前回、吉原駅から新蒲原駅まで歩いた。今回は新蒲原駅から由比駅まで歩こうと思う。当初は新蒲原駅から薩埵峠を越えて興津駅まで歩く予定だったが、蒲原や由比の観光で時間を使ってしまい、由比駅到着時点で15時、流石にこれから峠越えは危険と判断し由比駅までとなったのである。
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1.大旅籠「和泉屋」跡
新幹線で三島駅まで向かい、東海道本線に乗り換え、新蒲原駅で下車する。今日はここからスタートだ。
新蒲原駅を出て県道396号線を渡り、東海道に合流する。「蒲原夜之雪」の碑が目印だ。これについては前回記事で紹介しているのでそちらを参照してほしい。
出発して早々、「お休み処」を発見した。もう休むのか、と思わないでもないが、寄ってみる。
ここは大旅籠「和泉屋」跡・蒲原御殿屋敷跡である。和泉屋は草ヶ谷佐兵衛が経営し本陣周辺に9つあった大旅籠の1つだった。天保年間(1830~1844年)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れた。普段は一般の旅人が宿泊するが、身分の高い人が本陣に泊まるときは2階に床の間があることから御付の方々が泊まったと考えられている。
和泉屋周辺に徳川家康が造らせた蒲原御殿屋敷があった。天正10年(1582年)家康は甲斐の武田攻めの帰りに織田信長を接待するために御茶屋として造った。その後東海道を往来する将軍の宿舎となり2代将軍秀忠のとき御殿の規模が大きくなっていった。元禄12年(1699年)8月15日の大津波に襲われ蒲原宿の大半が流失してしまったことで蒲原宿の新しい宿替の土地となり、御殿は消滅した。
中には藍染の絵などが展示されている。
江戸時代蒲原宿内には2軒、宿外に1軒の藍染屋があった。蒲原の砂地・暖かな気候は藍の生産に適しており、昭和に入ってからも藍畑があったものの、戦争により藍畑は芋畑になり絶えていった。そこで、今は貴重な藍を育て染色し、展示しているのだ。これは歌川広重「東海道五十三次」江尻宿である。
少し進むと、黒い門の建物があった。本陣跡だ。
本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使、大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠である。ここは蒲原宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かつてはここから100mほど東に東本陣(多芸本陣)もあった。
手作りガラスと総欅の家を見つけた。
明治42年(1909年)に建築されたこの家は素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、永年磨き込まれた木目がみごとである。2階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手づくりのガラスである。
少し進むと、若宮神社がある。
この社に案内はなく、祭神や縁起等は不明である。
宿場や村には必ず高札場が設けられ、民衆に法令や定を周知させていた。
高札場跡の道路向かいに御殿道跡がある。
御殿とは先ほど説明した蒲原御殿のことで、御殿背後の山を「御殿山」、御殿から駿河湾に下る道を「御殿道」と呼んでいるようだ。
2.旧五十嵐歯科医院
少し進むと、瀟洒な洋風建築が見えてくる。旧五十嵐歯科医院だ。
旧五十嵐歯科医院は、町家を洋風に増改築した擬洋風建築と呼ばれる建物で、外観は洋風、内観は和風というユニークな建物である。当時の洋風建築としては珍しくガラス窓が多く使われ開放的であり、下見板の白いペンキとあいまってモダンな息吹が感じられる。中に入ってよいようだったので一言断りを入れ、中に入る。
ここは「みせの間」である。扉に「二三番」と書かれているのは電話室である。
蒲原町に電話が敷かれたのは大正7年(1918年)のことで、25本以上の加入がないと電話の許可がおりないため、一般にも呼びかけて23戸の加入を取り付けた。残り2本は蒲原町役場がもって翌年に電話の交換業務が始まったらしい。
ここは中の間で、大きな金庫が置いてある。
歯の治療に使用する金もここにしまわれていたと言われている。
