前回、掛川駅から袋井駅まで歩いた。今回は袋井駅から磐田駅まで歩こうと思う。磐田市街地は面白いものがいっぱいあったので、今回はそれを中心に書こうと思う。これで磐田に行ってみたい、と思ってくれたら幸いである。
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1.阿多古山一里塚
「東海道を歩く 24-1.袋井駅~磐田駅 前編」は「従是西 見付宿」の傍示杭のところで終わったので、その先から書こう。
行人坂を上がる。
ここには行人(山伏)が多く住んでいて村のまつりごとや社会奉仕に携わっていたので、この坂を行人坂と言うようになった。今は山伏を見ることはない。
この先に水準点がある。一等水準点第001-243号だ。
一等水準点第001-243号は金属標らしいが、鉄蓋に阻まれて見えなかった。
昼食を食べていなかったのと、暑さで体がへばってきたので、マクドナルドでアイスコーヒーを飲みながらポテトをつまんだ。
道路の反対側にも水準点があるので確認する。一等水準点第144-1号だ。
一等水準点第144-1号は平成15年(2003年)に設置された標石型だが、石蓋に阻まれて確認できない。
旧道に入ると、三本松御旅所を見つけた。
御旅所とは神輿巡航のときに、神輿が休む場所である。
見付天神裸祭や祇園祭の神輿はここまで来て、ここで御神酒献上や祝詞奏上を行うようだ。
秋葉灯籠を見つけた。
火伏の神様、秋葉山三尺坊大権現に対する庶民信仰は江戸時代に盛んで、それで建てられた灯籠が秋葉灯籠だ。
遠州見付宿木戸跡を見つけた。
ここに木戸(宿場の端にある門)があったらしい。
遠州見付宿木戸跡のあるところに、愛宕山があるので登ってみよう。頂上には祠と一里塚、四等三角点「見付」がある。
見付宿の一里塚は、愛宕神社が鎮座する愛宕山にあったことから、愛宕神社の旧名から「阿多古山一里塚」と呼ばれる。
明治時代になり一里塚の多くは取り壊されてしまったが、阿多古山一里塚は見付地区の財産として残され、昭和42年(1967年)に磐田市の史跡に指定された。
一里塚の上にある四等三角点「見付」は、昭和32年(1957年)に設置された。
2.矢奈比売神社
少しだけ道にそれて、矢奈比売神社(やなひめじんじゃ・見付天神とも言う)に寄る。
矢奈比売神社の創建年は不明だが、「延喜式」の式内社で、古くは北側1kmのところにある元天神社の場所にあり、いつの時代か現在の場所に移ったと伝わる。
「続日本後紀」には、承和7年(840年)には「遠江国磐田郡無位矢奈比売天神従五位下」と記されていて、相殿の天満宮は正暦4年(993年)に勧請された。
この矢奈比売神社を中心に、見付宿では毎年旧暦の8月10日直前の土・日曜日に裸祭が開催される。「見付の裸祭」として県外にも知られる奇祭で、「見付天神裸祭」として国の重要無形民俗文化財に指定されている。
神社には「しっぺいみくじ」が売られている。
「しっぺい」は平成24年(2012年)に生まれた磐田市のイメージキャラクターで、悉平太郎伝説がモチーフとなっている。
悉平太郎伝説は以下のような話である。
その昔、家の棟に白羽の矢が立った家の娘は、8月10日の見付天神の祭りに人身御供として捧げられるしきたりがあり、村人たちは、祭りのたびに泣いて悲しんでいた。
ある年、見付を訪れた旅の僧侶がこの話を聞き、このしきたりを無くせないものかと考えた。
僧侶はこれが怪物の仕業であることを突き止め、怪物たちが「信濃の国の悉平太郎に知らせるな」とささやくのを聞いた。そこで、僧侶が調べたところ悉平太郎が光前寺(現在の長野県駒ヶ根市)で飼われている犬だということが分かり、この犬を借りてきた。
