10月うさぎの部屋

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うさぎの気まぐれまちあるき 川越の魅力をさらに発見する街歩き

 「お写ん歩書房」の石井建志さんにお誘いいただき、「川越の魅力をさらに発見する街歩き」に参加してきた。「うさぎの気まぐれまちあるき 川越編」でも川越に行っているが、「また川越かよ!」と思わず、読んでいただければ幸いである。また、前回の「うさぎの気まぐれまちあるき 川越編」のリンクも載せておくので、そちらも読んでいただければと思う。

octoberabbit.hatenablog.com

1.小江戸蔵里

 今日は、本川越駅からスタートだ。

 クレアモールに向かう。

 クレアモールは平日、休日ともに商店街の通行量埼玉県1位の商店街で、「クレアモール」という名前はCreateとMallの造語である。まだ朝10時だったのでそれほど通行量は多くない。川越市民が川越に遊びに行くといえば、蔵造りではなく、たいていクレアモールへ行くことを指す。

 

 クレアモールを北進すると蔵が見える。小江戸蔵里だ。

小江戸蔵里

 小江戸蔵里は、明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当時の面影を残しつつ改修した施設で、平成22年(2010年)に誕生した。施設は明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装し、国の登録有形文化財に指定された、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、利き酒処(昭和蔵)の3つの蔵と、つどい処(展示蔵)がある。

2.出世稲荷神社

 小江戸蔵里を出て少し北上すると、出世稲荷神社がある。

出世稲荷神社

 「そ そびえたつ 出世稲荷の 大いちょう」というかわごえ郷土カルタの札が脳裏をよぎった。カルタで知っていたが、実際に来たのは初めてである。

 出世稲荷神社は、天保2年(1832年)に京都の伏見稲荷神社本宮から分祀した神社である。

 この出世稲荷神社には、鳥居と共に神社を守る大きなイチョウの木がある。

 川越市の天然記念物に指定されている2本のイチョウは、樹齢600年ほどらしい。非常に立派なイチョウである。

3.喜多院

 出世稲荷神社から東へ向かうと、喜多院裏の遊里跡を見つける。

 埼玉県は公娼を認めない「廃娼県」ながら、実際は、大宮、熊谷、川越などでは「旅館」「料理屋」という建前で遊郭が存在していたようだ。確かに川越に遊郭があったとは聞いたことがなかったが、喜多院の裏にあったとは初めて知った。現代の風俗といえばキャバクラなどだが、これは川越ではクレアモールにある。昼は一人で歩いていても何も思わないクレアモールも、夜は一人で歩かないよう親に言われていたし、今も夜歩くのは少し怖い。なお、遊郭時代の建物をそのまま利用した「市むら」の料理は絶品らしいので、今度行ってみたい。

 

 「どろぼうばし」を渡って喜多院に入る。

どろぼうばし

 昔、喜多院の境内では罪人を捕まえることができなかったため、泥棒をした者が橋を渡って喜多院の境内に逃げ込んでいたが、泥棒は寺男たちに捕らえられ、諭され、改心して善人になったことからこの橋は「どろぼうばし」と呼ばれているようだ。

 どろぼうばしから入ってすぐのところに川越藩主であった松平大和守家歴代藩主の墓所がある。

松平大和守家歴代藩主の墓所

 ここには松平朝矩、松平直恒、松平直温、松平斉典、松平直候が葬られている。そっと手を合わせた。

 喜多院本殿は慈恵堂と呼ばれている。

慈恵堂

 慈恵大師良源と慈眼大師天海をまつる堂で、銅板葺き入母屋造である。

 ここで、喜多院について紹介する。

 淳和天皇の勅により天長7年(830年)慈覚大師円仁により創建された勅願所で、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王毘沙門天等を祀り、「無量寿寺」と名づけられた。

 その後、元久2年(1205年)、天文6年(1537年)に戦火に見舞われて、その都度再興された。

 慶長4年(1599年)に天海僧正は法灯を継ぎ、慶長16年(1611年)に徳川家康が川越を訪ねたときに親しく接見している。翌年には家康から「東叡山喜多院」の名をうけ、さらに翌年には関東天台宗580余寺の本山とされた。

