「お写ん歩書房」の石井建志さんにお誘いいただき、「新宿DeepZone&歴史探訪」に参加してきた。
新宿は、大学時代、世田谷まで通学するときに通過していたが、普段はなかなか訪れる機会がなかったので新鮮だった。
ちなみに本橋先生とのまちあるきは渋谷に続いて2回目である。前回はこちら↓
1.天龍寺
まちあるき前に、新宿三丁目駅E6出口すぐの相模ビル「ふれあい会議室」にて受付を済ませる。参加費、懇親会費のほかに本橋信宏先生の著書「歌舞伎町アンダーグラウンド」と石井さんの著書「あなたも知らない「新宿の今昔物語」」を購入した。地図もいただいた。
13時から「ふれあい会議室」で本橋先生と石井さんのトークショーが始まった。
トークの内容は「歌舞伎町アンダーグラウンド」のウラ話などだったため、書籍を読んでから聞いたほうが楽しめたのかもしれないが、書籍を読まずとも楽しむことができた。
14時半からはまちあるきで、本橋先生が案内するチームと石井さんが案内するチームに分かれた。途中、花園神社で合流して入れ替わるシステムだ。私は石井さんのまちあるきに先に参加し、花園神社でチェンジ後、本橋先生のまちあるきに参加した。
相模ビルの向かい側に寺院がある。天龍寺だ。
同寺を菩提寺とする戸塚忠春の娘が徳川家康の側室となり、2代将軍秀忠を生んだため、家康が江戸入りした際に寺も移ってきた。だからか、山門に徳川家の葵の御紋が付けられている。
天龍寺の境内には時の鐘がある。
元禄13年(1700年)、第5代将軍徳川綱吉の側用人だった牧野成貞により寄進された鐘は内藤新宿に時刻を知らせた「時の鐘」で、夜通し遊ぶ者の「追い出しの鐘」として親しまれ、少し早く鳴らされたことから嫌われていたそうだ。
天龍寺の東側には今も旅館が残る。このあたりは街娼たちが客を連れ込んだ「パンパン宿」がたくさんあったらしい。
天龍寺を抜けて1本裏の道から国道20号線に出ると、雷電稲荷神社がある。
この神社は、雷雨に遭った源義家が雨宿りしていると1匹の狐が現れ、3度頭を下げたところたちまち晴れて、以来「雷電稲荷神社」と呼ばれるようになったそうだ。
2.内藤新宿
新宿四丁目交差点には京王ビルがある。
大正2年(1913年)に京王電気軌道の笹塚~調布間が開業した。その後、甲州街道沿いに新宿方面へ小刻みに延伸を続け、大正4年(1915年)5月に新宿駅西側まで線路を伸ばし、「停車場前」駅を開業した。
しかし「停車場前」駅は新宿の繁華街から少し遠く、少しでも繁華街近くに駅を設けようと、1ヶ月後に現在の伊勢丹新宿店の筋向いの路上に「新宿追分」駅を開設して始発駅とした。
この新宿追分駅は後に「四谷新宿駅」と改名され、昭和11年(1936年)に京王の本社ビルをここに建てた。現在は「京王ビル」として「IKEA新宿店」が入居している。
明治19年(1886年)に神田明神下の旅籠町に呉服屋として誕生したのが伊勢丹である。
昭和8年(1933年)、神田の店舗をたたみ、現在の場所に新店舗を構えたが、当時その地にあったのが「ほてい屋百貨店」だった。伊勢丹はほてい屋とそっくりの建物を、ぴったりと隣接させて建築した。競争意識丸出しである。
両者は約2年間、熾烈な競争を繰り広げたが、昭和10年(1935年)、伊勢丹がほてい屋を買収した。翌年建物を一体化するが、つなぎ目を確認することができる。
昭和8年(1933年)から10年間、「伊勢丹アイススケート場」があり、買い物ついでの客で賑わっていたそうだ。
戦争末期の昭和20年(1945年)頃は社員が戦争に駆り出されたりして、1フロアのみの営業となった時期もあった。幸い空襲では焼けなかったが、敗戦後は昭和28年(1953年)まで3階以上の売場がGHQにより接収されたそうだ。
私が大好きな屋上遊園地もかつてはあったようだが、今はなくなっている。
伊勢丹の向かい側に、「追分」がある。
ここは青梅街道と甲州街道の分岐点で、名物として「追分だんご」がある。
ここで新宿の歴史について説明したい。
慶長8年(1603年)、日本橋を起点として五街道が定められた。五街道とは東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道である。
