前回、江戸三十三観音第1番札所の浅草寺と第2番札所の清水寺に参拝しながら浅草周辺を巡った。今回は第3番札所の大観音寺と第4番札所回向院、第5番札所大安楽寺を参拝しながら人形町、両国、小伝馬町周辺を巡ろうと思う。
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1.大観音寺
人形町駅から始める。人形町交差点北側に玄冶店跡(げんやだなあと)がある。
江戸時代初期、このあたりは幕府の医師であった岡本玄冶の拝領屋敷があったことから「玄冶店」と呼ばれていた。
岡本玄冶は京都に生まれ、医術を曲直瀬玄朔(まなせげんさく)に学んだ。元和9年(1623年)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰るときに侍医として招かれ、幕府の医師となった。
「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)」には、寛永10年(1633年)、徳川家光が大病にかかったとき、諸医術をつくしても効果がなかった病気を玄冶が薬を出して治したことで、白銀200枚を下賜されたと記録されている。
玄冶は正保2年(1645年)に亡くなり、広尾の祥雲寺に葬られている。
「玄冶店」の地名は、嘉永6年(1853年)に中村座で初演された「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の「玄冶店の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となったことでその名が世に知られるようになった。
玄冶店跡から南に進むと大観音寺がある。
大観音寺は聖観音宗の寺院である。
この寺院の本尊は鉄造菩薩頭である。この菩薩頭の由来については、かつて鎌倉の新清水寺に祀られていた鋳鉄製の観世音菩薩像だったが、廃寺となったあと、江戸時代に頭部のみが鶴岡八幡宮前の鉄井(くろがねのい)から掘り出されたと伝わる。
その後、明治初期の神仏分離令のときに鎌倉から移され、大観音寺に安置された。
この菩薩頭は、中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代製作の優秀な作品であることから、昭和47年(1972年)に東京都指定有形文化財に指定された。
御朱印はこちら。
境内には馬頭観世音像や願いの地蔵尊もある。そっと手を合わせた。
2.水天宮
甘酒横丁交差点に蛎殻銀座跡(かきがらぎんざあと)がある。
江戸幕府の銀貨鋳造所として設立された「銀座」は、慶長17年(1612年)に駿府に置いた銀座を閉鎖して、その機能を江戸に移した。
その後、寛政12年(1800年)に座人の粛清が行われて一時廃絶したが、かわって京都銀座の大黒家が江戸に下り、幕府から播磨国姫路藩酒井家屋敷の上地を拝領して銀座役所を再興した。
再興した銀座役所の敷地にあたるここは古くから蛎殻町の俗称があったことから、この銀座は「蛎殻銀座」と呼ばれた。
その後は明治2年(1869年)に造幣局が新設されるまで70年間銀貨を鋳造していた。
甘酒横丁交差点を右折して少し行くと谷崎潤一郎生誕の地がある。
谷崎潤一郎は明治19年(1886年)7月24日、ここにあった谷崎活版所で生まれた。
若くして文筆にすぐれ、東京帝国大学国文科を中退後、第二次「新思潮」の同人となり、「刺青」「少年」など耽美と背徳の世界を描く作品を遺した。
昭和12年(1937年)には芸術院会員に推され、昭和24年(1949年)には文化勲章を受章した。
都道50号線に戻り、しばらく進むと水天宮前交差点の左手側にあるのが水天宮である。
水天宮が現在地に遷座してきたのは明治5年(1872年)である。
「どうで有馬の水天宮」という洒落言葉が歌舞伎狂言に使われたように、もとは芝赤羽にあった久留米藩有馬家上屋敷にまつられてあった。それは毎月5日一般庶民の参詣を許したのでたいへんな賑わいであったそうだ。