次の年の8月、祭りの日に人身御供の身代わりに悉平太郎を柩に入れて、見付天神に供えた。そして怪物が柩を開けた瞬間、悉平太郎は怪物に襲い掛かり、長い格闘の末、怪物を退治した。その怪物は大きな年老いたヒヒだった。その後、人身御供のしきたりは無くなったようだ。
この闘いで傷ついた悉平太郎は、光前寺までたどり着き息絶えたとも、帰る途中で亡くなったとも言われている。
私は矢奈比売神社が悉平太郎伝説の神社である、ということを前から知っていた。それはアニメ「ゆるキャン△ Season2」の第2話「大晦日のソロキャンガール」で取り上げられたからである。要は、矢奈比売神社はゆるキャン△の聖地だ、ということだ。
ちなみに「ゆるキャン△」6話に出てくる「メタル賽銭箱」が賽銭箱として置かれていた。ちなみにこれは本来賽銭箱ではなく、コンパクト焚き火グリルB-6君である。
ちなみにしっぺいミクジは末吉だった。
御朱印もいただいた。
矢奈比売神社の奥には、悉平太郎を祀る霊犬神社がある。
ゆるキャン△の聖地だからか、本殿と霊犬神社の途中に松ぼっくりがたくさん供えてある場所があった。松ぼっくりはゆるキャン△で焚き火の着火剤として時々登場し、そのたびに\コンニチハ/と挨拶をする、ゆるキャン△のマスコットキャラクター(?)だ。
3.宣光寺・大見寺
東海道に戻り、先に進むと宣光寺がある。
宣光寺の創立年は不明だが、古くは時宗の寺院で、後に曹洞宗に改宗した。
境内には「みがわり地蔵」がある。
元亀3年(1572年)三方原の戦いで武田信玄に追われた徳川家康は見付に逃れて町に火を放った。
みがわり地蔵は逃げまどう人々を助けるため幼児に化け、身にやけどを負いながら火を消してまわったため多くの人々が難を逃れた。
これにより徳川家康は地蔵に帰依し、後に天下統一を果たした。
この話がみがわり地蔵の縁起だが、いや、火を放ったのは徳川家康では…?と思ってしまう。
境内には水かけ地蔵もある。水かけ地蔵に水をかけると体や心の痛みをやわらげてくれるらしい。
また、先ほど宣光寺は曹洞宗に改宗した、と書いたが、これは豊川稲荷の住職によって改宗されたといわれるため、境内に豊川稲荷が祀られている。
少し先に進むと大見寺がある。
大見寺は浄土宗の寺院で、今川氏時代は見付端城が築かれ遠江支配の拠点となった。
永禄12年(1569年)に徳川家康が遠江に侵攻するとその役割を終えたが現在でも境内の周囲には土塁が残る。
大見寺には幸吉の墓がある。幸吉は岡山県出身で江戸時代中期に、日本で初めてグライダーのような翼で空を飛んだという。
今年の5月、友人と石川県小松市の石川県立航空プラザに行き、幸吉の話があったのを見て「そんなことをした人がいたのか」と思ったが、まさかここで繋がってくるとは思わなかった。
4.旧見付学校
旧見付学校の隣に淡海国玉神社(おうみくにたまじんじゃ)がある。
淡海国玉神社は遠江国の総社で、見付では「中のお宮」と呼ばれている。
奈良時代、赴任した国司は、遠江の有力な神社をめぐり参拝することをならわしとしていたが、その煩雑さを解消するために、地域の神々を国府のそばにまとめて勧請したのが淡海国玉神社である。
見付宿の東端に矢奈比売神社があり、中央部に淡海国玉神社があって、この淡海国玉神社は宿場の守護神をまつる社として信仰されてきた。
それにしても、狛兎がかわいい。
淡海国玉神社の隣に、旧見付学校がある。
旧見付学校は現存する日本最古の木造洋風小学校校舎で、夜間はライトアップされ、見付の中心的なモニュメントになっている。
明治8年(1875年)、淡海国玉神社境内に、塔屋2層付きの木造洋風2階建て校舎が建造された。
