前回、ことのまま八幡宮バス停から掛川駅まで歩いた。今回は掛川駅から袋井駅まで歩こうと思う。袋井宿は、東海道五十三次のうちで、江戸から数えても京都から数えても27番目の宿場町にあたる。そのため、袋井市のキャッチコピーは「東海道のどまんなかのまち」となっている。日本橋を出発したのが2021年7月で、袋井に着いたのは2023年4月。長かったし、ここから先も、長い。
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1.掛川城蕗の門
今日は、掛川駅から出発だ。しかし、掛川駅のコメダ珈琲店でモーニングを食べたいと思い、30分ほど待ってから食べていたら出発が11時頃になってしまった。
掛川駅北口から北に向かい、連雀西交差点で左折して東海道に入る。中町商店街に入るが、少しさびれている。
清水銀行掛川支店の壁に山内一豊・千代夫人が浮彫刻で刻まれている。
山内一豊と千代夫人は「内助の功」という話が有名である。若い頃の山内一豊が名馬を欲しがったところ、千代夫人がひそかに蓄えた黄金をもって願いを叶えさせた、という話が「内助の功」である。そういうことができる女性でありたいが、何分私には、お金がない。
掛川市の消火栓を見つけた。
これは旧掛川市章が描かれているので、平成17年(2005年)以前に設置されたものだと思われる。これは掛川城の桔梗御紋を引用したデザインである。
蕗の門は江戸時代末期の安政元年(1854年)の安政大地震で倒壊したあとに建てられたもので、掛川城の大手筋の三の丸に入る手前にあたる位置に配された門だ。
掛川城は明治2年(1869年)に廃城となったため、明治5年(1872年)に円満寺が山門として購入、移築した。
それにしても、説明板が汚れていて読めない。
蕗の門の奥には、円満寺がある。円満寺は浄土真宗の寺院である。
2.十九首塚史跡公園
血洗川を渡ると、旧道に入る。「旧東海道」という案内がある。
血洗川とは血生臭い名前だな、と思っていたら平将門の首級を洗ったことからこう名付けられたらしい。血生臭い名前の川には、血生臭い歴史があった。
常夜燈を見つけた。これは普通の常夜燈かな、と思っていたら小さく「秋葉山」と書いてあったので秋葉燈籠だった。
旧道に入ってすぐのところに、東光寺がある。
平将門の首級を葬ったときに建立され、始めは「医王山平将寺」と言われていた。
境内に成田山不動の祠がある。明治10年(1877年)東光寺が千葉県の成田山から勧請して祀り、大正14年(1925年)には旧遠江国唯一の遥拝所として許可を得た。
なお、「旧遠江国」であって、「静岡県」ではない。「東海道を歩く 19.岡部宿柏屋前バス停~藤枝駅」で「藤枝成田山」が登場している。しかもそこでは「静岡県唯一の成田山」と書いてあって「おや?」と思ったが、「明治元年(藤枝成田山成立直後)」は静岡県唯一だったのかもしれない。
成田山の祠は撮り忘れてしまったが、「成田山遥拝所」と書かれた石碑は撮影してあった。
東海道から少し脇道に入ったところに、十九首塚史跡公園がある。
十九首塚史跡公園には十九首塚があり、そこに平将門の首級が祀られている。
承平5年(935年)、平将門は常陸をはじめ関東一円を占拠し、自らを新皇と称して律令国家に対抗する国家を企てた。
この叛乱に、朝廷から大規模な将門征討が興され、平貞盛、藤原秀郷らにより、平将門は天慶3年(940年)2月14日に滅ぼされた。
藤原秀郷は平将門をはじめ一門の家臣19人の首級を持って京都に上がる途中、掛川宿まで来た。京都からも、検視の勅使が派遣され、ここの小川(血洗川)で首を洗い、橋に架けて検視を行った。
