10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

東海道を歩く 20.藤枝駅~金谷駅

 前回、岡部宿柏屋前バス停から藤枝駅まで歩いた。今回は藤枝駅から金谷駅まで歩こうと思う。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた東海道の難所、大井川を渡り、駿河国から遠江国に入る。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.千貫樋・瀬戸染飯伝承館

 静岡駅まで新幹線で向かい、降り立った。前回終了地点の藤枝駅まで東海道本線で向かおうとしたが、ここで問題が起こった。東海道本線が動いていなかったのだ。しばらく電車に乗って動くか伺っていたが、待っても動く様子がなかったので諦めて藤枝駅まで向かうバスに乗った。丸子や岡部も通る、あのバスである。

 そのバスに乗って、青木バス停で降りた。藤枝駅から青木バス停まで歩くところを省略した形にはなるが、東海道的には何も省略していないのでセーフとみなす。あまりにお腹が空いていたので近くにあったジョリーパスタで昼食をとった。

 期間限定メニューだったのか調べても名前が出てこなかったが、美味しかったことは記憶に残っている。

 青木交差点に着いた。今日はここからスタートだ。

青木交差点

 青木交差点から少し進むと、水準点がある。一等水準点第133-1号だ。

一等水準点第133-1号

 平成15年(2003年)に設置された標石型らしいが、マンホールの下にあるので確認できない。

 少し歩くと、津島神社がある。

津島神社

 この神社の御祭神は建速須佐之男(たけはやすさのお)大神と大穴牟遅(おおなむち)大神である。御神徳によるとこの津島神社は災厄と疫病を除く効果と幸福を授ける効果があるらしい。お参りしておいた。

 田中藩領牓示石蹟を見つけた。

田中藩領牓示石蹟

 瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組む特異な村だったので、藩境に境界を示す牓示石を立てた。この牓示石は一丈余(約3m)の石柱で、「従是(これより)東田中領」と書かれていたそうだ。

 そのまま進むと、六地蔵堂がある。

六地蔵

 六地蔵尊は、この近くにあった神龍が棲んでいたと伝えられる鏡ヶ池から出現し、庶民の安穏祈願のため、玄昌行者の手によって今から800年余りも前の承安3年(1171年)に玄昌庵と称する祠で、鏡ヶ池の畔に祀られたと言われている。

 外に六地蔵があった。1つの石碑に6体の地蔵がいるのは珍しいと思う。

 

 県道222号線に合流して割とすぐに、東海道追分がある。

東海道追分

 ここには瀬戸山を越える中世の古東海道と、山裾に沿う旧東海道がある。

 東海道が瀬戸新屋を通るようになって、東海道とこの古道と分かれるところを追分と呼んだようだ。古道はその後も主要道路として、青島村の学校や役場が沿道に置かれ、利用され続けていた。

 カインズ藤枝店のある交差点を左折して、千貫堤・瀬戸染飯伝承館へ寄り道する。

千貫堤・瀬戸染飯伝承館

 寛永12年(1635年)田中城主となった水野監物忠善(みずのけんもつただよし)は領内を洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方の藤五郎山をはさみ本宮山(正泉寺)まで約360m、高さ3.6m、巾2.9mの大堤防を千貫もの労銀を投じて増築したのが、千貫堤である。

 そういえば三島に「千貫樋」があったが、あれは水を通すもので、この「千貫堤」は水を防ぐものである。

 現在は石野家の南側に約40mの堤が残るのみである。

千貫堤

 瀬戸の染飯(せとのそめいい)は強飯(こわいい・もち米を蒸したもの)を梔子(くちなし)の実で黄色く染めて摺りつぶし、小判形などに薄く延ばして、干し乾かしたものである。乾燥した梔子の黄赤色の実は「山梔子(さんしし)」と呼ばれる漢方薬として知られ、消炎・解熱・鎮痛・利尿などの薬効があるとされた。梔子の汁で染めた染飯は、旅人にとって足腰の疲れをとる食べ物として評判がよかったという。

瀬戸染飯のレプリカ

 この瀬戸染飯自体は今は売られていないが、これを現代風にアレンジしたおにぎりが藤枝駅前の「喜久屋」で売られているようだ。今日は藤枝駅に寄らなかったこともあって見逃してしまった。

 千貫堤・瀬戸染飯伝承館では、瀬戸染飯のパッケージなどが展示されていた。

2.藤枝市内を歩く

 千貫堤・瀬戸染飯伝承館をあとにして、東海道に戻るとすぐ、染飯茶屋蹟を見つけた。

染飯茶屋蹟

 瀬戸の染飯は東海道が瀬戸山の尾根伝いに通っていた頃から尾根の茶店で売り始めたといわれ、天正10年(1582年)の「信長公記」に瀬戸の染飯が記録されている。ここで、江戸時代の終わり頃まで瀬戸の染飯は売られていたようだ。

 千貫堤の説明板がまた設置されていた。

 