学級が増えたことにより、明治16年(1883年)には2階屋根裏を改造して3階にして、現在のような塔屋を含めて5階建てとなった。
校舎の石垣は、横須賀城の払い下げの石垣で、大きな川原石で作られている。
校舎は間口12間(約21.7m)、奥行5間(約9m)、3階2層の建物である。玄関は古代ギリシア・ローマ建築を思わせるエンタシス様式の飾り柱を配し、外観のバランスをよくするために、左右対称の2つの入口が設けられている。
外壁には漆喰がいく重にも塗られていたり、内部1階・2階の各教室には、上部の重みに耐えられるように方杖という支え木がほどこされていたり、床は何百人もの子供たちの重みに耐えられるように、分厚い板の上にさらに厚さ3cmほどの斜め張りの床板が張られているなど、構造上堅固な建造物にするための工夫が見られる。
そのほか、室内の明るさを補うため、天井に和紙が貼られたり、窓が分銅吊りの上下窓になっているなど、当時の建築の特徴がみられる。
見付学校は小学校として大正11年(1922年)まで使用され、その後、准教員養成所、裁縫女学校、病院などに利用された。
昭和44年(1969年)に隣接する磐田文庫とともに国の史跡に指定され、現在、内部は近代の教育資料を中心に、歴史資料の博物館となっている。
なかに入ると、明治の授業風景が再現されていた。
教室にはオルガンが置かれている。これは磐田市の隣、浜松市のヤマハが作ったオルガンだ。
ガイドの人に、「いろは圖」を見せられて、「これ、読める?」と上から3番目、右から4番目の文字を指さされた。
「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれ『そ』」「『そ』ですね」と私が答えると「今の若い子でも「いろは歌」を覚えているなんて、すごいね!」と褒められた。
どこで覚えたわけではないが、なんとなく「いろは歌」は覚えている。
「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす ん」
「生徒心得」が貼ってあった。
「第二条 出校は始業時間十分前たるべきこと」
…いつも職場に5分前出勤している私には耳の痛い言葉だ。
ミニチュア旧見付学校があった。屋根の上に人が乗っているが大丈夫なのか。
「どうする家康、見てますか?」と聞かれながらパンフレットを手渡された。
旧見付学校は洋風建築に見えるが、和釘を使うなど、和風の建築手法も取り入れられているようだ。
旧見付学校は何層もの漆喰が塗られている、と書いたがその構造が説明されていた。下塗り、大直し、中塗り、上塗り、のろ仕上げの順で塗り固められるようだ。
旧見付学校の建築棟梁は伊藤平右衛門で、旧三重県庁舎や旧三重県尋常師範学校、京都の東本願寺御影堂などの建築に棟梁として携わっている。旧三重県庁舎や旧三重県尋常師範学校は愛知県犬山市の明治村に保存されているので、今度見に行きたい。
明治5年(1872年)刊行の「小学教則」などが展示されていた。この年に学制が制定され、これは文部省が示した教育課程の基準となるものである。
ほかに現存している明治の学校建築についての展示があった。
長野県佐久市の旧中込学校(明治8年・1875年)、山梨県甲府市の旧睦沢学校(明治8年・1875年)、長野県松本市の旧開智学校(明治9年・1876年)、山梨県南巨摩郡富士川町の旧舂米学校(明治9年・1876年)、静岡県賀茂郡松崎町の旧岩科学校(明治13年・1880年)が紹介されていた。どれも行ったことがないので、いつか行ってみたい。
明治の職員室の様子が再現されていた。
そろばんが展示されている。
