前回、清水駅から静岡駅まで歩いた。今回は静岡駅から吐月峰駿府匠宿入口バス停まで歩こうと思う。「箱根神社入口バス停」以来のバス停エンドだが、丸子宿は鉄道が通っていないからである。ちなみに次の岡部宿も鉄道が通っていない。その次の藤枝駅でやっと東海道本線と再会する。なので、静岡駅~吐月峰駿府匠宿入口バス停~岡部宿柏屋前バス停~藤枝駅と移動する。
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1.静岡市街地を歩く
今日もやまさんが同行するので、静岡駅の地下通路をくぐり、国道1号を越えた先の交差点で待ち合わせした。そのまま北へ進み、新静岡セノバの1つ前の交差点で左折して、東海道に合流する。今日はここからスタートだ。
静岡東急スクエアの脇に、伝馬町の由来の碑を見つけた。
伝馬町の歴史は慶長14年(1609年)に徳川家康が駿府を町割して、東海道五十三次の宿としたことに始まる。府中宿には本陣、脇本陣、問屋などが置かれ旅宿や商家が軒を連ね、街道を往来する大名行列や旅人により賑わいを呈したそうだ。
ところでこの像はなんだろう。
それにしても、こんな大都会、日本橋以来かもしれない。
江川町交差点に「大御所 徳川家康公の駿府城」「徳川家康公 御遺訓」の碑を見つけた。
慶長10年(1605年)徳川家康は征夷大将軍の職を息子秀忠に譲り、同12年(1607年)駿府を大御所政治の拠点とした。駿府で行われた大御所家康公の、政治・経済・文化などの活動は、その後の江戸幕府に継承され江戸時代の基本的活動の基礎となった。
徳川家康といえば来年の大河ドラマは「どうする家康」で徳川家康が主人公なので、当然、静岡市内にはそのポスターが溢れかえっていた。
江川地下道を通り、南側に進む。呉服町交差点で右折すると、呉服町通りのなかを通る。
おしゃれな商店街、といった印象だ。
「2022/11/5・6 大道芸」と書かれた横断幕を見つけた。
「この通りで大道芸をやるのでそのときは毎年混みあっています。大道芸の前の週でよかったですね。」とやまさんが言った。そもそも11/5に予定があったので東海道候補にはしてなかったのだが、もしぶつかっていたらここで進むのに難儀していそうだと思った。
呉服町通りと青葉通りの交差点でふと北を向くと、静岡市役所静岡庁舎新館・葵区役所がそびえていた。でかい。
ここは呉服町という。
「呉服町」の町名は、徳川家康の「呉服所」(家康の衣服などを用意する呉服屋)があったことに由来するといわれている。江戸時代の呉服町は1~6丁目に分かれていて、このうち4~6丁目(現在の呉服町2丁目)を東海道が通っていた。どこまでも家康が作ったまちである。
静岡市役所静岡庁舎新館・葵区役所の反対側にはライオンズクラブが設置した愛のライオン像があった。
呉服町名店街の地図を見つけた。
七間町通りとの交差点で左折する。ここに里程元標址がある。
里程元標は、明治初期の里程調査のために定められた道路元標である。明治6年(1873年)に明治政府は太政官第413号により府県ごとに里程元標を設け陸地の道程の調査を命じている。一般に材質は木柱でできていたため、里程元標自体は現存していない。
なぜここに里程元標が設置されたのかというと、ここが札之辻址だったからと考えられる。
札之辻址は、江戸時代に法令や掟書を掲示した高札場の址である。里程元標や道路元標は札の辻跡に置かれることがままあるのは、高札場は街の中心、人通りの多いところに置かれたからである。なお、このあたりは札之辻町と呼ばれていたらしい。
ARTIEに白い遊具の山があるのを見つけた。
小学校の頃、遠足で埼玉県滑川町の森林公園に行って、そこで跳ねて遊んだことを思いだした。
このあたりは七間町通りである。
七間町通りの道幅は13mで、これは当時の東海道ではトップクラスに広い通りだったようだ。
静岡市の消火栓を見つけた。
富士山、安倍川、登呂遺跡がデザインされている。安倍川はこの後渡る。
