前回、掛川駅から袋井駅まで歩いた。今回は袋井駅から磐田駅まで歩こうと思う。磐田市街地は面白いものがたくさんあるが、それに入る前に字数が増えてしまったので前編・後編に分けることにする。今回は見付宿に入るまでを書こうと思う。
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1.観福寺
今日は、袋井駅から出発だ。これを行う前日に予定が急になくなったこと、次の週が雨予報だったこともあり急に決めたことだったため、袋井駅到着時点で11時だった。
静橋北交差点で左折すると東海道の続きが始まるが、少しだけ進んで観福寺に寄る。
観福寺は山号を袋井山(ていせいざん)という。延暦12年(793年)に天台法華宗寺院として、ここに建立され袋井の地名の発祥の地となっている。
観福寺には狐伝説がある。
昔、観福寺にはたくさんの狐が住み着いていて、そのなかに静御前が持つ初音の鼓の皮を母親と思う子狐がいた。その狐は観福寺の観音様のお告げで「忠信」という人間に化け、源義経とその母、常盤御前を引き合わせることができた、という話である。
静橋北交差点に戻り、東海道を歩き始めるとすぐに問屋場跡がある。
袋井宿で荷物等の継立業務を行っていた場所が問屋場である。
「どまん中丸凧ギャラリー」があったが残念ながら閉まっていた。
高札場が再現されていた。
幕府が人々を治めるため、毒物、火付けなどに関する法令や禁令を掲示した場所を高札場と呼び、正徳元年(1711年)以降に整えられた。
高札場の横には秋葉山常夜灯がある。
火伏の神様、秋葉山三尺坊大権現に対する庶民信仰は江戸時代に盛んで、それで建てられた常夜灯が秋葉山常夜灯だ。
裏を見ると「寛政年代建 昭和四十二年(1967年)再建」と書いてある。
高札場の近くに土塁がある。
いくつかの中小河川をひかえた袋井宿は、背の高い土塁に囲まれていたといわれている。大正時代に撮影された写真には高さ2mをこえる土塁が写っている。土塁の内側には枡形(宿の警護所)があった。この土塁は平成11年(1999年)に再現されたもの。
歩いていくと小さな広場を見つけた。この広場の土地は小野千代子さんが袋井市に寄付し、広場として整備したらしい。
2.澤野医院記念館
「法多山道」と書かれた道標とお堂があった。法多山尊永寺川井別院だ。
奈良時代、聖武天皇は東方からあらわれた観音の夢を見て、その指示にしたがったところ、災厄を免れた。天皇の命をうけた行基は観音の居場所を東方に探したところ、現在の袋井市にたどり着いて、神亀2年(725年)から聖観世音菩薩像を祀ったのが法多山の創建である。ちなみにここから法多山までは6.5kmある。
「春興五十三駄之内 袋井」と「東海道五十三次之内 袋井之図」が飾られていた。
「春興五十三駄之内 袋井」では大きな荷物を背負った馬と大黒様のような旅人に、女将がお茶を差し出している。
「東海道五十三次之内 袋井之図」は女性の旅人を描いていて、伊勢参りに行く途中だろうと考えられている。
「どまん中 うまし酒」と書かれた酒屋を見つけた。
袋井市立袋井西小学校に「東海道どまん中西小学校」と書かれていた。
袋井西小学校の隣に洋館がある。澤野医院記念館だ。
享保12年(1727年)には本道(内科)医として記録されている澤野家は代々袋井の医療を担っていたが現在は閉業し、平成13年(2001年)に澤野医院記念館として開館した。
居宅は安政2年(1854年)に建てられ、洋館は大正5年(1916年)、病棟は昭和9年(1934年)に建てられている。
受付を済ませ、中に入る。廊下を歩き、診察室へ向かう。
ガラス越しに、手術室が見えた。
澤野医院の歴代の医師の写真が展示されている。昭和58年(1983年)に閉院したようだ。
居宅に入る。居宅は純和風建築だ。
採光用の窓から光がさしていた。
丸窓障子がお洒落な和室。
澤野家で使っていた昭和の生活用具が展示されていた。
床の間と仏壇がある部屋。
川村驥山(かわむらきざん)の襖書があった。
川村驥山は袋井市出身の書家である。川村驥山も澤野医院にお世話になったことがあったのだろうか。
座敷にも昔の道具が飾ってあった。
この奥に洋館があるのだが、残念ながら立ち入り禁止。
2階病棟へ向かう途中で、レントゲン室を見た。
X線検査は、X線の透過性を利用して生体内の情報を得る検査法で、現代医学では欠かすことができないものとなっている。私も毎年の健康診断で胸のX線を撮っている。
2階には、澤野先生の書斎があり、趣味のグッズが展示されていた。
篆刻やカメラ、オルガンなど、澤野先生が多趣味だったことが伺える。
病室も展示されていた。
ベッドの上に置かれているものは離被架(りひか)といい、ベッドに取り付けて病人の患部に布団が直接触れないようにするものらしい。
澤野医院の薬袋が展示されていた。
