「お写ん歩書房」の石井建志さんにお誘いいただき、「本橋信宏×石井建志トークイベント&その前に上野散策」に参加してきた。
ちなみに本橋先生とのまちあるきは渋谷、新宿に続いて3回目である。過去のまちあるきはこちら↓
また、以前掲載した記事「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」と内容が重複している部分があるので、そちらも参照していただきたい。
1.寛永寺
開催日は7月30日で、夏のまだ暑い時期だったので、まちあるきは16時にスタート。
上野駅公園口から出発だ。
国立科学博物館の脇を通っていたら、ラムダロケット用ランチャーが展示されていた。
昭和45年(1970年)、鹿児島県の東京大学宇宙航空研究所(現・JAXA)から、世界最小の人工衛星を積んだラムダ45型ロケット5号機が、このラムダロケット用ランチャーにより打ち上げられた。
打ち上げられた人工衛星は「おおすみ」と名づけられ33年間飛んでいたが、平成15年(2003年)に大気圏に再突入、消滅した。
日本が初めて人工衛星の打ち上げに成功したのがこの「おおすみ」であり、ソ連、アメリカ、フランスに次いで世界で4番目に人工衛星打ち上げに成功した国となった。
このランチャーは、昭和49年(1974年)までラムダロケットの実験に使用された後に、国立科学博物館に移管され、展示されている。
寛永寺旧本坊黒門を門越しに見る。
このとき門は閉まっており、「閉門時間を過ぎたから閉まっているのかな」と思ったが、1週間後に「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」の取材に行ったときも閉まっていて、この黒門の前の門はいつも閉まっているようだ。なお、このときは両大師の門も閉まっていたから入れなかったが、両大師が開いているときはそちらから黒門の近くまで行くことができる。
この門は、かつて寛永寺旧本坊黒門として使用されていた。
寛永寺境内は慶応4年(1868年)5月の上野戦争のときことごとく焼失、表門のみ戦火を免れた。
明治11年(1878年)、帝国博物館(現在の東京国立博物館)が開館すると正門として使われ、関東大震災後、現在地に移建した。
黒門には不自然な穴が開いている箇所があるが、これは上野戦争時の弾痕である。
上野の歴史を語る上で、寛永寺の存在は外せない。
元和8年(1622年)12月、江戸幕府は上野山内一円を公収し、寺院建設予定地とした。
建設予定地には寛永元年(1624年)起工し、東叡山寛永寺を創建した。
東叡山寛永寺の開山は天海僧正である。天海僧正は天台宗の高僧で、徳川家康、秀忠、家光と徳川将軍3代の厚い帰依を受けた。
なぜ天海僧正は寛永寺を建立したのか。それは、江戸城鎮護のため、その艮(うしとら・東北方)の地の上野に、寺院を建立するよう、家光に進言したからである。艮は鬼門といわれ、鬼が出入する方角とされていた。
寛永寺は港区の増上寺とともに、徳川将軍家の菩提寺である。寛永寺の墓域には4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の霊が眠っている。増上寺と寛永寺に菩提寺を分けた理由としては、菩提寺を1か寺にすると権力が集中する恐れがあるから、といわれている。
慶応4年(1868年)5月15日、上野山にたてこもる彰義隊と官軍の間で戦闘が行われ、寛永寺の堂塔伽藍はほとんど焼失、跡地は明治政府に没収された。
寛永寺跡地が公園となった地は「上野公園」と呼ばれるようになった。大正13年(1924年)に帝室御料地から東京市へ下賜され、「上野恩賜公園」が正式名称となった。
両大師に向かうが、こちらも閉まっていた。
両大師は慈恵大師と慈眼大師、2人の大師像を祀っているので両大師と呼ばれている。
慈恵大師は平安中期の延暦寺住職の良源大僧正で、慈眼大師は寛永寺を開山した天海大僧正である。
ちなみに「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」では両大師が開いているときに訪問している。この堂宇は享保5年(1720年)に焼失した直後に再建されたもの。
