前回、磐田駅から浜松駅まで歩いた。今回は浜松駅から舞阪駅まで歩こうと思う。浜松宿から舞阪宿まで2里28町(約11km)、8月下旬の晴れた日に歩くには暑かったので、ウォーキング終わりのサウナが気持ちよかった。
- 1.谷島屋連尺店
- 2.五社神社・諏訪神社
- 3.ケ91タンク機関車
- 4.二ツ御堂
- 5.みたらしの池跡
- 6.熊野神社
- 7.地蔵院
- 8.高塚熊野神社
- 9.神明宮
- 10.愛宕神社
- 11.東光寺
- 12.引佐山大悲院観音堂聖跡
- 【おまけ】
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1.谷島屋連尺店
今日は浜松駅からスタートだ。
板屋町交差点まで北進し、左折して東海道に合流する。ゆりの木通りを歩く。駅前は結構繁華街、といった印象の浜松だが、ここは落ち着いた商店街だ。
水準点を見つけた。一等水準点第001-257号だ。ご丁寧に「一等水準点」と書かれた柱も立っている。
これは平成12年(2000年)に設置された割と新しい水準点だ。
連尺町交差点で左折すると、谷島屋連尺店の前に高札場跡を見つけた。ちなみに連尺町交差点を右折すると浜松城に着く。
城下、宿場の人々に法令や犯罪人の罪状などを周知させるために書かれた木札を高札といい、それが建てられたのが高札場、周知させるのが目的なので人通りの多いまちの中心に建てられる。
少しわかりにくいが、この谷島屋連尺店の「谷島屋」の文字は島崎藤村が書いたものの復刻らしい。
昭和13年(1938年)、谷島屋書店連尺町本店が土蔵造から洋風の近代店舗に生まれ変わったのを機に、島崎藤村が書いた「谷島屋」の大文字が大理石に刻まれて店頭に掲げられた。
この文字について島崎藤村は「筆を執るまでに永い時間を費やしたが、ある朝、大木のたたずまいを見て心が決まり、短い時間で書き上げた」と語っている。
しかしそれは昭和20年(1945年)の空襲で破壊されてしまった。昭和47年(1972年)島崎藤村生誕100年・谷島屋創業100年を記念して復刻したものらしい。
島崎藤村は明治5年(1872年)に現在の岐阜県中津川市で生まれた詩人・小説家で、昭和18年(1943年)に71歳で亡くなっている。なお、亡くなったのは神奈川県大磯町で、この「島崎藤村邸」は東海道沿いにあるので「東海道を歩く 8-2.平塚駅~箱根板橋駅②」で訪れている。
2.五社神社・諏訪神社
歩いていたら右手側に大きな鳥居が見えたので、つい寄り道してしまった。
五社神社の御祭神は太玉命(ふとたまのみこと)ほか9柱、諏訪神社の御祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)ほか3柱。
五社神社は曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建したことに始まると伝えられる。
のちに、徳川家康が浜松城主となり天正7年(1579年)4月7日、徳川秀忠誕生にあたり産土神として崇敬することとし、現在地に社殿を造営、天正8年(1580年)に遷座した。
寛永11年(1634年)徳川家光が浜松を訪れたときに参拝し、朱印300石を下賜された。そのときに新しい社殿が造営され、寛永18年(1641年)に竣工した。
一方、諏訪神社は延暦10年(791年)に坂上田村麻呂が創建したとされている。弘治2年(1556年)に曳馬城下、大手門に遷座した。
五社神社同様、徳川秀忠の産土神として崇敬され、天正7年(1579年)に徳川家康が社殿を造営した。
元和元年(1615年)に徳川秀忠が社地を変更し、寛永11年(1634年)には徳川家光が参拝、現在地に社殿を遷し、社殿は寛永18年(1641年)に竣工した。
諏訪神社の社殿は国宝となったが、昭和20年(1945年)に五社神社とともに空襲で焼失した。
