10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

東海道を歩く 10.箱根神社入口バス停~三島広小路駅

 前回は箱根板橋駅から箱根神社入口バス停まで歩いた。今回は箱根神社入口バス停から三島広小路駅まで歩く。箱根峠までは少し登り、あとは下り坂だ。しかし距離が長く、10時に箱根神社入口バス停に到着してから三島広小路駅に到着したのが18時となった。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.賽の河原

 箱根神社入口バス停から出発する。

 ここで、昨日ルートを間違えていたことに気づく。そこで確実にルート上であるケンペル・バーニー碑まで戻る。

 ここから車道に出るのが正解だったようだ。

 

 箱根神社の鳥居や箱根海賊船乗り場が見える。

 箱根神社に寄ったり、箱根海賊船に乗ったりしたいものだが、そのようなことをしていたら確実に三島広小路駅まで行けなくなるので今回はスルーする。

 

 目の前に多数の石碑が見える。賽の河原だ。

賽の河原

 ここは地蔵信仰の霊地として、江戸時代東海道を旅する人々の信仰を集めていた場所である。かつて箱根の山は東国と西国を分ける境の山、いわば地の果て、境界とされていた。噴煙を上げ、霧が立ち込める箱根はこの世の果てを思わせる荒涼とした光景であったことから、そこには死者が集まる賽の河原があると信じられ、死者たちを救うといわれた地蔵菩薩を祀っていたものと思われる。

 江戸時代はなんと3ヶ所も賽の河原があったらしい。1つはここ芦ノ湖畔、そのほか精進池畔の賽の河原(ここは元賽の河原と呼ばれていたらしい)、山伏たちの修験の場であった姥子の地獄沢も賽の河原と呼ばれていた。

 しかし明治時代に入ると廃仏毀釈から多くの石仏が失われ、観光開発で規模が縮小した。それでも残った石仏、石塔の一部は鎌倉時代後期に作られたもので、大変貴重なものである。

 江戸時代は東海道を旅する人々の信仰を集めていたとはいえ、現在箱根に来ている人のほとんどはこの賽の河原に気がついていないようだった。

 

 賽の河原の近くに身替わり地蔵がある。

身替わり地蔵

 宇治川の先陣争いで名高い梶原景季がここを通りかかったとき、父景時に恨みを持つ何者かに父と間違えて斬りつけられた。そのとき傍らにあった石地蔵が身替わりになって危機を免れることができたので、景季の身替わり地蔵と呼ばれるようになった。この地蔵には右肩から胸にかけて大きな割れ目が走っているそうだが、赤い布に隠れて見えない。

 

 ここで芦ノ湖を見る。

芦ノ湖

 芦ノ湖は約3100年前に誕生したと考えられる。神山の水蒸気爆発により神山北西部が大きく崩れ、その土砂が川をせきとめてしまったため形成された。晴れた日はここから富士山が見えるようだが、残念ながら見えなかった。

2.箱根関所

 ここに一里塚跡がある。

葭原久保の一里塚

 ここは江戸から24里目の一里塚で、葭原久保の一里塚とされている。今は碑が立つのみである。

 

 一里塚の少し先から杉並木があるので、そこを通っていく。

 昭和59年(1984年)の調査によると、杉の樹齢は最大で377年のようなので、東海道ができた初めの頃に植えられたことになる。杉並木は、夏は緑陰、冬は防雪になり、街道の維持に欠かすことができない。最近は国道1号を通る自動車の排気ガスで杉が弱っており、文化財保護上大きな問題となっている。

 ここは平坦な杉並木なので歩きやすい。

 

 恩賜箱根公園の南側に、箱根関所がある。

箱根関所

 箱根関所は東海道を監視するために設置された関所である。箱根の関所は東海道に沿って東西にトチ葺きの江戸口御門、上方口御門で仕切られ、門の中の芦ノ湖寄りには手形などをあらためる大番所、山寄りには足軽番所があった。門の外にはそれぞれ「千人溜り」と呼ばれる広場があって、旅人はここで調べの順番を待った。旅人が関所を通るにはさまざまな検査が行われ、特に江戸から関西方面に向かう「出女」の場合は厳しい検査が行われた。関所の管理は小田原藩にまかされていて、役人として番頭1人、横目付1人、月交代の定番5人、兵5人、足軽25人が配置され、関門の開閉は明け6つ(午前6時)と暮れ6つ(午後6時)に行われた。これは朝夕とも人の顔の見分けがつく刻限となっている。

