10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

江戸三十三観音をめぐる 7.神田川沿いを歩く

 前回、江戸三十三観音第14番札所金乗院、第15番札所放生寺、第16番札所安養寺に参拝しながら高田、早稲田、神楽坂のあたりを巡った。今回は第17番札所宝福寺に参拝しながら神田川沿いをぶらぶらしようと思う。

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1.蚕糸の森公園

 東高円寺駅1番出口を出るとすぐそこに、蚕糸の森公園がある。

蚕糸の森公園

 蚕糸の森公園は、旧農林省蚕糸試験場の跡である。

 昭和53年(1978年)に発行された「杉並区の歴史」には、ここは蚕糸試験場として紹介されている。

 蚕糸試験場は、明治44年(1911年)に蚕の種紙の製造と、品種の改良を目的として創設され、品種の改良、新品種の発見、病原菌の発見と防除法、桑園の管理、製糸機械の開発など多くの成果をあげ、日本の養蚕・蚕糸業の発展に貢献した。

 蚕糸試験場が現在どうなっているのか、調べてもわからなかった。実家でも昔は養蚕をやっていたと聞いたことがあるが、ずいぶん前にやめてしまったようだし、養蚕業自体が衰退しているのだろう。

 

 蚕糸の森公園にはさまざまな木が植えられ、紅葉がまぶしい。

 

 蚕糸の森公園をあとにして、国道318号線沿いに出ると梅里公園がある。

梅里公園

 梅里公園はこのあたりの地名、「梅里」からとって名づけられた公園で、園内には梅の木が植えられている。

 

 国道318号線沿いに、宗延寺がある。

宗延寺

 宗延寺は、日蓮宗の寺院である。天正12年(1584年)に小田原で創立され、大正8年(1919年)に現在の場所に移転した。

 二重屋根の珍しい形をした本堂は、大正天皇のご産殿を移築したもので、江戸十祖師のひとつである「読経の祖師」が安置してある。

 

2.妙法寺

 妙法寺東交差点で右折し、しばらく進むと妙法寺がある。

妙法寺

 妙法寺寛永9年(1635年)に創立された日蓮宗の寺院で、元禄5年(1692年)に目黒碑文谷の法華寺より、日蓮聖人の木像を移して御本尊とした。

 この日蓮聖人の木像は聖人42歳の姿を、弟子の日郎が彫ったといわれ、男42歳の厄除けに霊験があると広く信じられていた。

 妙法寺は参詣者へ「厄除けの御符」を授与したので、宗派に関係なく信者が増え、あらゆる厄除けに霊験があると、江戸市民の信仰を集め、落語のタネになるくらい有名になり「堀之内の御祖師様」として江戸郊外屈指の名所に数えられ、昭和20年頃までたいへん繁盛した。

 境内地は約1万坪あり、都重宝指定の仁王門(天明7年(1787年)再建)、祖師堂(文化9年(1812年)再建)、本堂、庫裡、書院など多くの建物は、江戸時代の面影をとどめ、国宝指定の鉄門(明治11年(1878年)製造、純国産の鉄門第1号)、絵馬、古文書、奉納品は当時の繁栄を物語る。

妙法寺鉄門

 妙法寺に参拝後、御首題をいただいた。やはり日蓮宗の御首題は独特だ。

 

 妙法寺の近くに、気になるお店があった。清水屋で売っている妙法寺名物、揚まんじゅうだ。

揚まんじゅう

 揚まんじゅうはまんじゅうを揚げたもので、サクふわで美味しかった。

 一緒にいただいた知覧茶も美味で、落ち着いた。

知覧茶

3.釜寺東運寺

 来た道を戻り、妙法寺東交差点で右折、再び国道318号線を南下する。

 しばらく南に進み、肉のハナマサ方南町店のある交差点で左折すると釜寺東運寺がある。

釜寺東運寺

 釜寺東運寺は浄土宗の寺院。天正元年(1573年)に一安上人がこの地に念仏堂として創立したのがはじまりで、大正11年(1922年)に台東区入谷の東運寺を合併した。昔から本堂の屋根に大きな釜を載せているので、釜寺と呼ばれた。

 釜寺にはこんな伝説がある。昔、人買いにさらわれた安寿姫と厨子王丸は、丹後由良湊の山椒太夫に売られ、逃げようとして捕まった厨子王丸が釜茹でにされようとしたとき、肌につけていた地蔵尊が僧に姿を変えて救ってくれた、という話である。

