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江戸三十三観音をめぐる 6.高田・西早稲田・神楽坂編

 前回、江戸三十三観音第9番札所定泉寺、第10番札所浄心寺、第11番札所圓乗寺、第12番札所伝通院、第13番札所護国寺に参拝しながら文京区内を巡った。今回は第14番札所金乗院、第15番札所放生寺、第16番札所安養寺に参拝しながら高田、早稲田、神楽坂のあたりをぶらぶらしようと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.金乗院

  西巣鴨駅から新庚申塚停留場まで歩き、都電荒川線に乗る。東京に残る数少ない路面電車のひとつだ。なかなか乗る機会がないので、乗っていて楽しい。

都電荒川線

 学習院下停留場で下車する。今日はここからスタートだ。

学習院下停留場

 学習院下停留場を出て右折し、しばらく進むと左手側に金乗院がある。

金乗院

 金乗院は創建年代は不詳だが、500年以上の歴史を持つという。

  文京区関口台にあった目白不動尊は戦後ここに移ってきている。

目白不動尊

 目白不動尊五色不動のひとつで、目白という地名やJRの駅名の由来にもなっているお不動様である。五色不動とは目黒不動尊目白不動尊目赤不動尊目黄不動尊目青不動尊のことである。目赤不動尊は前回の「江戸三十三観音をめぐる」で訪れている。

 

 青柳文庫で知られる医師青柳文蔵の墓とその辞世を蜀山人の書で彫った追悼碑がある。

青柳文蔵

 

 慶安事件の首謀者のひとりであった丸橋忠弥の墓もある。この墓は子孫が建てたものらしい。

丸橋忠弥の墓

 

 境内には鍔の供養塔(鐔塚)、倶利伽羅庚申塔青面金剛を刻んだ庚申塔などもある。

鐔塚

 

 金乗院の御本尊、聖観世音菩薩が江戸三十三観音の第14番札所に指定されているので御朱印をいただく。あと、売っていたので今更ながら「江戸三十三観音札所案内」を購入した。

「江戸三十三観音札所案内」

 

 金乗院を出てすぐ右折して南に進むと、左手側に南蔵院が見える。

南蔵院

 南蔵院真言宗の寺院で、元和2年(1616年)、円成比丘の開山といわれる。

 この寺には相撲取りの墓や、彰義隊首塚、江戸時代の宝篋印塔、阿弥陀如来立像、六地蔵や日露戦後の明治39年(1906年)11月に建てられた忠魂碑などがある。

 また、「山吹の里弁財天」と彫られ、元禄9年(1696年)3月に建てられた碑がある。「山吹の里」なる碑は、南蔵院からさらに旧鎌倉街道を南に行き、神田川にかかる面影橋の手前のところにもある。このあたりは太田道灌の故事にちなむ山吹の里であるといわれるが、山吹の里は荒川区町屋付近や埼玉県越生町にもあり、どれが正しいかは不明である。

 太田道灌室町時代の終わりから戦国時代初めにかけて活躍した武将で、代表的な功績として江戸城築城が知られている。

 ある日、鷹狩り中に急な雨に遭った太田道灌は蓑を借りようと、一軒の農家に立ち寄った。

 すると、なかから出てきた少女は何も言わずに一枝の山吹を差し出した。道灌はそれに腹を立て、立ち去ったが、のちに家来から「少女は「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」という古歌を引用し、「実の」と「蓑」をかけて、蓑がないことをお詫びする気持ちを込めて山吹の花を差し出したのですよ」と聞く。道灌は己の無知を恥じ、これ以降和歌の勉強に一層励むようになったという。これが「山吹の里」の話である。

 

 南蔵院の向かい側に、氷川神社がある。

氷川神社

 氷川神社は高田村の鎮守だったが、江戸時代は南蔵院別当寺だったという。

 この神社の鳥居は、鳥羽藩主稲垣対馬守が寛政2年(1790年)に寄進したものといわれる。

 御朱印をいただいたが、なんと1,000円。なかなかな価格である。

2.甘泉園

 氷川神社から南に進み、都道8号線を通り過ぎると亮朝院がある。

亮朝院

 亮朝院の本堂である七面堂は木造、正面5面、側面5面、入母屋造り、銅板葺きの建物で、天保5年(1834年)に建築された。

 縁側や屋根などに後代の改修や改変が見られるが、概ね当初の状態が維持されている。平成6年(1994年)から平成8年(1996年)にかけて改修工事が実施された。

 新宿区内では希少な江戸時代の寺院建築なので、新宿区指定有形文化財に指定されている。

 七面堂には木造七面明神半跏像及び宮殿、木造妙見菩薩立像及び宮殿、木造諏訪大明神坐像及び宮殿があり、それぞれ新宿区登録有形文化財に指定されているが、残念ながら見ることはできなかった。