「しずおかしのき けやき」「しずおかしのとり ひめあまつばめ」「しずおかしのはな たちあおい」というプレートを見つけた。
静岡市の花はタチアオイということはマンホールで知っていたが、それ以外は初めて知った。
道端に映画撮影機が展示されているのを見つけた。
これは松竹大船撮影所から寄贈してもらったもので、昭和40年代まで現役として活躍していたものらしい。なぜここに展示されているのかはわからない。
今度はサンライトを見つけた。
これも映画撮影で使っていたらしい。
「東海道府中宿」の説明板を見つけた。
府中宿は江戸から約44里(約176km)、品川宿から19番目の宿場である。東見附は横田町、西見附は川越町にあり、天保14年(1843年)には、本陣2軒、旅籠43軒、家数3,673軒、人口14,071人の東海道最大規模の宿場だった。残念ながら今は府中宿時代の遺構は何もない。
七間町の説明板を見つけた。
七間町の由来は、今川時代からの豪商友野氏が七座(七軒)の長として、この地に宅地を賜ったからとも、道幅が七間(約14m)あり、これに由来するともいわれている。江戸時代の七間町は1~3丁目に分かれていて、町の中心を東海道が通っていた。
こやまビルのある交差点を右折し、少し進むと人宿町通りの説明板がある。
人宿町通りは七間町通りに接続する通りで、東海道で縦七間通りと呼ばれたこともあり、東海道府中宿の主要路だった。庶民の泊まる木賃宿の多い旅籠町として栄えたところである。武士の泊まるところは紺屋町、伝馬町あたりだったようだ。
「東海道」の案内のある角を左折する。
ここまで来ると安倍川橋までまっすぐ進むことができる。5回曲がり、わかりにくいので地図を載せておく。
2.安倍川と安倍川餅
静岡市立新通小学校に水準点がある。一等水準点第128号だ。
ここからはよく見えないが、金属標で、昭和47年(1972年)に設置されたようだ。
このあたりは新通というらしい。
江戸時代のはじめに徳川家康が駿府城下の町づくりを行った際、現在の本通り筋に替えて幅5間(約9m)の新しい道筋が設けられた。新しい通りに沿って町並みが形作られ、「新通」という城下町のひとつが生まれた。
通り過ぎた後に気づいたが、建物の上に秋葉神社を見つけた。
石材店にガネーシャを見つけた。
ガネーシャはインドの神様で、「夢をかなえるゾウ」に出てくる。「夢をかなえるゾウ」は1巻から4巻まで読んだ。
駿河伏見稲荷神社は説明板もなく、調べても特に情報が出てこなかった。
江戸時代、東海道で架橋を禁じられていた川に安倍川や大井川などがある。東海道を往来する旅人は川越人夫に渡してもらわなければならなかった。川越人夫による渡しでは、小型川越えの興津川、中型川越えの安倍川、大型川越えの大井川などが、いずれも代表的な存在だった。この川越人夫が人や荷物を渡すのを監督するところが川会所であった。
ちなみに、歌川広重の東海道五十三次「府中」はこの安倍川越えを描いている。
そして、明治7年(1874年)に安倍川に橋が架けられ、その架橋の顛末が書かれているのが安倍川架橋の碑である。
後世の人に伝えるために書かれたようだが、残念ながら読めない。
明治天皇御小休所阯を見つけた。
これ、久しぶりに見た気がする。
「弥勒歩みの跡」という観光案内板を見つけた。
慶長17年(1612年)3月、徳川幕府はキリシタン禁教令を発して当時2つあった駿府の教会を破壊した。慶長19年(1614年)3月には町人キリシタン8人が逮捕牢送りとなり、そのうち6人は11月1日、十字架の焼印を押され、市中引き回され、両手の指と足の腱を切られた状態で正念寺に放置された。このうちの2人は夜および翌朝に息絶え、キリシタン殉教者の先達となったという。
むごい話だと思ったのと同時に、静岡でもキリシタンの殉教死があったのかと驚いた。少し前に長崎に行ったばかりであり、長崎ではこの手の話は結構あったのだが。
