10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

東海道を歩く 7.藤沢本町駅~平塚駅

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 前回は戸塚駅から藤沢本町駅まで歩いた。今回は藤沢本町駅から平塚駅まで歩く。藤沢宿から平塚宿までの間は3.5里、約13.7kmとされている。実際今回歩いたGPSログを確認したら16kmと示していた。これまでで最長距離で、帰りの電車は疲れて寝てしまったほどだった。それでは今回の旅の記録を始める。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.おしゃれ地蔵

 藤沢本町駅から今日はスタートする。

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 そのまま伊勢山橋を渡り小田急江ノ島線を越えるとすぐに藤沢宿の京見附がある。

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藤沢宿京見附

 藤沢宿の西の端まで来たということだ。

 そのまま県道43号線を西に進む。「街道や」という店の西側の通りを右側に入る。旧道に入るのだ。

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 旧道は引地橋で県道43号線に合流する。

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 この旧道は特に何もなく、見過ごしてしまっても特に大きな影響はない。

 引地橋で引地川を渡る。

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 そのまま西へ進み、トライアルの西隣に少し変わったお地蔵さんがある。おしゃれ地蔵だ。

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おしゃれ地蔵

 おしゃれ地蔵は「女性の願い事なら何でもかなえてくださり、満願のあかつきにはおしろいを塗ってお礼をする」と伝えられている。このことから「おしゃれ地蔵」と呼ばれるようになったらしい。形態的には地蔵ではなく、双体道祖神ではないか、とも説明板に書かれており、確かにそうだと思った。そして、世の中には変わった信仰もあるものだなあと感じた。

 おしゃれ地蔵の向かい側には寺院がある。養命寺だ。

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養命寺

 養命寺は元亀元年(1570年)創建の寺院で、本尊は木造薬師如来坐像。国の重要文化財に指定されている。この薬師如来は廃絶した「大庭薬師堂」の本尊で、藤沢に勢力を張っていた大庭景義の子、景兼の発願によるものと伝えられている。

 養命寺ではなにやら人で賑わっていた。よく見ると「藤沢七福神めぐり スタンプポイント」と書かれた看板があった。どうやら「藤沢七福神めぐり」のイベント開催中であり、養命寺は布袋のスタンプポイントだったらしい。興味はあるが、このイベントに参加したら東海道は歩けなくなってしまうので参拝だけした。

 そのまま県道43号線を進む。途中立派な水準点を見つけたので写真を撮った。一等水準点37-1だ。

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一等水準点37-1

2.四谷不動

 そのまま県道43号線を進むと四ッ谷交差点で国道1号に合流する。

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 左折してそのまま進む。するとすぐそこに四谷不動がある。

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四谷不動

 四谷不動は東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とある。江戸時代、四谷辻には多くの茶屋が並び参詣客を誘っていた。現在でも7月1日の大山開きには、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行われている。東海道の大山道の分岐といえば5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 後半で紹介した「大山前不動」もある。

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 少し行くと、一里塚跡がある。ここはただ案内の柱が立っているだけだ。

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一里塚跡

 また少し行くと、二ツ家稲荷神社がある。

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二ツ家稲荷神社

 ここの庚申塔藤沢市指定重要文化財となっている。

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庚申塔

 説明板によると、ここの庚申塔は寛文10年(1670年)に作られ、基礎部の上に台座を作り、その上部に三猿像を載せる構造となっている。庚申塔については5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 前編の「帝釋天王」の庚申塔の部分で説明しているので詳しくはそちらを参照してほしい。

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 藤沢市茅ヶ崎市カントリーサインを発見した。

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 横浜市は入ってから出るのに4回もかかったのに、藤沢市区間は前回入ってもう終了である。なお、茅ヶ崎市区間は今回だけで終了、茅ヶ崎市を横断して平塚市まで行く。