昭和37年(1962年)に五社神社と諏訪神社が合祀された。現在の社殿は昭和57年(1982年)に建てられたものである。
空襲だから仕方ないとはいえ、焼失前の社殿を見てみたかった。
御朱印をいただいた。
境内には光海霊神碑(うなてりのみたまのひ)がある。
賀茂真淵が子供の頃、師匠と仰いだ五社神社の神主、森暉昌(もりてるまさ)の功績を記した顕彰碑で、明和4年(1767年)建立。
賀茂真淵は江戸時代中期の国学者、歌人で、現在の静岡県浜松市出身。
大名、公家、幕府役人などが泊まるために宿場に置かれた旅館が本陣である。ここは、浜松の本陣のうちでもっとも古い杉浦家の本陣跡だ。
浜松宿は、東海道五十三次のうち、江戸から数えて29番目の宿場町だ。浜松宿には東海道で箱根とともにもっとも多い6軒の本陣があり、旅籠の数も94軒と、静岡県内でもっとも多い宿場町だった。
少し先に行くと、川口本陣跡がある。
川口家の本陣は、浜松宿の本陣のなかでもっとも新しくできた本陣だった。
川口本陣跡のある交差点は交通量が多いので、地下道をくぐって先に進む。
3.ケ91タンク機関車
そのまま国道257号線を進み、県道62号線との交差点で右折する。菅原町交差点で南西側に進むのだが、そこにあるのが子育地蔵尊だ。
子育地蔵尊は享保8年(1723年)、徳川吉宗の治世に建てられた。
ここ、菅原町の隣の成子町にあった西番所で取り調べを受けて亡くなった妊婦の子供が生き残り、その菩提を弔った地蔵がいつのまにか子育地蔵尊と言われるようになったらしい。そっと手を合わせた。
少し歩くと右手側に小さなSLが見える。ケ91タンク機関車だ。
ケ91タンク機関車は大正7年(1918年)に大日本軌道会社が製造した軽便機関車で、東濃鉄道笠原線で活躍していた。東濃鉄道笠原線は岐阜県多治見市の新多治見駅から笠原駅までを結んでおり、昭和3年(1928年)に開業したが、昭和53年(1978年)に廃止された。
その後国鉄の浜松工場に保存されていたが、今はこのように展示されている。
SLが屋外に展示されているのは時折見かけるが、これはいつも見るSLと比べて小さく、可愛いという印象を抱いた。
東海道本線の高架をくぐり、国道257号線と合流するので右折、そのまま国道257号線に沿って歩く。一等水準点第001-259号を見つけた。
一等水準点第001-259号はいつ設置されたものかは不明。あと水没しているのが気になるが、前日雨でも降ったのだろうか。
堀留川に、鎧橋という橋が架かっている。
平安時代末期、比叡山の僧兵が鴨江寺(浜松市中区にある高野山真言宗の寺院)を攻めたとき、鴨江寺側の軍兵は、このあたり一帯の水田に水を張り、鎧を着て、この橋の守りを固めて戦ったので、その後「鎧橋」と称するようになったそうだ。
そのときの比叡山側、鴨江寺側の戦死者およそ1,000人を鎧橋の北側に葬ったので、千塚と言ったらしい。その昔は僧侶同士の争いもあったのだな。
このあたりの東海道はまっすぐで、「八丁縄手」と呼ばれている。
「八丁縄手」と呼ばれるようになった時代は明らかではないが、近くに「八丁」や「縄手」などが古い地名として残っているので、直線に延びた長い見事な松並木の道が、いつとなく土地の人々の間で「八丁縄手」と呼ぶようになったそうだ。
ちなみに以前、東海道を歩いていて川崎で「八丁畷(はっちょうなわて)」という地名を見つけたことがある。これも昔このあたりに人家がなく、畑のなかをまっすぐに八丁(約870m)もあぜ道(畷)が続いていたことに由来する。川崎の八丁畷は「東海道を歩く 3.川崎駅~神奈川駅 3.無縁塚」に登場している。
4.二ツ御堂
少し進むと若林一里塚跡がある。
慶長9年(1604年)、江戸幕府は東海道一里ごとに5間(約9m)四方の小高い塚を道の両側に築いて榎を植えさせた。これが一里塚だ。若林一里塚は江戸から66里の一里塚である。
道を挟んで2つのお堂が建っている場所がある。二ツ御堂だ。道の北側にあるのが阿弥陀堂、南側にあるのが薬師堂だ。
