2023年6月、私はATMの預金残高を見ながら呻いていた。
お金がない。
所属しているコミュニティが増えたり、コロナでの外出自粛が緩和されたり、「東海道を歩く」で2ヶ月に1回静岡に通ったり、長く勤めてる割にボーナスが減らされていたりと原因はいろいろあるが、とりあえず旅行以外の週末は「それほど遠くに外出しない」ほうがよいのではないか、と感じた。
そこで、4年くらい前にやった「江戸三十三観音」をもう一度やってみよう、と思った。
そう思い立った2週間後の休日、私は浅草駅に降り立ち、「江戸三十三観音第1番札所 浅草寺」を目指した。
1.駒形堂
そもそも、「江戸三十三観音」とは何か。
寛永18年(1641年)から元禄11年(1703年)の間に開創されたと考えられている。
なぜ「33」なのかというと、観世音菩薩は33通りに姿を変え、人々を救済してくれると考えられているからである。
このことから観音様と33という数字が結びついて、全国各地に33観音霊場ができた。
ちなみに、江戸三十三観音では第1番札所から第33番札所のほかに、番外が1ヶ所あるので、合計34ヶ所回ることになる。
浅草駅A2a出口から出てすぐに、駒形堂がある。
駒形堂は、浅草寺のご本尊の聖観世音菩薩がおよそ1,400年前、隅田川から現れ、初めて奉安された地に建つお堂である。
昔、このあたりは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずここに上陸して駒形堂にお参りしてから観音堂へ向かったという。ただ、私が訪れたときは誰もいなかった。
この駒形堂のご本尊は馬頭観音である。現在の駒形堂は平成15年(2003年)再建。
今もここはご本尊ご示現の聖地として、毎月19日に馬頭観音の縁日が行われているという。
駒形堂には浅草観音戒殺碑がある。
駒形堂は浅草寺本尊発見の霊地なので、元禄5年(1692年)ここを魚鳥殺生禁断の地とする法度が出された。
これを記念して、元禄6年(1693年)浅草寺第4世権僧正宣存が願主となり、戒殺碑が建てられた。
戒殺碑が建てられた駒形堂の堂宇は江戸時代に何度か焼失しているが、戒殺碑も倒壊し、宝暦9年(1759年)に駒形堂宇とともに戒殺碑も再建された。
現在の碑は関東大震災後の昭和2年(1927年)に土中から発見され、昭和8年(1933年)の駒形堂再建と同時に修補されたものである。
ちなみに、現在ある碑が元禄のものか、宝暦のものかはわかっていないようだ。
駒形堂の南側に、駒形橋がある。
駒形橋の「駒形」は、駒形堂に由来する。
ここは古来、「駒形の渡し」があったところである。
大正12年(1923年)の関東大震災のあと、復興事業の一環として駒形橋が建てられ、昭和2年(1927年)に完成した。
2.仲見世通り
いよいよ浅草寺に向かう。浅草寺の正門入口といえば、雷門である。
雷門は天慶5年(942年)、平公雅によって創建されたのが始まりである。
門の正面向かって右に「風神」、左に「雷神」を祀ることから「雷門(風雷神門)と呼ばれている。
現在の門は、慶応元年(1865年)の大火で炎上した門に替わり、昭和35年(1960年)に松下幸之助の寄進により復興された。
仲見世通りを進む。
仲見世通りは江戸時代中期頃に創設された。
馬道辺の住人が浅草寺境内の掃除役を勤めた代償として、浅草寺から営業権を与えられて開店したのが仲見世の創始である。
仲見世の明治以降の変遷を略記すると、
明治18年(1885年)12月26日 煉瓦造り2階建ての仲見世開店。
大正12年(1923年)9月1日 関東大震災のため煉瓦造り店舗焼失。
昭和20年(1945年)3月10日 東京大空襲のため外構えを残して焼ける。
このようになる。
仲見世の名称は、①浅草寺境内のなかにある店、②浅草広小路界隈にある店と本堂周辺の店との中間にある店、といったことでつけられたように考えられる。
それにしても、仲見世通りはいつ行っても混んでいる。
仲見世通りの途中に伝法院があるが、入ることはできなかった。
