10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

東海道を歩かない 小田原編

 この前、東海道を歩いたときに小田原城の近くを通ったが行かずに素通りした。

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 あの後、改めて小田原城含め小田原城下町を歩いてみたいと思い、小田原に降り立った。今回は小田原歩きの記録となっている。

1.小田原城へ向かう

 今回はここ、小田原駅東口から出発する。そのまま進むと、錦通りが見えてくる。

錦通り

 錦通りを入るところに小田原市エリア ジオサイトの看板がある。

 所要時間4~5時間で小田原駅から小田原城石垣山一夜城などを経由して入生田駅まで歩くルートだが、このなかで小田原城だけ行って一日が終わってしまった。

 

 おしゃれ横丁というおしゃれ(?)な門の先に店があるのを見つけた。

おしゃれ横丁

 ちらりと見える限りではあるが、おしゃれ横丁のなかに居酒屋があるのは不思議に感じる。

 

 「小田原城 正面入口」と書かれたマンホールがあったのでその方向に進む。

 このマンホールはダイヤ街商店会に5つ設置されており、それぞれ北条氏直北条氏政北条氏康北条氏綱北条早雲がデザインされている。

 この5人は小田原城の城主であった北条五代である。調べたところこのキャラクターは北条五代PRキャラクターとしてデザインされたようだが、どことなく鬼滅の刃に似ていると思ったのは気のせいだろうか。

 関係ないがガンダム小田原城のマンホールもあった。

ガンダムマンホール

 栄町一丁目交差点を直進し、小田原城へ向かう。反対側にだるま料理店本店を見つけた。

だるま料理店本店

 だるま料理店は明治26年(1893年)創業の日本料理店で、店の建物は唐破風入母屋造り、国の有形登録文化財にも指定されている。建物は大正12年(1923年)の関東大震災により倒壊、再建されている。天丼セット1700円(税抜)、寿司1200円(税抜)で、高めではあるが出せない金額ではないので次小田原に行ったときは行ってみようと思う。

 

 裁判所の角を右折すると、鐘楼があった。

鐘楼

 この鐘楼は貞享3年(1686年)の記録のなかに登場しており、300年以上前からあったことになる。しかし昭和17年(1942年)の太平洋戦争の金属類供出命令により応召されてしまった。現在の鐘は昭和28年(1953年)に作られたものである。

 鐘楼のあったところに大手門があったようだ。東側の城下より一段高くなっており、この門より西側は小田原城三の丸で、藩の重臣屋敷が立ち並んでいた。

2.小田原城

 学橋を渡って二の丸に入る。

二の丸跡

 二の丸の建物は、「二の丸御屋形」と呼ばれ、藩主の住まいのほか、藩の政治を司る政庁としての役割があった。なお、本丸は徳川将軍家のための御殿があり、小田原城では藩主は本丸に住んでいなかったことになる。

 二の丸の近くに歴史見聞館がある。

歴史見聞館

 これは小田原城廃城後に建てられた小田原第二尋常高等小学校の旧講堂である。現在はNINJA館として使用されており、なかでは忍者体験ができるようだが、成人女性が1人で入るのはためらわれたのでやめておいた。

 

 さらにその近くには銅(あかがね)門の土塀模型と礎石があった。

銅門土塀模型

 銅門の土塀は荒壁、斑直し、大直し、中塗り、砂漆喰を塗り重ねてできているようだ。ずいぶんいろいろ塗り重ねている。

 少し南側には銅門があった。

銅門

 江戸時代に二の丸正門に位置づけられる門で、この門を通り本丸や天守へと進むようになっていた。平成9年(1997年)に古来の工法により復元された。

 銅門の内部が公開されていた。中にはフォトスポットもあった。

銅門内部

 常盤木坂を登り、常盤木門をくぐる。常盤木門は小田原城の本丸正門である。

常盤木門

 門の名前である「常盤木」とは常緑樹のことを指し、戦国時代から本丸に存在した7本の松に由来している。本丸の正面にあたる多門櫓と渡り櫓を配した枡形門で、小田原城の城門のなかではもっとも大きく堅固につくられていたという。明治3年(1870年)、小田原城廃城とともに解体されたが、昭和46年(1971年)に再建された。

 常盤木門をくぐるとなぜかサル山があった。なぜここにサルがいるのかはわからない。

常盤木門のサル山

 常盤木門をくぐると天守閣が見える。

天守

 ここは本丸で、本丸は徳川将軍家の宿所としての役割を持っていた。将軍家の上洛が途絶えた後も維持されていたが、元禄16年(1703年)の地震によって本丸が倒壊・焼失してからは再建されることはなかった。

 天守閣は元禄16年の大地震後の宝暦2年(1705年)に再建され、明治3年(1870年)の廃城・解体まで存在した。現在の天守閣は昭和35年(1960年)に市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造りで復興されたものである。

 510円払って天守閣に入る。

 小田原城は5階建てで、1階は江戸時代の小田原城、2階は戦国時代の小田原城、3階は小田原ゆかりの美術工芸品・発掘調査結果、4階は明治以降の小田原城の展示がある。5階は小田原城天守の再現と展望デッキとなっている。やや曇っていたが、展望デッキからの眺めは良かった。

 ここで小田原城の歴史について説明する。

 小田原城は、箱根山をひかえた関東の西端に位置し、北方から西方にかけては箱根古期外輪山東麓の丘陵が連なり、西南に早川、北東に酒匂・山王の両川、東南は相模湾に面する要害の地、かつ東西交通の要路東海道をおさえる要衝に所在する。

 小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられている。大森氏時代の城は、現在県立小田原高校がたっている東側の八幡山古郭とよばれる丘陵上にあった。小田原の関所や宿町、東海道など交通上の要所をおさえる目的で、これらを直接監視し得る位置に築かれた城砦が始まりと推測される。やがて領域支配の伸展によりその拠点として、さらには内乱が続きいち早く戦国的様相を呈していた関東の軍事的緊張下のもと、拡張と一層の要害化が進み、15世紀末には相模西郡支配の枢要を担う存在となった。

 1500年頃に戦国大名小田原北条氏の居城となってからは、関東支配の中心拠点として拡張整備が行われ、二の丸・三の丸と城地は拡大していった。永禄4年(1561年)に上杉謙信、永禄12年(1569年)には武田信玄が来襲するが退却した。豊臣秀吉の来攻に備えて、天正18年(1590年)三の丸の外側に町全体を囲む総延長9kmの惣構えが完成すると、城の規模は最大に達して日本最大の中世城郭となった。

 豊臣軍は天正18年(1590年)3月29日に山中城を落城、4月5日には秀吉が早雲寺に本陣を構え、同月中旬には小田原城の包囲が完成した。和睦交渉は6月初旬から始まり、6月6日・7日には織田信雄の家臣岡本利世が小田原城内に入り北条氏直と対面し、7月5日に北条氏直は弟の氏房とともに滝川雄利の陣所に投降、7月6日には徳川家康小田原城は接収された。

 江戸時代になると小田原城徳川家康が支配、関東に入国した徳川家康重臣大久保氏が城主となるが、大久保忠隣改易後の慶長19年(1614年)1月に、二の丸・三の丸の城門や櫓などが破壊された。その後寛永9年(1632年)~貞享2年(1685年)の稲葉氏が城主のときに、幕府の手による再建(公儀普請)が行われ、石垣積みの近世城郭としてうまれかわった。貞享3年(1686年)に再び大久保氏が城主になってからは、いくたびかの災害に見舞われながらもその都度再建が行われ、明治維新後の明治3年(1870年)に廃城、ほとんどの建物は解体されたが、昭和35年(1960年)に天守閣が再建されたのをはじめ、その後順次再建されていき、現在に至る。

 

 現在13時半で、少しお腹が空いてきたので本丸茶屋で北條うどんを食べた。

北條うどん

 小田原特産のかまぼこと梅干が入っている。私は甘い梅干のほうが好きなので、しょっぱくてすっぱいこの梅干はなかなかパンチがあるように感じた。梅干が入ったうどんは斬新だと感じたが、美味しかった。

3.小田原城址公園

 小田原城内にはこども遊園地がある。豆汽車、バッテリーカー、自動遊器具がある。なお、豆汽車以外は大人が遊ぶことはできない。そして豆汽車はコロナ対策で走っていなかったので、結局遊具を見て回るくらいしか大人はすることがない。

 それでもこのような小さな遊園地は好きなので、写真を撮って回るだけでも楽しかった。

 

 報徳二宮神社に向かう前に、小田原城小峯曲輪北堀があった。

小田原城小峯曲輪北堀

 この空堀は小峯曲輪を囲む堀の北側の部分で、石垣を用いない土塁と空堀だけの戦国時代の城の原形を留めている貴重な遺構である。

 

 こども遊園地の南隣に報徳二宮神社がある。

報徳二宮神社

 報徳二宮神社二宮尊徳を祀る神社である。二宮尊徳は報徳社を設立して農村の救済・教化運動を行っていたが、二宮尊徳の死後も報徳社は存続し、報徳社員が明治27年(1894年)に報徳二宮神社を創建した。

 境内には二宮尊徳こと二宮金次郎像もある。

二宮金次郎

 この像は当時のメートル法普及の意図を反映してちょうど1mの高さに作られている。

 

 報徳二宮神社を出て、小田原市郷土文化館に向かう途中に見事な藤棚があった。これは御感の藤と言われるものである。

御感の藤

 大正天皇が皇太子のとき、ここを通りかかったときに馬が藤棚の中に入ってしまったため殿下の肩に花が散ってしまった。周囲の人が恐縮するなか、殿下は「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたため、「御感の藤」と呼ばれるようになった。

 

 小峯橋を渡って小田原城内に戻る。

小峯橋

 小峯橋は御茶壷橋という名でも親しまれている。この名前は江戸時代に宇治から将軍家にお茶を献上する際の御茶壷道中と呼ばれる行列に由来している。

 

 小峯橋から少し北へ行くと小田原市郷土文化館がある。

小田原市郷土文化館

 小田原市郷土文化館では奈良時代から江戸時代までの資料が展示してある歴史資料室、明治以降の資料が展示してある文化人資料室、縄文~古墳時代の土器等が展示してある考古資料室、農具などが展示してある民俗資料室、小田原の動植物が展示してある自然科学資料室がある。そしてこれらの展示がすべて無料で見ることができる。展示内容が充実していたので、2時間も展示を見てしまった。天守閣には結構人がいたのに、ここにはほとんど人がいない、穴場スポットだ。展示が気に入ったら常設展示ガイド「小田原の歴史と民俗」を購入するのがおすすめだ。

 

 銅門をくぐり、馬屋曲輪に出る。

馬屋曲輪

 馬屋曲輪はL字形を呈する独立した曲輪である。この曲輪は三の丸より東側は馬出門、南側は南門を経て御茶壷曲輪から二の丸表玄関である銅門へと至る重要な位置にある。

 

 馬出門をくぐって小田原城を出る。

馬出門

 馬出門は三の丸から二の丸に向かう大手筋に位置する門である。寛文12年(1672年)に枡形形式に改修され、江戸時代末期まで存続した。石垣と土塀で四角く囲んだ枡形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門、内冠木門の2つの門から成る。

 

 お堀端通りを南進して、御幸の浜交差点で右折して東海道を歩く。「東海道を歩かない」だが、ここだけ東海道を歩く。

 

 前回ういろうを買いそびれた「ういろう」の店でういろうを買う。

 切って食べるものなのですぐここで食べることはできなかったが、持って帰って家で食べたら甘くて美味しかった。

 

 早川口交差点で右折して小田原駅方面まで歩く。東海道から小田原駅までは結構距離がある。これが「東海道を歩く」で小田原駅終了とせず、箱根板橋駅終了とした理由である。

 

 そのまま歩き続けると小田原駅東口に到着する。

 これで小田原まちあるきは終了である。もし、また行く機会があれば石垣山一夜城などにも行ってみたい。

 

【おまけ】

 歩き終わった後に温泉に入りたくなった。そこで寄ったのが小田急小田原線沿線にある鶴巻温泉である。

 鶴巻温泉・弘法の里湯はpH8.5のカルシウム・ナトリウム塩化物泉で、神経痛、筋肉痛、きりきず、冷え性うつ状態、皮膚乾燥症などに効能がある。温泉で疲労を回復してから、帰路についた。

今回の地図

今回の地図 小田原城周辺

歩いた日:2022年4月17日

【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川県の歴史散歩」 山川出版社

小田原市郷土文化館(2021)「小田原市郷土文化館 常設展示ガイド 小田原の歴史と民俗」

小田原市 北条五代PRキャラクター活躍中!!

https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/ki-20150144.html

だるま料理店

https://darumanet.com/

小田原城

https://odawaracastle.com/

報徳二宮神社 神社について

https://www.ninomiya.or.jp/info/

秦野市 弘法の里湯

https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1001000001157/index.html

東海道を歩く 10.箱根神社入口バス停~三島広小路駅

 前回は箱根板橋駅から箱根神社入口バス停まで歩いた。今回は箱根神社入口バス停から三島広小路駅まで歩く。箱根峠までは少し登り、あとは下り坂だ。しかし距離が長く、10時に箱根神社入口バス停に到着してから三島広小路駅に到着したのが18時となった。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.賽の河原

 箱根神社入口バス停から出発する。

 ここで、昨日ルートを間違えていたことに気づく。そこで確実にルート上であるケンペル・バーニー碑まで戻る。

 ここから車道に出るのが正解だったようだ。

 

 箱根神社の鳥居や箱根海賊船乗り場が見える。

 箱根神社に寄ったり、箱根海賊船に乗ったりしたいものだが、そのようなことをしていたら確実に三島広小路駅まで行けなくなるので今回はスルーする。

 

 目の前に多数の石碑が見える。賽の河原だ。

賽の河原

 ここは地蔵信仰の霊地として、江戸時代東海道を旅する人々の信仰を集めていた場所である。かつて箱根の山は東国と西国を分ける境の山、いわば地の果て、境界とされていた。噴煙を上げ、霧が立ち込める箱根はこの世の果てを思わせる荒涼とした光景であったことから、そこには死者が集まる賽の河原があると信じられ、死者たちを救うといわれた地蔵菩薩を祀っていたものと思われる。