 育生舎跡を見つけた。

育生舎跡

 育生舎は明治7年(1874年)4月14日に開校した、公立小学校である。明治23年(1890年)に青嶋尋常小学校に合併、移行して閉校となった。

 また田中藩領牓示石蹟があった。

田中藩領牓示石蹟

 田中藩領上青島は、横須賀藩領の下青島村と複雑に接し、また、この標石を立てた少し前、上青島村の一部が旗本日向銕太郎(ひなたてつたろう)の所領となっている。

 この標石も一丈余(約3m)の石柱で、「従是(これより)西田中領」と書いてあったようだ。

 歩いていくと、「おいしさが自慢 東海道写楽」という看板を見つけた。調べてみたらテイクアウトの寿司店らしい。

東海道写楽

 

 東光寺谷川を渡るところに、神社があった。八幡宮らしい。

八幡宮

 大きい御神木もある。

 

 「生育」と書かれた碑があるが、読めない。

 この八幡宮については説明板もなく、ネットで調べても特に情報は出てこなかった。

 

 川の反対側には祠と石碑がある。

 

 石碑には「御小休所阯」とある。明治天皇の御小休所か?

御小休所阯

 このあたりは松並木が残っている。東海道らしくて、実によい。

 

 「夢舞台東海道」を見つけた。「上青島の一里塚跡」と書かれている。

上青島の一里塚跡

 この説明板によると、昭和57年(1982年)に行われた発掘調査で、塚の形を表す円形の石積みが見つかったらしい。

 

 県道381号線に合流しても、松並木が続く。

 ここで1人のおじさんに声をかけられた。

 「さっきからずっと僕の前を歩いているけど、君も東海道を歩いているの?今日はどこまで行くつもり?」

 東海道を歩いています、今日は金谷駅まで歩くつもりです、と答えたら「頑張ってね」と言っておじさんは通りすぎていった。ずいぶん健脚なおじさんのようで、すぐ姿が見えなくなった。

 ここに水準点がある。一等水準点第001-205号だ。

一等水準点第001-205号

 昭和42年(1967年)に設置された金属標型の水準点である。

 ここで藤枝市から島田市に入る。

 

 カントリーサインを見たのはいつぶりだろうか。おそらく、「東海道を歩く 12.片浜駅吉原駅」で沼津市富士市の市境で見て以来ではないか。ずいぶん久しぶりに見た気がする。

3.島田宿

 島田市に入るとまた水準点を見つけた。一等水準点第134-1号だ。

一等水準点第134-1号

 昭和33年(1958年)に設置された標石型の水準点らしいが、鉄蓋の下にあるようで標石を確認することはできなかった。

 

 国道1号の206kmポストを見つけた。もうそんなに歩いたのか。

 

 また水準点を見つけた。一等水準点第001-206号だ。

一等水準点第001-206号

 昭和42年(1967年)設置の金属標型の水準点だ。

 

 「夢舞台東海道」の「道悦島」を見つけた。

「道悦島」

 「昭和天皇御巡察之處」を見つけた。明治天皇ではなく、昭和天皇関連の碑というのは珍しい。

昭和天皇御巡察之處

 「監物川と監物橋」の説明板を見つけた。

「監物川と監物橋」

 寛永12年(1635年)、島田宿は水野監物忠善(みずのけんもつただよし)の支配下に入った。監物は水不足を解消するため、灌漑用の水路を作ることを計画した。そして水路に大井川の水を引き入れた。それに感謝した農民は、その水路を「監物川」と呼び、東海道に架けた橋を「監物橋」と名づけたという。

 この説明板の隣に流れている小さな水路が監物川だろうか。

監物川

 御仮屋交差点をそのまま進み、県道381号線と別れる。

 

 御仮屋交差点に、水準点がある。一等水準点第135号だ。

一等水準点第135号

 明治18年(1885年)に設置された標石型の水準点だ。四角い標石で珍しいな、と思ったが、古い水準点だからかもしれない。

 しばらく進むと商店街が現れたが、これはもう島田宿が始まったということなのだろうか。人通りがあまりない商店街だと思う。

 

 「東海道五十三次」が展示してあるお店を見つけたが、よく見たら日坂宿の絵だった。なぜ島田宿ではないのか…。

 

 東海道島田宿一里塚阯を見つけた。

東海道島田宿一里塚阯

 島田宿一里塚は、天和年間(1681年~1684年)に描かれた「東海道絵図」の中で、江戸から五十里と記され、北側の塚しか描かれていない。幕末の文献「島田宿並井両裏通家別取調帳」でも北側の塚しか描かれていないから、北側しか塚が作られなかったのかもしれない。今は塚は残っていない。

 

 相変わらず人通りの少ない商店街を進む。

 

 問屋場跡を見つけた。

問屋場

 問屋場とは、宿場の中心となる施設で、主に公用の文書や物品、公務旅行者に人足や伝馬を提供し、継ぎ立てを行う施設である。

 島田宿問屋場の敷地は、間口8間(14.5m)、事務所は間口5間半(10m)で奥行5間(9.1m)の建物だったようだ。

 急にパッと開けたところに出た。

 

 足元を見ると、島田市のデザインマンホールがあった。これは大井川を輦台に乗って越えている様子を描いている。

 

 「刀匠 島田顕彰碑」を見つけた。

「刀匠 島田顕彰碑」

 島田の刀鍛冶は、室町時代より江戸時代末期にいたる約400年間の歴史をもち、繫栄期には、島田に多くの刀工が軒を連ね、鍛冶集団を形成していたという。この後行く島田市博物館にも島田の刀が展示されていた。