洪水が起こらないことを神に祈り、不幸にして洪水で亡くなった人をねんごろに供養したもので、自然の営みのなかで人間がいかに微小であったかを示している。
水神社に参拝し、県道208号線に戻るとオッと声が出た。向かい側に安倍川餅の店を見つけたのだ。さっそく食べに行こう。
安倍川餅の石部屋の前には安倍川の義夫の碑がある。
安倍川の義夫の碑には「難に臨まずんば忠臣の志を見ず、財に臨まずんば義士の心を知らず」と刻まれている。
元文3年(1738年)、紀州の漁夫が仲間と貯めた大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡ったら財布を落としてしまった。そこでその近くにいた川越人夫がその財布を拾い、旅人のあとを追ってついに宇津ノ谷峠で渡すことができた。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが川越人夫は「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前」と受け取ろうとしない。旅人は駿府町奉行所に礼金を届けた。その後、町奉行は川越人夫を呼び出して、礼金を渡そうとしたがそれでも川越人夫は受け取らないので、旅人にそのお金を返し、奉行所は褒美の金を川越人夫に渡したという。
なんともいい話である。なんともいい気分になったところで石部屋に入る。
慶長の頃、徳川家康が笹山金山に巡検に行ったとき、ある男が餅を献上した。徳川家康は喜び、餅の名を問うと、その男は安倍川と金山の金粉にちなみ「安倍川の金(き)な粉餅」と答えたので、それ以後安倍川餅はこの地の名物となったという。
安倍川餅、きなこ4個、あんこ4個で700円。
もちもちで、歩き疲れた体に甘いものがしみわたる。やまさんは気に入ったのかお土産用の安倍川餅も買っていた。安倍川餅は少し先のかごや商店でも売っているので今度食べ比べをしたい。
さて、安倍川を安倍川橋で渡る。
昔は川越人夫で渡り、東海道の難所の1つとされていた安倍川も今は橋で楽に渡ることができる。
3.高林寺
安倍川橋を越えると、「千手の里 手越」という案内板があった。
「千手」とは、平家物語に登場する白拍手(平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種及びそれを演ずる芸人)の名前であり、彼女はここ、手越の出身らしい。
左手側に高林寺があった。
高林寺にはこんな話がある。
江戸時代のはじめ、松井五郎八という人がいた。五郎八夫妻には子供がいなかったので、夫婦は浅間神社に熱心に祈願した結果、男の子を授かった。夫婦はその子供を八十郎と名づけた。八十郎は才智に優れていたが、大変な綺麗好きだったので、大地を踏むことを嫌っていた。ある日、中島の浜へ遊びに行ったときに落馬してしまった。怪我はなかったが、手足が土に汚れたことを苦にして死んでしまった。
翌年の春、天皇の命を受けた公家衆が江戸へ向かう途中、内密の勅命を受けた吉田殿が五郎八を呼び出し、息子の死後変わったことはないかと尋ねた。五郎八は、夢に八十郎が現れ「我こそは駿河の国の内にて神となる」と言ったと答えた。吉田殿が言うには、天皇も同じ夢を見たそうで、八十郎が「手越村と申す所の守護神となさしめ給え」と天皇に願ったそうだ。
承応2年(1653年)、天皇の命により手越村に社殿が建てられ、「二位御霊大明神」として祀られた。その同じ年、八十郎の祖父が社殿の隣に庵を建て、高林寺と名づけられた。
明治初年の神仏分離令により神社は取り壊されたが、「御霊大明神」は「御霊尊」と改称されて、今も高林寺に祀られている。
地面に落ちただけで病んで死んでしまうとは、病的な潔癖症だなと思ってしまった。
右手側に大きな木が生えていた。ケヤキだろうか。
今度は左手側に大きな木。これは松だろうか。
東海道の松並木の残りかどうかはわからない。
4.佐渡(さわたり)
国道1号との合流点に来たので、歩道橋を越えて進む。