二ツ御堂にはこのような話がある。
これは、奥州平泉の藤原秀衡とその奥さんによって天治年間(1125年頃)に創建されたと伝えられている。
京に出向いている藤原秀衡が大病にかかっていることを聞いた藤原秀衡の奥さんは京へ向かったが、この地で飛脚から藤原秀衡が亡くなったことを聞き、秀衡を弔うために阿弥陀堂を建てた。そのうち奥さん自身もここで亡くなってしまった。
しかし、この「藤原秀衡が亡くなった」という情報は誤報だった。藤原秀衡が元気になって国に帰るときにその話を聞き、奥さんへの感謝の気持ちをこめて、薬師堂を建てたという。
このような誤報は、LINE等が発達した現代ではありえないことだが、通信が発達していなかった時代ならありえたことなのだろう。
そして「東海道歴史散歩」にはこのエピソードが「道をはさんで今も愛のシンフォニーを奏でている」などとロマンティックな一言で締められているが、ここは国道257号線沿いであり、自動車の走行音がそこそこうるさく、「愛のシンフォニー」を聞くことはできなかった。
ここに高札場跡と、馬頭観音がある。高札場跡があるということは、ここが村の中心であったことを意味する。馬頭観音は交通運搬や農耕で使役した馬の供養のために建てられたそうだ。
阿弥陀堂の裏に、「秀衡の松」がある。これは秀衡の奥さんの亡骸を埋めたところに、秀衡が植えた松だと伝えられている。明治15年(1882年)頃までは残っていたそうだが、今ある松はそれほど大きくないので、明治の頃に枯れてしまったのだろうか。
5.みたらしの池跡
二ツ御堂の裏に、八幡神社がある。
八幡神社の御祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと)。創建年代は不詳だが山城国(現在の京都府)石清水八幡宮から勧請したようだ。
境内には東若林児童遊園が隣接しており、タコの遊具が設置されていた。
浜松市南区可美市民サービスセンターに、三角点と水準点を見つけた。
四等三角点「若林」は昭和59年(1984年)設置。雑草が生い茂っているが、標石と「大切にしましょう三角点」の標柱は見つけられる。
同じ可美市民サービスセンターに、二等水準点第1374号もある。
二等水準点第1374号は昭和30年(1955年)に設置された標石型の水準点らしいが、蓋の下にあるらしく確認できなかった。
ここはもともと可美小学校があったところらしいが、昭和22年(1947年)に小学校は移転、昭和29年(1954年)から可美村役場として使われていた。
可美村は平成3年(1991年)に浜松市に編入合併して消滅したため、村役場跡地はサービスセンターとなった。平成3年(1991年)だと、「平成の大合併」よりは少し早い時期だ。
国道257号線に戻る。消火栓が右から左に書かれているので、これは古いものだ。
みたらしの池跡を見つけた。
水神を祀る人工の池が、現在の可美小学校が建設される昭和22年(1947年)1月頃まで、「みたらしの池」といわれ可美小学校の運動場の南西にあった。
池が埋め立てられてしまったので、このあたりに住む丸山氏が新しく水神を祀る池を造ったが、現在はその池も埋められてしまったようだ。
当時、可美小学校の運動会で雨が降ると、「みたらしの池を埋めたせいだ」と言われたとか。
確かに運動会で雨が降るのは残念だ。私も雨女で旅行のとき雨が降ることが多いからよくわかる。でも雨男・雨女は龍神に愛されている証拠ともいわれているので、神様が怒って雨を降らせたとも限らないのでは、と思う。
ここには可美村民憲章、浜松市・可美村合併記念の石碑がある。浜松市・可美村合併記念の石碑の裏には可美村の概要も書かれている。
ここには、忠魂碑もある。
この忠魂碑は、旧可美村から出征し、日露戦争・日中戦争・太平洋戦争で亡くなった兵士と、軍需工場で空襲のため亡くなった人の179柱が祀られている。
