前回、金谷駅からことのまま八幡宮バス停まで歩いた。今回はことのまま八幡宮バス停から掛川駅まで歩こうと思う。日坂宿から掛川宿までの距離は1里29町、約7kmなので「1日コースだな」と思っていたが、13時には掛川駅に着いてしまった。次の袋井宿までは2里16町(約9.6km)あり、そこまで歩くのは厳しいので掛川駅で切り上げることにした。
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1.事任八幡宮
出発地点のことのまま八幡宮バス停に向かうため、掛川駅から東山線に乗る。東山線は平日9本、祝日7本しかないので、要注意。私は10時10分発のバスに乗った。
20分ほどで、ことのまま八幡宮バス停に着く。今日はここからスタートだ。
ことのまま八幡宮バス停からすぐに、事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)がある。
事任八幡宮の祭神は己等乃麻知媛命(ことのまちひめのみこと)・誉田別命(ほむだわけのみこと)・息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)・玉依比売命(たまよりひめのみこと)である。
「枕草子」や「東関紀行」に「言うがまま願い事をかなえる」と記された言霊の社であり、クスとスギの巨木がかぶさるように社殿を覆っている。
夫婦杉の根株が展示されていた。
数百年前から境内のまんなかに寄りそうように立っていた一対の杉が夫婦杉で、長い間、事任八幡宮のシンボルとして親しまれてきたが、平成30年(2018年)の台風二十四号により倒れてしまった。ちなみに、倒れてしまった夫婦杉を使って御朱印帳を制作、頒布しているのだが、なんと1万円。流石に手が出ないなぁ…。
大きなクスノキもある。
事任八幡宮のクスノキは、高さ31m、目通り6m、根回り19.3mの大樹である。見上げると力強さを感じる。
事任八幡宮、本殿に参拝する。
「言うがまま願い事をかなえる」神社で何を祈るか。もちろん、
「東海道を最後まで無事に歩ききれますように」これしかない。
大きなクスノキに続き、大きなスギの木も見つけた。
事任八幡宮の大スギも、高さ36.5m、目通り6.3m、根回り11.2mの巨樹である。
スギは花粉をまき散らすので嫌いだが、このスギのことは嫌いになれない気がした。
本殿の隣には、いくつか神社にまつわるものが展示されていた。
この大笛は昭和29年(1954年)8月、小笠磐田両郡竹友会によって奉納された笛である。大笛には当時の会員46人の名前が記されている。奉納されて66年経ち、傷みが進んできたので10ヶ月かけて修復し、それを終えて返納された様子が、静岡新聞に掲載された。その記事が笛の横に展示されている。
これは大甕だ。
この大甕は平安時代の末、三河国(愛知県)の渥美窯で焼成されたものらしい。ただ800年くらいずっと眠っていたようで、発見されたのは令和3年(2021年)、おととしのことである。
境内には五社神社、稲荷神社、金刀比羅神社があり、それぞれ参拝する。
2.塩井神社
事任八幡宮を出たら、県道415号線をひたすら進むと水準点を見つけた。一等水準点第139号だ。
これは昭和25年(1950年)に設置された標石型の水準点だが、鉄蓋があるので確認できなかった。
八坂橋バス停のところで旧道に入るのだが、そこに塩井神社がある。
塩井神社の御祭神は塩稚神(しおつちのかみ)。
創建年代は不詳だが、孝徳天皇(645年~654年)の頃に出現したらしい。川のなかに潮泉が湧き出る「塩井」があり、事任八幡宮の古文書には塩井川の塩水を汲んでお清めをする旨の文が残っている。
ちなみに塩井神社の本殿は逆川の対岸にある。川越しをするわけにもいかないので、鳥居の中に入って手を合わせただけでよしとした。
3.柿園嵐牛生誕地
旧道を歩いていると嵐牛俳諧資料館を見つけた。でも明らかに普通の民家なので入らず先に進んだ。
ここは柿園嵐牛の生誕の地である。
柿園嵐牛は伊達方の石川依平のもとで国学・和歌を学んでいた。
嵐牛は和本を集めており、その蔵書は孟子等の中国の哲学・思想・宗教の本から、古事記・日本書紀や万葉集・源氏物語などがある。
嵐牛は国学のみに飽き足らず、俳句にも興味をもった。そこで文政8年(1825年)、嵐牛28歳のときに当時俳壇の雄であった三河の俳人、鶴田卓池に入門した。ここから三河は遠いため、嵐牛が作品を作ったら飛脚を使って鶴田に届け、鶴田が添削してまた飛脚を使って嵐牛に戻ってくる、という方法で長い間教えを乞っていた。
嵐牛は57歳のとき、初めて門人を受け入れた。嵐牛の門人は300人余りに及び、遠州俳壇の第一人者となった。
嵐牛は家業の鍛冶にも励み、俳句を学び、それを門人に教えたので家産を大いに興した。そんな嵐牛の教えは、「俳諧は太平の余波、句を作るより田を作れ」だった。
明治9年(1876年)、嵐牛はここで78歳の生涯を閉じたという。
「句を作るより田を作れ」…嵐牛がそうしたように、私は句(副業:ブログなど)も田(本業)も手を抜かずにやっていきたいと思った。
4.伊達方一里塚
柿園嵐牛生誕地から少し進むと、「福天権現」と力強く彫られた道標がある。
福天大権現は、菊川市西方の龍雲寺境内に祀られている。願掛けに御利益があるらしい。
少し先に、伊達方一里塚がある。
伊達方一里塚は、江戸から57番目の塚として街道の両側に築かれ、南側は現・萩田理髪店東側あたり、北側は現・三浦たばこ店屋敷あたりに設けられていたらしい。
当時、塚の大きさは直径7間、高さ3間の小山で、一里山と言われていた。明治33年(1900年)頃、取り壊されたという。
伊達方一里塚の向かい側に、大頭龍神社がある。
足元を見ると、「一號國道」と書かれた石を見つけた。ここは旧国道だったのだろうか?
