前回、袋井駅から磐田駅まで歩いた。今回は磐田駅から浜松駅まで歩こうと思う。見付宿から浜松宿までの距離は4里7町(16.5km)、かなり長い。足に豆ができて最終的には歩き方がおかしくなってしまった。そんな感じのウォーキングだが、お付き合いいただきたい。
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1.くろん坊様
今日は磐田駅からスタートだ。
「天平のまち」がある交差点で左折して、東海道に合流する。サッカーチーム「ジュビロ磐田」のキャラクター「ジュビィちゃん」が出迎えてくれた。ジュビィちゃんともう1人の「ジュビロ磐田」のキャラクター、ジュビロくんは静岡県の県鳥「サンコウチョウ」がモチーフとなっている。
中泉浅間神社の説明板は特になかったが、浅間神社なので木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)が祭神であると推定される。
磐田市中泉交流センターの手前に「夢舞台東海道」の「中泉」があった。
ここには三角点もある。四等三角点「坂上」だ。
四等三角点「坂上」は平成14年(2002年)に設置された標石型の三角点だが、マンホールの下にある。
そのまま進み、県道261号線との合流点にくろん坊様がある。
くろん坊様こと黒坊大権現は、現在地の西約100mの水田にあった祠を移したもので、咳や熱病の神様とされている。…コロナにも効くのだろうか?
インド人の旅僧が手にかけられて金品を奪われてしまったので土地の人々が手厚く葬ったもので、毎年11月3日が縁日とされている。…要は外国人旅行客の金品を奪い殺したということだよな…?
このあたりは下り坂となっており、「大乗院坂」と呼ばれている。それはこの坂の途中に「大乗院」という寺院があったからだ。
「東海道と歴史の道」という道標を見つけた。これは初めて見た。
現在12時。「東海道と歴史の道」の近くにあったジョイフルでハンバーグを食べた。
余談だがジョイフルは九州に多く、関東ではあまり見ないファミレスチェーンである。本社のある大分県には48店舗、福岡県には97店舗もあるのに、埼玉県には11店舗、東京都には4店舗しかない。ちなみに静岡県には12店舗ある。チェーンとはいえ、あまり見かけないチェーンなので見つけたら入るようにしている。
2.若宮八幡宮
ジョイフルから出て先に進むと、宮之一色一里塚がある。
一里塚は旅人に距離を知らせるために一里(約4km)ごとに街道を挟んで両側に1基ずつ作られた。宮之一色一里塚は江戸日本橋から数えて63番目の一里塚である。これは昭和46年(1971年)に復元されたものである。
宮之一色一里塚の少し先に、宮之一色秋葉山常夜燈がある。
宮之一色秋葉山常夜燈は文政11年(1828年)に建てられた。竜の彫り物があるので「竜燈」とも呼ばれている。
地域の安全と火防の守り神として崇敬されているという。
また「東海道と歴史の道」を発見した。
100円ショップ「レモン」の向こうに「さわやか豊田店」を発見したが、62分待ちだったので断念した。ジョイフルで昼食を食べたばかりなのでお腹も空いてない。
「東海道と歴史の道」についての説明板があった。
磐田市では若宮八幡宮の少し東側のここから3kmの道を「東海道と歴史の道」と定め、いくつかの案内板を設置したそうだ。
ここから少し先に、若宮八幡宮がある。
若宮八幡宮の御祭神は大雀命(おおさざきのみこと)(仁徳天皇)、品陀和気命(ほむだわけのみこと)(応神天皇)、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)である。
明治7年(1874年)に近隣29か村の神社を合祀して創始された。
マンホールを見ると「豊田町」と書いてある。ここは磐田市のはずだ。
豊田町は平成17年(2005年)に磐田市、竜洋町、福田町、豊岡村と合併して磐田市となり、廃止された。
これが、旧豊田町章の仕切弁だ。
「ト」を図案化して4つを周りに外向けに配して「トヨ」とし、その円の中央の「十」によって「田」とし、これらの円を翼形に作図している。