兵士や学徒動員の犠牲者の平均年齢は25歳。私より若いじゃないか。生きたくても生きられなかった人々の冥福を祈り、合掌した。
6.熊野神社
みたらしの池跡の隣には、諏訪神社がある。
明治7年(1874年)、太政官布告の社領没収令により東組天神社、東中組六所社、西中組八幡社を諏訪社に合祀し、明治12年(1879年)に諏訪神社と名付けられた。
諏訪神社に参拝し、先に進むと秋葉常夜燈籠があった。
浜松市天竜区にある秋葉山本宮秋葉神社に通じる諸街道、秋葉街道を歩く旅人の安全を祈願し、街道の要所に設置された常夜燈が秋葉燈籠・秋葉常夜燈籠だ。これは可美地区に残る唯一の秋葉常夜燈籠である。
秋葉常夜燈籠から少し行ったところに熊野神社がある。
熊野神社は光明天皇が康永3年(1344年)に創建したという記録があるが、確たる証拠にはなっていない。
熊野神社の境内にもタコの遊具が設置されていた。
熊野神社には叟蘿魂(そうらこん)という碑がある。
今から約580年前の永享4年(1432年)9月、室町6代将軍足利義教(あしかがよしのり)が駿府から京都に帰る途中、ここにあった非常に大きく立派な老松を見て感嘆した。
そこにいた堯孝(ぎょうこう)僧正が和歌にこう詠んだ。
「たが代にか 植えておきなの 松の根に けふ顕るる 君が千とせぞ」
その後、ここの村人たちはこの松を「於岐奈乃末都(おきなのまつ)」または「叟蘿(そうら)之松」と呼んだ。
この美しく立派な老いた松の生えた土地だったので「叟蘿之松」から「叟蘿(そうら)」そして「増楽(ぞうら)」と呼ばれるようになったという。
このあたりは浜松市南区増楽町だが、「増楽」にこのような由来があったとは知らなかった。ただ、老いた松は寿命が来てしまったのか、見当たらなかった。
7.地蔵院
熊野神社から少し先に、領地境界の標柱を見つけた。
江戸時代、宝永2年(1702年)に高塚は堀江領になったが、増楽以東は浜松領だったので、領地の境を示すために建てた標柱である。
かつてはここより西側にあったようだが、国道拡幅により現在地に移された。
それにしても、説明板が雑草に隠れて見えない。
また少し先に、堀江領境界石の説明板を見つけた。
江戸時代、宝永2年(1705年)に高塚村は旧北庄内村堀江舘山寺に城を構えていた堀江城主 大沢右衛門督基隆(おおさわうえもんのすけもとたか)の領地となり、この年以降、明治維新まで堀江領だったという。
そこで浜松藩との境界の旧東海道沿い、高橋長兵衛家の前庭に礎石が建てられている、と説明があったが礎石は見当たらなかった。
ここで旧可美村のマンホールを見つけた。
旧可美村章は桜の花で縁取って花は「可」に通じ、「美」は槙の葉を構成し、象徴したものである。昭和42年(1972年)にこの村章は制定されたが、可美村が平成3年(1991年)に廃止されたため20年程度しかこの村章は使われていない。
また少し進むと高札場跡と秋葉燈籠跡がある。
東海道分間延絵図によると、高塚の高札場が秋葉燈籠の東側(現在の小野田家)付近にあったと記録されているためここに建てられているらしい。高札場跡なら時々見るが、秋葉燈籠跡は初めて見た。
高札場跡と秋葉燈籠跡で右折して少し進むと護法山地蔵院がある。
護法山地蔵院は明徳元年(1390年)創建で御本尊は築山御前腹篭地蔵尊(つきやまごぜんはらごめじぞうそん)。
これは徳川家康の奥さん、築山御前が天正7年(1579年)に現在の浜松市で織田信長の命令により殺されたとき、奥さんが守り本尊として肌身離さず持っていた仏像がこの地蔵尊だったと言われている。
宝暦8年(1758年)小野田五郎兵衛久繁(おのだごろうべえひさしげ、別名麦飯長者)がこれを堀江城主の大沢右京大夫からもらい、お堂を建てて安置したという。
天下人となった徳川家康であるが、織田信長に奥さんを殺されるという悲しいこともあった、ということだろう。
地蔵院には白隠禅師のエピソードもある。
宝暦8年(1758年)、白隠禅師が桑名から原の松陰寺に帰る途中で病気となり、100日も地蔵院で療養していたという。
