10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

うさぎの写真館 八塩あじさいの里

 あじさいを、撮りに行きたいと思った。

 あじさいといえば鎌倉などが有名だが、私は6年前に見つけた「八塩あじさいの里」がお気に入り。ここには色とりどりのあじさいが咲き誇っているが、地元民しか知らないのか客はまばらだった。今回は「八塩あじさいの里」を紹介する。

 新町駅から上野村ふれあい館ゆきのバスに乗る。電車が時間ギリギリに到着したから、走ってバスに乗り込んだ。そのままバスに揺られること1時間弱、「八塩温泉郷」バス停で降りる。そこから少し南に進むと、八塩あじさいの里の入口がある。

 まず、神流川沿いに向かう。ここには以前、「八塩橋」という小さな橋があったが、令和元年(2019年)10月12日の洪水で流されてしまった。

在りし日の八塩橋

 現在、八塩橋があったと思われる場所にはパイロンが置いてあった。もちろん、ここから埼玉県側に行くことはできない。

 ちなみに八塩橋は地理院地図上にはまだ残っている(学校の裏の小さな橋)。

 八塩橋の近くにも、白いあじさいが可憐に咲いていた。

 八塩橋の近くに、小さな祠があった。八塩八福神の恵比寿天だ。

 七福神が有名で全国にあるが、八塩八福神では七福神のメンバーに加え、鬼の神様の福鬼神を加えて八福神となっている。

 この恵比寿天は「神流の恵比寿」と呼ばれ、古来より神流川の豊かな恵みによりこの地の住民は豊かな生活が得られその守り神として信仰されたと言われている。

神流の恵比寿天

 実に穏やかな笑みを浮かべている。

 小川を越え、小さな山を登ると今度は福禄寿がいる。この福禄寿は「八塩南沢ささやき福禄寿」と呼ばれている。福禄寿は星の化身で、中国の神聖な仙人。長年にわたり、枯れることのないせせらぎの音、南沢に向かいそっとささやくと、子供に知恵と立身出世を授けてくれるそうだ。

福禄寿

 この福禄寿も優しそうな顔をしている。

 福禄寿に手を合わせ、先に進むとあじさいが咲き誇る開けた場所に出る。私が八塩あじさいの里で一番好きな場所だ。あじさいの中にある毘沙門天の鳥居もいい味を出している。

毘沙門天

 ここの毘沙門天は「南沢守り毘沙門天」と呼ばれている。古代インドの神話の神様であり中国に渡り、多聞天(北方守護神)として崇拝されている。古くから村民の守護神として南沢に祀られ、世相を清浄健全にする庶民に欠かすことのできない神で、村民も深く信仰していたそうだ。

 毘沙門天といえば怖いイメージがあるが、この毘沙門天は目が丸くあまり怖く見えない。

 

 一眼レフのシャッターを切っていたら、通りがかったおじさんに「ドラマチックな写真は撮れましたか?」と聞かれた。おじさんもカメラを持っていた。

 2、3枚写真を見せて「はい」と答えたら、おじさんは満足そうにうなずいた。

 弁財天の鳥居をくぐった先にもあじさいが続いていたが、白いあじさいが多い。白いあじさいは可憐で美しいが、シャッタースピードを下げすぎると白飛びしてしまうから撮るのが少し難しい。

 白いあじさいがたくさんあると、綿毛みたいで綺麗だ。

 ここの弁財天は「見合い弁財天」と呼ばれている。弁財天は元来水の神様で、日本に伝来してから音楽、知恵、学問の神様となった。

 南沢の水の守り神として弁天山より分神され、弁天山と見合っているところよりこの名がつけられたと言われている。

 弁天様は優しそうな顔をしていることが多いが、ここの弁天様は少しふくよかだ(女性に向かってふくよかは失礼かもしれないが)。

 弁天様がいた山のふもとに、弁天池という小さな池を見つけた。魚はいないかと見たが、足の生えかけたオタマジャクシが1匹泳いでいるだけだった。

 橋を渡る。

 小さな東屋を見つけたので、そこで休憩する。あじさいは爽やかだが、撮影している私は汗だくだった。

寿老人

 ここの寿老人は「生長霊泉 寿老人」と呼ばれている。寿老人は中国の神聖な仙人で、星の化身で鹿を伴う。

 八塩温泉の守り神の一人で、この霊泉を利用することにより、人の安全・健康が約束されるといわれ、不老長寿の神としても広く知られている。

 この寿老人もとてもにこやかだ。

 国道462号の橋の下をくぐる。

福鬼神

 国道462号の橋のたもとに鬼の瓦があった。ここに「八塩山 大声ぇ福鬼神」という説明板があった。

 昔、御荷鉾山に2匹の鬼が棲んでいた。これを弘法大師護摩を修したところ、鬼はとんで神流川のあたりに至って石になった。

 里人、これを大明神として祀った。など、ここには鬼の神話が数々伝えられている。

 鬼は怖い顔をしているが、悪事を治め弱い人たちの味方でもあり、諸願成就の神と言われている。

 南沢に向かい、欲張らず、願いを大声で叫べば願いが成就する、とのこと。

 この鬼の顔は厳めしいが、神様と言われればそう見える気がする。

 橋の下に野鳥観察小屋があるという看板を見たので行ってみたら、野鳥の写真が貼ってあるだけだった。

布袋尊

 少し進んだら布袋尊がほほ笑んでいた。布袋尊は中国の唐の時代の禅僧で、八福神のなかでも唯一の実在の人物という。

 福、そして宝を与えてくれる神様で、八塩の谷に風のように現れ、福徳を授けてくれる子宝、度量、円満の神である。

 少し進んだら少し大きなお社を見つけた。「笑の大黒天」と書いてある。

笑の大黒天

 文献によれば、最澄はここに来て緑野七倉の守護神として大黒天を奉祀したと伝えられている。

 大黒天は、日本神話に登場する大国主命とも言われている。

 ここの八福神はみんな笑顔だったが、この大黒天は笑の大黒天と言われるだけあって一番楽しそうな顔をしている。

大黒滝

 笑の大黒天の少し奥に、大黒滝がある。誰もいなかったのでそっとマスクを外し、大きく息を吸った。空気がおいしい。マイナスイオンを感じる。

 橋の下に戻ると八福神総社があるのに気がついたので参拝する。

 御朱印もあった。

 橋には八福神をモチーフにしたブリッジアートが描かれていた。

 「あなたの願いを八福の神々に思いをこめて鐘をならしてください」

 「いつまでもブログが書きつづけられますように」と思い、鐘をならした。

 

【~これにて写真館は終了~後はおまけコーナー】

 

 あじさいの写真は爽やかだが、私は全く爽やかでなかった。とにかく暑く、汗をたくさんかいていたので温泉で汗を流したいと思った。この近くに「桜山温泉 絹の里別邸」という日帰り温泉施設があり、2回ほど行ったことがあったが、前日調べていたら閉館していたことを知った。川の向かい側には「白寿の湯」という温泉があり、八塩橋を渡れば簡単に行くことができたが八塩橋は流失。白寿の湯に行くには3km程度歩かなくてはならない。でもこの炎天下で何もないところを3km歩くのはきつい…。

 気がついたときにはタクシー会社に電話をかけ、タクシーに乗っていた。というわけで白寿の湯までワープ。

 汗を流したいのもそうだが、現在13時過ぎ、お腹が空いたので腹ごしらえを先にすることにした。暑くて食欲がないので冷やし中華を注文した。

 夏野菜の冷やし中華は美味だった。

 腹ごしらえをしたところで温泉に向かう。タオルのてるてる坊主が目についた。これはお客さんが忘れたタオルで作っているらしい。

 白寿の湯はナトリウム・塩化物強塩泉で、地下750mの古生層から湧出する天然温泉である。あまりに源泉が濃いので湯舟のふちや床には褐色の温泉成分の結晶が、千枚田のような様相で堆積している。

 体を洗い、湯につかる。暑いときに熱い湯に入るのは理解しがたい人もいるかもしれないが、私はとろけ、日々の疲れも癒された。

 温泉でほどよくいい香りになったので、バスで本庄駅まで帰る。このまま帰ることもできたのだが、高崎駅に寄ることにした。その目的は…

 朝鮮飯店のカルビラーメンである。

 朝鮮飯店とは群馬県にのみ出店しているローカル焼肉チェーン店で、とにかく美味しいと評判を聞いていた。そして1年前くらいに初めて食べたのだが、私は朝鮮飯店のとりこになってしまった。朝鮮飯店のカルビラーメンは美味しいと聞いていたが、焼肉とラーメンを同時に食べられるほど食が太くないので、いつもはカルビスープにしていた。しかし、今日こそはカルビラーメンを食べるぞ。

 カルビラーメンだけ頼むのも忍びなかったので生ビールも頼んだ。

 うん。カルビラーメンとビールの相性はバッチリだ。うまい!うまい!辛さと旨さが絶妙で本当に美味しい。

 あっという間に完食してしまったがおなかいっぱいで、これで焼肉も食べるとなると胃の調子が狂ったと思う。

 温泉で汗を流したところまた汗をかいてしまったが後悔はしていない。満足しながら、帰路につくことにした。

撮影日:2022年6月26日

うさぎの気まぐれまちあるき 境界協会FW 東京都vs埼玉県・微高地の美学!

 Facebookを見ていたら、境界協会で2年ぶりのイベント「東京都vs埼玉県・微高地の美学!」が行われることを知った。境界協会は友人に誘われて2年前にイベントに参加しただけだったが、興味を持ったので思い切って参加してみた。イベント中は1人だったが、懇親会に参加したらFacebookの友達が増えたので、参加してよかったと思った。

1.葛西用水

 スタートはつくばエクスプレス八潮駅

 八潮駅に着いたらうまい棒の擬人化が貼ってあって驚いた。

KING OF DAGASHI

 調べたところうまい棒を販売している企業「やおきん」の営業本部が八潮にあるらしい。

 

 出発し、駅前に八潮市のマンホールを見つけた。

 このマンホールにはシラサギが描かれている。ちなみに八潮市の鳥はハクセキレイなので、シラサギではない。

 

 駅前に街区案内図を見つけた。右上に「ハッピーこまちゃん」というキャラクターが描かれている。

 調べたところ八潮市ゆるキャラで、八潮の小松菜畑で生まれたという設定らしい。八潮は小松菜が有名なのか。

 

 先ほどのシラサギとは別のタイプのマンホールを見つけた。

 このマンホールは中央に八潮市の花「くちなし」が、その周辺に八潮市の木「イチョウ」の葉がデザインされている。

 

 真菰田児童公園の柵に八潮市章を見つけた。

 この市章は八潮の二文字を図案化したもので、昭和39年(1964年)に公募により制定された。あと裏側から見ているのでデザインとしては左右反対である。

 

 水路を辿っていくと葛西用水に出た。

葛西用水

 葛西用水は、行田の利根大堰から取水し、足立区へ流下する用水路である。享保4年(1719年)、埼玉県東部の水田灌漑のために造られた。

2.垳

 葛西用水沿いに南下し、新葛西橋交差点で大通りに出る。右手側に「垳ふれあい会館」がある。

垳ふれあい会館

 垳ふれあい会館自体は自治会の集会所なのだが、問題は「垳」という字。この字、見たことはあるだろうか。おそらく、ほとんどの人は見たことがないだろうし、読めないと思う。もし読めたら、地名マニアか、八潮市民か、駒澤大学地理学科で橋詰先生の日本地誌を受講した人くらいだと思う(私は橋詰先生の日本地誌を受講していたので、読めた)。

 正解は「がけ」である。

 この「垳」という字はこの地名と、この地を流れる垳川の名を表記する以外には使われない。区画整理によりこの地名が変更されそうになったこともあったが、地名の保存運動が行われ、垳の地名と漢字は残ったようである。

 

 そのまま南に進むと葛西用水は垳川に合流する。この垳川の看板には「がけがわ」のルビが振ってある。

「がけがわ」

 階段を上がり、ふれあい桜橋の上に来ると埼玉県八潮市と東京都足立区のカントリーサインがある。「境界」だ。

 そのまま東に進むと、小さな神社がある。垳稲荷神社だ。

垳稲荷神社

 「垳」の漢字が使われている神社は全国でもおそらくここだけだと思う。垳稲荷神社の創建年代は不詳だが、江戸時代には垳村の鎮守だったそうだ。

 垳稲荷神社には水準点がある。一等水準点、第11110号だ。

一等水準点 第11110号

 成果状態が正常でないため点の記が閲覧できず、いつ設置されたものかはわからなかった。

 

 垳稲荷神社からさらに東、垳川沿いに進むと、常然寺がある。

常然寺

 建立は応永3年(1396年)、開山は白雲上人といわれており、宗門は浄土宗である。室町時代からある寺院なので、そのときにはここに集落があったことになる。

 常然寺境内には延宝2年垳万人の塔がある。

垳の万人塔

 「垳の万人塔」と愛称されるこの塔は、常然寺第4世の称誉厳貞上人が、万人講を組織して延宝2年(1674年)に造塔した別時念仏供養塔である。高さ4.6m、八潮市内最大の石造物となっている。

 

 常然寺に参拝し、さらに東に進むと埼玉県垳川排水機場の脇に「河川管理境界 垳川」という看板を見つける。

「河川管理境界 垳川」

 この看板は埼玉県が設置したものなのに、「対岸は東京都足立区です」と書かれているのが面白い。

 

 埼玉県垳川排水機場の看板にも、小さく「がけ」というルビが振ってある。

埼玉県垳川排水機場

 やはり「垳」の字は読めないからだろう。

 

