

 この松は150年程度生きていたようだが、松くい虫の被害に遭い、平成19年(2007年)に伐採されてしまったようだ。先ほど、このクロマツの丸太を二川宿本陣資料館で見た。

 

 そのまましばらく歩くと、清晨寺(せいしんじ)がある。

清晨寺

いむれ社明安心観音

 清晨寺は永禄11年(1568年)創立の曹洞宗の寺院である。本堂前にある「いむれ社明安心観音」は平成30年(2018年)5月19日に、創建450年を記念して建立されたものという。

 

 そのまま進むと国道1号線と合流する、殿田橋交差点に飯村一里塚跡がある。

飯村一里塚跡

 江戸から73里目の一里塚だが、この石碑以外に残るものはない。

 

 これは、初めて見るマンホールだ。

 このマンホールは、豊橋市制90周年を記念して平成8年(1996年)に製作したデザインマンホールである。

 国の登録有形文化財である豊橋市公会堂を背景に、大正14年(1925年)から市電の愛称で親しまれている路面電車豊橋市の花であるツツジをデザインしている。

 

4.豊橋市道路元標

 瓦町交差点に、壽泉寺がある。

壽泉寺

 壽泉寺は臨済宗妙心寺派の寺院である。三重塔が立派だ。

 

 西新町交差点に水準点を見つけた。一等水準点第001-295号だ。

一等水準点第001-295号

 一等水準点第001-295号は金属標型の水準点で、設置時期は不明。

 

 東八町交差点に着くと、豊橋鉄道市内線が見えてくる。東海道唯一の路面電車がある街、それが豊橋だ。

豊橋鉄道市内線

 東八町交差点には、巨大な秋葉灯籠もある。

吉田中安全秋葉山常夜燈

 この秋葉灯籠は「吉田中安全秋葉山常夜燈」といわれ、文化2年(1805年)に吉田城下での度重なる大火に対する安全祈願などを理由に建てられた。

 昭和55年(1980年)に豊橋公園内に移され、平成13年(2001年)からは本来の場所に近い現在地に移転している。

 

 東八町交差点には、東惣門もある。

東惣門

 東惣門は鍛冶町の東側に一する下モ町の吉田城惣堀西で東海道にまたがって南向きに建てられていた。惣門は朝六ツ(午前6時)から夜四ツ(午後10時)まで開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていたという。

 

 ここから先は、城下町特有のクランクがあるので注意したい。

 まず、「東海道」が2つある交差点を右折する。

 

 「メディカルハンズ 豊橋公園前院」の前を左折。

 

 「とびだし坊や(?)」のある交差点を右折する。

とびだし坊や(?)

 

 「旧東海道」と書かれたシールが貼ってある家が交差点にある。

 

 「ヘアーサロンムラタ」のある交差点を左折する。

 

 すぐ突き当たるので突き当たりを右折する。

 

 わかりづらいので、拡大図を掲載する。

 

 先ほどの豊橋市公会堂、路面電車ツツジの白背景マンホールを発見した。

 

 札木停留場のある交差点の手前の交差点に、豊橋市道路元標がある。

豊橋市道路元標

 道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では2,000基程度しか残っていない。

 全国の2,000基程度のうち、愛知県内には115基の道路元標が残っており、全国的にもかなり残っている県である。前回も「二川町道路元標」が登場した。

 ここに豊橋市道路元標が建てられているが、ここは東海道豊橋市公会堂からのびる道の交差点であり、ここが豊橋の中心だった、ということだろう。

 

 札木停留場のある交差点に「吉田宿問屋場跡」がある。

吉田宿

 ちなみに、「豊橋」という地名は明治になってからつけられたもので、それ以前は「吉田」と呼ばれていた。

 吉田は、吉田城の城下町であるとともに、東海道34番目の宿場町でもあった。

 宿場の中枢をになう2軒の本陣、1軒の脇本陣、人馬の継立の業務を行う問屋場などは、ここ札木に集まっていたようだ。

 

 札木停留場が見える。ここで東海道は一旦終了とする。

 

5.豊橋市公会堂

 現在時刻15時半過ぎ。少し豊橋市街地を歩いてみようと思う。

 西八町交差点に水準点がある。一等水準点第001-296号だ。

一等水準点第001-296号

 これは金属標型の水準点で平成8年(1996年)に設置されたようだが、鉄蓋に阻まれて確認できない。

 