小野田五郎兵衛久繁の孫娘4人は父母を幼い頃に亡くし、死を嘆いて仮名書き法華経を書いたという。
その仮名書き法華経を白隠禅師に見せたところ、白隠禅師は感激、「四娘孝記」という話を書いて世間にひろめたという。
仮名書き法華経を書いたのはおさき、おやす、おかの、おそのという4人の少女でそれぞれ14歳、12歳、8歳、6歳だったという。法華経は3年がかりで完成し、それは小野田家と地蔵院に分けて保存されているようだ。
幼い頃に親を亡くすことは辛いことだが、それで法華経を書く、というのは今の時代ではないことだ。
そして白隠禅師とは、東海道原宿に住んでいた臨済宗の高僧である。白隠禅師については「東海道を歩く 12.片浜駅~吉原駅 2.白隠の里」を参照のこと。
8.高塚熊野神社
東海道に戻り、少し進むと麦飯長者跡がある。
昔、高塚に小野田五郎兵衛という長者がいて、明治維新の頃まで、身分を問わず街道を行きかう人に湯茶の接待を施し、お腹が空いた人には麦飯を食べさせていた。
いつしか、麦飯をくださる長者さまということで「麦飯長者」と呼ばれるようになった。
五郎兵衛の善行が浜松城下にも知られ、小野田の苗字を名乗ることが許され、村役人、庄屋を務めたという。
身分を問わず麦飯を食べさせる、というのはアンパンマンのようだな、と思ったのは私だけだろうか。
麦飯長者跡から進むと右手側に鳥居が見えた。高塚熊野神社だ。
高塚熊野神社の御祭神は伊佐奈岐命(いざなぎのみこと)ほか3柱。
創建年代は不詳だが、紀州熊野本宮の神主が諸国行脚の途中、この地に足をとめて祭祀したのが始まりであると言われている。
あるとき高塚熊野神社の神主が「高い丘を作って人々を救え」という不思議な夢を見たので、村人と協力して神社の裏山に土を盛り上げて丘を作った。
その後安政の大地震が起こり、津波のため多くの死者が出たが、高塚の人々はこの丘に避難して被害を免れたと言い伝えられている。
ただ、一説によればその津波で住んでいた人々がほとんど死んでしまい、遺された村人は津波の犠牲者をここに葬り、たくさんの砂を浜から運んで高い塚を作ったのでこの地を「高塚」と呼ぶようになった、といわれている。
安政の大地震の津波で人が助かった説、助からなかったから塚を作った説…東日本大震災で津波の映像を見たこともあり、「助かった説」であってほしい、と思うのは私だけだろうか。
境内には青緑色の八咫烏ポストがある。
社務所で専用の用紙を買い、自分の想いを書いて投函すれば、神様に伝えることができる、というものらしい。紛らわしいが、郵便ポストではないのでここから郵便物を出しても届かないようだ。
御神木はシイの木で、樹齢500年ほどの大樹だ。静岡県神社庁から御神木指定証を受けている。
御朱印をいただいた。今日限定の御朱印だったらしく、「たかくま市」というハンコが押されている。地元の人が集まって何かしていたが、そこに入っていく勇気はなかった。
9.神明宮
高塚熊野神社を出ると「源十道路」と書かれた標柱が目に入った。
この道路は高橋源十さんの名から名付けられたようだ。高橋源十さんが何をして、道の名前になったのかはわからなかった。
現代の立場(街道の休憩所)、マクドナルドでジュースとポテトをつまみ、一休みした。
少し歩いたらさわやか浜松高塚店を見つけたが、42分待ちだったので諦めた。
ここで県道257号線と別れ、旧道に入るのだがそこに「夢舞台東海道」の「篠原」があった。
歩いていたら「ジップドラッグ」というドラッグストアを見つけた。関東では見ないチェーンだな、と思い調べてみたら静岡県、岐阜県、愛知県、三重県、滋賀県、奈良県、和歌山県にしかないチェーンらしい。
ジップドラッグ篠原店から少し進むと立場跡がある。
立場は慶長6年(1601年)に東海道に宿駅伝馬制度ができたときに、宿場と宿場の中間の休憩の施設として設けられた。