首実検のあと、藤原秀郷は「平将門は逆臣だが、名門の出だ。その罪は重いけれど、今や亡くなっている。その屍に鞭打つのは非礼である。」と言い、19の首を埋葬して、懇ろに供養した。天慶3年(940年)8月15日のことである。
ところで、平将門の首級を供養していることで有名な「将門塚」が東京にある。
しかも、結構最近のブログで取り上げている。
「平将門の首塚」が2つある。これはどういうことなのだろうか…?もし分かる人がいれば、教えてくれると嬉しい。
3.秋葉神社一ノ鳥居
大タカ時計眼鏡店の脇で再び県道37号線に戻り、逆川を越える。今日は4月、うららかな春の日で歩いていて気持ちがよい。
二瀬川交差点で左折して進む。国道1号の230キロポストを見つけた。
倉間川を渡る少し前に、水準点がある。一等水準点第001-230号だ。
一等水準点第001-230号の設置年月日は不詳だが、オーソドックスな金属標型である。
倉間川の対岸にも水準点がある。一等水準点第交141号だ。
一等水準点第交141号は昭和9年(1934年)に設置された標石型の水準点だが、蓋に阻まれて確認できない。
一等水準点第交141号の近くに、大きな鳥居がある。秋葉神社一ノ鳥居だ。
秋葉神社の信仰が秋葉信仰である。このあたりは秋葉信仰が厚いことは、秋葉燈籠が多く分布していることからわかる。
秋葉神社の正式名称は秋葉山本宮秋葉神社といい、浜松市天竜区にある。火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓う火防開運の霊験が最も有名だが、そのほかにも火災消除、家内安全、厄除開運、商売繁盛、工業発展にも霊験があるという。
江戸時代には、秋葉講が多くでき、秋葉神社は参詣者で賑わっていたという。
東海道と秋葉街道の追分であるここには、安永9年(1780年)、江戸日本橋の豪商、次郎兵衛から青銅の鳥居が寄進され、東海道の名所になった。
明治24年(1891年)掛川森往還道が開通したことにより鳥居は移転し、昭和8年(1933年)の道路拡幅により鳥居は撤去されてしまったが、ここは遥拝所として護られてきた。
平成21年(2009年)、秋葉神社鎮座1300年記念事業としてここが正式に「掛川遥斎所」として社殿を改築し境内を整備した。3年後の平成24年(2012年)には駐車場が設けられた。
ここから秋葉神社まで歩いていく予定はないが、この「掛川遥斎所」には参拝した。
あまり公共交通でのアクセスはよくないみたいだが、いつか秋葉神社に参拝してみたい。
東海道に戻ると「大池橋」と書かれた「夢舞台東海道」を見つけた。
「大池橋」は倉間川に架かる橋の名前である。大池橋は長さ29間(約52m)、幅3間1尺(約5.7m)の土橋と「掛川誌稿」に記されており、秋葉街道の入り口として有名だったようだ。
現在の掛川市章が描かれた仕切弁を見つけた。
掛川市章は、掛川市の頭文字「K」をモチーフにして、掛川市の将来像「海と山と街道がつながり、夢・未来を創るまち」をキキョウの花の形でイメージ・デザインしたもの。平成17年(2005年)に誕生した。
県道253号から少し脇道に入ったところに、芭蕉天満宮がある。
ここの富士講に参加した人々が、富士浅間大社に参詣した帰りに、駿河国内芳村(現在の富士宮市)の芭蕉天満宮から勧請し、ここに祀っている。
「芭蕉天満宮」という名前からてっきり松尾芭蕉を祀っているのかと思ったが、関係性は見いだせなかった。
県道253号線に戻り、鳥居町交差点を右側に見ると、さわやか掛川本店が見えた。
昨日さわやかのげんこつハンバーグを食べて美味しかったので、空いてたらまた食べに行こうかな、と思い待ち時間を調べてみたら90分待ちだったので諦めた。
さわやか、また食べたいなぁ。
天竜浜名湖鉄道のガード下をくぐると、ちょうど天竜浜名湖鉄道の気動車が駆け抜けていった。