もうひとつ、「橋川滑」と書かれた石も見つけた。
ここは確かに橋があり、この橋の名前が「滑川橋」なのか?と思い橋脚を見たが、何も書いてなかった。
少し進むと歌人 石川依平翁出生地の碑がある。
石川依平は幼少の頃から和歌を詠み始めた国学者である。
秋葉山常夜燈を見つけた。
秋葉灯籠・秋葉山常夜燈は浜松市天竜区にある秋葉山本宮秋葉神社を信仰する「秋葉信仰」で作られる灯籠で、静岡県に多く分布している。前回「東海道を歩く 21.金谷駅~ことのまま八幡宮バス停」でも3基ほど登場している。
5.諏訪神社
再び県道415号線に出る。日本橋からもう224kmも歩いたんだなあ。
次の分岐点でまた旧道に入る。そこに、諏訪神社がある。
諏訪神社の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)と素佐之男命(すさのおのみこと)。
創建年代は不詳だが、社伝には貞観16年(874年)に信濃国(長野県)諏訪大社上社より分霊されたと伝わっている。
石川依平も「あきらけき 神路の山に 阿とたれて 千代や栄へむ 松のことの葉」という句を奉納している。ちなみにこれを詠んだとき、依平はまだ6歳だったという。スゴイ。
そのまま進んでいくとまた県道415号線に合流する。そこに、「夢舞台東海道」の「本所」という案内板がある。
少し進むと水準点が2つある。一等水準点第001-224号と一等水準点第139-1号だ。
一等水準点第001-224号は昭和42年(1967年)に設置された金属標で、一等水準点第139-1号は明治33年(1900年)に設置された標石だが、どちらも鉄蓋・側溝の下にあり、確認できない。特に一等水準点第139-1号(明治に設置された水準点)は見てみたかった気もする。
ふと横を見ると、静岡らしい茶畑の風景が広がっていた。
224キロポストに続いて、225キロポストも見つけた。
「東山口みどころたずねどころマップ」を見つけた。
225キロポストに続き、226キロポスト。
「たこ焼ハンバーガーソフトクリーム」と書かれた、今のご時世なかなか見ないタイプのお店を見つけたが、休業中だった。
本村橋交差点で、旧道に入る。そこに「夢舞台東海道」の「成滝」と馬頭観音があった。
本村橋交差点の少し先に、水準点がある。一等水準点第140号だ。
これは明治11年(1878年)設置の標石型の古い水準点である。これは直接見られて嬉しい。
しばらく進むと大頭龍権現・福天権現の参道標がある。
大頭龍権現は菊川市加茂に、福天権現は菊川市龍雲寺境内にある。これらは知らなかったが、これが建てられた当時は盛んに信仰されていたのだろう。
福井肥料店の少し先に、赤字で「秋葉常夜燈」と書かれた秋葉灯籠を見つけた。
馬喰橋(ばくろうはし)で逆川を渡る。
馬喰橋には馬の顔をデザインした欄干がある。
馬喰橋には葛川一里塚がある。ここは碑があるのみである。
葛川一里塚には常夜燈があるが、秋葉灯籠であるかは確認できなかった。
「東海道掛川宿 名物 振袖餅 もちや」という看板につられて、もちやに寄る。
もちやの前に、「夢舞台東海道 馬喰橋一里塚跡」がある。
「名物 振袖餅」とあるので振袖餅を食べたいと思い店内に入ったら、売り切れていた。何も買わずに店を出るのは申し訳ないと思うので、柏餅を買った。柏餅はもちもちしていて美味しかった。
掛川市のデザインマンホールを見つけた。モチーフはもちろん、掛川城だ。
6.七曲
「東海道七曲」という看板を見つけたら、七曲が始まる。
これは「七曲がり」「七つカド」といって素直に宿のなかに入ることができないような仕組みである。府中(静岡市街地)でもあった、城下町特有のクランクである。
わかりづらいので、拡大した地図を載せておく。
「←東海道七曲」と書かれた看板のところを左折し、次の「→東海道七曲り」で右折する。
そのまま進むと突き当りに秋葉常夜燈があるので左折。
そのまま突き当りを右折し(道なり)、また突き当りを右折すると(道なり)、「塩の道」という道標がある。
静岡県の西部地域は、古来遠州と呼ばれ、昔の人々が塩や米などの生活必需品を運び、神社仏閣に詣でる道が各地にできていた。
このなかでも、秋葉街道と重なる「塩の道」や太平洋岸の「横須賀街道」は東海道や海の東海道と交わる交流の道である。