 寛永15年(1638年)に川越大火で、現存の山門以外の全ての堂宇が焼失し、3代将軍徳川家光は堀田加賀守正盛に命じて復興に掛かった。慈恵堂はこのときの再建である。

 「き 喜多院の だるまとだるま にらめっこ」というカルタがあるが、これは1月3日の初大師、だるま市でだるまがたくさん売られることに由来する。

 慈恵堂より山門側に、少し小高いところがある。そこにお堂があり、慈眼堂という。

慈眼堂

 本瓦葺き宝形造で、禅宗様式に和様をおり込んでいる。天海は寛永20年(1643年)に亡くなり、正保2年(1645年)に徳川家光の命によりこのお堂が建てられた。慈眼堂内に、厨子に入った木造天海僧正坐像がおさめられているが、非公開である。小高い丘の上に建てられているが、6~7世紀頃に造られた古墳を利用している。

 慈眼堂の裏には歴代住職の墓が並ぶ。

 また、南北朝時代「暦応5年(1342年)」銘がある板石塔婆の暦応の古碑があり、無量寿寺歴代住職の名を刻む。並んで「延文3年(1358年)」銘の延文の板碑があり、これは60人による結衆板碑である。

 喜多院の南側には仙波東照宮がある。

仙波東照宮

 仙波東照宮は、駿府で没した徳川家康公の遺骸を日光山へ運ぶ途中で法要が行われたために建設された日本三大東照宮のひとつである。もちろんほかの三大東照宮日光東照宮久能山東照宮である。本殿は銅瓦葺きの三間社流造、宮殿は板葺きの円形厨子、唐門は銅板葺きの平唐門、拝殿は銅瓦葺きの入母屋造、幣殿は前面が拝殿に接続した銅瓦葺き、後面は入母屋造である。本殿内部には馬上に鎧姿の木像家康像をまつっている。

4.喜多院周辺

 喜多院の近くに仙芳仙人入定塚がある。ここには仙芳仙人の伝説がある。

仙芳仙人入定塚

 仙芳仙人なる者がどこからともなくやってきて「聖人が説法を行った場所は此処だ」と言ってそのあたりを徘徊していた。そこに老人(龍神であり海の主)が現れたので仙人は「私の袈裟だけの土地で良いからもらいたい」と頼むと、老人は袈裟を海の上に広げる。すると海水が干上がり土地ができた。その上さらに土仏を作り海の底に投げると海水は乾いて寺を建てられるような土地ができ、ここに無量寿寺ができたという。その後仙芳仙人が入定したのがこの仙芳仙人入定塚である。

 

 中院に向かう途中に、地蔵や墓石が無造作に並ぶ一角がある。ここが南院遺跡だ。

南院遺跡

 南院の創建は喜多院・中院と同じ平安時代初期。当時の名前は「多聞院」で、喜多院、中院と合わせて3院で一体の寺院だった。明治初年の廃仏毀釈により廃寺となった。

 

 中院は、喜多院、南院と3寺院で構成される星野山無量寿寺のひとつで、慈覚大師円仁によって創建された天台宗の寺院である。

中院

 正安3年(1301年)には関東天台宗580余寺の本山となり、関東天台教学の中心であった。日蓮は20歳のころに尊海の導きにより比叡山で修行し、建長5年(1253年)に日蓮宗を開き、その後中院で尊海から恵心流の伝法灌頂を受けたという。喜多院天海僧正が来往するまでは、中院が中心的な寺院だった。境内には「狭山茶発祥之地」の石碑がある。

狭山茶発祥之地

 喜多院に戻り、お昼休憩となる。お昼は自由に取っていい、とのことだったが結局みんなで「茶そば寿庵」に行った。私が食べたのは「割子そば 三段」。

割子そば 三段

 茶そばに小海老、なめこおろし、とろろが入っていて薬味のお椀に蕎麦とつゆを入れて食べる。出雲そばに似ていると感じた。お蕎麦はとても美味しかった。

5.喜多院北側

 喜多院の北隣には成田山川越別院がある。

成田山川越別院

 成田山新勝寺の別院で真言密教寺院、「久保町のお不動様」で親しまれる。目の病を不動明王に祈願して全治した千葉の石川照温が、廃寺となっていた川越久保町の本行院嘉永6年(1853年)に再興したのが起源である。毎月28日には蚤の市が開かれ、東京はじめ近在の古物商が露天の店を並べる。

