10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

東海道を歩く 8-2.平塚駅~箱根板橋駅②

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 前回は平塚駅から大磯駅まで歩いた。今回は箱根板橋駅まで…と言いたいところだが、結局二宮駅までしか歩くことができなかった。今回は大磯駅から二宮駅まで歩いた記録を紹介する。あと大事なことなのでもう一度言う。「大磯はいいぞ」。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.鴫立庵

 新島襄終焉の地からそのまま進むと、鴫立庵がある。310円払うと中に入ることができるので入ってみよう。

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鴫立庵

 鴫立庵は寛文4年(1664年)、小田原の外郎の子孫であった崇雪が、西行法師の歌「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮」の沢らしい面影を残し、しかも景色の優れている場所ということで草庵を結んだのが始まりといわれている。その後元禄8年(1695年)に俳人大淀三千風が庵を再興して入庵、鴫立庵一世となった。大淀三千風は堂を造って西行の像を安置し、歌人俳人から作品を求めるなどしたためこの場所が有名になり、その後、鳥酔、白雄、葛三など著名な俳人が跡を継いで、今日の22世庵主まで続いている。鴫立庵の庵主は各地から入庵してきているが、彼らの活動を支えたのは地域の俳人や有力住民だった。敷地内には京都の「落柿舎」、滋賀の「無名庵」と並ぶ日本三大俳諧道場のひとつである俳諧道場があるほか、等身大の西行法師の像が安置されている円位堂や有髪僧体の虎御前の木像が安置されている法虎堂とともに、多数の墓碑、句碑、記念碑などがある。

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円位堂

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法虎堂

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石碑群

 また、崇雪はここに景勝をたたえて「著盡湘南 清絶地」と刻んだ。これは中国湖南省にある洞庭湖のほとりを湘南といい、大磯がこの地に似ていることから刻まれた。ここから「湘南」と呼ばれるようになったので、鴫立庵前には「湘南発祥の地 大磯」という石碑がある。

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湘南発祥の地 大磯

 

 鴫立庵から少し進むと右手側に「旧島崎藤村邸」と書いてあるのを見つける。少し東海道から外れるが、行ってみよう。

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島崎藤村

 島崎藤村は詩人・小説家で、昭和16年(1941年)に大磯の左義長を見に来たときに大磯を気に入ったためここに住むことにした。昭和18年(1943年)に静子夫人が当時執筆していた「東方の門」の原稿を朗読中に倒れ、翌日「涼しい風だね」と言い残して亡くなったそうだ。藤村が書斎として使っていた小座敷は、最もお気に入りの場所だったようで静子夫人は「ひとすじのみち」で「ここの大磯の住居は、僅か三間の古びた家に過ぎないが、おそらく50年に及ぶ主人の書斎人としての生活の中で最も気に入られたものだったろう」と述懐している。ここは中に入れるが少ししか見ることができないため、無料で入れる。

 

 ここに大磯宿の上方見附があり、大磯宿はここで終了である。

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大磯宿の上方見附

2.明治記念大磯邸園

 松並木を進む。このあたりは立派な松が茂っている。

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 慶長9年(1604年)、家康の命によって街道に植樹された並木は、その美しい景観のほか、街道を歩く人の道しるべ、強い夏の日差しから身を守る日除け、強い風雨から身を守る風除け、火災から人家を守る火防、道路の保全など数多くの役割を果たしてきた。

 

 左手側に、明治記念大磯庭園が見えてくる。この園内には陸奥宗光別邸跡と大隈重信別邸がある。どちらも古河家がその後取得、別邸としている。

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陸奥宗光別邸跡

 陸奥宗光別邸跡は明治29年(1896年)に建設され、明治30年(1897年)、陸奥宗光の死後に古河家が取得した。その後関東大震災で大破し、以前の建物は栃木県日光市足尾銅山に移設された。昭和5年(1930年)に古河虎之助が別邸として再建、平成30年(2018年)まで迎賓館として使用された後、現在は一般公開されている。

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大隈重信別邸

 大隈重信別邸は、明治30年(1897年)に建設、明治34年(1901年)に古河家が取得した。木造平屋建て和風、平面はほぼ創建当時のまま、屋根は改築され軽量化されていると思われる。

 外には五右衛門風呂もある。

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五右衛門風呂

 浴室は大隈邸から離れたところにあったとされており、これは海水温浴の治療のためだったとも推察されている。

 さらに、陸奥宗光別邸跡・大隈重信別邸の南側には松林が広がっており、これは防風・防砂のために植えられたと伝わっている。

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 明治記念大磯庭園の隣には伊藤博文の居宅、滄浪閣がある。