しばらく進むと、左手側に明治天皇御座所跡碑がある。明治天皇の休憩所跡である。
少し進むと、「夢舞台東海道」の「長森立場」がある。
ここから少し東に、長森立場があった。立場とは、江戸時代に宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村に設けられた、街道を利用する人の休憩所である。
また、長森立場の近くでは、あかぎれや切り傷に効いたとされる膏薬「長森かうやく」が、街道を通る人たちの土産品として人気を博していた。
膏薬を作っていた山田家には今でも江戸時代に作られた大看板が残っている。作り方は残っていなかったのか、「長森かうやく」は現在は販売されていない。
3.天竜川
「夢舞台東海道 長森立場」の次の交差点を右に曲がり、そのまま進んで国道1号に合流する。新天竜川橋で天竜川を渡るのだ。
天竜川を渡るには、古代から明治初期まで渡船が基本だった。大井川と異なり、天竜川で川留めになったという話はあまり残っていない。それは歩いて渡るのではなく船で渡るからだが、その船も川の中の中洲を利用していた。
それはつまりこうだ。池田の下渡船場から船に乗って大天竜川を渡り、中洲でいったん降りて歩き、再び小天竜川を船に乗って西岸の富田村へ上陸する、二瀬越えだった。大水で中洲が見えなくなったときは斜めに一気に渡りきったそうだ。
大井川は川留めが多かったので島田と金谷、川の両端に宿場があったが、川留めが少ない天竜川の近くに宿場はいらず、見付と浜松の間は4里以上離れている。
天竜川の西詰に、国道1号線の250kmポストがあった。日本橋から250kmも進んだのか、という感慨に耽る。
「浜松市東区」のカントリーサインがあった。やっと浜松市に入った。
「東海道案内板」があり、中ノ町のことが紹介されている。
ここは江戸と京都のまんなかであるから中ノ町という。
「東海道中膝栗毛」には以下のように紹介されている。
「舟よりあがりて建場の町にいたる。此所は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば、中の町といへるよし。」
「東海道を歩く」をずっと読んでいる人ならおわかりかもしれないが、以前「東海道どまん中」を名乗る袋井宿があった。
これは、どういうことか?東海道どまん中茶屋のスタッフの方はこう言っていた。
「江戸から数えても、京から数えても袋井宿は27番目の宿場なので、「東海道どまん中」と言われているのですよ。距離的な「どまん中」は浜松市の天竜川を越えたあたりです。」
「宿場」のまんなかは袋井宿、「距離」のまんなかは中ノ町なので、ある意味では「どっちも正解」となるのだ。
袋井宿「東海道どまん中茶屋」は「東海道を歩く 23.掛川駅~袋井駅」で紹介している。
4.中ノ町道路元標
浜松市のマンホールを見つけた。
これは波涛逆巻く遠州灘に臨む街で、根上がり松の景勝地をたたえられたことを象徴した浜松市章だが、これは平成17年(2005年)に廃止されている。
こちらが2代目の市章つきの消火栓。カントリーサインのほうがわかりやすいのでそちらも載せる。
この市章は浜松市の北部にある森林地帯と南側にある浜名湖と遠州灘を表したもので、平成17年(2005年)に制定された。
この仕切弁は旧市章のものだろうか。
天竜川沿いを歩く。この通りは横町通りという。
横町通りは、江戸時代には東海道と富田・一色の渡船場を結ぶ堤の往還として多くの旅人が往来し、このあたりには川高札が立てられていた。
大正から昭和初めにかけて、天竜川を利用した流通が盛んになり、木材を筏に組んで川を下る筏師や、上流の久根銅山、峰の沢鉱山から鉱石を運ぶ帆掛船の船頭たちで、この通りは大変賑わっていたという。今は閑静な住宅街だ。
道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では全国で2,000基程度しか残っていない。なお、説明板には「静岡県内ではおそらく唯一の、たいへん貴重なものです。」と説明されているが、国道901号さんが主宰するサイト「道路元標が行く」では静岡県内に少なくとも4基が現存していることが判明している。中ノ町道路元標もそのひとつだ。