 ここで垳川は中川に合流する。中川は埼玉県、茨城県、東京都を流れ東京湾に注ぐ一級河川である。

 

 稲荷下樋管という小さい施設のところで、八潮市と足立区の境界を越える。

稲荷下樋管

目で見てわかる境界

 ここは境界に合わせて舗装が分かれているのが面白い。

3.花畑運河

 六ツ木水門のところで右折し、花畑運河沿いを進む。

花畑運河

 足立区の北東にある花畑運河、花畑川は、大正15年(1926年)に「産業の発展に資する」と認められて建設が認められた運河である。

 すき家足立六木店のある交差点を左折し、そのまま南進し、新広橋交差点のあたりで暗渠から川が開渠になって出てくる。

暗渠と開渠の境界

 これは先ほども説明した葛西用水だ。

 

 先ほどの花畑運河沿いまで戻り、少し北進するとここにも葛西用水の開渠を見ることができる。

暗渠と開渠の境界

 葛西用水を見つけたところで、花畑運河沿いを西へ進む。ここにビバホーム足立神明店があるのでトイレ休憩とした。

ビバホーム足立神明店

 飲んでいた水がだいぶぬるくなってしまったのでビバホームのなかの自動販売機で水を買ったら、阿蘇の天然水が出てきて驚いた。

 ここ、東京なのに。

 

 舎人公園通りを西へ進む。神明町交差点を右折し、再度垳川沿いに出る。この垳川の向こうは八潮市である。ここは自然堤防の上と下に、それぞれ遊歩道が整備されている。

 遊歩道の西端まで行き、八潮市との境界に近づくと、「東京の入口 あだちABC」の看板を見つける。

東京の入口 あだちABC

 ここは東京の入口というのは正しい。埼玉県側を見ると、八潮市カントリーサインを見つけた。

4.綾瀬川沿いを進む

 南に進み、内匠橋で綾瀬川を越える。

綾瀬川

 このあたりの綾瀬川享保12年(1727年)に直流になったようだ。

 綾瀬川沿いに歩いていくと舗装がなくなる場所がある。ここも足立区と八潮市の境界らしく、舗装されている部分が足立区、未舗装の部分が八潮市らしい。

わかりやすい境界

 そしてここに「ルネ綾瀬」という名前のマンションが建っている。

ルネ綾瀬

 綾瀬というのは足立区の地名なので足立区にあるかと思いきや、ルネ綾瀬の住所は埼玉県八潮市浮塚717-1である。敷地内にある水道の仕切弁にも「Yashio City」と書いてある。

「Yashio City」

 千葉にあるのに東京と名乗る某テーマパークを思い出してしまった。

 

 ここからは都県境の遊歩道を歩く。ここは古綾瀬川遊歩道というらしい。遊歩道上に足立区のマンホールを見つけた。

 このマンホールには足立区のシンボルマークが描かれている。このシンボルマークは平成3年(1991年)に制定されたもので、ADACHIのAをモチーフに、チャレンジング・ハーモニー・ヒューマンのイメージ目標のもとに制定されたものである。

 少し進むと、足立区の紋章のマンホールも見つける。

 これは昭和33年(1958年)に一般公募し、制定されたもので、「足立」の足の字を図案化したものである。

 

 「武蔵野の路 舎人コース」の看板を見つけたが、地図屋の視点としてはノースアップじゃない地図はわかりにくいと思ってしまう。

武蔵野の路 舎人コース

 遊歩道からそれ、原っぱに出た。そこに小さな境界杭と大きな境界杭が並んでいる。ここも八潮市と足立区の境界らしい。

 こんなところにも境界を見出すとは、主催者の小林さんは流石だと思った。

5.花畑大鷲神社

 綾瀬川沿いを進む。浮花橋に、八潮市カントリーサインを見つけた。

 綾瀬川沿いを進むと、左手側に長建寺がある。長建寺は浄土宗の寺院である。

長建寺

 実はここにも、水準点がある。一等水準点第11111号だ。どうでもいいけどゾロ目だ。この水準点は金属標らしいが、水が溜まっていて水準点は確認できなかった。

 設置は昭和36年(1961年)であり、地理調査所が国土地理院になったのは前年の昭和35年(1960年)なのに、ここの石蓋には「地理調査所」と書かれている。謎である。

 ひたすら綾瀬川を北上し、足立区鷲宿東公園の角を左折する。途中に白ナンバーパトランプのない消防車が止まっているのが気になった。

 どこの消防署のものかも書いてないし、引退した消防車を個人所有しているのだろうか。

 そのまま進むと右手側に大きな神社がある。花畑大鷲神社だ。

花畑大鷲神社

 この神社の創建は宝治年間(1247~1249年)とされる。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。幕末、幕府の命により源義光の子孫である佐竹氏が本殿を改築し、安政元年(1854年)から明治8年(1875年)まで20余年の歳月を要し、竣工を迎えた。総欅造りで数知れぬ大小の彫刻が随所に見られ、正面にある向拝柱に彫られた「昇り龍・降り龍」は左甚五郎13代目後藤与五郎の作と言われている。しかし今は覆堂で覆われ、近くで見ることはできない。

 ここは浅草にある鷲神社とつながりがあるらしく、明治34年(1901年)7月建立の東京新吉原貸座敷有志の名前が刻まれた石板がある。

 境内にまた水準点がある。一等水準点第11112号だ。小林さんに「境内に水準点があるので探してみてくださいね」と言われたので、点の記片手に必死に探していると小林さんがやってきた。どこにあるのか聞いたが、実は小林さんもどこにあるのかわからないらしい。おそらく、埋没しているのだろう。

水準点、このあたりにあるらしい?

 参拝を済ませ、御朱印をもらって集合場所に行くと、神社の人が本殿を見せてくれるというので、覆堂のなかの本殿を見に行った。内部は撮影禁止と書かれていたので写真はないが、彫刻が見事だった。特に「昇り龍・降り龍」の彫刻が印象に残った。

ちなみに御朱印がこちら

6.足立区と草加市の境界を辿る

 花畑大鷲神社を後にして、都道446号、内匠橋花畑線を北上する。しばらく進むとまた足立区と八潮市の都県境に出る。ここには何もない(少し離れたところに足立区のカントリーサインがあるくらい)のだが、それぞれの駐車場に停められた車のナンバーが春日部ナンバー(八潮市側)と足立ナンバー(足立区側)だったのは流石と思った。

 都県境から少し南の道を進むと東京都足立区、埼玉県八潮市、埼玉県草加市のトリプルジャンクション(境界)があるが、ここには何も案内板はない。

 足立区と草加市の境目を進む。可愛らしいマンホールを見つけたが、中央に東京都のマークが描かれているので、東京都のものである。調べたところ東京都住宅供給公社のマンホールである。

 伝右川沿いを進み、橋を渡る。ここが足立区と草加市の境界らしい。境界標もある。

 草加市のマンホールを見つけた。このマンホールは百代橋と松並木がデザインされている。

 足立区と草加市の境界をめぐる。

塀の向こうは東京都

このスキマが都県境

 また草加市のマンホールを見つけた。

 これは草加市章がデザインされており、草加の「草」の古字「艸」と「カ」を図案化したもので、3つの円は2町1村(草加町、谷塚町、新田村)の合併、3つの線は3地区の編入を意味している。

 毛長川の大鷲さくら橋まで都県境を追って、今回のイベントは終了した。草加記念体育館バス停から竹ノ塚駅まで向かう。埼玉県内なら現金180円、東京都内を通ると現金220円となるのが面白い。

 この後は竹ノ塚駅の居酒屋で懇親会に参加し、Facebookの友達を数人増やすことができた。参加して本当によかったと思った。

今回の地図

歩いた日:2022年5月28日

【参考文献・参考サイト】

八潮市のマンホール

https://rojonomanhole.web.fc2.com/saitama/yashio_city.htm

ゆるキャラグランプリ ハッピーこまちゃん

https://www.yurugp.jp/jp/vote/detail.php?id=00000684

八潮市 市章

https://www.city.yashio.lg.jp/shisei/shokai/profile/shisho.html

埼玉県草加市 葛西用水

https://www.env.go.jp/water/junkan/case2/pdf/33.pdf

「垳」を守る会 「垳」採集 垳稲荷神社

http://gake840.blog.fc2.com/blog-entry-126.html

常然寺 常然寺について

https://www.zyo-nenzi.com/blank

エコロジー夢企画 「祝 花畑運河開削90周年」横断幕設置!報告

https://ecoyume.net/2641

足立区 区のシンボルマーク、紋章、木、花

https://www.city.adachi.tokyo.jp/hodo/ku/aramashi/profile/symbol.html

花畑大鷲神社 由緒

http://ootori-jinja.or.jp/yuisyo.html

東京都住宅供給公社のマンホール

http://usagigasi1f2.starfree.jp/toukyou/tonokouiki2/tojyuutakukyoukyuukousya/tojyuutakukyoukyuukousya.html

草加市 マンホールカード(第9弾)【百代橋と松並木】を配布しています

https://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1904/020/010/010/PAGE000000000000058775.html

草加市 草加市の概要

https://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1301/030/020/040/PAGE000000000000050275.html

うさぎの気まぐれまちあるき 川越の魅力をさらに発見する街歩き

 「お写ん歩書房」の石井建志さんにお誘いいただき、「川越の魅力をさらに発見する街歩き」に参加してきた。「うさぎの気まぐれまちあるき 川越編」でも川越に行っているが、「また川越かよ!」と思わず、読んでいただければ幸いである。また、前回の「うさぎの気まぐれまちあるき 川越編」のリンクも載せておくので、そちらも読んでいただければと思う。

octoberabbit.hatenablog.com

1.小江戸蔵里

 今日は、本川越駅からスタートだ。

 クレアモールに向かう。

 クレアモールは平日、休日ともに商店街の通行量埼玉県1位の商店街で、「クレアモール」という名前はCreateとMallの造語である。まだ朝10時だったのでそれほど通行量は多くない。川越市民が川越に遊びに行くといえば、蔵造りではなく、たいていクレアモールへ行くことを指す。

 

 クレアモールを北進すると蔵が見える。小江戸蔵里だ。

小江戸蔵里

 小江戸蔵里は、明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当時の面影を残しつつ改修した施設で、平成22年(2010年)に誕生した。施設は明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装し、国の登録有形文化財に指定された、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、利き酒処(昭和蔵)の3つの蔵と、つどい処(展示蔵)がある。

2.出世稲荷神社

 小江戸蔵里を出て少し北上すると、出世稲荷神社がある。

出世稲荷神社

 「そ そびえたつ 出世稲荷の 大いちょう」というかわごえ郷土カルタの札が脳裏をよぎった。カルタで知っていたが、実際に来たのは初めてである。

 出世稲荷神社は、天保2年(1832年)に京都の伏見稲荷神社本宮から分祀した神社である。

 この出世稲荷神社には、鳥居と共に神社を守る大きなイチョウの木がある。

 川越市の天然記念物に指定されている2本のイチョウは、樹齢600年ほどらしい。非常に立派なイチョウである。

3.喜多院

 出世稲荷神社から東へ向かうと、喜多院裏の遊里跡を見つける。

 埼玉県は公娼を認めない「廃娼県」ながら、実際は、大宮、熊谷、川越などでは「旅館」「料理屋」という建前で遊郭が存在していたようだ。確かに川越に遊郭があったとは聞いたことがなかったが、喜多院の裏にあったとは初めて知った。現代の風俗といえばキャバクラなどだが、これは川越ではクレアモールにある。昼は一人で歩いていても何も思わないクレアモールも、夜は一人で歩かないよう親に言われていたし、今も夜歩くのは少し怖い。なお、遊郭時代の建物をそのまま利用した「市むら」の料理は絶品らしいので、今度行ってみたい。

 

 「どろぼうばし」を渡って喜多院に入る。

どろぼうばし

 昔、喜多院の境内では罪人を捕まえることができなかったため、泥棒をした者が橋を渡って喜多院の境内に逃げ込んでいたが、泥棒は寺男たちに捕らえられ、諭され、改心して善人になったことからこの橋は「どろぼうばし」と呼ばれているようだ。

 どろぼうばしから入ってすぐのところに川越藩主であった松平大和守家歴代藩主の墓所がある。

松平大和守家歴代藩主の墓所

 ここには松平朝矩、松平直恒、松平直温、松平斉典、松平直候が葬られている。そっと手を合わせた。

 喜多院本殿は慈恵堂と呼ばれている。

慈恵堂

 慈恵大師良源と慈眼大師天海をまつる堂で、銅板葺き入母屋造である。

 ここで、喜多院について紹介する。

 淳和天皇の勅により天長7年(830年)慈覚大師円仁により創建された勅願所で、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王毘沙門天等を祀り、「無量寿寺」と名づけられた。

 その後、元久2年(1205年)、天文6年(1537年)に戦火に見舞われて、その都度再興された。

 慶長4年(1599年)に天海僧正は法灯を継ぎ、慶長16年(1611年)に徳川家康が川越を訪ねたときに親しく接見している。翌年には家康から「東叡山喜多院」の名をうけ、さらに翌年には関東天台宗580余寺の本山とされた。

