前回は保土ヶ谷駅まで歩いた「東海道を歩く」。この事実に気づいた人はそういないだろう。そう、今までの道のりはあまり坂がなかったのだ。ここに来て初めて「権太坂」などの急坂が出てくる。今回は急坂および距離が長い(2里9町、約8.8km。実際4時間半かかった)が、頑張って歩こう。
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1.金沢横丁
今日は保土ヶ谷駅から出発する。
保土ヶ谷駅西口を出て直進するとすぐ東海道にたどり着く。そのまま左折して進む。
少し進むと助郷会所跡がある。
これは助郷村々の人馬を手配するために設けられた場所である。助郷とは、江戸時代、幕府が諸街道の宿場の保護、人足や馬の補充のため宿場周辺の農村に課した夫役のことである。助郷は江戸時代初期の頃は臨時の大通行のときだけだったが、江戸時代後期になると交通量増大にともない、恒常的に助郷が求められるようになった。
少し行くと今度は問屋場跡がある。
これは幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬、幕府公用の書状等の通信、大名行列の宿場の手配等を担っていた施設、問屋場があったところである。
また少し進むと金沢横丁がある。
ここは東海道とかなさわ・かまくら道の分岐点である。東海道から杉田・金沢を経由して鎌倉に至り、さらに江の島を巡って藤沢で再び東海道に合流する江戸時代の代表的物見遊山コースの入口で、途中には杉田の梅林、金沢八景、鶴岡八幡宮、建長寺、円覚寺、江の島弁財天など見どころがたくさんあった。
2.本陣跡
そのまま進むと国道1号にぶつかる。この正面にあるのが、本陣跡だ。
本陣とは幕府の役人や参勤交代の大名が宿泊する場所で、慶長6年(1601年)に徳川家康が保土ヶ谷を宿場としたときに成立した。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣、苅部豊前守康則(かるべぶぜんのかみやすのり)の子孫といわれる苅部家が代々つとめていたため、苅部本陣とも呼ばれていた。なお、平成15年(2003年)に設置された新しい解説板だけでなく、大正4年(1915年)に設置された古い石碑もある。
本陣はかつての面影はないが、蔵には昔の貴重な資料が多数保存されているらしい。
そのまま右折して進む。少し進むと脇本陣跡(大金子屋・藤屋・水屋)を見つける。
脇本陣とは、本陣が混雑したとき、幕府の役人や参勤交代の大名が宿泊した場所である。大金子屋跡・藤屋跡は現在普通の住宅、水屋跡は消防出張所になっている。
3.旅籠屋(本金子屋)跡
少し進むと旅籠屋(本金子屋)跡がある。
本金子屋は、保土ヶ谷宿にあった旅籠である。確認できる限り、保土ヶ谷宿で現在残存している唯一の旅籠である。敷地内には本格的な日本庭園があるらしいが、非公開だった。国道1号沿いに往時をしのばせるものがあるとは、と驚いた。
4.旧東海道保土ヶ谷宿お休み処
そのまま進むと旧東海道保土ヶ谷宿お休み処があったので寄ってみた。
日曜日しか開いてないらしいが、この日は日曜日だったので開いていた。なかにはパンフレットや書籍がたくさん置いてあった。パンフレットは持ち帰れたので、神奈川宿・保土ヶ谷宿・戸塚宿のパンフレットを持ち帰ることにした。また、雑誌「横濱」を購入した。
パンフレットを物色しているとお休み処の人に「どこから来たのですか?」と聞かれた。コロナが収まりつつあることと、あまり遠出ではなかったため正直に「東京から来ました」と答えた。正直に答えても叩かれない世の中になったのはありがたい。また、「東海道を歩いていて、今日は保土ヶ谷駅から戸塚駅まで歩きます」と話したら「頑張ってくださいね」と励まされた。東海道を歩き始めてほかの人から直接励まされたのは初めてだったので嬉しかった。
5.一里塚跡
お休み処を後にして先に進むと、国道1号の脇に松林があることに気がつく。
これは東海道保土ヶ谷宿の松並木と復元事業で植えられたものらしい。
昔は東海道沿いに松並木が植えられていたそうだが、現在ではほとんど消失している。そこで平成19年(2007年)に今井川沿いの約300mの区間に松林を復元、一里塚も復元したそうだ。
なお、今回のウォーキングで私は3回一里塚を目撃することになる。
6.外川神社
一里塚の横には橋があり、外川神社につながっている。
