10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

東海道を歩かない 浜松編

 今日は、舞阪駅から新居町駅まで東海道を歩いた。しかし14時に新居町駅に着いてしまった。先に進むには遅すぎる時間、帰るにも早すぎる時間…どうするか、と考えたところ、せっかくなので浜松市街地を少し見てみよう、と思った。

 「東海道を歩く 27.舞阪駅新居町駅」はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

1.引間城跡

 浜松駅から浜松城までは歩いて30分ほどだが、あまり時間がないこと、そこまで歩く元気があるか微妙だったので浜松駅からバスに乗った。

 市役所前バス停で降り、元城町東照宮へ向かう。

 その途中の「ドッグルハウス」が入っている建物のところに、「家康公ご住居跡」の説明板を見つけた。

「家康公ご住居跡」

 徳川家康は永禄11年(1568年)から遠江国に馬を薦め、飯尾豊前守の城だった引間城を開かせ、永禄13年(1570年)に移った。

 この場所は家康が寝起きした引間城主郭の南西角にあたる。

 家康はここに住んで城の普請をして、大きくした城を「浜松城」と名づけ、そちらに移ったという。

 ここでは「引間城」の御城印も販売している。

 ここで引間城について簡単に説明する。

 鎌倉時代の浜松は、「ひきま」と呼ばれる町で、ここから「引間城」という名前がついている。

 戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれた。歴代の城主には、尾張の斯波(しば)方の巨海(こみ)氏、大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがいて、斯波氏と今川氏の抗争のなかで戦略上の拠点となっていた。

 この時代の浜松には少年時代の豊臣秀吉が仕えた松下加兵衛がいた。そして前述の通り、徳川家康が最初に居城としたのも引間城である。

 その後、家康が浜松城へ移り、さらに駿府城に移ると豊臣系の堀尾吉春が住むようになったが、この頃から引間城は浜松城の主要部から外れ、米蔵などに使われるようになったという。

 明治19年(1886年)に引間城跡に家康を祭神とする元城町東照宮を勧請し、現在に至る。

 そういうことで、元城町東照宮に参拝する。

元城町東照宮

 境内には若き日の家康・秀吉の像がある。

 天文20年(1551年)、尾張の農村を出た少年時代の豊臣秀吉が引間城を訪れ、松下氏に仕えるきっかけを得たのはここ、引間城だった。

 元亀元年(1570年)、今川氏から独立を果たした徳川家康遠江を平定し、引間城に住んだという。

 豊臣秀吉徳川家康、どちらにもゆかりのある場所、ということでこの銅像が建てられているようだ。

 「「二公像」と一緒に写真を撮って、SNSにUPしよう!」と説明板に書かれていたが、畏れ多くてできなかった。

2.浜松城

 元城町東照宮をあとにして、浜松城に入る。

 ここはだだっ広い広場に見えるが、浜松市営元城プール跡だ。

浜松市営元城プール跡

 浜松市は市制40周年記念事業で市営プールを建設することを決定した。

 昭和25年(1950年)には日本水泳連盟会長の田畑政治が日米対抗の水泳大会の浜松開催を発表し、4ヶ月の突貫工事で50m9コース、12,000人を収容できるプールを竣工させた。開設記念として8月8日には日米交歓水上大会を開催した。

 日本代表は古橋廣之進、橋爪四郎、浜口喜博等が、米国側はジェームズ・マクレーン、フォード・コンノ等世界的スターが登場して会場を沸かせたという。

 試合後には田畑の計らいで日米の選手たちは弁天島の旅館に宿泊、浜名湖で遊んだという。

 田畑政治は水泳指導者で、昭和7年(1932年)のロサンゼルスオリンピックなどで日本代表の監督を務めた。平成31年・令和元年(2019年)に放送された大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」にも登場し、阿部サダヲが演じた。

 

 「ようこそ出世の街浜松へ」という看板があった。

「ようこそ出世の街浜松へ」

 「出世大名家康くん」は徳川家康がモデルである。家康は浜松城に17年居城し、天下統一を成し遂げたことから「出世大名」とつけられているようだ。今年(令和5年・2023年)の大河ドラマ「どうする家康」の主人公でもある。

