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10月うさぎがいろいろ語る部屋

うさぎの気まぐれまちあるき 「桜と7つのパワースポット巡る隅田川ウォーク&クルーズ」

 「お写ん歩書房」の石井建志さんにお誘いいただき、「新しいこと始まる4月!桜と7つのパワースポット巡る隅田川ウォーク&クルーズ」に参加してきた。

 この記事を上げるのが6月なので桜を語るには遅すぎる気もするが、お付き合いいただきたい。

1.深川不動堂

 今日は12:15に門前仲町駅に集合。集合後すぐに深川公園に移動した。深川公園にはまだ桜が咲いていた。

深川公園

 深川公園から歩いてすぐのところに、深川不動堂がある。

深川不動堂

 深川不動堂は、正しくは成田山不動堂という。

 江戸時代、諸国にある有名な信仰仏は、寺院経営の経済的理由と、信仰仏の功徳を弘めるため、出開帳と称して信仰仏の本尊を各地にはこび、多くは寺院を借りて四方にそのことを触れまわり、信者を集め功徳をほどこして浄財をもとめた。

 元禄16年(1703年)、下総国(現在の千葉県)成田山新勝寺は、永代寺を借りてはじめて不動尊の出開帳をおこなった。以来毎年のようにこの出開帳が行われることになり、しかもその後、成田山新勝寺にある不動尊は、演劇を通じ、にわかに江戸市民の信仰をあつめたため、毎年の出開帳はすこぶる盛大だったという。

 やがて明治2年(1869年)、永代寺の境内にあった吉祥院に、恒久的な成田山新勝寺の出張所を設け、本山たる成田山から不動尊の分身をここに安置し、明治14年(1881年)、新たに堂宇を現在のところに建てた。

 御本尊の不動尊にお参りしたあと、本堂に上がり、「祈りの回廊」を通る。祈りの回廊には約1万体のクリスタル五輪塔が納められている。撮影禁止なのが残念だが、五輪塔がきらきらしていて綺麗だった。

 本堂は梵字が壁いっぱいにデザインされており、インパクトがある。

 

2.富岡八幡宮

 深川不動堂の隣にある神社が、富岡八幡宮だ。

富岡八幡宮

 富岡八幡宮の祭神は応神天皇を主神とし、配神として天照大神(あまてらすおおみかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、大雀命(おおすずめのみこと)、武内宿祢命(たけのうちすくねのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、寵大神(かまどのおおかみ)の6柱の神を祀ったものである。

 この八幡宮は、初め源三位頼政が1尺8寸の神像を得てこれを祀っていたが、頼政平清盛を滅ぼそうとして敗死したので、その後神像は千葉氏の手に渡る。その後足利尊氏鎌倉公方基氏、管領上杉氏、太田道灌と転々と伝えられたが、その後行方不明になってしまった。ところが長盛上人がこの神像を持って江戸へ向かい、永代島に祀ったのが富岡八幡宮のはじまりと伝えられている。

 富岡八幡宮には伊能忠敬銅像がある。

伊能忠敬銅像

 伊能忠敬といえば全国を測量し、初めて日本地図を作った人物として有名である。

 伊能忠敬は10回測量の旅に出たが、そのうち8回目までは出発のときに必ず富岡八幡宮に参詣し、無事を祈ってから旅に出たという。「東海道を歩く」でも語っているが、昔は旅に出ても安全に帰ってこられる保証がないぶん、神仏に安全を祈ったことだろうと思う。

 伊能忠敬銅像の横には三等三角点「富岡八幡宮」がある。そこには「世界測地系の採用を祈念して」と書かれている。

三等三角点「富岡八幡宮

 地球上の位置を経度・緯度で表すための基準を測地系といい、地球の形に最も近い回転楕円体で定義されている。経度・緯度はこの回転楕円体の上で表示されている。

 明治時代、日本はベッセル楕円体を経度・緯度の基準としていた。これを「日本測地系」という。日本国内でのみ測量を行っていた時代はそれでもよかったが、GPS(全地球測位システム)やGIS(地理情報システム)の普及により、回転楕円体を国際基準に合わせる必要が出てきた。

 それにより平成13年(2001年)に測量法の一部が改正され、日本測地系から世界測地系に移行した。この三角点はそれを記念して設置されたのだ。

 ここに書かれている緯度35°40′15.61″、経度139°47′56.74″は世界測地系の数値である。

 さらに余談だが、富岡八幡宮には几号水準点もある。なんと廃棄された鳥居で、横倒しになって存在する。いつなくなるか、ハラハラしているが少なくとも4年前から状況は変わっていない。