今回訪問した寛永寺の建物はこのくらいである。ほかの建物について知りたい人は「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編 2.寛永寺」を参照してほしい。
2.上野東照宮
国立科学博物館の横を通る。
この建物は昭和6年(1931年)に完成した建物で、現在は「日本館」という名称で呼ばれており、国の重要文化財に指定されている。
噴水の奥に東京国立博物館が見える。
この大噴水のあるところが寛永寺根本中堂跡、博物館本館のあるところが本坊跡で、かつての寛永寺の伽藍の中心であった。
東京国立博物館のはじまりは明治5年(1872年)に湯島聖堂の大成殿に文部省博覧会の名称で設けられた。
現在の建物は昭和12年(1937年)に建てられた。「日本趣味を基調とする東洋式」の重々しい瓦屋根をもつ帝冠様式の建物である。設計者は渡辺仁。
逆光になっていて見づらいが、上野東照宮に向かう。
逆光になっていないときの上野東照宮はこんな感じ(江戸三十三観音をめぐる 3.上野編より)。
上野東照宮の参道には灯籠がたくさん並んでいるが、これは諸大名が寄進したもので、石灯籠は280基あまり、青銅灯籠も50基ほどある。
上野東照宮の祭神は徳川家康と昭和4年(1929年)に合祀された8代将軍吉宗。
元和9年(1623年)に伊勢安濃津藩祖 藤堂高虎(いせあのつはんそ とうどうたかとら)が上野山内の自邸内に社殿を造ったのが創始という。
社殿は慶安4年(1651年)に建てられ、拝殿、石の間、本殿、内殿で構成されている。唐門(からもん)、瑞籬(みずがき)とともに国指定重要文化財に指定されている。
上野東照宮の外に、一際大きな灯籠がある。お化け灯籠だ。
お化け灯籠は寛永8年(1631年)に佐久間大膳亮勝之が寄進した灯籠である。
なぜ「お化け灯籠」と呼ばれているのかというと、高さ6m、笠石の周囲3.6mと、巨大な灯籠だったのでその名がつけられたという。
上野大仏の前を通る。今回は通過しただけなので、「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」で撮った写真も上げておく。
上野大仏が一番最初に建立されたのは寛永8年(1631年)だが、現存する仏様の顔は明暦~万治年間(1655~1660年)に作られたもの。
元禄11年(1698年)には仏殿も建立されたが、明治6年(1873年)に仏殿が取り壊され、大正12年(1923年)の関東大震災で大仏の面部が落ち、大仏の体と足は第二次世界大戦時の金属供出でなくなってしまった。
現在のように「上野大仏」となったのは昭和47年(1972年)のこと。「これ以上落ちない仏様」ということで合格祈願に効果があるとか。
五条天神社、花園稲荷神社の前を通る。
寛永寺の拡張により上野の森がなくなっていくとき、上野の森に住む狐が天海に「なんとかしてくれ」と嘆願したため、崖に狐穴を掘り、その上に稲荷神社を置いた、という伝承がある。
3.西郷隆盛銅像
不忍池周辺は、江戸時代初期に開発されてから、盛り場となっていた。
文化が爛熟し、風俗の乱れた田沼時代・大御所時代頃には、時代風俗の影響もあって池畔に出合茶屋や娼婦を置く茶店が出現したという。出合茶屋とは男女逢引の場に利用された茶屋。川柳子はその情景をこう諷している。
池の名と 相違な客の 来るところ
不忍の 茶屋も忍んだ ことをする
茶屋借りに いの字とろの字 這入る也
寛永8年(1631年)、天海僧正が京都の清水寺になぞらえて、摺鉢山の上に創建したのが清水観音堂だ。現在地には元禄11年(1698年)に遷座した。
現堂宇は元禄11年(1698年)建立で、国指定の重要文化財。本尊は千手観音菩薩。
江戸三十三観音第6番札所なので、「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」でも訪れている。
清水観音堂の前には不自然な形の丸い幹の松があるが、これは「月の松」という。
月の松から不忍弁天堂の喧騒を見る。