 55kmポストの少し前に、明治天皇御小休所阯があった。

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明治天皇御小休所阯

3.牡丹餅立場跡

 しばらく進むと、牡丹餅立場跡がある。

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牡丹餅立場跡

 ここは宿場と宿場の間に旅人が休んだりする施設、立場の跡である。ここの立場は牡丹餅が名物だったので「牡丹餅立場」と呼ばれるようになった。また、牡丹餅立場には紀伊藩が江戸屋敷と国元を結んだ専用の飛脚中継所、七里役所も設置されていた。徳川御三家尾張藩紀伊藩は江戸屋敷との連絡を藩専属の飛脚によって直接行うことが許され、そのための中継所を七里ごとに置いていた。

 それにしても、このあたりは松並木が立派である。

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 松並木についての説明板があった。

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 茅ヶ崎市内の松並木は幹回り2.2m、推定樹齢400年の松だという。前回紹介した大坂の松並木は第二次世界大戦時に伐採されたり、松くい虫の被害に遭ったりで失われたが、ここの松並木はそのような被害は受けなかったのだろう。

 歩いていたらまた水準点を見つけた。一等水準点38-1だ。立派な標石タイプだ。

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一等水準点38-1

 少し行くと三角点を見つけた。三等三角点「茅ヶ崎」だ。

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三等三角点「茅ヶ崎

 ここの三角点は建設省ロゴマークのマンホールに入っている。建設省マンホール入りの三角点は初めて見た。

4.茅ヶ崎一里塚

 そのまま西へ進む。すると進行方向左側に塚が見える。茅ヶ崎一里塚だ。

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茅ヶ崎一里塚

 茅ヶ崎一里塚は日本橋から14番目の一里塚である。かつては道の両側にあったが、江戸時代から残っている一里塚は片側だけだ。高さ1.5m、直径7~8mの塚に松が植えられている。神奈川の東海道でも一里塚が現存しているものは少なく、品濃坂、箱根畑宿の一里塚とともに貴重なものである。品濃坂の一里塚については5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 後半で紹介している。平成22年(2010年)、反対側もポケットパークとして整備され、「平成の一里塚」としてエノキが植えられた。

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平成の一里塚

 足元を見ると茅ヶ崎市のカラーマンホールがあった。

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 このマンホールは相模湾に浮かぶ烏帽子岩とカモメがデザインされている。残念ながら、今回のルートで烏帽子岩が見えるポイントはない。

 このあたりは茅ヶ崎駅近くである。もし疲れたら、ここで離脱してもよい。ちなみに今日の目的地にはまだ着いてないので、まだまだ進む。

 少し歩くとクロマツの切り株を見つけた。

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 これは樹齢200年ほどのクロマツの切り株で、このクロマツは平成21年(2009年)に腐朽のため伐採されたものの、このクロマツの切り株はモニュメントとして残された。

5.第六天神

 少し進むと第六天神社がある。

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第六天神

 創立年代、創立者等は不詳だが、江戸幕府編集の新編相模風土記(天保12年・1841年)には登場しているため、それ以前となる。祭神は淤母陀琉命(おもだるのみこと)と妹阿夜訶志古泥命(いもあやかしこねのみこと)である。

 鳥居をくぐってすぐのところにまた水準点を見つけた。一等水準点39号だ。

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一等水準点39号

 しばらく歩くと鳥井戸橋の上から進行方向左側に富士山が見える。「南湖の左富士」だ。これは、江戸から京に向かうとき、富士山は通常右側に見えるが、ここは道が北を向いているため富士山が左側に見える。これが珍しいということで、江戸時代名所になっていた。

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南湖の左富士

 

 その近くに鶴嶺八幡宮の鳥居が見える。

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 ここをくぐってすぐに神社があるならともかく、1kmくらい先なので今日はパスした。

 少し先に、神明神社がある。

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神明神社

 この神社は寛正年間(1460~1466年)創立と伝えられるが詳細は不明である。祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と大山咋命(おおやまくいのかみ)である。

6.旧相模川橋脚

少し行くと、「東海道の名物まんじゅう でかまん」という看板がある。

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 「東海道の名物」という言葉にそそられて、思わず買ってしまった。