しかもこのサイトはまだ更新されているので、もしかしたら静岡県内にもっと残っているのかもしれない。
ただ、静岡県は全国的に見て道路元標の残存の少ない県であることは事実で、「東海道を歩く」で道路元標を見るのは愛知県の二川町が最初かな、と思っていたのでこれはサプライズだった。
「東海道を歩く」では初回「東海道を歩く 1.日本橋~品川駅」で最初に登場した「日本国道路元標・東京市道路元標」以来の登場である。パチモンの自称「道路元標」であれば、「東海道を歩く 8-3.平塚駅~箱根板橋駅③ 4.小八幡八幡神社」の「小八幡村の道路元標」が登場している。
東海道とは関係ないのだが、「地図ラー7 本の中でまち歩き三昧」で「道路元標を訪ねて―千葉市編―」という文章を書いている。これは千葉市の道路元標の特集だ。「10月うさぎ」ではなく実名名義ですが私が書いた文章なので、読んでいただけると嬉しいです。
つい熱くなってしまったが道路元標の話題はこれくらいにして、六所神社に参拝する。
六所神社の祭神は底津海祇神(そこつわたつみ)ほか7柱。建治2年(1276年)創建、明治7年(1874年)現在地に遷座した。
5.松林禅寺
六所神社を出てすぐ右手側に、中野町銀行跡がある。
明治15年(1882年)、ここで「竜西荘」が結成され、2年後に「中野町銀行」が誕生した。今は合併を繰り返して、静岡銀行になっている。
昭和49年(1974年)までここに建物があり、現在は地面に埋もれた煉瓦に、当時の面影を見ることができる。
ちなみに約1年前にも大正14年(1925年)に建てられた清水銀行由比本町支店を見ている。
これは「東海道を歩く 14.新蒲原駅~由比駅 6.由比宿を歩く」で登場している。
また少し進むと、天竜川橋紀功碑がある。
天竜川橋紀功碑は天竜川に橋を架ける作業に功績のあった浅野茂平の業績を刻んだ石碑である。
浅野茂平は明治元年(1868年)の明治天皇東行に際して天竜川に船橋を架けて安全な渡河に功績を残したほか、明治7年(1874年)には船橋を再度完成させ、天竜川を挟んだ東西流通の活性化に大きく貢献した。
石碑は、明治27年(1894年)に建てられた。
この先少し左側に行ったところに伊豆石の蔵がある。
この蔵は、明治時代に伊豆半島から切り出された伊豆石で造られた蔵である。伊豆で採れた石は、火に強い建築材料として、蔵や塀に使われたという。伊豆石の縞模様がモダンに感じる。
浜松市の現在の市章のマンホールを見つけたが、波の表現が独特だ。
東橋跡を見つけた。
かつてここを流れていた小川には土橋が架かっており、東海道を往来する旅人はみんなこの橋を渡っていた。この橋は中ノ町の橋では一番東にあったので「東橋」と呼ばれていた。
明治後期から中ノ町は木材の集積地として栄え、旅館やカフェーなどが軒を連ねていた。この東橋が中ノ町繁華街への入口となっていた。
浜松市のデザインマンホールを見つけた。
このマンホールは浜松まつりの凧揚げ合戦の凧をデザインしている。
この細い道が軽便鉄道の軌道跡だったという。
軽便鉄道は明治42年(1909年)から、浜松駅~中野町駅の11駅間を走っていた。
昭和3年(1928年)以降は軌道自動車(ガソリンカー)に変わり、昭和12年(1937年)に廃線となるまで、沿線住民の足として愛されていたという。
軽便鉄道軌道跡の少し先に、松林禅寺がある。
松林禅寺は臨済宗方廣寺派に属する寺院で、江戸時代には中ノ町に属していた。
境内の薬師堂は徳川家光が浜松城主に命じて建立させたものと伝えられている。この寺は元禄、享保の2度にわたって炎上しているが薬師堂は焼失を免れている。
6.明善記念館
松林禅寺から進むと、右手側に明善記念館がある。入ってみよう。
金原明善は、天保3年(1832年)長上郡安間村の大地主の家に生まれ、幼いころから、天竜川の水防が必要なことを痛感していたため、明治8年(1875年)治河協力社を設立し、全財産をなげうって治水事業につくした。天竜川の治水のために、天竜川上流域の広範囲にわたる植林事業にもつとめた。また、実業家や社会事業家としても活躍した。
