前回、浜松駅から舞阪駅まで歩いた。今回は舞阪駅から新居町駅まで歩こうと思う。舞阪宿から新居宿までは1.5里(約6km)と短めだが、その次の白須賀宿に休日動いてるバスがなく新居町駅から二川駅まで歩く必要があるため、今回は新居町駅で早めに切り上げて、残った時間で少し浜松観光をした。
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1.舞阪の松並木
今日は舞阪駅からスタートだ。
舞阪駅南口を出たら左に進み、突き当たりで右折すると舞阪駅南入口交差点に出る。ここで東海道と合流する。
旧舞阪町のマンホールを見つけた。
舞阪町は平成17年(2005年)に浜松市と合併して廃止された。このマンホールは町の木「マツ」がデザインされ、中央に舞阪町章がある。舞阪町章は「マ」をデザインしたものらしい。
舞阪町の町の木はマツ、と考えながら歩いていると、息をのんだ。
目の前に立派な松並木が広がっていたのである。
東海道といえば松並木である。今までも小さな松並木ならいろいろ見てきた。
この松並木は慶長9年(1604年)、江戸幕府が街道の両側にマツを植えさせたことにはじまり、正徳2年(1712年)の記録では、舞阪宿の東端の見付石垣まで約920mにわたって街道両側の堤上に1,420本のマツがあったという。
平成12年(2000年)の調査によると約700m、マツは388本にまで減ってしまったようだが、それでも十分立派だ。
江戸時代の旅人は松並木のなかを歩き、さぞ気持ちよかっただろうと思いながら松並木を歩く。
足元に小さな石碑を見つける。
歌川広重の「東海道五拾三次」の「日本橋」の絵とともに、「東海道五拾三次 日本橋 起点」と書かれている。「日本橋」の少し先には「品川」、また少し先には「川崎」…。これ、53次全部やるつもりだ。流石に55個(53の宿場+日本橋+京都)の石碑を全部撮るのは骨が折れるので、見るだけにした。
ちなみに一番大きい石碑だったのは、もちろん「舞阪」。
舞阪宿は日本橋から数えて30番目の宿場で、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠28軒の宿場だった。
石碑を見ながら歩いていくと、「東海道五拾三次 京都 大尾」で締められていた。よし、これで東海道五十三次、歩き終わったぞ!
もちろん、「東海道五十三次、歩き終わったぞ!」というのはウソで、これから舞阪宿に入る。
松並木の終点には「浪小僧」がいる。
そのむかし、遠州灘では地引網漁が行われていたという。
魚がとれない日が続いたある日のこと、真っ黒な小僧が網にかかった。
漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧はこう言った。
「私は海の底に住む浪小僧だ。命だけは助けてくれ。その恩に、海が荒れたり、風が強くなったりするときは海の底で太鼓を叩いて知らせよう。」
漁師は小僧を海に戻した。それ以来、天気の変わるときは波の音がするようになったという。
「海の底で太鼓を叩く」と言ったことから、この像は太鼓を持っているのだろう。
2.白王稲荷神社
新町交差点で旧道に入るが、そこに白王稲荷神社がある。すごい数の鳥居が連なる。
白王稲荷神社の祭神は宇迦之御魂大神(うかのみたまのみこと)ほか4柱。
創建年代は不明だが、慶長9年(1604年)の検地の史料には既に「いなり山」と記載されていたようだ。
平成11年(1999年)、もとの所在地が災害時避難地として公園になったため、翌年現在地に遷座し、改めて京都の伏見稲荷大社から分霊を迎えたという。
白王稲荷神社に参拝し、少し木陰で涼んでから先に進むと、見付石垣があった。
見付とは宿場の見張所で、大名などが通るときは番人が立ち、人馬の出入りを監視する場所である。
この石垣がいつ築かれたのかは不明だが、宝永6年(1709年)の地図には既にあるようだ。
見付石垣の少し先に一里塚公園がある。公園の前には秋葉燈籠が建っている。
舞阪宿では文化6年(1809年)に大火事に見舞われたため、これをきっかけに火防の秋葉信仰が広がり、秋葉燈籠を建て、秋葉講を組織したという。この燈籠は文化12年(1815年)に建てられたもの。
一里塚公園には、名前のとおり一里塚跡がある。
舞阪の一里塚は日本橋から68里(約267km)に位置し、松が植えられていたという。
