前回、江戸三十三観音第22番札所長谷寺に参拝しながら赤坂・西麻布をめぐった。今回は第23番札所大円寺に参拝してから、第24番札所梅窓院に参拝、その後南青山・千駄ヶ谷方面をぶらぶらしようと思う。
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1.大円寺
白山駅A2出口から出て、大円寺に向かう。なお、大円寺のある地域は「江戸三十三観音をめぐる 5.文京区編」で歩いてしまったので、今回は大円寺のみ訪問する。
白山駅から北上し、白山上交差点で国道17号線を南東に進むとすぐ大円寺が見えてくる。
大円寺は慶長2年(1597年)に久山正雄和尚が開創した曹洞宗の寺院である。
昭和初頭に法秀太元和尚が国難打開等を祈り、七観音の建立を発願した。これを高村光雲にお願いして快諾、聖観音、千手観音、如意輪観音、十一面観音、不空羂索観音、馬頭観音、准胝観音の七観音を作った。残念なことにこの像は空襲によりなくなってしまったが、像のなかにあった胎内仏は疎開したため無事だったので、外側の像を再現して作ったようだ。しかしこの像は公開していない。
ところで、「江戸三十三観音をめぐる 5.文京区編」の3.圓乗寺 で取り上げた「八百屋お七」の話を覚えている人はいるだろうか。
半年前の記事なので、「覚えてません」という人のために、説明する。
天和2年(1682年)、江戸で大火がありお七の家も焼けてしまい、一家は圓乗寺に仮住まいをすることになる。
そこで仮住まい先の圓乗寺の寺小姓、山田佐兵衛とお七は恋仲になってしまった。
しかし家が再建したため、お七一家は圓乗寺を引き上げたところ、お七は佐兵衛に会えなくなってしまい、悲しんだ。
そこでお七は佐兵衛と会いたいがために、放火をしてしまった。
結果、天和3年(1683年)3月に放火の罪で、お七は火刑に処され、圓乗寺に墓がある。
以上が「八百屋お七」のお話である。
この「お七」を供養するために建立された「ほうろく地蔵」が大円寺にある。
お七の罪業を救うために、熱した焙烙(ほうろく。素焼きのふちの浅い土鍋。)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。享保4年(1719年)に、お七の供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進した。
その後、このお地蔵様は頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。
私も風邪をひくとよく副鼻腔炎になるので、鼻の病の平癒を祈った。
ちなみに、江戸三十三観音の番号が離れているためわかりづらいが、第11番札所の圓乗寺は大円寺のすぐ近くにある。
訪れなかったが、大円寺には高島秋帆(たかしましゅうはん)と斎藤緑雨(さいとうりょくう)の墓がある。
高島秋帆は幕末の砲術家で、アヘン戦争で清国が敗れたことを知り幕府に洋式砲術の採用を建議、天保12年(1841年)に武州徳丸原(現在の板橋区高島平周辺)で洋式砲術演習を行った。
天保13年(1842年)に鳥居耀蔵(とりいようぞう)のいわれなき訴えによって投獄、江戸追放となったが、ペリー来航とともに許され、安政4年(1857年)に富士見御宝蔵番兼講式所砲術師範役となった。
斎藤緑雨は明治時代の小説家で、「油地獄」「かくれんぼ」などが代表作。
2.梅窓院
外苑前駅1b出口の目の前に竹林がある。梅窓院への入口だ。
寛永20年(1643年)、老中の大蔵少輔幸成の菩提寺として長青山梅窓院寶樹寺が建立された。開山は観智国師である。
江戸三十三観音の観音様、泰平観音は鑑真が中国から持ってきたもので、最初は奈良東大寺大仏殿に奉安されていたが、源頼義が奥州討伐のときにこの観音像を念持仏として持ち出し、陣中守護仏とした。
そして奥州の地が泰平となったため「泰平観音」と名づけられ、代々南部家に伝えられてきた。
その後、南部家から青山家に嫁入りした姫君が輿入れのときに、お内仏として青山家に持ち込み、青山家の仏間に安置されることになった。