 「手筒花火」のデザインと「豊橋市電」のデザインの緑背景のデザインマンホールを発見した。

 

 西八町交差点から少し北に進むと、歩兵第十八聯隊の門がある。

歩兵第十八聯隊の門

 歩兵第十八聯隊は大日本帝国陸軍の聯隊で、豊橋に本部があった。

 

 歩兵第十八聯隊の門に、三角点がある。四等三角点「中八町地上」だ。

四等三角点「中八町地上」

 四等三角点「中八町地上」は平成5年(1993年)に設置された比較的新しい三角点である。

 

 西八町交差点のひとつ北側の交差点で右折すると豊橋市役所がある。

豊橋市役所

 豊橋市役所は東館は平成5年(1993年)、西館は昭和54年(1979年)に改築された。

 

 豊橋市役所と国道1号線に挟まれた場所に豊橋市公会堂がある。

豊橋市公会堂

 豊橋では、大正から昭和初期にかけて盛んに集会が開かれたが適当な施設がなかったので、豊橋市民は公会堂の建設を熱望するようになった。

 昭和3年(1928年)、豊橋市議会で昭和天皇の御大典奉祝記念事業として、総工費170,588円(1円=現在の4,000円なので現在の価格に換算すると6憶8235万円ほど)、鉄筋コンクリート造り3階建て、延べ床面積2,800㎡、大講堂収容人数1,005席の、豊橋で最初の大型建造物の建設が決まった。市制25周年を迎えた昭和6年(1931年)8月に完成した。

 正面の大階段やロマネスク様式の16mの高さがある両側の半球ドームは中近東の建物のようである。ドーム脇の4羽のワシは今にも飛び立ちそうな躍動感があり、荘厳で重厚、レトロな外観は、豊橋のシンボルとなっている。

 なかを覗いてみたところ、のど自慢大会をやっていて、気軽に入っていけそうな雰囲気ではなかったのですぐに撤退した。

 また、豊橋市公会堂の前には綺麗な「豊橋市電」カラーマンホールがある。

 

6.豊橋ハリストス正教会・安久美神戸神明社

 豊橋市公会堂から少し西に行ったところに豊橋ハリストス正教会がある。

豊橋ハリストス正教会

 豊橋ハリストス正教会は、大正4年(1915年)に豊橋の大工が京都までいき、京都正教会をモデルにビザンチン様式のドーム建築を学んで建てた愛知県内最古の正教会である。

 ハリストスとはギリシア語でキリストのことで、豊橋ハリストス正教会ギリシア正教に属する。

 豊橋へのギリシア正教の布教は明治8年(1875年)にはじまり、その後信者も増え、明治12年(1879年)には中八町に1階が集会所、2階が祈禱所の会堂ができていたという。

 昭和20年(1945年)の三河地震にもたえた建物だが、令和6年(2024年)6月まで保存修理中のため見ることができなかった。

 ちなみに豊橋ハリストス正教会の外見を見たければこちらのサイトを参照するとよい。

www.honokuni.or.jp

 

 豊橋ハリストス正教会の隣にある神社が安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)である。

安久美神戸神明社

 安久美神戸神明社の祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)。

 創建は、天慶2年(939年)の平将門の乱の際、朱雀天皇伊勢神宮に平定祈願し、その成就の礼に翌年、三河国飽海郡を安久美神戸として寄進したことによる。

 明治18年(1885年)に吉田城内に歩兵第十八聯隊が設営されたのを機に現在地に移転し、昭和26年に安久美神戸神明社と改称した。

 平安時代にはじまったとされる安久美神戸神明社の鬼祭りは、現在は毎年2月10・11日に実施され、国の繁栄や農作物の豊作を祈り、神楽や田楽、歩射・占卜(せんぼく)行事(榎玉(ねぎたま)神事)・神輿渡御(しんよとぎょ)などが行われる。

 田楽の一部に「赤鬼と天狗のからかい」がある。

赤鬼

 高天原(たかまがはら)の大神様のところに荒ぶる神(赤鬼)があらわれていたずらをするので、武神(天狗)がこらしめようとして両神秘術をつくして戦い、ついに和解して一同喜んで神楽の舞をした、という内容である。

 こらしめるのではなく和解、大切なことである。一度見てみたいと思う。

 