ここは立場本陣と言われ、身分の高い人が多く休憩したという。明治元年(1868年)には明治天皇もここで休憩したという。
立場跡から少し進むと神明宮がある。
神明宮の御祭神は天照皇大神(あまてらすおおみかみ)と豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)。
建暦2年(1212年)浜名湖中の島に祀られたが地震、津波などにより永正年間(1504~1512年)に現在地に遷座した。この社殿は昭和7年(1932年)に建てられたもの。
神明宮には水準点もある。二等水準点第1376号だ。
二等水準点第1376号は昭和30年(1955年)に設置された標石型の水準点である。
10.愛宕神社
神明宮の向かい側に遠鉄ストアがあった。
遠鉄ストアは菊川市、掛川市、袋井市、磐田市、浜松市、湖西市、愛知県豊橋市、愛知県豊川市に出店している。同じ鉄道会社系のスーパー、しずてつストアは高級志向、と以前聞いたことがあったが、遠鉄ストアはどうなのだろう。
少し歩くと篠原一里塚跡を見つけた。
篠原一里塚は日本橋から67里の一里塚だ。
「当時の旅人は、一日十里(約40km)を歩くのが普通であったといわれていました。」と書かれている。この話は以前も聞いたことがあったが、「ほんとかよ?」と思い、友人とその話をしたことがあるのだが、「フルマラソンの距離はそれくらいだし、不可能ではないのでは?」と答えられた。確かに不可能ではないのかもしれないが、少なくとも私には不可能だ。
篠原一里塚跡から少し進んだところに、高札場跡がある。
高札場は一般の人に掟や禁制を伝えるために建てられた掲示板である。
高札場があったからなのか、このあたりは「札木」という地名らしいが、住所には残っていない。
これ、特に何も書かれていなかったのだが、秋葉常夜燈だろうか。
少し進むと、また秋葉常夜燈を見つけ、その後ろに愛宕神社があった。
愛宕神社の御祭神は軻遇突智命(かぐつちのみこと)と素蓋嗚尊(すさのおのみこと)。
創建は文禄元年(1592年)。坪井村新田村の開発のときに氏神として京都の愛宕神社から分霊を勧請した。
慶長6年(1601年)、徳川家康が鷹狩りのときに参拝したという。
愛宕神社の隣に臨済宗妙心寺派の寺院、愛宕山光雲寺がある。愛宕神社の隣にあり、山号も「愛宕山」なので別当寺だろうか。別当寺とは、江戸時代以前に神社を管理するために置かれた寺のことである。
11.東光寺
坪井町北交差点に、明治天皇御東幸野立所跡がある。
明治元年(1868年)9月20日、明治天皇は京都を出発し、23日間をかけて東海道を下り、東京へ向かった。
その途中の10月2日に坪井村の松並木のこのあたりで短い休憩(野立)をした。
その後篠原村立場本陣で小休して、浜松へ向かった。
篠原村立場本陣ってさっきあったところだよな、休憩しすぎではないか?というツッコミは不敬にあたるのだろうか。
明治天皇御東幸野立所跡の少し先に稲荷神社がある。
稲荷神社の祭神は宇加之御魂之大神(うかのみたまのおおかみ)ほか2柱。
永享12年(1440年)に伏見稲荷から勧請したといわれている。
現在の社殿は大正11年(1922年)に建てられたもの。
稲荷神社には水準点もある。二等水準点第1377号だ。
二等水準点第1377号は昭和30年(1955年)に設置された標石型の水準点だ。
少し進んだところに秋葉常夜燈と坪井村高札場跡を見つけた。
高札場とは法度や掟を伝えるために人通りの多い場所に設置された掲示板である。
坪井村高札場跡の次の交差点を右折して少し行くと東光寺がある。
東光寺は臨済宗妙心寺派の寺院である。御本尊は東方薬師瑠璃光如来。慶長6年(1601年)、勢巌元育禅師が開山した。
境内には南海霊亀碑がある。
文化7年(1810年)の初秋の夜中、海上は風雨激しく雷が鳴り、遠州灘は非常に荒れたという。
夜が明け、嵐の過ぎ去った海辺には息の絶えたウミガメが打ち上げられ、それを見た村人たちは深く悲しみ、酒をあげるなどして手厚く葬った。