摺鉢山方面へ向かうと、「時忘れじの塔」がある。「時忘れじの塔」は大正12年(1923年)の関東大震災や昭和20年(1945年)の東京大空襲での犠牲者の慰霊碑として、初代林家三平の妻、海老名香葉子氏によって建てられた。関東大震災は震災だから致し方ない部分はあるにせよ、戦争はもう繰り返してはならないと思う。
摺鉢山古墳は前方後円墳と推測される古墳であるが、改変されて往時の姿はないという。
男性同性愛者の「たちんぼ」がいる、ということで摺鉢山古墳に登ったら、確かにそれらしき方々が2、3人いらっしゃった。
本橋先生曰く、「上野はゲイの街」だそうだ。
上野が男色の街になり始めたのは寛永寺のある江戸時代に遡るという。
寛永寺には多数の修行僧がいて、その修行僧は男性だけだったため、同性愛に目覚めてしまう僧侶もいたという。海外の修道院は男性だけで、そこで男色に目覚めた人がいた、という話を聞いたことがあったので、確かに日本の修行僧、それも男性だけだとそういうこともあるのかもしれないな、と思った。
天海僧正毛髪塔を見つけた。
寛永寺を開山した天海僧正の弟子の義海が、慶安5年(1652年)に天海の毛髪をおさめて建立した五輪塔である。
ところで、お坊さんといえば坊主のイメージだが、どこから髪をとってきたのだろうか。剃髪したときの髪か、剃髪した後も髪は生えてくるからその髪を埋めたのか…。
彰義隊の墓に向かう。
ここは上野山内に放置されていた彰義隊士266人の遺体を、南千住円通寺の仏磨和尚らが火葬した場所といわれている。
この碑には「戦死之墓」と刻まれているが、明治新政府に遠慮して、彰義隊の文字を刻まなかったのだろうか。
銅像ははじめ皇居前広場に建てられる計画であったが、西郷隆盛は明治10年(1877年)に西南の役を起こし、賊将の汚名を着せられた人物であることから、遠慮してここに建てたらしい。
西郷隆盛は江戸無血開城の立役者で、江戸を戦火から救ったので、東京を一望できるここに建てたという。
ここでイスラエル人のバックパッカーと出会い、家族写真を撮ったあとでみんなで写真を撮った。よい旅になることを願った。
上野恩賜公園の南側の入口に噴水があるが、この噴水は寛永寺の黒門をイメージしたもののようだ。
4.不忍池周辺
上野オークラ劇場は昭和27年(1952年)に営業を開始し、平成22年(2010年)に新築再オープンした。
成人映画専門の映画館で、「日本一のピンク映画館」と謳っている。
上野には「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」「几号点を訪ねて―上野公園周辺―」「標高7mを歩く―谷根千編」など、数回取材で訪れているのに、上野公園の近くにこのような映画館があるとは知らなかった。
この「生誕」の銅像は、「生誕噴水塔」のシンボルだった。
生誕噴水塔は、昭和39年(1964年)のオリンピック東京大会を機に、地元有志で結成された上野美化促進会による都市の美化と戦後復興を祈念して建設された後、上野中央通り地下駐車場の整備に伴い撤去された。
令和2年(2020年)、再び東京でオリンピック・パラリンピックが開催されるのを記念して再設置された。だが東京オリンピックはご存じの通り、コロナで1年延期して令和3年(2021年)に開催された。
夕方だったので花びらは閉じていたが、不忍池の蓮が元気そうだった。
また、不忍池にもたちんぼがいた。今度は男のたちんぼではなく、おばさんの立ちんぼだった。
5.「上野アンダーグラウンド」の世界
上野公園に「川柳の原点 誹風柳多留発祥の地」の銅像があった。
川柳は、江戸時代に江戸で生まれた17音の庶民文芸として伝えられている。
川柳の名称は宝暦7年(1757年)に浅草新堀端にはじまったが、明和2年(1765年)7月、呉陵軒可有という人が、初代川柳評の前句付万句合の入選句から17音で鑑賞でき、深い笑いのある句を選び、「誹風柳多留」を刊行した。
このあたりには「誹風柳多留」の版元の星運堂があり、「誹風柳多留」を通じて川柳を江戸文芸の1つに育てた。
この碑があひるをイメージしているのは「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」の句からとったからである。