 箱根関所と箱根関所資料館で一般500円である。チケットは箱根関所資料館で購入する。

箱根関所資料館

 箱根関所資料館の館内は撮影禁止のため写真はないが、充実した展示内容だった。

 箱根関所内には関所の様子が人形を用いて説明されている。

 この部屋では番士と定番人が通行改めを行っている。

 

 また、この部屋では人見女が女性の旅人の取り調べを行っている。

 

 遠見番所は本来見張り施設であるが、現在はビュースポットになっている。

3.箱根駅伝ミュージアム

 箱根関所を通り過ぎてしばらくすると、右手側に箱根駅伝ミュージアムがある。

箱根駅伝ミュージアム

 箱根駅伝とは東京の読売新聞社前から箱根の芦ノ湖の間約108kmを5区、往復10区に分けて競う駅伝競走で、1/2~1/3に行われるためお正月の風物詩となっている。私は箱根駅伝常連校である駒澤大学の卒業生であるため、見に行くことにした。館内では箱根駅伝の歴史が年度別に説明されているほか、箱根駅伝グッズも売られており、私は駒澤大学のタオルを購入した。

4.箱根峠

 ここで国道1号線を離れる。足元にある表示が目印だ。

 すぐそこに、駒形神社がある。

駒形神社

 駒形神社駒形大神が祀られており、駒形大神とは天御中主大神(あめのみなかぬしのかみ)、 素戔鳴尊(すさのおのみこと) 、大山衹神(おおやまづみのかみ)の3柱のことである。

 また、境内には犬塚明神もある。

犬塚明神の説明板

 犬塚明神には次のような話が伝わっている。元和4年(1618年)、箱根宿が創設されたとき、付近にはたくさんの狼がいて建設中の宿の人々を悩ませていた。このため唐犬2匹を飼って狼を退治させ宿場を完成させたが、唐犬も傷ついて死んでしまった。そこで人々はここに埋めて犬塚明神と崇め祀った。

 

 東海道の石畳に入る前に、芦川の石仏群がある。

芦川の石仏群

 もとは芦川集落内の駒形神社境内にあった石仏群を移したものとされている。ここには万治元年(1658年)の庚申塔をはじめ、江戸時代後期に建てられた多くの巡礼供養塔などがある。

 

 また石畳を登っていく。

 途中に赤石坂、釜石坂、挟石坂の説明板があるが、坂の由来は書いていない。この歩きにくい石畳の上り坂もあと少しと思えば、頑張れるものである。

 

 国道1号に合流し、しばらく登っていくと、静岡県カントリーサインが見えてくる。

 標高846m、箱根峠。ここが神奈川県と静岡県の県境である。国道建設以前には相模・伊豆両国の国境を示す標示杭が立っていたそうだが、現在は見当たらない。やっと静岡県に入ることができたと、喜びの感情が湧き上がってきた。だが喜ぶのはまだ早い。坂を下りて、三島広小路駅に到着するのがゴールだ。

5.静岡県に入る

 そのまま国道1号を進み、箱根エコパーキングに入ると峠の地蔵がある。

峠の地蔵

 ここは平成15年(2003年)に8人の女性による揮毫を得て、石碑を設置した。揮毫を得た女性のなかには、「おしん」の橋田寿賀子黒柳徹子などもいる。

 