伝法院は浅草寺の本坊に対する号である。
元来は浅草寺住職の坊号で、元禄元年(1688年)に住職となった宣存僧正がはじめて伝法院を号した。現在は建物に対する呼称といえる。
現存の建物は安永6年(1777年)10月8日起工し、1年半の歳月を要して完成したもの。
伝法院庭園は台東区内に残る唯一の江戸期庭園で、造園年代は江戸初期、小堀遠州作と伝えられている。
3.浅草寺
浅草寺宝蔵門が見えてきた。
宝蔵門は、大谷米太郎の寄進で、昭和39年(1964年)に浅草寺宝物の収蔵庫を兼ねた山門として建てられた。左右に木造仁王像を安置している。
浅草寺山門の創建は天慶5年(942年)、平公雅によると伝える。
その後焼失と再建を繰り返し、慶安2年(1649年)に再建された山門は、昭和20年(1945年)の空襲で焼失するまで残っていたという。
宝蔵門をくぐると、迷子しるべ石がある。
昔、迷子が出たときには、この石碑でその旨を知らせた。
石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、一方に「志(し)らする方」、一方に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。
安政7年(1860年)3月、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(現 宝蔵門)前に造立したが、昭和20年(1945年)の空襲で倒壊したため、昭和32年(1957年)に再建された。
似たような石は都内各地にあり、例えば東京駅近くの一石橋にも「一石橋迷子しらせ石標」がある。
迷子しるべ石の隣に、鳩ポッポの歌碑がある。
童謡「鳩ぽっぽ」は、明治33年(1900年)、作詞家・東くめが浅草寺の境内で鳩と戯れてる子供たちに着想を得た歌詞で、滝廉太郎が作曲した。
「鳩ぽっぽ」は浅草寺で生まれたのか。これは知らなかった。
さあ、浅草寺本堂に参拝しよう。
「浅草寺縁起」によれば、推古天皇36年(628年)3月18日の早朝、隅田川で魚を捕る檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が1躰の仏像を拾得した。
2人の漁師が拾得した仏像を郷司の土師中知(はじのなかとも)に見せたところ、聖観世音菩薩であることがわかった。そこで中知は自ら出家し、自宅を寺に改めて聖観世音菩薩を祀ったのが浅草寺の始まりである。
檜前浜成・檜前竹成・土師中知の3人を祀ったのが浅草神社で、3人を祀っているので三社様とも呼ばれる。
聖観世音菩薩が現れて17年後の大化元年(645年)に勝海上人が浅草寺に来て観音堂を建て、ご本尊を秘仏と定めた。
その後、天安元年(857年)慈覚大師円仁が比叡山から来て、秘仏に代わる本尊である「御影版木(みえいのはんぎ)」を作った。
天慶5年(942年)平公雅(たいらのきんまさ)は浅草寺に参拝し、武蔵の国守に任じられるように祈願したところ、それが叶ったのでそのお礼に堂塔伽藍を再建した。
治承4年(1180年)源頼朝は平家追討に向かうため浅草の石浜に軍勢を揃えたときに、浅草寺に参詣して戦勝を祈った。
天正18年(1590年)江戸に入った徳川家康は天海僧正の勧めで浅草寺を祈願所と定め、寺領500石を寄進した。
元和4年(1618年)には徳川家康を祀る「東照宮」の造営を認め、随身門(現 仁王門)も建立されるなど徳川家康の浅草寺への信任は篤かった。
寛永年間、観音堂が炎上したときも徳川家光によって慶安2年(1649年)に再建された。
それ以後は関東大震災にも耐えたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲により焼失し、現在の本堂は昭和33年(1958年)に再建されたものである。
この歴史を見ると源頼朝、徳川家康など歴史上の大スターも参拝した寺院であることがわかる。私も、秘仏の聖観世音菩薩に祈りを捧げた。
4.二天門