 几号水準点とは、明治初期に高低測量を行うために設けた基準となる基準点で、江東区内には2ヶ所に残存している。これについては同人誌「地理交流広場 第4号」に掲載されている「几号点を訪ねて―中央区から江東区にかけて―」で随筆を書いているので、興味のある人は見ていただけると嬉しい。

booth.pm

 

 基準点絡みの話で熱くなってしまったが、話を富岡八幡宮に戻す。

 富岡八幡宮の境内には大関力士碑がある。

大関力士碑

 大関力士碑は歴代の大関を顕彰し、昭和58年(1983年)に建てられた碑で、9代目市川団十郎と5代目尾上菊五郎が明治に寄進した仙台石を利用している。

 大関力士碑の横には横綱力士碑がある。

 把瑠都琴欧州など、聞いたことのある名前が書いてあるのが少し嬉しい。私は相撲に興味はないが、実家にいたとき父が相撲中継をよく見ていたので有名な力士の名前は知っているのだ。

 富岡八幡宮には御神輿が2つある。

 富岡八幡宮の祭礼、深川まつりは江戸の三大まつりである。残り2つは赤坂の日枝神社の山王まつり、神田明神の神田まつりである。

 大神輿にはダイヤモンドが22個使われ、ルビーも2,010個使われているという。おいくら万円するのだろう。

 大鳥居をくぐったら青い空に赤い鳥居が映え、桜がいろどりを添えていた。

3.明治丸

 巴橋で大横川を渡る。桜がとても綺麗だ。

 

 「國威宣揚」と書かれた石碑を見つけた。何の目的で作られたかはわからないが、戦前に作られたものだろうなと思いつつ見ると昭和14年(1939年)に作られたものらしい。やはり戦前に作られたものだった。

「國威宣揚」

 大横川沿いを歩いていると、桜を見ながらクルーズしている人もいた。風雅だ。

 

 これ、彫像かと思って見ていたら投げ銭された途端に動いて驚いた。人だった。

 

 桜とクルーズ船。

 黒船橋で大横川を離れて左折、都道463号線沿いを歩いていると東京海洋大学が見えた。

東京海洋大学

 東京海洋大学一号館は、大正12年(1923年)の関東大震災により焼失した木造校舎の跡地に、関係者の努力で昭和5年(1930年)起工、昭和7年(1932年)に完成した。

 

 少し先に進むと、明治丸が見えてくる。

明治丸

 明治丸明治6年(1873年)に日本政府が発注し、イギリス・グラスゴーネピア造船所で灯台巡回船として建造された補助帆付汽船で、現存する日本最古の鉄船である。

 明治9年(1876年)、明治天皇は東北・北海道巡幸の際に青森から函館経由横浜への海路にこの船に乗った。

 明治30年(1897年)、海洋工学部の前身である商船学校に移管されて繋留練習船となった。以来50年にわたり教育訓練の場として活用されてきたが、昭和39年(1964年)に商船教育の伝統を象徴する記念船として構内の一角に陸上固定された。

 昭和53年(1978年)、日本造船技術史上、貴重な遺例として国の重要文化財に指定され、その優美な姿が永久に保存されることとなり、昭和55年(1980年)から保存修理および基盤整備の工事が行われ、昭和63年(1988年)に復元工事が完了した。

 今回は道路を挟んで見ただけだったが、いつかじっくり見てみたい。

4.石川島公園

 相生橋晴海運河を渡る。運河だけあって、川幅がある。

 

 石川島公園に入り、晴海運河沿いを歩く。桜が満開だ。

 

 これは街路灯の配線のマンホールで、中央区の花ツツジと区の木ヤナギが描かれている。

 

 歩いていると、「日本初の民営洋式造船所 発祥の地」の石碑を見つけた。

「日本初の民営洋式造船所 発祥の地」

 嘉永6年(1853年)、アメリカのペリー艦隊が来航した。そこで江戸幕府の命を受けた水戸藩がここに石川島造船所を創設した。

 明治9年(1876年)、平野富二により日本初の民営洋式造船所として再スタートし、明治22年(1889年)には渋沢栄一などの協力により会社組織となり、有限責任石川島造船所、株式会社石川島造船所の社名のもと、明治から昭和にかけて多くの軍艦・商船を製造した。ここでの造船は昭和14年(1939年)に造船部門が豊洲へ移設したことで終了した。

