前回、新蒲原駅から由比駅まで歩いた。今回は由比駅から清水駅まで歩こうと思う。東海道の宿場的には由比~興津~江尻(清水)なので、興津駅なのでは?と思うかもしれないが、興津駅到着時点でまだ12時台だったため、次の江尻(清水)まで行けると判断し、清水駅まで足を伸ばしたのである。
- 1.小池邸
- 2.由比宿東海道あかりの博物館
- 3.間の宿西倉沢
- 4.薩埵峠
- 5.薩埵上道
- 6.興津川を越える
- 7.興津宿公園
- 8.水口屋ギャラリー
- 9.清見寺
- 10.興津坐漁荘
- 11.袖師ふるさとの路
- 12.江尻宿
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1.小池邸
宿泊していたホテルを出発し、静岡駅から東海道本線に乗り、由比駅に降り立った。
今日はここからスタートだ。
由比駅を出たら左側に進み、県道396号線の交差点から旧道を進む。由比駅から歩いて10分ほどのところに、小池邸がある。
小池家は江戸時代、代々小池文右衛門を襲名して寺尾村の名主を代々務めていた。その小池氏の居宅が、小池邸だ。この建物は明治時代の建立だが、大戸、くぐり戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しており、平成10年(1998年)に国の登録有形文化財に登録された。
「ごめんください」と言って中に入る。すると中に案内役の方がおり、いろいろと教えてくれた。そのなかでも印象的だったのが、庭にあった水琴窟だ。
水琴窟とは、江戸時代中期の庭師が考案したとされている音響装置で、地中に埋めたかめの中で響く水滴の音が地中にかすかに漏れ聞こえてくるのを楽しむ。録音はしていないが、小さく涼しげな音だった。この日は暑かったので、少し涼しくなった気がした。
案内役の方と少し話したが、小池邸には東海道歩きをしている人がたびたび訪れるそうだ。そして、薩埵峠(さったとうげ)のハイキングコースが通行止めらしい、という情報を聞いた。大丈夫か不安になってきた。
2.由比宿東海道あかりの博物館
小池邸の向かい側に由比宿東海道あかりの博物館がある。
「要事前連絡」と「静岡県の歴史散歩」に書いてあったので訪問は諦めていたのだが、どういうわけか入れた。HPには「要事前連絡」とは書いてないので過去の情報だったか、先客がいたのでその人が予約していてたまたま入れただけなのかはわからない。
中には「あかり」がたくさん展示してあった。これは東洋ランプだ。
乾電池の展示コーナー。これだけ集めたのもすごい。
ランプの看板。昭和に作られ、使われたものなのだなとなんとなく感じた。
離れにも展示がある。これはテレビ。今の地デジは、おそらく映らないだろうか。
こちらには電話など。赤い公衆電話がかわいい。
なんと信号機の展示もあった。しかも手元のスイッチを押せば光る。
案内役の方はほぼ先客と話していたので、私とはあまり話していない。でもお茶をくれたのは嬉しかった。
なお、このお茶は薩埵峠で全て飲み切ることになる。
3.間の宿西倉沢
由比宿東海道あかりの博物館を出て南に進むと、いよいよ薩埵峠(さったとうげ)が近づいてくる。
東海道の左隣には東名高速道路が走っており、由比PAが見えた。
八阪神社の参道が見えたが、体力を温存するため登るのはやめておいた。
このあたりは格子戸の家などもあり、少し時代が古い気がする。
鞍佐里神社。
初めて聞く名前だ。調べてみたら日本武尊が東征の途中、賊の焼き打ちの野火に逢い、自ら鞍下に居して神明に念じたら、その鞍が敵の火矢によって焼け破れた。よって鞍去の地名が生まれ、これが倉沢に転訛した、らしい。これも階段が長いので行かないことにした。
鞍佐里神社の隣に宝積寺がある。
宝積寺は曹洞宗の寺院で、開山は享保11年(1725年)頃、大清撫国(だいせいぶこく)禅師による。宝積寺の階段の上から見た駿河湾が綺麗だった。
少し進むと間の宿川島家がある。