 江戸時代はなんと3ヶ所も賽の河原があったらしい。1つはここ芦ノ湖畔、そのほか精進池畔の賽の河原(ここは元賽の河原と呼ばれていたらしい)、山伏たちの修験の場であった姥子の地獄沢も賽の河原と呼ばれていた。

 しかし明治時代に入ると廃仏毀釈から多くの石仏が失われ、観光開発で規模が縮小した。それでも残った石仏、石塔の一部は鎌倉時代後期に作られたもので、大変貴重なものである。

 江戸時代は東海道を旅する人々の信仰を集めていたとはいえ、現在箱根に来ている人のほとんどはこの賽の河原に気がついていないようだった。

 

 賽の河原の近くに身替わり地蔵がある。

身替わり地蔵

 宇治川の先陣争いで名高い梶原景季がここを通りかかったとき、父景時に恨みを持つ何者かに父と間違えて斬りつけられた。そのとき傍らにあった石地蔵が身替わりになって危機を免れることができたので、景季の身替わり地蔵と呼ばれるようになった。この地蔵には右肩から胸にかけて大きな割れ目が走っているそうだが、赤い布に隠れて見えない。

 

 ここで芦ノ湖を見る。

芦ノ湖

 芦ノ湖は約3100年前に誕生したと考えられる。神山の水蒸気爆発により神山北西部が大きく崩れ、その土砂が川をせきとめてしまったため形成された。晴れた日はここから富士山が見えるようだが、残念ながら見えなかった。

2.箱根関所

 ここに一里塚跡がある。

葭原久保の一里塚

 ここは江戸から24里目の一里塚で、葭原久保の一里塚とされている。今は碑が立つのみである。

 

 一里塚の少し先から杉並木があるので、そこを通っていく。

 昭和59年(1984年)の調査によると、杉の樹齢は最大で377年のようなので、東海道ができた初めの頃に植えられたことになる。杉並木は、夏は緑陰、冬は防雪になり、街道の維持に欠かすことができない。最近は国道1号を通る自動車の排気ガスで杉が弱っており、文化財保護上大きな問題となっている。

 ここは平坦な杉並木なので歩きやすい。

 

 恩賜箱根公園の南側に、箱根関所がある。

箱根関所

 箱根関所は東海道を監視するために設置された関所である。箱根の関所は東海道に沿って東西にトチ葺きの江戸口御門、上方口御門で仕切られ、門の中の芦ノ湖寄りには手形などをあらためる大番所、山寄りには足軽番所があった。門の外にはそれぞれ「千人溜り」と呼ばれる広場があって、旅人はここで調べの順番を待った。旅人が関所を通るにはさまざまな検査が行われ、特に江戸から関西方面に向かう「出女」の場合は厳しい検査が行われた。関所の管理は小田原藩にまかされていて、役人として番頭1人、横目付1人、月交代の定番5人、兵5人、足軽25人が配置され、関門の開閉は明け6つ(午前6時)と暮れ6つ(午後6時)に行われた。これは朝夕とも人の顔の見分けがつく刻限となっている。

 箱根関所と箱根関所資料館で一般500円である。チケットは箱根関所資料館で購入する。

箱根関所資料館

 箱根関所資料館の館内は撮影禁止のため写真はないが、充実した展示内容だった。

 箱根関所内には関所の様子が人形を用いて説明されている。

 この部屋では番士と定番人が通行改めを行っている。

 

 また、この部屋では人見女が女性の旅人の取り調べを行っている。

 

 遠見番所は本来見張り施設であるが、現在はビュースポットになっている。

3.箱根駅伝ミュージアム

 箱根関所を通り過ぎてしばらくすると、右手側に箱根駅伝ミュージアムがある。

箱根駅伝ミュージアム

 箱根駅伝とは東京の読売新聞社前から箱根の芦ノ湖の間約108kmを5区、往復10区に分けて競う駅伝競走で、1/2~1/3に行われるためお正月の風物詩となっている。私は箱根駅伝常連校である駒澤大学の卒業生であるため、見に行くことにした。館内では箱根駅伝の歴史が年度別に説明されているほか、箱根駅伝グッズも売られており、私は駒澤大学のタオルを購入した。

4.箱根峠

 ここで国道1号線を離れる。足元にある表示が目印だ。

 すぐそこに、駒形神社がある。

駒形神社

 駒形神社駒形大神が祀られており、駒形大神とは天御中主大神(あめのみなかぬしのかみ)、 素戔鳴尊(すさのおのみこと) 、大山衹神(おおやまづみのかみ)の3柱のことである。

 また、境内には犬塚明神もある。

犬塚明神の説明板

 犬塚明神には次のような話が伝わっている。元和4年(1618年)、箱根宿が創設されたとき、付近にはたくさんの狼がいて建設中の宿の人々を悩ませていた。このため唐犬2匹を飼って狼を退治させ宿場を完成させたが、唐犬も傷ついて死んでしまった。そこで人々はここに埋めて犬塚明神と崇め祀った。

 

 東海道の石畳に入る前に、芦川の石仏群がある。

芦川の石仏群

 もとは芦川集落内の駒形神社境内にあった石仏群を移したものとされている。ここには万治元年(1658年)の庚申塔をはじめ、江戸時代後期に建てられた多くの巡礼供養塔などがある。

 

 また石畳を登っていく。

 途中に赤石坂、釜石坂、挟石坂の説明板があるが、坂の由来は書いていない。この歩きにくい石畳の上り坂もあと少しと思えば、頑張れるものである。

 

 国道1号に合流し、しばらく登っていくと、静岡県カントリーサインが見えてくる。

 標高846m、箱根峠。ここが神奈川県と静岡県の県境である。国道建設以前には相模・伊豆両国の国境を示す標示杭が立っていたそうだが、現在は見当たらない。やっと静岡県に入ることができたと、喜びの感情が湧き上がってきた。だが喜ぶのはまだ早い。坂を下りて、三島広小路駅に到着するのがゴールだ。

5.静岡県に入る

 そのまま国道1号を進み、箱根エコパーキングに入ると峠の地蔵がある。

峠の地蔵

 ここは平成15年(2003年)に8人の女性による揮毫を得て、石碑を設置した。揮毫を得た女性のなかには、「おしん」の橋田寿賀子黒柳徹子などもいる。

 

 「静岡県へようこそ」という歓迎の掲示板を見た少し先に、「箱根旧街道通行止めのお知らせ」と書かれた掲示板を見つけた。歓迎されているのかいないのかわからない。

静岡県へようこそ

 通行止めでがっかりする反面、アスファルトの歩きやすい道を進めると思った自分がいた。

 アスファルトの道は見どころが何もないが、歩きやすい。

 そして、通行止めの出口と思われる場所を見つけた。

 やはり、こちらからも入れないようだ。

 足元にまた箱根旧街道の表示を見つけたらまた舗装されていない道に入る。

 ここには接待茶屋があったらしい。

接待茶屋

 文政7年(1824年)、江戸呉服町の加勢屋興兵衛が私財を投じて無料で粥や焚火、飼葉を提供する「人馬施行小屋」と呼ばれる接待所を開設した。道に迷ったり、上り下りに疲れたりした往来の旅人たちは、ここでのもてなしに励まされて元気を回復して旅立っていったそうだ。昭和45年(1970年)に茶釜を降ろした。意外と最近まで茶屋があったことになる。

 

 旧街道に入るとすぐにかぶと石がある。

かぶと石

 これは兜を伏せたような形をしているからかぶと石と呼ばれているとも、豊臣秀吉が休息した際に兜をこの石の上に置いたからかぶと石と呼ばれているとも、源頼朝がこの坂を上ったときにあまりの急坂に降参して兜を脱いだからとも言われている。昭和初めに国道1号線から移設された。

 

 明治天皇御小休趾を見つけた。

明治天皇御小休趾

 明治元年(1868年)10月8日、明治天皇御東幸の折、ここで休まれ、山越しに望む富士山と眼下の駿河湾の景観を賞覧されたという。当時、ここには「ビンカ」という甘酒茶屋があったという。ビンカはここの方言でイヌツゲのことを指し、茶屋の脇に大きなビンカの木があったことからその名がついたという。

 

 少し進むと今度は下りの石畳が見えてきた。

 登りの石畳よりは歩きやすいが、山の中で誰もいないので少し怖い。

 

 念仏石を見つけた。

念仏石

 この念仏石の前に、「南無阿弥陀仏 宗閑寺」と刻んだ碑がある。この碑は宗閑寺が旅の行き倒れを供養して建てたものとみられ、そのためこの碑を念仏石という人もいるらしい。いずれにしろ箱根の山越えで多くの人が病や疲労で非業の最期を迎えたことを示すもののひとつといえる。

 

 箱根旧街道案内図を見つける。

箱根旧街道案内図

 行きたいと思っている山中城跡まで1.3km、平地ではなく山道なので遠く感じる。

6.願合寺地区

 国道1号に合流し、また少し進むと階段が現れるので階段を降りる。

 そこに函南町三島市カントリーサインがある。

 割と函南町はすぐ終わってしまった印象だった。

 

 ここ、願合寺地区に石畳が敷かれたのは延宝8年(1680年)だが、平成7年度(1995年)に石畳の活用を図る目的で復元・整備した。平成7年度(1995年)に発掘調査も行われ、そこで発見された一本杉石橋は保存状態が良好のためその場所に整備・復元された。

 

 石畳を出るところに雲助徳利の墓がある。

雲助徳利の墓

 この墓に葬られている松谷久四郎は西国大名の剣道指南役だったものの大酒飲みで事件を起こし国外追放、箱根で雲助となった。そこで雲助をいじめる武士から雲助を守ったり、文字が読めない雲助のかわりに手紙の読み書きをしたりするうちに雲助たちから親分のように慕われるようになった。結局酒が原因で亡くなった。酒を愛し、酒を楽しみ、酒のなかで一生を終えた久四郎のために彼を慕う雲助や百姓たちが彼にふさわしい徳利と盃を刻み込んだこの墓を建てて感謝の気持ちを表したという。酒飲みの墓なので、時たま場所が変わることがあるらしい。

 

 ここで国道1号に合流する。反対側には山中城跡があるので、寄ってみる。

7.山中城

 山中城跡は小田原に本城のあった北条氏が永禄年間(1558年~1570年)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。箱根山西麓の標高580mに位置する自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国時代末期の天正18年(1590年)3月、守将松田康長と約4,000の北条軍は、羽柴秀吉を総大将とする豊臣軍40,000の総攻撃を受け必死に防戦に努めたものの、圧倒的な兵力の前に僅か半日で落城したと伝えられる。遺跡の保存状態は良好であり、説明板も設置されて、史跡公園として整備されている。

山中城跡・障子堀

 山中城跡で特徴的なのが障子堀で、上から見ると空堀のなかに衝立障子のような堀残しがあることからそう名付けられた。これらは水のない空堀に畝を残し、敵兵をさえぎる北条流築城術の特徴をよく示すものである。

 また、山中城内は結構広く、一周歩き回るのに30分もかかってしまった。城域は約25万㎡におよぶ。

 

 山中城跡の近くに宗閑寺がある。

宗閑寺

 宗閑寺は浄土宗の寺院で、山中城廃城後の慶長10年(1605年)または元和6年(1620年)に徳川家康の愛妾於久の方によって建立されたといわれている。於久の方は、岱崎出丸で討死した小田原方の副将間宮豊前守康俊の娘で、敵ながらあっぱれな死にざまに共感を覚えた徳川家康が、その娘を駿府に招き側室にしたという。境内には豊前守康俊兄弟と山中城主松田右兵衛太夫箕輪城主多米出羽守平長定と豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末の墓碑が並んでいる。北条軍と豊臣軍は敵対していたはずだが、隣に並んでいるのはどういうことか。

宗閑寺墓地

 道を進むと、山中城跡案内所、売店がある。そこで御城院をもらい、寒ざらし団子を食べた。

ざらし団子

 上新粉を冬の寒い時期に、干した米を粉にして作ったことから寒ざらしという名前がついたそうだ。団子は素朴な味で、お腹が満たされた。

8.石畳を降りる

 山中城跡案内所の裏にまた石畳が続いている。

 ここ、腰巻地区は平成6年度(1994年)に復元されたようだ。発掘調査の結果、石畳はローム層の土の上にこの付近で採石したと思われる安山岩を敷き並べていたことが判明した。

 

 菊池千本槍の碑を見つけた。

菊池千本槍の碑

 建武2年(1335年)この付近であった水呑峠の合戦で、後醍醐天皇の命を受けた先鋒菊池肥後守武重の一千余の兵は、槍の原型となる竹竿の先に短刀を括り付けた武器で足利勢に大勝利した。九州へ帰国したのち武重は刀工延壽に槍を作らせ、後にこれが菊池千本槍と呼ばれたそうだ。

 

 国道1号を通りまた石畳を降りる。

 ここ浅間平地区は平成8年度(1996年)に復元・整備された。石畳が残っている部分はそのままの状態で保存し、石畳が残っていなかった場所は下部基礎を設けた後、安山岩を敷設したそうだ。箱根の石畳よりも平坦な部分が多く、少しだけだが歩きやすい気がした。

下部基礎がある石畳

 右手側に車がたくさん駐車されている。ここは三島スカイウォークだ。

三島スカイウォーク

 平成27年(2015年)に営業開始した日本で一番長い吊り橋である。少し興味はあるが、先を急ぐ。

 

 笹原一里塚を過ぎるとアスファルトの道となる。しかしここはアスファルトが急だ。

こわめし坂

 ここは「こわめし坂」といい、急勾配で背負った米も人の汗や蒸気で蒸されて、強飯(こわめし)のようになるためこの名がついた。

 

 こわめし坂を過ぎると松雲寺がある。

松雲寺

 松雲寺は日蓮宗の寺院で、尾張紀伊両大納言をはじめ、東海道を往還する参勤交代の大名たちの休息所となり、朝鮮通信使や徳川14代将軍家茂、15代将軍慶喜公などの寺本陣となった寺院である。また、明治天皇も「三ツ谷新田御小休所」として使用したという。