梅窓院が堂塔の整備を行うときに観音堂も建てられたことにより、梅窓院に安置されることになった。
江戸時代より霊験あらたかなる観音様として近隣の信仰を集め、「青山の観音様」と俗称され、戦前までは月3回縁日が行われ、夜店が出て大変な賑わいを呈していたようだ。
泰平観音に参拝し、御朱印をいただく。御朱印待ちの札が小さな御朱印のようで、写真を撮ってしまった。
それにしても梅窓院、すごく現代的な建物である。
この建物は世界的建築家、隈研吾が設計して建てたものである。「都市のなかにオアシスのようなお寺をデザインしたい」という意図でこのようなデザインになったようだ。竹林も隈研吾氏のデザインのひとつである。
梅窓院の建築については以下のサイトに詳しい。
3.鳩森八幡神社
梅窓院をあとにして南西に進み、南青山3丁目交差点を右折、林ビルのある交差点を右折して進むと右手側に青山熊野神社がある。
青山熊野神社は紀州徳川家の中屋敷にあった鎮守を、この付近一帯の町民の願いにこたえて正保元年(1644年)現在地に遷したと伝え、青山総鎮守として人々の信仰を集めていた。
このあたりの坂を「勢揃坂」という。
永保3年(1083年)の後三年の役の際、源吉家がここで軍勢をそろえて奥州に向かったため、この名がついた。
突き当たりを左折、都道418号線を右折、仙寿院交差点を左折すると右手側に仙寿院がある。
仙寿院は、徳川家康の側室のお万の方が寛永5年(1628年)に紀州徳川家屋敷内に設けた草庵をはじめとする。
正保年間(1644~1648年)にお万の方の息子、徳川頼宣が現在地に移し、「新日暮の里」とよばれ江戸名所となったが、明治以降の火災や空襲、東京オリンピックによる道路拡張などによって大きく変貌し、今その面影はないのが残念である。
仙寿院から北に進んで突き当たりを左折、観音坂という坂を登る。この坂の名前は聖輪寺に由来する。
聖輪寺の如意輪観音像は行基の作と伝えられていたが、残念ながら空襲で焼失してしまった。「江戸名所図会」によると両目は金で作られていたらしい。
観音坂を登り終えると鳩森八幡神社が見えてくる。
鳩森八幡神社は神亀年間(724~729年)または貞観年間(859~877年)の創設といい、かつては千駄ヶ谷一帯の総鎮守として村民の崇敬を集めたようだ。
「江戸名所図会」には、この地が森林であった頃、多数の白鳩が西をさしてとびたったのを霊瑞として小祠をたて鳩森と名づけたと伝えている。
鳩森八幡神社に参拝し、御朱印をいただいた。ハトのハンコがかわいい。
日本には、山は生活を守護する神様の鎮座するところとして崇拝する風習があった。
近世、近代に活発に行われたものに、「富士講」がある。富士講とは、富士山を信仰し、富士に登拝することを目的に結成された団体である。
現在もそうだが、富士山を信仰している人が全員、富士山に登れるわけではない。中世以降、富士信仰の一形式として富士山の形をした山も礼拝の対象となり、江戸後期からは江戸府内を中心に、富士塚の築造が盛んに行われた。都内のいたるところに富士塚は現存している。
富士塚は、塚の頂上に富士山頂の土を埋め、そこに石宮を設けて浅間菩薩をまつり、塚下に浅間神社をたてて里宮とした。富士塚に登れば富士山に登ったのと同じ功徳が得られるということで、様々な事情で富士山に登れない人が富士塚に登り、富士登山気分を味わったという。
千駄ヶ谷の富士塚は寛政元年(1789年)の築造とされ、都内に現存する富士塚では最古のもの。円墳状に盛土された塚の前に池が配された様式は、関東大震災後に修復されてはいるものの、江戸時代築造の富士塚の基本洋式をよく残している。
とりあえず、千駄ヶ谷の富士塚の山頂まで登った。これで富士登山と同じ功徳を得られているといいのだが。
ちなみに、富士塚は「江戸三十三観音をめぐる 5.文京区編」の6.護国寺にも音羽富士という富士塚が登場している。
そしてこの日は4月7日。境内の桜が満開で綺麗だった。
鳩森八幡神社をあとにすると、庚申塔が祀られている庚申塚を見つけた。庚申塔は都内各地にあるが、このように祀られているものは珍しい。