 亮朝院七面堂の前には金剛力士の石像がある。

 この金剛力士石像は宝永2年(1705年)3月29日に奉納された石造の金剛力士像で、阿吽一対で安置されている。

 金剛力士像は「仁王」と呼ばれ、仏を守護するものとして寺院の山門などに阿形と吽形の一対で安置される。石造の金剛力士像は珍しく、新宿区では唯一のものである。新宿区指定有形文化財に登録されている。

 

 都道8号線に戻り、日神デュオステージ早稲田のある交差点で1本裏道に入ると甘泉園がある。

甘泉園

 甘泉園は江戸時代は屋敷地で、明治になって個人の邸宅となった。

 昭和13年(1938年)に早稲田大学が譲り受けて付属庭園とした。早稲田大学水稲荷神社の旧地と甘泉園の一部とを、昭和36年(1961年)に土地交換をしたのである。

 東京都は昭和37年(1962年)に、庭園部分を都民公園とするべく用地買収を始め、園内を整備して新宿区に移管し、昭和44年(1969年)7月1日から新宿区立公園として開園した。

 甘泉園とは、園の東に泉地があり、そこから出る清水がお茶に適するところから、明治時代に名づけられたのである。

 甘泉園には、新宿区にいるとは思えない景観が広がっていた。

 

 甘泉園のそばに、水稲荷神社がある。

水稲荷神社

 水稲荷神社は天慶4年(941年)、俵藤太秀郷朝臣が富塚の上に稲荷大神を勧請され、富塚稲荷、将軍稲荷と呼ばれるようになった。

 元禄15年(1702年)、大椋(おおむく)の下に霊水が湧出し、眼病に効能があったとされて江戸で評判となった。そのとき「我を信仰する者は火難を免れるだろう」と神託があり、このとき以来「水稲荷」と称するようになり、消防関係者や水商売の人たちの信仰を集めた。

 昭和38年(1963年)に現在地に遷座した。

 

 境内には耳欠け神狐がいて、体の痛いところをなでると痛みがやわらぐそうだ。おびんづる様のようなものだが、狐タイプは初めて見た。

耳欠け神狐

 そして水稲荷神社の参道になぜかヤギがいた。首輪がついているので、飼われているのだろう。そして人が乗っていたので撮影は憚られたが、馬もいた。

 

3.穴八幡宮

 甘泉園をあとにして都道8号線に戻る。都道25号線との交差点で右折するのだが、その左手側にガードレールが大量に置いてある一角があった。

 

 地理院地図を見ると、赤線で囲んだエリアだけ建物がない。

 

 どうやら、環状4号線の建設のための用地買収を行っているようだ。

 環状4号線の建設が計画されたのは大正12年(1923年)の関東大震災後のことである。関東大震災からもう100年経っているが、環状4号線が開通することはあるのか、甚だ疑問である。

 

 西早稲田交差点に「高田馬場跡」の説明板があった。

高田馬場

 馬場は寛永13年(1636年)に造られたもので、旗本たちの馬術の練習場だった。

 享保年間(1716~1753年)には馬場の北側に松並木がつくられ、8軒の茶屋があったとされている。

 今「高田馬場」と聞くと山手線の駅を連想するが、この地点から高田馬場駅までは徒歩で15分ほど離れている。むしろ東西線都電荒川線早稲田駅のほうが近い。

 

 西早稲田交差点で左折し南東に進むと、穴八幡宮がある。

八幡宮

 穴八幡宮の祭神は応神天皇仲哀天皇神功皇后である。

 康平5年(1062年)に前九年の役に勝利した源義家が凱旋した際、日本武尊命(やまとたけるのみこと)にならい兜と太刀をおさめて八幡宮を勧請したことにはじまるとされている。