川島家は江戸時代慶長から天保年間までのおよそ230年間代々川島勘兵衛を名乗り、間の宿「西倉沢」の中心をなし、大名もここで休憩したので村では本陣と呼ばれ、西倉沢名主もつとめた旧家である。残念ながら、中には入れない。
間の宿川島家の近くには脇本陣柏屋もある。
江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶屋を営んでいた。明治元年(1868年)および明治11年(1878年)、明治天皇が東幸されるとき、小休所にあてられたので「明治天皇御小休所跡」の看板がある。
明治天皇の休憩所は東海道で何個も見たが、実際に建物が残っているケースは初めてな気がする。
その隣には望嶽亭藤屋がある。
薩埵峠の東登り口に位置しているところから一名を坂口屋といわれ、本来は藤屋と称して茶店を営み、磯料理、あわび、さざえのつぼ焼きを名物としていた。ここからの富士山の眺望がよいので「望嶽亭」と称していたそうだ。現在は磯料理こそ売っていないが、連絡すれば内部見学もできるらしい。知らなかったので外側を見るだけにした。
藤屋の向かい側には一里塚跡がある。
この一里塚は江戸から数えて40番目の一里塚である。塚には榎が植えられていたらしいが、今は何も残っていない。
4.薩埵峠
いよいよ、薩埵峠(さったとうげ)だ。かすれかけた看板にも「東海道随一の難所「親知らず子知らず」の悲話が伝えられている」と書かれている。
「東海道随一の難所」と書かれていても、「箱根峠のほうがきつかったぞ?」と思ってしまうのだが…。
「親知らず子知らず」とは以下の話である。薩埵峠は明暦元年(1655年)に朝鮮通信使来日のときに整備される前、峠の突端にある海岸沿いの道だった。この道は、波が引いた瞬間に走り抜けなくてはならないところで、親は子供を顧みる暇はなく、子供も親の面倒をみきれないということで「親知らず子知らず」と呼ばれたという話である。なお、この海沿いの道は安政元年(1854年)の大地震で土地が隆起したことにより通行が便利になったため、陸上交通の中心は山道から海沿いの道に移った。
薩埵峠の坂を登っていく。
なお、9月23日の令和4年台風15号により、この地点から通行止めになってしまったらしい。8月に行ってよかったと思った。
坂をぐんぐん登っていく。東名高速道路がだいぶ下に見え、駿河湾が美しい。
東海道薩埵峠周辺絵図を見つけた。
由比本陣公園などの情報も書かれているが、ここから由比本陣公園はだいぶ遠い。
また坂を登っていくと、薩埵山合戦場の説明板を見つけた。
古来、ここでは2度の大合戦があった。
観応2年(1351年)室町幕府を開いた足利尊氏と鎌倉に本拠を構えた弟の直義が不仲になり、ここ薩埵峠から峯つづきの桜野にかかえて山岳戦を展開し、直義軍が敗退した。これが1度目の薩埵峠の合戦である。
2度目は永禄11年(1568年)から翌年にかけて、武田信玄が駿河に侵攻したので、今川氏真が清見寺に本陣を置き薩埵峠に先鋒を構えたが敗退した。なお、清見寺はあとで登場する。
ここに石碑も2つあり、「夢舞台東海道」の「薩埵峠」の標識もある。
ここから見た景色は、こんな感じ。駿河湾が美しい。
薩埵峠に向かって歩いていたら、農作業に向かう軽トラのおじいさんとすれ違った。そこで「薩埵峠のハイキングコースは今は通れないよ。まあ、監視の目をかいくぐれば通れるけどね」と言っておじいさんは笑った。そこまでして通りたくないと思った。
薩埵峠駐車場に着き、先に進もうとしたら…出ました。「通行禁止」。
ここで迂回することにした。しばらく行くと、「ここから薩埵峠に行けるかも?」と思ったので、行ってみることにした。登り始めて、少し後悔した。箱根峠以上の山道だったのである。
こんなところに来ていると親が知ったら、怒られるだろう。
坂を登り切ったら、駿河湾が見えた。
薩埵峠の説明板もあった。
このあたりは牛房坂(ごぼうざか)と言うらしい。
そのまま尾根に沿って進むと、「清水市指定眺望地点 薩埵峠」という説明板があった。
ここがなぜ眺望地点として指定されたか、すぐにわかった。ここから撮影すると、歌川広重の「東海道五十三次」の「由比」のような構図になるのだ。