そのまま進んだら右手側に小さな神社が見えた。白山神社だ。
そっと手を合わせ、参拝した。
宗心寺から先に進むと、津島神社がある。こちらも小さな神社だ。
蓮祐寺の前に「夢舞台東海道」の「大池一里塚跡」がある。今はこの案内板があるだけだ。
大池一里塚跡の後ろにある蓮祐寺も、日蓮宗の寺院だ。
蓮祐寺の先に、少しだけ松の残る一角があった。
そのまま道なりに進むと水準点を見つけた。一等水準点第141-1号だ。
一等水準点第141-1号は平成16年(2004年)に設置された標石型の水準点だが、マンホールに隠れて見えなかった。
国道1号線の高架下前に、神社がある。高松神社だ。
高松神社という名前は初めて聞いたが、御前崎市に同名の神社があるらしい。関連はあるのだろうか。
国道1号線の高架下をくぐって左折、その後右側に行くと「ここは旧東海道」という標識がある。
東名高速道路の高架下をくぐると、ここにも松が残っていた。
垂木川を越える。今日はいい天気だ。
4.間の宿原川
「従是北岡津區」と書かれた道標を見つけた。「西 袋井町へ約一里」「東 掛川町へ約一里」と書いてあり、ここが中間地点であることを示している。
「従是北岡津區」の道標の近くに仲道寺がある。
享保18年(1733年)に掛川市内の高御所にあった正法寺から和尚を招き、もとからあった善光寺の境内に堂を建立し、夏涼山(かりょうさん)仲道寺と号したことに始まる。
夏涼山というから、夏に開山したのだろうか。
仲道寺の少し先に、椎の木茶屋がある。
椎の木茶屋ではいも汁が名物らしい。おなかも空いてきた頃なので、入ってみる。
店内に入り、いも汁ランチを注文した。
いも汁は自然薯をすって味噌汁でといたものをごはんにかけて食べる。
「丸子で食べたとろろ汁と何か違うの?」と思った方もいるだろう。
↓「東海道を歩く 17.静岡駅~吐月峰駿府匠宿入口バス停」で丁子屋のとろろ汁が登場している。
丸子のとろろ汁と掛川のいも汁の違いは、掛川のいも汁で使う味噌汁は鯖出汁の味噌汁であることだ。鯖を水から煮だして出汁をとり、その魚もすりつぶして加えているようだ。確かに鯖の風味を感じた。
それにしてもこの量で1,320円なのでとてもお得なランチだ。
椎の木茶屋を出ると、松並木が続いていた。
江戸時代は東海道沿いに松並木が続いていたようだが、松くい虫の被害もあり、東海道全体では限られたところしか残っていない。
松並木の終点に、「夢舞台東海道」の「原川松並木」の案内板を見つけた。
また道標を見つけた。「従是北和田岡」だろうか。
「時空を超える 道との対話」と書かれた案内板を見つけた。まだ掛川市内なのに、「袋井建設業協会」と書いてあるのが気になる。
また水準点を見つけた。一等水準点第142号だ。
昭和10年(1935年)に設置された標石型の水準点だが、蓋で覆われて確認できなかった。
一等水準点第142号の向かい側に、金西寺がある。曹洞宗の寺院だ。
このあたりは、間の宿原川である。
宿と宿の間の街道に沿った小集落を間の宿という。間の宿では、旅人の休息の場を提供することはできたが、宿泊業を営むことは許可されていなかった。
原川は、掛川宿まで1里18町(約6km)、袋井宿まで33町(約3.6km)の位置にあり、戸数は文化・文政期に編纂された「掛川誌稿」によると46軒あったらしい。
原川には、原川薬師と呼ばれていた金西寺阿弥陀仏、その薬師に備える薬師餅を売る茶店、酒屋などがあり、街道を行きかう旅人で賑わっていたそうだが、現在、薬師餅を売る店は見当たらなかった。
道標を見つけたが、何と書いてあるかわからない。
道標のところで右に折れて少し進むと北野天満宮がある。
北野天満宮の御祭神は菅原道真。江戸時代の寺子屋にはその教室に天神さま(菅原道真)が祀られたり道真を描いた「御神影」が掲げられたりしたらしい。これは学業成就や武芸上達のためである。