このうち甲州街道は日本橋から甲府を通過して、中山道の下諏訪まで繋がっていた。甲州街道は日本橋から最初の宿場の高井戸までの距離が長いということで、元禄12年(1699年)に途中の宿場の設置が認められた。
この宿場は、内藤氏が幕府に返上した敷地に置かれたことと、新しい宿の意味から「内藤新宿」と名づけられた。新宿の始まりである。
しかしこの宿場は享保3年(1718年)に一度廃止される。原因のひとつに、色街の風紀上の問題があげられる。
その後、度重なる再興の願いにより明和9年(1772年)に宿場は再興される。同年、飯盛女(客に給仕をするという名目で置かれた遊女)は150人までと定められた。
これが今の新宿の盛り場の原点であり、戦後も売春防止法が施行される昭和33年(1958年)まで赤線地帯があったという。
3.赤線地帯
末広通りを通る。ここは戦前の赤線地帯だ。
「赤線」とは昭和33年(1958年)に売春防止法が施行されるまで、売春が合法だった地帯である。
「Barどん底」は「もじゃハウス」になっていた。「もじゃハウス」とはテレビ番組「空から地球を見てみよう」で登場する、樹木に覆われた建物のことだ。
「Barどん底」は昭和26年(1951年)に開業したバーで、美川憲一らも一時期通っていたことがあったらしい。
「角海老」のあるあたりに、一時期芥川龍之介が住んでいたらしい。
新宿二丁目は赤線地帯になる前に、芥川龍之介の自宅と父が経営する牧場「耕牧舎」があった。
芥川龍之介の実父である新原敏三が娘のヒサ夫婦のために建てた家で、ヒサが離婚して空き家になっていた。
そこへ、明治43年(1910年)10月、芥川龍之介一家が本所小泉町から転居してきた。
大正3年(1914年)、田端に転居するまでの高校生活をこの地で過ごしていたそうだ。
「新千鳥街」というディープな一角を通る。
千鳥街のあたりは世界最大のゲイタウンとして有名だが、千鳥街は元からゲイタウンだったわけではなく、一般の飲み屋が中心だった。道路開通による区画整理により移転を余儀なくされ、1960年代に「新千鳥街」に移転してきた。
このあたりも昭和33年(1958年)まで赤線地帯で、そこに飲み屋が集まってきて、その後ゲイバーの比率が高まった…らしい。
「毒」という看板の店があるが「中島みゆきBar」で、中島みゆきの歌「毒をんな」にちなんだ店名らしい。
新千鳥街のそばに「九州男」というゲイバーがある。
この「九州男」に「クィーン」のボーカルのフレディ・マーキュリーが通っていたらしい。
この「九州男」店主の増田さんとフレディ・マーキュリーは昭和60年(1985年)のクィーンの日本ツアーのときに付き合いがあったらしく、増田さんがクィーンのコンサートに招待されたり、ホテルの同じ部屋に泊まったりしたらしい。まあつまり、そういうことだ。
「男兄さん(おにいさん)」という店がある。まあ多分、ゲイバーだろう。
またしても、もじゃハウス。
4.太宗寺
太宗寺に着いた。
太宗寺は慶長元年(1596年)に建てられた浄土宗の寺院である。
太宗寺には「江戸六地蔵」のひとつである「銅像地蔵菩薩坐像」がある。
江戸六地蔵とは、江戸時代の前期に江戸の出入口6ヶ所に造立されたお地蔵さんである。深川の地蔵坊正元(じぞうぼうしょうげん)が発願し、江戸市中から多くの寄進者を得て造立した。
太宗寺のお地蔵さんは正徳2年(1712年)に「江戸六地蔵」の3番目として造立され、製作者は太田駿河守正儀である。
江戸六地蔵は品川寺(品川区南品川、東海道)、東禅寺(台東区東浅草、日光街道)、太宗寺(新宿区新宿、甲州街道)、真性寺(豊島区巣鴨、中山道)、霊巌寺(江東区白河、水戸街道)、永代寺(江東区富岡、千葉街道)に設置された。永代寺のお地蔵さんは現存していないが、それ以外は残っているので、巡ってみるのも面白いだろう。
品川寺には行ったことがあったので「もしかしたら撮ってるかも?」と思い見てみたら、わずかに写っていた。
太宗寺には閻魔様と奪衣婆像がいる。奪衣婆像はうまく撮れなかった。