 

 島田宿案内図を見つけた。

島田宿案内図

 島田宿は天保14年(1843年)、問屋場1軒・本陣3軒・旅籠48軒があり、本陣はそれぞれ上本陣・中本陣・下本陣と言ったようだが、今はその面影はない。

 この島田宿は大井川を控えていたので、人口構成に特徴がある。

 延享2年(1745年)の記録によると、自分の土地がある高持が514軒であるのに、土地がない無高の者が804軒もある。農業が中心であった時代に、田畑なしで生活する者が多かったということは、川越人足など交通労働者が多かったことを示している。

 また、男女の数は男子の方が多くなっている。普通の宿場町は飯盛女(めしもりおんな)がいるから女性の方が多いのに、ここではそれを上回って男性のほうが多い。やはり川越人足の存在が大きかったことを示している。

 また別のデザインマンホールがあった。

 帯祭とはこの先にある大井神社の祭りで、日本三大奇祭といわれている。

 帯祭というのは、島田で嫁を迎えると、晴れ着を着て大井神社に参詣し、安産を祈ってから宿内を披露するしきたりがあったのを簡略化して、大祭のときに帯だけを披露するようになったことに由来するようだ。

 神輿の渡御に伴い、大名行列が行われ、豪華な丸帯を大小の刀にかけた大奴(おおやっこ)25人が、雅やかに進むという。また、鹿島踊りが奉納され、祭礼期間中は華麗な元禄絵巻が展開されるそうだ。いつか見に行きたい。

 大きな時計の下に、本陣跡がある。

本陣跡

 本陣とは幕府の高官や、公家、大名、旗本、高僧など支配層の人々が、休憩・宿泊するために各宿場に設けられた施設である。

 島田宿には上本陣村松九郎治家、中本陣大久保新右衛門家、下本陣置塩藤四郎家の3軒の本陣があったが、脇本陣はなかった。

 

 今度は帯祭のカラーマンホールを見つけた。

 

 塚本如舟邸跡を見つけた。

塚本如舟邸跡

 塚本家は代々孫兵衛を名乗り、元禄9年(1696年)、初代の川庄屋を代官から任命されている。

 そのなかでも3代目孫兵衛は、「如舟」と号して俳諧を嗜んでいた。元禄4年(1691年)、俳諧師松尾芭蕉が江戸に向かう途中に如舟宅を訪れ、交流している。このことから、島田は俳句の盛んなところとなったようだ。如舟は俳諧だけでなく、家業にも精を出す人物だったそうだ。

 島田掛川信用金庫の前に、松尾芭蕉の句が書かれている。

 「するがぢや はなたち花も ちゃのにほひ」

 元禄7年(1694年)、松尾芭蕉は江戸をたって東海道を京に向かうものの途中で大井川の川留めにあったため島田で4泊した。そのとき、友人の手紙に添えて送った俳句がこれである。

 本通り2丁目交差点で左折すると島田駅に到着するが、今日は先に進む。

本通り2丁目交差点

4.大井神社

 そのまま進むと、右手側に大きな鳥居が見えてくる。大井神社だ。

大井神社の大鳥居

 大井神社の境内に入ると石垣がある。

 江戸時代、大井川の川越稼業の人たちが毎日、仕事を終えて帰るときに河原から石を1つ選んで持ち帰ってそれを積んでこの土手石垣を作ったらしい。

 

 福寿の手水鉢を見つけた。

福寿の手水鉢

 江戸時代の享保年間に、武州玉川の崇敬者が奉納した手水鉢らしい。約300年前の手水鉢が残っているのはすごい。

 この常夜燈籠は平成16年(2004年)に再建されたものらしい。

常夜燈籠

 島田鹿島踊先導三番叟像があった。

三番叟像

 三番叟像の隣には島田の帯祭大奴像があった。

大奴像

 本殿の隣に、清め祓いの神井戸がある。この井戸は、大井神社すべての神事に用いられ、穢れを払う神聖な井戸として尊ばれてきたようだ。

清め祓いの神井戸

 さあ、本殿に参拝しよう。

大井神社

 水の女神弥都波能売命(みづはのめのみこと)、土の女神波邇夜須比売命(はにやすひめのみこと)、日の女神天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭神とする。

 島田の氏神として崇敬篤く、古くは「日本三大実録」貞観7年(865年)12月21日条に大井神社の神階についての記録が見られる。

 はじめは、大井川上流の谷畑大沢(現・川根本町)にまつられていたが、13世紀頃島田宿下島に移ったという。慶長9年(1604年)の大水害のとき、野田村に一時移転し、元和元年(1615年)下島に戻った。

 島田宿が復興整備されると、元禄2年(1689年)現地に鎮座し、下島の神社跡地を御旅所、下島を御仮屋と称するようになったという。

 この大井神社は大井川流域だけにあってほかにはないということと、1つの川の名前の神社が特定地域に集中しているということで珍しい。

 御朱印をいただいたが、1月は書置きのみの対応だった。

 