学業成就に効果があるからなのか、「第一志望大学合格祈願」などの絵馬が掲げられていた。少し前の「すべらず地蔵尊」にも学業成就の絵馬が多く掲げられていたのを思い出す。
すべらず地蔵尊は「東海道を歩く 21.金谷駅~ことのまま八幡宮バス停 1.金谷坂」に登場した。
階段を上り、国道1号線上の同心橋で原野谷川を渡ると、袋井市に入る。そこに掛川市と袋井市のカントリーサインを見つけた。
5.冨士浅間宮赤鳥居
坂を下りると花茣蓙(はなござ)公園がある。
江戸時代、ここには名栗の立場があり、休憩できた。現在は歌川広重の版画「出茶屋ノ図」の掲示板や秋葉神社、トイレもあって休憩できる。休憩できるとはいえ立場のように何か食べ物を提供してくれるわけではないから、ベンチで軽く水を飲んだだけである。
「出茶屋ノ図」の掲示板がこれである。江戸時代はこのように休憩できたのだろうか。
袋井市に入ったので、空気弁等を確認する。
この空気弁には袋井市の旧市章が描かれていて、これは「フ」を図案化したものである。この市町村章は平成17年(2005年)に廃止された。
この消火栓に描かれているのは袋井市の市章…ではなく、「どまん中ふくろい」のシンボルマークらしい。
「この先カーブ スピード落とせ」に「東海道53次を歩いています。応援よろしく」と書かれた小さな旗が掲げられていた。心の中でエールを送った。
「名栗の花茣蓙」の説明があった。駕籠の形をしていて面白い。
十返舎一九の書いた「東海道中膝栗毛」は滑稽本として有名だが、江戸時代の東海道旅行の実情の記録的な価値もある。「東海道中膝栗毛」で、このあたりが取り上げられていたようだ。
掛川城下を西へ一里十丁、原川薬師(金西寺)に参詣し、軒を連ねた通りをすぎ、瀬川を渡れば早名栗、松並木を西に見て立場茶屋(花茣蓙公園)に着く、名代の甘酒に舌鼓、ここは布井(袋井)の宿までの合いの宿、旅篭屋もあり、名物の花ござを売る店が軒を連ね上り下りの旅人が珍しいと買っていく。
旅人の 見えかくれする 並木道 瀬川のほとり 花ござの里
甘酒も、花ござも今では売っていない。
松並木を見つけた。
江戸時代は掛川宿と袋井宿の間に松並木が茂っていたようだが、現在は一部しか残っていない。名栗から久津部(くつべ)の間には、松並木が残っている。
童とともに凧を見上げる旅人を描いている。大人2人がかりで凧をあげているところを見ると、この凧は相当大きな凧なのだろう。袋井の初夏の風景を描いている。
「東海道五十三次之内 袋井」があった。
この旅人は荷物と菅笠を放り出して命乞いをしている。農夫の声に促されてよく見ると、自分を狙っていると見えた弓の射手はかかしだった、というユーモラスな場面を描いている。
「東海道五十三次之内」のところに大きな鳥居がある。冨士浅間宮赤鳥居である。
これは天正18年(1590年)に地頭の本間源三郎重泰(ほんまげんざぶろうしげやす)が建立し、寛永15年(1638年)に北条氏重が現在地へ移築した冨士浅間宮本殿への参道の入り口に建っている。
現在は鳥居と社殿までの間に国道や東名高速道路が通っているが、江戸時代には赤鳥居から冨士浅間宮を見渡すことができたようだ。
ちなみにここから冨士浅間宮までは約1kmある。寄り道にしては遠すぎるので鳥居で拝むだけでよしとした。
6.妙日寺
「東海道 掛川市境まで1.0km 磐田市境まで6.0km」という看板を見つけた。このような看板を見たのは初めてだ。
また消火栓を見つけた。これは袋井市章が描かれている。
袋井市章は袋井市の頭文字・アルファベットの「F」を図案化し、飛躍する文化都市と自然豊かな田園、さわやかな風、遙かな海をイメージし、全体で新しい市民の「和」を表現している。
