10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

東海道を歩く 6.戸塚駅~藤沢本町駅

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 前回、保土ヶ谷駅から戸塚駅まで歩いた。今回は戸塚駅から藤沢本町駅まで歩く。「3.川崎駅~神奈川駅」から長いこと横浜市内を歩いていたが、ついに横浜市を出て、藤沢市に入る。やっと横浜市が終わった、と思った。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.開かずの踏切

 今日は戸塚駅東口からスタート。左折して、戸塚駅東口入口交差点で東海道に合流する。

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戸塚駅東口入口交差点

 そこから左折して西に進むと、すぐ歩道橋にぶつかる。ここは開かずの踏切跡だ。

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 開かずの踏切とは、ラッシュ時には1時間に3分ほどしか開かず、その結果渋滞をもたらしていた踏切である。これによって箱根駅伝では選手が足止めをくらったり、吉田茂元首相がこの踏切に対して業を煮やし戸塚道路の建設を決定したりした。しかしこの踏切は迷惑がられていたが愛されていたことも事実で、踏切の撤去の際には「さよなら戸塚大踏切」なるイベントが開催された。現在も開かずの踏切当時の写真がある看板や、踏切の絵が残っているほどだ。

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 歩道橋を渡り、清源院入口交差点で左折して、南へ進む。脇本陣跡や、戸塚町問屋場跡の看板を見つける。

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 問屋場は戸塚町のほかにも矢部町、吉田町にもあって合計3ヶ所あったらしい。内田本陣跡の看板もあったようだが、見逃してしまった。

2.澤邊本陣跡

 そのまま歩いていくと、小高い塚の上に「明治天皇戸塚行在所阯」と刻まれた石碑を見つける。澤邊本陣跡だ。

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澤邊本陣跡

 澤邊本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者である。戸塚宿は、東海道に宿駅伝馬制度が制定されたときは宿場ではなかったが、戸塚には旅人の荷物の運搬や宿泊などの街道稼ぎを生業にしている人たちが多くいたため、藤沢宿は苦言を呈していた。

 そこで戸塚は幕府に宿の開設を訴えたが、そのときに中心になったのが澤邊宗三だった。澤邊宗三は戸塚の旧家の人で、彼の妹は幕府の代官の妻になっていた。澤邊宗三の努力の甲斐あって慶長9年(1604年)に戸塚は宿場となった。また、明治天皇の東下の際には行在所として使用された。

3.八坂神社

 しばらく進むと進行方向右側に神社がある。八坂神社だ。

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八坂神社

 八坂神社は牛頭天王社を勧請したのが始まりといわれ、その後荒廃して御神体が地中深く埋められていたのを元禄2年(1689年)に夢の中で神託を受けた人が掘り出して再興した。八坂神社前に高札場があったようだ。

 八坂神社はお札まきが有名である。お札まきとは、女装した男性たちが渋うちわで五色の札をまき散らすお祭りである。まき散らされたお札は人々が拾い、それを戸口や神棚に貼る。このお札を拾った人は、その年は福運が授かると言われている。風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」という文句があるそうだが、コロリとはコレラのことで、江戸時代に流行した流行病である。現在では「コロリ」より「コロナ」のほうがよいのではないか、と考えてしまった。

 また、鳥居の前に立派な水準点がある。

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 調べてみたら第交35-7号、設置は昭和27年(1952年)だった。水準路線が交差する水準点なので交点で、だから名前に「交」がついている。これをTwitterに掲載したところ「古来由緒ある水準点」というコメントが来たが、設置は意外と新しかった。水準点の裏を見たときに「地理調(地理調査所の略で、昭和20年(1945年)から昭和35年(1960年)にかけて存在していた組織)」と書かれていたのを見たので、「そんなに古い水準点ではないな」と思っていた。

4.冨塚八幡宮

 南に進むと冨塚八幡宮がある。

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冨塚八幡宮

 平安時代の延久4年(1072年)、源頼義、義家父子がこの地に立ち寄った際、夢で応神天皇の神託を受け、その加護によって戦功を立てることができたのを感謝して社殿を作り、御霊を勧請した。

 石段の上に本殿があるが、そのさらに上に「冨塚之碑」が立つ塚がある。これは前方後円墳らしい。残念ながら写真は撮り忘れてしまった。この塚が「戸塚」の由来になっている。

 冨塚八幡宮の前で道が右にカーブし、西に進む。少し行くと戸塚宿の上方見附跡を見つける。説明板と進行方向左側には松、右側には楓が植えられている。

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5.大坂

 ここから坂を登る。大坂だ。

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 冨塚八幡宮前が標高15m、国道1号との合流点では標高62mと、標高差47mの坂である。かつては2つの坂から成り立っていたようで、「新編相模国風土記稿」では、「海道中南にあり、一番坂登り一町余、二番坂登り三十間余」と書かれている。今は改修されて緩やかな坂に見えるが、昔は急坂で、荷車、牛馬車などはまっすぐに登れなかったため、車の後押しを商売とする人に助けられて蛇行しながら登っていったらしい。

