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東海道を歩く 9.箱根板橋駅~箱根神社入口バス停

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 前回、2回にわけて平塚駅から箱根板橋駅まで歩いた。今回は箱根板橋駅から静岡県三島市三島広小路駅まで歩く。江戸時代の人は小田原宿から三島宿まで1日で歩いたようだが、現代人にはしんどかったので箱根板橋駅箱根神社入口バス停、箱根神社入口バス停~三島広小路駅の2日間に分けて歩いた。今回はその前編、箱根板橋駅箱根神社入口バス停を紹介する。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.板橋延命子育地蔵尊

 今日は箱根板橋駅から出発だ。

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箱根板橋駅

 駅から右に歩き、板橋見附交差点を左折する。しばらく歩くと古い家がある。内野邸だ。

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内野邸

 内野邸は醤油醸造業を営んできた内野家の店舗兼住宅として明治36年(1903年)に建設された。当時流行していた土蔵造り風の町屋で、「なまこ壁」や「石造アーチ」など和洋折衷的な意匠が取り入れられている。

 

 少し進むと板橋延命子育地蔵尊がある。

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板橋延命子育地蔵尊

 本尊は弘法大師の作といわれる延命子育地蔵菩薩で、仏殿正面に安置される身丈8尺(2.4m)の大坐像の腹中に鎮座している。そのため胎籠もりのお地蔵さまとも呼ばれている。小田原を出た旅人はこの地蔵堂で箱根越えの無難を祈り、無事に箱根を越えた旅人はお礼参りに参詣したので、東海道五十三次の一大霊場として賑わっていたという。今でも正月や8/23,24の縁日には多くの参詣者で賑わい、この日にお参りすると必ず故人に似た人と行き会えるという言い伝えもある。

 

 上板橋交差点で国道1号に戻る。すぐ左手側に小田原用水(早川上水)取入口がある。

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小田原用水(早川上水)取入口

 ここで早川の川水を取り入れ、板橋村は旧東海道の人家の北側を通水し、板橋見付から旧東海道を東に流水して古新宿を通り、江戸口見付門外蓮池に流れ出たもので、途中の所々で分水されて小田原城下領民の飲料水に供されていたものである。近くに少し葉桜になった河津桜が咲いていて綺麗だった。

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2.日蓮聖人霊跡

 早川沿いを進むが、小田原厚木道路の下で箱根登山鉄道の踏切を越える。そこに日蓮聖人霊跡がある。

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日蓮聖人霊跡

 文永11年(1274年)に日蓮がここを訪れ故郷の房総半島を見て両親を偲び、ここに石の宝塔と首題釋迦牟尼佛多宝如来四菩薩(しゅだいしゃかむにぶつたほうにょらいしぼさつ)を刻し衆生済度の病即消滅を祈願した。

 そこからしばらく旧道を進むが、入生田駅を少し過ぎたところにある踏切を渡って国道1号に合流する。右手側に「交通安全之碑 止まります 待ちます 車のきれるまで」と達磨の絵が描かれた碑がある。この達磨は日本人離れした顔をしていると思った。

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交通安全之碑

 旧道に入るところに「箱根町 交通安全都市」と書かれたモニュメントがある。

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箱根町 交通安全都市

 カントリーサインがないから気づかなかったが、箱根町に入ったようだ。全国津々浦々旅しているが、箱根町に来たのは初めてである。

 

 しばらく進んだら国道1号に戻る。横を見ると車が大渋滞を起こしていた。

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 今日は3連休の2日目、関東近郊のレジャースポットである箱根にみんなこぞって行くのだろう。

3.早雲寺

 三枚橋国道1号から離れ、道なりに進む。

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三枚橋

 かつての三枚橋は長さ22間(40m)、幅2間(3.6m)の土橋だった。三枚橋という名の由来については、中洲が2つあって橋が3つ架かっていたから、3枚の橋を横に並べて架けてあったから、付近に法華三昧堂があったからなど諸説ある。小田原方面から来ると、この橋で左手に曲がると東海道、まっすぐに行けば「箱根七湯」の温泉場へ通じていた。この「箱根七湯」は病気療養を目的とした湯治客を集めていた。湯治を目的にした人たちは「七湯道」と呼ばれた道をたどり、それぞれ湯本、塔ノ澤、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯の温泉場に到着、3廻り21日間の湯治を行った。

 

 しばらく進むと右手側に大きな寺院を見つけた。早雲寺だ。

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早雲寺

 早雲寺は小田原北条氏二代氏綱が、父早雲の遺言により大永元年(1521年)に建立した臨済宗の寺院である。創建時の早雲寺は、関東における臨済宗大徳寺派の中本山として、湯本の地全体を境内地とし、500人を超える僧がいて活気に満ちていたという。通常は拝観できないが、北条早雲像、北条氏綱像、北条氏康像などの国重要文化財を所蔵している。