 参道を戻っていると、大井神社最古の奉納燈籠と帯塚を見つけた。

 最古の奉納燈籠は寛文3年(1663年)のものらしい。

最古の奉納燈籠

 帯塚は、使用した帯に感謝してこの帯塚に納めると、一家の平安と安産が保証されるらしい。

帯塚

5.大井川川越遺跡

 大井神社をあとにして先に進むと、大善寺に着く。

大善寺

 大善寺は浄土宗の寺院である。大善寺の創建は江戸時代初期に青海を名乗る修行僧がここに草庵を設けたのが始まりと伝えられている。

  大善寺には梵鐘がある。

大善寺の梵鐘

 大善寺の梵鐘は天明4年(1784年)に備えつけられ、それ以後、2時間おきにこの鐘は島田宿の人に時間を知らせていた。特に、明け6つ(日の出)と暮れ6つ(日の入り)の鐘の音は、大井川の川越の始まりと終わりの合図にもなっていた。

 太平洋戦争のときに供出されてしまい、現在の鐘は昭和48年(1973年)に新しく造られたものである。

 

 島田市のマンホールを見つけた。

 SHIMADASHIの「S」の文字をかたどり、東海道の中心から全国に広がる躍動感を表現したデザインらしい。

 島田市の旧市章が側溝にデザインされていた。

 

 塚本家があった。

 塚本家には上段の間が現存する。

 上段の間とは、奥の一室が一般の座敷より一段(約20cm)高くなっていて、身分の高い人をお迎えする特別な部屋のことである。江戸時代、大名や公家などの宿泊する本陣には必ず備えられていた。

 

 島田市博物館分館がある。寄ってみよう。

島田市博物館分館

 この日本家屋は、明治32年(1899年)に島田でも有数の地主の住まいとして建てられたものらしい。

 平成8年(1996年)に地域のために活用してもらいたい、との申し出があり、島田市が取得して管理することになった。平成12年(2000年)に博物館分館として開館した。

 中はこのようになっている。

 

 島田のあの頃のお話「あんときゃねぇ」が展示されていた。

 「アイロンはな、おふくろが炭に火をつけて焼くだよな。そんで炭が赤くなると中に入れる。手で触るで。「あったかくなったかな」って。おーんもいっけね。重たいでいいっけね。しわがなおるでね。こてもあっためてな。そんで手ぬぐいをしめらかしてな、それでじゃーっとしたら、湯気がぶわーっと出るだよ。」

 昔のアイロンの話である。その話の下あたりに、昔のアイロンが展示されていた。

 

 ここは主の部屋で、この部屋だけ掘りごたつが置いてある。

 

 ここは来客をもてなすための来客接待の間である。

来客接待の間

 外には釣瓶井戸がある。

釣瓶井戸

 この井戸は、明治33年(1900年)頃、屋敷が建てられたときに彫られたもので、滑車付きの釣瓶井戸である。井戸は当時のままで、滑車はその当時の民俗資料を利用し、桶は復元している。昭和29年(1954年)頃には水道が引かれたため、その役目を終えたようだ。

 島田市博物館別館には民俗資料室もある。

 まず入ると、島田の林業で使った道具が展示されている。

 大井川の流れの中流に位置する島田は、大井川とともに林業が発展した。

 江戸時代から林業は行われていたが、川越しの邪魔にならないように時間を決めて木を流していたそうだ。

 明治3年(1870年)に川越制度が廃止され、大井川を利用した木の運搬が自由に行われるようになった。

 明治22年(1889年)に東海道本線が開通、木材業界にも変化をもたらした。島田で最初の合資会社である大井製作所は島田の木材業の中心になった。

 明治29年(1896年)には大井製作所が水害回避のため水神山付近に移転した。

 明治30年(1897年)には島田軌道が設立され、トロッコが開通した。

 明治36年(1903年)には「大井川沿岸木材商同業組合」が設立される。

 昭和6年(1931年)に金谷~千頭間で大井川鉄道が開通した。

 昭和26年(1951年)に井川地区からの陸送が可能となり、「木都島田」と呼ばれるようになった。

 

 隣の部屋にもいろいろ展示してある。これは昭和40年代の木琴で、叩くことができる。優しい音がした。

 

 白黒テレビとカラーテレビも展示されていた。なぜオバケのQ太郎3年B組金八先生の絵が貼られているのか気になる。

 

 昔の農具も展示されていた。千歯こきは、小学校の民俗資料室にも置いてあったことを思いだす。

 

 家庭用かき氷機や家庭用アイスクリームメーカーが展示されていた。

 

 隣の部屋には、電話機が展示されていた。実家には固定電話があるが、今の部屋には携帯電話しかない。固定電話が置かれている家庭も減っている気がする。

 

 盃や徳利など。島田は酒が有名なわけではないのにたくさんある。

 

 「由比宿東海道あかりの博物館」を思い出す、照明器具の数々。

 

 双眼鏡や計算機など。

 

 下駄がたくさんある。

 

 島田宿時代に使われた食器類だろうか。

 

 「愛国貯金箱」なる、いかにも戦前に作られたと思われる貯金箱も展示されている。

 

 測量機が展示されていた。いつ頃使われていたのだろうか。

 

 これはいつ頃の地球儀なのだろうか。アフリカ諸国に国名が書かれていないあたり、まだアフリカ諸国が植民地だった時代のものだろうか。

 

