私はモノを書くのが好きで、今までも「標高7mを歩く―谷根千編―」や「几号点を歩く」などを発表してきたが(それぞれ月刊地理2020年2月号、地理交流広場第2号掲載)、継続して書く場がなかった。もっとモノ書きとしてスキルアップしたい。そんなことを考えていたとき、東海道を歩くことを思いついた。もう使い古されたネタだとは思うが、一度東海道を自分の足で歩いてみたかった。そこで今回の企画を思いついた。月1回、それぞれの宿場の間を歩き、それを記録してみたいと思う。京都まで辿り着ければ、何か変わるかもしれないと信じて。
1.日本橋
東京駅、八重洲中央口を出て、北に向かう。呉服橋交差点を右折して進み、日本橋交差点を左折する。すると正面に立派な橋が見えてくる。日本橋だ。
日本橋は日本橋川にかかる橋で、初めて架けられたのは慶長8年(1603年)のことである。徳川家康が江戸城の東の海を埋め立て、浅瀬に日本橋を架けた。その後、平川を東へ延ばして日本橋川を造った。普通、川があって通行に困るから橋を架けるものだと思うのだが、ここでは橋を架けた後に川を造っているのだ。
そして日本橋は五街道の起点で、これは慶長9年(1604年)に定められた。この五街道とは、東海道、中山道、奥州街道、日光街道、甲州街道である。
現在かかっている日本橋は明治44年(1911年)に架けられたルネサンス様式の石造二連アーチ橋である。
鋳銅製のキリン像、ライオン像もある。橋銘を書いたのは第15代将軍徳川慶喜である。
この日本橋は関東大震災や太平洋戦争の空襲にも耐えた代物である。しかし昭和38年(1963年)に首都高速道路が日本橋の上をまたいで走るようになってから、日本橋の印象が薄くなってしまったのは悲しい限りである。
日本橋の橋名の由来は、『御府内備考』にこう書かれている。
「この橋、江戸の中央にして、諸国への行程もここより定めらるるゆえ、日本橋の名ありといふ。」
理念としては日本橋を日本の中心として、すべての道を日本橋から発達させようとしたことに違いない。
しかし、日本橋が諸街道の起点になったとはいえ、橋の中央が原点と決められたのは明治6年(1873年)に「東京は日本橋、京都は三条橋の中央をもって、国内諸街道の元標となす」と定められてからである。それまでは「日本橋より何里」と道標に書かれていても、橋のどこから測るということではなく、大雑把に距離を示しているにすぎなかった。
そして、日本橋の橋の中央には日本国道路元標がある。その真上には道路元標地点と書かれた柱があり、これは首都高速の都心環状線から見えるようになっている。橋の中央の日本国道路元標を直接見るのは、車に轢かれるおそれがあり大変危険なのでやめたほうがよい。
橋の北詰に元標の広場がある。ここには日本国道路元標の複製品と、東京市道路元標の柱がある。
日本橋に道路元標が置かれたのは明治5年(1872年)のことである。東京市道路元標はかつて橋の中央にあったが、都電の廃止とともに移転された。
東京市道路元標の足元には里程標があり、そこに国内諸都市までの距離が粁(キロメートル)で刻まれている。近い都市では横浜市や千葉市から、遠い都市では札幌市や鹿児島市まで刻まれている。那覇市が入っていないのは当時まだ沖縄が日本に返還されていなかったからなのかもしれない。
また、五輪も置いてあった。普段は置いてないので、東京オリンピックが近いから特別に置いてあったのだろう。(ちなみに訪れたのは2021年7月17日である)
日本橋で東海道を巡る覚悟を固めたところで、国道15号に沿って南進していく。
2.ヤン・ヨーステンの碑
日本橋界隈はデパートが多い。これは江戸時代の呉服屋が百貨店となり、それがデパートになったからである。「ホントに歩く東海道 第1集」には髙島屋、松屋、三越、松坂屋があると書いてある。髙島屋と三越は確認できたが、松屋と松坂屋は確認できなかった。デパートの吸収合併や閉店の波は日本橋にまで来ているのかもしれない。