上野駅貴賓室跡地を見つけた。
昭和7年(1932年)に上野駅舎が完成したときにここに貴賓室が造られた。
天皇陛下をはじめとした皇族方が東北方面へ向かうときはたびたびここの貴賓室を使っていたようだが、現在も使っているかは不明である。「跡地」とあるので、使っていないのだろうか。
家系ラーメンの店の前を通るが、本橋先生曰くここは男色ビデオの店だったが、潰れてしまったようだ。
この近くに「九龍城ビル」と呼ばれていたビルがある。
九龍城とはかつて香港に存在した「東洋の魔窟」と呼ばれた世界一人口密度の高い一大スラム街である。
九龍城ビルは風俗通の間では「中国エステビル」「風俗マンション」と呼ばれていた。ここでいう中国エステとは、俗にいう風俗業である。
この九龍城ビル内は、中国エステで働く中国人女性たちが通路にゴミをまき散らしたり、非常階段を物置代わりにしたり、夜になると通路で用を足すようなこともあったという。
平成23年(2011年)、九龍城ビルに一斉捜査が入り、中国エステは壊滅したとされている。「上野アンダーグラウンド」で本橋先生が九龍城ビルに入ったときは「大小便しないこと!」「風俗業禁止!」と書いた貼り紙が貼ってあったという。
九龍城ビルの隣に小さな飲み屋街があるが、このうち白い看板の店はゲイバーらしい。
「サウナ大番」という店が見えるが、本橋先生曰くここはゲイサウナらしい。
しばらく歩くと、「自家製キムチ」「焼肉」といった韓国料理店が目立ってきた。ここはキムチ横丁というらしい。
コリアンタウンといえば新大久保が有名だが、ここ、上野にもあるのだ。
終戦直後、上野は駅の地下道、上野公園内の葵部落、アメ横のもとになった闇市に人が集まった。
闇市の利権をめぐって地元のヤクザと中国・朝鮮人が争いを起こし、警察が乗り出すが、当時の警察が取り締まるのは困難を極めたという。
下谷警察署が間に入り、昭和23年(1948年)に朝鮮人グループと上野のヤクザを下谷神社に集めて手打ち式をおこなわせ、これを機に朝鮮人グループを上野の一角に隔離した。
これ以降隔離区域は「国際親善マーケット」と呼ばれるようになるが、現在は「キムチ横丁」と呼ばれている。
本場韓国のキムチや焼き肉は美味しいのだろうか、今度機会があれば行ってみようかな、と思った。
キムチ横丁の近くには、パチンコメーカー等の本社もある。
戦後、在日コリアンへの差別偏見が強かった時代、在日コリアンたちは現金収入を得るために、日本人が手を出しにくい商売にも進出していった。そのひとつがパチンコだ。現在、全国に10,000軒以上あるパチンコメーカーの半数近くが在日系だという。
6.本橋先生と石井さんのトークイベント
本橋先生が案内する「上野アンダーグラウンド」のまちあるきも終わり、トークイベント会場へ向かう。
その途中に長遠寺があり、そこに二宮彦可(にのみやげんか)の墓碑跡がある。
二宮彦可は江戸時代後期に活躍した医師である。
宝暦4年(1754年)三河国岡崎藩主の侍医・国学者の小篠敏(おざきみね)の長男として生まれた。
幼少時に梅毒に感染し、病弱のため廃嫡となるが、明和4年(1767年)に岡崎藩口中科医の二宮元昌の養子となり家督を継いだ。
明和6年(1769年)、藩主転封により石見国浜田に移る。19歳の頃から各地で医学を学び、口中科、内科、眼科、産科、オランダ外科、整骨術など多岐にわたる。
寛政3年(1791年)には浜田藩主の侍医となり、寛政5年(1793年)には藩主について江戸に向かい、現在の中央区銀座に住んだ。文化5年(1808年)には「正骨範」という整骨術の本を出した。
文政10年(1827年)に74歳で亡くなり、長遠寺に葬られたが、墓碑は大正12年(1923年)の関東大震災のときに焼失してしまったらしい。
柳の木の下に、「川柳ゆかりの地」という説明板があった。
柄井川柳は享保3年(1718年)生まれ。宝暦5年(1755年)に龍宝寺門前の名主を継いだ。
宝暦7年(1757年)から前句付の選者として活躍、寛政2年(1790年)に亡くなった。
前句付は出題された前句(7・7の短句)に付句(5・7・5の長句)をつけるもので、川柳が点者(選者)を務める万句合は広く人気を集めたという。