東海道五十三次 由比と現在の写真を並べてみる。
東名高速道路と東海道本線は歌川広重の絵にはないけれど、富士山と駿河湾は変わらない。東海道五十三次が発表されたのが天保5年(1834年)と言われているから、実に200年弱、富士山と駿河湾は変わらずそこにあるのだ。
「薩埵峠の歴史」という看板があった。
それによると、鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引き上げられた薩埵地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後薩埵峠と呼ぶらしい。海の中から仏様が引き上げられてきて祀ったとは、浅草寺の縁起みたいではないか。なお、浅草寺の縁起については「うさぎの気まぐれまちあるき 都内のちょっと変わったお地蔵さん巡りツアー の2.カンカン地蔵・リストラ地蔵」で取り上げているので、そちらを参照してほしい。
薩埵峠を下っていく。途中、トトロが出てきそうな山道も通った。
階段を降り、アスファルトの道に戻ってきた。振り返ると「通行を禁止します」。
え、ここ、通行禁止だったの?何人かすれ違ったけど大丈夫なの?
横を見ると、「ふるさとの路 薩埵峠の案内」と「ここは天下の東海道か!五十三次も緑(水土里)が無ければ描けねえなあ」と書かれた看板があった。
「薩埵峠ハイキングコース」と書かれた看板があったが、通行止めについては書いてない。
このあたりは「殿ノ入」「舞台」という地名らしい。
観応の擾乱のとき、足利尊氏軍3000騎は磐城山に布陣し、足利直義軍10000騎は富士川河原に陣取り薩埵山周辺では幾重の合戦が起こった。尊氏軍は磐城山(薩埵山)に本陣を張ったため後の人達がこの地を「殿ノ入」と言い、それが訛って「トンノリ」となったらしい。
「舞台」は、観応の擾乱のとき尊氏は長引く薩埵山の合戦の合間にこの地に舞台を設け愛妾の萬城姫が舞を舞い軍政平氏の慰労の宴を開いたとされ、村人はここを舞台と名付けたそうだ。
創立は延宝3年(1675年)で、明治8年(1875年)村社となった。
5.薩埵上道
白髭神社前の交差点で薩埵上道と薩埵中道に分かれる。案内板に従って歩いていたら、薩埵上道を進んでいた。このあたりは長山平と言うらしい。
久しぶりに見た気がする秋葉山の灯篭。やはりここは静岡県なのである。
そのまま「東海道」の案内板が示す方角に向かっていく。
途中に瑞泉寺という寺院を見つけた。
瑞泉寺は日蓮宗の寺院である。幽玄山日近が正保2年(1645年)に創立した。江戸末期までは漢学の道場とされていたが、火災等のため古い記録は残っていないようだ。
足元を見ると「清水市」の消火栓を見つけた。
もう旧由比町から旧清水市に入ったのである。清水市は静岡市と合併し、平成15年(2003年)に廃止された。現在の静岡市清水区の大半で、旧蒲原町および旧由比町を除いた部分にあたる。
「東海道薩埵峠(さったとうげ)」の看板を見つけた。
また「東海道難所 薩埵峠之絵図」を見つけた。その隣に、「川越遺跡」の説明板を見つけた。
ここは興津川の「川越し」の跡である。旅人は両岸にあった川会所で「越し札」を買い、連台または人足の肩車で川を越した。越し札はその日の水深によって値が違い、連台越しの場合は札4枚が必要だった。連台や人足で川を越える川越しの文化はなくなってしまった。東海道では以前、「酒匂の渡し」でこのような川越しが出てきた。これについては「東海道を歩く 8-3.平塚駅~箱根板橋駅③ 5.酒匂の渡し」を参照してほしい。なお、この川越遺跡に立ち入ることはできない。
6.興津川を越える
橋を渡り、興津川を越える。ここで薩埵中道と合流する。興津川を越えたら少し戻り、東海道本線沿いの旧道に入る。足元を見ると、静岡市のマンホールがあった。
