品川宿と川崎宿の距離は2.5里(約10km)であり、川崎宿と神奈川宿の間も2.5里である。前回、品川駅出発が遅かったこともあり、1日で川崎駅まで到着することができなかった。そこで、今回は川崎駅に11時半に到着して出発したところ、神奈川駅に16時頃到着することができた。今回はその様子を記録したい。
- 1.小土呂橋
- 2.松尾芭蕉、弟子との別れの地
- 3.無縁塚
- 4.熊野神社
- 5.市場の一里塚
- 6.鶴見橋関門旧跡
- 7.鶴見神社
- 8.道念稲荷神社
- 9.生麦事件
- 10.遍照院
- 11.トマトケチャップ発祥の地
- 12.神奈川通東公園
- 13. 笠䅣稲荷神社
- 14.神奈川本陣跡と青木町本陣跡
- 15.洲崎大神
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1.小土呂橋
川崎駅を出発し、東に進む。
ここが前回終了した砂子(いさご)交差点だ。進行方向に「いさご通り」と書かれた看板もあって、わかりやすい。この地名は宗三寺の薬師如来像が海中から出現したとき、ここは海浜で、安置する場所もなかったため土地の人たちが砂子をかき寄せてその上に安置したところ、土地が繁盛したことから名づけられたそうだ。ここから南進していく。
砂子交差点の次に信号のある交差点は砂子二丁目交差点、その次は小土呂橋交差点だ。この交差点名は昔ここに小土呂橋があったことに由来する。現在橋はなく、その親柱が残るのみだ。
現在新川通りとなっている場所に幅5mほどの用水があった。これは新川堀と呼ばれ、ここを通ってから海に注いでいた。新川堀は慶安3年(1650年)、郡代の伊奈忠治が普請奉行となり、土地が低く排水の悪い小土呂方面の水田改良のために開削された。新川堀と東海道が交わるところに架けられたのが小土呂橋で、当初木橋だったが田中休愚によって石橋に改修された。現在新川堀は暗渠化されている。
しばらく進むと、「川崎宿京入口」と書かれた看板を見つける。
ここが川崎宿の京都側の入口だったようだ。
2.松尾芭蕉、弟子との別れの地
そのまま進むと、「芭蕉ポケットパーク」と書かれた自動販売機を見つける。
ここは休憩所だが、この柱の裏に芭蕉の弟子たちが詠んだ句が書かれている。
ここになぜこれがあるのか、それは少し進んだらわかった。
少し進むと「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」と書かれた句碑を見つける。
これは、元禄7年(1694年)に松尾芭蕉が江戸をたち、伊賀へ帰るときに川崎宿に立ち寄り、弟子たちとの惜別の思いを詠んだ句である。当時、このあたりは麦畑が多く、初夏の風にそよぐ麦の穂に寄せて、いつまた会えるかという別離に堪える気持ちを表したものといわれている。この句は、松尾芭蕉が関東で詠んだ生涯最後の句となった。この年の10月に、松尾芭蕉は「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」という句を最後に大阪で亡くなっている。
3.無縁塚
ここから進行方向を見ると、八丁畷(はっちょうなわて)駅が見える。
「八丁畷」は昔このあたりに人家がなく、畑のなかをまっすぐに八丁(約870m)もあぜ道(畷)が続いていたことに由来する。
京急の踏切を渡り、南へ進む。すると左側に無縁塚があるのを見つける。
ここからは多くの人骨が発見され、この人骨は江戸時代に亡くなった人のものと鑑定されている。なぜここから多くの人骨が見つかるのか。それは川崎宿が震災や大火、疫病などに襲われるたびに多くの人が命を落としており、そのときに発生する身元不明の遺体を川崎宿のはずれであるここにまとめて埋葬したのではないかと推測されている。この不幸にして亡くなった人たちを供養するため、昭和9年(1934年)に慰霊塔を建て、これが無縁塚と呼ばれるようになった。現在でも地元の人々によって供養が続けられている。