 

 北上し、東京電力川越支社へ向かう。

説明板

 ここはかつての川越火力発電所で、明治37年(1904年)、埼玉県で初めての石炭火力発電所として100kw発電機2台を使用し、電灯供給を開始していた。

 また、この電気を使い、明治39年(1906年)には「川越久保町停留場」から「大宮停留場」間を結ぶ電気鉄道が開通し、「チンチン電車」の愛称で親しまれていた。「川越久保町停留場」は現在、川越市立中央公民館となり、東京電力川越支社に隣接している。

 

 西へ向かうと、瘡守(かさもり)稲荷神社がある。

瘡守稲荷神社

 創建は不詳ながら、昔は最も怖い伝染病が疱瘡(天然痘)で、カサ(できもの、疱瘡、梅毒)の治癒を祈る稲荷が「瘡守稲荷神社」である。まず土でできた団子を供え、治ったら米の団子を持っていく信仰があったらしい。最近流行りつつあるらしいサル痘にも効果はあるのだろうか。

6.大正浪漫夢通り

 「な 七曲り 七つ数えて かくれんぼ」

 七曲りをくねくねと曲がる。

 なぜこのように折り曲がった細道が続いているのかというと、川越城への敵の侵入を防ぐために造られた道でわざと折れ曲がった道をつくることで敵の進軍をまっすぐに進めないようにしたものである。

 

 山崎家別邸へ向かう道に、工事中の場所を見つけた。旧川越織物市場だ。

 川越織物市場は明治43年(1910年)に開設され、大正8年(1919年)という比較的短期間で幕を閉じたが、長屋形式の建物が向かい合うように建てられ、その中央には広い中庭が設けられていた。マンション開発で取り壊される寸前、市民運動の高まりをうけて平成17年(2005年)3月、川越市は隣接する旧栄養食配給所とともに文化財指定した。

 

 大正浪漫夢通りを進む。

大正浪漫夢通り

 大正浪漫夢通りには関東大震災以後に流行した看板建築の洋風店舗や町屋造りが多く残る。前回朝食を食べたシマノコーヒー大正館には長蛇の列ができており、人気店なのだなと感じた。

 川越商工会議所の角を右折する。

川越商工会議所

 ここは昭和3年(1928年)に建てられた、旧武州銀行川越支店の建物を活かして、今は商工会議所として使われている。

 

 旧山崎家別邸の向かい側にある中成堂歯科医院の建物がお洒落で、思わず写真を撮ってしまった。

中成堂歯科医院

7.旧山崎家別邸

旧山崎家別邸

 旧山崎家別邸は、「亀屋」の5代目、山崎嘉七氏の隠居所として、保岡勝也による設計で建てられた。大正元年(1912年)11月に川越で陸軍大演習が行われた際、皇族が宿泊した私的迎賓館でもあった。平成12年(2000年)に母屋、茶室、腰掛待合が川越市指定有形文化財となり、平成18年(2006年)に建物部分が市へ寄贈された。平成23年(2011年)には庭園が国登録記念物に登録され、令和元年(2019年)には母屋が国重要文化財に指定された。

ステンドグラス

8.川越キリスト教

 旧山崎家別邸から来た道を戻り、蔵造りとは反対方向を向くと赤レンガの建物が見える。これが川越キリスト教会だ。

川越キリスト教

 川越キリスト教会はプロテスタント教会で、その始まりは明治11年(1878年)の横山錦柵と田井正一両牧師による。しかし明治の川越大火で焼失してしまい、大正10年(1921年)に建てられた。アメリカ人技師ウィリアム・ウィルソン設計で、中世ゴシック折衷様式のスレート葺きレンガ造りである。国登録有形文化財

 定礎の石のなかの鉛箱を開けてみたら昔の聖書や1銭・5銭硬貨が出てきたらしい。まるでタイムカプセルだ。

定礎石

 初めて中に入ったが、教会の中も静かでとても良かった。

9.時の鐘

 川越キリスト教会から直進、鐘つき通りを左折する。景観配慮型スターバックスの少し先に、時の鐘がある。

景観配慮型スターバックス

時の鐘

 「と 時の鐘 歴史の音色 町響く」

 時の鐘は寛永4~11年(1627~1634年)の間に川越城酒井忠勝多賀町の現在の場所に建てたものが最初と言われているが大火で焼失し、藩主松平信綱が承応2年(1653年)に再建した。その後藩主となった秋元喬知は宝永元年(1704年)に甲州の鋳物師がつくった銅鐘をここに移した。

