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東海道を歩かない 掛川・後編

 前回の「東海道を歩かない 掛川・前編」では掛川城天守閣・掛川城御殿・掛川市二の丸美術館を取り上げたが、これだけで9,000字を超えてしまい、流石に長すぎると思ったのでそこで切った。今回は、その続きの話をしようと思う。

 「東海道を歩かない 掛川・前編」はこちら↓

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1.掛川城二の丸茶室

 美術館で髪飾りや煙草入れの展示を見たりして、頭が疲れてきたので一旦クールダウンする。ここは、掛川城二の丸茶室だ。

掛川城二の丸茶室

 掛川城二の丸茶室は木造平屋建、一文字葺の伝統的な数寄屋造りの建物である。

 中はこのようになっている。

 

 茶室から見た庭が綺麗だった。

 

 しばらくするとお茶とお茶菓子が運ばれてきた。お茶はもちろん掛川茶、お菓子も掛川の和菓子屋で作られたものだそうだ。

 庭園を見ながら、お茶をすする。庭園を見ながら、和菓子を食べる。

 なんと優雅な休日だろう。

 しばらくぼーっとしてから、二の丸茶室をあとにした。

 

 ちなみに、ここで今年(令和5年・2023年)1月8日・9日に王将戦が行われ、藤井聡太王将と羽生善治九段が対局したようだ。

 

2.大日本報徳社

 二の丸茶室をあとにして、大日本報徳社に向かう。まず出迎えたのは仰徳(こうとく)学寮だ。

仰徳学寮

 仰徳学寮は東京・霞ヶ関有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王邸として明治17年(1884年)建築された。昭和13年(1938年)ここに移築され、現在残る数少ない明治の宮廷建築である。残念ながら中に入ることはできない。

 

 その隣に冀北(きほく)学舎がある。

冀北学舎

 大日本報徳社2代社長、岡田良一郎が、英語の原書で教える私塾を明治10年(1877年)にその自宅に開き、200人余りの人を育てたのが冀北学舎である。「冀北」とは北京の北の名馬の産地からとっている。明治32年(1899年)ここに移築された。

 

ここで一回敷地外に出て、大日本報徳社の正門を見る。

 この門は明治42年(1909年)に建てられ、道徳と経済が同じ高さで大事だと教えている「道徳経済一円融合の門」と言われている。

 

 正門入って左側に、淡山(たんざん)翁記念報徳図書館がある。

淡山翁記念報徳図書館

 大日本報徳社2代社長岡田良一郎(別名、淡山)を記念して、昭和2年(1927年)に建てられた。これはRC構造の洋風図書館だが、当時、地方都市に建てられたのは珍しかったようだ。残念ながら、中を見ることはできない。

 

 淡山翁記念報徳図書館の前に、村民表彰像がある。

村民表彰像

 これは大人になった二宮金次郎(尊徳)の像である。

 二宮金次郎は、村の再建にあたり、まじめに働く人を表彰し、当時貴重だった「鍬」を与えることによって、村民の働く気持ちを大切にする工夫をしていたことにならって、この像の二宮金次郎は鍬を持っている。まじめに頑張る人をほめたたえることは、モチベーションの維持に大切なことだ。

 

 淡山翁記念報徳図書館の隣に、仰徳記念館がある。

仰徳記念館

 仰徳記念館は仰徳学寮と同じく、明治17年(1884年)に有栖川宮熾仁親王邸の御座所として東京霞ヶ関に建てられた建物で、大日本報徳社4代社長 一木喜徳郎(いつききとくろう)が宮内庁に願い出て、昭和13年(1938年)にここに移築された。普段は中を見ることはできないが、貸室として利用することもできるようだ。

 そして、門の正面にそびえているのが大講堂だ。

大講堂

 大講堂は報徳の教えの大道場で、明治36年(1903年)に建てられた。日本最初の公会堂と言われ、近代和風建築として価値ある建物だ。

 ここで、大日本報徳社について少し説明する。

 報徳社は、幕末に「報徳思想」を掲げて、農民の救済と疲弊した農村の復興につとめた、篤農二宮尊徳(にのみやそんとく)の教えを広めることを目的とした団体で、掛川では明治8年(1875年)、岡田佐平治・良一郎父子によって設立された。