 古いオルガンが弾けるようになっていた。ちょっと弾いてみようかとも思ったが、ほかに見学者がいたので、恥ずかしくてやめておいた。

 

 島田市博物館別館には海野光弘版画記念館もある。海野光弘は昭和14年(1939年)に生まれ、昭和54年(1979年)に39歳の若さで亡くなった木版画家である。館内は撮影禁止のため写真はないが、優しい気持ちになれる絵が展示されていた。

 

 島田市博物館別館を出ると、大井川川越遺跡だ。

 慶長6年(1601年)、徳川家康東海道に宿駅伝馬制度を設け、街道を整備した。この際、大井川などは徒歩(かち)での通行と定められた。徒歩での通行と定められた川は、酒匂川、興津川、安倍川、瀬戸川、大井川、草津川などがあるが、このなかでも一番有名だったのがこの大井川で、関所同然の要害の川と呼ばれた。俗謡に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれたように、江戸時代、大井川は東海道最大の難所で、増水のために川留となると、旅人は水が引くまで何日も待つことになった。

 川越業務が制度として確立するのは元禄9年(1696年)のことである。この年、島田代官野田三郎左衛門は、川越の管理と統制のために、2人の川庄屋を任命した。川越の事務を取り扱ったのが川会所である。川会所は川庄屋の下に、年行事・添役・待川越などをおいて、毎日大井川の水深をはかって渡賃を決めていた。

 大井川を渡るには、川札を川会所で買い、川越人足に渡して肩や連台に乗って川を越した。渡賃は水深に応じて、股通(またどおし)(人足の股くらいの深さ)から脇通(わきどおし)(脇の下くらいの深さ)まで料金が定められており、脇通の4尺5寸(約136cm)をこすと川留(かわどめ)になった。川留とは川越が禁止されることであり、水が引いて許可されることを川明(かわあけ)といった。

 現在、番宿のなかで見学できるのは右側の十番宿・川会所、左側の三番宿・仲間の宿・札場などである。

 まず、三番宿を見る。

三番宿

 三番宿は川越人足が普段詰めていた待機所である。

 川越人足は、10組に分けられ各組が1つの番宿に詰めていた。各番宿には連台5丁が備えてあった。

 川越人足は各組が輪番制であたったが、当番ではない組の人足もそれぞれの番宿で50人ほど待機していたようだ。

 

 ここは十番宿だ。用途は三番宿と同じ。

十番宿

 権三わらじが展示されていた。

権三わらじ

 権三わらじとは、川越人足が川越しの際に履いたわらじである。川底はすべりやすく、渡る際の履物にはわらじが最適とされたが、旅人が履いた道中わらじと異なり、わらじの縁にひもを通す作りになっている。これは川を越える途中でわらじに小石や砂利などがはさまっても、手をつかわずに取り除くための工夫である。権三という人が考えたことから、「権三わらじ」と呼ばれている。

 

 川越人足の人形が置いてあった。

川越人足

 川越人足とは大井川の川越しに従事した人足たちで、15歳以上50歳以下の屈強な男が務めていた。

 川越人足の数は、江戸時代の元禄年間は150人程度だったが、その後増員され、江戸時代の終わりには約650人もいたようだ。

 

 仲間の宿に入る。

仲間の宿

 仲間の宿は年をとった川越人足が集まった宿である。また、人足の代表である小頭(こがしら)や陸(おか)取りが集まって会合を開いた場所でもある。

 ここは人足たちの仕事上の意見交換などの場として使用されたようだ。

 

 ここは札場だ。

札場

 1日の川越しが終わった後で、それぞれの番宿で「陸取り」が、川越人足から川札を集めて札場で現金に換えていた。

 なお換金するときに、当日の川越賃銭から2割が差し引かれ、川庄屋・年行事などの給金、川会所などの修繕費、島田宿運営の財源などに充てられた。

 

 ここは川会所である。

川会所

 川会所は日々の川越賃銭の決定や徴収など川越業務の管理運営を行ったところである。

 江戸時代の川会所は現在地よりも東、札場の向かい側にあったが、明治以降数回の移転を経て、昭和45年(1970年)に現在地に移った。現存する川会所は、安政2年(1855年)に地震で倒壊したため、翌年に再建された建物を復元したものである。

 

 ここでは輦台などが展示されている。

 

 「川越 九拾四文」

 

 川札の値段はだいたいこれくらいだったようだ。一番安い股通の日で48文(約1,440円)、一番高い脇通の日で九十四文(約2,820円)。通るタイミングによって2倍近く違う上に、川留になるとその分宿泊代がかかるから、旅人の負担になっただろう。

 

 川庄屋と年行事。川越業務の中心的な役割を果たした人たちである。

 

 大高欄連台。説明はないが大名などが使ったのだろうか。

 

 奥には高札の復元がかかっていた。

 

 外に出ると、島田大堤があった。

島田大堤

 天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水で結界し、島田宿はすべて押し流された。

 その後、島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃、向谷水門を堀り抜き、宿内に3本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化している。おそらくこの頃に島田大堤が作られたと思われる。

 