 東照宮御腰掛松を見つけた。

東照宮御腰掛松

 その昔、天文23年(1554年)に徳川家康が吉田城にいたとき、この松の木の下で鬼祭りを見たことがあったという。

 

 安久美神戸神明社御朱印をいただいた。

 

7.豊橋公園

 豊橋公園に入り、豊橋市美術博物館を見に行こうと思った。

豊橋市美術博物館

 豊橋市美術博物館では豊橋の歴史に関する常設展を見ることができる…はずなのだが、残念ながら空気環境調整のため休館中で、令和6年(2024年)3月1日にリニューアルオープン予定らしい。リニューアルオープンしたら、また来よう。

 

 ポケふた(ポケモンのマンホール)を見つけた。

 バクフーンが描かれている。手筒花火にちなんでバクフーン、なのだろうか?

 

 「此処に歩兵第百十八聯隊ありき」と書かれた石碑があった。ちなみに歩兵第百十八聯隊は昭和16年(1941年)から昭和19年(1944年)の3年間のみ存在した組織だったらしい。

「此処に歩兵第百十八聯隊ありき」

 豊橋公園のなかに、彌健神社がある。なんと、社殿がなく、そこに銅像がある。

彌健神社

 彌健神社とは歩兵第十八聯隊(明治17年(1884年)創設、昭和19年(1944年)廃止)のなかにあった神社で、現在は軍人記念碑の上に建てられていた神武天皇銅像が移設されている。

 軍人記念碑は、歩兵第十八聯隊の戦病死者を追悼するため、明治32年(1899年)八町練兵場の南、中八町に巨大な石垣の上に建設されたという。

 その後、大正5年(1916年)には練兵場内の北側に移設され石垣は撤去されたという。

 聯隊のなかの神社、社殿がない神社…これが残っているのはかなり珍しいと言わざるを得ない。実際、初めて見た。

 

 豊橋公園の北西奥に、吉田城鉄櫓がある。

吉田城鉄櫓

 吉田城は、永正2年(1505年)、当時今川方に属していた牛久保城主牧野古白によって築城され、今橋城とよばれた。

 その後、今橋城は今川・武田・松平の激しい攻防のなかで吉田城と改名された。

 永禄8年(1565年)、松平元康(後の徳川家康)の三河統一を機に家臣の酒井忠次が城主となった。

 そして天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い池田輝政が15万2000石の城主となり、豊川と朝倉川を背に、本丸を中心に同心円状に堀が取り囲む半円郭式縄張りを行った。その際、城域を大幅に拡張するとともに城下町の整備のため大手門を飽海から現在の大手町に移した。

 現在残っている鉄櫓(くろがねやぐら)は昭和29年(1954年)の豊橋産業文化大博覧会のときに再建されたものである。

 さあ、鉄櫓に入ろう!としたら入ることができなかった。どうやら10時から15時の間しか開いていないらしい(このとき16時半だった)。悔しいのでリベンジしたいところである。

 

 豊橋公園をあとにして、豊橋公園前停留場に向かう。

 今度はピンク背景の「手筒花火」マンホールを見つけた。

 

 豊橋公園前停留場から豊橋市電に乗る。都内にはあまり路面電車がないので、旅情を感じる。

 

 豊橋駅から新幹線に乗る前に、腹ごしらえをしたいと思った。入ったのは、愛知名物「あんかけスパ」が食べられる「スパゲッ亭チャオ」。

バイキング

 私は「バイキング」というウィンナーとチキンカツが乗ったあんかけスパをいただいた。

 あんかけのソースが温かく、チキンカツのサクサク加減も絶妙で美味しい。豊橋に来たらまた来ようと思った。

 

 幸せの余韻に浸りつつ、翌日は会社なので新幹線で東京に帰ることにした。

 

 次回は、札木停留場から御油駅まで歩く予定である。

今回の地図(二川周辺)

今回の地図(東海道)

今回の地図(豊橋周辺)

歩いた日:2023年11月12日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第9集」

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

二川宿本陣資料館

https://futagawa-honjin.jp/

東三河を歩こう 清晨寺

https://www.net-plaza.org/KANKO/toyohashi/tera/seishinji/index.html

豊橋市上下水道局 マンホールカード

https://www.city.toyohashi.lg.jp/30054.htm

ええじゃないか豊橋 ハリストス正教会

https://www.honokuni.or.jp/toyohashi/spot/000039.html

豊橋市美術博物館

https://toyohashi-bihaku.jp

(2023年12月18日終閲覧)