これは薬の調合に使った道具。
これは手術のときに使用したようだ。
受付に戻り、澤野医院をあとにする。ここは澤野医院の受付でもあったようだ。
昔の病院を見る機会はなかなかないので面白かった。そういえば、以前東海道を歩いていて昔の歯科医院を見たことがあったのを思い出した。「東海道を歩く 14.新蒲原駅~由比駅」で登場する旧五十嵐歯科医院だ。
あと、「鬼滅の刃」では主人公、竈門炭治郎は鬼との戦闘後、負傷で鬼殺隊専用の医療施設「蝶屋敷」で療養することが多いのだが、「蝶屋敷」が実在したらこんな感じなのかな、と思った。
澤野医院記念館をあとにして、地理院地図を見たら袋井西小学校のなかに自然災害伝承碑があるのに気付いたので見に行った。
自然災害伝承碑とは、過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に関わる事柄が記載されているモニュメントで、令和元年(2019年)に新設された地図記号だ。
これは「袋井町西国民学校被災児慰霊碑(つゆ光る)」で、昭和19年(1944年)12月7日13時36分に発生したM7.9の昭和東南海地震で、袋井市では死者143人、家屋全壊2,109戸の被害が発生した。袋井西小学校では20人の生徒が犠牲になった。
なお、戦時中だったので、多くの人はまず空襲と勘違いしたらしい。
3.津島神社
東海道を西へ進むと、寺澤家の長屋門を見つけた。これは明治元年(1868年)に建てられたと伝えられる。
幕末の混乱期、東海道の松並木で津島牛頭天王社のお札が見つかった。村人がこのお札を愛知県津島市にある津島神社に納め、ご祭神をお迎えしたのが津島神社の始まりである。
袋井市では慶応3年(1867年)8月13日に上山梨地区で豊川稲荷のお札が降り、8月中旬に袋井宿、9月1日には国本地区で秋葉神社と大頭龍神社のお札が降ったようだ。
これは「ええじゃないか」という現象だと思われる。「ええじゃないか」とは慶応3年(1867年)8月から12月にかけて寺社のお札を降らせ、熱狂的に踊った騒動である。その目的は定かではないが、世直しを訴える民衆運動だったと言われている。
「ええじゃないか」の存在は知っていたが、それで神社ができた話は初めて聞いた。
4.木原
川井交差点で県道413号線に出ると、水準点を見つけた。一等水準点001-239号だ。
設置時期は不明だが、金属標らしい。鉄蓋に隠れて確認できない。
旧道への入口に、「蔦屋版東海道」が展示されていた。
湯を沸かす出茶屋の女主人、高札を見入る駕籠かき、茶をすする職人風の2人連れ、荷物と女性を乗せた馬が描かれ、袋井のおだやかな夕暮れを思わせる。
「夢舞台東海道」の「木原松橋」も見つけた。
旧道を進むと、木原一里塚が復元されていた。
木原一里塚は江戸から数えて61番目の一里塚である。明治以降一度取り壊されたようだが、平成11年(1999年)に復元された。
木原一里塚の少し先に、許禰神社(こねじんじゃ)がある。
ある日、木原の子供に熊野の神が乗り移り、この地に熊野の神を祀れば、洪水を防ぎ、穀物の実りを豊かにするお告げがあった。天災に苦しんでいた村人は、早速、熊野の神を祀った。これが木原権現社の由来で、後に許禰神社と改称した。
許禰神社には関ケ原の戦の勝利祈願のためここを訪れた徳川家康が腰かけた石もある。
平和五十年を六蛙(むか)えるというカエルの石像もあった。
このあたりは古戦場の木原畷である。
元亀3年(1572年)秋、武田信玄は大軍を率いて甲斐国を出発し、遠江国に入ると天方城などを次々と攻め落とした。
信玄は久野城を攻めた後、東海道を西進して木原付近に布陣した。これに対峙する徳川家康の家臣、内藤信成は磐田の三箇野台から偵察の兵を出し、木原集落付近で戦闘となった。これが「木原畷の戦い」である。
その後、徳川勢は信玄から追撃を受けたが、本多忠勝の奮戦があって浜松城へ撤退できたそうだ。
東海道を少し脇道に入ったところに長命寺と笹田源吾供養塔がある。
長命寺は天文元年(1532年)9月に日山天恵和尚が開いた曹洞宗の寺院で、本尊は聖観世音菩薩。
境内には笹田源吾供養塔がある。
天正6年(1578年)夏、遠江のほとんどの城が徳川家康の味方となってしまい、武田勝頼の城は高天神城だけとなってしまった。
勝頼は家康の情勢を伺うため、8月10日に笹田源吾を偵察に出した。ところが木原村で徳川方に味方する木原権現社の神主親子に討ち取られてしまう。
この手柄を家康は喜び、木原権現社の親子は褒美をもらった。しかし平和な時代が訪れても木原村では疫病や災害などが続いた。これは笹田源吾の霊が祟っているのではないかという話が出て、長命寺の境内に供養塔を立て、その前で念仏供養を始めたと伝えられる。これが袋井市指定文化財の木原大念仏である。
笹田源吾供養塔に「徳川家康公のおもいふかき遠江」の旗が立っているが…いいのか…?