 「出世法師直虎ちゃん」は井伊直虎がモデルである。井伊直虎は出家したあと、徳川四天王として出世した井伊直政を育て、女城主として井伊家断絶の危機を救ったことから「出世法師」とつけられているようだ。平成29年(2017年)に放送された大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公でもある。

 浜松城大手通り(国道152号線)に挟まれたところに浜松市役所がある。

浜松市役所

 さあ、浜松城へ登っていこう。

 

 この坂を登るところに、鉄門(くろがねもん)があったようだ。

鉄門跡

 鉄門は、文字通り、扉や柱など門の一部に鉄製の部材を使っていた門だったと考えられている。本丸への正面出入口として重要な門で、門の上部に櫓を有する櫓門だった。

 明治5年(1872年)まで鉄門は存在していたが、その後失われてしまったようだ。

 鉄門の隣には、復元石垣がある。

復元石垣

 この石垣は、平成26年(2014年)に行った発掘調査によって発見された。

 発見された石垣は、自然石を利用して積み上げた野面積(のづらづみ)で、石を横長に配置し、横につなぎ目が通るようにする布積みといわれる技法がみられる。

 遺構の保護をはかりつつ、平成30年(2018年)に石垣が整備された。

 

 坂を登っていくと、若き日の徳川家康銅像を見つけた。

若き日の徳川家康

 天守門に入る。天守門の脇にほかの石垣よりも大きい石が使われているのがわかるだろうか。これが鏡石だ。

天守

 鏡石は、城の壮大さや城主の権力を見せるため、門の両側や周辺に意図的に大きな石を使ったと言われており、彦根城太鼓門櫓などにも使われている技法らしい。

 

 天守門の下に、ややわかりづらいが瓦で作られた排水溝がある。これは平成21年度(2009年)の発掘調査で見つかったもののようだ。

排水溝跡

 浜松城天守閣に到着したので、ここで浜松城の解説をする。

浜松城天守

 徳川家康は元亀元年(1570年)から17年間浜松に住み、岡崎城から浜松城へ本拠地を移したときに「引間」という地名を「浜松」に改めたという。この17年間は武田信玄と対決した三方原の戦いで負けたり、織田信長に嫌疑をかけられ正室の築山殿と長男信康を失うなど、苦しくもあったが有力大名へと雄飛をとげた時期でもあった。

 浜松城は、家康の関東移封(天正18年・1590年)後に城主となった豊臣系の堀尾吉春・忠氏父子によって大規模な改修が行われ、修築はその後も続けられた。

 天正年間(1573~1592年)にほぼ完成したと推定される浜松城は、天守台から東に向かい、本丸・二の丸・三の丸としだいに低くなる梯郭(ていかく)式とよばれる構造である。また、天守天守曲輪とよばれる小さな曲輪に築かれたことも特徴である。

 江戸時代にはいると、浜松城主は代々譜代大名が務め、浜松城は出世城と呼ばれるようになった。それは大名から老中、大阪城代京都所司代寺社奉行など幕府の要職を務める人を多くだしたからである。そのなかでも天保の改革を行った水野忠邦は有名である。

 明治維新跡、城郭は取り壊されたが、昭和33年(1958年)に天守閣が再建された。

 浜松城で特徴的なものは、野面積みの石垣である。野面積みとは自然のあるがままの石を使い、接合部を加工しないで積む石垣の積み方である。野面積みの短所としては隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいこと。長所は水はけがよく、水圧で崩れることがなく頑丈であることだ。

 浜松城に登る前に小さな稲荷神社を見つけたので、参拝してから登城する。

稲荷神社

 浜松城に入ると、まず井戸を見つけた。これは復興天守閣建設時の発掘調査で見つかったもの。小銭がいっぱい入っているが、人はこういうものを見ると小銭を入れたくなるものなのだろうか。

井戸

 甲冑が展示されていた。左は三葉葵紋入り甲冑(複製品)、右は本多家に伝わっていた甲冑で、室町時代から安土桃山時代にかけて作られたものらしい。

 