 「静岡県へようこそ」という歓迎の掲示板を見た少し先に、「箱根旧街道通行止めのお知らせ」と書かれた掲示板を見つけた。歓迎されているのかいないのかわからない。

静岡県へようこそ

 通行止めでがっかりする反面、アスファルトの歩きやすい道を進めると思った自分がいた。

 アスファルトの道は見どころが何もないが、歩きやすい。

 そして、通行止めの出口と思われる場所を見つけた。

 やはり、こちらからも入れないようだ。

 足元にまた箱根旧街道の表示を見つけたらまた舗装されていない道に入る。

 ここには接待茶屋があったらしい。

接待茶屋

 文政7年(1824年)、江戸呉服町の加勢屋興兵衛が私財を投じて無料で粥や焚火、飼葉を提供する「人馬施行小屋」と呼ばれる接待所を開設した。道に迷ったり、上り下りに疲れたりした往来の旅人たちは、ここでのもてなしに励まされて元気を回復して旅立っていったそうだ。昭和45年(1970年)に茶釜を降ろした。意外と最近まで茶屋があったことになる。

 

 旧街道に入るとすぐにかぶと石がある。

かぶと石

 これは兜を伏せたような形をしているからかぶと石と呼ばれているとも、豊臣秀吉が休息した際に兜をこの石の上に置いたからかぶと石と呼ばれているとも、源頼朝がこの坂を上ったときにあまりの急坂に降参して兜を脱いだからとも言われている。昭和初めに国道1号線から移設された。

 

 明治天皇御小休趾を見つけた。

明治天皇御小休趾

 明治元年(1868年)10月8日、明治天皇御東幸の折、ここで休まれ、山越しに望む富士山と眼下の駿河湾の景観を賞覧されたという。当時、ここには「ビンカ」という甘酒茶屋があったという。ビンカはここの方言でイヌツゲのことを指し、茶屋の脇に大きなビンカの木があったことからその名がついたという。

 

 少し進むと今度は下りの石畳が見えてきた。

 登りの石畳よりは歩きやすいが、山の中で誰もいないので少し怖い。

 

 念仏石を見つけた。

念仏石

 この念仏石の前に、「南無阿弥陀仏 宗閑寺」と刻んだ碑がある。この碑は宗閑寺が旅の行き倒れを供養して建てたものとみられ、そのためこの碑を念仏石という人もいるらしい。いずれにしろ箱根の山越えで多くの人が病や疲労で非業の最期を迎えたことを示すもののひとつといえる。

 

 箱根旧街道案内図を見つける。

箱根旧街道案内図

 行きたいと思っている山中城跡まで1.3km、平地ではなく山道なので遠く感じる。

6.願合寺地区

 国道1号に合流し、また少し進むと階段が現れるので階段を降りる。

 そこに函南町三島市カントリーサインがある。

 割と函南町はすぐ終わってしまった印象だった。

 

 ここ、願合寺地区に石畳が敷かれたのは延宝8年(1680年)だが、平成7年度(1995年)に石畳の活用を図る目的で復元・整備した。平成7年度(1995年)に発掘調査も行われ、そこで発見された一本杉石橋は保存状態が良好のためその場所に整備・復元された。

 

 石畳を出るところに雲助徳利の墓がある。

雲助徳利の墓

 この墓に葬られている松谷久四郎は西国大名の剣道指南役だったものの大酒飲みで事件を起こし国外追放、箱根で雲助となった。そこで雲助をいじめる武士から雲助を守ったり、文字が読めない雲助のかわりに手紙の読み書きをしたりするうちに雲助たちから親分のように慕われるようになった。結局酒が原因で亡くなった。酒を愛し、酒を楽しみ、酒のなかで一生を終えた久四郎のために彼を慕う雲助や百姓たちが彼にふさわしい徳利と盃を刻み込んだこの墓を建てて感謝の気持ちを表したという。酒飲みの墓なので、時たま場所が変わることがあるらしい。

 

 ここで国道1号に合流する。反対側には山中城跡があるので、寄ってみる。

7.山中城

 山中城跡は小田原に本城のあった北条氏が永禄年間(1558年~1570年)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。箱根山西麓の標高580mに位置する自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国時代末期の天正18年(1590年)3月、守将松田康長と約4,000の北条軍は、羽柴秀吉を総大将とする豊臣軍40,000の総攻撃を受け必死に防戦に努めたものの、圧倒的な兵力の前に僅か半日で落城したと伝えられる。遺跡の保存状態は良好であり、説明板も設置されて、史跡公園として整備されている。