江戸三十三観音をめぐる 6.高田・西早稲田・神楽坂編

 前回、江戸三十三観音第9番札所定泉寺、第10番札所浄心寺、第11番札所圓乗寺、第12番札所伝通院、第13番札所護国寺に参拝しながら文京区内を巡った。今回は第14番札所金乗院、第15番札所放生寺、第16番札所安養寺に参拝しながら高田、早稲田、神楽坂のあたりをぶらぶらしようと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.金乗院

  西巣鴨駅から新庚申塚停留場まで歩き、都電荒川線に乗る。東京に残る数少ない路面電車のひとつだ。なかなか乗る機会がないので、乗っていて楽しい。

都電荒川線

 学習院下停留場で下車する。今日はここからスタートだ。

学習院下停留場

 学習院下停留場を出て右折し、しばらく進むと左手側に金乗院がある。

金乗院

 金乗院は創建年代は不詳だが、500年以上の歴史を持つという。

  文京区関口台にあった目白不動尊は戦後ここに移ってきている。

目白不動尊

 目白不動尊五色不動のひとつで、目白という地名やJRの駅名の由来にもなっているお不動様である。五色不動とは目黒不動尊目白不動尊目赤不動尊目黄不動尊目青不動尊のことである。目赤不動尊は前回の「江戸三十三観音をめぐる」で訪れている。

 

 青柳文庫で知られる医師青柳文蔵の墓とその辞世を蜀山人の書で彫った追悼碑がある。

青柳文蔵

 

 慶安事件の首謀者のひとりであった丸橋忠弥の墓もある。この墓は子孫が建てたものらしい。

丸橋忠弥の墓

 

 境内には鍔の供養塔(鐔塚)、倶利伽羅庚申塔青面金剛を刻んだ庚申塔などもある。

鐔塚

 

 金乗院の御本尊、聖観世音菩薩が江戸三十三観音の第14番札所に指定されているので御朱印をいただく。あと、売っていたので今更ながら「江戸三十三観音札所案内」を購入した。

「江戸三十三観音札所案内」

 

 金乗院を出てすぐ右折して南に進むと、左手側に南蔵院が見える。

南蔵院

 南蔵院真言宗の寺院で、元和2年(1616年)、円成比丘の開山といわれる。

 この寺には相撲取りの墓や、彰義隊首塚、江戸時代の宝篋印塔、阿弥陀如来立像、六地蔵や日露戦後の明治39年(1906年)11月に建てられた忠魂碑などがある。

 また、「山吹の里弁財天」と彫られ、元禄9年(1696年)3月に建てられた碑がある。「山吹の里」なる碑は、南蔵院からさらに旧鎌倉街道を南に行き、神田川にかかる面影橋の手前のところにもある。このあたりは太田道灌の故事にちなむ山吹の里であるといわれるが、山吹の里は荒川区町屋付近や埼玉県越生町にもあり、どれが正しいかは不明である。

 太田道灌室町時代の終わりから戦国時代初めにかけて活躍した武将で、代表的な功績として江戸城築城が知られている。

 ある日、鷹狩り中に急な雨に遭った太田道灌は蓑を借りようと、一軒の農家に立ち寄った。

 すると、なかから出てきた少女は何も言わずに一枝の山吹を差し出した。道灌はそれに腹を立て、立ち去ったが、のちに家来から「少女は「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」という古歌を引用し、「実の」と「蓑」をかけて、蓑がないことをお詫びする気持ちを込めて山吹の花を差し出したのですよ」と聞く。道灌は己の無知を恥じ、これ以降和歌の勉強に一層励むようになったという。これが「山吹の里」の話である。

 

 南蔵院の向かい側に、氷川神社がある。

氷川神社

 氷川神社は高田村の鎮守だったが、江戸時代は南蔵院別当寺だったという。

 この神社の鳥居は、鳥羽藩主稲垣対馬守が寛政2年(1790年)に寄進したものといわれる。

 御朱印をいただいたが、なんと1,000円。なかなかな価格である。

2.甘泉園

 氷川神社から南に進み、都道8号線を通り過ぎると亮朝院がある。

亮朝院

 亮朝院の本堂である七面堂は木造、正面5面、側面5面、入母屋造り、銅板葺きの建物で、天保5年(1834年)に建築された。

 縁側や屋根などに後代の改修や改変が見られるが、概ね当初の状態が維持されている。平成6年(1994年)から平成8年(1996年)にかけて改修工事が実施された。

 新宿区内では希少な江戸時代の寺院建築なので、新宿区指定有形文化財に指定されている。

 七面堂には木造七面明神半跏像及び宮殿、木造妙見菩薩立像及び宮殿、木造諏訪大明神坐像及び宮殿があり、それぞれ新宿区登録有形文化財に指定されているが、残念ながら見ることはできなかった。