少し進むと、貫名山妙日寺がある。
妙日寺は、正慶(しょうきょう)元年(1332年)身延山久遠寺の日善によって開かれた日蓮宗の古刹である。
日蓮宗を開いた日蓮の父の法名を寺名とし、境内は一族である貫名氏の代々の邸宅跡と伝えられている。
日蓮の父 貫名重忠(ぬきなしげただ)は源平の合戦において平氏に味方したため鎌倉幕府から安房国小湊へ流され、そこで貞応(じょうおう)元年(1222年)に日蓮が生まれ、父重忠は正嘉(しょうか)2年(1258年)にその生涯を閉じた。
日蓮が小田原を訪れ故郷の房総半島を見て両親を偲び、石の宝塔を建てたところがあったことを思い出した。「東海道を歩く 9.箱根板橋駅~箱根神社入口バス停 2.日蓮聖人霊跡」に載っている。
妙日寺の奥には御霊屋(おたまや)がある。
御霊屋は貫名家の御廟所である。ここに柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)が寄進した五輪塔もある。そっと手を合わせた。
境内には貫名山稲荷大明神もある。
境内には「平和への道標」もある。太平洋戦争の犠牲者の慰霊碑である。
この日は4月だったので、境内の藤棚が綺麗だった。
妙日寺の入り口に水準点がある。一等水準点第142-1号だ。
昭和48年(1973年)設置の金属標型の水準点だ。
妙日寺の向かい側には、久津部一里塚跡がある。
久津部一里塚は江戸から60里(約240km)の一里塚である。
久津部一里塚に道標があるが、何と書いてあるか読めない。
「袋井東地区の歴史名所案内」が掲示されていた。
袋井市立袋井東小学校は「東海道五十三次どまん中東小学校」、という異名があるらしい。
久津部一里塚、北側は案内板だけだったが、南側は昭和47年(1972年)に袋井東小学校創立100年を記念して一里塚碑が建てられた。
書家、川村驥山(かわむらきざん)もかつて袋井東小学校で学んだという。
7.用行義塾跡
袋井東小学校から少し進むと、「秋葉山」と書かれた秋葉山常夜灯を見つけた。
やけに新しい秋葉山常夜灯だなと思ったら、昭和28年(1953年)に建てられたものらしい。割と最近まで秋葉講はあったのかもしれない。
村松・宇刈道標を見つけた。
村松・宇刈道標から50mほど北に進むと油山寺道標がある。
油山寺は袋井市にある真言宗の寺院である。油山寺は、天平年間(729~749年)に行基が開山したとされる、眼病平癒信仰で有名な寺院である。ここから油山寺までは3.5kmほどである。
油山寺道標のあるところが、用行義塾跡である。
用行義塾は、学制が発布される少し前の明治5年(1872年)に民間の有志が共同出資して設立した、袋井で最初の近代教育を行う郷学校(ごうがっこう)と言われた学校である。袋井近代教育発祥の地ともいわれている。
東海道に戻ると八幡社入口道標がある。
先ほどからやたら道標があるが、これらは大正期に青年会が建てたものである。
ちなみにここから八幡社までは450mほどである。
今度は法多山道標を見つけた。
法多山は神亀(じんき)2年(725年)開山の真言宗の古刹である。
ちなみにここから法多山までは6kmほどある。
「東海道 磐田市境まで5.0km 掛川市境まで2.0km」の看板を見つけた。
これも油山寺の道標だ。
「隷書東海道」を見つけた。
大きな唐獅子牡丹の凧と鶴に松を描いた凧が上がっている。右下に「名物遠州だこ」と記されており、田園風景と凧の取り合わせは、遠州の初夏の風物だったと考えられる。今では凧を上げている人はほとんど見なくなってしまった。
8.七ツ森神社
また、松並木が始まった。
松並木が始まってすぐに、七ツ森神社がある。
七ツ森神社はこの周辺にある7つの塚で最も大きな塚の上にある。