浅草寺本堂を出て、一度浅草寺の敷地外に出る。二天門を見るためだ。
二天門は、慶安2年(1649年)頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。
なお、浅草寺の東照宮は元和4年(1618年)に建立されたが、寛永8年(1631年)と寛永19年(1642年)の火災によって、浅草寺のほかの諸堂とともに焼失し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山に移された。
明治元年(1868年)の神仏分離令によって門に安置された随身像は仏教を守護する四天王のうち持国天・増長天の二天像に変わり、名称も二天門となった。
現在安置されている二天像は、吉田兵部が江戸時代初期に制作したもので、昭和32年(1957年)に寛永寺の厳有院殿霊廟の勅使門から移されたものである。
二天門は昭和25年(1950年)、国指定重要文化財に指定された。
二天門の前に、手水鉢がある。
この手水鉢の側面には「安永6年(1777年)に観世音1150年法会供養の日に臨時連中によって寄附された」とある。臨時連中は浅草寺の消防組織である。
また銘文に「随身門前」とあり、文化10年(1813年)に編纂された「浅草寺志」にも「裏門の外」と記されていることから、場所を変えずに今に至ることがわかる。
5.浅草神社
二天門をくぐり、浅草神社へ参拝する。
浅草神社の祭神は前述したとおり、土師真中知命(はじのなかとものみこと)、檜前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)、檜前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)である。
現在の社殿は慶安2年(1649年)に徳川家光が寄進・建立したもの。関東大震災や東京大空襲も免れ、昭和26年(1951年)には国の重要文化財に指定された。
人だかりができていたので見ると、猿回しをやっていた。
この前の「うさぎの気まぐれまちあるき「桜と7つのパワースポット巡る隅田川ウォーク&クルーズ」」で教えてもらった被官稲荷神社にも参拝する。
「うさぎの気まぐれまちあるき「桜と7つのパワースポット巡る隅田川ウォーク&クルーズ」」はこちら↓
安政元年(1854年)新門辰五郎の妻が重病で床に伏していたとき、山城国の伏見稲荷社(京都の伏見稲荷大社)に祈願したら病気が全快し、安政2年(1855年)にお礼の意味を込めて伏見から祭神を勧請して創建したのが被官稲荷神社である。
寄進された鳥居と狐の置物に圧倒されながら、参拝する。
被官稲荷神社にも参拝したところで、浅草神社の御朱印をいただいた。
境内に川口松太郎の句碑を見つけた。
川口松太郎は明治32年(1899年)に浅草今戸に生まれた小説家、劇作家。
昭和10年(1935年)に「鶴八鶴次郎」で第1回直木賞を受賞した。そのほか、菊池寛賞や吉川英治文学賞、文化功労者も受賞している。昭和60年(1985年)に85歳で亡くなった。
「生きると いうこと むずかしき 夜寒かな」…沁みるなあ。
粧太夫碑もある。
「ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 鳥かくれゆく 船をしぞ思う」
これは柿本人麻呂の和歌で、これを書いたのは蕋雲(ずいうん)である。
蕋雲は文化年間、遊里新吉原の遊女で、源氏名は粧太夫(よそおいたゆう)、蕋雲はその号。和歌をたしなむ教養のある女性だった。
この歌碑は、柿本人麻呂を慕う粧太夫が文化13年(1816年)に人丸社に献納したもの。人丸社は浅草神社の裏手にあったが明治維新後に廃止されたため、この碑だけが被官稲荷神社のかたわらに移され、昭和29年(1954年)に現在地に移された。
初代 市川猿翁句碑もある。
「翁の文字 まだ身にそはず 衣がえ 猿翁」
市川猿翁は明治21年(1888年)、浅草千束町2丁目に生まれた歌舞伎役者。