真ん中にあるのは静岡市章で、平成15年(2003年)制定、静岡・清水、そして新「静岡市」の頭文字「S」を発想の基本に、自然と都市機能が見事に調和した豊かな都市イメージを表現しているようだ。市章の周囲の花はキリシマツツジをデザインしているらしい。ちなみに市の花はタチアオイなので、なぜキリシマツツジがデザインされているのかはわからない。
今度は清水市章のマンホールを見つけた。これは平成15年(2003年)以前に設置されたものだろう。
「東駿工水 空気弁」のマンホールを見つけた。これは東駿河湾工業用水道のマンホールらしい。
これを見て「清水市章がキリシマツツジなのでは?」と思ったが、どうやら違うらしい。清水市の市の花はサンゴジュ、ヤマモモ、ハナミズキだった。
国道1号線に合流するところに「駿河健康ランドに行く方、ご利用ください」と書かれた小さいトンネルがあった。
汗もかいたし駿河健康ランドに行きたいが、興津駅はまだ先なので今回はスルーすることにした。
興津団地に天使の像を見つけた。なぜ天使なのかはわからない。
暑くなってきたので近くのローソンに入ったら、ヤクルト1000を見つけたので思わず買ってしまった。
ヤクルト1000は大人気で売っているところを初めて見たのだ。暑いので一気に飲み干したが、普通のヤクルトとの違いはわからなかった。
「トラヤ」という店を見つけた。
東京では見ないチェーンなので、ロケスマで調べてみたらディスカウントストアらしい。ローソンで涼んだばかりなのでスルーした。
興津の薄寒桜を見つけた。
アメリカの首都ワシントン.D.C.のポトマック河畔に桜並木があるのは有名である。最初に尾崎行雄東京市長からアメリカに桜が贈られたが、病害虫の付着が多かったため全て焼却処分されてしまった。日本の名誉をかけ、依頼を受けて苗木を作ったのが熊谷技師達、興津の果樹研究所の職員だった。そのため、興津の薄寒桜はポトマック河畔の桜と兄弟なのである。こんなところでポトマック河畔の桜を見つけるとは、驚いた。
歩いていたら右手側に宗像神社を見つけたので行ってみた。
宗像神社の祭神は奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)・狭依姫命(さぎりひめのみこと)・多岐津比売命(たぎつひめのみこと)である。創建年代は不詳だが、一説に筑前(福岡県)より勧請したとも言われている。
宗像神社は女体の森といわれて樹木が生い茂る森だった。そのため「こげや こげ こげ 興津の女体の森を 目当てに こげ」という歌を歌いながら、清水港の水先案内人たちがこの森を目当てに船を漕いだという。
「方位」と書かれた石を見つけた。このような石を見つけたのは初めてなので珍しい石なのだと思う。
興津中町西交差点に身延道入口之碑を見つけた。
これは身延山久遠寺に向かう道と東海道の分岐点に置かれた道標である。東海道では大山街道の分岐点がいくつかあったので、身延道の分岐点もほかにあるのでは、と思い調べてみたらなかった。ここだけなのでレアである。
この題目が書かれた碑は3mもある大きなもので、南無妙法蓮華経をヒゲのように跳ねて書いてあるから「髭題目」という。江戸時代の初めの承応3年(1654年)に立てたものである。『東海道名所図会』には「興津駅の左の方に法華題目堂あり、是より身延山への参詣道なり」と書いてあるが、現在お堂はない。
また清水市の消火栓を見つけた。
さっきの清水市の消火栓と違うところは、ここは「市水清 栓火消」と右から左に書かれていることである。右から左に字が書かれているものは相当古いと思われるが、いつ設置されたものかはわからない。
国道1号の165キロポストを見つけた。もうそんなに歩いたのか。
今日は興津駅までにしようかと考えていたのだが、まだ12:45なので次の清水駅まで歩くことにした。
少し行くと理源寺がある。理源寺は日蓮宗の寺院である。
開山は身延26世知見院日暹(にっせん)。日像の説法弘通の霊地を追慕して慶長年間に草創された。
7.興津宿公園
興津宿公園に到着した。ここには興津宿の説明がある。