 創建された江戸時代の初期から、暮らしに欠かせない「時」を告げてきた小江戸川越のシンボル的存在である。昔は手動により時を報せていたが、現在の鐘は午前6時・正午・午後3時・午後6時の一日4回、自動鐘打機により鐘が撞かれている。

 「本の店 太陽堂」に石井さんの著書が売られているというので、そこで買おうかと思っていたら営業していなかった。残念である。

10.一番街(蔵造り)

  母方の菩提寺、長喜院には今回は寄らず、その隣の雪塚稲荷神社に行く。

雪塚稲荷神社

 雪塚稲荷神社には「白狐伝説」がある。伝説では、江戸時代、この町の通りに白い狐が迷い込んだ。これを見た若い衆が、狐を殺し食べてしまった。その若い衆はたちまち熱病に罹り、毎夜大きな人魂が街に現れるようになった。町の人たちは白狐の祟りだと恐れ、長喜院の境内に社を建て、白狐の皮と骨を埋めて塚を築いた。それが雪の降る日だったことにちなみ「雪塚稲荷神社」と名づけたという。長喜院には何度も来ているのに、この神社と伝説は知らなかった。

 

 蔵造りに戻り、大沢家住宅を見る。

大沢家住宅

 大沢家住宅は明治26年(1893年)にあった川越大火での焼失を免れた川越最古の蔵造りで、現存する関東地方最古の蔵造りでもある。


 川越に土蔵造りが多いのは、大沢家住宅が川越大火でも焼け残ったことで、多くの商人が土蔵造りの店舗を建てるきっかけになったからとのこと。平成11年(1999年)12月1日に国重要伝統的建造物群保存地区に指定された。

「え 江戸文化 今も伝える 蔵造り」

 ちなみに大沢家住宅の隣にある蔵造り、金笛は平成に入ってから建てた建物らしい。

金笛

 関東最古の蔵造りと最新の蔵造りが並んでいるのが面白い。

11.弁天横丁

 少し北上し、弁天横丁へ向かう。

弁天横丁

 ここは川越大火以後に形成された路地で、長屋には芸者さんが住み、置屋があったが、今は空き家が目立つ。それでも大正期から残る長屋2棟、土蔵をリノベーションした酒場などが残っている。初めて行ったが、味のある入口の看板がとても良い。

12.菓子屋横丁

 養寿院に向かう前に、札の辻を通る。札の辻は明治初期まで藩や郡役所の高札場があった十字路で、交通の中心地かつ城下町の繁華街だった。

 そしてうなっ子の店前の水路にいる鯉が巨大で驚いた。

 養寿院は鎌倉時代の寛元2年(1244年)に秩父平氏末裔の河越経重により開基された。江戸時代に寺領10石の御朱印をうけ、徳川家康も鷹狩りの際に立ち寄った。

養寿院

 川越の地名の基となった河越重頼の墓があり、寺には岩手県雲際寺にある源義経と、重頼の娘で義経正室郷御前の位牌の写しが安置されているという。

河越重頼の墓

 ここで休憩となり、菓子屋横丁に向かった。

菓子屋横丁

 「に にぎやかな 笑顔がはずむ 菓子屋横丁」

 菓子屋横丁は明治の初め頃、鈴木藤左衛門が養寿院の門前町として栄えるこの町で江戸っ子好みの気取らない菓子を製造したことが始まりと言われている。

 

 疲れたので、一人で気になっていた茶屋、長峰園に向かい、グリーンティーと抹茶アイスを食べた。長峰園は札の辻にある。

 ここの抹茶は狭山茶を使用しているらしい。疲れた体に甘いものがしみたが、椅子席がもう少しあればくつろげたと感じた(店舗スペースの問題で厳しいのかもしれないが)。

13.松本醤油

 休憩後は松本醤油の醤油醸造の工場見学に行った。看板猫がいたが、ずっと遊んでいる人がいたため正面からの写真は撮れなかった。

 松本家住宅は、川越を代表する豪商であった横田家の分家を、松本家が明治22年(1889年)にこの土地建物を購入、同時に醤油製造業も引き継いだ。店蔵は川越に多い蔵造りではなく、川越大火の前の構造かと見られる。