 現在はIHIという重工業会社となっている。

 

 隅田川晴海運河の合流点に、パリ広場がある。

「パリ広場」

 東京都とパリは姉妹都市で、セーヌ川隅田川が姉妹川であることから、平成11年(1999年)に「日本におけるフランス年」を記念して「パリ広場」が作られた。

 パリ広場から隅田川を見る。それを知ると、セーヌ川のほとりにいるような気分になってくる。もっとも、セーヌ川に行ったことはないのだが。

 

 大きな中央大橋を見る。

中央大橋

 中央大橋は平成5年(1993年)に開通した新しい橋だ。中央橋脚部分にはパリ市長から寄贈されたオシップ・ザッキン作の彫刻「メッセンジャー」が置かれている。

 

 中央区立佃公園沿いを歩いていると、対岸に三角形のモニュメントが見える。霊岸島水位観測所である。

霊岸島水位観測所

 霊岸島水位観測所は、東京湾平均海面を決めるための海面の高さを観測した場所である。

 東京湾平均海面とは、日本の土地の高さの基準である。離島を除き、一等水準点網を構成できる範囲では、東京湾平均海面が標高0mと定義されている。

 海面は絶えず変化しているが、長い年月連続して観測し平均すると一定の高さを示す。これを平均海面という。

 明治6年(1873年)から明治12年(1879年)まで、東京湾霊岸島水位観測所に設けられた量水標で干満時の海面の高さを観測し、それを平均したものを東京湾平均海面とし、標高0mとした。

 霊岸島水位観測所には一等水準点「交無号」とモニュメントがある。このモニュメントは観測柱を正面に、土木や建築の設計図などで高さを表す記号として用いられる▽をイメージに三角形のフレームを作り、その下端部はA.P.(Arakawa Peil:東京湾平均海面を基準とする基本水準面)0mを指し、三角形の一辺の長さは観測所位置の東経139°47′にちなみ、13.947mとなっている。

 

5.佃島

 灯台を見つけた。灯台の下はトイレになっている。

 佃島摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師たちが江戸幕府の許可を得て築造した漁村である。

 徳川家康天正10年(1582年)、京都から堺の地に遊んだとき、本能寺の変が伝えられ、急遽踵を返して間道を通り抜け大坂に向かったが、出水のため途方にくれているときに佃村の庄屋孫衛門が多数の船を出して一行を助け、ここに徳川家と佃島漁師の間に固い絆が結ばれることになった。

 その後、家康が江戸に幕府を開くにあたり、佃村の漁師に対する恩賞として彼らに幕府の御菜御用を命ずべく、老中安藤対馬守を通じて、その出府を促し、慶長18年(1613年)には「網引御免許文」を与え、江戸近海において特権的に漁ができるようになった。

 正保元年(1644年)には現在の地に百間四方の土地を埋め立てて築造し故郷摂津国住吉神社の分霊を奉祀し、島の名を佃島命名した。

 石川島の灯台は慶応2年(1866年)、石川島人足寄場奉行 清水純時が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金をさき、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台だった。

 平成元年(1989年)、佃公園を整備するときに、灯台がモニュメントとして建設された。

 

 佃公園をあとにして、住吉神社に向かう。

住吉神社

 住吉神社佃島から月島一帯にかけての氏神にされていた神社である。

 大阪市住吉区住吉神社の分社の形で正保年間の創建である。近世には漁民ばかりでなく廻船問屋の信仰もあつかった。現在の社殿は明治3年(1870年)に建てられたもの。

 住吉神社の大祭は4年に一度、8月6日から3日間である。昭和51年(1976年)1月16日東京都無形民俗文化財に指定された「佃島の盆踊り」は佃1丁目一帯に伝わる海村郷土芸能で、現在は佃島盆踊保存会が継承している。

 鳥居には青色の陶製住吉神社扁額が掲げられている。額の縁は14cmほどの幅で雲文様が入っている。

 鳥居右手の水盤舎(おみずや)は重厚な建造物だが、写真を撮り忘れてしまった。水盤は伊豆石で銘に天保12年(1841年)とある。

 

 住吉神社に参拝したら佃小橋に出る。すると、以下の注意書きが目に入る。

 「此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(1798年)徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が、埋設されておりますので立ち入ったり掘り起こしたりしないでください」