市場上町交差点を渡ると、横浜市鶴見区に入る。川崎市区間は、結構あっという間に終わってしまった。ここからは横浜市なのだが、神奈川宿は横浜市、その次の保土ヶ谷宿も横浜市、その次の戸塚宿も横浜市である。その次、藤沢宿になってやっと藤沢市に出る。つまり、しばらく横浜市が続くことになる。
4.熊野神社
しばらく歩いていくと、右側に神社が見える。熊野神社だ。
弘仁年間に熊野本宮の分霊を勧請したのが始まりで、江戸入国のときに徳川家康も参詣している。明治5年(1872年)に新橋横浜間に鉄道が開通するのにあたり、境内と線路が交差するため現在地に遷座した。
5.市場の一里塚
しばらく歩くと左側に小さな丘を見つける。これが市場の一里塚である。
日本橋から5番目の一里塚である。一里塚は街道に一里ごとに整備されていることは知っていたが、本物は初めて見た。実際、ほとんど残っていない。本来は街道の両側に一里塚があったようだが、現在の市場の一里塚は左側の塚のみとなっている。一里塚の上には榎を植えることになっており、この一里塚にも昭和初期まで榎が残っていたようだ。平成元年(1989年)に横浜市地域文化財として登録された。
また、このあたりの地名「市場」はこの地が海辺にあり、漁業や塩の生産が盛んで、天文年間には魚介の市を開設し大いに栄えたことからきている地名である。
6.鶴見橋関門旧跡
昔、鶴見川はたびたび洪水を起こしたといわれているが、その一方で船便が盛んで、大正末期までは船の往来が多く、たいそう賑やかだったらしい。
江戸時代の鶴見橋は、長さ25間、幅3間の板橋で、大山や箱根の山々がよく見えたらしい。現在は残念ながら見ることはできない。また、鶴見橋には、名物「よねまんじゅう」を商う店が多く、市場村だけでも40軒あったらしいが、これも見当たらなかった。
そのまま進むと左側に鶴見橋関門旧跡と書かれた石碑を見つける。
これは、幕末の頃、横浜開港とともに攘夷派が外国人に襲いかかる事件が続発したため、英国総領事オールコックから浪士取り締まりのために関門を設置するよう要求があり、幕府はこれを受けて関門を7ヶ所設置した。そのうちのひとつが鶴見橋関門だった。後で紹介するが、生麦事件以降、警備が強化され、川崎宿から保土ヶ谷宿の間に20ヶ所も見張番所が設けられ、この鶴見橋関門は第5番の番所だった。世情の安定のため、明治4年(1871年)に廃止され、現在は石碑だけが残っている。
7.鶴見神社
少し進むと「寺尾稲荷道」と書かれた石碑を見つけた。
これは東海道と寺尾稲荷神社に向かう道との分岐点に置かれた道標である。やけに見た目が新しいが、これは複製品で、本物は鶴見神社境内にある。
そのまま進み、鶴見駅東口入口から数えて2つ目の交差点を振り返ると、鶴見神社がある。
鶴見神社は、鶴見村の総鎮守である。杉山大明神と牛頭天王社の二社を祀っている。祭神は杉山大明神が五十猛命(いそたけるのみこと)、牛頭天王社が素戔男尊(すさのおのみこと)である。
鶴見神社の創建は推古天皇の御代(約1400年前)と伝えられており、横浜・川崎で最古の神社であるとされている。また、神社境内ということで開発もされなかったのか、境内に貝塚が発見されている。
本殿に参詣し、奥に進んでいくと先ほどの「寺尾稲荷道」の道標を見つけた。
こちらは横浜市地域有形民俗文化財に指定されている。確かに複製品があった位置にあると破損の危険があるかもしれないが、かといって道標は移すと半分意味がなくなってしまう。そう考えると道標の保管方法として、本体は安全な場所に、そして本来あった場所には複製品を置くのがよいのかもしれない。
そして一番奥には富士塚があった。