 境内には北条五代の墓と連歌師宗衹の墓と俳諧師衹空の墓がある。そっと手を合わせ、早雲寺をあとにした。

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北条五代の墓

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連歌師宗衹の墓

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俳諧師衹空の墓

 少し進むと左手側に正眼寺がある。

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正眼寺

 正眼寺鎌倉時代箱根山に広まっていった地蔵信仰のなかで生まれた寺で、創建年代は定かではない。境内に曽我兄弟の化粧地蔵がある。

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曽我堂

 今日はお彼岸だったので曽我堂が公開されていた。この地蔵の胎内から地蔵阿弥陀観音混合印仏が発見され、「康元元年(1256年)」の年号が記されていることから、鎌倉時代中期の造像であることがわかる。またこの地蔵は曽我兄弟の像ともいわれ、2人の位牌も堂内に安置されている。江戸時代には、箱根の道中安全を祈願する旅人たちで賑わった。曽我兄弟について詳細は8-1.平塚駅箱根板橋駅①の化粧井戸で取り上げているので、そちらも参照してほしい。

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 少し進むと双体道祖神を見つけた。とても仲の良さそうな道祖神である。

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双体道祖神

 道祖神の道路の向かい側に旧箱根街道一里塚の碑がある。

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旧箱根街道一里塚

 ここには一里塚は残っておらず、碑のみが立っている。一里塚の隣に寄木細工職人、白川洗石の生家があったらしく、その案内板が立っている。

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白川洗石の生家

 その少し先に石畳の入口がある。これが初めての石畳だ。江戸時代の石畳を歩くのは初めてなのでワクワクしていたが、歩いた感想としては「歩きにくい」だった。

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 石畳を抜けた先には福寿院がある。ここには少し変わった跨木撫で観音さまがいる。

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跨木撫で観音さま

 これは手を合わせてお祈りした後、またいで仏様に向かって座り、自分の悪いところと仏様の同じところをさすると効果があるそうだ。私は歩き疲れてきたので、足を撫でてみた。効果があったかはわからない。

 

 坂を登ると「葛原坂」の案内板があった。

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葛原坂

 このあたりは葛の葉が生い茂っていたらしい。今も木々が生い茂っている。葛かどうかはわからない。

 

 坂を登ると浄土金剛宗天聖院がある。

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天聖院

 中に入るとすごくきらびやかで思わず写真を撮ってしまったが後ろから「ここは写真を撮ってはいけません」と言われてしまった。今頃珍しい寺院である。どうやらここは昭和55年(1980年)に開山された宗教法人箱根大天狗山神社の寺院であるようだ。御朱印もあったらしいが、もらう勇気がなかった。

4.鎖雲寺

 天聖院の先に鎖雲寺がある。もとは早雲寺内の塔頭で、寛永年間に須雲川村に移されたが、その後の洪水で流失し、この場所に移されたそうだ。ここには浄瑠璃の「箱根霊験記」の勝五郎と妻初花の墓がある。

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勝五郎と初花の墓

 足の悪い勝五郎を車に乗せて、東海道の要衝箱根の街道で敵を待ち受け、自らは返り討ちになるものの、夫勝五郎は初花が滝に祈った霊験を得て、みごと仇討を果たすという物語である。

 

 鎖雲寺を過ぎると右手側に箱根大天狗山神社がある。

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箱根大天狗山神社

 ここも天聖院同様、昭和55年(1980年)に開山された。ここも撮影禁止だったので、鳥居だけ載せる。

 

 少し進むと左手側に箱根天聖稲荷大権現神社がある。

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箱根天聖稲荷大権現神社

 ここも箱根大天狗山神社の系列である。神社は少し坂を下りたところにあるようだったので、ここは鳥居だけ撮影して素通りすることにした。

 

 箱根天聖稲荷大権現神社の道路挟んで反対側に割石坂の入口がある。

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割石坂

 ここは曽我五郎が富士の裾野に仇討に向かうとき、腰の刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝えられている。その巨石を探してみたが、見つからなかった。

 

 石畳を進むと、「箱根路のうつりかわり」という案内板を見つけた。

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箱根路のうつりかわり

 これによると、最も古い峠道が碓氷道で、奈良・平安時代に利用されたのが湯坂道、江戸時代に開かれた道が旧東海道、現在の東海道国道1号線と紹介されている。現在歩いているのは旧東海道だ。

 

 近くに接待茶屋の説明板もあった。

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接待茶屋

 ここに茶屋があったが経営に行き詰まり、幕府の協力を得て経営を続けることができたと書かれており、その茶屋(施行所)のひとつがここにあったらしい。

5.畑宿

 少し進むと左手側に「箱根旧街道」と書かれた石畳の入口が見える。

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箱根旧街道

 石畳の坂を下りると細い橋があった。

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 少し不安が残るが、先に進むしかない。

 