 少し進むと稲荷神社がある。

稲荷神社

 稲荷神社の創建は宝暦10年(1760年)に旅人や川越人足の安全を守るために奉斎したのが始まりと言われている。

 江戸時代には聖牛(ひじりうし)と呼ばれる丸太を三角錐状に組んで川の水勢を弱める護岸設備が、近くの川岸にいくつも連なっていたことから八重枠稲荷とも呼ばれていた。

 書置きのみだが、御朱印もある。

 

 朝顔の松公園には、善太夫嶋堤(ぜんだゆうじまつつみ)があった。

朝顔の松公園

 善太夫嶋堤の築堤時期の詳細は不明だが、宝暦年間(1751~1764年)には築かれていたと考えられている。「島田宿書上控」(享和3年(1803年))によれば堤の幅3間半(約6.3m)、高さ6尺(約1.8m)で、下流に800間余(約1.4km)続いていたらしい。

 公園名の由来にもなっている朝顔の松がこれだ。

朝顔の松

 朝顔の松には以下のような話がある。

 安芸国の娘「深雪(みゆき)」が、宮仕え中の京都で宮城阿曽次郎という青年と恋仲になった。

 その後、国元に帰った深雪は駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされる。

 駒沢次郎左衛門こそ阿曽次郎とは知らずに深雪は家出し、朝顔という名の三味線弾きとなって阿曽次郎を訪ね諸国をさまよううちに目が見えなくなった。

 深雪が島田宿に来て、ある座敷から声がかかった。その人こそ阿曽次郎だったが、朝顔は目が見えなかったため気づくことができなかった。

 あとでその人が阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけたがそのとき、大井川は川留になっていた。半狂乱になった朝顔は大井川に飛び込もうとするが、戎屋徳右衛門に助けられ、目が見えるようになった。

 そのとき、初めて目に映ったのが、この松だった。

 当時の松は昭和10年代に枯れてしまったが、この松の一部が木碑にされ、お堂に納められた。この松は5代目らしい。

 朝顔が阿曽次郎と会えたのかわからず終いなのがもやもやするが、とりあえずいいお話、ということでいいのだろうか。

 朝顔の松の近くにはあさがほ堂と川除地蔵がある。

あさがほ堂

川除地蔵

 島田市博物館の前に、歌川芳艶が描いた源頼朝の大井川行列の絵がある。すごい行列だ。

 

 島田市博物館の前に「いたずらがき」という名前の彫刻がある。子供がいたずらがきしているのだろうが、せめて服くらい着ようよ…。

「いたずらがき」

 島田市博物館に入る。

島田市博物館

 1階は、島田宿や大井川の川越についての展示となっている。東海道で宿場人口が最も多いのは大津宿(滋賀県大津市)らしいが、なんと島田宿は7番目に大きかったようだ。流石に府中宿(静岡市)には負けるにしろ、城下町の岡崎や浜松、小田原よりも人口が多かったらしい。大井川を控えていたからだろうか。

 

 大井神社の帯祭の展示がここにもあった。

 

 江戸時代は国内を旅行するにもパスポート(のようなもの)が必要だったようだ。

 

 江戸時代の人の旅行スタイル。

 

 幕末の数年間、島田宿限定で使えるお金があったらしい。

 

 江戸時代の人の旅行道具たち。やはり折り畳み式枕で寝るのは頭が痛くなりそうだ。

 

 「やはらかに たけよことしの 手作麦 如舟」

 「田植とともに たびの朝起 はせを」

 この連句では如舟の「今年できの麦ですから、やはらかにたけよと申し置きました。」という芭蕉への気遣いと、「忙しいときお邪魔しました。田植え時ですから私も、朝早く起きて旅に出ます。」という芭蕉の心が詠みこまれている。

 

 島田宿には、全国で数人しかいなかった時計師がいて、その細工道具がこれである。

 

 島田鍛冶、五条義助一門の者が代々、今川、武田、徳川とその支配者からの厚い庇護のもとに栄えてきた。五条義助が作った刀が展示されていた。

 

 権三わらじがここにも展示されていた。

 

 大井川の川札、台札が展示されていた。台札は連台の使用料で、川札の2倍の値段がしたようだ。

 

 島田髷が展示されていた。

 「島田髷」は東海道島田宿の遊女が結い始めたとも、寛永頃の歌舞伎役者島田万吉の結った髪型とも言われている。

 島田近在では、島田髷曽我物語で有名な曽我兄弟の兄、曽我十郎祐成と親しかったとされる「虎御前」が初めて考案し結ったもので、虎御前は島田出身だったようだ。虎御前の話は、大磯あたりであった気がする。

 島田髷が島田の土地から起こり、その髷を最初に結った虎御前への髷供養感謝祭は恒例の行事として、毎年9月第3日曜日におよそ50人の島田髷を結った女性による踊りが奉納されるそうだ。

 

 2階では刀剣の展示が行われていた。

 まず最初に目についたのが相州伝の刀剣である。相州伝とは、相模国で作られた刀剣の作風のことである。室松時代になると、北条氏康小田原城下に刀工を集め作刀させ、そこに島田義助も赴いたそうだ。

 

 これは相伝備前の刀剣。南北朝時代になると、相州伝の作風が全国的に流行し、長船兼光や長船長義などが、備前伝と相州伝を合わせたような作風の刀剣を作るようになり、それが相伝備前と呼ばれた。

