前回は大雨のなか、三島広小路駅から片浜駅まで歩いた。今日は幸い、雨は降っていない。この日は終始、雨は降らなかったため吉原駅まで歩くことができ、前日の遅れを取り戻すことができた。今日は途中リタイアした地点、片浜駅から始める。
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1.ぶらぶら寺社巡り
今日は片浜駅からスタートだ。
片浜駅から降りてすぐのところに、祥雲寺がある。
祥雲寺は臨済宗の寺院らしいが、それ以上詳細な情報は見つからなかった。
祥雲寺の隣に神社がある。ここは三島神社だ。
三島神社の御神木はマキで、永禄元年(1558年)頃植樹されたらしい。
500年以上そこにある木で、威厳を感じた。
また、祥雲寺と三島神社は隣り合っていたので、もしかしたら三島神社の別当寺が祥雲寺なのかもしれない、と考えた。
そこから少し進むと伊勢神明宮があった。
この神社についても祭神が天照大御神(あまてらすおおみかみ)であること以外わからなかった。
敷地内に「遊園地設立記念」と書かれた石碑があったが、この「遊園地」とはここにある小さな公園を指すのだろうか。
原踏切で東海道線を越え、先に進む。
線路を越えた先にも神社があった。神明宮だ。
ここも祭神が天照大御神(あまてらすおおみかみ)であること以外わからなかった。
また神社を見つけた。高木神社だ。
高木神社に至ってはネットで調べても祭神が出てこない。
高木神社の境内に水準点を見つけた。一等水準点第61-1号だ。
これは昭和11年(1936年)に設置されたもので、なかなか古い。
2.白隠の里
高木神社の向かい側に寺院を見つけた。清梵寺だ。
清梵寺には以下のような話が伝わっている。
平安時代の初め頃、安房の国に得萬長者という信心深い人がいた。ある時朝廷から召され京都から帰郷の途中、原宿に立ち寄りそこで長旅の疲れから病気になり、亡くなった。従者は長者の遺言に従い、大きな塚を築いて手厚く葬った。
その後長者の妻は出家して梵貞尼と名を改め、原宿の夫の墓に詣でたとき、近くの網元の家で休んでいると、その網元は生前夫が信心していた地蔵尊を網にかけて持ち帰った。梵貞尼の孝貞に心打たれた網元も出家して清信禅居士と名を改め、梵貞尼と力を合わせて堂を建て地蔵菩薩を安置したという。そしてこの地に、山号を得萬山と号し、清信、梵貞の2字をとった清梵寺を建てたという。
清梵寺から戻る途中、「白隠の里案内図」があった。
少し東海道から逸れるが、寄り道してみよう。
なかみちを行く。
長興寺に寄る。
長興寺は、今から約640年前、康安年間(室町時代)のこと、鎌倉建長寺の開山大覚禅師のお弟子、友嶽和尚が行脚中、原大塚の海辺にさしかかったとき、海の響きに感応道交して歓喜雀踊、念持仏の虚空蔵菩薩を奉安して一堂宇を建立したのが長興寺のはじまりである。また、白隠禅師のもとに全国から訪れた修行者たちの宿坊として使われた。
長興寺の境内には神社もあり、鎮守社の金比羅堂となっている。
その名の通り、香川の金刀比羅本宮の御分霊が祀られている。
そのまま裏道に行き、案内に導かれていくと、白隠禅師の墓地についた。
ここは静岡県の史跡である。
なかみちに戻り、松蔭寺に行く。
松蔭寺は弘安2年(1279年)に、天祥西堂が開創し、鎌倉円覚寺の末寺だったがその後中絶し、江戸時代初めに興津清見寺の大瑞宗育が再興して、京都妙心寺派に改めた。宝永4年(1707年)富士山の噴火で大破したが、それを再興したのが白隠禅師である。
白隠は貞享2年(1685年)原宿に生まれた。母は熱心な日蓮宗の信者で、白隠の性格や人となりは、この家風のなかで形成された。15歳のとき松蔭寺の単嶺和尚について出家し、名を慧鶴(えかく)と改め、剃髪して弟子となった。これ以後5年間、礼仏誦経につとめておこたらなかったという。19歳より諸国の旅を重ね、修行をつんだ。享保元年(1716年)、父の発病を聞いて松蔭寺に帰り、先住の単嶺遷化後、住持もなく荒れていた松蔭寺復興の願いに応じて、翌年住持となった。さらに享保3年(1718年)には、京都妙心寺の第1座となり、白隠を名乗ることになった。その後、禅をわかりやすく民衆に広めるために俗謡や禅画を用いたりして、農民から街道の馬子まで教化したので、東海道を通る大名も白隠の話を聞きに立ち寄った。明和5年(1768年)、84歳で入寂した。
白隠は、禅画を確立したことでも名高く、好んで釈迦・観音・達磨などを描いた。白隠の禅画は、現在松蔭寺に多数保存されているが、通常非公開である。このなかでも白隠禅師自画像と科注妙法蓮華経は静岡県の文化財である。