 木柱も水中に保存しておけば腐らない、ということだろうか。

 そんな江戸時代の柱の背後には、高層マンションが見えている。

 

 佃のまちを歩く。古い家がところどころ残っている。佃周辺は太平洋戦争のとき、空襲に遭わなかったからだという。ただ、当時の家はどのくらい残っているのだろうか。

 

 反射して見えづらいが、龍虎の頭が展示されていた。

龍虎の頭

 龍虎の頭の制作年代は不詳である。佃島は、空襲には遭わなかったものの江戸時代はそれなりに火災が発生していた。そのときでも、いつも龍虎の頭はその災いを免れていたという。

 

 龍虎の頭の隣に「佃島渡船」と書かれた石碑がある。

佃島渡船」

 佃島の渡船は正保2年(1645年)に始められた。

 明治9年(1876年)7月東京府に「佃島渡船賃銭掲示札下渡願」が出されて渡し料金は1人5厘、このころ郵便切手が5厘である。荷物は2人持ち1個1銭であった。

 大正15年(1926年)3月10日東京市の運営となり、昭和2年(1927年)3月31日渡船施設を完成させて無料の曳船渡船を始めた。今残る石碑はこのとき建てられたものである。隅田川ではもっとも長く利用された渡しである。

 昭和18年(1943年)には中央区営となり、昭和30年(1955年)7月1日、渡船は1日70往復に増便され、同年10月7日には曳船の第十有明丸が就航するなど、盛況だった。

 昭和39年(1964年)7月には豊海に冷蔵倉庫も完成され、待望の陸上交通としてその8月27日に佃大橋が完成されるとともに、320年の歴史を持つ佃の渡しは長い江戸・東京情緒の歴史を閉じたのだ。

 橋ができれば便利だが、渡船は消えてしまう。残念なことだが、そういうものなのだ。

 

 佃といえば、佃煮である。

 佃煮のおこりは、島生活での不時の用にあてるために考えだされたもので、古くからコハゼを用いていた。これを醤油で辛く煮付けるのである。

 佃煮を江戸市中で初めて売り始めたのは日本橋坂本町の伊勢屋太兵衛という料理茶屋だった。

 この通称伊勢太という人は大伝馬町長谷川治郎吉店で働いていたことがあり、茅場町に掛茶屋を出して十組問屋からよく利用されていた。

 廻船の荷物を受け取る問屋たちはこの伊勢太で集まることが多く、ここから弁当をうけて品川沖へ船荷を見に行き、帰途は住吉神社へ参詣しており、このときに御神酒と佃煮が出る。こうしたゆかりで佃煮は伊勢太から売り出されていたわけである。

 

 佃大橋を渡り佃島を去る。佃大橋から見た隅田川は絶景だ。

 

 対岸にも、「佃島渡船」の石碑が残されていた。

 

6.築地外国人居留地

 佃大橋交差点を左折して進むと、「青山学院記念の地」という石碑を見つける。

「青山学院記念の地」

 青山学院といえば今では箱根駅伝で有名な大学だが、アメリカ・メソジスト監督教会の宣教師によって創立された3つの学校を源流としている。その3つの学校とは「海岸女学校」「女子小学校」「救世学校」である。

 近くに、女子聖学院発祥の地の石碑もあるが、解説が読みづらい。

「女子聖学院発祥の地」

 

 「明治学院発祥の地」の石碑も見つけた。

明治学院発祥の地」

 明治学院明治10年(1877年)、旧築地17番地に開設された東京一致神学校がルーツである。

 明治学院発祥の地の少し先の交差点で右折して、居留地通りを進むと、「築地外国人居留地跡」の説明板がある。

築地外国人居留地

 明治元年(1869年)11月9日、明治新政府は築地に外国人居留地を開設する旨の東京開市の宣言を発した。これにより、鉄砲洲(明石町)付近一帯に居留地が開かれ、明石橋の近くに運上所(税関)が設けられた。

 横浜同様に、外国人貿易商や日本人売り込み商人が多数はいって繁栄することを見越し、築地6-20にあった旧幕府軍艦操練所の跡地に、外国人用旅館として、西洋風建築の築地ホテルを建て、新島原遊郭を設けた。