山中城跡・障子堀

 山中城跡で特徴的なのが障子堀で、上から見ると空堀のなかに衝立障子のような堀残しがあることからそう名付けられた。これらは水のない空堀に畝を残し、敵兵をさえぎる北条流築城術の特徴をよく示すものである。

 また、山中城内は結構広く、一周歩き回るのに30分もかかってしまった。城域は約25万㎡におよぶ。

 

 山中城跡の近くに宗閑寺がある。

宗閑寺

 宗閑寺は浄土宗の寺院で、山中城廃城後の慶長10年(1605年)または元和6年(1620年)に徳川家康の愛妾於久の方によって建立されたといわれている。於久の方は、岱崎出丸で討死した小田原方の副将間宮豊前守康俊の娘で、敵ながらあっぱれな死にざまに共感を覚えた徳川家康が、その娘を駿府に招き側室にしたという。境内には豊前守康俊兄弟と山中城主松田右兵衛太夫箕輪城主多米出羽守平長定と豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末の墓碑が並んでいる。北条軍と豊臣軍は敵対していたはずだが、隣に並んでいるのはどういうことか。

宗閑寺墓地

 道を進むと、山中城跡案内所、売店がある。そこで御城院をもらい、寒ざらし団子を食べた。

ざらし団子

 上新粉を冬の寒い時期に、干した米を粉にして作ったことから寒ざらしという名前がついたそうだ。団子は素朴な味で、お腹が満たされた。

8.石畳を降りる

 山中城跡案内所の裏にまた石畳が続いている。

 ここ、腰巻地区は平成6年度(1994年)に復元されたようだ。発掘調査の結果、石畳はローム層の土の上にこの付近で採石したと思われる安山岩を敷き並べていたことが判明した。

 

 菊池千本槍の碑を見つけた。

菊池千本槍の碑

 建武2年(1335年)この付近であった水呑峠の合戦で、後醍醐天皇の命を受けた先鋒菊池肥後守武重の一千余の兵は、槍の原型となる竹竿の先に短刀を括り付けた武器で足利勢に大勝利した。九州へ帰国したのち武重は刀工延壽に槍を作らせ、後にこれが菊池千本槍と呼ばれたそうだ。

 

 国道1号を通りまた石畳を降りる。

 ここ浅間平地区は平成8年度(1996年)に復元・整備された。石畳が残っている部分はそのままの状態で保存し、石畳が残っていなかった場所は下部基礎を設けた後、安山岩を敷設したそうだ。箱根の石畳よりも平坦な部分が多く、少しだけだが歩きやすい気がした。

下部基礎がある石畳

 右手側に車がたくさん駐車されている。ここは三島スカイウォークだ。

三島スカイウォーク

 平成27年(2015年)に営業開始した日本で一番長い吊り橋である。少し興味はあるが、先を急ぐ。

 

 笹原一里塚を過ぎるとアスファルトの道となる。しかしここはアスファルトが急だ。

こわめし坂

 ここは「こわめし坂」といい、急勾配で背負った米も人の汗や蒸気で蒸されて、強飯(こわめし)のようになるためこの名がついた。

 

 こわめし坂を過ぎると松雲寺がある。

松雲寺

 松雲寺は日蓮宗の寺院で、尾張紀伊両大納言をはじめ、東海道を往還する参勤交代の大名たちの休息所となり、朝鮮通信使や徳川14代将軍家茂、15代将軍慶喜公などの寺本陣となった寺院である。また、明治天皇も「三ツ谷新田御小休所」として使用したという。

明治天皇史蹟

 三島宿の案内板のあるところを右に入る。

 また案内板のあるところを右折すると題目坂を下ることになる。

題目坂

 題目坂は玉坂妙法華寺への道程を示す題目石から名づけられたと言われる。題目石は坂を下りたところにある法善寺に移されている。

 