一里塚公園の道路の反対側には、文久2年(1862年)の舞阪宿の宿場図が置いてある。
3.岐佐神社
一里塚公園から少し進むと宝珠院がある。宝珠院の前にも秋葉灯籠があり、これは文化10年(1813年)に建立されたものである。
宝珠院は臨済宗の寺院で、明治6年(1873年)には舞阪町初の小学校が開かれたところである。
宝珠院の隣にある神社が岐佐神社だ。
岐佐神社の祭神は蚶貝比売命(きさがいひめのみこと)と蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)。聞いたことのない神様だが蚶貝比売命は赤貝の神様、蛤貝比売命は蛤(はまぐり)の神様である。
創建年代は不詳だが、平安時代の「延喜式神名帳」にはすでに書かれていた。
明応7年(1498年)の地震津波により、舞阪の集落は人も家も、海に流された。荒れ果てた砂山の丘に柳の古木があり、そこに流れついた祠には「敷智郡岐佐神社」と記され、舞阪の集落の長、浅野美時は難を逃れた里人とそこに社殿を造り祀った。残った人は近くの松原に集落を作り「三十六屋敷」と呼ばれた。これが舞阪町のもととなった。
現在の社殿は大正元年(1912年)に建てられたものである。
岐佐神社の境内には赤猪石(あかいし)があり、それにはこのような神話がある。
大国主命(おおくにぬしのみこと)は、兄弟との恋争いの末、八上比売(やがみひめ)と結婚の約束をした。
恋に破れた兄弟たちは大国主命を殺そうと、大国主命を手間山(てまやま)に呼び出した。そこで、大国主命の兄弟は「山の上から猪を落とすから、山の下で捕まえろ」と言い、真っ赤に焼いた大石を落とした。
この大石を受け止めた大国主命は大火傷を負って死んでしまう。これを知って悲しんだ奇稲田姫命(くしなだひめのみこと、大国主命の母)は、天上の神皇産霊神(かみむすびのかみ)に命乞いをする。
神皇産霊神は、娘神の蚶貝比売命と蛤貝比売命に大国主命の治療をするよう指示する。蚶貝比売命が貝殻を割って白い粉末を作り、蛤貝比売命がそれと自らの体から粘液を出して練ってどろどろした薬を作り、大国主命の体に塗った。すると大国主命の火傷は治り、もとの姿によみがえったという。
蚶貝比売命と蛤貝比売命は水産・漁業の守り神であるが、この神話から、火傷や病気にも霊験あらたかであるという。
何にせよ、恋の恨みは恐ろしいと思う話だ。
岐佐神社の社務所を覗くと神社の方がいたので、御朱印をいただいた。
4.舞阪宿脇本陣
東海道に戻ると、本陣跡を見つけた。
本陣とは江戸時代、公家などの身分の高い人が旅の途中に宿泊・休憩したところで、どの宿場にもあった。
「本陣」「脇本陣」はどの宿場にもあるので、その跡がある。ただ、「跡」だけで、実物を見たことはまだ一度もない。
そこで、「舞阪宿脇本陣」が登場する。
脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊・休憩できないときに利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として営業していた。ちなみにこの脇本陣は「茗荷屋(みょうがや)」という。
建てられたときは主屋、繋ぎ棟、書院棟で構成されていたが、現在残っているのは書院棟だけである。しかし、東海道のなかで脇本陣が残っているのはここ、舞阪宿脇本陣だけだ。建てられたのは天保9年(1838年)のことである。
なかに入り、簡単な説明を聞いてからなかを散策する。
まず六畳間だ。ここには江戸全図が展示されており、この江戸全図は天保10年(1839年)に出版されたものだ。北が右側にあり、ノースアップではないのでいまいちわかりにくい。
続いて八畳間。ここには良寛の歌が書かれた掛け軸が展示されていた。
「わが宿の 竹の林を うちこして ふきくる風の 音のきよさよ」
炊事場を見つけた。ここで食事が作られていたのだろう。
続いて下段二の間。ここには女手形が展示されていた。女手形とは女性の関所通過に必要だった手形である。慶応3年(1867年)に廃止されたので、現在は必要ない。
この女手形には天保15年(1844年)、舞阪宿の問屋を務める伝左衛門の娘が、今切関所を通って白須賀宿まで向かうことが書かれている。
隣の下段一の間では、舞阪宿の浮世絵がいくつか展示されていた。