 築地は、外国人貿易商たちに思ったより官庁街から遠いと意識され、横浜がすでに港湾としても整備されてきたために、貿易商側では、わざわざ築地に出ることによって、横浜と築地に取引事務が二極化するわずらわしさを避けたかった。日本政府の予期に反して、築地居留地は振るわなかった。新島原遊郭は閑古鳥が鳴いていたので明治3年(1872年)に廃止され、築地ホテルも明治5年(1874年)に焼失、再建されなかった。

 明治32年(1899年)、築地居留地は廃止された。その当時築地にいた外国人は180人あまりであったが、商人は少なく、キリスト教宣教師らインテリ層が比較的多かった。したがって、教会やミッションスクールが建てられ、これらは築地居留地廃止後も残った。のちに聖路加教会や病院も建てられた。

 

 築地外国人居留地跡に、ガス街灯柱がある。

ガス街灯柱

 この柱はコリント風の柱である。東京の都市ガス事業は、明治7年(1874年)に始まっており、この街灯柱は明石町の外国人居留地で用いられたものである。夕方になると、点火手が長い棒の先に鍵と点火具をつけてこのランプの底を開いて点火して廻り、暁の頃にはガスのバルブを閉めて消して歩いていたという。

 網の向こうにあるのが中央区立明石小学校である。都会の小学校だけあって、オシャレである。

 大正15年(1926年)に建てられた明石小学校の階段の一部が、ベンチに再利用されていた。

 

 明石小学校の向かい側に、聖路加国際病院がある。

聖路加国際病院

 聖路加国際病院はもと築地病院で、明治33年(1900年)アメリカ人医師が再建、昭和8年(1933年)完成の旧病院棟も残っている。

 今日は土曜日だが、聖路加国際大学の入学式が行われていた。

7.本願寺築地別院

 都道50号線に出て南西に進むと、本願寺築地別院が見えてくる。

本願寺築地別院

 本願寺築地別院は「築地本願寺」と呼ばれており、浄土真宗京都西本願寺の別院である。

 エキゾチックな大伽藍で、大正の関東大震災後に京都大学伊東忠太博士の設計で石造の古代インド仏教式という建築様式の建物である。

 もとは元和3年(1617年)本願寺第12世准如上人が関東布教の拠点として浅草横山町に創建した。

 これが明暦3年(1657年)の大火で焼失後、ここに幕府より新地を得て大坂佃より移住した門徒が中心になって海岸を埋め立てたのである。

 その後、昭和6年(1931年)に再建着工で昭和10年(1935年)完成した。

 本願寺築地別院が変わった形の寺院、ということは本で読んで知っていたが、実際に見たのは初めてで「わぁ、すごい」と声を出してしまい、隣にいた参加者の方を驚かせてしまった。

 

 中に入り、参拝する。中は線香の香り漂う、普通の寺院だった。

 

 境内には陸上交通殉難者追悼之碑、台湾物故者遺骨安置所など、さまざまな石碑がある。

陸上交通殉難者追悼之碑

台湾物故者遺骨安置所

 本願寺築地別院の西南端には親鸞聖人の銅像がある。

親鸞聖人

 親鸞聖人は、浄土真宗の宗祖である。

 「この人誰か知ってる?知らん(親鸞)!」と石井さんが言っていた。

8.築地市場

 築地場外市場の脇を通ると、いろいろな寿司屋がある。

 築地といえば東京都中央卸売市場、築地の魚河岸といわれる。幕府時代以来、長く日本橋にあった魚市場を関東大震災後、築地に移し、魚ばかりでなく一般水産物や青果などの生鮮食料品の集散地である。

 ご存じの方も多いとは思うが、築地市場はもうない。平成30年(2018年)に築地市場は営業を終了し、豊洲市場がかわりに開場した。「豊洲移転問題」が連日ニュースの話題になっていた気がしたが、築地市場が閉場したのはもうそんなに前のことだったのか、と思った。

 それでも築地は「海産物のまち」なのか、まだ寿司屋が営業していた。

 築地市場の跡地を覗くことができた。

 ここがどのように再開発されていくのか、楽しみである。

 

 築地市場跡にマグロ塚があった。

マグロ塚

 昭和29年(1954年)3月1日、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験で被爆した第五福竜丸から水揚げされた魚の一部(約2t)が3月16日に築地市場に入荷した。