祭神は主神として天地創造の神である天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)と水難除災の神としてまつられた安徳天皇、配神として女難を救う神としてまつられた安徳天皇の母建礼門院と祖母二位ノ尼である。
水天宮には日本橋七福神巡りの弁財天もある。正月は開帳しているが、普段は閉まっている。
水天宮の御朱印はこちら。
水天宮前交差点から東に進むと左手側に松島神社がある。
松島神社の創建年代は不詳だが、口伝によると鎌倉時代の元享(1321年)以前に、柴田家の祖先が下総国からこの小島に移り住み、邸内に諸神を勧請したと推測されている。
天正13年(1585年)に邸宅を公開したとき、島内が松樹鬱蒼としていたことから松島稲荷大明神と称され、江戸時代にこのあたりが松島町と名付けられた。明治7年(1874年)には松島稲荷神社として村社となった。日本橋七福神の大国神も祀られている。
3.浜町公園
都道50号線を東に進み、浜町中ノ橋交差点で左折して浜町公園前交差点に見えるのが明治座である。
明治6年(1873年)、ここに喜昇座(きしょうざ)がおかれたが、その後、久松座、千歳座と名をかえ、同年、歌舞伎俳優の初代市川左団次が明治座と改称して大劇場に発展させた。
浜町公園前交差点で右折して進むと浜町公園に到着する。
浜町公園は昭和4年(1929年)7月15日に開園した。もとは熊本藩細川家の庭園だったが現在は浜町運動場、中央区立総合スポーツセンターなどが置かれている。
浜町公園の南に清正公寺という日蓮宗の寺院がある。
これは熊本藩主細川斉護(ほそかわなりもり)が江戸初期に熊本を領していた加藤清正をまつったもので、庶民にも開放されていたようだ。
都道50号線に戻り、新大橋の前に震災避難記念碑がある。これは自然災害伝承碑として地理院地図にも掲載されている。
江戸幕府が編纂した地誌「御府内備考」によると、新大橋の創設は元禄6年(1693年)で、新大橋という名前は、既に架けられていた千住大橋に対して付けられた。
明治45年(1912年)になると、新大橋は木造橋から鋼製のトラス橋へと架け替えられた。
この橋は大正12年(1923年)に発生した関東大震災のとき、隅田川の橋の多くが焼け落ちるなか、大きな損壊等を被ることなく、橋上に避難した大勢の人の命を救った。
その後、橋上で被災を免れた人々により新大橋記念会が結成され、昭和8年(1933年)、震災から10年目を記念して橋詰に「震災避難記念碑」が建てられた。
なお、この橋は太平洋戦争による空襲にも耐えたが、橋台の沈下が激しくなったため、昭和52年(1977年)に現在の橋に架け替えられている。
新大橋を渡ると、その先は江東区である。
4.江島杉山神社
新大橋を渡り、新大橋交差点で左折して北に向かう。一の橋通りをしばらく進んで右手側に、江島杉山神社がある。
江島杉山神社は、元禄6年(1693年)鍼医杉山和一の信仰する相模国江島神社(神奈川県藤沢市)を祀った江島神社と杉山検校を祀った杉山神社の2社をあわせたものである。江島神社はもと弁天社を明治になってから改称している。
杉山和一は、伊勢の人で津藩主藤堂氏に仕える杉山重政の長男で、慶長15年(1610年)に生まれた。
幼くして失明し、江戸にのぼって鍼を学んだがうまくいかない。江の島へ行って弁天様に願をかけ洞穴にこもって断食したところ、松の葉と土の管が手にふれてひらめき、管を使って鍼をうつ術を思いついたそうだ。
貞享2年(1685年)徳川綱吉の病を治療して重く用いられ、綱吉の命で鍼治講習所を建てた。
元禄5年(1692年)関東総検校になり、翌年には本所一丁目に住居を下賜されその翌年に亡くなった。
杉山検校頌徳碑には点字がつけられ、目の見えない人でも読めるようになっている。
江島杉山神社の御朱印は賽銭箱にお金を払ってから書置きをもらっていくシステム。絵柄が夏仕様で可愛らしい。