歌川広重の東海道五十三次の「舞阪」では「今切の渡し」を描いている。これについては後述するが、今切の渡しとは舞阪宿と新居宿を結ぶ渡し舟で、浜名湖を通っていた。
これは上段の間。説明はされていないが、一段高くなっているあたり、一番偉い人が宿泊した部屋だろう。
上段の間の奥には、中庭が見えた。
中庭のそばには上湯殿がある。偉い人がここで入浴したのだろうか。
御厠(おんかわや)。トイレだ。「使用禁止」と書いてあるが、ここで用は足せないと思う。
東一の間には浮世絵が展示されていた。中央の絵は「舞阪」と読めるが、左右2つの絵は何を表しているのだろう。
東二の間には福山藩主、阿部正弘の「石奇對琴横」と書かれた書と、天保9年(1838年)に作られた鬼瓦が展示されていた。
東三の間にはいろいろなものが展示してある。例えばこれは嘉永4年(1851年)に発行された大日本細見道中記(上)と安政5年(1858年)に発行された五海道中細見記(下)。特に大日本細見道中記は藤川から浜松までのページが開かれている。今でいう旅行ガイドのようなものだろうか。
これは茗荷屋の引札。引札とはチラシ広告のことで、これは江戸時代後期から明治時代初期にかけて発行されたと思われる。
これは関札と言われ、大名や公卿などが泊まる標識として旅籠の前に立てた札である。現代なら、総理大臣が泊まっているホテルでも公表しない気がする。
ちなみにこの関札に書かれている霊鑑寺宮(りょうかんじのみや)という人物は光格天皇の養女らしい。
昔の人の旅格好が紹介されていた。菅笠(すげがさ)を被り、襦袢(じゅばん)、単衣(ひとえ)、袷(あわせ)を着用、その上に羽織を着る。ボトムスは股引(ももひき)と脚絆(きゃはん)。
二階に上がる階段があるので上がっていくと十二畳間があり、その隣の八畳間の中央には駕籠があった。この駕籠の持ち主は舞阪宿の問屋・名主を務めた那須田又七らしい。
舞阪宿脇本陣では「歴史まちづくりカード」を配布している。歴史まちづくりカードとは国土交通省が作成している歴まち認定都市の象徴的な風景写真や歴史まちづくり情報を紹介したカード型パンフレットである。
静岡県では三島市、掛川市、伊豆の国市、下田市、浜松市で配布している。浜松市の配布場所はここ、舞阪宿脇本陣だ。三島市と掛川市は東海道沿いで、三島市は三嶋大社宝物館、掛川市は掛川城で配布している。三嶋大社宝物館は三嶋大社に訪問したとき閉まっていたから仕方ないにしても、掛川城は気が付かなかったので悔しい。
三嶋大社は「東海道を歩く 10.箱根神社入口バス停~三島広小路駅 9.三嶋大社」で、掛川城は「東海道を歩かない 掛川・前編 1.掛川城天守閣」でそれぞれ訪問している。
このあとも愛知県の名古屋市「有松・鳴海絞会館」と岡崎市配布場所の岡崎市役所、三重県亀山市「関宿旅籠玉屋歴史資料館」でも配布しているので覚えておこうと思う。
5.今切の渡船
舞阪宿脇本陣をあとにして、秋葉燈籠のある交差点を右折する。この秋葉燈籠は文化10年(1813年)に建てられたものだ。
ひまわりに隠れていたが、「夢舞台東海道」の「舞阪宿」も見つけた。
ここに舞阪漁港がある。
江戸時代の旅人はここで今切の渡船に乗って、次の新居宿をめざした。
船着き場は約100m間隔で3ヶ所あり、それぞれ利用する身分が決まっていた。北雁木(きたがんげ)は大名、本雁木は武士、南雁木は庶民および荷物である。ここは本雁木跡である。
舞阪・新居間の渡船路は、宝永5年(1708年)以降は1里半(約6km)で、所要時間は2時間ほどだった。
新居宿には新居関所があり、関所の開門は明け6つ(現在の午前6時頃)、閉門は暮れ6つ(現在の午後6時頃)であり、この時間に合わせて船は運航された。
渡船の数は120艘とされたが、大規模な通行のときなどは、漁船や浜名湖沿岸、三河国の村々からも船が徴発されたという。
渡船の権利は、上り・下りとも新居宿の独占状態だった。舞阪宿も収入源とするため、たびたび渡船への参画を江戸幕府に願い出ていたが、認められなかった。
舞阪では宿の厳しい財政を補うため、文政3年(1820年)に江戸大森の海苔職人から海苔の養殖が伝えられ、主要産業となったという。大森の海苔の話は「東海道を歩く 2.品川駅~川崎駅 後編 3.大森の海苔」で紹介している。
ちなみに、ここ本雁木には東西15間、南北20間の石畳が東海道から海面まで坂になって敷かれていたという。
本雁木の北、北雁木に石畳が再現されている。常夜燈も再現されている。