 この話は伝記本や芝居で知られていたが、以前の釜寺のご本尊は厨子王丸の持仏だったという高さ10cmの身代わり地蔵だったので、江戸から参詣に来る人が多かったという。

釜寺東運寺の山門

 釜寺東運寺の山門は、芝田村町の田村右京大夫上屋敷の脇門で、ここで切腹した浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の遺体を運び出した門で、「あけずの門」といわれ、昭和28年(1953年)に三井家から寄進されたものである。

 

 釜寺東運寺の近くに、釜寺東遺跡がある。現在は杉並区立方南二丁目公園となっている。

方南二丁目公園

「釜寺東遺跡」

 この遺跡は、縄文後期・古墳後期の複合遺跡で、台地の上下に住居跡、縄文後期の石棒、古墳期の土師器・玉などが発見されている。

4.宝福寺

 釜寺東遺跡をあとにして、神田川沿いに出る。これから神田川沿いをしばらく北上する。

神田川

 下水道管の埋設の看板があった。

 ここに「A.P」という単語が書かれているが、これは「荒川ペイル」を意味する。

 荒川ペイルとは、東京湾近くの霊岸島水位観測所において大潮で最も水面が低くなったときの水面の高さを0mと設定し、これを基準とする高さのことである。東京湾の潮位のグラフを作る仕事があり、これで頻出した単語だ。

 

 角田橋で右折して神田川を離れると左手側に宝福寺が見えてくる。

宝福寺

 宝福寺は真言宗豊山派の寺院である。

 宝福寺は如意山と号し、本尊は不動明王である。この寺の南隣にある多田神社別当寺で、神仏分離以前は同じ敷地内にあった。

 創建の年代、開山ともに不詳だが、過去帳にみえる最も古い年代は明暦2年(1656年)であるという。

 なお、聖徳太子が諸国を巡遊したとき、紫雲たなびくこの地を霊地として堂を建て、如意輪観音を安置したのに始まったともいわれている。

 境内には、元禄年間(1688~1704年)から江戸期にかけて造られた五輪塔や石地蔵などがあり、また、筆塚が1基建っている。この筆塚は戸村直衛という人物が建てたもので、戸村直衛は明治3年(1870年)に私塾「戸村塾」を開いた人である。

 聖徳太子が安置したと伝えられる如意輪観音が江戸三十三観音第17番札所の観音様に指定されている。不動明王如意輪観音に手を合わせた後、寺務所で御朱印をいただいた。

 

5.多田神社

 宝福寺の南隣にある多田神社に向かう。

多田神社

 多田神社の祭神は多田満仲公(源経基の息子)で、旧雑色村の鎮守だった。

 社伝によると、寛治6年(1092年)に源義家後三年の役からの帰途、戦勝の祈願成就のお礼に、父の頼義が創建した大宮八幡宮に神鏡を献じた。

 そして社殿に近い雑色村の地に、日ごろ崇敬する曾祖父の満仲公を祀る祠を建てたのが始まりだという。

 この地は現在、南台3丁目と呼ばれているが、かつては(昭和42年(1967年)6月以前)この神社の名前をとって「多田町」と呼ばれていたそうだ。

 

 多田神社でも御朱印をいただいた。多田神社御朱印は書置きのみ。

 

6.貴船神社・和泉熊野神社

 多田神社をあとにして、神田川に戻る。神田川を南下していくと、中野区と杉並区の少し変わった区境があった。

 

 「測量」と大書きされた杉並区の三級基準点のマンホール。Xに投稿したら結構ウケた。

「測量」

 番屋橋まで神田川を南下したらいったん西側に抜け、次の交差点を左折して進むと貴船神社がある。

貴船神社

 貴船神社の創立年代は不明。御祭神は雨と雪を司る高龗神(たかおおかみ)。

 社殿前には涸れた池があるが、昭和40年頃まで満々と水が溢れていたらしい。昔、お酒が湧き出たという伝説があるくらい水質の良い水が、古来涸れることなく出た泉だったが、神田川の改修と付近台地の宅地化で涸れてしまったそうだ。旧村名「和泉」の由来となった泉なだけに、残念である。

 