 明治時代後期、地方改良運動に伴って報徳運動が全国に拡大すると、明治44年(1911年)、掛川大日本報徳社が設立され、名実ともに掛川が全国の報徳運動の中核となった。

 受付で300円払うと、大講堂に入ることができる。子供(おそらく受付の方の息子さん)が「こんにちは!」と元気よく挨拶してくれたのが可愛かった。

 大講堂は木造2階建ての和風建築で、内部は周囲に廊下をめぐらせ、1階には81畳の大広間、正面に演壇が設けられている。

 2階は吹き抜けになっていて、洋風の造りで周囲がギャラリーとなっている。

 現在でも、大日本報徳社の常会などで使われているという。

 外観は純和風なのに、内部に洋風の意匠が凝らしてある建築物は、珍しいと感じた。

 

3.掛川市ステンドグラス美術館

 大講堂を出て、隣の掛川市ステンドグラス美術館へ向かう。さっき挨拶してくれた子供が「ありがとうございました!」とまた挨拶してくれた。可愛い子供だ。

 掛川市ステンドグラス美術館に着いた。

掛川市ステンドグラス美術館

 掛川市ステンドグラス美術館は、日本初の公立ステンドグラス美術館である。コレクションは、19世紀イギリスのヴィクトリア朝時代の作品約70点と、フランスのバラ窓10点で構成されている。いずれもイギリスを代表するステンドグラス工房の最盛期に制作された、技術的・装飾的に高度な作品が揃っている。

 ちなみに、写真撮影が可能である。これは嬉しい。

聖女マグダラのマリア

 まず、受付を入って目に入るのが「聖女マグダラのマリア」だ。

 聖書のなかで重要な役割を果たす聖女マグダラのマリアは、その手に香油壺を持って描かれる。

 これは罪の女として悔い改めた際、イエスの足に塗った香油を表わしているが、長い歴史のなかで数人の聖女の逸話が混合されて完成されたスタイルである。

 

ダビデ王」「幼子イエスを抱く聖母マリア」「ソロモン王」

 これは「ダビデ王」「幼子イエスを抱く聖母マリア」「ソロモン王」だ。

 1900年~1910年頃、イギリスのエー・ジェー・ディックス工房で作られた作品だ。

 救世主キリストはイスラエル王の子孫から生まれなくてはならない、という旧約聖書の記述に従うため12世紀頃から盛んに制作された「エッサイの樹」というテーマの作品。

 このパネルの完成形はおそらく、最下部に横たわるエッサイ(ダビデ王の父)の身体から大きな樹の幹が生え、その左右に枝のようにイスラエルの王たちが描かれる、巨大な窓であったと考えられている。エッサイが初代イスラエルの王、ダビデが2代目イスラエルの王、ソロモンが3代目イスラエルの王である。

 

「ヤイロの娘を蘇生させる」「受胎告知」「神殿への奉献」

 いずれも1880~1900年頃、イギリのクレイトン&ベル工房で作られた作品。

 「ヤイロの娘を蘇生させる」はキリストがユダヤ神殿会堂長ヤイロの娘を蘇生させる奇跡の場面である。

 「受胎告知」はマリアのもとに大天使聖ガブリエルが現れてイエスを身ごもったことを知らせる場面である。

 「神殿への奉献」はイエスを産んだあと、マリアとヨセフが鳩のつがいを持って神殿にあがったシーンを描いている。

 

マケドニア人の幻」「パウロの回心」

 いずれも1890~1910頃にイギリスのパーシー・ベーコン工房で作られた作品。

 時系列的に、右の「パウロの回心」を先に解説する。

 それまでキリスト教徒を迫害する側の兵士であったサウロは天からの強い光により失明する。そのとき、サウロは神の声を聞いたことでパウロと名乗り、キリストの使徒になった、というシーンが「パウロの回心」である。

 その後、パウロのもとに、マケドニア人の幻想が現れて「わたしたちを助けてください」と懇願したシーンが「マケドニア人の幻」だ。

 