明治天皇史蹟

 三島宿の案内板のあるところを右に入る。

 また案内板のあるところを右折すると題目坂を下ることになる。

題目坂

 題目坂は玉坂妙法華寺への道程を示す題目石から名づけられたと言われる。題目石は坂を下りたところにある法善寺に移されている。

 

 少し進むと六地蔵を見つけた。どう見ても13人いるように見える。

六地蔵

 六地蔵に13人お地蔵さんがいたことを友人に話したら、「鎌倉殿の13人と関係があるのでは?」と言われたが、多分ないと思う(言ったほうも冗談として言ったのだろう)。

 

 また少し細い道に入り、少し先に進むと石畳が待っていた。

臼転坂

 ここは臼転坂で、牛がこの道で転がったとか、臼を転がしたため、この名がついたと言われている。

 

 臼転坂を過ぎると左手側に普門庵があった。

普門庵

 普門庵は鉄牛和尚が聖観音像を背負って相模国から京都に向かった際、ここで像が重くなり歩けなくなったことから「観音様がここに留まりたいとお望みだ」と思い、ここに堂を建立したのが始まりである。そういえばよく似た話を境木地蔵尊でも聞いた気がする。境木地蔵尊について詳細はこちら。

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 三島塚原IC交差点の少し前で、国道1号に合流する。合流点に「箱根路」と書かれた石碑があり、「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」という馬子唄が書かれている。

箱根路

 伊豆縦貫自動車道を陸橋で越えると、歩道に石畳が現れた。

 江戸時代に敷かれた石畳よりは歩きやすいが、歩き疲れた足をひきずる身からしたら「もうやめてくれ」と少し思った。ここは平成2年(1990年)に遊歩道として石畳が整備されたようだ。

 

 石畳を歩いていくと立派な一里塚が現れた。錦田一里塚だ。

錦田一里塚

 錦田一里塚は日本橋から28里(約112km)の地点にあり、一対の一里塚が旧態を保って残っているので国指定史跡になっている。立派な一里塚である。

 

 石畳と松並木がしばらく続く。

 源頼朝が箱根権現に参詣の折、この原で鶯の初音を賞美したことからその名がついたとされる「初音が原」から三島宿に向けての約1kmには、約450本の松並木が残っていて、一里塚とともに江戸時代の様子を偲ばせてくれる。花粉症にとっては杉より松のほうがありがたい。

 

 五本松交差点で右に進み、石畳に入る。ここは愛宕坂だ。

愛宕

 江戸時代には愛宕社ほかの社寺があったが、現在は「愛宕山」と刻んだ碑だけが残っている。なお、ここが最後の石畳である。長い石畳の道が終わった。

 

 東海道本線の踏切のところに「日本遺産「箱根八里」」と「箱根旧街道入口」の看板がある。

 ここで日本遺産の「箱根八里」は終わり、ということだろうか。もう三島宿にだいぶ近い。長い峠越えだった。

9.三嶋大社

 新町橋を渡る。

 新町橋は、このあたりが新町と呼ばれていたことから名づけられた大場川に架かる橋で、江戸時代には東海道五十三次の三島宿の出入り口として多くの旅人がこの橋を渡っていた。長さは19間(34.6m)、幅3間(5.5m)の欄干を持つ板橋だったという。

 

 しばらく県道22号沿いを進むと、右手側に三嶋大社の大鳥居が見える。三嶋大社に参拝する。

三嶋大社

 三嶋大社伊豆国一宮で、祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)の2柱である。創建時は定かではないが、古くからこの地にあって三嶋大明神と称し、富士火山帯の根本の神、伊豆の国魂の神、国土開発の神として信仰されてきた。

 源頼朝が挙兵に際して源氏再興を祈願したことは有名で、境内には頼朝、政子の腰掛石、安達藤九郎盛長警護の跡などがある。さらに鎌倉時代には源実朝から惟康親王までの歴代将軍が参詣し、南北朝時代には足利尊氏らが戦勝祈願した。戦国時代には今川氏や北条氏との関係が強かった。江戸時代には、東海道に面し下田街道との分岐点に位置していたことから街道を行く多くの旅人たちも参詣に立ち寄り、三嶋大社の名は広く世間に広まった。

 御朱印をいただこうと思ったが、到着したのは17時半、社務所はもう閉まっていた。

 

 三島市のマンホールを見つけた。

三島市のマンホール

 このマンホールには市の花、三島桜がデザインされている。三島桜はソメイヨシノの起源を知る実験上で生まれた桜で、三島市の新庁舎が完成したときに生まれたのでその名がついたそうだ。

 

 進行方向左側に小さな川を見つけた。御殿川だ。

御殿川

 御殿川の名は3代将軍徳川家光が宿泊するために造ったという御殿の東側を流れていたことに由来している。御殿川は白滝公園付近の水門で桜川から分流するが水量が多いため「どんどん」と呼ばれているそうだ。

 

 三島宿は宿場を示す案内板は少ないが、世古本陣跡と樋口本陣跡の案内板を見つけた。

世古本陣跡

樋口本陣跡

 三嶋大社には樋口本陣の茶室「不二亭」も移築されているようだが、気がつかなかった。

 

 また小川を見つけた。四ノ宮川と言うらしい。

四ノ宮川

 古代より小浜池の宮島に伊豆四宮広瀬神社が祀られており、ここを源流としていたためこの名がついたようだ。昔は中郷の耕地を潤していたが、広瀬橋から南に水路が開かれて水流が減少してしまったそうだ。

 

 三島広小路駅前に蓮馨寺がある。(蓮馨寺は川越にもあったような…)

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蓮馨寺

 「芭蕉老翁墓」があり、松尾芭蕉が眠っているのか?と思いきや実際の松尾芭蕉の墓は滋賀県大津市の義仲寺にある。ではこれは何なのか…?

芭蕉老翁墓

 蓮馨寺の道路の反対側に三石神社と時の鐘がある。元御殿川の川辺に三ツ石と称する巨石があり、その上に社殿を建て稲荷の神を祀ったのが三石神社の始まりである。

三石神社

 三石神社の境内には時の鐘がある。

時の鐘

 寛永年間に初めて作られ、宝暦11年(1761年)に新たに大鐘が鋳られ三石神社境内に建設された。戦時中は太平洋戦争に供出されたが、戦後の昭和25年(1950年)に「平和の鐘」として復興した。大晦日には除夜の鐘に使われるそうだ。

 

 うなぎの良い匂いがする。そういえば三島の名物はうなぎだった。富士山からの綺麗な水が湧き出る三島のうなぎは臭みがなく江戸時代から人気だったそうだ。一瞬そそられたが、値段を見てやめた。

 

 現在18時。やっと三島広小路駅に到着した。

 このJALのロゴは平成14年(2002年)から平成23年(2011年)に使われたもので、ラックに書かれているロゴのJASは平成16年(2004年)にブランドが消滅している。つまりこのラックは平成14年(2002年)から平成16年(2004年)に設置されたものということになる。

 

 三島広小路駅から1駅で三島駅に到着する。三島駅からなら頑張れば在来線で帰ることができるが、頑張れなかったので新幹線課金。夕飯は三島駅で買った伊豆山海おぼろ寿司と、伊豆の国ビール。

 静岡県まで歩いてこられた歓喜が胸の中に沸き上がってきたので、ビールで流し込んだ。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2022年3月21日

 

【参考文献・参考サイト】

静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」 山川出版社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川県の歴史散歩」 山川出版社

風人社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」

風人社(2013)「ホントに歩く東海道 第4集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社

大石学(2021)「地形がわかる東海道五十三次朝日新聞出版

箱根全山 芦ノ湖

https://www.hakone.or.jp/6317

よみがえった箱根関所 箱根関所のこと

https://www.hakonesekisyo.jp/db/data_inc/inc_frame/fr_data_01_02.html

駒形神社

http://komagata-jinja.jp/

三島市観光Web 山中城跡公園

https://www.mishima-kankou.com/spot/282/

攻城団 寒ざらし団子

https://kojodan.jp/castle/64/memo/1783.html

人力 菊池千本槍の碑

https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/hakone_mishima/kikuchisenbonyarinohi.html

静岡・浜松・伊豆情報局 【マンホールで知る町自慢】三島市

https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/izu/mishima-city/manhole-9/

静岡新聞SBS 三石神社

https://www.at-s.com/facilities/article/view/place/137280.html

(2022年5月20日最終閲覧)

うさぎの気まぐれまちあるき 都内のちょっと変わったお地蔵さん巡りツアー

 2022年4月3日は「地図ラーの会」のイベント、「都内のちょっと変わったお地蔵さん巡りツアー」に参加した。変わったお地蔵さんといえば東海道を歩く 7.藤沢本町駅平塚駅 に登場した「おしゃれ地蔵」を連想するが、都内にも変わったお地蔵さんがいろいろあるらしい。信仰の奥深い世界に、今回はご招待する。

↓おしゃれ地蔵についてはこちらを参照

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1.犬塩地蔵

 錦糸町駅を出て、錦糸公園に向かう。

 大正12年(1923年)に発生した関東大震災後の帝都復興事業で整備された公園のひとつが錦糸公園である。以前は旧陸軍の糧秣廠(りょうまつしょう)倉庫敷地だったが、約3年の工事期間を経て昭和3年(1932年)7月に錦糸公園が開園された。

 開園以来第二次世界大戦の被災やその後の改変によって開園当時のものはほとんど残っていないものの、この門柱は奇跡的に残ったようだ。

 

 錦糸公園を出たら亀戸天神社に向かう。

亀戸天神社

 祭神は天満大神(菅原道真)と天菩日命(菅原家の祖神)である。正保3年(1646年)創建、古くは「亀戸宰府天満宮」と称されていたが昭和11年(1936年)に亀戸天神社と正称した。この神社の名称としてはほかにも、亀戸天満宮、本所宰府天満宮、東太宰府天満宮、本所宰府天神、亀戸神社などと称されているが、それらの名称はあまり人々には知られていない。また、天神様につきものの梅はもちろん、亀戸天神社では藤の花が江戸時代から名物である。

 

 亀戸天神社の境内に犬塩地蔵がある。

犬塩地蔵

 犬塩地蔵は犬の形をしたお地蔵さんに塩がかけられている。一説によると、台風などで風が強いとき、商人たちが隅田川から堅川に舟をつないで風待ちをし、その際暇を持て余すので亀戸天神に詣でたついでに犬地蔵に塩をお供えしたらしい。ただ、確証のない話なので亀戸天神社の「境内のご案内」には犬塩地蔵は紹介されていない。

2.カンカン地蔵・リストラ地蔵

 亀戸天神社を出たら浅草寺に向かう。途中に「東京帝国大学柳島セツルメント跡」があった。

東京帝国大学柳島セツルメント跡

 東京帝国大学セツルメントは大正12年(1923年)に設立され、成人教育や市民図書などの事業を行っていた。当時は小学校を卒業するとすぐ働きに出るのが通例で、そうした人々を対象に生活面の援助をしながら自立した市民としての知識を得させようという考え方はほかの慈善事業とは一線を画していた。国家総動員法が成立した昭和13年(1938年)、東京帝国大学セツルメントは解散した。

 

 このあたりはスカイツリーが近く、スカイツリーと記念撮影ができる「Reflect scape」というモニュメントがある。

Reflect scape

 説明板には「「東京スカイツリーを見るということは、東京スカイツリーの方向を見上げること」そんなお決まりのスタイルを変えてみよう」と書かれている。

 

 小さな石碑を見つける。「御巡幸記念」と刻まれている。

御巡幸記念

 天皇陛下が巡幸したときにでも建てられたのだろうか。形状的に道路元標かと思ってしまった。

道路元標の例(宮崎市道路元標)

 ビールの泡を乗せた(違うものに見えがちだが気のせい)、アサヒビール本社の北側には吾妻橋があり、そこにあづま地蔵尊がある。

ビールの泡…らしいよ?

あづま地蔵尊

 普通のお地蔵さんだが、関東大震災の犠牲者を供養するために建てられた。

 

 ここで結婚式の行列を見かけた。「うちの娘は結婚式が大好きで、また結婚式やりたいって言うのよ」という年配の参加者の方と、「まだ結婚式は先ですね」という私が会話する。世代を超えた交流ができるのもイベントの魅力である。

 

 すみだリバーウォークの北詰に山の宿の渡しの碑がある。

山の宿の渡し

 昔は隅田川に橋が架けられず、対岸に渡りたければ渡船に乗る必要があったらしい。渡しの名前はこの付近の町名、「山ノ宿町」からとられたようだ。

 

浅草寺

 浅草寺推古天皇36年(628年)に創建された。この年の3月18日、漁師の檜前浜成(ひのくまはまなり)、檜前武成(ひのくまたけなり)兄弟が宮戸川(隅田川の古称)で投網をしていると、金の観世音菩薩像が網にかかり、兄弟の主人土師真中知(はじのまひとなかとも)と相談し、中知邸にその仏像を奉安したのが始まりである。この3人は浅草寺本尊拾得の功で神にまつられ、浅草寺の祭神「三神様」となった。江戸時代の浅草寺は、浅草の観音様の名で親しまれ、江戸庶民の信仰を集め、参詣人でにぎわった。明治4年(1871年)、浅草寺境内地は新政府に没収され、同6年(1873年)、太政官布達にもとづき、その一部が公園地に指定された。

 浅草寺の境内にはいろいろなものがあるが、そのなかのひとつがカンカン地蔵である。

カンカン地蔵

 このお地蔵さんは原型をほとんど残していない。それは、お参りする人が小石でお地蔵さんを叩いたため、このようになったという。そのとき「カンカン」という音が鳴るので「カンカン地蔵」と呼ばれるようになったそうだ。

 

 ここで昼食休憩となった。私は境内のたこやき屋でたこやきを買って食べた。

 できたてだったので少し熱かったが、美味しかった。

 

 浅草寺の裏、伝法院に入る。鼠小僧が天井にいる「龍巳」の向かい側が入口だ。

鼠小僧発見!