天竜川とともに生きた金原明善は、妙恩寺に葬られ、「天竜院殿明善日勲大居士」の戒名が贈られたという。
平成23年(2011年)、築200年を経た明善の生家が改修され、新たに記念館を兼ねて遺品、遺墨、文書等関係資料が公開されているのが明善記念館だ。
記念館に入ると、まず「金原明善伝」というビデオを見て金原明善について学ぶ。
ビデオを見終わり、記念館の展示を見る。「明善の屏風」と説明されているが、金原明善が書いた屏風、ということでよいのだろうか。
明治10年(1877年)頃の天竜川の絵図が展示されていた。縮尺は1:3,000で、1.8mもある長い絵図だ。
金原明善は3回ほど疎水計画を提出したという。
まず明治5年(1872年)に静岡県に「天竜川分水計画」を提出した。これには天竜川の両岸の開墾、三方原から浜名湖までの運河を作る計画などが書かれていたが、規模が大きすぎて採用されなかった。
続いて明治17年(1884年)に再度静岡県に疎水計画を提出した。天竜川西岸の飯田町から東海道の南側に運河を掘り、堀留運河に連絡すること、舞阪港に港湾を作り汽船が入港できるようにすることが記載されていたが、浜名湖が浅海であることから断念された。
明治32年(1899年)にも再度「天竜川分水路開墾予算」を提出した。これは36kmの水路を作る計画で、予算は216万円だった。当時の1円は現在の1,500円ほどの価値があるので、現在の価値で考えると32億4,000万円となる。これは当時の国家予算の1%弱に当たる額で、経済的問題により静岡県から許可は出なかった。
明治37年(1904年)に金原明善は疎水事業を行うため金原疎水財団を設立し、自分の財産を提供した。しかし明善の計画が実行されたのは昭和13年(1938年)に着工した浜名湖排水幹線改良事業で、明善は大正12年(1923年)に亡くなっていたので死後15年後に実行されたことになる。そしてこの計画は昭和60年(1985年)に完成した。
ちなみに明善が生まれたのは天保3年(1832年)なので92歳で亡くなったことになる。当時の平均寿命(44歳前後)を考慮するとかなり長生きである。
天竜川は幾度も洪水を繰り返した。そのパネルも展示されていた。
明治44年(1911年)8月3日から5日にかけて、潮岬の南方海上を北上した台風は、熊野灘から伊勢湾に上陸、長野県・新潟県を通過した。浜松地方は大井川から天竜川流域にかけて総雨量が300~800mmに達し、気田で日雨量583mmを観測した。
天竜川の水位は鹿島で7.88mに達し、大洪水に加えて山林の崩壊が発生した。これにより死者・行方不明者19名、損壊家屋363戸の大被害を出したため、天竜川の大改修に着手することになった。
昭和13年(1938年)6月28日から7月5日の8日間に水窪583mm、浜松419mm、二俣404mmの雨量を観測、この大雨により天竜川が氾濫した。豊橋工兵隊による決死の水防活動により、堤防の決壊はなんとか食い止められたという。
天竜川に災害が起こるのは、台風ばかりではない。昭和19年(1944年)12月7日に東南海地震が発生し、御前崎で震度6、浜松で震度5を記録した。
このときは太平洋戦争中、復旧は困難を極め、戦後の昭和21年(1946年)までかかった。天竜川の堤防は沈下し、大亀裂を生じたという。
このときの東南海地震の自然災害伝承碑が「袋井市西国民学校被災児慰霊碑」で、これは「東海道を歩く 24-1.袋井駅~磐田駅 前編」の2.澤野医院記念館で登場している。
その1年後、昭和20年(1945年)10月5日に来襲した「阿久根台風」により、天竜川の堤防が決壊、天竜川流域の死者は34名、浸水家屋847戸にのぼった。
昭和35年(1960年)8月9日から14日に台風が来襲し、総雨量が平野部200~300mm、山間部400mm以上が降り、天竜川の水位が上がったため流域で大きな被害を出した。
翌年の昭和36年(1961年)6月にも大雨が降り、天竜川中下流域の流域で家屋の流出・損壊64戸、浸水家屋637戸の被害を出した。
