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東海道を歩く 8-3.平塚駅~箱根板橋駅③

 前回、平塚駅から二宮駅まで歩いた。箱根板橋駅まで歩くつもりだったが歩ききれなかった。今回は二宮駅から箱根板橋駅まで歩く。11時前に出発して箱根板橋駅に到着したのが16時前だったので、結局1日では平塚駅から箱根板橋駅まで歩くのは無理だったということがわかった。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.押切坂の一里塚

 今日は二宮駅から出発だ。

 二宮駅南口から出て、二宮駅入口交差点を右折する。しばらく国道1号沿いを歩くが、吾妻神社入口交差点の少し前で旧道に入る。分岐点に「旧東海道の名残り」と書かれた案内板があるので、それを目印にする。

 分岐点からすぐのところに吾妻神社の鳥居がある。少しそそられたが、吾妻神社までは標高差100mほどの山を登る必要があるためパスした。

 少し進むと「梅澤橋」と書かれた石柱がある。耳を澄ますと水の音が聞こえる。暗渠だろうか、と調べたらここは梅沢川が暗渠で通っているらしい。

梅澤橋

 少し進むと等覚院がある。藤棚が有名で、藤巻寺の別名もあるらしい。今は梅の花が綺麗だった。

等覚院

 そのまま進むと山西交差点で国道1号と合流する。魚介料理の店から漂ういい匂いを嗅ぎながら、道祖神たちに挨拶をする。

 押切橋上交差点で今度は左側から旧道に入る。また「東海道の名残り」の案内板があるのでそれを目印にする。

 分岐点からすぐのところに押切坂の一里塚がある。ここの一里塚は「史蹟 東海道一里塚の跡」と刻まれた石柱と、案内板が残るのみである。

史蹟 東海道一里塚の跡

 少し進むと押切坂の急坂があり、そこを下る。

2.車坂

 中村川を押切橋で越えると、すぐ小田原市である。小田原市に来た、と思ったらすぐに二宮町カントリーサインが見え、また二宮町に戻る。また小田原市カントリーサインの下をくぐって、ようやく小田原市に入った。

 小田原市のマンホールには酒匂の渡しと小田原城、箱根連山、富士山がデザインされている。酒匂の渡しについては、酒匂川についたときに説明する。

小田原市のマンホール

 浅間神社に参拝する。

浅間神社

 境内に「震災復興紀念碑」があった。「大正十二年九月一日」と刻まれており、これは関東大震災の発生日に一致する。自然災害伝承碑に登録されているのでは?と思い地理院地図を見たが、登録されていなかった。

震災復興紀念碑

 浅間神社を出たら魚が描かれたマンホールがあった。童謡「メダカの学校」は小田原市荻窪用水で見たメダカを元にできたことから、メダカの学校をイメージしたマンホールだそうだ。

「メダカの学校」マンホール

 車坂を下るときは、左側から下ることをおすすめする。なぜなら、左側を見ると相模湾が広がっていて大変美しいからだ。

 車坂を下ると「史跡 車坂」の碑がある。そこには「鳴神の 声もしきりに 車坂 とどろかしふる ゆふ立の空 太田道灌」「浜辺なる 前川瀬を 逝く水の 早くも今日の 暮れにけるかも 源実朝」「浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月 北林禅尼」の3句が刻まれている。どれも車坂で詠まれたとされている句である。

車坂

 車坂を下ると「従是大山道」と刻まれた石碑の上に不動明王が載っている。これは羽根尾通り大山道の入口である。「東海道で歩く」で取り上げる3ヶ所目の大山道である。ほかにも「5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 後編」の「大山前不動」、「7.藤沢本町駅平塚駅」の「四谷不動」も東海道からの大山道の分岐点だった。それだけ大山信仰が盛んだったのだろう。

羽根尾通り大山道入口

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3.御勧堂

 坂下道祖神を右に見て、近戸神社入口交差点の角に近戸神社の石柱が立つ。地図を見てそれほど近くないなと思ったが、後で調べたら東海道から300mほどだった。

坂下道祖神

 国府津駅前交差点の左側に、親鸞が民衆を教化した御勧堂がある。親鸞浄土真宗の宗祖で、この御勧堂には7年間住んだそうだ。

御勧堂

 この近くにある真楽寺には、親鸞が指で描いた経文が刻まれた帰命石がある。真楽寺は浄土真宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来である。元は天台宗の寺院だったものの、鎌倉時代の住僧性順が専修念仏の教えを説く親鸞に感銘し、ここに滞在して民衆を教化することを願い、みずからも弟子となり真楽寺と命名してもらったという。

真楽寺

 親木橋東海道の森戸川に架かる橋で、江戸時代は長さ12間4尺(23m)、幅2間半(4.6m)の土橋だった。親木橋歩道橋には、国府津海岸でよく獲れる魚が描かれたタイルが埋め込まれている。このへんはアナゴ、アジ、イナダ、クロダイがよく獲れるそうだ。