杉山検校といえば江の島弁財天への道標を多数建てたことで知られ、そのうちの12基が藤沢市の重要文化財になっている。これは東海道を歩いていたときに見つけた江の島弁財天道標だ。これは「東海道を歩く 6.戸塚駅~藤沢本町駅」で取り上げている。
5.回向院
江島杉山神社をあとにして一の橋通りに戻り、一之橋を渡る。
万治2年(1659年)、堅川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一つ目の橋という意味で命名されたのが一之橋である。
この橋は、吉良邸への討ち入りを終えた赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げるときに最初に渡った橋としても知られている。
両国一丁目交差点で右折し、右手側に回向院がある。
回向院は、諸宗山無縁寺という。
明暦3年(1657年)正月に起こった明暦の大火による犠牲者は108,000人といわれるほどの惨状であった。
このとき将軍家の芝増上寺参りがのびて代理で行った会津少将保科正之の報告により、本所牛島新田に50間四方の地を明暦の大火犠牲者の埋葬地としたことに始まる。その後、災害犠牲者、無縁仏、牢死者などを葬るようになった。
境内には鼠小僧次郎吉の墓がある。
鼠小僧は寛政9年(1797年)生まれの実在の盗賊であり「武江年表」によると天保3年(1832年)8月19日に処刑されている。武家屋敷にのみ押し入ったため庶民からは義賊扱いされていた。
この墓の破片をもっていると願い事がかなうという信仰があるため、「お前立ち」を削るよう書かれている。
境内には「猫塚」もある。
猫をたいへんかわいがっていた魚屋がいたが、病気で商売ができなくなってしまった。すると猫が2両のお金をくわえてきて、魚屋を助けた。
ある日、猫が戻ってこなかった。それは商家で2両くわえて逃げようとしたところ見つかり、殴り殺されてしまったからだった。それを魚屋は商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともに猫の遺体を回向院に葬ったそうだ。
泥棒はいけないが、にゃんともけなげな猫である。
回向院の境内には、明暦三年大火焼死者石塔など、さまざまな慰霊碑が建っている。
回向院境内に白い塔があり、このなかに祀られている馬頭観世音が江戸三十三観音第4番札所に指定されている観音様である。
本堂に向かい、本尊の阿弥陀如来坐像にお参りをしてから、江戸三十三観音の御朱印をいただいた。
明暦の大火犠牲者を供養したことから重い印象を抱いた回向院だが、実は重い話題ばかりではない。
天明元年(1781年)に初めて回向院で勧進相撲が行われ、天保4年(1833年)から江戸相撲の常設場所となった。回向院境内では相撲のほかに出開帳や富籤なども行われていたという。後に、両国に国技館が建てられ、両国が相撲のまちとなっていくはじまりである。
6.本所松阪町公園
回向院から少し東側の住宅街のなかに本所松阪町公園がある。
本所松阪町公園は、吉良上野介屋敷跡である。
ここで赤穂事件について簡単に説明する。
元禄14年(1701年)3月14日、勅使接待役の浅野内匠頭長矩が江戸城松之廊下で吉良上野介義央に刃傷におよんだ。ここでなぜ浅野内匠頭長矩が刃傷に及んだのかはわかっていないが、刃傷沙汰に及んだことから浅野内匠頭長矩は切腹を命じられた。
当時は「喧嘩両成敗の原則」があった。喧嘩両成敗とは喧嘩の原因を問わず当事者双方に同等の刑罰を課す、というものだが、ここで吉良上野介義央はおとがめなしだった。
その判断に憤慨した浅野内匠頭長矩の家臣である家老の大石良雄ら47人の義士は元禄15年(1702年)12月14日吉良邸に討ち入り、吉良上野介義央を討ち取った。元禄16年(1703年)に47人の義士は浅野内匠頭長矩の墓前に報告するも、2月4日に切腹となった。