 亮朝院七面堂の前には金剛力士の石像がある。

 この金剛力士石像は宝永2年(1705年)3月29日に奉納された石造の金剛力士像で、阿吽一対で安置されている。

 金剛力士像は「仁王」と呼ばれ、仏を守護するものとして寺院の山門などに阿形と吽形の一対で安置される。石造の金剛力士像は珍しく、新宿区では唯一のものである。新宿区指定有形文化財に登録されている。

 

 都道8号線に戻り、日神デュオステージ早稲田のある交差点で1本裏道に入ると甘泉園がある。

甘泉園

 甘泉園は江戸時代は屋敷地で、明治になって個人の邸宅となった。

 昭和13年(1938年)に早稲田大学が譲り受けて付属庭園とした。早稲田大学水稲荷神社の旧地と甘泉園の一部とを、昭和36年(1961年)に土地交換をしたのである。

 東京都は昭和37年(1962年)に、庭園部分を都民公園とするべく用地買収を始め、園内を整備して新宿区に移管し、昭和44年(1969年)7月1日から新宿区立公園として開園した。

 甘泉園とは、園の東に泉地があり、そこから出る清水がお茶に適するところから、明治時代に名づけられたのである。

 甘泉園には、新宿区にいるとは思えない景観が広がっていた。

 

 甘泉園のそばに、水稲荷神社がある。

水稲荷神社

 水稲荷神社は天慶4年(941年)、俵藤太秀郷朝臣が富塚の上に稲荷大神を勧請され、富塚稲荷、将軍稲荷と呼ばれるようになった。

 元禄15年(1702年)、大椋(おおむく)の下に霊水が湧出し、眼病に効能があったとされて江戸で評判となった。そのとき「我を信仰する者は火難を免れるだろう」と神託があり、このとき以来「水稲荷」と称するようになり、消防関係者や水商売の人たちの信仰を集めた。

 昭和38年(1963年)に現在地に遷座した。

 

 境内には耳欠け神狐がいて、体の痛いところをなでると痛みがやわらぐそうだ。おびんづる様のようなものだが、狐タイプは初めて見た。

耳欠け神狐

 そして水稲荷神社の参道になぜかヤギがいた。首輪がついているので、飼われているのだろう。そして人が乗っていたので撮影は憚られたが、馬もいた。

 

3.穴八幡宮

 甘泉園をあとにして都道8号線に戻る。都道25号線との交差点で右折するのだが、その左手側にガードレールが大量に置いてある一角があった。

 

 地理院地図を見ると、赤線で囲んだエリアだけ建物がない。

 

 どうやら、環状4号線の建設のための用地買収を行っているようだ。

 環状4号線の建設が計画されたのは大正12年(1923年)の関東大震災後のことである。関東大震災からもう100年経っているが、環状4号線が開通することはあるのか、甚だ疑問である。

 

 西早稲田交差点に「高田馬場跡」の説明板があった。

高田馬場

 馬場は寛永13年(1636年)に造られたもので、旗本たちの馬術の練習場だった。

 享保年間(1716~1753年)には馬場の北側に松並木がつくられ、8軒の茶屋があったとされている。

 今「高田馬場」と聞くと山手線の駅を連想するが、この地点から高田馬場駅までは徒歩で15分ほど離れている。むしろ東西線都電荒川線早稲田駅のほうが近い。

 

 西早稲田交差点で左折し南東に進むと、穴八幡宮がある。

八幡宮

 穴八幡宮の祭神は応神天皇仲哀天皇神功皇后である。

 康平5年(1062年)に前九年の役に勝利した源義家が凱旋した際、日本武尊命(やまとたけるのみこと)にならい兜と太刀をおさめて八幡宮を勧請したことにはじまるとされている。