 伝法院は浅草寺の本坊であり、大玄関などの建築と、江戸時代初期の庭園からなる一画である。

 元来は浅草寺住職の坊号で、元禄元年(1688年)に住職となった宣存僧正がはじめて伝法院を号した。庭園は国の名勝に、建物の一部が国の重要文化財に指定されたが、一般公開はされておらず、不定期で特別公開をやっている。庭園は寛永年間に小堀遠州が造ったと伝わり、大きな池を巡る池泉回遊式の庭園である。

 伝法院の一画に、加頭地蔵尊がある。

加頭地蔵尊

 加頭地蔵尊は破損した頭部をつないであるためこの名がついた。首がつながるとの俗信からサラリーマンらの信奉もある。これが「リストラ地蔵」だ。少し前に会社を辞めさせられた友人が「もう少し早くにお参りしていればよかったかな」とつぶやいたのが聞こえた。

3.たこ八郎地蔵

 たこ八郎地蔵がある法昌寺に向かう。新仲見世通りのアーケードを通る。

仲見世通り

 新仲見世通りは他の商店街と比べて新しく、昭和5年(1934年)に浅草松屋が開店し、そこから店舗が増え、商店街になった。今のアーケードが完成したのは平成23年(2011年)、結構新しいアーケードである。

 

 東本願寺の境内を通る。

東本願寺

 東本願寺天正19年(1591年)に徳川家康から現在の千代田区神田淡路町内に土地を給され、京都東本願寺の始祖教如上人が堂宇を建立し、江戸御坊光瑞寺と号したのが始まりである。現在地に移ったのは明暦3年(1657年)の江戸大火後である。現在の本堂は東京大空襲後に再建したもので、昭和35年(1964年)に建てられた。

 

 かっぱ橋道具街のアーケードを通る。

かっぱ橋道具街

 かっぱ橋の「かっぱ」の由来は天気の良い日に内職で作った雨合羽を干していたからその名がついたとも、合羽川太郎の掘削工事を手伝った隅田川の河童からとったとも言われている。現在では食器具などを扱う問屋街になっている。

 食器などを取り扱う「ニイミ」のジャンボコック像が目を引く。

ニイミのジャンボコック像

 法昌寺に行く前に祝言寺に寄り道する。

祝言

 祝言寺は曹洞宗の寺院で、境内に鍋かぶり地蔵がある。

鍋かぶり地蔵

 鍋かぶり地蔵は地震があったときに偶然上から落ちてきた鍋が頭の上にかぶさって難を逃れたことに由来している。そしてカンカン地蔵同様、原型をとどめていないがなぜ原型をとどめていないかはわからない。

 

 曹源寺にも寄り道する。ここは「かっぱ寺」とも言われている。

曹源寺

 伝承によると文化年間(1804~1817年)にここの住人で雨合羽商の合羽川太郎が私財を投じて排水のための掘削工事を行っていたが、このとき川太郎に助けられた隅田川の河童たちが工事を手伝い、掘削工事は完成、この河童を見ると商売繁盛したという。その合羽川太郎の墓が曹源寺にあるといい、これが「かっぱ寺」の由来である。境内には愛らしいかっぱ像もあるが、「かっぱのぎーちゃん」というよくわからないオブジェもあった。

かっぱのぎーちゃん

 今度こそ法昌寺に向かう。

法昌寺

 法昌寺は慶安元年(1648年)に大本山光長寺の日照上人が開いた法華本門の道場である。法昌寺たこ八郎地蔵がある。たこ八郎地蔵は、実在したコメディアン「たこ八郎」にちなんだお地蔵さんである。

たこ八郎地蔵

 たこ八郎はボクサー「斎藤清作」としてデビューし、昭和37年(1962年)に第13代日本フライ級チャンピオンになった。ボクサー引退後は同郷のコメディアン、由利徹に弟子入りし、「たこ八郎」としてテレビで活躍した。昭和60年(1985年)に海水浴中に急死、その後、たこ八郎のお墓のある宮城県に行かずとも東京でお参りできる場所があればと発起人たちがたこ八郎地蔵を建立した。たこ八郎のトレードマークである前髪や欠けた耳もお地蔵さんで再現されており、ボクサーだったことにちなみボクシンググローブの石像もある。そして体にはたこ八郎座右の銘、「めいわくかけてありがとう」と刻まれている。

ボクシンググローブの石像

 ほうほう、と見ていると「君、たこ八郎知らないでしょう」と後ろから声をかけられた。先ほど結婚式の話をした年配の参加者の方だった。私が生まれる前に亡くなった方なので、知っているわけがない。

 

 この後は鶯谷駅に行って、このイベントは解散となった。

 

【おまけ】

 この後は神田駅の喫茶店ルノワールで二次会をした。固めのプリンが美味しかった。

 さらにこの後は友人とこの会で知り合った方と一緒に神保町で書店巡りをしてから、ボンディで夕食を食べた。

 ボンディは少し値段が張るが、やはり美味しい。誰かと食べると余計に美味しく感じた。

 この後は友人を池袋駅まで送ってから帰路についた。

今回の地図

歩いた日:2022年4月3日

【参考文献・参考サイト】

小森隆吉(1978)「台東区の歴史」名著出版

高梨輝憲(1978)「江東区の歴史」名著出版

黒田涼(2012)「江戸の神社・お寺を歩く[城東編]」祥伝社新書

地図ラーの会(2022)「東京都内のちょっと変わったお地蔵さま巡り」

亀戸天神社 御祭神・由緒

http://kameidotenjin.or.jp/about/

浅草新仲見世通り ごあいさつ 

https://www.asakusa-shinnaka.com/history_frame/

かっぱ橋道具街 かっぱ橋の歴史

https://www.kappabashi.or.jp/history/

(2022年5月5日最終閲覧)

うさぎの気まぐれまちあるき 川越編

 関西から友人がやってくることになったので、観光案内をお願いされた。「どこか行きたいところはありますか?」と聞いたところ、「蓮馨寺、旧山崎家別邸、大正浪漫夢通り、一番街通り、時の鐘、川越蔵造り資料館、川越まつり会館、大沢家住宅、菓子屋横丁、川越城跡、川越氷川神社仙波東照宮、中院、喜多院」と答えられた。「ほぼ全部じゃないか」と内心ツッコミを入れた。友人は2日にわけて川越をめぐるようで、私が仕事の日に川越城、川越氷川神社仙波東照宮、中院、喜多院は行ったようなので、それ以外を一緒にめぐった。今回はそのことについて語りたいと思う。

1.川越熊野神社

 川越駅に集合し、クレアモールを北上する。

クレアモール

 平日、休日ともに商店街の通行量、埼玉県1位のクレアモールといえど、まだ朝の9時だったので人通りは多くない。ちなみにクレアモールの名前の由来は英単語のCreate(創造する)とMall(遊歩道)である。

 

 クレアモールをひたすら北上していくと、大正浪漫夢通りに着く。大正浪漫夢通りの入口にある川越熊野神社に寄る。

川越熊野神社

 川越熊野神社は、室町時代紀州熊野本宮大社から分祀された開運・縁結びの神社である。川越熊野神社の祭神は熊野大神で、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉册命(いざなみのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)の4柱が祀られている。

 そして境内には足踏み健康ロードがある。全国各地の神社を巡っていても、足つぼがある神社はここ以外に知らない。

足踏み健康ロード

2.蓮馨寺

 熊野神社の裏から県道229号線に出る。少し進むと蓮馨寺がある。

蓮馨寺

 蓮馨寺は室町時代に蓮馨大姉が安らぎの場を民衆にもたらすべく創建した浄土宗の寺院である。

 蓮馨寺といえば、おびんづる様である。

おびんづる様

 おびんづる様とは、病にかかっているところをなでると病気が治るとされている仏様である。そういえば、最近見た仏様では跨木撫で観音さまに似ていると思った。跨木撫で観音さまについて詳細はこちらをご覧いただきたい。

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3.大正浪漫夢通り

 蓮馨寺の前の道を直進して、大正浪漫夢通りに戻る。大正浪漫夢通りはかつて「銀座商店街」と呼ばれアーケードが取り付けられていたが、アーケードは平成7年(1995年)に撤去された。その後、商店街をあげての大正浪漫の街づくりがスタートした。現在ではテレビや映画の撮影に使われることもある。ちなみに、ここでは一年中鯉のぼりが上がっている。この商店街と鯉のぼりは絶妙にマッチしていると思う。

大正浪漫夢通り

 ここで、少し遅めの朝食をいただく。訪れたのは、シマノコーヒー大正館。

シマノコーヒー大正館

 ハムチーズエッグのヤキサンド(ホットサンド)を注文した。店内はレトロでなかなか趣がある。しばらく待つと、ヤキサンドが出てきた。

ヤキサンド

 ヤキサンドはサクサクしていて美味しかった。

 

 お腹が満たされたところで旧山崎家別館に向かう。大正浪漫通りの角にある川越商工会議所は国指定有形文化財で、武州銀行川越支店として前田健二郎が設計した。この建築は、昭和2年(1927年)に建てられた鉄筋コンクリート造建築だが、ギリシア神殿を想起させる荘重で威厳のあるドリス式オーダーのエンタブラチュアとフルーティング付円柱が用いられている本格的な様式主義の建築である。昭和45年(1970年)に川越商工会議所が譲り受け、現在も使用されている。

川越商工会議所

 旧山崎家別邸に行くまでにも古い建物が並ぶ。そのうちの一つ、原田家住宅は明治27年(1894年)に建築された。

原田家住宅

 巨大な鬼瓦と重厚な観音開扉が目を引く。この鬼瓦は川越市内でも最大規模だそうだ。

4.旧山崎家別邸

 大正浪漫夢通りから右折して、次の交差点を左折すると旧山崎家別邸に到着する。恥ずかしながら、ここの存在は初めて知った。受付を済ませると、ボランティアガイドのおじさんがガイドしてくれた。ガイドがあると理解が一層深まる。

旧山崎家別邸

 旧山崎家別邸は、川越の老舗菓子屋「亀屋」の5代目である山崎嘉七の隠居所として建てられた。旧山崎家別邸の設計を行ったのは保岡勝也で、保岡勝也は旧国立八十五銀行本店なども設計している。この旧山崎家別邸には川越付近に訪れた皇族方が宿泊されることもあり、川越の迎賓館として使用された。建物は洋館部と和館部からなる和洋館並列住宅で、洋館部だけが二階建てで、切妻造フランス瓦風洋瓦葺の屋根に、ドイツ壁と呼ばれる色モルタルの掃付け壁の外壁として和館部と差別化させている。そして薄暗い階段から見えたステンドグラスが美しかった。

5.一番街

 旧山崎家別邸を堪能してから一番街に向かう。この古い建物は旧山吉デパートである。ここも保岡勝也が設計した。

旧山吉デパート

 ここで開店したのが、川越初のデパート、山吉デパートである。ちなみに山吉デパートは丸広百貨店となり、現在クレアモールにある。山吉デパートは現在、保刈歯科医院として利用されているが、鉄筋コンクリート造3階建ての外観は、一番街の街並みで最もモダンで、威厳のある建築といえる。

 

 少し脱線するが、丸広百貨店の屋上には昔、屋上遊園地があった。観覧車やモノレールもある遊園地だったが、令和元年(2019年)9月1日に閉園した。現在、屋上遊園地のあった場所は「エンジョイ広場」になっている。

エンジョイ広場

 少し進むと右手側に埼玉りそな銀行川越支店がある。

埼玉りそな銀行川越支店

 ここは川越に残る洋風建築の代表的な場所で、時の鐘と並ぶ川越のランドマーク的存在である。大正7年(1918年)に旧国立八十五銀行本店として建てられ、国の登録有形文化財の指定も受けている。外壁はタイルと石が張られ、外部意匠としては簡素で平滑な外見だが、外壁の窓と窓の間にイスラム風縞模様のバットレスを施して壁面をリズミカルに飾り、正面隅部にルネサンス風ドームを頂いた塔屋が一際目立つ様式主義の建築である。ここも保岡勝也の設計で、ここと山吉デパート、旧山崎家別邸、川越貯蓄銀行(残念ながら取り壊された)で川越4部作と呼ばれている。

 

 このあたりは蔵造りの街並みが残っている。

蔵造りの街並み

 蔵造りは類焼を防ぐための耐火建築で、江戸の町家形式として発達したものである。蔵造りの建物のうちのひとつ、大澤家住宅は寛政4年(1792年)に呉服太物商、西村半右衛門が建てたもので、川越町の3分の1を焼失した明治26年(1893年)の川越大火の際も焼け残り、川越商人に蔵造りを建てさせるきっかけとなった。蔵造りの街並みは平成11年(1999年)に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、平成19年(2007年)には「美しい日本の歴史的風土100選」に選定された。

 蔵造りの街並みの通りから一本入ったところに長喜院がある。

長喜院

 長喜院は鎌倉時代後期に創建した寺院である。観光の寺院ではないため、境内は蔵造りの街並みとは違い、ひっそりとしている。私はここに何度か来たことがある。実は母方の菩提寺だからだ。ご先祖様に対して、そっと手を合わせた。

6.時の鐘

 そのまま進んでいくと時の鐘入口交差点があるので、右折するとすぐに時の鐘が見える。

時の鐘

 時の鐘は寛永4年(1627年)から寛永11年(1634年)の間に川越城酒井忠勝が建てたものが最初と言われている。現在建てられているものは明治26年(1893年)に起きた川越大火の翌年に再建されたものである。平成8年(1996年)には「残したい"日本の音風景100選"」に選ばれた。

 時の鐘の下には薬師神社がある。

薬師神社

 薬師神社は以前常蓮寺という寺院だったが、明治維新のときに薬師神社になった。ご本尊は薬師如来で、ご利益は五穀豊穣や病気平癒、特に眼病にご利益があるらしい。そして隣の稲荷神社は出世、開運、合格に著しいご利益があるそうだ。

稲荷神社

「著しいご利益」と書かれていた説明板

 友人が「著しいご利益があるならお参りしよう」と笑っていたので、一緒にお参りした。

 