 79キロポストの少し先に小八幡の一里塚がある。この一里塚は案内板が立つのみである。

小八幡の一里塚

4.小八幡八幡神社

 「八幡神社」の角を曲がると八幡神社があるのだが、東海道から少し離れているので一度は通り過ぎた。しかし地図に「道路元標」と書いてあったので、Uターンして向かった。なぜなら神奈川県の道路元標は横須賀市三浦市にしかなく、小田原市にあるとは知らなかったからだ。

 そしてその道路元標がこちら。

八幡村の道路元標

 どう考えても道路元標の形ではない。普通、道路元標はこのような形をしている。

例:宮崎市道路元標

 ちなみに道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1個ずつ設置されたものである。設置主体は都道府県か市町村であり、「明治政府地理寮設置」と書いてあることもおかしい。調べたところ、これは外国人遊歩規程測点らしい。外国人遊歩規程測点とは、明治時代に外国人の居留地からの外出範囲を規定した基準点で、神奈川県内に残存する。多くは山の上にあるため、実物を見たのは初めてだった(実は大磯町郷土資料館前にもあったらしいのだが、見逃してしまった)。それにしても、道路元標は間違いである。もう少し調べてから案内板を設置してほしかった。

 なお、この小八幡八幡神社の建立は定かではないが、鎌倉時代以前からあったとされている。祭神は応神天皇仁徳天皇神功皇后の3柱である。境内には外国人遊歩規程測点のほかにも、道祖神庚申塔が多く残っている。

 

 東海道に戻り、少し進むと小さな松林がある。松林の反対側にあった河津桜が満開で綺麗だった。この時期は綺麗な花が多くて嬉しくなってくる。

5.酒匂の渡し

 歩いていたら二宮金次郎の石像を発見した。二宮金次郎とは江戸時代後期の経世家、農政家、思想家で、小田原出身。14歳で父を、16歳で母を亡くし、叔父方に寄食して日中は農業の手伝いを、夜は夜更けまで縄をない、さらには荒地に菜種を栽培、それを売って夜なべ後の勉学の灯にしたという。このエピソードから薪を背負いながら本を読んで歩く二宮金次郎像は、各地の小学校に残る。

二宮金次郎

 「小田原コロナ」というパチスロ屋の看板を見つけた。おそらくこの看板はコロナウイルスが流行る前から設置されていただろう。

小田原コロナ

 大見寺は酒匂の旧家、川辺家の墓などがある。天文3年(1534年)の創建というから、ちょうど織田信長の生まれた年、小田原でいえば北条二代氏綱の頃である。

大見寺

 大見寺の隣が川辺家で、現在はゆりかご園という社会福祉法人になっている。

川辺家

 向かい側には酒匂不動尊もある。

酒匂不動尊

 少し進むと法船寺という日蓮宗の寺院がある。境内にはお手引き地蔵尊を祀る地蔵堂があり、参詣の人が絶えないという。境内に咲いていた花が綺麗だったが、この花は何だろう。梅か、桃か。

法船寺

この花はなんだろう

 そのまま進むと酒匂橋で酒匂川を渡ることになる。酒匂橋は400m弱ある長い橋である。

酒匂橋

 酒匂川は江戸時代、徒歩渡しであり、手を引いて渡る手引き渡し、肩に乗せて渡る肩車渡し、輦台(れんだい)に乗せて人足が担いで渡す輦台渡しで人々は酒匂川を越えた。料金は水位によって違っていたようで、安孫子周蔵という人の旅日記では「こしかたぐるま47文」と書かれ、馬入川の船賃10文と比べて相当割高だったようだ。

 酒匂橋を渡ると、少々わかりづらく細い道を右折して北側に出る。左に進んで右手側に八幡神社があれば正解だ。

八幡神社

 八幡神社から南進し、土木センター入口を南進。次の交差点を右折して、常剱寺入口交差点でまた国道1号に合流する。複雑だが、この区間に見るものがあるかと言われたらそれほどないため(新田義貞首塚が奥にあるくらいか)、国道1号直進でもいいかもしれない。

 

 そのまま国道1号を進み、山王橋で山王川を越えると山王神社がある。山王神社は山王原村の鎮守で、祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)、大山祇命(おおやまずみのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)である。山王神社は境内に星影が映る井戸があることから、星月夜ノ社とも呼ばれていた。ロマンチックな名前である。

山王神社

 境内には水準点もある。一等水準点第45号、標石と保護石が立派である。

一等水準点第45号

6.小田原宿

 「東海道小田原宿」と書かれた石灯籠がある。小田原宿はすぐそこだ。

 すぐに「小田原城江戸口見付」を見つけた。ここは小田原宿および小田原城下町の東端である。小田原宿の場合、ここから板橋にあった上方見付までの宿内の距離は18町半余(約2km)あった。この近くに小田原の一里塚もあったようだが、案内板のみである。

小田原城址江戸口見付

 新宿交差点で左折する。少し進んだら、「小田原かまぼこ通り」の角を右折する。小田原かまぼこ通りだ。

小田原かまぼこ通り

 早速かまぼこ屋が並ぶ。小田原かまぼこの歴史は古く、天明年間(1781~1789年)に沿岸漁業が栄え漁獲量が急増し、当時は魚を長期保存することはできなかったため商人たちが魚の売れ残りを処理する方法としてかまぼこを考え出したという。今のような小田原を代表する「板付かまぼこ」が生産されるようになったのは、140年ほど前、江戸末期から明治の初め頃のようだ。いせかね、山上蒲鉾店、丸う田代など立派な店構えのかまぼこ屋が並んでいる。