 水揚げされた魚は国と東京都の検査が行われ、放射能汚染が判明した魚は市場内のこの一角に埋められ、廃棄された。

 第五福竜丸のみでなく、850隻あまりの漁船から460t近くの汚染された魚が見つかり、魚の消費が大きく落ち込み、築地市場の「せり」が成立しなくなったという。

 このような核被害が再び起きないことを願い、平成11年(1999年)にマグロ塚が作られた。

 ビキニ環礁での水爆実験では無線長が被曝により半年後に死亡、乗組員の癌の死亡者も多数出た。水産物にも影響が出た。やはり核兵器は、だめなのだ。

 

 「東京都中央卸売市場」の看板を見つけた。これは再開発後も、残されるだろう。

東京都中央卸売市場

 これは、築地市場引込線跡らしい。昭和62年(1987年)廃止された。

築地市場引込線跡

 

 都道50号線をそのまま進むとカレッタ汐留に着く。ここの46階に展望スペースがあるのだ。

カレッタ汐留

 エレベーターに乗り、展望スペースから外を見る。

 右側に浜離宮恩賜庭園、左の少し奥に築地市場跡が見える。築地市場跡の再開発が終わったら、ここから見える景色も変わるのだろうか。

 

 地上に戻り、浜離宮恩賜庭園の脇を通りながら進む。本来なら浜離宮恩賜庭園にも寄る予定だったらしいが、「下見のとき浜離宮恩賜庭園に寄ったら、あまりにも魅力的すぎて予定が崩壊しかねないので外した」とのこと。今度行ってみたい。

 

 汐留第二ポンプ所がある。

汐留第二ポンプ所

 汐留第二ポンプ所は港区・中央区千代田区・新宿区から集められた下水を芝浦水処理場に送るとともに、降雨時には、浜離宮恩賜庭園に隣接する汐留川に排水されていた雨水を東京湾に排水するために使用されているようだ。

 

9.東京水辺ライン

 ウォーターズ竹芝に到着したら東京水辺ラインのチケットが配られた。これで浅草まで移動するのだ。

 

 船に乗船する。

 

 浜離宮恩賜庭園とビル群を水辺から見る。コントラストが綺麗だ。

 

 築地市場跡を隅田川から見る。

 

 勝鬨橋を下から見る。

勝鬨橋

 勝鬨橋は高いマストの船が通れるように中央が双葉のように開く跳開橋であるが、現在は開いていない。

 

 聖路加タワーを見つけた。

聖路加タワー

 聖路加タワーは平成6年(1994年)に竣工した。オフィス棟28階とレジデンス棟32階を結ぶ連絡ブリッジが特徴的だ。

 

 先ほど通った佃大橋の下もくぐる。

佃大橋

 

 霊岸島水位観測所のモニュメントも確認できた。

霊岸島水位観測所

 中央大橋の下をくぐる。

中央大橋

 こちらは永代橋だ。

永代橋

 永代橋昭和3年(1928年)に架けられたが、初代の橋が架けられたのは元禄11年(1698年)のことである。

 享保4年(1719年)に永代橋は大破して江戸幕府は廃止したが、町の人たちが存続を町奉行所に願い出たため再度作ったあとしばらく民営の橋として橋銭をとっていた。

 文化4年(1807年)8月19日、富岡八幡宮の祭礼のときに橋が落ち、1500人あまりの水死者を出したといわれている。

 

 これは隅田川大橋だ。

隅田川大橋

 隅田川大橋は昭和54年(1979年)に完成した新しい橋で橋の上を首都高速9号深川線が走っている。

 

 TOKYO WATER TAXIの乗客がこちらに手を振ってくれたので振り返した。

 

 蔵前橋の下をくぐる。

蔵前橋

 蔵前橋の竣工は昭和2年(1927年)。関東大震災の復興計画で架橋された。

 

 東京スカイツリーが見えてきたあたりで浅草に着くので、下船する。

東京水辺ライン

10.浅草

 浅草・二天門船着場で船を下り、隅田公園を少し南に進むと東京スカイツリーアサヒビール本社に写ってとても綺麗なスポットがあり、思わず写真を撮ってしまった。

 

 桜に隠れるスカイツリー

 

 浅草駅前のデイリーヤマザキ。少し色合いが暗い気がするが、景観配慮だろうか。

 

 浅草駅ビル。

 浅草駅ビルの開業は昭和6年(1931年)のこと。幾度かの改修を経て、平成24年(2012年)に開業時の姿に復元された。

 

 新仲見世商店街を通っていく。

 東京のアーケード商店街、なくはないがそこそこ珍しい気がする。

 