「クスリはトヤマの広貫堂」
…いつ作られた薬箱なのだろうか。
ここは奥の間で、欄間に近江八景が彫られている。
近江八景とは、琵琶湖南部にある8つの景勝地で、「比良の暮雪」「矢橋の帰帆」「石山の秋月」「瀬田の夕照」「三井の晩鐘」「堅田の落雁」「粟津の晴嵐」「唐崎の夜雨」がある。
階段を登ると、待合室がある。
ここは、一般の人の待合室として使われていたようだ。碁盤や将棋盤も置かれ、歯の治療をする患者のみならず近所の人も集まり、サロンのように賑やかだったそうだ。今のご時世では考えられない。
待合室の奥に、診察室と技工室がある。診察室はガラス窓の多い非常に明るい部屋だ。
手づくりガラスが張られているので、景色が少し歪んで見える。
技工室は入れ歯や歯の詰め物を作る部屋である。
昔はゲストハウスがあったらしいが、今年2月に取り壊されてしまったらしい。
そしてこの部屋は客間である。
ここは特別な待合室で、明治時代に宮内大臣や警視総監を務め、後に蒲原で余生を送った田中光顕伯爵も患者の一人で、この部屋で順番を待っていたそうだ。
いいものを見させていただきました、と言って旧五十嵐歯科医院をあとにした。
3.志田家住宅主屋
少し進むと志田家住宅主屋がある。
志田家は「ヤマロク」という屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家だった。安政元年(1854年)の大地震の直後に再建されたという東側2階建て部分は、「通り土間1列型」と呼ばれる町家形式の典型である。平成13年(2001年)、国登録有形文化財に登録された。
「ヤマロク」はこのマークである。
これは上につながる階段だが、年貢を納めるときは「物置です」と言ったとか(1階建てと2階建てで年貢の額が違ったらしい)。
古い道具もいろいろ展示されている。
奥には醤油の製造場もある。この建物は東西4間、南北6間となっている。
余談だが、志田家住宅主屋に入って管理人さんらしき人に「こんにちは」と挨拶したら、「あら~珍しい、若い人ね、高校生?」と言われた。25歳で高校生に間違えられた。そして次に聞かれたのが「ゲストハウスに宿泊されていましたか?」後で調べてわかったことだが、志田家住宅主屋の裏にバックパッカーズホステルがあった。私はさっき新幹線で来たばかりだったので「違います」と答えた。
管理人のおばちゃんとしばしおしゃべりと、参考文献を買って志田家住宅主屋をあとにした。
少し先に進むと、美しい格子戸の家があった。
格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つである。かつては街道沿いに格子戸の家並みが続き、毎日磨き込まれた美しい木目が、蒲原独特の情緒ある風景だったが、今はあまり残っていない。
消火栓を見つけた。カワセミ?
妙隆寺に寄ってみる。
妙隆寺は日蓮宗の寺院で、天文元年(1532年)に、日長が祈願所として建立したと伝えるが、一説には永禄年中(1558~1570年)の創立ともいわれている。日蓮宗寺院ならどこでもある日蓮聖人の像を見つけた。
妙隆寺を出てすぐ左折し、県道396号線に合流したところに蒲原宿の西木戸がある。この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘が起こった。
承応2年(1653年)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、70人近くを倒したものの大久保甚太夫は殺されてしまった。大久保甚太夫は竜雲寺住職が墓地に葬り、供養した。現在も甚太夫の槍の穂先は、竜雲寺に残っているらしい。なんとも血気盛んなエピソードだ。
そういえば薩摩藩絡みの話は以前もあったような…以下の記事の「生麦事件」を参照のこと。
4.蒲原宿から由比宿へ
蒲原宿西木戸から少し行ったところに和歌宮神社がある。
和歌宮神社は「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」の歌で有名な山部赤人が祀られた神社で、天平8年(736年)に東海道の蒲原宿吹上の浜でこの歌を詠んだ因縁でこの神社が建立された。なんとも風雅な草創である。
蒲原体育館に三角点がある。四等三角点「新田」である。
成果状態が正常でないため、点の記は閲覧できず、詳細不明。