 寛永13年(1636年)、江戸幕府御持弓頭 松平直次が弓術の練習のためにここに的場を築き、射芸の守護神として八幡宮を奉祀した。

 そして8代将軍徳川吉宗が、高田馬場流鏑馬(やぶさめ)を復活させた。現在、毎年体育の日に流鏑馬が奉納されているようだ。

 

 穴八幡宮御朱印をいただく。「一陽来復」と書かれている。「一陽来復」とはよくないことの続いた後にいいことが巡ってくることを意味する。ちなみに御朱印料金は「お気持ち」だったので、300円払った。

 

 この布袋像水鉢は、3代将軍徳川家光から慶安2年(1649年)に奉納されたものらしい。

 

 穴八幡宮の随神門と正面参道鳥居を見る。あまり古いものではなさそうだが、晴れた空に朱が映えて美しい。

随神門

正面参道鳥居

4.放生寺

 穴八幡宮の隣にある寺院が放生寺である。

放生寺

 放生寺は寛永18年(1641年)に威盛院権大僧都 法印良昌上人が穴八幡宮の造営に尽力し、その別当寺として開創された。

 良昌上人が諸国を修行していたとき、寛永16年(1639年)2月にこんな夢を見た。それは老翁が現れ「将軍家の若君が辛巳(かのとみ)の年の夏頃に誕生するから祈れ」と良昌上人に告げる夢だった。

 その後良昌上人が堂宇に籠って祈り続けたところ、徳川家綱(第4代将軍)が生まれた。

 この話が幕府まで届き、徳川家光(第3代将軍)が良昌上人のもとを訪れ、正保2年(1645年)に良昌上人は家光に厄除けの祈祷をした。慶安2年(1649年)に徳川家光から「光松山威盛院放生會寺」の寺号を賜り、その名がついた。

 明治までは穴八幡宮とその別当寺であった放生寺は同じ境内にあり、代々の住職がどちらも管理していたが、明治2年(1869年)に廃仏毀釈の布告によって現在地に本尊の聖観世音菩薩が遷された。

 放生寺に参拝し、御朱印をいただく。なおこの寺院の御本尊、聖観世音菩薩が江戸三十三観音の第15番札所に指定されている観音様である。御影(おすがた)もいただいた。

 

 放生寺には水掛け地蔵と大震火災死亡群霊塔がある。これは自然災害伝承碑として地理院地図にも掲載されている。

水掛け地蔵と大震火災死亡群霊塔

 大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で、旧牛込区では死傷者105人、全半壊926戸の被害を受けたが、火災はほとんどなく、比較的被害が少なかったため多くの避難民を受け入れた。

 大震火災死亡群霊塔は震災の死者を弔うために翌年の大正13年(1924年)に建立された。なお、大震火災死亡群霊塔の隣にある2体の地蔵菩薩立像は高野山御廟橋から遷されたものである。

 東京の歴史を勉強していて関東大震災の話題は度々出てくるのだが、関東大震災の恐ろしいところは「地震なので、現代でも起こりうる」ことなのである。関東大震災の犠牲者の冥福を祈り、そっと手を合わせた。

 

5.赤城神社

 放生寺をあとにして、都道25号線を東に進む。グランドステータス寿賀原ビルのある交差点を右折して少し進むと宗参寺がある。

宗参寺

 宗参寺は曹洞宗の寺院で、天文12年(1543年)に亡くなった牛込重行の廟所として、子の勝行が創建した。

 牛込氏は室町時代中期以来、江戸牛込の地に居住した豪族である。

 寛文4年(1664年)に牛込氏5代、牛込勝正が先祖の重行、勝行のためにたてた牛込氏墓があり、東京都指定史跡に指定されている。

牛込氏墓

 宗参寺の境内には山鹿素行の墓もある。山鹿素行は江戸時代前期の儒学者兵学者で墓地は国の史跡に指定されている。

山鹿素行の墓

 都道25号線に戻って歩いていると、生田春月旧居跡を見つけた。

生田春月旧居跡

 このあたりは、大正から昭和にかけて近代詩の発達に大きく寄与した詩人、生田春月が大正4年(1915年)から11年間住んでいたところである。

 春月は明治25年(1892年)に鳥取県米子市に生まれた。9歳のときに詩作をはじめ、16歳で上京、大正7年(1918年)に発表した詩集「感傷の春」で詩人としての地位を確立した。

 昭和5年(1930年)に大阪発、別府行きの船に乗船中、投身自殺を遂げて38歳で亡くなった。やはり創作を行う人は精神を病んでしまうのだろうか。

 