佐渡交差点でY字路の左側に進む。すると佐渡公民館の前に「さわたりの手児万葉歌碑」がある。
「さわたりの てごにい行き遭ひ 赤駒が あがきを速み こと問はず来ぬ(佐渡に住む美しい少女と道で行きあったが、私の乗っている乗馬の足が速いので、ろくに言葉も交わさずに来てしまった)」
この歌は万葉集に収められ、東国農民に愛唱された歌謡だった。「佐渡(さわたり)」という地名はこの頃からあったのだが、昭和52年(1977年)にここは「丸子1丁目」と改称され、「佐渡」という地名が地図の上から永久に姿を消すこととなったことを惜しみ、この碑を建てたそうだ。なんとかして「佐渡」という地名を残すことはできなかったのか、と考えさせられる。
こちらは万葉集「から」つけられた地名だが、埼玉県川越市に「名細」という地名がある。こちらについては「うさぎの気まぐれまちあるき 河越夜戦・上杉軍の陣地から最前線へ歩く 4.鎌倉街道・メルト」を参照してほしい。
さわたりの手児万葉歌碑の向かい側には、佐渡の子授地蔵尊がある。
その昔、子供に恵まれない夫婦はここのお地蔵さんを家に借りて信仰すれば子供が授かると言われていた。めでたく子供が授かった人は新しいお地蔵さんを1体つくってお礼参りをしたそうだ。そのため、この地蔵堂には子宝に恵まれた人が上げたお地蔵さんがたくさん祀られている。縁日にはオショウヤといって鉦をたたきながら念仏を唱える。今はおばあさんの集まりになっているが、以前は若いお嫁さんが子供を授けてほしいとか、健康に育ててもらいたいとかいって一緒に拝みにきていたようだ。そっと手を合わせた。
セブンイレブン静岡丸子店の交差点で右に曲がり、県道208号線に沿って進む。そこに、東海道の松並木があった。
江戸幕府は街道を整備するにあたり道の両側に松の木を植えた。夏の日よけや冬の風よけのためだったと言われている。
この松は、東海道のなごりの松で、手越から丸子宿入口まで松並木が植えられていた。
ここは「大曲」と呼ばれていて、道の両側には松を植える土手が築かれ土手には笹が生えていた。ところで、この子供はなんだろう?
静岡市立長田西小学校に、水準点があった。一等水準点第129号だ。
昭和52年(1977年)設置。金属標型だが、石蓋の下にあるため確認できない。
5.丸子宿
「ようこそ丸子路へ」という看板を見つけた。
ここで丸子に入った、ということでよいのだろうか。
「夢舞台東海道」と似ているが、これは違うのだろうか。
東木戸まであと230mらしい。
「酒場の餃子無人販売」を見つけた。
これ、よく見ると…
「NO MORE 餃子泥棒」。映画の前に必ず流れる「映画泥棒」のパロディだろう。思わず笑ってしまった。
歩いていると「一りづかあと」と書かれた石碑を見つけた。
なぜ「一」だけ漢字でそれ以外がひらがななのだろうか。これは江戸日本橋から46里目の一里塚だが、現在はこの碑と説明板しか残っていない。
さらに進むと、丸子宿江戸方見付跡を見つけた。
東海道五十三次のうち丸子宿は日本橋から46里、20番目の宿だった。宿場は街道に沿って350間で、問屋場1軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒で、静岡県内22宿のなかでは、由比宿とともにもっとも小規模な宿であった。
左手側に、小さな祠があった。水神社だ。
ここの「水」は隣を流れる丸子川のことを指していることは容易にわかったが、丸子川はカラカラに乾いていた。
「歴史の道 東海道のご案内」という説明板を見つけた。
これによると、丸子宿の起源は文治5年(1189年)に源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家を設けたのが起源といわれている。
いかにも観光施設に見える普通の家を見つけた。
ここには「丸子宿年表」と「江戸時代の丸子宿」というものが展示されていた。
落ち着いた旧道、といった感じで良い。
丸子宿問屋場跡、丸子宿本陣跡、丸子宿奈良屋跡と続く。