昭和38年(1963年)、「猿之助」を引退し、「市川猿翁」と名乗ることにする。同年に75歳で亡くなった。
つまりこの句は晩年に詠んだ句、といえそうだ。
6.酒癖と石灯籠
浅草寺五重塔は天慶5年(942年)、平公雅によって創建されたのがはじまり。慶安元年(1648年)に徳川家光が再建した五重塔も昭和20年(1945年)の戦災で焼失した。
現在の五重塔は昭和48年(1973年)に再建されたもの。地上からの高さは53mある。
五重塔のそばに旧石灯籠がある。
この石灯籠は明治25年(1892年)に石工の酒井亀泉が奉納した灯籠である。
江戸時代後期、亀泉の祖父・栄三は酒癖が悪く、それで失職した。
栄三の妻は浅草寺にお参りし、夫の酒癖の悪さの許しを願い、子孫代々酒を断つ旨を誓った。
この家訓を守り、酒井家は石工として大成した。そこで亀泉がその報恩にと浅草寺に灯篭を奉納した。
平成16年(2004年)に経年劣化による倒壊のおそれがあるため撤去、一部を記念として飾ってある。
お酒は美味しいが、アルコール依存症で身を滅ぼす人もいるため、そのような人は浅草寺で酒断ちを宣言すれば大成できるかもしれない。
正観世音菩薩碑を見つけた。
「正観世音菩薩」と碑の正面に刻まれている。
この石碑の銘文は摩滅が進んでいるが、「文」や「窪世」とわかるところが残されていることから、江戸時代の有名な石工の大窪世祥が文化・文政年間(1804~1829年)頃に文字を彫ったと思われる。
銅造阿弥陀如来坐像を見つけた。
阿弥陀如来は極楽浄土にいて、亡くなった人に仏法を説く仏様だ。
この像は台座に刻まれた銘文によると、元禄6年(1693年)4月に理性院宗海がこの像の造立を発願し、鋳物師の今井藤治郎藤原吉次が制作した。
願主の宗海は浅草三間町の僧侶で、この像の造立に際して近隣地で勧募活動を行い、結縁者を募ったという。
平成24年(2012年)3月に台東区有形文化財に登録された。
7.古い時代の石碑など
銅像宝篋印塔を見つけた。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。
この宝篋印塔は高さ8mで西村和泉守藤原政時が宝暦11年(1761年)に鋳造したもの。
安政2年(1855年)の地震でこの塔は被災したが、明治40年(1907年)に日露戦争凱旋記念として修復された。
銅像宝篋印塔のそばに石橋がある。
現存する都内最古とされるこの石橋は、元和4年(1618年)浅草寺に東照宮が造営されたとき、参詣のための神橋として造られた。
この石橋は昭和23年(1948年)、文部省が重要美術品に認定した。
西仏板碑を見つけた。
建立者の西仏については明らかでないが、この板碑は彼の妻子の後世安楽を祈って建立したものと考えられる。建立年代は鎌倉末から室町初期と推測されている。
上部が破損しているが、製作時には3m近くあったと推測されている。寛保2年(1742年)暴風雨によって倒れて破損し、文化11年(1814年)に側柱を立てて支えられた。
現存の板碑の大きさは高さ217.9cm、幅48cm。
中世の信仰を知る上で貴重な遺品である。
西仏板碑の隣に三尊名号供養塔がある。
三尊名号とは、塔正面に刻まれた「南無阿弥陀仏」、向かって右の「観世音菩薩」、向かって左の「大勢至菩薩」の阿弥陀三尊の名前に由来する。
この塔は、文政10年(1827年)に江戸屏風坂下(現在の上野)の鹿島屋弥兵衛が発願した。
六地蔵石灯籠がある。
この石灯籠はかつて元花川戸町にあったものが、明治23年(1890年)に現在地に移転されたものである。
詳細は不明だが、伝承では久安2年(1146年)、久安6年(1170年)、応安元年(1368年)建立といわれている。久安と応安の年代差が大きい気がする。
竿石に刻まれた文字の判読は困難になっているが、どうやら江戸時代に作られた「江戸名所図会」の段階で判読が困難だったらしい。言い換えれば、それだけ古い時代に作られた灯籠といえる。
8.橋本薬師堂
仏頂尊勝陀羅尼碑を見つけた。