 寛永15年(1638年)に川越大火で、現存の山門以外の全ての堂宇が焼失し、3代将軍徳川家光は堀田加賀守正盛に命じて復興に掛かった。慈恵堂はこのときの再建である。

 「き 喜多院の だるまとだるま にらめっこ」というカルタがあるが、これは1月3日の初大師、だるま市でだるまがたくさん売られることに由来する。

 慈恵堂より山門側に、少し小高いところがある。そこにお堂があり、慈眼堂という。

慈眼堂

 本瓦葺き宝形造で、禅宗様式に和様をおり込んでいる。天海は寛永20年(1643年)に亡くなり、正保2年(1645年)に徳川家光の命によりこのお堂が建てられた。慈眼堂内に、厨子に入った木造天海僧正坐像がおさめられているが、非公開である。小高い丘の上に建てられているが、6~7世紀頃に造られた古墳を利用している。

 慈眼堂の裏には歴代住職の墓が並ぶ。

 また、南北朝時代「暦応5年(1342年)」銘がある板石塔婆の暦応の古碑があり、無量寿寺歴代住職の名を刻む。並んで「延文3年(1358年)」銘の延文の板碑があり、これは60人による結衆板碑である。

 喜多院の南側には仙波東照宮がある。

仙波東照宮

 仙波東照宮は、駿府で没した徳川家康公の遺骸を日光山へ運ぶ途中で法要が行われたために建設された日本三大東照宮のひとつである。もちろんほかの三大東照宮日光東照宮久能山東照宮である。本殿は銅瓦葺きの三間社流造、宮殿は板葺きの円形厨子、唐門は銅板葺きの平唐門、拝殿は銅瓦葺きの入母屋造、幣殿は前面が拝殿に接続した銅瓦葺き、後面は入母屋造である。本殿内部には馬上に鎧姿の木像家康像をまつっている。

4.喜多院周辺

 喜多院の近くに仙芳仙人入定塚がある。ここには仙芳仙人の伝説がある。

仙芳仙人入定塚

 仙芳仙人なる者がどこからともなくやってきて「聖人が説法を行った場所は此処だ」と言ってそのあたりを徘徊していた。そこに老人(龍神であり海の主)が現れたので仙人は「私の袈裟だけの土地で良いからもらいたい」と頼むと、老人は袈裟を海の上に広げる。すると海水が干上がり土地ができた。その上さらに土仏を作り海の底に投げると海水は乾いて寺を建てられるような土地ができ、ここに無量寿寺ができたという。その後仙芳仙人が入定したのがこの仙芳仙人入定塚である。

 

 中院に向かう途中に、地蔵や墓石が無造作に並ぶ一角がある。ここが南院遺跡だ。

南院遺跡

 南院の創建は喜多院・中院と同じ平安時代初期。当時の名前は「多聞院」で、喜多院、中院と合わせて3院で一体の寺院だった。明治初年の廃仏毀釈により廃寺となった。

 

 中院は、喜多院、南院と3寺院で構成される星野山無量寿寺のひとつで、慈覚大師円仁によって創建された天台宗の寺院である。

中院

 正安3年(1301年)には関東天台宗580余寺の本山となり、関東天台教学の中心であった。日蓮は20歳のころに尊海の導きにより比叡山で修行し、建長5年(1253年)に日蓮宗を開き、その後中院で尊海から恵心流の伝法灌頂を受けたという。喜多院天海僧正が来往するまでは、中院が中心的な寺院だった。境内には「狭山茶発祥之地」の石碑がある。

狭山茶発祥之地

 喜多院に戻り、お昼休憩となる。お昼は自由に取っていい、とのことだったが結局みんなで「茶そば寿庵」に行った。私が食べたのは「割子そば 三段」。

割子そば 三段

 茶そばに小海老、なめこおろし、とろろが入っていて薬味のお椀に蕎麦とつゆを入れて食べる。出雲そばに似ていると感じた。お蕎麦はとても美味しかった。

5.喜多院北側

 喜多院の北隣には成田山川越別院がある。

成田山川越別院

 成田山新勝寺の別院で真言密教寺院、「久保町のお不動様」で親しまれる。目の病を不動明王に祈願して全治した千葉の石川照温が、廃寺となっていた川越久保町の本行院嘉永6年(1853年)に再興したのが起源である。毎月28日には蚤の市が開かれ、東京はじめ近在の古物商が露天の店を並べる。

 

 北上し、東京電力川越支社へ向かう。

説明板

 ここはかつての川越火力発電所で、明治37年(1904年)、埼玉県で初めての石炭火力発電所として100kw発電機2台を使用し、電灯供給を開始していた。

 また、この電気を使い、明治39年(1906年)には「川越久保町停留場」から「大宮停留場」間を結ぶ電気鉄道が開通し、「チンチン電車」の愛称で親しまれていた。「川越久保町停留場」は現在、川越市立中央公民館となり、東京電力川越支社に隣接している。

 

 西へ向かうと、瘡守(かさもり)稲荷神社がある。

瘡守稲荷神社

 創建は不詳ながら、昔は最も怖い伝染病が疱瘡(天然痘)で、カサ(できもの、疱瘡、梅毒)の治癒を祈る稲荷が「瘡守稲荷神社」である。まず土でできた団子を供え、治ったら米の団子を持っていく信仰があったらしい。最近流行りつつあるらしいサル痘にも効果はあるのだろうか。

6.大正浪漫夢通り

 「な 七曲り 七つ数えて かくれんぼ」

 七曲りをくねくねと曲がる。

 なぜこのように折り曲がった細道が続いているのかというと、川越城への敵の侵入を防ぐために造られた道でわざと折れ曲がった道をつくることで敵の進軍をまっすぐに進めないようにしたものである。

 

 山崎家別邸へ向かう道に、工事中の場所を見つけた。旧川越織物市場だ。

 川越織物市場は明治43年(1910年)に開設され、大正8年(1919年)という比較的短期間で幕を閉じたが、長屋形式の建物が向かい合うように建てられ、その中央には広い中庭が設けられていた。マンション開発で取り壊される寸前、市民運動の高まりをうけて平成17年(2005年)3月、川越市は隣接する旧栄養食配給所とともに文化財指定した。

 

 大正浪漫夢通りを進む。

大正浪漫夢通り

 大正浪漫夢通りには関東大震災以後に流行した看板建築の洋風店舗や町屋造りが多く残る。前回朝食を食べたシマノコーヒー大正館には長蛇の列ができており、人気店なのだなと感じた。

 川越商工会議所の角を右折する。

川越商工会議所

 ここは昭和3年(1928年)に建てられた、旧武州銀行川越支店の建物を活かして、今は商工会議所として使われている。

 

 旧山崎家別邸の向かい側にある中成堂歯科医院の建物がお洒落で、思わず写真を撮ってしまった。

中成堂歯科医院

7.旧山崎家別邸

旧山崎家別邸

 旧山崎家別邸は、「亀屋」の5代目、山崎嘉七氏の隠居所として、保岡勝也による設計で建てられた。大正元年(1912年)11月に川越で陸軍大演習が行われた際、皇族が宿泊した私的迎賓館でもあった。平成12年(2000年)に母屋、茶室、腰掛待合が川越市指定有形文化財となり、平成18年(2006年)に建物部分が市へ寄贈された。平成23年(2011年)には庭園が国登録記念物に登録され、令和元年(2019年)には母屋が国重要文化財に指定された。

ステンドグラス

8.川越キリスト教

 旧山崎家別邸から来た道を戻り、蔵造りとは反対方向を向くと赤レンガの建物が見える。これが川越キリスト教会だ。

川越キリスト教

 川越キリスト教会はプロテスタント教会で、その始まりは明治11年(1878年)の横山錦柵と田井正一両牧師による。しかし明治の川越大火で焼失してしまい、大正10年(1921年)に建てられた。アメリカ人技師ウィリアム・ウィルソン設計で、中世ゴシック折衷様式のスレート葺きレンガ造りである。国登録有形文化財

 定礎の石のなかの鉛箱を開けてみたら昔の聖書や1銭・5銭硬貨が出てきたらしい。まるでタイムカプセルだ。

定礎石

 初めて中に入ったが、教会の中も静かでとても良かった。

9.時の鐘

 川越キリスト教会から直進、鐘つき通りを左折する。景観配慮型スターバックスの少し先に、時の鐘がある。

景観配慮型スターバックス

時の鐘

 「と 時の鐘 歴史の音色 町響く」

 時の鐘は寛永4~11年(1627~1634年)の間に川越城酒井忠勝多賀町の現在の場所に建てたものが最初と言われているが大火で焼失し、藩主松平信綱が承応2年(1653年)に再建した。その後藩主となった秋元喬知は宝永元年(1704年)に甲州の鋳物師がつくった銅鐘をここに移した。

 創建された江戸時代の初期から、暮らしに欠かせない「時」を告げてきた小江戸川越のシンボル的存在である。昔は手動により時を報せていたが、現在の鐘は午前6時・正午・午後3時・午後6時の一日4回、自動鐘打機により鐘が撞かれている。

 「本の店 太陽堂」に石井さんの著書が売られているというので、そこで買おうかと思っていたら営業していなかった。残念である。

10.一番街(蔵造り)

  母方の菩提寺、長喜院には今回は寄らず、その隣の雪塚稲荷神社に行く。

雪塚稲荷神社

 雪塚稲荷神社には「白狐伝説」がある。伝説では、江戸時代、この町の通りに白い狐が迷い込んだ。これを見た若い衆が、狐を殺し食べてしまった。その若い衆はたちまち熱病に罹り、毎夜大きな人魂が街に現れるようになった。町の人たちは白狐の祟りだと恐れ、長喜院の境内に社を建て、白狐の皮と骨を埋めて塚を築いた。それが雪の降る日だったことにちなみ「雪塚稲荷神社」と名づけたという。長喜院には何度も来ているのに、この神社と伝説は知らなかった。

 

 蔵造りに戻り、大沢家住宅を見る。

大沢家住宅

 大沢家住宅は明治26年(1893年)にあった川越大火での焼失を免れた川越最古の蔵造りで、現存する関東地方最古の蔵造りでもある。


 川越に土蔵造りが多いのは、大沢家住宅が川越大火でも焼け残ったことで、多くの商人が土蔵造りの店舗を建てるきっかけになったからとのこと。平成11年(1999年)12月1日に国重要伝統的建造物群保存地区に指定された。

「え 江戸文化 今も伝える 蔵造り」

 ちなみに大沢家住宅の隣にある蔵造り、金笛は平成に入ってから建てた建物らしい。

金笛

 関東最古の蔵造りと最新の蔵造りが並んでいるのが面白い。

11.弁天横丁

 少し北上し、弁天横丁へ向かう。

弁天横丁

 ここは川越大火以後に形成された路地で、長屋には芸者さんが住み、置屋があったが、今は空き家が目立つ。それでも大正期から残る長屋2棟、土蔵をリノベーションした酒場などが残っている。初めて行ったが、味のある入口の看板がとても良い。

12.菓子屋横丁

 養寿院に向かう前に、札の辻を通る。札の辻は明治初期まで藩や郡役所の高札場があった十字路で、交通の中心地かつ城下町の繁華街だった。

 そしてうなっ子の店前の水路にいる鯉が巨大で驚いた。

 養寿院は鎌倉時代の寛元2年(1244年)に秩父平氏末裔の河越経重により開基された。江戸時代に寺領10石の御朱印をうけ、徳川家康も鷹狩りの際に立ち寄った。

養寿院

 川越の地名の基となった河越重頼の墓があり、寺には岩手県雲際寺にある源義経と、重頼の娘で義経正室郷御前の位牌の写しが安置されているという。

河越重頼の墓

 ここで休憩となり、菓子屋横丁に向かった。

菓子屋横丁

 「に にぎやかな 笑顔がはずむ 菓子屋横丁」

 菓子屋横丁は明治の初め頃、鈴木藤左衛門が養寿院の門前町として栄えるこの町で江戸っ子好みの気取らない菓子を製造したことが始まりと言われている。

 

 疲れたので、一人で気になっていた茶屋、長峰園に向かい、グリーンティーと抹茶アイスを食べた。長峰園は札の辻にある。

 ここの抹茶は狭山茶を使用しているらしい。疲れた体に甘いものがしみたが、椅子席がもう少しあればくつろげたと感じた(店舗スペースの問題で厳しいのかもしれないが)。

13.松本醤油

 休憩後は松本醤油の醤油醸造の工場見学に行った。看板猫がいたが、ずっと遊んでいる人がいたため正面からの写真は撮れなかった。

 松本家住宅は、川越を代表する豪商であった横田家の分家を、松本家が明治22年(1889年)にこの土地建物を購入、同時に醤油製造業も引き継いだ。店蔵は川越に多い蔵造りではなく、川越大火の前の構造かと見られる。

 そして、その蔵のなかで醤油は醸造されている。

醤油蔵

 蔵が小規模のため少量生産で成城石井と紀ノ国屋、ヤオコーくらいしか販売していないが、メディア露出が多く来店客も多いようだ。マツコ・デラックス胡麻ドレッシングを紹介したときは全国から注文が来たらしい。醤油工場見学後、参加者の方々は醤油や胡麻ドレッシング、炊き込みごはんのもとなどを買っていたが、自炊習慣のない人間が買っても腐らせるだけなので何も買わなかった。でも後で醤油プリンでも買っておけばよかったかなとも思った。

松本醤油前のユニークな看板

 松本醤油の裏に鴉山稲荷神社がある。

鴉山稲荷神社

 ここは長禄元年(1457年)に扇谷上杉家当主、上杉持朝の命により、川越城築城の任務にあたった太田道真が、城の櫓より四方を眺めたところ、南西に森が遮り、富士山の眺望が良くないため、これを伐採したところ、家臣が神隠しにあったものの、森の中から石祠が発見され、「源家勝平、怨敵退散、子孫繁栄、大願成就、守護」と記した祈願文が発見された。道真は、これを築城の吉兆として、ここに仮宮を建立したことに始まるという。