そろばんは計算に使う道具で、今ではすっかり使われなくなった。上1つ、下4つの珠がついたそろばんが通常だが、古いそろばんでは上1つ、下5つの珠がついていると聞いたことがあった。この解説にあったが、下5つのそろばんは昭和10年(1935年)代より前に作られたそろばんらしい。90年近く前に作られたそろばんでなければ5つ珠でない、ということか。
今時の小学生の遊びといえばゲームなどだが、明治時代にはもちろんゲームはない。そこで子供たちはカルタやめんこ、すごろくで遊んでいたようだ。
カルタはことわざが使われていたようだが、「い」の場合、江戸は「犬も歩けば棒に当たる」上方(京都)は「一寸先は闇」尾張(愛知県)は「一を聞いて十を知る」だったらしい。
私は小学生の頃、一時期「かわごえ郷土かるた」をやっていたことがある。これの「い」は「伊佐沼の 水面に浮かぶ 古代蓮」だったことを覚えている。
めんこは、地面に置かれた相手のめんこに自分のめんこをたたきつけ、「相手のめんこを裏返す」「相手のめんこの下を通す」「相手のめんこを動かす」などのルールで勝ち負けを決める遊びである。私はあまりやったことはないが、力の強い人のほうが有利そうなのは何となくわかる。
すごろくは、サイコロを振って出た目によって「ふりだし」から「上がり」までマス目の駒を進める遊びである。これなら私もやったことがある。
ただ、めんこに軍隊の絵が描かれていたり、すごろくのテーマが文明開化や富国強兵などで、時代を感じる。
「いろは多とへ雙六」が展示されていた。これには江戸カルタを錦絵に表してすごろくにしている。
この頃「音楽」は「唱歌科」と言われていた。伴奏用のオルガンは海外から輸入されたもので、見付尋常小学校は全国で2番目に早くオルガンが設置されたようだ。
昭和の小学生が使った三角定規など、学用品が展示されている。
謄写版印刷機が展示されていた。これは原紙をガリ版にあてがい鉄筆で文字等を書き、原紙を網目に貼り付け、ローラーにインクをつけて刷り上げるものである。今ではコピー機で簡単にできるのに、それ以前の印刷は大変な手間がかかることがわかる。
ここで、磐田文庫を見てみることにする。
磐田文庫とは、淡海国玉神社の神官の大久保忠尚が、寄付と私財を合わせて200両を投じて元治元年(1864年)4月に設立した私設図書館である。約500冊を所蔵する。
建物の構造は、角材を積み上げた校木造2階建で、間口5.5m、奥行5.7m、平面積約31㎡を測り、4室が設けられる。
昭和44年(1969年)、旧見付学校とともに国の文化財に指定され、平成4年(1992年)静岡県の補助金を受けて解体復元修理を行った。
四書五経とは儒教の経書のなかでも特に重要とされる9種の書物で、四書は論語、大学、中庸、孟子を指し、五経は易経、書経、詩経、礼記、春秋を指す。
旧見付学校に戻り、2階へ向かう。階段が急なのはスペースの削減のためらしい。
二宮金次郎像が展示されていた。この二宮金次郎像は昭和4年(1929年)に作られたものらしい。
見付学校の歩みが展示されている。
明治5年(1872年)に学制が発布され、明治6年(1873年)には宣光寺を仮校舎として見付学校が開校、明治8年(1875年)に新校舎が開校した。
新校舎は淡海国玉神社・磐田文庫の敷地に建てられ(淡海国玉神社の神官・大久保忠利が土地を提供)、町の有力者・古澤脩(ふるさわおさむ)によって積立金が集められ、伊藤平右衛門の設計によって作られた。
見付では学校建設資金が結構すぐに集まったようだ。それは商人の多い見付ではお金があったことと、商人が教育の必要性を理解していたから、ということだ。確かに読み書きそろばんができないと、商売はできない。
明治7年(1874年)の生徒数は男179人、女116人で、当時は小学校でも留年があったようだ。