 

 島田鍛冶は、前に説明したように東海道島田宿で作刀した刀工集団で、室町時代に初代義助から始まり、助宗、広助などが知られている。相模国甲斐国の武将の指料(さしりょう)を打ち、その作風は相州伝風、備前風、美濃伝風のものが知られる。

 

 地刃が明るく冴えた相州伝の作風は、刀剣に美術的・芸術的価値を付加し、北陸や九州などの地方のみならず、すでに刀剣の産地として確立していた山城国備前国など、全国的に影響を及ぼした。

 

 廃刀令が出された明治9年(1876年)以降に作られた刀剣を現代刀といい、年代物の刀剣に勝るとも劣らない素晴らしい刀剣が多くある。これは平成6年(1994年)に三上貞直氏が作った刀である。

 

 これは日本刀を作るために必要な道具や玉鋼である。これを見て鬼滅の刃の最終選別後に日輪刀の玉鋼を選ぶシーンがあったことを思いだした。

 

 これは刀の鍔だ。

 そういえば、煉獄さんが亡くなった後で煉獄さんの刀の鍔を炭治郎が使っていたな、と思いだした。ちなみに鬼滅の刃はアニメ版は全シーズン履修済みだ。

 

 島田市博物館の前に、「夢舞台東海道」の「島田宿」があった。

 

 島田市博物館の前には、連台に乗って記念撮影できるスポットもある。

 

 さあ、大井川を渡るとしようか。

 江戸時代はここから大井川を渡ったようだが、今ここに橋はないので北にある大井川橋に迂回する。

 

 北に向かって歩いていくと、「なぜここに?」という位置に「夢舞台東海道」の「島田宿」があった。後ろに石碑があるが特に解説はない。

 

 大井川橋に到着した。

大井川橋

 大井川橋は、昭和3年(1928年)に架設された鋼製のトラス橋である。下部は井筒型の基礎と門型の橋脚により構成されている。いまなお建設当時の姿をよく残していることから、平成15年(2003年)に土木学会選奨土木遺産として認定された。

 ちなみに、川越は明治3年(1870年)まで続いていたようだ。

 大井川橋に足を踏み入れる。あまりの橋の長さに、対岸が見えない。

 

 夕陽に大井川橋が映える。

 

 流石東海道の難所、大井川の流れは雄大だ。

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」という歌を思い出す。

 

 15分かかって、大井川橋を渡り切った。

 現在は橋を渡っても島田市のままだが、その昔、令制国の時代は大井川を境に駿河国遠江国に分かれていたようだ。やっと、遠江国に入ることができた。

 大井川は交通の障害になっただけでなく、文化の境界線にもなっていて、大井川の東西で異なることが多かった。

 駿河側にあって遠州側にないものは神楽(かぐら)であり粟穂(あわぼ)・稗穂(ひえぼ)・晦日餅(みそかもち)・川中島の八兵衛様信仰であり、遠州で盛んなものは初凧あげ、遠州大念仏、地の神信仰である。また雛人形やヘラ鍬の作り方も異なっているようだ。

 大井川にコンクリートの永久橋が架けられるようになると交流が増え、川を挟んで向き合っていた村が互いに合併するようになり、文化の共通化がはかられるようになった。

 「大井川を渡っている」とTwitterで呟いたところ、「昔は難所だったのに、今は新幹線で大井川を体感することなく関東と関西を行き来することができる。便利になった反面、空恐ろしさも感じます。」とリプライが来た。大井川が増水して川留になると行き来が止まり、それだけ見るとデメリットしか感じないが、それは宿場町の繁栄や、宿場町に文化人が滞在することによって文化交流をもたらした。便利になった反面、失われてしまったものもあるのかもしれない。

 

 大井川の川越地点、金谷側から大井川を見る。

 

 ここからまた、東海道を歩く。

 

6.金谷宿

 金谷側にも、大井川の川越の絵がある。

 

 義人、仲田源蔵の像がある。

仲田源蔵

 仲田源蔵は天保12年(1841年)に金谷宿の醤油屋に生まれ、26歳で家督を継いだ。

 明治3年(1870年)に大井川川越制度が廃止され、1,200人の川越人足が失業した。源蔵は私財を投じて援助したが限りがあった。

 その後、島田郡政役所に人足の窮状を訴えたが却下され、政府の伊達民部郷に直訴した。源蔵は拷問されたが熱意は政府を動かして、人足への失業手当の支給と牧之原の開墾が許可された。元川越人足が牧之原茶園を開墾したのだ。

 さらに、明治16年(1883年)には大井川に木橋を開通させた。

 この後、小夜の中山を通るときに茶園のなかを通るが、その茶園は元川越人足たちが開墾した茶園だったのかもしれない。

 仲田源蔵の像の隣には福寿稲荷大明神がある。

福寿稲荷大明神

 福寿稲荷大明神の前には「夢舞台東海道」の「金谷宿」がある。

「金谷宿」

 島田宿と金谷宿の間は1里(約4km)ほどしかない。宿場間の距離は平均2里(約8km)なので、大井川の川幅だけの距離といえる。

 距離が短い理由は、大井川が川留になった場合に備えて、大井川の対岸に宿場が置かれたことによる。

 金谷宿にも川越し場跡があるが、島田側ほど整備されていない。

金谷宿川越し場跡

 金谷宿のなかを歩いていくと、「ここに旧家加藤家がありました」という看板がある。

 ここに平成16年(2004年)まで江戸時代に建てられた加藤家が残っていたらしい。火事で燃えてしまったのか、取り壊しを免れない事情があったのか…調べてみたがわからなかった。

 

 水準点を見つけた。一等水準点第136-1号だ。

一等水準点第136-1号

 明治33年(1900年)に設置された古い標石型の水準点らしいが、マンホールの下にあり確認できなかった。

 

 「売物件 ハウル」…ハウルは不動産屋もやっているのかな?