 坂の途中に庚申塔が並んでいるところを見つけた。

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 戸塚は庚申講が盛んだったのだろうか。ひとつだけ新しい千手観音の石仏があったのが気になった。

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 坂を登り、国道1号に合流する。そこに「箱根駅伝のため交通規制」と書かれた横断幕が目に入った。

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 今日は12月19日、箱根駅伝が近いから張られていたのだろう。意図していなかったが、このあたりが戸塚中継所らしい。

 「大坂松並木」と書かれた看板が目に入った。

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大坂松並木

 かつてこのあたりには松の巨木が立ち並び、大変壮観で東海道一の松並木とうたわれていたが、第二次世界大戦末期の松の伐採や昭和30年(1955年)頃からの松くい虫の被害などで大半が枯れて失われた。

 大坂では天気の良い日に松並木から素晴らしい富士山が眺められた、と看板にあった。少し歩いたところから富士山を見つけたが、この日は残念ながら山頂に雲がかかっていた。

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 雲がなければ綺麗だっただろう。

6.お軽勘平戸塚山中道行

 そのまま南へ進む。すると左側にお軽勘平戸塚山中道行の場の碑がある。

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お軽勘平戸塚山中道行の場の碑

 このあたりが歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の名場面の石高道だったという。「仮名手本忠臣蔵」とは、早野勘平がお軽との情事のために主君の大事を知らず、そのため責任を感じて切腹しようとするが、お軽に止められ、お軽の実家に逃れることとして鎌倉を出て京に向かう話である。戸塚の山中での道行の場面は、七代目団十郎、三代目菊五郎などの名優の演技から江戸では大変な人気が出た。そういえば、赤穂浪士の墓地がある泉岳寺東海道沿いだったことを思い出した。

泉岳寺が掲載されている記事

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7.国道1号を進む

 国道1号の46kmポストを見つけた。

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46kmポスト

 国道1号日本橋を起点としているため、日本橋から46km進んだことになる。もうそんなに歩いたのか、と思った。

 しばらく行くと原宿一里塚跡を見つける。

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原宿一里塚跡

 江戸から11番目の一里塚で、付近には旅人のための茶屋があり、原宿と呼ばれるようになったという。一里塚は明治9年(1876年)に取り壊されたため、ここには説明板があるだけとなっている。

 坂を下りると浅間神社がある。

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浅間神社

 浅間神社は、小田原北条氏治世の永禄年間に、富士信仰をもとに村内安全を祈願するために勧請されたといわれている。浅間神社の前に3基の庚申塔がある。

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 スダジイの大木が連なる参道を登っていくと社殿がある。参拝して、東海道に戻る。

 国道1号沿いを進む。このあたりはロードサイド店舗が多く立地している。どの路線の駅からも遠く、車文化なのだろう。江戸時代の人が見たら腰を抜かしそうなくらい看板が多く、車が騒がしい通りである。

8.影取

 影取歩道橋東側交差点の右側に、不動尊が載った岩山がある。

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 これは、長流寺の入口を示している。

 影取立場跡の説明板を見つけた。

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影取立場跡

 この位置は東海道鎌倉道が交差する交通の要所で、藤沢宿まで一里の場所らしい。

 しばらく行くと車道が地下にもぐるので、地上を進む。進行方向左側に諏訪神社がある。

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諏訪神社

 このあたりの地名「影取」の由来になった影取池は諏訪神社の奥にあったらしい。影取池の話はまた後で取り上げる。

 藤沢バイパス出口を直進し、県道30号を進む。ここで国道1号とお別れである。

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 道祖神の祠に旅の無事を祈ってから先に進む。

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 鉄砲宿交差点に、この地名の由来が書かれた看板があった。

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 近くで飼われていたおはんという大蛇が大きくなり、手に負えなくなったので影取池に捨てられた。おはんは池のそばを通る人の影を飲み込み、その人は数日以内に死んでしまうようになった。そこで村人は猟師に頼み、猟師が「おはん」と呼ぶと蛇が現れ、そこを撃ち殺してしまった。おはんが影を取った池のことを影取池と呼ぶようになり「影取」という地名が残り、猟師が住み着いたところを鉄砲宿と呼ぶようになった。

 ここに横浜市藤沢市カントリーサインがあった。

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 川崎宿を出てすぐのところから横浜市だったので、長かった横浜市区間が終わった、と感慨に浸った。

9.藤沢市に入る

 藤沢市に入ると旧東海道松並木跡があった。

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旧東海道松並木跡

 ここには見事な松並木が見られたそうだが、昭和35年(1960年)頃から全国に猛威をふるった松くい虫の被害で松並木がなくなってしまった、と説明にあった。説明板の裏には松が植えられている。