翌年8月の末に、人々はウミガメを海神の使者として海上かなたの他界(あの世)と現世(この世)を行き来する霊能の持ち主であることを崇め、さらに海の安全と豊漁を願って亀型の台座に経巻六角柱を乗せた供養塔を建て、その信仰心が続くよう念じたのが南海霊亀碑だという。
昔、遠州の海岸にウミガメが上陸したのを見つけると、人々は酒を飲ませて帰していたという。
それは、ウミガメが大漁をもたらすお使いであり、海上安全の神であり、さらに台風が来そうな年には卵を浜の奥に生むから、それより奥に船を引き揚げておけば流されることはないことを教えていたからである。
ところで、犬や猫は酒を飲むと中毒症状を起こすという。それは犬や猫がアルコールを分解する酵素を持っていないからである。そう考えるとウミガメに酒を飲ませるのは果たして大丈夫だったのか…?少し心配になってきた。
12.引佐山大悲院観音堂聖跡
東光寺から東海道に戻り、少し進むと秋葉常夜燈の奥に引佐山大悲院観音堂聖跡がある。
ここに長く安置されていた観世音菩薩は、定朝法橋上人(平安時代の仏師)が作ったものと伝えられていた。
治安元年(1021年)、定朝上人は諸国行脚の途中に山住神社(現在の浜松市天竜区)に山籠もりしたときに神託を感じ、引佐細江の里の老杉のもとで祈りつづけた。
引佐細江で祈ること7日、老杉の頂が光り、聖観世音菩薩が現れた。
聖観世音菩薩の慈悲に感激した定朝は、老杉を伐採し、その木で聖観世音菩薩を彫り、引佐に堂宇を建て安置した。
久安5年(1149年)に山崩れや洪水が起こり、菩薩の霊訓によりここに遷し、草庵を作って安置した。
仁安元年(1166年)、筑紫の人が頼みごとがあってここに参詣し、望みを叶えられたら御堂を建てようと祈願、無事目的を達成したのでお堂を新しく建てたそうだ。その話を聞いて伊賀守源光行公はこう詠んだ。
たのもしな 入江に立つる 身をつくし 深き志るしの ありと聞くにも
弘安6年(1283年)、小夜の中山の化鳥退治のために上杉三位高実公が現場に向かうときにもこの観音様に祈願し、無事退治できたという。
寛文12年(1672年)に新井宿に住む片山権兵衛も紀州の熊野浦で難破に遭ったが、この観音様に助けられたという。そのお礼としてお堂を建てた。
その後も東海道でご利益のある観音様として信仰を集めていたが、今ここに観音様はいない。
現在、観音様は如意寺(現在地から4分ほど行った場所にある曹洞宗の寺院)に安置されているという。
引佐山大悲院観音堂聖跡をあとにして、先に進むと5分ほどでまた秋葉常夜燈を見つけた。
秋葉常夜燈の少し先に、東本徳寺がある。
東本徳寺は日蓮宗の寺院である。
東本徳寺から少し進むと今度は西本徳寺がある。
西本徳寺も日蓮宗の寺院である。
「東本徳寺」「西本徳寺」という名前を聞いて、「京都にある東本願寺と西本願寺に似てるな」と思ってしまった。東本願寺と西本願寺はもとは1つの寺院だったがいろいろあって2つの寺院に分裂した。東本徳寺と西本徳寺ももともと1つの寺院だったのだろうか。
春日神社の御祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)ほか3柱。
永徳元年(1381年)、日朝上人が創建し、社殿は村民とともに建立したという。
境内には水準点がある。二等水準点第1378号だ。
二等水準点第1378号は昭和40年(1965年)設置の標石型の水準点だ。水準点の上に保護用と思われる石が置いてある。保護用の石が置いてあるのは初めて見た。
春日神社の御神木は柊である。昭和7年(1932年)に御神木指定されたときは古木だったようだが、その後枯れてしまったようだ。その枯れた柊から生えてきた柊が現在の御神木である。
春日神社の前に、鹿2基が設置されている。これは春日大社の神使が鹿であることにちなむ。奈良の春日大社周辺にたくさん鹿がいるのも、春日大社の神使だから、ということになる。