 

 歩いていたら西照寺にたどりついた。

西照寺

 西照寺には顕如上人絵像(けんにょしょうにんえぞう)があるらしい。

 西照寺の顕如上人絵像は安土・桃山時代に活躍した浄土真宗本願寺11世顕如上人を描いた絵図で、西照寺創建時より寺宝として伝えられているらしいが、見ることはできなかった。

 

 秋葉神社に、電気が灯っているのを見つけた。そうか、もう17時か。

秋葉神社

 夕暮れ時の金谷宿。宿場の面影はあまりない。

 

 佐塚家本陣の説明板の隣に、佐塚書店があった。今も佐塚さんが住んでいるのだろうか。

 寛永12年(1635年)参勤交代制度とともに、各宿に本陣が開設されたが、その当初より佐塚家は佐次右衛門(さじえもん)の名を継いで金谷宿本陣を務めていた。

 建坪263坪、門構え、玄関付きで、門の屋根には対の鯱(しゃち)が付いていたので「鯱の御門」と呼ばれていた。

 

 島田市金谷南支所の前に、柏屋本陣跡がある。

柏屋本陣

 柏屋は代々河村八郎左衛門(かわむらはちろうざえもん)を名乗り「金谷六人衆」と呼ばれた名家の一つである。代々本陣と名主を務めていた。

 江戸初期には柏屋と佐塚屋が本陣、山田屋は脇本陣だった。寛政3年(1791年)の「竹下屋火事」と呼ばれた大火によって本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋52軒の全ての宿泊施設が焼失した大火があったらしい。その後についてはわからなかったが、多分復興したのだろう。

 金谷宿では、箱根越えの山祝いと同じで、川を無事に渡ったということで「水祝い」が行われたこともあったらしい。

 

 普通の民家の前に、脇本陣(角屋・金原三郎右衛門家)跡を見つけた。

脇本陣(角屋・金原三郎右衛門家)跡

 脇本陣とは、参勤交代の大名や、勅使(天皇の使い)、公家(朝廷に直接仕える人)などが休泊する本陣の予備的な宿泊所である。普段は上級武士の休泊所となっていたが、本陣が重複したときなど、格式の低いものが格式の高いものに本陣を譲り、脇本陣に移っていた。

 

 協和水道株式会社の前に、定飛脚問屋(三度屋)跡があった。

定飛脚問屋(三度屋)跡

 定飛脚とは「三都定飛脚」ともいい、江戸と上方の京・大坂を定期的に往復した民間の飛脚で、月3度(2日・12日・22日)出したところから「三度飛脚」、取扱所を「三度屋」とも言った。明治4年(1871年)、郵便の制度が施行されるまで、書類や信書、金銀の輸送もこの定飛脚で取り扱っていた。

 

 東海道本線をくぐるガード下の手前に、東海道金谷宿の案内絵図、「夢舞台東海道」の「金谷宿」、一里塚跡が並んでいた。

東海道金谷宿」

「金谷宿」

一里塚跡

 この一里塚は江戸から53里、嶋田宿、日坂宿までそれぞれ1里のものだったらしい。

 

 東海道はこのガード下をくぐって続くが、今日は金谷駅へ向かい、終了とする。

金谷駅

 次回は金谷駅からことのまま八幡宮バス停まで歩く予定である。

 

【おまけ】

 今日は島田で宿泊するので、ホテルに向かう前にサウナしきじに向かった。

もはや恒例となったしきじ

 サウナしきじについては「東海道を歩く 14.新蒲原駅由比駅」のおまけで語ったので軽く感想だけを述べると、漢方薬草風呂、韓国式サウナ、天然水の水風呂が疲れた体に沁みて最高だった。

 サウナを終えた後はサウナしきじ2階で餃子定食をビールで流し込んだ。

 歩いた後のビールは美味しい。

 ビールで酔ったのか、疲れたのか、帰りの電車で寝てしまい、慌てて島田駅で降りた。このまま宿に戻り、この日は終わりとなった。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

今回の地図⑤

歩いた日:2023年1月21日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

小杉達(1992)「東海道歴史散歩」静岡新聞社

静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社

風神社(2014)「ホントに歩く東海道 第7集」

ippin 浮世絵と名物- 旅人に大人気!瀬戸の染飯(そめいい)

https://ippin.gnavi.co.jp/article-10198/

島田市観光協会 大善寺

http://shimada-ta.jp/tourist/tourist_detail.php?id=182

島田市 市章・市旗

https://www.city.shimada.shizuoka.jp/gyosei-docs/shishou.html