 少し進むと六地蔵を見つけた。どう見ても13人いるように見える。

六地蔵

 六地蔵に13人お地蔵さんがいたことを友人に話したら、「鎌倉殿の13人と関係があるのでは?」と言われたが、多分ないと思う(言ったほうも冗談として言ったのだろう)。

 

 また少し細い道に入り、少し先に進むと石畳が待っていた。

臼転坂

 ここは臼転坂で、牛がこの道で転がったとか、臼を転がしたため、この名がついたと言われている。

 

 臼転坂を過ぎると左手側に普門庵があった。

普門庵

 普門庵は鉄牛和尚が聖観音像を背負って相模国から京都に向かった際、ここで像が重くなり歩けなくなったことから「観音様がここに留まりたいとお望みだ」と思い、ここに堂を建立したのが始まりである。そういえばよく似た話を境木地蔵尊でも聞いた気がする。境木地蔵尊について詳細はこちら。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 三島塚原IC交差点の少し前で、国道1号に合流する。合流点に「箱根路」と書かれた石碑があり、「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」という馬子唄が書かれている。

箱根路

 伊豆縦貫自動車道を陸橋で越えると、歩道に石畳が現れた。

 江戸時代に敷かれた石畳よりは歩きやすいが、歩き疲れた足をひきずる身からしたら「もうやめてくれ」と少し思った。ここは平成2年(1990年)に遊歩道として石畳が整備されたようだ。

 

 石畳を歩いていくと立派な一里塚が現れた。錦田一里塚だ。

錦田一里塚

 錦田一里塚は日本橋から28里(約112km)の地点にあり、一対の一里塚が旧態を保って残っているので国指定史跡になっている。立派な一里塚である。

 

 石畳と松並木がしばらく続く。

 源頼朝が箱根権現に参詣の折、この原で鶯の初音を賞美したことからその名がついたとされる「初音が原」から三島宿に向けての約1kmには、約450本の松並木が残っていて、一里塚とともに江戸時代の様子を偲ばせてくれる。花粉症にとっては杉より松のほうがありがたい。

 

 五本松交差点で右に進み、石畳に入る。ここは愛宕坂だ。

愛宕

 江戸時代には愛宕社ほかの社寺があったが、現在は「愛宕山」と刻んだ碑だけが残っている。なお、ここが最後の石畳である。長い石畳の道が終わった。

 

 東海道本線の踏切のところに「日本遺産「箱根八里」」と「箱根旧街道入口」の看板がある。

 ここで日本遺産の「箱根八里」は終わり、ということだろうか。もう三島宿にだいぶ近い。長い峠越えだった。

9.三嶋大社

 新町橋を渡る。

 新町橋は、このあたりが新町と呼ばれていたことから名づけられた大場川に架かる橋で、江戸時代には東海道五十三次の三島宿の出入り口として多くの旅人がこの橋を渡っていた。長さは19間(34.6m)、幅3間(5.5m)の欄干を持つ板橋だったという。

 

 しばらく県道22号沿いを進むと、右手側に三嶋大社の大鳥居が見える。三嶋大社に参拝する。

三嶋大社

 三嶋大社伊豆国一宮で、祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)の2柱である。創建時は定かではないが、古くからこの地にあって三嶋大明神と称し、富士火山帯の根本の神、伊豆の国魂の神、国土開発の神として信仰されてきた。

 源頼朝が挙兵に際して源氏再興を祈願したことは有名で、境内には頼朝、政子の腰掛石、安達藤九郎盛長警護の跡などがある。さらに鎌倉時代には源実朝から惟康親王までの歴代将軍が参詣し、南北朝時代には足利尊氏らが戦勝祈願した。戦国時代には今川氏や北条氏との関係が強かった。江戸時代には、東海道に面し下田街道との分岐点に位置していたことから街道を行く多くの旅人たちも参詣に立ち寄り、三嶋大社の名は広く世間に広まった。

 御朱印をいただこうと思ったが、到着したのは17時半、社務所はもう閉まっていた。

 

 三島市のマンホールを見つけた。

三島市のマンホール

 このマンホールには市の花、三島桜がデザインされている。三島桜はソメイヨシノの起源を知る実験上で生まれた桜で、三島市の新庁舎が完成したときに生まれたのでその名がついたそうだ。