 寛永13年(1636年)、江戸幕府御持弓頭 松平直次が弓術の練習のためにここに的場を築き、射芸の守護神として八幡宮を奉祀した。

 そして8代将軍徳川吉宗が、高田馬場流鏑馬(やぶさめ)を復活させた。現在、毎年体育の日に流鏑馬が奉納されているようだ。

 

 穴八幡宮御朱印をいただく。「一陽来復」と書かれている。「一陽来復」とはよくないことの続いた後にいいことが巡ってくることを意味する。ちなみに御朱印料金は「お気持ち」だったので、300円払った。

 

 この布袋像水鉢は、3代将軍徳川家光から慶安2年(1649年)に奉納されたものらしい。

 

 穴八幡宮の随神門と正面参道鳥居を見る。あまり古いものではなさそうだが、晴れた空に朱が映えて美しい。

随神門

正面参道鳥居

4.放生寺

 穴八幡宮の隣にある寺院が放生寺である。

放生寺

 放生寺は寛永18年(1641年)に威盛院権大僧都 法印良昌上人が穴八幡宮の造営に尽力し、その別当寺として開創された。

 良昌上人が諸国を修行していたとき、寛永16年(1639年)2月にこんな夢を見た。それは老翁が現れ「将軍家の若君が辛巳(かのとみ)の年の夏頃に誕生するから祈れ」と良昌上人に告げる夢だった。

 その後良昌上人が堂宇に籠って祈り続けたところ、徳川家綱(第4代将軍)が生まれた。

 この話が幕府まで届き、徳川家光(第3代将軍)が良昌上人のもとを訪れ、正保2年(1645年)に良昌上人は家光に厄除けの祈祷をした。慶安2年(1649年)に徳川家光から「光松山威盛院放生會寺」の寺号を賜り、その名がついた。

 明治までは穴八幡宮とその別当寺であった放生寺は同じ境内にあり、代々の住職がどちらも管理していたが、明治2年(1869年)に廃仏毀釈の布告によって現在地に本尊の聖観世音菩薩が遷された。

 放生寺に参拝し、御朱印をいただく。なおこの寺院の御本尊、聖観世音菩薩が江戸三十三観音の第15番札所に指定されている観音様である。御影(おすがた)もいただいた。

 

 放生寺には水掛け地蔵と大震火災死亡群霊塔がある。これは自然災害伝承碑として地理院地図にも掲載されている。

水掛け地蔵と大震火災死亡群霊塔

 大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で、旧牛込区では死傷者105人、全半壊926戸の被害を受けたが、火災はほとんどなく、比較的被害が少なかったため多くの避難民を受け入れた。

 大震火災死亡群霊塔は震災の死者を弔うために翌年の大正13年(1924年)に建立された。なお、大震火災死亡群霊塔の隣にある2体の地蔵菩薩立像は高野山御廟橋から遷されたものである。

 東京の歴史を勉強していて関東大震災の話題は度々出てくるのだが、関東大震災の恐ろしいところは「地震なので、現代でも起こりうる」ことなのである。関東大震災の犠牲者の冥福を祈り、そっと手を合わせた。

 

5.赤城神社

 放生寺をあとにして、都道25号線を東に進む。グランドステータス寿賀原ビルのある交差点を右折して少し進むと宗参寺がある。

宗参寺

 宗参寺は曹洞宗の寺院で、天文12年(1543年)に亡くなった牛込重行の廟所として、子の勝行が創建した。

 牛込氏は室町時代中期以来、江戸牛込の地に居住した豪族である。

 寛文4年(1664年)に牛込氏5代、牛込勝正が先祖の重行、勝行のためにたてた牛込氏墓があり、東京都指定史跡に指定されている。

牛込氏墓

 宗参寺の境内には山鹿素行の墓もある。山鹿素行は江戸時代前期の儒学者兵学者で墓地は国の史跡に指定されている。

山鹿素行の墓

 都道25号線に戻って歩いていると、生田春月旧居跡を見つけた。

生田春月旧居跡

 このあたりは、大正から昭和にかけて近代詩の発達に大きく寄与した詩人、生田春月が大正4年(1915年)から11年間住んでいたところである。

 春月は明治25年(1892年)に鳥取県米子市に生まれた。9歳のときに詩作をはじめ、16歳で上京、大正7年(1918年)に発表した詩集「感傷の春」で詩人としての地位を確立した。