 引間城と浜松城に関する出土品が展示されていた。引間城の出土品は16世紀のもの、浜松城の本丸南側の堀や御誕生場の井戸からの出土品は家康在城期と推定されている。

引間城と浜松城に関する出土品

 こちらは譜代大名浜松城に関する出土品。瓦には城主を務めた大名の家紋が施されたものがみられる。

譜代大名浜松城に関する出土品

 

 こちらは浜松城下町の出土品。浜松の市街地には、いまも中世から近世にかけて構築された城下町の痕跡が埋もれているという。

浜松城下町の出土品

 こちらは2代目城主、堀尾吉春の浜松城に関する出土品。堀尾吉春は浜松城に初めて本格的な瓦葺き建物を建設したと考えられている。出土品のなかには、豊臣政権とのつながりを示す桐紋の鬼瓦が見られるようだが、この瓦は壊れてしまっている。

堀尾吉春の浜松城に関する出土品

 ここにあるものは葵の御紋が入っているので、徳川家が使ったものだろう。

 

 浜松城は明治時代に廃城となり、その後は市街化していたが、昭和23年(1948年)に浜松城内に元城小学校が移転したことを皮切りとして、昭和25年(1950年)以降、行政や文化・スポーツに関わる施設が集中して建設、昭和33年(1958年)に復興天守閣が建築された。

 昭和54年(1979年)に競技用プールが解体され、動物園や体育館も移転、平成30年(2018年)には元城小学校も転出した。

 平成26年(2014年)には天守門が再建され、現在の浜松城公園浜松城の歴史を活かした公園整備が進められているという。

 ちなみにこれは復興天守閣・浜松城の設計図である。

浜松城設計図

 階段を上がると、天守閣の最上階だった。ここから浜松市街地を見下ろすことができる。

 ちなみに目の前の大きな葵の御紋がデザインされている公園は二の丸跡である。

 

 階段を下り、売店浜松城の御城印と浜松宿の御宿場印を買った。ちなみに浜松宿の御宿場印は東海道沿いで売っているところはない。

浜松城御城印

浜松宿御宿場印

 天守閣をあとにして、天守門へ向かう。

天守

 天守門は幕末まで維持されていたが、明治6年(1873年)に解体された。天守門が復元されたのは平成26年(2014年)のことである。

 天守門のなかに入ることもできる。

 柱盤(ちゅうばん)を土台として本柱が立ち、その上に梁と桁が架け渡され、束柱で屋根材を支えているのがよくわかる。

 天守門の瓦も出土しており、展示されていた。

天守門の瓦

 反対側から浜松城の山を下りていくと、埋門(うずみもん)跡があった。

埋門跡

 この道は搦手筋(からめてすじ)と呼ばれ、有事のときの脱出経路として設定された道である。

 埋門は石垣の間に埋まるような構造をした門なのでこう呼ばれた。搦手筋が脱出経路なので、埋門は目立たない構造で造られたようだ。

 

 天守を囲う天守曲輪の石垣は斜面上半部にだけ石が積まれているので、「鉢巻石垣」と呼ばれるものらしい。

 

3.浜松市美術館・大河ドラマ

 浜松城の山から下りると、浜松市美術館がある。

浜松市美術館

 浜松市美術館では「新・山本二三展」がやっていた。展示の撮影はNGなので、撮影OKの場所に展示されていたパネルを載せておく。

 山本二三(やまもとにぞう)は昭和28年(1953年)、長崎県五島市出身。

 中学卒業後、岐阜県の夜学高校で建築を学んだ後上京し、美術系専門学校在学中からアニメーションの背景画の仕事を手掛けるようになる。

 テレビアニメ「未来少年コナン」で初めて美術監督を務め、「天空の城ラピュタ」「火垂るの墓」「もののけ姫」などでも美術監督を務めた。

 平成30年(2018年)には五島市に「山本二三美術館」がオープンした。出身地の五島列島の風景画も数多く描いていて、それも展示されていた。

 最後の展示品が浜松城を描いた描き下ろしの作品だったのでまだ生きているのだと思ったが、私が訪れる1週間前の令和5年(2023年)8月19日に胃癌で亡くなったという。

 吸い込まれるような絵が数多く展示されていた。まだ70歳だったようなので、まだまだ生きて作品を生み出してほしかったなぁ、と思った。

 