東海道に戻り、舞阪駅南入口交差点まで来たら右折して舞阪駅へ向かう。
舞阪駅から東海道本線に乗り、今日の東海道ウォークは終了とする。
【おまけ】
浜松に宿を取っていたので、食べたいものがあった。
さわやかである。
「また!?」と思う人もいるかもしれないが、「歩いた日」を参照してもらうとわかる通り、前回の「東海道を歩く 25.磐田駅~浜松駅」を歩いたのが2023年5月28日、今日は2023年8月26日。3ヶ月も空いている。私はさわやかに飢えていたのだ。
前回同様、遠鉄百貨店のさわやかに向かい整理券を発券、2時間待ちだったのでスタバに向かう。今回飲んだのは「GABURI スイカフラペチーノ」。スイカをフラペチーノで表現するならどうなるんだ?と思い飲んでみた。これがスイカ…?という印象だったが、キウイやドラゴンフルーツが入っていてトロピカルな味がした。
時間になり、さわやかに向かう。席に案内され、げんこつハンバーグBセットを注文した。これはげんこつハンバーグのほかにライスorパンとサラダがついてくるセットだ。ハンバーグを楽しみにしながらサラダを食べる。
店員さんが熱々の鉄板の上に置いたげんこつハンバーグを持ってきた。私の目の前でハンバーグを2つに切り、鉄板に押し付けて焼き、オニオンソースをかける。
店員さんが「ごゆっくり」と言って去り、まだパチパチいってるハンバーグを写真に収め、ナイフで切って一口頬張る。
うまい。
うますぎる。
何度だって食べたくなるハンバーグ。それがさわやかだ。
私の座った席の前に「♪ジュジューッ つくりたてのリズムは だんらんサウンド♪」と書かれ、写真付きで貼られているのだが、それにしてもこれはなぜステーキの写真なのだろう。看板商品なんだからハンバーグの写真にすればいいのに。
そしてさわやかはデザートも美味しいことを忘れてはならない。
「お待たせしました!クラウンメロンパフェです」
私が一番好きなフルーツはメロンである。
そして静岡県は全国的にも有名なメロンの産地で、このメロンパフェは静岡県産のメロンを使用している。
美味しいだろうと期待して頼んだが、期待を上回る美味しさだった。
ちなみに、メロンパフェは夏季限定となっている。
さわやかの余韻に浸りながら、宿に向かう。本日泊まるのはZAZACITY HAMAMATSUのなかにある「かじまちの湯 SPA SOLANI」。
ここはカプセルホテル、個室ホテルだけでなく大浴場、ロウリュウ、岩盤浴、リラクゼーションルームなどを備えている。これで1泊4,500円だから安い。
カプセルホテルのベッドに荷物を置き、大浴場に向かう。体を洗い、少し湯船で温まってからサウナに入る。
熱すぎないサウナで、6分、9分、12分と滞在したがしんどくなることはなかった。
水風呂も冷たすぎずぬるすぎず、気持ちよかった。
ここまで語るとサウナしきじの漢方薬草風呂や韓国式サウナ、天然水水風呂が恋しくなってくるが、浜松まで来てしまったので仕方ない。あと宿泊しているので追加料金0でサウナに入ることができるのは強い。
風呂上りにコーヒー牛乳を飲み、次の日に備えて休むことにした。
歩いた日:2023年8月26日
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【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006) 「静岡県の歴史散歩」 山川出版社
風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第8集」
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html
https://www.gosyajinjya-suwajinjya.or.jp/about.php
(2023年9月11日最終閲覧)