興津宿は江戸から数えて17番目の宿で、寛永時代には東本陣・西本陣のほか、脇本陣を置き、旅籠も24軒という賑やかな宿場だったそうだ。身延道の起点、薩埵峠(さったとうげ)の最寄りということもあり交通の要衝であった。「興津」という地名の由来は、宗像神社の祭神・興津島姫命(おきつしまひめのみこと)がここに住居を定めたからと言われている。
由来と位置が書かれた説明板があった。
北緯35度3分00秒、東経138度31分10秒と書いてあり、これをGooglemapで検索したらちゃんと興津宿公園にヒットした。どうやらこれは世界測地系で書いてあるようだ。
公園内には「清水市合併20周年記念 興津町役場跡」と書かれた石碑もあった。
興津町は昭和36年(1961年)に清水市に編入され消滅した。そしてその清水市も合併して静岡市になってしまっている。
ここには「興津宿」案内板と「夢舞台東海道」の興津宿の案内板がある。
8.水口屋ギャラリー
興津宿脇本陣水口屋の跡があった。
水口屋初代当主望月氏が天正10年(1582年)夏に初めて旅人を泊めて以降、ここは江戸時代には興津宿の脇本陣として宿屋を営み、明治元年(1868年)には江戸へ向かう途中の明治天皇の休息所とされた。それ以降は西園寺公望や夏目漱石など、各界著名人の別荘旅館として愛された。第二次世界大戦後は、オリヴァー・スタットラーの小説「ニッポンの歴史の宿」でアメリカに水口屋が紹介された。昭和60年(1985年)1月に廃業し、約400年の歴史に幕を閉じた。平成11年(1999年)3月より「水口屋ギャラリー(フェルケール博物館別館)」として開業した。
水口屋ギャラリーに入ってみよう。中は撮影禁止なので写真はないが、大正天皇と昭和天皇御使用の食器類など、興津に関する資料が展示されていた。また、博物館の人と話をして、茶楽という喫茶店がよいこと、清見寺は行ったほうがよいことなどを聞いた。
水口屋ギャラリーの道の反対側には興津宿西本陣址がある。ここは石碑のみである。
興津不動前交差点のところに「茶楽」はあった。
入ってみたが人気店でずいぶん待ちそうなので、今日は見送ることにした。もし行った人がいれば、感想を教えてほしい。
9.清見寺
清見寺の前には踏切がある。
境内に踏切がある寺院は、「東海道を歩く 3.川崎駅~神奈川駅 10.遍照院」にもあった。
清見寺は、「巨鼇山清見興国禅寺(こごうさんせいけんこうこくぜんじ)」という、臨済宗妙心寺派の寺院である。奈良時代には創建されたと伝えられる。門前に「清見関跡」の標柱があるが、清少納言の「枕草子」に清見関という名の関が紹介されているので五街道整備前にここに関があったのだと思われる。東海道の交通の要衝に位置していることが重視され、足利尊氏をはじめ歴代の時の権力者達によって庇護されてきたが、しだいに荒廃した。それを天文8年(1539年)に、今川義元の軍師であった太原崇孚が再興し、清見寺の1世となった。この太原に学んだのが、当時今川氏の人質となっていた徳川家康で、境内には家康が植えた臥龍梅とよばれるウメの古木がある。清見潟を見下ろす風光明媚なところにあるため「東海名区」といわれ、庭園や五百羅漢、秀吉が北条氏を攻めたとき用いたという鎌倉時代の梵鐘、石橋に用いられている芭蕉の句碑などがある。
清見寺にあがり、拝観料を払うと庭園を見ることもできる。
この庭園は江戸時代初期に山本道斉に依って最初に作庭されたものと伝えられている。この庭園の型式は築山池泉廻遊観賞園となっている。なかなか美しい庭だった。
徳川家康手習いの間もあった。
これは家康が今川氏の人質として駿河にいたときにいた部屋である。
2階に上がると、興津の風景を眺めることができた。
涼しい風が吹いて、気持ちがいい。
さっきもらった御朱印を見てみた。「佛心」と書いてある。
清見寺の前に、このような消火栓を見つけた。
富士山、駿河湾、三保の松原、久能山東照宮がデザインされており、「大御所家康公 顕彰四百年」と書いてある。
清見寺の前に「髙山樗牛假寓之處」という石碑を見つけた。
どうやら、明治末期に文豪の高山樗牛が清見寺門前の三清館に滞在し静養したことを記念して設置されたらしい。
10.興津坐漁荘
清見寺の少し先に興津坐漁荘がある。