「仏頂尊勝陀羅尼」とは、唱える人に息災延命などのご利益を授けるとされる、古くから信奉されてきた尊いお経である。
正面には陀羅尼が刻まれ、背面には陀羅尼の功徳と造立年代の元治元年(1864年)と製作者の海如の名前を見ることができる。
この碑を奉納した海如は、奈良の長谷寺などで修行した真言宗の僧侶である。
小さな祠を見つけた。金龍権現だ。
浅草寺のご本尊が現れたとき、天から100尺ほどの金の龍が舞い降りて、その功徳を讃え観音様をお守りした。ここから浅草寺の山号が「金龍山」となり、金龍権現が奉安された。
金龍権現の隣には九頭龍権現が奉安されている。
九頭龍権現は長野県戸隠山の地主神で、昭和33年(1958年)の本堂再建にあたって、その成就を祈るために勧請された。
金龍権現と九頭龍権現、最初から浅草寺にいた龍と長野からやってきた龍に、それぞれお参りした。
この像の総高は169.5cm、像高は99.5cmである。
この像は享保5年(1720年)に尾張国知多郡北方村(愛知県美浜町)出身で諸国を遊行した廻国聖、孝山義道が発願し、神田の鋳物師、小沼播磨守藤原長政が制作した。
またこの像の蓮華座は元禄15年(1702年)造立の阿弥陀三尊像の脇侍のものとして、小伝馬町3丁目の鋳物師、宇田川善兵衛が制作したものだが、この像の蓮華座に転用された。
この像を作った小沼播磨守藤原長政は江戸時代前期の鋳物師だが作例は少ない。
江戸時代の鋳物師を考える上で基準となる作例のひとつで、江戸鋳物師の作風を伝えるものとして貴重な遺品である。
観音様の隣に一言不動尊がある。
怒りの姿をした不動明王は、その力で迷いの心を打ち切ってくれるという。
この一言不動尊は、何か願い事を一つに限って祈ると、その願いが叶うという。享保10年(1725年)に造立された。
なにかひとつの願い事…とりあえず「江戸三十三観音を最後までやれますように」にしておこうか。
一言不動尊の隣に橋本薬師堂がある。
慶安2年(1649年)に徳川家光が観音堂の北西に建て、堀にかかる橋のかたわらにあったので「橋本薬師堂」と名付けた。平成6年(1994年)に現在地に移転。
外部はかなり改変されているが、浅草寺境内に残る堂宇では浅草神社の社殿と同年代で、二天門や六角堂に次ぐ古い建物である。
9.淡島堂
淡島堂へ向かう。
淡島堂は、元禄年間(1688年~1703年)に紀伊国の加太神社を勧請したものである。江戸時代から女性の守り神として信仰を集めたようだ。
淡島堂には天水桶がある。
この天水桶は明和7年(1770年)に造られた。
太平洋戦争が激しくなってきた昭和18年(1943年)11月18日、浅草寺僧侶らが夜儀を行い、この天水桶にご本尊の観音様を厨子ごと奉安し、地中深くに納めたためご本尊は戦火を逃れたそうだ。
戦後の昭和22年(1947年)3月7日、ご本尊は地中から掘り上げられ、無事が確認された。
ご本尊様を守った天水桶、ということか。
胎内くぐりの灯籠もある。
この石灯籠は「胎内くぐりの灯籠」として江戸時代から有名だったもので、この灯籠の下をくぐることで子供の虫封じや疱瘡のおまじないとなるようだ。
これを見て、奈良の大仏様の柱の穴くぐりを思い出した。これは大仏の鼻の穴と同じ大きさの柱の穴をくぐる、というもので、中学校の修学旅行のとき、お調子者の生徒がこれをくぐって面白がっていたことを思い出した。私も興味はあったが、おとなしい生徒だったので見ているだけだった。大人になって奈良に行き、柱の穴をくぐってみたらギリギリで苦しかったことを思い出す。
淡島堂には魂針供養之塔もある。
これは折れた裁縫針の供養塔で、昭和57年(1982年)に建立された。
魂針供養之塔の隣には浅草大平和塔がある。
昭和20年(1945年)3月9日の夜、B29 300機以上の大空襲により浅草一帯は火の海となり、10,000人以上の犠牲者を出した。東京大空襲である。
東京大空襲の犠牲者の慰霊と、今後空襲が起こらないように、との願いから建てられたのが浅草大平和塔である。そっと手を合わせた。