やまさんが電柱についている丁子屋の看板に反応した。
258-1066で「ごはん とろろ」と読むらしい。1066で「とろろ」はまだしも、258で「ごはん」はどう読むのか?と話題になった。
丸子宿かたばみ屋跡を見た後、丸子宿脇本陣跡を見つけた。また明治天皇は休憩したようだ。
お七里役所を見つけた。
江戸時代の初期、寛文年間に紀州徳川頼宣は江戸屋敷と領国の居城の間、146里に沿って7里間隔の宿場に、独自の連絡機関として23ヶ所に中継ぎ役所を設けた。静岡県内で沼津、由比、丸子、金谷、見付、新居に設けられ、この役所を「紀州お七里役所」と呼び5人1組の飛脚を配置した。そういえば由比に御七里役所之趾があったことを思いだした。これについては「東海道を歩く 14.新蒲原駅~由比駅 4.蒲原宿から由比宿へ」で取り上げている。
沼津のお七里役所は見逃してしまったようだが、その前、茅ヶ崎市にもお七里役所、牡丹餅立場跡が登場しており、これは「東海道を歩く 7.藤沢本町駅~平塚駅 3.牡丹餅立場跡」で登場している。お七里役所には丸子宿の絵図もあった。
6.丁子屋
東海道歩きで昼食を食べることはあるが、だいたいは東海道の歴史とは関係のないチェーン店などで済ませてしまうことが多い。江戸時代、実際に東海道を歩いた人が食べた食べ物を食べられるのはここ、丁子屋くらいしかないのではないか。歌川広重の「東海道五十三次」や十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも取り上げられ、松尾芭蕉の句にも詠まれている。
丁子屋前にはさまざまな歌碑などが展示されている。
この碑には「はかり知れない奥義を極め偉大な名声と数多くのすぐれた詩文は未来永劫まで称えられ大空のように広大無辺で果てしなく誰にとその真髄を知ることはできない」と書かれている。なんか壮大だ。
この石は辰石という。これは駿府城築城により運び出された石だが、結局使われず370年近く旧東海道の下で眠っていたところを昭和51年(1976年)に電話ケーブル埋設工事のときに掘り出され、その年が辰年だったので辰石と名づけられたそうだ。
岡本かの子が書いた「東海道五十三次」の一部も展示されている。
「名物 とろろじる」
丁子屋の店構えはこのような感じで、歌川広重「東海道五十三次」の「丸子」の絵、そのままである。
現在の建物は昭和46年(1971年)に大鈩(おおだたら)(静岡市駿河区)の300年前の古民家を買い取り、移築・改装したものである。
丁子屋の前にも、「江戸時代の丸子宿」の説明板がある。
久しぶりに見た気がする「夢舞台東海道」の「丸子宿」。
足元には「歴史の道 東海道のご案内」もある。
「旧東海道案内」では丸子宿から元宿、二軒家、赤目ヶ谷、宇津ノ谷峠を過ぎて岡部宿に行けることが案内されている。
丁子屋前の展示物についてはこのくらいにして、丁子屋に入ろう。
丁子屋の名物はとろろ汁である。とろろ汁の主材料は、自然薯。自然薯とは山芋の一種で、元来は山野に自生する日本原産の野生植物である。丁子屋では静岡県内約20軒の生産者と契約し、土の香りの強い静岡在来品種の自然薯を使用している。
自然薯に、白味噌を合わせる。白味噌を作るのに必要な米麹は岡部の「かど万米店」の昔ながらのものを使用し、大豆は北海道産の「つるむすめ」を使用している。
とろろ汁に混ぜる味噌汁のだしは鰹節を使い、この鰹節は焼津産である。
仕上げに加える卵は、厳選された良質な卵を使用している。
HPに書かれているとろろ汁のこだわりについてはこのくらいである。
今回、私とやまさんは「本陣」を頼んだ。「本陣」はとろろ汁、麦飯、味噌汁、香物、薬味の「丸子」の定番セットにむかごの揚げ団子、珍味二種、甘味がつく。とろろ汁は、麦飯にかけていただく。
うーん、美味しい。麦飯ととろろ汁だけでこんなにごはんが食べられるとは。改めて和食のすばらしさを感じた。江戸時代から食べられているのも納得だ。