当時の学校には奉安殿があった。これは戦前日本で、天皇皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていたものである。つい先日訪れた台東区にある旧下谷小学校にも奉安殿があった。
明治の子供の日記簿が展示されていた。これを書いた子供は将来博物館に展示されるとは思わなかっただろう。あと夏休みの図画作品の絵が上手。
明治15年(1882年)の夏休みは3週間、明治34年(1901年)の夏休みは8月中だったらしい。現代の小学生の夏休みは35~40日ほどなので、やや短い。でも社会人は1週間も夏休みがもらえないので、今だったら3週間の夏休みでも泣いて喜ぶ。
教科書展示コーナーがあった。まずは江戸時代に使われた寺子屋の教科書。寺子屋とは、働く親が子供を寺に預け、そこで子供が師匠から読み書きそろばんなどを教わる場所である。寺子屋が普及していたおかげで、学制実施前でも江戸時代の識字率がそれなりに高かったようだ。
この時代は師匠が教科書を手作りしており、四書五経や百人一首が素材として使われていたようだ。
次は明治初期の教科書。「小学読本」はアメリカの国語の教科書ウィルソン・リーダーの直訳本で、当時日本で最もポピュラーな教科書だったようだ。
次は明治13年(1880年)から明治18年(1885年)の教科書。見付では古澤書店が教科書を印刷していた。
明治中期の教科書。「メメメメメ」「テテテテテ」と書かれている教科書に軽く狂気を感じる。
明治37年(1904年)から国定教科書が使われるようになった。第一期の国定教科書「イエスシ読本」が展示されていた。
第二期国定教科書は、忠君愛国や家族主義的な内容の教材が多く、日露戦争後の停滞的なムードを、国威の高揚によって打破しようとした政府の方針がよくあらわれている。今では使えなそうだ。
第三期国定教科書の写真は撮り忘れていたので、第四期国定教科書。
墨塗教科書が展示されていた。昭和20年(1945年)8月15日の終戦後、9月から授業は再開されたものの新しい教育内容に沿った教科書の作成が間に合わず、従来の教科書の不適切な部分を墨で塗りつぶして授業が行われた。
地理、歴史、修身の教科書は廃棄され、教えなくなったそうだ。例えば地理なら、韓国が日本領として書かれているのがまずい、とかだろうか。
余談だが、現在60代の母が小学生の頃に歴史を習ったとき、韓国併合等は教わらなかったそうだ。
翌年からは墨塗教科書は使用せず、新聞紙のような紙を折りたたんで授業で使ったそうだ。これを仮綴じ教科書という。「初等科地理」の仮綴じ教科書があったので、撮ってしまった。内容が気になる。
ちなみに大正期の地図帳が復刻版で売っていたりする。私は持っていないが、確か、大正9年(1920年)なので韓国が載っていた記憶がある。
戦後の教科書で、歴史の教科書もある。「日本の歴史」に何が書いてあるのか気になる。
昭和・平成の教科書が展示されていた。このなかに、私が小学生の頃使った教科書はあるのだろうか。
最後に、令和の教科書。令和になると社会人になっているので、この教科書は使っていないが、ずいぶんカラフルになったと思う。
明治時代の学校に通う子供の服装が展示されていた。まだ和服である。
石盤と紙盤。チョークで書く。昔は紙をメモがわりに使えなかったのだろうか、と考えていたら、赤毛のアンでアンがギルバートに髪の毛をからかわれたときに石盤でぶったエピソードがあったことを思い出した。
袋井では凧が名産だったが、磐田でも凧あげをする習慣があるらしい。
ここで、東海道見付宿に関する展示があった。