寺には、白隠に関係したものが多数残されている。山門は白隠の建立と伝えられ、白隠の考案といわれる石瓦葺きが特徴で、幅約30cm、長さ1mのものを一面3段18列計54枚、表裏あわせて108枚を用いて葺かれている。
山門から奥に進むと、本堂の横に白隠の擂鉢松がある。伝承によると、白隠の名声を聞いて大名のなかにも教えを請う者があり、その1人である岡山藩主池田候から、その礼の品物を聞かれた白隠は、「味噌を摺る擂鉢が欲しい」と答え、池田候は備前焼の鉢を贈ったが、台風で裂けた松の雨よけに擂鉢をかぶせたまま忘れてしまった。今でも擂鉢を乗せたまま大きくなった松がそびえている。
松蔭寺の隣に西念寺がある。
西念寺は時宗の寺院で、弘安年中(鎌倉時代)に宗祖一遍上人のお弟子の素現和尚により開創された。境内に西念寺天満宮があり、この門前に生家のあった白隠禅師は幼少の頃、母から自宅に隣接するこの天満天神が一切の苦を救うと教えられ、日々参拝した。
「駿河には 過ぎたるものが 二つあり 富士のお山に 原の白隠」と歌われ、臨済宗中興の祖と仰がれる白隠禅師は貞享2年(1685年)12月25日長澤宗彝(そうい)を父、妙遵(みょうじゅん)を母とし3男2女の末子として生まれる。
現地は母妙遵の生家屋号味噌屋の地でのち父宗彝が分家して沢瀉屋(おもだかや)を名乗った跡地である。禅師が生まれたとき使用した「産湯の井戸」がこの奥にいまなお清水を湛えている。
この「白隠の里」に来て、白隠のことはなにも知らなかったがこれだけ後になっても遺跡が残っているとは、すごい人だったのだなぁと感じた。
3.帯笑園
白隠禅師生誕地の道路を越えて向かい側に、帯笑園がある。植松家は江戸時代はじめにここに居を定め、代々花卉に興味を持ち国内はもとより外来の園芸植物等を収集し花長者と言われていた。東西文化の交流が盛んになった江戸中期には園芸植物の観賞に多くの文人墨客、公卿、大名諸侯が訪れるようになり文芸文化の交流の場となった。シーボルトも立ち寄り「日本風に作られたこの庭園は、私がこれまで日本で見たもののうちでいちばん美しく、観賞植物も非常に豊富である」と激賞している。普段は公開されていないが、この日は土曜日だったので公開されていた。寄ってみよう。
帯笑園は博物館と庭園に分かれている。博物館のなかでは訪れたゲストや帯笑園の資料が紹介されていて、庭園にはさまざまなものがあった。
この石碑は植松叟花園記の碑と岸駒の石碑で、京の代表的文人である皆川淇園により、天明6年(1786年)に撰された植松家の花園の記録である。また、裏面には円山応挙と同時代に活躍し、虎の絵を描かせたら当代一と謳われた岸駒による虎の絵が描かれている。
芍薬や藤の花が綺麗だ。
これは加茂季鷹の歌碑で、加茂季鷹は江戸中、後期の歌人、国学者である。
「只對布富士能柴山新婆々々尓 見萬久逎寳之年是乃園閑茂 廣群鶴 刻(ただむかふふじのしばやましばしばに みまくのほしきこのそのかも)(何も遮るものがなく、まっすぐに富士の柴山とむきあっている、そのような富士の姿をしばしば見たいこの園であることよ)」と刻まれている。
現在望嶽亭は失われているが、沓脱石(くつぬぎいし)だけは残っている。
4.原宿
帯笑園を後にして、県道163号線沿いに戻る。戻るとすぐに浅間神社がある。
この浅間神社も調べたがよくわからなかった。
そして浅間神社の前に高札場があったようだ。高札場とは江戸時代、幕府、大名が法令や禁令を板札に墨書した高札を掲示したところである。
三光楼食堂の前に、問屋場跡がある。
各宿場には問屋があり、宿役人がいて宿駅の業務を行った。
いたって普通の家の前に本陣跡がある。
原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟、義経の兄)の子孫であり、代々平左衛門を名乗って幕末に至っている。原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、自然に大名・幕吏等の宿所として本陣となり、問屋、年寄、名主等を勤めていた。間口は15~17間で、建坪は235坪、総坪数は山林、畑を含め6,600坪の広大な規模であったという。
また少し行くと、原宿の西木戸跡があった。
東木戸から西木戸まで660間(2.2km)あった、と書いてあるが、東木戸を見た覚えがない。白隠の里を歩いている間に通り過ぎてしまったのかもしれない。
5.富士山と歩く
原中学校入口バス停の手前の交差点を左折し、少し進むと浅間神社がある。
この浅間神社、鳥居の由来碑はあるのだが、浅間神社自体の由来碑はない。ちなみにこの鳥居は平成6年(1994年)に建立されたものらしい。
少し行くと、水準点がある。一等水準点第62号だ。