弘化4年(1847年)、泥酔者が閻魔像の目玉を取ろうとしたところ、突然身体がすくんで御用になるという事件が起きた。このとき、閻魔様の霊験、ということになったらしい。単に酔って転げ落ちただけでは、というツッコミは野暮なのだろう。
また、この閻魔様は「つけひも閻魔」とも呼ばれている。それにはこんな伝説がある。
一人の乳母が太宗寺の境内で子守をしていた。そのとき、子供が泣き始め、乳母がいくらあやしても泣き止まなかった。そこで乳母は「そんなに悪い子だと閻魔様に食べられてしまうよ」と子供に言ったら泣き止んだ。
しかし、そのとき乳母の背中から子供の姿が消えていた。閻魔様の口から子供をおんぶしていたおんぶ紐がぶら下がっていたため、子供は閻魔様に食べられてしまったのだ。
江戸時代は「東海道を歩く」でも取り上げている通り、現代より物騒な時代なので、子供はさらわれてしまったのだろう、と私は思ったが、そんなツッコミは野暮だろうか。
なお、奪衣婆は死者の衣を剥ぐ役割を担っていることから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されていたようだ。なぜ衣を剥ぐことで妓楼の商売神になるのか…多分ここは深く突っ込まないほうがよいところだ。
境内には切支丹(きりしたん)灯籠もある。
昭和27年(1952年)太宗寺墓地内の内藤家墓所から出土した織部型灯籠の竿部分で、現在は上部の笠・火袋部分も復元されている。
切支丹灯籠とは、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンがひそかに礼拝したとされるもので、織部型灯籠の全体の形状は十字架を、また竿部の彫刻はマリア像を象徴している。
つまり内藤家はキリシタンだった、ということだ。
新宿山ノ手七福神は太宗寺(布袋尊・新宿区新宿)、稲荷鬼玉神社(恵比寿神・新宿区歌舞伎町)、永福寺(福禄寿・新宿区新宿)、厳嶋神社(弁財天・新宿区余丁町)、法善寺(寿老人・新宿区新宿)、経王寺(大黒天・新宿区原町)、善國寺(毘沙門天・新宿区神楽坂)で構成されている。機会があれば回ってみたい。
境内には塩かけ地蔵もある。
塩かけ地蔵はおできにご利益があるらしく、ここの塩をもらって帰り、患部に塩をぬりこむとおできが治るらしい。今度ニキビができたらもらいに行こうと思う。
塩かけ地蔵といえば亀戸天神社の犬塩地蔵を思い出す。
犬塩地蔵は商人たちが亀戸天神社に詣でたついでに塩を備えたもので、おできに効果があるわけではない。
犬塩地蔵については「うさぎの気まぐれまちあるき 都内のちょっと変わったお地蔵さんツアー」で取り上げている。
灯籠に猫を見つけた。かわいい。
もう片方の灯籠のなかにはお地蔵さんがいた。
閻魔堂を囲む玉垣に、新宿遊郭の妓楼名が彫られている。この玉垣は昭和8年(1933年)に作られたものらしい。
5.正受院・成覚寺
太宗寺を出て、正受院に向かう。
正受院は浄土宗の寺院で、文禄3年(1594年)の創建。「奪衣婆像」や「平和の鐘」がある。
正受院に入った泥棒が、奪衣婆の霊力で動けなくなったとか、奉納された綿に灯明の火がついたが奪衣婆が消したという逸話があり、多くの参拝客が押し寄せたが、あまりに多くの客が来たことから寺社奉行の取り締まりを受けたり、正月と7月しか参拝できなくなったこともあったという。今はいつでも参拝できる。
旗本・高力氏が妻の像を作らせたところ、あまりに恐ろしく出来上がったため奪衣婆として正受院に納めたらしい。実際の妻はどのような人だったのだろうか。
元禄14年(1701年)頃安置されたといわれており、咳止めの霊験があるとして庶民の信仰を集めた。コロナにも効くのだろうか。
境内には「平和の鐘」もある。
「平和の鐘」は宝永8年(1711年)に鋳造された銅製の梵鐘で、太平洋戦争時の昭和17年(1942年)、金属類回収の対象になったものの、戦後アメリカのアイオワ州立大学内海軍特別調練隊にあるのが発見され、昭和37年(1962年)に正受院に返還された。
この鐘は運よく戦争を生き延びたものの、金属類回収でなくなった文化財も多くあったため、やはり戦争はだめなのだと、改めて思う。
正受院の隣にある寺院が成覚寺で、文禄3年(1594年)に創建された浄土宗の寺院。
境内には子供合埋碑がある。