見付宿は江戸から28番目の宿場で、本陣2軒、脇本陣1軒、家数1,029軒、旅籠56軒となっている。
江戸時代の旅行道具などが展示されている。
見付宿の模型もあった。
見付宿の地図があった。このように家が並んでいたようだ。
見付の名物は五文取(ごもんどり。1つ五文で売っていたあん餅)、そば、うどん、古源足袋、松風(カステラっぽいお菓子らしい)、粟餅(見付天神の祭り限定)、見付南瓜らしい。五文取や松風は今は売っていないのだろうか。
再び学校の展示に戻ると、子供の勉強風景が再現されていた。ちらっと猫が覗いているのがかわいい。
卒業証書が展示されていた。安間茂平さんも、自分の卒業証書が博物館に展示されるとは思っていなかっただろう。ちなみに安間さんは明治26年(1893年)生まれなので生きていれば130歳。日本最高齢の巽フサさんが明治40年(1907年)生まれなので、安間さんはもう亡くなっているだろう。
3階に上がると、農機具が展示されていた。これは踏臼(ふみうす)。
足踏みで杵をつくことによって精米する道具のようだ。この踏臼だと精米が終わるのに半日かかったらしい。
磐田の偉人が紹介されていた。
前島密は政治家で、「日本近代郵便の父」といわれる。明治2年(1869年)に駿河藩遠州中泉奉行となり磐田に住んでいた。
浮田幸吉は日本で初めて空を飛んだとされた人物で、大見寺に墓がある。
竹山祐太郎は政治家で、元静岡県知事。見付学校の卒業生である。
大久保春野は陸軍軍人で、見付宿出身。
赤松則良は政治家で、「日本造船の父」といわれる。明治26年(1893年)に見付に本籍を移し、旧赤松家を建造する。旧赤松家は現存している。
青山士は日本の土木技師で、パナマ運河建設に携わった唯一の日本人。静岡県豊田郡中泉村(現在の磐田市)出身。
偉人紹介コーナーの奥には昔の道具が展示されていた。
この奥には「昔遊びの部屋」があったが、流石に1人で遊ぶのは遠慮した。
ちなみに3階、やたらと柱が多いがこれは増築したため。
4階に上がるが、特に何もない。何に使われていたか記録にも残っていないようだ。
5階に上がる。
5階は太鼓楼で、かつては太鼓が置かれていた。
旧見付学校ができた明治8年(1875年)から大正中期頃まで、児童の登校の合図や正午の時報として毎日鳴らされていた。今のチャイムみたいなものだ。
この太鼓の音は児童だけでなく、見付町民の生活の音としても親しまれ、ここから1km離れたところでも聞こえていたようだ。
5階から磐田のまちを見下ろす。こう見ると、磐田のまちはあまり高い建物がないことがわかる。
5.旧見付宿脇本陣大三河屋門
旧見付学校をあとにして先を急ぐ。見付宿いこい茶屋を見つけたが、土日祝の10~15時のみ営業していて、このときは16時半だったのでもう閉まっていた。
見付宿いこい茶屋には旧見付宿脇本陣大三河屋門が置かれている。
江戸時代、宿場には街道を往来する大名や公家が宿泊する本陣があった。脇本陣は本陣を補うための宿泊施設である。大三河屋は、はじめ旅籠屋だったが、文化2年(1805年)に脇本陣となった。
この門は2本の本柱上に冠木を渡し、その上に梁と切妻屋根を載せている。
屋根は桟瓦葺きの切妻造りで、大棟の両先端には小型の鯱(しゃち)が置かれ、大棟両端から降棟(くだりむね)が付けられ、その先端部には獅子を表した飾り瓦の留蓋(とめぶた)が置かれている。
かつては中津川家に移築され、そこの門として使われていたが平成17年(2005年)に磐田市に寄贈、平成19年(2007年)に移築復元した。
そういえば、現存する脇本陣の門を見たのは初めてかもしれない。
少し先に、玄妙寺がある。
玄妙寺は、元中2年(1385年)に玄妙阿闍梨日什上人によって建立された日蓮宗の寺院である。