明和2年(1765年)に川柳の選句集「誹風柳多留」の刊行を機に、付句が独立した文芸となり、明治頃から「川柳」と呼ばれるようになったという。
トークイベント会場「Readin' Writin'」に到着した。トークイベント前に本橋先生の著書「上野アンダーグラウンド」を購入する。
しばらく待つと、本橋先生と石井さんのトークイベントが始まった。
最初は本橋先生の経歴の紹介から始まった。本橋先生は高校時代、元テレビアナウンサーの辛坊治郎と同じクラスだったと語っていた。本橋先生の母校は川越高校で、私の母校は川越高校と対になる高校、川越女子高校だ。私のクラス、有名人いたかな…あ、東京パラリンピックにも出場した西田杏さんがいたな…などと考える。
本橋先生の有名な著書に「全裸監督 村西とおる伝」があり、これはAV監督の村西とおるの半生を綴ったもので、これが「全裸監督」としてNetflixによりドラマ化されている。
続いて、石井さんの紹介が始まる。まちあるきと読書が好きで、それを同人誌にまとめたりイベントを主催してまちあるきをしている、と語っていた。現在は上野、川越、日光の同人誌を執筆中と語っていた。この3都市の共通項は、上野寛永寺を開山した天海僧正が関わっていることである。
まちあるきと読書が好きなのは私もそうなのだが、ちょっと同人誌を出すのは厳しいので当面はブログと、寄稿型式の同人誌でやっていこうと思う。
本橋先生と石井さんが摺鉢山古墳でたちんぼを見たときのエピソードを語っていたが、たちんぼたちはほかの人が来ると隠れたりその場を去ったりすることが多いので、今日見られたのは珍しい、と本橋先生が語っていた。
昔、上野公園の現在の西洋美術館のあたりに「葵部落」というスラム街があった、という話があった。「葵」というのはもともと徳川家の墓地があったところなので「葵部落」とつけられたらしい。仕事も住居も食糧もない人が上野に集まり、バラックを建てて暮らしていたようだ。現在の上野の高尚な雰囲気からはとても考えられない。
ただ、高尚な地域の隣に俗な地域があるのは今もそう、と本橋先生が語っていた。例えば、渋谷周辺にある代官山は高級住宅地だが、その近くに円山町という俗な地域がある、など。
「歌舞伎町アンダーグラウンド」の話題になり、そこで登場した「オレたちひょうきん族」に出てくる「懺悔の神様」が作中で取材されている。「オレたちひょうきん族って知ってる?」と本橋先生に聞かれたので、「オレたちひょうきん族は平成元年(1989年)に放送終了、生まれる前に放送終了したので「歌舞伎町アンダーグラウンド」を読むまで知りませんでした」と答えた。
令和5年(2023年)8月に発売された本橋先生の新作「僕とジャニーズ」の宣伝もあった。これは、ジャニー喜多川の性加害がニュースで話題になっている今、本橋先生が以前ゴーストライターとして書いた「光GENJIへ」での北公次さんへの取材をもとにして書いた本である。北公次さんはジャニーズアイドルグループ「フォーリーブス」のリーダーを務めていたが、平成24年(2012年)に63歳で亡くなっている。なお、フォーリーブスについても知っているか聞かれたので、「フォーリーブスは昭和53年(1978年)解散、生まれる前に解散したので知らないです」と答えた。
トークショーが終わり、本橋先生にサインをもらう。本橋先生に「君、いつも来ているね。ありがとうね」と言われて嬉しくなった。
このあとは、懇親会に参加した。
やはり、歩いた後のビールは美味しい。
懇親会を終え、帰路についた。
上野は寺社仏閣と美術館の多い文教地区だ、という印象を持っていたし、「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」ではそういった場所をメインに巡っている。しかし、ゲイの集うゲイバーやサウナ、ピンク映画館、キムチ横丁やかつてあったスラム街、葵部落など、ただ上野公園のあたりを歩いているだけだと気づくことのできないものもたくさんあるのだな、と感じた。
私の知らない東京が、まだまだありそうだ。
歩いた日:2023年7月30日
【参考文献】