 歩いていくと歩道上に三角点があった。

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三等三角点「大鋸」

 三等三角点「大鋸(だいぎり)」だ。埋設は明治35年(1902年)と古いが、標石はその当時のものかはわからない。ちなみに大鋸とは付近の地名で、材木から板をつくる大鋸引きの職人が住んでいた地域だからそう呼ばれるようになったようだ。

 遊行寺坂を下る。

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遊行寺

 この坂の名前は坂を下りたところにある遊行寺である。遊行寺はあとで寄る。

 坂の途中に一里塚跡がある。

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一里塚跡

 説明板通り、現在は何も残っていない。

 遊行寺の反対側に諏訪神社があるので参拝する。

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諏訪神社

 諏訪神社遊行寺の遊行四代呑海上人が山中守護のために勧請したのが始まりとされている。元禄の頃、社殿が今より下にあって街道に面していたが、社前を馬に乗ったまま通ると落馬が多かったため、神社を上段の地に移して南向きにしたらその災いがなくなったというエピソードがある。先ほどの神社も諏訪神社だったが、諏訪信仰がこのあたりは盛んだったのだろうか。諏訪神社の向かい側に藤沢宿の江戸見附がある。

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藤沢宿江戸見附

 イイジマ薬局の角を右折するとすぐに、ふじさわ宿交流館がある。少し寄ってみた。

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ふじさわ宿交流館

 なかには昔の旅人の旅行用品や藤沢宿に関する展示があった。「一日十里の強行旅だったので、名所があっても通り過ぎるといったほうが正しかっただろう。」という文章が印象に残った。

 また、藤沢宿東海道から江の島や大山へ参詣する道の分岐点に位置していたので、それぞれの行き来の旅人で大いに賑わったそうだ。

 ふじさわ宿交流館の右手側に遊行寺総門がある。

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遊行寺総門

 これは日本三大黒門とされている。ここから遊行寺に入る。

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遊行寺

 遊行寺時宗の総本山で、正式名称は藤沢山無量光院清浄光寺という。時宗一遍上人が開いたが、一遍上人は賦算の旅を続けたため、この寺は遊行四代呑海上人によって創建された。江戸時代は多くの参拝客がいたと聞き、日曜午後なので混んでいると思ったら思ったより空いていた。人がまったくいないわけではなかったが、川越の喜多院や東京の深川不動堂のほうが混んでいる印象を受けた。

 遊行寺を出て、遊行寺橋で境川を渡る。

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遊行寺

 この橋は昔大鋸橋と呼ばれ、この橋のあたりは多くの浮世絵や錦絵に描かれた、藤沢宿の「顔」といった場所だった。

 遊行寺橋と藤沢橋の間に江の島弁財天道標がある。

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江の島弁財天道標

 これは江戸時代の検校杉山和一によるものである。杉山検校は江島神社を信仰して鍼術を学び、五代将軍綱吉の病を治して有名になった。終生江島神社への恩を忘れず、参詣の人々のために道中48基の道標を立てた。現在14基が残っている。

 正面には「ゑのしま道」右側には「一切衆生」左側には「二世安楽」と刻まれている。この文言には、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められている。なお、遊行寺橋から左折してそのまま進むと江の島に到着する。今回は東海道をたどっているので、右折して東海道を進む。

 藤沢宿は、東京電力のボックスの古い写真や古い建物の残存から、古くからあった街だということはわかったものの、説明板があまりなかったのが残念だった。

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 かろうじてあったのが蒔田本陣跡と問屋場跡の説明板である。

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蒔田本陣跡

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問屋場

 藤沢宿本陣は初めの頃は堀内家が名主、問屋を兼ねながら務めていたが延享2年(1745年)に堀内家が焼失したため、蒔田源右衛門が代わって務めるようになり、蒔田本陣となった。問屋場跡は消防署出張所になっていた。

 白旗交差点の少し前に伝源義経首洗井戸という案内板があったので、寄ってみた。

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源義経首洗井戸

 奥州平泉で打たれた義経の首は、鎌倉腰越浜で首実検の後で海に捨てられたが、金色の亀によって境川を遡ってきたためここで首を洗い、白旗神社に葬られたとされている。少しおどろおどろしさを感じる場所だった。

 そのまま進むと伊勢山橋があり、そこで小田急江ノ島線を渡っている。右を見ると坂の下に藤沢本町駅があった。今回はここで終了する。

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藤沢本町駅

 11時に戸塚駅を出て16時に藤沢本町駅に着く長い行程だったが(途中で昼食休憩を挟んだ)、これでも戸塚宿から藤沢宿は2里(約8km)らしい。日が暮れるのが早いのも余計に距離を感じるのだろうか。次回の藤沢宿から平塚宿は3.5里(約13.7km)もあるようなので、日が暮れる前に平塚駅に到着したい。

 

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今回の地図①

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今回の地図②

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今回の地図③

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今回の地図④

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2021年12月19日

 

【参考文献】

風人社(2013) 「ホントに歩く東海道 第2集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016) 「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2022年1月12日最終閲覧)