本陣は2,310円するが、一番安い丸子は1,630円で食べられるので、なんとか学生さんでも手が出る値段だと思う。
7.駿府匠宿
丁子屋でお腹いっぱいとろろ汁を食べたら、13時半になってしまった。丁子屋の前の丸子橋を渡れば、引き続き東海道を歩けるが、その先には宇津ノ谷峠が待ち構えている。この時間から峠越えはリスキーなので、今日はここで切り上げることにした。ただ、このまま帰るのも早すぎるので、少し丸子周辺を散策することにした。
案内板には「この先国道を渡る→駿府匠宿→丸子城跡→吐月峰柴屋寺→天柱山歓昌院」と書かれている。
山城の丸子城跡は行きにくいので外すとして、それ以外に行ってみる。
細川幽斎の歌碑を見つけた。
細川幽斎は室町末期、安土桃山時代の文武両道に卓越した大名、歌人だった。その歌がこちらである。
「三月八日。うつの山にて「ゆめならて 思いかけきや うつの山 うつつにこゆる 蔦の下道」此山をこえて行にまりこ川とひとのいふをききて。「人数には たれをするかの まりこ川」けわたす波は 音はかりして 猶ゆきゆきて駿府につきぬ。」
この歌意は、丸子川の河畔の堤の上から幽斎が、春の大雨で水かさの増した、川幅20間の丸子川の激流をいよいよ今から渡るのだが、その先陣は数ある武士の中から誰にしようか、先陣が渡り始めると、本体も一斉に渡って川波の音も激しく、川面は波立ちざわめきたっている。という意味である。
国道1号の駿府匠宿入口交差点のところに小さな神社を見つけた。津島神社だ。
この津島神社は天王さんとも呼ばれているようだ。ここに置かれているのは村の入口に置かれる「賽の神」の一種で不幸の侵入を防ぐ意味もあるようだ。津島神社でお祀りしているのは牛頭天王で、これは素戔嗚尊の別名である。以前牛頭天王と呼ばれていた神社は東海道沿いの橘樹神社にもある。これは「東海道を歩く 4.神奈川駅~保土ヶ谷駅 10.橘樹神社」で取り上げている。
チェーンがかかっていて直接参拝できないのが残念だが、柵の外から手を合わせた。
津島神社の横に丸子城跡の案内板があったが、読みづらい。
今から行く泉ヶ谷の案内板があった。
「天皇・皇后両陛下行幸啓記念」があった。平成13年(2001年)のものなので、今の上皇さまと上皇后さま、ということになるだろう。
少し進むと、駿府匠宿が見えてきた。
駿府匠宿は国内最大級の伝統工芸体験施設である。駿河竹千筋細工や駿河和染を体験できる「竹と染」、静岡の木工体験と漆体験ができる「木と漆」、陶芸体験ができる「火と土」、子供用体験工房「星と森」、伝統工芸を展示した博物館「匠宿伝統工芸館」、セレクトショップ「Teto Teto」、カフェ「HACHI&MITSU」が入っている。
エントランスを出て、チンアナゴ(?)を見つけた。
円筒分水だろうか(たぶん違う)。
なけなしのハロウィン要素(今はもうクリスマスだろというツッコミはさておき、取材はハロウィンの前日でした)。
Teto Tetoの店内。やまさんに「クワイ」と言われた作品。
こういう陶芸品、欲しくはなるが買ったところで置き場所に困る。
つめたい足湯は足湯ではないと思う。
インスタ映え(?)スポット。
匠宿伝統工芸館を見る。大きな茶筅がお出迎え。
この羽子板は駿河羽子板である。
この羽子板には歌川広重の「東海道五十三次」がデザインされている。今東海道を歩いているところなので、一枚一枚じっくり観賞した。
やはりここは徳川家康のまち、家康の人形があった。
この椅子は座るとゆらゆら揺れて気持ち良かった。
下駄や、弁当箱、竹細工、杉盛器に花瓶。
陶芸家 前田直紀展がやっていた。さっきのクワイはこの人が作ったものだったのか。
カフェ「HACHI&MITSU」もそそられたが、まだとろろ汁でおなかがいっぱいなので行かないことにして、駿府匠宿をあとにした。
8.柴屋寺
次の目的地、柴屋寺に向かう。
「町内ゴミの館」。もっとほかに表現があっただろ、と思う。
フジバカマが綺麗だ。