庚申信仰は中国の道教から生まれ、60日ごとにめぐる庚申の夜は、人が眠ると三尸(さんし)の虫が人の体から抜けて天に昇り、天帝にその人の悪事を告げて命を縮めると信じられていた。
そこから、庚申の夜は庚申講の当番の家に集まり、般若心経を唱え、一晩寝ずに過ごした。これを18回連続してやると記念として庚申塔を建てた。
庚申塔は青面金剛と三猿が描かれているのが特徴。いろいろな本を読んでみると庚申講はいわゆる「飲み会」に近かったようで、現代風に言うと「飲み会オール18回記念で庚申塔を建てました」という感じだろうか。
庚申塔は「江戸三十三観音をめぐる 4.湯島・向丘編」の6.根津神社 でも登場している。
4.明治神宮
鳩森八幡神社をあとにしてそのまま進み、千駄ヶ谷三丁目交差点を左折し、南に進んでいくと東郷神社がある。
東郷神社の祭神は、日露戦争のときロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で破った連合艦隊司令長官東郷平八郎である。
昭和9年(1934年)に東郷が死去すると、彼を顕彰するための献金が全国から集められ、それをもとに昭和15年(1940年)5月27日の海軍記念日に創建された。現在の建物は、昭和39年(1964年)に再建されたものである。
東郷神社には庭園があり、桜が綺麗だった。
ここから明治神宮へ向かうにあたり、竹下通りを通った。竹下通りは言わずと知れた、原宿の中心商店街である。
通ってみて後悔した。えげつなく混んでいる。私は人混みが苦手なので、頭がくらくらしてきた。
竹下通りを通るのは数年ぶりなのだが、高校生のときに竹下通りを通ったときは「KAWAII」文化の発信地として、ロリータショップやキャラクターのグッズを売っている店が多くあるなぁと思っていた。しかし今では外国人が多く、外国人のお土産購入スポットとなっている印象を受けた。
ふらふらしながら竹下通りを抜け、芋洗い状態になりつつ原宿駅前の横断歩道を渡り、なんとか明治神宮にたどり着いた。
明治神宮の社叢はしんとしていて、ごみごみしていた竹下通りとは違っていた。外国人観光客が多い。
全国から奉納された日本酒と、世界中から奉納されたワインの酒樽があるのが面白い。
ひたすら参道を歩いていくと、明治神宮本殿に到着した。
明治神宮のある地は、江戸時代は熊本藩加藤家、その後彦根藩井伊家の下屋敷となり、明治維新後は皇室の南豊島御料地となっていた。
明治神宮は、大正9年(1920年)に明治天皇と昭憲皇太后を祭神として創建されたものである。
神宮の本殿をはじめ創建当時のおもな建物は空襲で焼失し、再建されたのは昭和33年(1958年)である。
明治神宮に参拝し、御朱印をいただく。「宮」の字が少し変わった字だ。
外苑前駅から歩いてきて疲れてきたので、ドトールで休憩してから帰ることにした。今日は明治神宮前駅で終了とする。
大円寺では八百屋お七の悲恋に改めて思いを馳せた。梅窓院では現代建築の本堂に驚きつつも観音様が慕われているのはいつの時代も変わらないのだな、と感じた。鳩森八幡神社の富士塚は登り甲斐があった。そして、東京の学校に通い、東京の会社に勤めていながら初めて訪れた明治神宮。明治天皇の信仰は今でも変わっていない。
私の知らない東京が、まだまだありそうだ。
歩いた日:2024年4月7日
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【参考文献・参考サイト】
俵元昭(1979) 「港区の歴史」 名著出版
江戸札所会(2010) 「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」
東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社
梅窓院 建築について
https://baisouin.or.jp/about/trivia/architecture/
(2024年5月8日最終閲覧)