昭和43年(1968年)8月にも大雨が降り、浜松市天竜区水窪町で死者・行方不明者4人、家屋流出6戸、浸水戸数737戸の被害を出した。
翌年の昭和44年(1969年)にも台風7号による集中豪雨で流出家屋2戸、浸水家屋768戸の被害が出ている。
昭和49年(1974年)7月7日、七夕の日といえば織姫様と彦星様が再会するめでたい日に、雨量500mm超えの豪雨が起き、天竜川流域でも被害発生、合計8人の犠牲者が出た。
昭和57年(1982年)の台風10号では浸水家屋419戸、浸水面積75.4haの被害が発生した。
昭和58年(1983年)9月の洪水では死者行方不明者3人、損壊家屋4戸、浸水家屋85戸の被害が発生した。
そして8年前、平成27年(2015年)の関東・東北豪雨も忘れてはならない。静岡県内では負傷者5人、床上浸水20棟、床下浸水76棟、一部破損1棟の被害が発生し、浜松市内でも1m以上浸水した地区があった。
この前も台風8号で鳥取で9ヶ所1,800人の孤立集落や500戸の断水、そして東海道新幹線の運休による混乱が発生した。日本に住んでいる以上、地震や台風をゼロにすることはできなくても、治水による被害縮小を図ることが大切だと改めて感じた。
金原明善の話に戻ろう。
当時はメールなどはないので、遠方の人とのやりとりは全て手紙である。これは金原明善と品川弥二郎の手紙である。品川弥二郎は日本の政治家で、内務大臣などを務めた人物である。
金原明善が出張時使った旅行鞄などが展示されている。
これは金原明善が設立した治河協力社関連の資料。水利学校も付属しており、この学校では治水土木技術者を養成していたという。
治河協力社で使っていた測量機器が展示されていた。これは測量士として見逃せない資料だ。
金原明善の肖像画と玉城夫人の写真。明善は厳めしい印象がある。
金原明善は明治20年(1887年)に山林の経営に着手しており、そのとき使っていた道具が展示されていた。
金原明善の治河協力社の設立や山林経営等の功績は天皇からも評価されており、明治天皇から下賜された金杯が展示されていた。
金原明善は友人も多かったようで、友人の書家、金井之恭と副島種臣の書が展示されていた。
これは品川弥二郎と金原明善が書いた書だ。それぞれ「富在山林」「私心一絶萬功成」と書いてある。
これは宮中顧問官を務めた二条基弘の書で、明善の米寿祝いに贈られたもの。
こちらは御歌所初代所長を務めた高崎正風の書。
これは金原明善が設立した静岡勧善会の資料だ。静岡勧善会は犯罪者が監獄から刑期を終えて出てきた後に保護し、更生するための組織で、現在まで続いている。
金原明善は銀行もやっていたようで、金原銀行というようだ。明治33年(1900年)に始まり、昭和15年(1940年)に三菱銀行と合併した。
天竜川の治水事業だけでなく、北海道の開拓もやっていたようだ。
これは衣笠豪谷の書。衣笠豪谷は日本画家だったようだ。
明善記念館は2階もあり、そちらも見る。2階には見崎泰中の作品が展示されていた。見崎泰中は昭和14年(1939年)生まれの芸術家。なんかうねうねした作品だ。
金原明善の治水事業を子供向けに説明する「明善とあばれ天竜」という紙芝居が展示されていた。
これは小野湖山の書で、小野湖山は明治期に活動した漢詩人。
食器が展示されていたが、これは金原家にあったものらしい。
山駕籠が展示されていた。明善は91歳になっても山駕籠に乗って天竜川上流の山林の視察に来ていたようだ。
金原明善が建てた学校、安間学校の瓦が展示されていた。現在は浜松市立和田小学校となっている。
これは桜井能冠の書だ。桜井能冠は宮内省の官僚で、内大臣秘書官などを務めた。
金原明善は渋沢栄一とも付き合いがあったようだ。渋沢栄一といえば令和6年(2024年)から発行される1万円札の肖像に使われるので最近よく話題になっている。
金原明善は大隈重信とも交流があった。大隈重信が125歳まで生きようと思う、と明善に言うと「八十や九十や百は子供なり、鶴は千年、亀は万年 八十三歳の少年明善書」と書いて贈ったという。