興津坐漁荘は、西園寺公望が70歳になった大正8年(1919年)に老後の静養の家として風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘で、命名は渡辺千冬子爵による。建物は昭和45年(1970年)に解体され、愛知県犬山市の博物館明治村に移築された。現在ここに建っているものは復元家屋である。
西園寺公望は嘉永2年(1849年)10月、右大臣徳大寺公純の次男に生まれ、明治・大正・昭和の3代を自由主義の政治家として貫き、昭和15年(1940年)11月24日、91歳の長寿を全うした元老の一人である。亡くなるまで、「興津詣」といわれる政財界要人の訪問がたえなかった。
まず坐漁荘に入ると西園寺公望の一生のビデオを見ることになる。
「スペイン風邪の教訓」と書かれた記事を見つけた。
スペイン風邪といえば、コロナの前に流行ったと言われている伝染病である。西園寺公望の娘、新子も罹災し、亡くなったそうだ。
テラスがある。明るい。
ここには西園寺公望の写真がたくさんある。
西園寺公望愛用の品が展示されている。
ここは化粧室…にしては質素な気がする。
風呂場、トイレ、台所。
「老公のお世話」と書かれた文章があり、読んでしまった。
これは引退後の西園寺公望の一日のルーティーンであろう。いかにも金持ちの生活、といった感想を抱いた。
西園寺公望死去の写真や、坐漁荘復元工事の写真が展示されていた。
昔は庭園から三保の松原が見えたらしいが、今は見ることができない。
東海道沿いでは以前「旧吉田茂邸」を訪れたことがあったが、時代もあってなのか、こちらの坐漁荘のほうが質素な印象を受けた。これについては「東海道を歩く 8-2.平塚駅~箱根板橋駅② 3.旧吉田茂邸」を参照してほしい。
坐漁荘をあとにして、少し進むと水準点を発見した。一等水準点第001-166号だ。設置は昭和42年(1967年)6月。
清静バイパスをくぐり、陸橋で東海道本線を越える。ここに、国道1号の167キロポストがあった。
11.袖師ふるさとの路
そのまま進むと右手側に延命地蔵尊があった。
この延命地蔵尊は「病は治せるが寿命は延ばせない」との無理な願いを叶えてくれるらしい。長生きしたいので、お祈りしておいた。
念仏供養塔を見つけた。「袖師ふるさとの路」の看板があるが、説明はない。
東光寺があった。東光寺は臨済宗妙心寺派で、温仲和尚(おんちゅうおしょう)により戦国時代に創建された。
トイレに行きたくなったので食鮮館タイヨーでトイレを借りた。食鮮館タイヨーは静岡県内にのみ展開されているスーパーである。
国道1号の168キロポストの先に、旧東海道松並木の松を1本だけ見つけた。
昔はここにも松並木が広がっていたのだろうか。
また延命地蔵を見つけたが、こちらにも寿命を延ばすご利益はあるのだろうか。とりあえず、お祈りしておく。
吉原往還道起点を見つけた。ここで「吉原」といえば富士市の吉原を思い浮かべた。ただ、ネットで調べても詳しい情報は出てこなかった。
袖師交差点で歩道橋を渡り、先に進む。
静岡市袖師生涯学習交流館の前に、「夢舞台東海道」の「静岡市清水区袖師ヶ浦」の案内板を見つけた。
次の江尻宿の東木戸まであと0.7kmらしい。
「ふるさとの路」として整備するなら説明板くらい欲しいな…と思ってしまった。
ここにも水準点がある。一等水準点第124-1号だ。
ここは昭和25年(1950年)に設置された。標石タイプらしいが、マンホールに阻まれて見えなかった。
12.江尻宿
「無縁さんの碑」がある交差点から旧道に入る。
これは、このあたりにあった細井の松原を松根油採取のため伐採したとき、ここに多くの人骨が出土した。これは東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察され、町内の人々は寺に葬り、この記念碑を建てた。ここは難所でもなんでもないが、旅で行き倒れて死ぬ人もいたのだろう。
「夢舞台東海道」の「静岡市清水区細井野松原」の案内板を見つけた。