 牛込天神町交差点で地蔵坂を登る。地蔵坂の由来は不明だが、おそらく坂の近くに地蔵尊があったのでは、と推測されている。

地蔵坂

 都道25号線を歩いていたら左手側に大きな鳥居が見えたので寄ってみることにした。赤城神社だ。

赤城神社

 正安2年(1300年)、上野国(現在の群馬県)の赤城山赤城神社の分霊を牛込早稲村田島に移して牛込の鎮守とした、と伝わるが定かではない。

 大胡氏(のちの牛込氏)が牛込に移り住んでから建立したものと思われる。現在地に移ったのは弘治元年(1555年)である。

 天保13年(1842年)火災により焼失し、安政2年(1855年)には、建設中の社殿が大地震により傾き、元治元年(1864年)~慶応3年(1867年)にようやく復旧した。

 明治初年の神仏分離で、赤城明神を赤城神社と改めた。

 

 穴八幡宮御朱印をいただいたとき、そろそろ御朱印帳がいっぱいになるな、と思ったので赤城神社御朱印帳を購入した。うさぎ柄でかわいい。

 

 「赤城山と大百足(おおむかで)」というモニュメントがあった。ステンレス百足。

赤城山と大百足」

 昔、赤城山の神様は百足となり中禅寺湖の領有をめぐり、二荒山の蝮(まむし)となった神様と戦いをした。これが奥日光の「戦場ヶ原」の由来になったという。

 

 赤城神社の裏に観音菩薩立像と俳人巻阿の碑があった。

 この観音菩薩立像は慶長18年(1613年)に造られたもので、宝蔵院から移された。現在、宝蔵院は廃寺になっている。ここの観音様は江戸三十三観音の対象ではない。

観音菩薩立像

 俳人巻阿は江戸時代の俳人であり、4つもの句が刻まれている。

 「梅が香や 水は東より 行くちがひ」

 「遠眼鏡 には家もあり かんこ鳥」

 「名月や 何くらからぬ 一とつ家」

 「あるうちは あるにませて 落葉哉」

俳人巻阿の碑

 この鳥居の奥には3社もの神社がある。

 1社目は赤城出世稲荷神社で、御祭神は宇迦御霊命(うかのみたまのみこと)と保食命(うけもちのみこと)。赤城神社がここに遷座する前からあったようだ。現在は神楽坂商店街の人やサラリーマンの崇敬を集めているようだ。

 2社目は八耳神社で、御祭神は聖徳太子。戦災で焼失した太子堂をここに祀ったとのこと。

 3社目は葵神社で、御祭神は徳川家康。宝蔵院に鎮座していた神社だったが、明治元年(1868年)に神仏混合が廃止されたのに伴い、赤城神社遷座した。

赤城出世稲荷神社ほか2社

 先を急ぐため寄らなかったが、境内にはあかぎカフェというカフェもある。

あかぎカフェ

6.安養寺

 神楽坂を下りていくと、地面に何やら貼ってある。どうやら「坂にお絵貼り」というイベントをやっているようだった。これ、「推し」の絵を描くと踏み絵になってしまうのでは…?などと考える。

 

 今度は、子供が坂に絵を描いている。見た感じ誰が描いてもよい雰囲気だったが、流石に成人女性が一人で絵を描いているのもあれだな、と思いやめておいた。

 

 神楽坂を下っていき、神楽坂上交差点の左手側に安養寺がある。

安養寺

 安養寺は慈覚大師の創建で、当初は江戸城内にあったが、徳川家康が入城するときに平河口に移され、その後田安への移転を経て現在地に移された。

 御本尊は薬師如来で、江戸時代から厄除薬師として信仰されてきた。

 聖天堂に歓喜天尊と十一面観世音菩薩が祀られており、このうち十一面観世音菩薩が江戸三十三観音第16番札所に指定されている観音様である。

 

 御本尊の薬師如来に挨拶するため、本堂へ向かう。

 

 その後寺務所のインターホンを押そうとすると、「本日の朱印は行事の都合により中止致します」の貼り紙を見つけた。しかし、本堂のなかに人がいるのが見えたので、ダメ元でお声がけしたところ、御朱印をいただくことができた。

 