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滄浪閣

 明治30年(1897年)伊藤博文は気候温暖な大磯が気に入り、病弱だった夫人を気遣うこともあり東京から大磯に住居を移した。伊藤博文は住民票も移転し、大磯町民となり、本籍も大磯町に移した。伊藤博文は滄浪閣建築だけではなく、大磯小学校の建設や完成後統監道と呼ばれるようになる道路建設への寄付を始め大磯町の発展に直接的、間接的に寄与していた。統監道は大磯駅から滄浪閣への直通道路で、開通当時、伊藤博文が初代朝鮮統監の任にあったことによる。

 滄浪閣の建物は質素で落ち着いた邸宅で、門前には日清戦争後の講和条約で清国全権大使として伊藤博文と交渉にあたった李鴻章が書いた「滄浪閣」の扁額が掲げてあった。伊藤博文がここに居を構えて以来、大磯は日本の政治経済の中心的な場所となった。道を一つ隔てた左隣が西園寺公望の旧屋敷、右隣は旧鍋島邸で、この辺り一帯には山県有朋、大隈、陸奥、徳川、三井、三菱、住友、安田といった当時の日本を代表する人たちの別荘が立ち並ぶ、超高級別荘地だった。

 滄浪閣は工事中で入ることができなかった。そもそも一般公開されず放置されていたらしいが、現在工事中でそれが終わったら公開する予定らしい。

 

 滄浪閣の向かい側には宇賀神社がある。

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宇賀神社

 鳥居がたくさんあることと、稲荷神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)に似ている社名であることから稲荷系かと思いきや、祭神は大食津姫命(おおみけつひめのみこと)なのでどうやら稲荷系ではないらしい。

 

 少し進むと八坂神社がある。素盞嗚命(すさのおのみこと)を祀る小さな神社である。

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八坂神社

 八坂神社の近くには西國三十三所順禮講供羪と書かれた石碑と道祖神がある。西国三十三箇所の講組織がこのあたりにあったのだろうか。

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西國三十三所順禮講供羪

3.旧吉田茂

 しばらく行くと左手側に公園があり、「旧吉田茂邸」と書いてある。入ってみよう。

 吉田茂は第45・48~51代内閣総理大臣を務めた人物である。そして明治17年(1884年)に養父が大磯に別荘を建て、養父の死後別荘を引き継いだ後で昭和20年(1945年)からここを本邸として住み始めた。「松籟荘」と名付けられた邸宅は、芸術院会員であった建築家の吉田五十八の設計によるといわれ、延べ面積1,000㎡の総ヒノキ造り純日本風二階建てだった。昭和38年(1963年)に政界を引退した後も多くの政治家が吉田茂邸を訪れ「大磯参り」と言われていた。1967年(昭和42年)にこの屋敷の銀の間で亡くなった後も大平首相とカーター大統領の日米首脳会談が実施されるなど近代政治の表舞台となった。しかし吉田邸は平成21年(2009年)に焼失、その後再建され、現在は大磯町郷土資料館別館として公開されている。

 まず兜門をくぐる。これはサンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」とも言われている。

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兜門

 兜門の先には日本庭園があり、これは中島健が設計した池泉回遊式の庭園である。

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日本庭園

 吉田茂邸のなかに入ると楓の間(応接間)がある。ここには吉田茂の執務机があった。

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楓の間

 2階に上がると書斎がある。ここには首相官邸直通の黒電話が置かれていた。

 1階に降り、展示ビデオが流れているテレビの先にはローズルーム(食堂)がある。流石元総理大臣宅の食堂、広い。

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ローズルーム

 その先にはまた階段があり、居間(金の間)に通じている。ここは客をもてなす応接間で、箱根の山々と富士山、相模湾を一望できる。今日は晴れていたので、吉田茂が眺めた風景と同じ風景を見ることができた。

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金の間

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 金の間の隣には寝室、銀の間がある。ここで吉田茂は最期を迎えたようだ。

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銀の間

 なお、吉田茂邸の隣にはサンルームがあり、ここは火災でも燃えず当時の姿のままだが、耐震上の問題から入ることはできず、外観保存としている。

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サンルーム

 吉田茂邸を出て、園内を散策する。相模湾に面した小高い丘に、吉田茂銅像がある。この銅像は日米講和条約締結の地、サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けている。

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吉田茂

 丘を降りると七賢堂がある。

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七賢堂

 これは伊藤博文岩倉具視大久保利通三条実美木戸孝允の4人を祀った四賢堂を滄浪閣に建てたもので、伊藤博文の死後、伊藤博文が加えられて五賢堂となった。昭和35年(1960年)に吉田茂邸に五賢堂を移築、2年後に西園寺公望を合祀した。吉田茂の死後、昭和43年(1968年)に佐藤栄作によって吉田茂が合祀され、七賢堂となった。これも火災による焼失を免れた。

 

 吉田茂邸を出て、道路の反対側の大磯城山公園に行く。今日は天気がいいので、展望台に登った。展望台からは富士山や相模湾を望むことができ、今日は天気がよくて本当によかったと思った。

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 園内の大磯町郷土資料館に向かう。大磯町郷土資料館は北三井家の別邸「城山荘」をモチーフとしている。