この赤穂事件において、吉良上野介義央が討ち取られた現場がここ、吉良上野介屋敷、本所松阪町公園である。
園内には吉良上野介義央の首を洗った吉良首洗いの井戸もある。
昭和9年(1934年)3月に東両国三丁目町会の有志が吉良上野介屋敷跡の井戸を中心にこの地を買い取って東京市に寄付、昭和10年(1935年)12月14日に公園として開園した。
毎年12月14日には地元有志が義士に扮して義士祭が行われるという。
両国小学校の北西角に芥川龍之介の文学碑がある。
芥川龍之介は京橋区入船町で生まれ、この地にあった母の実家芥川家で養われ、のち芥川家の養子となり、両国小学校、東京府立第三中学校へ通学し、18歳までこの地で過ごした。この碑には「杜子春」の一節が刻まれている。
その少し先の両国公園には勝海舟生誕の碑がある。
勝海舟は幕末の旗本で、幼名は麟太郎、名を安芳といった。文政6年(1823年)亀沢町の男谷家、いまの両国四丁目で生まれた。
蘭学を修め、万延元年(1860年)咸臨丸船長としてアメリカに渡って世界の情勢を知り、西郷隆盛と江戸城無血開城を約した。
明治32年(1899年)77歳で亡くなり、墓は洗足池畔にある。
国道14号線に戻り、両国橋へ向かう。
江戸幕府は、江戸防衛のために長いこと隅田川への架橋を認めなかった。しかしそこで明暦の大火が起こり、隅田川に橋がなかったため多くの人が逃げることができず、多くの犠牲者を出してしまった。
そこで防災のために隅田川への架橋を許し、明暦の大火の翌年である万治元年(1658年)、全長98間(約178.2m)の橋が完成した。はじめ大橋といったが、のちに両国橋が公称となった。橋の西側が武蔵国、東側が下総国だったからである。架橋以後、隅田川の東側の開発が進んだ。
7.大安楽寺
両国橋を渡り、馬喰町駅の交差点を左折して国道14号線沿いを進む。小伝馬町駅の交差点を右折し、次の交差点を左折すると十思公園(じゅっしこうえん)がある。
十思公園は昭和5年(1930年)7月1日開園、昭和25年(1950年)から区立公園になった。
十思公園は伝馬町牢屋敷跡である。
伝馬町牢屋敷は慶長年間に常盤橋際から伝馬町に移転してきたもので、明治8年(1875年)5月に市ヶ谷に移転した。
その跡地は無償で与えるということになったが、誰も処刑者のうらみを気味悪がって買い手がつかなかったそうだ。そこで十思小学校や身延別院、大安楽寺、鬼子母神などになっていった。
この牢屋に入れられた人は全部で数十万人といわれる。総面積は2,618坪、周囲に土手を築いて土塀を廻し、表門は南西、北東部に不浄門を置き、旗本の入牢者には揚座敷、武士・僧侶などは揚屋、町民は大牢、百姓は百姓牢、それに女牢の区別があった。
この牢屋での大きな出来事は、安政5年(1858年)9月から安政6年(1859年)12月までの1年3ヶ月間に、安政の大獄で大勢の入獄者があったことである。吉田松陰らがここに捕らわれ、勤王志士96人が処刑された。
茂みのなかに吉田松陰先生終焉之地碑がある。
そばには吉田松陰先生略歴碑と辞世の句碑があり、「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留め置かまし大和魂」とある。
吉田松陰は天保元年(1830年)8月4日長門国萩の近くの松本村で生まれた。
安政元年(1854年)3月、佐久間象山のすすめで外国にわたる志をたて、下田からアメリカ軍艦に乗せてもらおうとしたが失敗して捕らわれた。その年9月まで半年間伝馬町牢で捕らわれたがその後萩に帰り、教育に尽力した。のちの松下村塾である。
安政6年(1860年)7月9日、江戸の長州藩邸から評定所に召し出されてからふたたび伝馬町牢に入れられ、その年10月27日処刑された。30歳だった。
杵屋は長唄三味線で知られた家で、7世続いた。