 そして、その蔵のなかで醤油は醸造されている。

醤油蔵

 蔵が小規模のため少量生産で成城石井と紀ノ国屋、ヤオコーくらいしか販売していないが、メディア露出が多く来店客も多いようだ。マツコ・デラックス胡麻ドレッシングを紹介したときは全国から注文が来たらしい。醤油工場見学後、参加者の方々は醤油や胡麻ドレッシング、炊き込みごはんのもとなどを買っていたが、自炊習慣のない人間が買っても腐らせるだけなので何も買わなかった。でも後で醤油プリンでも買っておけばよかったかなとも思った。

松本醤油前のユニークな看板

 松本醤油の裏に鴉山稲荷神社がある。

鴉山稲荷神社

 ここは長禄元年(1457年)に扇谷上杉家当主、上杉持朝の命により、川越城築城の任務にあたった太田道真が、城の櫓より四方を眺めたところ、南西に森が遮り、富士山の眺望が良くないため、これを伐採したところ、家臣が神隠しにあったものの、森の中から石祠が発見され、「源家勝平、怨敵退散、子孫繁栄、大願成就、守護」と記した祈願文が発見された。道真は、これを築城の吉兆として、ここに仮宮を建立したことに始まるという。

14.蓮馨寺

「れ 蓮馨寺 鐘のなる音が 響く寺」

 蓮馨寺に向かう。

蓮馨寺

 蓮馨寺は、天文18年(1549年)に川越城代「大道寺駿河守政繁」の母「蓮馨大姉」が、平方村(現在の上尾市平方)に建立したものを川越に移転し、その甥である存真上人を招き創建した。関東十八檀林の1つで、天正19年(1591年)に寺領20石を得た。

 釈迦の弟子である「おびんづる様」もいて、直接その身体を触ると病気が治り、また頭に触ると頭が良くなるらしい。そっと頭を撫でておいた。

おびんづる様

 蓮馨寺の向かい側には川越熊野神社がある。

川越熊野神社

 元々は蓮馨寺と地続きだったが、明治の神仏分離により独立した神社。その歴史は、天正18年(1590年)に蓮馨寺の二世然誉文応僧正が紀州熊野より勧請したことに始まった。ここには足踏み健康ロードや銭洗弁天などがある。

足踏み健康ロード

銭洗弁天

 最後に彩乃菓の2階で、彩乃菓社長の小島淳一さんの話を聞いて終了した。彩乃菓のモンブランどら焼きを食べたが、美味しかった。

モンブランどら焼き

 また、先ほど太陽堂が閉まっていて本が買えなかったと言ったが、太陽堂の店主とすれ違い、彩乃菓に本を持ってきてくれたので無事購入することができた。このブログでも大いに参考にさせていただいたので紹介したい。

川越♡愛

oshanpo.base.shop

 

 川越は生まれ育った街なのでよく知っていると思っていたが、遊里や弁天横丁の存在は知らなかったし、キリスト教会や養寿院は初めて行った。川越は奥が深い。私の知らない川越が、まだまだありそうだ。

 

【おまけ】

 彩乃菓で解散後、「お腹は空いたが食欲がない」という状態だった。そこで、アトレ川越7階の「韓国味工房 EIKO」の参鶏湯(サムゲタン)を食べた。

 スープかと思っていたらもち米も入っており、かなりお腹いっぱいになった。でも美味しかったので食べきれた。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

歩いた日:2022年5月22日

【参考文献・参考サイト】

埼玉県高等学校社会科教育研究会歴史部会(2005)「埼玉県の歴史散歩」山川出版社

石井建志(2021)「川越街道お写ん歩ノート」

石井建志(2022)「お写ん歩ノート 「川越♡愛」」

群馬大学総合情報メディアセンター中央図書館 郷土かるたコレクション かわごえ郷土かるた

https://carta.media.gunma-u.ac.jp/kanto/data_111kawagoe/index.html

カワゴエール 七曲り

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/nanamagari/