14.蓮馨寺

「れ 蓮馨寺 鐘のなる音が 響く寺」

 蓮馨寺に向かう。

蓮馨寺

 蓮馨寺は、天文18年(1549年)に川越城代「大道寺駿河守政繁」の母「蓮馨大姉」が、平方村(現在の上尾市平方)に建立したものを川越に移転し、その甥である存真上人を招き創建した。関東十八檀林の1つで、天正19年(1591年)に寺領20石を得た。

 釈迦の弟子である「おびんづる様」もいて、直接その身体を触ると病気が治り、また頭に触ると頭が良くなるらしい。そっと頭を撫でておいた。

おびんづる様

 蓮馨寺の向かい側には川越熊野神社がある。

川越熊野神社

 元々は蓮馨寺と地続きだったが、明治の神仏分離により独立した神社。その歴史は、天正18年(1590年)に蓮馨寺の二世然誉文応僧正が紀州熊野より勧請したことに始まった。ここには足踏み健康ロードや銭洗弁天などがある。

足踏み健康ロード

銭洗弁天

 最後に彩乃菓の2階で、彩乃菓社長の小島淳一さんの話を聞いて終了した。彩乃菓のモンブランどら焼きを食べたが、美味しかった。

モンブランどら焼き

 また、先ほど太陽堂が閉まっていて本が買えなかったと言ったが、太陽堂の店主とすれ違い、彩乃菓に本を持ってきてくれたので無事購入することができた。このブログでも大いに参考にさせていただいたので紹介したい。

川越♡愛

oshanpo.base.shop

 

 川越は生まれ育った街なのでよく知っていると思っていたが、遊里や弁天横丁の存在は知らなかったし、キリスト教会や養寿院は初めて行った。川越は奥が深い。私の知らない川越が、まだまだありそうだ。

 

【おまけ】

 彩乃菓で解散後、「お腹は空いたが食欲がない」という状態だった。そこで、アトレ川越7階の「韓国味工房 EIKO」の参鶏湯(サムゲタン)を食べた。

 スープかと思っていたらもち米も入っており、かなりお腹いっぱいになった。でも美味しかったので食べきれた。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

歩いた日:2022年5月22日

【参考文献・参考サイト】

埼玉県高等学校社会科教育研究会歴史部会(2005)「埼玉県の歴史散歩」山川出版社

石井建志(2021)「川越街道お写ん歩ノート」

石井建志(2022)「お写ん歩ノート 「川越♡愛」」

群馬大学総合情報メディアセンター中央図書館 郷土かるたコレクション かわごえ郷土かるた

https://carta.media.gunma-u.ac.jp/kanto/data_111kawagoe/index.html

カワゴエール 七曲り

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/nanamagari/

東海道を歩く 11.三島広小路駅~片浜駅

 前回、箱根峠を越えて三島、静岡県に到着した。そこで、Twitterの三島に住んでいるフォロワーさんから「一緒に東海道を歩いてみたい」と言われたので、一緒に行くことにした。私は三島駅まで新幹線で移動し、三島駅で待ち合わせ、その後一駅移動して三島広小路駅から今日は始まる。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.千貫樋

 三島広小路駅を出て、Y字路の左側、県道145号線沿いを進む。少し進むと秋葉神社がある。

秋葉神社

 秋葉神社を祀るようになったのは、慶安元年(1648年)から宝暦2年(1752年)の間に、町が数度の大火に見舞われたからである。そこで、防火の神として信仰を集めている秋葉神社の分霊を祀る神社を創建した。

 

 秋葉神社の道路の反対側を見ると千貫樋がある。

千貫樋

 千貫樋は伊豆・駿河の国境、境川にかけられている樋で、長さ42.7m、巾1.9m、深さ45cm、高さ4.2mである。創設については諸説あるが、天文24年(1555年)今川、武田、北條3家の和睦が成立したとき、北條氏康から今川氏真に聟(むこ)引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたというのが一般に認められている。千貫樋の名称には、水の代金が千貫文であったとか、建設費が千貫かかった、用水が千貫の田地を潤すようになった、などという説がある。江戸時代には東海道の名所の1つとして、『東海道名所図会』や葛飾北斎の浮世絵にも描かれている。なお、現在の千貫樋は、関東大震災による大破後に、コンクリートで再建されたものである。

 千貫樋は伊豆・駿河の国境にあるが、ここは現在でも三島市と清水町の市町境になっており、清水町のカントリーサインがある。

 伊豆と箱根の境は箱根峠なので、伊豆国はあっという間に終わってしまった。

2.清水町に入る

 清水町のマンホールを発見した。

清水町のマンホール

 富士山を背景に、柿田川眼鏡橋がデザインされている。現在、眼鏡橋は破損し、その上流に柿田橋が架かっているので、これは実際の景色とは違うらしい。

 

 千貫樋から少し進んだ県道144号線を右折して少し進むと庚申堂がある(写真は撮り忘れてしまった)。現在この周辺には寺がないが、「駿河風土記」によると近世には浄土宗の「善境寺」という寺があり、庚申堂もこの寺の一角にあったようだ。現在でも浄土宗の寺院があったことによる念仏信仰が盛んで、庚申堂では「真如会」と称する高齢者グループにより月例観音講が主催され、念仏や読経が行われている。ここから少し進んだところで経を上げながら家を巡っている団体を見たので、これが真如会かもしれない。

 

 少し進むと大きな常夜燈を見つけた。

常夜燈

 これは弘化3年(1846年)に建立されたもので、両側に秋葉大権現と富士浅間宮と刻まれており、いずれも火を鎮める神様である。

 

 清水町新宿南交差点の少し先に、非常に凝った東海道の案内図を見つけた。

 このようなものを見ると、現在でも東海道を大切にする意識が伝わってくる。

 

 少し進むと玉井寺一里塚・宝池寺一里塚を見つけた。

玉井寺一里塚

宝池寺一里塚

 玉井寺一里塚は慶長9年(1604年)に作られたもので、昔の姿をそのまま残しており、清水町指定文化財に指定されている。宝池寺一里塚は原型が損なわれてしまったため昭和60年(1985年)に復元されたものだが、こちらも清水町指定文化財に指定されている。

 

 秀源寺の山門前に水準点を発見した。

一等水準点第59号

 一等水準点第59号だ。これは平成12年(2000年)に設置された割と新しい水準点である。中心に金属標が置かれ、その周囲に保護石が4つ、「大切にしましょう水準点」の標示杭が立ててある。

3.八幡神社

 水準点の少し先に鳥居を見つけた。

 参道になっているようだが、入ることができない。興味を持ったので、脇道から進んでみることにした。進んだ先には、八幡神社があった。

八幡神社

 八幡神社の創立年代は未詳。祭神は譽田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)である。なんと本殿のドアが自動ドアになっており、近づくと自動ドアが開いたので少し驚いた。本殿のドアが自動になっている神社は初めて見た。

 本殿の裏には対面石がある。

対面石

 この対面石は治承4年(1180年)に源頼朝と弟の源義経がこの石に腰掛け、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたといわれている石である。対面石は、江戸時代に八幡村を支配した旗本久世氏の陣屋にあったといわれ、久世氏は文化8年(1811年)に対面石の顕彰碑を建てている。

4.智方神社

 八幡神社に参拝し、先に進むと臼井国際産業のビルが見えた(松林に隠れてわかりにくいかもしれない)。

臼井国際産業

 臼井国際産業は社員数730名(2020年12月現在)の自動車部品を製造している会社で、この付近では有名な会社である、と同行者の方が教えてくれた。地元では有名なのかもしれないが、私は知らなかった。

 

 臼井国際産業の向かい側には智方神社がある。

智方神社

智方神社は昔、黄瀬川が伊豆と駿河の国境であったため、国境を守る神々が祀られた神社である。祭神に、予母都道守神菊理比咩神(よもつみちもりのかみきくりひめのかみ)がいる。この神様は道や旅人の安全を守っている。

 境内には清水町で最も大きい樹木であるクスノキがある。

 足利方に敗れた護良親王建武2年(1335年)に鎌倉の土牢に幽閉されて殺された。お側に仕えていた南の方は、密かにその御首を持ち帰る途中に黄瀬川の洪水に遭ったためやむなくここに葬った。その目印にクスノキを植えたという。この話通りならこのクスノキは樹齢700年ほどだろうか。

 近くには護良親王の御陵もあり、そっと手を合わせた。

 

 黄瀬川橋を渡り、黄瀬川を越える。

 黄瀬川は富士山の東麓を流れる唯一の川で、上から藍壷、白滝、赤瀬、黒瀬、黄瀬などの地名がついているから五色川ともいう。何の標識もなかったが、ここで清水町は終わり、沼津市に入ったようだ。

5.潮音寺

 黄瀬川を越えてすぐに、八幡神社を見つけた。

八幡神社

 この八幡神社は説明板もなく、インターネットで調べても有力な情報は出てこなかった。

 

 八幡神社から少し進んだところに潮音寺がある。

潮音寺

 潮音寺は弘仁年中に弘法大師が伊豆修善寺に修行に行ったとき、この地を通ったときに聖観世音菩薩を刻み、堂を建てて安置したのが始まりである。ここには亀鶴の伝説がある。

 亀鶴は小野長者の一人娘として生まれ、鶴や亀のように長生きしてほしいという親の願いを一身に受けて育てられたのであるが、富士の巻狩りの折に源頼朝に招かれたのを断って18歳の春、黄瀬川の上流の鮎壷の滝に身を沈めてしまったという。村人は亀鶴山観音寺を建てて彼女を供養した。今は街道に面した潮音寺に祀られ、駿河三十三所観音霊場の第三十三霊場になっている。

亀鶴姫の碑

 

 潮音寺から先に進むと傍示石がある。石には「従是西 沼津領」と刻まれている。

傍示石

 これは沼津領の東端を定義するもので、安永7年(1778年)にこの石が韮山代官所から運ばれ、東海道沿いの黄瀬川村と下石田村の境界に建てられて沼津藩領域が確定した。

 

 ここに沼津市のマンホールがあった。

沼津市マンホール

 沼津市のマンホールは沼津市の花「はまゆう」と千本松原、駿河湾愛鷹山と富士山がデザインされている。清水町のマンホールとの共通項は、富士山がデザインされていることである。流石である。

6.平作地蔵

 県道380号と合流して少し先に進むと「歴史マップ 沼津市大岡」という看板を見つけた。

歴史マップ 沼津市大岡

 ここには13ヶ所の史跡が書かれているが、うち7ヶ所が東海道沿いである。やはり史跡は旧道沿いに残りやすいのだ。

 近くには「→東海道」の石柱もあった。

 

 小さな祠を目印に、旧道に進む。

 少し進むと平作地蔵尊がある。

平作地蔵尊

 平作地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかではないが有名な浄瑠璃「伊賀越道中双六」に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。

 

 平作地蔵尊の少し先に一里塚と玉砥石がある。

一里塚

玉砥石

 この一里塚は江戸から30里の一里塚で、29里の一里塚から計測すると距離が不足しているものの、ここは宿場内であるため東方に寄せて、日枝神社旧参道脇のここに築いたといわれている。正確であるはずの一里塚も政治的配慮によって変更しなくてはならなかったようである。

 玉砥石は、今から1200~1300年前に玉類を磨くために用いられた砥石と伝えられている。柱状の2つの大石にそれぞれ直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたと考えられている。この地は古代の駿河国駿河郡玉造郷の旧地で、狩野川の対岸には『延喜式式内社の玉造神社がある。

7.日枝神社

 一里塚から右手側を見ると日枝神社が見えるので、行ってみよう。

日枝神社

 平安時代末期、関白藤原師通は、神社付近から北東地域一帯に広がっていた大岡荘の領主であった。ところが、嘉保2年(1095年)に源義綱(藤原師通の家来)が比叡山の僧円応法師を殺害する事件、義綱の家来が日吉神社の神人を殺害する事件がおき、神社の恨みを買うことになった。やがて師通は僧侶たちの呪詛により、比叡山の守護神である山王の祟りをうけ、38歳で死去してしまった。そこで師通の母である北政所は、その恨みをやわらげるため、ここに日吉神社を勧請し、それが現在の日枝神社になったという。

 日枝神社の祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、大名牟遅神(おおなむちのかみ)、大歳神(おおとしのかみ)である。境内には天満宮もあり、神牛がいた。

 そしておみくじの番号が選べるおみくじははじめて見た。

 

 県道380号に戻り、西に進む。三園橋交差点から少し進んだところで左側に入る。「旧東海道 川廓通り」と書かれているのが目印だ。

旧東海道 川廓通り

 「川廓」は「川曲輪」とも記し、狩野川に面した城廓に由来して名づけられたものと考えられる。この城廓とは、沼津城のことである。

 沼津城の前身、三枚橋城は武田勝頼が修築したが、慶長19年(1614年)に一度廃城、安永6年(1777年)になって水野氏が三枚橋城跡に沼津城を再建した。明治5年(1872年)に沼津城は廃止、城跡は民間に払い下げられたため城跡は残っていない。

三枚橋城外堀石垣

8.沼津宿を歩く

 沼津駅に繋がる県道159号との交差点に出る。雨が激しくなってきたのとお腹が空いてきたので同行者の方オススメのラーメンを食べることにした。入ったのは「らーめん 銕(くろがね)」。「まったりの鶏」のラーメンを食べた。