 

 青物町交差点の少し前に下の問屋場跡の看板を見つける。問屋場では定められた量の人足や伝馬を備えていた。

下の問屋場

 片側アーケードの商店街を進んでいくと、脇本陣古清水旅館を見つける。そこには小田原空襲の説明板があった。小田原空襲は昭和20年(1945年)8月15日に起こった空襲で、400軒の家屋を焼失し、12名の犠牲者を出した。現在の日本では空襲はないが今後も起こらないでほしいし、現在戦争中の国があると思うと胸が痛む。

脇本陣古清水旅館

 少し先に小田原宿清水金左ヱ門本陣跡と明治天皇宮ノ前行在所跡がある。清水金左ヱ門本陣は尾張徳川家や薩摩島津家、熊本の細川家など西国の有名な大名が定宿としていた。平屋で建坪240坪(792㎡)、部屋数20余室、現在明治天皇行在所碑のある辺りに宿泊の大名の部屋、上段の間があったそうだ。また、明治天皇明治元年(1868年)の東京遷都や全国巡幸の折に5回も宿泊している。明治天皇は清水本陣がよほどお気に入りだったのだろう。

小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡

明治天皇宮ノ前行在所跡

 そのまま進むと小田原宿なりわい交流館がある。

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小田原宿なりわい交流館

 この建物は関東大震災により被害を受けた建物を昭和7年(1932年)に再建したもので、小田原の典型的な商家の造りである「出桁造り」という建築方法が用いられている。平成13年(2001年)から小田原宿なりわい交流館として開放している。

 何か展示物でもあるかと思い覗いてみたが、特になかった。せっかくなのでマンホールカードをもらった。

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 このマンホールは小田原城の近くにあるらしいが、残念ながら今回は小田原城に行く予定はない。

 

 小田原宿なりわい交流館の反対側に、松原神社がある。

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松原神社

 松原神社は小田原の総鎮守で、祭神は日本武尊など3柱、創始は不明だが、もともとは後醍醐天皇の頃(1288~1339年)、海辺の松原の中にあって真鶴が住んでいたところから「鶴森神社」と称していた。

 

 「小田原蒲鉾缶バッジガチャ」「杉兼オリジナル缶バッジガチャ」「小田原おでんストラップガチャ」という癖の強いガチャガチャが3つ並んでいたので思わず写真を撮ってしまった。

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 こんなところに小田原城!?と思ったら外郎の本店だった。ういろうは名古屋名物として有名だが、この店で最初に作ったういろうは丸薬のことである。胃痛やのどの痛み、船酔いによく効くといわれ、道中の常備薬だった。後に菓子のういろうも作り、現在も両方販売している。小田原土産でういろうを持ち帰ろうと思っていたが忘れてしまった。

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外郎本店

 少し進むと右手側の小高い丘の上に山角天神社がある。山角天神社の創建年代は不明で、北条氏康が奉納した「菅原道真画像」がある。菅原道真が梅を好んだことから天神社には梅が植えられていることが多いが、今は花が咲いていて綺麗だった。

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山角天神社

 東海道本線のガードの少し前に、人車鉄道軽便鉄道小田原駅跡がある。ここから熱海までの約25kmを「人力」で客車を押していたという。25kmも車両を押すなんて、大層疲れたことだろう。

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人車鉄道軽便鉄道小田原駅

 東海道本線のガードをくぐって右側に居神神社がある。居神神社は山角町と板橋村の鎮守で、祭神は三浦荒次郎義意、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と火之加具土神(ひのかぐつちのかみ)である。居神神社には次のような伝説がある。

 三浦道寸とその子荒次郎は北条早雲と戦ったが負け、自刃した。このとき荒次郎の首だけがここまで飛んできて3年間目を見開いて人々を苦しめた。久野総世寺の和尚の供養により守護神となり、武門の神として人々に崇められるようになった。

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居神神社

 居神神社の向かい側には小田原城主の大久保氏一族の墓所がある大久寺がある。

 

 板橋見附交差点に板橋見附跡の案内板がある。江戸時代、ここが城下府内の山角町と城下府外の板橋村の境界で、遠くは京都(上方)に通じたので板橋口または上方口と呼ばれ、主要な出入口として厳重な構造を持っていた。現在は案内板が残るだけとなっている。

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板橋見附跡

 東海道はここで右折して箱根の山を登っていくが、このまま直進する。すぐに左手側に箱根板橋駅がある。今回はここで終了だ。

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箱根板橋駅

 次回はついに箱根の山越え、山を越えたら静岡県。頑張るしかない。

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今回の地図①

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今回の地図②

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今回の地図③

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2022年3月6日

【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」山川出版社

風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社

日本の測量史 外国人遊歩規程の測量

http://uenishi.on.coocan.jp/j510yuuho.html

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2022年3月30日最終閲覧)