 時の鐘の近くには景観配慮型スターバックスがある。売っているものは普通のスターバックスと変わらない。

景観配慮型スターバックス

 市民会館入口交差点で左折して、川越市役所方面に向かう。川越市役所前の「手打そば百丈」でかけそばを食べた。

 そこまで見てなかったので写真を撮り忘れてしまったが、ここは看板建築でも有名な場所らしい。昭和7年(1932年)に釣具店として建てられたらしい。もちろん、お蕎麦の味も美味しかった。

7.一番街に戻る

 市役所前交差点を左折、札の辻交差点を左折して蔵造りの街並みに戻る。向かうのは大澤家住宅である。

大澤家住宅

 大澤家住宅は前述したが、川越大火のときに焼け残ったため蔵造りの街並みができるきっかけとなった蔵造りの建物である。なかでは民芸品が売られていた。

 

 少し南に進むと、川越まつり会館がある。

川越まつり会館

 川越まつり会館は川越まつりについて取り上げた博物館で、川越まつりの映像や山車の展示などを見ることができる。

 川越まつりは、慶安元年(1648年)に当時の川越藩主、松平伊豆守信綱が氷川神社に神輿・獅子頭・太鼓等を寄進し、祭礼を奨励したことが始まりである。その後慶安4年(1651年)から華麗な行列が氏子域の町々を巡行し、町衆も随行するようになった。川越まつりは山車が町中を行き交い、出会ったら曳っかわせを行う。そこで囃子の勝負を行うが、勝ち負けはない。この曳っかわせが川越まつりの見どころである。平成29年(2017年)に川越まつりに行ったので、そのときの写真を貼っておく。

 川越まつり会館を見て、川越まつりに来てみないかと友人を誘ったが、この展示を見ただけでお腹いっぱいになったようだ。

8.菓子屋横丁

 札の辻交差点に戻り、左折して菓子屋横丁に向かう。

菓子屋横丁

 菓子屋横丁では、明治の初めから菓子を製造していた。関東大震災で被害を受けた東京に代わって駄菓子を製造供給するようになり、昭和初期には70軒ほどの業者が軒を連ねていた。現在は20数軒の店舗が連なる。平成13年度(2001年)には「かおり風景100選」に選ばれた。菓子屋横丁の石畳にはガラスブロックが埋め込まれており、これは昔、菓子屋横丁では飴屋が多かったのでその飴をイメージしているらしい。

 菓子屋横丁のなかの1店舗、玉力製菓に寄ってみる。玉力製菓は大正3年(1914年)創業の老舗で、入ると飴が売っているだけでなく飴の試食や飴の製造工程の見学もできる。友人は飴があまり好きではなかったようだがここの飴は美味しかったのと、飴の製造工程の見学は面白かったようだ。

 何か食べようと思ったら、そういえば紫いもソフトクリームをまだ食べていなかったので食べることにした。芋けんぴが刺さっているのが面白い。

紫いもソフトクリーム

 菓匠宇門のいも恋も食べた。

いも恋

 いも恋はさつまいもとつぶあんが入ったお饅頭で、優しい甘さがした。こしあんが苦手な母でもこれなら食べられそうな気がした。

 川越といえば「さつまいも」だが、なぜこうなったのかというと、江戸で焼き芋が流行り、その焼き芋用のさつまいもを供給するにあたり、適地は江戸近郊で舟運が使える場所、となり川越でさつまいもが栽培されるようになった。ほかにも馬加村(千葉県千葉市美浜区幕張)でもさつまいもが育てられたようだが、江戸っ子は川越いもを好み、「本場ものは川越」とした。さつまいもは味はよいが高い「あかづる」と味はあかづるに劣るが安い「あおづる」を作っていたが、あかづるの突然変異の「べにあか」が出現したことにより、「べにあか」に転換された。その後洋菓子の普及による焼き芋人気の低迷や戦時中の多収いもへの転換(質より量がとれるさつまいもで、美味しくない)、ホウレンソウや小松菜などの栽培の普及による危機を迎えるが、川越はさつまいもの生産から加工や販売の町になった。全国でもさつまいもが名物の街は川越くらいなので、全国からさつまいもが好きな人がいっぱい来てくれるのだ。

 私はそこで、小学生時代に給食で出た「小江戸カレー」を思い出した。「小江戸カレー」はじゃがいもの代わりにさつまいもが入ったカレーだった。正直カレーにはさつまいもよりじゃがいものほうが合うと思う、と言ってはいけないのだろう。

9.川越八幡宮

 蔵造りの街並みに戻り、南下していく。本川越駅前でクレアモールに入ったら、朝と違い多くの人が行き交っていた。

 紀伊国屋書店の前で左折し、川越八幡宮へ向かう。

川越八幡宮

 川越八幡宮は第68代後一条天皇の時代の長元3年(1030年)に甲斐守源頼信によって創祀されたと伝えられている。祭神は第15代天皇応神天皇である。

 境内の狛犬もマスクをするご時世か、と狛犬を見て感じた。

 御朱印をもらったら今はなき丸広百貨店の観覧車がデザインしてあった。

10.仙波河岸史跡公園

 仙波河岸史跡公園に向かう。仙波河岸史跡公園に愛宕神社があったので参拝する。

愛宕神社

 平安時代に京都の愛宕山から分霊を奉斎して創建、祭神は火産霊命(ほむすびのみこと)である。愛宕神社は丘の上にあるのだが、ここは丘ではなく古墳らしいことが説明板にあった。

 愛宕神社の裏には延命地蔵尊がある。このお地蔵様は延命・利生を請願しているようだ。

延命地蔵

 仙波の滝の跡があったが、現在滝は流れていなかった。

仙波の滝の跡

 そしてここが仙波河岸である。

仙波河岸

 仙波河岸ができたのは明治の初めで、新河岸川の舟運に使われた。仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し、一番新しくできた河岸場だった。仙波河岸が開設されたことで、ゆるやかな坂を上がっていけばあとはそのまま平らに蔵造りの街並みのほうまで荷物を運ぶことができるようになった。しかし明治の初めには新河岸川の舟運も終わりを迎えた。現在は史跡公園として整備されている。

 

 この後は本川越駅まで戻り、ばぁ~ぐば~ぐで夕食を食べた。

 和牛ハンバーグの専門店で、やはりハンバーグが美味しかった。

 この後は友人としばらく話してから、川越駅で解散した。川越の魅力を再発見できた1日となった。

今回の地図①

今回の地図②

歩いた日:2022年4月2日

【参考文献・参考サイト】

山野清二郎・松尾鉄城・寺島悦恩・小林範子(2019)「うつくしの街 川越―小江戸成長物語」一色出版

クレアモール川越新富町商店街振興組合 クレアモールとは?

http://www.creamall.net/union-info/index.html

川越市 川越熊野神社

https://www.city.kawagoe.saitama.jp/welcome/kankospot/kurazukurizone/kumano.html

蓮馨寺

https://renkeiji.jp/

大正浪漫夢通り

https://www.koedo.com/index.html

カワゴエール 川越商工会議所

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/shokoukaigisho/

カワゴエール 原田家住宅

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/haradake/

川越市 旧山崎家別邸

https://www.city.kawagoe.saitama.jp/smph/welcome/kankospot/kurazukurizone/kyuyamazakike.html

カワゴエール 旧山吉デパート

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/yamakiti-department/

カワゴエール 埼玉りそな銀行川越支店

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/resona/

川越市 蔵造りの町並み

https://www.city.kawagoe.saitama.jp/welcome/kankospot/kurazukurizone/kurazukuri.html

カワゴエール 長喜院

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/chokiin/

川越市 時の鐘

https://www.city.kawagoe.saitama.jp/smph/welcome/kankospot/kurazukurizone/tokinokane.html

川越まつり公式サイト 川越まつりの概要・歴史

https://www.kawagoematsuri.jp/about/about_history.html

川越市 菓子屋横丁

https://www.city.kawagoe.saitama.jp/welcome/kankospot/kurazukurizone/kashiya.html

川越八幡宮 ご由緒・ご神徳

https://kawagoe-hachimangu.net/history.shtml

カワゴエール 仙波河岸史跡公園

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/senbagasi-sisekipark/

(2022年4月24日最終閲覧)

東海道を歩く 9.箱根板橋駅~箱根神社入口バス停

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 前回、2回にわけて平塚駅から箱根板橋駅まで歩いた。今回は箱根板橋駅から静岡県三島市三島広小路駅まで歩く。江戸時代の人は小田原宿から三島宿まで1日で歩いたようだが、現代人にはしんどかったので箱根板橋駅箱根神社入口バス停、箱根神社入口バス停~三島広小路駅の2日間に分けて歩いた。今回はその前編、箱根板橋駅箱根神社入口バス停を紹介する。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

1.板橋延命子育地蔵尊

 今日は箱根板橋駅から出発だ。

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箱根板橋駅

 駅から右に歩き、板橋見附交差点を左折する。しばらく歩くと古い家がある。内野邸だ。

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内野邸

 内野邸は醤油醸造業を営んできた内野家の店舗兼住宅として明治36年(1903年)に建設された。当時流行していた土蔵造り風の町屋で、「なまこ壁」や「石造アーチ」など和洋折衷的な意匠が取り入れられている。

 

 少し進むと板橋延命子育地蔵尊がある。

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板橋延命子育地蔵尊

 本尊は弘法大師の作といわれる延命子育地蔵菩薩で、仏殿正面に安置される身丈8尺(2.4m)の大坐像の腹中に鎮座している。そのため胎籠もりのお地蔵さまとも呼ばれている。小田原を出た旅人はこの地蔵堂で箱根越えの無難を祈り、無事に箱根を越えた旅人はお礼参りに参詣したので、東海道五十三次の一大霊場として賑わっていたという。今でも正月や8/23,24の縁日には多くの参詣者で賑わい、この日にお参りすると必ず故人に似た人と行き会えるという言い伝えもある。

 

 上板橋交差点で国道1号に戻る。すぐ左手側に小田原用水(早川上水)取入口がある。

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小田原用水(早川上水)取入口

 ここで早川の川水を取り入れ、板橋村は旧東海道の人家の北側を通水し、板橋見付から旧東海道を東に流水して古新宿を通り、江戸口見付門外蓮池に流れ出たもので、途中の所々で分水されて小田原城下領民の飲料水に供されていたものである。近くに少し葉桜になった河津桜が咲いていて綺麗だった。

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2.日蓮聖人霊跡

 早川沿いを進むが、小田原厚木道路の下で箱根登山鉄道の踏切を越える。そこに日蓮聖人霊跡がある。

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日蓮聖人霊跡

 文永11年(1274年)に日蓮がここを訪れ故郷の房総半島を見て両親を偲び、ここに石の宝塔と首題釋迦牟尼佛多宝如来四菩薩(しゅだいしゃかむにぶつたほうにょらいしぼさつ)を刻し衆生済度の病即消滅を祈願した。

 そこからしばらく旧道を進むが、入生田駅を少し過ぎたところにある踏切を渡って国道1号に合流する。右手側に「交通安全之碑 止まります 待ちます 車のきれるまで」と達磨の絵が描かれた碑がある。この達磨は日本人離れした顔をしていると思った。

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交通安全之碑

 旧道に入るところに「箱根町 交通安全都市」と書かれたモニュメントがある。

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箱根町 交通安全都市

 カントリーサインがないから気づかなかったが、箱根町に入ったようだ。全国津々浦々旅しているが、箱根町に来たのは初めてである。

 

 しばらく進んだら国道1号に戻る。横を見ると車が大渋滞を起こしていた。

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 今日は3連休の2日目、関東近郊のレジャースポットである箱根にみんなこぞって行くのだろう。

3.早雲寺

 三枚橋国道1号から離れ、道なりに進む。

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三枚橋

 かつての三枚橋は長さ22間(40m)、幅2間(3.6m)の土橋だった。三枚橋という名の由来については、中洲が2つあって橋が3つ架かっていたから、3枚の橋を横に並べて架けてあったから、付近に法華三昧堂があったからなど諸説ある。小田原方面から来ると、この橋で左手に曲がると東海道、まっすぐに行けば「箱根七湯」の温泉場へ通じていた。この「箱根七湯」は病気療養を目的とした湯治客を集めていた。湯治を目的にした人たちは「七湯道」と呼ばれた道をたどり、それぞれ湯本、塔ノ澤、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯の温泉場に到着、3廻り21日間の湯治を行った。

 

 しばらく進むと右手側に大きな寺院を見つけた。早雲寺だ。

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早雲寺

 早雲寺は小田原北条氏二代氏綱が、父早雲の遺言により大永元年(1521年)に建立した臨済宗の寺院である。創建時の早雲寺は、関東における臨済宗大徳寺派の中本山として、湯本の地全体を境内地とし、500人を超える僧がいて活気に満ちていたという。通常は拝観できないが、北条早雲像、北条氏綱像、北条氏康像などの国重要文化財を所蔵している。

 境内には北条五代の墓と連歌師宗衹の墓と俳諧師衹空の墓がある。そっと手を合わせ、早雲寺をあとにした。

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北条五代の墓

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連歌師宗衹の墓

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俳諧師衹空の墓

 少し進むと左手側に正眼寺がある。

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正眼寺

 正眼寺鎌倉時代箱根山に広まっていった地蔵信仰のなかで生まれた寺で、創建年代は定かではない。境内に曽我兄弟の化粧地蔵がある。

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曽我堂

 今日はお彼岸だったので曽我堂が公開されていた。この地蔵の胎内から地蔵阿弥陀観音混合印仏が発見され、「康元元年(1256年)」の年号が記されていることから、鎌倉時代中期の造像であることがわかる。またこの地蔵は曽我兄弟の像ともいわれ、2人の位牌も堂内に安置されている。江戸時代には、箱根の道中安全を祈願する旅人たちで賑わった。曽我兄弟について詳細は8-1.平塚駅箱根板橋駅①の化粧井戸で取り上げているので、そちらも参照してほしい。

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 少し進むと双体道祖神を見つけた。とても仲の良さそうな道祖神である。