大隈重信は125歳まで生きることはできず、83歳で亡くなっている。それでも江戸時代から大正にかけて生きた人にしては長生きだし、現在、世界一長生きした人であるジャンヌ・カルマンですら122歳で亡くなっているので無理だ、と言ってはいけないのだろう。
三条実美の書も展示されている。三条実美は政治家で、内閣総理大臣にもなっている。
金袋(財布)が展示されている。右から2番目のものは明善が孫娘にプレゼントした自作の財布だという。お孫さんも大切に保管していたため、展示されている。
金原明善はさまざまな事業を行い、大物政治家など、さまざまな人と交流していた。これが無料で見ることができるのは素晴らしい。
7.子安神社
明善記念館をあとにして、2つめの交差点のところに本坂通(姫街道)安間起点がある。
浜松市北区と豊橋市の境にある本坂峠を越えて、御油に至る東海道のバイパスなので、正式には「本坂道」というが、江戸末期には「御姫様街道」と呼ばれていた。
女性は浜名湖の渡船に乗るのが怖いから峠越えをした、今切の渡しという縁起の悪い地名を避けた、徳川吉宗の母親がこの道を大人数で通ったのが印象深く女性が通る道と意識された、とにかく女性が多く通る道だったから、など姫街道の由来は諸説ある。
姫街道の入り口は浜松城大手門、ここ安間起点、見付宿の3か所あり、この3つの道が三方原の追分で合流し、気賀の関所越えになるという。姫街道もいつか通ってみたい。
ちなみに姫街道の見付宿入り口は前回「東海道を歩く 24-2.袋井駅~磐田駅 後編」に登場している。
ここから少し行くと、県道312号線と合流する。少しだけ松が残っているのを見つけた。
右手側に八柱神社があったので寄る。八柱神社の前にある燈籠は金原明善の父である金原久右衛門が寄進したものだ。
八柱神社の説明板も撮ったが、かすれて読むことができない。
八柱神社に参拝し、少し進むと立場跡がある。
立場とは宿場の間に設置された休憩所で、多くの場合茶屋があって土地の名物を販売していたという。今でいう道の駅だろうか。現在は説明板があるだけだ。
県道312号線沿いにやたら立派な題目碑を見つけた。題目とは日蓮宗系の寺院の勤行で使われる「南無妙法蓮華経」のことである。この道を入ったところに妙恩寺という日蓮宗寺院があるから置いてあるようだ。
「東海道案内板」では「浜松市東区は江戸と京のどまんなかのまち」と謳っている。
県道296号線との交差点に、六所神社がある。
六所神社では伊邪那岐命(いざなぎのみこと)など6柱を祀っている。
そしてこちらの解説板もかすれて読めない。
お宮の松は江戸中期に植えられ、樹齢は260年ほどだったという。樹高17m、直径3mの大樹だったが、昭和54年(1979年)の台風20号により損傷する被害を受け、翌月伐採されてしまったという。木は人間よりも長生きなので忘れがちだが、寿命だったのだろうか。
しばらく進むと水準点がある。一等水準点第147号だ。
石蓋の下にあるようだが、設置は明治42年(1909年)の古い水準点だ。
そのまま進むと右手側に浜松アリーナが見える。
浜松アリーナとは浜松市スポーツ協会が運営する体育館で、平成2年(1990年)に開館した。体育館なのでジャージの学生の姿が目立つ。
吉野家とはなまるうどんが同居している。調べてみたら株式会社吉野家と株式会社はなまるは同じ株式会社吉野家ホールディングスらしい。
六軒京本舗の前に「東海道 東 日本橋 西 京」という石碑がある。ここの紫蘇巻きは東海道名物だったらしく、今も売っていたが、少し入る勇気がなかった。
子安交差点から少し南東方向に行くと、子安神社がある。
子安神社の祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。
子安神社は庄屋の伊藤家の祖先が寛永12年(1635年)に浅間神社の分霊を祀ったことにはじまるが、伝説では源範頼が創建したといわれている。
戦前までは4月3・4日が祭りで、安産祈願の腹帯を借りた母親がお礼に赤い旗を奉納する風習があったらしい。「子安」だけに安産祈願の風習があったのだろうか。
8.夢告地蔵尊
子安交差点から地下道を通って先に進む。
蒲神明宮の大鳥居がある。