東海道に戻り、歩き始めると「木原大念仏」の説明板(駕籠?)があった。
木原大念仏のはじまりは前述したとおりだが、現在でも8月13日・14日に新盆の家をまわり念仏供養を行っているらしい。
「夢舞台東海道」の「木原」を見つけた。
小さな川を渡るとそこが袋井市と磐田市の市境で、カントリーサインを見つけた。
5.全海寺
磐田市のマンホールを見つけた。
磐田市の昆虫のベッコウトンボと周囲は水の字をデザインしたマンホールである「市の昆虫」を設定している市町村は初めて知った。
ベッコウトンボの名前の由来は羽の模様と体色がべっこう色をしていることで、4~6月に見ることができる。絶滅危惧種に指定されており、磐田市内の桶ヶ谷沼が国内有数の安定した生息地といわれる希少な昆虫である。
「須賀神社・大楠」の看板にしたがって左折すると、須賀神社がある。
須賀神社の祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。創建は嘉禄元年(1225年)。
このクスノキは推定樹齢500年、高さ15m、根回り周囲12.1m、目通り周囲10.6mの大樹である。
県道413号線に戻ると「江戸時代の立場跡」を見つけた。このあたりに立場、休憩所があったのだろう。今は何もない。
少し進むと右手側に全海寺がある。全海寺は曹洞宗の寺院である。
全海寺は天文11年(1542年)徳川家康の父、弘忠が曹洞宗天龍院末寺として開山した。御本尊は延命地蔵菩薩、境内に阿弥陀如来が祀られている。そして、境内には下馬地蔵がある。
寛永3年(1626年)8月、徳川家光が将軍職冠位を受けるため、大軍を率いて上洛の途中、全海寺の石地蔵の前を通過しようとした家光の馬が突然暴れ出し、制止もきかず、家光は馬から落ちてしまったが怪我はなかった。家光はここから家臣と同じように歩いて京を目指した。
京都御所につき、家光は輿に乗ることになっていたが、ここで輿には乗らず、歩いて御所に入ろうとしたところ、空の輿めがけて矢が射ち込められた。幸い輿に家光は乗っていなかったので難を逃れた。
このことは全海寺のお地蔵様のご加護だった、と家光は解釈したため、以後全海寺前で乗馬していた人は、必ず馬から降りて通過するようになったという。
このとき、家光は徳川家の守り本尊である延命地蔵菩薩を全海寺に寄進し、これが「下馬地蔵」と呼ばれるようになった。
家康の父が開山した寺院なので、家光を守ってくれたのかもしれない。
県道413号線に戻り、三ヶ野橋で太田川を渡り、そこから旧道に入る。旧道に入るとすぐに、水準点がある。一等水準点第144号だ。
昭和63年(1988年)に設置された標石型の水準点だ。立派な水準点なので古い水準点かと思ったが意外と新しい水準点だった。
「夢舞台東海道」の「三ヶ野」を見つけた。
また違うマンホールを見つけた。
これは旧豊田町のデザインの「熊野(ゆや)の長藤」だが、「いわたし」と書かれているあたり、磐田市合併後に設置されたマンホールだ。豊田町は平成17年(2005年)に磐田市、竜洋町、福田町、豊岡村と合併して磐田市になり、廃止された。
6.三ヶ野七つ道
「夢舞台東海道」の「三ヶ野」の先には、松並木が続いている。
「鎌倉時代の古道」と書かれた看板がある。この道は鎌倉時代の東海道で、大日堂で江戸時代の東海道と合流する。
今度は「大正の道」と書かれた道標を見つけた。ここをそのまま進むと、県道413号線と合流する。
そのまま進むと、「明治の道」だ。明治の道は三箇野秋葉山常夜灯で東海道と合流する。
左側に「江戸の古道」がある。ここを進む。
5月下旬、昼下がり。結構な坂道を上がっていると、汗が出てくる。
坂道を上がりきると、「歴史がうつる三ヶ野七つ道」の説明板がある。
三ヶ野七つ道は、
①江戸期以前の細道…標高38mある大日山の急斜面を蛇行する道
③明治27年(1894年)築造の坂道
④大正6年(1917年)築造の道路…県道413号線と合流