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双体道祖神

 道祖神の道路の向かい側に旧箱根街道一里塚の碑がある。

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旧箱根街道一里塚

 ここには一里塚は残っておらず、碑のみが立っている。一里塚の隣に寄木細工職人、白川洗石の生家があったらしく、その案内板が立っている。

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白川洗石の生家

 その少し先に石畳の入口がある。これが初めての石畳だ。江戸時代の石畳を歩くのは初めてなのでワクワクしていたが、歩いた感想としては「歩きにくい」だった。

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 石畳を抜けた先には福寿院がある。ここには少し変わった跨木撫で観音さまがいる。

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跨木撫で観音さま

 これは手を合わせてお祈りした後、またいで仏様に向かって座り、自分の悪いところと仏様の同じところをさすると効果があるそうだ。私は歩き疲れてきたので、足を撫でてみた。効果があったかはわからない。

 

 坂を登ると「葛原坂」の案内板があった。

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葛原坂

 このあたりは葛の葉が生い茂っていたらしい。今も木々が生い茂っている。葛かどうかはわからない。

 

 坂を登ると浄土金剛宗天聖院がある。

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天聖院

 中に入るとすごくきらびやかで思わず写真を撮ってしまったが後ろから「ここは写真を撮ってはいけません」と言われてしまった。今頃珍しい寺院である。どうやらここは昭和55年(1980年)に開山された宗教法人箱根大天狗山神社の寺院であるようだ。御朱印もあったらしいが、もらう勇気がなかった。

4.鎖雲寺

 天聖院の先に鎖雲寺がある。もとは早雲寺内の塔頭で、寛永年間に須雲川村に移されたが、その後の洪水で流失し、この場所に移されたそうだ。ここには浄瑠璃の「箱根霊験記」の勝五郎と妻初花の墓がある。

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勝五郎と初花の墓

 足の悪い勝五郎を車に乗せて、東海道の要衝箱根の街道で敵を待ち受け、自らは返り討ちになるものの、夫勝五郎は初花が滝に祈った霊験を得て、みごと仇討を果たすという物語である。

 

 鎖雲寺を過ぎると右手側に箱根大天狗山神社がある。

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箱根大天狗山神社

 ここも天聖院同様、昭和55年(1980年)に開山された。ここも撮影禁止だったので、鳥居だけ載せる。

 

 少し進むと左手側に箱根天聖稲荷大権現神社がある。

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箱根天聖稲荷大権現神社

 ここも箱根大天狗山神社の系列である。神社は少し坂を下りたところにあるようだったので、ここは鳥居だけ撮影して素通りすることにした。

 

 箱根天聖稲荷大権現神社の道路挟んで反対側に割石坂の入口がある。

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割石坂

 ここは曽我五郎が富士の裾野に仇討に向かうとき、腰の刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝えられている。その巨石を探してみたが、見つからなかった。

 

 石畳を進むと、「箱根路のうつりかわり」という案内板を見つけた。

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箱根路のうつりかわり

 これによると、最も古い峠道が碓氷道で、奈良・平安時代に利用されたのが湯坂道、江戸時代に開かれた道が旧東海道、現在の東海道国道1号線と紹介されている。現在歩いているのは旧東海道だ。

 

 近くに接待茶屋の説明板もあった。

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接待茶屋

 ここに茶屋があったが経営に行き詰まり、幕府の協力を得て経営を続けることができたと書かれており、その茶屋(施行所)のひとつがここにあったらしい。

5.畑宿

 少し進むと左手側に「箱根旧街道」と書かれた石畳の入口が見える。

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箱根旧街道

 石畳の坂を下りると細い橋があった。

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 少し不安が残るが、先に進むしかない。

 

 石畳の構造の説明板があった。

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 それによると、石畳は小石と石を突き固めた地面の上に、石と石とを組み合わせて並べており、さらに石畳の横に縦の排水路を持っている。

 

 坂の途中に「大澤坂」という説明板があった。

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大澤坂

 幕府の下田奉行小笠原長保の「甲申旅日記」に「大沢坂は坐頭転ばしともいうとぞ、このあたり、つつじ盛んにて、趣殊によし」と書かれている。残念ながら今はつつじは見当たらなかった。苔むした石畳は大変風情があるが、少し滑って歩きにくい。アスファルトの道に出るとほっとするほどだった。

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 大澤坂を過ぎると、畑宿の集落に出る。畑宿では伝統工芸箱根細工が古くから盛んに作られており、箱根細工の工房が軒をつらねていた。

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 少し余裕があれば箱根細工を見たかもしれないが、そのような余裕はなく足早に通り過ぎてしまった。

 

 箱根旧街道の入口付近に守源寺がある。

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守源寺

 守源寺は寛文元年(1661年)に乗善院日連上人によって建立された日蓮宗の寺院で、現在の本堂は昭和5年(1930年)の豆相大地震の後に再建されたものである。

 

 箱根旧街道に入ってすぐ、畑宿の一里塚がある。

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 これは日本橋から23番目の一里塚で、平成10年(1998年)に復元されたものである。山の斜面にあった塚は周囲を切土と盛土、石貼りで平坦面を作り、礫を積み上げ表層には土を盛って頂上に樅と欅を植樹したものであることが発掘調査から判明した。

6.橿木坂

 また石畳を進む。すると「箱根旧街道」と書かれた案内板があった。

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 江戸幕府は延宝8年(1680年)箱根道を石畳道に改修した。それ以前のこの道は、雨や雪の後は大変な悪路になり、旅人は膝まで埋まる泥道を歩かなければならないため、竹を敷いていたものの、竹を調達するのに大変な労力と費用がかかっていたため石畳にしたようだ。幕府は石畳を敷きながらも江戸の要害である箱根山が歩きやすいものになっては困ると懸念したようだが、実際は人や馬が滑って転んで死ぬことが多かったようなのでその心配は無用だったようだ。アスファルトに歩きなれた現代人には歩きにくい道である。

 

 ここは西海子坂と言うらしい。ここは一歩間違えば千尋の谷底に落ちると言われていたが、幸い落ちなかった。

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西海子坂

 舗装路に戻り、階段を登る。

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 いくつかヘアピンカーブを曲がると、橿木坂の案内板があった。そこには「橿の木の さかをこゆればくるしくて どんぐりほどの 涙こぼるる」と書かれていた。確かに橿木坂の階段を登っている途中でしんどくなり、どんぐりほどの涙をこぼしそうになった。

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橿木坂

 橿木坂を登ると、「雲助とよばれた人たち」と書かれた案内板があった。

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雲助とよばれた人たち

 雲助とは、江戸時代に宿場や街道で駕籠舁や荷物の運搬などを行った人足のことで、定まった住所がなくあちこちをさまよっているからとも、網を張って客を待つところから蜘蛛のようだともして、雲助と呼ばれていた。

 

 しばらく進むと藪が深くなり、竹をかきわけながら進む。

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 親からは「山道に一人で行くな」と言われており、一人でこのような道を通っていると知ったら怒られそうである。

 

 車道を横断する少し前に「猿滑坂」という案内板がある。

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猿滑坂

 「新編相模国風土記稿」には、「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす。」と書かれている。猿でも登れないと書かれていたが、幸いにして転ぶことなく坂を登り終えた。

7.甘酒茶屋

 車道のヘアピンカーブを曲がると、右手側に追込坂がある。

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追込坂

 「新編相模国風土記稿」のふりがなによると「フッコミ坂」といったのかもしれないと書かれているが、この説明板のルビは「おいこみざか」である。

 

 追込坂の隣に親鸞上人と笈ノ平の説明板がある。

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親鸞上人と笈ノ平

 これによれば、親鸞と弟子が東国への浄土真宗の布教を終えて箱根路を登ってここに来たとき、親鸞上人が弟子の性信房と蓮位房に向かい、「師弟打ちつれて上洛した後は、誰が東国の門徒を導くのか心配であるから、御房がこれから立ち戻って教化してもらいたい」と頼み、別れた場所がここであると説明されている。ちなみに前回8-3.平塚駅箱根板橋駅③にこの浄土真宗布教に使った御勧堂が紹介されている。

octoberabbit.hatenablog.com

 この近くに、甘酒茶屋がある。かつては13軒の甘酒茶屋があったようだが、現在営業しているのはここだけである。

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甘酒茶屋

 この甘酒茶屋には赤穂浪士神崎与五郎が馬を断ったために馬方丑五郎に難癖をつけられ、大事の前ということでじっと我慢をして「詫び証文」を書かせられたという逸話が残っている。

 ともかく、疲れたので甘酒茶屋に入って休憩する。私は甘酒と、うぐいすの力餅を注文した。

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 甘酒は江戸時代から続く製法で作られるもので、優しい甘さがした。力餅は備長炭でふっくら焼いたお餅で、いそべ、うぐいす(きなこ)、黒ごまの3種類がある。ちょうどお昼ごはんを食べていなかったので、お腹が満たされた。とても美味しかったのでまた来たいが、次来るときはバスで来るだろう。

8.於玉坂

 甘酒茶屋で一休みして、また石畳の道を歩く。於玉坂は、お玉という少女が箱根の関所を破ったとして処刑された場所がこの坂のあたりだったためにその名がつけられた。お玉は伊豆の生まれで、江戸の従兄弟の家に奉公に出ていたが、何かの理由で帰ろうとしたのか、通行手形も持たずにここに来て、夜に紛れて関所の裏山を越えようとしたものの、捕らえられて処刑されてしまった。お玉処刑の話は世間に伝わり、江戸市中にも広まって幕府の冷酷非情さを非難する大きな声にまでなった。現在、箱根関所は廃止されているため、通行手形を持っていなくても捕まえられることはない。

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於玉坂

 車道を通り抜け、石畳の坂を上がると、「二子山について」という案内板がある。

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 二子山は箱根の火山活動のうち一番最後にできたものです、と説明されているが、木に遮られて二子山はあまりよく見えなかった。ちなみに箱根の石畳に使われた石は、その大部分が二子山から採取されたものらしい。

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二子山

 石畳は急坂で、息が上がってくる。

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 私は花粉症なので、杉並木を歩くにあたってマスクと防護メガネをしていたのだが、あまりに荒く息をするので防護メガネが曇り、視界がよろしくない。仕方なく、防護メガネを外すことにした。夜になっても目があまり痒くならなかったのが幸いだった。

 花粉症にとっては憎き杉であるがこの杉並木も命がけで守った人がいたからこそ残ったのだ。第二次大戦末期、海軍が箱根の杉に目をつけて大きな木造船を作ることを考えた。軍は知事を通して箱根町ほか二か村組合に杉の供出を命じた。当時の役場担当者、田中隆之は県庁に呼び出されて杉の供出を催促されたものの、様子を見て関係する書類を持ち出して焼却、そのまま従軍僧として戦地に赴いてしまった。その後県庁では大騒ぎになるも、そのうち敗戦になって事件はうやむやになってしまった。この田中隆之の行動がなければ、今頃杉並木はなくなっていたかもしれない。

 

 権現坂に入ると、下り坂でようやく芦ノ湖が見えてきた。

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 案内板にも「目前に芦ノ湖を展望し、箱根山に来たという旅の実感が、体に伝わってくるところです」と書かれていた。

 

 坂を下ったところにケンペル・バーニー碑がある。

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ケンペル・バーニー碑

 ケンペルは元禄3年(1690年)、長崎のオランダ商館の医師として来日した人で、箱根では芦ノ湖の魚類や多数の草木を観察して、箱根の美しさを絶賛していた。彼の死後、イギリスで最初に出版された「日本誌」は世界に日本の文化や自然などを広く紹介したことで知られている。

 ケンペル・バーニー碑は大正11年(1922年)、イギリス人貿易商で芦ノ湖畔に別荘を持っていたバーニーが、箱根を愛し箱根の美しさを世界に紹介したケンペルの言葉を引用して、箱根の自然の大切さと土地の人々への友情のお礼として建てたものである。

 

 ケンペル・バーニー碑の脇の坂を下りて国道1号に合流したところで、箱根神社入口バス停に到着する。すぐにバスが来たので、それに乗って小田原まで帰ることにする。

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箱根神社入口バス停

 次回は箱根神社入口バス停からスタートである。

 

【おまけ】

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 箱根の山を登り、汗だくになっていた。せっかく箱根まで来たのに箱根らしいことを何もせずに帰るのもイヤだったので、小田原に帰る途中で日帰り温泉、箱根湯寮に寄り道した。泉質はアルカリ性単純温泉でpHは8.9。ほどよくぬるぬるした良い温泉で、汗を流すことができた。温泉で疲労回復したところで、明日は三島まで向かう。

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今回の地図①

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今回の地図②

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今回の地図③

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2022年3月20日

 

【参考文献・参考サイト】

 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社

(2022年4月15日最終閲覧)

東海道を歩く 8-3.平塚駅~箱根板橋駅③

 前回、平塚駅から二宮駅まで歩いた。箱根板橋駅まで歩くつもりだったが歩ききれなかった。今回は二宮駅から箱根板橋駅まで歩く。11時前に出発して箱根板橋駅に到着したのが16時前だったので、結局1日では平塚駅から箱根板橋駅まで歩くのは無理だったということがわかった。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.押切坂の一里塚

 今日は二宮駅から出発だ。

 二宮駅南口から出て、二宮駅入口交差点を右折する。しばらく国道1号沿いを歩くが、吾妻神社入口交差点の少し前で旧道に入る。分岐点に「旧東海道の名残り」と書かれた案内板があるので、それを目印にする。