日本橋三丁目の交差点の中央分離帯にヤン・ヨーステンの碑がある。
ヤン・ヨーステンはオランダ人の航海士である。ヨーステンは慶長5年(1600年)、ウイリアム・アダムスらと豊後(現在の大分県)に漂着し、そのまま日本に留まることにした。徳川家康の信任を得たヨーステンは、家康に対して外交や貿易について進言する役目に就いた。ヨーステンの江戸屋敷は現在の和田倉門の内堀の沿岸に与えられた。その場所はヤン・ヨーステンの名前をとって「八代洲河岸(やよすがし)」と呼ばれるようになった。明治時代に「八重洲(やえす)」と改められた。「八重洲」の由来が外国から来た人だったとは知らなかった。
3.京橋
少し南に進むと国道15号の1kmポストを見つける。
日本橋から1km進んだのかと思いを馳せる。まだ1kmしか進んでいないのだが。
そのまま進むと京橋が見えてくる。
京橋は日本橋と同時期に架けられた橋である。『武江図説』には「京橋 日本橋より八丁南なり。橋長さ十二間、欄干に擬宝珠あり」と書かれている。修復費用を幕府がまかなった橋のうち、擬宝珠で飾られているのは日本橋、京橋、新橋のみである。そしてこの3橋はどれもこの話に登場する。
しかし、京橋に現在橋はない。もちろん昔は川の上にかけられた橋で、その川の名前は京橋川、日本橋川同様、橋の名前が河川名になっている。なお、京橋とは江戸から出て京都に向かう最初の橋という意味である。現在、京橋には擬宝珠がついた親柱と大正に作られたガス灯付きの親柱が残るのみとなっている。
4.銀座
京橋を過ぎると、街が華やかになる。「銀座」に入ったのだ。
銀座は日本有数の繁華街、高級商業地である。「銀座」の名前は一種のブランドとなっており、全国各地にそれにあやかった「○○銀座」が多くある。今でこそ「銀座=高級商業地」であるが、元は銀貨を鋳造していた場所だから「銀座」と呼ばれるようになったのだ。
慶長17年(1612年)、徳川幕府が現在の銀座の地に銀貨幣を鋳造する役所「銀座役所」を設置した。当時の町名は「新両替町」だったが、通称で「銀座町」と呼ばれていた。しかし寛政12年(1800年)に汚職事件が起こったことにより、銀座鋳造所は蛎殻町に移されてしまった。しかし「銀座」の地名だけは残り、明治2年(1869年)に正式に「銀座」が地名となった。この話は銀座2丁目にある「銀座発祥の地」に詳しい。
明治2年(1869年)に起こった大火によって銀座の街はほとんど燃えてしまった。そこで政府は文明開化の象徴と防火対策のために「銀座煉瓦街」を造ることにした。しかし建てられた当時は煉瓦が乾ききっていなかったため、商人たちからは不評で寄り付かなかった。そのため見世物業者が集まっていた。煉瓦が乾いて商人たちが戻ってきてから繁華街の様相を見せるようになってきた。
日本一地価が高いと有名な銀座四丁目交差点の和光を見ながら、銀座の街を南に進んでいく。銀座6丁目に2kmポストを確認したら、新橋が進行方向に見えてくる。
5.新橋
新橋は、現在はサラリーマンの街として有名だが、この名称は汐留川に架かっていた橋「新橋」に由来する。新橋と言っても新しい橋ではなく、その名は承応2年(1653年)の『武州古改江戸之図』には既に地名が登場している。最後の改架は大正14年(1925年)で、汐留川が埋め立てられたことにより昭和39年(1964年)に撤去された。日本橋、京橋に続く橋由来の地名である。現在は親柱が残るのみである。
「東海道を歩く 1.日本橋~品川駅 前編」はここまでとする。
「東海道を歩く 1.日本橋~品川駅 後編」は新橋からスタートする。
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歩いた日:2021年7月17日
【参考文献・参考サイト】
風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」