外川神社は出羽三山、羽黒山の外川仙人大権現の分霊を祀っている。江戸時代から保土ヶ谷宿には出羽三山講があり、幕末頃には外川仙人大権現を祀りはじめた。明治初年の神仏分離令に伴い、社名を外川神社に改称した。
そのまま進むと松林が終わった場所に「→旧東海道」という看板がある。保土ヶ谷二丁目の交差点を渡り、旧道に入る。
7.庚申塔
住宅街を歩き、左側を見ると鳥居が見えるところがある。
ここには「帝釋天王」と掲げられている。なかには庚申塔が祀られている。庚申塔とは庚申講を18回続けると記念に建立される石碑である。
庚申講とは、人間の体内にいる三尸虫が、庚申の日の夜に天帝に悪事を告げに行くため、それを避けるために庚申の日は眠らないで勤行をしたり宴会をしたりする風習である。今は廃れてしまった。
少し進むと、旧元町橋跡がある。
明治時代、今井川がここを通り、元町橋がここに架かっていた。現在今井川は鉄道工事で流れが変えられ、ここにはない。
このあたりは庚申講が盛んだったのだろうか。
8.権太坂
元町ガード交差点を左折し、今井川を渡る。案内板のあるところを右折すると、いきなり急坂が見えてくる。これが権太坂だ。
江戸時代はここで命を落とした人や馬が放り込まれた投げ込み塚があったほどと聞いたため心して挑まなくては、と思っていたが、今は改修されたこともあり、少しきつい坂、くらいの印象だった。現在、周囲は住宅街になっているため安心して歩けるが、昔は民家もなく、道の左右は鬱蒼とした松林だったようだ。
権太坂の碑を見つけた。
権太坂の由来はおもに2つある。ひとつは、旅人がこの坂の近くにいた老人に坂の名前を聞いたところ、耳の遠い老人は自分の名前を聞かれたと思い込み、「権太」と答えたことから権太坂になったとする説。もうひとつは、権左衛門という人がこの坂道を作り、「権左坂」と名づけられたが、いつのまにか「権太坂」となっていた説。みなさんはどちらを信じるだろうか。私は面白いので「権太」説を推したい。
この後坂の頂上に達してから、ゆるやかに下っていく。ひたすら道なりに進むと突き当たりに着く。ここに案内板があるので、それに従い右折する。
9.境木地蔵
進行方向左側に「境木立場跡」の看板がある。
立場とは宿場と宿場の間に設けられた休憩所で、ここは富士山と江戸湾を見渡せる高台で名物の牡丹餅を食べながら休憩できたらしい。今は富士山や東京湾を望むことはできないし、牡丹餅屋もないのは残念である。
境木地蔵は武蔵国と相模国の境であることからこの名がつけられた。境木地蔵の前には「武相国境之木」の杭がある。この杭は平成17年(2005年)に復元されたもののようだ。
現在「県境」は地理界隈でファンが多く、「三県境」や「県境を跨ぐ神社」などが流行っているが(私の周辺だけ?)、令制国の境に目を向けることはそうそうないと思う。私も今回初めて知った。令制国境をじっくり堪能する。ちなみに、東海道沿いではここで保土ヶ谷区から戸塚区に変わる。
境木地蔵は小さなお堂だった。
しかし地元の人に愛されているのか、参拝客が絶えなかった。
鎌倉の腰越の浜に打ち上げられた地蔵は漁師の家に安置されていたが、漁師の夢に地蔵が出てきて「江戸へ行きたいので牛車で運んでほしい。もし途中で動かなくなったらそこに置いてきてほしい。そうすれば腰越の海は凪ぐ。」と告げた。そこで漁師は地蔵を江戸に運んでいたが、境木で牛車が動かなくなったためそこに地蔵を置いて帰った。
その後、境木の村人の夢に地蔵が出てきて「堂を作ってくれ。そうすればこの地を繁盛させよう。」と告げた。そこで境木地蔵堂が作られ、その周りには茶店が軒を並べて賑わった。
手水舎のお地蔵さんや、このご時世でマスクをしているお地蔵さんが愛らしい。
さて、長くなるのでブログ記事を一旦切ろうと思う。
次回は境木地蔵から始める。
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歩いた日:2021年11月7日
【参考文献・参考サイト】
風人社(2013) 「ホントに歩く東海道 第2集」
NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016) 「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社
神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社