浅草大平和塔の隣には、戦災供養地蔵尊もある。
淡島堂を去ろうとすると、写経供養塔を見つけた。
写経供養塔には浅草寺参拝者が書いた写経が納められている。平成6年(1994年)に造立。
銭塚地蔵尊の脇に、カンカン地蔵がある。
カンカン地蔵は、原型をとどめていないが、これは参拝者が小石でカンカン地蔵を叩いて願い事をしたためである。石で地蔵を叩くと「カンカン」という音が鳴るのでこの名がつけられた。
ちなみに「カンカン地蔵」を知ったのは「地図ラーの会」の「都内のちょっと変わったお地蔵さん巡りツアー」で紹介されたからである。そのときのブログ記事のリンクを貼っておく。
10.六角堂
六角堂にお参りする。
六角堂は「浅草寺誌」に元和4年(1618年)の建立と書かれているので江戸時代初期の建築と考えられ、浅草寺内では最古の建物である。
六角堂という特異な形式で、都内において遺例の少ない建造物である。
六角堂のご本尊は日限地蔵尊で、お願いごとをするときに日数を決めて祈願すれば叶うというもの。江戸三十三観音を最後までやりたい、と祈ったが、いつ終わることができるかわからなかったので、効果があるかはわからない。
三峯社を見つけた。
埼玉県秩父市にある三峯神社を勧請したもの。三峯神社は平成29年(2017年、6年前)に行ったことがある。当時は各月1日だけ頒布されていた白い氣守をもらいに行ったのだが、渋滞問題もあり今は頒布していないらしい。
影向堂(ようごうどう)へ向かう。
影向堂は平成6年(1994年)に慈覚大師円仁の生誕1,200年を記念して再建された。
堂内には中央に聖観世音菩薩、その左右に8体の守り本尊が祀られている。
屋根には鴟尾(しび)が置かれている。鴟尾を取り付けるときは雨を呼ぶといわれていて、平成6年(1994年)夏の建立時も記録的な日照りだったが、鴟尾を取り付けた途端に雨が降ったという。作業員は大変だが、不思議な話である。
影向堂は御朱印受付所で、江戸三十三観音を始めるにあたり、新しい御朱印帳を買い、そこに書いていただいた。
雷門方面に戻りながら、お地蔵さんたちに挨拶する。
めぐみ地蔵尊は幸せを恵んでくれるお地蔵さんらしい。そっと手を合わせた。
恵比寿像・大黒天像は延宝3年(1675年)に浅草寺に奉納されたそうだ。
この像は真言宗を開いた弘法大師空海(774年~835年)が造った、という伝説がある。
恵比寿・大黒天堂の奥に銭塚弁財天がある。
この銭塚弁財天は、福徳財運の効果があるそうだ。そっと手を合わせた。
旧仁王門礎石を見つけた。
この大きな石は、慶安2年(1649年)に徳川家光の寄進により建立された仁王門の礎石のひとつ。
仁王門は昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失してしまったが、昭和39年(1964年)に宝蔵門として再建された。
浅草寺を出ると二尊像がある。
願主は上野国館林在大久保村の高瀬善兵衛で、観音像は、かつて奉公した家の主、善三郎の菩提を弔うため、勢至像は善三郎の子供の次郎助の繁栄を祈るために貞享4年(1687年)8月に造立した。
神田鍋町の太田久衛門正儀が鋳造した。安永6年(1777年)に修理された記録がある。
最後に、浅草寺拡大図を掲載しておく。
11.矢先稲荷神社
そのまま進むと、右手側に八幡神社がある。
元禄13年(1700年)田島山快楽院誓願寺において豊前国(現在の大分県)の宇佐八幡宮の神霊分神を勧請して創建した。
明治維新の神仏分離に際して明治6年(1873年)浅草神社の兼務社になった。
昭和20年(1945年)3月9日の東京大空襲で社殿が全焼するも、昭和24年(1949年)には社殿が再建され、昭和47年(1972年)にはコンクリート造りの社殿が完成した。
そのまま進むと右手側に矢先稲荷神社がある。
矢先稲荷神社の祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。
矢先稲荷神社では浅草名所七福神の福禄寿を祀っている。