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大磯町郷土資料館

 館内は歴史や文化、動植物など様々な展示があった。無料で入館できるので、近くに行く機会があればぜひおすすめしたい。大磯町のことが気に入ったので、「おおいその歴史『大磯町史』11別編ダイジェスト版」を購入してしまった。

 園内の横穴墓群も見た。これは古墳時代後期の横穴墓群である。

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横穴墓群

 ほかにも園内には昭和16年(1941年)頃に建てられた蔵がある。

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 茶室「城山庵」もある。これは旧三井財閥別邸の一部として置かれていた国宝の茶室「如庵」を模した茶室である。時間の都合で今回は行っていないが、機会があれば行ってみたい。

4.二宮駅に向かう

 だいぶ道草してしまったので、現在15時半。小田原まで行くのは無理なので、今日は次の駅、二宮駅で切り上げることにして先に進む。

 大磯城山公園の前の道を西に進む。川を渡り、住宅街のなかの道を進む。足元に「江戸から十七里」と刻まれたプレートがあった。

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 そのプレートから少し進むと「一里塚」という案内板がある。この国府本郷の塚は現存しておらず、案内板があるのみである。

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 その近くに水準点がある。一等水準点第42号だ。角が丸くない水準点標石は初めて見た。

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一等水準点第42号

 国府新宿交差点の歩道に大きな石が6つ置かれ、相模国6社の神社名のプレートが建てられている。これは神揃山で行われる座問答を表現している。

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 国府新宿交差点からしばらく行くと右手側に六所神社の鳥居が見える。

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 六所神社は第十代崇神天皇の頃の創建と伝えられる古社で、相模国の総社である。祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、素戔嗚命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)である。

 総社とは、国内の神器祭祀を国衙機能としての祭祀に統括執行するために、国内諸神を国衙付近に勧請して一社としたもので、12世紀前半頃までに諸国に成立したものと考えられている。

 毎年5月5日に行われる寒川神社・川勾神社・比々多神社・前鳥神社・平塚八幡宮との合同祭儀は「国府祭(こうのまち)」と呼ばれ、分霊を祀る5社の神輿が神揃山に集まり、「座問答」という神事を行った後、六所神社が加わって京の文化を伝える「鷺の舞」などの古くからの伝統行事が執り行われる。

 今回は先を急ぐため鳥居の前を素通りしてしまったが、機会があれば行ってみたいと思う。

 

 歩いていたら「GOBO」と書かれたマンホールを見つけた。調べたところ和歌山県御坊市のマンホールらしい。大磯町と御坊市姉妹都市なのだろうか?と思ったが、そうではないらしくなぜあるのか謎である。

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御坊市のマンホール

 二宮町カントリーサインを見つけた。やっと二宮町に入った。

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 二宮町のマンホールは町の木、ツバキと「MY TOWN NINOMIYA」。「わがまち二宮」とでも読んでおこうか。

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 二宮郵便局に「7けたの新郵便番号の記入に、ご協力をお願いします。」と貼られていたが、郵便番号が7けたになったのは平成10年(1998年)のことである。つまり20年以上この貼り紙は貼られている。どうりで色あせているわけだ。私が物心ついた頃には既に郵便番号は7けただった気がする。

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 塩海橋で葛川を越える。「塩海の名残」の標柱があるが、二宮は古くから製塩が盛んで、これに由来する名だという。

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 塩海橋の東詰に水準点がある。一等水準点第42-1号だ。「大切にしましょう水準点」の標柱があるが、石蓋が曲がり、欠けているのが気になる。

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一等水準点第42-1号

 少し進むと守宮神社がある。創建は不明、大国主命を祀っている。

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守宮神社

 二宮駅入口交差点を右折すると二宮駅がある。駅前に伊達時彰徳碑とガラスのうさぎ像がある。

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伊達時彰徳碑

 伊達時は医師として神奈川県の医療の発展に努めるとともに、衆議院議員としても憲政の発展と地方自治の進行のために活動し、二宮駅の開設やその周辺の交通網の整備などを行った人物である。

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ガラスのうさぎ

 ガラスのうさぎとは太平洋戦争の戦争体験記である。作者の父が疎開先の二宮町の空襲で亡くなっていることから、ガラスのうさぎ像が二宮駅前に建てられた。

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二宮駅

 現在16時半。今日の東海道歩きは二宮駅で終了とする。次回こそ、二宮駅から箱根板橋駅まで歩く予定である。

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今回の地図

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2022年2月27日

【参考文献・参考サイト】

大磯町(2009)「おおいその歴史 『大磯町史』11別編ダイジェスト版」

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」山川出版社

風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社

神奈川県神社庁

https://www.kanagawa-jinja.or.jp

磯城山公園

http://www.kanagawa-park.or.jp/ooisojoyama/index.html

吉田茂

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/oisomuseum/index.html

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2022年3月25日最終閲覧)