富士塚とは江戸時代に起こった富士信仰で造られた人工の小さな富士山である。江戸では富士信仰が盛んなので至るところに富士塚があるが、東京以外で富士塚を見たのは初めてだった。
そのまま進み、京急線のガード下をくぐり、さらに南進する。
ベルロードと書かれたアーケードをくぐり、進んでいく。
今までは「旧東海道」と書かれた看板がどこかにあり、道の確認が取れていたのだが、ここにはこういったものが一切ないので道を間違えたのか、不安になってしまった。そのなかで「旧東海道鶴見」と書かれた小さな石碑を見つけ、「間違ってなかった」と安堵した。
鶴見があまり「東海道」と主張していないのは、宿場ではないからだろうか。
鶴見駅周辺は商店街があるが、そこを過ぎるとだんだん住宅地になっていく。歩いていて少し退屈だが頑張って歩いていく。
8.道念稲荷神社
しばらく進むと、鳥居がたくさん連なっている稲荷神社を見つける。道念稲荷神社だ。
伝えられるところによると、身延山久遠寺奥の院のさらに奥の七面山で修行を積んだ道念和尚が旅の途中、ここに立ち寄った際に稲荷社を建てたことからこの名がついた。
この神社は無人の小さい神社だが、祭祀である「蛇も蚊も祭り」は横浜市指定無形民俗文化財に指定されている。
9.生麦事件
生麦事件は日本史のなかでも有名な事件なので、「生麦」という言葉を聞くとこの事件を連想する人が多いだろう。その生麦事件の発生現場があった。
生麦事件とは、薩摩藩とイギリスの間に起こった事件である。文久2年(1862年)8月、江戸から帰国の途にあった薩摩藩島津久光の行列にリチャードソン、クラーク、マーシャル、ボロデール夫人の4人のイギリス人の乗った馬が行列を横切ろうとした。薩摩藩の武士は4人に指示したが、言葉が通じなかったため4人は指示に従わなかった。これを無礼とした薩摩藩の武士が斬りかかり、リチャードソンは殺されてしまった。残り3人のうち2人は傷を負ってアメリカ領事館まで逃げ込み、残り1人は居留地まで逃げた。
この事件に対してイギリスは幕府に10万ポンド、薩摩藩に25,000ポンドの賠償金および犯人の逮捕を要求した。幕府はこの要求に応じたものの薩摩藩は応じなかったため、文久3年(1863年)イギリス艦隊は薩摩藩を攻撃した。薩摩藩も抵抗してイギリス艦隊を追い払った。これが薩英戦争である。幕末に外国と戦争をした薩摩藩は、西洋文明の力を体験したことで単純な攘夷論では国を守れないことを悟った。
しばらく進むと生麦事件碑を見つける。
これは明治16年(1883年)12月に、リチャードソンが命を落とした場所の土地を所有していた黒川荘三が、自由民権思想の啓蒙に貢献した中村正直に撰文を依頼して建立した。事件の起きた8月21日には毎年記念祭が行われている。なお、リチャードソンの墓は山手の外国人墓地にある。
少し東海道から離れているので今回は行かなかったが、「生麦事件参考館」もあるので、興味のある人は行ってみてもよいと思う。
ここで国道15号線に合流し、南へ進んでいく。
10.遍照院
国道15号を進んでいくと、右手側に気になる寺院があったので寄ってみる。遍照院だ。
この山門の前に踏切があり、その前に灯篭がある。これは分断参道ではなかろうか、と気になった。たどりついたときは遮断機が下りていて、その前を京急の電車が走っていった。別名踏切寺とも呼ばれているらしい。
遍照院のある右手側とは反対側に、東子安一里塚の看板がある。
この一里塚は市場の一里塚とは違い、残っているものはこの看板のみである。市場の一里塚から一里(約4km)進んだのか、と感慨に耽るだけだった。
11.トマトケチャップ発祥の地