 仲見世商店街は混んでいるので裏通りから浅草寺に向かう。

 

 浅草寺…の前に隣にある浅草神社に参拝する。

浅草神社

 ここで、浅草寺の縁起について書いておく。

 「浅草寺縁起」によると、推古天皇36年(628年)に、浅草寺が創建された。

 この年の3月18日、漁師の檜前浜成(ひのくまはまなり)、武成(たけなり)兄弟が宮戸川(みやこがわ。隅田川の古称。)で投網をしていると、金の観世音菩薩像が網にかかり、兄弟の主人 土師真中知(はじのまひとなかとも)と相談し、中知邸にその仏像を奉安した、というのが浅草寺の縁起である。

 中知、浜成、武成の3人は、浅草寺本尊拾得の功で神にまつられ、浅草神社の祭神となった。3人が主神なので、浅草神社の俗称を「三社様」、その祭礼を「三社祭」という。なお、後に東照権現(徳川家康)が合祀された。

 浅草寺に来ても浅草寺にのみ参拝し、浅草神社に行かない人もいるかもしれないが、浅草寺浅草神社はセット、ということがこの縁起からわかる。

 浅草神社の社殿は慶安2年(1649年)徳川家光が造営し、明和4年(1767年)に江戸幕府の命令で修理され、昭和38年(1963年)に再び修理された。様式は権現造りで、本殿、幣殿、拝殿から成り、いずれも国指定重要文化財である。

 

 浅草神社に参拝し、裏に回ると被官稲荷神社がある。

被官稲荷神社

 安政2年(1855年)、新門辰五郎の妻が重病になったが、新門辰五郎伏見稲荷大社に祈ることによって治り、その礼に伏見稲荷大社をここに勧請したものが被官稲荷神社である。

 浅草寺浅草神社には何度も参拝しているが、被官稲荷神社のことは初めて知った。

 境内にはたくさんの鳥居と狐の置物が寄進されている。

 

 さあ、浅草寺に参拝しよう、という流れになるが参拝客が多すぎるので、遠くからそっと手を合わせることで参拝したことにした。

浅草寺

 なお、浅草寺については以前の記事でも取り上げている。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 見上げると、五重塔がそびえていた。

浅草寺五重塔

 この五重塔は昭和48年(1973年)に再建されたもので、牌殿、講堂、文庫などのある建物の上に、五重塔が建てられるという珍しい様式を取り入れている。

 

 浅草寺をあとにして、横断歩道を渡りながら雷門を見る。

雷門

 雷門といえば浅草のシンボルだが、これは昭和35年(1960年)に復元されたもの。

 最初に雷門が建てられたのは寛永12年(1635年)だがその後炎上、再建を繰り返した。慶応元年(1865年)に焼失してから昭和35年(1960年)に復元されるまで95年ほど雷門のない時期があったようだ。

 

 今日の打ち上げはROOF TOP BAR Privado で行われた。

 夜景が綺麗なお店ということで期待していたが、本当に綺麗だった。

 

 やはり歩いた後のビールは美味しい。

 

 お料理はこんな感じ。

 

 ここで懇親会一次会は終わったが、なにぶんオシャレなバーだったので「食べ足りない!」という人がいて、二次会で中華料理屋に向かった。

 そしてまたビールを飲んだ。

 このあと、蔵前駅で解散、帰路についた。

 

 深川不動堂富岡八幡宮には行ったことがあったがその近くに桜の綺麗なスポットがあることは知らなかった。佃島本願寺築地別院はいつか行ってみたいと思いつつ行けていなかったので行けてよかった。東京水辺ラインのクルーズも気持ちよかった。浅草寺には何度も行ったことはあったけれど、被官稲荷神社の存在は初めて知った。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図(江東区中央区)

今回の地図(東京水辺ライン)

今回の地図(台東区)

歩いた日:2023年4月1日

【参考文献・参考サイト】

小森隆吉(1978)「台東区の歴史」名著出版

高梨輝憲(1978)「江東区の歴史」名著出版

北原進(1979)「中央区の歴史」名著出版

みんなで地理プラーザ!地理屋交流会(2022)「地理交流広場 第4号」

国立大学法人東京海洋大学海洋工学部 キャンパス史跡めぐり

https://www.e.kaiyodai.ac.jp/introduction/hspot.html

東京とりっぷ 中央大橋

https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0416/

(2023年6月7日最終閲覧)