 でかまんから少し行くと、「史跡 旧相模川橋脚」という看板があったので寄ってみた。

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相模川橋脚

 旧相模川橋脚は大正12年(1923年)の関東大震災とその余震によって水田に橋杭が出現した全国的にも稀な遺跡である。これは建久9年(1198年)に源頼朝重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15年(1926年)に国の史跡に指定された。この考証の根拠としては「吾妻鏡」の建暦2年(1212年)2月28日条に「相模川の橋がしばらくの間壊れていたので源実朝が修理を命じた。その橋は建久9年(1198年)源頼朝の家臣稲毛重成が亡妻の追善供養のために相模川に橋を架けた。源頼朝が橋の落成式の帰路に落馬し、それが原因で没した。」と書かれていることである。鎌倉時代相模川はこのあたりを流れていたが、その後、川筋の変化によって西の方へ移ったため橋脚は700年間土に埋まっていた。橋脚はいずれもヒノキの丸材で、初め姿を現したのは7本だったが、地中に埋もれたものが3本発見され、合わせて10本の橋脚が保存整備されている。当時の橋の幅は少なくとも4間(7m)くらいと推定され、全国でも数少ない大橋だったと考えられている。

 旧相模川橋脚の隣にベンチがあったので腰掛け、でかまんを食べることにした。

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でかまん

 もっと大きなサイズのそれこそ「でかまん」もあったが、食べきれる自信がなかったので一番小さいサイズのでかまんにした。それでも結構ボリュームがあった。

 でかまんを食べたら道祖神に挨拶しながら先に進む。

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 ついに茅ヶ崎市を横断したようだ。茅ヶ崎市平塚市カントリーサインを見つけた。

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 茅ヶ崎市区間はずっと国道1号を歩いていた。

 カントリーサインの先にはすぐに相模川を渡る馬入橋が架かっていた。馬入橋を渡る。

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 馬入橋は全長563m、橋の上は何もないので余計に長く感じた。

 馬入橋は明治19年(1886年)に架けられたので、それまでは渡船、馬入の渡しによって人々は移動していた。将軍の上洛や朝鮮通信使の来朝のときは川に船を並べこれを繋いでその上に板を並べた「船橋」を架けたことが分かっている。

 馬入橋際にあるホテルサンライフガーデンの敷地内に明治天皇馬入御小休所趾があった。

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明治天皇馬入御小休所趾

 さっきも明治天皇の小休所跡を見つけただけに、明治天皇はよく休みながら進むなあと思ってしまった。

 馬入交差点で国道1号から離れる。そこに馬入一里塚があった。

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馬入一里塚

 ここは日本橋から数えて15番目の一里塚である。立派な塚があった茅ヶ崎の一里塚とは違い、ここは石碑と案内板のみとなっている。

 平塚市のマンホールを発見した。

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 このマンホールは平塚の夏の風物詩「湘南ひらつか七夕まつり」と平塚海岸をはじめとする「湘南の海」をデザインしている。見ているだけでなぜか楽しげになってくるマンホールである。しかし、湘南ひらつか七夕まつりは2020年、2021年ともコロナの関係で中止となっている。

 このままひたすら西へ進む。平塚駅前交差点で左折すると、平塚駅に到着する。

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平塚駅

 16kmのウォーキングで割と疲れた。実は、平塚宿の次の宿場、大磯宿までは27町(約3km)しかない。それでは短い気がするので、次回は箱根板橋駅まで歩くつもりである。平塚宿から小田原宿、4里27町(約19km)。果たして、歩ききれるのか?

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今回の地図①

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今回の地図②

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今回の地図③

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2022年1月23日

 

【参考文献】

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

風人社(2013) 「ホントに歩く東海道 第2集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

高橋真名子(2022)「東海道五十三次いまむかし歩き旅」 河出書房新社

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2022/02/26最終閲覧)

茅ヶ崎市 史蹟・天然記念物「旧相模川橋脚」

https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1006254.html

(2022/02/26最終閲覧)