蒲神明宮は浜松でもっとも古い由緒を持つ神社で、それは平安時代に遡る。一瞬行ってみたくなったが、ここから600m北上するのでやめておいた。
少し先に水準点を見つけた。一等水準点第147-1号だ。
平成14年(2002年)に設置された新しい水準点だが、マンホールの下で確認できなかった。
水準点の少し先に龍梅禅寺がある。龍梅禅寺は臨済宗妙心寺派の寺院である。龍梅禅寺は願いが叶うと焼いたお餅を供える風習のあるやきもち地蔵のある寺院だが、閉まっていた。
先に進むと、馬込一里塚跡がある。
馬込一里塚は日本橋から65里の一里塚だったが、明治10年(1877年)頃取り壊されたので説明板だけが残っている。
さらに先に進むと水準点がある。一等水準点第001-256号だ。平成15年(2003年)に設置された新しい水準点だが、野ざらしだからか色がくすんでいる。
そのまま進むと右手側に夢告地蔵尊がある。
夢告地蔵尊は安政5年(1858年)にコレラで亡くなった人たちを供養するために建立された。
明治に入り、廃仏毀釈のあおりを受けて地中に埋められたものの、大正8年(1919年)に小柳丈之助という人が「地蔵尊が世上に出たい」という夢を見たことから地蔵尊の捜索が始まり、3日目に掘り出された。このことから「夢告地蔵尊」と名付けられた。
太平洋戦争時の空襲では本体と御堂が破壊される憂き目に遭うも、昭和26年(1951年)に御堂が再建され、祀られている。
コレラ、廃仏毀釈、空襲…波乱万丈なお地蔵様である。でも「外に出たい」という夢を見せたということは、お地蔵様もまた信仰してもらえることを信じて、そんな夢を見せたのだろうか。とりあえず、外の空気をまた吸えて、また信仰してもらえて、よかったと思う。
板屋町交差点に着いた。東海道はここからまだ西へ続くが、ここで左折して浜松駅に向かおうと思う。
足に豆ができて、歩き方がおかしくなっていたが、それでも浜松に来て食べたいものがあった。
さわやかである。
さわやかのハンバーグは美味しいので、どこの店でも待ち時間が長く発生する。しかし、静岡県は車社会なので、ロードサイド店舗が多く、私は行きづらいと思っていた。
そんなさわやかでも、駅前に2店舗出店している。それが新静岡駅駅ビル、新静岡セノバのテナントのさわやかと、浜松駅前の遠鉄百貨店のテナントのさわやかである。
今日は遠鉄百貨店のさわやかに向かう。整理券を取ったが、2時間待ちらしく、スタバで待つことにした。スタバで頼んだのは期間限定の「The メロン of メロン フラペチーノ」。私はメロンが大好きだが、このメロンは少し作り物っぽい味がした。
呼び出し時間になったのでさわやかに戻り、少し待つと呼ばれる。まずはビール。
やはり歩いた後のビールは美味しい。
サラダを食べながら、げんこつハンバーグが来るのを待つ。ちなみにハンバーグにはげんこつとおにぎりの2種類があり、げんこつのほうが量が多い。
ジューという肉が焼ける音とともに、げんこつハンバーグがやってきた。
写真を撮って、ナイフでハンバーグを切ってから頬張る。
うまい。
うますぎる。
何度だって食べたくなるハンバーグ、それがさわやか。
そしてさわやかはデザートも美味しいことを忘れてはならない。
これはもも&マンゴーパフェ。
1ヶ月前にも同じげんこつハンバーグともも&マンゴーパフェを食べたが、それでも食べたくなる、それがさわやか。
ちなみに前回食べた記事はこちら。
さわやかの余韻に浸りながら新幹線で東京に帰る。翌日は仕事だからだ。
次回は、浜松駅から舞阪駅まで歩く予定である。
歩いた日:2023年5月28日
次回記事はこちら↓
【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社
風人社(2016)「ホントに歩く東海道 第8集」
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html
浜松河川国道事務所 天竜川 大洪水の記憶
https://www.cbr.mlit.go.jp/hamamatsu/river/gaiyo_tenryu/gaiyo_tenryu02.html
(2023年8月31日最終閲覧)