 分岐点からすぐのところに吾妻神社の鳥居がある。少しそそられたが、吾妻神社までは標高差100mほどの山を登る必要があるためパスした。

 少し進むと「梅澤橋」と書かれた石柱がある。耳を澄ますと水の音が聞こえる。暗渠だろうか、と調べたらここは梅沢川が暗渠で通っているらしい。

梅澤橋

 少し進むと等覚院がある。藤棚が有名で、藤巻寺の別名もあるらしい。今は梅の花が綺麗だった。

等覚院

 そのまま進むと山西交差点で国道1号と合流する。魚介料理の店から漂ういい匂いを嗅ぎながら、道祖神たちに挨拶をする。

 押切橋上交差点で今度は左側から旧道に入る。また「東海道の名残り」の案内板があるのでそれを目印にする。

 分岐点からすぐのところに押切坂の一里塚がある。ここの一里塚は「史蹟 東海道一里塚の跡」と刻まれた石柱と、案内板が残るのみである。

史蹟 東海道一里塚の跡

 少し進むと押切坂の急坂があり、そこを下る。

2.車坂

 中村川を押切橋で越えると、すぐ小田原市である。小田原市に来た、と思ったらすぐに二宮町カントリーサインが見え、また二宮町に戻る。また小田原市カントリーサインの下をくぐって、ようやく小田原市に入った。

 小田原市のマンホールには酒匂の渡しと小田原城、箱根連山、富士山がデザインされている。酒匂の渡しについては、酒匂川についたときに説明する。

小田原市のマンホール

 浅間神社に参拝する。

浅間神社

 境内に「震災復興紀念碑」があった。「大正十二年九月一日」と刻まれており、これは関東大震災の発生日に一致する。自然災害伝承碑に登録されているのでは?と思い地理院地図を見たが、登録されていなかった。

震災復興紀念碑

 浅間神社を出たら魚が描かれたマンホールがあった。童謡「メダカの学校」は小田原市荻窪用水で見たメダカを元にできたことから、メダカの学校をイメージしたマンホールだそうだ。

「メダカの学校」マンホール

 車坂を下るときは、左側から下ることをおすすめする。なぜなら、左側を見ると相模湾が広がっていて大変美しいからだ。

 車坂を下ると「史跡 車坂」の碑がある。そこには「鳴神の 声もしきりに 車坂 とどろかしふる ゆふ立の空 太田道灌」「浜辺なる 前川瀬を 逝く水の 早くも今日の 暮れにけるかも 源実朝」「浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月 北林禅尼」の3句が刻まれている。どれも車坂で詠まれたとされている句である。

車坂

 車坂を下ると「従是大山道」と刻まれた石碑の上に不動明王が載っている。これは羽根尾通り大山道の入口である。「東海道で歩く」で取り上げる3ヶ所目の大山道である。ほかにも「5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 後編」の「大山前不動」、「7.藤沢本町駅平塚駅」の「四谷不動」も東海道からの大山道の分岐点だった。それだけ大山信仰が盛んだったのだろう。

羽根尾通り大山道入口

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3.御勧堂

 坂下道祖神を右に見て、近戸神社入口交差点の角に近戸神社の石柱が立つ。地図を見てそれほど近くないなと思ったが、後で調べたら東海道から300mほどだった。

坂下道祖神

 国府津駅前交差点の左側に、親鸞が民衆を教化した御勧堂がある。親鸞浄土真宗の宗祖で、この御勧堂には7年間住んだそうだ。

御勧堂

 この近くにある真楽寺には、親鸞が指で描いた経文が刻まれた帰命石がある。真楽寺は浄土真宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来である。元は天台宗の寺院だったものの、鎌倉時代の住僧性順が専修念仏の教えを説く親鸞に感銘し、ここに滞在して民衆を教化することを願い、みずからも弟子となり真楽寺と命名してもらったという。

真楽寺

 親木橋東海道の森戸川に架かる橋で、江戸時代は長さ12間4尺(23m)、幅2間半(4.6m)の土橋だった。親木橋歩道橋には、国府津海岸でよく獲れる魚が描かれたタイルが埋め込まれている。このへんはアナゴ、アジ、イナダ、クロダイがよく獲れるそうだ。

 79キロポストの少し先に小八幡の一里塚がある。この一里塚は案内板が立つのみである。

小八幡の一里塚

4.小八幡八幡神社

 「八幡神社」の角を曲がると八幡神社があるのだが、東海道から少し離れているので一度は通り過ぎた。しかし地図に「道路元標」と書いてあったので、Uターンして向かった。なぜなら神奈川県の道路元標は横須賀市三浦市にしかなく、小田原市にあるとは知らなかったからだ。

 そしてその道路元標がこちら。

八幡村の道路元標

 どう考えても道路元標の形ではない。普通、道路元標はこのような形をしている。

例:宮崎市道路元標

 ちなみに道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1個ずつ設置されたものである。設置主体は都道府県か市町村であり、「明治政府地理寮設置」と書いてあることもおかしい。調べたところ、これは外国人遊歩規程測点らしい。外国人遊歩規程測点とは、明治時代に外国人の居留地からの外出範囲を規定した基準点で、神奈川県内に残存する。多くは山の上にあるため、実物を見たのは初めてだった(実は大磯町郷土資料館前にもあったらしいのだが、見逃してしまった)。それにしても、道路元標は間違いである。もう少し調べてから案内板を設置してほしかった。

 なお、この小八幡八幡神社の建立は定かではないが、鎌倉時代以前からあったとされている。祭神は応神天皇仁徳天皇神功皇后の3柱である。境内には外国人遊歩規程測点のほかにも、道祖神庚申塔が多く残っている。

 

 東海道に戻り、少し進むと小さな松林がある。松林の反対側にあった河津桜が満開で綺麗だった。この時期は綺麗な花が多くて嬉しくなってくる。

5.酒匂の渡し

 歩いていたら二宮金次郎の石像を発見した。二宮金次郎とは江戸時代後期の経世家、農政家、思想家で、小田原出身。14歳で父を、16歳で母を亡くし、叔父方に寄食して日中は農業の手伝いを、夜は夜更けまで縄をない、さらには荒地に菜種を栽培、それを売って夜なべ後の勉学の灯にしたという。このエピソードから薪を背負いながら本を読んで歩く二宮金次郎像は、各地の小学校に残る。

二宮金次郎

 「小田原コロナ」というパチスロ屋の看板を見つけた。おそらくこの看板はコロナウイルスが流行る前から設置されていただろう。

小田原コロナ

 大見寺は酒匂の旧家、川辺家の墓などがある。天文3年(1534年)の創建というから、ちょうど織田信長の生まれた年、小田原でいえば北条二代氏綱の頃である。

大見寺

 大見寺の隣が川辺家で、現在はゆりかご園という社会福祉法人になっている。

川辺家

 向かい側には酒匂不動尊もある。

酒匂不動尊

 少し進むと法船寺という日蓮宗の寺院がある。境内にはお手引き地蔵尊を祀る地蔵堂があり、参詣の人が絶えないという。境内に咲いていた花が綺麗だったが、この花は何だろう。梅か、桃か。

法船寺

この花はなんだろう

 そのまま進むと酒匂橋で酒匂川を渡ることになる。酒匂橋は400m弱ある長い橋である。

酒匂橋

 酒匂川は江戸時代、徒歩渡しであり、手を引いて渡る手引き渡し、肩に乗せて渡る肩車渡し、輦台(れんだい)に乗せて人足が担いで渡す輦台渡しで人々は酒匂川を越えた。料金は水位によって違っていたようで、安孫子周蔵という人の旅日記では「こしかたぐるま47文」と書かれ、馬入川の船賃10文と比べて相当割高だったようだ。

 酒匂橋を渡ると、少々わかりづらく細い道を右折して北側に出る。左に進んで右手側に八幡神社があれば正解だ。

八幡神社

 八幡神社から南進し、土木センター入口を南進。次の交差点を右折して、常剱寺入口交差点でまた国道1号に合流する。複雑だが、この区間に見るものがあるかと言われたらそれほどないため(新田義貞首塚が奥にあるくらいか)、国道1号直進でもいいかもしれない。

 

 そのまま国道1号を進み、山王橋で山王川を越えると山王神社がある。山王神社は山王原村の鎮守で、祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)、大山祇命(おおやまずみのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)である。山王神社は境内に星影が映る井戸があることから、星月夜ノ社とも呼ばれていた。ロマンチックな名前である。

山王神社

 境内には水準点もある。一等水準点第45号、標石と保護石が立派である。

一等水準点第45号

6.小田原宿

 「東海道小田原宿」と書かれた石灯籠がある。小田原宿はすぐそこだ。

 すぐに「小田原城江戸口見付」を見つけた。ここは小田原宿および小田原城下町の東端である。小田原宿の場合、ここから板橋にあった上方見付までの宿内の距離は18町半余(約2km)あった。この近くに小田原の一里塚もあったようだが、案内板のみである。

小田原城址江戸口見付

 新宿交差点で左折する。少し進んだら、「小田原かまぼこ通り」の角を右折する。小田原かまぼこ通りだ。

小田原かまぼこ通り

 早速かまぼこ屋が並ぶ。小田原かまぼこの歴史は古く、天明年間(1781~1789年)に沿岸漁業が栄え漁獲量が急増し、当時は魚を長期保存することはできなかったため商人たちが魚の売れ残りを処理する方法としてかまぼこを考え出したという。今のような小田原を代表する「板付かまぼこ」が生産されるようになったのは、140年ほど前、江戸末期から明治の初め頃のようだ。いせかね、山上蒲鉾店、丸う田代など立派な店構えのかまぼこ屋が並んでいる。

 

 青物町交差点の少し前に下の問屋場跡の看板を見つける。問屋場では定められた量の人足や伝馬を備えていた。

下の問屋場

 片側アーケードの商店街を進んでいくと、脇本陣古清水旅館を見つける。そこには小田原空襲の説明板があった。小田原空襲は昭和20年(1945年)8月15日に起こった空襲で、400軒の家屋を焼失し、12名の犠牲者を出した。現在の日本では空襲はないが今後も起こらないでほしいし、現在戦争中の国があると思うと胸が痛む。

脇本陣古清水旅館

 少し先に小田原宿清水金左ヱ門本陣跡と明治天皇宮ノ前行在所跡がある。清水金左ヱ門本陣は尾張徳川家や薩摩島津家、熊本の細川家など西国の有名な大名が定宿としていた。平屋で建坪240坪(792㎡)、部屋数20余室、現在明治天皇行在所碑のある辺りに宿泊の大名の部屋、上段の間があったそうだ。また、明治天皇明治元年(1868年)の東京遷都や全国巡幸の折に5回も宿泊している。明治天皇は清水本陣がよほどお気に入りだったのだろう。

小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡

明治天皇宮ノ前行在所跡

 そのまま進むと小田原宿なりわい交流館がある。

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小田原宿なりわい交流館

 この建物は関東大震災により被害を受けた建物を昭和7年(1932年)に再建したもので、小田原の典型的な商家の造りである「出桁造り」という建築方法が用いられている。平成13年(2001年)から小田原宿なりわい交流館として開放している。

 何か展示物でもあるかと思い覗いてみたが、特になかった。せっかくなのでマンホールカードをもらった。

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 このマンホールは小田原城の近くにあるらしいが、残念ながら今回は小田原城に行く予定はない。

 

 小田原宿なりわい交流館の反対側に、松原神社がある。

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松原神社

 松原神社は小田原の総鎮守で、祭神は日本武尊など3柱、創始は不明だが、もともとは後醍醐天皇の頃(1288~1339年)、海辺の松原の中にあって真鶴が住んでいたところから「鶴森神社」と称していた。

 

 「小田原蒲鉾缶バッジガチャ」「杉兼オリジナル缶バッジガチャ」「小田原おでんストラップガチャ」という癖の強いガチャガチャが3つ並んでいたので思わず写真を撮ってしまった。

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 こんなところに小田原城!?と思ったら外郎の本店だった。ういろうは名古屋名物として有名だが、この店で最初に作ったういろうは丸薬のことである。胃痛やのどの痛み、船酔いによく効くといわれ、道中の常備薬だった。後に菓子のういろうも作り、現在も両方販売している。小田原土産でういろうを持ち帰ろうと思っていたが忘れてしまった。

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外郎本店

 少し進むと右手側の小高い丘の上に山角天神社がある。山角天神社の創建年代は不明で、北条氏康が奉納した「菅原道真画像」がある。菅原道真が梅を好んだことから天神社には梅が植えられていることが多いが、今は花が咲いていて綺麗だった。

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山角天神社

 東海道本線のガードの少し前に、人車鉄道軽便鉄道小田原駅跡がある。ここから熱海までの約25kmを「人力」で客車を押していたという。25kmも車両を押すなんて、大層疲れたことだろう。

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人車鉄道軽便鉄道小田原駅

 東海道本線のガードをくぐって右側に居神神社がある。居神神社は山角町と板橋村の鎮守で、祭神は三浦荒次郎義意、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と火之加具土神(ひのかぐつちのかみ)である。居神神社には次のような伝説がある。

 三浦道寸とその子荒次郎は北条早雲と戦ったが負け、自刃した。このとき荒次郎の首だけがここまで飛んできて3年間目を見開いて人々を苦しめた。久野総世寺の和尚の供養により守護神となり、武門の神として人々に崇められるようになった。

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居神神社

 居神神社の向かい側には小田原城主の大久保氏一族の墓所がある大久寺がある。

 

 板橋見附交差点に板橋見附跡の案内板がある。江戸時代、ここが城下府内の山角町と城下府外の板橋村の境界で、遠くは京都(上方)に通じたので板橋口または上方口と呼ばれ、主要な出入口として厳重な構造を持っていた。現在は案内板が残るだけとなっている。

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板橋見附跡

 東海道はここで右折して箱根の山を登っていくが、このまま直進する。すぐに左手側に箱根板橋駅がある。今回はここで終了だ。

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箱根板橋駅

 次回はついに箱根の山越え、山を越えたら静岡県。頑張るしかない。

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今回の地図①

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今回の地図②

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今回の地図③

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2022年3月6日

【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」山川出版社

風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社

日本の測量史 外国人遊歩規程の測量

http://uenishi.on.coocan.jp/j510yuuho.html

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2022年3月30日最終閲覧)

東海道を歩く 8-2.平塚駅~箱根板橋駅②

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 前回は平塚駅から大磯駅まで歩いた。今回は箱根板橋駅まで…と言いたいところだが、結局二宮駅までしか歩くことができなかった。今回は大磯駅から二宮駅まで歩いた記録を紹介する。あと大事なことなのでもう一度言う。「大磯はいいぞ」。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.鴫立庵