パウロの逮捕」「アテネでの説教」

 1890~1910頃にイギリスのパーシー・ベーコン工房で作られた作品で、これもパウロ関係だ。

 これも時系列的に「アテネでの説教」を先に解説する。

 「アテネでの説教」はギリシャパルテノン神殿の手前にあるアレオパゴスの丘でパウロが説教をしている場面を描いている。

 パウロマケドニアギリシャなどを説教で回ったあと、エルサレムに戻り、そこで逮捕されて連行されているシーンが「パウロの逮捕」だ。

 

「洗礼者聖ヨハネ」「聖ペトロ」「聖パウロ

 これはいずれも1880~1890年頃、イギリスのクレイトン&ベル工房で作られた作品。

 「洗礼者聖ヨハネ」は「ECCE AGNUS DEI(見よ、神の子羊だ)」と書かれた帯のついた十字を持つ聖ヨハネが描かれている。

 聖ペトロはキリストから天国の鍵を授けられたことから、金と銀の鍵、聖書を持つ絵が描かれている。

 「聖パウロ」は抜き身の剣が描かれているが、これは聖パウロが捕まった後に剣で斬首されたことからこのように描かれている。結局パウロ、殺されたのか…。

 

カンタベリーの聖アウグスティヌス」「聖マタイ」「聖フィリポ」

 いずれも、1880~1910年頃にイギリスのクレイトン&ベル工房で制作された。

 イギリスにキリスト教を伝えたのが聖アウグスティヌスで、手に持っているのはラテン語で「世の救済」と書かれたキリストの装飾板である。

 「聖マタイ」は手には金箱と斧がついた槍を持っているが、これはキリスト教信者になる前にマタイが収税人であったことと、殉教のとき槍で刺されて亡くなったことからとられている。

 「聖フィリポ」の作品の下部に「ST-PHILIP THE DEACON」と書かれているがこれは「助祭のフィリポ」を意味している。

 

「善き羊飼い」

 「善き羊飼い」は1900年頃にイギリスで作られたが、制作工房は不詳。

 100匹のなかで迷子になった1匹の子羊を見つけたときの喜びを、1人の悔い改めた罪人になぞらえて話した例え話「善き羊飼い」がモチーフになっている。羊の顔が人間のようで、少し怖い。

「善き羊飼い」

 この絵も「善き羊飼い」だが、背後に羊を狙う狼が描かれている。迷子になった子羊を食べようとしたのだろうか。

 

 上が「バンドロールを持つ天使」、下が「復活」。

 「バンドロールを持つ天使」が持っているバンドロールには「死は勝利にのみこまれた」と書いてあるらしい。死者の魂を慰めるための言葉と解説されていた。

 「復活」はイエスの死後、3日後に復活をとげた場面が描かれている。

 

「幼子よ我に来れ」

 1890~1910年頃、イギリスのジョーンズ&ウィリス工房で作られた作品。

 イエスが、子供たちを祝福する場面が描かれている。祝福されている割に、子供たちがあまりうれしそうな表情をしていないのが気になる。

 

「ゲツネマセの園での祈り」「十字架を負う」「十字架降下」「復活」

 1870年、イギリス・クレイトン&ベル工房で制作された。

 「ゲツネマセの園での祈り」では、ゲツネマセで最後の祈りをしているシーンが描かれ、その後に十字架を背負って歩くイエスが描かれているのが「十字架を負う」、イエスが亡くなってから埋葬する場面が描かれているのが「十字架降下」、イエスが亡くなった3日後に復活する様子が描かれているのが「復活」だ。4枚セットで、一連の流れになっている。

 

「善き羊飼い」「我は我が羊を知る」「百人隊長コルネリウスの洗礼」「キリストの洗礼」

 この4枚のステンドグラスは、イギリス・レスターのセント・マシュー教会の窓を飾っていた作品だ。

 「善き羊飼い」のイエスに傷があるが、これは復活後のイエスで表現しているかららしい。

 「我は我が羊を知る」は牧童杖を持つイエスが描かれている。

 聖ペトロがコルネリウスに洗礼を授けているのが「百人隊長コルネリウスの洗礼」。

 「キリストの洗礼」はヨルダン川で聖ヨハネから洗礼を受けるイエスが描かれている。

「キリストの洗礼」

 これも「キリストの洗礼」。水中にある足や植物の表現が細かい。

「エジプトへの避難」

 この作品は19世紀末、イギリスのジョンハードマン&カンパニーで制作された。

 救世主の誕生を恐れたヘロデの手を逃れ、イエスたちがエジプトへ避難する場面が描かれている。夜空に瞬く星や先導する天使が美しく描かれている。

 