遊女たち(当時は「子供」と呼ばれていた)は過酷な仕事で病死したり、客との恋仲で無理心中させられたりと無残な死に方をする人が多く、死んだら投げ込み寺に葬られた。
この「子供合埋碑」には1,600人もの遊女が眠っているという。寺院の過去帳によれば亡くなった遊女の85%が19~24歳といわれる。私より年下じゃないか。
万延元年(1860年)に口入れ屋(飯盛女斡旋業者)の山口屋崇八が中心となり、飯盛女の供養のために建立したとされる。
遊郭というのは華やかな世界で、色街である。それゆえに「鬼滅の刃」で遊郭が取り上げられることに批判が生じていたのを見たことがある。
しかし表向きは華やかでも、家の困窮のために売られ遊女となり、病気となり貧しいなか死んでいく遊女も多くいたことも事実だ。「鬼滅の刃 遊郭編」の最終話でもそういった遊郭の「闇」の部分も取り上げられているし、そもそも遊郭編でメインの鬼だった堕姫・妓夫太郎は遊郭の「闇」がなければ鬼にならなかったはずなのだ。
現在の遊女はソープ嬢などだろうが、そういった人たちも病気で死んでいたりするのだろうか。
成覚寺には旭地蔵もある。
旭地蔵には18人の戒名が刻まれていて、うち7組は玉川上水で心中した新宿の遊女と客といわれている。
江戸時代に「曽根崎心中」などが流行り、その影響で遊郭の男客と遊女が心中することが流行ったことがあったらしい。その後、幕府によって心中は禁止された。
もともと玉川上水沿いに旭地蔵はあったが、明治12年(1879年)に成覚寺に移された。
撮影し忘れてしまったが、旭地蔵の隣には恋川春町の墓もあった。恋川春町は江戸時代の戯作者である。
6.花園神社
成覚寺を出て、花園神社へ向かう。
社伝によると、江戸時代以前に大和国吉野山より勧請した稲荷社で、もとは新宿3丁目交差点付近にあったが、寛政年間(1789~1801年)に現在地に移転した。移転した先が尾張藩下屋敷の一部で、美しい花が咲き乱れる花園のような場所であったことから「花園稲荷神社」と呼ばれた。
境内には成徳稲荷神社がある。夫婦和合、子授け、縁結びや恋愛成就にご利益があるらしい。
ここには「男性のシンボル」が飾ってあったりするのだが、気づかない参拝客も多いらしい。
境内には芸能浅間神社もある。
芸能浅間神社は、日本神話に登場する女神「木花佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」が祀られている。
芸能に関わりのある浅間神社は珍しく、芸能のご利益を受けるために参拝する芸能人も多いらしい。
「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑もある。
宇多田ヒカルの母でもある藤圭子は「新宿の女」で昭和44年(1969年)にデビューした。しかし平成25年(2013年)に亡くなっている。
ここで本橋先生とまちあるきしていたグループと合流、本橋先生案内のまちあるきが始まった。
まず、花園神社の境内にある飛行機の額に向かった。
この額には「同栄信用金庫飛行機貯金旅行會献木記念」と書かれ、昭和27年(1952年)四月吉日と日付が打たれている。神社と飛行機の間には「東京」=「大阪」=「福岡」=と書かれ、飛行機は福岡の先に飛び立っている。
この信用金庫への貯金によって3機の飛行機をチャーターし、旅行に行ったようだ。当時の飛行機旅行は神社に額を奉納するほどの一大行事だったことが伺える。
この飛行機旅行で使われた飛行機は「もく星号」と言われている。なお、彼らが旅行した4日後の昭和27年(1952年)4月9日に、もく星号が伊豆大島三原山に墜落、乗客・乗務員37人全員が亡くなった。
ここで「ん?」と思ったことがあった。
今年の2月に友人と伊豆大島を訪れ、裏砂漠を歩いていた。そこに、「もく星号遭難の地」という説明板を見つけ、石碑に花が供えられていた。そのときは「ここで飛行機事故があったのか」と思い、手を合わせたが、その事故が起こった飛行機の乗客(同じ便ではない)が奉納した額を新宿で見つけるとは。そして、それが繋がっていることに気づいたのはブログの執筆中だった。思わぬところで話が繋がった。