 昭和5年(1930年)に大阪発、別府行きの船に乗船中、投身自殺を遂げて38歳で亡くなった。やはり創作を行う人は精神を病んでしまうのだろうか。

 

 牛込天神町交差点で地蔵坂を登る。地蔵坂の由来は不明だが、おそらく坂の近くに地蔵尊があったのでは、と推測されている。

地蔵坂

 都道25号線を歩いていたら左手側に大きな鳥居が見えたので寄ってみることにした。赤城神社だ。

赤城神社

 正安2年(1300年)、上野国(現在の群馬県)の赤城山赤城神社の分霊を牛込早稲村田島に移して牛込の鎮守とした、と伝わるが定かではない。

 大胡氏(のちの牛込氏)が牛込に移り住んでから建立したものと思われる。現在地に移ったのは弘治元年(1555年)である。

 天保13年(1842年)火災により焼失し、安政2年(1855年)には、建設中の社殿が大地震により傾き、元治元年(1864年)~慶応3年(1867年)にようやく復旧した。

 明治初年の神仏分離で、赤城明神を赤城神社と改めた。

 

 穴八幡宮御朱印をいただいたとき、そろそろ御朱印帳がいっぱいになるな、と思ったので赤城神社御朱印帳を購入した。うさぎ柄でかわいい。

 

 「赤城山と大百足(おおむかで)」というモニュメントがあった。ステンレス百足。

赤城山と大百足」

 昔、赤城山の神様は百足となり中禅寺湖の領有をめぐり、二荒山の蝮(まむし)となった神様と戦いをした。これが奥日光の「戦場ヶ原」の由来になったという。

 

 赤城神社の裏に観音菩薩立像と俳人巻阿の碑があった。

 この観音菩薩立像は慶長18年(1613年)に造られたもので、宝蔵院から移された。現在、宝蔵院は廃寺になっている。ここの観音様は江戸三十三観音の対象ではない。

観音菩薩立像

 俳人巻阿は江戸時代の俳人であり、4つもの句が刻まれている。

 「梅が香や 水は東より 行くちがひ」

 「遠眼鏡 には家もあり かんこ鳥」

 「名月や 何くらからぬ 一とつ家」

 「あるうちは あるにませて 落葉哉」

俳人巻阿の碑

 この鳥居の奥には3社もの神社がある。

 1社目は赤城出世稲荷神社で、御祭神は宇迦御霊命(うかのみたまのみこと)と保食命(うけもちのみこと)。赤城神社がここに遷座する前からあったようだ。現在は神楽坂商店街の人やサラリーマンの崇敬を集めているようだ。

 2社目は八耳神社で、御祭神は聖徳太子。戦災で焼失した太子堂をここに祀ったとのこと。

 3社目は葵神社で、御祭神は徳川家康。宝蔵院に鎮座していた神社だったが、明治元年(1868年)に神仏混合が廃止されたのに伴い、赤城神社遷座した。

赤城出世稲荷神社ほか2社

 先を急ぐため寄らなかったが、境内にはあかぎカフェというカフェもある。

あかぎカフェ

6.安養寺

 神楽坂を下りていくと、地面に何やら貼ってある。どうやら「坂にお絵貼り」というイベントをやっているようだった。これ、「推し」の絵を描くと踏み絵になってしまうのでは…?などと考える。

 

 今度は、子供が坂に絵を描いている。見た感じ誰が描いてもよい雰囲気だったが、流石に成人女性が一人で絵を描いているのもあれだな、と思いやめておいた。

 

 神楽坂を下っていき、神楽坂上交差点の左手側に安養寺がある。

安養寺

 安養寺は慈覚大師の創建で、当初は江戸城内にあったが、徳川家康が入城するときに平河口に移され、その後田安への移転を経て現在地に移された。

 御本尊は薬師如来で、江戸時代から厄除薬師として信仰されてきた。

 聖天堂に歓喜天尊と十一面観世音菩薩が祀られており、このうち十一面観世音菩薩が江戸三十三観音第16番札所に指定されている観音様である。

 

 御本尊の薬師如来に挨拶するため、本堂へ向かう。

 

 その後寺務所のインターホンを押そうとすると、「本日の朱印は行事の都合により中止致します」の貼り紙を見つけた。しかし、本堂のなかに人がいるのが見えたので、ダメ元でお声がけしたところ、御朱印をいただくことができた。

 