 石畳の構造の説明板があった。

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 それによると、石畳は小石と石を突き固めた地面の上に、石と石とを組み合わせて並べており、さらに石畳の横に縦の排水路を持っている。

 

 坂の途中に「大澤坂」という説明板があった。

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大澤坂

 幕府の下田奉行小笠原長保の「甲申旅日記」に「大沢坂は坐頭転ばしともいうとぞ、このあたり、つつじ盛んにて、趣殊によし」と書かれている。残念ながら今はつつじは見当たらなかった。苔むした石畳は大変風情があるが、少し滑って歩きにくい。アスファルトの道に出るとほっとするほどだった。

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 大澤坂を過ぎると、畑宿の集落に出る。畑宿では伝統工芸箱根細工が古くから盛んに作られており、箱根細工の工房が軒をつらねていた。

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 少し余裕があれば箱根細工を見たかもしれないが、そのような余裕はなく足早に通り過ぎてしまった。

 

 箱根旧街道の入口付近に守源寺がある。

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守源寺

 守源寺は寛文元年(1661年)に乗善院日連上人によって建立された日蓮宗の寺院で、現在の本堂は昭和5年(1930年)の豆相大地震の後に再建されたものである。

 

 箱根旧街道に入ってすぐ、畑宿の一里塚がある。

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 これは日本橋から23番目の一里塚で、平成10年(1998年)に復元されたものである。山の斜面にあった塚は周囲を切土と盛土、石貼りで平坦面を作り、礫を積み上げ表層には土を盛って頂上に樅と欅を植樹したものであることが発掘調査から判明した。

6.橿木坂

 また石畳を進む。すると「箱根旧街道」と書かれた案内板があった。

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 江戸幕府は延宝8年(1680年)箱根道を石畳道に改修した。それ以前のこの道は、雨や雪の後は大変な悪路になり、旅人は膝まで埋まる泥道を歩かなければならないため、竹を敷いていたものの、竹を調達するのに大変な労力と費用がかかっていたため石畳にしたようだ。幕府は石畳を敷きながらも江戸の要害である箱根山が歩きやすいものになっては困ると懸念したようだが、実際は人や馬が滑って転んで死ぬことが多かったようなのでその心配は無用だったようだ。アスファルトに歩きなれた現代人には歩きにくい道である。

 

 ここは西海子坂と言うらしい。ここは一歩間違えば千尋の谷底に落ちると言われていたが、幸い落ちなかった。

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西海子坂

 舗装路に戻り、階段を登る。

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 いくつかヘアピンカーブを曲がると、橿木坂の案内板があった。そこには「橿の木の さかをこゆればくるしくて どんぐりほどの 涙こぼるる」と書かれていた。確かに橿木坂の階段を登っている途中でしんどくなり、どんぐりほどの涙をこぼしそうになった。

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橿木坂

 橿木坂を登ると、「雲助とよばれた人たち」と書かれた案内板があった。

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雲助とよばれた人たち

 雲助とは、江戸時代に宿場や街道で駕籠舁や荷物の運搬などを行った人足のことで、定まった住所がなくあちこちをさまよっているからとも、網を張って客を待つところから蜘蛛のようだともして、雲助と呼ばれていた。

 

 しばらく進むと藪が深くなり、竹をかきわけながら進む。

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 親からは「山道に一人で行くな」と言われており、一人でこのような道を通っていると知ったら怒られそうである。

 

 車道を横断する少し前に「猿滑坂」という案内板がある。

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猿滑坂

 「新編相模国風土記稿」には、「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす。」と書かれている。猿でも登れないと書かれていたが、幸いにして転ぶことなく坂を登り終えた。

7.甘酒茶屋

 車道のヘアピンカーブを曲がると、右手側に追込坂がある。

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追込坂

 「新編相模国風土記稿」のふりがなによると「フッコミ坂」といったのかもしれないと書かれているが、この説明板のルビは「おいこみざか」である。

 

 追込坂の隣に親鸞上人と笈ノ平の説明板がある。

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親鸞上人と笈ノ平

 これによれば、親鸞と弟子が東国への浄土真宗の布教を終えて箱根路を登ってここに来たとき、親鸞上人が弟子の性信房と蓮位房に向かい、「師弟打ちつれて上洛した後は、誰が東国の門徒を導くのか心配であるから、御房がこれから立ち戻って教化してもらいたい」と頼み、別れた場所がここであると説明されている。ちなみに前回8-3.平塚駅箱根板橋駅③にこの浄土真宗布教に使った御勧堂が紹介されている。