 4月の雨でだいぶ冷えていたので、美味しく感じた。

 ラーメン屋で雨の状況を見ながら先に進むか考えたが、先に進むことにした。

 県道159号との交差点まで戻り、南に進む。ここは通横町といい、江戸時代、沼津宿の問屋場が置かれ、人馬継立てでにぎわったところであるようだ。

 通横町の交差点で右折、次の交差点で左折してまた南に進む。屋根があって少しでも雨がしのげるのがありがたい。

 沼津宿の中心街は南北に通っている。東海道の宿場はほとんど東西にできているのに、南北にできているのは静岡県内では沼津宿、岡部宿、浜松宿くらいである。

 中村脇本陣跡の石柱を見つけた。

中村脇本陣

 ここには特に説明板はない。

 

 「東海道ルネッサンス 376km←京都 東京→119km」の板を見つけた。

東海道ルネッサンス

 この東海道ルネッサンス、調べてみたが何も出てこない。平成8年(1996年)に始まったことなので、ホームページが整備されていないのだろうか。余談だが、平成8年(1996年)は私が生まれた年である。

 

 清水本陣跡の石柱も見つけた。

清水本陣跡

 この石柱もこれ以外に説明板はない。現在は空き地になっていた。

清水本陣跡

9.丸子浅間神社

 次の信号で右折し、西に進む。すぐに丸子浅間神社がある。

沼津丸子浅間神社

 ここは「丸子神社」「浅間神社」という一扉二社という稀有な形式で鎮座している。

 丸子神社は「金山彦尊(かなやまひこのかみ)」をお祀りする神社で、剣・鏡・鋤・鍬を鍛える守護神とされ、鉄鋼業の進歩発展に広く恵みを授けた。延喜式神名帳(延長5年(927年)発行)に所載される「式内社」であり、その創建は第10代崇神天皇(紀元前97~30年)の頃と伝えられている。

 浅間神社は「木花開耶姫命(このはなのさくやびめ)」を祀る神社で、縁結び・安産・子育ての守護神として尊崇を受けている。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂が東征凱旋のおり、狩野川の右岸(現沼津市宮町)に浅間神社として奉斎し、建仁3年(1203年)に現在の浅間町遷座した。

 

 丸子浅間神社に参拝し、西に進むと出口町見付外の説明板があった。

出口町見付外

 ここが沼津宿の西端のようだ。そういえば沼津宿の江戸口見付は見なかった気がする。

10.六代松

 しばらく県道163号沿いを進むと、右側に「是ヨリ南一町半 六代松」という案内板を見つけた。少し寄ってみる。

是ヨリ南一町半 六代松

六代松

 六代は小松の三位中将平維盛の息子であり、祖父は重盛、曾祖父は清盛である。平家物語によると、六代は平家一門の滅亡に伴い、源頼朝の家来北条時政によって捕らえられ、鎌倉に護送の途中、千本松原において処刑されそうになった。そのとき、文覚(もんがく)上人の命乞いによって赦免となったが、その後文覚上人の謀叛に連なり、処刑された。従者の斎藤六範房は、六代の首を携え、ゆかりの深い千本松原にやってきて、その首を松の根本に埋め弔った。この松を土地の人は「六代松」と称し、六代御前に関わりを持つ松として親しまれてきたが、松が枯死したので、天保12年(1841年)に沼津藩の典医であった駒留正隆の撰文により、枯れた松の傍らに記念碑が建てられた。

 

 六代松から東海道に戻り、しばらく進むと「旧東海道」と書かれたY字路があるので右側に進む。すると沼津藩領境榜示がある。

沼津藩領境榜示

 安永6年(1777年)水野出羽守忠友は、2万石の大名として10代将軍徳川家治から沼津に城地を賜り、築城を命じられた。翌安永7年(1778年)、韮山代官江川太郎左衛門から城地を引き継ぎ、沼津藩創立とともにこの榜示杭を設置した。これは明治末期頃に折られて下半分が失われているが、完全な形で残っている榜示杭と同時に立てられたものと考えられる。

11.片浜駅まで歩く

 少し進むと八幡宮がある。

八幡宮

 祭神は譽田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)である。そしてこの八幡宮の説明板が非常に長い。

 雨だったので読む気が失せたほど長い。晴れていても最後まで読んだかわからない。

 八幡宮の境内にも水準点がある。

一等水準点第60-1号

 一等水準点第60-1号だ。これも平成12年(2000年)設置、金属標の周囲に4つ保護石があり、「大切にしましょう水準点」の標示杭がある。

 

 少し先に進むと気になる参道を見つけたので行ってみる。

 諏訪神社だ。

諏訪神社

 諏訪神社の祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)で、天正3年(1575年)武田氏家臣の市川和泉守の創立と伝えられている。

 

 少し進むと気になる寺院を見つけたので寄ってみる。吉祥院だ。

吉祥院

 ここは特に説明板もなく、調べても宗派が本門法華宗であること以外情報が出てこなかった。参道が2つに分かれているのが珍しい。

 

 今日は原駅まで歩く予定だったが、現在15時半であること、そして雨が激しく靴の中がびしょびしょであることから、途中の片浜駅で切り上げることにした。

片浜駅

 この後は同行者の方と沼津駅の居酒屋に入り、しばらく談笑してから別れた。また東海道に参加したいと言っており、明後日は空いているとのことで同行者の方は明後日も参加することになった。

 明日は一人で、片浜駅から吉原駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

歩いた日:2022年4月29日

【参考文献・参考サイト】

小杉達(1992)「東海道歴史散歩」静岡新聞社

静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社

いずっぱこでGO! 秋葉神社

https://mishima-life.jp/sunzu/info.asp?id=168

清水町 マンホール

https://rojonomanhole.web.fc2.com/shizuoka/shimizu_town.htm

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

源頼朝義経兄弟の対面石 八幡神社

http://www.inarijinja.com/yahata/

臼井国際産業株式会社 会社概要

http://www.usui.co.jp/jp/profile/companyinfo/index.html

智方神社

http://www.inarijinja.com/kenmu/tikata/index.htm

沼津市 潮音寺(ちょうおんじ)

https://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/toukai/chouonji.htm

沼津市 沼津市のマンホールカード(第1号)について

https://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/sumai/gesui/gaiyo/mhcard1.htm

日枝神社 山王さんについて

https://numazu-hieijinjya.com/sanno.html

丸子神社 浅間神社

http://marukosengen.jp/about.html

沼津市 六代松(ろくだいまつ)の碑

https://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/toukai/rokud.htm

(2022年6月8日最終閲覧)

東海道を歩かない 小田原編

 この前、東海道を歩いたときに小田原城の近くを通ったが行かずに素通りした。

octoberabbit.hatenablog.com

 あの後、改めて小田原城含め小田原城下町を歩いてみたいと思い、小田原に降り立った。今回は小田原歩きの記録となっている。

1.小田原城へ向かう

 今回はここ、小田原駅東口から出発する。そのまま進むと、錦通りが見えてくる。

錦通り

 錦通りを入るところに小田原市エリア ジオサイトの看板がある。

 所要時間4~5時間で小田原駅から小田原城石垣山一夜城などを経由して入生田駅まで歩くルートだが、このなかで小田原城だけ行って一日が終わってしまった。

 

 おしゃれ横丁というおしゃれ(?)な門の先に店があるのを見つけた。

おしゃれ横丁

 ちらりと見える限りではあるが、おしゃれ横丁のなかに居酒屋があるのは不思議に感じる。

 

 「小田原城 正面入口」と書かれたマンホールがあったのでその方向に進む。

 このマンホールはダイヤ街商店会に5つ設置されており、それぞれ北条氏直北条氏政北条氏康北条氏綱北条早雲がデザインされている。

 この5人は小田原城の城主であった北条五代である。調べたところこのキャラクターは北条五代PRキャラクターとしてデザインされたようだが、どことなく鬼滅の刃に似ていると思ったのは気のせいだろうか。

 関係ないがガンダム小田原城のマンホールもあった。

ガンダムマンホール

 栄町一丁目交差点を直進し、小田原城へ向かう。反対側にだるま料理店本店を見つけた。

だるま料理店本店

 だるま料理店は明治26年(1893年)創業の日本料理店で、店の建物は唐破風入母屋造り、国の有形登録文化財にも指定されている。建物は大正12年(1923年)の関東大震災により倒壊、再建されている。天丼セット1700円(税抜)、寿司1200円(税抜)で、高めではあるが出せない金額ではないので次小田原に行ったときは行ってみようと思う。

 

 裁判所の角を右折すると、鐘楼があった。

鐘楼

 この鐘楼は貞享3年(1686年)の記録のなかに登場しており、300年以上前からあったことになる。しかし昭和17年(1942年)の太平洋戦争の金属類供出命令により応召されてしまった。現在の鐘は昭和28年(1953年)に作られたものである。

 鐘楼のあったところに大手門があったようだ。東側の城下より一段高くなっており、この門より西側は小田原城三の丸で、藩の重臣屋敷が立ち並んでいた。

2.小田原城

 学橋を渡って二の丸に入る。

二の丸跡

 二の丸の建物は、「二の丸御屋形」と呼ばれ、藩主の住まいのほか、藩の政治を司る政庁としての役割があった。なお、本丸は徳川将軍家のための御殿があり、小田原城では藩主は本丸に住んでいなかったことになる。

 二の丸の近くに歴史見聞館がある。

歴史見聞館

 これは小田原城廃城後に建てられた小田原第二尋常高等小学校の旧講堂である。現在はNINJA館として使用されており、なかでは忍者体験ができるようだが、成人女性が1人で入るのはためらわれたのでやめておいた。

 

 さらにその近くには銅(あかがね)門の土塀模型と礎石があった。

銅門土塀模型

 銅門の土塀は荒壁、斑直し、大直し、中塗り、砂漆喰を塗り重ねてできているようだ。ずいぶんいろいろ塗り重ねている。

 少し南側には銅門があった。

銅門

 江戸時代に二の丸正門に位置づけられる門で、この門を通り本丸や天守へと進むようになっていた。平成9年(1997年)に古来の工法により復元された。

 銅門の内部が公開されていた。中にはフォトスポットもあった。

銅門内部

 常盤木坂を登り、常盤木門をくぐる。常盤木門は小田原城の本丸正門である。

常盤木門

 門の名前である「常盤木」とは常緑樹のことを指し、戦国時代から本丸に存在した7本の松に由来している。本丸の正面にあたる多門櫓と渡り櫓を配した枡形門で、小田原城の城門のなかではもっとも大きく堅固につくられていたという。明治3年(1870年)、小田原城廃城とともに解体されたが、昭和46年(1971年)に再建された。

 常盤木門をくぐるとなぜかサル山があった。なぜここにサルがいるのかはわからない。

常盤木門のサル山

 常盤木門をくぐると天守閣が見える。

天守

 ここは本丸で、本丸は徳川将軍家の宿所としての役割を持っていた。将軍家の上洛が途絶えた後も維持されていたが、元禄16年(1703年)の地震によって本丸が倒壊・焼失してからは再建されることはなかった。

 天守閣は元禄16年の大地震後の宝暦2年(1705年)に再建され、明治3年(1870年)の廃城・解体まで存在した。現在の天守閣は昭和35年(1960年)に市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造りで復興されたものである。

 510円払って天守閣に入る。

 小田原城は5階建てで、1階は江戸時代の小田原城、2階は戦国時代の小田原城、3階は小田原ゆかりの美術工芸品・発掘調査結果、4階は明治以降の小田原城の展示がある。5階は小田原城天守の再現と展望デッキとなっている。やや曇っていたが、展望デッキからの眺めは良かった。

 ここで小田原城の歴史について説明する。

 小田原城は、箱根山をひかえた関東の西端に位置し、北方から西方にかけては箱根古期外輪山東麓の丘陵が連なり、西南に早川、北東に酒匂・山王の両川、東南は相模湾に面する要害の地、かつ東西交通の要路東海道をおさえる要衝に所在する。

 小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられている。大森氏時代の城は、現在県立小田原高校がたっている東側の八幡山古郭とよばれる丘陵上にあった。小田原の関所や宿町、東海道など交通上の要所をおさえる目的で、これらを直接監視し得る位置に築かれた城砦が始まりと推測される。やがて領域支配の伸展によりその拠点として、さらには内乱が続きいち早く戦国的様相を呈していた関東の軍事的緊張下のもと、拡張と一層の要害化が進み、15世紀末には相模西郡支配の枢要を担う存在となった。

 1500年頃に戦国大名小田原北条氏の居城となってからは、関東支配の中心拠点として拡張整備が行われ、二の丸・三の丸と城地は拡大していった。永禄4年(1561年)に上杉謙信、永禄12年(1569年)には武田信玄が来襲するが退却した。豊臣秀吉の来攻に備えて、天正18年(1590年)三の丸の外側に町全体を囲む総延長9kmの惣構えが完成すると、城の規模は最大に達して日本最大の中世城郭となった。

 豊臣軍は天正18年(1590年)3月29日に山中城を落城、4月5日には秀吉が早雲寺に本陣を構え、同月中旬には小田原城の包囲が完成した。和睦交渉は6月初旬から始まり、6月6日・7日には織田信雄の家臣岡本利世が小田原城内に入り北条氏直と対面し、7月5日に北条氏直は弟の氏房とともに滝川雄利の陣所に投降、7月6日には徳川家康小田原城は接収された。

 江戸時代になると小田原城徳川家康が支配、関東に入国した徳川家康重臣大久保氏が城主となるが、大久保忠隣改易後の慶長19年(1614年)1月に、二の丸・三の丸の城門や櫓などが破壊された。その後寛永9年(1632年)~貞享2年(1685年)の稲葉氏が城主のときに、幕府の手による再建(公儀普請)が行われ、石垣積みの近世城郭としてうまれかわった。貞享3年(1686年)に再び大久保氏が城主になってからは、いくたびかの災害に見舞われながらもその都度再建が行われ、明治維新後の明治3年(1870年)に廃城、ほとんどの建物は解体されたが、昭和35年(1960年)に天守閣が再建されたのをはじめ、その後順次再建されていき、現在に至る。