フジバカマを見ていたら、トウガラシを発見した。これは野生なのか、植えたのか。
そうこうしているうちに、柴屋寺に着いた。
吐月峰柴屋寺は、今川6代当主義忠と7代当主氏親に仕えた連歌師・宗長が、永正元年(1504年)55歳で草庵を結び余生をおくったところである。
宗長は島田の刀鍛冶五条義助の子として生まれ、18歳で出家、駿河守護今川義忠に仕えた。義忠の戦死後、京にでて大徳寺の一休宗純に参禅、また連歌師飯尾宗祇の弟子になり、しばしば師の旅に随行した。宗祇・肖柏・宗長の師弟3人が詠んだ「水無瀬三吟百韻」は、連歌の代表作として知られている。義忠のあとをついだ今川氏親につかえた宗長は、宗祇の死後、今川氏重臣斎藤安元の援助で草庵柴屋軒を結んだ。なお、宗祇の墓は、「東海道を歩く 9.箱根板橋駅~箱根神社バス停 3.早雲寺」で登場している。
風雅な庭園は京都銀閣寺の庭を模して宗長みずからが作庭したと伝えられ、竹林は嵯峨から移植したという。方丈よりみた庭園は、山号にもなっている北西の天柱山を借景に取り入れた西側の部分と、茶室を挟んだ北側の枯山水の庭の部分から構成されていて、国の名勝・史跡に指定されている。
本堂に入り、庭を眺めた。国の史跡と聞いていたので、壮大な庭を想像していたが、思ったよりこぢんまりとした庭だった。
すぐ見終わり、あとで有料だと気づいたので社務所にお金を払いに行くと、おばあさんが「案内しましょうか」と言ってくれた。一度見たとはいえ、案内してもらったほうがもっとわかるだろうということで、案内をお願いした。結果として、案内してもらって正解だった。
吐月峰という山号は天柱山から月がのぼる様子がまるで月を吐き出すかのように見えるから、という話を聞いた。
また、柴屋寺の宝物に分福茶釜がある。これは、いくらお湯を出してもお湯が尽きる様子がない茶釜なので、タヌキが化けているのではないかということでそう呼ばれたそうだ。当たり前だが、タヌキが化けているわけではなく、お客さんに見えないようにお湯を足していたのだろう、とおばあさんは言っていた。
柴屋寺で御朱印もいただいた。
柴屋寺の前の道をそのまま進むと、歓昌院に着く。
ここは、駿河三十三観音霊場の第13番札所となっている。札所なので、御朱印をもらえるだろうか、とインターホンを押してみたが、反応はなかった。
参道横には五百羅漢がある。
やたらビビッドな赤い帽子をかぶっているので、最初に見たときはびっくりした。
ちょっとパリピっぽいポーズの五百羅漢。
うなぎの供養塔とは、珍しい。
蒲焼にして食べられたうなぎを供養しているのだろうか。
この先に行くと、山道になってしまうので来た道を戻る。ちなみに、この先の道は歓昌院坂とよばれ、峠をこえて木枯の森の方向にぬける古代からの道である。
帰り道に、千手観音堂に寄る。
ここに安置されている千手観音は運慶が作ったもので、建久6年(1192年)3月17日に作られたもののようだ。昔、奥大井小猿郷という山奥にこの観音様は祀られていたが、ある日、六部がこの社で修行していた夜、夢枕に千手観音が現れ、丸子の歓昌院に移すようにとお告げがあったためここに移されたらしい。
歓昌院と千手観音堂、どちらが札所なのだろうか…?
目的地は全て巡ったので、吐月峰駿府匠宿入口バス停から静岡駅までバスで帰る。
静岡駅まで着いたら、翌日は仕事なので新幹線に乗り、東京まで帰った。
次回は、吐月峰駿府匠宿入口バス停から岡部宿柏屋前バス停まで歩く予定である。
歩いた日:2022年10月30日
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【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社
風神社(2015)「ホントに歩く東海道 第6集」
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/
丁子屋
匠宿
(2022年12月18日最終閲覧)