この7つの塚にはこのような伝説がある。
桓武天皇の頃、日坂宿に出没していた怪鳥を退治するために朝廷から7人の武士が派遣されたが、全員命を落としてしまった。哀れんだ村人が彼らを葬ったのが、7つの塚だと言われている。
七ツ森神社の祭神は古墳時代にこの地方を治めていた 久努国造(くぬのみやつこ)である。
七ツ森神社の御神木のシイノキはとても大きく、圧倒される。
先に進むと、「双筆五十三次 袋井」を見つけた。
この絵は3代歌川豊国が描いたもので、巡礼に向かう母子を描いている。
松並木の終点に、油山寺へ向かう油山道の道標が置いてあった。
ここから油山寺までは約4kmである。
このマンホールは「どまん中ふくろい」のシンボルマークを中心に置き、市の木「マキ」をデザインしている。
「夢舞台東海道」の「東新屋」を見つけた。袋井宿まであと0.7kmだ。
新屋交差点に、水準点を見つけた。一等水準点第001-237号だ。
設置時期は不明だが、金属標型らしい。
新屋交差点には「夢舞台東海道」の「西新屋」もある。
「旧東海道」という道案内に沿って進む。
「旧東海道マップ」を見つけた。七ツ森神社から東海道どまん中茶屋までなので、結構狭い範囲だ。
「旧東海道」と書かれた道に沿って進むと、秋葉山常夜灯を見つけた。このタイプの秋葉山常夜灯は初めて見た。
袋井市内には石で作られた秋葉灯籠と、木で作られた秋葉山常夜灯が合計14基現存している。この常夜灯は木造で、木彫り細工が細かいのが特徴である。確かに龍が彫られた秋葉山常夜灯は初めて見た。
そのまま歩くと突き当りに「夢舞台東海道」の「市役所前」がある。
東海道沿いに市町村役場があるのはレアなので、袋井市役所を見に行く。
袋井市役所の前には水準点もある。一等水準点第143号だ。
一等水準点第143号は昭和60年(1985年)に設置された標石型の水準点である。
9.東海道どまん中茶屋
袋井市役所南交差点を西に進むと、「東海道 掛川市境まで4.0km 磐田市境まで3.0km」の看板を見つけた。「掛川市境まで3.0km」の看板を見逃した気もする。
ここに天橋(あまはし)があったようだ。
天橋は袋井宿の東の入口にかかっていた土橋である。
袋井宿は東海道の設置から少し遅れた元和2年(1616年)に設置された。品川宿から数えて27番目の宿場となる。
天保14年(1843年)の袋井宿の人口は843人、家数は本陣3軒、旅籠屋50軒を含め195軒あったという。
天橋の説明板のところに「これより袋井宿」と書かれた石柱があった。
少し進むと、「東海道どまん中茶屋」がある。
東海道どまん中茶屋の前には「夢舞台東海道」の「袋井宿」もある。
「日本一小さな歩く道の駅」と書かれている。ちなみに、「東海道どまん中茶屋」は「道の駅」には指定されていない。
「宝永堂版東海道五十三次」の「袋井 出茶屋ノ図」が展示されていた。
袋井宿近くの水田のなかに建つ出茶屋の風景が、のどかである。
東海道どまん中茶屋のなかに入ってみよう。
袋井名物「袋井丸凧」がたくさん展示してあった。
「江戸から数えても、京から数えても袋井宿は27番目の宿場なので、「東海道どまん中」と言われているのですよ。距離的な「どまん中」は浜松市の天竜川を越えたあたりです。」
東海道どまん中茶屋のスタッフの方が説明してくれた。
「東海道を歩いておられるのですか?」と聞くので「はい」と答えると、「日本橋からここまで、どれくらいかかりましたか?」と聞かれた。そこで「2年くらいですね」と答えたら、「みなさん、だいたいそれくらいです」と教えてくれた。
「東海道を歩く」で日本橋を出たのが、2021年7月17日のこと。今日が、2023年4月23日。約2年かかっている。それでもまだ半分だ。もう半分も歩いたのだ、という感慨と、まだ半分もあるのか、大変なことを始めてしまったなという思いが、こみあげてくる。