 

 現在13時半で、少しお腹が空いてきたので本丸茶屋で北條うどんを食べた。

北條うどん

 小田原特産のかまぼこと梅干が入っている。私は甘い梅干のほうが好きなので、しょっぱくてすっぱいこの梅干はなかなかパンチがあるように感じた。梅干が入ったうどんは斬新だと感じたが、美味しかった。

3.小田原城址公園

 小田原城内にはこども遊園地がある。豆汽車、バッテリーカー、自動遊器具がある。なお、豆汽車以外は大人が遊ぶことはできない。そして豆汽車はコロナ対策で走っていなかったので、結局遊具を見て回るくらいしか大人はすることがない。

 それでもこのような小さな遊園地は好きなので、写真を撮って回るだけでも楽しかった。

 

 報徳二宮神社に向かう前に、小田原城小峯曲輪北堀があった。

小田原城小峯曲輪北堀

 この空堀は小峯曲輪を囲む堀の北側の部分で、石垣を用いない土塁と空堀だけの戦国時代の城の原形を留めている貴重な遺構である。

 

 こども遊園地の南隣に報徳二宮神社がある。

報徳二宮神社

 報徳二宮神社二宮尊徳を祀る神社である。二宮尊徳は報徳社を設立して農村の救済・教化運動を行っていたが、二宮尊徳の死後も報徳社は存続し、報徳社員が明治27年(1894年)に報徳二宮神社を創建した。

 境内には二宮尊徳こと二宮金次郎像もある。

二宮金次郎

 この像は当時のメートル法普及の意図を反映してちょうど1mの高さに作られている。

 

 報徳二宮神社を出て、小田原市郷土文化館に向かう途中に見事な藤棚があった。これは御感の藤と言われるものである。

御感の藤

 大正天皇が皇太子のとき、ここを通りかかったときに馬が藤棚の中に入ってしまったため殿下の肩に花が散ってしまった。周囲の人が恐縮するなか、殿下は「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたため、「御感の藤」と呼ばれるようになった。

 

 小峯橋を渡って小田原城内に戻る。

小峯橋

 小峯橋は御茶壷橋という名でも親しまれている。この名前は江戸時代に宇治から将軍家にお茶を献上する際の御茶壷道中と呼ばれる行列に由来している。

 

 小峯橋から少し北へ行くと小田原市郷土文化館がある。

小田原市郷土文化館

 小田原市郷土文化館では奈良時代から江戸時代までの資料が展示してある歴史資料室、明治以降の資料が展示してある文化人資料室、縄文~古墳時代の土器等が展示してある考古資料室、農具などが展示してある民俗資料室、小田原の動植物が展示してある自然科学資料室がある。そしてこれらの展示がすべて無料で見ることができる。展示内容が充実していたので、2時間も展示を見てしまった。天守閣には結構人がいたのに、ここにはほとんど人がいない、穴場スポットだ。展示が気に入ったら常設展示ガイド「小田原の歴史と民俗」を購入するのがおすすめだ。

 

 銅門をくぐり、馬屋曲輪に出る。

馬屋曲輪

 馬屋曲輪はL字形を呈する独立した曲輪である。この曲輪は三の丸より東側は馬出門、南側は南門を経て御茶壷曲輪から二の丸表玄関である銅門へと至る重要な位置にある。

 

 馬出門をくぐって小田原城を出る。

馬出門

 馬出門は三の丸から二の丸に向かう大手筋に位置する門である。寛文12年(1672年)に枡形形式に改修され、江戸時代末期まで存続した。石垣と土塀で四角く囲んだ枡形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門、内冠木門の2つの門から成る。

 

 お堀端通りを南進して、御幸の浜交差点で右折して東海道を歩く。「東海道を歩かない」だが、ここだけ東海道を歩く。

 

 前回ういろうを買いそびれた「ういろう」の店でういろうを買う。

 切って食べるものなのですぐここで食べることはできなかったが、持って帰って家で食べたら甘くて美味しかった。

 

 早川口交差点で右折して小田原駅方面まで歩く。東海道から小田原駅までは結構距離がある。これが「東海道を歩く」で小田原駅終了とせず、箱根板橋駅終了とした理由である。

 

 そのまま歩き続けると小田原駅東口に到着する。

 これで小田原まちあるきは終了である。もし、また行く機会があれば石垣山一夜城などにも行ってみたい。

 

【おまけ】

 歩き終わった後に温泉に入りたくなった。そこで寄ったのが小田急小田原線沿線にある鶴巻温泉である。

 鶴巻温泉・弘法の里湯はpH8.5のカルシウム・ナトリウム塩化物泉で、神経痛、筋肉痛、きりきず、冷え性うつ状態、皮膚乾燥症などに効能がある。温泉で疲労を回復してから、帰路についた。

今回の地図

今回の地図 小田原城周辺

歩いた日:2022年4月17日

【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川県の歴史散歩」 山川出版社

小田原市郷土文化館(2021)「小田原市郷土文化館 常設展示ガイド 小田原の歴史と民俗」

小田原市 北条五代PRキャラクター活躍中!!

https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/ki-20150144.html

だるま料理店

https://darumanet.com/

小田原城

https://odawaracastle.com/

報徳二宮神社 神社について

https://www.ninomiya.or.jp/info/

秦野市 弘法の里湯

https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1001000001157/index.html

東海道を歩く 10.箱根神社入口バス停~三島広小路駅

 前回は箱根板橋駅から箱根神社入口バス停まで歩いた。今回は箱根神社入口バス停から三島広小路駅まで歩く。箱根峠までは少し登り、あとは下り坂だ。しかし距離が長く、10時に箱根神社入口バス停に到着してから三島広小路駅に到着したのが18時となった。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.賽の河原

 箱根神社入口バス停から出発する。

 ここで、昨日ルートを間違えていたことに気づく。そこで確実にルート上であるケンペル・バーニー碑まで戻る。

 ここから車道に出るのが正解だったようだ。

 

 箱根神社の鳥居や箱根海賊船乗り場が見える。

 箱根神社に寄ったり、箱根海賊船に乗ったりしたいものだが、そのようなことをしていたら確実に三島広小路駅まで行けなくなるので今回はスルーする。

 

 目の前に多数の石碑が見える。賽の河原だ。

賽の河原

 ここは地蔵信仰の霊地として、江戸時代東海道を旅する人々の信仰を集めていた場所である。かつて箱根の山は東国と西国を分ける境の山、いわば地の果て、境界とされていた。噴煙を上げ、霧が立ち込める箱根はこの世の果てを思わせる荒涼とした光景であったことから、そこには死者が集まる賽の河原があると信じられ、死者たちを救うといわれた地蔵菩薩を祀っていたものと思われる。

 江戸時代はなんと3ヶ所も賽の河原があったらしい。1つはここ芦ノ湖畔、そのほか精進池畔の賽の河原(ここは元賽の河原と呼ばれていたらしい)、山伏たちの修験の場であった姥子の地獄沢も賽の河原と呼ばれていた。

 しかし明治時代に入ると廃仏毀釈から多くの石仏が失われ、観光開発で規模が縮小した。それでも残った石仏、石塔の一部は鎌倉時代後期に作られたもので、大変貴重なものである。

 江戸時代は東海道を旅する人々の信仰を集めていたとはいえ、現在箱根に来ている人のほとんどはこの賽の河原に気がついていないようだった。

 

 賽の河原の近くに身替わり地蔵がある。

身替わり地蔵

 宇治川の先陣争いで名高い梶原景季がここを通りかかったとき、父景時に恨みを持つ何者かに父と間違えて斬りつけられた。そのとき傍らにあった石地蔵が身替わりになって危機を免れることができたので、景季の身替わり地蔵と呼ばれるようになった。この地蔵には右肩から胸にかけて大きな割れ目が走っているそうだが、赤い布に隠れて見えない。

 

 ここで芦ノ湖を見る。

芦ノ湖

 芦ノ湖は約3100年前に誕生したと考えられる。神山の水蒸気爆発により神山北西部が大きく崩れ、その土砂が川をせきとめてしまったため形成された。晴れた日はここから富士山が見えるようだが、残念ながら見えなかった。

2.箱根関所

 ここに一里塚跡がある。

葭原久保の一里塚

 ここは江戸から24里目の一里塚で、葭原久保の一里塚とされている。今は碑が立つのみである。

 

 一里塚の少し先から杉並木があるので、そこを通っていく。

 昭和59年(1984年)の調査によると、杉の樹齢は最大で377年のようなので、東海道ができた初めの頃に植えられたことになる。杉並木は、夏は緑陰、冬は防雪になり、街道の維持に欠かすことができない。最近は国道1号を通る自動車の排気ガスで杉が弱っており、文化財保護上大きな問題となっている。

 ここは平坦な杉並木なので歩きやすい。

 

 恩賜箱根公園の南側に、箱根関所がある。

箱根関所

 箱根関所は東海道を監視するために設置された関所である。箱根の関所は東海道に沿って東西にトチ葺きの江戸口御門、上方口御門で仕切られ、門の中の芦ノ湖寄りには手形などをあらためる大番所、山寄りには足軽番所があった。門の外にはそれぞれ「千人溜り」と呼ばれる広場があって、旅人はここで調べの順番を待った。旅人が関所を通るにはさまざまな検査が行われ、特に江戸から関西方面に向かう「出女」の場合は厳しい検査が行われた。関所の管理は小田原藩にまかされていて、役人として番頭1人、横目付1人、月交代の定番5人、兵5人、足軽25人が配置され、関門の開閉は明け6つ(午前6時)と暮れ6つ(午後6時)に行われた。これは朝夕とも人の顔の見分けがつく刻限となっている。

 箱根関所と箱根関所資料館で一般500円である。チケットは箱根関所資料館で購入する。

箱根関所資料館

 箱根関所資料館の館内は撮影禁止のため写真はないが、充実した展示内容だった。

 箱根関所内には関所の様子が人形を用いて説明されている。

 この部屋では番士と定番人が通行改めを行っている。

 

 また、この部屋では人見女が女性の旅人の取り調べを行っている。

 

 遠見番所は本来見張り施設であるが、現在はビュースポットになっている。

3.箱根駅伝ミュージアム

 箱根関所を通り過ぎてしばらくすると、右手側に箱根駅伝ミュージアムがある。

箱根駅伝ミュージアム

 箱根駅伝とは東京の読売新聞社前から箱根の芦ノ湖の間約108kmを5区、往復10区に分けて競う駅伝競走で、1/2~1/3に行われるためお正月の風物詩となっている。私は箱根駅伝常連校である駒澤大学の卒業生であるため、見に行くことにした。館内では箱根駅伝の歴史が年度別に説明されているほか、箱根駅伝グッズも売られており、私は駒澤大学のタオルを購入した。

4.箱根峠

 ここで国道1号線を離れる。足元にある表示が目印だ。

 すぐそこに、駒形神社がある。

駒形神社

 駒形神社駒形大神が祀られており、駒形大神とは天御中主大神(あめのみなかぬしのかみ)、 素戔鳴尊(すさのおのみこと) 、大山衹神(おおやまづみのかみ)の3柱のことである。

 また、境内には犬塚明神もある。

犬塚明神の説明板

 犬塚明神には次のような話が伝わっている。元和4年(1618年)、箱根宿が創設されたとき、付近にはたくさんの狼がいて建設中の宿の人々を悩ませていた。このため唐犬2匹を飼って狼を退治させ宿場を完成させたが、唐犬も傷ついて死んでしまった。そこで人々はここに埋めて犬塚明神と崇め祀った。

 

 東海道の石畳に入る前に、芦川の石仏群がある。

芦川の石仏群

 もとは芦川集落内の駒形神社境内にあった石仏群を移したものとされている。ここには万治元年(1658年)の庚申塔をはじめ、江戸時代後期に建てられた多くの巡礼供養塔などがある。

 

 また石畳を登っていく。

 途中に赤石坂、釜石坂、挟石坂の説明板があるが、坂の由来は書いていない。この歩きにくい石畳の上り坂もあと少しと思えば、頑張れるものである。

 

 国道1号に合流し、しばらく登っていくと、静岡県カントリーサインが見えてくる。

 標高846m、箱根峠。ここが神奈川県と静岡県の県境である。国道建設以前には相模・伊豆両国の国境を示す標示杭が立っていたそうだが、現在は見当たらない。やっと静岡県に入ることができたと、喜びの感情が湧き上がってきた。だが喜ぶのはまだ早い。坂を下りて、三島広小路駅に到着するのがゴールだ。

5.静岡県に入る

 そのまま国道1号を進み、箱根エコパーキングに入ると峠の地蔵がある。

峠の地蔵

 ここは平成15年(2003年)に8人の女性による揮毫を得て、石碑を設置した。揮毫を得た女性のなかには、「おしん」の橋田寿賀子黒柳徹子などもいる。

 