少し行くと、水準点を見つけた。一等水準点第001-154号だ。設置時期等は不明。
しばらく歩くと蒲原駅が見えてきた。ここでスタート・ゴールしたら楽そうだが、用はないので素通り。
消火栓を見つけた。サッカーをしている。
ゴミ集積所の看板だが、「蒲原町」表記だった。平成18年(2006年)に静岡市に編入合併する前に設置したものだろう。
神沢交差点でY字路を左に進む。「由比本陣公園」と書いてあるのが目印だ。
しばらく歩くと、一里塚跡がある。
由比の新町の一里塚は江戸から39番目で松が植えられていたが、寛文年間(1661~1673年)、山側の松が枯れたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立した。十王堂は廃仏毀釈で廃寺となった。
そのまま歩くと由比宿東桝形跡がある。現在も桝形に折れた面影が残っている。
御七里役所之跡を見つけた。
これは紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。紀州徳川家では江戸から和歌山の間584kmに7里(28km)ごとの宿場に中継ぎ役所を置き5人1組の飛脚を配置していた。28kmおきにしかないのでなかなか見ないが、以前見覚えあるぞ…?と思い確認したら「東海道を歩く 7.藤沢本町駅~平塚駅」で登場した「牡丹餅立場跡」が七里役所を併設していた。
歩いていると水準点があるらしいので、探してみたらこの金網の下にあるらしい。一等水準点第68-1号だ。
平成元年(1989年)設置の標石タイプらしいが、標石は見えなかった。
一等水準点の道路の反対側に神社があり、飯田八幡宮という。
飯田八幡宮の御祭神は譽田別命(ほんだわけのみこと)で、由比氏によって天正13年(1585年)に建立された。
足元を見ると由比町の仕切弁、防火貯水槽、消火栓があった。
由比町は平成20年(2008年)に静岡市に編入合併され、静岡市清水区の一部となった。平成の大合併にしてはずいぶん遅い合併だし、平成18年(2006年)に蒲原町が合併したことを踏まえると、その間静岡市の旧蒲原町は飛び地だったのだろうか?と思う。
5.由比本陣公園
由比本陣公園に着いた。
本陣とは、江戸幕府の政策により参勤交代を義務付けられた大名等の身分の高い人物とその家来が休泊するための施設である。また、その管理をする役職のことを本陣職と呼び、苗字の使用や帯刀を許された地元の名士に世襲で受け継がれ、由比本陣においては由比家がその職を務めた。由比家は平安後期の前九年の役(1051~1062年)のとき源義家に従った駿河の武将大宅光任の血を引き、のちに由比城主となった旧家の子孫である。現在由比宿の本陣であったここは公園になっており、東海道由比宿交流館、静岡市東海道広重美術館、由比本陣記念御幸亭がある。
東海道由比宿交流館はカルチャー、観光、レスト、ショップの4つのエリアから成り立っており、由比の歴史に触れることや、観光情報の発信、地域のふれあいの場として多目的に利用できる施設である。
なかには喫茶店陽だまりがあり、暑いなかを歩いていたのでアイスコーヒーを飲みながら少し休憩した。
ここは平成6年(1994年)に開館した、江戸時代の浮世絵師・歌川広重(寛政9年(1797年)-安政5年(1858年))の名を冠した美術館である。収蔵品は「東海道五拾三次」の「保永堂版」、「隷書東海道」、「行書東海道」のほか、「名所江戸百景」など、風景版画の揃物の名品を中心に約1,400点を数える。
私が訪問したときは「浮世絵で学ぶ日本史 源平の争いと鎌倉幕府」の展覧会がやっていた。平安時代に台頭してきた武士の歴史を浮世絵に描かれた武者絵で紹介していた。「鎌倉殿の13人」に対応した説明もあったので、「鎌倉殿の13人」を視聴していればもっと楽しめたと思う。
その他、浮世絵展示や広重の浮世絵の特色、浮世絵の作り方などの展示もあった。館内は撮影不可のため写真はないが、浮世絵に興味のある人はもちろん、興味がなくても浮世絵の美しさや広重の構図の見事さは見ていて惚れ惚れしたので、ぜひ行ってみてほしい。そして、クーラーが涼しくてつい長居してしまった。
由比本陣公園には「御幸亭」もある。
これは明治天皇が休憩した離れ座敷を復元したもので、茶室「結仁斎」、水屋などを備えた伝統的な和風建築で、御幸亭前の庭園は「松榧園」といい、北側の庭は小堀遠州作といわれている。