設置されたのは平成11年(1999年)なので、割と新しい。点の記によると、このマンホールの下に金属標があるようだ。
ふと右を見ると、雲を被りながらではあったが富士山が顔を出していた。
ただただまっすぐな道、ちょっと退屈だと思っていたので、富士山に励まされた気がした。なお、2泊3日の東海道ウォークのなかで、富士山が顔を出したのはこのときだけだった。
また浅間神社を見つけた。
この浅間神社は慶安3年(1650年)創建、明治8年(1875年)、村社に列せられたそうだ。この神社は一本松の鎮守でもあり、三社宮とも呼ばれ、氏子、地域住民の崇敬を集め、今日に至っているようだ。
浅間神社から少し行ったところに大通寺がある。曹洞宗の寺院である。
林の中にあるお地蔵さんに興味を持ったが、寺の人が来たようなのでそっと覗くだけにしておいた。
少し進むと浅間愛鷹神社がある。
浅間愛鷹神社は延享2年(1745年)創建で、元和元年(1615年)に鈴木助兵衛父子により当地の開拓が始まってから130年後である。祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と愛鷹大神(あしたかおおみかみ)である。
少し行ったところにまた水準点を見つけた。一等水準点第62-1号だ。
選点は昭和53年(1978年)、金属標。先ほどの水準点とは違い、金属標がむき出しで設置されている。
県道163号線沿いに「桜地蔵尊」という看板があったので、踏切を越えて行ってみる。
小さなお社を見つけたが、説明板等は特になし、ネットで調べても何も出てこなかった。
踏切を越えると、割とすぐのところに八幡神社があった。
祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと)らしいが、それ以外の情報は特になし。
八幡神社の近くに、富士市と沼津市のカントリーサインがあった。
6.富士市に入る
富士市の消火栓を見つけた。
富士市に伝わる「かぐや姫」伝説のデザインである。富士市にある竹採公園は「竹取物語」発祥の地とする伝説が残り、竹取翁が籠を編んだところという籠畑、かぐや姫が竹取翁との別れを惜しんだという見返し坂などの関連地名が周辺に残っている。
こちらは富士市のマンホールである。
富士市のご当地マンホールは富士山と駿河湾の白波をデザインしている。
これは旧富士川町以外の富士市で見ることになる案内板だ。これがあるおかげで間違えずに済む。
ここは間の宿柏原。東海道をかごや馬に乗った人々が行き交っていた江戸時代、東海道五十三次の吉原宿と原宿の間に間の宿「柏原」があった。柏原宿のあった場所は東田子の浦駅の西側あたりで、ここには9軒の茶屋があり、浮島沼でとれたうなぎやなまずの蒲焼を名物に繁盛していたそうだ。
7.六王子神社・立圓寺
昔、7人の巫女が京に上る途中、その中の1人であった阿宇が、水渦巻、底知れぬ深さの三ツ俣渕に住む悪竜の人身御供にされることになった。これを悲しんだ6人の巫女はみんな浮島沼に身を投げてしまった。そのため、哀れに思った柏原の人々が、6人を神としてお祀りしたのが六王子神社の創始と伝えられる。
なんとこの神社には「お立ち寄り記念おふだ」がある。
開けてみたら御朱印のようなものが入っていた。
裏には神社の解説もついている。
柏原二丁目交差点の手前に、立圓寺がある。
境内には望嶽碑がある。
これは文化5年(1808年)5月、尾張藩の典医、柴田景浩はこの地から望む富士山の美しさに感銘を受けて建てた碑である。
境内にはゲラテック号遭難の慰霊碑もある。
この遭難によってインドネシア国籍のプルワディとカルミジャンが命を落としたそうだ。この日は4月30日、4月23日に起こった知床遊覧船事故を思い出してしまった。
境内には水準点もある。一等水準点第63号だ。
鉄蓋の下に、金属標があるようだ。平成4年(1992年)設置。
昭和放水路を橋で渡る。非常にのどかな風景だ。
8.増田平四郎
昭和放水路を橋で越えると、増田平四郎の像を見つけた。
増田平四郎は、駿河湾から押し寄せてくる波と砂によって海へ排出されない水を、「スイホシ」と呼ばれる排水路を作って排水することに成功し新田を開発した。現在はスイホシの跡に昭和放水路ができたので、昭和放水路の川口であるここに銅像が建てられた。なお、この付近に江戸から33里の一里塚があったようだが、何も残っていない。
増田平四郎像の少し先にまた水準点があった。一等水準点第001-137号だ。
金属標の脇に水準点のマークが描いてあってわかりやすい。
「春耕道しるべ第1号」と書かれた柱の横に歌碑があった。