7.新宿ゴールデン街
新宿ゴールデン街に入る。
新宿ゴールデン街は戦後の混乱期にできた闇市を端緒とする。昭和24年(1949年)にGHQが闇市撤廃を支持するに至り、東京都庁と警視庁は各店舗に端して翌年までの移転を命じた。それに伴い、闇市の各店舗は、代替地として新宿区三光町の一帯に移転することになり、後に「新宿ゴールデン街」と呼ばれるようになる。
当時の三光町は「よろめき横丁」と言われ、ほとんどの店が飲食店の名目で赤線まがいの営業(青線)をしていた。新宿歌舞伎町まで伸びる売春街であったが、昭和33年(1958年)の売春防止法施行により全て廃業となった。
ここは「歌舞伎町アンダーグラウンド」129ページから登場する「中村酒店」である。
中村酒店の店主、中村京子さんは「Dカップ京子」の異名を持ち、80年代「平凡パンチ」をはじめとして数多くの雑誌グラビアのヌードモデルとして活躍した。現在は「中村酒店」というスナックをやっている。
新宿ニューアートというストリップ劇場を見つけた。
このあたりからヤクザビル・ヤクザマンションめぐりが始まる。詳細な場所や写真を上げるのは憚られるので省略するが、気になる人は「歌舞伎町 ヤクザマンション」で検索すると出てくると思う。
ヤクザマンションの塀に尖った装飾があるのだが、ここに飛び降りた人が刺さっていることもあるという。普通のマンションに住んでいてよかったと思った。
キックボクシングジムを見つけた。ここは「歌舞伎町アンダーグラウンド」165ページから登場する。
ここの代表、RIKIYAさんは昭和45年(1970年)、北海道札幌市生まれ。高校時代からバンドに打ち込み、その後上京。バンド解散後はキックボクシング選手として活躍後、飲み屋を経営を経て、現在のキックボクシングジムの経営を始めた。懇親会のとき、少しの間だがRIKIYAさんと隣の席になった。髪型は派手だったが、話してみるといい人だった。
8.歌舞伎町弁財天
「思い出の抜け道」を歩いていく。
「思い出の抜け道」では外国人など、さまざまな人種が行き交う。やや薄暗く、一人だったら入る勇気がないと思った。
王城ビルという建物を見つけた。
昭和39年(1964年)に建てられたビルで、当初は「名曲喫茶 王城」として営業していたが、現在はカラオケ店が入居している。そっち系のホテルではない。
王城ビルの隣には歌舞伎町弁財天がある。
ここの地面を掘り返したらものすごい数の蛇が湧いてきて、これを坪に籠めて埋めたところ、工事の親方がとてつもない悪夢にうなされたので、大正2年(1913年)に上野寛永寺の不忍弁天様の分祀として弁財天を勧請したという。
ここの地下には風俗店があり、聖と俗が同居した地といえる。
尾張屋銀行は明治33年(1900年)から昭和2年(1927年)の間あった銀行なので、その27年のどこかで奉納されたのだろう。
TOHOシネマズのゴジラヘッドを見つけた。
新宿コマ劇場跡地に平成27年(2015年)に日本最大級のシネコン「TOHOシネマズ」がオープンし、「ゴジラ」誕生60周年を記念して「新宿東宝ビル」の8階の屋上テラス内に設置された。
ゴジラは毎日12時から20時までの9回、ゴジラのテーマ曲とともに、吠えてビームを放つという。残念ながらビームを放っている現場は見られなかった。
「牛タン専門店 タン治郎」…。今話題の「鬼滅の刃」の主人公「竈門炭治郎(かまどたんじろう)」をもじったのだろうが、著作権的にマズイのではないかと思ってしまう。
COCO Chicken&Ribs。ここは韓国料理店だが、元事件現場である。
平成13年(2001年)9月1日未明、歌舞伎町一番街の雑居ビル、明星56ビルから出火し、麻雀ゲーム店「一休」、4階の飲食店「スーパールーズ」の従業員と客、44人の犠牲者を出す大惨事となった。
未だに犯人は捕まっていないが、おそらく、麻雀をやって負けた客がヤケになって放火したのだろうと、「歌舞伎町アンダーグラウンド」を読み終わった後、思った。
令和元年(2019年)に起こった京都アニメーション放火殺人事件や、令和3年(2021年)に起こった北新地ビル放火殺人事件など、火事はいつどこで起こるかわからないだけに怖いと思った。