入館料を払ったらおつりが全部記念硬貨で返ってきた。もったいなくて使えない。
庭も見事で、お茶をすすりながら庭を見るのは風流だと感じた。
本陣の井戸も残存している。
馬の水呑場があり、ここで大名行列の馬に水を呑ませたり、身体を洗ったりしたらしい。今は亀の水浴び場になっていた。
6.由比宿を歩く
由比本陣公園の向かい側には正雪紺屋がある。
この紺屋(染物屋)は江戸時代初期より続くといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。4つ1組になった甕が店いっぱいに並び、その上に架け渡してある竹棹に布をかけて染める。神棚には職能神である愛染明王を祀っている。藍がよく染まるようにとの掛詞である。
慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている。由比正雪は3代将軍家光亡き後、幕府を転覆させようとした慶安事件(慶安4年(1651年))の首謀者だが、未遂に終わって駿河で自刃した。
由比本陣公園の裏に正法寺がある。
太平洋戦争で供出された梵鐘に、文保元年(1317年)浄円の草創であるとの銘記があり、この浄円は由比郷初代の領主「由比大五郎光高」の孫といわれ、現在の由比本陣、正法寺の位置に居館を構え、近郷を統治していた。
桜えびサブレーが売られている松風堂は、江戸時代、加宿問屋場跡だったようだ。
ここは江戸時代に加宿11カ村が共同で問屋場を設営したところである。問屋場とは幕府の命令で街道通行者のために人足と駄馬を用意した役所で、由比宿の場合は本宿と加宿が1ヶ月交代でこの負担を務めていた。
「東海道由比宿おもしろ宿場館」とあり、入ってみようと思ったら「売家」。旅人の人形もがっかりしているように見えるのは気のせいだろうか。
立派な洋館を見つけた。国の登録有形文化財、清水銀行由比本町支店だ。
この建物は、明治33年(1900年)創業の庚子銀行本店として、大正14年(1925年)竣工したが、昭和3年(1928年)金融恐慌のおり駿州銀行に吸収合併された。昭和23年(1948年)には清水銀行と改称され、同行由比本町支店となった。この建物は、西洋の古典様式を基調とする意匠で、その正面には4本のイオニア式の柱頭を飾る柱を据え、水平に3つの帯で分けている。
少し進むと左手側に「由比宿」案内板と由比宿西木戸がある。
天保12年(1841年)に江戸幕府が編集した東海道宿村大概帳によると、由比宿の町並みは東西5町半(約600m)とある。その宿場の西の木戸が、ここの桝形(曲がり角)のところあたりだったと思われる。
由比川橋のたもとには、入上地蔵堂がある。
由比川はひとたび大雨になると「きちがい川」ともいわれ、急に水かさが増し、おぼれて水死する人もいた。入上地蔵はこの水難者を祀った川守地蔵である。そっと手を合わせた。
由比川橋で由比川を渡る。今日は「きちがい川」ではないな、と思った。
7.豊積神社と地持院
そのまま進むと右手側に妙栄寺がある。
ここは日蓮宗の寺院で、天正12年(1584年)12月に蓮乗院日満上人がここに大乗妙典を書写した経石数百個が埋没してあるのを知り、土地の有志と話し合って石塔と草堂を建立した。これを経塚山妙禜寺と号し、自ら開山となって、身延山窪之坊に属せしめたのが当時の起源である。
いなば食品の工場の向かい側に立派な家を見つけた。
せがい造りと下り懸魚の家で、せがい造りは軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし棰(たるき)を置いたもの、下り懸魚は平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置である。ここは稲葉家と言うらしい。そして向かい側にはいなば食品の工場…いなば食品創業者の家か?と思った。確証は得られなかったが、ここの社長は稲葉さんだったので、その可能性はありそうだ。
先に進んだら豊積神社の参道が見えた。気になったので行ってみる。