ただ、歌碑ということはなんとなくわかるが何と書いてあるのか判然としない。ネットで調べてみても「すり減っていてよくわからない」という内容のことしか出てこなかった。
歌碑の近くに米之宮神社があった。
創建は寛文13年(1673年)と伝えられている。奉行中村四郎右衛門が建立、後に村民が村の氏神とした。文政3年(1820年)成立の「駿河記」には「米村明神社 或米の宮とも称す」と記されているが、なぜ「米之宮神社」という名前なのかはわからない。ここにも「お立ち寄り記念おふだ」があった。
少し行くと愛鷹神社がある。
ここは船津新田から移住した人々が開拓した地であり、その鎮守として寛文11年(1671年)に創建されたと伝えられる。ここにも「お立ち寄り記念おふだ」があった。
9.高橋勇吉
檜交差点で左側に進み、県道170号を進む。「旧東海道順路」と書かれた案内板が目印だ。
少し行くと小さな庚申堂がある。庚申塔が中にあるのだろうか。
庚申堂の脇に水準点を見つけた。一等水準点第63-1号だ。
これは昭和11年(1936年)に設置されたなかなか古い水準点だ。標石式で、保護石も揃い立派な水準点である。
また少し行くと高橋勇吉の碑を見つけた。
3新田(大町・桧・田中)の80ヘクタールに及ぶ水田を幾多の水害から守った天文堀は、大町新田の高橋勇吉(1806~1866)が天保7年(1836年)から嘉永3年(1850年)の14年間の歳月を費やして、完成した排水用の掘割である。いま、3新田の耕地は土地改良や道路などで開発が進み、勇吉の天文堀は、その跡を見ることはできず、碑が残るだけである。
10.毘沙門天
しばらく先に進むと、左手側に少し高い位置に鳥居があるのを見つけたので、入ってみることにした。ここが毘沙門天である。
この寺の正式名称は香具山妙法寺といい、津波のときには真っ先にこの山に逃げるという命山(命を救う山)になっていたので、天より与えられた香しい(かぐわしい)山と認識されていたのだろうか。毎年旧暦1月7~9日の3日間行われる大祭は、日本三大ダルマ市の1つに数えられており、多くの人で賑わいをみせる。
境内にはお身拭い毘沙門天があり、身体の痛むところと、毘沙門天像と同じところを布でよくさすると毘沙門天が痛みを取り去ってくれるらしい。箱根の跨木撫で観音さまや川越のおびんづる様と似たような信仰である。
跨木撫で観音さまはこちら↓
おびんづる様はこちら↓
「スーパー野村」というお店に「毘沙門天みやげ」という看板が立っていた。
私が来たときはほとんど参拝者がいなかったのだが、ここが観光客で賑わうとここにお土産が売られることがあるのだろうか、と感じた。
日本製紙工場の赤と白の煙突がそびえている。
富士市は古くから紙すきが行われており、現在でも製紙業が盛んである。だからなのか、製紙工場の少し独特な臭いがする。
日本製紙工場の前の踏切を渡り、線路の北側に出る。そのまま進むと吉原駅北口交差点に行き着くので、そこを左折すると吉原駅に到着する。
今日はここまでとする。とりあえず、昨日の遅れを取り戻すことができてよかった。明日は、吉原駅から新蒲原駅まで歩く。
【おまけ】
今日は昼食を食べることなく歩みを進めた。そこで昨日、東海道を一緒に歩いた方から沼津で海鮮が美味しいお店を紹介していただけた。向かったのは沼津駅北口に隣接しているBivi沼津のなかにある「駿河湾 沼津海いち」。ここで海鮮丼を注文した。それがこちら。
流石沼津、魚介類が新鮮で美味しい。少しお高めだったが、ぜひまた食べに行きたいと思う味だった。
歩いた日:2022年4月30日
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【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社
八百万の神 祥雲寺
八百万の神 伊勢神明宮
八百万の神 神明宮
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html
沼津市 清梵寺
https://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/toukai/seibon.htm
富士市のご当地マンホール
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/fujipedia/kb719c0000004hev-att/kb719c0000004hhy.pdf
うなぎの蒲焼 間の宿「柏原」
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/img14/fm116.pdf
(2022年7月11日最終閲覧)