9.女無BAR
東急歌舞伎町タワーを見つけた。
東急歌舞伎町タワーは令和5年(2023年)4月に開業したばかりの高層複合施設で、地上48階、地下5階、高さは約225mとなっている。
LIZONビルへ移動する(ビルの外観は撮り忘れてしまった)。
LIZONビル地下2階に「女無BAR(メンバー)」という店があり、ここは「歌舞伎町アンダーグラウンド」188ページから登場するブッチー武者さんが経営している。
昭和56年(1981年)から平成元年(1989年)に放送されていた「オレたちひょうきん族」のラストに「ひょうきん懺悔室」というコーナーがあり、芸人が神様の前にかしづき、番組でしでかしたミスを懺悔する。神様が両手で○をつくると上から紙吹雪が舞い、×の字に交差させると水をぶっかけられる。そのときの神様役をやっていた芸人がブッチー武者さんだ。なお、ほとんど×がつけられ、芸人は水をぶっかけられていたらしい。私は「歌舞伎町アンダーグラウンド」を読むまで、「オレたちひょうきん族」の存在すら知らなかった。平成8年(1996年)生まれの私にとっては、生まれる前に放送されていた番組だからだ。
第6トーアビル。豪華なエントランスだが、実は自殺の名所らしい。
ここは「ホテルまつき」。平成28年(2016年)に火災が起き、60代の女性宿泊客が死亡した。今は廃墟となっている。
「Dプレデュールディセント」。ホストクラブのようだが、どう見てもロゴが「テニスの王子様」のパクリだ。
写真は省くが、東京都立大久保病院前に「たちんぼ」がいた。
「たちんぼ」とは、ソープランド等に属さないフリーランスの娼婦で、そこに立っていて男性から声をかけられ、交渉成立するとホテルに行き、××して、お金をもらう。最近はたちんぼを待つ男性「逆たちんぼ」もいるらしい。お目当てのたちんぼと××するのは早い者勝ちだからだ。
それにしても。たちんぼする女性、たちんぼを待つ男性、どちらを見ても私より若い。「うさぎの気まぐれまちあるき 渋谷の凸凹地形体験の集い(第2回)」で初めて「たちんぼ」というワードを知った私であるが、現代でも残っているとは思わなかった。「歌舞伎町アンダーグラウンド」ではたちんぼについて、「手っ取り早くお金になる、承認欲求が満たされる」と書いてあったが、私はそんな危険なビジネスに手を染めたくはない。
実際このあたりでは昭和56年(1981年)3月から6月にかけて、女性が3人殺害される「新宿歌舞伎町ラブホテル連続殺人事件」も起こっている。
東急歌舞伎町タワーを見て、本橋先生のまちあるきは終わった。
このあとは、懇親会に参加した。懇親会は「ドラゴン餃子 Ryuo」にて。
やはり歩いた後のビールは美味しい。
餃子のお店なので、餃子がいろいろ食べられた。
「歌舞伎町アンダーグラウンド」に、本橋先生と、担当編集の勝浦基明さんからサインをいただいた。
なお、懇親会には「歌舞伎町アンダーグラウンド」30ページから登場するX氏も来ていた。X氏は、明星56ビルオーナーの依頼で、歌舞伎町ビル火災の遺族に和解金を受け取って判を押すよう全国を回って交渉した人物で、全ての遺族と交渉成立したという。そこには大変な仕事があったことは「歌舞伎町アンダーグラウンド」に書いてあった。
懇親会を終え、新宿駅で解散し、帰路についた。
新宿はなかなか縁がない上に「新宿ダンジョン」と揶揄されるほど構造が複雑である。おまけに歌舞伎町という女性一人では足を踏み入れにくい場所がある。そのため今回のまちあるきは新鮮だった。
私の知らない東京が、まだまだありそうだ。
歩いた日:2023年5月14日
【参考文献・参考サイト】
新宿の歴史を語る会(1977) 「新宿区の歴史」名著出版
東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」山川出版社
石井建志(2023) 「あなたも知らない「新宿の今昔物語」」
本橋信宏(2023) 「歌舞伎町アンダーグラウンド」駒草出版
武蔵野・多摩MTB散歩 飛行機貯金旅行会献木記念額
http://nobish.html.xdomain.jp/877hanazono.html
(2023年6月30日最終閲覧)