 貴船神社から100mほど南に進むと、和泉熊野神社がある。

和泉熊野神社

 旧和泉村の鎮守となった神社で、御祭神は大屋津姫命(おおやつひめのみこと)。

 文永4年(1267年)に紀州熊野三山を勧請し、弘安7年(1284年)2月に社殿を修造したといわれる。

 

7.永福寺・永福稲荷神社

 和泉熊野神社のそばの交差点を左折し、神田川に戻り、再び南に進む。途中、京王線神田川を渡るのを見たので撮ってしまった。

 

 しばらく神田川を南下していき、リバーサイド永福のあるところで神田川を離れ、住宅街を進むと永福寺がある。

永福寺

 永福寺曹洞宗の寺院で、大永2年(1522年)8月に秀天慶実和尚が創立し、御本尊は十一面観音で、これは鎌倉初期の安阿弥快慶(やすあみかいけい)の作といわれる。

 天正16年(1588年)に永福寺村を検地した奉行、安藤兵部之丞が、天正18年(1590年)に小田原落城後、永福寺の住職を頼ってここに落ち延び、帰農して村を開発したという伝承がある。

 昭和20年(1945年)5月に米軍機の直撃弾で永福寺が全焼したとき、住職の母親が、燃え盛る炎のなかから命がけで、御本尊と古文書類を運び出したため、北条氏の検地書き上げをはじめ、貴重な古文書が多く残るという。

 永福寺の古文書類は運よく助かったが、金属供出も含め、戦争で失われた文化財は多くあったのだろうな、と思った。

 

 永福寺の隣にあるのが永福稲荷神社だ。

永福稲荷神社

 享禄3年(1530年)に永福寺の開山の秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として、伊勢外宮より豊受大神(とようけのおおみかみ)を勧請創建し、寛永16年(1639年)の検地の際に、永福寺村持ちの鎮守になったといわれる。

 

 永福稲荷神社では、御朱印をいただいた。

 

8.築地本願寺和田堀廟所

 永福稲荷神社から都道427号線沿いに出て、南下する。そのまま歩くと国道20号線に下高井戸駅入口交差点で合流するが、一本北側の道路に入ると寺町が広がっている。

 まずは永昌寺。

永昌寺

 永昌寺は曹洞宗の寺院で、寛永元年(1624年)に四谷で創立され、明治43年(1910年)に下高井戸の永泉寺を合併してここに移転した。

 境内の薬師堂に祀ってある御本尊の玉石には「承応2年(1653年)に玉川兄弟が、多摩川羽村から上水路をこの地まで掘り進めてきて、資金を使い果たし、江戸の商人から資金を借りようとしたが断られ、工事を断念しようとした夜、地中から燦然と輝く玉石が掘り出され、これが江戸中の評判となり、先に融資を断った商人も進んで資金を提供し、ついに工事が完成した」という伝説があり、江戸時代には甲州街道の名所のひとつになっていたという。

 このとき玉川兄弟が掘った江戸の上水道玉川上水であり、この玉川上水の水を取水する堰、羽村取水堰に行ったことがある。

羽村取水堰

 羽村取水堰については「うさぎの気まぐれまちあるき「玉川上水×福生×立川 まちあるき」」の3.羽村取水堰を参照してほしい。

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 続いて、栖岸院(せいがんいん)。

栖岸院

 栖岸院は浄土宗の寺院で、天正19年(1591年)に三河国(現在の愛知県)から麹町(現在の千代田区)へ移り、老中の安藤対馬守、河内丹南一万石高木正次など大名・旗本の菩提寺となり、栄えていたが、明治維新武家が零落したため寺運は衰えたという。

 

 栖岸院の隣にあるのが法照寺だ。

法照寺

 法照寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、御本尊は阿弥陀如来

 この寺院は鎌倉に開創され、天正18年(1590年)に湯島(現在の文京区)に移転し、元和7年(1621年)には浜町(現在の中央区)の築地本願寺境内に移転した。

 明暦3年(1657年)の振袖火事で全焼し、築地本願寺とともに築地に移転した。大正12年(1923年)の関東大震災により築地本願寺とともに全焼、昭和3年(1928年)に現在地に移転してきた。昭和20年(1945年)に空襲により全焼し、現在の堂宇は昭和39年(1964年)に建てられたもの。災害に翻弄された寺院である。

 