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 この近くに、甘酒茶屋がある。かつては13軒の甘酒茶屋があったようだが、現在営業しているのはここだけである。

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甘酒茶屋

 この甘酒茶屋には赤穂浪士神崎与五郎が馬を断ったために馬方丑五郎に難癖をつけられ、大事の前ということでじっと我慢をして「詫び証文」を書かせられたという逸話が残っている。

 ともかく、疲れたので甘酒茶屋に入って休憩する。私は甘酒と、うぐいすの力餅を注文した。

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 甘酒は江戸時代から続く製法で作られるもので、優しい甘さがした。力餅は備長炭でふっくら焼いたお餅で、いそべ、うぐいす(きなこ)、黒ごまの3種類がある。ちょうどお昼ごはんを食べていなかったので、お腹が満たされた。とても美味しかったのでまた来たいが、次来るときはバスで来るだろう。

8.於玉坂

 甘酒茶屋で一休みして、また石畳の道を歩く。於玉坂は、お玉という少女が箱根の関所を破ったとして処刑された場所がこの坂のあたりだったためにその名がつけられた。お玉は伊豆の生まれで、江戸の従兄弟の家に奉公に出ていたが、何かの理由で帰ろうとしたのか、通行手形も持たずにここに来て、夜に紛れて関所の裏山を越えようとしたものの、捕らえられて処刑されてしまった。お玉処刑の話は世間に伝わり、江戸市中にも広まって幕府の冷酷非情さを非難する大きな声にまでなった。現在、箱根関所は廃止されているため、通行手形を持っていなくても捕まえられることはない。

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於玉坂

 車道を通り抜け、石畳の坂を上がると、「二子山について」という案内板がある。

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 二子山は箱根の火山活動のうち一番最後にできたものです、と説明されているが、木に遮られて二子山はあまりよく見えなかった。ちなみに箱根の石畳に使われた石は、その大部分が二子山から採取されたものらしい。

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二子山

 石畳は急坂で、息が上がってくる。

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 私は花粉症なので、杉並木を歩くにあたってマスクと防護メガネをしていたのだが、あまりに荒く息をするので防護メガネが曇り、視界がよろしくない。仕方なく、防護メガネを外すことにした。夜になっても目があまり痒くならなかったのが幸いだった。

 花粉症にとっては憎き杉であるがこの杉並木も命がけで守った人がいたからこそ残ったのだ。第二次大戦末期、海軍が箱根の杉に目をつけて大きな木造船を作ることを考えた。軍は知事を通して箱根町ほか二か村組合に杉の供出を命じた。当時の役場担当者、田中隆之は県庁に呼び出されて杉の供出を催促されたものの、様子を見て関係する書類を持ち出して焼却、そのまま従軍僧として戦地に赴いてしまった。その後県庁では大騒ぎになるも、そのうち敗戦になって事件はうやむやになってしまった。この田中隆之の行動がなければ、今頃杉並木はなくなっていたかもしれない。

 

 権現坂に入ると、下り坂でようやく芦ノ湖が見えてきた。

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 案内板にも「目前に芦ノ湖を展望し、箱根山に来たという旅の実感が、体に伝わってくるところです」と書かれていた。

 

 坂を下ったところにケンペル・バーニー碑がある。

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ケンペル・バーニー碑

 ケンペルは元禄3年(1690年)、長崎のオランダ商館の医師として来日した人で、箱根では芦ノ湖の魚類や多数の草木を観察して、箱根の美しさを絶賛していた。彼の死後、イギリスで最初に出版された「日本誌」は世界に日本の文化や自然などを広く紹介したことで知られている。

 ケンペル・バーニー碑は大正11年(1922年)、イギリス人貿易商で芦ノ湖畔に別荘を持っていたバーニーが、箱根を愛し箱根の美しさを世界に紹介したケンペルの言葉を引用して、箱根の自然の大切さと土地の人々への友情のお礼として建てたものである。

 

 ケンペル・バーニー碑の脇の坂を下りて国道1号に合流したところで、箱根神社入口バス停に到着する。すぐにバスが来たので、それに乗って小田原まで帰ることにする。

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箱根神社入口バス停

 次回は箱根神社入口バス停からスタートである。

 

【おまけ】

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 箱根の山を登り、汗だくになっていた。せっかく箱根まで来たのに箱根らしいことを何もせずに帰るのもイヤだったので、小田原に帰る途中で日帰り温泉、箱根湯寮に寄り道した。泉質はアルカリ性単純温泉でpHは8.9。ほどよくぬるぬるした良い温泉で、汗を流すことができた。温泉で疲労回復したところで、明日は三島まで向かう。

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今回の地図①

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今回の地図②

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今回の地図③

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2022年3月20日

 

【参考文献・参考サイト】

 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社

(2022年4月15日最終閲覧)