 「今日は行事があったから」ということで、なんとお菓子のおすそわけまでいただいてしまった。帰ってから開けてみたら、下2つが練り切り、一番上が栗まんじゅうが入っていた。もちろん美味しくいただきました。

 

7.善国寺

 安養寺をあとにして神楽坂を下りていき、神楽坂ウォレテリア山藤のある交差点で右折し、坂を登っていくと左手に光照寺がある。光照寺は撮影禁止とのことで、入口の写真のみ掲載する。

光照寺

 光照寺は正保2年(1645年)、神田から移転してきた浄土宗の寺院である。

 出羽国松山藩主酒井家の墓や、狂歌師 便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)の墓がある。

 光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城跡である。牛込城の城館や築城時期は不明だが、住居を主体とした館と推定されている。

 牛込氏は、赤城山の麓、上野国勢多郡大胡の領主、大胡氏を祖とする。

 大胡氏は、天文年間(1532~1555年)に南関東へ進出し、北条氏の家臣となり、姓を牛込氏と改め、赤坂、桜田、日比谷などを領有した。天正18年(1590年)に北条氏が滅亡した後は徳川家康に従ったという。

 光照寺には涅槃図、木造地蔵菩薩坐像、木造十一面観音坐像、阿弥陀三尊来迎図、法然上人画像などがあり、いずれも新宿区指定有形文化財だが、見ることはできなかった。

 

 神楽坂に戻り、少し進むと右手側に善国寺がある。

善国寺

 善国寺は文禄4年(1595年)に池上本願寺12世貫主 仏乗院日惺(にっせい)上人が、中央区馬喰町に建立した。寛政4年(1792年)に火災にあい、現在地に移ってきた。

 善国寺の御本尊は毘沙門天像である。この毘沙門天像は、甲冑具足に身を固め、左手に宝塔を捧げ、右手に鉾を持ち、足に夜叉鬼を踏まえて立っている。

 毘沙門天梵語で、人々の多くの願いを聞き、御利益を与えることを誓願としている天王という。この像は、日惺上人が池上本願寺に入山するとき、関白 二条昭実(にじょうあきざね)からお祝いとして贈られたものと伝わっている。

 善国寺には石虎がおり、これは嘉永元年(1848年)に奉納されたものである。

 石虎は本堂の左右にいるが、右側の石虎の台座に、几号水準点が刻まれている。

石虎

几号水準点

 几号水準点とは明治初期に高低測量を行うために設けた基準となる基準点である。垂直面に刻印されているものと水平面に刻印されているものがあり、これは垂直面に刻印されているので内務省が設置した几号水準点と考えられている。ちなみに水平面に刻印されているものは東京市が設置した水準基標と推定されている。

 日本に残る几号水準点を訪ねるまちあるき随筆を同人誌「地理交流広場」で書いているが、ここの几号水準点はまだ取り上げていない。

 

 善国寺本堂に参拝し、御朱印をいただく。

 

 これで今日行きたい場所は一通りめぐったし、帰ろうかと考えたがその前にスタバで休憩してから帰ることにした。飲んだのは「ストロベリーメリークリームフラペチーノ」。いちごとホワイトチョコレートマスカルポーネの風味が絶妙で美味しかった。

「ストロベリーメリークリームフラペチーノ」

 フラペチーノを飲みつつ、参考文献「新宿区の歴史」を読み、1時間ほど滞在してから飯田橋駅から帰路についた。

飯田橋駅

 金乗院では目赤不動尊につぎ、目白不動尊に参拝することができた。いつか五色不動全てにお参りをしてみたい。放生寺は穴八幡宮とのつながりを強く感じ、かつての神仏習合時代に思いを馳せた。安養寺では一時は「御朱印もらえないか」と思ったものの勇気を出して声をかけたところいただけたばかりでなく、おすそわけまでもらってしまった。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

歩いた日:2023年11月3日

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【参考文献・参考サイト】

新宿の歴史を語る会(1977) 「新宿区の歴史」 名著出版

林英夫(1977) 「豊島区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

荒川区立図書館 太田道灌と「山吹の里」伝説

https://www.library.city.arakawa.tokyo.jp/contents;jsessionid=ECAA4BEBA5A3FF69053022F6F9DE51FC?0&pid=1068

早稲田水稲荷神社 神社のご案内

https://mizuinari.net/guide.html

国土地理院 自然災害伝承碑

https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html

(2023年12月1日最終閲覧)