 法照寺の隣にあるのが浄見寺だ。

浄見寺

 浄見寺は浄土真宗本願寺派の寺院である。開創は慶長15年(1610年)、現在の京都府京都市伏見区である。

 この寺院も元和7年(1621年)に築地本願寺境内に移転し、明暦3年(1657年)の大火後築地に移転、大正12年(1923年)の関東大震災でも全焼、昭和3年(1928年)に震災後区画整理事業のため移転してきた。昭和20年(1945年)の空襲にも遭い、現在の堂宇は昭和35年(1960年)に建てられたもの。法照寺と同じ運命をたどっている。

 

 浄見寺の隣にあるのが善照寺だ。

善照寺

 善照寺も浄土真宗本願寺派の寺院である。天正18年(1590年)7月、現在の神奈川県小田原市に開創された。

 元和7年(1621年)に築地本願寺に移転し、昭和3年(1928年)に現在地に移転してきた流れは法照寺、浄見寺と同じである。昭和20年(1945年)の空襲で全焼、現在の堂宇は昭和45年(1970年)に建てられたもの。

 

 善照寺の隣に託法寺がある。

託法寺

 託法寺は浄土真宗大谷派の寺院で、御本尊は阿弥陀如来

 寺伝によれば、寛永11年(1634年)、現在の新宿区に開創された。大正11年(1922年)に東京市の都市計画事業によって移転した。法照寺、浄見寺、善照寺とは移転の経緯が違い、時期も少し早い。

 

 門が閉まっているが、この奥に真教寺がある。

真教寺

 真教寺は浄土真宗本願寺派の寺院である。寺伝によれば、現在の港区に文禄3年(1594年)に創建された。

 その後築地本願寺に移転し、昭和3年(1928年)に現在地に移転してきた流れは法照寺、浄見寺、善照寺と同じである。

 

 真教寺から国道20号線沿いに出て、少し進むと築地本願寺和田堀廟所がある。

築地本願寺和田堀廟所

 この地には、江戸時代に江戸幕府の焔硝蔵があった。明治維新のとき、新政府に接収され、幕府が長年かけて貯蔵した火薬が、皮肉にも彰義隊をはじめ、旧幕府に殉じた奥州諸藩の平定に大きな威力を示したという。

 明治維新後、陸軍の火薬庫となり、大正12年(1923年)に軍縮で廃止され、土地は昭和4年(1929年)に明治大学築地本願寺に払い下げられた。

 大蔵省から12,000坪の払い下げを受けた築地本願寺は、中央区内にあった檀家墓地を移し、日本初の公園式墓地をつくって一般から墓地の分譲を募集し、霊園経営の新形式をつくり、昭和11年(1936年)に真宗寺を置いた。

 この墓地には女流文学者の樋口一葉歌人の九条武子、仏教学者の前田慧雲(まえだけいうん)、政治家伊東巳代治(いとうみよじ)、弁護士花井卓蔵なども眠っている。

 それにしても、本願寺築地別院といい、浄土真宗本願寺派の一部の寺院で見られる古代インド仏教式の建築は独特である。

本願寺築地別院…ここは日本の築地である

 本願寺築地別院については「うさぎの気まぐれまちあるき「桜と7つのパワースポット巡る隅田川ウォーク&クルーズ」の7.本願寺築地別院で取り上げているので、興味があれば見てほしい。

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 築地本願寺和田堀廟所から国道20号線に戻り、明大前歩道橋で右折すると、明大前駅である。今日のウォーキングはここで終了だ。

明大前駅

 このあとは秋葉原で大学のサークル仲間と飲み会があり、それまで少し時間があるのと、少し疲れたので明大前駅のスタバに入った。頼んだのはメルティホワイトピスタチオフラペチーノ。

メルティホワイトピスタチオフラペチーノ

 ホワイトチョコレートマスカルポーネ、ピスタチオの相性が抜群で美味しかった。

 

 厄除けとして有名だった妙法寺に参拝して、少しは厄除けになっただろうか。揚まんじゅうが美味しかったことも忘れられない。江戸三十三観音のある宝福寺は落ち着いた寺院だった。築地本願寺和田堀廟所付近に寺町があったことは知らなかった。その多くが関東大震災後に移転してきた寺院だったことも。

 

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図①

今回の地図②

歩いた日:2023年12月2日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

杉並郷土史会(1978) 「杉並区の歴史」 名著出版

関利雄・鎌田優(1979) 「中野区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社