初世は天保年間に武家から出て長唄界に一派を始め、二世勝三郎はことに著名で、明治29年(1896年)に77歳で亡くなったが、馬喰町に住んでいて、十思公園付近にあった円光大師に帰依していたことから毎月ここで長唄を奉納していたようだ。
十思公園の忠魂碑は乃木希典が明治39年(1906年)に書いたもので、独特の字体だ。
十思公園には石町時の鐘がある。
近世には時を知らせるため、江戸城では太鼓をたたいていたが、町では寺の鐘が使われ、幕府公認のものは9ヶ所あった。石町時の鐘のほか浅草寺、本所横川町、上野の大仏下、芝切通し、市谷八幡、目白不動、赤坂成福寺、新宿天龍寺にあった。そのうち石町時の鐘、浅草寺、上野の大仏下、新宿天龍寺が現存している。
そういえば、新宿天龍寺にはこの前行き、時の鐘も見ていた。
天龍寺の時の鐘については「うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪」にて取り上げているのでそちらも参照していただきたい。
話を石町時の鐘に戻そう。
石町時の鐘は2代将軍徳川秀忠の頃に江戸城西の丸で用いられていたものを石町に鐘楼堂を建てて移した。
石町時の鐘は3度焼損しており、新たに宝永8年(1711年)鋳造したのが今残る時の鐘である。
享保10年(1725年)本石町3丁目に建てた鐘楼堂の維持費は、410町から1軒につき1ヶ月永楽銭で1文ずつ、寛永通宝では4文ずつを徴収し、代々辻源助が扱っていたので辻の鐘とも呼ばれていた。
伝馬町牢が近くにあったため、伝馬町牢での処刑はその鐘の音を合図に行われていたと思われるが、遅れた時報をつくこともあって情けの鐘とも呼ばれていたそうだ。
幕末に時鐘が廃止されてからは石町の松沢家にあったが、昭和5年(1930年)9月、石町宝永時鐘鐘楼建設会が鐘楼を建てた。昭和28年(1953年)に東京都重宝に指定された。
十思公園の向かい側に大安楽寺がある。
大安楽寺は高野山真言宗の寺院で、伝馬町牢屋敷跡地に明治5年(1872年)から勧進を始めて明治8年(1875年)に建立された。
処刑場跡に延命地蔵尊が建てられている。
大安楽寺は江戸三十三観音第5番札所なので、御朱印をいただく。
大安楽寺の西となりは身延別院である。
このとき、山梨県身延山久遠寺から本尊として迎えた木造日蓮聖人坐像がある。昭和47年(1972年)4月19日東京都文化財に指定されている。大正12年(1923年)の関東大震災でも焼失を免れた。この木造日蓮聖人坐像の像内に明応6年(1497年)7月13日の銘があり、山城国定蓮が作ったという。
境内には油かけ大黒天神がある。
石造の大黒様で、足元は油が入れられており、ひしゃくで大黒様の頭からこの油をかけられるようになっている。火防大黒天としても祀られている。
木造日蓮聖人坐像に手を合わせ、御首題をいただく。いつ見ても御首題のひげ文字はインパクトがある。
小伝馬町駅に向かい、今日の江戸三十三観音を終えたいと思う。歩き疲れたので小伝馬町駅のサンマルクカフェで休憩する。前から気になっていたクリームソーダを注文したが、ソフトクリームが傾いていた上にすぐ飲み終わってしまった。
回向院は明暦の大火の慰霊のため、大安楽寺は伝馬町牢屋敷の鎮魂のために建てられた寺院である。前回の庶民信仰の浅草寺と比べて、どこか重い雰囲気のある寺院だった。でもそういった寺院も必要なのである。
私の知らない東京が、まだまだありそうだ。
歩いた日:2023年7月8日
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【参考文献・参考リンク】
東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社
東京都歴史教育研究会(2020) 「東京都の歴史散歩 上 下町」 山川出版社
猫の足あと 松島神社
https://tesshow.jp/chuo/shrine_ningyocho_matsushima.html
(2023年8月9日最終閲覧)