「お茶をどうぞ」と、スタッフの方がお茶を出してくれた。これは袋井茶らしい。
「茶屋」で本当にお茶が出てきたのは初めてかもしれない。
「袋井宿」の御宿場印ももらった。御宿場印は今年から始めたものらしいので、今までの宿場のものはどうしようか、考え中である。
10.袋井宿
東海道どまん中茶屋をあとにして、旧道を進む。背の高い秋葉常夜燈があった。
「白鬚神社」と書かれた石碑があったので、行ってみる。
白鬚神社の祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)である。また、白鬚神社の本殿は嘉永元年(1848年)に建てられたものである。
灯籠の裏を見たら「袋井報徳社」とあった。大日本報徳社の本社が掛川にあるので、袋井も報徳運動が盛んだったのであろう。
大日本報徳社については「東海道を歩かない 掛川・後編」で取り上げている。
白鬚神社にも「平和への道標」があったのでそっと手を合わせた。
東海道に戻ると、秋葉線軌道跡があった。
秋葉線は袋井市の新袋井駅から森町の遠州森町駅までを結ぶ12kmほどの路面電車だったが、昭和37年(1962年)に廃止された。
また少し進むと、袋井宿東本陣跡がある。
本陣とは江戸時代に大名や公家、幕府の役人などが宿泊したり、休憩する宿泊施設のことである。
袋井宿東本陣は「壱番御本陣」と呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗る田代家が営んでいた。
静橋北交差点に袋井宿場公園があり、「此処はどまん中袋井宿」という案内板がある。
「此処はどまん中袋井宿」の裏には袋井宿の解説が書かれていた。
袋井宿が初めて歴史史料にあらわれるのは約700年前に作られた「遺塵和歌集」である。
袋井宿が東海道の開設から少し遅れた元和2年(1616年)に設置されたことは前に述べたが、これは掛川宿と見付宿の間が離れすぎていたことが理由である。
袋井宿場公園に、「狂歌入東海道」と「諸国名所百景」の浮世絵が展示されている。
荷物をいっぱい積んだ2頭の馬を引く馬子と、菅笠をかぶり先を急ぐ旅人、赤子を背負い子の手をとる母親が描かれている。
諸国名所百景には袋井丸凧が描かれている。凧の絵柄は唐獅子と牡丹、秋葉山を背景に、田植えをする農夫と凧あげに興じる若者を描いている。
こちらは北斎漫画と末広五十三次。
北斎漫画には石積みのある土塁の間を進む2人の旅人が描かれている。
末広五十三次には、天橋を越え、東へ向かう大名行列の姿を描いている。それにしても、すごい行列だ。
東海道はここから西に続いているが、静橋北交差点で左折、南に進んで袋井駅に向かう。
歩いた日:2023年4月23日
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【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社
風人社(2015)「ホントに歩く東海道 第7集」
https://www.nozawayu.com/siro/sizuoka/enmanji.html
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html
https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/7690.html
袋井市 市章
https://www.city.fukuroi.shizuoka.jp/soshiki/hisyoka2/2/gaiyo/1422537539857.html