寛永19年(1642年)11月23日、徳川家光が国家の安泰と市民の安全祈願ならびに武道の練成のために、ここに三十三間堂を建てたのがはじまりである。
京都の三十三間堂にならって建立されたこの堂の守護神として稲荷大明神を勧請し、その場所がちょうど的の先にあたっていたので「矢先稲荷」と名づけられた。
元禄11年(1698年)9月6日、浅草を中心とした大火で焼失してしまい、三十三間堂は深川に移転を命じられたものの、その鎮守である矢先稲荷神社は町民の要望でここの産土神として再建が許された。
私が訪れたときはたまたま矢先稲荷神社の例大祭だったようで、境内に神輿が置いてあった。また、いただいた御朱印が限定デザインだった。
12.清水寺
信号のある交差点まで引き返し、北に進むとかっぱ橋道具街がある。
なぜ「合羽橋」なのか、というと2つの説がある。
1つ目は、侍が内職で作った雨合羽を天気の良い日に干していたから、という説。
2つ目は、合羽川太郎が私財を投げ出して治水工事を行っていたが、なかなかはかどらないので、隅田川の河童たちが手伝ったという伝説から、という説。この近くに曹源寺という寺院があり、そこは通称「かっぱ寺」と呼ばれている。それは、合羽川太郎の墓地があるからだ。
大正元年(1912年)、合羽橋に数軒の道具商・古物商が誕生したのが、かっぱ橋商店街の始まりである。
浅草合羽橋電車通商工会が設立されたのは戦後の昭和22年(1947年)。
かっぱ橋商店街は食器具、調理器具、食品サンプル等を主に扱っている。
天長6年(829年)、疫病の流行でかなしんだ当時の天皇が、比叡山延暦寺の座主だった慈覚大師に疫病退散の祈願を命じた。そこで慈覚大師が千手観音を刻み、今の千代田区平河に清水寺を開いたところ、疫病が収まった。
慶長年中、慶円法印が中興し、徳川家康入府に伴い馬喰町に移り、明暦3年(1657年)の振袖火事の後、現在地に再興された。
ご本尊は千手千眼観世音菩薩。
コロナ前に訪れたときは直接観音様を拝むことができたが、今回は拝むことができなかった。
賽銭箱にお金を入れて、書置きの御朱印をいただいた。
清水寺をあとにして北に向かうと、かっぱ河太郎の像があった。
かっぱ河太郎像は合羽橋道具街の誕生90年を記念して平成15年(2003年)に建てられた。
今日のミッションはこれで終わりなのであとは浅草駅に戻るのだが、少し疲れたので休憩することにした。訪れたのは「お休み処オンリー」。
店内はこんな感じ。落ち着いた雰囲気の純喫茶だ。
私はアイスコーヒーを注文した。
やはり歩いた後のコーヒーは美味しい。
クーラーに癒されながらアイスコーヒーを飲み、休憩がてら読書する。外国人と思しき客が帰るとき、女将さんが「ハブアグッデ~(Have a good day)」と言っていて、なんか和んだ。
疲れが取れたところで浅草駅に戻り、帰路につく。
浅草寺は何度か行ったことがあったが、こんなにじっくりと見たのは初めてだった。浅草寺はいつ行っても観光客でごった返している。本堂にはみんな参拝していると思うけれど、小さな石碑やお地蔵さんに挨拶している人はこのなかでどれくらいいるのだろう、と思った。
私の知らない東京が、まだまだありそうだ。
歩いた日:2023年6月18日
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【参考文献・参考リンク】
東京都歴史教育研究会(2020) 「東京都の歴史散歩 上 下町」 山川出版社
https://www.houjou.or.jp/reijyou02.html
東京とりっぷ 鳩ポッポの歌碑
https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0560/
浅草名所七福神 矢先稲荷神社
http://www.asakusa7.jp/yasaki.html
https://www.kappabashi.or.jp/history/
(2023年7月12日最終閲覧)