境内に水かけ地蔵がある。これは子供が丈夫に育つように健康と知恵を授けてくれる地蔵である。宣光寺にも水かけ地蔵があったが、このあたりは水かけ地蔵が盛んなのだろうか。
玄妙寺の隣に、慈恩寺がある。
慈恩寺は室町時代の応永年間(1394年~1428年)に開創されたと伝えられる臨済宗の寺院である。
その後、一時途絶えていたが戦国時代の天文年間(1532年~1555年)に中興され、さらに寛永11年(1634年)に再中興された。
江戸時代から明治時代初めの頃は寺子屋も行っていたようだ。
慈恩寺の境内にあるマキの木は立派で、「見付の名木」にも指定されている。
6.西光寺
西坂の梅塚を見つけた。
見付東坂町、西坂町にそれぞれ1本の梅の木があり、通称東坂の梅の木、西坂の梅の木と呼ばれており、これを梅塚という。
この梅塚は、陰暦8月始めに白羽の矢が町家の棟高く突き刺され、この家を年番とし、娘を怪物の犠牲に備えた家の前にそのしるしとして植えたものだといい伝えられている。そして西坂梅塚は最後の犠牲者のもの、とされている。この翌年に悉平太郎が怪物を退治して、怪物を倒したため、生贄が出なくなった、ということだろう。
この先で東海道は左折して南進する。その交差点に姫街道の分岐の看板がある。
姫街道は東海道の見付宿から市野宿、気賀宿、三ケ日宿、嵩山宿と、浜名湖北岸を迂回して御油宿へと通じる東海道の脇往還である。
姫街道という呼び名は俗称で、江戸時代までは公的には「本坂通」と呼ばれ、見付宿から入るルートと浜松宿から入るルートがあった。その2つのルートは三方原追分で合流する。
18世紀初頭の大地震による津波や高潮の影響で東海道浜名湖今切付近の通行が困難になると多くの人が姫街道を通るようになったが、今では人通りもまばらだ。
姫街道、いつか歩いてみたいものだ。
姫街道との交差点を左折し、南に進むと西光寺を見つけた。
西光寺は鴨川道場東福山西光寺といい、阿弥陀如来を御本尊とする時宗寺院である。
文永2年(1265年)真言宗の傾木和尚によって創建されたが、建治・弘安年間(1280年前後)にここを訪れた一遍上人を迎えて改宗し、時宗の寺院となった。
元和7年(1621年)大火で焼失、元和9年(1623年)再建、慶安元年(1648年)には徳川家光から御朱印地32石8斗あまりを与えられ、寛永3年(1791年)には境内が9,160坪あったようだ。
また、安元2年(1176年)に平重盛が建立した時宗寺院、蓮光寺も明治44年(1911年)に西光寺と合併して廃寺、重盛ゆかりの薬師如来坐像が移された。
本堂に置かれている日限地蔵尊は後水尾天皇の妃、源和子姫の守り本尊である。元和6年(1620年)に入内(天皇家へ嫁入りすること)のときに日限地蔵尊を賜った。なお、この日限地蔵尊は元和7年(1621年)の大火でも無事だったようだ。
西光寺は山門も立派だ。
この山門は徳川家康が別荘として中泉村に築かせた中泉御殿の表門を移築したものである。
薬医門といわれる総ケヤキ造りで、素朴な建築美をたたえ、磐田市内に残る代表的な江戸時代の門として、昭和57年(1982年)、磐田市の文化財に指定された。
西光寺には大きなクスノキもある。
樹高18m、根回り13.7m、胴回り7.5m、推定樹齢500年の大樹である。昭和57年(1982年)に磐田市の天然記念物に指定された。
ところで、文永2年(1265年)創建の古刹である西光寺、風変わりな看板につられて寄ってみた寺院である。それがこちら。
「縁結び♡パワースポット」
さらに境内にはこんな看板もある。
「磐田のパワースポット 西光寺 恋愛成就隠れパワースポット」
「境内の大楠とナギの木は縁結びと縁切りのご神木」!