今ではどの家庭にもあるトマトケチャップだが、これが生まれたのはここ、子安らしい。安政6年(1859年)の横浜開港によって、日本に西洋野菜が入ってきた。文久2年(1862年)に居留外国人ローレイロが菜園を作ったのを皮切りに、多くの外国人が山手に農場を開設した。子安で西洋野菜栽培が始まったのは慶応2年(1866年)頃で、ここから西洋野菜栽培はどんどん盛んになっていった。明治27年(1894年)には子安の清水與助がトマトケチャップ製造会社の清水屋を始めた。このことを記念して、ここにトマトケチャップ発祥の地の碑がある。
トマトケチャップが横浜発祥とは、知らなかった。
12.神奈川通東公園
浦島町交差点を過ぎると、神奈川宿に入る。
品川宿や川崎宿は宿場町の風情があり、「宿場に入ったな」という感覚があったのだが、ここは国道15号上、あまり宿場に入った感覚はしなかった。
浦島町交差点を過ぎて2つめの交差点を右折すると、神奈川通東公園がある。
ここは神奈川宿の江戸方見付で、旧本陣石井家に伝わる「神奈川町宿入口土居絵図」によると街道両側に高さ2.5mほどの土塁が築かれ、その上には75cmの竹矢来が設けられていた。ここには長延寺という寺院があり、ここは横浜開港当時、オランダ領事館にあてられた。公園内に「史跡 オランダ領事館跡」と書かれた石碑がある。
国道15号に戻り、南に進むと良泉寺がある。
神奈川宿の多くの寺院が外国の領事館にあてられるなか、この寺の住職は本堂の屋根を剥がし、修理中であるからと断った。よほど領事館として使用されるのが嫌だったのだろう。
13. 笠䅣稲荷神社
良泉寺の先を右に曲がり京急の線路をくぐると、 笠䅣稲荷神社がある。
笠䅣(かさのぎ)という変わった名前は、笠を被った人がこの神社の前を通り過ぎるとその笠が脱げて落ちてしまうことからこの名がつけられたそうだ。
14.神奈川本陣跡と青木町本陣跡
国道15号に戻り、しばらく進むと神奈川本陣跡と青木町本陣跡と書かれた案内板を見つける。
滝の川を挟んで、石井本陣と鈴木本陣の2つの本陣が向き合うようにして立っていた。石井本陣は神奈川町にあったので神奈川本陣と呼ばれ、鈴木本陣は青木町にあったので青木本陣と呼ばれていた。
15.洲崎大神
滝の川を滝の橋で渡り、しばらく行くと右手側に宮前商店街がある。
ここが旧東海道なので商店街に入っていく。少し進むと洲崎大神がある。
洲崎大神は青木町の総鎮守である。境内の大アオキから青木町の名前がついたという。
石橋山の合戦に敗れ、海路、安房へ渡った頼朝が再起を安房神社に祈願し、その大願が成就できたため、陸路で参詣できるこの地に社を建てて祭神を分霊して祀った。祭神は天太玉命(あまのふとだまのみこと)、天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)、大山咩命(おおやまぐいのみこと)である。
現在は埋め立てが進み内陸にある洲崎大神だが、かつてこの下はすぐ海で、船着場があり、横浜開港後は開港場と神奈川宿との渡船が行き交っていた。そのため河岸に警備陣屋が置かれていた。
このまま西に進んでいくと神奈川駅に到着する。
今回の東海道歩きはここまでとし、次回は神奈川駅から保土ヶ谷駅まで歩いていく。
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歩いた日:2021年9月24日
【参考文献・参考サイト】
風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」
NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016) 「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社
神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社
鶴見神社 鶴見神社の歴史
https://tsurumijinja.jp/history/
(2021年9月29日最終閲覧)