 新島襄終焉の地からそのまま進むと、鴫立庵がある。310円払うと中に入ることができるので入ってみよう。

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鴫立庵

 鴫立庵は寛文4年(1664年)、小田原の外郎の子孫であった崇雪が、西行法師の歌「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮」の沢らしい面影を残し、しかも景色の優れている場所ということで草庵を結んだのが始まりといわれている。その後元禄8年(1695年)に俳人大淀三千風が庵を再興して入庵、鴫立庵一世となった。大淀三千風は堂を造って西行の像を安置し、歌人俳人から作品を求めるなどしたためこの場所が有名になり、その後、鳥酔、白雄、葛三など著名な俳人が跡を継いで、今日の22世庵主まで続いている。鴫立庵の庵主は各地から入庵してきているが、彼らの活動を支えたのは地域の俳人や有力住民だった。敷地内には京都の「落柿舎」、滋賀の「無名庵」と並ぶ日本三大俳諧道場のひとつである俳諧道場があるほか、等身大の西行法師の像が安置されている円位堂や有髪僧体の虎御前の木像が安置されている法虎堂とともに、多数の墓碑、句碑、記念碑などがある。

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円位堂

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法虎堂

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石碑群

 また、崇雪はここに景勝をたたえて「著盡湘南 清絶地」と刻んだ。これは中国湖南省にある洞庭湖のほとりを湘南といい、大磯がこの地に似ていることから刻まれた。ここから「湘南」と呼ばれるようになったので、鴫立庵前には「湘南発祥の地 大磯」という石碑がある。

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湘南発祥の地 大磯

 

 鴫立庵から少し進むと右手側に「旧島崎藤村邸」と書いてあるのを見つける。少し東海道から外れるが、行ってみよう。

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島崎藤村

 島崎藤村は詩人・小説家で、昭和16年(1941年)に大磯の左義長を見に来たときに大磯を気に入ったためここに住むことにした。昭和18年(1943年)に静子夫人が当時執筆していた「東方の門」の原稿を朗読中に倒れ、翌日「涼しい風だね」と言い残して亡くなったそうだ。藤村が書斎として使っていた小座敷は、最もお気に入りの場所だったようで静子夫人は「ひとすじのみち」で「ここの大磯の住居は、僅か三間の古びた家に過ぎないが、おそらく50年に及ぶ主人の書斎人としての生活の中で最も気に入られたものだったろう」と述懐している。ここは中に入れるが少ししか見ることができないため、無料で入れる。

 

 ここに大磯宿の上方見附があり、大磯宿はここで終了である。

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大磯宿の上方見附

2.明治記念大磯邸園

 松並木を進む。このあたりは立派な松が茂っている。

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 慶長9年(1604年)、家康の命によって街道に植樹された並木は、その美しい景観のほか、街道を歩く人の道しるべ、強い夏の日差しから身を守る日除け、強い風雨から身を守る風除け、火災から人家を守る火防、道路の保全など数多くの役割を果たしてきた。

 

 左手側に、明治記念大磯庭園が見えてくる。この園内には陸奥宗光別邸跡と大隈重信別邸がある。どちらも古河家がその後取得、別邸としている。

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陸奥宗光別邸跡

 陸奥宗光別邸跡は明治29年(1896年)に建設され、明治30年(1897年)、陸奥宗光の死後に古河家が取得した。その後関東大震災で大破し、以前の建物は栃木県日光市足尾銅山に移設された。昭和5年(1930年)に古河虎之助が別邸として再建、平成30年(2018年)まで迎賓館として使用された後、現在は一般公開されている。

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大隈重信別邸

 大隈重信別邸は、明治30年(1897年)に建設、明治34年(1901年)に古河家が取得した。木造平屋建て和風、平面はほぼ創建当時のまま、屋根は改築され軽量化されていると思われる。

 外には五右衛門風呂もある。

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五右衛門風呂

 浴室は大隈邸から離れたところにあったとされており、これは海水温浴の治療のためだったとも推察されている。

 さらに、陸奥宗光別邸跡・大隈重信別邸の南側には松林が広がっており、これは防風・防砂のために植えられたと伝わっている。

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 明治記念大磯庭園の隣には伊藤博文の居宅、滄浪閣がある。

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滄浪閣

 明治30年(1897年)伊藤博文は気候温暖な大磯が気に入り、病弱だった夫人を気遣うこともあり東京から大磯に住居を移した。伊藤博文は住民票も移転し、大磯町民となり、本籍も大磯町に移した。伊藤博文は滄浪閣建築だけではなく、大磯小学校の建設や完成後統監道と呼ばれるようになる道路建設への寄付を始め大磯町の発展に直接的、間接的に寄与していた。統監道は大磯駅から滄浪閣への直通道路で、開通当時、伊藤博文が初代朝鮮統監の任にあったことによる。

 滄浪閣の建物は質素で落ち着いた邸宅で、門前には日清戦争後の講和条約で清国全権大使として伊藤博文と交渉にあたった李鴻章が書いた「滄浪閣」の扁額が掲げてあった。伊藤博文がここに居を構えて以来、大磯は日本の政治経済の中心的な場所となった。道を一つ隔てた左隣が西園寺公望の旧屋敷、右隣は旧鍋島邸で、この辺り一帯には山県有朋、大隈、陸奥、徳川、三井、三菱、住友、安田といった当時の日本を代表する人たちの別荘が立ち並ぶ、超高級別荘地だった。

 滄浪閣は工事中で入ることができなかった。そもそも一般公開されず放置されていたらしいが、現在工事中でそれが終わったら公開する予定らしい。

 

 滄浪閣の向かい側には宇賀神社がある。

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宇賀神社

 鳥居がたくさんあることと、稲荷神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)に似ている社名であることから稲荷系かと思いきや、祭神は大食津姫命(おおみけつひめのみこと)なのでどうやら稲荷系ではないらしい。

 

 少し進むと八坂神社がある。素盞嗚命(すさのおのみこと)を祀る小さな神社である。

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八坂神社

 八坂神社の近くには西國三十三所順禮講供羪と書かれた石碑と道祖神がある。西国三十三箇所の講組織がこのあたりにあったのだろうか。

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西國三十三所順禮講供羪

3.旧吉田茂

 しばらく行くと左手側に公園があり、「旧吉田茂邸」と書いてある。入ってみよう。

 吉田茂は第45・48~51代内閣総理大臣を務めた人物である。そして明治17年(1884年)に養父が大磯に別荘を建て、養父の死後別荘を引き継いだ後で昭和20年(1945年)からここを本邸として住み始めた。「松籟荘」と名付けられた邸宅は、芸術院会員であった建築家の吉田五十八の設計によるといわれ、延べ面積1,000㎡の総ヒノキ造り純日本風二階建てだった。昭和38年(1963年)に政界を引退した後も多くの政治家が吉田茂邸を訪れ「大磯参り」と言われていた。1967年(昭和42年)にこの屋敷の銀の間で亡くなった後も大平首相とカーター大統領の日米首脳会談が実施されるなど近代政治の表舞台となった。しかし吉田邸は平成21年(2009年)に焼失、その後再建され、現在は大磯町郷土資料館別館として公開されている。

 まず兜門をくぐる。これはサンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」とも言われている。

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兜門

 兜門の先には日本庭園があり、これは中島健が設計した池泉回遊式の庭園である。

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日本庭園

 吉田茂邸のなかに入ると楓の間(応接間)がある。ここには吉田茂の執務机があった。

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楓の間

 2階に上がると書斎がある。ここには首相官邸直通の黒電話が置かれていた。

 1階に降り、展示ビデオが流れているテレビの先にはローズルーム(食堂)がある。流石元総理大臣宅の食堂、広い。

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ローズルーム

 その先にはまた階段があり、居間(金の間)に通じている。ここは客をもてなす応接間で、箱根の山々と富士山、相模湾を一望できる。今日は晴れていたので、吉田茂が眺めた風景と同じ風景を見ることができた。

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金の間

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 金の間の隣には寝室、銀の間がある。ここで吉田茂は最期を迎えたようだ。

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銀の間

 なお、吉田茂邸の隣にはサンルームがあり、ここは火災でも燃えず当時の姿のままだが、耐震上の問題から入ることはできず、外観保存としている。

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サンルーム

 吉田茂邸を出て、園内を散策する。相模湾に面した小高い丘に、吉田茂銅像がある。この銅像は日米講和条約締結の地、サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けている。

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吉田茂

 丘を降りると七賢堂がある。

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七賢堂

 これは伊藤博文岩倉具視大久保利通三条実美木戸孝允の4人を祀った四賢堂を滄浪閣に建てたもので、伊藤博文の死後、伊藤博文が加えられて五賢堂となった。昭和35年(1960年)に吉田茂邸に五賢堂を移築、2年後に西園寺公望を合祀した。吉田茂の死後、昭和43年(1968年)に佐藤栄作によって吉田茂が合祀され、七賢堂となった。これも火災による焼失を免れた。

 

 吉田茂邸を出て、道路の反対側の大磯城山公園に行く。今日は天気がいいので、展望台に登った。展望台からは富士山や相模湾を望むことができ、今日は天気がよくて本当によかったと思った。

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 園内の大磯町郷土資料館に向かう。大磯町郷土資料館は北三井家の別邸「城山荘」をモチーフとしている。

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大磯町郷土資料館

 館内は歴史や文化、動植物など様々な展示があった。無料で入館できるので、近くに行く機会があればぜひおすすめしたい。大磯町のことが気に入ったので、「おおいその歴史『大磯町史』11別編ダイジェスト版」を購入してしまった。

 園内の横穴墓群も見た。これは古墳時代後期の横穴墓群である。

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横穴墓群

 ほかにも園内には昭和16年(1941年)頃に建てられた蔵がある。

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 茶室「城山庵」もある。これは旧三井財閥別邸の一部として置かれていた国宝の茶室「如庵」を模した茶室である。時間の都合で今回は行っていないが、機会があれば行ってみたい。

4.二宮駅に向かう

 だいぶ道草してしまったので、現在15時半。小田原まで行くのは無理なので、今日は次の駅、二宮駅で切り上げることにして先に進む。

 大磯城山公園の前の道を西に進む。川を渡り、住宅街のなかの道を進む。足元に「江戸から十七里」と刻まれたプレートがあった。

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 そのプレートから少し進むと「一里塚」という案内板がある。この国府本郷の塚は現存しておらず、案内板があるのみである。

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 その近くに水準点がある。一等水準点第42号だ。角が丸くない水準点標石は初めて見た。

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一等水準点第42号

 国府新宿交差点の歩道に大きな石が6つ置かれ、相模国6社の神社名のプレートが建てられている。これは神揃山で行われる座問答を表現している。

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 国府新宿交差点からしばらく行くと右手側に六所神社の鳥居が見える。

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 六所神社は第十代崇神天皇の頃の創建と伝えられる古社で、相模国の総社である。祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、素戔嗚命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)である。

 総社とは、国内の神器祭祀を国衙機能としての祭祀に統括執行するために、国内諸神を国衙付近に勧請して一社としたもので、12世紀前半頃までに諸国に成立したものと考えられている。

 毎年5月5日に行われる寒川神社・川勾神社・比々多神社・前鳥神社・平塚八幡宮との合同祭儀は「国府祭(こうのまち)」と呼ばれ、分霊を祀る5社の神輿が神揃山に集まり、「座問答」という神事を行った後、六所神社が加わって京の文化を伝える「鷺の舞」などの古くからの伝統行事が執り行われる。

 今回は先を急ぐため鳥居の前を素通りしてしまったが、機会があれば行ってみたいと思う。

 

 歩いていたら「GOBO」と書かれたマンホールを見つけた。調べたところ和歌山県御坊市のマンホールらしい。大磯町と御坊市姉妹都市なのだろうか?と思ったが、そうではないらしくなぜあるのか謎である。

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御坊市のマンホール

 二宮町カントリーサインを見つけた。やっと二宮町に入った。

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 二宮町のマンホールは町の木、ツバキと「MY TOWN NINOMIYA」。「わがまち二宮」とでも読んでおこうか。

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 二宮郵便局に「7けたの新郵便番号の記入に、ご協力をお願いします。」と貼られていたが、郵便番号が7けたになったのは平成10年(1998年)のことである。つまり20年以上この貼り紙は貼られている。どうりで色あせているわけだ。私が物心ついた頃には既に郵便番号は7けただった気がする。

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 塩海橋で葛川を越える。「塩海の名残」の標柱があるが、二宮は古くから製塩が盛んで、これに由来する名だという。

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 塩海橋の東詰に水準点がある。一等水準点第42-1号だ。「大切にしましょう水準点」の標柱があるが、石蓋が曲がり、欠けているのが気になる。

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一等水準点第42-1号

 少し進むと守宮神社がある。創建は不明、大国主命を祀っている。

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守宮神社

 二宮駅入口交差点を右折すると二宮駅がある。駅前に伊達時彰徳碑とガラスのうさぎ像がある。

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伊達時彰徳碑

 伊達時は医師として神奈川県の医療の発展に努めるとともに、衆議院議員としても憲政の発展と地方自治の進行のために活動し、二宮駅の開設やその周辺の交通網の整備などを行った人物である。

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ガラスのうさぎ

 ガラスのうさぎとは太平洋戦争の戦争体験記である。作者の父が疎開先の二宮町の空襲で亡くなっていることから、ガラスのうさぎ像が二宮駅前に建てられた。

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二宮駅

 現在16時半。今日の東海道歩きは二宮駅で終了とする。次回こそ、二宮駅から箱根板橋駅まで歩く予定である。

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今回の地図

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

歩いた日:2022年2月27日

【参考文献・参考サイト】

大磯町(2009)「おおいその歴史 『大磯町史』11別編ダイジェスト版」

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」山川出版社

風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社

神奈川県神社庁

https://www.kanagawa-jinja.or.jp

磯城山公園

http://www.kanagawa-park.or.jp/ooisojoyama/index.html

吉田茂

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/oisomuseum/index.html

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2022年3月25日最終閲覧)