延喜式神名帳に「駿河国庵原郡豊積社」とあり、ここの地は町屋原と呼ばれ、古代において物々交換の市場が営まれたところだった。社伝によれば第40代天武天皇の白鳳年間ここに五穀の神「豊受姫」を祀る豊積神社が創建されたと伝えている。延暦16年(797年)、坂上田村麻呂が東征の途上、豊積神社に戦勝を祈願し、その帰路戦勝報告に立ち寄ったのが旧正月1日とあって、ここに戦勝祝賀の宴が盛大に催され、大太鼓を繰り出し3日2晩夜を徹して町内を練り歩いた、これが今に伝えられるお太鼓祭りの起源とされている。お太鼓祭りの歌は独唱と斉唱が交互に続き、力強くうたわれ、歌詞は500番近くある。お太鼓祭りは静岡県指定無形文化財に指定されている。豊積神社は小さな神社だが、駿河国二宮らしい。
豊積神社に参拝したら近所のおばあさんに会い、話しかけられたのでいろいろ話をした。今日薩埵峠越えをするかまだ悩んでいたが(この時点で14時)、話していて険しいことがわかったので今日はやめておいたほうがいいことや、隣の地持院の障子絵と庭がすばらしいことなどを話した。そういうわけで、豊積神社隣の地持院にも寄ってみることにした。
地持院は山号を北田山といい、臨済宗妙心寺派に属する。寺伝によれば開山は天正年間(1573~1591年)暗室和尚による。隣接している豊積神社の別当寺として神仏事を行ってきたが、明治初年の神仏分離策により、およそ現在の寺形になった。
ここは襖絵がすばらしく、この絵は平成7年(1995年)に杉山侃子(なおこ)さんが描いたものである。杉山さんは静岡市清水区在住の女流画家の方である。この襖絵は仏教や禅の教えにちなんだものである。
庭は枯山水で、平成6年(1994年)、客殿書院新築に際し、住職が設計し、檀家の青壮年部の力を借りて造られた手作りの庭である。白砂の中には彼岸に渡る舟石が置かれ、向こう岸の築山には四季折々の花が植えられている。しばらく庭に見とれてしまった。
8.由比駅へ
東海道に戻り、しばらく進んだら右手側の石段を登り、県道396号線に出る。
目の前に天満大自在天神がある。
天満大自在天神とは菅原道真を神格化した呼称、あるいは神格化された道真を祀る神社である。
そのまま県道396号線を進む。このあたりは結構海が近いのだな、と今更知る。
このお花、結構新しいけど、どうやって生けたのだろうか。
水準点を発見した。一等水準点第69号だ。
平成6年(1994年)設置の標石タイプだが、マンホールに阻まれて標石を見ることはできなかった。
県道370号線との交差点でUターンして少し歩くと由比駅がある。
【おまけ】
今日は静岡市街地に宿泊するため、東海道本線で静岡駅に向かう。このときまだ15時。せっかくなので、静岡市街地で一番行ってみたかったところに行ってみた。そう、サウナしきじである。
サウナしきじへは静岡駅からバスで向かう。この日は土曜日だからか、大勢並んでいる人がいたが、女性1人だとあっさり入れた。
体を洗い、まず体温を高めるために漢方薬草風呂に入る。檜皮色の湯は独特の良い香りがする。
温まったところで、フィンランドサウナへ。フィンランドサウナは一般的なサウナで、テレビがついていた。6分入り、汗を流してから水風呂へ。
ここの水風呂は天然水の水風呂で、肌触りがとてもよく、いつまでも入っていられる気がした。この水は持ち帰り自由で、私も湧き出しているところからペットボトルで水を汲んで持ち帰った。外気浴スペースがないのが惜しいが、それでもベンチで休憩すると気持ちがよい。また漢方薬草風呂に入り、ポカリを飲んでから、今度は韓国式サウナへ。
韓国式サウナは、熱い。蒸気が噴き出している。フィンランドサウナより明らかに熱い。どうにか10分耐えて水風呂へ。そしてベンチ。気持ちいい。フィンランドサウナと韓国式サウナにもう1度ずつ入って終了とした。
サウナに入ったらお腹が空いたので、ビールと餃子定食を。
キンキンに冷えた生ビールで餃子定食を流し込むのは至高のひとときだった。
このあとはバスで静岡駅に戻り、宿に向かい、次の日に備えることにした。
歩いた日:2022年8月6日
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【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社
https://myouhou.com/temple/post_93/
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp
由比本陣公園
https://yuihonjin.sakura.ne.jp/
地持院
(2022年9月12日最終閲覧)