 「今日は行事があったから」ということで、なんとお菓子のおすそわけまでいただいてしまった。帰ってから開けてみたら、下2つが練り切り、一番上が栗まんじゅうが入っていた。もちろん美味しくいただきました。

 

7.善国寺

 安養寺をあとにして神楽坂を下りていき、神楽坂ウォレテリア山藤のある交差点で右折し、坂を登っていくと左手に光照寺がある。光照寺は撮影禁止とのことで、入口の写真のみ掲載する。

光照寺

 光照寺は正保2年(1645年)、神田から移転してきた浄土宗の寺院である。

 出羽国松山藩主酒井家の墓や、狂歌師 便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)の墓がある。

 光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城跡である。牛込城の城館や築城時期は不明だが、住居を主体とした館と推定されている。

 牛込氏は、赤城山の麓、上野国勢多郡大胡の領主、大胡氏を祖とする。

 大胡氏は、天文年間(1532~1555年)に南関東へ進出し、北条氏の家臣となり、姓を牛込氏と改め、赤坂、桜田、日比谷などを領有した。天正18年(1590年)に北条氏が滅亡した後は徳川家康に従ったという。

 光照寺には涅槃図、木造地蔵菩薩坐像、木造十一面観音坐像、阿弥陀三尊来迎図、法然上人画像などがあり、いずれも新宿区指定有形文化財だが、見ることはできなかった。

 

 神楽坂に戻り、少し進むと右手側に善国寺がある。

善国寺

 善国寺は文禄4年(1595年)に池上本願寺12世貫主 仏乗院日惺(にっせい)上人が、中央区馬喰町に建立した。寛政4年(1792年)に火災にあい、現在地に移ってきた。

 善国寺の御本尊は毘沙門天像である。この毘沙門天像は、甲冑具足に身を固め、左手に宝塔を捧げ、右手に鉾を持ち、足に夜叉鬼を踏まえて立っている。

 毘沙門天梵語で、人々の多くの願いを聞き、御利益を与えることを誓願としている天王という。この像は、日惺上人が池上本願寺に入山するとき、関白 二条昭実(にじょうあきざね)からお祝いとして贈られたものと伝わっている。

 善国寺には石虎がおり、これは嘉永元年(1848年)に奉納されたものである。

 石虎は本堂の左右にいるが、右側の石虎の台座に、几号水準点が刻まれている。

石虎

几号水準点

 几号水準点とは明治初期に高低測量を行うために設けた基準となる基準点である。垂直面に刻印されているものと水平面に刻印されているものがあり、これは垂直面に刻印されているので内務省が設置した几号水準点と考えられている。ちなみに水平面に刻印されているものは東京市が設置した水準基標と推定されている。

 日本に残る几号水準点を訪ねるまちあるき随筆を同人誌「地理交流広場」で書いているが、ここの几号水準点はまだ取り上げていない。

 

 善国寺本堂に参拝し、御朱印をいただく。

 

 これで今日行きたい場所は一通りめぐったし、帰ろうかと考えたがその前にスタバで休憩してから帰ることにした。飲んだのは「ストロベリーメリークリームフラペチーノ」。いちごとホワイトチョコレートマスカルポーネの風味が絶妙で美味しかった。

「ストロベリーメリークリームフラペチーノ」

 フラペチーノを飲みつつ、参考文献「新宿区の歴史」を読み、1時間ほど滞在してから飯田橋駅から帰路についた。

飯田橋駅

 金乗院では目赤不動尊につぎ、目白不動尊に参拝することができた。いつか五色不動全てにお参りをしてみたい。放生寺は穴八幡宮とのつながりを強く感じ、かつての神仏習合時代に思いを馳せた。安養寺では一時は「御朱印もらえないか」と思ったものの勇気を出して声をかけたところいただけたばかりでなく、おすそわけまでもらってしまった。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

歩いた日:2023年11月3日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

新宿の歴史を語る会(1977) 「新宿区の歴史」 名著出版

林英夫(1977) 「豊島区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

荒川区立図書館 太田道灌と「山吹の里」伝説

https://www.library.city.arakawa.tokyo.jp/contents;jsessionid=ECAA4BEBA5A3FF69053022F6F9DE51FC?0&pid=1068

早稲田水稲荷神社 神社のご案内

https://mizuinari.net/guide.html

国土地理院 自然災害伝承碑

https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html

(2023年12月1日最終閲覧)