なんと境内では占いもやっていた。流石に入る勇気はなかったが…ただ、後で調べてみたところ拝観は自由だったらしい。勇気をもって入ってみたらよかったかもしれない。
7.府八幡宮
西光寺をあとにして、東海道を進む。途中一度旧道に入るが、基本は県道56号線を南進だ。すると府八幡宮に到着する。
府八幡宮は天武天皇の曾孫、桜井王が遠江国の国司として着任したとき、国府の庁内に勧請したのが始めであると伝えられる。
府八幡宮の祭神は足仲彦命(たらしなかひこのみこと)、気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)だ。
府八幡宮を中心に毎年10月の第1土・日曜日に開催される祭礼は「見付の裸祭」と対比して「中泉のお祭」と呼ばれる。豪華絢爛な屋台が多数引き回されるという。
境内にはいろいろ境内社があるが、そのうちの武内社(たけうちしゃ)を紹介しよう。
武内社に祀られている武内宿禰(たけうちのすくね)は景行・成務・仲哀・応神・仁徳と5代の天皇に仕えた人で、古来より長寿の神様として崇敬されている。
長寿、すなわち長い間健康でぼけることなく活躍された故事により、ボケ封じの神様として祀られている。
昔の天皇は今の天皇ほど長く在位しなかったとはいえ、5代生き続けたのはすごいと思う。
ちなみに、府八幡宮に到着したのが17時を過ぎていたからか、社務所はもう閉まっており、御朱印をいただくことはできなかった。
8.遠江国分寺跡
奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇は、農作物の不作や疫病が流行していたため、仏教の力を借りてこれらから国をまもろうと、国ごとに国分寺・国分尼寺の建立の詔をだし、遠江国では、国府のあったこの地に国分寺がつくられた。
昭和26年(1951年)に発掘調査が行われ、その結果、寺域を100間(約180m)四方とし、中軸線上に、南大門、中門、金堂、講堂が並び、中門と金堂は複回廊で結ばれ、回廊外に、塔を配した国分寺伽藍配置が確認された。
遠江国分寺跡の県道56号線沿いには参慶山国分寺があり、遠江四十九薬師霊場の第1番札所となっている。
国分寺の前に手水石がある。
この手水石は国分寺の礎石をくり抜いて作られたものである。そんなすごいものでも、水に藻が繁茂していて手水をする気にはなれなかった。
ここが中門跡である。
中門は金堂から54mほど南に位置している。
基壇の上に中門が建てられていたが、門の大きさや構造は判明していない。
こちらが回廊跡。
金堂と中門の間に方形に回廊が巡っていて、金堂西側に残されている礎石から復元すると中柱に壁をぬって境とした複廊と推定されている。
この少し盛り上がったところが築地塀跡だ。
国分寺の西境を表すもので、昭和の初め頃には南北270m、幅3m、高さ1mの土塁状の高まりがあったと記録されている。
ここが塔跡。
15m四方の基壇の上に、高さ66mに及ぶ七重塔が立ち、紫紙金字の「金光明最勝王経十巻」が納められていたと推定される。
ここが金堂及び石段跡である。
金堂は本尊を安置した主要な仏殿で、礎石及び根石から間口27.6m、奥行14.4mの重層入母屋瓦葺きであったと推定される。
石段は正面中央に幅4.5mで7段のうち3段が残されていたが、今は埋め戻されている。
国を治めるために作られた国分寺、今はほとんど叢となっていた。
遠江国分寺跡をあとにして、県道56号線を南進、東海道を歩いていく。
東海道は商業施設「天平のまち」のある交差点から右折するが、そのまま進んで磐田駅に到着する。
磐田駅前にはしっぺいのマンホールがあり、磐田駅前の磐田市観光案内所では磐田市のマンホールカードと見付宿の御宿場印を配布している。
磐田駅から東海道本線に乗り、今日の東海道ウォークは終了とする。
次回は磐田駅から浜松駅まで歩く。
【おまけ】
磐田か浜松で宿を取ればよかったのだが、急遽行くことになったため安い宿がなかなか取れず、静岡で泊まることにした。
静岡で泊まるということで、サウナしきじに行ってきた。
ウォーキング後のサウナしきじがルーチンになってきたが、そろそろ通うのもしんどい距離になってきた。でもやはり漢方薬草風呂と韓国式サウナ、天然水の水風呂は最高だった。
本当は餃子定食を食べたかったのだが、ラストオーダーギリギリで注文したところ「もうお米がありません」と断られてしまったため、焼きそばを注文した。濃いめの味付けの焼きそばとビールの相性が最高だった。
焼きそばを食べ終わったらもう22時を過ぎていて、終バスも終わっていたのでタクシーで宿に向かい、この日は終わりとなった。
歩いた日:2023年5月27日
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【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」 山川出版社
風人社(2015)「ホントに歩く東海道 第8集」
しっぺいオフィシャルサイト
磐田市 大見寺
https://www.sizutabi.com/iwata/daiken.html
https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/documents/127673/a3_omote-s_29885_marked.pdf
(2023年8月4日最終閲覧)