 「静岡県へようこそ」という歓迎の掲示板を見た少し先に、「箱根旧街道通行止めのお知らせ」と書かれた掲示板を見つけた。歓迎されているのかいないのかわからない。

静岡県へようこそ

 通行止めでがっかりする反面、アスファルトの歩きやすい道を進めると思った自分がいた。

 アスファルトの道は見どころが何もないが、歩きやすい。

 そして、通行止めの出口と思われる場所を見つけた。

 やはり、こちらからも入れないようだ。

 足元にまた箱根旧街道の表示を見つけたらまた舗装されていない道に入る。

 ここには接待茶屋があったらしい。

接待茶屋

 文政7年(1824年)、江戸呉服町の加勢屋興兵衛が私財を投じて無料で粥や焚火、飼葉を提供する「人馬施行小屋」と呼ばれる接待所を開設した。道に迷ったり、上り下りに疲れたりした往来の旅人たちは、ここでのもてなしに励まされて元気を回復して旅立っていったそうだ。昭和45年(1970年)に茶釜を降ろした。意外と最近まで茶屋があったことになる。

 

 旧街道に入るとすぐにかぶと石がある。

かぶと石

 これは兜を伏せたような形をしているからかぶと石と呼ばれているとも、豊臣秀吉が休息した際に兜をこの石の上に置いたからかぶと石と呼ばれているとも、源頼朝がこの坂を上ったときにあまりの急坂に降参して兜を脱いだからとも言われている。昭和初めに国道1号線から移設された。

 

 明治天皇御小休趾を見つけた。

明治天皇御小休趾

 明治元年(1868年)10月8日、明治天皇御東幸の折、ここで休まれ、山越しに望む富士山と眼下の駿河湾の景観を賞覧されたという。当時、ここには「ビンカ」という甘酒茶屋があったという。ビンカはここの方言でイヌツゲのことを指し、茶屋の脇に大きなビンカの木があったことからその名がついたという。

 

 少し進むと今度は下りの石畳が見えてきた。

 登りの石畳よりは歩きやすいが、山の中で誰もいないので少し怖い。

 

 念仏石を見つけた。

念仏石

 この念仏石の前に、「南無阿弥陀仏 宗閑寺」と刻んだ碑がある。この碑は宗閑寺が旅の行き倒れを供養して建てたものとみられ、そのためこの碑を念仏石という人もいるらしい。いずれにしろ箱根の山越えで多くの人が病や疲労で非業の最期を迎えたことを示すもののひとつといえる。

 

 箱根旧街道案内図を見つける。

箱根旧街道案内図

 行きたいと思っている山中城跡まで1.3km、平地ではなく山道なので遠く感じる。

6.願合寺地区

 国道1号に合流し、また少し進むと階段が現れるので階段を降りる。

 そこに函南町三島市カントリーサインがある。

 割と函南町はすぐ終わってしまった印象だった。

 

 ここ、願合寺地区に石畳が敷かれたのは延宝8年(1680年)だが、平成7年度(1995年)に石畳の活用を図る目的で復元・整備した。平成7年度(1995年)に発掘調査も行われ、そこで発見された一本杉石橋は保存状態が良好のためその場所に整備・復元された。

 

 石畳を出るところに雲助徳利の墓がある。

雲助徳利の墓

 この墓に葬られている松谷久四郎は西国大名の剣道指南役だったものの大酒飲みで事件を起こし国外追放、箱根で雲助となった。そこで雲助をいじめる武士から雲助を守ったり、文字が読めない雲助のかわりに手紙の読み書きをしたりするうちに雲助たちから親分のように慕われるようになった。結局酒が原因で亡くなった。酒を愛し、酒を楽しみ、酒のなかで一生を終えた久四郎のために彼を慕う雲助や百姓たちが彼にふさわしい徳利と盃を刻み込んだこの墓を建てて感謝の気持ちを表したという。酒飲みの墓なので、時たま場所が変わることがあるらしい。

 

 ここで国道1号に合流する。反対側には山中城跡があるので、寄ってみる。

7.山中城

 山中城跡は小田原に本城のあった北条氏が永禄年間(1558年~1570年)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。箱根山西麓の標高580mに位置する自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国時代末期の天正18年(1590年)3月、守将松田康長と約4,000の北条軍は、羽柴秀吉を総大将とする豊臣軍40,000の総攻撃を受け必死に防戦に努めたものの、圧倒的な兵力の前に僅か半日で落城したと伝えられる。遺跡の保存状態は良好であり、説明板も設置されて、史跡公園として整備されている。

山中城跡・障子堀

 山中城跡で特徴的なのが障子堀で、上から見ると空堀のなかに衝立障子のような堀残しがあることからそう名付けられた。これらは水のない空堀に畝を残し、敵兵をさえぎる北条流築城術の特徴をよく示すものである。

 また、山中城内は結構広く、一周歩き回るのに30分もかかってしまった。城域は約25万㎡におよぶ。

 

 山中城跡の近くに宗閑寺がある。

宗閑寺

 宗閑寺は浄土宗の寺院で、山中城廃城後の慶長10年(1605年)または元和6年(1620年)に徳川家康の愛妾於久の方によって建立されたといわれている。於久の方は、岱崎出丸で討死した小田原方の副将間宮豊前守康俊の娘で、敵ながらあっぱれな死にざまに共感を覚えた徳川家康が、その娘を駿府に招き側室にしたという。境内には豊前守康俊兄弟と山中城主松田右兵衛太夫箕輪城主多米出羽守平長定と豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末の墓碑が並んでいる。北条軍と豊臣軍は敵対していたはずだが、隣に並んでいるのはどういうことか。

宗閑寺墓地

 道を進むと、山中城跡案内所、売店がある。そこで御城院をもらい、寒ざらし団子を食べた。

ざらし団子

 上新粉を冬の寒い時期に、干した米を粉にして作ったことから寒ざらしという名前がついたそうだ。団子は素朴な味で、お腹が満たされた。

8.石畳を降りる

 山中城跡案内所の裏にまた石畳が続いている。

 ここ、腰巻地区は平成6年度(1994年)に復元されたようだ。発掘調査の結果、石畳はローム層の土の上にこの付近で採石したと思われる安山岩を敷き並べていたことが判明した。

 

 菊池千本槍の碑を見つけた。

菊池千本槍の碑

 建武2年(1335年)この付近であった水呑峠の合戦で、後醍醐天皇の命を受けた先鋒菊池肥後守武重の一千余の兵は、槍の原型となる竹竿の先に短刀を括り付けた武器で足利勢に大勝利した。九州へ帰国したのち武重は刀工延壽に槍を作らせ、後にこれが菊池千本槍と呼ばれたそうだ。

 

 国道1号を通りまた石畳を降りる。

 ここ浅間平地区は平成8年度(1996年)に復元・整備された。石畳が残っている部分はそのままの状態で保存し、石畳が残っていなかった場所は下部基礎を設けた後、安山岩を敷設したそうだ。箱根の石畳よりも平坦な部分が多く、少しだけだが歩きやすい気がした。

下部基礎がある石畳

 右手側に車がたくさん駐車されている。ここは三島スカイウォークだ。

三島スカイウォーク

 平成27年(2015年)に営業開始した日本で一番長い吊り橋である。少し興味はあるが、先を急ぐ。

 

 笹原一里塚を過ぎるとアスファルトの道となる。しかしここはアスファルトが急だ。

こわめし坂

 ここは「こわめし坂」といい、急勾配で背負った米も人の汗や蒸気で蒸されて、強飯(こわめし)のようになるためこの名がついた。

 

 こわめし坂を過ぎると松雲寺がある。

松雲寺

 松雲寺は日蓮宗の寺院で、尾張紀伊両大納言をはじめ、東海道を往還する参勤交代の大名たちの休息所となり、朝鮮通信使や徳川14代将軍家茂、15代将軍慶喜公などの寺本陣となった寺院である。また、明治天皇も「三ツ谷新田御小休所」として使用したという。

明治天皇史蹟

 三島宿の案内板のあるところを右に入る。

 また案内板のあるところを右折すると題目坂を下ることになる。

題目坂

 題目坂は玉坂妙法華寺への道程を示す題目石から名づけられたと言われる。題目石は坂を下りたところにある法善寺に移されている。

 

 少し進むと六地蔵を見つけた。どう見ても13人いるように見える。

六地蔵

 六地蔵に13人お地蔵さんがいたことを友人に話したら、「鎌倉殿の13人と関係があるのでは?」と言われたが、多分ないと思う(言ったほうも冗談として言ったのだろう)。

 

 また少し細い道に入り、少し先に進むと石畳が待っていた。

臼転坂

 ここは臼転坂で、牛がこの道で転がったとか、臼を転がしたため、この名がついたと言われている。

 

 臼転坂を過ぎると左手側に普門庵があった。

普門庵

 普門庵は鉄牛和尚が聖観音像を背負って相模国から京都に向かった際、ここで像が重くなり歩けなくなったことから「観音様がここに留まりたいとお望みだ」と思い、ここに堂を建立したのが始まりである。そういえばよく似た話を境木地蔵尊でも聞いた気がする。境木地蔵尊について詳細はこちら。

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 三島塚原IC交差点の少し前で、国道1号に合流する。合流点に「箱根路」と書かれた石碑があり、「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」という馬子唄が書かれている。

箱根路

 伊豆縦貫自動車道を陸橋で越えると、歩道に石畳が現れた。

 江戸時代に敷かれた石畳よりは歩きやすいが、歩き疲れた足をひきずる身からしたら「もうやめてくれ」と少し思った。ここは平成2年(1990年)に遊歩道として石畳が整備されたようだ。

 

 石畳を歩いていくと立派な一里塚が現れた。錦田一里塚だ。

錦田一里塚

 錦田一里塚は日本橋から28里(約112km)の地点にあり、一対の一里塚が旧態を保って残っているので国指定史跡になっている。立派な一里塚である。

 

 石畳と松並木がしばらく続く。

 源頼朝が箱根権現に参詣の折、この原で鶯の初音を賞美したことからその名がついたとされる「初音が原」から三島宿に向けての約1kmには、約450本の松並木が残っていて、一里塚とともに江戸時代の様子を偲ばせてくれる。花粉症にとっては杉より松のほうがありがたい。

 

 五本松交差点で右に進み、石畳に入る。ここは愛宕坂だ。

愛宕

 江戸時代には愛宕社ほかの社寺があったが、現在は「愛宕山」と刻んだ碑だけが残っている。なお、ここが最後の石畳である。長い石畳の道が終わった。

 

 東海道本線の踏切のところに「日本遺産「箱根八里」」と「箱根旧街道入口」の看板がある。

 ここで日本遺産の「箱根八里」は終わり、ということだろうか。もう三島宿にだいぶ近い。長い峠越えだった。

9.三嶋大社

 新町橋を渡る。

 新町橋は、このあたりが新町と呼ばれていたことから名づけられた大場川に架かる橋で、江戸時代には東海道五十三次の三島宿の出入り口として多くの旅人がこの橋を渡っていた。長さは19間(34.6m)、幅3間(5.5m)の欄干を持つ板橋だったという。

 

 しばらく県道22号沿いを進むと、右手側に三嶋大社の大鳥居が見える。三嶋大社に参拝する。

三嶋大社

 三嶋大社伊豆国一宮で、祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)の2柱である。創建時は定かではないが、古くからこの地にあって三嶋大明神と称し、富士火山帯の根本の神、伊豆の国魂の神、国土開発の神として信仰されてきた。

 源頼朝が挙兵に際して源氏再興を祈願したことは有名で、境内には頼朝、政子の腰掛石、安達藤九郎盛長警護の跡などがある。さらに鎌倉時代には源実朝から惟康親王までの歴代将軍が参詣し、南北朝時代には足利尊氏らが戦勝祈願した。戦国時代には今川氏や北条氏との関係が強かった。江戸時代には、東海道に面し下田街道との分岐点に位置していたことから街道を行く多くの旅人たちも参詣に立ち寄り、三嶋大社の名は広く世間に広まった。

 御朱印をいただこうと思ったが、到着したのは17時半、社務所はもう閉まっていた。

 

 三島市のマンホールを見つけた。

三島市のマンホール

 このマンホールには市の花、三島桜がデザインされている。三島桜はソメイヨシノの起源を知る実験上で生まれた桜で、三島市の新庁舎が完成したときに生まれたのでその名がついたそうだ。

 

 進行方向左側に小さな川を見つけた。御殿川だ。

御殿川

 御殿川の名は3代将軍徳川家光が宿泊するために造ったという御殿の東側を流れていたことに由来している。御殿川は白滝公園付近の水門で桜川から分流するが水量が多いため「どんどん」と呼ばれているそうだ。

 

 三島宿は宿場を示す案内板は少ないが、世古本陣跡と樋口本陣跡の案内板を見つけた。

世古本陣跡

樋口本陣跡

 三嶋大社には樋口本陣の茶室「不二亭」も移築されているようだが、気がつかなかった。

 

 また小川を見つけた。四ノ宮川と言うらしい。

四ノ宮川

 古代より小浜池の宮島に伊豆四宮広瀬神社が祀られており、ここを源流としていたためこの名がついたようだ。昔は中郷の耕地を潤していたが、広瀬橋から南に水路が開かれて水流が減少してしまったそうだ。

 

 三島広小路駅前に蓮馨寺がある。(蓮馨寺は川越にもあったような…)

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蓮馨寺

 「芭蕉老翁墓」があり、松尾芭蕉が眠っているのか?と思いきや実際の松尾芭蕉の墓は滋賀県大津市の義仲寺にある。ではこれは何なのか…?