「祝福の天使」

 これは1880~1900年頃、イギリスのチャールズ・イーマー・ケンプ工房で制作された。着飾った天使が美しく描かれている。

 

旧約聖書の一場面」

 これは1870~1900年頃、イギリスのシュリグリー&ハント工房で制作された。

 左のパネルの大祭司が、右の技師たちに神殿の建設の指示を出している場面だ。

 

「聖レオ」

 1900~1910年頃、イギリスのハーバート・ブライアンズ工房が作った作品。

 440~461年にローマ教皇を務めたレオ1世が描かれていて、手に持つ3本の横棒のある十字架は「教皇十字」といい、ローマ教皇のみが持つことを許されているようだ。

 

 上の丸いステンドグラスが「磔刑」、下左側が「聖母子」、下右側が「聖女カエキリア」。

 「聖母子」ではイエスを慈しむマリアが描かれているのに対して、「磔刑」ではイエスの処刑に泣き崩れるマリアが描かれている。マリアがイエスを愛していただけに、磔刑のときは辛かっただろう。

 聖女カエキリアは音楽を司る聖女なので、ハープを弾く絵が描かれている。

 

 上の9つの丸いステンドグラスには「聖母マリアの生涯」、下に描かれている3枚のステンドグラスが「キリストの昇天を見守る弟子たち」が描かれている。

 「聖母マリアの生涯」は3歳の頃の「マリアの神詣で」に始まり、「受胎告知」を経て、「聖母マリアの戴冠」で終わる。時計回りに見て、最後のシーンが真ん中のステンドグラスだ。

 「キリストの昇天を見守る弟子たち」は復活後のイエスが天に昇って行ったところを弟子たちが見送っている場面を描いたもの。

 光の当たり具合が綺麗で、私はこの作品が一番好きになった。

 

「幼子よ我に来れ」

 1880~1900年頃、イギリスのヒートン・バトラー&バイン工房制作。

 当時しいたげられた階層の人々や、病の子を持った母親などが、イエスの祝福を授けてもらうために集まってきた様子を描いている。祝福で病気が治るなんてことはないだろ…というツッコミは禁句なのだろうか。

 

「聖女ルチア」「聖ゲオルギウス」

 1880~1900年頃、イギリスのエー・ジェー・ディックス工房制作。

 聖女ルチアは4世紀初め頃のシチリア貴族の生まれで美しい人だったようだ。

 聖ゲオルギウスは悪竜を退治して生贄の王女を助けたという伝説が有名だそうだ。ヤマタノオロチ的な話だろうか。

 

「エマオでの夕食」

 1880~1900年頃、イギリスのハーバートブライアンズ工房制作。

 上部にはブドウ、真ん中には復活後のイエスが弟子たちの前に姿を見せた「エマオでの夕食」の場面が、下部には福音書を書いた聖ルカが描かれている。

 

「ヨブの苦悩と忍耐」

 1855~1865年頃、イギリスのジョン ハードマン&カンパニー制作。

 家や家族が災難に見舞われ、それに苦悩するヨブの姿が描かれている。確かに、苦しそうな顔つきをしている。

 

「受胎告知」

 これは、お土産コーナーに飾ってあった最後の作品「受胎告知」。

 1900年頃、イギリスのシュリグリー&ハント工房が作成した。

 大天使ガブリエルとマリアが描かれているのだが、ここは内側のため光が差さない。光の差さないステンドグラスも味があって良いと感じた。

 

4.竹の丸

 掛川市ステンドグラス美術館で崇高な気持ちになった後、竹の丸へ向かう。

竹の丸

 現在の竹の丸は、江戸時代に葛布(かっぷ)問屋を営んでいた松本家が、明治36年(1903年)にこの場所に本宅を建築したことに始まる。

 その後、大正9年(1920年)からその翌年にかけて2階建てに増築され、ステンドグラスが欄間にはまる貴賓室、水屋がつく座敷などが2階に設けられた。

 