横須賀街道は太平洋岸の大須賀(掛川市)→大東(掛川市)→浜岡(御前崎市)→御前崎(御前崎市)→相良(牧之原市)を結び、塩の道は相良(牧之原市)→小笠(菊川市)→菊川(菊川市)→掛川(掛川市)→森(森町)→春野(浜松市天竜区)→龍山(浜松市天竜区)→佐久間(浜松市天竜区)→水窪(浜松市天竜区)と結んでいき、最終的には日本海に出るという。この道も長い道だろう。350kmと書いてあった。
「塩の道」の説明板のほど近くに、「夢舞台東海道」の「掛川宿東番所跡」がある。
ここに「七曲り」の説明板もある。
七曲りは、容易に敵を城下町・宿場町に侵入させないための構造と考えられているようだ。
七曲りの終点に、城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所があった。番所には、敵を捕らえるための三道具(刺股・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられていた。
ここに、水準点がある。一等水準点第140-1号だ。
一等水準点第140-1号は明治33年(1900年)に設置された標石型の水準点だ。今日発見する水準点は古いものが多い。
7.掛川宿
次の交差点で左折、2つ次の交差点で右折、2つ次の交差点で左折して大通りに戻る。次の仁藤町交差点で右折して、天然寺に寄る。天然寺は浄土宗の寺院である。
天然寺にはゲイスベルト・ヘンミィの墓がある。
江戸時代、長崎の出島はオランダ等の貿易の窓口だった。出島のオランダ商館では4年に1回、江戸城で将軍に拝謁して貿易通商の御礼言上をした。ゲイスベルト・ヘンミィもこの使節団の一員だった。
ヘンミィの一行は寛政10年(1798年)のはじめに長崎を出発、4月に将軍に謁見し、5月に江戸を出発して長崎に帰る途中、6月5日に掛川宿の本陣に宿泊した。しかしここでヘンミィの病気が悪化し、6月8日に亡くなり、天然寺に葬られた。
この墓は、蒲鉾型の石碑を伏せた型で、表面にオランダ語でその由来が書かれているが、すでに表面が風化して判読できない。墓誌は記念碑に移刻されているが、こちらも読めない。
旅立っても、母国どころか長崎にすら帰ることができないこともある。昔の旅は、命がけだったのだ。そっと手を合わせ、冥福を祈った。
天然寺から逆川沿いに向かうと、仁藤町屋台小屋がある。ここに掛川祭りの写真が貼ってある。
掛川祭りは7つの神社が合同して行う秋祭りで、各町で屋台を引くが、3年に1度繰り広げられる仁藤町の大獅子、瓦町のカンカラ獅子と花ボロの行列、西町の奴道中は見物となっている。
大獅子というのは全長20mもある獅子が練り歩くもので、最低50人、多いときは300人もの人数で練ったという。
景気が良いときは胴体の幌が大きく、不景気だと小さくなる。景気をよくするために幌に入った人は長い竹を押し上げて獅子を大きく見せようと頑張った。
祭りが終わると幌の布を分けてもらって子供の着物を作り病気よけとし、獅子の歯も取り玄関に貼り付け、魔よけ・病気よけとした。
掛川祭り、いつか見に行ってみたいな。
仁藤町交差点に戻り、県道37号線、東海道沿いを進む。片側アーケードの商店街を通るが、少々さびれている。
本陣通りという屋台街を見つけた。今は昼なので静かだ。
「本陣通り」というネーミングを見てもしや?と思ったら、ここが掛川宿の本陣跡だった。
東海道沿いを進む。
連雀西交差点を左折すると、掛川駅に着く。なお、現在時刻13時。
思ったより早く掛川駅に着いてしまった。しかし、次の袋井宿までは2里16町(9.6km)。この時間から10km弱を歩くのは少々きつい。
そこで、掛川市街地を散策することにした。
歩いた日:2023年4月22日
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【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社
風人社(2015)「ホントに歩く東海道 第7集」
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