北雁木の道路反対側に那須田又七の顕彰碑がある。那須田又七の駕籠はさっき舞阪宿脇本陣で見た。
那須田又七は天明4年(1784年)に生まれ、子供の頃から聡明だった。勉学に励み、16歳で舞阪宿問屋場の書記となり、その後、村役人、宿役人にもなった。
産業振興に努め、海苔養殖の基盤を作った。飢饉のときには私財を投じて舞阪宿の人々の救済に努めた。
その人望と功績により苗字帯刀を許され、「袱刀爺爺(ふくさがたなのやや)」と呼ばれたという。
嘉永3年(1850年)に66歳で亡くなり、8年後の安政5年(1858年)に顕彰碑が建てられた。
6.辨天神社
弁天橋を渡り、弁天島に入る。遠くに浜名大橋が見え、浜名湖で釣りをする人もいる。
普通の民家の一角に、「田畑家の弁天島別荘跡」という説明板を見つけた。
明治の中頃は、海水浴が病気の治療に効果があると信じられていた。明治22年(1889年)に東海道鉄道が全通すると、浜松の資産家たちは弁天島に別荘をもつようになった。田畑家も別荘を作った資産家のひとつだった。
田畑政治はここにあった別荘で夏と冬の休みを過ごしていたため、浜名湖で泳ぎ、水泳に関心を持つようになった。
田畑政治は水泳指導者で、昭和7年(1932年)のロサンゼルスオリンピックなどで日本代表の監督を務めた。平成31年・令和元年(2019年)に放送された大河ドラマ、「いだてん~東京オリムピック噺~」にも登場し、阿部サダヲが演じた。
そのまま進むと、左手側に辨天神社がある。
辨天神社の祭神は市杵嶋毘賣命(いちきしまひめのみこと)。
宝永6年(1709年)、松葉屋喜兵衛が辨財天を勧請し、小祠を造営し祀った。
明治6年(1873年)に岐佐神社に合祀されるが、明治23年(1890年)に復活した。
辨天神社にはこのような伝説がある。
その昔、弁天島のこのあたりは砂州が新居まで続き、「天橋立」のような風景が広がっていた。
そんな弁天島の美しさに誘われ、ある日天女が舞い降りた。村人は喜び、社を建てるからここに留まってほしいと願ったが、天女は三保の松原のほうへ去っていってしまった。
なぜ天女が弁天島を去ったのかはわからない。三保の松原のほうが美しかったのだろうか。
辨天神社には神社の方はいないが書置きの御朱印があり、賽銭箱にお金を払うセルフ方式。
辨天神社にはいくつか歌碑がある。
茅原華山の詩碑 「移棹休揺湖底天 芙蓉如夢蘸華巓 不関咫尺海濤壮 白鳥白帆相伴眠」
「棹を移して揺かすを休めよ湖底の天 芙蓉夢の如く華巓(かれい)を蘸(ひた)す 関せず咫尺海濤(しせきかいとう)の壮なるを 白鳥白帆相伴ふて眠る」
茅原華山は明治から昭和にわたって活躍した社会評論家・ジャーナリストである。この漢詩は大正15年(1926年)に詠まれ、詩碑は昭和5年(1930年)に建てられた。
こちらは正岡子規の句碑。
「天の川 濱名の橋の 十文字」
正岡子規は俳人・歌人。この句は明治28年(1895年)の秋に上京したときに、汽車の車窓から浜名湖を眺めて詠んだ作品とされる。句碑は大正14年(1925年)に建てられた。
こちらは松島十湖の句碑。
「月や風や 夏しら波の 海と湖」
松島十湖は浜松市出身の俳人・報徳運動家・政治家。この句は明治41年(1908年)の夏に詠み、句碑は大正元年(1912年)に建てられたと推定される。
7.弁天島海浜公園
辨天神社から弁天島海浜公園に出てくると「ゆるキャン△2 モデル地 弁天島海浜公園」というパネルが目に入った。
アニメ版ゆるキャン△は一通り履修済みなので、どのシーンでこの弁天島海浜公園が出てきたのか、すぐに見当がついた。
ゆるキャン△Season2第3話「たなぼたキャンプと改めて思ったこと」で、リンちゃんが元日の夕陽を辨天神社の鳥居から見たシーンだ。
ちなみにSeason2第2話の「大晦日のソロキャンガール」には矢奈比売神社が出ていて、こちらは「東海道を歩く 24-2.袋井駅~磐田駅 後編 2.矢奈比売神社」で取り上げている。
弁天島海浜公園沿いには「開春楼」というホテルがあり、ここの日帰り入浴をリンちゃんが利用していたことを覚えている。作中では「弁天楼」と変えられている。
残念ながら現在は日帰り入浴を行っていないようだが、宿泊することはできる。温泉はナトリウム・カルシウム・マグネシウム塩化物泉らしい。機会があれば泊まってみたい。
この日は8月下旬で、海水浴(湖水浴?)客もちらほらいた。