江尻宿東木戸まで0.3km。あと少しだ。
細井の松原は慶長9年(1604年)に二代将軍秀忠が樽屋藤右エ門と奈良屋市右エ門を工事奉行に任命して街道の両側に松の木を植えさせ、慶長17年(1612年)に完成したものと伝えられている。太平洋戦争のとき松根油の原料として伐採されたため現在はない。
そのまま旧道を進む。右手側に本要寺を見つけた。
本要寺は日蓮宗の寺院で、寛永元年(1624年)妙蓮寺の第8世蓮行院日等上人がこの地に隠棲して一宇を草したことが開創とされている。
本要寺の隣には妙蓮寺がある。
妙蓮寺は日蓮宗の寺院で、日親が開山となって創立した。
境内にあるベンチのデザインがなんともかわいい。
「旧東海道江尻宿」と書かれたプレートを見つけた。
東木戸があった記憶がないが、もう江尻宿に入ったようだ。なお、東海道本線開業当時は清水駅も江尻駅という名だったそうだが、お茶の輸出で清水港が発展すると、清水の名前が前面に出てきて大正13年(1924年)に清水市となり、昭和9年(1934年)には江尻駅も清水駅と改称、今では「江尻」という人はすっかりいなくなってしまった。
仕切弁がサッカーをしており、清水市章が確認できる。
清水のサッカーチーム、清水エスパルスがあるからだろうか。
江尻東交差点に到着した。東海道はここを直進していくが、今日はここで左折する。左折するとすぐに清水駅に到着する。
清水駅前に「久能山東照宮 従是貳里三拾町」とある石柱があった。
駅前に「ちびまる子ちゃん」がデザインされたデザインマンホールがあった。
これはちびまる子ちゃんの原作者・さくらももこさんが清水市出身で、ちびまる子ちゃんの舞台が静岡市清水だから設置されたものだろう。
清水駅から静岡駅に向かうことにした。
帰る前に、薩埵峠も越えたことだし、汗で足が痒くなっていたので汗を流したいと思った。行ったのは、もちろん、サウナしきじである。
前回サウナしきじについて語ったので今回は語らないことにする。サウナしきじについて知りたい人は前回記事の【おまけ】を参照してほしい。
サウナしきじを出てもまだ19時。そろそろ東京に帰ることにする。弁当はラスト1個だった。危なかった。で、買った弁当は鯛めし。静岡麦酒も買った。
鯛めしを食べながらのんびりこだまで東京に向かうのも乙だなあと思った。
おつまみはうなぎボーン。
うなぎの骨を揚げたものだが、絶妙にうまい。
そうこうしているうちに東京に着いてしまったため、帰宅することとしよう。
次回は、清水駅から静岡駅まで歩く予定である。
歩いた日:2022年8月7日
次回記事はこちら↓
【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社
人力 鞍佐里神社
https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/yui_okitsu/kurasarijinja.html
宝積寺
https://myouhou.com/temple/post_98/
静岡市 市章
https://www.city.shizuoka.lg.jp/000_001193.html
静岡市のマンホール
https://rojonomanhole.web.fc2.com/shizuoka/shizuoka_city.htm
https://hana.web-pallet.com/7114/
日蓮宗 理源寺
https://myouhou.com/temple/post_100/
清見寺 髙山樗牛記念碑
https://seikenji.com/gard/gard3.html
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/
医王山東光寺 東光寺の歴史
https://www.tokozenji.net/syoukai021.htm
本要寺
日蓮宗 妙蓮寺
https://myouhou.com/temple/post_105/
(2022年10月22日最終閲覧)