 浜松城の山の反対側、二の丸跡に向かうと「どうする家康 浜松 大河ドラマ館」の隣に令和2・3年(2020年・2021年)の発掘調査によって発掘された石垣が展示されていた。

 この石垣は天守曲輪の石垣と共通性があり、堀尾氏が築いた石垣と想定されている。

 

 「どうする家康 浜松 大河ドラマ館」に入る。

 「どうする家康」は令和5年(2023年)に放送されている大河ドラマで、徳川家康を主人公としている。主人公の徳川家康は元男性アイドルグループ・嵐のメンバーだった松本潤が演じている。

 

 まず、「どうする家康」の作中でも使用された出丸はね上げ門が展示されていた。

出丸はね上げ門

 作中で使用された小道具も展示されていた。これは第7回「わしの家」で使用された、徳川家康織田信長から改名を求められたとき、「家康」としたためた書である。

 

 これは撮影で使われた「出丸見張り小屋」。外に作って見晴らしを確保し、敵が来たら真っ先に打って出て迎撃するための最前線基地である。

出丸見張り小屋

 徳川家康の衣装も展示されていた。藍色のムラ染めの小袖と袴に、袖なしの羽織である。これは平時着ていると設定したらしい。

 

 こちらは阿部寛演じる武田信玄の衣装。深みのある赤で染めた水衣で、強そうな印象を受ける。

 

 ほかにも松本潤をはじめとする出演者のサインや、松本潤の浜松旅行の風景などが展示されていたが、これらは撮影禁止だった。

 撮影セットなどの展示がメインの施設のため、博物館として歴史的遺物を求める人にとっては物足りない施設だが、「どうする家康」ファンや松本潤ファンなどは楽しめる施設だと感じた。

 

 徳川秀忠が誕生したと言われる御誕生場の井戸があった。井戸枠は発見されていないが、模擬的に設置してある。

御誕生場の井戸

 ここは二の丸御殿跡。二の丸御殿は政務を行う「表御殿」と城主が暮らす「奥御殿」があり、ここは奥御殿にあたる。廃城時まで存在していたという。

二の丸御殿跡

 二の丸跡には「出世の街 家康SHOP」というお土産屋もある。私はここで浜松銘菓・うなぎパイを購入した。

出世の街 家康SHOP

うなぎパイ

 うなぎのエキスをパイ生地に練り込んで焼き、最後に蒲焼のようにたれを塗って仕上げたパイである。サクサクしてとても美味しい。

 もう17時半になっていたので、市役所前バス停から浜松駅方面に帰ることにする。

市役所前バス停

 今日は浜松餃子を食べたいと思った。

 浜松餃子の特徴はゆでもやし、スパイスなどで味付けされた具、シンプルな具材である。

 余談だが、大学のサークルの2つ下に宇都宮出身の後輩と浜松出身の後輩がいて、「彼らの前で餃子の話題は禁止」と言われていたのを思い出す。

 歩き疲れたので、とりあえずプレミアムモルツを頼む。

 やはり歩いた後のビールは美味しい。

 

 しばらくすると、浜松餃子御膳が運ばれてきた。

 この浜松餃子御膳の驚愕すべきポイントは、コスパである。

 餃子12個、ライス、スープ、サラダ、デザートがついて1,200円(税込)。

 

 もちろん、餃子は美味しい。

 

 餃子を頬張り、ビールで流し込む。この組み合わせは最高だ。ビールと餃子の組み合わせを考えた人に拍手を贈りたい。

 幸せの余韻に浸りつつ、翌日は会社なので新幹線で東京に帰ることにした。

 

 浜松は新幹線で何度も通過しているのに、ちゃんと観光したのは初めてだった。これからも東海道は続き、これからもこういう街に出会えるのかと思うと、ワクワクしてくる。

今回の地図

歩いた日:2023年8月27日

【参考文献・参考サイト】

静岡県日本史教育研究会(2006) 「静岡県の歴史散歩」 山川出版社

絵映舎 山本二三プロフィール

https://www.yamamoto-nizo.com/about

(2023年10月16日最終閲覧)