 竹の丸に入ったら、鐘旭(しょうき)の人形があった。

鐘旭

 鐘旭は中国由来の神で、日本では厄除けや学業成就にご利益があるとされ、端午の節句に絵や人形を飾る風習があるそうだが、私は初めて見た。

 

 葛布を織る織機が展示されていた。葛布は掛川の特産品で、このことは「東海道を歩く 21.金谷駅~ことのまま八幡宮バス停」の日坂宿・川坂屋でも紹介している。

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 「北の間」と書かれた部屋に来たが、説明等は特になかった。

北の間

 階段を上がって2階へ行くと、座敷と貴賓室があった。

座敷

貴賓室

 貴賓室の欄間には鳳凰の透かし彫りが彫られている。綺麗だ。

 

 なお、貴賓室の壁にも葛布が使われている。流石、葛布問屋の屋敷だ。

 

 貴賓室の窓には花と鳥が描かれたステンドグラスがあしらわれており、お洒落だ。

 

 貴賓室の壁には杉の一枚板が使用されている。樹齢200年以上の代物で、手に入れるにはお金がかかっただろうと思う。

 

 貴賓室の横には、控えの間がある。控室なので、質素である。

控えの間

 竹の丸の庭を見てから、竹の丸をあとにした。

庭から見た竹の丸

 これで掛川市街地散策は終わりで、掛川駅へ戻ることにした。

【おまけ】

 朝にウィダーインゼリーを飲んだだけでほかは二の丸茶室でお茶と和菓子をいただいただけなので、お腹が空いた。そこで、私は掛川駅に戻り、天竜浜名湖鉄道に乗って2駅、西掛川駅で下車した。そこから徒歩5分。

 さわやかである。

 さわやかとは、静岡のローカルチェーン店で、炭焼きハンバーグをウリにしている。

 ハンバーグがとても美味しいので、静岡県民・非静岡県民含めファンが多く、関東に最も近いさわやかの御殿場インター店では休日は5時間待ちなどがざらにある。

 私も静岡に来たらぜひさわやかを食べたいと思っていたが、あまりに待ち時間が長く、「東海道を歩く」を圧迫しかねないため行けずにいた。

 現在16時頃でピークを過ぎていることもあり、40分待ちだった。15分程度店外で待ち(ほかのお客さんは車で待っていたが、私は電車で来たので店外で待った)、20分程度店内で待ったら案内された。

 頼んだのはもちろんげんこつハンバーグ・オニオンソース。

 しばらくするとハンバーグが運ばれてきた。

 ミディアムレアのハンバーグが、うまい、うますぎる。涙が出た。

 「東海道を歩く」との両立が難しいのが難点だが、やはり定期的にさわやかのハンバーグは食べに行きたい。

 なお、さわやかはデザートも美味しいのが見逃せない。これはもも&マンゴーパフェ。提供に時間がかかり、乗ろうと思っていた電車に乗れなくなるかもしれなかったので急いで食べたが、それでも美味しかった。

 お会計を済ませ、ダッシュで西掛川駅に向かい、再度天竜浜名湖鉄道に乗って掛川駅に戻った。

 次の目的地に向かうべく、静岡駅に向かう。

 そう。サウナしきじだ。

サウナしきじ

 もう掛川まで行ってしまい、流石に行くのがきつくなり始めてきたが、私はサウナしきじの漢方薬草風呂、韓国式サウナ、天然水の水風呂のとりこになっているので、行かずにはいられなかった。やはりサウナしきじは最高だ。

 なんとか終バスで静岡駅まで戻り、そこから掛川駅まで戻り、ホテルに戻ったときはクタクタですぐに寝てしまった。

 掛川は良い街だった。もし次に行く機会があれば、掛川花鳥園にも行ってみたい。

今回の地図

歩いた日:2023年4月22日

【参考文献・参考サイト】

静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社

掛川市 大日本報徳社

https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/9389.html

掛川市ステンドグラス美術館 美術館について

https://k-kousya.or.jp/stainedglass/pages/15/

(2023年5月22日最終閲覧)