⑤昭和30年(1955年)築造の国道1号線
⑥平成2年(1990年)築造の磐田バイパス
⑦反対側の坂道
これで7つの道らしい。地図にまとめてみるとこうなる。
違う時代の道が交差するところといえば、「東海道を歩く 18.吐月峰駿府匠宿入口バス停~岡部宿柏屋前バス停」の「宇津ノ谷峠」を思い出す。あそこは蔦の細道(江戸時代以前の東海道)、旧東海道、明治のトンネル、大正のトンネル、昭和のトンネル、平成のトンネルの6種類だった。
「東海道を歩く 18.吐月峰駿府匠宿入口バス停~岡部宿柏屋前バス停」のリンクはこちら↓
三ヶ野坂の頂上には、大日堂がある。
ここは戦国時代の古戦場でもある。
戦国時代初期は、遠江地方は今川氏が治めていたが、今川氏滅亡後は徳川家康によって治められた。そこに元亀3年(1572年)武田信玄が遠江に進出し、木原に陣を敷いた。これを迎え撃つため徳川家康は浜松城を出て、三ヶ野(大日堂)、見付宿、一言坂と戦った。
現在では小さなお堂しかないが、ここからの眺望はのどかだった。
7.二子塚古墳
三ヶ野七つ道をあとにすると、住宅街に出た。この消火栓は旧磐田市章のものだ。
周りの丸は「い」を表し、同時に「わ」は和に、さらに「田」を表現し、中央にダイヤを配したもので、平成17年(2005年)に廃止された。
また違うデザインのマンホールを見つけた。
これは旧竜洋町のデザインのマンホールで、タツノオトシゴと波がデザインされている。竜洋町も平成17年(2005年)に廃止された。
また、立場跡(旅人の休憩所)を見つけた。
「二子塚公園・古墳」と書かれた看板に従って、行ってみる。
二子塚古墳は磐田原台地の東端に位置し、ほぼ南北方向に造られた前方後円墳である。二ツ山(ふたつやま)古墳とも呼ばれ、2つの塚が並んでいることから名づけられた。
明治時代に棺をおさめた中心部から馬の飾りなどが発見されている。
また、平成7年度(1995年度)の東部土地区画整理事業に伴って周りをめぐる溝の発掘調査を行った結果、墳丘に並べた人・馬などの埴輪が見つかった。県内最古級の馬に関する遺物であり、埴輪と実物がセットで発見された珍しい例である。
発見された遺物から5世紀後半に造られたことがわかる。中遠地域周辺を治めた有力者の墓と考えられている。
それにしても、古墳は近くで見ても「大きい丘がある」と思うだけで、なかなかわかりにくいと思った。
ちなみに、この周辺の地形をわかりやすく地図に表すと、こうなる。
しばらく道をまっすぐ行くと、「鍋嶋公陣屋」「大久保坂」と書かれた説明板がある。
このあたりに大久保陣屋があったらしいが、大政奉還後廃止されたようだ。
また、この説明板の前にあった坂が大久保坂で、東海道中膝栗毛にも登場するらしい。
少し進むと、また松並木があった。
坂を下ると、「従是西 見付宿 従是東 おおくぼ」という傍示杭を見つけた。
この傍示杭は、平成25年(2013年)に再建されたものである。
さて、これで見付宿に入ったわけだが…実はここから見どころがたくさんあるのにもう8,000字近いので次回に回すことにする。「東海道を歩く 24-2.袋井駅~磐田駅 後編」も近日中にアップする予定なので、お楽しみに。
歩いた日:2023年5月27日
次回記事はこちら↓
【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」 山川出版社
風人社(2015) 「ホントに歩く東海道 第8集」
国土地理院 自然災害伝承碑
https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html
https://www.city.iwata.shizuoka.jp/shiseijouhou/profile/hana_ki_koncfuu_shika/1004446.html
(2023年7月10日最終閲覧)