芭蕉老翁墓

 蓮馨寺の道路の反対側に三石神社と時の鐘がある。元御殿川の川辺に三ツ石と称する巨石があり、その上に社殿を建て稲荷の神を祀ったのが三石神社の始まりである。

三石神社

 三石神社の境内には時の鐘がある。

時の鐘

 寛永年間に初めて作られ、宝暦11年(1761年)に新たに大鐘が鋳られ三石神社境内に建設された。戦時中は太平洋戦争に供出されたが、戦後の昭和25年(1950年)に「平和の鐘」として復興した。大晦日には除夜の鐘に使われるそうだ。

 

 うなぎの良い匂いがする。そういえば三島の名物はうなぎだった。富士山からの綺麗な水が湧き出る三島のうなぎは臭みがなく江戸時代から人気だったそうだ。一瞬そそられたが、値段を見てやめた。

 

 現在18時。やっと三島広小路駅に到着した。

 このJALのロゴは平成14年(2002年)から平成23年(2011年)に使われたもので、ラックに書かれているロゴのJASは平成16年(2004年)にブランドが消滅している。つまりこのラックは平成14年(2002年)から平成16年(2004年)に設置されたものということになる。

 

 三島広小路駅から1駅で三島駅に到着する。三島駅からなら頑張れば在来線で帰ることができるが、頑張れなかったので新幹線課金。夕飯は三島駅で買った伊豆山海おぼろ寿司と、伊豆の国ビール。

 静岡県まで歩いてこられた歓喜が胸の中に沸き上がってきたので、ビールで流し込んだ。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2022年3月21日

 

【参考文献・参考サイト】

静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」 山川出版社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川県の歴史散歩」 山川出版社

風人社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」

風人社(2013)「ホントに歩く東海道 第4集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社

大石学(2021)「地形がわかる東海道五十三次朝日新聞出版

箱根全山 芦ノ湖

https://www.hakone.or.jp/6317

よみがえった箱根関所 箱根関所のこと

https://www.hakonesekisyo.jp/db/data_inc/inc_frame/fr_data_01_02.html

駒形神社

http://komagata-jinja.jp/

三島市観光Web 山中城跡公園

https://www.mishima-kankou.com/spot/282/

攻城団 寒ざらし団子

https://kojodan.jp/castle/64/memo/1783.html

人力 菊池千本槍の碑

https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/hakone_mishima/kikuchisenbonyarinohi.html

静岡・浜松・伊豆情報局 【マンホールで知る町自慢】三島市

https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/izu/mishima-city/manhole-9/

静岡新聞SBS 三石神社

https://www.at-s.com/facilities/article/view/place/137280.html

(2022年5月20日最終閲覧)

うさぎの気まぐれまちあるき 都内のちょっと変わったお地蔵さん巡りツアー

 2022年4月3日は「地図ラーの会」のイベント、「都内のちょっと変わったお地蔵さん巡りツアー」に参加した。変わったお地蔵さんといえば東海道を歩く 7.藤沢本町駅平塚駅 に登場した「おしゃれ地蔵」を連想するが、都内にも変わったお地蔵さんがいろいろあるらしい。信仰の奥深い世界に、今回はご招待する。

↓おしゃれ地蔵についてはこちらを参照

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1.犬塩地蔵

 錦糸町駅を出て、錦糸公園に向かう。

 大正12年(1923年)に発生した関東大震災後の帝都復興事業で整備された公園のひとつが錦糸公園である。以前は旧陸軍の糧秣廠(りょうまつしょう)倉庫敷地だったが、約3年の工事期間を経て昭和3年(1932年)7月に錦糸公園が開園された。

 開園以来第二次世界大戦の被災やその後の改変によって開園当時のものはほとんど残っていないものの、この門柱は奇跡的に残ったようだ。

 

 錦糸公園を出たら亀戸天神社に向かう。

亀戸天神社

 祭神は天満大神(菅原道真)と天菩日命(菅原家の祖神)である。正保3年(1646年)創建、古くは「亀戸宰府天満宮」と称されていたが昭和11年(1936年)に亀戸天神社と正称した。この神社の名称としてはほかにも、亀戸天満宮、本所宰府天満宮、東太宰府天満宮、本所宰府天神、亀戸神社などと称されているが、それらの名称はあまり人々には知られていない。また、天神様につきものの梅はもちろん、亀戸天神社では藤の花が江戸時代から名物である。

 

 亀戸天神社の境内に犬塩地蔵がある。

犬塩地蔵

 犬塩地蔵は犬の形をしたお地蔵さんに塩がかけられている。一説によると、台風などで風が強いとき、商人たちが隅田川から堅川に舟をつないで風待ちをし、その際暇を持て余すので亀戸天神に詣でたついでに犬地蔵に塩をお供えしたらしい。ただ、確証のない話なので亀戸天神社の「境内のご案内」には犬塩地蔵は紹介されていない。

2.カンカン地蔵・リストラ地蔵

 亀戸天神社を出たら浅草寺に向かう。途中に「東京帝国大学柳島セツルメント跡」があった。

東京帝国大学柳島セツルメント跡

 東京帝国大学セツルメントは大正12年(1923年)に設立され、成人教育や市民図書などの事業を行っていた。当時は小学校を卒業するとすぐ働きに出るのが通例で、そうした人々を対象に生活面の援助をしながら自立した市民としての知識を得させようという考え方はほかの慈善事業とは一線を画していた。国家総動員法が成立した昭和13年(1938年)、東京帝国大学セツルメントは解散した。

 

 このあたりはスカイツリーが近く、スカイツリーと記念撮影ができる「Reflect scape」というモニュメントがある。

Reflect scape

 説明板には「「東京スカイツリーを見るということは、東京スカイツリーの方向を見上げること」そんなお決まりのスタイルを変えてみよう」と書かれている。

 

 小さな石碑を見つける。「御巡幸記念」と刻まれている。

御巡幸記念

 天皇陛下が巡幸したときにでも建てられたのだろうか。形状的に道路元標かと思ってしまった。

道路元標の例(宮崎市道路元標)

 ビールの泡を乗せた(違うものに見えがちだが気のせい)、アサヒビール本社の北側には吾妻橋があり、そこにあづま地蔵尊がある。

ビールの泡…らしいよ?

あづま地蔵尊

 普通のお地蔵さんだが、関東大震災の犠牲者を供養するために建てられた。

 

 ここで結婚式の行列を見かけた。「うちの娘は結婚式が大好きで、また結婚式やりたいって言うのよ」という年配の参加者の方と、「まだ結婚式は先ですね」という私が会話する。世代を超えた交流ができるのもイベントの魅力である。

 

 すみだリバーウォークの北詰に山の宿の渡しの碑がある。

山の宿の渡し

 昔は隅田川に橋が架けられず、対岸に渡りたければ渡船に乗る必要があったらしい。渡しの名前はこの付近の町名、「山ノ宿町」からとられたようだ。

 

浅草寺

 浅草寺推古天皇36年(628年)に創建された。この年の3月18日、漁師の檜前浜成(ひのくまはまなり)、檜前武成(ひのくまたけなり)兄弟が宮戸川(隅田川の古称)で投網をしていると、金の観世音菩薩像が網にかかり、兄弟の主人土師真中知(はじのまひとなかとも)と相談し、中知邸にその仏像を奉安したのが始まりである。この3人は浅草寺本尊拾得の功で神にまつられ、浅草寺の祭神「三神様」となった。江戸時代の浅草寺は、浅草の観音様の名で親しまれ、江戸庶民の信仰を集め、参詣人でにぎわった。明治4年(1871年)、浅草寺境内地は新政府に没収され、同6年(1873年)、太政官布達にもとづき、その一部が公園地に指定された。

 浅草寺の境内にはいろいろなものがあるが、そのなかのひとつがカンカン地蔵である。

カンカン地蔵

 このお地蔵さんは原型をほとんど残していない。それは、お参りする人が小石でお地蔵さんを叩いたため、このようになったという。そのとき「カンカン」という音が鳴るので「カンカン地蔵」と呼ばれるようになったそうだ。

 

 ここで昼食休憩となった。私は境内のたこやき屋でたこやきを買って食べた。

 できたてだったので少し熱かったが、美味しかった。

 

 浅草寺の裏、伝法院に入る。鼠小僧が天井にいる「龍巳」の向かい側が入口だ。

鼠小僧発見!

 伝法院は浅草寺の本坊であり、大玄関などの建築と、江戸時代初期の庭園からなる一画である。

 元来は浅草寺住職の坊号で、元禄元年(1688年)に住職となった宣存僧正がはじめて伝法院を号した。庭園は国の名勝に、建物の一部が国の重要文化財に指定されたが、一般公開はされておらず、不定期で特別公開をやっている。庭園は寛永年間に小堀遠州が造ったと伝わり、大きな池を巡る池泉回遊式の庭園である。

 伝法院の一画に、加頭地蔵尊がある。

加頭地蔵尊

 加頭地蔵尊は破損した頭部をつないであるためこの名がついた。首がつながるとの俗信からサラリーマンらの信奉もある。これが「リストラ地蔵」だ。少し前に会社を辞めさせられた友人が「もう少し早くにお参りしていればよかったかな」とつぶやいたのが聞こえた。

3.たこ八郎地蔵

 たこ八郎地蔵がある法昌寺に向かう。新仲見世通りのアーケードを通る。

仲見世通り

 新仲見世通りは他の商店街と比べて新しく、昭和5年(1934年)に浅草松屋が開店し、そこから店舗が増え、商店街になった。今のアーケードが完成したのは平成23年(2011年)、結構新しいアーケードである。

 

 東本願寺の境内を通る。

東本願寺

 東本願寺天正19年(1591年)に徳川家康から現在の千代田区神田淡路町内に土地を給され、京都東本願寺の始祖教如上人が堂宇を建立し、江戸御坊光瑞寺と号したのが始まりである。現在地に移ったのは明暦3年(1657年)の江戸大火後である。現在の本堂は東京大空襲後に再建したもので、昭和35年(1964年)に建てられた。

 

 かっぱ橋道具街のアーケードを通る。

かっぱ橋道具街

 かっぱ橋の「かっぱ」の由来は天気の良い日に内職で作った雨合羽を干していたからその名がついたとも、合羽川太郎の掘削工事を手伝った隅田川の河童からとったとも言われている。現在では食器具などを扱う問屋街になっている。

 食器などを取り扱う「ニイミ」のジャンボコック像が目を引く。

ニイミのジャンボコック像

 法昌寺に行く前に祝言寺に寄り道する。

祝言

 祝言寺は曹洞宗の寺院で、境内に鍋かぶり地蔵がある。

鍋かぶり地蔵

 鍋かぶり地蔵は地震があったときに偶然上から落ちてきた鍋が頭の上にかぶさって難を逃れたことに由来している。そしてカンカン地蔵同様、原型をとどめていないがなぜ原型をとどめていないかはわからない。

 

 曹源寺にも寄り道する。ここは「かっぱ寺」とも言われている。

曹源寺

 伝承によると文化年間(1804~1817年)にここの住人で雨合羽商の合羽川太郎が私財を投じて排水のための掘削工事を行っていたが、このとき川太郎に助けられた隅田川の河童たちが工事を手伝い、掘削工事は完成、この河童を見ると商売繁盛したという。その合羽川太郎の墓が曹源寺にあるといい、これが「かっぱ寺」の由来である。境内には愛らしいかっぱ像もあるが、「かっぱのぎーちゃん」というよくわからないオブジェもあった。

かっぱのぎーちゃん

 今度こそ法昌寺に向かう。

法昌寺

 法昌寺は慶安元年(1648年)に大本山光長寺の日照上人が開いた法華本門の道場である。法昌寺たこ八郎地蔵がある。たこ八郎地蔵は、実在したコメディアン「たこ八郎」にちなんだお地蔵さんである。

たこ八郎地蔵

 たこ八郎はボクサー「斎藤清作」としてデビューし、昭和37年(1962年)に第13代日本フライ級チャンピオンになった。ボクサー引退後は同郷のコメディアン、由利徹に弟子入りし、「たこ八郎」としてテレビで活躍した。昭和60年(1985年)に海水浴中に急死、その後、たこ八郎のお墓のある宮城県に行かずとも東京でお参りできる場所があればと発起人たちがたこ八郎地蔵を建立した。たこ八郎のトレードマークである前髪や欠けた耳もお地蔵さんで再現されており、ボクサーだったことにちなみボクシンググローブの石像もある。そして体にはたこ八郎座右の銘、「めいわくかけてありがとう」と刻まれている。

ボクシンググローブの石像

 ほうほう、と見ていると「君、たこ八郎知らないでしょう」と後ろから声をかけられた。先ほど結婚式の話をした年配の参加者の方だった。私が生まれる前に亡くなった方なので、知っているわけがない。

 

 この後は鶯谷駅に行って、このイベントは解散となった。

 

【おまけ】

 この後は神田駅の喫茶店ルノワールで二次会をした。固めのプリンが美味しかった。

 さらにこの後は友人とこの会で知り合った方と一緒に神保町で書店巡りをしてから、ボンディで夕食を食べた。

 ボンディは少し値段が張るが、やはり美味しい。誰かと食べると余計に美味しく感じた。

 この後は友人を池袋駅まで送ってから帰路についた。

今回の地図

歩いた日:2022年4月3日

【参考文献・参考サイト】

小森隆吉(1978)「台東区の歴史」名著出版

高梨輝憲(1978)「江東区の歴史」名著出版

黒田涼(2012)「江戸の神社・お寺を歩く[城東編]」祥伝社新書

地図ラーの会(2022)「東京都内のちょっと変わったお地蔵さま巡り」

亀戸天神社 御祭神・由緒

http://kameidotenjin.or.jp/about/

浅草新仲見世通り ごあいさつ 

https://www.asakusa-shinnaka.com/history_frame/

かっぱ橋道具街 かっぱ橋の歴史

https://www.kappabashi.or.jp/history/

(2022年5月5日最終閲覧)