 

 進行方向左側に小さな川を見つけた。御殿川だ。

御殿川

 御殿川の名は3代将軍徳川家光が宿泊するために造ったという御殿の東側を流れていたことに由来している。御殿川は白滝公園付近の水門で桜川から分流するが水量が多いため「どんどん」と呼ばれているそうだ。

 

 三島宿は宿場を示す案内板は少ないが、世古本陣跡と樋口本陣跡の案内板を見つけた。

世古本陣跡

樋口本陣跡

 三嶋大社には樋口本陣の茶室「不二亭」も移築されているようだが、気がつかなかった。

 

 また小川を見つけた。四ノ宮川と言うらしい。

四ノ宮川

 古代より小浜池の宮島に伊豆四宮広瀬神社が祀られており、ここを源流としていたためこの名がついたようだ。昔は中郷の耕地を潤していたが、広瀬橋から南に水路が開かれて水流が減少してしまったそうだ。

 

 三島広小路駅前に蓮馨寺がある。(蓮馨寺は川越にもあったような…)

octoberabbit.hatenablog.com

蓮馨寺

 「芭蕉老翁墓」があり、松尾芭蕉が眠っているのか?と思いきや実際の松尾芭蕉の墓は滋賀県大津市の義仲寺にある。ではこれは何なのか…?

芭蕉老翁墓

 蓮馨寺の道路の反対側に三石神社と時の鐘がある。元御殿川の川辺に三ツ石と称する巨石があり、その上に社殿を建て稲荷の神を祀ったのが三石神社の始まりである。

三石神社

 三石神社の境内には時の鐘がある。

時の鐘

 寛永年間に初めて作られ、宝暦11年(1761年)に新たに大鐘が鋳られ三石神社境内に建設された。戦時中は太平洋戦争に供出されたが、戦後の昭和25年(1950年)に「平和の鐘」として復興した。大晦日には除夜の鐘に使われるそうだ。

 

 うなぎの良い匂いがする。そういえば三島の名物はうなぎだった。富士山からの綺麗な水が湧き出る三島のうなぎは臭みがなく江戸時代から人気だったそうだ。一瞬そそられたが、値段を見てやめた。

 

 現在18時。やっと三島広小路駅に到着した。

 このJALのロゴは平成14年(2002年)から平成23年(2011年)に使われたもので、ラックに書かれているロゴのJASは平成16年(2004年)にブランドが消滅している。つまりこのラックは平成14年(2002年)から平成16年(2004年)に設置されたものということになる。

 

 三島広小路駅から1駅で三島駅に到着する。三島駅からなら頑張れば在来線で帰ることができるが、頑張れなかったので新幹線課金。夕飯は三島駅で買った伊豆山海おぼろ寿司と、伊豆の国ビール。

 静岡県まで歩いてこられた歓喜が胸の中に沸き上がってきたので、ビールで流し込んだ。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2022年3月21日

 

【参考文献・参考サイト】

静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」 山川出版社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川県の歴史散歩」 山川出版社

風人社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」

風人社(2013)「ホントに歩く東海道 第4集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社

大石学(2021)「地形がわかる東海道五十三次朝日新聞出版

箱根全山 芦ノ湖

https://www.hakone.or.jp/6317

よみがえった箱根関所 箱根関所のこと

https://www.hakonesekisyo.jp/db/data_inc/inc_frame/fr_data_01_02.html

駒形神社

http://komagata-jinja.jp/

三島市観光Web 山中城跡公園

https://www.mishima-kankou.com/spot/282/

攻城団 寒ざらし団子

https://kojodan.jp/castle/64/memo/1783.html

人力 菊池千本槍の碑

https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/hakone_mishima/kikuchisenbonyarinohi.html

静岡・浜松・伊豆情報局 【マンホールで知る町自慢】三島市

https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/izu/mishima-city/manhole-9/

静岡新聞SBS 三石神社

https://www.at-s.com/facilities/article/view/place/137280.html

(2022年5月20日最終閲覧)