一瞬足だけ浸してみようかとも思ったが、やめておいた。
青い空、浜名湖、浜名大橋のコントラスト。潮の香りをかぎながら、少し寛いだ。
東海道に戻ると、「六十二番」と書かれた道標を見つけた。何を意味しているのかはわからないが、おそらく浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場の道標だろう。ちなみにこの八十八ヶ所霊場の62番は鷲栖院(じゅうせんいん)で、鷲栖院は新居にあるのでこの方角で合っている。
右手側に弁天島駅を見つける。東海道沿いで、ここを起点・終点にできたら楽だろうな、と思ったがここは起点でも終点でもないので素通りする。
ここからまた浜名湖岸に向かうと舞阪町観光協会があり、ここで舞阪宿の御宿場印がもらえる(舞阪宿脇本陣ではないんかい)。「東海道をずっと歩いている」と観光協会の人に話すと、「すごいね、頑張ってね」と励まされた。
ここから弁天島遊覧船も出ている。船頭さんに誘われたが、新居町駅まで行かないといけないので断った。
ここから鳥居と浜名大橋を見る。夕陽の時間ではないけれど、ここがリンちゃんが夕陽を見た場所と同じ場所だ。夕陽ならもっと綺麗かもしれないけど、青空の下でも十分綺麗だった。
8.湖西市へ入る
弁天島海浜公園をあとにして国道301号線に出る。ファミリーマートで飲み物を買ってから中浜名橋を渡り、弁天島をあとにする。
中浜名橋を渡っていたら東海道新幹線が颯爽と走り去っていった。やっぱり新幹線は速いなぁ。
中浜名橋の全長は200m程度だが、それでも結構長く見える。
そして中浜名橋を渡ると湖西市に入り、浜松市とはお別れだ。静岡市と浜松市、どちらも静岡県にある政令指定都市だが、静岡市は蒲原、由比、興津、江尻、府中、丸子の6つの宿場があったのに対し浜松市は浜松と舞阪だけ。結構すぐに終わってしまった。
「日本のどまん中 はませい」と書かれた石標の後ろには「はませい」という和食レストランがあった。ちなみにはませいのうな重は3,960円。手が出ないなぁ…。
はませいの隣あたりに変な建築物があると思ったら、津波避難タワーらしい。
足元を見ると、湖西市章の入った制水弁があった。湖西市章は昭和47年(1972年)に制定され、「こ」の字を円形にし、波頭で浜名湖を印象付け、湖西市の浜名湖上の位置を表しているという。
少し歩くと、また橋を渡る。西浜名橋だ。西浜名橋でも颯爽と走っていく東海道本線を見ることができた。新幹線ほど速くはないが、それでも徒歩よりは速い。
西浜名橋は中浜名橋よりも長く、約530mある。
デザインマンホールを見つけた。これは旧新居町のもので、町章、新居関所、町の木のマツ、波と町の鳥チドリがデザインされている。新居町は平成22年(2010年)に湖西市に編入して廃止された。平成の大合併にしてはだいぶ遅めの合併だ。
歩いていたら、だいぶボロボロの青看板を見つけた。いつ設置されたのだろうか。
競艇場の「ボートレース浜名湖」の看板を見つけた。私はそこまで興味はないが、職場の競艇好きのおじさんが喜びそうな看板だなぁと思った。
「水準点」の標柱を見つけた。二等水準点第2686-1号で、平成15年(2003年)に設置された新しい水準点だが、草に隠れて見えない。
そのまま歩いたら、新居町駅に到着した。東海道沿いなので、次回始めやすいな、と思った。
本日の目的地、新居町駅に着いてしまった。現在時刻14時。
次の白須賀はバス停がないので二川駅まで歩くことになるが、この時間からはきついので浜松市街地を散策することにし、浜松まで東海道本線で戻ることにした。
歩いた日:2023年8月27日
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【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006) 「静岡県の歴史散歩」 山川出版社
風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第8集」
風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第9集」
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html
(2023年10月6日最終閲覧)